浄土真宗の教義について

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●No.170
かめ
非公開の男性
[ 2761 ] 縁起について 2012/07/04 (Wed) 12:30 △up ▽down
皆様、こんにちは。

質問させていただきます。


「縁起」は仏教において重要な考え方であると思いますが、私は真宗の本を読んでいても縁起について書かれている箇所をあまり見ません。
真宗の教理では縁起はどのような位置づけをなされているのでしょうか。

漠然とした質問で恐縮ですが、どなた様でもお答えいただけると有難いです。
よろしくお願い致します。

●re.1
菩提心
非公開の非公開
[ 2762 ] Re1:縁起について 2012/07/05 (Thu) 05:05 △up ▽down
かめ様

初めまして。

娘がかめを飼っているので、そのお名前につられて出てきました。

「縁起」、よく分かりませんが、でも難しい言葉を勉強してどうするのですか?


かめ様は、阿弥陀様を信じられますか?

仏教を聞く原点は、浄土に往きたい、その気持ち一つだと思います。

そして

「いつでも、どこでも、だれでも」救う弥陀の誓願が、

「今、ここで、私一人」と思えた時に、救われるでしょう。

その為の「なむあみだぶつ」のお念仏。

信前、信後ともに「なむあみだぶつ」を口にだしてみて下さい。

そしてそれを私の耳で聞くのです。(小声で結構)

それが縁あって、阿弥陀様を信じる心が起きてくるでしょう。


無常迅速。


●re.2
むじな
非公開の非公開
[ 2763 ] Re2:縁起について 2012/07/05 (Thu) 09:52 △up ▽down
かめ様初めまして・・縁起についてのお尋ねの事・・世間一般かめ様と聞いて思い浮かべるのはつる様ですね。古来より鶴亀は大変縁起の良い生き物として鶴は千年亀は万年とし結婚式には欠かせない縁起物です。しかし阿弥陀仏は計りきれない命の無量壽如来さまですが中々近寄りがたい存在となって居ります。鶴亀と言えば東本願寺系統でのローソク立て(灯明)は鶴亀の灯明ですね。昔々鶴さんがとても素敵な亀さんに出会う機会があり一目で惚れ込んでしまいました。有る時勇気を絞って鶴さんは亀さんに愛の告白をしました
亀さん私(鶴)と結婚してくださいと・・何度も告白したのですが一向に亀さんは首を縦に振りません・・鶴さんは悩み悩みその理由を亀さんに尋ねました。所が驚いた返事が返って来ました。鶴さん貴方の寿命は千年私(亀)の寿命は万年です一生過ごすとなると九千年の間、私は後家さんとして淋しい思いで暮らせねば成りません。残念ですが一緒になる訳には行きませんとの拙い返事でした。鶴さんは考えれば最もの理屈であったが心は悩んで悩んで苦しんで居りました。丁度その時一人の高祖が現れ鶴の悩みを聞き・・唯一言その悩みを解決するには鶴や・・ここより西方に向かってどんどん羽ばたいて行って見なさい最後の完璧の先に一人の立派なお方(善知識)が貴方(鶴)を待っていて下さるでしょうと言われ鶴は言われるまま即座に西方に羽ばたいて行きました飛んで飛んで最後の砦にたどり着いてところ確かに一人の高祖のお方にめぐり逢う事が出来ました、今までの経緯を話た所そのお方はニコニコ顔で良いご縁が出来たのうと言われそなたに其れでは無量壽の命を授けてあげようと言われ一念帰命の無量寿の仏の約束が出来たそうです。・・さあ喜んだ鶴は喜び勇んで亀さんの前に来て経緯を述べ貴女(亀)さん貴方は万年かも知らねどもお陰様で私(鶴)は無量寿の命のご縁を結ばさして頂きましたと西方に向かって大きく口開けて南無と手を合わせた。さあ驚いた亀さん・一生のお願いです是非是非私(亀)にも
その高祖さまのもとに連れて行って下さいと・・鶴は喜んで亀と共に無量壽の命の約束を果たし二人は目出度く結ばれたそうです。お東の灯明は亀は恩人の鶴を粗末にできない私の背に乗せて阿弥陀様に共に南無と拝み灯明を捧げて居られます。袖すりあうも縁と言いますか
どうかかめ様拙い話でしたが早くご縁の有るつる様との出会いご縁が有りますように合掌

●re.3
かめ
非公開の男性
[ 2764 ] Re3:縁起について 2012/07/05 (Thu) 21:11 △up ▽down
菩提心様へ

初めまして。お返事有難うございます。

>かめ様は、阿弥陀様を信じられますか?

