浄土真宗の教義について

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●No.173
日本丸
中国の男性
[ 2816 ] 浄土真宗に対する質問 2012/08/16 (Thu) 19:58 △up ▽down
はじめまして。わたくしも、長い間、阿弥陀様の教えを有り難く信じておりました元信者です。疑問を持ち、信心を捨てました今、それが正しかったのか、確かめたくて、みなさんにご質問します。どうかお答えください。
 阿弥陀様はお浄土にて、佛様であられますので、大慈悲と共に、仏智を持ち、私たち罪悪深重の悪人を何故現世において善人にして救ってもらえないのかと思うのですが、やはり、本願の通り、現世にては悪人のまま死後に極楽往生して仏になるしかないのでしょうか。阿弥陀様は佛陀様であり、悟りをひらき慈悲深き如来様ですので、何でも出来そうなものであり、私たちをその無限の佛力で、今善人にして救ってくださってもいいのではないでしょうか。愚問に過ぎないのかもしれませんが、誰かお答え願えれば幸甚です。

●re.1
かめ
非公開の男性
[ 2817 ] Re1:浄土真宗に対する質問 2012/08/17 (Fri) 20:38 △up ▽down
日本丸様、はじめまして。

初めに添えて起きますが、私は信心をいただかれた他の方々や教理に詳しい方々とは違い、言うところのピントが少しずれているかもしれません。ですので、日本丸様への意見というよりは、自分の思った感想を書かせていただく形になります。読んでいただければそのようなことはすぐおわかりになるかもしれませんが、あらかじめ、そのことご了承下さい。

>私たちをその無限の佛力で、今善人にして救ってくださってもいいのではないでしょうか。

私が思いますに、私自身はもちろん、人間は皆善人になりたいと思いながら生きているのではないかと思います。けれども現実はそうはいかず、いつも「善人になれたらなぁ」ともらし続ける日々です。
浄土を願うのも涅槃を願うのもそれと同じではないかと思います。
皆が、この世を善人で生きられればどんなに清々しいだろうと願っているのだと思います。
この満たされないぼやきが苦といわれるものではないかと思います。

あくまでも「頭での」理解ですけれども、私は、そんな儚い夢を見て苦しむ衆生を救って下さるのが阿弥陀様ではないかなと思っています。馬鹿な夢を見るな、と切り捨てて善人に変えてしまうのではなく、衆生のこの儚さに対して慈しみ共に悲しもうと言ってくださるのが仏様のお心かと思います。
私達は悪人が善人になるのが救いだと思っていますが、悪人が悪人のまま救われる道が真宗の中にはあるのかなと思い、私はそこに希望を感じ、教えをいただいていこうと思っています。

●re.2
ボン
東京の男性
[ 2818 ] Re2:浄土真宗に対する質問 2012/08/18 (Sat) 01:29 △up ▽down
日本丸さま、はじめまして。

日本丸さまの疑問は、私にも分かるような気がします。「何でもできる仏様なら、今すぐ
すべての者を救ってくれたらいいではないか。何をもったいつけているんだ。」と。もっ
と言えば「我々が、今生のことしか分からないのをいいことに、前世だの、後生だのと、
適当なことを言ってるけど、本当は何もかも違っているんじゃないの?」という疑惑を、
私自身、完全に打ち消すことができません。

しかし同時に、私が阿弥陀様から信心をいただいたということもまた、否定できない事実
です。これは、いただいたもので、自分で起こした信心ではないので、捨てようにも捨て
ようがありません。どうしても捨てたいのなら、掟破りをするしかありませんが、それで
もはたして、捨てることができるかどうかわかりません。なにしろ「摂取不捨」なもので
すから、どんなにこちらが捨てようと思っても、阿弥陀様のほうがしっかり捕まえて捨て
てくれないのだと思っています。

なので、私は、自分の疑う気持ちをあれこれ考えることをあきらめました。そんなことを
問題にしてもしょうがないと思った、というのが今のところの結論なのですが、これでは
何が何だか分けの分からない話だと思うので、少し日本丸さまの疑問の中身についても、
私見を述べさせていただきたいと思います。

まず、日本丸さまは「無限の佛力」ということをおっしゃています。しかし、阿弥陀様の
力ははたして「無限」なのかということを、考え直してみる必要があるのではないかと思
います。キリスト教などでは、よく「全知全能」とか「オールマイティ」などということ
を言います。有限な現象の関係をこえて、その対極に立つ絶対的に無限なものが、いわば
「神」として想定されていると思うのですが、仏教の考えかたは、これとは少し違うよう
な気がします。

仏教では、よく「無量」という言葉を使います。「無量」というのは、読んで字のごとく
「量り知れない」ということです。「無量の智慧」といえば「量り知れない智慧」という
ことです。阿弥陀様の智慧は「量り知れない」というわけです。凡夫にはとても量り知れ
ないけれども、有限の対極に立った無限というものではないような気がするのです。

「阿弥陀」は「無量光」であり、「光」は「智慧」であって、「智慧」というのは、この
世のありとあらゆることを知り尽くしているということだと思います。この世界は、因・
縁・果に複雑に絡まりあったもので、その因縁を総動員して、その人を果に導くという気
の遠くなるような作業を一人一人に対して施して、最後にはすべての衆生を救おうという
のが阿弥陀様にやり方ではないのかと、勝手に想像しています。そう考えてみると、その
阿弥陀様のご苦労たるや、それこそ量り知れないものがあって、そう思えばその御恩に
感謝するほかないという気持ちにもなろうかという気がします。

