浄土真宗の教義について

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●No.21
今日子
非公開の女性
[ 122 ] 六字の謂れって何ですか? 2007/12/12 (Wed) 10:20 △up ▽down
毎日様  初めまして。

二河白道、読みました。

毎日様の最後の「六字の謂れ」の意味が分りません。

九字名号と、十字名号と、六字名号では、何が違うのですか?

又、御一代記聞書の中で、いつも

他流には「名号より絵像、絵像よりは木像」といふなり。当流には「木像より絵像、絵像よりは名号」といふなり

と聞いています。
なぜ、当流では、名号に重きをおくのですか?

これも、「六字の謂れ」と関係あるのですか?

●re.1 admin 
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 123 ] Re1:六字の謂れって何ですか? 2007/12/13 (Thu) 06:16 △up ▽down
今日子 様

六字名号も、九字名号も、十字名号も、基本的な意味は同じです。

六字名号は、インドの音を漢字で写したもの。

九字名号、十字名号は、その意味を漢字で表そうとしたものです。

(九字名号の「南無」の部分は、音写です。)

ですけれども、それだけではありません。

ただ、六字の謂れそのものは、宿善を開発して、次第相承の善知識に会って、直接お聞きしなければいけないことになっています。

そのとき、「南无阿彌陀佛とは、何か」がわかることでしょう。

では、なぜ、謂れなくして南無阿弥陀仏を広めているのでしょうか。

佛智ははかりしれませんが、私が思うことは、ひとつには、20願がある。そしてもうひとつには、救いの存在を知らしめているのだと思います。

寺院や教団の存在は、謂れなくして名号が広がっていることと似ています。

出典は確認できていないのですが、蓮如上人のお歌として、次のようなものを聞いたことがあります。

◎木で刻み 絵に書く弥陀も 弥陀で無し
   まことの弥陀は 六字なりけり
   
「六字」とは、「名号」とは、必ずしも、紙に墨で書いたものではないのです。

蓮師が本当に言いたい「六字」とは、「名号」とは、「機法一体の南無阿弥陀仏」のことであり、凡夫と弥陀が一体になる南无阿彌陀佛なのです。

ですから、私はさらに次のように言います。

◎木像よりは絵像。絵像よりは名号。そして、名号より名号。この名号とは、非行の行なり。

名号飾っても、どうやってそれと一体になれるかわからない。「どうしたらいいんですか?」という気持ちで、南無阿弥陀仏をお唱えするのです。

何万回となえても、幻覚見ることはあるかもしれませんが、「これだ! これで、凡夫が皆救われる」とつかみ取ることはできないのです。

ですので、なんとか弥陀に救われたい。伝わっている法を探さねばならない。弥陀を向けば、必ず導いて下さるだろう。

このような気持ちを育てていただくための、方便であります。

弥陀は神通がありますので、すべての衆生の宿善開発を見ております。ですから、18願に出会いたいという願を持ち、名号となえる行をしながら、尋ねる行をしてゆけば、本当にお導きくださいます。

親鸞聖人も、法然上人を尋ねたからこそ、救われたのです。

ただ、本当は、親鸞聖人は、尋ねなくても、救われる方なのです。しかし、それをしたら、どうなりますか? 確実に前例になってしまうでしょう。

凡夫が救われる浄土真宗を日本に開顕することができなくなってしまいます。

法然上人のもとに行くのは、生まれる前からのお約束なのです。

掟があるままで、どのように教えを広めればよいのか、蓄積されてきた、さまざまな工夫があります。

そのおかげで、私たちは、救いの存在を耳にすることができます。

このように、方便が工夫されており、ただですら難信之法であり、耳を傾けて下さる方はいませんので、方便は、とても大切なのです。

まず、通常の説法や、顕義の内容にて、「なるほどなあ」と思って頂き、徐々に、18願へと導いて行かねばならないのです。

真実の法は護られておりますから、宿善開発されるまで、聞きたい気分になりません。

18願に辿り着くならば、100人の行者が、1日にて弥陀の浄土に救い摂られてしまいます。

そして、方便にも、いくつかの方法があります。蓮師がおすすめしているのは、

「凡夫が仏になれるんだよ。悟れる方法があるんだよ」

という方向性です。

そして、浄土門の話しがわからない方には、聖道門の話しからはじめなければならないのです。

蓮師のおすすめも、「仏になれるんだよ」ということで、聖道門の雰囲気から入ってゆくことがわかると思います。

これは、相手の方の心に反発を生まない工夫、掟を守りながら話しかけることができる工夫なのです。

これらのことが、永い輪廻の中で、行われてきており、宿善が育ってきたということです。

南无阿彌陀佛

●re.2 admin 
毎日
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[ 124 ] 信後の相続について 2007/12/12 (Wed) 22:37 △up ▽down
そして、ひとたび信をいただいたならば、会いがたき善知識に会うことが叶い、聞きがたき法を聞くことが叶い、確かに凡夫が南無阿弥陀仏と一体になることができたことをよろこんで、南無阿弥陀仏を唱えます。

まわりをみわたしてみても、六字の謂れを知っている方は、あまりいらっしゃらないことでしょう。

信をいただいても、夫婦の関係でも、家族の関係でも、言ってはならないとされているこの法です。

隠されているようですが、護られています。

求める方の前には、そのすべてが、例外無く、明かされるからです。

お手引きしようとすれば、「うたた難し」とご聖教の通りであるとわかるでしょう。

凡夫には疑情があり、本願から逃げようとすることもわかるでしょう。

すると、ますます、自分が法を聞けたことがいかに希であったか、いかにお育てにあずかることができたのか、わかるのです。

そして、宿善を持っている方の場合は、ものすごく興味を示してくださいます。

このとき、同じ自分が話しているのに、相手の方の反応が違うのはなぜなのか。

それは、その方は、弥陀がお育てくださった方なのです。

ですから、弥陀が引き合わせてくださったのですから、その方を、なんとしてでも、浄土の秘けいにお連れしなければなりません。

そのための手間を惜しむな、金を惜しむな、ということであって、寺院に寄付して豪華な調度を作れ、という意味ではないのです。

(もちろん、豪華な調度も方便になりますので、意味のあることです。ただそれは、あくまでも、会いがたき法に会わせてくださったよろこびのあまり、それをどうしても表現したいからのことであり、男性が好きな女性にプレゼントするのと同じであり、やむにやまれぬものであるのが本当です。)

「お手引き」とは言いますが、これは、自分が無理矢理手をひっぱるという意味ではありません。

無明の闇の中、どちらに行ってよいかわからない方、浄土の秘けいの場所を知らない方、どうしてもそこに辿りつきたい方に、「こちらですよ」と手を引いてご案内する、という意味です。

信をいただくまでは、「南无阿彌陀佛」と言われても、本当に意味がわからないのです。

そして、わけのわからないことを言う方のもとに捕われたりして、わけのわからぬ同士で、自障障他しているのです。

そのような闇の中にいる方の中に、光を求める方が出ます。

その方の手を引いて案内しなさい、ということです。

まず相手の方に宿善があるのであり、これは、強い熱意となって現れます。

凡夫が仏になる一大事、何の遠慮も要りません。

そして、この地ににて、浄土の秘けいに入り、勢至の化身、観音の化身に会い、諸仏の護持を得た上で、弥陀に来迎いただかなければ、凡夫が仏になることは叶いません。

釈尊が地上にて説法したとき、それがたとえ土の上であっても、豪華絢爛な金剛の巨大な寺院の中、諸仏諸菩薩が集まる中、ご説法くださったのと同じです。

(もちろん、弥陀に信をいただくときには、釈尊もご来迎くださいます。娑婆の衆生が救われる姿をご確認くださり、「親しき友よ」とよろこんでくださいます。)

凡夫の側からすれば易行ですが、凡夫に信を取らせるためには、ものすごい数の仏菩薩の助けが必要なのです。

南无阿彌陀佛

●re.3
今日子
非公開の女性
[ 125 ] 初めてなのであせってしまいました。 2007/12/12 (Wed) 19:59 △up ▽down
毎日様、

今日初めて書込みしましたので、よく分らず、ご迷惑おかけしました。

親鸞会で、聞いている私には、初めて知る状況なので、よく飲み込めません。

私達は、次第相承の善知識に、直接会って「六字の謂れ」を聞いて、助かるのですか?

すると、その「六字の謂れ」を、善知識方が、次第してきたから、善知識とお呼びするわけなら、若し、その次第を継承していなければならないと思いますが。

そういう私の疑問は変ですか?

