浄土真宗の教義について

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●No.172
かめ
非公開の男性
[ 2777 ] 信心決定についてお教え下さい 2012/07/15 (Sun) 22:42 △up ▽down
皆様、こんばんは。またまた失礼いたします。

こちらの掲示板で質問させていただきながらご信心をいただくことができればと思っております。

最も聞くべきことは信心決定についてであると考えます。それゆえどうお聞きすれば良いかが難しいことではありますが、私なりに考えるところを述べさせていただいて皆さんのご意見を仰げればと思います。


よく「疑いをさしはさまず」と言われます。このときの疑いとはどういうことなのでしょうか。私が思いますに、このときの「疑う」というのは仏がいるかいないか、極楽はあるのかないのか、というようなことに対する疑いではないと思います。

もし、このような意味で阿弥陀様を「信じる」と言った場合、それは私でもやろうと思えばできそうな気もいたしますし、真宗の教えをほとんど聞いたこともなく、18願もいわれも聞いたことのないような方でも可能だと思います。
私でも可能であるということはこの信は自力の信であると考えます。

そうかと言いまして、信ずるに足る根拠を得たときに得られるものが信だとも思えません。なぜなら、凡夫には阿弥陀様の救いが妥当かどうかを判定することなど不可能だからです。
ですから、真宗の信は阿弥陀様の救いが本当であるのだと信じることでもないと思います。

このような信を阿弥陀様からいただいた信と言うには少し無理があるように感じます。言う必要がないことのように思えるのです。「私の信だ」と言っても問題があるようには思えません。
しかし、真宗においてこの「いただく」ということは大変に重要なことと思います。

やはり、いただくのは阿弥陀様からでないといけないわけです。ですけれども、上記の信は「阿弥陀様」の箇所を他の神さまの名前に変えても通用します。実際、他の宗教の信者の方の信もこれと同種の信であると考えます。

私はやはり、信には自覚や帰郷の念が伴うものと考えます。
自身のあり方が間違ったものであった。それが正しいところへ還ることができた。と言う感覚ではないかと思うのです。
つまり、新たに得るのではなく、最初からあったものに気付くという形です。
最初からあったというのは阿弥陀様の救いの法が自分の生まれる前から届いていたということです。
そうであるなら「阿弥陀様からいただいた」という表現も納得できます。

それからもう一つ。「すべてをまかせる」ということも言われますが、凡夫にすべてをまかせることなどできないと思います。
凡夫は自我の塊です。常に飢えて渇いて求めての一生です。保身のみと言っても良いのではないでしょうか。
そんな凡夫に阿弥陀様におまかせすることなどできるのでしょうか。私は「おまかせ」という形を取って阿弥陀様を利用して救われようとしている自分に気がつく度に愕然とします。自我に自我を滅することはできないと考えます。

私の考えを整理しますと、信は、「凡夫である自分にはわからないけれども救われるのだと信じる」ことではなく、「阿弥陀様が凡夫を救うと言って下さったそのことを信じる」ことであると思います。
わからないものを信じるのではなく、(わかっている)いわれを信じるのです。18願を知っている人は皆わかっているのです。
信心をいただいていない私共は、わかっているそのことに対して納得ができないだけなのではないかと思います。

私自身の心を覗いてみますとよくわかります。そのいわれを聞いても、「そんなことで救われるなんてとても納得できない。物足りない。」という気持ちになります。その背後には「納得できるものによって救われたい」という自我の所有欲が窺えます。私はどこまでも何ものをも所有したがり、コントロールしたがります。救いの法をでさえ所有したがるのです。
この所有欲が苦しみの根源であるために、浄土門では「自力の信」を戒められたのではないかと私は思います。

そうしますと、信心決定というのは、そのいわれが本当である、自分にも救いの手が差し伸べられていると「知る」ことなのではないかと私は考えます。


以上、信心をいただいていない身で厚かましいことを言いました。私が言ったのはあくまでも推測であって信でないことは重々承知しております。けれども、己の最も深いところのものを表に出さないことにはそれの訂正のしようもないので思い切ってこちらに書かせていただきました。

どうぞ、信心決定された方もまた私と同じようにそうでない方も、どんなことでも結構ですのでご意見下さると幸いです。
未熟の身で失礼いたしました。決して他の方への批判ではありませんのでご理解下さい。

●re.1
せん
非公開の非公開
[ 2778 ] Re1:信心決定についてお教え下さい 2012/07/16 (Mon) 18:04 △up ▽down
かめさん、はじめまして。

かめさんが言われて(書いて)いるとおり、同感です。

「骨折って聞け」と先徳は教えているので、無耳人が知れるといいですね。

●re.2
かめ
非公開の男性
[ 2781 ] Re2:信心決定についてお教え下さい 2012/07/18 (Wed) 22:49 △up ▽down
せん様、はじめまして。お返事ありがとうございます。

同感していただけて嬉しいです。
「無耳人」という言葉は初めて知りました。有難うございます。
骨折って聞けるように頑張ってまいります。


それから、『縁起について』というスレッドでボン様とさせていただいたやりとりが、こちらのテーマと重なってしまったところがありますので、ボン様に対するお返事をこちらに書かせていただきます。ややこしいことをしまして、ボン様、皆様、申し訳ありません。


>たとえばどういうことになるかというと、「あなたたちは、この世に生まれるまえから、
>六道をさまよってきたのだ」といわれれば「ああそうなのか」とそのまま受け入れ、「そ
>のわけは、自分の作った罪によって、その結果を刈り取っているのだ」と言われれば、
>「ああそうなのか」とそのまま受け入れ、「その罪を滅ぼす行を自力で修めるのは凡夫に
>は無理だ」と言われれば「ああそうなのか」とそのまま受け入れ、「そのような凡夫をだ
>だ一人救うことができるのが阿弥陀仏だ」と言われれば「ああそうなのか」とそのまま受
>け入れ、「阿弥陀仏に助けていただくのは何も難しいことではなくて、善智識に六字のい
>われをきいて、あとはおまかせすればいい」といわれれば「ああそうなのか」とそのまま
>受け入れればいいということではないかと思うのです。
>
>解らないことは知っているいる人にたずねて、その結果どうしても納得がいかなければ、
>「そのまま捨てればいい」だけのことだと思うのです。「そのまま受け入れ」て、自分に
>合わなければ「そのまま捨てればいい」のです。

ボン様が具体的な例を出して下さったのでそれをもとに書かせていただきます。
私は、「疑いをさしはさまず」というときの疑いというのは、ボン様の例で言いますと「六道をさまよってきたのだ」と聞かされたときに「いや、そんなことはない」と言って疑うのとは違うことのように思うのです。
「ああ、そうなのか」と思っていたとしても、人によってはまだ疑っている場合があると思います。それは積極的に「疑ってやろう」というものではありませんが、本人も気がつかない内に持っている疑いなのだと思います。
私自身がそうでして、私は「念仏を称えたら救われるのだよ」と聞かされても、「でも今の私は救われていません」とどうしても言いたくなるのです。

「間違いなく救いの手は差し伸べられてあなたのところへ届いているのですよ」と聞かされても、私はいまだに「ああ、救われないかなぁ。苦しいなぁ」と不満を言っています。それは救いを認めていないことにあたります。救われているはずなのにそれを否定しているのですから。「疑いをさしはさまず」というときの疑いというのはこのような本人も気がつかないようなレベルのものだと思うのです。ですから、疑いを捨てようとしてもこれは捨てられるものではありません。信じることができたときのみ無くなるものと思います。

また、この種の疑いは例えその人が信心深い人であったとしても人間であれば当然誰もが持っているような疑いであって、それゆえに「信心」ということがありがたいものとなるのだと私は思います。

ですから、「信」ということも、「ああ、そうなのか」というよりは「ああ、本当にそうだった」という感じではないかと私は思うのです。が、ここのところは推測に過ぎませんので何とも言えない部分ではあるのですが・・・。

また、「信」ということを考えますとき、リアリティということを思います。
私が「私は凡夫である」と言ったとき、それはただのうわべだけの言葉であって、その言葉にはリアリティがありません。ただの名刺のようなものです。
やはり心のどこかで自力でどうにかなると思っている気持ちがあると思うのです。まさか自力で極楽へいけるとは思ってはいませんけれども。

そうしますと、どれだけ己を凡夫と思えるか、どれだけ救われようのない身であると思えるかが大切なのではないかと思います。

凡夫であると言いながらさして自らを反省することもなく、また一刻も早く往生すべきであるのに呑気にしている。とても救われる身ではないのにどこかで自力で何とかなると思っている。それが凡夫なのではないかと思います。

そのように考えますと、凡夫は心の奥底では自分は救われると信じているのではないかとも思えます。無常であるにも関わらず呑気になんとかなると思って暮らしている。そのことが大きな問題だと言われているのでしょう。
凡夫のこの根拠のない自信は決して報われることのない自力の信であり幻であるからこそ、そのことに気付いて念仏を称えよと祖師方は言われたのではないかと予想します。

しつこいようですが、「あなたは凡夫である」「救われない身である」と聞かされましても、「本当にそうだ」とはなかなか思えないのが凡夫なのではないでしょうか。それゆえに本当にそうだと思えたときを信心決定といわれるのであって、それは単純に「ああ、そうなのか」とわからずに受け入れることとは違うのではないかと私は思うのです。

こうして書いていくうちに、正しいかどうかはともかく自分が考えていることが少し整理されてきました。ありがとうございます。この経験が信心をいただくための何らかのきっかけとなってくれれば幸いです。
ボン様、皆様、他に意見がありましたらどうぞお願いいたします。

●re.3
菩提心
非公開の非公開
[ 2782 ] Re3:信心決定についてお教え下さい 2012/07/20 (Fri) 04:21 △up ▽down
>私自身がそうでして、私は「念仏を称えたら救われるのだよ」と聞かされても、「でも今の私は救われていません」とどうしても言いたくなるのす。

信心決定は、私達から疑いがなくなるということではなく、仏の真実心が私の心に徹底した時ですよね。
自分で疑いなきように努力すればするほど、遠回りすると思います。

今は、疑いながら「念仏称える」ことこそ、一番の近道だと思います。

私達には、何処が十九願か、二十願か分かりません。

私自身、信心決定していましたが、それでも御念仏は信心決定する前は、自力の念仏だとずっと否定され続けていましたので、口から出る御念仏を抑えている時がありました。

しかし、信前も信後も御念仏一つです。

そして、今親鸞聖人が「念仏為本」と仰っています。
「往生の業は、念仏を本となす」ということです。

南無阿弥陀仏の六字の名号を称念することが、浄土に往生すべき正定業だからです。

「果遂の誓」は二十願の誓いです。

浄土和讃に「定散自力の称名は、果遂のちかひに帰してこそ、おしへざれども自然に、真如の門に転入する」と書かれています。

南無阿弥陀仏の一称には、私達には計り知れない功力があると思います。

親鸞聖人は「専修念仏」を薦めておられます。

大きい声で称えなくても、我が声が、我が耳に聞こえるような感じで、いつでもどこでも「阿弥陀様は絶対私を救って下さる」との思いを込めて、称えてみて下さい。

南無阿弥陀仏

ほら、最後まで読まれると、もう一称。

私達の為の阿弥陀様の御苦労であり、
親鸞聖人の御苦労です。

私は、今は御恩報謝の御念仏。

早く一味同行になられるといいですね。

自分を「凡夫」と思っている以上に、もっと自分は最悪最下な人間です。

そんな自分の機など相手にせずに、ひたすら「救って下さる阿弥陀様」に心を掛けて下さい。

●re.4
せん
非公開の非公開
[ 2783 ] Re4:信心決定についてお教え下さい 2012/07/20 (Fri) 23:19 △up ▽down
>それは積極的に「疑ってやろう」というものではありませんが、本人も気がつかない内に持っている疑いなのだと思います。

難治難化ってことですね。


>私自身がそうでして、私は「念仏を称えたら救われるのだよ」と聞かされても、「でも今の私は救われていません」とどうしても言いたくなるのです。

そうですね。


>「間違いなく救いの手は差し伸べられてあなたのところへ届いているのですよ」と聞かされても、私はいまだに「ああ、救われないかなぁ。苦しいなぁ」と不満を言っています。それは救いを認めていないことにあたります。