正直に答えさせていただきますと、信じることができていません。
ですが、信じたいとは思っています。

>仏教を聞く原点は、浄土に往きたい、その気持ち一つだと思います。

恥ずかしながら、浄土に往きたいという気持ちもないのが現実です。
ですが、こちらも、そう思いたいとは思っています。

念仏を称えさせていただいても「救われた」と言えるような気持ちの変化がありません。
そうすると、何か自分にまだ至らないところがあるのだろうと考えまして、その結果ああでもないこうでもないと考えている日々です。
結局のところ、これが自力のはからいということになるのでしょうけれども、これをやめられないのが人間の性なのだろうかとも思い、途方に暮れています。

念仏を称え、救われたという気持ちにならなかったとしても、また明日に縁が成就するかもしれないと希望を持つ方が良いのでしょうか・・・。
菩提心様がおっしゃるように、無常迅速で、明日が来るまでに死んでしまうこともあります。
そうしますと、「この今」に救われたという実感を持てない私にはとても明日を迎えようという気にはなれません。どうしたものでしょうか・・・。
すみません、少し愚痴のようになってしまいました。


むじな様へ

初めまして。お返事有難うございます。

私のためにわざわざ長いお話を書いてくださって申し訳ないです。
ご縁を祈ってもらって恐縮です。
鶴さんに出逢えればいいのですが、そうもいかず、大変もどかしいです。
こちらから何かアプローチをかけることができれば(私にとっては)良いのですが、それもすべて自力のはからいということになってしまうのでしたら、一体どうすればいいのだろうと困ってしまいます。
ひたすら、念仏を称えて「待つ」しかないのでしょうか。
明日をも知れぬ身ですのに・・・。


お二人へ

縁起については、やはり善知識とのご縁という文脈くらいでしかほとんど話されないという理解でよろしいでしょうか。
とにもかくにも念仏、ということですね。
お返事有難うございました。


●re.4
ボン
東京の男性
[ 2765 ] Re4:縁起について 2012/07/06 (Fri) 01:43 △up ▽down
菩提心さま、お久しぶりでございます。

御文(2-2)に「そもそも、開山聖人の御一流には、それ信心といふことをもつて先とせら
れたり」とありますように、おっしゃることまったくごもっともなことと思います。

むじなさま、こんばんは。

示唆に富んだお話、たいへん興味深く承りました。


かめさま、こんばんは。

確かに真宗では「縁起」という言葉を用いることが少ないようですね。私もそういう言葉
があるということくらいは知っていますが、それについてあまり考えたことがありません
でした。おそらく、かめさまのほうがよくご存知なのではないかと推察いたします。しか
し、せっかくの「お題」ですから、私も少し調べてみて、考えをまとめてみました。

調べたところ「縁起」というのは、「因縁生起」の略と考えられているようです。そのま
ま読めば「因と縁が生じて起こる」となります。つまり、「因」と「縁」に関係のあるこ
とだということがわかります。

そう考えてみると「縁起」という言葉は真宗ではあまり使いませんが、「因縁」という
言葉は頻繁に使います。また「因果」という言葉もよく使います。私がかつてお世話に
なった善智識先生は、あまり難しい話はなさりませんでしたが、一度だけ「因・縁・果」
についてのお話をしてくださったことがございました。

記憶の断片を寄せ集めてみますと、まず、この世のすべての事象は因(原因)があって果
(結果)があるのだということ。これは、世間一般の見方としてはごくあたりまえのことで
すが、仏教で特徴的なことは、それがこの世にかぎらず、過去世から未来世まで通して
影響をあたえるものだと考えていることだ、ということだったと思います。

もうひとつ、仏教において特徴的なことは、因(原因)と果(結果)のあいだに縁(条件)が
介在すると考えることなのだそうです。因も縁も果を導くものには違いないのですが、
果を導く主なものは因であって、縁は副次的なもの、あくまでも介在するものというこ
とだったように思います。

たとえば自然の摂理でいいますと、タネ(因)をまくと実(果)が成ります。しかし、タネは
必要な条件が整わない限り、いつまでたってもタネのままです。タネは、土に埋められ、
適度な水分が与えられ、太陽の光をあびてはじめて花を咲かせて、実を結びます。この土、
水、光が「縁」にあたるものだと思います。

また極楽浄土を作り上げて阿弥陀仏となった法蔵菩薩の話でいいますと、法蔵菩薩を因位
といい、阿弥陀仏を果位といいます。法蔵菩薩が因であり、阿弥陀仏が果なのですね。
法蔵菩薩にアドバイスをしたお師匠さん、つまり世自在王仏が、縁ということになりす。
しかし、視点を変えれば世自在王仏も因ともなり果ともなりうるのですから、真如以外の
すべての存在は、因・縁・果が複雑に絡まりあったものだということになります。

むじなさまの鶴と亀のたとえ話でいいますと、鶴も亀も因とすれば、無量寿が果で、高祖
も善智識も縁です。また鶴から見ると亀が縁であり、亀からみると鶴が縁となります。

つまり、この世のすべては因・縁・果で説明ができ、因果はめぐるなどと言いますが、
我々凡夫には、何が因で、何が縁で、何が果なのかは、まったくといっていいほど解らな
いのだと思います。だから「人には何かしてあげなさい。それがめぐりめぐって帰ってく
るから」なとど言うようなことしかできないわけです。