又、毎日様の「ニ河白道」は、信後のような書き方ですが、
私は、欲と怒りの中をかき分けて、聞きぬけと教えられて来ました。

そこをハッキリと書いてある箇所が有れば、教えて下さい。

●re.4 admin 
毎日
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[ 126 ] Re1:初めてなのであせってしまいました。 2007/12/12 (Wed) 22:49 △up ▽down
今日子 様

私が書いている「二河白道」は、原典を読み易いように再構成していますので、教えとしては、ぜひ原典におあたりください。

書き始めのところには、こうあります。(私が「はじまり」として書いているところです。)

◎又白一切往生人等、今更為行者、説一譬喩、守護信心、以防外邪異見之難。
「また一切の往生人等に白す、今更に行者の為に一の譬喩を説きて、信心を守護して、以て外邪異見の難を防がん」(観経疏)

「信心を守護して」とありますように、信後のお話でありますこと、明白です。

信心をいただくまでは、「無人空迥沢」にいて、悪知識のお話しか聞くことができません。

善知識の話を聞くことができるのは、白い道を目前にしている時点だけなのです。

信前のすがたは、荒野を逃げて西へと走っている姿です。

悪知識は、自障障他の性質を持ちますので、行者をとどめて自らのところに置こうとし、西へと進まないようにしようとします。

どんなに良い人に見えようと、法から引き離すのですから、悪知識です。

そして、信をいただいたからこそ、炎の中、水の中、一歩一歩を歩むことができるのです。

もうひとつ。ものすごく大事なことは、善知識の存在は、ここには描かれていません。

聞こえるのは、釈尊の声と、弥陀の声だけです。

善知識は、自らの考えを語るのではなく、法を伝えるだけだからです。

南无阿彌陀佛

●re.5 admin 
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 127 ] Re2:初めてなのであせってしまいました。 2007/12/13 (Thu) 01:57 △up ▽down
今日子 様

>私達は、次第相承の善知識に、直接会って「六字の謂れ」を聞いて、助かるのですか?
>すると、その「六字の謂れ」を、善知識方が、次第してきたから、善知識とお呼びするわけなら、若し、その次第を継承していなければならないと思いますが。

真実の救いの法を、凡夫が思いつけるわけがないのですから、次第を継承していないなら、いたずら事です。

どんなにすごい方に見えようと、あくまでも、その方の思想の範囲内、考え方の枠内にとどまりますので、難思議往生は叶いません。

また、善知識に会う云々ですが、宿善ある方は、なんとしてでも会いたがるのです。

凡夫が仏になる法があるときに、本を読んで済まそうとか、ましてや掲示板で済まそうとか、そんなことになるはずがありません。

もし、善知識様が、金色に光っているような方であれば、道を歩いていれば、凡夫にもそれとわかるでしょう。しかし、そうではありません。一見、全くわからないでしょう。

ですから、宿善ない方にとっては、すごくは見えないかもしれません。

本当の善知識様は、法を継承しているところにとてつもない価値があり、弥陀の浄土から、弥陀の勅命を受けて出てきている方だから、すごいのです。

この世界に出て、凡夫と縁を結ぶために、凡夫の姿に、心に、やつしておいでです。

真の姿を見せてくださることは、めったにないのです。

だからこそ、信をいただいた方にお手引きいただかなければ、隣にずっと住んでいても、会社で隣の席でも、十年法話を聴かせてくれた住職が善知識だとしても、わからないのです。名乗らないからです。(宿善がある方に対しては、名乗ることもあるようです。)

世間への外相としては、真宗では無い住職にも善知識(あるいは、弥陀に救われた方)はいると聞いています。長年求道して、本当のことを尋ねてきた方に、法を明かすことがあるそうです。

法然聖人門下で、幾人が18願をいただいたでしょうか。皆聴聞してありがたいと感謝していても、それ以上尋ねないのです。

(それで満足行くのだから、宿善が開発されていないということになります。このことを、蓮師も嘆いておいでです。そこで、「質問せよ、思うことを言うように」とおっしゃっていらっしゃるのです。)

尋ねなければ、数十年聴聞していても、善知識だとはわかりません。押し付ける法ではないのです。

いずれにしても、ご縁がなければ、会うことは叶いませんが、弥陀を向いて求める方には、ご縁が現れます。弥陀はすべてをご存知だからです。

「凡夫が仏になる不思議」のものすごさが感じられるかどうかで、これがわかるなら、本当に本当にありがたい方であるとわかります。

南无阿弥陀仏

●re.6 admin 
毎日
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[ 128 ] 宿善開発 2007/12/12 (Wed) 23:37 △up ▽down
荒野を逃げて逃げて、もうどうにもならぬ、目の前には、火の河と水の河が有る。

しかし、心を決めて、一歩を踏み出そうとする。

ここが、宿善開発のそのときです。

●re.7
今日子
非公開の女性
[ 129 ] すると宿善で決まってしまうのですか? 2007/12/13 (Thu) 04:23 △up ▽down
毎日様  

宿善開発ということは、過去の宿善で決まってしまうことですか?

確か、毎日様は、阿弥陀様は、私達をご養育下さると書いてあったように思いますが、

私は、今親鸞会で聴聞していますが、これも宿善の要因ですか?

よく、宿善に厚薄有りと、聞いてきました。

どうも、聴聞していても助からない、次第相承の善知識から、直接教えを請うことが、先決だとは分りました。

唯、聞いていても、決勝点ではないのですね。

しかし、その善知識は、どこのだれかも、どこにおられるかも分らない。

どのように探そうかと、その気を起こしたのが、宿善開発なのですか?

まだ良く分らないのですが、
今、このように毎日様にお聞きすることも、私に宿善が有ると思うのは早合点ですか?

でも、親鸞会で長い間聴聞していても、誰も助っていないという色んな情報を見聞していても、私には、このまま親鸞会にいても、信心決定は無理ではないかと悩んでいるのです。

ですから、そういう気持を持って、探そう、尋ねようと思っている私には宿善があり、いつかは阿弥陀様に会えると解釈してもいいのか?
これは、自惚れですか?

ただ、まだ、心の中で整理できていません。



●re.8 admin 
毎日
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[ 130 ] Re1:すると宿善で決まってしまうのですか? 2007/12/13 (Thu) 05:47 △up ▽down
今日子 様

今生にて宿善があるかどうかは、既に過去生の種まきによって、定まっています。

ですから、信を得たとて、親しい家族でも、お手引きできるとは限りません。

あくまでも、相手の方に宿善がなければ、はじまらないのです。

お手引きというのは、道案内に過ぎませんので、道を尋ねる方の手を引くだけなのです。

親鸞会様にて、親鸞聖人のお名前や、その教えについて、ご聴聞なさるでありましょう。

そこで、親鸞会様に真実があると思う方は、そこで聞き続ければ良し、親鸞聖人のお名前を聞いて、親鸞聖人のお名前には、真実がある気がしたけれど、どうもこのままでは信心いただけない気がする、と思えば、他所にて沙汰すれば良し、あくまでも、その方の、ひとりのしのぎの道なのです。

宿善の要因が何であるのかというのは、なかなか凡夫にはわからないのです。

しかし、たとえば、菩提心(覚りを開こうという心)は、宿善の要因になると思います。

ですけれども、今生に人身を得ている方は、後の宿善を今生積むのではなく、今生にて救われようとすべきです。

一度人身得て、次に人身を得るのは、はるか、はるか先のことです。(修行者の方など、特殊な方は違います。)

>どのように探そうかと、その気を起こしたのが、宿善開発なのですか?

それだけでも、わからないのです。カンタンに、あきらめてしまうかもしれません。

宿善がきちんと開発されれば、次第相承の善知識様が目の前にいて、六字の謂れも聞き開き、あと少しで、救われるということがわかっている場所にいます。

>まだ良く分らないのですが、今、このように毎日様にお聞きすることも、私に宿善が有ると思うのは早合点ですか?

これだけで、宿善があると即断することもできません。

今後のご自身の行動によって、自らにも示されてくることです。

真剣そうな方が真剣でなく、真剣そうでない方が真剣であることも、よくあることです。

>ですから、そういう気持を持って、探そう、尋ねようと思っている私には宿善があり、いつかは阿弥陀様に会えると解釈してもいいのか? これは、自惚れですか?

