浄土真宗の教義について

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●No.165
ボン
東京の男性
[ 2631 ] 教行信証・学習ノート9 2012/02/08 (Wed) 02:33 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
又云。西方寂静無為楽。畢竟逍遥離有無。大悲薫心遊法界。分身利物等無殊。或現神通而
説法。或現相好入無余。変現荘厳随意出。群生見者。罪皆除。又讃云。帰去来。魔郷不可
停。曠劫来。流転六道尽皆逕。到処無余楽。唯聞生死声。畢此生平後入彼涅槃城。已上。
--------------------------------------------------------------------------------
(定善義)また云わく、西方は寂静無為の楽〈みやこ〉なり。畢竟逍遥として、有無を離れ
たり。大悲、心に熏じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等しくして殊なることな
し。あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余に入る。変現の荘厳、意
に随いて出ず。群生見る者、罪みな除こると。また讃じて云わく、帰去来〈いざいなん〉、
魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、尽くみな径たり。到るとこ
ろに余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢えて後、かの涅槃の城に入らんと。
已上。
--------------------------------------------------------------------------------


≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
次三首讃。定善義中水観讃也。言寂静者浄土徳也。大経上云。其心寂静志無所著。已上。
彼嘆法蔵発心之相。此讃浄土無動之徳。依正雖異。其義是同。言無為者。大経説云無為自
然。法事讃釈云極楽無為。即是無造作義。楽是対苦。即是極楽。畢竟逍遙同是快楽無窮義
也。離有等者。第一義諦妙境界相。殊妙浄土。第一義者。即是中道。故離二辺。大悲等者。
大経或云其大悲者深遠微妙。或又説云広若虚空大慈等故。抜苦与楽其意聊異。共是利物。
利物之心。彼此平等。依此義故。言之無殊。今所言者。是内証徳。或現等者。明外用徳。
言神通者。是約身業。言説法者。是約口業。言相好者。又約身業。入無余者。是約涅槃。
即明必至滅度益耳。変現等者。是明本国菩薩衆等。往他方界。皆設変現随意化儀。即被群
生。与滅罪益。帰去等者。是約証得住生之義。彼法界身。本来本覚。十劫被機。是非実成。
所帰衆生。凡迷更雖不知始覚冥本覚理。而契当之如来力也。余処解釈。或云努力翻迷還本
家。或云元来是我法王家。皆此意也。言魔郷者。是娑婆界。四魔ニョウ乱常障仏道。而
念仏人由他力故。魔不為碍。不為碍故往生浄土。浄土無魔。故成仏道。故勧可厭此魔郷也。
唯聞等者。問。於六道中。欲界六天苦楽猶交。況上二界更無憂苦。二禅喜受。三禅楽受。
此等何言有愁歎耶。答。雖言有楽。此非実楽。当巻定善義下云。言三界苦楽者。苦則三途
八苦等。楽則人天五欲放逸繋縛等楽。雖言是楽。然是大苦。畢竟無有一念真実楽也。已上。
浄穢相対。三界中楽非実楽故。云愁歎也。
--------------------------------------------------------------------------------
次に三首の讃、『定善義』の中の水観の讃なり。「寂静」というは浄土の徳なり。『大経』
の上に云わく「その心寂静にして、志、所著なし」已上。彼は法蔵発心の相を嘆じ、これ
は浄土無動の徳を讃ず。依正異なりといえども、その義はこれ同じ。「無為」というは、
『大経』には説きて「無為自然」といい、『法事讃』には釈して「極楽無為」という。即
ちこれ造作なき義なり。楽はこれ苦に対す。即ちこれ極楽なり。「畢竟逍遙」は同じくこ
れ快楽無窮の義なり。「離有」等とは、第一義諦妙境界相、殊妙の浄土なり。第一義とは、
即ちこれ中道なり。故に二辺を離る。「大悲」等とは、『大経』に或いは「其大悲者深遠
微妙〈常に能くその大悲を修行する者なり。深遠微妙にして覆載せずということなし〉」
といい、或いはまた説きて「広若虚空大慈等故〈曠きこと虚空のごとし、大慈等しきがゆ
えに〉」という。抜苦与楽はその意聊か異なれども、共にこれ利物なり。利物の心は彼此
平等なり。この義に依るが故に、これを無殊という。今言う所は、これ内証の徳なり。
「或現」等とは、外用の徳を明かす。「神通」というは、これ身業に約す。「説法」とい
うは、これ口業に約す。「相好」というは、また身業に約す。「入無余」とは、これ涅槃
に約す。即ち必至滅度の益を明かすらくのみ。「変現」等とは、これ本国の菩薩衆等は
他方界に往きて、みな変現随意の化儀を設けて、即ち群生に被しめて、滅罪の益を与うる
ことを明かす。「帰去」等とは、これ証得住生の義に約す。彼の法界身は本来本覚。十劫
は機に被らしむ。これ実成にあらず。所帰の衆生は、凡迷更に始覚は本覚に冥ずる理を知
らずといえども、而もこれに契当するは如来の力なり。余処の解釈に、或いは「努力翻迷
還本家」といい、或いは「元来是我法王家」という。皆この意なり。「魔郷」というは、
これ娑婆界。四魔ニョウ乱して常に仏道を障う。而るに念仏の人は他力に由るが故に、
魔は碍を為さず。碍を為さざるが故に浄土に往生す。浄土には魔なし。故に仏道を成ず。
故にこの魔郷を厭うべしと勧むるなり。「唯聞」等とは、問う、六道の中に於いて、欲界
の六天は苦楽なお交る。況んや上の二界には更に憂苦なし。二禅は喜受、三禅は楽受。こ
れらは何ぞ愁歎ありというや。答う、楽ありというといえども、これ実の楽にあらず。
当巻『定善義』の下に云わく「三界の苦楽というは、苦は則ち三途八苦等、楽は則ち人天
の五欲放逸繋縛等の楽なり。これ楽というといえども、然もこれ大苦なり。畢竟じて一念
真実の楽あることなきなり」已上。浄穢相対するに、三界の中の楽は実の楽にあらざるが
故に、愁歎というなり。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.1
ボン
東京の男性
[ 2632 ] Re1:教行信証・学習ノート9 2012/02/08 (Wed) 02:38 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>又云。西方寂静無為楽。畢竟逍遥離有無。大悲薫心遊法界。分身利物等無殊。或現神通而
>説法。或現相好入無余。変現荘厳随意出。群生見者。罪皆除。又讃云。帰去来。魔郷不可
>停。曠劫来。流転六道尽皆逕。到処無余楽。唯聞生死声。畢此生平後入彼涅槃城。已上。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(定善義)また云わく、西方は寂静無為の楽〈みやこ〉なり。畢竟逍遥として、有無を離れ
>たり。大悲、心に熏じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等しくして殊なることな
>し。あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余に入る。変現の荘厳、意
>に随いて出ず。群生見る者、罪みな除こると。また讃じて云わく、帰去来〈いざいなん〉、
>魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、尽くみな径たり。到るとこ
>ろに余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢えて後、かの涅槃の城に入らんと。
>已上。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (定善義)またこう述べる。西方は、寂静無為の楽(みやこ)である。どこまでも逍遥と
  して、有と無を離れている。大悲が心に熏じて、法界(真如)に遊ぶ。分身して衆生を
  利益するにあたって、平等で差別がない。あるいは神通を現して法を説き、あるいは
  勝れた容貌を現して無余涅槃に入る。変現の荘厳が、思いのままに出現する。これを
  見る群生は、罪がみな取り除かれる。また、次のように讃ずる。帰去来(いざいなん)、
  魔郷には停まるべからず。遠い昔からこれまで六道を流転して、すべての径(みち)を
  行き尽くした。到るところに他の楽はなく、ただ愁歎の声を聞くだけである。この
  生平を終えたあと、かの涅槃の城に入ろうではないか。

  WikiArc
    寂静無為の楽
      煩悩を滅し尽した生滅変化のない絶対のさとりの世界。極楽浄土のこと。
    寂静
      涅槃のこと。
    無為
      梵語アサンスクリタの漢訳。有為に対する語。種種の原因や条件(因縁)によ
      って生成されたものではない存在。すなわち生滅変化を超えた常住不変の
      真実のこと。涅槃の異名。
    逍遥
      何ものにもとらわれず、あるがままにあること。
    有無
      1.有と無、肯定と否定、存在と非存在。
      2.有見と無見。あらゆる事物を、実に有りとみなすことと無しとみなすこと。
       いずれも誤った見解なので邪見という。
    法界
      梵語ダルマ・ダーツの漢訳。意識の対象となるすべてのものごと。全宇宙。
      あるがままの理法の世界などを指し、とくに大乗仏教では存在の根源の意味
      に用いて、一切の存在を真理のあらわれと見、法界を真如と同義語に使う。
    分身して
      仮に身を分ちすがたを変えて。
    物
      衆生のこと。
    相好
      仏身に具わっている勝れた容貌形相のこと。この中で顕著なものを三十二相
      に分け、微細なものを八十種好に分け、この両者を合して相好という。
    無余
      無余涅槃のこと。煩悩業苦を完全に滅し尽した状態。
    無余涅槃
      煩悩を断じ尽しただけでなく、肉体もまた無に帰したさとりの状態のこと。
      煩悩を断ち切ってなお肉体を残している有余涅槃に対する語。
    帰去来(いざいなん)
      さあ帰ろう。陶淵明(365-427)の「帰去来辞」の中の言葉。故郷に帰る決意
      を述べたものであるが、ここでは浄土に生れたいという意をあらわす。
    魔郷
      魔障のある世界。生死の迷いの世界。娑婆を指す。
    生平
      生涯。

  日本国語大辞典
    逍遥
      1.気のむくままにあちこちと遊び歩くこと。そぞろ歩き。散歩。
      2.世間の俗事を離れて楽しむこと。


≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>次三首讃。定善義中水観讃也。言寂静者浄土徳也。大経上云。其心寂静志無所著。已上。
>彼嘆法蔵発心之相。此讃浄土無動之徳。依正雖異。其義是同。言無為者。大経説云無為自
>然。法事讃釈云極楽無為。即是無造作義。楽是対苦。即是極楽。畢竟逍遙同是快楽無窮義
>也。離有等者。第一義諦妙境界相。殊妙浄土。第一義者。即是中道。故離二辺。大悲等者。
>大経或云其大悲者深遠微妙。或又説云広若虚空大慈等故。抜苦与楽其意聊異。共是利物。
>利物之心。彼此平等。依此義故。言之無殊。今所言者。是内証徳。或現等者。明外用徳。
>言神通者。是約身業。言説法者。是約口業。言相好者。又約身業。入無余者。是約涅槃。
>即明必至滅度益耳。変現等者。是明本国菩薩衆等。往他方界。皆設変現随意化儀。即被群
>生。与滅罪益。帰去等者。是約証得住生之義。彼法界身。本来本覚。十劫被機。是非実成。
>所帰衆生。凡迷更雖不知始覚冥本覚理。而契当之如来力也。余処解釈。或云努力翻迷還本
>家。或云元来是我法王家。皆此意也。言魔郷者。是娑婆界。四魔ニョウ乱常障仏道。而
>念仏人由他力故。魔不為碍。不為碍故往生浄土。浄土無魔。故成仏道。故勧可厭此魔郷也。
>唯聞等者。問。於六道中。欲界六天苦楽猶交。況上二界更無憂苦。二禅喜受。三禅楽受。
>此等何言有愁歎耶。答。雖言有楽。此非実楽。当巻定善義下云。言三界苦楽者。苦則三途
>八苦等。楽則人天五欲放逸繋縛等楽。雖言是楽。然是大苦。畢竟無有一念真実楽也。已上。
>浄穢相対。三界中楽非実楽故。云愁歎也。
>--------------------------------------------------------------------------------
>次に三首の讃、『定善義』の中の水観の讃なり。「寂静」というは浄土の徳なり。『大経』
>の上に云わく「その心寂静にして、志、所著なし」已上。彼は法蔵発心の相を嘆じ、これ
>は浄土無動の徳を讃ず。依正異なりといえども、その義はこれ同じ。「無為」というは、
>『大経』には説きて「無為自然」といい、『法事讃』には釈して「極楽無為」という。即
>ちこれ造作なき義なり。楽はこれ苦に対す。即ちこれ極楽なり。「畢竟逍遙」は同じくこ
>れ快楽無窮の義なり。「離有」等とは、第一義諦妙境界相、殊妙の浄土なり。第一義とは、
>即ちこれ中道なり。故に二辺を離る。「大悲」等とは、『大経』に或いは「其大悲者深遠
>微妙〈常に能くその大悲を修行する者なり。深遠微妙にして覆載せずということなし〉」
>といい、或いはまた説きて「広若虚空大慈等故〈曠きこと虚空のごとし、大慈等しきがゆ
>えに〉」という。抜苦与楽はその意聊か異なれども、共にこれ利物なり。利物の心は彼此
>平等なり。この義に依るが故に、これを無殊という。今言う所は、これ内証の徳なり。
>「或現」等とは、外用の徳を明かす。「神通」というは、これ身業に約す。「説法」とい
>うは、これ口業に約す。「相好」というは、また身業に約す。「入無余」とは、これ涅槃
>に約す。即ち必至滅度の益を明かすらくのみ。「変現」等とは、これ本国の菩薩衆等は
>他方界に往きて、みな変現随意の化儀を設けて、即ち群生に被しめて、滅罪の益を与うる
>ことを明かす。「帰去」等とは、これ証得住生の義に約す。彼の法界身は本来本覚。十劫
>は機に被らしむ。これ実成にあらず。所帰の衆生は、凡迷更に始覚は本覚に冥ずる理を知
>らずといえども、而もこれに契当するは如来の力なり。余処の解釈に、或いは「努力翻迷
>還本家」といい、或いは「元来是我法王家」という。皆この意なり。「魔郷」というは、
>これ娑婆界。四魔ニョウ乱して常に仏道を障う。而るに念仏の人は他力に由るが故に、
>魔は碍を為さず。碍を為さざるが故に浄土に往生す。浄土には魔なし。故に仏道を成ず。
>故にこの魔郷を厭うべしと勧むるなり。「唯聞」等とは、問う、六道の中に於いて、欲界
>の六天は苦楽なお交る。況んや上の二界には更に憂苦なし。二禅は喜受、三禅は楽受。こ
>れらは何ぞ愁歎ありというや。答う、楽ありというといえども、これ実の楽にあらず。
>当巻『定善義』の下に云わく「三界の苦楽というは、苦は則ち三途八苦等、楽は則ち人天
>の五欲放逸繋縛等の楽なり。これ楽というといえども、然もこれ大苦なり。畢竟じて一念
>真実の楽あることなきなり」已上。浄穢相対するに、三界の中の楽は実の楽にあらざるが
>故に、愁歎というなり。
>--------------------------------------------------------------------------------

(続く)

●re.2
ボン
東京の男性
[ 2633 ] Re2:教行信証・学習ノート9 2012/02/08 (Wed) 02:39 △up ▽down
(続き)

  次に、三首の讃は、『定善義』の中の水観の讃である。「寂静」というのは、浄土の
  徳である。『大経』の上にこう述べる。「その心は寂静であって、志は執着するとこ
  ろがない。」あちらは法蔵の発心の相(すがた)を嘆じ、こちらは浄土の無動の徳を讃
  ずる。依(環境)と正(心身)の違いはあっても、その義(考え方)は同じである。「無為」
  について、『大経』に「無為自然」と説き、『法事讃』に「極楽無為」と釈す。すな
  わち、これは意識して作り出したものではないということである。楽は苦に対するも
  のである。すなわち、これは極楽である。「畢竟逍遙(どこまでも逍遥として)」とい
  うのは、同じくこれは快楽が極まりないということである。「離有・・・」等につい
  ては、第一義諦(真如実相)がうるわしい境界の相(すがた)となった、殊妙の浄土につ
  いて述べたものである。第一義とは、すなわち中道である。だから、二辺(有と無)を
  離れているのである。