もちろんすべてを悟った阿弥陀仏は、その因縁果のすべてをお見通しなのでしょう。縁覚
も因縁の道理を観じてさとる者という意味なのだそうですが、一人で悟ってだれにも教え
ようとしないので独覚・辟支仏などとも呼ばれるようです。

以前の話題となった宿縁というのも、過去世の関係が宿ったものがこの世の縁となって
作用するということなのだと思います。特に結果として仏法に近づける縁は、宿善という
ことになるわけです。だから「宿善=宿縁」です。

ちなみに、真宗のご聖典のなかで、私が唯一発見した「縁起」という言葉は、「六要鈔」
の中にありました。

--------------------------------------------------------------------------------
「支仏の法」とは、これ十二縁起の観を指すなり。(六要鈔・真土巻)
--------------------------------------------------------------------------------

十二縁起を観ずるのが、支仏(縁覚)の法だということですね。

とりとめのない話で失礼しました。

南无阿彌陀佛

●re.5
かめ
非公開の男性
[ 2766 ] Re5:縁起について 2012/07/07 (Sat) 13:57 △up ▽down
ボン様、こんにちは。

今回も親切にお教えいただき有難うございます。
凡夫に縁起を云々することはできないのですね。

>おそらく、かめさまのほうがよくご存知なのではないかと推察いたします。

いえ、私もふと自分が縁起について何も知らないことに気づき、またなぜそれがこれほどまでに仏教で重要とされているかが簡単な説明を見ましても全くわかりませんでしたので、
真宗ではどのような扱い方をされているのだろうと思い、質問させていただきました。
やはり、あまり話題にはならないようなのですね。

信心をいただけていない自分を顧みましたとき、自分にはきっと何かが足りないのだ、それは縁起に関する知識ではないだろうか、または○○ではないだろうかとそんなことばかり考えてしまいます。

私自身に何かが足りないのでしょうか。しかし、足りない者を救って下さるのが阿弥陀様ではないか、などと考え何とも煮え切らない日々です。

今回の質問はあまり的を射た質問ではなかったようですね。
私自身の身勝手な思い込みかもしれませんが、
人間として、凡夫として、真に問うべきこと、求めるべきことがわかったときに、初めて「聞」というものが開けてくるのではないだろうかと思っています。
もう少し(自力にはならないようにではありますが)奮闘してみます。
お返事有難うございました。


●re.6
ボン
東京の男性
[ 2767 ] Re6:縁起について 2012/07/08 (Sun) 09:28 △up ▽down
かめさま、こんばんは。

因果につきまして説明が不十分でしたので、補足いたします。

よく「悪因悪果」「善因善果」などということを申します。文字通り「悪いタネを撒けば
悪い結果がもたらされる」「よいタネを撒けばよい結果がもたらされる」といったような
意味です。

悪い行いの報いはすべて、他のだれでもない、本人が刈り取らなければならないというこ
とが、仏教の考え方の基本にあります。よい行いの報いはすべて、他のだれでもない、
本人が受け取るということもまた同様です。

阿弥陀仏ですら、自らの功徳によって阿弥陀仏になったわけですから、一人の例外もなく
この因果の法則から免れることはできません。また、阿弥陀仏の力をもってしても、一人
の衆生も、因果の法則を乗り越えて救うことはできないのです。

仮に悪いことをして、たまたまよい結果を得たと思えることがあったとしても、あとで必
ずその報いは受け取ることになるというのです。今生で悪い報いを受けとらなかったとし
ても、来世は奈落の底に突きおとされるというわけです。これはいわば仏教によれば必然
のことであって、だれもそれを免れるわけにはいかないということです。

それでは、何がよい行いで、何が悪い行いかといえば、あくまでも仏教の立場からいえば、
仏に近づくタネとなる行いがよい行いで、仏から遠ざかる行いが悪い行いだということに
なります。具体的には、十悪とか五逆とか言うわけですが、この世で生きている以上、こ
れらの罪を犯さずに生きていくことは不可能です。

たとえば十悪のはじめが殺生となっていますが、殺生をしないで生きている人間は一人も
いません。道を歩けば無数の虫や微生物を踏み殺すことは避けられません。早い話が、生
きていること自体が罪なのです。その罪の報いは、地獄なり、しかるべきところで、必ず
自分で受け取らなければなりません。

その罪を滅ぼして、仏となる方法が、いわば仏法なわけですが、仏法には無数の法門があ
りまして、自力から他力まで様々な行法が示されています。それはすべて釈迦一代の行法
であって、どれもその説のとおりに修行すれば仏の国に生まれるのだそうですが、他力の
行法を除けば、どれも末代濁世の凡夫のなしうるワザではとうていありません。

