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●No.26
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[ 193 ] 「世間の暇を欠きて聞くべし」について
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2007/12/29 (Sat) 03:31
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>298さんは「世間の暇を欠きて聞くべし」はどう解釈されますか?
◎仏法には世間のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ。「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」と、『和讃』(浄土和讃・三一)にあそばされ候ふ。(聞書)
この部分で言う「法」「仏法」というのは、真実行、すなわち、南无阿彌陀佛のことです。
凡夫が生涯にただ一度の行で信心決定する行のことを言っています。
「疑心あること無し」の聞のことです。
正信あると知れば、何として時間をつくってでも、聞くべきだ、ということです。
ただ一回で信心決定できる法のことを言っているのです。
ですから、幾度聞いても決定できないような聴聞のことではありません。
それは、「良い話し」に過ぎず、仏法ではないのです。
もちろん、良い話しにも価値はあります。何よりも、正信(どこかに)あることを知らせてくださいます。
弥陀の救いの存在を知らせてくださいます。
しかし、それだけではいたずら事です。
一心に弥陀をたのみ、信心決定しなければなりません。
南无阿彌陀佛
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[ 202 ] Re1:「世間の暇を欠きて聞くべし」について
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2007/12/29 (Sat) 09:57
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ありがとうございました。 参考になりました。
アニメで見る親鸞聖人、高森先生、大沼法龍さん、
皆、火のついたような求道をした、とおっしゃっていますが、やはり最後はそういった求道になるのでしょうか。
現在の私の心境としては、人生には意味はない、仏法しかない、とわかっていても 仏法の本を読めばすぐ眠くなり、聴聞にいけば時計ばかり気にする、仕事のことが気になる、女性のことが気になる、を10年以上くりかえしています。
毎日さんはどうでしたか?
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●re.2
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[ 203 ] Re2:「世間の暇を欠きて聞くべし」について
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2007/12/29 (Sat) 10:53
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2000 様
最後が火のついた求道になるかどうかですが、機によると思います。
皆が火のついた求道にならねばならないのであれば、たのむすべての凡夫を救うことができません。
もしそのようなことであれば、「たのみ方が足らん!」ということになってしまいますが、弥陀の救いはそのようなものではありません。自力でたのむのではないからです。
自力でたのむのではないのですから、わかるかわからないかも、あまり関係がありません。
問われるのは、宿善だけなのです。
仏法の本を読めば眠くなる、聴聞に行けば時計が気になる、仕事のことが気になる、女性のことが気になる、私もまったくその通りの凡夫です。
つくづく欲にまみれており、また怠惰であります。
「こんな自分が救われるのか?」と、頭では「弥陀はたのむすべての衆生を救う」と聞いていても、心では疑いが残っていました。
ですけれども、信じる気持ちもありました。求める気持ちもありました。ただ、双方とも、私の場合は、たいしたものではなかったと思います。
とてもじゃないですが、「火のついた」求道と呼べるようなものではありませんでした。
そのような、立派な機ではなかったのです。
運の良いことに、そして、大変ありがたいことに、ご縁をいただくことができまして、弥陀をたのむことができただけなのです。
本当に易行でした。
弥陀は、たのむ衆生をすべて即時に救ってくださいます。
自力の救いではないのです。
機も問いません。
誠に、無碍、無辺、最勝、深妙、不可説、不可称、不可思議であると思います。
南无阿彌陀佛
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[ 204 ] Re3:「世間の暇を欠きて聞くべし」について
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2007/12/29 (Sat) 13:21
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◎仏法には世間のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ。「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」と、『和讃』(浄土和讃・三一)にあそばされ候ふ。(聞書)
上記のご文について、下のように御答いただきましたが、
>正信あると知れば、何として時間をつくってでも、聞くべきだ、ということです >ただ一回で信心決定できる法のことを言っているのです。 >ですから、幾度聞いても決定できないような聴聞のことではありません。 >それは、「良い話し」に過ぎず、仏法ではないのです。
私も親鸞会と縁があるのですが、親鸞会では「”正信の高森先生”がおられるから、何としてでも時間をつくって聞くべきだ」ということを人にも勧め、自分もやってきました。しかし未だ、”幾度聞いても決定できないような聴聞”となっております。 コレは”法話に失点がある”ということなのか、それとも”宿善の機でなければ、『ただ一回で信心決定できる法』が説かれる座に居ても聞くことはできない”ということなのか、いずれかと言えるでしょうか?
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●re.4
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[ 209 ] Re4:「世間の暇を欠きて聞くべし」について
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2007/12/30 (Sun) 01:24
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「横から」様
>それとも”宿善の機でなければ、『ただ一回で信心決定できる法』が説かれる座に居ても聞くことはできない”ということなのか、いずれかと言えるでしょうか?
