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●No.22
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[ 134 ] 女人往生の願
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2007/12/14 (Fri) 01:19
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御文様は、一文字一文字が佛菩薩ということに関してです。
これから書くことは、ことば遊びのようなものです。信じる必要は、無いお話です。もちろん、このHP全体が、隅から隅まで、信じる必要の無い話しで埋まっておるのですが・・・
世の中には、信じる必要の無いお話を、なぜか信じる気になれる、変わった方がおります。このHPは、あくまでも、そのような変わった方を対象としております。
はじめて聞くような話しも書く様に心がけてもおりますが、これからお書きすることは、それなりに有名なお話です。
御文様では、女人往生に関しまして、五帖第十二通にございます。
その中には、
◎ひとすぢに、この阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして
とございます。(よろしければ、ご確認ください。)
ここで話変わりまして、私たちの間では、いろは歌というのは、いろは48文字を通しまして、48願を歌った歌とされております。(48願は、18願に要されますので、全体で18願を歌っております。)
この「いろは歌」を「いろはにほへと・・・」と数えて参りますと、
18文字目が「そ」 35文字目が「て」
となります。
ですので、女人往生は、18願と35願、すなわち、弥陀の御「そて」にすがれとのことだということです。
そう思って読んでみますと、「袖」と出てきますのは、他には2帖第13通があるのですが、ここにも「女」の文字が見えます。
他の箇所では、蓮師は「袖」とはおっしゃっておりません。
こういうお話は、宿善の有無が問われぬ、正雑二行の沙汰を含まぬ楽しいお話ですので、まずはこのようなご法話を聞きまして、そして、それでは満足行かぬ、となりましたら、尋ねてゆくと良いのではないかと思います。
こんなお話をするだけでも、「18願って、何なんですか?」と聞いてくる方も、いる場合があるわけでございます。
女性の方は、ぜひ、弥陀の御そでにおすがりくださいますよう。
南无阿彌陀佛
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[ 136 ] もう、すごいっていうのか!!
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2007/12/14 (Fri) 04:26
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毎日様、
もう、びっくりです。
何だか、宝探しをしているようです。
おやおや様も、蓮如上人をお慕いしていると書いたありましたが、すごいですね。
今、続けて書き込みしてきましたが、
「次第相承の善知識」の、有難さを少し分ったような気がします。
私は、善知識は高森先生お一人と、お聞きし又尊敬もしております。
ただ、いつも変だなと思っていたのは、そのようなお方なのに、どうして誰ともお会いしないのかなと思ったのです。
バス旅行にも、ただ手を振られる会長先生を眺めて満足している法友の話を聞いて、それはおかしいと思ったのです。
あんなりっぱな会場がありながら、わざわざ遠方に足を運ばなくても、たまには、会長先生も檀上からおりられ、みんなと談笑される日もあればよいのにと思っていました。
私は、少しづつ、少しづつ、この掲示板から、お話聞けたらと思います。
毎日様、このようなお話聞いたことが有りません。 又、違う箇所のお話聞きたいです。
早速、読んでみます。
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●re.2
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毎日 |
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[ 137 ] Re1:もう、すごいっていうのか!!