  日本国語大辞典
    じゃく 【着・著】
      心が物事に深くとらわれること。執着。執着心。
    ぞう‐さ 【造作・雑作】
      仏語。意識してつくりだすこと。

  WikiArc
    第一義
      梵語パラマールタの漢訳。第一義諦に同じ。
    第一義諦
      梵語パラマールタ・サトヤの漢訳。真如実相のこと。無上にして絶対的な
      真理という意。真諦・勝義諦に同じ。世俗諦に対する語。
    第一義諦妙境界相
      真如法性(第一義諦)がそのまま国土の妙境の相(荘厳相)とあらわれたもので
      あるということ。


  「大悲・・・」等については、『大経』に、あるいは「其大悲者深遠微妙(常に能く
  その大悲を修行する者なり。深遠微妙にして覆載せずということなし)」といい、あ
  るいはまた「広若虚空大慈等故(曠きこと虚空のごとし、大慈等しきがゆえに)」と
  説く。抜苦と与楽は、その意(こころ)がいささか異なるものの、ともにこれは人を利
  することである。人を利する心は、あちらもこちらもみな平等である。このことによ
  って、これを無殊(異なることがない)という。今ここで言うところは、これは内証の
  徳である。「或現・・・」等については、外用の徳を明らかにするものである。「神通」
  というのは、身業のことである。「説法」というのは、口業のことである。「相好」
  というのは、身業のことである。「入無余」とは、涅槃のことである。すなわち、必至
  滅度の益を明らかにしているのであろう。「変現・・・」等については、本国の菩薩
  たちが他の世界に行って、みな思うままに変現することによって群生に影響を与えて、
  滅罪の益を与えることを明らかにしている。

  日本国語大辞典
    ふう‐さい 【覆載】
      天が万物を覆い、地が万物を載せること。ひいて、天地や君主の恩恵をいう。
      ふさい。ふくさい。
    ない‐しょう 【内証】
      仏語。みずから心のうちに仏教の真理を悟ること。また、その悟った真理。
    け‐ぎ 【化儀】
      仏語。仏が衆生を教導し感化する形式、方法。

  WikiArc
    内証
      内に証明されたさとり。
    外用
      外に現れたはたらき。

  選択本願念仏集
    弥陀一仏のあらゆる四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、
    相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、
    みなことごとく阿弥陀仏の名号のなかに摂在せり。


  「帰去・・・」等については、これは住生を証得することについて述べている。かの
  法界身は本来の本覚である。十劫のあいだは、これが機に与えられるであろう。これ
  は実際に成し遂げられているのではない。帰するところの衆生は、まったくぼんやり
  と惑っていて、始覚が本覚に暗黙のうちに合致するという理(ことわり)を知らないと
  はいえ、そこにピタリと当てはまるというのは如来の力なのである。ほかの解釈で、
  あるいは「努力迷翻還本家(努力して迷いを翻し、本の家に還れ)」(礼讃)といい、あ
  るいは「元来是我法王家(元来、これ我が法王の家)」(般舟讃)という。これらは、み
  なこの意(こころ)である。「魔郷」というのは、これは娑婆界である。四つの魔がま
  とわりかき乱して、常に仏道を妨げる。しかし、念仏の人は他力によるために、魔は
  これを妨げることができない。妨げることができないから、浄土に往生するのである。
  浄土に魔はない。だから仏道が成し遂げられる。だから、この魔郷をきらうべきだと
  勧めるのである。

  日本国語大辞典
    しょう‐とく 【証得】
      (証悟・体得するの意)仏語。修行によって真理をさとり、その果位や智慧・
      功徳等を身に受けること。また、単にさとること。証入。
    ほん‐がく 【本覚】
      仏語。現象界の諸相を超えた究極のさとり。また、人間に本来備わっている
      仏のさとり。
    し‐かく 【始覚】
      仏語。発心修行し、次第に迷いを捨てて悟りをひらくこと。
    けい‐とう【契当】
      うまく当てはまること。ぴったり合うこと。

  WikiArc
    法界身
      法界のあらゆる衆生を利益し教化する仏身。
    法界
      梵語ダルマ・ダーツの漢訳。意識の対象となるすべてのものごと。全宇宙。
      あるがままの理法の世界などを指し、とくに大乗仏教では存在の根源の意味
      に用いて、一切の存在を真理のあらわれと見、法界を真如と同義語に使う。
    本覚
      心は本来、仏のさとりの性をそなえているということ。
    四魔
      衆生を悩ませる四種の魔。 (1)煩悩魔、(2)陰魔(苦しみを生ずる五陰)、
      (3)死魔、(4)天魔(他化自在天の魔王)。

  日本国語大辞典
    にょう‐らん【繞乱】
      もつれ乱れること。あれこれとなやんで乱れること。
      まつわりつき心を乱すこと。


  「唯聞・・・」等について問う。六道のなかで、欲界の六天(六欲天)では、苦と楽が
  やはり交るものである。これに比べて、上の二界にはまったく憂苦がない。二禅は喜受、
  三禅は楽受。これらにどうして愁いや嘆きがあるというのか。答える。楽があるとい
  っても、これは本当の楽ではない。当巻『定善義』の下にこう述べる。「三界の苦楽
  とは、苦は三途の八苦など、楽は人天の五欲・放逸・繋縛などの楽である。これらは
  楽とはいいながら、同時に大苦である。いきつくところ、一念真実の楽があるという
  ことではない。」浄と穢が相対して、三界のなかの楽は、本当の楽ではないから、
  愁いや嘆きがあるというのである。

  WikiArc
    欲界
      三界の一。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道から成り、欲界の天
      を六欲天という。欲界の衆生には婬欲と食欲との二欲がある。
    四禅
      欲界を超えて色界に生ずる四段階の瞑想(禅定)をいう。
        (1)初禅。覚・観・喜・楽・一心の五支からなる。
        (2)第二禅。内浄・喜・楽・一心の四支からなる。
        (3)第三禅。捨・念・慧・楽・一心の五支からなる。
        (4)第四禅。不苦不楽・捨・念・一心の四支から成る。
    五欲
      1.財欲・色欲・飲食欲・名欲・睡眠欲。
      2.人間の認識の対象である五境(色・声・香・味・触)に対しておこす欲の
       こと。
    放逸
      ほしいままの心。勝手にふるまって仏道に背くこと。
    繋縛
      つなぎしばること。
      つながれ、しばりとどめられること。

●re.3
ボン
東京の男性
[ 2635 ] Re3:教行信証・学習ノート9 2012/02/09 (Thu) 23:44 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
夫案真宗教行信証者。如来大悲回向之利益。故若因若果。無有一事非阿弥陀如来清浄願心
之所回向成就。因浄故果亦浄也。応知。
--------------------------------------------------------------------------------
(御自釈)それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。故に、もしは因、
もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえるところにあらざること
あることなし。因浄なるがゆえに、果また浄なり。知るべしとなり。
--------------------------------------------------------------------------------


≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
夫案以下至披論註。私御釈也。是明回向。於中自初至云応知。略結往相。
--------------------------------------------------------------------------------
「夫案」以下、「披論註」に至るまでは私の御釈なり。これ回向を明かす。中に於いて、
初より「応知」というに至るまでは、略して往相を結す。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.4
ボン
東京の男性
[ 2636 ] Re4:教行信証・学習ノート9 2012/02/09 (Thu) 23:44 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>夫案真宗教行信証者。如来大悲回向之利益。故若因若果。無有一事非阿弥陀如来清浄願心
>之所回向成就。因浄故果亦浄也。応知。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(御自釈)それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。故に、もしは因、
>もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえるところにあらざること
>あることなし。因浄なるがゆえに、果また浄なり。知るべしとなり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (御自釈)真宗の教行信証を考えてみると、それは如来の大悲が回向された利益である。
  だから、因であれ、果であれ、一事として阿弥陀如来の清浄な願心が回向されて成就
  なされたものでないものはない。因が清らかであるから、果もまた清らかなのである。
  これを知るべきである。


≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>夫案以下至披論註。私御釈也。是明回向。於中自初至云応知。略結往相。
>--------------------------------------------------------------------------------
>「夫案」以下、「披論註」に至るまでは私の御釈なり。これ回向を明かす。中に於いて、
>初より「応知」というに至るまでは、略して往相を結す。SYOZEN2-328/TAI7-337
>--------------------------------------------------------------------------------

  「夫案」から「披論註」までは御自釈である。これは回向を明かにするものである。
  そのなかで、初めより「応知」にまでは、おおまかに往相を結論づけている。

●re.5
ボン
東京の男性
[ 2637 ] Re5:教行信証・学習ノート9 2012/02/10 (Fri) 02:17 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
二言還相回向者。則是利他教化地益也。則是出於必至補処之願。亦名一生補処之願。
亦可名還相回向之願也。
--------------------------------------------------------------------------------
(御自釈)二に還相の回向と言うは、すなわちこれ利他教化地の益なり。すなわちこれ必至
補処の願より出でたり。また一生補処の願と名づく。また還相回向の願と名づくべきなり。
--------------------------------------------------------------------------------


≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
云二言下。至之願也。総標還相。
--------------------------------------------------------------------------------
「二言」という下、「之願也」に至るまでは、総じて還相を標す。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.6
ボン
東京の男性
[ 2638 ] Re6:教行信証・学習ノート9 2012/02/10 (Fri) 02:17 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>二言還相回向者。則是利他教化地益也。則是出於必至補処之願。亦名一生補処之願。
>亦可名還相回向之願也。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(御自釈)二に還相の回向と言うは、すなわちこれ利他教化地の益なり。すなわちこれ必至
>補処の願より出でたり。また一生補処の願と名づく。また還相回向の願と名づくべきなり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (御自釈)二つに還相の回向と言うのは、すなわち、利他教化地の益である。これは、
  必至補処の願(22願)に由来する。また、それは一生補処の願と名づけられる。また
  還相回向の願と名づけるべきものである。

  WikiArc
    還相回向
      阿弥陀仏が本願力によって還相を回向すること。親鸞聖人は回向の主体を
      阿弥陀仏とし、往生成仏の証果を開いた者が示す還相の活動は阿弥陀仏が
      施し与えるものであるとする。
    利他教化地の益
      自在に衆生を利益し、救済するはたらき。
    利他
      1.他の衆生に功徳利益を施すこと。自利に対する語。
      2.阿弥陀如来が衆生を救済するはたらきをいう。他力の意。
    教化地
      自在に衆生を教化し利益し救済する地位。八地以上の菩薩の境地のこと。
    補処
      一生補処の略。
    一生補処
      略して補処ともいう。次の生涯には仏と成ることができる位。一生を過ぎれ
      ば仏の位(仏処)を補うべき地位の意。菩薩の最高位。
      弥勒菩薩は、現に兜率天にあって、釈尊の次に世に出て仏と成られるから
      「補処の弥勒」といわれる。
      浄土真宗では、他力の信心を得た人は、来世には必ず仏と成ることができる
      から、一生補処といわれ、弥勒と同じといわれる。また、浄土へ往生して
      仏果(仏のさとり)を開いた者は、一生補処の菩薩の位に住して、他方の衆生
      を教化利益するとされる。


≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>云二言下。至之願也。総標還相。
>--------------------------------------------------------------------------------
>「二言」から「之願也」に至るまでは、総じて還相を標す。
>--------------------------------------------------------------------------------

  「二言」という下、「之願也」までは、総じて還相を示すものである。

●re.7
ボン
東京の男性
[ 2639 ] Re7:教行信証・学習ノート9 2012/02/10 (Fri) 02:35 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
顕註論。故不出願文。可披論註。
--------------------------------------------------------------------------------
(御自釈)『註論』に顕れたり。故に願文を出ださず。『論の註』を披くべし。
--------------------------------------------------------------------------------


≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
顕註論下至披論註。先標所引。次正出文。文有三段。論与註也。
--------------------------------------------------------------------------------
「顕註論」の下、「披論註」に至るまでは、まず所引を標し、次に正しく文を出だす。
文に三段あり。『論』と『註』となり。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.8
ボン
東京の男性
[ 2640 ] Re8:教行信証・学習ノート9 2012/02/10 (Fri) 02:39 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>顕註論。故不出願文。可披論註。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(御自釈)『註論』に顕れたり。故に願文を出ださず。『論の註』を披くべし。
>--------------------------------------------------------------------------------

(御自釈)これについては『註論』に出てくる。だから、ここでは願文を出さない。『論註』
を紐解くのがよい。


≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>顕註論下至披論註。先標所引。次正出文。文有三段。論与註也。
>--------------------------------------------------------------------------------
>「顕註論」の下、「披論註」に至るまでは、まず所引を標し、次に正しく文を出だす。
>文に三段あり。『論』と『註』となり。
>--------------------------------------------------------------------------------

「顕註論」から「披論註」までは、まず引用箇所を示し、次にまさしく文を引用する。
その文に三段あり。それは『論(浄土論)』と『註(浄土論註)』からの引用である。

●re.9
ボン
東京の男性
[ 2641 ] Re9:教行信証・学習ノート9 2012/02/11 (Sat) 00:47 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
浄土論曰。出第五門者。以大慈悲観察一切苦悩衆生示応化身。回入生死薗煩悩林中。
遊戲神通至教化地。以本願力回向故。是名出第五門。已上。
--------------------------------------------------------------------------------
『浄土論』に曰わく、出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化の
身を示す。生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の
回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づく。已上。
--------------------------------------------------------------------------------


≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
初文利行満足章文。第三巻本。引此論文。第二巻奥被引註釈。於其註釈。載推義訖。
--------------------------------------------------------------------------------
初の文は利行満足の章の文。第三巻の本にこの論文を引き、第二巻の奥に註釈を引かる。
その註釈に於いて推義を載せ訖りぬ。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.10
ボン
東京の男性
[ 2642 ] Re10:教行信証・学習ノート9 2012/02/11 (Sat) 10:57 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>浄土論曰。出第五門者。以大慈悲観察一切苦悩衆生示応化身。回入生死薗煩悩林中。
>遊戲神通至教化地。以本願力回向故。是名出第五門。已上。
>--------------------------------------------------------------------------------
>『浄土論』に曰わく、出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化の
>身を示す。生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の
>回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づく。已上。
>--------------------------------------------------------------------------------

  『浄土論』にこう述べる。出第五門とは、大慈悲をもって一切の苦悩する衆生を観察
  して、応化の身を示すことである。生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊び
  戯れて教化地に至る。それは、本願力が回向されたものであるからである。これを
  出第五門と名づける。

  WikiArc
    出第五門
      出は利他教化に出ること。第五門とは五功徳門のなか、園林遊戯地門のこと。
      さとりの世界より迷いの世界に再びたちかえって、自由自在に衆生を救済す
      ることを楽しみとすることを出第五門という。
    応化身
      仏の三身の一である応身のこと。また仏の四身である化身のこと。
    応身
      仏の三身の一。衆生の根機(素質能力)に応じて、仮に穢土に出現した仏身。
      この世界に出現した釈尊がこれにあたる。
    化身
      1.仏身を法身・報身・応身・化身の四種(四身説)に分類したなかの一で、
       教化すべき相手に応じて、仏が忽然としてさまざまな姿をあらわすこと。
       応化身ともいう。
      2.仏身を法身、報身、応身の三種(三身説)に分類した中の応身のことを化身
       という場合もある。
    教化地
      自在に衆生を教化し利益し救済する地位。八地以上の菩薩の境地のこと。



≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>初文利行満足章文。第三巻本。引此論文。第二巻奥被引註釈。於其註釈。載推義訖。
>--------------------------------------------------------------------------------
>初の文は利行満足の章の文。第三巻の本にこの論文を引き、第二巻の奥に註釈を引かる。
>その註釈に於いて推義を載せ訖りぬ。
>--------------------------------------------------------------------------------

  初めの文は、「利行満足」の章の文である。第三巻の本にこの論文を引き、第二巻の奥に
  註釈を引いている。その註釈において、すでに推義を載せている。

  WikiArc
    推義
      意義の上から推しはかること。

●re.11
ボン
東京の男性
[ 2643 ] Re11:教行信証・学習ノート9 2012/02/15 (Wed) 01:10 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
論註曰。還相者。生彼土已。得奢摩他・毘婆舎那・方便力成就。回入生死稠林。教化一切
衆生。共向仏道。若往若還。皆為抜衆生渡生死海。是故言回向為首得成就大悲心故。
--------------------------------------------------------------------------------
『論の註』に曰わく、還相とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就す
ることを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化し、共に仏道に向かえしめたまえ
り。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに
回向を首として、大悲心を成就することを得るがゆえにと言えりと。
--------------------------------------------------------------------------------


≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
次之文者。第二起観生信章中。回向門下分二種中。還相回向之註釈也。奢摩他者。此翻云
止。毘婆舎那此翻云観。方便力者。即回向也。故下善巧摂化章中。釈巧方便回向文云。
以後其身而身先故。名巧方便。此中言方便者。謂作願摂取一切衆生。共同生彼安楽仏国。
彼仏国即是畢竟成仏道路。無上方便也。已上。言稠林者。稠玉篇云。直留切。密也。広韻
云。直由切。稠也。多也。林玉篇云。力金切。平土有叢木。広韻云。力尋切。地上有叢木。
故稠林者。不謂善悪。喩繋多義。十地論云。稠林者。衆多義故。難知義故。已上。
--------------------------------------------------------------------------------
次の文は、第二の起観生信章の中の回向門の下に二種を分かつ中の還相回向の註釈なり。
「奢摩他」とは、此には翻じて止という。「毘婆舎那」は此には翻じて観というと。
「方便力」とは即ち回向なり。故に下の善巧摂化の章の中に、巧方便回向を釈する文に云
わく「その身を後にして、身を先にするを以ての故に巧方便と名づく。この中に方便とい
うは、謂く、作願して一切衆生を摂取して、共に同じく彼の安楽仏国に生ぜしむ。彼の仏国
は即ちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり」已上。「稠林」というは、「稠」は『玉篇』
に云わく「直留の切、密なり」。『広韻』に云わく「直由の切。稠なり、多なり」。「林」
は『玉篇』に云わく「力金の切。平土に叢木あり」。『広韻』に云わく「力尋の切。地上
に叢木あり」。故に稠林とは、善悪を謂わず、繋多の義に喩う。『十地論』に云わく「稠林
とは衆多の義なるが故に、難知の義なるが故に」已上。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.12
ボン
東京の男性
[ 2644 ] Re12:教行信証・学習ノート9 2012/02/15 (Wed) 01:10 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>論註曰。還相者。生彼土已。得奢摩他・毘婆舎那・方便力成就。回入生死稠林。教化一切
>衆生。共向仏道。若往若還。皆為抜衆生渡生死海。是故言回向為首得成就大悲心故。
>--------------------------------------------------------------------------------
>『論の註』に曰わく、還相とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就す
>ることを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化し、共に仏道に向かえしめたまえ
>り。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに
>回向を首として、大悲心を成就することを得るがゆえにと言えりと。
>--------------------------------------------------------------------------------

  『論註』にこう述べる。還相とは、かの土に生じ終わって、奢摩他(止)と毘婆舎那(観)
  によって生ずる方便力を成就させて、生死が繰り返される深い林に回入して、一切の
  衆生を教化し、ともに仏道に向かわせる。往相であれ、還相であれ、みな衆生を抜き
  取って、生死の海を渡そうとするためのものである。だから、「回向をもととして、
  大悲心を成就することができるから」と言ったのである。

  WikiArc
    奢摩他
      梵語シャマタの音写。止・止息・寂静と漢訳する。観と並べて止観と
      いわれる。散乱した心を離れ、思いを止めて心が寂静になった状態。
    毘婆舎那
      梵語ヴィパシャナーの音写。観・妙観・正見と漢訳する。止(禅定)と並べて
      止観といわれる。禅定によって得られる静かな心で、対象をありのままに正
      しく観察すること。
    方便力
      奢摩他(止)、毘婆舎那(観)によって生ずる利他教化のはたらき。
    稠林
      深くしげった林。 迷いの世界を深い林に喩えていう。
    生死の稠林
      迷いの世界を密林に喩えたもの。
    生死海
      生死輪廻が窮まりなく続く迷いの世界を辺際のない、大海に喩えていう。
      『華厳経』に海の十徳を挙げる中の無辺際の義を喩えとした。


≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>次之文者。第二起観生信章中。回向門下分二種中。還相回向之註釈也。奢摩他者。此翻云
>止。毘婆舎那此翻云観。方便力者。即回向也。故下善巧摂化章中。釈巧方便回向文云。
>以後其身而身先故。名巧方便。此中言方便者。謂作願摂取一切衆生。共同生彼安楽仏国。
>彼仏国即是畢竟成仏道路。無上方便也。已上。言稠林者。稠玉篇云。直留切。密也。広韻
>云。直由切。稠也。多也。林玉篇云。力金切。平土有叢木。広韻云。力尋切。地上有叢木。
>故稠林者。不謂善悪。喩繋多義。十地論云。稠林者。衆多義故。難知義故。已上。
>--------------------------------------------------------------------------------
>次の文は、第二の起観生信章の中の回向門の下に二種を分かつ中の還相回向の註釈なり。
>「奢摩他」とは、此には翻じて止という。「毘婆舎那」は此には翻じて観というと。
>「方便力」とは即ち回向なり。故に下の善巧摂化の章の中に、巧方便回向を釈する文に云
>わく「その身を後にして、身を先にするを以ての故に巧方便と名づく。この中に方便とい
>うは、謂く、作願して一切衆生を摂取して、共に同じく彼の安楽仏国に生ぜしむ。彼の仏国
>は即ちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり」已上。「稠林」というは、「稠」は『玉篇』
>に云わく「直留の切、密なり」。『広韻』に云わく「直由の切。稠なり、多なり」。「林」
>は『玉篇』に云わく「力金の切。平土に叢木あり」。『広韻』に云わく「力尋の切。地上
>に叢木あり」。故に稠林とは、善悪を謂わず、繋多の義に喩う。『十地論』に云わく「稠林
>とは衆多の義なるが故に、難知の義なるが故に」已上。
>--------------------------------------------------------------------------------

  次の文は、第二の「起観生信」の章のなかの回向門の下に、二種類を分けたなかの
  還相回向の註釈である。「奢摩他」とは、ここでは「止」と翻訳する。「毘婆舎那」
  は、ここでは「観」と翻訳する。「方便力」とは、すなわち回向である。だから、
  下の「善巧摂化」の章のなかで、善巧方便である回向を釈する文にこう述べる。
  「その身を後にして、しかも身を先にするところから巧方便と名づけられる。このな
  かに方便というのは、いわく、願を立てて一切の衆生を摂取して、ともに同じく彼の
  安楽仏国に生ぜさせようとするものである。かの仏の国は、最後は成仏する道であり、
  この上ない方便なのである。」

  WikiArc
    巧方便
      善巧方便のこと。
    方便
      梵語ウパーヤの漢訳。近づく、到達するの意で、巧みな方法を用いて衆生を
      導くこと。各宗の教学で種々に分類解釈されるが、浄土真宗では、権仮方便
      と善巧方便との二種類が用いられる。
      権仮方便。真実の法に入らしめるために仮に設けた法門のこと。方便の願、
      方便の行信、方便仮身土というようなものがこれに相当する。この方便は、
      一度真実に入ったならば不要となり廃されるため暫用還廃(暫く用いて還り
      て廃す)の法といわれる。
      善巧方便。仏・菩薩が衆生をさとりに導くために、衆生の素質や能力に応じ
      て巧みに教化する大悲の具現としての手段、方法。
    畢竟成仏の道路
      究極においては仏に成ること。ここでは転じて究極無上の成仏道の意味とする。


  「稠林」というのは、「稠」は『玉篇』によると「直留の接合であり、密である」。
  『広韻』では「直由の接合であり、稠であり、多である」。「林」は『玉篇』では
  「力金のであり、平地に草木があること」。『広韻』では「力尋の接合であり、地上
  に草木があること」。だから、稠林とは、善悪を言うのではなく、非常に多いという
  意味に例えている。『十地論』こう述べる。「稠林とは、数が多いという意味である
  から、知りがたいという意味であるから。」

●re.13
ボン
東京の男性
[ 2645 ] Re13:教行信証・学習ノート9 2012/02/17 (Fri) 01:02 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
又言。即見彼仏。未証浄心菩薩。畢竟得証平等法身。与浄心菩薩。与上地諸菩薩。畢竟同
得寂滅平等故。平等法身者。八地已上法性生身菩薩也。寂滅平等之法也。以得此寂滅平等
法故名為平等法身。以平等法身菩薩所得故名為寂滅平等法也。此菩薩得報生三昧。以三昧
神力。能一処一念一時。遍十方世界。種種供養一切諸仏及諸仏大会衆海。能於無量世界無
仏法僧処。種種示現。種種教化度脱一切衆生。常作仏事。初無往来想・供養想・度脱想。
是故此身名為平等法身。此法名為寂滅平等法。未証浄心菩薩者。初地已上七地以還諸菩薩
也。此菩薩亦能現身。若百若千若万若億若百千万億無仏国土。施作仏事。要作心入三昧乃
能非不作心。以作心故名為未証浄心。此菩薩願生安楽浄土即見阿弥陀仏。見阿弥陀仏時。
与上地諸菩薩畢竟身等法等。龍樹菩薩・婆薮槃頭菩薩輩。願生彼者。当為此耳。
--------------------------------------------------------------------------------
(論註)また言わく、すなわちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身
を得証す。浄心の菩薩と、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆ
えにとのたまえり。平等法身とは、八地已上の法性生身の菩薩なり。寂滅平等の法なり。
この寂滅平等の法を得るをもってのゆえに、名づけて平等法身とす。平等法身の菩薩の所得
なるをもってのゆえに、名づけて寂滅平等の法とするなり。この菩薩は報生三昧を得。
三昧神力をもって、よく一処、一念、一時に十方世界に遍じて、種種に一切諸仏および諸仏
の大会衆海を供養す。よく無量世界の仏法僧ましまさざるところにして、種種に示現し、
種種に一切衆生を教化し度脱して、常に仏事を作すに、初めより往来の想・供養の想・度脱
の想なし。このゆえにこの身を名づけて平等法身とす。この法を名づけて寂滅平等の法と
す。未証浄心の菩薩とは、初地已上、七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩、またよ
く身を現ずること、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億、無仏の
国土にして仏事を施作して、かならず作心す。三昧に入るとも、いましよく作心せざるに
あらず。作心をもってのゆえに、名づけて未証浄心とす。この菩薩、安楽浄土に生まれて、
すなわち阿弥陀仏を見んと願ず。阿弥陀仏を見たてまつるとき、上地のもろもろの菩薩と、
畢竟じて身等しく法等し。龍樹菩薩・婆薮般豆菩薩の輩、彼に生ぜんと願ずるは、当にこ
のためなるべしならくのみと。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.14
ボン
東京の男性
[ 2646 ] Re14:教行信証・学習ノート9 2012/02/17 (Fri) 01:03 △up ▽down
本文について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>又言。即見彼仏。未証浄心菩薩。畢竟得証平等法身。与浄心菩薩。与上地諸菩薩。畢竟同
>得寂滅平等故。平等法身者。八地已上法性生身菩薩也。寂滅平等之法也。以得此寂滅平等
>法故名為平等法身。以平等法身菩薩所得故名為寂滅平等法也。此菩薩得報生三昧。以三昧
>神力。能一処一念一時。遍十方世界。種種供養一切諸仏及諸仏大会衆海。能於無量世界無
>仏法僧処。種種示現。種種教化度脱一切衆生。常作仏事。初無往来想・供養想・度脱想。
>是故此身名為平等法身。此法名為寂滅平等法。未証浄心菩薩者。初地已上七地以還諸菩薩
>也。此菩薩亦能現身。若百若千若万若億若百千万億無仏国土。施作仏事。要作心入三昧乃
>能非不作心。以作心故名為未証浄心。此菩薩願生安楽浄土即見阿弥陀仏。見阿弥陀仏時。
>与上地諸菩薩畢竟身等法等。龍樹菩薩・婆薮槃頭菩薩輩。願生彼者。当為此耳。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(論註)また言わく、すなわちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身
>を得証す。浄心の菩薩と、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆ
>えにとのたまえり。平等法身とは、八地已上の法性生身の菩薩なり。寂滅平等の法なり。
>この寂滅平等の法を得るをもってのゆえに、名づけて平等法身とす。平等法身の菩薩の所得
>なるをもってのゆえに、名づけて寂滅平等の法とするなり。この菩薩は報生三昧を得。
>三昧神力をもって、よく一処、一念、一時に十方世界に遍じて、種種に一切諸仏および諸仏
>の大会衆海を供養す。よく無量世界の仏法僧ましまさざるところにして、種種に示現し、
>種種に一切衆生を教化し度脱して、常に仏事を作すに、初めより往来の想・供養の想・度脱
>の想なし。このゆえにこの身を名づけて平等法身とす。この法を名づけて寂滅平等の法と
>す。未証浄心の菩薩とは、初地已上、七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩、またよ
>く身を現ずること、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億、無仏の
>国土にして仏事を施作して、かならず作心す。三昧に入るとも、いましよく作心せざるに
>あらず。作心をもってのゆえに、名づけて未証浄心とす。この菩薩、安楽浄土に生まれて、
>すなわち阿弥陀仏を見んと願ず。阿弥陀仏を見たてまつるとき、上地のもろもろの菩薩と、
>畢竟じて身等しく法等し。龍樹菩薩・婆薮般豆菩薩の輩、彼に生ぜんと願ずるは、当にこ
>のためなるべしならくのみと。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (論註)また、こう述べる。かの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩(七地まで)も、
  最後には平等法身を得証する。浄心の菩薩(八地以上)や、上地(九地・十地)のさまざ
  まな菩薩と同じように、最後には寂滅平等(涅槃)を得るからであるとおっしゃった。
  平等法身とは、八地以上の法性生身の菩薩のことである。寂滅平等の法である。この
  寂滅平等の法を得ることから、平等法身と名づけるのである。平等法身の菩薩が身に
  つけたものであるから、寂滅平等の法と名づけられる。この菩薩は、報生三昧を得る。
  三昧の神力によって、一処にありながら、一念(一瞬)のうちに、同時に十方世界に行
  き渡って、一切の諸仏および諸仏を取り巻く多くの人々を様々に供養することができ
  るのである。数限りない世界の仏法僧のおられないところにあって、様々に身を現し、
  一切の衆生を様々に教化し度脱して、常に仏事(衆生救済の事業)をなすのであるが、
  初めから往来の想・供養の想・度脱の想などはない。だから、この身を平等法身と名
  づけるのである。この法を寂滅平等の法と名づけるのである。未証浄心の菩薩とは、
  初地以上、七地までのもろもろの菩薩のことである。この菩薩は、あるいは百、ある
  いは千、あるいは万、あるいは億、あるいは百千万億の仏のいない国土に身を現して
  仏事(衆生救済の事業)を行うが、それは必ず意識して行うものである。三昧に入って
  はいるが、まったく無意識というわけではない。意識してそれをあえて行うことから、
  未証浄心と呼ばれるのである。この菩薩は、安楽浄土に生まれて、阿弥陀仏を見たい
  と願う。阿弥陀仏を見たてまつるとき、上地(九地・十地)のもろもろの菩薩と、とう
  とう身も等しく法も等しくなるのである。龍樹菩薩や婆薮般豆(天親)菩薩などが、
  かの地に生まれたいと願うのは、まさにこのためなのであろう。