宿善が有るか無いか、悩んでもはじまりません。

尋ねる気持ちがある間は、宿善が有ると信じて、尋ねてゆくのが良いと思います。

宿善があるなら、どうしても諦めきれないでしょう。(途中であきらめたとしても、また再燃します。)

宿善がなければ、どれほど途中まで熱意があろうとも、急にやる気がなくなります。

実は、人間界に生まれてきた衆生は、全員、修行しようとする心(向上心)は持って生まれてきます。

それでも、弥陀のお名前を聞いたことのある方だけが、宿善を持っています。

仏菩薩のお名前には、それだけでも、すごい価値があるのです。

宿善の無い方にも、弥陀のお名前だけでも、お聞かせしておくことに価値があるのは、このためです。

少しヘンな話しをしますが、死後、地獄に行くような方の場合、思うように動けなく、思えなくなるようになります。(すべてが相続されるわけではないからです。)

この時期、「南無阿弥陀佛」の「南無」だけでも覚えていれば、その「南無」だけでも何とか言う。

これで、全く違うのです。生前、ひたすら名号を唱えていれば、心の深いところにその功徳が残り、思い出せる可能性が出て来ます。

ただ、このようなことを願うよりも、あくまでも、18願に救われて下さい。

特に、自障障他の罪は重いです。難しいことではありますが、そのような方にこそ、弥陀に救われて、極楽往生治定してほしいです。(この場合は、救われたその方は、自分が地獄に堕としめてしまった方々の救済に忙しくなります。)

悪人正機のこの教えです。もっとも罪が重い、謗法の徒にこそ救われてもらって、よろこびながら、済度の日々を送ってほしいのです。

(済度に力を尽くすのは、罰ではありません、よろこびです。自障障他するような方は、本当は、菩薩のような方になりたかったのです。ですから、望みがかなって、すごくうれしいのです。しかも、最高の環境の極楽浄土にて、神通も得た上で、計画することができます。ただ、還相となった後には、苦しみがあります。)

その方を信じたばっかりに、ものすごく苦しまれている方々がいます。もちろん、恨んでいらっしゃいますが、そこを救いに還ります。

18願は、平生にて極楽往生が治定しますので、臨終時のお気持ちや、死後のお気持ちに左右されることがありません。確実です。

18願の行者は、命終と同時に、極楽の蓮の中にいます。

一念帰命した時点で、蓮のつぼみは、もう準備されていますので、「お、また来たな」と浄土の衆生にわかるようになっています。

この蓮を通じて、化菩薩が護りにきてくださるのです。

南无阿彌陀佛

●re.9
今日子
非公開の女性
[ 131 ] 専任講師には、とても質問出来ない内容なので 2007/12/13 (Thu) 06:41 △up ▽down
毎日様

私は、親鸞聖人のお名前に親しみがあったので、親鸞会とあったので、入会しました。

とても大きな会館でした。

塵一つありません。

かつて、オウム真理教のニュースをテレビで見ていましたが、その中は雲泥の差です。

でも、なぜかいつも違和感が有りました。

私は、今進むべき道を考えています。

迷走しているとは思っていません。

私は、毎日様のお言葉より、まず人間に生まれ、親鸞聖人のお名前を知りましたので、
此処から、質問できたらと思います。

お付き合い頂きたいと思います。

泥凡夫様やおやおや様も、見ておられる掲示板なので、色んな意味で、浄土真宗が聞けたらと思います。

●re.10 admin 
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 132 ] Re1:専任講師には、とても質問出来ない内容なので 2007/12/13 (Thu) 06:54 △up ▽down
今日子 様

今日子様の進むべき道は、あれこれと自分なりに試しているうちに、次第に明確になってくると思います。

ただ、今こころの中にある予感の通りに、ほとんどなるのではないかと思います。

親鸞会様の教義に関するご質問等は、「親鸞会について」という専用スレッドがございますので、そちらにお書き込み下さい。

●re.11
泥凡夫
非公開の男性
[ 133 ] Re2:専任講師には、とても質問出来ない内容なので 2007/12/13 (Thu) 23:19 △up ▽down
今日子 様

こんばんは。泥凡夫と申します。
親鸞会様で御聴聞とのこと。一生懸命なご姿勢頭が下がります。

さて、色々悩まれておるようですね。
毎日様が申されること、イマイチ納得いかんところもあり、何が正しくて何が間違っておるのかとも思い計らわれておると思います。かつてジャンヌでそのような道を通られた方々を懐かしく思い出します。

ただ、私は毎日様が誠に正意をお伝えしようとされておること、御開山御一流の要をお伝えされておることがありありと分かります。

当流はまず信をもって先とするのです。信もなく人に信を獲れと申すことは、ものを持たずに人に施すようなもので自損損他の咎は逃れられません。

当流の信とは何であるのか。私は教学もされておる親鸞会様の会員様であられるようですので蓮師の御文を拝読されてみては如何でしょうか。とかつて何度も申し上げてきた次第であります。読むだけで「即信」になるかと申せばなりません。

御文1-15の一向宗に関する問答以降を引きます。

『またのたまわく、「当宗をすでに浄土真宗となづけられ候うことは、分明にきこえぬ。しかるにこの宗体にて、在家のつみふかき悪逆の機なりというとも、弥陀の願力にすがりて、たやすく極楽に往生すべきよう、くわしくうけたまわりはんべらんとおもうなり。」
答えていわく、「当流のおもむきは、信心決定しぬればかならず真実報土の往生をとぐべきなり。さればその信心というはいかようなることぞといえば、なにのわずらいもなく、弥陀如来を一心にたのみたてまつりて、その余の仏菩薩等にもこころをかけずして、一向にふたごころなく弥陀を信ずるばかりなり。これをもって信心決定とはもうすものなり。信心といえる二字をばまことのこころとよめるなり。まことのこころというは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆえに、まことのこころとはもうすなり。また名号をもってなにのこころえもなくして、ただとなえてはたすからざるなり。されば、『経』(大経)には、「聞其名号 信心歓喜」ととけり。「その名号をきく」といえるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を、無名無実にきくにあらず。善知識にあいて、そのおしえをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまうという道理なり。これを『経』に「信心歓喜」ととかれたり。これによりて、南無阿弥陀仏の体はわれらをたすけたまえるすがたぞと、こころうべきなり。かようにこころえてのちは、行住座臥に口にとなうる称名をば、ただ弥陀如来のたすけまします御恩を、報じたてまつる念仏ぞとこころうべし。これをもって、信心決定して極楽に往生する、他力の念仏の行者とはもうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。』

当流は六字が全てでありますが、何の心得もなくただ口に念仏を称えるだけでは助からん旨を記されております。次に大経願成就文の一部を引かれ、その名号を聞くというのは無名無実にきくのではなく、善知識に逢ってその教えを受けて、「南无阿弥陀佛」の名号を「南无」とたのめば、かならず「阿弥陀佛」が助けるのである。これを指して「信心歓喜」であると申されております。

この六字の謂れは善導様の有名な「言南無者 即是帰命 亦是発願回向之義言阿弥陀仏者 即是其行 以斯義故必得往生」(玄義分)で釈しておられるのです。是非ともそのお謂れを聞き開いて頂きたいものであります。

当流の信心の体は「南无阿弥陀佛」の六字でございます。私の「喜んだ心」が信心の体にはならんのです。

御文は七祖の釈と御開山の釈を私共のような智慧浅き者にも分かりやすく説かれたものです。お時間のある時に是非原文を拝読されると宜しいかと思います。但し、何度も申しますが読まねば助からんではありません。あくまでもあなた様が納得頂ける助けになると思った故にお勧めしておるに過ぎません。

『『御文』は、これ、凡夫往生の鏡なり。『御文』のうえに法門あるべきように思う人あり。大きなるあやまりなりと云々』聞書

南无阿弥陀佛

●re.12
今日子
非公開の女性
[ 135 ] 初めまして、泥凡夫様 2007/12/14 (Fri) 04:08 △up ▽down
このHPの冒頭の歩みを拝読しました。

毎日様やおやおや様は、泥凡夫様を尊敬されておられるようですね。

そのような方に、教えを受ける私は、本当は場違いかも知れません。

でも、私は、不思議に、親鸞聖人のお名前に親しみがあります。

又、初めて知る、「次第相承の善知識」のお言葉にも、ただ善知識は会長先生だけとお聞きしていましたので、へ〜そうなの? と、興味が出てきました。

私は、りっぱな会場や、色々な施設がどんどん出来ていくことに、どうしても違和感があるのです。

私は、そんな施設よりも、じっくりと、親鸞聖人のお話が聞きたくて入会したのです。

でも、この掲示板を知ったことで、しばらくここで、聴聞できたらと思います。

私の名前の「今日子」は、今日を大事に生きたいからです。
そして、毎日様にも、少しあやかりました。

泥凡夫様、宜しくお願いします。

●re.13
泥凡夫
非公開の男性
[ 158 ] Re1:初めまして、泥凡夫様 2007/12/19 (Wed) 01:03 △up ▽down
今日子 様

こんばんは。泥凡夫でございます。

>毎日様やおやおや様は、泥凡夫様を尊敬されておられるようですね。
>そのような方に、教えを受ける私は、本当は場違いかも知れません。

私は何も尊くございません。HNの通りのただの凡夫でございます。あなた様と何ら変わりがございません。私はお二方様には逆に頭が下がるのであります。どこの馬の骨か分からん男の言うことを真剣に聞いて頂き、そして法を求められ、一生涯にただ一度の「聞」を成して頂きましたので。まったく宿善の成せるものであり、弥陀の御養育の賜物であると思っております。