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2007/12/14 (Fri) 08:09
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今日子 様
そんなに喜んでいただけると、とてもうれしいです。
では、少し続きも書きます。
あくまでも、ことば遊びですから、気楽な気持ちで、読んでくださいね。
もうお気づきだとは思いますが、「ひしと」にも謂れがあります。
「ひ」は44願 「し」は42願
です。
44願をご覧下さい。「ひ」というのは、「六字の謂れを聞き開いて、真実の行を行い、無上の善因を得る」ということです。
これは他力の行でありますので、「非」とも呼ばれます。
「非行」というのは、この行のことです。
凡夫の側から見れば、行ではない行のことです。
「非行」は、44願の行であり、「非善」は、44願の徳です。
そして、「し」というのは、42願ですから、定に入ることを意味しておりまして、
1)第一定・・・不善より離れた喜楽を経験し、
2)第二定・・・定より生ず喜楽を経験し、
3)第三定・・・喜を離れ、捨が生じ、全身を持って楽を正受し、
4)第四定・・・捨念清浄。
「し」の一字を解きますと、これだけ入っております。
「清浄解脱三昧」とは、第四定のことです。(四=し)
つまり、弥陀の救いでは、凡夫が易行で第四定まで入ってしまうのです。
このとき、ものすごい量の供養をすることができます。正に念仏は、無上の善なのです。
このように、「し」の一字には、「自力のこころをふりすて」という意味があります。
あるいは、「是(し)」とも申し、「はかって、正しくする」という意味があります。
また、「死」とも申し、「娑婆の臨終」とも申します。
さらに、「ひし」とは「必至」です。11願ですね。
それにしても、御文様をよく読んでみますと、「ひしと」とあるのは、女人に関する場所なのです。
女人往生のために、弥陀は特に工夫されたことがわかります。
ちなみに、「女人」というのは、「不淫戒を保っていない方」という意味がありますので、この意味におきましては、いわゆる男性の方も、たいていは女人ですから、道理で煩悩が強いわけです。
(心で姦淫しても女人です。)
浄土は化生ですし、心持ちも入れ替わっておりますので、当然のことながら、不淫戒が保たれます。これを、変成男子と言いまして、35願です。
こういう解説をしてゆきますと、一生書いても書き終わりません。
この度のお話も、今日子様がよろこんでくださったので、書く事ができたのです。ありがとうございます。
このような言葉遊びも、楽しい事です。
真宗には、一生学んでも学び切れない楽しいお話しがたくさんございますから、後念相続も、やっぱり楽しいことですね。
こういうお話がお好きであれば、ぜひ善知識様のもとにお通いになって、後念相続をお楽しみ下さい。
楽しい日暮しの助けとなり、浄土に往ける確信も増し、信心の溝に、弥陀の法水も流れることでありましょう。
南无阿彌陀佛
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[ 138 ] すごく楽しそうですね。
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2007/12/14 (Fri) 06:11
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でも、毎日様
> >こういうお話がお好きであれば、ぜひ善知識様のもとにお通いになって、後念相続をお楽しみ下さい。 > >楽しい日暮しの助けとなり、浄土に往ける確信も増し、信心の溝に、弥陀の法水も流れることでありましょう。 >
その善知識にお会いするのは、まだまだ私には、宿善開発しなければいけないのでしょう?
あ〜、いつそのような楽しいお話聞ける善知識様にお会いできるのでしょう?
まず、じっくりゆっくり毎日様や泥凡夫様のお話お聞きするうちに、きっときっと阿弥陀様が、導いて下さることだと思います。
その時、手を引いて下されると信じています。
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●re.4
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毎日 |
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[ 145 ] Re1:すごく楽しそうですね。
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2007/12/15 (Sat) 01:36
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今日子 様
今生で善知識様にお会いできるかどうかは、これまでの種まきで、既に決まっているのです。
ですけれども、真宗に興味を示す方は、宿善がある可能性も高いのではないでしょうか。
宿善のある方は、「掟を守る」と言われて、「大切なことだから、それはそうだな。守ろう」と思えますし、法を求めて探しますし、法に頭が下がります。
宿善のある方は、めったにいないのです。
「手引き」とは言っても、基本的には、求める方のご案内をするだけですので、求めてゆくしかありません。
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●re.5
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[ 147 ] Re2:すごく楽しそうですね。
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2007/12/15 (Sat) 15:55
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つづきです。
