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[ 2842 ] はじめまして
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2012/10/07 (Sun) 13:53
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こんにちは。初めて投稿させて頂きます。
まことの善知識にお会いしたいと探しておりましたところ、 つい先日、毎日様のこのHPにたどりつきました。
驚きました。
泥凡夫様や自信教人信様の過去ログを読み始めてすぐ 「本物がここにあった!」と。
感激、感涙、そして分からない、の思いを繰り返しながら 今日もプリントアウトして拝読させて頂いております。
私は、「極楽浄土に生まれたい」 「次第相承の善知識様にお逢いしたい」 そう思うばかりでございます。
フラフラなこの心を繋ぎとめる為、そして必ず獲信させて 頂きたいの思いで、ここに書き込みさせて頂きました。
まずは毎日様に感謝申し上げます。
まだまだわからない事ばかりです。そして怖いとも感じて おりますが、どうぞ皆様、宜しくお願い申し上げます。
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[ 2843 ] Re1:はじめまして
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2012/10/09 (Tue) 06:26
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けんいち様
プリントアウトされておられるようで嬉しい限りです。
私も初めて自信教人信様より、そのように褒めて頂きました。
でも、けんいち様。
よくよく読んで見てください。
私は菩提心と申します。
まず人を非難する必要はありませんが、法の上から私の求道過程をお話します。
私も、けんいち様と同じように、泥凡夫様と自信教人信(愚尼)様とみちくさ様の3人のやりとりを全部プリントアウトしました。(ジャンヌ掲示板)
そこを何度も何度も読んでみました。
そこでは「赤子でも助かる」ということを話していました。
今でこそ、私はその箇所を読んで、泥凡夫様も自信教人信様も「秘事法門」の事を言っているということが分かります。
そこを2か所も回ってきました。
そこでは確かに赤子でも助かるのです。
でも、私はそこで納得できませんでした。
どうしてこんなに辛い思いをして探してきたのに、まだ何にも訳が分からない乳児まで助かるのか。
私は、2回回ったところで、「領解文」のお話をされたので、いつも親鸞会では中途半端なお話で終わっていたので、そうなんだと初めは喜んでいたのも事実です。
私は、その3人のやりとりを読んで、「赤子でも助かるなら、赤子の気持ちになろう」と思いました。
それは、蓮如上人の「一文不知の尼入道」の気持ちと同じです。
赤子でも、一文不知でも、そこには何の疑いも起こしません。
ただ「われを頼め、助けるぞ」と阿弥陀様のお呼び声をそのまま受けとる事ができるからです。
長年自分で作りあげてきた知識や智慧など、何の役にも立ちません。
かえって、それが邪魔をしてなかなか信じられないのです。
分からないなら、分からないままで「南無阿弥陀仏」を称えなさい。
阿弥陀様の南無阿弥陀仏の功徳は私達の智慧では計れませんが、でも私のようにいつか導かれてこれます。
しかし、無常も又明日を待ちません。
泥凡夫様は今は一味同行として、私も時々聞きに参ります。
探している時、インターネットでは真実は教えていないと泥凡夫様からお叱りを受けて途方に暮れた時もありましたが、ご安心ください。
インターネットでも探せます。
又、泥凡夫様や観音菩薩様を検索していただくと、メールアドレスが分かると思います。
私が直接とも思いましたが、私は自分を見つめてここで書いていけたらと思っています。
けんいち様
毎日様がこのHPを立ち上げて下さった事に感謝しております。
阿弥陀様と御縁有る場所は、多ければ多いほどいいです。
毎日様のHPに魅かれて覗いて立ち去っても、それはそれでいいのだと思います。
ここを縁に自分に有った縁に導かれていくのでしょう。