>又、初めて知る、「次第相承の善知識」のお言葉にも、ただ善知識は会長先生だけとお聞きしていましたので、へ〜そうなの? と、興味が出てきました。

「次第相承の善知識」という文言はあなた様もあげられる「改悔文(領解文)」にございますね。そもそも善知識とは何であるのか、そういったことの仔細を申されたのは三代目覚如様の御著書あたりからであります。

『もろもろの雑行・雑修、自力のこころをふりすてて、一心に「阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生御たすけそうらえ」とたのみもうしてそうろう。たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、このうえの称名は、御恩報謝とよろこびもうし候う。この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、御開山聖人御出世の御恩・次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたくぞんじ候う。このうえはさだめおかせらるる御おきて、一期をかぎりまもりもうすべく候う。』(改悔文)

短い文章でありますが、蓮師が御開山御一流を頂いた同行に対して発せられた名文でございます。正信を頂けば明らかに知られたり。となるものであります。当流の掟を守ることもきちんと記されております。当流の掟とは御文に蓮師がうるさいほど何度も申されております。それは時代を隔てても何ら変わらぬものであります。掟もない。何もかんも開かれておると言えばそれは既に御開山御一流では無くなるのであります。

基本的に仏教には「口決面授」と申すことがございまして、ある日突然自流を立てる輩が出んように配慮されております。真宗もそれに同じであり、ある日突然、自流を立てた善知識と名乗る者が現れんようになっております。当流における次第相承の善知識は脈々とその流れを受け継いで今でも全国にたくさんおられます。あなた様のお隣の爺さんかも知れません。どこぞの坊さんかも知れません。

よくよく身分の上下を問わず、後生の一大事解決する為にお求めにならねばなりません。

>私は、りっぱな会場や、色々な施設がどんどん出来ていくことに、どうしても違和感があるのです。

立派な施設ができる。便利な交通網が整備されておる。素晴らしいことではありませんか。しかし、そういうことの是非に捉われるより先に当流では信をこそ先とせねばなりません。我等の命は一刹那に縮まる短命の機であります。明日をも知らぬ命であります故に急げ急げ。ただそれだけであります。

>私は、そんな施設よりも、じっくりと、親鸞聖人のお話が聞きたくて入会したのです。

御開山の御一代の物語はそれはそれは御苦労の連続で、涙なくては聞くことできんものでありますが、それを聞き、喜ぶを持って信とは申さんのであります。

当流の信とは第十八の願を頂くことであり、それは南无阿弥陀佛を頂くことであるのです。当流にはこれ以外何もございません。南无阿弥陀佛が始まりであり全てであります。
これ以外を信の体にすればそれは真宗のようで真宗ではなくなるのであります。

南无阿弥陀佛

●re.14
今日子
非公開の非公開
[ 159 ] ご返事とても嬉しいです。 2007/12/20 (Thu) 16:34 △up ▽down
泥凡夫様


私は、高森先生以外に、今、元親鸞会専任講師のHPや、インターネットからも聴聞出来るHPも又、参考にさせて頂いています。


>では、聞というのはどんなきゝ方かと申しますと、心のドン底へ阿弥陀仏のジカの呼び声が響き亘るきゝ方をいゝます。
> 聴は上辺の心が善知識の御教化をきいて、合点して有難がっているきゝ方ですが、聞は下の心のドン底に、阿弥陀仏の呼び声が、きこえた時のきゝ方をいうのです。

上記のようなお話を聞いています。
(親鸞会ナビから、そのような箇所はいくらでもリンク出来て読むことができます、泥凡夫様におかれましては、あまり興味ないかも知れませんが、若し、ご参考に読んで頂けたら、私が説明しなくても、理解して貰えると思います)

私が、矛盾を感じてしまうのは、なぜ会長先生から離れたのに、その内容が一緒だと思えることなのです。

私は、下の心のドン底が、まず分りませんでした。

どこを以ってドン底なのでしょうか?
これでは、自分で計らったものではないかと思います。

又、毎日様にも、お願いしていますが、丁度、同じように上記の人達も、HPを立ち上げて下さったので、親鸞会の講義内容を知らない、毎日様にも、参考になると思い、やはりインターネットの時代にあった、「信心の沙汰」が出来るのだと思います。


私は、なぜ善知識でなく「次第相承の善知識」とまで、領解文(改悔文)に書かれたのか、又、

>基本的に仏教には「口決面授」と申すことがございまして、ある日突然自流を立てる輩が出んように配慮されております。真宗もそれに同じであり、ある日突然、自流を立てた善知識と名乗る者が現れんようになっております。当流における次第相承の善知識は脈々とその流れを受け継いで今でも全国にたくさんおられます。あなた様のお隣の爺さんかも知れません。どこぞの坊さんかも知れません。

上記の泥凡夫様がお示しのように、きっと、それは「口決面授」として脈々と継承されたものだから、このように泥凡夫様から教えを頂けるような気がするのです。

おやおや様も、毎日様に質問しているように、私も「御示談」を聞かされているのではないかという思いが拭えません。

私も、おやおや様のように、親鸞会で聞いています。

私も、真宗の真髄を知りたいと思います。

>「南无阿弥陀佛が始まりであり全てであります。」

もっともっと詳しく、知りたいです。

お時間あった時で構いませんので、宜しくお願いします。

●re.15
今日子
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[ 161 ] リンク先を読んでの質問です。 2007/12/20 (Thu) 16:33 △up ▽down
http://seppou.com/04kouza/14.html


>あわれあわれ存命の中に、皆々、信心決定(しんじんけつじょう)あれかしと朝夕、思いはんべり。まことに宿善まかせとはいいながら、述懐の心、しばらくも止むことなし (御文章4帖目第15通)
> これは、蓮如上人の『御文章』の御言葉です。全5帖ある『御文章』の、4帖目の最後に書かれています。『御文章』は、蓮如上人のお手紙を編纂したもので、1帖目から4帖目までは日付順、日付が入っていないものは5帖目に収録されています。ですから、4帖目の最後ということは、これより後に書かれた御文章はないということです。いわゆる最後の筆のあと、御遺言ということになるのです。


このようなお言葉を聴いてから、会長先生の御説法が始まります。
私も、ずっとそれが蓮如上人の御遺言だと思っていました。

しかし、そうなのでしょうか?
インターネットで調べてみました。
帖外御文もあります。
私は、そう聞かされてきたからそう思うのであり、一度も疑うことなく、信じてきたのではないかと思うようになりました。

私は、この箇所を読んでみて、いつもの高森先生の御説法と寸分違わないのに、驚いています。

それでしたら、きっと親鸞会からも信心決定されている方が出てきて当然だと思います。

しかし、毎日様やおやおや様が、泥凡夫様や愚尼様が言われる「割符」に合うという言葉が、皆無なのは、何故でしょうか?

そこで、毎日様、若しくは泥凡夫様に質問があります。

>この信心を獲得(ぎゃくとく)せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり (御文章2帖目第2通)

私は、このお言葉の真意を知りたいと思います。

私の友達は、このお言葉で、随分苦しんでいます。
私も又、自分の行く道を模索している原因のひとつです。

親鸞会を辞めたくても辞められないのは、このように聞いてきたからです。
そして、八万劫中、無間地獄で苦しむという。
だから、どうしても信心決定することが、人生の目的だと、否応無く、いつの間にか、そのような思いになっているのです。

蓮如上人は、私達を、苦しめる為にこのようなお言葉を残されたのでしょうか?


