浄土真宗の教義について

新規スレッド作成タイトル一覧表示ログ検索ホームへ
  《prev 169 next》
・選択したスレッドを表示しています。返信は▽downのフォームからどうぞ。
(「メール送信」ボタンを押すと、書き込み作者宛にメール送信ができます。ヘルプ)(「編集」ボタンで記事の編集ができます。)
 
●No.169
かめ
非公開の男性
[ 2747 ] 二河白道 2012/06/07 (Thu) 16:51 △up ▽down
はじめまして。


二河白道についてですが、

「行っても帰っても死ぬだろう。それなら進もう」
というところがあったと思いますが、
行っても帰っても同じなのに、
そこで進ませるものとは一体何なのでしょうか。

獣より火や水によって死ぬ方がまだ「マシ」だ、
ということではないですよね、きっと。

そこにすごく大事なことがあると自分なりに思っているのですが
わかりません。

●re.1
ボン
東京の男性
[ 2748 ] Re1:二河白道 2012/06/08 (Fri) 04:08 △up ▽down
かめさま、はじめまして。

おそらく、りささまのご質問にたいする私のレスをご覧いただいたうえでの、ご質問かと
思われますので、私がなんらかのお話をしなければならないものと思います。

正確を期するために、当該箇所を「散善義」から引用いたします。

--------------------------------------------------------------------------------
われいま回らばまた死せん。住まらばまた死せん。去かばまた死せん。一種として死を勉
れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり。かならず度
るべし。
--------------------------------------------------------------------------------

ここに「前に向かひて去かん」とあります。「前に向かっていこう」ということです。
ここで「前」というのは「体の向いている方角」です。「体の向いている方角」というの
は「これまで進んできた方角の延長線上」ということです。つまり、これが「進む」とい
うことになるわけです。

この人は、八方ふさがりの状態で、前に進むことを選択しました。つまり、ここでは、
「迷ったら前に進め」と言っているわけです。それでは、なぜ、前に進むのがいいのか。
その答えは、その前後を見ても書いていないようです。経文に答えを見出せないので、
これから述べることは、私見となります。

「これまで進んできた方角に更に進む」ということは「流れに逆らわない」「流れを大切
にする」ということです。「流れ」と言っても良いし、「その場の勢い」と言ってもよい
かもしれません。

それを裏返せば、論理的に「こうだから、こうだ」と小さな脳味噌で理屈をあまり考える
なということにもなります。人間の小賢しい考えなど取るに足らないというのが、仏法的
に正しい判断だということになるのでしょう。仏法的に正しいということは、この世的に
も当然正しいわけです。

理屈抜きに行動するということは、その人の持って生まれた因縁が強く作用するというこ
とになるではないでしょうか。そうすると自力が抜けて、他力が強く作用することになり
ます。そのとき、釈尊と弥陀の声が聞こえてきたのです。(縁があったから)

このことは、とても示唆に富んでいるように感じられます。釈尊と弥陀は「進め」と言っ
たから進んだのではありません。「よーし、このまま前に進もう」と意を決したときに、
釈尊と弥陀の声が聞こえてきたのです。

「よーし、このまま前に進もう」という気風の良さが、良い結果を生みました。ウダウダ、
グズグズ考えて立ち止まってしまうことは、悪い結果を導きます。仏法では「粋である」
ということが大事だということではないでしょうか。

以上、独りよがりの考えかもしれません。どなたでも、ご意見をいただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.2
かめ
非公開の男性
[ 2749 ] Re2:二河白道 2012/06/13 (Wed) 17:12 △up ▽down
ボンさん、要領を得ない質問に丁寧なお返事ありがとうございます。

ただ、やっぱりしっくりこないというか、
なかなかこれでよし、というところまではいけなくて困っています。

ボンさんは「これまで進んできた方角の延長線上」とおっしゃいますが、
それは、これまで二河を求めていたということになるのでしょうか。

そもそも知識が足りないので申し訳ないのですが、
二河に直面する人というのは、そこまでたどり着いた求道者なのでしょうか、
それとも人間一般がいわば存在の課題として
二河に直面しているということなのでしょうか。

私としては、人間一般がそうであると了解したい思いです。
その方が普遍的なイメージがあり絶対の救いだと感じられるからです。


それからもう一つ、お聞かせ下さったら有り難いです。
どの方角へ進んでも死ぬだろうという状況で、たとえ身体が前を向いていたとしても、
そこからさらに前へ進もうと思うかというと、やはり私には疑問が残ります。
怖くてその場にしゃがみこんでしまう可能性だってあります。

そのときに、しゃがみこんでしまった人に対して、勇気が足りないから救われないのだと言うとしたら、それは浄土の教えに反するものと思えます。

それから、私にはどうも「前に進もう」と思う気持ちがどうしても自力のように感じられます。
悪く言えば功利的、助かろうという欲があってのことだと思います。
助かりたいと思うのが人間の性でしょうが、
その欲から発生するのが自力の求道なり修養だと思いますので、
どうもそれが他力の譬えであるこの二河白道の譬えの趣意に合致するのか、
と考えると今ひとつ納得できません。