キリスト教の神は、その絶対的な力(オールマイティ)によってこの世を支配してと考え
られているような気がするのですが、阿弥陀仏はこの世の支配者ではなく、この世の摂理、
仕組み、成り立ちを知り尽くしている、というように考えてみたらいかがなものでしょう
か。この世の仕組みを上手く利用して、個々の衆生を誘導するのが「方便」とは考えられ
ないでしょうか。「方便」とは、想像を絶する気の長い忍耐力をもとに、ああなればこう
なってこうなるという見通しをもって、複雑な糸を手繰り寄せるとてつもない作業のよう
な気がします。

これは、あくまでも私見であり、味わいに属する部分だと思いますが、このように考えて
みると、自分の中ではしっくりくるような気がします。しっかりした確信のもとに申して
いるわけではありませんが、ご参考まで。

南无阿彌陀佛

●re.3
せん
非公開の非公開
[ 2819 ] Re3:浄土真宗に対する質問 2012/08/18 (Sat) 06:18 △up ▽down
>現世にては悪人のまま死後に極楽往生して仏になるしかないのでしょうか。

現世でも、

「即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。」

「この身をもつてさとりをひらくと候ふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益候ふにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とは申し候へ。」

本願他力とは、

「来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おほよそ今生においては、煩悩・悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法華を行ずる浄侶、なほもつて順次生のさとりをいのる。いかにいはんや、戒行・慧解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。」

なので、現世でも来生でも救いの道はあって、
問題なのはあちら側ではなく、自分です。

>阿弥陀様は佛陀様であり、悟りをひらき慈悲深き如来様ですので、何でも出来そうなものであり、私たちをその無限の佛力で、今善人にして救ってくださってもいいのではないでしょうか。

という思いをみてみましょう。

これ、ぜんぜん阿彌陀様を阿彌陀様と思ってないですよね。すごい力があるとは、これっぽっちも思っていなくて、文句言う心ですよね。「今すぐなんで救えないの!!!」と。あてにするでなく、うらめしかったり、不平不満だったり。

仕方ないですが、人の考え聞いてるうちは、迷い深めるだけ。
「あなたは肝臓がんで、余命3ヶ月」と診断された人以上の深刻さが、そのうちでてくるでしょう。


>本当は何もかも違っているんじゃないの?」という疑惑を、
私自身、完全に打ち消すことができません。

「信はうたがひなきこころなり」
「唯信」はこれこの他力の信心のほかに余のことならはずとなり」

●re.4
日本丸
中国の男性
[ 2820 ] ありがとうございます 2012/08/21 (Tue) 21:04 △up ▽down
皆さん、私ごとき者のためにたくさん書き込みありがとうございます。
まず、阿弥陀様の無量の智慧で、なぜ私たち罪悪深重の悪人を善人にしてくれないのか。善人になることが人の救いではないと言われるけれど、やはりもやもやした悩みや苦しみがすべてなくなり、清明なきれいさっぱりした曇りのない心になった方が救いになり、それが善人であって、善人も往生できる念仏でありますので、善人になってもいいわけであり、善人になりたいというのは普通の人の願いであり、わざわざ悪人のままである必要はないのではないでしょうか。阿弥陀様が、その無量の智慧で、そのような善人にしてくれる方法を私たちに教え導いて下さるのが阿弥陀仏の阿弥陀仏たるゆえんであると思います。
また、「せん」さんが、疑うこころを捨てて阿弥陀様の本願の救いに任せるべきであると言われておりますが、その疑いを消すことができないから罪悪深重の悪人なのであり、疑いのこころが消すことができるくらいなら、他力の念仏も阿弥陀様も要りはしません。疑いを消せない悪人が悪人のまま救うという念仏の教えに反しているのではないでしょうか。
よろしくお答えください。

●re.5
せん
非公開の非公開
[ 2821 ] Re1:ありがとうございます 2012/08/22 (Wed) 13:00 △up ▽down
>疑いを消せない悪人が悪人のまま救うという念仏の教えに反しているのではないでしょうか。

この心が問題。問題にならないのが問題。
せんを否定する方が、助かるより優先されているでしょ。

また、

>・・・阿弥陀仏の阿弥陀仏たるゆえんであると思います。

はからいを、助かるより優先しているでしょ。
議論や否定や自分の思いや、そんなのいくらでも言える。
その方が大切なら、それすればいいし、一番大切が助かるなら、
助かるを求めればいいし。

浄土宗の流義まちまちにわかれたり。しかれどもそれを是非するにはあらず、ただわが開山(親鸞)の一流相伝のおもむきを申しひらくべし。それ、解脱の耳をすまして渇仰のかうべをうなだれてこれをねんごろにききて、信心歓喜のおもひをなすべし。