そうですね。でも、

>救われているはずなのにそれを否定しているのですから。

「救われているはず」???
救われてないから、否定というか、無いものを有るように思ってないのだから、
「私はいまだに「ああ、救われないかなぁ。苦しいなぁ」」なのでは。


>そうしますと、どれだけ己を凡夫と思えるか、どれだけ救われようのない身であると思えるかが大切なのではないかと思います。

そうかもしれないですね。


>しつこいようですが、「あなたは凡夫である」「救われない身である」と聞かされましても、「本当にそうだ」とはなかなか思えないのが凡夫なのではないでしょうか。それゆえに本当にそうだと思えたときを信心決定といわれるのであって、それは単純に「ああ、そうなのか」とわからずに受け入れることとは違うのではないかと私は思うのです。

同感。


>こうして書いていくうちに、正しいかどうかはともかく自分が考えていることが少し整理されてきました。

凡夫の考えが整理されては、これは一大事ですね。


>ありがとうございます。この経験が信心をいただくための何らかのきっかけとなってくれれば幸いです。

これまた、一大事ですね。

●re.5
ボン
東京の男性
[ 2784 ] Re5:信心決定についてお教え下さい 2012/07/21 (Sat) 09:52 △up ▽down
かめさま、こんばんは。

菩提心さまのおっしゃることは、まったくそのとおりだと思います。

かめさまは、ここのスレッドで実に様々なことを述べておられて、そのすべてにコメント
するのはなかなか大変ですので、とりあえず、ここでのテーマである「信心決定」につい
て申し述べさせていただきたいと思います。

「信心決定」という言葉は、ここの掲示板でもたくさん出てきますし、ご聖典にも割りと
多く出てくる言葉です。しかし、私自身は、何か面映いような感じがして「信心決定」と
いう言葉をほとんど使いません。その代わりに「信心をいただく」とか「信心を頂戴する」
などという言い方をよくします。「信心を獲る」「信心を得る」「信心獲得」と言っても
同じだと思っております。

それはさておき「信心決定」という言葉に限っていえば、「信心決定とはこうだ」とはっ
きりと定義付けている文言は、ご聖典のなかで見つけにくいような気がしております。そ
のなかでも比較的わかりやすく「信心決定」について述べられているのは、御文の以下の
文言です。

--------------------------------------------------------------------------------
まづもろもろの雑行をさしおきて、一向に弥陀如来をたのみたてまつりて、自余の一切の
諸神・諸仏等にもこころをかけず、一心にもつぱら弥陀に帰命せば、如来は光明をもつて
その身を摂取して捨てたまふべからず、これすなはちわれらが一念の信心決定したるすが
たなり。(御文1-13)
--------------------------------------------------------------------------------
そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命する
かたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれを
よくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。(御文3-7)
--------------------------------------------------------------------------------
当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。
(御文4-8)
--------------------------------------------------------------------------------
他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定して(御文1-11)
--------------------------------------------------------------------------------

ここで「信心決定したるすがた」とか「信心決定の体」などと言っていることに、注意が
必要なように思います。このことから「信心決定」には「すがた」または「体」があると
いうように考えてもよろしいかと思います。

それが何かいえば「一心にもつぱら弥陀に帰命」することであり、「南無阿弥陀仏の六字
のいはれをよくこころえわけたる」ことであり、それはとりもなおさず「南無阿弥陀仏の
六字のすがた」だということですよね。そのためには、「他力の大信心の次第をよく存知
したらんひとにあひたづね」る必要があると述べられています。その「他力の大信心の次第
をよく存知したらんひと」というのは、以下の文言により「次第相承の善知識」にほかな
らないといえると思います。

--------------------------------------------------------------------------------
「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、
善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かなら
ず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。(御文1-15)
--------------------------------------------------------------------------------
いかに行者の名字をしるしつけたりといふとも、願力不思議の仏智を授くる善知識の実語
を領解せずんば往生不可なり。(改邪鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
次第相承の善知識これを授けたまはずは、われらいかでか生死の根源をたたん。(持名鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

このように、ご聖典を素直に読み、「そのまま受け入れれば」、「信心決定」にはすがた
があり、それは「南無阿弥陀仏の六字のすがた」であり、それは次第相承の善知識に聞か
なければわからないと書いております。(これは私の個人的な見解を述べたものではなく、
ご聖典にそう書いてあるのです。)

ここで少なくとも明らかなことは、言葉で「信心決定」とはいうものの、「信心」は自ら
の力で決定できるものではない、ということです。次第相承の善知識にたずねて、その教
えをうけて、阿弥陀様から頂戴するものだ、ということです。

その場合、自らの心の持ちよう、例えば、心から信じきっているとか、疑いの心を断ち
切ることができないとかいうことは、とりあえず、問題とされていないのです。逆に問題
とされているいるのは「すがた」だとか「体」だとかいうものです。それは身体にかかわ
ること、つまり、行いであり、行法であり、ひいては往生のための業因だということにな
ります。

それはいわば、教行信証の行であり、その行は信と一体不可分だというわけです。「行を
はなれたる信はなし」(親鸞聖人御消息)というのは、そのようなことだと思います。

ここでひとつ例え話をお許し下さい。AさんがBさんのところにお金を借りにきたとします。
Aさんの話を聞いてBさんはAさんにお金を貸したとします。これを「BさんはAさんを
信用した」と一般に言うのではないかと思います。そのときBさんの心にわずかな疑いが
あったとても、思い切ってお金を貸したのなら、世間の人は「BさんはAさんを信用した」
とみなすのではないかと思います。逆にBさんがAさんに「あなたのことは信用するよ」
と言ったとしても、なんだかんだ言ってお金を貸さなかったとしたら、第三者は「Bさん
はAさんを信用しなかった」と見るのではないかと思います。

ここでお金を貸したのは「行い」つまり「行」にあたるものと見立てています。大事なこ
とは「お金を貸した」ことであって、Bさんの心の迷いなどは第三者(世間)にとっては
関係がありません。かりに心の底から「私はAさんを信用している」と思えたとしても、
明日には変わってしまうかもしれないし、「信用してる」というのは本人の単なる思い込
みかもしれません。それくらい人の心などあてにならないのです。逆に「お金を貸した」
という事実は、Aさんの人生に大きな影響を与えますし、心の中の思いよりも重いものです。

疑う心は煩悩のひとつで、「疑煩悩」というのだそうです。阿弥陀様は、そのような煩悩
にまみれた凡夫をそのまま救うといっているのですから、あまり、自分のなかの疑う心に
あまりこだわらないほうがいいような気がいたします。

ほかのところでも述べましたが、信という言葉には、「まこと」という意味があります。
したがって「信心」には「まことの心」という意味もあります。ご聖典には大信心は仏性
だとも言っています。信心とは、いわば、阿弥陀様からいただいた仏性だということでは
ないでしょうか。必死に疑いの心を取り除いたあかつきに、信心が芽生えるということで
はないように思います。

南无阿彌陀佛

●re.6
かめ
非公開の男性
[ 2785 ] Re6:信心決定についてお教え下さい 2012/07/21 (Sat) 15:42 △up ▽down
菩提心様、こんにちは。

>今は、疑いながら「念仏称える」ことこそ、一番の近道だと思います。

やはり疑いながらもひたすら称えるだけですよね。
自力の念仏は、信心決定して他力の念仏に変わるまでずっと自力の念仏ということですよね。

>自分を「凡夫」と思っている以上に、もっと自分は最悪最下な人間です。

きっとそうなんでしょうね。私が「自分は凡夫である」というときはただの社交辞令のような実感しかこもっていないのが事実です。凡夫であることに気が付かないから凡夫、というところでしょうか。

私も一刻も早く信心決定させていただきたいです。


せん様、こんにちは。

>「救われているはず」???
>救われてないから、否定というか、無いものを有るように思ってないのだから、
>「私はいまだに「ああ、救われないかなぁ。苦しいなぁ」」なのでは。

私の受け取り方ですと、人間には皆救いの手が差し伸べられているという点で、既に皆救われているけれども、その救われていることに気がつかないで「救われないなぁ」と自ら不満を作り出し苦しみの世界に迷い込んでいる、というのが凡夫なのではないかと思っています。
その気付かせなくしているもののことを無明とおっしゃっているのではないかと思います。目が見えていないために救いの身であることに気がつかないということです。
このような理解の仕方はおかしいとされているのでしょうか。またお教えくださるとありがたいです。

>凡夫の考えが整理されては、これは一大事ですね。

このご指摘はなんとなくどなた様からかいただくのではないかと思っていました。ここのところは自分でもモヤモヤしているところなのですが、私は浄土の「信」が普通に言う意味での「信じる」ということと違うのは、それが「知る」という面を持っているからだと予想しています。あくまでも予想ですけれども。
ですから(といって良いかはわかりませんが)、凡夫の側から予想することが例え間違っていたとしましても、法に心を傾けていない限り信心決定はないのではないかと思うのです。
仮に今の私の態度が間違いであったとしてもやがてそれが不正解だとわかったときには信心をいただけているのでしょうから、それまで心を傾けて自身なりに救いの法とは何なのだろうと注視していくのは必要なことなのではないかと思います。
けれども、これを「必要」と言ってしまうとそれはそれで良くないことのようにも思えますが・・・。


ボン様、こんにちは。

>されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。

私は考え癖のある人間でして、自分が「救われていない」との実感がありますので、「では、それはなぜだろう。それは「いはれ」を知らないからだ。では、その「いはれ」とは何なのだろう。」と考えてしまいます。それは私に限らず人間は皆そうでしょうけれど。
このような思考を一通りした後に、「いや、「いはれ」は阿弥陀様が「念仏称えた者は皆救う」とおっしゃってくださったそのことだけだ。だから「いはれ」は知っているのだ。知っているけれどもそれでは物足りないという自分がいるのだ。」と気付かせてもらいます。

私はこれが大切なことではないかと思うのです。どこまでも自分の気に入る形、自分に呑み込める形としての救いを求めているがゆえの凡夫の苦しみであって、その心からの解放のための「自力ではなく他力」とのお教えだと思います。
つまり、自力でも娑婆世界を離れることはできるけれども凡夫には無理だ、というよりも、自力にどこまでも執着するのが人間の性であって、それにも関わらず、その執着の故に苦しみ、娑婆世界をさまようことになる、と考える方がより深い内実を表しているような気がいたします。
私は浄土門も他の宗派と同じように執着からの解放を救いとしていると考えています。ただ、それをあからさまに前面に出すと「自我をなくそう」という新たな執着を生み苦しみをさらに深めてしまうような者が多かったがために、執着ということをあまり説かないで、それでも真に仏教であるところの芯は外さない教えとして生まれたものが浄土の教えだと思っているのですが、これはいかがなのでしょうか。私の思い込みでありましたら捨てるべきですよね。文章力が足らず伝わらなかったら申し訳ありません。

>その場合、自らの心の持ちよう、例えば、心から信じきっているとか、疑いの心を断ち
>切ることができないとかいうことは、とりあえず、問題とされていないのです。

私もそう思います。そのような信であるとするなら、揺らぐ可能性があると思います。信じることができたなら疑うこともできると思いますから。
私はやはり、信とは知ることであると思います。
一度リンゴは赤だと知ったならばもはやそれを黒や黄と疑うことはできません。疑おうとしても知ってしまっている以上疑いようがありません。それと同じで、阿弥陀様に確かに救い取られていたのだと知ったのならそれを疑いようがありません。身の事実となっているからです。
それに、「知ること」であるなら心の持ちようは関係がありません。

それと、お金を貸すことの例えについてはどうも合点がいかずにいます。例えでおっしゃってくださっていることの意味自体はわかるのですが、それが阿弥陀様への信と同じなのだろうか、とモヤモヤしています。ボン様の例えでは信の持ち方や信の形についての例えとはなっていますが、信の持つことでどうして救われるのかがわからないように思います。
また一つ、疑問が出てきました。どうして信をいただくと救われるのでしょうか。と言いますか、極楽へ往かせていただくことはなぜ救いとなるのだろうというのが私の中でネックになっています。

信心決定された方にお聞きしたいのですが、極楽へ往かせていただくことを救いと感じていらっしゃるのでしょうか。もしそうならそれは極楽へ恋焦がれるというような心持ちなのでしょうか。
私の「予想」ですと、信をいただくことそのものが、自身を救われている身としての自分と見直すことによって、そのことが救いとなる、という感じなのですが、いかがでしょうか。