私は在家の人間ですが、上記の懸念のような感覚があって、
どうしても完全に教えにのめり込むというか、完全におまかせしようというところまでいけません。


言い訳に過ぎませんが、切羽詰っているゆえにまとまりのない文章となってしまいました。
それでも読んでくださって、お返事下さったら有り難いです。

●re.3
ボン
東京の男性
[ 2750 ] Re3:二河白道 2012/06/15 (Fri) 10:04 △up ▽down
かめさま、こんばんは。

私見のうえに私見を重ねることになると思いますが、せっかくのご質問ですので、ご返答
をさせていただきたいと思います。

>ボンさんは「これまで進んできた方角の延長線上」とおっしゃいますが、
>それは、これまで二河を求めていたということになるのでしょうか。

>二河に直面する人というのは、そこまでたどり着いた求道者なのでしょうか、
>それとも人間一般がいわば存在の課題として
>二河に直面しているということなのでしょうか。

「散善義」を素直に読むと、この人は求道者ではないと思います。何かを求めているわけ
ではなく、まして二河を求めていたということでもないと思います。ただ悪党やケダモノ
に追われて、たまたま西の方に逃げて、たまたま二河に直面したのだと思います。

>どの方角へ進んでも死ぬだろうという状況で、たとえ身体が前を向いていたとしても、
>そこからさらに前へ進もうと思うかというと、やはり私には疑問が残ります。
>怖くてその場にしゃがみこんでしまう可能性だってあります。

>そのときに、しゃがみこんでしまった人に対して、勇気が足りないから救われないのだと
>言うとしたら、それは浄土の教えに反するものと思えます。

この喩えで言いますと、だれもが西に逃げるとは限らないし、西に逃げたものが必ずしも
二河に直面するとは限らないし、二河に直面したものが必ずしもその白い道を渡るとは限
らないのだと思います。

この人は、たまたま西へ逃げて、たまたま二河に直面し、ほんのはずみで、その場の勢い
で白い道を渡ったのだと思います。たまたま西へ逃げたのも、たまたま二河に直面したの
も、勢いで白い道を渡ったのも、すべて宿善のなせるわざではないでしょうか。

この人に勇気があったのかどうかは、わかりません。その場にしゃがみこむ人に勇気が足
りないのかどうかも、わかりません。しかし、この喩えによりますと、その場にしゃがみ
こんだら、やはり、白い道を渡って西岸にたどりつくことはできない、ということは確か
なようです。

そもそも、この喩えでは、勇気があるかどうかを問題にしておりません。かめさまは、
白い道を渡ることが勇気のあることで、その場にしゃがみこむことが勇気の足りないこと
だと解釈しておりますが、考えようによっては、その逆かもしれません。

私には、あのような状況でその場にしゃがみこむことも、ある意味で勇気のあることのよ
うに思えます。しかし、いずれにしても、勇気というものは、その人の資質・人格に属す
ることですから、往生がそのようなものに左右されるというのなら、確かにそれは浄土の
教えに反するものでしょう。

>それから、私にはどうも「前に進もう」と思う気持ちがどうしても自力のように感じられます。
>悪く言えば功利的、助かろうという欲があってのことだと思います。
>助かりたいと思うのが人間の性でしょうが、
>その欲から発生するのが自力の求道なり修養だと思いますので、
>どうもそれが他力の譬えであるこの二河白道の譬えの趣意に合致するのか、
>と考えると今ひとつ納得できません。

いわゆる「自力」というのは「自分の力に頼って往生しようとすること」であり、「他力」
というのは「仏の力に頼って往生しようとすること」であると、一般的に理解されている
ものと思います。

「自分の力に頼る」というのは、いわば「自力修行」をすることであり、それは聖道門と
呼ばれるものです。「聖なる道の門」というくらいですから、この世的にいえば、高尚で
賞賛に値するものなのでしょう。

一方、「仏の力に頼る」ということは、その人の資質を問題にしていません。たとえ打算
的であろうが、功利的であろうが、助かろうという欲から来たものであろうが、「自分で
悟るのは無理だ」とあきらめて、「仏におまかせしよう」と身をまかせる人を救いましょう
というのが真宗の考え方ではないかと思います。

自力だろうが、他力だろうが、煩悩まみれの凡夫のすることは、所詮、欲にかられてやっ
ていることなのではないでしょうか。

お答えになっているかどうかわかりませんし、また、間違っているかもしれません。
どなたでも、ご意見をいただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.4
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 2751 ] Re4:二河白道 2012/06/16 (Sat) 01:46 △up ▽down
ボン様

ご無沙汰しております。 極道坊主であります。
最近は、ゆっくりと拝見する時間が無くなってしまいましたが、気が付くとやはりこのページを開いています。
なかなかに書き込む余裕も無くなって、読ませて貰っては頷いているばかりです。

かめ様

はじめまして。
以前はよく、このページにもお邪魔させて貰っておりました者です。
へそ曲がりな奴ですが、今後共よろしくお願いいたします。

さて今回、相当なご無沙汰にもかかわらず、お邪魔させて頂いたのは、ボン様の「前に進む。」という事の思いに関して,一言、自身の思いを聞いて貰おうと思った訳であります。

自分が考えさせられますに、『「前」というのは「体の向いている方角」とは限らないのではないか?』と思うのです。
「前」という字、このように書いて「さき」と読みます。
このように読みますと、方角の前方と言う意味合いも含めて、まだ来ぬ時間、一瞬先の未来という感じ方もあるように思います。
所謂、方角という受け取り方よりも、時の流れといった感じなのでしょうか?
それは、前を向いていようが、後ろ向きであろうが、しゃがんでいようが、寝ていようが来るのではないかと思います?
時間は、自分自身がどの様な状況であっても、やって来て過ぎて行きます。
時間が、「私を載せて運んで下さっている。」と感じるのです。
客観的に見れば、運んで貰っているのですが、自身から見れば進んでいると感じるのでしょう。
しかし其処には、自身の努力云々は関わりません。 シャカリキになろうが怠けていようが、時間は同じリズムを刻みながら進んでいきます。
決して時間が後戻りすることはありません。
そういう意味合いで、「前に向かひて去かん。」と散善義には、お書きになられたのではないでしょうか?