  WikiArc
    未証浄心の菩薩
      十地のうちの初地から七地までの菩薩のこと。この位の菩薩は、まだ自他へ
      のとらわれが残っているので、自利利他するのに作心(強い意志力)を必要と
      する。しかし八地以上の菩薩は、一切のとらわれをはなれ、作心をもちいず
      自在無碍のはたらきをするから浄心の菩薩という。
    平等法身
      諸法の寂滅平等をさとった八地以上の菩薩の身。
    寂滅平等
      煩悩を離れ差別のないさとりの境地をいう。 涅槃の訳語。
    浄心の菩薩
      八地以上の菩薩。
    上地のもろもろの菩薩
      九地・十地の菩薩。
    法性生身の菩薩
      法性真如から生じた身をもっている菩薩。
    報生三昧
      八地以上の菩薩が果報として自然に得る寂静の境地、この三昧を得れば、
      意志をはたらかさなくてもおのずから種々の身を示現して衆生を救済し、
      仏を供養することができるという。
    大会衆海
      仏の説法の会座に集まっている多くの人々を海に喩えていう。
    仏事
      衆生救済の事業。
    想(おもい)
      とらわれ心。
    作心
      意識して何事かをしようとする分別の心。
    婆薮槃豆
      梵語ヴァスバンドゥの音写。 婆藪般豆・婆藪盤頭とも音写する。 旧訳では天親、新訳では世親と漢訳する。

  日本国語大辞典
    とく‐しょう【得証】
      仏語。さとりを得ること。さとること。
    じ‐げん【示現】
      仏語。仏菩薩が衆生救済のために、種々に身を変えてこの世に現われる
      こと。現化。
    い‐かん 【以還・已還】
      ある時点よりこのかた。以後。以来。

●re.15
ボン
東京の男性
[ 2647 ] Re15:教行信証・学習ノート9 2012/02/18 (Sat) 03:23 △up ▽down
≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
後之文者。第三観行体相。就明依正二十九句荘厳成就。如来八種功徳之中。第八荘厳功徳
成就有三段内。今文第三正釈住持行相以下。至第十重利行満足章中。別約近等五門。配礼
拝等之五念門。併被引之。
--------------------------------------------------------------------------------
後の文は、第三の観行体相に、依正二十九句の荘厳成就を明かすに就きて、如来八種の
功徳の中の、第八の荘厳功徳成就に、三段ある内、今の文は第三に正しく住持の行相を釈
する以下、第十重の利行満足の章の中に、別して近等の五門に約して、礼拝等の五念門に
配するに至るまで、併せ引かるるなり。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.16
ボン
東京の男性
[ 2648 ] Re16:教行信証・学習ノート9 2012/02/18 (Sat) 03:23 △up ▽down
≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>後之文者。第三観行体相。就明依正二十九句荘厳成就。如来八種功徳之中。第八荘厳功徳
>成就有三段内。今文第三正釈住持行相以下。至第十重利行満足章中。別約近等五門。配礼
>拝等之五念門。併被引之。SYOZEN2-329,/TAI7-351
>--------------------------------------------------------------------------------
>後の文は、第三の観行体相に、依正二十九句の荘厳成就を明かすに就きて、如来八種の
>功徳の中の、第八の荘厳功徳成就に、三段ある内、今の文は第三に正しく住持の行相を釈
>する以下、第十重の利行満足の章の中に、別して近等の五門に約して、礼拝等の五念門に
>配するに至るまで、併せ引かるるなり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  後の文は、第三の観行体相で、依(国土)と正(心身)についての二十九句の荘厳の成就
  を明らかにするにあたって、如来の八種の功徳のなかで、第八の荘厳功徳の成就に三段
  があるうち、今の文は、第三に、まさしく住持の行相を解釈するところから、第十重
  の利行満足の章のなかで、特別に近門などの五門(五功徳門)について、礼拝などの
  五念門に当てはめるところまでを、併せて引用している。

WikiArc
    観行体相
      観察の対象となる浄土、仏および菩薩の荘厳相を明かす。 観察体相ともいう。
    三種の荘厳
      天親菩薩の『浄土論』に説く浄土のうるわしい相で、国土荘厳十七種・
      仏荘厳八種・菩薩荘厳四種の三厳二十九種荘厳のこと。
        国土の荘厳
           1.荘厳清浄功徳
           2.荘厳無量功徳
           3.荘厳性功徳
           4.荘厳形相功徳
           5.荘厳種種事功徳
           6.荘厳妙色功徳
           7.荘厳触功徳
           8.荘厳三種功徳
           9.荘厳雨功徳
          10.荘厳光明功徳
          11.荘厳妙声功徳
          12.荘厳主功徳
          13.荘厳眷属功徳
          14.荘厳受用功徳
          15.荘厳無諸難功徳
          16.荘厳大義門功徳
          17.荘厳一切所求満足功徳
        仏の荘厳
          18.荘厳座功徳
          19.荘厳身業功徳
          20.荘厳口業功徳
          21.荘厳心業功徳
          22.荘厳大衆功徳
          23.荘厳上首功徳
          24.荘厳主功徳
          25.荘厳不虚作住持功徳
        菩薩の荘厳
          26.不動遍至功徳
          27.時遍至功徳
          28.無余供養功徳
          29.遍示三法功徳
    五種の功徳
      五念門の行を修めることによって浄土に往生して得るところの果で、
      五功徳門、五果門ともいう。
        1.近門。礼拝によって仏果に近づくこと。
        2.大会衆門。讃嘆によって浄土の聖者(阿弥陀仏の聖衆)の仲間に入ること。
        3.宅門。作願によって止(奢摩他)を成就すること。
        4.屋門。観察によって観(毘婆舎那)を成就すること。
        5.園林遊戯地門。回向によってさとりの世界から迷いの世界にたちかえ
         って、自在に衆生を教化・救済することを楽しみとすること。

●re.17
ボン
東京の男性
[ 2649 ] Re17:教行信証・学習ノート9 2012/02/25 (Sat) 01:36 △up ▽down
≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
此文意者。生極楽者。皆登八地。即証法身寂滅極理。為此義者。云得十信三賢之位。又有
九品差別之相。皆是仮説。只是約機。以契平等法身証悟。為真実証。被引此文者。為顕此
意。能得此意。可見此文。問。極楽生位不関七地已還位耶。答。得無生忍。其位不同。或
約初地。或約八地。若依初地得忍之説。可云広通七地已還。今就深位先拠八地。未証等者。
問。起信論云。証法身者。従浄心地乃至菩薩究竟地。已上。依彼論意。浄心地者。是指初
地。究竟地者。是指十地。然者何以七地已還。名為未証浄心菩薩。答。是如前述。謂証真
如。初地八地其説相分。思彼論意。立浄心名。約証真如。今言未証。約有作心。即云功用
無功用是。問。初地已下菩薩。已得無分別智。何云作心。答。此有分極。彼已雖得無分別
智。若猶相望八地已上。是作意也。又或義云。依法相意。七地已還於第六識。有漏無漏令
雑起故。若其有漏現起之時。猶必可有作意分別。是故判云非不作意。言身等者。是指相好
荘厳等也。言法等者。指所説也。龍樹菩薩婆薮般頭菩薩等者。問。天親賢位。龍樹聖位。
彼此何同。答。雖有地上地前不同。分有所得。是故類同。是以撲揚讃天親云。位居明徳。
道隣極喜。已上。又弘決云。天親龍樹内鑑冷然。已上。或依隣近。或依内鑑為一双也。問。
地上菩薩願生極楽。其義難思。所以然者。浄穢差別在心染浄。於境本来無染浄差。初地以
上既断無明分顕我性。身居報土任連自聞報仏説法。所見境界報土儀式。何更願生彼浄土耶。
故探玄記云。十住已去不退菩薩所住名為浄土。已上。地前猶爾。地上何願。答。雖有多義。
且出一義。生身得忍以捨依身願生他方浄土故也。是更非如凡夫願生故。大論云。若得無生
法忍。断一切結使。死時捨此肉身。已上。涅槃疏云。分段質碍煩悩雖尽。必須捨報。已上。
蓋此義也。
--------------------------------------------------------------------------------
この文の意は、極楽に生ずる者は、みな八地に登りて即ち法身寂滅の極理を証す。この義
の為には、十信・三賢の位を得といい、また九品差別の相ある、皆これ仮説なり。ただこ
れ機に約す。平等法身の証悟に契うを以て、真実の証と為す。この文を引かるるは、この
意を顕わさんが為なり。能くこの意を得て、この文を見るべし。問う。極楽の生位は七地
已還の位に関わらざるや。答う。無生忍を得ること、その位不同なり。或いは地〈初地〉
に約し、或いは八地に約す。もし初地得忍の説に依らば、広く七地已還に通ずというべし。
今は深位に就きて、まず八地に拠る。「未証」等とは、問う、『起信論』に云わく「証法身
とは、浄心地より、乃至、菩薩究竟地なり」已上。彼の論の意に依るに、浄心地とはこれ
初地を指す。究竟地とは、これ十地を指す。然れば何ぞ七地已還を以て、名づけて未証浄心
の菩薩と為すや。答う、これ前に述ぶるが如し。謂わく、真如を証すること、初地・八地、
その説相い分かれたり。彼の論の意を思うに、浄心の名を立つることは証真如に約す。今、
未証というは、有作心に約す。即ち功用無功用という、これなり。問う、初地已上〈已下〉
の菩薩は已に無分別智を得。何ぞ作心という。答う、これに分極あり。彼は已に無分別智
を得といえども、もし猶八地已上に相望すれば、これ作意なり。また或る義に云わく、
法相の意に依れば、七地已還は第六識に於いて、有漏無漏雑起せしむるが故に。もしその
有漏現起の時はなお必ず作意分別あるべし。この故に判じて非不作意という。「身等」と
いうは、これ相好荘厳等を指すなり。「法等」というは、所説を指すなり。「龍樹菩薩婆
・薮般頭菩薩」等とは、問う、天親は賢位、龍樹は聖位なり。彼此何ぞ同じからん。答う、
地上・地前の不同ありといえども、分に所得あり。この故に類同す。これを以て撲揚は
天親を讃じて云わく「位は明徳に居し、道は極喜に隣りす」已上。また『弘決』に云わく
「天親・龍樹、内鑑冷然なり」已上。或いは隣近に依り、或いは内鑑に依りて一双と為す
なり。問う、地上菩薩の極楽に生ぜんと願ずる、その義思い難し。然る所以は、浄穢の
差別は心の染浄に在り。境に於いて本来、染浄の差なし。初地以上は既に無明を断じて分
に我性を顕わし、身は報土に居して任連に自ずから報仏の説法を聞く。所見の境界は報土
の儀式なり。何ぞ更に彼の浄土に生ぜんことを願ぜんや。故に『探玄記』に云わく「十住
已去、不退の菩薩の所住を名づけて浄土と為す」已上。地前なお爾り。地上は何ぞ願ぜん。
答う、多義ありといえども、且く一義を出だす。生身得忍は依身を捨てて他方の浄土に生
ぜんと願ずるを以ての故に。これ更に凡夫の願生の如くにはあらざるが故に。『大論』に
云わく「もし無生法忍を得つれば、一切の結使を断じて、死する時にこの肉身を捨つ」
已上。『涅槃の疏』に云わく「分段の質碍は煩悩尽くといえども、必ず須く報を捨つべし」
已上。蓋しこの義なり。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.18
ボン
東京の男性
[ 2650 ] Re18:教行信証・学習ノート9 2012/02/27 (Mon) 13:21 △up ▽down
六要鈔の注釈について理解したところを記します。