「解脱の耳をすまして、きくべし」とね。

●re.6
日本丸
中国の男性
[ 2822 ] やはり親鸞の教えには無理があります 2012/08/22 (Wed) 21:44 △up ▽down
せんさんの言うことは一理あり、私もその教えに従いたいと思います。
しかし、助かり救われることが最終的な目的であるとしても、念仏でその救いが得られるのでしょうか。現世では悪人のままで救われないというのが念仏ですよ。私は本当に今助かり、救われたいのです。生きたまま善人になり、仏となって、救われたい。でも、念仏にしろ仏教は釈迦の説いた教えを受け継いだ一つの宗教にすぎないでしょう。実際には仏様も阿弥陀様も存在しないのです。念仏の信心は、何にも現実の実際の生活に結びついていないし、だいたい親鸞聖人は、親孝行の大事さを説いていない。私は、その親孝行の道が日本の天皇様ご皇室の有り難さや大事さにつながっていることに気づきました。人間の本当の救いは、普通に親孝行をして、普通に結婚して、伝統に従い御霊やご先祖様に感謝して、祭祀の道を生きることにあるのだと思います。全ての絶対的な宗教を捨てて、みんな宗教宗派の争いのない元々の宗教以前の人類普遍のかみがみの道、御霊や祖先祭祀の道を生きましょう。そして、天皇様や御皇室をお護りして、本当の幸せをつかみましょう。

●re.7
かめ
非公開の男性
[ 2823 ] Re2:ありがとうございます 2012/08/22 (Wed) 22:31 △up ▽down
日本丸様


(注)私が書き込みをしている途中で先に日本丸様が投稿なさったようです。
ですから、以下の文章は日本丸様の一つ前の投稿に対してのものです。
それにしましても、私は「悪人が悪人のまま救われる」というものが今生での救いであると感じられ、そこに希望を持っているのですが、結局のところどうなんでしょうね・・・。


>善人になることが人の救いではないと言われるけれど、やはりもやもやした悩みや苦しみがすべてなくなり、清明なきれいさっぱりした曇りのない心になった方が救いになり、それが善人であって、善人も往生できる念仏でありますので、善人になってもいいわけであり、善人になりたいというのは普通の人の願いであり

私も「善人になりたい」が普通の人の願いであると思います。けれども、これは叶わない願いなのだ、といって下さっているのが浄土の教えではないかと思うのです。ここで注意が必要なのは、叶わないから「さあ、夢を見るのはやめなさい」と律する教えではなくて、叶わない夢を見つづけているのを仏は哀れんでくださっているのだ、と教えてくださっているのが浄土教だということです。(私の推測ですが)
ですから、(私や)日本丸様が「善人になって苦しみのない世界で生きたい」と願う心も、阿弥陀様のお心の内にあるのだと思います。これは余計なことかもしれませんが、決して「悪人でなく善人になりたい」と願うことが教えに背いているということではないと思います。むしろ、凡夫は皆そうなのですから。

悪人が悪人のまま救われる、ということについてですが、これは、自分は甘んじて悪人を生きさせてもらう、という心にならせていただくことだと私は思っています。
歯を食いしばって「自分は悪人でも良い」と言うのではなくて、肩の力の抜けきった状態での宣言だと思います。
私達にとって一体何が苦しみかと考えますに、肩に力を入れて、どこかに安楽の地はないだろうかと目を血ばらせて探し求めている、そのことが苦しみだと思います。
そんな自分に「悪人でもいいんだよ」と言ってくださる方がある、しかもそれが法の言葉であるとしたら、これは何よりありがたいと思います。

私は救いとは安心だと思っております。
現状に安心ができないから安楽の地を求めます。
そして、幻だからやめなさいと人に言われたところでそれはやめられるものではありません。
そんなどうしようもない身だからこその阿弥陀様の救いだと思います。

日本丸様のお心を推し量るようで申し訳ないですが、善人になることよりももっと詰めていうと、苦しみから解放されたいというお心が最も根本におありなのではないでしょうか。
そうしますと、もし悪人のままであっても現状に安心を見出すことができるなら、それは十分我々の求めるべき救いとなるのではないでしょうか。(「求めるべき」というのは人間が皆、という意味です)
真宗では、悪人であってもそこに安心の境地があるといっておられるのだと思います。妥協ではなく積極的に。
たった一回でも回心があれば、そこから今生に安心を得られるのではないでしょうか。それがどのようなあり方なのかは私には想像するしかありませんが・・・。

繰り返しになりますが、我々の一生を一歩引いたところから眺めてみますと、
皆が善人になりたいと思っている。なれないにもかかわらず思っている。そう思い続けて一生がやがて終わる。これは非常に愚かな一生だと思います。
けれども凡夫にはそれをやめることができない。そこに阿弥陀様の救いが届く余地があるものと思います。「哀れ」との慈悲のお心の届く余地です。
それはきっと、善人に変えてもらうことよりももっとありがたいことなのだろうと、私などは推測しています。


それから
>その疑いを消すことができないから罪悪深重の悪人なのであり、

私もそう思います。
自分で疑いを捨ててもし得られるとしたら、それは自力の信ではないかと思います。

●re.8
せん
非公開の非公開
[ 2824 ] Re3:ありがとうございます 2012/08/22 (Wed) 23:17 △up ▽down
>私は本当に今助かり、救われたいのです。生きたまま善人になり、仏となって、救われたい。

それは、聖道仏教の行き方で、それに従えば可能だと教えられていますよ。

また、他力も成仏の法が説かれていますよ。「他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る」


>現世では悪人のままで救われないというのが念仏ですよ。

と日本丸さんが理解しているのであって、「そうである」ということと「そう理解している・そう思っている」をごっちゃにしている。

「不可称不可説不可思議の功徳」といふことは、かずかぎりもなき大功徳のことなり。この大功徳を、一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しましますゆゑに、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり。