『自身の行先、目標地点が「身体の向いている方角の先」にある。』と言い切るのは、多少難があると感じます。
人の一生には、「方向転換」といった心持ちになる時は幾度と無く有るように思います。
其処に目標が無かった時、目標が違った時、改めて行き先を決めた時等には、そういった思いになるように感じます。
その時は一旦、後ずさりをしますが、それでも新しい目標に向かって歩もうとしていると思います。 この状態って、後ろ向きで前進の状態ではないですか?

到着点、目標は佛様が「こっちじゃ。」と示しておって下さっています。
でも人間は元来怠け者でして、示される方向に行こうとしません。 「おいで。」と言われるのに行こうとしないのです。
佛様の建てられた浄土の理想と、人間の求める欲の理想とでは次元が違うのですが、いかんせん人の欲のほうが勝っている。 そういう世間の方が、居心地がよく、快適に思っているのでしょう。 
そんな者を目標の方向に向けるには、盗賊や獣、鬼神などに後ろから追わせればいいのです。
そうすれば、居ても立っても居られなくなる。「よーし、このまま前に進もう。」とまでは行かないまでも、「進まなきゃ。」って気にはなります。

時期が至れば、「進もう。」と思い立つ前に「進まなくちゃ。」の状況にしてしまう。
自身の心構えによる結果の善し悪しなど、全然関係ないのだと思います。
その盗賊なども、人間を佛の示される道に向かわす為の御手回し、「善巧方便」なのでしょう。

ウダウダ、グズグズが悪い結果を導く。 気風の良さが良い結果になる。
そうかも知れません、因果の道理に基づいて考えれば、良いが良いを呼び、悪いが悪いを呼ぶということですよね。 
しかし、それはまだ自身の心の在り方如何を問うております。
ウダウダ、グズグズ考えて立ち止まってしまうのも、その時はそれが当人にとっては必要なことであるからなのでしょう。 これも御廻向、お手回しです。
自身の行動であるようで、自分自身も佛様に操られ、ここまで来ているのでしょうから?
立ち止まって考えている時も、「よーし、このまま前に進もう。」と思い立つまでの思考の因でありますから。

粋であることは理想的だと思います。 でも、グダグダ、グズグズの自分でありながら、グダグダ、グズグズのままに救うて下さるのが、当流の味わいだと感じます?

また、お話をお聞かせ下さい。  合掌

●re.5
かめ
非公開の男性
[ 2752 ] Re5:二河白道 2012/06/16 (Sat) 15:57 △up ▽down
ボン様、お返事有難うございます。
極道坊主様、はじめまして。こちらこそお願い致します。


私は宿善についてどのように考えたら良いのかよくわかりません。
河を渡った後なら、それも宿善のなせるわざだと考えることができますが、
河を渡っていない今の私の立場からすると、
私には宿善が足りないのか、と考えるしかありません。
そうではなくて、これから後に縁が来て渡ることができると考えることもできますが、
その場合だと、その「時」がわからない以上、
やはり宿善について考えることは河を渡る以前の人にとってはあまり必要がないものと思えます。

宿善というのは前世での善行であると私は理解していますが、
もしそうだったとしたら、
この人は宿善があるために救われる、あの人は宿善が足りないために救われない、
と差別することになり、阿弥陀仏の摂取不捨の御心と反するように思えます。

それは、今世であろうと前世であろうと、
かつて行った善行の徳を振り向けて救われようとする自力の廻向の考え方ではないかと
私には思えてしまうのですが・・・。


極道坊主様が、

>客観的に見れば、運んで貰っているのですが、自身から見れば進んでいると感じるのでしょう。
>しかし其処には、自身の努力云々は関わりません。 シャカリキになろうが怠けていようが、時間は同じリズムを刻みながら進んでいきます。

とおっしゃり、また

>佛様の建てられた浄土の理想と、人間の求める欲の理想とでは次元が違うのですが、いかんせん人の欲のほうが勝っている。 そういう世間の方が、居心地がよく、快適に思っているのでしょう。 

とおっしゃってますが、私もそれに近い理解をさせてもらっています。
ただ、それだと凡夫と阿弥陀様との間に接点が感じられないのです。

凡夫がどんな悪を犯そうと弥陀の本願力の妨げにはならない、
凡夫の積む自力の善行も弥陀の本願力の上乗せにはならない、
凡夫が現状を地獄と見、自身の不幸を嘆いていたとしても、
それは阿弥陀様のおはからいである、
と、そうしますと、凡夫の方から見ますと阿弥陀様との間に隙間があいていて、
どんなに手を伸ばしても触れられないような気がします。


縁が来ればいつかは信心が固まるのかもしれませんが、
私はどうしても「今」救われたいと強く願っています。
信心はこちらから得るものではなくいただくものだとは聞いたことがありますが、
この「今」に救われたいというのが私の正直な気持ちです。
それは、極楽往生まで待てないという意味ではなくて、
自分は阿弥陀様に見守られているのだという実感を今感じたいということです。


どなた様かご意見下さると嬉しいです。

●re.6
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 2753 ] Re6:二河白道 2012/06/17 (Sun) 02:47 △up ▽down
かめ様