≪六要鈔の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>此文意者。生極楽者。皆登八地。即証法身寂滅極理。為此義者。云得十信三賢之位。又有
>九品差別之相。皆是仮説。只是約機。以契平等法身証悟。為真実証。被引此文者。為顕此
>意。能得此意。可見此文。問。極楽生位不関七地已還位耶。答。得無生忍。其位不同。或
>約初地。或約八地。若依初地得忍之説。可云広通七地已還。今就深位先拠八地。未証等者。
>問。起信論云。証法身者。従浄心地乃至菩薩究竟地。已上。依彼論意。浄心地者。是指初
>地。究竟地者。是指十地。然者何以七地已還。名為未証浄心菩薩。答。是如前述。謂証真
>如。初地八地其説相分。思彼論意。立浄心名。約証真如。今言未証。約有作心。即云功用
>無功用是。問。初地已下菩薩。已得無分別智。何云作心。答。此有分極。彼已雖得無分別
>智。若猶相望八地已上。是作意也。又或義云。依法相意。七地已還於第六識。有漏無漏令
>雑起故。若其有漏現起之時。猶必可有作意分別。是故判云非不作意。言身等者。是指相好
>荘厳等也。言法等者。指所説也。龍樹菩薩婆薮般頭菩薩等者。問。天親賢位。龍樹聖位。
>彼此何同。答。雖有地上地前不同。分有所得。是故類同。是以撲揚讃天親云。位居明徳。
>道隣極喜。已上。又弘決云。天親龍樹内鑑冷然。已上。或依隣近。或依内鑑為一双也。問。
>地上菩薩願生極楽。其義難思。所以然者。浄穢差別在心染浄。於境本来無染浄差。初地以
>上既断無明分顕我性。身居報土任連自聞報仏説法。所見境界報土儀式。何更願生彼浄土耶。
>故探玄記云。十住已去不退菩薩所住名為浄土。已上。地前猶爾。地上何願。答。雖有多義。
>且出一義。生身得忍以捨依身願生他方浄土故也。是更非如凡夫願生故。大論云。若得無生
>法忍。断一切結使。死時捨此肉身。已上。涅槃疏云。分段質碍煩悩雖尽。必須捨報。已上。
>蓋此義也。
>--------------------------------------------------------------------------------
>この文の意は、極楽に生ずる者は、みな八地に登りて即ち法身寂滅の極理を証す。この義
>の為には、十信・三賢の位を得といい、また九品差別の相ある、皆これ仮説なり。ただこ
>れ機に約す。平等法身の証悟に契うを以て、真実の証と為す。この文を引かるるは、この
>意を顕わさんが為なり。能くこの意を得て、この文を見るべし。問う。極楽の生位は七地
>已還の位に関わらざるや。答う。無生忍を得ること、その位不同なり。或いは地〈初地〉
>に約し、或いは八地に約す。もし初地得忍の説に依らば、広く七地已還に通ずというべし。
>今は深位に就きて、まず八地に拠る。「未証」等とは、問う、『起信論』に云わく「証法身
>とは、浄心地より、乃至、菩薩究竟地なり」已上。彼の論の意に依るに、浄心地とはこれ
>初地を指す。究竟地とは、これ十地を指す。然れば何ぞ七地已還を以て、名づけて未証浄心
>の菩薩と為すや。答う、これ前に述ぶるが如し。謂わく、真如を証すること、初地・八地、
>その説相い分かれたり。彼の論の意を思うに、浄心の名を立つることは証真如に約す。今、
>未証というは、有作心に約す。即ち功用無功用という、これなり。問う、初地已上〈已下〉
>の菩薩は已に無分別智を得。何ぞ作心という。答う、これに分極あり。彼は已に無分別智
>を得といえども、もし猶八地已上に相望すれば、これ作意なり。また或る義に云わく、
>法相の意に依れば、七地已還は第六識に於いて、有漏無漏雑起せしむるが故に。もしその
>有漏現起の時はなお必ず作意分別あるべし。この故に判じて非不作意という。「身等」と
>いうは、これ相好荘厳等を指すなり。「法等」というは、所説を指すなり。「龍樹菩薩婆
>・薮般頭菩薩」等とは、問う、天親は賢位、龍樹は聖位なり。彼此何ぞ同じからん。答う、
>地上・地前の不同ありといえども、分に所得あり。この故に類同す。これを以て撲揚は
>天親を讃じて云わく「位は明徳に居し、道は極喜に隣りす」已上。また『弘決』に云わく
>「天親・龍樹、内鑑冷然なり」已上。或いは隣近に依り、或いは内鑑に依りて一双と為す
>なり。問う、地上菩薩の極楽に生ぜんと願ずる、その義思い難し。然る所以は、浄穢の
>差別は心の染浄に在り。境に於いて本来、染浄の差なし。初地以上は既に無明を断じて分
>に我性を顕わし、身は報土に居して任連に自ずから報仏の説法を聞く。所見の境界は報土
>の儀式なり。何ぞ更に彼の浄土に生ぜんことを願ぜんや。故に『探玄記』に云わく「十住
>已去、不退の菩薩の所住を名づけて浄土と為す」已上。地前なお爾り。地上は何ぞ願ぜん。
>答う、多義ありといえども、且く一義を出だす。生身得忍は依身を捨てて他方の浄土に生
>ぜんと願ずるを以ての故に。これ更に凡夫の願生の如くにはあらざるが故に。『大論』に
>云わく「もし無生法忍を得つれば、一切の結使を断じて、死する時にこの肉身を捨つ」
>已上。『涅槃の疏』に云わく「分段の質碍は煩悩尽くといえども、必ず須く報を捨つべし」
>已上。蓋しこの義なり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  この文の意(こころ)は、極楽に生ずる者は、みな第八地に登って、そのまま法身・寂滅
  という究極の理(ことわり)を証する、というものである。この考え方のために、十信
  ・三賢の位を得るといったり、また、九品の差別の相があるといったりするのだが、
  これらはみな仮に説かれたものである。ただ、これは機についてのことである。平等
  法身の証悟にかなうことをもって、真実の証とするものである。この文を引用するの
  は、この意(こころ)を表そうとするからである。よくこの意(こころ)を得て、この文
  を見るべきである。

  WikiArc
    八地
      菩薩の階位の第八地。
    法身
      三身の一。色も形もない真如そのものである仏身。
    寂滅
      涅槃の異名。あらゆる煩悩が滅した寂静の境地。
    十信
      菩薩五十二位の修行階位のうちの最初の十段階。 『瓔珞経』では、信心・
      念心・精進心・定心・慧心・戒心・回向心・護法心・捨心・願心の十を説く
      が、『梵網経』等では別の説を立てる。
    三賢
      菩薩の五十二段の階位のうち、十住・十行・十回向の階位をいう。内凡
      (さとりのうちなる凡夫)ともいう。

  日本国語大辞典
    仮説(けせつ)
      仮に説くこと。実物そのままを表現するのではない、手立てとしての説示。


  問う。極楽の生位は、七地までの位には関わらないものだろうか。答える。無生忍を
  得ることについて、その位は同じではない。あるいは初地としたり、あるいは八地と
  したりする。もし初地を得忍とする説によるならば、広く七地までに通ずるというべ
  きである。今ここでは、深位であるとして、まず八地だとという考え方によっている。

  日本国語大辞典
    深位(じんい)
      仏語。修行の進んだ高い位。


  「未証・・・」等について問う。『起信論』にこう述べる。「法身を証するというの
  は、浄心地から菩薩究竟地までである。」その論の意(こころ)によれば、浄心地とは
  初地を指す。究竟地とは十地を指す。それならば、どうして、七地までを未証浄心の
  菩薩と名づけるのか。答える。これは前に述べたとおりである。いわく、真如を証す
  ることについて、初地または八地というように、その説が分かれている。その論の意
  (こころ)を思うに、「浄心」の名を立てるとことは、真如を証するということである。
  今ここで、未証というのは、作心があるということである。すなわち、功用と無功用
  という、そのことである。

  日本国語大辞典
    功用(くゆう)
      仏語。はたらき。作用。功能。
    無功用(むくゆう)
      仏語。身・口・意の動作に少しの作為もなく、全く自然のままであること。
      意志的な行為を超越して自然のままにまかせること。八地以上の菩薩の境界
      とされるが、また禅ではこれをもって禅者の行為のあるべきすがたとする。

(続く)

●re.19
ボン
東京の男性
[ 2651 ] Re19:教行信証・学習ノート9 2012/02/25 (Sat) 01:37 △up ▽down
(続き)

  問う。初地以上の菩薩は、すでに無分別の智を得ている。どうして作心というのか。
  答える。これには分極がある。彼はすでに無分別の智を得ているとはいえ、もし、
  さらに八地以上にあい望めば、これは作意である。また、ある義(考え方)ではこう述
  べる。法相宗の意(こころ)によれば、七地までは、第六識(意識)において、有漏(煩悩)
  と無漏(清浄)が入り混じって起こってくるからである。仮に、その有漏(煩悩)が現に
  起こっている時は、やはり必ず作意と分別あるはずなのである。だから、不作意では
  ないと判断するのである。「身が等しい」というのは、これは相好荘厳などを指すも
  のである。「法が等しい」というのは、その説くところを指すものである。

  WikiArc
    無分別智
      無分別心とも言う。正しく真如を体会する智慧をいう。真如は一切の相を離
      れており、分別することのできないものであるから、これによって分別と言
      う精神作用では真如の体性を会得することができない。一切の情念の分別を
      離れた無相の真実の智慧によってのみ会得されるものである。
    法相
      法相宗のこと
    有漏
      煩悩をもつもの。漏とはもれ出るもの、汚れの意で煩悩の異名。
    無漏
      有漏(煩悩)に対する語。煩悩に全く汚されていない清浄な状態をいう。
    相好荘厳
      仏のすがたも実体的にあるのではなく、それがそのまま色も形もない絶対の
      真理そのものになっているという意。

  日本国語大辞典
    分別(ふんべつ)
      仏語。心の働きが対象を思惟し計量すること。知識による理解。または誤っ
      た理解、認識としての凡夫の妄分別にもいう。
    無分別
      仏語。誤って、自己にとらわれ、ものを対立的・相対的に見る分別・妄想を
      離れること。物事の平等性をさとった状態。


  「龍樹菩薩婆・薮般頭菩薩・・・」等について問う。天親は賢位であり、龍樹は聖位
  である。それが、どうして同じだといえるのか。答える。地上(聖位)と地前(賢位)の
  違いはあるが、その様子に所得(得るところ)がある。だから、似通っている。これに
  よって撲揚は、天親を讃じてこう述べる。「位は明徳に位置し、道は極喜(歓喜地)に
  並び続く。」また『弘決』にこう述べる。「天親と龍樹は、内鑑冷然である。」ある
  いは隣り近づくことにより、あるいは内鑑によって、一対となるのである。

  日本国語大辞典
    三賢十聖(さんげんじっしょう)
      仏語。大乗で、菩薩の修行階位のうち、聖位である十地(十聖)と、それ以前
      の十住・十行・十廻向(三賢)。三賢十地。
    明徳(めいとく)
      聰明な徳。正しく公明な徳。
    極喜地(ごっきじ)
      仏語。菩薩十地中第一の歓喜地(かんぎじ)をいう。
    内鑑冷然(ないかん‐れいねん)
      仏語。仏・菩薩や聖者の智慧の光が鏡のように澄みきって曇りのないさま。
    内鑑(ないかん)
      仏語。内心に正しく見ること。さとりの智慧が内心ではたらくこと。


  問う。地上(聖位)の菩薩が極楽に生まれたいと願うという、その義(考え方)は理解し
  がたい。なぜなら、浄と穢の差別は、心の染と浄にある。境(国土・環境)において、
  本来は、染と浄の差がない。初地以上は、すでに無明を断ち切って、その様子に我性
  を表し、身は報土にあって、その流れで自然と報身の仏の説法を聞く。見るところの
  境界(国土・環境)は、報土の儀式である。どうして更に彼の浄土に生まれることを願
  うのか。だから、『探玄記』にこう述べる。「十住以降については、不退の菩薩の住
  むところを浄土と名づける。」このように地前においても、そうである。まして地上
  なら、どうしてそれを願うのか。答える。多くの義(考え方)があるけれども、とりあ
  えず、一つの義(考え方)を取り上げる。生身で無生法忍を得ることは、依身(身体)を
  捨てて、他方の浄土に生まれたいと願うからである。これは、まったく凡夫の願生の
  ようなものではないからである。『大論』にこう述べる。「もし、無生法忍を得れば、
  一切の結使(煩悩)を断ち、死ぬ時にこの肉身を捨てる。」『涅槃の疏』ではこう述べ
  る。「分段生死という妨げは、煩悩が尽きたとしても、必ず報(むくい)を捨て去るも
  のであるにちがいない。」思うに、このような義(考え方)である。

  日本国語大辞典
    我性
      その個人が本来もっている性質。
    生身
      仏語。父母によって生まれた肉身。また、その身を具えた仏、すなわち、
      現世の釈迦。さらに広く、仏菩薩が衆生済度のため、この世に化現する化身
      をもいう。
    依身
      仏語。身体。生あるものは身体をより所とし、また目、耳なども身体をより
      所とするところからいう。
    結使
      仏語。煩悩。煩悩は心身を束縛し苦果を結成するので「結」といい、また、
      煩悩は衆生に随逐し衆生を駆使するので「使」という。
    分段
      「ぶんだんしょうじ(分段生死)」または「ぶんだんしん(分段身)」の略。
    分段生死
      仏語。衆生が迷いの世界で受ける生死で、与えられた身体の大小や寿命の
      長短をもって、三界・六道に輪廻すること。分段。生死。
    分段身
      仏語。分段生死の身。凡夫の身。

  WikiArc
    得忍
      無生法忍を得ること。
    無生法忍
      三法忍の一。真理にかない形相を超えて不生不滅の真実をありのままにさと
      ること。
    分段の苦
      六道に輪廻する凡夫が受ける苦しみ。
    質礙(せつげ)=質碍
      一つの物の存在が他の物の存在をさまたげるという色 (物質) の特質。

●re.20
ボン
東京の男性
[ 2652 ] Re20:教行信証・学習ノート9 2012/03/04 (Sun) 00:31 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
問曰。案十地経。菩薩進趣階級。漸有無量功勲。逕多劫数然後乃得此。云何見阿弥陀仏時。
畢竟与上地諸菩薩身等法等邪。答曰。畢竟者。未言即等也。畢竟不失此等故言等耳。

問曰。若不即等。復何得言菩薩。何登初地。以漸増進。自然当与仏等。何仮言与上地菩薩
等。答曰。菩薩於七地中得大寂滅。上不見諸仏可求。下不見衆生可度。欲捨仏道証於実際。
爾時若不得十方諸仏神力加勧。即便滅度与二乗無異。菩薩若往生安楽見阿弥陀仏。即無此
難。是故須言畢竟平等。
--------------------------------------------------------------------------------
(論註)問うて曰わく、『十地経』を案ずるに、菩薩、進趣階級、ようやく無量の功勲あり。
多くの劫数を径。然して後、いましこれを得。いかんぞ阿弥陀仏を見たてまつる時、畢竟
じて上地のもろもろの菩薩と身等しく法等しきや。答えて曰わく、畢竟は未だすなわち等
しというにはあらずとなり。畢竟じてこの等しきことを失せざるがゆえに、等しと言うな
らくのみ。

(論註)問うて曰わく、もしすなわち等しからずは、また何ぞ菩薩と言うことを得ん。ただ
初地に登れば、もってようやく増進して、自然に当に仏と等しかるべし。何ぞ仮に上地の
菩薩と等しと言うや。答えて曰わく、菩薩七地の中にして大寂滅を得れば、上、諸仏の求
むべきを見ず、下、衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんと欲す。その時に
もし十方諸仏の神力加勧を得ずは、すなわち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に
往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなわちこの難なけん。このゆえに須らく畢竟平等
と言うべし。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.21
ボン
東京の男性
[ 2653 ] Re21:教行信証・学習ノート9 2012/03/04 (Sun) 00:31 △up ▽down
本文について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>問曰。案十地経。菩薩進趣階級。漸有無量功勲。逕多劫数然後乃得此。云何見阿弥陀仏時。
>畢竟与上地諸菩薩身等法等邪。答曰。畢竟者。未言即等也。畢竟不失此等故言等耳。

>問曰。若不即等。復何得言菩薩。何登初地。以漸増進。自然当与仏等。何仮言与上地菩薩
>等。答曰。菩薩於七地中得大寂滅。上不見諸仏可求。下不見衆生可度。欲捨仏道証於実際。
>爾時若不得十方諸仏神力加勧。即便滅度与二乗無異。菩薩若往生安楽見阿弥陀仏。即無此
>難。是故須言畢竟平等。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(論註)問うて曰わく、『十地経』を案ずるに、菩薩、進趣階級、ようやく無量の功勲あり。
>多くの劫数を径。然して後、いましこれを得。いかんぞ阿弥陀仏を見たてまつる時、畢竟
>じて上地のもろもろの菩薩と身等しく法等しきや。答えて曰わく、畢竟は未だすなわち等
>しというにはあらずとなり。畢竟じてこの等しきことを失せざるがゆえに、等しと言うな
>らくのみ。

>(論註)問うて曰わく、もしすなわち等しからずは、また何ぞ菩薩と言うことを得ん。ただ
>初地に登れば、もってようやく増進して、自然に当に仏と等しかるべし。何ぞ仮に上地の
>菩薩と等しと言うや。答えて曰わく、菩薩七地の中にして大寂滅を得れば、上、諸仏の求
>むべきを見ず、下、衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんと欲す。その時に
>もし十方諸仏の神力加勧を得ずは、すなわち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に
>往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなわちこの難なけん。このゆえに須らく畢竟平等
>と言うべし。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (論註)問う。『十地経』によると、菩薩は、階位が進んでいって、だんだんと無量の
  功勲(功徳)が現れてくる。多くの劫数を径る。そうして後、やっとこれを得るのであ
  る。どうして阿弥陀仏を見たてまつる時に、ついには(畢竟じて)、上地(八地以上)の
  もろもろの菩薩と身が等しく、法も等しいとするのか。答える。「畢竟」というのは、
  まだそのまま「等しい」というのではない。最終的に、この等しいことを失わないが
  ために、等しいと言うのであろう。