●re.16 admin 
毎日
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[ 162 ] Re1:リンク先を読んでの質問です。 2007/12/20 (Thu) 17:33 △up ▽down
今日子 様

>この信心を獲得(ぎゃくとく)せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり(御文章2帖目第2通)

たとえ話しを申します。

儲け話しに目がくらみ、退職金を投じて起業、あるいは、投資しようとしている方がいるとします。

私なら、その方にこう言うでしょう。

「起業には、数万円もあれば十分です。お客さまは、店舗に惚れて、来てくださるわけではないのですから」

商売における信心に相当するものは、「お客さまによろこんでもらいたい。お金以上の価値を感じてもらいたい」という気持ちなのです。

そうして、お客さまのために、10年力を尽くせば、お得意様もできます。

一方、大金を投じようとしていますが、欲に基づいているために、失敗すること明らかな方がいるとします。しかし、欲に目がくらんでいますので、そんな話しは聞こうともしません。

ここまでが、たとえ話しの前半です。

しかし、今日子様のご友人は、「起業には、数万円もあれば十分です」「まず、成功している人に話しを聞くことです」という2つのことを聞いていて、それでいて、成功している方に会うことができず、このままでは、資金がやせ細ってゆくばかりである、という方に似ています。

次に、別の観点からのお話です。

地獄のお話を聞かされるまでもなく、敏感な方は、漠然と、死後のことに不安を抱いています。死後だけではありません、現世における未来に対しても、不安を抱いています。

地獄のお話をするのは、この不安を、はっきりと自覚していただくようなものです。

ですから、準備のできていない方にそのようなお話をするのは、相手の方の苦しみを増大させることになりますから、よくありません。

釈尊の「正語」は、「正しいことを話すように」ということではないのです。「嘘はつかないように」「仲違いさせるようなことを言わないように」「わかりにくい表現はしないように」「悪口は言わないように」というご指示です。

では、既に苦しみを増してしまっている方には、どうしたら良いのでしょうか。

「いとも簡単に、凡夫が救われる道があるんですよ」ということを、お伝えしてあげてください。

もちろん、信じないことでしょう。

それでも、軽いタッチで、幾度でも、言ってあげてください。

一度や二度、あるいは、百たびや二百たび、あるいは、二千回、二万回、あるいは、二百万回申しても、信じないのがふつうです。

そうして、その方にわかっていただくために、必要であれば、教えを学び、ご聖教を学ぶのです。

当流では、救いそのものは易行です。ご聖教は、ご方便です。そもそも、南无阿彌陀佛そのものが、無上方便なのです。

ですから、救われた方が、救いたい方にわかっていただくために、教えを勉強するのが本当です。

難信之法が信じられないのは、当たり前です。ですから、信じない方を批難するのではなく、なんとかわかっていただこうと、自分の側が勉強をして、お話することになるのです。

信心いただけるのは、そうした永い永い御養育のおかげです。

先の者が、後の者を助け、後の者が先になり、先の者が後になり、弥陀の救いは、伝えられてきました。

そして、いつか興味を示すときが来ましたら、「南无阿弥陀仏の本当の意味を、聞き開いてください。たのめば、教えてくださいます」と、言ってあげてください。

蓮師がそのようなお言葉を残されたのは、もちろん、私たちを苦しめるためではありません。

実際、ほとんどの方は、地獄に堕ちるのです。

せっかく真宗にご縁があっても、説法聞いて堕ちてゆく。なんと残念なことでしょう。

ですから、「信を取れ、信を取れ」とおっしゃっているのです。

もともと、この世は苦しいのです。ですから、苦しいのが当たり前ですが、それを見つめるか、無視するかの違いです。

苦しくても、衆生済度のためであれば、意味が出てくるではありませんか。

苦しんでいるご友人が、楽になるには、南无阿彌陀佛しかありません。

しかし、なかなか耳を傾けようとはしないでしょう。

ですから、ご方便を工夫することになるのです。

とは言え、ご方便とは、嘘ではありません。

戒を守れぬ私たちですが、だからと言って戒を投げ捨てるのではなく、守れない自分を嘆きながら、それでも守ろうとするものだと思います。

このとき、弥陀の摂取不捨が、どれほどありがたいものであるか、感じられてくるのです。

不妄語戒を、どうか忘れないで下さい。

南无阿彌陀佛

●re.17
今日子
非公開の非公開
[ 163 ] 不妄語戒の意味は? 2007/12/20 (Thu) 21:03 △up ▽down
毎日様

上記の意味が分りません。
辞書で引いても出てきません。

私は、毎日様が「辞書で調べて見て下さい」

と言われ、お蔭様で、調べて見る癖が出てきました。

又、インターネットは、そういう点では、すごく便利だなと思います。

例えば、釈尊が菩薩であった時の、経典(法華経等)を拝読したり、色々な方が、他方面から、仏教を勉強されているHPを見れることも、とても視野が広くなり、本当にこんな時代だからこそ、このようなHPも探せたのだと感謝しています。

調べて分ったことですが、

例えばこういう事もありました。

御文1−4
真実信心の行者は一念発起するところにてやがて摂取不捨の光明にあづかるときは・・

上記のやがては

古語辞典では、このように説明してありました。
現代語では中世以降のCの意で用いるが、時間的にも状態的にも隔たりがなく、前に引き続くさまをいうのが@、時間の連続のさまをいうのがA、もっぱら連帯修飾語として二つの事象の連続のさまをいうのがBの用法。
そのまま。引き続いて。・・@
すぐに、さっそく。・・・A
ほかならぬ。とりもなおさず。すなわち。・・・・B
まもなく。そのうち・・・・C

この場合、私はすぐにの説明が妥当なような気がするのですが、
これも、調べて見ての結果です。

このように、歴史上、意味も変わってくると思います。
しかし、だからこそ、
「次第相承」が大事であり、「口決面授」が大事ではないかと想像するのです。

善知識が弥陀の御代官と言われる所以も、そこにあると思うのですが。

又、掟に関していえば、

秘伝というものは、真言密教というお言葉や、武術や料理にも、色々、秘術や、秘伝の味とかあるので、泥凡夫様の書込みには、すごく納得できます。

何だか、まとまりつかなくて済みません。

要は、私は友達に自分で探してみたらと勧めています。

おかしいと思ったら、調べてみたり、尋ねてみたりして、納得して欲しいと思ったのです。

若し、教えが正しいのなら、どうして私の友達のように苦しむ人が出てくるのか。

しかし、なかなか腰を上げませんので、まず私が先頭だって質問しているのです。

私は、何でも鵜呑みにしないで、もう一度、自分の目で確認して欲しいと思っています。

●re.18 admin 
毎日
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[ 164 ] Re1:不妄語戒の意味は? 2007/12/21 (Fri) 00:00 △up ▽down
今日子 様

不妄語戒というのは、「嘘は言わないようにしましょう」というだけのことです。

辞書を引くとしたら、「十悪」を引いてみてください。

「戒」というのは、凡夫には守りきれません。

守りきれませんが、守ろうとすることにより、自らを観察することができるようになります。

守ろうとする気持ちと、破ろうとする気持ちと、両方が自らの中にあることが、だんだんわかってくるのです。

弥陀の救いは、凡夫を戒を守りきれないそのままの心で、救い摂ってくださるというものです。

インターネットは、本当に、とても便利であると思います。

「やがて」は「(そのまま)すぐに」の意味であると、私も思います。

次第相承は、尊いことです。そうやって、法を守ってきてくださった方々のおかげで、私たち凡夫が救われるのですから、どれだけ感謝しても満足できないと思っています。

このご恩、どうしたら良いのでしょうか、どうすることもできませんが、何とか御恩返ししたいものだと思います。

掟は、隠すためのものではなく、誹謗させないためのものです。

誹謗するくらいの方ですから、自らが何をやっているか、全然わからないのです。

「宿善の有る無しを見る」というのは、相手に誹謗させないためで、誹謗する方であるかどうかをよくよく見て、少しずつ話さねばなりません。

そうしなければ、相手を助けるつもりで、相手にものすごい悪行を奨励していることになってしまいます。

お友達のために先頭だって質問するのは、素晴らしいことだと思います。

自らにも、知りたい気持ちがあるはずですので、表現に気をつければ、嘘にはなりません。

まわりの方のために質問するのは、仏教の伝統でもあります。

本物の教えで苦しむのは確かにおかしいのですが、それも、わかるようにならないと、わからないのです。たとえば、戒を守ろうとすると、観察の力が伸びますので、そういうことも見抜けるように育ってきます。

今日子様のご質問のおかげで、今日子様のご友人だけでなく、その他の有縁の方にも、役に立つと思います。もちろん、私にも、とても役立っています。心より、感謝致します。

南无阿彌陀佛

●re.19
泥凡夫
非公開の男性
[ 165 ] Re2:不妄語戒の意味は? 2007/12/21 (Fri) 19:20 △up ▽down
今日子 様

こんばんは。泥凡夫でございます。
いろいろ御聴聞とのこと、頭が下がります。

私の申すことはあくまでも私がよき人を通じて信じておることであり、強制されるものでも何でもありません。聞きたければ聞けばよし。無理に信じて頂く必要もさらさらありません。

私はかつてジャンヌで求められた方々にも申し上げましたが、インターネットだけで信は獲れません。あくまでも正意であると感じられた宿善の機が法を求める御縁となるものでしかありません。善知識に逢い奉り、六字の謂れを聞き開き、弥陀をたのむが念仏であります故に。

では法を求めるにあたって、どのように善知識を探せばよいのか。我は善知識なり。と看板は掲げておりませんので御自分で有縁の善知識をお探しになるしかありません。一番の近道は往相に手を引かれ還相に逢うことであります。

往相・還相廻向はすべて弥陀の本願力によるもの。
あなた様も朝晩あげられる正信偈にもありますね。『往還廻向由他力』と。
教学もされておると思いますので「教行信証-教巻」の書き出しも引きましょう。

『謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり。』

と御開山は申されております。
また、「高僧和讃」においてこのようにも言われております。

『弥陀の回向成就して 往相還相ふたつなり これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ』

別に深くその意味を知らねばならぬ。ということではないのです。
そういう本願力の廻向が働いておるのだと思って頂くだけで結構でございます。
往相は既に往生一定と一念の信定まった人。還相とは次第相承の善知識が弥陀の代官として行者に弥陀に帰命せよ。と勧める。この廻向に逢ってこそ一大事を解決できるのであります。

>>では、聞というのはどんなきゝ方かと申しますと、心のドン底へ阿弥陀仏のジカの呼び声が響き亘るきゝ方をいゝます。
>> 聴は上辺の心が善知識の御教化をきいて、合点して有難がっているきゝ方ですが、聞は下の心のドン底に、阿弥陀仏の呼び声が、きこえた時のきゝ方をいうのです。
>
>上記のようなお話を聞いています。
>(親鸞会ナビから、そのような箇所はいくらでもリンク出来て読むことができます、泥凡夫様におかれましては、あまり興味ないかも知れませんが、若し、ご参考に読んで頂けたら、私が説明しなくても、理解して貰えると思います)

はい。この釈は何度も聞き及んでおります。
かつてジャンヌでもこれに関して、いろいろとお話しさせて頂きました。
なるほど。比喩としては宜しいように思われますが、これがもしも個人的な精神体験のようなものに沿って申されておるなら、単なる自流を立てただけとしか申し上げようがございません。

是非は私には分かりませんが、個人的精神体験に則して申されるのならば「論註」に言われるところの正法誹謗になるでしょう。しかし、親鸞会様の釈に対する是非は知りません。としか申し上げようがありません。 詳しく知らないからであるということではなく、私のあずかり知らぬことであるとしか申し上げようがないのです。

『問ひていはく、なんらの相かこれ正法を誹謗する。答へていはく、もし仏なく、仏の法なし、菩薩なく、菩薩の法なしといはん。かくのごとき等の見、もしは心にみづから解し、もしは他に従ひて受け、その心決定するをみな正法を誹謗すと名づく。』(論註 上巻 総説分)

『正法を誹謗する人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽きぬれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経とも。仏(釈尊)、出づることを得る時節を記したまはず。誹謗正法の罪きはめて重きをもつてのゆゑなり。また正法はすなはちこれ仏法なり。』(論註 上巻 総説分)

とありますように、御存じのとおり仏法誹謗の罪は比類なき重きものであります。
当流に定めおかせられる御掟は正にこれを防がんがための深い深い御配慮であります。

さて、「聞」ということはどういうことであるのか。御開山は「教行信証-信巻」でこのように申されております。

『しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり』

おお。なるほど。我等罪深き下根の凡夫がために起こされた本願。これを一生懸命聞き抜いて疑う心が無くなれば「聞」になるのだな。一見してみればそのようにもとれるでしょう。すると・・・やり始めます。疑わじ疑わじと。残念ですが無駄な努力であると申し上げておきます。残念ながら、我等は三毒より生じる煩悩を具足しております。何かを疑う煩悩を「疑煩悩」といいますね。これだけすっぽり抜け落ちることは絶対にないと私は明言しておきます。いかなる状態になろうとも、凡夫の心など容易く揺れ、崩れてしまうのです。

改邪抄の19より抜粋して引きます。

『いまきこゆる邪義のごとくは、「煩悩成就の凡夫の妄心をおさえて金剛心といい、行者の三業所修の念仏をもって一向一心の行とす」と云々 此の条、つやつや自力・他力のさかいをしらずして、人をもまよわし、われもまようものか。そのゆえは、まず「金剛心成就」という、金剛はこれたとえなり。凡夫の迷心において金剛に類同すべき謂なし。凡情はきわめて不成なり。されば大師の御釈には、「たとい清心をおこすといえども、みずに画せるがごとし」(序分義)と云々 不成の義、これをもってしるべし。しかれば、凡夫不成の迷情に「令諸衆生」の仏智満入して不成の迷心を他力より成就して、「願入弥陀界」(十四行偈)の往生の正業成ずるときを、「能発一念喜愛心」(正信偈)とも、「不断煩悩得涅槃」(同上)とも、「入正定聚之数」(論註)とも、聖人釈しましませり。これすなわち「即得往生」の時分なり。この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといえども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、「共発金剛心」の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力をすてて他力に帰する」ともなづけ、また「即得往生」とも、ならいはんべれ。まったくわが我執をもって随分に是非をおもいかたむるを他力に帰すとはならわず。これを金剛心ともいわざるところなり。』

難しく考えんでも宜しいです。凡夫はいかなる心をもってしても金剛心にはなれんのであります。なったと思い込まれるのは結構でありますが、先に引いたところの正法誹謗になってしまうでしょう。

>私は、下の心のドン底が、まず分りませんでした。
>
>どこを以ってドン底なのでしょうか?
>これでは、自分で計らったものではないかと思います。

私の言わんとすることろを縮めればあなた様の言われることになります。
かつて、ジャンヌでも書きました。
ある人が、「素晴らしい世界に躍り出れた!!何と有難いのだろう!!」と、このように申されたとしましょう。はて。他人にしてみれば何のことを言っておるのか分かりません。言っておる当人は必死で伝えんとしますが、伝わるわけがないのです。禅宗ではありませんので以心伝心はできませんし、そもそも他者の心の状態など計ることなどできんのです。
私がどれだけ美しいと言っても、それは私の主観であって、あなた様にはそのように映らんかもしれません。

当流の信は誰もが平等に助かるようにできております。また、明らかに同じ信心であると分かるようにできております。それは私の心の状態と、例えば毎日様の心の状態とが同じであると言うことではないのです。二種深信が立っておるかで信を計ることが成されておる場所もあるようでありますが、その計る相手ですら凡夫の三業をもって見ておるのであり、真実は一切見えてはおりません。喩えが悪いと思いますが、盲目が盲目を見ようとして云々言っておるようなものです。当流の往生は弥陀が定めたもうものであります。

>>「南无阿弥陀佛が始まりであり全てであります。」
>
>もっともっと詳しく、知りたいです。

次第相承の善知識に逢い奉って、六字の謂れを聞き開いて下さい。
当流では出家・在家の別もありませんし、聖教を知った分かったとやりましても往生の一段には何の役にも立ちません。一切はただ南无阿弥陀佛の六字を信じさせるための方便でございますので。

さて、「必堕無間」の件で悩まれておる様子。
別に蓮師は我等を苦しめるために御文を残されたのではありません。
思いますに、私共のような下根の凡夫は何を成しても悪しか造れませんし、日々、他者を泣かせて、己だけ良ければそれで良いと生活し、嘘をつき、妬み、恨み、盗った盗られたと生活しておるのです。しまいには、正法を誹謗し、他宗他門を誹謗し、自損損他の咎を逃れ難きを犯しております。これほどの罪、堕ちる場所はどこであろうと、我等の力ではどうすることもできんではありませんか。

罪の軽重に心を奪われるより、我身の罪深きことをば打ち捨てて佛に任せ参らせる。という一念の信、有難い六字の謂れをこそ聞き開かねばなりません。

真宗に御縁あって一生懸命説法聴聞されるも御縁でありますが、信なくば残念ながら皆堕ちねばなりません。堕ちる堕ちないに心奪われておる時、大抵やってるのです。私はこれだけ念仏称えた。これだけ布施をした。これだけ善行を積んだ。何人も真宗にお手引きをした。残念ですが、そういった自力作善は往生の因にはならんのです。

ご存じのとおり、我等凡夫は無明業障の恐ろしき病というものを持っております。病というのは喩えでありますが、詰まるところ、本願を疑い、絶対に本願力に逢わせない病であります。人間は何か特別な状態になったりせんと信じられん哀れな存在です。光明が見えた。佛が拝まれた。素晴らしい日本晴れの心になった。そういうことがないと信じられんというのは、逆にいえば、本願力を疑っておるすがたそのものなのであります。

当流は難思議往生とも言われますように、往生ほどの一大事は凡夫の計らうことではないのであります。佛の方より往生一定と定めて頂いた上には、良きにつけても悪しきにつけても、そういうことには目をくれずただ仰いで尊むだけでございます。

罪の意識に心奪われるのは、自力作善の方々のやることでございます。
当流は義なきをもって義とするのであり、罪の沙汰は無益でございます。大なり小なりの罪ではなく、我等は本願を疑う恐ろしき罪を持っております。些細な罪ですら自分ではどうにもならんわけでありますから、ただ弥陀をたのめ。そういうことでございます。