早速のお返事有難うございます。
色々と思考を練られているご様子。
なかなか、理解出来ないのも重々に知らされます。
自身もこの教えではありませんが、佛教というものに出会って、「色々な内容を憶えてやろう。」と我武者羅であったように思います。
佛の教えは、「理解しようとして理解できるものでは無かった。」という思いに至っています。
「理解できた。」と思ってみても、それは万ある全体の中の1〜2にも満たないと思います。 ほぼ、理解など出来ないと思われても良いんじゃないでしょうか?
理解して助かる教えならば、高学歴の方や記憶力の優れた方が優先的に助かっているはずです。 でも、そうではない。
ならば、安心に至るためには論釈の理解も必要かもしれませんが、それは二の次ということなのでしょう?(当流に於いては!と前置きしておきます。他流はわかりません。)

という、自身の思いを前振りにしておいて、かめ様は「宿善」の事について

>私は宿善についてどのように考えたら良いのかよくわかりません。

と述べられておりますので、その事について私考を書かせて頂きます。

>河を渡った後なら、それも宿善のなせるわざだと考えることができますが、
>河を渡っていない今の私の立場からすると、
>私には宿善が足りないのか、と考えるしかありません。

かめ様は、二河白道に直面し、その川を渡り切ることが出来たのであれば「宿善」のなせる技だとお考えのようです。
自分も、そう考えた時期がありました。 教えを聞いても、心が晴れたような気に慣れなかった時、「自分には宿善が無かったんだろうか?」と云う考えになったことがありました。
しかし、今の自身が思わされるに「宿善」というものが自身に備わっているのであれば、「私は人間界には生まれていない。」と考えております。
そもそも人界は「苦」の世界。 輪廻の真っ只中に居るのです。 そんな「苦」の世界に生を受けて、「宿善」の有無云々は問うに値しない様な気がします。
もし、少しでも宿善と言うものがあるのであれば、その宿善の報いとして、この「大乗の至極」である御開山親鸞聖人の残して下さった「真宗」の教えに巡り会えたことだと思います。
「偶々行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」と御開山が申されております。
もし、その他に宿縁の欠片が有るのでしたら、真宗の教えでなくとも、他の佛教ででも助かる因縁をお持ちのはずです。

「宿善のなせる技」というのは、川を渡る渡らないに掛かるのではないと思うのですが、如何でしょうか?
この「二河白道」の教えの喩えに出会えている今を、かめ様は体験されておられる。 それが「宿善のなせる技」のように感じます。
人としてこの世に生を受けても、この尊い佛様の教えに出会うことさえ難中の難だと申されます。
厳しい言い方かもしれませんが、今被っている恩恵を「御恩」と感じること無く、自身の心の不安を挙げて「宿善」に責任を転嫁している姿に感じます。
今、こうして縁を賜って「二河の喩え」の教えを聞かせて貰って居るということ、それ自体が佛様の「救わずにはおれん。」と言う大慈悲心のプログラムの上に乗っているということではないでしょうか?
その第一歩を踏み出しているのでしょう? 様々なお育てにあって体験を積み、身を持って知らされた教えが信仰に変わり、信心に至るのだという思いです。

宿善に関しては、かめ様は

>宿善というのは前世での善行であると私は理解していますが、
>もしそうだったとしたら、
>この人は宿善があるために救われる、
>あの人は宿善が足りないために救われない、
>と差別することになり、阿弥陀仏の摂取不捨の御心と反するように思えます。

とも言われて居られます。
このことに関しても私考を申させて貰うならば、そもそも佛教とは佛と私の関係であり、他と比較して云々では無いように思います。
私自身が苦しんでいるんだから、その苦から抜けたいために聞く教えです。 他の者の宿善の有無など、本来気にしている暇はないと思うのですが?

人という存在は自身の居場所を測るのに、他と比較しない事にはそのポジションさえも分かりません。
比較する事で、優越感に浸ったり、劣等感に苛まれたりしている事にも気がついていません。 比較する事で、心の浮き沈みが生じている。 その安定しない心が、不安を生み出しているんだと思います。
でも、それが人間の本来の姿なのでしょう。

他力の教えは、「善行を積んではいけない。」と言っているのではありません。 
徳の無い私です。 善を積むこと大いに結構。 
善因善果、悪因悪果、自因自果これは原則ですから、善行は薦められるべき事の様に思います。
善を励まないから、身に振りかかる事が芳しくないのではないでしょうか?
ただ、自身の励んだ善行を、「往生に関わる最善行の御念佛に、加担させてはいけません。」といっているのだと思います。

得てして人は、「これだけの良い行いが出来るんだから、悪い事は起きないだろう。」、「悪い所には行かないだろう。」と自身の行いを引き合いに出し、それを誇ります。 
慢心です。 その、心持ちを「自力」と名付けて辞めさせようとしているんではないでしょうか?

自分が感ずるに、「自力」、「他力」を対比して論じている間は、他力の信楽は行者には届いていないのだと思います。(手厳しい物言いかも知れませんけど?)