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[ 2844 ] Re2:はじめまして
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2012/10/10 (Wed) 12:45
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菩提心様
ご返信頂き、有難うございます。大変嬉しく思います。
私も菩提心様と同じく、親鸞会に縁のあった者です。
「赤子の獲信」については大変難しく、その中の「一念覚知」で更に 混乱いたします。 「赤子でも助かる」のか「そんな事あるはずない」「いや、でもあるかも・・」 の思いが頭の中をグルグル回っております。 恥ずかしながら、秘事法門であるか否かも全くわかっておりません。
ですが、「赤子の気持ちになる」は心にとめさせて頂きました。 今は、教えて頂きました通り、南無阿弥陀仏を称えております。
「後生が不安だ、救われたい」 「助かりたい」 と思ってきました。 ですが、のんびり日暮ししている自分もおります。 本心から助かりたいと思っているのか?と疑問に思う事もあります。
色々計らわずに、菩提心様がすすめて下さいました通り、まず 往相の方様にメールを送らせて頂くのが良いと思えてまいりました。
こんな私に心強いお言葉を沢山下さり、有難うございます。 1歩前に進めそうな気が致しました。
感謝申し上げます。
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[ 2845 ] Re3:はじめまして
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2012/10/11 (Thu) 04:46
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1歩前に進める気持ち有難いですね。
「阿弥陀仏の本願 暁烏敏」より 近代デジタルライブラリーより
「・・・・聞く耳というのは大事なものです。耳がなけりゃ物が聞こえない。
法蔵菩薩がどんな耳が欲しいと言われたかと言うと、仏さんの御説法が聞こえる耳が欲しいといわれたのである。
仏さんの御説法はどこにあるんだと言われると、「正覚の大音、響十方に流る」。 仏さんの正覚の大音は十方に流れておる。
生きた仏さんの説法はどこにでもある。それを聞ける耳が得たい。
油断をしておっては聞こえぬ。
ところが変な耳をもっていると、とんでもないものを聞いておる。
私は今まで天耳通ということはどんな声でも聞こえる。やたらに聞こえることだと思っておった。
そうすると混線して困る。ごちゃごちゃになってしまう。混線した声を聞いておると何が出てくるやら分らぬ。
いわゆる統一がない。いろんなことは聞かんでもよい。
我々は仏の声に耳を開けばよいのである。
よく自分の心の底を考えてみますと、この願いはやはりある。
仏の声を聞けば心は明るくなっていける。
この通力を得たい。これが天耳通の願であります。」
私も観音菩薩様も、この声が聞こえたのだと思えます。
阿弥陀様の呼び声はいつでもどこでも響き渡っています。
それをいつ聞くのか?
これはずっと過去世からの阿弥陀様の御縁だから、誰にも解らないと思います。
最初、私は極楽に行きたいと願っていました。
それが地獄へは行きたくないという気持ちに変わってきました。
親鸞会では、死んだら地獄。それも八万劫中無間地獄で大苦悩を受けると聞いて苦しみました。
でも阿弥陀様は、そんな事はおっしゃっておられません。
地獄行きの私なんてもう御存じです。
その為の五劫の間、この私をどのように救おうかと考えられ、兆載永劫御修行されたのです。
けんいち様の為に用意された「南無阿弥陀仏」ですよ。
阿弥陀様はそれを受け取ってくれと、十劫の昔からお呼び続けておられるのです。
でも、それを聞く耳とは、今行動しようということじゃないかと思います。
ごちゃごちゃな情報など振り払って、自分の心の底の魂に耳を傾けて下さい。
私達には仏性が有ります。
その魂に阿弥陀様が呼んでおられるのです。
「早く帰って来てくれ」と阿弥陀様の方から頭を下げておられるのです。