>念仏にしろ仏教は釈迦の説いた教えを受け継いだ一つの宗教にすぎないでしょう。実際には仏様も阿弥陀様も存在しないのです。

というのも、

>天皇様や御皇室をお護りして、本当の幸せをつかみましょう。

というのも、

自分の主観だから、それに従いたいなら従って生きていけば良いし、

>やはり親鸞の教えには無理があります

と否定するまでもなく無視すればいいし、
無視するまでもなく、目に入れなければいいのでは。

たまたま目に入ってイライラするのは、避けられないので同感ですが、わざわざこの掲示板見に来て否定するまでもなく、自分の選んだ物に従っていればいいだけでしょう。自覚の有り・無しにかかわらず、日々選択の繰り返しで生きて行ってますしね。

>やはり親鸞の教えには無理があります

でなく、
「無理があると思ったので、親鸞のことはもう気にしません」とか
「天皇様をお護りして、仕合わせになりたいと思います」かと。


>実際には仏様も阿弥陀様も存在しないのです。

でなく、
「存在するとは思えない」「存在してないと思う」では。


>天皇様や御皇室をお護りして、本当の幸せをつかみましょう。

本当の幸せが分かっているなら、それが何よりです。

●re.9
ボン
東京の男性
[ 2825 ] Re4:ありがとうございます 2012/08/23 (Thu) 01:32 △up ▽down
日本丸さま、こんばんは。

私は、日本丸さまの質問の主旨を取り違えておりました。

>わたくしも、長い間、阿弥陀様の教えを有り難く信じておりました元信者です。疑問を持ち、
>信心を捨てました今、それが正しかったのか、確かめたくて、みなさんにご質問します。

日本丸さまは、真宗から一旦離れてはみたものの、その行動が正しかったのか疑問に思い、
その思いを確かめるために、この掲示板で質問をなさったのだと思いました。しかし、
その後のご発言を見ますと、それとは少し違うということがだんだんと分かってきました。

>実際には仏様も阿弥陀様も存在しないのです。

>全ての絶対的な宗教を捨てて、みんな宗教宗派の争いのない元々の宗教以前の人類普遍の
>かみがみの道、御霊や祖先祭祀の道を生きましょう。そして、天皇様や御皇室をお護りし
>て、本当の幸せをつかみましょう。

仏も阿弥陀仏も存在せず、そのようなものは捨て去って、天皇をお護りすることが幸せへ
の道であるという確信を強く持った上でのご発言であったということは、あとになってか
らわかってまいりました。

なぜなら、この最後の方のご発言が、それまで私を含めて何人かの者がお話した内容とは
かかわりなく、唐突に発せられたもののように見受けられるからです。みなそれぞれに、
日本丸さまの疑問にお応えしようと、真剣にお話をしていたと思うのですが、おそらく、
日本丸さまは、それぞれの発言者の真意を汲もうとして、真剣に向き合ってはいなかった
のでしょう。

もし初めから確固とした信念がおありだったのなら、その立場を明らかにしてからご発言
なさるべきだったと思います。「私ごとき者のためにたくさん書き込みありがとうござい
ます」というのは、あくまでも、儀礼的なあいさつですよね。

私は、阿弥陀様から信心をいただいたと思っているものですが、実は、単に主観的に幸せ
だと思ってこの世を生きていくのが目的だとしたら、宗教も信心も必要ないとも思ってい
るのです。まわりの人を大切に思い、まわりの人から大切だと思われて生活していれば、
みなそれなりに幸せを感じるものと思います。(もちろん、それぞれの感じ方次第ではあ
りますが・・・)

日本丸さまのお護りしている天皇陛下も、大震災の際は自らの体調も省みず被災地を回り、
真剣にこの国の人々と接してこられました。天皇陛下は国民を大切に思い、国民は天皇陛
下を大切に思うことによって、この国に幸せの連鎖反応が引き起こされているのではない
でしょうか。私も、天皇制云々はさておいて、今上天皇がこの国の天皇であって、とても
よかったと思います。

日本丸さまは、真宗のことを云々する前に、人の気持ちをないがしろにしない、人の気持
ちを大切に思うという態度を尊敬する天皇陛下から学ぶべきだと思います。人を大切に思
い、人の気持ちに寄り添うことが、「善人」になる近道ですよ。なにも、阿弥陀様に善人
にしてもらうまでもありません。

その善も「虚仮雑毒の善」だと真宗では教えておりますが、そのことを日本丸さまに申し
上げてもしかたのないことでしょう。とことん「善人」になろうとしたときに、自らの
限界に気が付くのかもしれませんが・・・。

真宗では、縁というものを大事にします。人を大事にすれば、縁もまた広がっていくこと
でしょう。そのときにまた、仏縁に会うことを願っております。

南无阿彌陀佛

●re.10
日本丸
中国の男性
[ 2826 ] 毎日暑い日が続きます 2012/08/23 (Thu) 09:29 △up ▽down
皆さんにぶしつけな言い方をして、不快な思いをさせてしまっているようで、すみません。本当に私も邪悪な悪人ですので、それはどうか同じ悪人として大目に見てください。ボンさんにご理解いただきたいのは、私は何も悪気があって、人を何か奸計で以て欺こうとしたわけではありません。
最初の言葉、真宗を捨てたのが正しかったかどうか確かめたかったというのは本当です。決して、天皇様の道を確信しておるのに、何か邪な意図があって、みんなを欺こうとしてきたのではないことをまず分かってほしいです。
ボンさんが、天皇陛下のことを大事に思ってくださり、本当に有り難く嬉しく思います。私も、まだ実は本当に天皇陛下を有り難く思うべきかどうか実のところよく分っていないのですが、ボンさんの言葉を聞き、安心して自分もそうするべきなのだなと思いました。人のこころをないがしろにしないで人に感謝することが大事なのだとボンさんの言うとおり反省し実行します。
また、だからこそ、親孝行を説かなかった親鸞の教え、念仏の教えはますます間違っており、修正が必要になるのだと思います。いずれにしても、ありがとうございます。今後とも、有益な意見交換をしてください。お願いします。