救いというのは極楽へ往かせていただくことでしょうか。それとも救われていると自覚することでしょうか。
救いの重点を「極楽」におくのか「信」におくのか、ということです。

どうぞどなた様でもご意見や、救いを感じていらっしゃる心の風景などお聞かせ願えますとありがたいです。

●re.7
せん
非公開の非公開
[ 2786 ] Re7:信心決定についてお教え下さい 2012/07/21 (Sat) 21:14 △up ▽down
>このような理解の仕方はおかしいとされているのでしょうか。またお教えくださるとありがたいです。

うーん、できるようになろうとしている所が問題になっていないですね。

6才の子が、まだできない時に、鉄棒で逆上がりできるようになろうとするのはおかしくないけど、逆上がりできるようになったら、できるようになろうとしないですよね。


>救いの法とは何なのだろうと注視していくのは必要なことなのではないかと思います。

「解脱の耳をすませて聞け」、とのことですから、何も必要ないのでしょうね。

かめさんは、あんまり苦しくないんじゃないのでしょうか?
であれば、苦しくなくなりたい、もないでしょうし・・・

分からないでもないですが、かめさんの文面からは、解釈しよう・理解しようとの気持ちが伝わってきます。仏教や他の宗派、淨土門・・・


こんな風におっしゃる方があります。
***
何事は覚えずとも、かかるものを御助けの御慈悲、命終らば仏になることの嬉しやと云う味わい丈は、是非に覚えねばならぬ。
***
みな人は、信をとらんと思い、また、たのみ心にならんと思えり。それはあんまり、欲が深すぎると云うもの也。取ることばかりに骨折って、自力を捨てることに骨を折ることを知らぬの也。碁をうつにも捨石が大事なり。信を得るにも、雑行をすてることが大事也。
***

コノコトハリニ マヨヘランヒトハ イカニモ々学問シテ 本願ノムネヲ シルヘキナリ 経釋ヲヨミ 学ストイヘトモ 聖教ノ本意ヲ コヽロエサル条 モトモ不便ノコトナリ

●re.8
菩提心
非公開の非公開
[ 2787 ] Re8:信心決定についてお教え下さい 2012/07/22 (Sun) 06:42 △up ▽down
かめ様

香樹院語録に以下のような文章があります。

279

いやでも引きよせられる

助かりたいと思ふ我等の心は疎(おろそ)かねれども、助けたいの大悲の念力に引きよせられて、必ず必ず疑いは晴るる程に。
危うげなく、この世を暮らし、ご称名を励まっしゃれ。


名立たる善知識様の御言葉は、簡潔ですね。


私は有難くそうだそうだと頂くばかりです。

●re.9
かめ
非公開の男性
[ 2788 ] Re9:信心決定についてお教え下さい 2012/07/22 (Sun) 13:08 △up ▽down
せん様、こんにちは。

>6才の子が、まだできない時に、鉄棒で逆上がりできるようになろうとするのはおかしくないけど、逆上がりできるようになったら、できるようになろうとしないですよね。

こちらの例の意味をつかみかねています。わかろうとしている間は色々考えるけれども、わかってしまえばもう考えなくていいという意味でしょうか。もしそうだとしたら、確かにそうだとは思います。

>「解脱の耳をすませて聞け」、とのことですから、何も必要ないのでしょうね。

確かにそうなのかもしれないと知識や解釈ではわかっているんですけれども・・・。結局わかれていないのでしょうね。
「必要がない」というのは後から言えることではないかと思います。信心をいただけたあとなら、「ああ、わかろうと無駄なをことをしていたな」と言えるのでしょうが、そうなるまでは全力で無駄なことをする以外にないと思うのです。
自力の念仏をやめることができるのは信心を獲って他力の念仏になったときだと思います。それまでは間違い続けるしかないものと思います。いばった言うことではありませんが。

>それはあんまり、欲が深すぎると云うもの也。取ることばかりに骨折って、自力を捨てることに骨を折ることを知らぬの也。

こちらも同じですけれども、欲を捨てられる(と言っても欲をなくすということではないでしょうが)のは信心をいただくそのときのみと思います。それまでは哀れにもひたすら取ることばかりに骨を折ってしまうのではないでしょうか。そうでないと信心はいただけないのではないかと私は思っています。
こちらのお言葉は、「改めよ」との批判のお言葉ではなく、「後でこの言葉の意味がわかるだろう」との導きのお言葉に思えます。


>かめさんは、あんまり苦しくないんじゃないのでしょうか?

私自身としては苦しくしょうがないとは思っています。
けれどももしかしたら私の文面には感情がないというか、苦しさの感じられない文章なのかもしれませんね。文体だけでなく内容としても。
ついこの間、あるお寺のHPの問い合わせ欄に、こちらの掲示板でいつも書かせていただいているような内容の質問を書きました。書き終わってからも何か一番聞くべきことが聞けたという感じがまったくもてませんでした。
しばらく経ってから思ったのですが、せん様のおっしゃるように私は解釈ばかり書いていて、「苦しい!」と今現に感じているこの感情については何も書いていないことに気がつきました。これをもって相手の方にぶつからないかぎり霧は晴れないのかもしれないと、少し思いました。
いつでもどこでも何でも相談したらいいという訳ではないでしょうけど、そのようなスタンスは必要かもしれないと思いました。信心獲得のために必要、と言うとお叱りを受けるかもしれませんが。


菩提心様、こんにちは。

きっと、このまま続けていっても果遂の願のお力でなんとかなるのでしょうけれど、何とも不安この上ない日常です。
有難くそうだとは中々いただけないですが、早く私も信心いただけますようにと祈ります。

●re.10
せん
非公開の非公開
[ 2789 ] Re10:信心決定についてお教え下さい 2012/07/22 (Sun) 13:46 △up ▽down
「ヨハネの福音書」冒頭に、有名な表現がありますよね。
『はじめに言葉ありき』というアレです。

The Word Became Flesh
**********
In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

はじめに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
**********

まことに一人なりとも信をとるべきならば、身を捨てよ。それはすたらぬと仰せられ候ふ。


>自力の念仏をやめることができるのは信心を獲って他力の念仏になったときだと思います。それまでは間違い続けるしかないものと思います。いばった言うことではありませんが。

 信なくば勤めて念佛すべし、精(いさ)みて申すべきなり。念佛の申されぬは、往生が大事にならぬか、信心なきかの二なり。能々思ふべし。

  口にだに南無阿弥陀佛をとなふれば
    御名よりひらく信心のはな

●re.11
ボン
東京の男性
[ 2790 ] Re11:信心決定についてお教え下さい 2012/07/25 (Wed) 02:48 △up ▽down
かめさま、こんばんは。

かめさまは、仏教の言葉に独自の定義づけをして、その言葉を利用して、仏教とは違った
独自の論を展開しているように見えます。いわく・・・

凡夫の苦しみとは「人間には皆救いの手が差し伸べられているという点で、既に皆救われ
ているけれども、その救われていることに気がつかないで、『救われないなぁ』と自ら
不満を作り出し苦しみの世界に迷い込んでいる」ことだとおっしゃっておられます。それ
は「どこまでも自分の気に入る形、自分に呑み込める形としての救いを求めているがゆえ
の凡夫の苦しみ」であるともおっしゃっておられます。

そのような「自力にどこまでも執着するのが人間の性であって、それにも関わらず、その
執着の故に苦しみ、娑婆世界をさまようことになる」のだともおっしゃっておられます。
つまり、「既に皆救われているけれども」そのことに気付かず、自分の気に入るかたちに
こだわるから、救われたとも思えず、その執着のゆえに苦しむのだというわけですね。

しかし、一方で「とても救われる身ではないのにどこかで自力で何とかなると思っている。
それが凡夫なのではないか」ともおっしゃっておられますが、これは「既に皆救われてい
る」とおっしゃっていることと矛盾するような気がいたします。(細かいことですが・・・)

ともあれ、その自力への執着から抜け出して、初めからあった「救い」に気が付くことが
「救い」であるというご主旨ではないかとお見受けします。それは「信」とは「知る」こ
ただというお話とつながるものです。

「浄土の『信』が普通に言う意味での『信じる』ということと違うのは、それが『知る』
という面を持っているからだ」「もし信が自覚であったとするならば、それは己が救われ
ることのない身であるという自覚ではないか」とおっしゃっておられます。

その「知」または「自覚」というものは「自身のあり方が間違ったものであった。それが
正しいところへ還ることができた。と言う感覚ではないかと思うのです。つまり、新たに
得るのではなく、最初からあったものに気付くという形」だというわけです。

「信」とは「知」または「自覚」であって、「信をいただくことそのものが、自身を救わ
れている身としての自分と見直すことによって、そのことが救いとなる」ということです。

また「『いはれ』は阿弥陀様が『念仏称えた者は皆救う』とおっしゃってくださったその
ことだけだ。だから「いはれ」は知っているのだ。知っているけれどもそれでは物足りな
いという自分がいる」とおっしゃいます。物足りないと感じて自力に走る自分を知って、
本来の正しい自分に帰ることが「信」であって、それが「救い」だというわけですね。

「わからないものを信じるのではなく、(わかっている)いわれを信じるのです。」
「信心決定というのは、そのいわれが本当である、自分にも救いの手が差し伸べられてい
ると『知る』ことなのではないか」とおっしゃるのは、そのことですね。

以上、大まかにかめさまの論旨をなぞってみましたが、まとめると以下のようになります。

(1)阿弥陀仏は救いの手を差し伸べた時点で、人はみなすべて救われている。
(2)「いわれ」とは、阿弥陀様が『念仏称えた者は皆救う』と言っていることである。
(3)しかし、自力への執着が強い凡夫は、すでに救われていることに気付かない。
(4)その自力への執着が、人間の苦しみのもととなっている。それが無明である。
(5)その苦しみからから救われる方法は、すでに救われていることを「知る」ことである。
(6)「信心決定」とは、いわれ(救われていること)を「知る」ことを指すものである。

以上の理解が、かめさまが苦しみながらたどりついた一応の到達点だと思います(違って
いたらおっしゃって下さい)。いくつかの矛盾や不明な点を指摘することは可能ですが、
そうすることは適切ではないと思います。なぜなら、これはかめさまの最終の結論ではな
いし、まさに考えをまとめている最中だからです。これを続けていけば、今よりもまとま
りのある理論体系ができあがるかもしれません。

しかし、かめさまのこの考え方の方向性が正しいのか間違っているのか、私にはわかりま
せん。私には、ものごとを正しいとか間違っているとか判断する能力がないのです。だた
し、それが仏教または真宗の教えに添うものなのか、そぐわないものなのかは、経論と照
らし合わせれば、ある程度わかります。私がみるところでは、それは真宗の教えとはかけ
離れているように見えます。

あまり長くなるので、それについて詳しくは申しませんが、ひとつだけ申しますと、かめ
さまが「阿弥陀様が『念仏称えた者は皆救う』とおっしゃってくださった」とおっしゃっ
ているいるのは、以下の御文の文言とは食い違っています。

--------------------------------------------------------------------------------
名号をもつてなにのこころえもなくして、ただとなへてはたすからざるなり。(御文1-15)
--------------------------------------------------------------------------------

ただし、ご聖典の文言と食い違っているからといって、それが間違っているとはかぎりま
せん。釈尊、親鸞聖人、蓮如上人の方が間違っているのかもしれないからです。先ほど申
しましたとおり、私にはものごとを正しいとか間違っているとか判断する能力がありませ
ん。ただ縁あって他力の信心をいただいたので、それを「そのまま受け入れる」だけです。

南无阿彌陀佛

●re.12
かめ
非公開の男性
[ 2791 ] Re12:信心決定についてお教え下さい 2012/07/25 (Wed) 21:43 △up ▽down
せん様、こんばんは。

せん様は聖書ご存知なのですね。

>念佛の申されぬは、往生が大事にならぬか、信心なきかの二なり。

このお言葉は私には重く響きます。
私は往生を願う気持ちはあまりありません。死んだら無になりたいと思っています。ですから当然、「信心」ということを考えますときにそこにやましさのようなものを感じます。
では私は一体何を求めているのか―自分でもよくわかりません。ボン様がご指摘下さったように私は自分の気に入る解釈をして自分の気に入るものを求めている気がいたします。