かめ様は、自分の書き込ませて貰った思いに近い考えをお持ちのようですね? 
それをお認め下さった上で、下記のように申されています。

>ただ、それだと凡夫と阿弥陀様との間に接点が感じられないのです。

>凡夫がどんな悪を犯そうと弥陀の本願力の妨げにはならない、
>凡夫の積む自力の善行も弥陀の本願力の上乗せにはならない、
>凡夫が現状を地獄と見、自身の不幸を嘆いていたとしても、
>それは阿弥陀様のおはからいである、
>と、そうしますと、凡夫の方から見ますと阿弥陀様との間に隙間があいていて、
>どんなに手を伸ばしても触れられないような気がします。

ご自身と阿弥陀さんとの間に溝のようなものを御感じですか?
かめ様が、「接点が感じられない。」と申されるのは、貴方が接しようとしているからではないでしょうか?
自身の方には、接する力どころか、手を伸ばす力量さえ持ちあわせては居らんのだと思います。 そんな、殊勝な心持ちなど欠片もありません。
それが、自分自身を省みての自身の感想です。
そもそも、阿弥陀さんが佛となられる前の願い、ご本願は「どうにもならない衆生を助けたい。」とお考えになり、もしそうならなかったら「佛にはならない。」と願われたことが発端です。
「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生を救わんがための願にてまします。」と歎異抄にも記してあります。
罪悪深重、煩悩熾盛の衆生は佛道さえ歩む縁はありません。 歩むどころか、聞くことすら覚束無い。 
「そういった者を残らず救う。」願いです。 こちらが接点を感じられずとも、佛の方からは常に関わろうと、接点を築こうと、手を差し伸べて下さって居るのだと感じます。

>縁が来ればいつかは信心が固まるのかもしれませんが、
>私はどうしても「今」救われたいと強く願っています。
>信心はこちらから得るものではなくいただくものだとは聞いたことがありますが、
>この「今」に救われたいというのが私の正直な気持ちです。
>それは、極楽往生まで待てないという意味ではなくて、
>自分は阿弥陀様に見守られているのだという実感を今感じたいということです。

もし、そのようにお考えでおられるのなら、佛様の徳を賛嘆する事も大切ではありますが、その佛様が願を起こされた目当てが「如何なるものなのか?」「それが一体何ものなのか?」に気付かれたら良いと思います。
信心は佛より賜るものです。 その信心を訓読すれば、「あきらかなこころ」、「まことのこころ」と読むことが出来ます。
ご自身の内に起こる心の在り方を探求される事も、「信心を頂く」ということの助けになるのではないでしょうか?

今の真宗、「往生」に力が入っているようですが、「念佛成佛、これ真宗。万行諸善、これ仮門」と申されておりまして、御念佛に依って佛になるのです。
それは、浄土に行ってからでは有るのでしょうけど、今々その報佛報土へ行かせて貰える切符を頂戴することが大事に思います。
それを指して「現生正定聚」というのではないでしょうか?

初めましてから、大変失礼な事を言ったかも知れません。 力が入ってしまいました。
御心を傷つける発言が有りましたら、云うて下さい。
また、お話をお聞かせ下さい。    合掌

●re.7
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 2754 ] Re7:二河白道 2012/06/17 (Sun) 03:04 △up ▽down
かめ様

追記です。
二河白道の譬、あれは「西の方角にある。」というものではありません。
自身のウチにある、欲と怒りの心の大波を表すもので、「西に行けば辿り着く。」というわけではない。
西の方角を示されたのは、阿弥陀様が西方極楽浄土の教主であるからです。
渦巻く欲の大波と、荒れ狂う怒りの火の海の間を、通る白道はわずか4〜5寸。
曲尺で言うと、広くて16センチ、鯨尺で言っても20センチ未満です。
疑って歩けば、直ぐにでも落ちる幅。
其処に「われよく汝を護らん。」とする阿弥陀さんと「導かん。」とするお釈迦様が描かれている。
その世界は、常に自身の心のなかにあるのです。
あさっての方角にあるというわけでは無いと思います。

●re.8
ボン
東京の男性
[ 2755 ] Re8:二河白道 2012/06/17 (Sun) 03:37 △up ▽down
極道坊主さま、こんばんは。

久々にご登場いただきまして、たいへんうれしく存じます。

なるほど、「前」というのは必ずしも空間的な前方を示すだけではなく、時間的な未来を
示すというお考えは、私の思い至らないことでした。たいへん勉強になります。

「時間は、自分自身がどの様な状況であっても、やって来て過ぎて行きます」とおっしゃ
るように、時間という観点に立てば、空間の観点よりも「自分の意思とはかかわりなく訪
れるもの」という考え方が強くなるように感じます。

ただ、この「二河の白道」という喩えについて考えた場合、「二河の白道」に踏み出すの
か踏み出さないのかという究極の選択は、この喩えの全体のなかで考えても決定的に重要
な局面のように思えるのです。

かめさまのご質問も、この究極の場面で「行っても帰っても同じなのに、そこで進ませる
ものとは一体何なのでしょうか」というものでした。私は、至らないながらも、このご質問
に答えようと試みました。

もちろん、かめさまのおっしゃるように「獣より火や水によって死ぬ方がまだマシだ」と
いうことではないでしょう。それでは、「いったい何が彼を一歩前に踏み出させたのか」
と考えた場合に、「勢い」または「流れ」といったものではないのか、と考えたわけです。

その「勢い」または「流れ」というものを、より具体的に「今からだの向いている方向に
進むこと」と考えてみたのです。もちろん、それを「時の流れにまかせる」と考えること
も可能かもしれません。もし、そう考えたとすると、その人の行動は「本人の意思を超越
したもの」という観点が強く出てきます。

確かに、ある意味で、その人が「二河の白道」に一歩踏み出すのか踏み出さないのかとい
うのは、すでに決まっていたことなのかもしれません。しかし、それは人間の世界を仏の
目から見た場合の話であって、実際は五里霧中をさまよって、ああでもないこうでもない
と右往左往しているのがこの世の常であって、本人には何もわからないのです。