●re.11
かめ
非公開の男性
[ 2827 ] Re1:毎日暑い日が続きます 2012/08/23 (Thu) 12:51 △up ▽down
日本丸様、せん様、ボン様、こんにちは。

私はせん様やボン様とは反対に捉えました。
日本丸様には失礼かもしれませんが、日本丸様は確固とした信仰と安心をお持ちになってこちらへおいでになったのではなくて、どうしても「救われたい」「不安だ」というお気持ちでこられたのだと思うのです。ボン様の初めの受け取り方と同じです。天皇陛下に対する言及をみましても、よりいっそうその思いを強くしました。

ご本人もおっしゃってます。
>最初の言葉、真宗を捨てたのが正しかったかどうか確かめたかったというのは本当です。決して、天皇様の道を確信しておるのに、何か邪な意図があって、みんなを欺こうとしてきたのではないことをまず分かってほしいです。

日本丸様は、天皇陛下への信仰を持てばいいのだ、とふんぎりをつけようとしてもどうしてもすっきりしないものがおありなのだと思います。天皇陛下か阿弥陀仏かどちらを選ぶか、との問題だというよりも、ご自身の心に何かこれでいいのだろうかというお気持ちがおありなのだと思います。
そのお気持ちで来られたのだと私は受け止めています。それこそ人間の純粋な要求だと思います。日本丸様には失礼ながら、自分と重ねて肯定しているところがあるのかもしれませんけれども。

>私は本当に今助かり、救われたいのです。
このお言葉は、私もまったく同じ思いです。


>実際には仏様も阿弥陀様も存在しないのです。念仏の信心は、何にも現実の実際の生活に結びついていない

私がここでこれを言いますと余計に荒れてしまうかもしれませんが、
私も阿弥陀仏という霊体とかエネルギー体が存在しているとは思っておりません。浄土という場所がどこかにあるとも思っていません。
わからないので保留にしています。あるという人とないという人とどちらもいていいと思います。またこのような態度でいてもいいのだとも思っています。
もしこれらのことを疑わずに信じるのが真宗の信心であるというなら、他の宗教で求める信心と違いはないと思います。仰ぐ対象が違うというだけで。

私は真宗では、そのような信心を持たなくてもやがて本当の信心はいただけると思っておりますし、そしてそれは必ず何らかの形で生活に結びついてくるものと思います。生活に結びつかないなら一種の趣味と同じです。やりたい人はやればいい、やらない人はやらなくてもいい、という。また、いただいた信心を趣味のコレクションのようにして他人に誇る過ちも犯してしまうと思います。
ですから、かならず何らかの形で「私が生きる」ことに大きな影響を持ってくると私は思っています。本人が一番納得できるような影響です。誰かに強制された納得ではなくて、自分が「ああ、これでいい」と思えるような納得です。

私がそうであってほしいと思っているだけではありますが、もしこの期待が間違ったものであったとしても、やがては本当の信心をいただけるものと思っております。
それは、霊による力というよりも、道理としてそうなっているのだと思います。

●re.12
日本丸
中国の男性
[ 2828 ] 信心では得られない本当の救い 2012/08/23 (Thu) 19:46 △up ▽down
本当に、今救いにあずかりたいという気持ちは本当です。いま気づいたのですが、その救いが、念仏の信心により後生でしか得られないというのが、不満であり疑問だったのです。現在の実際の生活の中からのみ、本当の救いは得られないのではないかと思うに至りました。信心によるあの世での救いではなく、親孝行とか日本人の伝統的な天皇様ご皇室の御霊やご先祖様に対する感謝と尊敬の祭祀の道を通じてこそ、人間の幸せが実現し、救いが実現するのではないでしょうか。満たされない心と体の欲求を満たして行くことが必要なのであり、信心では心の救いは得られても、現実の人間の道徳的な安心や家族や伴侶の優しいかかわりのなかでのこころとからだの満足は得られません。伴侶と共に家庭を築き、親に孝行し、社会に貢献し、身を正し、国につくし、天皇様に感謝し、尊敬を申し上げる生活を通じてしか、本当の救いも、人間の幸せもないのではないでしょうか。
●re.13
かめ
非公開の男性
[ 2829 ] Re1:信心では得られない本当の救い 2012/08/23 (Thu) 20:52 △up ▽down
私は、信心というのは、「未来の保証」という意味での救いというのとは異なるものなのではないかと思っています。単に未来が確定することによって今生で安心の日暮しができるというにとどまらないものと考えます。
私もわからないのですけれども、そこに何かもう一つ深いものがあると思うのです。