ボン様、こんばんは。

>ただし、ご聖典の文言と食い違っているからといって、それが間違っているとはかぎりま
>せん。釈尊、親鸞聖人、蓮如上人の方が間違っているのかもしれないからです。

いえいえ、さすがに厚かましい私でもそんな大それた妄想はできないです。
むしろ、私の中では忠実に親鸞聖人のお心を感じようとしているつもりではあります。
確かにご聖典の文言とは異なっているように見えるかもしれませんが、私の中ではご聖典で言われていることを読もうとした結果なのです。

私の考えることは大体が大谷派のある高名な方々の言われたことをもとにしているのですが、その方々の言われていることは確かにご聖典を文字通りに解釈したものとは違うように見えます。
けれども、私にとってはそれらの方の言われることの方が真に迫って響いてくるものがあります。
親鸞聖人のお言葉を親身に味わうと、どうもご聖典を文字通りに読むのとは異なって見えてくるのではと私は思っています。

ですけれども、それらの先輩方のお言葉を繋げて解釈しているのは私ですし、現にわからないものをわかろうと解釈しているのですから、間違いと知ったかぶりは多分にあると思いますので気をつけようとは思います。

>(1)阿弥陀仏は救いの手を差し伸べた時点で、人はみなすべて救われている。
>(2)「いわれ」とは、阿弥陀様が『念仏称えた者は皆救う』と言っていることである。
>(3)しかし、自力への執着が強い凡夫は、すでに救われていることに気付かない。
>(4)その自力への執着が、人間の苦しみのもととなっている。それが無明である。
>(5)その苦しみからから救われる方法は、すでに救われていることを「知る」ことである。
>(6)「信心決定」とは、いわれ(救われていること)を「知る」ことを指すものである。

こちらはまさしくその通りです。
他人の考えをここまで整理して理解されるボン様はすごいですね。
私自身でもそうだったかと思い知るところがあります。

>しかし、一方で「とても救われる身ではないのにどこかで自力で何とかなると思っている。
>それが凡夫なのではないか」ともおっしゃっておられますが、これは「既に皆救われてい
>る」とおっしゃっていることと矛盾するような気がいたします。(細かいことですが・・・)

私は人間は皆凡夫であり、自力に執着するものと思っています。聖道に適する者と浄土に適する者と二つの機があることは存じておりますが、人間は皆自力では救われない凡夫であり、本当は聖道も浄土もないと思っています。そしてそれは法然上人も親鸞聖人もそうお考えになっていたと思うのです。
ですから人間すべてが法に遇う可能性を持っているという意味で「既に皆救われている」と思います。
けれどもそれは可能性として救われているというだけであって、実際には皆苦しいと感じて生きています。それは、救われる可能性が足下にずっとあるということに気付かず、無明により自分勝手な考えで救われないと思い込んでいるということです。ですから救われていたのだと気の付くことが救いとなると思います。

最後に引用された御文の一節ですが、私は偶然最近その文章を読みまして、「う〜ん、これはどういうことだろう」と悩みました。ですから、やはり私が間違っているのかもしれません。

ただ、やはり私は阿弥陀様は十八願で「念仏称えた者は皆救う」と誓われたと思いたいです。これはエゴですけれども。

私は信心をいただけておりませんのでどうしても推測になってしまいますが私の考えを少し書かせてもらいます。

凡夫は皆娑婆世界で苦しいと言いながら生きています。そしてその苦しい状況から逃れる「救い」を求めています。そこから宗教への門が開かれると思います。
ですが、このとき凡夫が求めている救いは自力の救いであると思います。それが報われることは決してありません。
普通求められる救いというのは、自身が超能力を手に入れたり、他者の超能力によって願いを叶えたり、病気を治したり運命を好転させるようなものだと思います。超能力ではなく高尚な理論に頼る人もあると思います。
けれどもこれらは皆自力です。報われません。結局は自己満足で終わるものであり、自我の作用だと思います。つまりこの救いへの飢えそのものが苦しみだということです。

以上が凡夫の求める救いで、それは阿弥陀仏の下さる救いとは別物だと思います。
阿弥陀仏の救いはよく言うようにただ念仏申して阿弥陀仏の国に生まれたいと思うことですよね。
ですが、凡夫に極楽は願えないのではないでしょうか。なぜかと言えば、凡夫が望むのは「自分の求める救い」だからです。阿弥陀の描く国ではありません。どこまでも自分の望むものを望みます。
ここに食い違いがあります。阿弥陀仏の下さる真の救いと凡夫の欲しがる報われない救いとの二つは一致しません。
それゆえ凡夫とは、常に阿弥陀仏に背いている存在であるということができると思います。
そのことを罪悪深重、救われない身であるといわれているのだと思います。
ややこしいですが、救われないのは阿弥陀仏に背いているからではなく、求める救いが偽物だからです。叶わないものだからです。
むしろだからこそ阿弥陀仏に背いていることこそが救いの正因という風に考えられているのだと思います。
機の深信ということを重要視するのは、救われない身であるからこそ、そこに救いが成就するからだと思います。(この辺りになってくると予想になってしまいます。)

仮に、浄土以外の仏教や他の宗教による救いA、B、Cがあったとして、そこに並列する形で阿弥陀の救いDがあるのではないと思います。それだと一神教に近い発想になります。
そうではなく、AにもBにもCにもその他のどれでも救われない(自力だからです)。その救われなさがあるからこその阿弥陀様の願いだと思います。
これは不思議な超能力や神秘的、魔術的な救いとは別物だと思います。
そうかと言いまして理論による救いでもなく、やはり自覚の救いであると思います。

最後に、今手元に廣瀬杲氏の本がありまして、ちょうど私の感じるところと同じようなことを言われていたので引用します。

『確かに、人間は自ら道を求めずしては自己を成就することはできません。しかし同時に、道を求めることによって自己を成就することの不可能性に目を開かなくてはならないのです。これは絶対の矛盾ですね。(中略)だから、「成仏」という課題を背負うことは、成らねばならぬ、にもかかわらず成ることができない、という二重の、しかも矛盾した課題を一度にもつということになるわけです。』

私はこの言葉以外にも氏の言われることにはかなり感じるところがあります。真剣に生きるということを考えれば考えるほど、ご聖典の文章を文字通りには読めなくなります。裏を読むわけではありませんが、お心を読もうとしています。
おそらく他の私の尊敬する真宗の方等の言われることは、真宗教団全体でみれば少数派になるだろうと思います。ですが、私にはこちらの方の言われることの方が素直にいただけます。ある意味すごく自分に正直であるがゆえに歪みなく心に入ってきます。

長々と書きましたが、私の考えるところは以上です。途中調子に乗っているなと感じながらも書いてしまいました。不快に感じられた方がいらっしゃいましたらお詫び申しあげます。


●re.13
せん
非公開の非公開
[ 2792 ] Re13:信心決定についてお教え下さい 2012/07/26 (Thu) 10:14 △up ▽down
>以上が凡夫の求める救いで、それは阿弥陀仏の下さる救いとは別物だと思います。
阿弥陀仏の救いはよく言うようにただ念仏申して阿弥陀仏の国に生まれたいと思うことですよね。
ですが、凡夫に極楽は願えないのではないでしょうか。なぜかと言えば、凡夫が望むのは「自分の求める救い」だからです。阿弥陀の描く国ではありません。どこまでも自分の望むものを望みます。
ここに食い違いがあります。阿弥陀仏の下さる真の救いと凡夫の欲しがる報われない救いとの二つは一致しません。

そうでしょうね。
凡夫の欲しがる報われるけど報われない、救いのようで救いで無いものを、
救いとして手に入れていると思って(思い込んで)いる状態がありそうですね。


>それゆえ凡夫とは、常に阿弥陀仏に背いている存在であるということができると思います。
そのことを罪悪深重、救われない身であるといわれているのだと思います。

救われない身ですね。


>私の考えることは大体が大谷派のある高名な方々の言われたことをもとにしているのですが、その方々の言われていることは確かにご聖典を文字通りに解釈したものとは違うように見えます。

かめさんは、東本願寺の方をご存じとのこと、
初代講師の慧空師は読まれましたか?
近代デジタルライブラリーでいくつか読めますね。
http://kindai.ndl.go.jp/

活字で無く、書写されたものは見ましたか?

その中で「叢林集」は九巻の大部でして、かめさん向きかもしれません。
参考までに、目次をお知らせします。
(写本が上記ライブラリーで読めます。PDFでダウンロードも可能)

**********
   叢林集(目録)

●義集(真本叢林集より)http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/821879

巻一
学問     第一[c13]
三経大綱   第二[c25]
果分不可説  第三[c43]
隠顕法門   第四[c47]
廃立助正傍正 第五[c52]
浄土真宗   第六[c57]
三願配当   第七[c62]

巻二
真宗之教   第八[c3]
本願真仮   第九[c12]
無上超世願  第十[c16]
 {附 発願の時位}
本願開合   第十一[c21]
第一之願   第十二[c25]
第十一之願  第十三[c31]
第十七之願  第十四[c36]
第十八之願  第十五[c41]

巻三
第十九之願  第十六[c3]
第二十之願  第十七[c10]
弥陀報身   第十八[c17]
自受用他受用 第十九[c24]
本師本仏   第二十[c34]
十劫久遠   第二十一[c51]
仏土真仮   第二十二[c60]

巻四
往生成仏   第二十三[c3]
不来迎    第二十四[c14]
平生業成   第二十五[c27]
不回向    第二十六[c35]
報謝念仏   第二十七[c45]
一念多念   第二十八[c52]
信心歓喜   第二十九[c57]

巻五
利他之信心  第三十[c3]
 {附 信心即仏智}
信心菩提心  第三十一[c8]
三心自力他力 第三十二[c13]
永捨雑行雑修 第三十三[c38]
現世利益   第三十四[c55]
総論疑問   第三十五[c63]

巻六
為得大利   第三十六[c3]
衆罪消滅   第三十七[c8]
宿善遇法   第三十八[c13]
相違前後   第三十九[c19]
摂取不捨   第四十 [c33]
韋提得忍   第四十一[c44]
即往生便往生 第四十二[c53]
万機一機   第四十三[c55]
機法一体   第四十四[c59]
望々重々   第四十五[c61]*四
五念門    第四十六[c63]
二種回向   第四十七[c68]
出世本懐   第四十八[c70]
 已上義集也
 

●事集(以降、真宗全書39より)http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950300

巻七
一宗本尊   第四十九(p276上)
寺院道場   第五十 (p282上)
佛前荘厳   第五十一(p283下)
法衣装束   第五十二(p285上)
法事勤行   第五十三(p289下)
 {附 彼岸 盆 十念 圓戒}
説勧方軌   第五十四(p296上)
葬礼中陰   第五十五(p298上)
 {附 墳墓 霊魂 五輪 縁日}
物忌祭祀   第五十六(p316下)
 {附 鬼門 符 雷 地震}

巻八
流通弘通   第五十七(p327下)
聖人御夢想  第五十八(p347上)
聖人御娶妻  第五十九(p348上)
聖人御賢息  第六十 (p348下)
聖人御奇特  第六十一(p350上)
聖人御名字  第六十二(p351下)
御代代略伝  第六十三(p354上)
不以法然上人而為開山事
       第六十四(p359下)
一流法義不展転事
       第六十五(p361下)
太子弘通   第六十六(p363下)
七祖相承   第六十七(p367下)

巻九
聖人御墳墓  第六十八(p372下)
 {附 御代々墳墓}
本願寺    第六十九(p378上)
寺務譲り状之事 第七十(p391下)
聖人御真影  第七十一(p397上)
佛光寺    第七十二(p402上)
専修寺    第七十三(p406上)
錦織寺    第七十四(p409下)
願入寺    第七十五(p413下)
瑞泉寺    第七十六(p414下)
二十四輩   第七十七(p416下)
 {附 諸方御末寺}
宗旨退難   第七十八(p421下)
 已上事集也

●re.14
かめ
非公開の男性
[ 2793 ] Re14:信心決定についてお教え下さい 2012/07/26 (Thu) 21:15 △up ▽down
近代デジタルライブラリーは以前菩提心様に教えていただきました。
最近は暁烏敏師のものをときどき見ています。