「男子」「女人」と、「子」「人」を使い分けておりますので、そのことについてです。
ここから先は、大人向きのお話ですので、子供の方は、大人になってから読んでください。
そして、これまた、信じる必要のないお話です。
「子」の「了」は「ぶらさがっているもの」の意味です。(字典を引いて下さい。)この真ん中を、「閉じている」「封印している」の義で、横棒を引きます。
このような方法は、既にある字を用いて、その語源にこだわらず、意味を与えて隠義を包む方法です。
この「閉じる」の意味の横棒で、真宗において大切なのが、「光明」の「明」の「日」の横棒です。この横棒は、煩悩の雲(自力のこころ)です。これによって、閉じております。この横棒を抜けるのは、彌陀だけです。そして、「日」から横棒を抜いて「口」にします。そしてそのさらに奥にある、根源無明を治癒してくださるのです。
そして、この光がつらぬく様を「申」とも申します。
光が入る際には、横棒がありませんので、「中」ですよね。これで、「人中分陀利華」もわかりやすくなります。
また、少し難しいですが、「この間の仮名の人の中において、五念門を修せしむ」(論註)という言い方もあります。(「仮名」については、また後日・・・)
ちなみに、月はいつでも満ちておりませんね。これは、特定のときのみ光るのです。しかも、夜(闇、暗い、無明)に光るのです。
そして、光をいただいた後は、常護ですから、こんどは「太陽」に喩えられます。
この太陽の「日」というのは、佛凡一体でありまして、一度抜いた横棒が、また横たわって塞がるのです。しかし、この横棒を超えて、弥陀の光は出てきますので、出てくる先はどこかというと、顔に出ます。これが、頭の後ろの光(頭光)です。
ちなみに、「身光」というのは、いただいた光がその場所で光っていることを表しています。
この両光を合わせまして、「挙身光」と申します。
ですので、頭光の広さは機によります。身光は、信をいただけば、皆様出ており、これは、養育の光です。
ですから、信をいただいた方は、人の前に出て、中に入りまして、真宗のお話はひとこともしなくても、挙身光を輝かせまして、弥陀の光を浴びていただくことが良いのであります。
ですので、「頭光を広げる」のは、信後のこころがまえです。これを、「明かりは高くかかげよ」とも申します。
佛凡一体ではありますけれども、なるべく凡ではなく、佛を出しましょう、ということであります。
話しを戻しまして、「人」という字は、2本の線が繋がっております。これで、「人(ひと)」と「入(はい)る」の字が似ていることも、わかると思います。
このように「子」と「人」は字義が異なりますので、「男子」「女人」と言うのです。
この意味において、「女」の字は、「く」が2つ交わっておりますけれども、片方が両足、もう片方は、上半身と下半身の象形なのです。
そして、「女」ではまだ離れておりますが、「人」でくっついております。ですから、「女」とも言いません。あくまでも、「女人」であります。
このような謂れがありますので、偉い方のことは「君子」「天子」のように言います。「君人」「天人」とは、言いません。(「天人」と言うと、「天界の衆生」の意味になり、煩悩があるので「人」と言います。)
煩悩を閉じておりますので、「子」なのです。性器を見ようとしても、身体の中に埋まっておりまして、外側には、出ておらない方々です。
一方、「悪人」とは言いますが、「悪子」とは言いません。
「善人」「善子」は、両方あります。(もちろん、「善子」の方が、「善人」よりも偉いのです。)
真宗は、私たちをお目当てにしておりますから、「善人」「悪人」が対象です。
このような意味のときには、「男子」「女人」で、それぞれ聖俗(道俗)を表すわけです。
このような信じる必要のないお話も、凡夫には役に立つことがございますね。
もちろんすべてご方便、六字のすがたをお伝えするためのものであります。
あなかしこ あなかしこ
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●re.6
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[ 148 ] Re3:すごく楽しそうですね。
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2007/12/15 (Sat) 15:09
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このように読んで参りますと、
「悪人」と聞けば「オレのことじゃ無いな」
「女人」と聞けば、「オレには関係無い」
と、これが凡夫の姿であるとわかって参ります。
(ですから、「善人」にも、呼びかけておかないといけないですね。)
「弥陀も女人女人とこだわるけれど、やっぱり佛様も女好きなのかな」くらいに思っておるわけです。
この点、女性の方は、「女人は罪深い。三千大世界の男子の罪を集めた以上の罪がある」と言われて、欲深い自分を見て「それはそうだわ」と思うと同時に、旦那を見て「ウチのも似たようなもんだけど」ときちんとわかっております。
南无阿彌陀佛
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●re.7
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[ 149 ] Re4:すごく楽しそうですね。
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2007/12/16 (Sun) 22:47
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今日子 様
つづきです。
先日は、人の交合の釈について申し上げました。
もうひとつの釈についてお書きします。
「人」の字には、「支える」という意味もあります。1本の棒がもう1本の棒を支えております。
ここで、「ひ」の字を良く見てください。「し」の字に、似ていませんか?