そうだとすると、やはり、「本人の強い意志」というものが、一歩踏み出す局面には必要
なもののように思えます。仮にそれを客観的に見たり、仏の目から見ればすでに決まって
いたものだとしても、この世に生きる本人の主観からすれば、「前に一歩踏み出す」強い
衝動のようなものが欠かせないように思えるのです。

それは、「獣と火や水を比較して、こっちのほうは危険性が少ない」などという論理的な
判断というよりは、その人の感性にまかせたとっさの判断なのだと思うのです。それでは
そのときに必要な感性が何かといえば、「勢い」または「流れ」に乗るということであっ
て、俗にいう「運を天にまかせる」ということではないかと思います。

実際に、そうでなければこの道には入ってこれないのではないでしょうか。自分が納得す
るまでとことん論理的に考えていたら、凡夫の脳味噌でどこまで考えても結論がでないま
ま一生が終わってしまうでしょう。

切羽詰って、「えーい、ままよ」と思ったとき、やはり、これまで来た方向に進むのでは
ないでしょうか。「今まで、この方向に逃げてきたのだから、このままこの細い白道に入
り込むしかない」ということです。とても非論理的ですが、これは「流れ」を大事にする
という態度だと思うのです。

自分の意思を強く働かせることを「自力」だと考えるかたもいらっしゃいます。しかし、
この世で生きていくうえで、たいていは自分の意思を働かせて行動します。「二河の白道」
に踏み込む、つまり「他力往生」に入るには、本人の強い意思が不可欠なのだと思います。
そうでなければ、因縁を計ることすらできないはずですが、いかがなものでしょうか。

ご意見をいただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.9
かめ
非公開の男性
[ 2756 ] Re9:二河白道 2012/06/17 (Sun) 19:12 △up ▽down
極道坊主様へ

率直なご意見、またお気遣い有難うございます。

宿善に関してですが、一つだけご理解いただきたいのは、
私は宿善をどのように捉えたら良いのかわからないのため、
普段宿善に関して考えることはほとんどありません。

前回書かせていただいてそこで言わんとしたことは、
宿善というのは、何かしらの結果が出た後にしか使えない言葉なのではないか、ということです。
現状に対しては「この今の状況もそうなるべき因縁あってのことだ」と言うことができますが、まだ来ていない未来のことについては宿善の話はできないものと思います。

ボン様もおっしゃって下さっていますが、私はこの二河白道の喩えの中でこの人が白道へ一歩を踏み出すか出さないかというところが非常に気にかかっております。
一歩を踏み出して渡りきった後ならばこれもさるべき業縁、宿善のおかげだと戴くこともできますが、踏み出すか踏み出さないかという段階にいる時には宿善の話はできないのではないかと考えます。

ですから、宿善に関してあまり気にかけない方が良いとおっしゃる極道坊主様の見解には賛成の気持ちでおります。

>そもそも佛教とは佛と私の関係であり、他と比較して云々では無いように思います。

他と比較したわけではありませんが、未熟ながらも私見を書かせていただきます。
仏は一切衆生を救うと誓われましたが、その内実は確かに自分と仏との一対一の関係にあると思われます。
しかし、その根本にある精神は、自分が救われるならあの人も救われる、また、あの人が救われるなら初めて自分も救われるというものではないかと私は考えています。
そこに私は大乗仏教の救いがあるような気がして浄土の教えに惹かれました。

少し話がそれますが、私は以前は禅の教えに興味を持っていました。
ですが、浄土の教えを知る内に、禅も浄土も同じ仏教である以上押さえるべき本質は同じだと感じました。
お叱りを受けるかもしれませんが。

禅宗ではよく「坐禅をしたところで何にもならない」と言います。
私なりの受け取り方ですと、それは、現状に不足を感じ欲を出すところに苦が生まれる、だから坐禅をして悟りの境地を得ようというそんな夢を追いかけるそのことが既に苦しみなのだ、という指摘だと思います。

浄土門で自力の報われなさを説くのも同じ理由であると私は考えるのですが、またご意見お聞かせ願います。


ボン様へ

またまたお返事有難うございます。

>確かに、ある意味で、その人が「二河の白道」に一歩踏み出すのか踏み出さないのかとい
>うのは、すでに決まっていたことなのかもしれません。しかし、それは人間の世界を仏の
>目から見た場合の話であって、実際は五里霧中をさまよって、ああでもないこうでもない
>と右往左往しているのがこの世の常であって、本人には何もわからないのです。

私もそう思います。

>そうだとすると、やはり、「本人の強い意志」というものが、一歩踏み出す局面には必要
>なもののように思えます。仮にそれを客観的に見たり、仏の目から見ればすでに決まって
>いたものだとしても、この世に生きる本人の主観からすれば、「前に一歩踏み出す」強い
>衝動のようなものが欠かせないように思えるのです。

私が極道坊主様に「阿弥陀様と自分との間に隙間を感じる」と言いましたのはそこのところのことです。
仏にはすべてお見通しでも、私は私の主観を持って生きざるを得ません。
「今、何を為すべきか」と考えましたときに、すべては阿弥陀様のおはからいであったとしても、それを伺い知ることができない以上、私の判断で動くしかありません。
そこに私は何か隙間のようなものを感じるのです。

おそらく本当に浄土の教えをいただくことができればその隙間は埋まるのだと考えていますが、それは具体的にはどういったことなのかと今悩んでおります。


私は二河に出合った人というのは自力の限界に立った人だと考えています。
進むにも退くにもどうにもしようがない、と。
そこで一歩を踏み出すということは、やはり自力を恃むのを止めるということになり、それは「運を天に任せる」ということになるのでしょうが、
それが具体的にはどういうことなのかがどうしてもわかりません。