当流の南无阿弥陀佛は「たのむ・助ける」でできております。「喜べ・助ける」ではありません。そこには一切の差別がありません。老少善悪の人を選ばず。よぼよぼの御老体であろうが、赤子であろうが、認知症であろうが、障害があろうが、関係ありません。
当たり前です。あらゆる衆生を助けるの本願でありますので。

長くなりました。申し訳ございません。

南无阿弥陀佛

●re.20 admin 
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 166 ] Re3:不妄語戒の意味は? 2007/12/22 (Sat) 01:48 △up ▽down
泥凡夫 様

貴重なお書き込み、ありがとうございます。

心より、感謝申し上げます。

南无阿彌陀佛

●re.21
おやおや
非公開の非公開
[ 167 ] Re4:不妄語戒の意味は? 2007/12/22 (Sat) 02:27 △up ▽down
>泥凡夫 様
>
>貴重なお書き込み、ありがとうございます。
>
>心より、感謝申し上げます。
>
>南无阿彌陀佛


毎日様

同じ時間帯に起きていて、この掲示板に書き込み入れていたんですね。

僕も、泥凡夫様の書込みはすごく有り難いですし、本当に嬉しいです。

何故か、いつもいつも僕は泥凡夫様からお叱りを受けているようで、ビビッってしまうのです。
きっと、何かの因縁かも知れないと思います。

だって、毎日様の書込みには、

「神通のある身同士、今度はどこに済度に往こうかと、楽しいご相談です」

って書かれていますが、どうも僕は、本当に今生が流転輪廻の打ち止めのような気がしています。そして、ようやく弥陀のお側にいけるような気がしています。

僕は、きっと、泥凡夫様と毎日様が、ご相談されて、僕を導いて下さったのだろうと、最近は思っています。

でも、これって楽しいことでしょう。

この日本の中で、年齢も、性別も、学歴も、住む環境も全く違い、どこに住んでいるかも知れない3人が、こうして同じ掲示板で会話できる素晴らしさ。
まるで、御文に書いてあるようですね。

もう、僕はこれ以上の満足は有りません。

泥凡夫様、僕はいつも泥凡夫様のこと忘れたことなど有りません。

どうか、この掲示板の行く末と、僕の事も忘れないで下さいね。

●re.22
現代人
関西の男性
[ 168 ] Re5:不妄語戒の意味は? 2007/12/22 (Sat) 07:51 △up ▽down

>毎日様
>
>同じ時間帯に起きていて、この掲示板に書き込み入れていたんですね。
>
>僕も、泥凡夫様の書込みはすごく有り難いですし、本当に嬉しいです。


同感です。

私は、現代的に解釈されるところの教えに触れてきました。
最近では、どうして心底から満たされないのか段々と見えてきました。
色々と理屈をこねあげてばかりで恥ずかしい限りです。

「自力を捨てて弥陀を頼め」 耳がタコになるほど聴いてきたのに。

●re.23
泥凡夫
非公開の男性
[ 169 ] Re6:不妄語戒の意味は? 2007/12/22 (Sat) 10:57 △up ▽down
毎日 様

こんにちは。

>貴重なお書き込み、ありがとうございます。
>
>心より、感謝申し上げます。

いいえ。こちらこそありがとうございます。
私もただの凡夫でございますので、誤りもあり喩えも上手くありませんので分かって頂けんことも多々ございます。誤りはお気づきの時に指摘して頂ければ有り難いと思います。私の話は毎日様も御存じの先達の足跡にございます、所謂、真宗の「甘い果実」のお話に過ぎません。有縁の方々には、果実に酔わず、きちんと往生の正因たる南无阿弥陀佛という「種」まで食べて頂くことを願って止みません。

おやおや 様

こんにちは。泥凡夫でございます。

>何故か、いつもいつも僕は泥凡夫様からお叱りを受けているようで、ビビッってしまうのです。
>きっと、何かの因縁かも知れないと思います。

誠にあいすいません。何も叱ってはいないのですが、そうとられるのは私の不徳であろうと思います。

私がかつて御縁あった方々にお話させて頂いたのは、我が命を掛けてでも正意を頂いて欲しいと思ったからでございます。但し、いくら私が身命を賭してもこればかりは御縁であり、宿善任せでございますので如何ともし難いこともございます。

また、私のお話はあくまでも縁であり、私の功など何処にもありは致しません。
願わくば、正意に帰されたのであれば弥陀に感謝申し上げて頂きたいと思います。
あらゆる事象も全て正意を頂く御縁になるものでありますので、今まで通られた道、御縁あった方々にも同時に感謝申し上げて欲しいと思います。

当流の念仏者は無碍の一道なりと御開山は申されております。
それは「摂取不捨」のお誓いの故であります。

改悔文にございます通り、『このうえの称名は、御恩報謝とよろこびもうし候う。』でございます。信後、行住坐臥に申す念仏はすべて御恩報謝になるのであります。尊いことではございませんか。喜ばねばなりません。

念仏申す私には何の価値もございませんが、その念仏は実に十方世界に響き渡るのであります。

御縁のある方の助けとなれば宜しかろうとの想いで毎日様が御苦労されて出来上がったこの掲示板でございますが、行く末を案じ努力でカバーしても、熱意を持って取り掛かっても、それも御縁でありますので、あれこれ思案しても致し方ないのであります。

なるようになる。それで宜しいではありませんか。毎日様も同じ想いでおられるはずです。

現代人 様

こんにちは。泥凡夫と申します。
かつて、ジャンヌでお出ましになられた現代人様でしょうか?
違ったら申し訳ありません。

>私は、現代的に解釈されるところの教えに触れてきました。

現代語訳されたものが良いとか悪いとか、そういうことは私には分かりません。
ただ、御開山御一流の流れを汲んだ人が釈したものでなければ、まったく違った内容に変貌を遂げることは明らかであります。ただ、それを信じるも信じないも現代人様の御縁でありますので是非には及びません。

>最近では、どうして心底から満たされないのか段々と見えてきました。
>色々と理屈をこねあげてばかりで恥ずかしい限りです。

心底満たされるを持って当流の信とは申しません。それでは単なる自力信の域を出ないのであります。私が昨日書きました所と何等変わりはしないのです。あなた様は考えることすらままならん認知症のお方では助からんと申されますか。同じく母親の胸に抱かれる赤子は助からんと申されますか。過去世の御縁で重い障害を負ったお方は助からんと申されますか。心底満たされるのは弥陀の浄土に往生してからにしましょう。

大経願成就文を引きます。

『諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆 誹謗正法』

「諸有衆生」とは十方のあらゆる衆生のことでございます。そこには何の差別もないのであります。助かる人に差別があるようであれば願成就文がおかしいのではなく、教えられておることが誤っておるのです。

当流は弥陀をたのむが念仏でございます故に。

蓮師は御文で何度も何度も当流の信とはかくの如し。と申されております。信前の方々には半分分かって半分分からんような微妙な表現に見えると思いますが、正信を頂けば、今こそ明らかに知られたり。とお分かりになるようにできております。定めおかせられる御掟、つまり抑止(おくし)を守って書かれておるのですからそれは当然のことであるのです。

>「自力を捨てて弥陀を頼め」 耳がタコになるほど聴いてきたのに。

自力の捨てようも弥陀をたのむ謂れも全て伝わっております。自力を自分で捨てられるのであれば弥陀など必要ございません。捨てられん故に弥陀をたのむのではありませんか。

「五重の義」を蓮師はお建てになられました。この五つが揃わんと往生は叶わず。そう申されております。一大事の後生です。命一刹那に縮まる我等でございます。のんびり説法聞いておる間にも無常の風は吹き荒れております。一刻も早く、一生涯にただ一度の「聞」を成して頂くことを願っております。

南无阿弥陀佛

●re.24 admin 
毎日
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[ 173 ] Re7:不妄語戒の意味は? 2007/12/22 (Sat) 22:26 △up ▽down
泥凡夫 様

甘い果実のみを本体と思い、肝心要の種を食べることなく命終を迎える方が後を絶ちません。

あっちの果実はうまい、こっちの品種が最高だ、そのような議論ばかりです。

幹を生やし、枝を伸ばし、葉をつけ、実をつけるのは、正に種であり、決して果肉ではないのですが、固いですし、見た目がわるいからでしょうか、信じていただけません。

この種を砕き、やわらかくして、凡夫に与えてくださるのが、善知識様であります。

誠に尊い方々です。

南无阿彌陀佛

●re.25 admin 
毎日
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[ 174 ] Re8:不妄語戒の意味は? 2007/12/22 (Sat) 22:24 △up ▽down
補足でございます。