  WikiArc
    進趣階級
      菩薩の階位がすすむこと。
    上地
      ここでは八地以上の菩薩のこと。


  (論註)問う。もし、等しくないのであれば、またどうして菩薩と言うことができるだ
  ろう。ただ、初地に登れば、だんだんと増進して、自然と仏と等しくなるのにちがい
  ない。それなら、どうして、仮にでも上地の菩薩と等しと言うのだろうか。答える。
  菩薩が七地のなかにあって大寂滅を得れば、上には諸仏を求めるべきものとも思わず、
  下には衆生を救済すべきものとも思わない。仏道を捨てて、実際(涅槃)を悟ろうとす
  る。そのときにもし、十方の諸仏の神力による励ましが得られなかったら、ただちに
  滅度して、二乗(声聞乗と縁覚乗)と異なるところがないであろう。菩薩がもし、安楽
  浄土に往生して阿弥陀仏を見たてまつるならば、このような問題はないであろう。
  だから、畢竟(最後には)平等となると言うべきなのである。

  WikiArc
    菩薩七地・・・
      菩薩の陥る七地沈空の難をいう。
    大寂滅
      一切の法は本来空寂であるという空理。
    実際
      真実の際限という意で涅槃の異名。ここでは身心ともに完全に無に帰する小乗
      の無余涅槃(灰身滅智)のこと。空理に入ったが、かえってその空にとらわ
      れて有の差別相をみることができない。
    神力加勧
      諸仏が不可思議な力を加えて菩薩をすすめはげますこと。
    安楽
      梵語スカーヴァティーの漢訳。阿弥陀仏の浄土のこと。安養界・安楽国・
      安楽浄土・安養浄刹などともいう。

●re.22
ボン
東京の男性
[ 2654 ] Re22:教行信証・学習ノート9 2012/03/09 (Fri) 02:21 △up ▽down
≪六要鈔の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
菩薩於七地中等者。問。大寂滅者。是何義乎。答。実相理地不立一塵。若至此位。其悟窮
極。由此義故云大寂滅。問。一切菩薩皆於七地証寂滅耶。答。若約証理之至極者。皆可然
也。問。於此位中。不見諸仏及以衆生有何故耶。答。以住無生極理之故。不見上求下化相
也。但此義者。約根本智。若是令約後得智辺。可有上求下化相也。問。縦雖穢土修行得道。
於第七地。必蒙諸仏加勧力者。何為往生安楽徳乎。答。穢土修行雖蒙加勧。本居浄土蒙其
加勧。其徳猶以殊勝故也。問。七地已上諸菩薩等。更不可願生極楽耶。答。任常途義。不
許其義。所以然者。七地已還。悲増菩薩為利益他以慈悲心受分段身。是故可有猶願極楽。
八地已上。縦令雖為悲増菩薩。必得変易。故不可願生極楽歟。但加短解。可有猶願生極楽
義。所謂極楽諸仏本家。何仏菩薩而不求生。是故九品往生経云。無量寿仏亦九品浄域三摩
地。即是諸仏境界。如来所居。三世諸仏従此成正覚。已上。普賢文殊等大菩薩。願往生者。
即此故也。集主深意有此義歟。
--------------------------------------------------------------------------------
「菩薩於七地中」等とは、問う、大寂滅とは、これ何の義ぞや。答う、実相の理地には一塵
をも立てず。もしこの位に至るぬれば、その悟窮極す。この義に由るが故に大寂滅という。
問う、一切菩薩はみな七地に於いて寂滅を証するや。答う、もし証理の至極に約せば、皆
然るべきなり。問う、この位の中に於いて、諸仏および衆生を見ざる、何の故かあるや。
答う、無生の極理に住するを以ての故に、上求下化の相を見ざるなり。但しこの義は根本智
に約す。もしこれ後得智の辺に約せしめば、上求下化の相あるべきなり。問う、たとい
穢土修行の得道なりといえども、第七地に於いて、必ず諸仏の加勧力を蒙るとは、何ぞ
往生安楽の徳と為すや。答う、穢土の修行は加勧を蒙るといえども、本、浄土に居してそ
の加勧を蒙るは、その徳は猶以て殊勝なるが故なり。問う、七地已上の諸の菩薩等は、更
に極楽に生ぜんことを願ずべからざるや。答う、常途の義に任せば、その義を許さず。然
る所以は、七地已還は悲増の菩薩にして、他を利益せんが為に慈悲心を以て分段の身を受
く。この故になお極楽を願ずることあるべし。八地已上は、たとい悲増の菩薩たりといえ
ども、必す変易を得る。故に極楽に生ぜんと願ずべからざるか。但し短解を加う。なお極楽
に生ぜんと願ずる義あるべし。いわゆる極楽は諸仏の本家、何れの仏・菩薩か而も生ずる
ことを求めざらん。この故に『九品往生経』に云わく「無量寿仏、また九品浄域の三摩地
は、即ちこれ諸仏の境界、如来の所居なり。三世の諸仏はここより正覚を成ず」已上。
普賢・文殊等の大菩薩の往生を願ずるは、即ちこの故なり。集主の深意、この義あるか。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.23
ボン
東京の男性
[ 2655 ] Re23:教行信証・学習ノート9 2012/03/09 (Fri) 02:21 △up ▽down
六要鈔の注釈について理解したところを記します。

≪六要鈔の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>菩薩於七地中等者。問。大寂滅者。是何義乎。答。実相理地不立一塵。若至此位。其悟窮
>極。由此義故云大寂滅。問。一切菩薩皆於七地証寂滅耶。答。若約証理之至極者。皆可然
>也。問。於此位中。不見諸仏及以衆生有何故耶。答。以住無生極理之故。不見上求下化相
>也。但此義者。約根本智。若是令約後得智辺。可有上求下化相也。問。縦雖穢土修行得道。
>於第七地。必蒙諸仏加勧力者。何為往生安楽徳乎。答。穢土修行雖蒙加勧。本居浄土蒙其
>加勧。其徳猶以殊勝故也。問。七地已上諸菩薩等。更不可願生極楽耶。答。任常途義。不
>許其義。所以然者。七地已還。悲増菩薩為利益他以慈悲心受分段身。是故可有猶願極楽。
>八地已上。縦令雖為悲増菩薩。必得変易。故不可願生極楽歟。但加短解。可有猶願生極楽
>義。所謂極楽諸仏本家。何仏菩薩而不求生。是故九品往生経云。無量寿仏亦九品浄域三摩
>地。即是諸仏境界。如来所居。三世諸仏従此成正覚。已上。普賢文殊等大菩薩。願往生者。
>即此故也。集主深意有此義歟。
>--------------------------------------------------------------------------------
>「菩薩於七地中」等とは、問う、大寂滅とは、これ何の義ぞや。答う、実相の理地には一塵
>をも立てず。もしこの位に至るぬれば、その悟窮極す。この義に由るが故に大寂滅という。
>問う、一切菩薩はみな七地に於いて寂滅を証するや。答う、もし証理の至極に約せば、皆
>然るべきなり。問う、この位の中に於いて、諸仏および衆生を見ざる、何の故かあるや。
>答う、無生の極理に住するを以ての故に、上求下化の相を見ざるなり。但しこの義は根本智
>に約す。もしこれ後得智の辺に約せしめば、上求下化の相あるべきなり。問う、たとい
>穢土修行の得道なりといえども、第七地に於いて、必ず諸仏の加勧力を蒙るとは、何ぞ
>往生安楽の徳と為すや。答う、穢土の修行は加勧を蒙るといえども、本、浄土に居してそ
>の加勧を蒙るは、その徳は猶以て殊勝なるが故なり。問う、七地已上の諸の菩薩等は、更
>に極楽に生ぜんことを願ずべからざるや。答う、常途の義に任せば、その義を許さず。然
>る所以は、七地已還は悲増の菩薩にして、他を利益せんが為に慈悲心を以て分段の身を受
>く。この故になお極楽を願ずることあるべし。八地已上は、たとい悲増の菩薩たりといえ
>ども、必す変易を得る。故に極楽に生ぜんと願ずべからざるか。但し短解を加う。なお極楽
>に生ぜんと願ずる義あるべし。いわゆる極楽は諸仏の本家、何れの仏・菩薩か而も生ずる
>ことを求めざらん。この故に『九品往生経』に云わく「無量寿仏、また九品浄域の三摩地
>は、即ちこれ諸仏の境界、如来の所居なり。三世の諸仏はここより正覚を成ず」已上。
>普賢・文殊等の大菩薩の往生を願ずるは、即ちこの故なり。集主の深意、この義あるか。
>--------------------------------------------------------------------------------

  「菩薩於七地中・・・」等について問う。大寂滅とはどういう意味か。答える。実相
  の理(ことわり)の地には一つの塵すら立たない。もしこの位にいたれば、その悟りは
  極めつくされる。この義(考え方)によるために大寂滅という。問う。一切の菩薩は、
  みな七地において寂滅を証するのであろうか。答える。仮に証理の至極についていえ
  ば、すべてそうである。

  日本国語大辞典
    実相
      仏語。一切のもののありのままの真実のすがた。生滅・無常を離れた、万物
      の真相。森羅万象、あらゆる現象の仮のすがたの奥にある真実の相。真如。
      本体。一如。
    実際理地
      仏語。真実究竟の田地の意で、一切の差別を超えた平等一如の本体のこと。
    証理
      仏語。普遍的な真実の理法をはっきりとさとること。


  問う。この位のなかで、諸仏および衆生を見ないというのは、どういうことなのだろ
  うか。答える。無生の極理に住するので、上求下化の相(すがた)を見せないのである。
  ただし、この義(考え方)は根本智についてのものである。もしこれを後得智について
  いえば、上求下化の相(すがた)はあるにちがいない。

  WikiArc
    上求下化
      上求菩提下化衆生の略。
    上求菩提・下化衆生
      「上に菩提を求め、下に衆生を化す」
    二智
      諸法の空理をさとる根本無分別智(実智)と、差別の事相を知る後得智(権智)
      のこと。
    実智
      真実の智慧。ものごとを正しくとらえ、真理を見きわめる認識力。

  日本国語大辞典
    後得智
      仏語。真如平等を体得した根本智の後に得る、現象界の差別相を正しく認識
      する智慧。


  問う、たとえ穢土での修行による得道であるにもかかわらず、第七地において、必ず
  諸仏の加勧力を蒙るということについて、どうして安楽浄土に往生したことによる徳
  だとするのであろうか。答える。穢土の修行で加勧を蒙るとはいえ、本当は浄土にい
  てその加勧を蒙るというのは、その徳がやはり特に優れたものであるからである。

  WikiArc
    得道
      さとりの智慧を得ること。

  日本国語大辞典
    得道
      仏道を修行して悟りを開くこと。悟道。


  問う。七地已上のもろもろの菩薩たちは、更に極楽に生まれたいと願うべきではない
  ということか。答える。普通の考え方では、その義(考え方)を許さない。なぜなら、
  七地までは悲増の菩薩であって、他を利益するために慈悲心をもって分段生死の身を
  受ける。だから、さらに極楽を願うことはあるにちがいない。しかし、八地以上は、
  たとえ悲増の菩薩であっても、必す変わるものである。だから、極楽に生まれたいと
  願うべきではないであろう。ただし、そこに短い解釈を加えれば、それでも極楽に生
  まれたいと願う意義もあるであろう。いわゆる極楽は諸仏の本家であり、どんな仏・
  菩薩であっても生ずることを求めないことがあろうか。だから『九品往生経』にこう
  述べる。「無量寿仏、また九品浄域(極楽浄土)の三摩地は、諸仏の境界であり、如来
  の居どころである。三世の諸仏は、ここから正覚をおこすのである」普賢・文殊等の
  大菩薩が往生を願うのは、このためである。集主(曇鸞)の深意には、この義(考え方)
  があるのであろう。

  http://www.geocities.jp/p3ejp/musou.html
    菩薩に二種類有る。一つは、先に衆生を導き尽くして後に、自分の仏道を成就し
    ようという悲増。もう一つは、まず自分の仏道を成就してから全ての衆生を導こ
    うという智増。

  http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/f1968fa852bd986d3cd8d08cdaf0dd07
    「悲増」というのは、穢土にいながら衆生を渡し、「智増」というのは、浄土に
    生まれて無生忍を得て、穢土に来て衆生に利益する者である。

  日本国語大辞典
    分段
      「ぶんだんしょうじ(分段生死)」または「ぶんだんしん(分段身)」の略。
    分段生死
      仏語。衆生が迷いの世界で受ける生死で、与えられた身体の大小や寿命の
      長短をもって、三界・六道に輪廻すること。分段。生死。
    分段身
      仏語。分段生死の身。凡夫の身。