「ひ」というのは、「し」を両側から、小さい棒で支えているかたちになっております。
つまり、「ひ」には、「人」が2つはいっており、その真ん中に「し」があります。
この「し」が「是(し)」なのです。
この真ん中の「し」を、「人間」と申します。(「人」の「あいだ」だから。)
「人間らしくありなさい」というのは、人身を得て、この「ひ」を行うことであると、私は思っています。
別の言い方をすれば、「人間」というのは、「まわりの方に支えられているんですよ。自分の力ではないですよ」ということです。
でも、やっぱりこんなことを言われても、なんだかわからないと思います。
もう少しだけ、続けたいと思います。
南无阿彌陀佛
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●re.8
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[ 150 ] Re5:すごく楽しそうですね。
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2007/12/17 (Mon) 09:07
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今日子 様
「ひしと」について、もう少し書いてみます。
「必死と」これは、「必ず死すべし」で、「後生を気にかけて」ということです。
「必止と」これは、「必ず止(や)むべし」で、永劫の流転が止まるということ、自力の心が止まるということです。
「必是と」これは、「必ず是(ぜ)とすべし」で、どんな機でも、必ず正しく整えることです。
「彼此と」これは、「浄土と娑婆」ということです。浄土の弥陀と、娑婆の凡夫と、機法一体、三業相応を示します。
「人」には、この三業相応、仏凡一体の意味もあります。(2本の棒が合わさっています。)
「人間から、人になれ」というのは、この意味においてのことです。
つまり「人間」が「ひ」、「人」が「し」となります。
すなわち、「人、人間に是(し)して人となる」ということです。
至行、是行、死行、止行これすべて、南无阿彌陀佛。
このように、読んでいきますと、「読めども読めず」ということも、わかってきます。
南无阿彌陀佛
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●re.9
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[ 151 ] Re6:すごく楽しそうですね。
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2007/12/17 (Mon) 08:55
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今日子 様
「男子」「女人」の「子」「人」それから「女」についてお書きしました。
では、「男」の字には、どんな意味があるでしょうか。
「男(なん)」は、「南無」です。
「男」の「なん(なむ)」は、「m」の音なのです。字典をご覧ください。(この場合、「外から迎えて一緒になる」という意味も入ります。)
この意味の場合の「男子」の「子」は、「完了して、蓋をする」という意味です。
ここまでわかって参りますと、「善男子善女人」も、「善く南無を完了して蓋をした、善い『煩悩のある佛凡一体の人』よ」のように見えてきます。
ちなみに、「如法」というのは、「女に口を開ける法」のことです。もう、わけがわからないでありましょう。
「如」というのは、「女(煩悩)に口」と読めるわけです。この意味の「如」については、「真如(しんにょ)」などを辞書で引いてみてください。
当流では、口で称える念仏が重要です。口業による讃嘆です。しかしこれは、「ただとなへる」のではありません。
◎また名号をもつてなにのこころえもなくして、ただとなへてはたすからざるなり(御文1-15)
この「こころえ」とは、六字の謂れであります。
もちろん、「如法」は、そのまま読めば、「法のごとく」であります。
「南無阿弥陀仏」も、そのまま読めば、「南に阿弥陀仏無し」になります。
(「仏法は、知りそうに無い人が知っている」の意)
これを、いま少し進めれば、「南無」「阿弥陀仏」になり、「阿弥陀仏に南無せよ」、これを、さらに進めて、六字の謂れを聞き開き、ぜひ、信をお穫りください。
あなかしこ あなかしこ
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[ 152 ] 御示談とは?