「『ただ一回で信心決定できる法』が説かれる座」におられるのであれば、既に宿善が開発されております。
その座におきまして、宿善開発の行者は、次第相承の善知識より、六字の謂れを聞き開くのです。
ですから、その座に辿り着いているならば、もう信心決定は目前と言えるでしょう。
弥陀の救いの法は完成されております。
10人の行者がいれば、10人が間違いなく、ただ一度の行で、いとも簡単に信心決定致します。
「本当に易行だ、よかった(佛説がやっぱり本当で・・・)」
「佛説に虚妄無し! やっぱり!」
「ああ、ありがたい、ありがたい」
さまざまな感慨が、押し寄せました。
本当に、不可説、不可称、不可思議な救いの法です。
南无阿彌陀佛
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[ 212 ] Re5:「世間の暇を欠きて聞くべし」について
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2007/12/30 (Sun) 10:22
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早速のお答え、有難うございます。 >「『ただ一回で信心決定できる法』が説かれる座」におられるのであれば、 >既に宿善が開発されております。 >その座におきまして、宿善開発の行者は、次第相承の善知識より、六字の謂れ >を聞き開くのです。 >ですから、その座に辿り着いているならば、もう信心決定は目前と言えるでしょう。
上のようなお答えを頂きましたが、もう幾年も親鸞会の法話に座り続けた私としては、いくらかの引っ掛かりが残ってしまうのです。 「得がたい人身に生まれ、聞き難い仏法を善知識から聞かせていただけた、信心獲得はもう目前だ」と信じての日々でしたが、進んだとも、近づいたとも感じられぬ我が身を振返ると悲しくなるばかりです。 同じ仏法の座には居っても、弥陀の救いの法を頂ける人もあり、頂けない人もあり。同じ六字の謂れを聞いていても、「本当に易行だった」とよろこぶ人もあり、よろこべない人もあり、しかもほとんどは喜べない人ばかりではないかと思うのです。
私は他の先生からも話を聞くのですが、次のように思うのです。 仏法は八万四千の法門でもって、機ごと機ごとに色々な境遇の人々の苦しみをそれぞれの縁にしたがって抜いて下さり、善をすすめて下さる。各々個人の悩みを抜いて善心を与えて下さるそれぞれがお育てであり、そうして仏法のお育てによって終に入れて頂く、最後に救いきる法門が弥陀の救いでなかろうかと思うのです。
もう何年も、六字の謂れが喜べない所を、無理に喜ぼうと頑張ってきたのです。しかし、それが空しく感じてまいりました。 喜べぬことを喜ぼうを頑張ることで弥陀の救いにあえると思ってきたのですが、喜べる法門に拠り、抜苦与楽して頂くことが、終に易行に入れる道なのではなかろうかと考えているのです。いかがでしょうか。
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●re.6
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[ 213 ] Re6:「世間の暇を欠きて聞くべし」について
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2007/12/30 (Sun) 11:12
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「横から」様
>私は他の先生からも話を聞くのですが、次のように思うのです。 >仏法は八万四千の法門でもって、機ごと機ごとに色々な境遇の人々の苦しみをそれぞれの縁にしたがって抜いて下さり、善をすすめて下さる。各々個人の悩みを抜いて善心を与えて下さるそれぞれがお育てであり、そうして仏法のお育てによって終に入れて頂く、最後に救いきる法門が弥陀の救いでなかろうかと思うのです。
誠にその通りでございます。 それこそが、釈尊の御心であり、だからこそ、他宗・他派を誹謗する必要もないのです。
(そもそも、釈尊が、さまざまな法を説かれているのですから、 我らがそれを否定するのはおかしいのです。)
>もう何年も、六字の謂れが喜べない所を、無理に喜ぼうと頑張ってきたのです。しかし、それが空しく感じてまいりました。
三願転入を体験しているのでございます。
六字を口に出すことを心がける前にも、善行しようと、できないなりに、 心がける時期があったのではありませんか。
>喜べぬことを喜ぼうを頑張ることで弥陀の救いにあえると思ってきたのですが、喜べる法門に拠り、抜苦与楽して頂くことが、終に易行に入れる道なのではなかろうかと考えているのです。いかがでしょうか。
これも、誠にその通りです。 信をいただけば、「抜苦与楽」の意味がわかります。 人間には、真実の意味における「抜苦与楽」ができないこともわかります。 弥陀だからこそ、できるのです。 慈父である釈尊の教えに育てられ、慈母である弥陀の救いにあずかる。 二尊の御恩、誠に誠に、尊きことです。
南无阿彌陀佛
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●re.7
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[ 214 ] Re7:「世間の暇を欠きて聞くべし」について
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2007/12/30 (Sun) 13:08
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「横から」様
補足致しますが、「抜苦与楽」の「苦」とは、根源無明であり、「楽」とは、弥陀の清浄心です。
引っかかりが残るのは、凡夫として、自然なことです。
一念帰命のその直前まで、引っかかりがあるかもしれません。
宿善(開発)の無い方は、この引っかかりにより、結局は、途中でいなくなってしまいます。
宿善のある方は、引っかかりがあるままで、最後まで、辿り着かれます。
南无阿彌陀佛
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●re.8
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[ 215 ] Re8:「世間の暇を欠きて聞くべし」について
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2007/12/30 (Sun) 19:52
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「横から」様
>もう何年も、六字の謂れが喜べない所を
もうひとつ。この「六字の謂れ」とは、我らが言うところの、六字の謂れではありません。
御文様を見て下さい。善導大師の六字釈が、幾度も書いてあります。
その上で、「六字の謂れを聞き開くように」と書いていらっしゃるのです。