きっと行動すると、けんいち様と御縁ある善知識様ともお会いできると思います。
善知識様も沢山おられます。
親鸞会で言われるような事は有りません。
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[ 2846 ] Re4:はじめまして
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2012/10/11 (Thu) 12:45
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菩提心様
ご多忙の中、ご返信頂き有難うございます。
昨夜、ふっと思ったのでございますが、 泥凡夫様はご法座を開かれておられるとの事、 私も、そちらに参らせて頂く事はできるのでしょうか。
まだまだ、私では早いでしょうか。
菩提心様の早朝のご返信を読ませていただき、私も仏様の 御説法が聞こえる耳がほしいです。
その耳とは、今行動しようとしている事と教えて頂きました。 心強いお言葉でございます、心に響きます。
まだまだ余計なことを計らう浅ましい心が出てまいりますが、 自分の心の底の魂に耳を傾けてゆきたいと思います。
今日も南無阿弥陀仏を称えさせて頂いております。
有難うございます。
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[ 2847 ] 初めまして、日本丸と申します。
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2012/10/17 (Wed) 23:02
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今晩は。御久し振りに此処に参りました。皆さんが、御元気に信心に励んでいらっしゃるのに感心をしております。以前も申しましたように、わたくしも、御念佛を信じて居りましたので、皆さんの言われている事はだいたい理解できるつもりです。私は、その前は法華経の信者でしたので、即身成佛、六根清浄の教えを良いなと思っておりました。ですので、後生の一大事を解決して、信心決定した時に得た他力の安心を有り難く思ったのですが、即身成佛の教えとこの本願他力の救いの両方を満たすことは出来ないものかと考え、あの世でお浄土に極楽往生する他力安心の救いと現世での生き佛を約束する即身成佛を合体して総合したのが、佛教の佛陀の教えを完成させた形ではないかと考えました。元々、佛陀とは全てを知り尽くした存在であるのだから、何もできない事はあり得ず、そうであれば、阿弥陀様も、当然何も出来ないことのない事実上全能の存在であるはずです。一方、法華経の言う佛陀も、全てを知り尽くしている全能の存在であり、両者は同じ全能者であると考えました。そのような全能者が一体何で、後生にしか救いが得られないとするのか、また、なぜ法華経の信者が即身成佛した生き佛になった人が一人も存在しないのか、その矛盾を解決する方法がそのような両者の総合と合体であるべきであると考えるのです。阿弥陀様は、事実上全能の佛陀であるのだから、後生に待たせることなく、当然現世での造悪無碍の悪人凡夫を現世で救ってしまえる道理で有ります。この論理は無理が有りますでしょうか。佛教の思想を突き詰めるとそう思えるのですが、どうお考えに成りますでしょうか。
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[ 2849 ] 少し可笑しな御返事です。
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2012/10/19 (Fri) 00:54