先程の喩えの「種」とは、南无阿彌陀佛でございます。

ああだこうだと、南无阿彌陀佛について、味わい、想像し、また称えてもみるのですが、南无阿彌陀佛そのものを、いただく方がなかなかおりません。

ただ称えても、六字と一体にはなれません。では、どう称えたら、南无阿彌陀佛と一体になれるのか。

凡夫には、「南无阿彌陀佛」と言われても、また、「六字とひとつになるのです」と言われても、「機法一体の南无阿彌陀佛」と言われても、何のことかわかりません。

あれこれ想像して、正信から離れてゆくばかりです。

「これだ!」とつかんだつもりになり、おおよろこびしたりしてしまえば、かえって自障障他になってしまいます。それであれば、わからないままの方が良かったのです。

次第相承の善知識にお会いして、その謂れを聞き開くことが肝心でございます。

南无阿彌陀佛

●re.26
泥凡夫
非公開の男性
[ 175 ] Re9:不妄語戒の意味は? 2007/12/22 (Sat) 23:01 △up ▽down
毎日 様

>甘い果実のみを本体と思い、肝心要の種を食べることなく命終を迎える方が後を絶ちません。
>
>あっちの果実はうまい、こっちの品種が最高だ、そのような議論ばかりです。

>ああだこうだと、南无阿彌陀佛について、味わい、想像し、また称えてもみるのですが、南无阿彌陀佛そのものを、いただく方がなかなかおりません。

残念ではございますが、これも宿善任せであるとしか言いようがないのであります。易行の門を難行の門に変えてしまっておる人もおられますし、誠に十八願までの聞き手は少ないのであります。釈尊の申される通り、難中の難、これに勝る難なし。でございます。抑止を取り払ってでもできるだけ多く有縁の方々の手を引きたいとも思いますが、そこは抑止門がある以上、正法誹謗の罪を犯させるわけにも参りませんので苦しいところでもございます。そもそも抑止の働かん信などあり得ないのでありますが。

>あれこれ想像して、正信から離れてゆくばかりです。

>「これだ!」とつかんだつもりになり、おおよろこびしたりしてしまえば、かえって自障障他になってしまいます。それであれば、わからないままの方が良かったのです。

誠に自損損他の咎を逃れられません。しかしながら、宿善の機ありて...と蓮師の申されることを私はジャンヌであからさまに見させて頂きました。宿善の機は今までの知った分かったをとりあえずかなぐり捨てて法を求められました。弥陀に背中を押されたのですね。難中の難ではございますが、必ず正意に気が付かれ求める方が出て参ります。

>次第相承の善知識にお会いして、その謂れを聞き開くことが肝心でございます。

私もかつてジャンヌでうるさいほど申して参りました。秘事法門が気になってあれこれ計らってみたりもされておる方も多くおられました。確かに越前に広まった秘事法門(不拝秘事)や京都周辺の土蔵秘事(光明秘事)、岩手の隠し念仏、その他正意と思っておっても他流との混血状態の場所、もろもろございますので悔しい想いも致しますが、勝手に自流を立てればいつの日かそれは変質し、御開山御一流とまったく違ったものになり果てるのであります。

御一流の流れを汲んだ次第相承の善知識に逢い奉るも難中の難でございます。

南无阿弥陀佛

●re.27 admin 
毎日
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[ 176 ] Re10:不妄語戒の意味は? 2007/12/22 (Sat) 23:50 △up ▽down
泥凡夫 様

>>「これだ!」とつかんだつもりになり、おおよろこびしたりしてしまえば、かえって自障障他になってしまいます。それであれば、わからないままの方が良かったのです。
>
>誠に自損損他の咎を逃れられません。しかしながら、宿善の機ありて...と蓮師の申されることを私はジャンヌであからさまに見させて頂きました。宿善の機は今までの知った分かったをとりあえずかなぐり捨てて法を求められました。弥陀に背中を押されたのですね。難中の難ではございますが、必ず正意に気が付かれ求める方が出て参ります。

なるほど、そうですね。これは私が浅はかでございました。

善知識に逢い奉り叶いましたこと、ただただ感謝するばかりです。

南无阿彌陀佛

●re.28
現代人
関西の男性
[ 178 ] Re11:不妄語戒の意味は? 2007/12/23 (Sun) 08:01 △up ▽down
泥凡夫様

ご教示有難うございます。

仰るとおり、ジャンヌにて理屈をこねていた者です。思い出したくないほど恥ずかしく
感じております。

「自力を捨てて弥陀をたのめ」 ここなんですがね。 「たのめ」といわれましても。
何かボーとしたような。頼りないような。 やはり自分の気分に引っかかるのです。
難信とは、このことでしょうか。



●re.29
泥凡夫
非公開の男性
[ 180 ] Re12:不妄語戒の意味は? 2008/09/07 (Sun) 10:46 △up ▽down
現代人 様

こんにちは。

>仰るとおり、ジャンヌにて理屈をこねていた者です。思い出したくないほど恥ずかしく
>感じております。

はい。分かりました。
過去は過去。私も忘れました。

>「自力を捨てて弥陀をたのめ」 ここなんですがね。 「たのめ」といわれましても。
>何かボーとしたような。頼りないような。 やはり自分の気分に引っかかるのです。
>難信とは、このことでしょうか。

「たのめ」を字典でお調べになられれば分かりますし、毎日様が既に別のスレッドで書かれております通り、現在のお願いする。祈願請求する。の意ではなく、頼りにする。すがる。の意に近いものであります。と、まあ理屈は分かったところで何の解決にもならんのですが。

家に帰って御内佛に向かって「どうか助けて下さい」と祈願請求しても、「私はこれだけあなたをたよりにしておりまする」と申しても単なる自力であり、往生の因にはならんのであります。

御存じのとおり、往生の正因は信心であり、これを頂くには五正行のうちの正定業たる第四の称名正行を選びとらねばなりません。これは口に称える念仏ではないことくらいはお分かりと思います。口に称える念仏では往生は極めて不定である旨を蓮師も申されておりますね。

この「称名正行」こそ真宗における「大行」であり、それは凡夫の側からは「不廻向の行」であるとも記されておりますね。御開山の釈によればこれを「真実行」とも申しますね。それはつまり南无阿弥陀佛であります。

と、まあ理屈ですよ。これは。一切の聖教はただこの六字を信じさせるための方便です。昨日、毎日様とのやり取りで真宗の「甘い果実」の喩え話をしました。御開山の一代記の涙の物語も、蓮師の御苦労物語も、先達方の御苦労話も、弥陀の法蔵比丘たりし時、無上の願をお建てになられ、兆歳永劫の御修行、五念門で出来上がった南无阿弥陀佛は皆、私達のためであった、私達は釈尊の申される通りの極悪深重の機である。これ皆、真宗の甘い果実であります。これだけ食べて満腹になって残念ながら皆堕ちるのです。知った分かったと満腹になって、少しお腹が空くと、あっちの果実が美味い。いやいや。こっちの果実が美味い。とやりますね。いつまで経っても堂々めぐり。

そういうことだけで満足して往生の因、つまり「種」を食べずにおるのが大勢の真宗門徒であります。当たり前ですが、往生の「因」を頂かんのでありますので、極楽往生という「果」は得られんのであります。そういう状態を「無因外道」と申します。

頭の中であれこれ想像したり、考えたりも結構であります。凡夫でございますので。ただ、そういう状態を続けておりますと、御自分で御自分の首を絞める機募りにもなりかねません。さらに症状が進めばもう生きるも死ぬもできんようになりますよ。

人間、追い詰められたリ、死に直面したりすると特殊な体験をすることがございます。最近の脳科学者さんがよく使うAha!!体験ですね。世界がひっくり返るような体験です。残念ですが、そういった自分の理解、個人的体験を持って当流の信とは申しません。これも無因外道であります。我が心に信を探しても何も見つかりません。と申しておきます。

難信とは易行である故に信じられん。そんなことで助かるわけがない。そうやって誹謗し、第十八願に入らんのです。また、六字のすがたを心得分けて弥陀をたのめと勧める次第相承の善知識に逢い奉ることも難中の難であります。

どうか助かってくれよ。と永い永い間叫んで、あの手この手の佛の御方便を駆使し、願っておられるのは弥陀であります。私達が助かりたい。助けて欲しい。と願う前に願われております。順序が逆なのです。往生の因、やるぞ。くれるぞ。と申されておるのは弥陀です。はい。ありがとうございます。くれたまえ(たすけたまえ)。と至心信楽お受けするだけなのです。

そういう易行の理をきちんと誤りなく脈々と伝える還相廻向たる次第相承の善知識にこそ逢わねばならんのであります。

そう私が申しても、すぐに納得頂くつもりもさらさらございません。いろいろ聞いてみるのも大事です。聖教を読み込まれるも大事です。いつの日か、そういうことを言っておる輩がおったとだけ覚えていて頂ければそれで私は結構でございます。

南无阿彌陀佛



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