例え、阿弥陀様の呼びかけや釈尊の後押しがあると「知ってはいても」、その実感が湧きません。
極楽往生することが今生に定まったとしても、やはりそこに安心が湧いてきません。

そしておこがましいですが、そんな凡夫を救うための浄土の救いだと私は受け取っております。
そこ(白道)の先に救いがあることもわからず、また救いの身にあることを説かれても喜びも安心もできない凡夫でも、やがてその道を歩むことになり、救われていくというような、
理屈ではないでしょうが、そういう何か(としか言いようがないですが)があるのだと信じています。
それを感得させていただきたく思っています。


長々と書かせていただき失礼しました。

●re.10
ボン
東京の男性
[ 2757 ] Re10:二河白道 2012/06/19 (Tue) 04:15 △up ▽down
かめさま、こんばんは。

宿善ということが話題となっておりますので、それについて申し述べたいと思います。

蓮如上人が、「御文」(御文2-11)のなかで、往生のために不可欠なこととして「五重の義」
を立てて、その一番初めに「宿善」をあげています。

--------------------------------------------------------------------------------
これによりて五重の義をたてたり。一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つ
には信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
--------------------------------------------------------------------------------

ただ、親鸞聖人は、「宿善」という言葉をあまり使わずに、「宿縁」という言葉を使った
ようです。極道坊主さまが引用された以下の文言が、まさにその例です。

--------------------------------------------------------------------------------
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(教巻)
--------------------------------------------------------------------------------

宿善は「やどす善」であり、宿縁は「やどす縁」です。言葉としては、若干のニュアンス
の違いはあるようですが、真宗の用語としては、事実上、同じことをさすもののようです。

宿縁というのは「過去世の縁」です。「たまたま行信を獲たならば、過去世に縁のあった
ことを慶びなさい」というわけです。阿弥陀様は縁のあるものから順に、ひとりずつ救っ
ていくからです。

宿善とは「過去世の善行」と一般には思われています。しかし、ここで善行とはいったい
何なのかということが問題です。善行とは文字通り「善い行い」なのですが、「善い」と
はどんなことを指すのかが問題なのです。

世間的にはたとえば「困った人を助ける」のは善い行いとされます。しかし、真宗で善と
いう場合は極楽往生につながるすべてのものが善であり、それを妨げるすべてものが悪と
なります。たとえば、善知識・悪知識という場合がそれにあたります。

それでは、極楽往生につながるものはなにかというと、末代の凡夫にとっては、定善も、
散善も、どちらも往生の種にはならないということは、ご聖典によりあきらかです。そう
すると、末代の凡夫にとって、過去世の何が善(往生につながるもの)かといえば、この
法に縁をつなげる出来事(行動)ということになります。だから、「宿善=宿縁」だとい
うことになるわけです。

つまり、宿善(=宿縁)というのは、たとえば「過去世において信をいただいた者と友達
だったとか、家族であった」というのも、そのひとつと考えられます。たまたま、とおり
すがりにぶつかったというのも、もちろん縁です。「袖すり合うも他生の縁」というとお
りです。

しかし、前世に縁があったかどうかなど、この世のだれも知ることができません。ですか
ら、かめさまの以下のお考えは、正鵠を得ているように思われます。

>一歩を踏み出して渡りきった後ならばこれもさるべき業縁、宿善のおかげだと戴くことも
>できますが、踏み出すか踏み出さないかという段階にいる時には宿善の話はできないので
>はないかと考えます。

>宿善というのは、何かしらの結果が出た後にしか使えない言葉なのではないか、
>ということです。

>やはり宿善について考えることは河を渡る以前の人にとってはあまり必要がないものと思
>えます。

もちろん、極道坊主さまのおっしゃるとおり、人間界に生まれたのも、仏法の流れが伝わ
る日本に生まれたのも、仏法に何か惹かれるものを感じるのも、すべて前世の縁(宿善)
のなせるわざだと考えるべきだと思います。

同時に、親鸞聖人の言葉でいいますと「行信を獲る」というのも、二河白道の喩えでいえ
ば「白道に一歩踏み出そうと思った」のも、前世の浅からざるご縁の賜物と言わなければ
なりません。仏教ではこの世のすべてを、因縁のからみあったものと見ているからです。

このように、宿善は結果論でしか知ることができません。「人間界に生まれたからには、
前世においてそれ相応の縁があったにちがいない。」「日本に生まれたのも、それ相応の
縁があったに違いない。」「行信を獲ることができたなら、とても深いご縁をいただいて
いたに違いない」というように・・・。

このように、宿善は結果論でしか知ることができない以上、本人が白道に一歩踏み出すま
えに「自分にはそれ相応の宿善があるのだろうか」などと考えても意味がありません。
渡れば結果的に相応の縁があるのだから、本人が自らの意思で、渡るのか渡らないのか、
というだけのことなのです。

それなら、真宗においてどうして宿善がこれほどまでに問題になっているのかといえば、
それは以下の文言に示されています。

--------------------------------------------------------------------------------
当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰す
べし。(御文3-12)
--------------------------------------------------------------------------------

つまり「当流の他力信心のひととほりを勧めようと思うときには、まず、宿善があるのか
ないのかを見極めなければならない」というわけですが、これはこれでまた別の話となり
ますので、いまは省略したいと思います。