  WikiArc
    三摩地
      梵語サマーディの音写。 定、等持と漢訳する。 心を生仏一如の境地に専注す
      ること。

●re.24
ボン
東京の男性
[ 2656 ] Re24:教行信証・学習ノート9 2012/03/15 (Thu) 02:44 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
復次無量寿経中。阿弥陀如来本願言。設我得仏他方仏土諸菩薩衆。来生我国。究竟必至一
生補処。除其本願自在所化。為衆生故。被弘誓鎧。積累徳本。度脱一切。遊諸仏国修菩薩
行。供養十方諸仏如来。開化恒砂無量衆生。使立無上正真之道。超出常倫。諸地之行現前。
修習普賢之徳。若不爾者不取正覚。按此経推彼国菩薩。或可不従一地至一地。言十地階次
者。是釈迦如来於閻浮提一応化道耳。他方浄土何必如此。五種不思議中。仏法最不可思議。
若言菩薩必従一地至一地無超越之理。未敢詳也。譬如有樹名曰好堅。是樹地生百歳。乃具
一日長高百丈。日日如此。計百歳之長。豈類修松邪。見松生長。日不過寸。聞彼好堅。何
能不疑即日。有人聞釈迦如来証羅漢於一聴。制無生於終朝。謂是接誘之言。非称実之説。
聞此論事亦当不信。夫非常之言不入常人之耳。謂之不然。亦可其宜也。
--------------------------------------------------------------------------------
(論註)また次に『無量寿経』の中に、阿弥陀如来の本願に言わく、設い我仏を得たらんに、
他方仏土のもろもろの菩薩衆、我が国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らん。その
本願の自在の所化、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱せ
しめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を
開化して、無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の
徳を修習せん。もししからずは正覚を取らじと。この経を按じて、かの国の菩薩を推する
に、あるいは一地より一地に至らざるべし。十地の階次というは、これ釈迦如来、閻浮提
にして、一の応化道ならくのみ。他方の浄土は、何ぞ必ずしもかくのごとくならん。五種
の不思議の中に、仏法最も不可思議なり。もし菩薩必ず一地より一地に至りて、超越の理
なしと言わば、未だ敢えて詳らかならざるなり。譬えば樹あり、名づけて好堅と曰う。こ
の樹、地より生じて百歳ならん。いまし具に一日に長高なること百丈なるがごとし。日日
にかくのごとし。百歳の長を計るに、あに修松に類せんや。松の生長するを見るに、日に
寸を過ぎず。かの好堅を聞きて、何ぞよく即日を疑わざらん。人ありて、釈迦如来、羅漢
を一聴に証し、無生を終朝に制したまえるを聞きて、これ接誘〈とる、こしらう〉の言に
して、称実の説にあらずと謂〈おも〉えり。この論事を聞きて、また当に信ぜざるべし。
それ非常の言は常人の耳に入らず。これをしからずと謂えり。またそれ宜しかるべきなり。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.25
ボン
東京の男性
[ 2657 ] Re25:教行信証・学習ノート9 2012/03/15 (Thu) 02:44 △up ▽down
本文について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>復次無量寿経中。阿弥陀如来本願言。設我得仏他方仏土諸菩薩衆。来生我国。究竟必至一
>生補処。除其本願自在所化。為衆生故。被弘誓鎧。積累徳本。度脱一切。遊諸仏国修菩薩
>行。供養十方諸仏如来。開化恒砂無量衆生。使立無上正真之道。超出常倫。諸地之行現前。
>修習普賢之徳。若不爾者不取正覚。按此経推彼国菩薩。或可不従一地至一地。言十地階次
>者。是釈迦如来於閻浮提一応化道耳。他方浄土何必如此。五種不思議中。仏法最不可思議。
>若言菩薩必従一地至一地無超越之理。未敢詳也。譬如有樹名曰好堅。是樹地生百歳。乃具
>一日長高百丈。日日如此。計百歳之長。豈類修松邪。見松生長。日不過寸。聞彼好堅。何
>能不疑即日。有人聞釈迦如来証羅漢於一聴。制無生於終朝。謂是接誘之言。非称実之説。
>聞此論事亦当不信。夫非常之言不入常人之耳。謂之不然。亦可其宜也。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(論註)また次に『無量寿経』の中に、阿弥陀如来の本願に言わく、設い我仏を得たらんに、
>他方仏土のもろもろの菩薩衆、我が国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らん。その
>本願の自在の所化、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱せ
>しめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を
>開化して、無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の
>徳を修習せん。もししからずは正覚を取らじと。この経を按じて、かの国の菩薩を推する
>に、あるいは一地より一地に至らざるべし。十地の階次というは、これ釈迦如来、閻浮提
>にして、一の応化道ならくのみ。他方の浄土は、何ぞ必ずしもかくのごとくならん。五種
>の不思議の中に、仏法最も不可思議なり。もし菩薩必ず一地より一地に至りて、超越の理
>なしと言わば、未だ敢えて詳らかならざるなり。譬えば樹あり、名づけて好堅と曰う。こ
>の樹、地より生じて百歳ならん。いまし具に一日に長高なること百丈なるがごとし。日日
>にかくのごとし。百歳の長を計るに、あに修松に類せんや。松の生長するを見るに、日に
>寸を過ぎず。かの好堅を聞きて、何ぞよく即日を疑わざらん。人ありて、釈迦如来、羅漢
>を一聴に証し、無生を終朝に制したまえるを聞きて、これ接誘〈とる、こしらう〉の言に
>して、称実の説にあらずと謂〈おも〉えり。この論事を聞きて、また当に信ぜざるべし。
>それ非常の言は常人の耳に入らず。これをしからずと謂えり。またそれ宜しかるべきなり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (論註)また次に『無量寿経』のなかで、阿弥陀如来の本願にこう述べる。仮に私が仏
  になろうとするときに、他方の仏土のもろもろの菩薩衆が、我が国に生まれてきて、
  最後には必ず一生補処に至るであろう。ただし、その本願により自在に教化しようと
  して、衆生のために弘誓の鎧を着て、徳本を積み重ね、一切を度脱させ、諸仏の国に
  遊んで、菩薩の行を修め、十方の諸仏や如来を供養し、数限りないの衆生を開化して、
  この上ない仏のさとりを開こうとする場合を除く。そして、通常を超え出して、諸地
  の行を現前させ、普賢菩薩の徳を修習するであろう。もしそうならなかったら、私は
  正覚を取るつもりはない。

  WikiArc
    一生補処
      略して補処ともいう。次の生涯には仏と成ることができる位。一生を過ぎれ
      ば仏の位(仏処)を補うべき地位の意。菩薩の最高位。
    所化
      仏の教化の対象となる一切の衆生。教化されるところの法。
    弘誓の鎧
      衆生済度の誓願が堅固なことを鎧に喩える。
    無上正真の道
      阿耨多羅三藐三菩提のこと。この上ない仏のさとり。
    好堅
      想像された樹で、実在のものでない。


  この経を考察して、かの国の菩薩を推察してみると、もしかしたら、それは一地から
  一地にいたるようなものではないのであろう。十地の階次というのは、釈迦如来が、
  この人間界において示した教化の仕方のひとつにすぎない。他方の浄土は、どうして
  必ずしもこのようなものといえるだろう。五種の不思議のなかでも、仏法は最も不可
  思議なものである。もし菩薩が必ず一地から一地にいたって、(階次を)飛び越すこと
  はないと言うならば、いまだにいっこうに解っていないということなのである。たと
  えば、好堅という樹がある。この樹が地面から生じて百歳になったときに、いまや実
  に一日に百丈も伸びるようなものである。日々そうなのである。その百歳の長さを計
  るのに、どうして松の木で類推することができようか。松が生長するのを見れば、日
  に1寸に過ぎない。その好堅のことを聞いて、どうしてそれが一日についてのことで
  あるということを疑わないでおられようか。釈迦如来が阿羅漢にたった一回聴かせる
  だけで証果を与え、朝飯前のうちに無生法忍にいたらせることを聞いて、これは方便
  であって、実際の話ではないと思う人がいる。そういう人は、このような話を聞いて
  も、また信じないのであろう。常識を超えた言葉は常人の耳には入らない。これを、
  そんなことはないと言うのである。しかし、それはまた、それで良いのであろう。

  WikiArc
    閻浮提
      梵語ジャンブー・ドヴィーパの音写。略して閻浮ともいう。人間の住むこの
      世界のこと。穢洲・好金土などと漢訳する。古代インドの世界観によると、
      世界は、須弥山を中心に四つの洲からできているとし、その南方にあたる
      大洲が、私達人間の住んでいるところとする。そのような意味で南閻浮提と
      もいう。
    応化道
      説法の対象に適応した教え方。
    好堅
      想像された樹で、実在のものでない。
      一日に百丈ずつ成長するという樹の名。『大智度論』巻十に出る。
    修松
      長い松の木。
    羅漢を一聴に証し
      一度の説法でたちまち阿羅漢の果を得させたことをいう。
      『大智度論』巻八十八に出る。
    無生を・・・
      終朝は夜明けから朝食までの時間のこと。朝食前のひとときに無生法忍に
      至らせる。
    接誘の言
      誘引の言葉、すなわち方便説。
    称実の説
      実際の話。
    非常の言
      つねなみを離れた言葉。普通でない言葉。

●re.26
ボン
東京の男性
[ 2665 ] Re26:教行信証・学習ノート9 2012/03/27 (Tue) 23:23 △up ▽down
≪六要鈔の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
復次等者。問。引二十二願。其要如何。答。初地已上七地已還。願生極楽可有二要。謂一
為免於第七地証実際難。二為諸位速疾超越。其中為顕超越之益。引当願也。問。願意如何。
答。諸仏土中。或有悉経十地階位。自一至二。乃至自九至十之土。或有超昇直登等覚。速
至補処。如来因中。見彼諸土。選択之時愍諸菩薩十地修行経歴劫数。発起超越諸位速至補
処之願。但所除者。有利他願暫施自在利生而已。只任意楽。更非願力之有偏也。言言十地
階次等者。問。如案起信論大意者。為怯弱機。示超証義。為懈慢機示歴劫義。説此義趣。
正決判云。無有超過法故。以七地菩薩皆逕三阿僧祇劫。已上。如此説者。超証方便。経劫
実義。而今釈意。忽以矛盾。如何。答。起信論意。所判実爾。常途性相又以是同。但如性
宗者。多許超証。各別宗旨不可異論。何況今釈所判。不亘穢土超証。十地階次只是釈迦一
代化道。対之専述浄土超証他力願意。於超証義許与不許。不及成諍。非相違歟。五種不思
議中等者。註当章中。上所挙之国土体相之下釈云。諸経統言。有五種不可思議。一者衆生
多少不可思議。二者業力不可思議。三者龍力不可思議。四者禅定力不可思議。五者仏法力
不可思議。已上。譬如等者。大論十云。譬如有樹名好堅。是樹在地中百歳。枝葉具足一日
出生高百丈。是樹出已。欲求大樹以蔭其身。是時林中有神語好堅言。世中無大汝者。諸樹
皆当在汝蔭中。仏亦如是。無量阿僧祗劫。在菩薩地中生。一日於菩提樹下金剛座処。実知
一切諸法相。得成仏道。已上。天台云。好堅処地芽已百囲。已上。百囲百歳彼此相違。有
異説歟。不須和会。又或説云。此樹梵言曰諾瞿陀。亦梵言云尼拘律陀。此云無節。即好堅
也。或又此樹翻為楊柳云云。此譬喩意。以松生長一日一寸比自一地至其一地。以好堅樹一
日百丈。況彼浄土超証義也。有人等者。今引頓悟即証之例。助彼超越速疾益也。問。上指
十地階次施設。言為釈尊一代化道。今挙一聴終朝之証。為釈迦仏化道之益。何相違耶。答。
漸頓空有半満権実随他随自。皆在釈迦一仏設化。但言閻浮一化道者。顕彼説中十地階次為
其一途随宜之説。彼此随機各蒙教益。皆不相違。
--------------------------------------------------------------------------------
「復次」等とは、問う、二十二願を引くは、その要、如何。答う、初地已上、七地已還、
極楽に生ぜんと願ずる二の要あるべし。謂わく、一には第七地に於いて実際を証する難を
免ぜられんが為なり。二には諸位速疾超越の為、その中に超越の益を顕わさんが為に、当願
を引くなり。問う、願の意は如何。答う、諸仏の土の中に、或いは悉く十地の階位を経て、
一より二に至り、乃至、九より十に至る土あり。或いは超昇して直ちに等覚に登り、速に
補処に至るあり。如来の因中に、彼の諸土を見て、選択の時、諸の菩薩十地の修行の劫数
を経歴することを愍みて、諸位を超越して速に補処に至る願を発起したもう。但し除く所
の者は、利他の願ありて暫く自在の利生を施すのみ。ただ意楽に任ず。更に願力の偏ある
にあらざるなり。「言十地階次」等というは、問う、『起信論』の大意を案ずる如きは、
怯弱の機の為に超証の義を示し、懈慢の機の為に歴劫の義を示す。この義趣を説き、正し
く決判して云わく「超過の法あることなきが故に、七地の菩薩はみな三阿僧祇劫を逕るを
以てなり」已上。この説の如きは、超証は方便、経劫は実義なり。而に今の釈の意は、忽
に以て矛盾す、如何。答う、『起信論』の意は、判ずる所は実に爾り。常途の性相は、ま
た以てこれ同じ。ただ性宗の如きは、多く超証を許す。各別の宗旨、異論すべからず。何
に況んや今の釈の判ずる所は穢土の超証に亘らず。十地の階次はただこれ釈迦一代の化道
なり。これに対して、専ら浄土の超証他力の願意を述ぶ。超証の義に於いて、許と許さざ
ると、諍いを成すに及ばず。相違にあらざるか。「五種不思議中」等とは、註〈経〉の当章
の中に、上に挙ぐる所の国土体相の下の釈に云わく「諸経に統べて言うに、五種の不可思議
あり。一には衆生多少不可思議、二には業力不可思議、三には龍力不可思議、四には禅定力
不可思議、五には仏法力不可思議なり」已上。「譬如」等とは、『大論』の十に云わく
「譬えば樹ありて好堅と名づく。この樹は地中に在ること百歳。枝葉具足す。一日に出生
する高さ百丈なるが如し。この樹は出で已りて、大樹を求めて以てその身を蔭さんと欲す。
この時に林の中に神ありて好堅に語りて言わく、世の中に汝より大なる者なし。諸樹みな
当に汝が蔭の中に在るべし。仏もまたかくの如し。無量阿僧祗劫に菩薩地の中に在りて生
ず。一日菩提樹下に於いて金剛座に処す。実に一切の諸法の相を知りて、仏道を成ずるこ
とを得」已上。天台の云わく「好堅は地に処して芽は已に百囲」已上。百囲と百歳とは
彼此相違す。異説あるか。須く和会すべからず。また或る説に云わく「この樹、梵言には
諾瞿陀という。また梵言に尼拘律陀という。此には無節という。即ち好堅なり。或いはま
たこの樹を翻じて楊柳と為す」云云。この譬喩の意は、松の生長すること一日一寸なるを
以て、一地よりその一地に至るに比す。好堅樹の一日に百丈なるを以て、彼の浄土の超証
の義に況するなり。「有人」等とは、今、頓悟即証の例を引きて、彼の超越速疾の益を助
くるなり。問う、上には十地階次の施設を指して、釈尊一代の化道の為という。今は一聴
終朝の証を挙げて釈迦仏化道の益と為す。何ぞ相違せるや。答う、漸頓・空有・半満・権実
・随他随自、みな釈迦一仏の設化に在り。ただし閻浮の一の化道というは、彼の説の中の
十地の階次はその一途随宜の説たることを顕わす。彼此、機に随いて、おのおの教益を蒙
る。みな相違せず。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.27
ボン
東京の男性
[ 2666 ] Re27:教行信証・学習ノート9 2012/03/27 (Tue) 23:24 △up ▽down
≪六要鈔の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>復次等者。問。引二十二願。其要如何。答。初地已上七地已還。願生極楽可有二要。謂一
>為免於第七地証実際難。二為諸位速疾超越。其中為顕超越之益。引当願也。問。願意如何。
>答。諸仏土中。或有悉経十地階位。自一至二。乃至自九至十之土。或有超昇直登等覚。速
>至補処。如来因中。見彼諸土。選択之時愍諸菩薩十地修行経歴劫数。発起超越諸位速至補
>処之願。但所除者。有利他願暫施自在利生而已。只任意楽。更非願力之有偏也。言言十地
>階次等者。問。如案起信論大意者。為怯弱機。示超証義。為懈慢機示歴劫義。説此義趣。
>正決判云。無有超過法故。以七地菩薩皆逕三阿僧祇劫。已上。如此説者。超証方便。経劫
>実義。而今釈意。忽以矛盾。如何。答。起信論意。所判実爾。常途性相又以是同。但如性
>宗者。多許超証。各別宗旨不可異論。何況今釈所判。不亘穢土超証。十地階次只是釈迦一
>代化道。対之専述浄土超証他力願意。於超証義許与不許。不及成諍。非相違歟。五種不思
>議中等者。註当章中。上所挙之国土体相之下釈云。諸経統言。有五種不可思議。一者衆生
>多少不可思議。二者業力不可思議。三者龍力不可思議。四者禅定力不可思議。五者仏法力
>不可思議。已上。譬如等者。大論十云。譬如有樹名好堅。是樹在地中百歳。枝葉具足一日
>出生高百丈。是樹出已。欲求大樹以蔭其身。是時林中有神語好堅言。世中無大汝者。諸樹
>皆当在汝蔭中。仏亦如是。無量阿僧祗劫。在菩薩地中生。一日於菩提樹下金剛座処。実知
>一切諸法相。得成仏道。已上。天台云。好堅処地芽已百囲。已上。百囲百歳彼此相違。有
>異説歟。不須和会。又或説云。此樹梵言曰諾瞿陀。亦梵言云尼拘律陀。此云無節。即好堅
>也。或又此樹翻為楊柳云云。此譬喩意。以松生長一日一寸比自一地至其一地。以好堅樹一
>日百丈。況彼浄土超証義也。有人等者。今引頓悟即証之例。助彼超越速疾益也。問。上指
>十地階次施設。言為釈尊一代化道。今挙一聴終朝之証。為釈迦仏化道之益。何相違耶。答。
>漸頓空有半満権実随他随自。皆在釈迦一仏設化。但言閻浮一化道者。顕彼説中十地階次為
>其一途随宜之説。彼此随機各蒙教益。皆不相違。
>--------------------------------------------------------------------------------
>「復次」等とは、問う、二十二願を引くは、その要、如何。答う、初地已上、七地已還、
>極楽に生ぜんと願ずる二の要あるべし。謂わく、一には第七地に於いて実際を証する難を
>免ぜられんが為なり。二には諸位速疾超越の為、その中に超越の益を顕わさんが為に、当願
>を引くなり。問う、願の意は如何。答う、諸仏の土の中に、或いは悉く十地の階位を経て、
>一より二に至り、乃至、九より十に至る土あり。或いは超昇して直ちに等覚に登り、速に
>補処に至るあり。如来の因中に、彼の諸土を見て、選択の時、諸の菩薩十地の修行の劫数
>を経歴することを愍みて、諸位を超越して速に補処に至る願を発起したもう。但し除く所
>の者は、利他の願ありて暫く自在の利生を施すのみ。ただ意楽に任ず。更に願力の偏ある
>にあらざるなり。「言十地階次」等というは、問う、『起信論』の大意を案ずる如きは、
>怯弱の機の為に超証の義を示し、懈慢の機の為に歴劫の義を示す。この義趣を説き、正し
>く決判して云わく「超過の法あることなきが故に、七地の菩薩はみな三阿僧祇劫を逕るを
>以てなり」已上。この説の如きは、超証は方便、経劫は実義なり。而に今の釈の意は、忽
>に以て矛盾す、如何。答う、『起信論』の意は、判ずる所は実に爾り。常途の性相は、ま
>た以てこれ同じ。ただ性宗の如きは、多く超証を許す。各別の宗旨、異論すべからず。何
>に況んや今の釈の判ずる所は穢土の超証に亘らず。十地の階次はただこれ釈迦一代の化道
>なり。これに対して、専ら浄土の超証他力の願意を述ぶ。超証の義に於いて、許と許さざ
>ると、諍いを成すに及ばず。相違にあらざるか。「五種不思議中」等とは、註〈経〉の当章
>の中に、上に挙ぐる所の国土体相の下の釈に云わく「諸経に統べて言うに、五種の不可思議
>あり。一には衆生多少不可思議、二には業力不可思議、三には龍力不可思議、四には禅定力
>不可思議、五には仏法力不可思議なり」已上。「譬如」等とは、『大論』の十に云わく
>「譬えば樹ありて好堅と名づく。この樹は地中に在ること百歳。枝葉具足す。一日に出生
>する高さ百丈なるが如し。この樹は出で已りて、大樹を求めて以てその身を蔭さんと欲す。
>この時に林の中に神ありて好堅に語りて言わく、世の中に汝より大なる者なし。諸樹みな
>当に汝が蔭の中に在るべし。仏もまたかくの如し。無量阿僧祗劫に菩薩地の中に在りて生
>ず。一日菩提樹下に於いて金剛座に処す。実に一切の諸法の相を知りて、仏道を成ずるこ
>とを得」已上。天台の云わく「好堅は地に処して芽は已に百囲」已上。百囲と百歳とは
>彼此相違す。異説あるか。須く和会すべからず。また或る説に云わく「この樹、梵言には
>諾瞿陀という。また梵言に尼拘律陀という。此には無節という。即ち好堅なり。或いはま
>たこの樹を翻じて楊柳と為す」云云。この譬喩の意は、松の生長すること一日一寸なるを
>以て、一地よりその一地に至るに比す。好堅樹の一日に百丈なるを以て、彼の浄土の超証
>の義に況するなり。「有人」等とは、今、頓悟即証の例を引きて、彼の超越速疾の益を助
>くるなり。問う、上には十地階次の施設を指して、釈尊一代の化道の為という。今は一聴
>終朝の証を挙げて釈迦仏化道の益と為す。何ぞ相違せるや。答う、漸頓・空有・半満・権実
>・随他随自、みな釈迦一仏の設化に在り。ただし閻浮の一の化道というは、彼の説の中の
>十地の階次はその一途随宜の説たることを顕わす。彼此、機に随いて、おのおの教益を蒙
>る。みな相違せず。
>--------------------------------------------------------------------------------