◎「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり(御文3-6)
善導大師の六字釈は、もちろん素晴らしいものです。
ですけれども、それだけで良いのであれば、さらに善知識に会う必要がありません。
善導大師も、掟を保たれて、書かれているのです。
つまり、いわゆる六字釈義ではない「六字の謂れ」があるのです。
蓮師は、「よくこころえわけたる」と書いていらっしゃいます。
◎されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす(御文3-7)
この後、善導大師の六字釈が書いてございます。
善導大師の六字釈は、本当に尊いものでございます。しかし、ただそれを読んでも、意味がわからぬはずです。わざとそのように書いているのであって、宿善有る方が尋ねてくるのを待っているのです。
ですから、それが何を意味するのか、尋ねてゆき、具体的にはどういうことであるのかまで、聞き開かねばなりません。
ここを「『よく』こころえわけたる」とおっしゃってくださっていると思います。
(似た表現として、領解文の「あさからざる」がございます。)
こういう所に注意して読んでゆくと、これまで隠れていた内容が、浮かび上がって参ります。
文書+口伝というかたちで法は伝わってゆくのですが、現代の方であれば、公開鍵のことなどを考え合わせると、わかりやすいかもしれません。
文書だけで想像しても、わからないのでございます。
◎宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり(御文2-11)
◎「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり(御文1-15)
◎現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪回せり。苦しみ言うべからず。いま善知識に遇いて弥陀本願の名号を聞くことを得たり。一心称念して往生を求願せよ(教行信証)
南无阿彌陀佛
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●re.9
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[ 217 ] Re9:「世間の暇を欠きて聞くべし」について
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2007/12/30 (Sun) 20:14
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「横から」様
>同じ仏法の座には居っても、弥陀の救いの法を頂ける人もあり、頂けない人もあり。同じ六字の謂れを聞いていても、「本当に易行だった」とよろこぶ人もあり、よろこべない人もあり、しかもほとんどは喜べない人ばかりではないかと思うのです。
このご不安、よくわかります。
いくら易行と聞いていても、「自分だけは、わからないのではないか」「自分だけは、救われないのではないか」このような気持ちも出てくるものでございます。
法然聖人は、一枚起請文にて、「一文不知の愚鈍の身になして」と導いてくださっています。
「一文不知」とは、何でしょうか。「文字を一文字も知らない」という意味です。
釈尊の教えをよくよく学んできているとしても、文字の知識も無いものとしなさい。
そこまで書いてあります。
しかし、こう書いてあっても、多くの方は、信じないのです。
文字の知識まで無いものとし、弥陀をたのんだ経験のない方々の話しを聞いているばかりだからです。
信を穫れば、名文であると浮かび上がります。
南无阿彌陀佛
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[ 218 ] 「横から」様 初めまして
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2007/12/30 (Sun) 22:17
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親鸞会で長年ご縁頂いてきた菩提心と言います。
私は、親鸞会で長年聞いてきたから、この道のご縁を得ることが出来たと思います。
そして、毎日様もお話下されるように、次第相承の善知識様にお遭い出来なければ、絶対真実信心は頂けません。
私は、親鸞会では教学をあまりやってきませんでした。
特に、先生の助手をされる専任講師の方々の、智慧、教学力にいつもビックリしていました。
だから、私は親鸞会で勉学されて来られた方の中には、真実信心のご縁がある方がおられると思っています。
私は親鸞会のご縁でこの道これました。回り道してきましたが、尚一層頂けた阿弥陀様への御恩は忘れることはないと思います。
ただ、私は怠惰な凡夫です。 毎日、お仏壇に手も合わせません。 御恩報謝の念仏もしていません。 すぐ腹立つ心も出てきますし、このように親鸞会で過去苦しんで来た執着心も出てきます。 又、お金にも執着します。友達にも嫉妬もします。
でも、そんな私だから救われたのです。 どうにも親鸞会では救いようのない私だから、阿弥陀様の大慈悲心に救われたのです。
このように智慧なき身の私ですので、特に親鸞会でご縁頂いている皆様に分って欲しいと思っていましたが、毎日様のお助けにより、一人でも「信心決定」して頂きたいと思います。
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[ 220 ] Re2:「横から」様
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2007/12/30 (Sun) 22:16
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済みません、これ削除してください
11番です。
側で、馬鹿扱いされています。(息子から)
でも、こんなドジな私も救われるんですね。
勉強して救われるのではないのは、一目瞭然ですね。
本当に、インターネットから探せてこれたこと嬉しいです。
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●re.12
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[ 222 ] Re4:「横から」様
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2007/12/30 (Sun) 23:01
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>菩提心 様 はじめまして、現在も親鸞会に籍があるのですが、色々と迷っている状態です。 >私は親鸞会のご縁でこの道これました。回り道してきましたが、尚一層頂けた阿弥陀様>への御恩は忘れることはないと思います。 御伺いしたいのですが、上で仰っている「回り道」とはどのようなことなのでしょうか?私はどこが近道か、どこへ進めば回り道か、止まるも進むも、正直な所よくわかりません。参考までに感じられるところをお聞きしたいのですが。