慧空師という方については存じませんでした。
目次まで有難うございます。
「叢林集」を少し読ませてもらいました。
せっかくご紹介くださったのに申し訳ないのですが、私には少し読むのが難しそうです。
「三願講説」というのも書いてらっしゃるのでそちらならなんとか読めるかもしれません。
どうも活字に慣れすぎているのかもしれません。
ゆっくりとでも読ませてもらいます。
ご紹介有難うございました。

●re.15
せん
非公開の非公開
[ 2794 ] Re15:信心決定についてお教え下さい 2012/07/26 (Thu) 22:53 △up ▽down
失礼しました。

では、「慧空語録(暁烏敏編)」などでしょうか。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/819954

序文のあとに、200項目ほどあります。

●re.16
かめ
非公開の男性
[ 2795 ] Re16:信心決定についてお教え下さい 2012/07/28 (Sat) 15:46 △up ▽down
せん様へ

暁烏師もすごく賛嘆なさってますね。
まだほんの初めの方だけですが読ませていただきました。
こんなことが書いてありました。


堯阿法師(?)のいひけるやうに、おこらばおこれと、うちすてたまへ。それをおこさじと相手になりたまへば、敵はつよく、力はよはし、われとかなふ道にあらず。よしや思ふやうにたしなみえたりとも、それは後世のたよりにはならじ。(中略)わが身の貪瞋妄想を清むべきことかたし。故に恵心の云く「妄念は凡夫の自体なり、妄念の外に心はなきなり。臨終の時までは、一向妄念の凡夫にてあるべきぞと、思ひて念佛すれば来迎にあづかり、蓮台に乗する時にこそ、妄念の心をひるがへし、悟の心とはなれ」といへり。


そういえばなぜ私達は煩悩を嫌うのでしょうね。別に仏教に関心のない人でも、「自分は煩悩が多くて困る」ということを言います。なぜ困るのでしょう。少しそれっぽく考えますと、煩悩が苦のもとだからということでしょうけれど、一般の人はそこまで知っていて「困る」と言っているようには思えません。実際に煩悩に振り回され気苦労するという意味で苦しんでいるのかもしれませんが、人が「煩悩があると困る」と感じる背景にはもっと別の原因があるのかもしれないなと思いました。それが何かはわかりませんが。

一般的な人は「煩悩があると困る」と考えるのは仏教の考え方だと思っているでしょうが、実は「煩悩があっては困るなどとそれにとらわれるのが間違いだ」というのが仏教の主張のように思います。「おこらばおこれと、うちすてたまへ」というのは、禅宗ですけれども盤珪和尚もそっくり同じようなことをおっしゃっていました。

煩悩というものも考え出すとわからないことだらけです。
「妄念の外に心はな」いそうですからね。妄念は我が心そのものなのに、そのものであるその妄念をどうして嫌がるのか。何かとても愚かなことをしているようで、でもそれをやめることもできない。
妄念に構うのも一つの妄念。なぜ人は構わずにはいられないのか。そしてそれがなぜ苦しみのもととなるのか。

そして私達はなぜか、煩悩が起こると極楽へ行けないという発想まで普通にしてしまいます。経典にはそんなことは書いていないでしょうに。自分で救いの道理を予測してこしられ、そして勝手にそれに当てはまらないと落ち込む始末・・・。

嫌がる妄念そのものが反転して救いの体となる・・・。
考えるとわからないことだらけです。

●re.17
ボン
東京の男性
[ 2796 ] Re17:信心決定についてお教え下さい 2012/07/29 (Sun) 11:03 △up ▽down
かめさま、こんにちは。

私には、何が真宗教団の主流派で何が少数派なのか、まったくわかりません。これまで、
そのようなことを考えたこともありませんでしたし、また、今後も考えることはないと
思います。要するに関心がないのです。

私の関心にあるのは、ご聖典(つまり仏説、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人などのお言葉)
を、そのまま素直に受け入れることです。(どうしても受け入れがたいのであれば、その
まますべて捨て去るほかありませんが、今のところその必要を感じておりません。)

>親鸞聖人のお言葉を親身に味わうと、どうもご聖典を文字通りに読むのとは異なって見え
>てくるのではと私は思っています。

親鸞聖人のお言葉を親身に味わうこと、つまり、肉親になったように真心を込めて味わう
ことは、たいへん素晴らしいことだと私も思います。しかし、真心を込めて味わった結果、
ご聖典を文字通りに読むのとは異なってしまうという、ということの意味をはかりかねて
おります。

仏典に限らず一般に、文字面だけを表面的に捉えて、その奥の深い意味を理解しないこと
は、不十分だというのなら、私にもわかります。しかし、その奥深い意味というのは、
表面的な文字面を否定するものではないと、私は思っております。

もし仮に、奥深い意味を理解した結果、その表面にある言葉を否定したとするなら、その
深遠な考えは、原典とは関係のない、それぞれの個人の考えにほかならないということに
なります。その場合、だれかが原典を持ち出して「あなたの言っていることは原典と異る」
と言ったところで何の意味もないのです。(話の拠り所は、原典を離れて、個人の感性、
個々の論理的な完成度などになるでしょう。)

もし仮に、「文字通りに読むのとは異なる」というのが、原典を否定するという意味では
なく、単に「文字の裏にある真の意味までを理解する必要がある」という意味だとしたら、
私にも十分に理解できます。その場合は、原典をもとにして、その受け止め方について、
お話し合いができそうな気がします。(話の拠り所は、常に原典にあります。)

ふたつの仮定を申しました。これ以外の考え方もあるのかも知れませんが、私には考えが
およびません。

細かいことを申すようですが、ここのところのかめさまの真意が分かりませんと、私に限
らず、かめさまとどのように言葉のやり取りをしたらいいのか分からなくなるような気が
いたします。

お考えをお聞かせいただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.18
かめ
非公開の男性
[ 2797 ] Re18:信心決定についてお教え下さい 2012/07/29 (Sun) 14:56 △up ▽down
ボン様、こんにちは。

>私には、何が真宗教団の主流派で何が少数派なのか、まったくわかりません。

きっとそれは私の方こそわかっていないと思います。ご聖典を少し読ませていただいているだけで、それにまだ読ませていただいてほんの数年でしかない至らない身です。

私はボン様がおっしゃる「そのまま受け入れる」というのが単純にわからなくて前回のお返事を書かせていただきました。私はこう思うのですがどうですかとボン様や他の皆様の懐をお借りした形です。ですから一応否定や肯定どちらも望んではいます。要は何かしら
の反応が欲しかっただけかもしれません。

数少ない浄土系の本を読ませていただく中で、どうも「納得がいかない」というところに突き当たります。それは「私はその箇所はとてもそうは読めない。もっと違う意味におもえてならない」というものです。
ですが、客観的に見てどちらが文字通りに受け取っているかと考えますと、明らかに私が違うと思ったものの方が正当な解釈なのです。
ですから果たして自分の考え(というよりお心の汲み方)が正しいのだろうかと心配な気持ちがあります。
そうかと言って他の方の意見を聞いても中々自分の考えを捨てることもできないのではありますけれども。


>もし仮に、「文字通りに読むのとは異なる」というのが、原典を否定するという意味では
>なく、単に「文字の裏にある真の意味までを理解する必要がある」という意味だとしたら、
>私にも十分に理解できます。その場合は、原典をもとにして、その受け止め方について、
>お話し合いができそうな気がします。(話の拠り所は、常に原典にあります。)

一応私の目指しているのはこちらではあります。ただ、拠り所としてはご聖典より以前に「この自分が本当に救われるのだろうか」というのがあります。私はご聖典と言えば歎異抄くらいしか読ませていただけていなくて、あとはその他の真宗の方の書かれたものや法話だけです。ですから、もしかしたらご聖典の読み方についてのお話はほとんどできないのかもしれません。ご紹介下さったものについてはその場で考えてみようとは思いますが。


恐縮ですが、少し個人的なことを書かせていただきます。
私は人生というものにむなしさを感じています。仮に派手な人生を送ったとしても、それでもこのむなしさは埋められないと感じています。人間として生まれた以上、やるべきことがあると思っています。そう思いたいです。それで、親鸞聖人に従っていけばその悩みが解決されるのではないかと思い、本など読ませていただいております。

もう一度以前ボン様が書いてくださった文章を引用させてもらいますが

>たとえばどういうことになるかというと、「あなたたちは、この世に生まれるまえから、
>六道をさまよってきたのだ」といわれれば「ああそうなのか」とそのまま受け入れ、「そ
>のわけは、自分の作った罪によって、その結果を刈り取っているのだ」と言われれば、
>「ああそうなのか」とそのまま受け入れ、「その罪を滅ぼす行を自力で修めるのは凡夫に
>は無理だ」と言われれば「ああそうなのか」とそのまま受け入れ、「そのような凡夫をだ
>だ一人救うことができるのが阿弥陀仏だ」と言われれば「ああそうなのか」とそのまま受
>け入れ、「阿弥陀仏に助けていただくのは何も難しいことではなくて、善智識に六字のい
>われをきいて、あとはおまかせすればいい」といわれれば「ああそうなのか」とそのまま
>受け入れればいいということではないかと思うのです。

ボン様のおっしゃっている意味とは間違って受け取っているのかもしれませんが、もし私が今後この生き方をさせてもらったとしても、このむなしさは晴れないだろうという気が致します。
これこそが間違いの元なのかもしれませんが、私はどうしても生きるにあたって主体性が欲しいのです。
そうしますと、「仏法とは他に流され惑わされて生きるのではなく己の足で立てるような自己にならせていただく道だ」というお言葉を本などで読ませていただくと、「そうに違いない!」と単純にも思ってしまうのです。それがご聖典に書いてあることなのかどうかも確かめずにです。
浄土のお教えは阿弥陀様におまかせすることなのでしょうが、それは阿弥陀様におまかせすることにおいての、何かしらの自立した人間の生き方だと思うのです。そう思いたいだけなのかもしれませんけれども。
「そういうものは浄土とは違うから自分の気に入るもっと別の教えのところへ行きなさい」と仮にどなた様かに言われたとしましても、「いえ、自分は親鸞聖人でないと嫌なんです」と言いたくなるのです。

ですが、自分を冷静に見ようとするほどにボン様がご指摘下さった、教えを自分の作った枠にはめようとしているのだ、ということが胸にこたえてきます。
きっとそうに違いないとは思っています。ですけれども、だからといってどうしたらいいのだろうと途方にくれるばかりです。
本当に私は救われるのでしょうか。理念としてではなく現実としてです。これが自力の限界なのか、近頃少々行き詰ってしまいました。

●re.19
ボン
東京の男性
[ 2798 ] Re19:信心決定についてお教え下さい 2012/07/30 (Mon) 22:13 △up ▽down
かめさま、こんばんは。

>>もし仮に、「文字通りに読むのとは異なる」というのが、原典を否定するという意味では
>>なく、単に「文字の裏にある真の意味までを理解する必要がある」という意味だとしたら、
>>私にも十分に理解できます。その場合は、原典をもとにして、その受け止め方について、
>>お話し合いができそうな気がします。(話の拠り所は、常に原典にあります。)

>一応私の目指しているのはこちらではあります。ただ、拠り所としてはご聖典より以前に
>「この自分が本当に救われるのだろうか」というのがあります。

どっちつかずの曖昧な言い方ですが、結局、話の拠り所は、ご聖典ではなくて、自分の
気持ちだということですね。

宗教に限らず一般に、だれかが他人に何かの相談をしてアドバイスを受けるときは、まず
その人の話をじっくり聞いて、その人の考えの全体を良く理解したうえで、それが受け入
られるものかどうかを判断して、結論を出すのが普通です。

もし受け入れられないものであれば、アドバイスいただいたことに対する謝辞をのべた上
で、このたびは受け入れられない旨、丁重にお話しするのがこの世の礼儀ではないかと思
います。アドバイスいただいた方の真意を理解せず、または、そのアドバイスを採用する
わけでもないのに、ちょこちょこと言葉の断片を摘み食いして、自らの考えを補強すると
いうのは、アドバイスした方にたいして失礼になるのではないかと私は思います。