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>とおりすがりました。 > >即身成佛と極楽往生は別のことを言っているのではなく、 >凡夫が想像する佛陀や阿弥陀様は、凡夫が想像するとおりではなく、 >「阿弥陀様は、事実上全能の佛陀であるのだから」と思うのが凡夫の想像で、 >仏教は思想でないです。 もちろん、佛教は単なる思想では有りません。しかし、本願他力の信心も、実践を伴うものであり、単なる思想では無いでしょうが、それでも思想に違いありません。佛教が思想ではないというあなたの御指摘は間違いでは無いでしょうか。阿弥陀様や佛陀が凡夫の想像であると言うのも、全く解せない考えです。阿弥陀様は、従って、事実上全能の存在であるはずであり、それを否定されるのでしょうか。それは、佛教、お念仏の教えを否定することだと思います。それに、即身成佛と極楽往生が別の事であると言うのは、教学的に正しいですが、私は、その両者を合同し総合して、佛陀という概念の矛盾と不可能を御指摘したまでです。佛陀というものは、人間、ゴータマの考えたもので、現実には存在しないものです。だから、わたくしは、御霊や御先祖様や天皇様や父母への御尊敬の念と感謝の誠を捧げる親孝行の道、祭祀の道を、部落民の誇りと自覚を常に持って、清く正しく美しい心で、清く正しく美しい人生を送ることを御誓い申し上げる日々を送るという、日本人の本来の祭祀の道を生きて行く事にしました。この事について、通りすがりさんは、どのように御考えに成りますでしょうか、御聞かせ下さい。
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[ 2850 ] Re1:少し可笑しな御返事です。
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2012/10/19 (Fri) 20:31
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>もちろん、佛教は単なる思想では有りません。しかし、本願他力の信心も、実践を伴うものであり、単なる思想では無いでしょうが、それでも思想に違いありません。
実践伴うと、他力でなく自力。
>佛教が思想ではないというあなたの御指摘は間違いでは無いでしょうか。
凡夫の私の指摘など、間違いです。 仏教は、思想ではないです。
>阿弥陀様や佛陀が凡夫の想像であると言うのも、全く解せない考えです。
阿弥陀様や佛陀は、凡夫の想像などではないです。 解すものでもないし、考えでもない。
「凡夫の想像する佛陀や阿弥陀様」は、阿弥陀様や佛陀でないですよ。
>阿弥陀様は、従って、事実上全能の存在であるはずであり、
「・・・はずであり」が、凡夫の想像。
>それを否定されるのでしょうか。
もちろん、凡夫の想像など、否定するまでもなく、創造物。
>それは、佛教、お念仏の教えを否定することだと思います。
佛教、お念仏の教えを、否定しているのではないです。
>それに、即身成佛と極楽往生が別の事であると言うのは、教学的に正しいですが、
誰の教学?
>私は、その両者を合同し総合して、佛陀という概念の矛盾と不可能を御指摘したまでです。
あなたは、佛陀? 凡夫? あなたが佛陀なら、あなたのご指摘は、仏教なのでしょう。
>佛陀というものは、人間、ゴータマの考えたもので、現実には存在しないものです。
「人間、ゴータマ」とは、2500年ほどまえに現れた人のことをおっしゃっているのですか? であれば、「現実には存在しない」とは、ゴータマは存在していないとおっしゃっているのですか、それとも別の何かを差して存在していないとおっしゃっているのですか?
>だから、わたくしは、御霊や御先祖様や天皇様や父母への御尊敬の念と感謝の誠を捧げる親孝行の道、祭祀の道を、部落民の誇りと自覚を常に持って、清く正しく美しい心で、清く正しく美しい人生を送ることを御誓い申し上げる日々を送るという、
すみません、「だから・・・」と順接でお言葉を展開されている、「だから」が読み取れませんでした。
>日本人の本来の祭祀の道を生きて行く事にしました。
「日本人の本来の」と、どうして「本来」とおっしゃっているのですか? 本来とおっしゃる根拠は?
>この事について、通りすがりさんは、どのように御考えに成りますでしょうか、御聞かせ下さい。
「御霊や御先祖様や天皇様や父母への御尊敬の念と感謝の誠・・・」について、私はあまりわかっていないので、少し詳しく教えて頂けますと、なにかしらご返答できるかもしれません。
御霊とは? 御先祖様とは、日本丸さんのご先祖様ですか? 日本丸さんのおじいさんとか、そのお父さんとか、そのまたお母さんやおばあちゃんや・・・。 父母への尊敬の念とは? 父母への感謝の誠とは?