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[ 223 ] Re5:「横から」様
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2007/12/30 (Sun) 23:29
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>>毎日様 様々に言葉をかけて下さり、有難うございます。 わたしの今までの聞法はただただ聞くばかりでしたが、さらに尋ねることが大切ということになるのでしょうか。 また、次第相承の善知識とは、お聖教のこころを口伝できる方ということでしょうか。わたしの御縁のある真実信心の方も、その方本来の才覚にのみ拠っているとはとても思えない程、鮮やかに仏語を説き明かして下さいます。私の会った真実信心の方はいずれも、お聖教の解釈において異様な鋭さをみせて居られました。
>信をいただけば、「抜苦与楽」の意味がわかります。 >人間には、真実の意味における「抜苦与楽」ができないこともわかります。 真実の意味における抜苦与楽は弥陀の御仕事でありますが、釈尊の様々な お育てによってなされる、邪見を破って正見を与えてくださり、そして善心を 起こしてくだされる、その御仕事もまた抜苦与楽であると受け取って よろしいでしょうか。
もう一つ、一番上まで戻るのですが、 >もちろん、良い話しにも価値はあります。何よりも、正信(どこかに)あることを >知らせてくださいます とは、どういう意味なのでしょう?正信あることが知らされるとは、どういうことを仰っているのでしょうか。
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●re.15
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[ 224 ] Re6:「横から」様
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2007/12/31 (Mon) 00:23
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「横から」様
>わたしの今までの聞法はただただ聞くばかりでしたが、さらに尋ねることが大切ということになるのでしょうか。
尋ねることが、とにかく大切です。
それにより、自分のこともわかり、相手の方のこともわかります。
◎しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり(御文1-11)
◎蓮如上人仰せられ候ふ。一向に不信のよし申さるる人はよく候ふ。ことばにて安心のとほり申し候ひて、口にはおなじごとくにて、まぎれて空しくなるべき人を悲しく覚え候ふよし仰せられ候ふなり(聞書74)
◎蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信・不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ(聞書86)
◎仏法讃嘆とあらんときは、いかにも心中をのこさず、あひたがひに信・不信の義、談合申すべきことなりと云々(聞書196)
聞くだけでは、足りません。「言え、言え」と蓮師もおっしゃっておられます。
>また、次第相承の善知識とは、お聖教のこころを口伝できる方ということでしょうか。
これは、違います。
次第相承とは、口決面授のことであり、弥陀の救いの法を伝えてきてくださっている方々がいるのです。
次第相承の善知識は、また次の善知識に、その次第を口決面授して、相承致します。そのようにして、釈尊から、連綿と法は伝えられてきており、法脈となって、今に伝わっております。
このように、釈尊からの法脈でなければ、仏法とは呼ばれないのです。自分でお聖教を読み、義を立てても、それだけでは、新興宗教に過ぎません。
(他宗でも、仏法には相承がございます。)
行者がたのめば救われるのと同じように、また、たのまなければ(どんなに救われたと思っても)救われていないのと同じように、善知識もまた、次第相承を授かっていなければ、いたずら事です。
仮に、お聖教について語れないとしても、次第相承を受けている方であれば、次第相承の善知識なのです。
逆に、どんなにお聖教について語れたとしても、次第相承を受けていないのであれば、次第相承の善知識ではありません。
>わたしの御縁のある真実信心の方も、その方本来の才覚にのみ拠っているとはとても思えない程、鮮やかに仏語を説き明かして下さいます。私の会った真実信心の方はいずれも、お聖教の解釈において異様な鋭さをみせて居られました。
私が言うところの真実信心を持っている方は、必ず次第相承の善知識に会っておられます。
五重の義のはじめの2つは、1)宿善 2)善知識 です。
蓮師に従うならば、善知識の無き信心は、いたずら事です。
信心決定の行者に会い、問い、求めてゆけば、次第相承の善知識もご紹介いただけるのです。
(もちろん、戸は開くまで叩かねばなりません。)
一方、自力の信を得ている方は、次第相承の善知識を知ることがありません。
ですので、蓮師がおっしゃる信心とは、また別の信心を得ていることになります。
真実信心得ている方と思われる方に出会いましたならば、問うて行くことです。
必ず、宿善の有無を見ておられます。
>真実の意味における抜苦与楽は弥陀の御仕事でありますが、釈尊の様々な >お育てによってなされる、邪見を破って正見を与えてくださり、そして善心を >起こしてくだされる、その御仕事もまた抜苦与楽であると受け取って >よろしいでしょうか。
もちろん、その通りでございます。
>もう一つ、一番上まで戻るのですが、 >>もちろん、良い話しにも価値はあります。何よりも、正信(どこかに)あることを >>知らせてくださいます >とは、どういう意味なのでしょう?正信あることが知らされるとは、どういうことを仰っているのでしょうか。
これは、とても単純な意味です。
「弥陀の救い」についてのお話を聞く、ということです。
存在をしらなければ、尋ねはじめることができません。
説法だけでは救われませんから、宿善ある方は、いずれ問うことになるのです。
そして、問いはじめたときに、「ここには救いが無いのだ」と思えば、他を探しはじめるでしょう。
「弥陀の救いと言っても、そんなものなのかな・・・」という感じでとどまったり、特に疑問に思わないなら、宿善(開発)が無いということになるのです。
◎心中をあらためんとまでは思ふ人はあれども、信をとらんと思ふ人はなきなり(聞書175)
もし、疑問なところがありましたら、幾度でも、問うていただければ、うれしく思います。
南无阿彌陀佛
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[ 227 ] 私の回り道とは