しかし、現代の世の中は、書籍なりネットなり、たくさんの情報があふれていて、直接に
賢者または師匠にお会いしなくても、容易にいろんな考えを参照することができて、それ
を部分的に自分の考えに取り入れることができるご時世です。そして、それは、あくまで
も自分がこれまで生きてきた経験をもとにした自分の感性に合う部分を寄せ集めて、その
上に自分なりの解釈を加えていくこととなります。それが、“自分の信念”なるものの
実態だと思います。

私は以前に「よく仏の珠玉の言葉の『いいとこどり』をして、自分の意見の補強する材料
とされている方がおられます」とか、「仏教の言葉に独自の定義づけをして、その言葉を
利用して、仏教とは違った独自の論を展開している」などということを申し上げました。
これは何もかめさまに限ったことではなく、仏教から学ぶと称する大多数の方がそういう
スタンスに立っており、そうして著書まで出版しているのが実情だと思います。

ですから、真宗のご聖典などほとんど読んだことのない方が、ご聖典を摘み食いして自論
を展開した真宗本を更に摘み食いをして更に自論を混ぜ合わせて、親鸞聖人のお考えとは
かけ離れた自らの確信を導き出して、それを人生の指針とするということになるのだと思
います。それは、もちろん、自らの確信を作り上げるのは個々人の自由であって、なにも
あれこれ言うこともないのですが、ただ、真宗の名を語ることによって、それが蔓延すれ
ば、親鸞聖人の本来のお考えが陰に隠れて見えなくなる結果をまねくものと思います。

私は、ご聖典以外の「仏教書」「真宗本」は読みません。我流の解釈が入っている可能性
が高いからです。ご聖典を読む場合も、その文言を自分の感性に引き寄せて、解釈を加え
ることもいたしません。そうすると、間違えることが避けられないと思うからです。
「浄土真要鈔」の次の言葉は、常に立ち返るべき、戒めだと考えます。

--------------------------------------------------------------------------------
相承の義さだめて仏意にそむくべからず。流をくむやから、ただ仰いで信をとるべし。
無智の末学なまじひに経釈について義を論ぜば、そのあやまりをのがれがたきか。
よくよくつつしむべし。(浄土真要鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

「あやまりをのがれがたき」というのは、たいへん厳しい言葉です。こうやって、ご聖典
に関連して、あれこれ申し述べているのも、紙一重かもしれまん。

南无阿彌陀佛

●re.20
かめ
非公開の男性
[ 2799 ] Re20:信心決定についてお教え下さい 2012/07/31 (Tue) 13:16 △up ▽down
ボン様、色々と失礼いたしました。私としては決してボン様に不快な思いをさせようとおもっていたわけではないのですが、私の礼儀がなっていないために結局そうなってしまいました。申し訳ありません。

>結局、話の拠り所は、ご聖典ではなくて、自分の
>気持ちだということですね。

ボン様のご指摘、思い当たるところがあります。
今思いますと、私はボン様に甘えていたのかもしれません。ボン様はこちらの掲示板の中でいつも丁寧にお返事を下さり、また様々なところから引用までして下さっていました。ですから私の方で、この方には私の思うところを正直に話させていただこうと思い、それゆえ気持ちのこもるところがあったかと思います。
もし立場が逆になったとして、私に対してこのようにちょくちょく噛み付いてこられたら、もう返事をやめていたかもしれないと思います。すみません。

ただ、全体を通して一つだけご理解いただきたいのは、私が思いますに、宗教とは自身の救いを求めるものではないか、ということです。
ボン様は出家の方なのかどうか存じませんが、少なくとも在家の方が宗教を求めるときというのはそうだと思います。その人はご聖典を知りたいのではなくて自身が救われたいのだと思います。その中で、ご聖典に触れることになり、やがて自らの過ちを知っていく、という過程を自然と歩ませていただけるようにご聖典は書かれているのではないかと私なりに思っています。

ボン様がつまみ食いとおっしゃるのはわかります。私自身もそうなのでしょうが、その私からしても、「この人はつまみ食いをしているな」と思うものが多々あります。私も基本的には書店にあるような真宗関連の本は読みません。


>宗教に限らず一般に、だれかが他人に何かの相談をしてアドバイスを受けるときは、まず
>その人の話をじっくり聞いて、その人の考えの全体を良く理解したうえで、それが受け入
>られるものかどうかを判断して、結論を出すのが普通です。
>
>もし受け入れられないものであれば、アドバイスいただいたことに対する謝辞をのべた上
>で、このたびは受け入れられない旨、丁重にお話しするのがこの世の礼儀ではないかと思
>います。

こちらのことには全く配慮が行き届いていませんでした。深く恥じいります。申し訳ありませんでした。

結論を出すのは苦手なのですが、私にはどうもボン様のおっしゃる「文字通りに受け止める」というのが納得がいきませんでした。これだけ親身にやりとりをしてくださったのに申し訳ありません。ボン様の方では不快に思ってらっしゃったのかもしれませんが、鈍感にも私はボン様が真剣に答えて下さることを嬉しく思い、ひたすら自分の思うところばかり書いてしまいました。
「文字通り」についてはボン様からいただいた課題としてこれからも保っていこうと思います。


最初に書かせてもらいました、そのことはどうかご理解願えたらと思います。
私はご聖典をただの机上の空論の道具として、また趣味として見させていただくのではなく、「この自分自身にとってそれが果たして救いとなるのか」という観点で読んでいます。それはご聖典をわが身に引き寄せることにもなってしまいますが、またそうせざるを得ない悲しみもあります。
「凡夫」「罪悪深重」というお言葉一つとっても、言葉の表面で理解するのは簡単ですが、それを「どれだけ自分の身において感じられるか」と追求していかなければならないと考えます。ご聖典にも「よくよく考えよ」といったお言葉がありますし、お言葉を自分自身の内で反芻するのは間違ったことではないと思います。
このように考えるのは(独自の解釈を本などにして広めない限りは)間違ったものではないと私は思っております。

最後になりますが、決してボン様や他の方を批判して喜んでいたのではなく、私が「つまみ食い」に陥っていないかどうかの確認のために、こちらの掲示板を利用させていただいて皆様からのご意見やご指摘を伺っていたという、その動機だけはご理解願えたらと思います。
礼儀がなっていなかった部分については弁解いたしません。度々申し訳ありませんでした。

●re.21
ボン
東京の男性
[ 2800 ] Re21:信心決定についてお教え下さい 2012/08/02 (Thu) 10:52 △up ▽down
かめさま、こんばんは。

「もしかしたら誤解されるのでは」という一抹の不安を抱きながら書き込みをしたのです
が、その不安が現実のものになってしまいました。人様に自分の言いたいことを正しく伝
えるということはとても難しいものだということを痛感させられました。

「私がアドバイスをしているのにもかかわらず、それに対する感謝の思いが感じられない
ので、私が不快な思いをしている」とかめさまは、受け止めてしまったようです。しかし、
それは誤解です。

まず、私はかめさまと掲示板で対話をしていますが、アドバイスをしているわけではあり
ません。私が仏法のことで人様にアドバイスをするなどということは、とんでもないこと
です。アドバイスをしているつもりはまったくありません。ですから、感謝も求めており
ませんし、不快な思いもしておりません。

私が申し上げたかったことは、自分のなかの何かを解決するために仏法書を読むというこ
とは、釈迦に、親鸞に、アドバイスを求めているのと同じなのではないかということです。
今の世の中は簡単に書物が手に入るし、釈迦も、親鸞も、すでにこの世の人ではないので、
単なる自分の思考を手助けする材料として、釈迦や親鸞の思いとはかかわりなく、言葉の
端々を借り受けてくることが多いけれども、それは先人の思想に接するあり方としては、
いささか失礼にあたるのではないか、ということを申し上げたかったのです。

もし、現実の人間に直接会って助言を請うときにはしない態度を、書物を介する場合はし
てしまうということを申し上げたにすぎません。たとえご聖典という書物にふれるだけで
あったとしても、その著者を師匠だと思って読むのでなければ、その真髄に触れることは
できないと、私は思います。

ご聖典にふれる動機やきっかけは、何でもかまわないと思います。自分の悩みの解決のた
めでもけっこうだと思いますが、そのときに自分の納得できる部分だけ受け入れて、納得
のいかない部分は無視するというのでは、得るものがないと思います。何かを得たような
気になったとしても、それは初めから自分の中にあった考えが補強された、あるいは権威
付けされた、ということに過ぎないと思います。

もし親鸞聖人や高僧の言葉の中から、取捨選択をした「いいものだけを採用する」とした
ら、その人は親鸞聖人や高僧と対等であるか、上位に立っているものと思います。かめさ
まは、以前に次のようにおっしゃいました。

>親鸞聖人に従っていけばその悩みが解決されるのではないかと思い、本など読ませていた
>だいております。

もし、この言葉が本当だとしたら、親鸞聖人のすべての言葉を真摯に受け止めて、かみし
めることがスタートではないでしょうか。しかし、かめさまは、同時に次のようにもおっ
しゃっております。

>数少ない浄土系の本を読ませていただく中で、どうも「納得がいかない」というところに
>突き当たります。それは「私はその箇所はとてもそうは読めない。もっと違う意味におも
>えてならない」というものです。
>ですが、客観的に見てどちらが文字通りに受け取っているかと考えますと、明らかに私が
>違うと思ったものの方が正当な解釈なのです。ですから果たして自分の考え(というより
>お心の汲み方)が正しいのだろうかと心配な気持ちがあります。そうかと言って他の方の
>意見を聞いても中々自分の考えを捨てることもできないのではありますけれども。

やや複雑な表現ですが、要するに、自分の考えと違う記述が客観的に正しく思えるにもかか
わらず、自分の考えが捨てられない。だから、正しい思うことでも受け入れられないという
ことですね。しかし、「記述が客観的に正しい」と思っているのは他のだれでもなく、かめ
さま自身です。思考のプロセスが、もつれて、こんがらがっているように感じます。

「浄土系の本」というとことが少し引っかかりますが、正規のご聖典を読むときも、その
基本姿勢は変わらないものと思います。「親鸞聖人に従っていけば」と言いながら、自分
の考えに合わなければ、そこは無視するか捨て去るということですね。それなら親鸞聖人
に従うということを止めれば良さそうなものですが、それでも「親鸞聖人に従う」という
スタイルは、あくまでも保ちたいということなのだと思います。

納得がいくなら受け入れればいいし、辻褄が合わないと思ったり、納得がいかなかったり、
希望に沿わないかったりするのなら、そのままそっくり捨てればいいのです。そのままそ
っくり受け入れるか、そのままそっくり捨て去るか、どちらかではないでしょうか。

ただ、捨てる前に、ご聖典の趣旨を曲解していないかどうか、良く検討されるのがよろし
いかと思います。よく分からないのなら、分かる人を探して尋ねるのが、よろしいかと思
います。

南无阿彌陀佛

●re.22
かめ
非公開の男性
[ 2801 ] Re22:信心決定についてお教え下さい 2012/08/02 (Thu) 20:55 △up ▽down
ボン様、こんばんは。こんな私のためにお時間をとってもらって申し訳ないです。

アドバイスについてですが、なるほど、そういうことでしたか。少し誤解していました。

ご聖典の曲解について書かせてもらいますが、
私が「ご聖典を読んでいて納得がいかないとことに突き当たる」と言いましたのは、ご聖典への異論ではなく、その解釈を書いた方への異論です。
そういう意味では、下手に自分なりの解釈を交えたものは避けるというボン様のスタンスとそれほど違いはないものと思います。

ただ、やはり私の場合、私自身が意訳の度を越してしまうことがありますので、ボン様のご指摘は紛れもなく正しいです。

それから、お心を汲むということについてですけれども、こちらも別になんという話でもなかったのです。
例えばご聖典に「聖人は天を仰がれた」という記述があったとします。極端ですがこれを文字通りに考えると「そのとき空に何かがあって上を向かれたのかなぁ」「天を見たい気分になられたのかなぁ」と考えてしまいます。
けれども普通このような場合は、天を仰がれずにはいられなかった聖人のお心に思いをはせるものと思います。
私が、「文字通り」ではなく「お心を汲もうとする」と言いましたのはたったそれだけのことでした。
それとは別にボン様の「ご聖典を素直に受け止める」とおっしゃったことについてはまた別の問題でして、それについてはまたもう少し考えてみようと思います。ご信心を求める上では考えざるを得ない問題だとも思いますので。ご自分のご意見を書いて下さったボン様には感謝しています。