あくまでも真宗は「今救われたい」人のためのものと思います。信心をいただくと悟りを開かずとも今救われるのだと思います。
そこで問題になるのが「一体何が救いなのか」ということですが、
人間にとって何が救いかと考えますと、それは善人になることでも悟りを開くことでもなく、それよりももっと根本にあるものは、やはり、安心して生きて死んでいけるということではないでしょうか。無病息災ということではなく、どんな今であっても受け入れていけるということです。
人間にとってどうしても避けられないものが死です。その避けられないものに対して避けたいともがくのは苦しいことです。それをやめさせてもらえるならそれはその人にとって最上の救いとなるといってもいいのではないでしょうか。

ある方が信心は人間を立たせるものであるとおっしゃっていました。私はきっとそうなんだと思いました。
立ってそれから生活があります。生活を支えるのが信心だと思います。
信心とは心の救いなのではなく、生活の指針であると思います。「今、自分はどう生きるのか」、それに答えていくものと思います。

>伴侶と共に家庭を築き、親に孝行し、社会に貢献し、身を正し、国につくし、天皇様に感謝し、尊敬を申し上げる生活を通じてしか、本当の救いも、人間の幸せもないのではないでしょうか。

それらの生活を成り立たせる大地となるものが信心であると思います。ですから、ご皇室やご先祖様を大切になさることと真宗に帰依することとは決して矛盾したものではないと思います。
信仰や孝行などの、実際場面での生活を成り立たせるその大地を与えられることが救いであると思います。「私」の立つ大地です。

そんなことを言うと「信心」という言葉の意味からそれるとおっしゃるかもしれませんが、私にはどうもそのように思えるのです。

●re.14
せん
非公開の非公開
[ 2830 ] Re2:信心では得られない本当の救い 2012/08/24 (Fri) 05:44 △up ▽down
かめさんは、ほとんど分かっているように感じますが、もしそうなら、そのままで宜しいのでは?

日本丸さんは、自分自身で、自分が救われないままの状態に縛り付けているように感じます。

親鸞の教えを徹底的に聞き求めた上で、自分には役に立たない、ということなら、もう見も聞きもしないように、自然となるのでしょう。

天皇様に感謝し、尊敬を申し上げる生活を徹底すれば、おのずから結果がでてくるのでしょうから、苦しみが取れて幸せになるのでしょう。

否定はもちろん、肯定も不要で、否定・肯定したい心の裏に、自分を縛り付けるものがあって・・・

●re.15
日本丸
中国の男性
[ 2831 ] 御霊への感謝の日本人の昔からの生き方 2012/08/24 (Fri) 23:31 △up ▽down
かめさんありがとうございます。私は言い落としましたが、天皇様を尊敬申し上げ、感謝して生きることは、単に物質的な生活だけではなく、精神的な御霊の世界を知り感じて、御先祖様の御霊に感謝して生活する昔からの日本人の生き方をしていくことが大事だということです。信仰が自分の生活の大地だというのは、そこのところの精神性、精神的生活を私が指摘し忘れ欠落していたことに対してのお言葉であると思います。
親鸞聖人が何も親孝行の道を教えていないことに対するお答えがありませんので、その点について皆さんのご理解の説明をいただきたいと思います。

●re.16
かめ
非公開の男性
[ 2832 ] Re1:御霊への感謝の日本人の昔からの生き方 2012/08/25 (Sat) 11:26 △up ▽down
>親鸞聖人が何も親孝行の道を教えていないことに対するお答えがありませんので、その点について皆さんのご理解の説明をいただきたいと思います。

こちらは私には答えられませんので伝統的にはどのように言われているのかは他の方のご意見を仰ぎたいと思いますが、一つだけ書かせていただきます。
これは私の言葉というより、ある方の言葉を私が引用しているものとして受け取って下さい。

歎異抄に
『親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。』
とあります。

こちらは一見親孝行を軽く見ているように聞こえるかもしれませんが、そうではないと思います。
自分の親だけを大事に思うということは、逆に言えば他の人の親は大事ではないと判断するということです。これでは差別の心になってしまいます。諍いのもととなるものです。

ですが、親鸞聖人にとりましては、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」ということでして、どの方を見ても皆ご自分の親兄弟に見えたということです。
そう思おうとしたというよりも、聖人には実際にそう感じられたということであると思います。
そうしますと、ご自分の親だけに孝行するのはかえって不自然であって、聖人の孝行は一切の有情に対して向けられたものと思います。

ですから、決して「親孝行をしなくてもいい」ということではないと私は思っております。私の受け取ります感じで言いますと、孝行を自分の親だけに限定することは一種の執着である、ということではないでしょうか。やはり人として孝行はなさるべきだと思います。
これは考えすぎかもしれませんが、もしかしたら、聖人にとっての孝行の形が浄土の教えをひろめることだったのではないでしょうか。

●re.17
日本丸
中国の男性
[ 2833 ] 自分の親に対する孝行と人々に対する愛情と親切 2012/08/25 (Sat) 23:48 △up ▽down
かめさんありがとうございます。
親孝行についてのかめさんの考えですが、私は最近、飛騨心理学研究所の本を読んでおりまして、その中に、万人を愛することをとく博愛主義者は間違いで、まず自分のいちばん近い父母親を救い孝行することから、全ての人を愛し、救うことができる、そこから御先祖様から天皇さまへとつながる親孝行の道があるのだと教えてあります。
ですから自分の親だけに孝行するというのではなく、まず自分の親に孝行をしなければならず、それを通じなければ他の人々に対する愛情や親切などへはつながっていかないのではないかと思います。みんなを大事にして、みんなを救うのですが、そのためにもまず自分の親に孝行をし救ってあげない方が不自然だと思います。