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2007/12/31 (Mon) 11:18
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「横から」様
お返事ありがとうございました。
私はジャンヌ掲示板より、「自信教人信」様の、親鸞会に対しての書込みに、なぜか直感的に、引かれるものがありましたので気になっていました。 泥凡夫様やみちくさ様も現れました。その時は行動しませんでした。 しかし、そのやりとりもなくなってきましたので、愚尼様宛てに書込みしました。 同時に私はすぐにプリントアウトして、読んでみました。
泥凡夫様、愚尼様、みちくさ様のお三方のお話は今まで、親鸞会で聞いてこなかったお言葉ばかりでした。
私は、プリントアウトしたものを何回も何回も読んでいました。 しかし、その前に、私は不思議な体験をしましたので、これが「信心決定」したのだと思いました。 なぜ、そう思ったかと言いますと、本当に親鸞会ではただ長年聞いていただけで、いつも教学試験では、大導師試験でつまづいていました(ですから基本の仏教学は少しわかります) しかし、泥凡夫様より、それは自分で起こす信心だと、お叱りを受け、「次第相承の善知識」を探しなさいと、お言葉頂いて、もう一人と共に、探しておりました。
インターネットでこの人ではないかと、お手紙さしあげたり、お電話したり、直に尋ねていったりしました。
そして、善友様をご紹介させて頂き、そこでご縁を頂きました。
私は、初め親鸞会とのあまりの違いに、本当にこれが浄土真宗のお話なのだろうかと思いました。 しかし、そこでは、本当に一生懸命に浄土真宗のお話をして下さって、段々親鸞会のお話は違うと分ってきました。
そして、泥凡夫様ともご縁頂き、ご著書も頂き、その本を読むにつけ、それでも何回も何回もジャンヌで言われてきた「割符」に合うという体験というか、御文と自分の信心が合わないと思ってきました。
そのうち、被害家族の会に書込みしている時、その会の人に書込みしていることが知れました。私は、その会で、大変お世話になっておりましたので、この先、どうしても子供達にも縁があるようにと、書込みしていたことを土下座して謝りました。
しかし、その時から、不審が出てきました。 どうして、一念帰命したら、同じ一味になる筈なのに、御文の勉強会においても、色々な思いが出てくるのだろうか?と思うようになりました。 そして、親鸞会で学んで来た私達を、あまり喜んでくれないことでした。
ジャンヌではあんなに泥凡夫様も喜んで下さっていたのに。 いくら信心決定しても、なぜか冷ややかとというか、私は段々その勉強会もいかず、自分で頂いたご著書や御文を何回も拝読させて頂いていました。
そして、毎日様が私の後を書いて下さいましたのをきっかけで、現在、真の次第相承の善知識様にお会いできました。
本当に「易行」でした。
御文の書いてある通りでした。
私は、泥凡夫様が聖覚法印様なら、毎日様を親鸞聖人様や蓮如上人様のようにお慕いしております。
私のような馬鹿な女にも、合わせてお説きくださいます。
私は、今涙を流しながら書いています。
私は、本当にインターネットから、このような道を探せ出せたのも、全て皆、阿弥陀様が、私を哀れんで下さったお蔭だと思っています。
今、友人がNHKで録画してくれた仏像のビデオを観ています。
その中で、法蔵菩薩の仏像が出てきました。 頭の毛が伸びているのです。 私は、そのようにして、一人一人の苦しみを解決するために、ご修行されたのだと思い、又々、その画面を見ながら、心から今生で救われたのだなと、嬉しさがこみ上げてきます。
そして、寝る時間も惜しまず、一人一人に対応して下される毎日様の、勇気とやさしさに、このようにおもわず私も書き込んでしまいます。
是非、弥陀を頼んで下さい。 そして、一日もはやく信心決定の身になって下さい。 どうして、こんなに簡単なことなのに信じることが出来なかったのかと、その時初めて懺悔の涙が出てくるでしょう。
これも、親鸞会で悩んで来られた人なら、その思いはもっと重いものが有ると思います。 毎日様のお書込み、有り難く拝読下さいますこと願っております。 南无阿彌陀佛
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[ 228 ] Re1:私の回り道とは
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2007/12/31 (Mon) 11:29
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「横から」様
こんにちは。泥凡夫と申します。 横から様と毎日様の問答に横から失礼致します。
先に次第相承の善知識に関する毎日様のお勧めがございました。親鸞会様で教学もされておると思いますので、「浄土真要鈔」の書き出しよりを引かせて頂きます。
『それ、一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなわち『大経』のなかに弥陀如来の四十八願をとくなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行をとかず、「乃至十念の行者かならず往生をうべし」ととけるゆえなり。しかのみならず、おなじき『経』の三輩往生の文にみな通じて「一向専念無量寿仏」とときて「一向にもっぱら無量寿仏を念ぜよ」といえり。「一向」というは「ひとつにむかう」という、ただ、念仏の一行にむかえとなり。「専念」というは、「もっぱら念ぜよ」という。ひとえに、弥陀一仏を念じたてまつるほかに、二つをならぶることなかれとなり。』
「念仏の一行」とは御存じのとおり、五正行のうちの第四の「称名正行」のことを申されております。これを「正定業」とも「真実行」とも申しますね。既に親鸞会様でも学ばれたと思いますが、この「称名正行」は口に称える念仏のことではございません。
続いて法然様の「選択集」を引用して後、このように記されております。
『「すみやかに生死をはなれんとおもわば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門をさしおきて、えらんで浄土門門にいれ、浄土門にいらんとおもわば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすててえらんで正行に帰すべし。正行を修せんとおもわば、正助二業のなかに、なお助業をかたわらにしてえらんで正定をもっぱらにすべし。正定の業というは、すなわちこれ仏名を称するなり。みなを称すればかならずうまるることをう。仏の本願によるがゆえに」となり。すでに南無阿弥陀仏をもって、正定の業と、なづく。』
「南无阿弥陀佛」の六字こそ往生の因である旨を申されておりますね。 そして、先の「称名正行」とは「仏名を称する」ことである。と申されております。 「称」の一字には「ハカル」「カナウ」「トナエル」の三義があります。それを知らねば、そうか。念仏を口に称えるだけで助かるのか。と誤った解釈をしてしまいます。