ところで悪因とか善因とか言う場合、基本的には「おこない」がその因となります。「お
こない」とは「業」であり「行」です。よく業因とか業果などといいますが、業因とは業
(おこない)によるタネであり、業果とは業(おこない)による報いです。

かつてお世話になった善智識先生から「業」について教わったことがあります。「業」と
は「おこない」なのですが、現在の自分は、過去世から積み上げてきた「業(おこない)」
の蓄積なのだそうです。そして、肉体が滅びたあとにあの世に行くのは、その「業」なの
だそうです。悪業の塊である自分は、いいところに往くはずがありませんよね。

「行」も「業(おこない)」のなかの一つであって、悪業を滅ぼして仏になるために意図的
におこなうものが「行」だと私は理解しています。その「行」に「自力の行」と「他力の行」
があるわけで、真宗は「他力の行」を説いていると考えてよいと思います。

ここでひとつ世間に誤解があると思われるのは、「自ら起こす行動はすべて自力だから良
くない」と考えられているフシがあるということです。しかし、仏教でいうところの自力
というのは「自ら起こした行にたよって往生しようとすること」ではないかと思うのです。
それがいわゆる「自力の行」ですが、それでは末代濁世の凡夫が往生するというのは無理
だというのであって、なにも「自ら起こす行動はすべて良くない」などと言っているので
はないと思うのです。

「自然法爾」「無義の義」「はからうな」などといったことを取り違えて、「自らの考え
で行動することをやめれば、そこに阿弥陀様のはからいが作用して、ものごとがいいよう
に展開していく」などと考えるのは、まったく根拠のないことのように思えます。

それどころか、この世で生きていくにあたっては、自ら考えで行動することは避けられな
いのであって、それをやめてしまおうなどというのは、とても苦痛をともないますし、
まともな精神状態でこの世を暮らしていくことすら困難になってしまうものと思います。

「二河白道」の登場人物も、自らの意思で「よし、前に進もう」と思ったのではないでし
ょうか。少なくとも、茫然自失の状態で、何の考えもなく足を踏み出したわけではないと
思います。

少々まとまりがつかなくなってしまいましたが、真宗においては「縁起」という言葉こそ
多用しておりませんが、すくなくとも「因果の法則」がすべて前提になっているのであり、
阿弥陀仏がお示しくださった「他力の行法」も「因果の法則」に則ったものであることは
確かなことのように思います。

南无阿彌陀佛

●re.7
かめ
非公開の男性
[ 2768 ] Re7:縁起について 2012/07/08 (Sun) 14:36 △up ▽down
ボン様、こんにちは。

補足有難うございます。

>また、阿弥陀仏の力をもってしても、一人
>の衆生も、因果の法則を乗り越えて救うことはできないのです。
>
>仮に悪いことをして、たまたまよい結果を得たと思えることがあったとしても、あとで必
>ずその報いは受け取ることになるというのです。今生で悪い報いを受けとらなかったとし
>ても、来世は奈落の底に突きおとされるというわけです。

確認させていただきたいのですが、自らの業によってはとても救われることもできず因果の法則によれば地獄行きが確定しているような、
そんな凡夫を救ってくださるのが阿弥陀仏だということですよね。
十悪五逆の罪を犯さずには生きられず、また来世は奈落の底に突き落とされるはずの凡夫を救ってくださるのが阿弥陀様なのだと私は理解していますが、それでよろしいでしょうか。


>「行」も「業(おこない)」のなかの一つであって、悪業を滅ぼして仏になるために意図的
>におこなうものが「行」だと私は理解しています。その「行」に「自力の行」と「他力の行」
>があるわけで、真宗は「他力の行」を説いていると考えてよいと思います。

阿弥陀仏にとっての「自力の行」を凡夫に回向して下さり、それを凡夫の側から見たのが「他力の行」ということですね。

●re.8
ボン
東京の男性
[ 2773 ] Re8:縁起について 2012/07/12 (Thu) 01:55 △up ▽down
かめさま、こんばんは。

たいへん遅くなりましたが、ご質問にお答えいたします。
(どうお答えしたらよろしいか考えあぐねて、ご聖典を調べたりしておりました。)

>自らの業によってはとても救われることもできず因果の法則によれば地獄行きが確定して
>いるような、そんな凡夫を救ってくださるのが阿弥陀仏だということですよね。
>十悪五逆の罪を犯さずには生きられず、また来世は奈落の底に突き落とされるはずの凡夫
>を救ってくださるのが阿弥陀様なのだと私は理解していますが、それでよろしいでしょうか。

多くの仏が見放した凡夫を、自分こそが助けようと願を起こして、それが成就したのです
から、阿弥陀仏は我々凡夫を助ける手立てを手に入れたと考えてよろしいかと思います。
これについては「持名鈔」の記述がわかりやすいと思いますますので、以下、引用します。