よろしくお知らせ頂けますと、返答できるかもしれません。
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[ 2851 ] Re2:少し可笑しな御返事です。
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2012/10/22 (Mon) 22:40
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からさん、今日は。 御念佛は思想では無いというのはどういう事でしょうか。勿論、御念佛は救いであり、わたくしも、一時御念佛によって救われ、一人、部屋で涙した位で有り難く思いますし、感謝して居ります。しかし、やはり、本当の救いにはならない事に気づきました。佛陀は一般にゴータマ・シダッルタの事を指して言いますが、ゴータマは賢い人だったかもしれませんが、後に大乗仏教徒に呼ばれたような全てを知悉したいわゆる「佛陀」では無く、一人の賢い人間にすぎません。増して、法蔵菩薩や阿弥陀様等の佛様は実在の存在ではなく、佛典の中の作り物に過ぎず、全てを知り尽くした佛智を持ち、衆生を救い取る佛陀は、ゴータマを含めて一人も存在して居りません。浄土三部経で説かれる阿弥陀様が、本当に存在するのなら、何故、阿弥陀様は、我々煩悩熾盛の悪人を悪人のまま捨て置き、後生に於いてしかお救いに成れないのか、合理的な理由が見つかりません。勿論、御念佛はあなたの言葉で言えば、「思想」でも「理論」でも無いそれ以上の救いの教えなのですが、現実には歴史のある一つの宗教であり、佛教の一派の思想です。貴方の信心も、その佛教思想の系譜に有るものに過ぎず、親鸞聖人の教えで有ります。親鸞聖人に欠けて居るのは、南出喜久治先生の言われるように、祭祀の教えであり、親孝行の教えです。佛教には、一般にその親孝行の道、祭祀の道は有りません。印度の宇宙論哲学に始まり、シナの老荘思想や神仙思想の加味されたものが、御念仏の教えです。 御霊とは何かとの御質問ですが、私は飛騨福来心理学研究所の会員として勉強して知りました事で、日本古来の祭祀の道、御先祖様に感謝する昔からの伝統的な営みであり、アイヌやインディアンやその他世界の全ての人々に於いて元々の初めには皆その祭祀の生活をしていた事はよく知られております。宗教はその中で、混乱の中で生まれた歴史的な思想であり、唯一絶対的な教えでは有りません。我が国に於いては、祭祀の思想は天皇様の御皇室の御霊思想として今日まで続き、毎日宮中祭祀が天皇様によって営まれて居ります。親鸞聖人は、その祭祀の道を否定して居りますし、現在の本願寺派は、天皇様と御皇室を敵視して居ります。その誤りに私も気づき、暁烏敏先生の教えを媒介として、日本の随神の道、祭祀の道の正しさを知ることに成りました。佛陀様も、親鸞聖人も人の子であり、御先祖様や父母の子であり、親孝行の道を否定しては、全てを知悉した佛陀の思想とは言い難く、世の中はおかしな事に成ります。親孝行を忘れた世の中の悲惨は今日私たちの住む世界に明らかであり、宗教やイデオロギーはこの大切な親孝行を忘れた非人道的な教えでしか有りません。御先祖様の御苦労や天皇様の御苦労や自分の父母の御苦労に感謝できない不道徳な人でなしの社会が今の日本を含め、世界の宗教やイデオロギーに支配された社会であると考えます。からさんは、如何お考えに成りますか。
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[ 2852 ] Re3:少し可笑しな御返事です。
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2012/10/24 (Wed) 22:43
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皆様こんばんは。 横槍を入れるようですが、私の思うところを一点だけ。 日本丸様が
>浄土三部経で説かれる阿弥陀様が、本当に存在するのなら、何故、阿弥陀様は、我々煩悩熾盛の悪人を悪人のまま捨て置き、後生に於いてしかお救いに成れないのか、合理的な理由が見つかりません。