さらに重ねて、往生したいと願う有縁の人は「念仏の一行を専らにせよ」と申されております。
『「正定の業」というは、まさしくさだまるたねというこころなり。これすなわち、往生のまさしくさだまるたねは念仏の一行なりと、なり。「自余の一切の行は、往生のためにさだまれるたねにあらず」ときこえたり。しかれば、決定往生のこころざしあらんひとは、念仏の一行をもっぱらにして、専修専念・一向一心なるべきこと、祖師の解釈はなはだあきらかなるものをや。』
次に浄土一門の中にもこの「真実行」について、様々な解釈があり、あっちが間違い。こっちが間違いの争いを成しておると申されております。それは昔のことではなく、今もなお同様であります。
『しかるにこのごろ浄土の一宗において、面々に義をたて行を論ずるいえいえ、みなかの黒谷のながれにあらずということなし。しかれども解行みなおなじからず。おのおの真仮をあらそい、たがいに邪正を論ず。まことに是非をわきまえがたしといえども、つらつらその正意をうかがうに、もろもろの雑行をゆるし諸行の往生を談ずる義、とおくは善導和尚の解釈にそむき、ちかくは源空聖人の本意にかないがたきものをや。』
御開山御一流においては「念仏の一行はこれ弥陀選択の本願なり、釈尊付属の行なり。」と申され、これを一向に行じて一心に修する人は必ず往生できると申されておりますね。 ここを蓮師は御文でたびたび、「十人あれば十人ながら」と申されておるのです。
『しかるにわが親鸞聖人の一義は、凡夫のまめやかに生死をはなるべきおしえ、衆生のすみやかに往生をとぐべきすすめなり。そのゆえは、ひとえにもろもろの雑行をなげすてて、もっぱら一向専修の一行をつとむるゆえなり。これすなわち余の一切の行はみなとりどりにめでたけれども、弥陀の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらず。念仏の一行はこれ弥陀選択の本願なり、釈尊付属の行なり。諸仏証誠の法なればなり。釈迦・弥陀および十方の諸仏の御こころにしたがいて念仏を信ぜんひと、かならず往生の大益をうべしということ、うたがいあるべからず。かくのごとく、一向に行じ、一心に修すること、わが流のごとくなるはなし。さればこの流に帰して修行せんひと、ことごとく決定往生の行者なるべし。』
そして、次第相承の善知識のお話になります。
『しかるにわれらさいわいにそのながれをくみて、もっぱらかのおしえをまもる、宿因のもよおすところ、よろこぶべし、とうとむべし。まことに恒沙の身命をすてても、かの恩徳を報ずべきものなり。釈尊・善導この法をときあらわしたまうとも、源空・親鸞出世したまわずは、われらいかでか浄土をねがわん。たといまた源空・親鸞世にいでたまうとも、次第相承の善知識ましまさずは、真実の信心をつたえがたし。』
この「念仏の一行」の理を誤りなく脈々と伝えておるのが「次第相承の善知識」でございます。ある日突然、我は善知識なり。と申す輩が出現することはないのであります。
納得頂けんでも結構であります。そういうことを申しておる輩がおるとだけ片隅にでもおいておいて下さいませ。
南无阿弥陀佛
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[ 229 ] Re2:私の回り道とは
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2007/12/31 (Mon) 13:14
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>>泥凡夫様、はじめまして 『しかるにわれらさいわいにそのながれをくみて、もっぱらかのおしえをまもる、宿因のもよおすところ、よろこぶべし、とうとむべし。まことに恒沙の身命をすてても、かの恩徳を報ずべきものなり。釈尊・善導この法をときあらわしたまうとも、源空・親鸞出世したまわずは、われらいかでか浄土をねがわん。たといまた源空・親鸞世にいでたまうとも、次第相承の善知識ましまさずは、真実の信心をつたえがたし。』
丁寧にご文をひいてくださり有難うございます。 なるほど、このご文を私は読みながしておりました。 「念仏の一行」の理を誤りなく脈々と伝えておられる「次第相承の善知識」にあえなくば、弥陀の本願を聞かせて頂くことは難しい、ということでしょうか。 また、私は今まで、「善知識」ただお一人についてゆけば弥陀の救いにあえるものと思ってきたのですが、最近になり、「善知識」から真実の法を聞くべき機をこしらえてくださる数多の御縁がまた欠かせないのではないか、と考えるようになりました。これはいかがでしょうか。
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[ 230 ] Re3:私の回り道とは
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2007/12/31 (Mon) 15:35
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「横から」様
>なるほど、このご文を私は読みながしておりました。
読み流しておられてもそれはそれで結構であります。ただ、あなた様には御縁になるかも知れんと引いただけのことであります。
>「念仏の一行」の理を誤りなく脈々と伝えておられる「次第相承の善知識」にあえなくば、弥陀の本願を聞かせて頂くことは難しい、ということでしょうか。
先に「浄土真要鈔」を引きましたので続けて「浄土真要鈔 末」から引きます。 その答えになるか分かりかねますが、少しだけお付き合い下さいませ。
『問うていわく、一流の義きこえおわりぬ。それにつきて信心をおこし往生をえんことは、善知識のおしえによるべしということ、かみにきこえき。しからば、善知識といえる体をばいかがこころうべきや。こたえていわく、総じていうときは真の善知識というは諸仏・菩薩なり。別していうときは、われらに法をあたえたまえるひとなり。』
とございます。 真の善知識とは佛菩薩であり、また我等に法を与えたまえる人であるとのことです。
『いわゆる『涅槃経』にいわく、「諸仏菩薩名知識 善男子 譬如船師 善度人故 名大船師 諸仏菩薩 亦復如是 度諸衆生 生死大海 以是義故 名善知識」といえり。この文のこころは「もろもろの仏・菩薩を善知識となづく。善男子、たとえば船師のよくひとをわたすがごとし。かるがゆえに大船師となづく。もろもろの仏・菩薩もまたまたかくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。この義をもってのゆえに善知識となづく」となり。』
諸々の往生を求める衆生、この場合、宿善の機をいいます。この機を漏らすことなく生死の大海を渡らせる。済度でございますね。つまり、第十八の願を誤ることなく伝える人であります。