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2007/12/17 (Mon) 09:23
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>世の中には、信じる必要の無いお話を、なぜか信じる気になれる、変わった方がおります。このHPは、あくまでも、そのような変わった方を対象としております。
毎日様
お久しぶりです。盛り上げっていますね。 僕も、親鸞会や、世間では「変な人」で通っています。
逆に変な人で良かったです。変な人だから、阿弥陀様も気づいて下さったのかも知れません。
もう、諸仏方では手が負えないと、見放された、「変な人」だから、阿弥陀様の大慈悲心により摂い取られたのだと思います。
僕は、毎日様のこの掲示板、楽しみに拝読させて頂いています。
真実信心頂いている方々のお講を、まだ体験していない僕ですが、何となく想像するだけで、是非参加させて頂きたいなという気持になります。
ところで、御示談というお言葉を耳にしました。
御示談と、お講で話されるのとは、同じようなものですか?
「自障障他」のお言葉も有ります。
この点、毎日様はどのようにお考えでしょうか?
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●re.11
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毎日 |
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[ 153 ] Re1:御示談とは?
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2007/12/17 (Mon) 10:03
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おやおや 様
「示談」というのは、本来は、「法談」に対するものです。
http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/220.html
「法(真理、本当のこと)」を語ることに対して、自らの心持ちを「示す」ものです。
「お講」においては、「法談」と「示談」がセットになっています。
「法談」というのは、教えについてのお話をいただくもので、「示談」というのは、所感を話すわけです。
また、御示談の方法も、皆の前で話す場合と、僧侶と個別に話す場合があります。
そして、お講には、真実信心いただいた方のみの集まりと、開かれている集まりがあります。
開かれている集まりにおける「御示談」は、尋ねて行くきっかけの場にもなります。
この意味から発展して(「信心の沙汰」という言い回しからの連想もあるのでしょうけれども)、グループによっては、「御示談」は、禅宗の「入室参禅」のようなものとして行われることもあるようですね。
この場合は、誰かが「正しい」ということが前提になりますので、善知識だのみのニュアンスをおびてきやすいと思います。
本来の御示談というものは、あくまでも、ご同朋、ご同行ですので、相互いに信心の沙汰をするものだと思います。
弥陀に救われたよろこび、弥陀の素晴らしさを讃嘆することはあれど、相手の方を否定するためのものではありません。
信後の信心の沙汰におきましては、信心いただいた方は菩薩である謂れがありますので、相手の方も、菩薩様なのですから、これをわかって(観察して)、敬いながら、相手の方のお話をいただいてゆきます。
「御示談」と言ってもこわいものではなく、単なるおしゃべりのようなものです。もし、こわくなっていたら、それは何か別物になっていると思います。
このあたりの単語の使い方は、地域によっても、異なるのではないかと思います。
真宗においては、あくまでも、救いの法だけが同一なのであって、その他は、「義無きを義とす」宗であるからです。
「自障障他」というのは、「一向専念無量寿仏」のつもりで、実際は雑行・雑修をしている方が持つ性質です。
自ら信じ込んでいる教義があり、それにこだわっていますので、自らを弥陀の救いから引き離すばかりか、知り合いにまで、自分の信じていることを信じ込ませようとし、また、真実信心いただこうとする方の邪魔をして、自分のもとに留めようとします。
この性質については、御文一帖第一通に書いてあります。
このようなことを避けるために「他力」という尊い用語があるのですが、それでも、「他力」を「自力」で解釈しようとしたり、想像して満足しようとしたりします。
「自障障他」につきましては、大切なところですので、後日あらためてお書きしたいと思います。
南无阿彌陀佛
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[ 154 ] Re2:御示談とは?
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2007/12/17 (Mon) 10:25
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毎日さま
むかしは偉い人には質疑なんてしてはいけなかったんですね!!