●re.18
日本丸
中国の男性
[ 2834 ] 念仏を捨て祭祀の道を選んだ私 2012/08/26 (Sun) 08:48 △up ▽down
南出喜久治氏という弁護士の方が、國体護持塾という政治団体を指導されておりますが、南出先生も石川県の生まれで御両親が熱心な浄土真宗の信者であられ、先生自身も、京都の西本願寺のなかで仕事をしておられた経歴があるかたでしたが、浄土真宗の教義と実態に疑問を持ち、日本の随神の道にひかれ、念仏を捨てられたと言います。そして、今現在は、御霊や天皇様や御先祖様、父母への感謝と尊敬の祭祀の道を行い、日本の再興のために精力的に御活動されておられます。
私は、創価学会の会員として日蓮の仏法を信じておりましたが、マルクス主義にはまり、長いこと日本共産党を支持し、活動をしておりました。共産党の理論と実態に疑問を持ち、除籍され、一時念仏に救いを見出し、みなさんと同じように親鸞の教えを喜んで信じておりましたが、暁烏敏先生の御著作を読み、同じ真宗でも、天皇様を支持する日本人的な人がいたことを知りまして、日本思想へと関心がいきました。そして、わたくしも、浄土真宗が私たち日本人が天皇様の子孫であり、自分がその天皇様の子孫の日本人の父母の子供であるにもかかわらず、阿弥陀様という絶対の仏様の絶対の救いを信じて、親孝行を忘れて信心していることのおかしさに気づき、棄教いたしました。今現在は、わたくしも御霊や天皇様、御先祖様、父母への感謝と尊敬の念を持ち、日々祭祀の生活に励んでおります。皆さんはどう思われますでしょうか。

●re.19
かめ
非公開の男性
[ 2835 ] Re1:念仏を捨て祭祀の道を選んだ私 2012/08/26 (Sun) 22:09 △up ▽down
>ですから自分の親だけに孝行するというのではなく、まず自分の親に孝行をしなければならず、それを通じなければ他の人々に対する愛情や親切などへはつながっていかないのではないかと思います。みんなを大事にして、みんなを救うのですが、そのためにもまず自分の親に孝行をし救ってあげない方が不自然だと思います。

そうかもしれませんね。まず自分の親に対して孝行する気持ちを持つのが自然に感じます。ただ、仏教は執着を嫌うようです。孝行が執着に変わるとそれは仏教的にはよろしくないとされるのではないでしょうか。「自分の親」に対する孝行が「自分の」というところに重点を置かれますと執着になるかと思います。そこさえ守れば孝行は勧めるべきものなのではないでしょうか。
(でも、「勧めるべきものができない」「わかっているけれどもできない」という者のための教えが浄土・・・。などと私も頭が整理できておりません。やはり信心をいただいていない以上頭で推測するしかないのが悲しいです。)


>そして、わたくしも、浄土真宗が私たち日本人が天皇様の子孫であり、自分がその天皇様の子孫の日本人の父母の子供であるにもかかわらず、阿弥陀様という絶対の仏様の絶対の救いを信じて、親孝行を忘れて信心していることのおかしさに気づき、棄教いたしました。

おそらくですけれども、日本丸様が感じておいでになる「おかしさ」というのは、日本人が伝統的に持ってきた精神と、いわゆる一神教的な考え方との間の「なじめなさ」の問題なのではないでしょうか。
ボン様もおっしゃっておられましたが、私も未熟者なりにも同じように、阿弥陀様は一神教のような「絶対の神」とは違うのではないかと思っております。阿弥陀様の「絶対の救い」というものも、「全知全能だから」「天地創造の神だから」という考え方とは違うのだと思います。

浄土教は法然上人、親鸞聖人によって日本で花開いたということを聞きますが、それはお二人がお示しになられた教えが、日本人が伝統的に持つ世界観によく合致しているということを示しているのではないでしょうか。
全体として日本人にはキリスト教の神はなかなか受け入れにくいものがあると思いますが、阿弥陀様はすんなりと受け入れやすいものがあるのだと思います。


私も真宗では孝行がどのように考えられてきたかについてはほとんど存じませんので、知りたく思います。
正直に申しますと、私はこれまで孝行ということについてはあまり考えたことがございませんでした。孝行が人間として生きるべき道だと教えられたとしても、どうもピンとこないというのが実状です。
もうお分かりかもしれませんが私は安心ということにこだわっております。孝行の毎日を送ればそれで安心して生きていくことができる、とは中々思えそうにありません。別に孝行を否定しているわけではありません。私の中で孝行と救いが結びついていないということです。
日本丸様は孝行のどのようなところに救いを感じていらっしゃるのか宜しければお教え下さいますでしょうか。

●re.20
日本丸
中国の男性
[ 2836 ] 親孝行の必要が感じられるわけ 2012/08/27 (Mon) 10:04 △up ▽down
親孝行の毎日を送ればそれだけで安心して生きていけるとは思いませんが、それでも親不孝をしていて、他力念仏の信心だけで、自分だけ信心決定して安心できるものではないのも事実です。信心ができるのも親や御先祖様があっての話で、人間ですので、自分の親に孝行をしていなければ本当の安心は得られないと思います。だから、念仏もいいですが、天皇様の有り難さに気づくこともやはり必要不可欠になるかと思います。
●re.21
かめ
非公開の男性
[ 2839 ] Re1:親孝行の必要が感じられるわけ 2012/08/30 (Thu) 12:17 △up ▽down
そうなのですか。
やはり今の私には何もお答えできません。
何か答えたとしましても、頭でひねり出しただけの中身のないものとなってしまいます。
私自身の口から、「念仏とはこういうものです」と言えればよろしいのですけれども、今の私にはとても無理そうです。他人の言葉を借用するしかできません。