冗長で、まとまりのない話となってしまいましたが、どなたでもご意見をいただければ
幸いです。どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.11
かめ
非公開の男性
[ 2758 ] Re11:二河白道 2012/06/20 (Wed) 12:27 △up ▽down
ボン様、こんにちは。

宿善についてお教えいただき有難うございます。
「宿善=宿縁」としてもほぼ問題がないのですね。
そのあたりがあまりはっきりしていなかったので勉強になりました。
やはり、宿善という言葉は現状を肯定するときに使うもののようですね。


ボン様が最後に書いてくださった所が引っかかっています。
「宿善があるのかないのかを見極めなければならない」ということですが、
それは、ある人を宿善がないと判断した場合、その人には(積極的には)教えを説かないということなのでしょうか。
だとすると、少し寂しく感じます・・・。
他ならぬ蓮如上人のお言葉ですからね・・・。

今回のテーマが「二河白道」で、宿善の話だとテーマがずれてしまいますが、
もしよろしければですが、簡単にでもお教え頂けませんでしょうか。
よろしくお願い致します。

●re.12
ボン
東京の男性
[ 2759 ] Re12:二河白道 2012/06/21 (Thu) 00:24 △up ▽down
かめさま、こんばんは。

>「宿善があるのかないのかを見極めなければならない」ということですが、
>それは、ある人を宿善がないと判断した場合、その人には(積極的には)教えを説かない
>ということなのでしょうか。だとすると、少し寂しく感じます・・・。

前回、中途半端な書き方になってしまって恐縮です。先の御文からの引用の直後に、次の
ような記述があります。

--------------------------------------------------------------------------------
さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりが
たし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにお
いては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。(御文3-12)
--------------------------------------------------------------------------------

「どんなに長く門徒を続けてきた人でも、無宿善の機は信心をとることが難しい。実際に
宿善の花のひらく機は、自ずから信を決定するに違いない。だから、無宿善の機のまへで
正雑二行の沙汰をするのは、かえって誹謗のもとになるであろう。」ということです。

ここで大切なことは、一つに「無宿善の者は(まわりがどんなに頑張っても)信心をとるこ
とが難しいし、反対に宿善のある者は(まわりがあれこれ気をもまなくても)信を決定する」
ということ、二つに「無宿善のものに正行と雑行のことについてあれこれいうと誹謗のも
とになる」ということです。

一つめのこのとについて、以前、私は「馬を水辺に連れていくことはできるが、その馬に
水を飲ませることはできない」という話を聞かされたことがあります。どんなに嫌がる馬
でも、大勢で引っ張れば水辺まで連れて行くことは可能です。しかし、その馬の首を無理
やり水に突っ込んでも、その馬が自ら水を飲もうしない限り、決して水を飲ませることは
できないのです。

これはあくまでもたとえ話ですが、宿善・無宿善のこともそのようなものだというのです。
無宿善の者(つまり話を聞きたくない者)を法話の場に連れてきて、無理やり話を聞かせて
も、本人がそれを受け入れなければ何にもなりません。

何にもならないどころか、本当の話をしても「いや、そんなはずはない」と打ち消して、
さらにあることないこと言わないとも限りません。これが二つ目の誹謗正法の話です。
誹謗正法は重罪ですから、よけいなことをして本人にそのような罪を負わせたとしたら、
罪を負わせた側もいくばくかの罪をまぬがれないことになります。

だから「無宿善の前では正行と雑行の沙汰をするな」ということになるわけです。もちろ
んこれは、とても寂しい話です。しかし、寂しいのは本人ではなくて、阿弥陀様であり、
菩薩様であり、正法を聞かせたいと思っている人たちではないでしょうか。拒絶した本人
は「自分は正しい」と思っているので寂しいことはないはずです(残念ながら)。

繰り返しになりますが、聞きたいと思っている人にたして「彼は無宿善だ」と判断して、
正法を説かないということではありません。どうしても聞こうとしない人は「宿善の花が
まだ開く時期に達していないので、この度はやむをえない」というように考えるというこ
となのだと思います。

もうひとつ御文から引用します。

--------------------------------------------------------------------------------
ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず。(御文4-8)
--------------------------------------------------------------------------------

蓮如上人自身が「力およばず」とおっしゃっています。これは、ある種の無念さ、寂しさ
を表明している記述のような気がいたします。

南无阿彌陀佛

●re.13
かめ
非公開の男性
[ 2760 ] Re13:二河白道 2012/06/23 (Sat) 13:13 △up ▽down
ボン様、こんにちは。

馬のたとえはごもっともですね。

>聞きたいと思っている人にたして「彼は無宿善だ」と判断して、
>正法を説かないということではありません。どうしても聞こうとしない人は「宿善の花が
>まだ開く時期に達していないので、この度はやむをえない」というように考えるというこ
>となのだと思います。

そうですよね。それだとわかります。
個人的には、「この度は」というのは「今生は」という意味ではなく、「今日は」「今回は」という意味であってほしいと思います。
明日その人の宿善の花が開くかどうかというのは誰にもわかりませんから。


度々のご回答有難うございました。
またわからないことがありましたら質問させていただきます。
どうも有難うございました。



《 返信フォーム》

なまえ
住所
性別
メアド(任意) (掲示板上では非公開。届いたメールに返信して、はじめて相手の方にアドレスが伝わります。)
サイトのURL(任意)
投稿タイトル
メッセージ
パスワード (記事を編集する際に必要です。)


p.ink

(C) 2007- Mainichi no Jodoshinshu All rights reserved