--------------------------------------------------------------------------------
阿弥陀如来は・・・衆生の往生を決定せんがために、しばらく法蔵比丘となのりて、その
正覚を成じたまへり。・・・凡夫往生のたねをえらび定められしとき、布施・持戒・忍辱
・精進等のもろもろのわづらはしき行をばえらびすてて、称名念仏の一行をもつてその
本願としたまひき。(持名鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
弥陀如来、無縁の慈悲にもよほされ、深重の弘願を発して、ことに罪悪生死の凡夫をたす
け、ねんごろに称名往生の易行を授けたまへり。これを行じこれを信ずるものは、ながく
六道生死の苦域を出でて、あまつさへ 無為無漏の報土に生れんことは、不可思議のさい
はひなり。(持名鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

雑多なわずらわしい行を捨てて「称名念仏の一行」を選んだということです。これは、
「称名往生の易行」と言っても同じことです。称名念仏といのは南無阿弥陀仏を称えると
いうことです。これによって報土への往生が定まるというわけです。ただし、ただ無闇と
念仏を称えれば往生できるというわけでもなさそうです。御文より引用します。

--------------------------------------------------------------------------------
名号をもつてなにのこころえもなくして、ただとなへてはたすからざるなり。されば『経』
(大経・下)には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、
南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけ
て、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ
道理なり。これを『経』に「信心歓喜」と説かれたり。これによりて、南無阿弥陀仏の体
は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。(御文1-15)
--------------------------------------------------------------------------------

善知識の教えを受けて、南無とたのめば、阿弥陀仏が助けてくれると、蓮如上人がおっし
ゃっております。この「たのむ」は「お願いする」ということではなく、「たよりにする」
または「おまかせする」という意味です。「南無と頼って、おまかせする」わけですね。
「南無とたのむ」というのは不思議なことばですが、これを善知識に聞かなければ、
阿弥陀仏のお助けにあずかることはないということなのだと思います。

--------------------------------------------------------------------------------
南無阿弥陀仏といへる行体は往生の正業なり。しかれども、機に信ずると信ぜざるとの
不同あるがゆゑに、往生を得ると得ざるとの差別あり。(持名鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

南無阿弥陀仏という「行体」は往生のための正しい「業」なのだけれそも、信ずる者と信
じない者のあいだには、往生を得る者と得ない者との差別があるというわけです。阿弥陀仏
のお慈悲はあまねく衆生に降り注がれているに違いないと思うのですが、それを受け取っ
て往生の業因を頂戴できるがどうかは、当人次第なのだという気がいたします。

南无阿彌陀佛

●re.9
かめ
非公開の男性
[ 2774 ] Re9:縁起について 2012/07/12 (Thu) 21:48 △up ▽down
ボン様、こんばんは。

>(どうお答えしたらよろしいか考えあぐねて、ご聖典を調べたりしておりました。)

いつも御文などご聖典から引用して下さってどうも有難うございます。

>南無阿弥陀仏という「行体」は往生のための正しい「業」なのだけれそも、信ずる者と信
>じない者のあいだには、往生を得る者と得ない者との差別があるというわけです。阿弥陀仏
>のお慈悲はあまねく衆生に降り注がれているに違いないと思うのですが、それを受け取っ
>て往生の業因を頂戴できるがどうかは、当人次第なのだという気がいたします。

私は往生がなぜ救いとなるのかということが今ひとつ実感できずにいます。
来世での往生が確定したというそのことがきっと今生での救いになると思うのですが、やはりそのことを救いとしては受け止めることができません。
実感がないから信じないというわけではないのですけれども。

私がぼんやりと思い描いている感じとしましては、信じることができた者は、その信じることができたということにおいてもう救われているのではないかと思います。
極端かもしれませんが、いざ臨終時に往生できなかったとしても別に構わない、なぜなら「今」往生の確信があることによって安心が得られたのだから。という心持ではないだろうかと考えます。この安心以外に救いはないと考えます。
ですから、信ずることができた者が救われ、できなかった者が救われないということですけれども、それは実際の往生の有無というよりも、信ずることができたかどうかで決まるように思えます。
信じて、しかるべき後に救われるのではなく、信じることそのものが救いだと思うのです。もちろん、この場合の救いというのはあの世での行き先という意味ではなく現在の心持での話ですけれども。
後生の一大事ということも、あの世のこととしてではなく、あくまでも現在という文脈で考えるべき問題ではないかと考えます。

さらに、おまかせということにつきましても、(能動的に)おまかせをしたから救われるのではなく、おまかせすることができた、つまりやりたくてもできなかった自力を手放すことができたということが救いとなるのではないかと思います。

凡夫は自力の塊で、自力を止めようと思っても止めることができない。どこまでも執着してしまう。また止めるということにまで執着してしまう。そもそも何が自力なのかもわからない。そんな凡夫が信を得ることによって自力を手放すことができ、苦しみの世界から離れることができたとしたら、それが何よりの救いになると思いますし、阿弥陀様に限らずあらゆる仏様が凡夫に願われているのもそのことではないかと思うのです。