とおっしゃってますがそれについてこのように考えてみることはできませんでしょうか。 端的に言ってしまうと、我々にとっての真の救いが阿弥陀様による後生の救いなのではないか、ということです。 つまり、後生の救いが、救いの法の二番手、三番手であるというのではなく、それが一番手であったとしたら、ということです。
我々は我々なりに苦しんでいます。 苦しいですから救いも当然求めます。幸福を想像します。当然この世での楽も想像します。 けれども、我々の想像するそれらのものが与えられることが真の救いではなかったとしたらどうでしょうか。 欲しがっているものを与えることは確かに優しさですが、それが必ずしも法に適っているかどうかは話は別です。 もし我々が求めているものが幻であり、真の幸福は別のところにあったとしたら・・・。 如来の智慧の目からみると人間はそのように見えるのではないでしょうか。 つまり、間違ったものを求め、間違った求め方をし、真の救いをそれと見破れない。 智慧の目が開かれないためにそのような間違った生き方を存在全体でしているとしたら。
ざっと以上のように私は勝手に思っています。 ちなみに私は、後生に助かるということも文字通りにはとらないで、 「後生助かる」という形で現在に救いが与えられるものと思っています。 真理は真宗にだけあるとは思いませんが、 真宗ではその真理と救いの法を表すときに「後生に助かる」という形をとるのだと思います。 「形をとる」と言うと少し語弊があるかもしれませんが。
では、なぜ「後生に助かる」と表現されることが現在の救いになるのか、が最も肝要な問われるべき問題だと思いますが、それについてはご信心を得ていない私には全くわからない問題ですので、また他の方に期待します。
以上は私が夢想することですので、言ったことについてはあまり責任は取れませんけれども。
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[ 2853 ] Re4:少し可笑しな御返事です。
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2012/10/25 (Thu) 20:48
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> 勿論、御念佛は救いであり、わたくしも、一時御念佛によって救われ、一人、部屋で涙した位で有り難く思いますし、感謝して居ります。
救われたと思っていただけですか? 「しかし、やはり、本当の救いにはならない事に気づきました。」と、 救いでないと気づいたのなら・・・
> ゴータマは賢い人だったかもしれませんが、後に大乗仏教徒に呼ばれたような全てを知悉したいわゆる「佛陀」では無く、一人の賢い人間にすぎません。
「ゴータマは賢い人だったかもしれませんが」と言われるのはわかりますが、 「一人の賢い人間にすぎません」と、何故に言い切れるのですか。会ったことあるの?
「合理的な理由が見つかりません。」と言われるのはわかりますが、 「法蔵菩薩や阿弥陀様等の佛様は実在の存在ではなく、佛典の中の作り物に過ぎず、全てを知り尽くした佛智を持ち、衆生を救い取る佛陀は、ゴータマを含めて一人も存在して居りません。」とこれまた、何故に言い切れるのですか。
いくら断定しても、またまた、後でそれが間違いと気づくのでしょうね。 何度も繰り返しているようですから。
「親鸞聖人に欠けて居るのは・・・」 すごいですね、親鸞聖人より賢く尊く、道理がわかる方なのですね、日本丸さんは。
> 親孝行を忘れた世の中の悲惨は今日私たちの住む世界に明らかであり・・・
似たようなことは、私も感じます。
> 御先祖様の御苦労や天皇様の御苦労や自分の父母の御苦労に感謝できない不道徳な人でなしの社会が今の日本を含め、世界の宗教やイデオロギーに支配された社会であると考えます。
これもやはり、似たようなことを私も感じます。
さらに、親鸞聖人のご苦労に感謝ないなら、これも不道徳な人でなしと、私は思います。
さてさて、日本丸さんは、ご自身が、かつてそうだと思っていたこと・信じていたことが間違いだと気づいた経験をお持ちなのに、どうしてこうまで断定口調なのですか? 「・・・と考えます。」とおっしゃる表現は、全く自由で謙虚なのに、 「シナの老荘思想や神仙思想の加味されたものが、御念仏の教えです。」と何故断定されるのですか?