『されば真実の善知識は仏・菩薩なるべしとみえたり。しからば仏・菩薩のほかには善知識はあるまじきかとおぼゆるに、それにはかぎるべからず。すなわち、『大経』の下巻に仏法のあいがたきことをとくとして、「如来興世 難値難見 諸仏経道 難得難聞 菩薩勝法 諸波羅蜜 得聞亦難 遇善知識 聞法能行 此亦為難」といえり。文のこころは「如来の興世あいがたく、みたてまつりがたし。諸仏の経道えがたくききがたし。菩薩の勝法・諸波羅蜜きくことをうることまたかたし。善知識にあいて法をきき、よく行ずることこれまたかたしとす」となり。』
正法を伝える次第相承の善知識に逢い奉ることもそれはそれは難しいことであるのです。その法を聞いて先ほどの「念仏の一行」を行ずることもそれはそれは難しいとのことであります。何故難しいのでしょうか。念仏は易行であるはずなのに。簡単なことです。「難信」と申される通り、信じる機が極めて少ないことを言われておるのです。
『そのほかに「善知識にあい法をきくこともかたし」といえるは、仏・菩薩のほかにも衆生のために法をきかしめんひとをば善知識というべしときこえたり。またまさしくみずから法をときてきかするひとならねども、法をきかする縁となるひとをも善知識となづく。いわゆる「妙荘厳王の雲雷音王仏にあいたてまつり、邪見をひるがえし仏道をなり、二子夫人の引導によりしをば、かの三人をさして善知識ととけり。」また法花三昧の行人の五縁具足のなかに、「得善知識」といえるも、行者のために依怙となるひとをさすとみえたり。されば善知識は諸仏・菩薩なり。諸仏菩薩の総体は阿弥陀如来なり。その智恵をつたえ、その法をうけて、直にもあたえ、またしれらんひとにみちびきて法をきかしめんは、みな善知識なるべし。しかれば仏法をききて生死をはなるべきみなもとは、ただ善知識なり。』
法を聞かす人を善知識と申しますし、法を聞かす御縁となった人も善知識と申すようです。しかし現実問題として、誰が法を与えたまえる真の善知識(次第相承の善知識)であるのか、また、その人と誰が御縁を結んでくれるのか分からんですね。故に、先に正信を頂いた人に導いて頂くことが大事であります。蓮師が言われるように、当流では信こそ先にせねばならぬ理由でもございます。物を持たずに人を導くなど言語道断の次第であり、自損損他の咎を逃れられません。御文1帖目1通あたりは現在でもよくあることを言われております。お時間のある時にご覧頂ければ宜しいかと思います。
>また、私は今まで、「善知識」ただお一人についてゆけば弥陀の救いにあえるものと思ってきたのですが、最近になり、「善知識」から真実の法を聞くべき機をこしらえてくださる数多の御縁がまた欠かせないのではないか、と考えるようになりました。これはいかがでしょうか。
あなた様に有縁の善知識お一人についてゆくは結構でありますし、数多の御縁となる仮の善知識もおられるわけであります。ただ、あくまでもそれは第十八願の理を誤りなく受け継がれ、お伝え下される方でなければ詮なきことであります。
改邪抄の1より少し引きます。
『曾祖師黒谷聖人の御製作『選択集』にのべらるるがごとく「大小乗顕密の諸宗におのおの師資相承の血脈あるがごとく、いままた浄土の一宗において、おなじく師資相承の血脈あるべし」と云々 しかれば、血脈をたつる肝要は、往生浄土の他力の心行を獲得する時節を治定せしめて、かつは師資の礼をしらしめ、かつは仏恩を報尽せんがためなり。かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」(大経)等の文をもって依馮とす。』
ここで言われる「血脈」とは「血縁関係」ではなく、「口決面授」のことであります。その肝要は何であるか。「往生浄土の他力の心行を獲得する時節を治定せしめて」「かつは師資の礼をしらしめ」「かつは仏恩を報尽せんがためなり。」とございます。
その後、名帳の邪義を戒められた後に、
『願力不思議の仏智をさずくる善知識の実語を領解せずんば、往生不可なり。』
とも申されております。
いずれに致しましても、あなた様を説得しておるのでも無理強いしておるのでもございません。親鸞会様での御聴聞と異なることも多いかと思いますが、そういうことを言う者がおるのだ。程度に思って頂いて結構であります。
南无阿弥陀佛
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●re.20
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[ 231 ] Re4:私の回り道とは
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2008/01/01 (Tue) 11:17
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「横から」様
明けまして、おめでとうございます。今年も宜しく御願い致します。
まさに、泥凡夫様のおっしゃる通りであると思います。
ですから、結局同じ内容になりますが、私からもお書き致します。
>また、私は今まで、「善知識」ただお一人についてゆけば弥陀の救いにあえるものと思ってきたのですが、最近になり、「善知識」から真実の法を聞くべき機をこしらえてくださる数多の御縁がまた欠かせないのではないか、と考えるようになりました。これはいかがでしょうか。
もちろん、本物の次第相承の善知識様であれば、おひとりで十分です。
その方についてゆくだけで、簡単に信心決定致します。
当流では、あくまでも、善知識ではなく、弥陀をたのむのです。
ですから、善知識を求めるのではなく、弥陀を求めます。
すると、次第相承の善知識を求めることになるのです。
これは、信心を求めるならば、念仏することになるのと似ています。
善知識と思われる方に出会ったときに、弥陀を求める気持ちを表現するべきで、それで、弥陀の救いをご紹介くださらないのであれば、その方は、善知識のフリをしているだけかもしれないのです。
善知識と思われる方が、宿善の有無を見ているだけで、実際に弥陀の救いを知っている方なのか、それとも、宿善の有無を見ているフリをしているだけで、次第相承を受けておらず、救いの法を知らないの方なのか、行者の側からも、見抜いてゆかねばなりません。
あまりにも、大切なことですから、行者の側も、真剣でなければならないのです。それが、宿善があるということです。
救いが無いと思われる場所にいつまでもとどまっているのであれば、それは、行者の側が真剣ではなく、自ら善知識を探す労を惜しみ、今いる場所でなんとかしようとしているということです。
探して、探して、探さねばならないと思います。
この意味で、
>「善知識」から真実の法を聞くべき機をこしらえてくださる数多の御縁がまた欠かせない
のは、全くその通りであると思いますが、しかし、それはその「ご縁」を待つということではないと思います。
自ら探して、探し抜くのです。
そのように行動したときに、いつ次第相承の善知識にめぐりあえるかが、ご縁であるのだと思います。
探してゆけば、偽物と思われる方にも出会うと思います。(もちろん、いきなり、本物の方にぶつかるかもしれません。それこそ、ご縁です。)
行者の側から真偽を見抜くには、直感と、お聖教であると思います。
善知識は宿善を見ていますし、行者は真偽を見ているのです。双方真剣であります。
南无阿彌陀佛