私の拙い考えを好き勝手に書きまして失礼いたしました。
他の皆さんからでも結構ですのでご意見いただけるとありがたいです。

●re.10
ボン
東京の男性
[ 2775 ] Re10:縁起について 2012/07/13 (Fri) 04:01 △up ▽down
かめさま、こんばんは。

>私は往生がなぜ救いとなるのかということが今ひとつ実感できずにいます。

これは、とても根本的な問いかけですね。

私自身も何かを実感しているかといえば、そのようなことはまったくありません。
ただ「ご聖典に書いていることをそのまま受け入れよう」と思っているだけです。
なぜなら、そこには私自身が感じることも考えることもできないことについて述べられて
いるからです。それを実感するなどということは無理だと、はなからあきらめております。

ご聖典を素直に読めば、私たちははるか昔の過去世から罪を作り続けて今生に至り、その
罪の連鎖から自力で抜け出すことはできないということです。それを阿弥陀仏が憐れんで
稀有の請願を立てて、それを成就し、それによって末代の凡夫でもその連鎖から抜け出す
ことができるようになったということです。ならば、そのご利益にあずかろうではないか、
と考えるだけなのです。

所詮、我々凡夫は、過去世のことも、未来世のこともわからないのです。それがはっきり
とあるとも断言できなし、またないとも言い切ることができません。仏法は、その我々が
知りえないことを前提とした教法です。それを信じることができるのか、信じることがで
きないのかと、自分の心に問いかければ、それは「さあ、どうなんだろう」という曖昧な
ものでしかありません。だから、そこに述べていることを鵜呑みにしようと思うだけです。

往生とは阿弥陀仏の浄土に生まれることであり、そこに生まれるということは煩悩まみれ
の六道輪廻から抜け出すことであり、この世では想像もできない清らかな世界に生まれる
ということだと述べています。つまり、煩悩まみれの世界から救いとられるということで
す。私もそれがどういうことなのか実感できませんが、一銭の木戸銭も払わずにそこに通
してくれるなら、とてもありがたいことだと思うだけです。

>来世での往生が確定したというそのことがきっと今生での救いになると思うのですが、
>やはりそのことを救いとしては受け止めることができません。

>私がぼんやりと思い描いている感じとしましては、信じることができた者は、その信じ
>ることができたということにおいてもう救われているのではないかと思います。

おっしゃるお気持ちはよくわかります。極楽往生を心の底から信じることができたなら、
確かにその人は、その時点で「救われた」と言えるかもしれません。そして、本当に心の
底から信じることができたら本当に素晴らしいことです。ひょっとしたら、そういう方も
いらっしゃるかもしれません。しかし、私自身は、やはり疑う気持ちを払拭できないので
す。人様のことまではわかりませんが、私は「自分の心で信じる」という作業をあきらめ
ました。私にはとても無理です。だから、鵜呑みにするばかりです。

ただ、先に以下の引用をしたことは、少々誤解を与えたかもしれませんので補足します。

--------------------------------------------------------------------------------
南無阿弥陀仏といへる行体は往生の正業なり。しかれども、機に信ずると信ぜざるとの
不同あるがゆゑに、往生を得ると得ざるとの差別あり。(持名鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

「南無阿弥陀仏」は「行体」であり「正業」だと書いています。ここのテーマである因果、
つまり「業因・業果」という文脈で引用しております。したがって、ここで信じる信じな
いというのは、「南無阿弥陀仏という行体」が「往生のために正業」だと信じることがで
きるかどうかということを述べているものと思います。御文に書いているように、善知識
の教えをこうて南無とたのめば、結果的に「信じた」ということになるのだと思います。
ここに信じたからおまかせできたという順序があると思うのです。

ただし、「信をいただく」といった場合は、「凡夫の心で信じる」ということとはまた別
のことを表しているようです。

「信」という字には、「信じる」つまり「疑わない」という意味もありますが、「まこと」
という意味もあるようです。ですから、「信心」と言った場合、「信じる心」でもあるし、
同時に「まことの心」ということにもなります。

--------------------------------------------------------------------------------
「信心」というは至心信楽なり。(六要鈔・行巻)
信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。(お文5-5)
大信心は仏性なり、仏性すなはち如来なり(浄土和讃)
さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。(お文5-13)
--------------------------------------------------------------------------------

「信心」というのは至心信楽、つまり18願を心得ることであって、それは仏性であり、
如来であり、六字の名号だというわけです。だから、それは、「凡夫の心で信じる」とい
こととはまた次元の違うものであって、けっして壊れることのない“金剛の信心”という
のだと思います。