「貴方の信心も、その佛教思想の系譜に有るものに過ぎず、親鸞聖人の教えで有ります。」これも、何故断定できるのですか? 私の心の中、親鸞聖人の頭の中に、入ったことがあるのでしたら、そうおっしゃるのもわかりますが・・・
宗教は思想でないし、思想は宗教ではない。 日本丸さんが、何かを否定なさりたいなら、私は返答したくないですし、 仏教や念仏の教えを知りたいのでないなら、よそへお行きなさい。否定したい人と話したい人が、ここにいるとは思えないです。(ですが、これ私の主観)
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[ 2855 ] 謙虚に辛抱強く異論に耳を傾けるべき
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2012/10/27 (Sat) 00:04
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からさん、今晩は。 最近、誰からも相手にされないので、からさんの御返事を大変嬉しく思います。 さて、からさんの御意見ですが、佛教や御念佛の教えを知りたくないのなら、余所へ行けというお言葉は、他の宗教や政治セクトの方々から、散々聞いて来た言葉であり、心の狭い、正しいとは言えない教えを信じている証拠であり、本当に正しい教えならば、誰からどんな批判や意見をされても、それに聴く耳を持ちたく無いとか、拒否したいとか言わず、謙虚に耳を傾ける筈で有ります。又、真実を求める求道者であるなら、人の意見を聴かない等と言う事は考えない筈で有り、私ならどんな人の話でも聞く必要があるとして、積極的に異なる意見の人や異なる信仰の人、異なる政治的な意見を持つ人の御話を聞くでしょうし、これまでそうして参りました。私も、共産党員であった事もあり、創価学会員だった事もあり、歎異抄に涙した念佛者で有った事もあり、今は随神の道を生きる飛騨福来心理学研究所の会員として、天皇様の御霊の思想を実践して居りますが、他のキリスト教やイスラム教等の異教徒の教えにも耳を傾けて来ました。やはり、道を求めるなら、そうするのが当然だと思います。私も、何分修行中の身ですので、至らない処が有り、言われる様に謙虚さが少し足りません。ですが、からさんもその点で同じなのでは無いでしょうか。謙虚に人の意見に耳を傾けられた方が、からさんの今後の為に成ると確信して居ります。それでは又、御返事楽しみにお待ちして居ります。
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[ 2856 ] 煩悩熾盛の悪人の本当の救いは何処にあるか。
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2012/11/01 (Thu) 00:29
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今日いま、歎異抄を久しぶりに読んだ。異安心。 どれも珠玉の御文章ばかりで、改めて読み直し、当時の感動を又噛み締めてみた。中でも、聖人が唯円房に対して人を千人殺してんやと迫る件は、最も私の気に入って居る御文章で有り、感動を思い出してしみじみした思いに浸った。 やはり、御念佛は昔の私の様な詰まらない惨めで穢れ汚れて煩悩に塗れ見捨てられた罪悪深重の悪人、自分の家族にさえ見捨てられ世の中の人達に冷たい扱いを受けて来た人達の最後の救いであり、寂しい心を救い慰める事に掛けては最も大きな力を持つ教えである事は今の私も認めざるを得ない。 しかし、先日も申した様に、それは造悪無碍の悪人のこころの救いには成れ、その悪人でさえ本当の救いには成らないのだと思うのである。当時の社会では、神通力を使える人は存在しなかったが、現在では、飛騨福来研究所に沢山の神通力者がいる。彼等の様に、其の神通力や御霊や御先祖様や天皇様や父母への親孝行の道、祭祀の道を部落民の誇りと自覚を常に持って、清く正しく美しい心で、清く正しく美しい人生を生きる人達によって、悪人であっても、毎日の神事や斎戒や清め祓いを行いつつ生きる昔からの我が国の生活を真面目にすることで、真の救いに与る事が出来るのであると思う。極楽往生を待たずとも、幸せな生活が現世に実現できるとしたら、皆さんもその方を選ぶ筈だと思う。私も、御念佛に感謝して居るが、幸せを其の祭祀の道、親孝行の道を生きる事で、徐々にではあるが、救いの実現を果たしつつある。皆さんは、どの様な選択を成されますか御聞きしたと思います。
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●re.15
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毎日 |
非公開の非公開 |
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[ 2857 ] Re1:煩悩熾盛の悪人の本当の救いは何処にあるか。