孝行の問題が真宗では大事に扱われているかいないかにかかわらず、私もどなた様からかご意見聞いてみたい気は致します。
早くご信心いただきたいものです。

●re.22
せん
非公開の非公開
[ 2840 ] Re2:親孝行の必要が感じられるわけ 2012/09/01 (Sat) 10:31 △up ▽down
真宗の師のことば(例)


   一つ船に乗れる如くせよ

 一つ家に寄集り、親となり子となり、夫婦となり、主となり家來となり、これほど親しき因縁はない。「同行相親むことは、一つ船に乗ぜし如くせよ」との仰せもあつて、同じ家に棲める身は、一つ船に乗つて大海に浮ぶ思ひにて、互に相親しみたきことなり。船の外はみな大海、船より落つれば命を失ふ、もし誤りて船より落たれば、落たる人のみ不調法にあらず、乗合のものも申譯はない。家内もまたその如く、佛法につけ、世間につけ、心得違より一切のことを誤るなり、それを其儘すておいて誤らせては、家内残らずの誤りとなる。凡て畜生は愚痴にして、己が腹のみふくらさんと思ひ、他を顧みて助けることを知らぬ。萬物の長たる人間は、自分獨りの得ばかり考へず、互に相助け合ふて、此世の身すぎいたさねばならぬ。親は子が力ら、子は親を力に思ひ、弟は兄を力に思て、互に我慢を募らず、得手をいはず、家内相やはらぎて、五倫の道さへ調へば、家の中は自ら治まる道理。よつて今まではたとひ我慢邪見な心中にて、互に人をうらみ、己を高ぶり、瞋恚をもやし、愚痴をこぼし、欲心のみ裂かんにあらうとも、今日より後は、この心底を相改め、善知識の御化導に順ひ、おのゝゝ信心を獲て、念佛申しゝゝ、親は子をあはれみ、子は親に孝行をいたし、妻は夫を敬ひ、夫は妻を憐み、兄弟も中よく大切にいたし、一連託生の一つ浄土へ往生とげたいといふ思ひより、御法義を喜びゝゝ、浄土参りの相談して、日々銘々の家業を怠らぬやういたされよ。


   お慈悲喜ぶ心から

 實に思へばゝゝ恐ろしや、無量永劫地獄へ落つる身を持ちながらうかゝゝ暮し居るこの徒ら者を不便と思召、何卒三悪道へは沈めともない、お待もふけの御浄土へ往生遂げさせたいとある善知識の御化導、よくゝゝ聴聞してみれば、かゝる淺間しき一生造悪の我等が願もいらぬ行もいらぬ、帰むばかりで助けたまふ御本願、我等が根機に相應したる貴さよ、息切れ命終りなば直に浄土へ往生遂げさせて頂き、無量の楽みを思ふ儘に得さしめ下さるゝとは、これはマァ何たることの有難や、あら貴や有難やと喜びゝゝこのお慈悲喜ぶからだも、親様の賜物なれば、身體髪皮父母よりうく、頭も手も體も足もみな親様の賜物、親の下された此體で親へ不孝は出來はせまい今より後は親様のお慈悲に背かぬやう、孝行致したう御座りますの思ひになり、家も道具も田も畑も、みな残らず親先祖からの預りものと心得れば、先祖の御恩も思ひ知られ、己がゝゝの心をやめて、なるたけ親へ孝行を心かけ、心易く家業をつとめ、心おきなうお慈悲を喜ばせて下さるゝ治世の國恩も思はれて、その有難さに王法國法を大切に重んじ、年貢所當を大切に上納致し、御法度ごとは背かぬやう致されぬばならぬ。


   女房に對する心得

 さてそれからは、我妻を我女房ぢやと思ひましたも勿體なや、われゝゝ夫婦の契を結び、両親へ事へ奉り、先祖の跡を相續して、幸いお慈悲を喜ばせて下さるゝ御同行ぞと思へば、我は常に外へ出て心おきのふ家業家職を営むも妻が留守してくれゝばこそ、両親へ仕へ子供を養育し、衣服から食事まで、家の世話には少々の苦労ではないと、妻の心配も思ひやり、それ程心を盡し身を労し内をつとめてくれる故、我身は心おきのふ家業をつとめお慈悲を喜ばしてもらふと思へば、妻もいかばかりか大切になる。かくまで現世で我身の爲になりてくれる女房を鬼の手に渡してはならぬ。何うぞ同く華の臺へ往生遂げさせたいの思ひより。心を盡して御法の話しをきかせ、妻も實に法義にいつてくれるなら、自ら親の御恩も思ひ知り、夫の留守にも孝行してくれるであらう、夫婦もろとも御慈悲を喜びて、両親へ孝行致すであらうなら、親もいかばかりか満足であらう、子供も正直に御法義に入り、親を大切にするであらう、息子にも娘にも法義聴聞させて、何卒未來一つ浄土へ往生遂げさせたいの思ひより、御法義の話しをもし、共にお慈悲を喜べば、此様な難有いことはない。



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