でも確かに自分の目上の人には自分から話しかけてはいけない。 みたいなマナーを学んだ記憶があります。
びっくりです。
浄土真宗はお気楽でいいですね。
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●re.13
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毎日 |
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[ 155 ] Re3:御示談とは?
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2007/12/17 (Mon) 10:33
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彩名 様
本当に救われていただくためには、建前では足りないのです。
偉い人には話しかけてもいけない文化でしたから、「思うところは、どんどん言うんですよ」「どしどし質問してくださいね」と蓮師は奨励なさって、高座からではなく、同じく座敷において、お話くださったのです。
世間では、質問すると、嫌がられたり、バカにされたりすることがあるものです。
真宗では、そのようではないのです。(もし、そういう僧侶がいたら、異安心、あるいは未安心ですから、他を尋ねれば良いのです。)
「何度でも質問してくださいね」「わかるまで何度でも聞いて、質問してくださいね」というのが、本来なのです。
本当のことを知っているのだから、いくらでも、どしどしと、質問してほしいのです。
もちろん、わからないことは、あるでしょう。しかし、肝心要のことを知っているという自信がありますから、些末なことを知らなくても、動じないのです。
また、些末なことを問う方には、その旨お話することもできます。
本物の救いを求めている方は、それで失望することはありません。
真宗は、偉い人が来て、お話だけして帰るのとは、違います。ご納得ゆくまで、話し込んでゆく文化なのです。
そもそも、お釈迦様は、きちんと対話してくださいました。
その伝統を、日本においても、実現なさったのです。
南无阿彌陀佛
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[ 156 ] Re6:すごく楽しそうですね。
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2007/12/18 (Tue) 03:30
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毎日さま
>「男」の「なん(なむ)」は、「m」の音なのです。字典をご覧ください。(この場合、「外から迎えて一緒になる」という意味も入ります。)
私の漢字源に本当に書いてあったので、びっくりしました。 他の漢字の由来も毎日さまの通りに書いてあったので、面白かったです。
>「如」というのは、「女(煩悩)に口」と読めるわけです。この意味の「如」については、「真如(しんにょ)」などを辞書で引いてみてください。
私の広辞苑では
(仏)(梵語tahata)一切存在の真実のすがた。この世界の普遍的な真理。大乗起信論では不変真如と随縁真如を立てる。如。如如。
とありますが、煩悩に口とこの意味の「如」についての繋がりが、よく分かりませんでした。
私もダビンチ・コードやナショナル・トレジャーのような謎解きのようで面白いです。
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●re.15
admin |
毎日 |
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[ 157 ] Re7:すごく楽しそうですね。
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2007/12/17 (Mon) 17:18
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彩名 様
>私の広辞苑では >(仏)(梵語tahata)一切存在の真実のすがた。この世界の普遍的な真理。大乗起信論では不変真如と随縁真如を立てる。如。如如。 >とありますが、煩悩に口とこの意味の「如」についての繋がりが、よく分かりませんでした。
このようなご質問、まさに御示談ですね。
「御」とありますのは、ひとりではわからないことが、示し合うことにより、お互い得るものがありますので、その尊さに「御」とつけたのです。
法を話し合う場所には、諸仏もいらっしゃいますからね。それを「御」と表しています。
「如」についてですが、公の場においては、これ以上詳しく書くことができないのです。
この種のお話については、個別に御示談してゆくことになると思います。
宿善の無い方にお話するわけには参らないことがありますので、尋ねる方は、戸を開くまで叩かないといけないのです。
ただ、この掲示板に書いてある内容をお尋ねしても、真実信心いただいている方でも「?」となることも多いはずですので、それだけで、即断なさらないように御願い致します。
疑問に思うところはどんどん問うて行けば、いずれ、本当の話しを聞くときが来るでしょう。
(この「聞」の字も、とても大切ですので、いずれ釈したいと思います。)
救いの法さえあれば、100人の宿善開発の行者が、100人すべて、たちどころに救われます。これ以外のすべては、ご方便です。
南无阿彌陀佛
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