南无阿彌陀佛

●re.11
かめ
非公開の男性
[ 2776 ] Re11:縁起について 2012/07/13 (Fri) 20:42 △up ▽down
ボン様、こんばんは。

>所詮、我々凡夫は、過去世のことも、未来世のこともわからないのです。それがはっきり
>とあるとも断言できなし、またないとも言い切ることができません。仏法は、その我々が
>知りえないことを前提とした教法です。それを信じることができるのか、信じることがで
>きないのかと、自分の心に問いかければ、それは「さあ、どうなんだろう」という曖昧な
>ものでしかありません。だから、そこに述べていることを鵜呑みにしようと思うだけです。

曖昧なものなのですか。私はどうもそこで、曖昧なものではなく揺るぎない絶対の安心というものを求めてしまいます。「これが本当だ」とはっきり断言できるようなものです。
もちろん、極楽の有無は知りえないしわからなかったとしても、何かがはっきりするような体験があるのではないかと思っています。

>往生とは阿弥陀仏の浄土に生まれることであり、そこに生まれるということは煩悩まみれ
>の六道輪廻から抜け出すことであり、この世では想像もできない清らかな世界に生まれる
>ということだと述べています。つまり、煩悩まみれの世界から救いとられるということで
>す。私もそれがどういうことなのか実感できませんが、一銭の木戸銭も払わずにそこに通
>してくれるなら、とてもありがたいことだと思うだけです。

私はそこでありがたいと思えないのです。罰当たりな発言かもしれませんが、私は極楽よりも死んで無になる方がありがたいと感じてしまいます。例え楽しくとも極楽でまた生きなければならないのは面倒だなと感じてしまうのです。

>「南無阿弥陀仏」は「行体」であり「正業」だと書いています。ここのテーマである因果、
>つまり「業因・業果」という文脈で引用しております。したがって、ここで信じる信じな
>いというのは、「南無阿弥陀仏という行体」が「往生のために正業」だと信じることがで
>きるかどうかということを述べているものと思います。御文に書いているように、善知識
>の教えをこうて南無とたのめば、結果的に「信じた」ということになるのだと思います。
>ここに信じたからおまかせできたという順序があると思うのです。

おっしゃる通りですね。業因というテーマでのお言葉だったのですね。読み違えていたかもしれません。


やはりまだまだもやが晴れません。
ボン様のおっしゃる「鵜呑み」ということが気にかかっています。
ボン様のことではありませんが、いわゆる新興宗教などで使われる「神を信じる」という言葉には、私はどうも納得できずにいます。仮に教祖であったり団体の先輩などに心から尊敬できる方があり、自分にはわからないことでもその方が言われることなら積極的に信じていこう、というのが一般的な信仰の形だと思います。
それはそれで良いことだと思うのですが、それが仏教で考えるところの「救い」と同じかというとそうではないと思います。

誰かを信じることが救いとなるのだったら、その人に裏切られたり、こちらから信じられなくなったり、その人を亡くしたりすると、その信仰は揺らいでしまうと思うのです。
凡夫の心などはいつどうなってしまうかわからないですし、それを凡夫自分でもどこかで感じているからこそ、「信仰」と言ってもどこかで誤魔化さざるを得ない部分があると思うのです。
このときの「頼る」というのはどうも、自分の人生の責任を他人にも負ってもらっているような気がします。仏でもなく、他人や、自身が思い描く「万能の神」にです。その依存性ゆえに心が定まらず迷いの世界を廻っているのではないかと私は思うのですが。

ですけれども、真宗でいう信というのはそういうものとは異なるものと考えます。
正確ではありませんが、ある方が「信とはある種の自覚である」とおっしゃっていました。
今の私の境涯ではそれがどういうことなのかはわかりかねますが、何となくそうに違いないと感じるものがありました。
もし信が自覚であったとするならば、それは己が救われることのない身であるという自覚ではないかと思います。この自覚が生き方を大転換させるのだと思います。
これは、己であることの責任から逃げた「おまかせ」ではなく、逃げることの罪を悔いてやめた「おまかせ」だと思います。

そうしますと、それはボン様のおっしゃっている「鵜呑み」ということと同じことに当たるのかもしれませんが、どうもどこかで「鵜呑み」ということに納得がいかない自分がいます。
この納得のいかなさというのも凡夫の見る儚い夢なのかもしれませんが。

>「信」という字には、「信じる」つまり「疑わない」という意味もありますが、「まこと」
>という意味もあるようです。ですから、「信心」と言った場合、「信じる心」でもあるし、
>同時に「まことの心」ということにもなります。

このボン様のお言葉を見ましたとき、とても大切なことなのではないかと感じました。
信じる心はまことの心・・・。信じる心はまことの心・・・。
このお言葉をよく味わってもう少し頑張ってみようと思います。

丁寧にお相手してくださり有難うございました。

●re.12
ボン
東京の男性
[ 2779 ] Re12:縁起について 2012/07/18 (Wed) 17:40 △up ▽down
かめさま、こんばんは。