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●re.21
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毎日 |
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[ 232 ] Re5:私の回り道とは
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2008/01/01 (Tue) 11:34
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「横から」様
また、仮に、次第相承を受けていない「善知識」のもとで、10年を費やしてしまったとしても、その方を恨む必要は無いのだと思います。
なぜなら、その方は、次第相承の善知識ではないかもしれませんが、弥陀の救いの存在を知らせてくださったという点で、(広い意味での)善知識であったことには、変わりがないからです。
あくまでも、自分は、その道を、通らざるを得なかったということです。
それは、その(広い意味での)善知識の方に問題があったのではなく、あくまでも、自らの宿善の問題です。
なぜなら、そこに救いが無いと気付かなかったのは、自分であるからです。
そのようにして、弥陀の救いに気付くことなく、永劫の流転を重ねて来たのです。
つまり、悪知識ですら、広い意味での善知識です。
そのように考えることができるのも、次第相承の善知識に出会い、実際に救われることができたからです。
実際に救われてみれば、その道を通ったからこそ、救いに辿り着くことができたとわかり、弥陀のお導きであったとわかるのです。
転悪成善の益は、このような形でも展開致します。
誠に、弥陀の救いは無上方便であります。
南无阿彌陀佛
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[ 241 ] 初めてお邪魔いたします。
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2008/01/02 (Wed) 22:34
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>また、仮に、次第相承を受けていない「善知識」のもとで、10年を費やしてしまったとしても、その方を恨む必要は無いのだと思います。 > >なぜなら、その方は、次第相承の善知識ではないかもしれませんが、弥陀の救いの存在を知らせてくださったという点で、(広い意味での)善知識であったことには、変わりがないからです。 > >あくまでも、自分は、その道を、通らざるを得なかったということです。 > >それは、その(広い意味での)善知識の方に問題があったのではなく、あくまでも、自らの宿善の問題です。 > >なぜなら、そこに救いが無いと気付かなかったのは、自分であるからです。 > >そのようにして、弥陀の救いに気付くことなく、永劫の流転を重ねて来たのです。 > >つまり、悪知識ですら、広い意味での善知識です。 > >そのように考えることができるのも、次第相承の善知識に出会い、実際に救われることができたからです。 > >実際に救われてみれば、その道を通ったからこそ、救いに辿り着くことができたとわかり、弥陀のお導きであったとわかるのです。 > >転悪成善の益は、このような形でも展開致します。 > >誠に、弥陀の救いは無上方便であります。 > >南无阿彌陀佛
いつも妙好人スレではお世話になっています。7です。 この掲示板をしばらく読んでおりまして、特にこのスレッド、特に上記の毎日様のレスに 目が覚める思いというか、衝撃が走りました。 自分も親鸞会一色の大学生活を送り、その後フラフラと10数年、彷徨っていましたから。 最近になってK会を知って驚き、聞法を再開し始めたばかりの者でございます。 探して探して、求めて、求めぬく。当たり前のことを全くせず、「ここで」何とかしようとしてきた自分でした。 ありがとうございます。
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●re.23
admin |
毎日 |
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[ 242 ] Re1:初めてお邪魔いたします。
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2008/01/03 (Thu) 01:26
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7 様
いつもお世話になっております。
聞法再開とのこと、心より、うれしく思います。
私からお伝えできるのは、「正信は確かにある」ということです。
「探す」と言っても、自らの直感を頼るしかないのですが、 そうやって探し続けているうちに、自らが納得の行く、 ご縁のある場所に辿り着けるだろうと思います。
後生の解決したあとの気分は、とてもラクなものです。
7様が一味同心になりますことを、楽しみにしております。
南无阿彌陀佛
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●re.25
admin |
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●re.26
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毎日 |
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[ 250 ] Re2:有難うございました
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2008/01/04 (Fri) 01:12
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7様
>探して探して、求めて、求めぬく。当たり前のことを全くせず、「ここで」何とかしようとしてきた自分でした。
◎信有二種。一者信。二者求。如是之人雖復有信不能推求。是故名為信不具足。 「信に二種あり。一つには信、二つには求なり。かくのごときの人、また信ありといえども、推求にあたわざる、このゆえに名づけて信不具足とす」(化土巻)
「一つには信」の「信」とは、真実信心のことではなくて、自力の信のことです。
信じてはいるのだけれども、求めない。
また、「推」というのは、「ずっしりと重みをかけて押す」ことです。
例文) 僧推月下門=「僧は推す月下の門」
ですので、「不能推求」は、「推し、求めることあたわず」とも訓めると思います。
信じてはいるのに、自分の前の重いものを推して、求めることはできない。
そのような人は、信が足りない(信不具足)であるのです。
南无阿彌陀佛
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