それから浄土の信仰を捨てるかどうかということですけれど、
まず根本として、私は親鸞聖人を尊敬しています。それから、聖人のおっしゃることに触れていけば私も救われるものと信じています。
まずそのような前提がありまして、その上でご聖典を読みます。そうするとよくわからないところがたくさん出てきます。にわかには信じがたいことも出てきます。そのとき私(というより普通皆さんそうでしょうが)は私の理解が足りないものと受け止めます。ですから心のなかでその箇所を何度も何度も繰り返しつぶやきます。これがご聖典を読むときの私のスタンスです。
ですから、根本には聖人への信仰といいますか、この場合は期待ですが、それがあります。それなので、浄土の教えを捨てるという選択肢は今のところは出てきません。聖人のおっしゃったことを私の意見に合わせるのではなくて、私の意見が聖人のおっしゃることと通ずると感じるまで心に留めます。その辺りに誤解があったようですので。

これもたったこれだけのことなのですが、もう少し内容に関して書かせてもらいますと、
ご聖典をわが身に引き寄せるからこその凡夫だと私は理解しています。胸を張るべきことではありませんが。
ご聖典をわが身に引き寄せて考えないとすれば、その人は浄土の救いへの関心のない一般の人か、または浄土の救いを得た人のどちらかだと思います。その中間にいる間はひたすら間違い続けるように思います。求めているのですから。「自分の納得する」救いを。
「罪深い身」「救いのない身」というのもこのあたりのことをおっしゃっているように思います。

最後にちょこっとまた自分の考えを書かせてもらいましたが、これにつきましては以前にも書いたことがありますので、それについては触れて下さらなくて結構です。

このテーマはとりあえずこの辺りで終わろうと思います。
せっかくのご縁の場ですので、今度こそ適切な質問・応答ができたらと思います。少し頭を冷やします。
長々と失礼いたしました。

●re.23
せん
非公開の非公開
[ 2802 ] Re23:信心決定についてお教え下さい 2012/08/03 (Fri) 22:03 △up ▽down
・仏教は思想でないですよ。

・考えたり、検討することは、特段勧められてないかと。
(していけない、ということでないです。)

『聞其名号信心歓喜』
 親鸞聖人の御一流は聞く一つ。

●re.24
ボン
東京の男性
[ 2803 ] Re24:信心決定についてお教え下さい 2012/08/03 (Fri) 23:20 △up ▽down
せんさま、こんばんは。

せんさまのおっしゃるとおりです。
まったく、異論ありません。
ありがとうございます。

南无阿彌陀佛

●re.25
菩提心
非公開の非公開
[ 2804 ] Re25:信心決定についてお教え下さい 2012/08/04 (Sat) 09:12 △up ▽down
かめ様  ボン様  せん様

私は長年、親鸞会という団体におりまして、「信心決定」することが目的であり、それも顕かに分かる様な心の体験があると教えて頂きました。

地獄行き堕とされた時が、そのままの御救い。

そのようにハッキリ、スッキリ分かる体験だと。

でも、そこにいつも疑問が有りました。

どこを以て、地獄行きの私だろう?

私の機は、どこまで行ってもうぬぼれ心から離れないと思いました。

そんな機を相手にして、益々自分を見失い、人と比較しては落ち込んでいました。

でも「赤子でも助かる」という書き込みから、私は自分の機を責めるのは違うんじゃないのかと思いました。

赤子は母親無くしては、その命を全う出来ません。

赤子はただ、お腹が空いたと泣き叫ぶだけです。

そこへ母親が乳房を持っていき、乳を与えるのです。

それも泣き叫ぶ赤子を泣き叫ぶまで待っていろという母親はいません。(今の現実世界は違いますが。)

私はその赤子です。

その乳房に吸い付いて、ただむさぼる赤子です。

赤子も、母親も満足です。

お腹一杯の赤子。それを与えて安心している母親。

私は何の躊躇もなく、そんな赤子の気持ちになって彌陀を頼んだのだ思います。

私には何一つの力もない。

ただ乳が欲しいと泣き叫ぶだけです。

お腹一杯の赤子は泣きません。

泣くからこそ、母親はその空腹を満たしてやりたいと、すぐに自分の胸に赤子の口を持ってくるのです。

かめ様は、まだお腹が空いていないのでしょう?

本当にお腹が空くと、むしゃぶりつきますものね。

●re.26
せん
非公開の非公開
[ 2805 ] Re26:信心決定についてお教え下さい 2012/08/04 (Sat) 09:29 △up ▽down
>私は何の躊躇もなく、そんな赤子の気持ちになって彌陀を頼んだのだ思います。

「信を得た」「頼んだ」と言えば、この「た(だ)」を
蓮如上人は、

「心得たと思ふは心得ぬなり、心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなり」

「そもそも、今度一七箇日報恩講のあひだにおいて、多屋内方もそのほかの人も、大略信心を決定したまへるよしきこえたり。めでたく本望これにすぐべからず。さりながら、そのままうちすて候へば、信心もうせ候ふべし。細々に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ。それについて、女人の身は十方三世の諸仏にもすてられたる身にて候ふを、・・・」

・・・のだと思います。
の主語は誰?

●re.27
かめ
非公開の男性
[ 2806 ] Re27:信心決定についてお教え下さい 2012/08/04 (Sat) 15:20 △up ▽down
せん様、菩提心様も書き込んで下さいましたか。

>かめ様は、まだお腹が空いていないのでしょう?

私としてはもうこれ以上は生きていたくないというほどの覚悟なのですが、
もしかしたらその通りなのかもしれませんね。
私にはまだ選り好みしている余裕があるのかもしれませんね。
とはいうものの、この選り好みが果たして凡夫にやめられるものなのかどうかもはっきりしませんけれども。

誰に言うわけでもありませんのでひとりごとのようなものですが、
日々本当に何とかならないものかなぁと困っています。

これだけ困っているのだから・・・、というこの意識がもう凡夫のそれですよね。
こちらの努力の報いを求めています。
けれども努力なしに手に入るものでは物足りないと感じたりします。
これが凡夫の凡夫たるゆえんですよね。
まぁ、凡夫だからこそ、ということなのでしょうけれど、それがどうにも得心がいかず。
菩提心様のおっしゃるようなハッキリ、スッキリするような体験が欲しくてたまらないです。

私は「さあ、君はもう救われた。自由に生きていいよ」と言われたりしたら、翌日には命を絶ってしまうかもしれません。何をしてもいいのだったら何をしたら良いのかわからなくなって生きることに希望が持てなくなるからです。これほどの苦しみはありません。ですから、私は私の求める救いを選り好みしているのでしょう。凡夫は皆そうだとも思いますが。

(私の場合)きっと生きることの軸が定まればそれでいいのだと思います。
この軸は学問でも思想でも趣味でも埋まりません。それだからこそ宗教と言うものがあるのでしょう。
ボン様のおっしゃるように、それが真宗の目指すところでないのだとしたら、もう真宗は捨てるべきなのかもしれませんね。そんな気はまったく起こりませんけれども。もしそういう意見をお持ちの方がいらっしゃいましたらおっしゃってください。意見だけでも聞ければ客観的な自分の姿が見えてきそうな気がしなくもないですので。

それから、支障がなければで結構ですので、皆さんの中で、真宗の教えに苦しみから入られた方はいらっしゃいますでしょうか。自分の苦しみをどうにかしたくて真宗に救いを求めたということです。真摯に求められた方ならきっと学問や趣味としてやっていて満足できるものではないと思います。それこそ机上の空論になり、生きる糧となってくれません。
出家在家問わず、まず最初から真宗の「世界の中」にいて、その教理の一部に疑問を感じたり解決したりというのではなく、まず、真宗とは関係ないところにいて、やがて生きること自体に苦しみを感じ、真宗に救いを求めたという、そのような方のご意見を一度聞いてみたく思います。(いらっしゃらなければそれはそれで結構です。)

●re.28
菩提心
非公開の非公開
[ 2807 ] Re28:信心決定についてお教え下さい 2012/08/04 (Sat) 16:33 △up ▽down
>菩提心様のおっしゃるようなハッキリ、スッキリするような体験が欲しくてたまらないです。

そのように受け止めましたか?

私は全く反対です。

ハッキリ、スッキリする体験など個人個人で私にもよく分かりません。


ただ、救って欲しいと弥陀の御袖に取りすがるだけでは有りませんか。

それを赤子で表現しただけです。


宗教もこの日本の中においてもどれだけあるか分かりません。

しかし、今かめ様は、浄土真宗に救いを求めておられます。

浄土真宗は、宗派では有りません。

浄土に往く方法を親鸞聖人が弥陀の化身として、この世に教えに来られたのだと思います。

真宗に御縁有る方は、又釈尊にも御縁があるそうです。

釈尊もまた、弥陀の本願をお説きにこの地球に生まれられたのです。

かめ様や私は、その真宗に御縁を頂いています。

救って下さる弥陀がおられるのです。

スッキリ、ハッキリした体験でなく、信心決定すると、私一人の阿弥陀仏だったと知らされます。

>いらっしゃらなければそれはそれで結構です。

私は人の意見を聞くのも、それはそれでいいんでしょうが、でもやはり人の意見じゃなくて、自分はどこに一番心をかけているかだと思います。

だって、浄土に往く方法を教えているのが浄土真宗でしょ。

だったら、答えは簡単じゃないですか。

救って下さる弥陀に心をかけるんです。

人の意見や、教義ではなく、あくまで弥陀一佛に心をかけるんです。


そしてそこには、釈尊も親鸞聖人も、この地球に何度も何度も来られて、今のかめ様に形を変えて御説法して下さっておられると思います。

せん様やボン様のように。

上記の場所を読んでいて投げやりな言葉で締めくくられると、ちょっと残念かな。

私は、この「毎日の浄土真宗」には、いつも先の御釈迦様や親鸞聖人や蓮如上人が見守って下さっていると思って書いています。

今までもそうですし、これからもそうです。

バカかと笑われそうですが、でもそう思えてくるんですね。

このように書き続けていくうちに知らされてきています。

かめ様の理に叶った、生きた御説法をするところは、探せば必ず見つかります。

ここを足場に探してみては如何ですか?



全く仏教に興味がなかった私でも、親鸞会で37年間、そしてそこを離れてこの場所で色々な方々とインターネットでの形ですが、お話させて頂いてきました。

とても有難い場所だと思っています。

●re.29
せん
非公開の非公開
[ 2808 ] Re28:信心決定についてお教え下さい 2012/08/04 (Sat) 16:49 △up ▽down
>真宗の教えに苦しみから入られた方はいらっしゃいますでしょうか。

私は、そうです。



>ご意見を一度聞いてみたく

●re.30
かめ
非公開の男性
[ 2809 ] Re29:信心決定についてお教え下さい 2012/08/04 (Sat) 23:20 △up ▽down
せん様はやはりそうでいらしたのですね。そんな気がいたしました。
菩提心様、熱いお言葉有難うございます。
投げやりになったこと、今は反省しています。最近どうにもやりきれない気持ちになっていまして。他の皆様にもすみません。

せっかくのご縁だからこそ、思うところを正直に書かせてもらいますね。今は不思議とあまりやけになっておらず、そんなに荒れた心境ではないので、これから書かせてもらいますことは単なる批判などではないこと、ご了承ください。

どうも、私は皆様がおっしゃる信心ということにひっかかりを感じるのです。皆様への抗議ではなく、私自身がどうもためらってしまうということです。頭で考えてためらっているのではなく、直感的にためらっています。
また余計な知識を、と思われるかもしれませんが、今、平野修師の本をある人から紹介されてよませていただいているのですが、その中に次のようにありました。長いですが。

『そしてそのことができなくなったから何か他のものを頼みとする、あるいは他のものを当てにする。そういうことが一般に「他力」と考えられています。自分ではもはや努力のしてみようがない。努力のしてみようがありませんから、自分が置かれた状況を変えようがないわけです。ですから何か他の力を借りてその状況を変えていきたいと考えて、何か他なるものを頼みにし、当てにするということが「他力」という意味であると、このように一般には考えられているであろうと思うのです。』