私が「鵜呑みにする」と申し上げましたことについて、いろいろと引っかかることがある
ようですので、もう少し説明が必要かもしれません。

「鵜呑み」という言葉を辞書で調べると「物事の真意をよく理解せずに受け入れること」
なのだそうです。「よく理解せずに受け入れる」というのは、この世の価値観でいえば、
あまりいい意味ではないようです。ですから、あまりいい表現ではなかったかもしれませ
ん。しかし一方で、「よく理解する」というのが“なんぼのものか”という気持ちがある
のも確かです。

とはいえ解りにくい表現は改めたほうがいいかもしれません。「鵜呑みにする」ではなく
て「そのまま受け入れる」と言い改めたらどんなものでしょうか。「そのまま受け入れる」
ということは、それをよく理解してもしなくてもどちらでもいいという感じになります。

たとえばどういうことになるかというと、「あなたたちは、この世に生まれるまえから、
六道をさまよってきたのだ」といわれれば「ああそうなのか」とそのまま受け入れ、「そ
のわけは、自分の作った罪によって、その結果を刈り取っているのだ」と言われれば、
「ああそうなのか」とそのまま受け入れ、「その罪を滅ぼす行を自力で修めるのは凡夫に
は無理だ」と言われれば「ああそうなのか」とそのまま受け入れ、「そのような凡夫をだ
だ一人救うことができるのが阿弥陀仏だ」と言われれば「ああそうなのか」とそのまま受
け入れ、「阿弥陀仏に助けていただくのは何も難しいことではなくて、善智識に六字のい
われをきいて、あとはおまかせすればいい」といわれれば「ああそうなのか」とそのまま
受け入れればいいということではないかと思うのです。

解らないことは知っているいる人にたずねて、その結果どうしても納得がいかなければ、
「そのまま捨てればいい」だけのことだと思うのです。「そのまま受け入れ」て、自分に
合わなければ「そのまま捨てればいい」のです。

世間で仏教を勉強なさっている方はたくさんおられると思いますが、よく仏の珠玉の言葉
の「いいとこどり」をして、自分の意見の補強する材料とされている方がおられます。
「ああ、この言葉は自分の気持ちにピッタリくるから、少し掘り下げてみよう。」とか、
「この言葉は納得がいかないから、あまり気にしないようにしよう」などとその部分を
無視したりするわけです。

そうして、自分に一番ぴったりくる自分なりの「思想体系」を作り上げようとします。
その場合、仏教にかぎらず、この世のいろいろな賢人の言葉も参照され、自分のしっかり
した考えを形作るための手助けとするかもしれません。そして、そのときに何より大事な
のは自分の考え方、自分の感性なのです。(だから自力だ、などと言いたいわけではあり
ません。)

もちろん、これは世間的にみれば、決して悪いことではありません。自分をしっかり持っ
て、自分の感じ方、考え方を大切に、しっかりとした人間となって、この世を生きていく
ことも大切なことでしょう。これはこれで、非の打ちどころがありません。

ただ、仏法という場合、これはひとつの行法であって、単なる哲学的な思想の体系、また
はひとつの人生観として完結するものではないという気がするのです。親鸞聖人自身が、
ご自身の主著に「教行信証」というタイトルをつけられたことに、それは良く表れている
と思います。

だから、それらの言葉を切り刻んで、様々に解釈して、それを自らの思索のなかにとりこ
もうというアプローチを、私はとりたくないのです。そのまま受け入れるか、まったく見
向きもしないか、一旦受け入れても捨ててしまうのか、そのいずれかの態度を私は取りた
い、ということを申し上げたかったのです。

南无阿彌陀佛

●re.13
かめ
非公開の男性
[ 2780 ] Re13:縁起について 2012/07/18 (Wed) 22:12 △up ▽down
ボン様、こんばんは。

>世間で仏教を勉強なさっている方はたくさんおられると思いますが、よく仏の珠玉の言葉
>の「いいとこどり」をして、自分の意見の補強する材料とされている方がおられます。
>「ああ、この言葉は自分の気持ちにピッタリくるから、少し掘り下げてみよう。」とか、
>「この言葉は納得がいかないから、あまり気にしないようにしよう」などとその部分を
>無視したりするわけです。

私には耳が痛くなるお言葉です。私の場合、注意してもしすぎることはないと思います。
在家の身ですから、やってもやめてもどちらでもいいというポジションには違いありませんので、どうしてもいいとこどりをしてしまいます。それに、自分の中の解決したいものが言ってしまえば仏法よりも優先されていますので、自分の考えに仏法をあてはめているところはやはり少なからずあると思います。
これはやはり自力ですよね。

他にもお返事したいことがありますが、別にスレッドを立てていまして、そちらと内容が重なってしまいますので、そちらの方でお返事させていただきます。
よろしければ拝見願います。




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