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2012/11/04 (Sun) 05:16
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日本丸様
これは、私が思っていることですが、「南无阿彌陀佛」ということには、たいして具体性がないわけです。
現代語で言えば、「すべてを、阿弥陀様にお任せします」くらいの意味だと思います。
そして、それだけだと、あまりにも意味がわからないので、阿弥陀様とは、どういう佛さまかについての説明もあります。
そして、阿弥陀の3字名号だけでもいいというお話も書いてあります。
「阿弥陀様とは、どうこうだ」というのは、一義的には、「わかりたい」という私たちの欲求に応じるためのお話しなのではないかと思います。
それでも、「いわれを聞くように」というのはなぜかと言えば、逆説的ですが、「阿弥陀様とはこうこうだ」という思いを既に持っている人への導きであろうと思います。
ですから、救いはどこにあるのかと言えば、お任せするところにでてくると思います。それは、信じるということでもあります。
ところが、私たちが主体的に信じようとしても、できません。
だけれども、それでいいのだということですよね。そういう部分を、とやかく言う必要がない。
なぜなら、阿弥陀様というのは、信心もくださる佛様だからです。
いわれを聞くことで、はっきりとはわからなくても、「阿弥陀様とは、こんな感じだろうか」というような把握は、少なくともぼんやりとはできます。
お話しをむりやり聞いて、むりやりイメージを心に作ろうとすることは、心に負担がかかりますから、あまり良いことではないと思います。
すごく昔から、私たちのことを考えてくださっている仏様がいらっしゃって、すべて良いように考えくださっているのだから、その道に乗ってゆこうということだと思います。
それで、そんなことを言われても信じられないのが当たり前なのですから、「信じなさい」ということを、押しつける必要がない。
お任せと対極に位置するであろうことが、「こうでなければいけない」のような考え方です。自分自身で「こうあるべき」ということを考え、それでなければイヤだと思う。
私の捉える真宗の教えというのは、かなり自由なものです。
「私が捉える」というと、「経典よりも自分を上に位置させるのか」という批判もあるかもしれませんが、経論を解釈するのは自分なのですから、経論を上に位置していると感じている人は、そう錯覚しているだけであって、結局は、経論をもとにして、自身の考え方を育てていることになるのではと考えています。
「経論を重視する」という人の多くは、結局は、自分自身を絶対視したいということになるのだと考えていますが、そういう人でも、南无阿彌陀佛をやっていれば、南无阿彌陀佛 のお仲間です。
もちろん、経論釋は重要だと思いますし、大切にするべきものだとも思いますが、それが信仰の実践につながるかどうかは、その種のものを求める素質があるかにかかっていて、そして、真宗の場合は、その素質の有無や大小は、救いに関係がありません。
関係があるとされる素質は、阿弥陀様を求める気持ちが出てきているかどうかという部分だけなのだと思います。
経典の本当の意味なんていうものは、わかるはずがないのですから、「わかるはずがない」という前提で接することが、妥当なんだろうと思います。
重要なことは、南无阿彌陀佛だけなのですから、共通しているのはそこだけで、あとは、ひとりひとりの南无阿彌陀佛があるのではないでしょうか。
そして、南无阿彌陀佛をおとなえするのは、「今」のことなのですから、それは、必ずしも、「極楽往生を待つ」ということだけでもないと思います。
今の安心につながるということですよね。絶対的な安心かと言えば、そんなことはないと思いますし、そういうことを求めるのは、少し非現実的な欲求なのではと思ったりもします。
おおまか安心していれば、別にラクですから。
死後、どうなるかについて、私が確信を持っているかと言えば、たぶん持っていないですし、理性的な思考としては、わかりようがないと思っています。
あるともないとも言えない。なぜなら、わからないから。
それで、わからないことが、たいして問題にならないことが大切で、ですけれども、わからないことによる不安がないかと言えば、私の場合は、あると思います。
教え的に極楽往生するとのことで、「それならば、そうなのかな」という感じで、きっとそうなのだろうから、あまり気にすることもないし、そうじゃないとしても、仕方が無いよねと思っています。
ひとりひとりの南无阿彌陀佛があるということが、とても素晴らしいことだと思っています。
細かい実践は、ひとりひとりが、自分に合ったやりかたで生きてゆくことではないでしょうか。
日本丸様が真の救いに与れているならば、それが尊いことだと思います。
南无阿彌陀佛
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