『普通は、自助努力をしなければならないけれども、それができない。できないということは、行き詰っていることです。その行き詰まりを破るために、何とか一歩でも前進ができるようにといって、文字通り他の力、他のはたらきというものを手に入れて、それによって今、自分が動きが取れなくなっている、それを破っていこうとする。そのときに他の力を頼みとするわけです。
 で、そういう場合は、当てにしているものは他の力ですけれども、他の力をあてにするということによって、自分で自分をどうにかしようという考え方に立っているわけです。』

『車はガソリンで動きますけれども、ガソリンが切れた場合には動くはずがありません。そんな時どうするかというと、ガソリンを買ってきてそこに補充して動かすということですね。もうくたびれた、もう動きたくないという、ガソリンが切れたような状態の時に、何か効き目のあるものを持ってきて動いて行こうというのですから、その効き目のあるものに神様や仏様がみんな当たるわけです。その中に念仏も入れることができます。』

『そんなことを、信用している、信用していないは別としても、自助努力して前へ進んでいく、その自助努力で及ばない事柄を神様がやってくださるということであるなら、これは他力以外のなにものでもありません。皆そういう点では神様の力を当てにし、それを持ってきて自分の道がより開けていくようにというのですから、これは文字通り、他力の中の自力ということです。他力ではありません。』

長々と失礼しました。私はこの文章を読みまして、全くその通りだと感じました。どうも一般的(?)な真宗の本や僧侶の方の文章をたまにでも見ましたときに、その方々がおっしゃっている「他力」ということが、上記の「他力の中の自力」のように思えてなりません。私の読んだものが偏っていて一般ではないのかもしれませんが、どうも煮え切らないものがあります。

正確ではありませんが、平野師はこういうこともおっしゃっています。どうにも行かなくなって最後の手段として求めるものが真宗の他力だ、というのは違うと。私もそんな気がするのです。それだったら他の神仏の霊力によって救われてもいいわけです。わざわざ念仏でなくとも。ですが、真宗には念仏でなければ、真宗でなければと言わしめるものがあると信じます。霊力による救いでは私の身体や魂や運気は満たされても、私の精神は満たされません。

他力というのは自力の限りを尽くして疲れ果てたときに一切の打算を捨てて弥陀を頼む、というのとは違う気が致します。人間に自力の果てをみることはできないと思うからです。むしろ、自力を捨てようとのはからいから解放させていただけるのが弥陀のお力ではないかと思います。またそうでないと私はどうも浄土の教えに救いを感じないのです。

どうもまとまらずすみません。誰かに見ていただくための文章ですから、毎回どのようなスタンスで書けば良いのかと迷いますが、今回は今までで一番素直なところを書かせていただきました。自分でも何が言いたいのか、またどんな返事を期待しているのか、定まっていません。読んでいただく方の読み方に依存したものとなり、申し訳ない限りです。

私は、人の意見を仰ぐというより、自分の思うところを全部さらけ出して、そこから(皆様からか、皆様を通した仏からかの反応で)どのような動きが生まれてくるのだろうかと様子を窺っているところがあるのだと今回思い知りました。タチが悪いかもしれないですね。
本当はただ寂しいだけなのかもしれません。自分を肯定してくれる(と思える)人がほとんど本の中にしかおられないからです。現実世界にもいらっしゃるのですが、本当に少数です。独りよがりになるのが怖くて、ただただ、それでいいのだよと言ってもらいたいだけなのかもしれません。お返事を下さった皆様を中心に他の皆様にも私の幼い我がままにつき合わせてしまいまして申し訳ありません。もう少し自重できれば良いのですが。

●re.31
せん
非公開の非公開
[ 2810 ] Re30:信心決定についてお教え下さい 2012/08/05 (Sun) 11:37 △up ▽down
>投げやりになったこと、今は反省しています。最近どうにもやりきれない気持ちになっていまして。

@
>投げやりになったこと・・・最近どうにもやりきれない気持ちになっていまして。

当然。

A
>・・・、今は反省しています。

しなくていい、とまでは言いませんが。


>どうも、私は皆様がおっしゃる信心ということにひっかかりを感じるのです。

当然。

選擇集の最後に、まれだと。

 希問津者示以西方通津
 適尋行者誨以念仏別行

で、そのまれは、

 信之者多・不信者尠。当知。
 浄土之教、叩時機而当行運也。


>霊力による救いでは私の身体や魂や運気は満たされても、私の精神は満たされません。

この、霊、魂、精神とは、具体的に何を指しているのでしょうか。


>独りよがりになるのが怖くて、ただただ、それでいいのだよと言ってもらいたいだけなのかもしれません。

皆、おなじでしょ。

●re.32
かめ
非公開の男性
[ 2811 ] Re31:信心決定についてお教え下さい 2012/08/05 (Sun) 21:12 △up ▽down
せん様、有難うございます。

せん様の意図通りに受け取れているのかはわかりませんが、せん様が「当然」とおっしゃってくださると少し安心できます。

>この、霊、魂、精神とは、具体的に何を指しているのでしょうか。

こちらは特に深い意味はないです。よく宗教というと「病気を治す」「前世の業から解放する」「運気をあげる」などと言っていますが、たとえそれらが本当だったとしても、それは私にとっては救いにはならないという意味です。
むしろ、生きるにあたっての条件が万全になればなるほど、この「生きることの苦しさ」が自覚されるでしょうから、なおさら救いとはなりません。
定年を迎えると生きる意欲をなくしてうつ病になる、とよく言われるそれと共通するものだと思います。

「一切の障害は取り払ったからさあ生きなさい」と突然神様から背中を押されたとしたら、今私にとって何をすることがこの人生を生きて死んでいくに当たって甲斐のあることなのだろうかと混乱してしまいます。
私は結局のところ、親鸞聖人がおっしゃっているのは、生きて死んでいける自分になりなさいということだと思っています。もちろんジタバタはするでしょうけれども。

いつも同じことばかり書いているのもどうかと思いますし、そろそろこの話題も終わっておかないと他の方が新たなテーマを立てにくいと思いますので、この辺りで失礼させてもらいます。
わがままにつきあってくださったボン様、せん様、菩提心様、どうも有難うございました。



●re.33
不貞腐れ者
非公開の非公開
[ 2812 ] Re32:信心決定についてお教え下さい 2012/08/05 (Sun) 20:30 △up ▽down
たま〜に、覗いている者です、管理人様がなんでも書いてもいいですよ的なスタンス

なので、ずうずうしくも、思うところを書かせて下さい

かめさんは立派ですよ、一念のご縁を求めていて、なおかつ自分の心情を思うままに

書いていることに人間らしくて共感できます、

かめさん、たとえ一念を頂いても、ここは娑婆ですから知覚出来ない方が

ほとんどだと思います、たとえ知っていても真宗のことは書けないことばかりでして

自分の場合は単に環境とご縁のおかげのみで、不可思議を目の当たりにさせて頂き

もったいないと思っていますが、このような恵まれた環境ではない限り真実を知る

ことは叶わないと思ってますが、たとえすべてを知ったとしても非常に重いです

自分の中で消化出来ません。でもそれでいいと言ってくれます

変なものですよ、褒められるのもプレッシャーにしかならず、心の中は浮ついており

しっかりしなければと思えば思うほど、何も手につかなくなり、こんな時こそ

念仏を唱えなければいけないのに、出てきません

大信心を得ても、こんなんですよ、かめさん

なにも遠慮することなんかないですよ

親鸞聖人は必ず微笑んで見守ってくれていますよ

浄土におられる無数の方が、念仏する者を見逃しませんから

たとえ今生でご縁がなくても、どこの世界へ逝こうとも、念仏を唱える者は

逃しませんよ。


訳の解らないことを書きましたことをお侘び致します




●re.34
かめ
非公開の男性
[ 2813 ] Re33:信心決定についてお教え下さい 2012/08/06 (Mon) 13:06 △up ▽down
不貞腐れ者様、初めまして。有難うございます。


>かめさん、たとえ一念を頂いても、ここは娑婆ですから知覚出来ない方が
>
>ほとんどだと思います、たとえ知っていても真宗のことは書けないことばかりでして
>
>自分の場合は単に環境とご縁のおかげのみで、不可思議を目の当たりにさせて頂き
>
>もったいないと思っていますが、このような恵まれた環境ではない限り真実を知る
>
>ことは叶わないと思ってますが、たとえすべてを知ったとしても非常に重いです
>
>自分の中で消化出来ません。でもそれでいいと言ってくれます

そのようなものなのですか。確かに私は「信心」にありもしない期待を膨らませすぎていたのかもしれませんね。「願」を膨らませていたというより「欲」をです。阿弥陀様は私の雑多な欲を叶えて下さるためにご苦労された訳ではないですよね。

こちらの掲示板に書き込ませていただいていると「信心とはどういうものなのだろう」という疑念がさらに広がっていきました。(良い意味でです)
私は頑固なところがありますので中々自分の考えを改めることができないのですが、つっぱってばかりいると段々と疲れてきまして、「いや、でも実際のところわからないな」と思い改める気持ちも出てきました。自分の考えにばかり執着していては駄目ですよね。

>訳の解らないことを書きましたことをお侘び致します

私にとりまして、信をいただかれたという方からのお話は何よりの刺激となりますので、大変ありがたく思っています。どうも有難うございました。

●re.35
毎日
url 非公開の非公開
[ 2864 ] Re34:信心決定についてお教え下さい 2012/11/04 (Sun) 11:23 △up ▽down
かめ様

>まず、真宗とは関係ないところにいて、やがて生きること自体に苦しみを感じ、真宗に救いを求めたという、そのような方

私も、そうです。苦しみは、導きになると思います。

泥凡夫様の「救いは実在する」という(意味の)御言葉に力強さと真実味を感じ、頼もしいと思いました。


>私は、人の意見を仰ぐというより、自分の思うところを全部さらけ出して、そこから(皆様からか、皆様を通した仏からかの反応で)どのような動きが生まれてくるのだろうかと様子を窺っているところがあるのだと今回思い知りました。タチが悪いかもしれないですね。

思いをさらけ出すことが、もしできるならば、それは、とても素晴らしいことではないでしょうか。

私たちは、さまざまな理由で、自らの思いを隠してしまうと思います。これは、私もそうです。

さらけ出すというのは、なかなかできません。どう思われるかを気にしたりして、出すことをやめてしまいます。

そして、蓮如聖人も、お講では、思ったことを話すようにと、教えられていたと思います。

ですので、もし可能であるならば、思ったことを書き込んでゆくのは、良いことなのではと思います。

ただ、それでも、このような掲示板に書き込むことは、やはり、お講の代わりには、ならないと思います。

生身の方々とお話してゆくこととは、大きな差があるだろうと思います。

良いお講において、かめ様が、ご自身の思いをお話ししてゆくこととは、やはり、大きな差があるのだろうと思います。

ご自身で考えていて、そして、疲れていらっしゃるのでしょうから、お気持ちが落ち着けるように、親しくお話のできる場所を探されてはいかがでしょうか。

南无阿彌陀佛

●re.36
非公開の非公開
[ 2868 ] かめさんへ 2012/11/05 (Mon) 00:20 △up ▽down
かめさんの今のお姿は、御信心頂く少し前の私の姿と全く一緒です。
つっぱって頑張っているとだんだん疲れてきますよね。
そうなんです。阿弥陀様に逆らい続けている自分に気づかされる事が大事なんです。
分かった、分からないを繰り返すうちに、全く分からない自分であるということが阿弥陀様の光明に照らされて、はっきりしてきます。

私には、かめさんに付いて離れない阿弥陀様のお姿がはっきり分かります。
今、苦しい時ですよね。
でも苦しい時こそ阿弥陀様の光明に一番照らされている時です。
もう阿弥陀様はかめさんを離しませんよ。
あと少しです。どうか頑張って聞きぬいて下さいね。

もう一つ。
信心頂くということは、人間にとって最高に幸せなことです。
なぜなら無始よりこの方、六道を迷い詰めで出離の縁がなかったこの身が、はっきりと往生一定の身にさせて頂く事ができたのですから。
御信心頂いたら後生への悩みが消え去って、心が晴れ渡り、「このような浅ましい私目当てだったとは勿体無い、有難いなぁ」と自然に喜びが溢れてきます。

かめさん、応援しています。

合掌




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