  「復次・・・」等について問う。二十二願を引用する要点は何か。答える。初地から
  七地までのあいだで、極楽に生まれたいと願うことについて、二つの要点があるよう
  だ。いわく、一つには、第七地において実際(無余涅槃)を証する難を免れようとする
  ためである。二つには、もろもろの位を速やかに超越するため、そのなかで超越の益
  を顕わそうとするために、当願を引用するのである。

  WikiArc
    実際
      真実の際限という意で涅槃の異名。ここでは身心ともに完全に無に帰する
      小乗の無余涅槃(灰身滅智)のこと。空理に入ったが、かえってその空に
      とらわれて有の差別相をみることができない。
    無余涅槃
      煩悩を断じ尽しただけでなく、肉体もまた無に帰したさとりの状態のこと。
      煩悩を断ち切ってなお肉体を残している有余涅槃に対する語。


  問う。その願の意(こころ)はなにか。答える。諸仏の国土のなかに、あるいはことご
  とく十地の階位を経て、一位から二位にいたり、ないし、九位から十位にいたるよう
  な国土がある。あるいは位を飛び越えてただちに等覚に登り、速やかに一生補処にい
  たるようなところもある。如来が法蔵菩薩であったときに、これらのもろもろの国土
  を見て、それらのなかから(自ら造ろうとする国土のすがたを)選び取ったとき、もろ
  もろの菩薩が十地の修行の劫数を経歴することを哀れんで、すべての位を飛び越して
  速やかに一生補処にいたるように願を起こされたのである。ただし、そこから除かれ
  る者は、利他の願があるために、しばらくのあいだ思いのままに衆生を利益している
  だけのことである。ただそのもの自身の望みに任せているのである。それは、まった
  く願力の偏(かたより)などというものではない。

  WikiArc
    因中
      因位の時。法蔵菩薩であったとき。
    利生
      衆生を利益すること。
    意楽(いぎょう)
      望み。

  日本国語大辞典
    意楽(いぎょう)
      仏語。何かをしようと心に欲すること。念願。心がまえ。また、心を用いて、
      さまざまに工夫すること。また、その心。

(つづく)

●re.28
ボン
東京の男性
[ 2667 ] Re28:教行信証・学習ノート9 2012/03/27 (Tue) 23:25 △up ▽down
(つづき)

  「言十地階次・・・」等について問う。『起信論』の大意を考えてみると、臆病で気
  の弱い機のために超証(修行の階程をとびこえて仏の悟りを開く)という考え方を示し、
  慢心してなまけている機のために経劫(長い間にわって修行する)という考え方を示し
  ている。この本来の意義を説き、正しく判断してこう述べる。「位を超過する法がな
  いために、七地の菩薩はみな、数え切れない長い歳月を経過するのである。」この説
  によれば、超証(位を飛び越して悟りに至ること)は方便であり、経劫(長い間にわっ
  て修行すること)は実義である。しかし、今の釈(起信論)の意(こころ)は、まったくも
  って、これと矛盾するのだが、これはどういうことだろうか。答える。『起信論』の
  意(こころ)については、その判ずるところは、まったくそのとおりである。普通の
  性相(事物)もまた、これと同じである。ただし、性宗などは、多くが超証を是として
  いる。それぞれ別々の宗旨であるから、それに異論を差し挟んではならない。まして
  や、今の釈(起信論)の判ずるところは穢土の超証にまでおよんだ話ではない。十地の
  階次は、ただ釈迦が一生のあいだに説いた化道の一つである。これに対して、ここで
  はもっぱら、浄土での他力による超証の願意を述べたものである。超証の義(考え方)
  について、是か非かを争うにはおよばない。それは相違ということではないであろう。

  日本国語大辞典
    怯弱
      物事をこわがって気の弱いこと。また、そのさま。おくびょう。また、
      物事に積極性がないこと。きょじゃく。
    超証
      仏語。一足とびに仏の境地に達すること。修行の階程をとびこえて仏の悟り
      を開くこと。
    懈慢
      慢心してなまけ、熱中しないこと。怠慢。
    歴劫
      仏語。多くの劫を経ること。また、その長い間にわたる修行。
    義趣
      (「義理」の「帰趣」の意)物事の根本的な意味。そのものの本来の意義。
      教えなどの真意。
    三阿僧祇劫
      仏語。菩薩が発心してから悟りをひらくまでの五十位の修行に要する期間。
      菩薩の階位、五十位を三期に分けて、十信以下の四十位が第一阿僧祇劫、
      十地の初地より第七地までが第二阿僧祇劫、第八地より第十地までが
      第三阿僧祇劫であるという。三阿僧祇。三祇。
    性相
      仏語。「性」は万物における不変絶対の体性、または本源の道理。
      「相」は変化する差別的相状の意。
      万物の本体と現象。転じて、事物。または真如と万法。
    性宗
      宇宙や人生における不変平等の絶対の本源や道理の探求を中心とする宗旨。
      たとえば、三論宗や華厳宗など。

  WikiArc
    怯弱
      恐れてもじもじすること。憶病な心。ひるみ、ためらう心。


  「五種不思議中・・・」等について、『論註』の当章のなかで、上に挙げる国土体相
  の下の釈にこう述べる。「諸経をまとめて言えば、五種の不可思議がある。一つには
  衆生多少不可思議、二つには業力不可思議、三つには龍力不可思議、四つには禅定力
  不可思議、五つには仏法力不可思議である。」

  WikiArc
    五種の不思議
      1.衆生多少不可思議。衆生の数が無量無辺で尽きないことの不可思議。
      2.業力不可思議。各人の業の力により受ける果報が千差万別である不可思議。
      3.竜力不可思議。竜神が風雨をおこす不可思議。
      4.禅定力不可思議。禅定の力により神通をあらわす不可思議。
      5.仏法力不可思議。仏法の力により衆生にさとりをひらかせる不可思議。


  「譬如・・・」等について、『大論』の十にこう述べる。「たとえば好堅という樹が
  あるとする。この樹は、百年のあいだ地中に存在する。それに枝葉が備わると、一日
  に成長する高さが百丈になるようなものである。この樹は、地表に出てくると、大樹
  を求めてその身を隠そうとする。この時に、林のなかに神がいて、好堅にこう語る。
  「世の中にお前より大きい者はない。すべての樹は、みなまさに、お前の蔭になって
  いるにちがいない。仏もまた、そのようなものである。数え切れない長いあいだ菩薩地
  のなかにあって、そして仏となる。一日のあいだ菩提樹の下で金剛の座に身を置くと、
  実に一切の諸法の相(すがた)を知って、仏道をなしとげるのである。」天台ではこう
  述べる。「好堅は、地に身を置いて、芽はすでに百囲(百歳)となる。」百囲と百歳と
  は、あちらとこちらで違いがある。異説があるのであろうか。しかし、それを一つに
  まとめるべきではない。また、ある説にこう述べる。「この樹は梵言で諾瞿陀という。
  また梵言に尼拘律陀という。ここでは無節という。すなわち好堅のことである。ある
  いはまたこの樹を翻じて、楊柳とする。」云々。この例えの意(こころ)は、松の生長
  が一日に一寸であることから、それを一地から一地に至ることにたとえる。好堅の樹
  が一日に百丈であることから、それは、彼の浄土の超証(位を飛び越して悟りに至る
  こと)の義(考え方)にたとえるのである。

  WikiArc
    百囲
      囲は長さの単位。 一囲は両手を広げてひと囲みの長さ。
      なお、異本には 「囲」 の字を 「歳」 とするものもある。

  日本国語大辞典
    和会
      仏語。調整し、一つにまとめること。


  「有人・・・」等については、ここで、頓悟即証(速やかに悟ること)の例を引いて、
  その超越速疾(素早く飛び越えること)の益の説明を助けている。問う。上には十地の
  階次を設けること指して、釈尊一代の化道によるものだという。ここでは一聴終朝の
  証(一聴して朝飯前に悟る)を挙げて、釈迦仏の化道の利益によるものだという。どう
  してこのように相違するのか。答える。漸と頓・空と有・半と満・権と実・随他と随自
  は、みな釈迦一仏の設けた化道である。ただし、この世の一つの化道だというのは、
  彼の説のなかで、十地の階次はその一つの方法であって、受け入れる側の素質や能力
  に合わせた説であるということを表すものである。それもこれも、機に随って、それ
  ぞれが教えの利益を蒙るものである。どれもみな、相違するものではない。

  日本国語大辞典
    一途
      一つの方法。特に仏語としては、悟りを求める一つの方法。
    随宜
      仏語。衆生の仏法を受け入れる素質能力に随うこと。また、その時々の都合、
      状況に合わせてよいようにとりはからうこと。勝手にとりはからうこと。

●re.29
ボン
東京の男性
[ 2671 ] Re29:教行信証・学習ノート9 2012/04/04 (Wed) 03:10 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
略説八句示現如来自利利他功徳荘厳次第成就。応知。此云何次第。前十七句是荘厳国土功
徳成就。既知国土相。応知国土之主。是故次観仏荘厳功徳。彼仏若為荘厳於何処坐。是故
先観座。既知座已。宜知座主。是故次観仏荘厳身業。既知身業。応知有何声名。是故次観
仏荘厳口業。既知名聞。宜知得名所以。是故次観仏荘厳心業。既知三業具足。応知為人天
大師堪受化者是誰。是故次観大衆功徳。既知大衆有無量功徳。宜知上首者誰。是故次観上
首。上首是仏。既知上首恐同長劫。是故次観主。既知是主。主有何増上。是故次観荘厳不
虚作住持。八句次第成也。
--------------------------------------------------------------------------------
(論註)略して八句を説きて、如来の自利利他の功徳荘厳、次第に成就したまえるを示現し
たまえるなりと、知るべし。これはいかんが次第する。前の十七句は、これ荘厳国土の
功徳成就なり。既に国土の相を知りぬ。国土の主を知るべし。このゆえに次に仏の荘厳功徳
を観ず。かの仏もし荘厳をなして、いずれの処に於いてか坐したまえる。このゆえにまず
座を観ずべし。既に座を知り、すでに宜しく座主を知るべし。このゆえに次に仏の身業を
荘厳したまえるを観ず。既に身業を知りぬ。いずれの声名かましますと知るべし。このゆ
えに次に仏の口業を荘厳したまえるを観ず。既に名聞を知りぬ。宜しく得名の所以を知る
べし。このゆえに次に仏の心業を荘厳したまえるを観ず。既に三業具足したまえるを知り
ぬ。人天の大師となりて化を受くるに堪えたる者〈ひと〉は、これ誰ぞと知るべし。この
ゆえに次に大衆の功徳を観ず。既に大衆、無量の功徳いますことを知りぬ。宜しく上首は
誰ぞと知るべし。このゆえに次に上首を観ず。上首はこれ仏なり。既に上首を知りぬ。恐
らくは長幼に同じきことを。このゆえに次に主を観ず。既にこの主を知りぬ。主いかなる
増上かましますと。このゆえに次に荘厳不虚作住持を観ず。八句の次第成ぜるなり。
--------------------------------------------------------------------------------


≪六要鈔の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
略説等者。是結文也。問。次第成就応知等者。為指自利利他次第如何。答。是明如来八種
功徳生起次第。但其八種。論彼法体。併為自利利他功徳置而不論。雖然今正所言次第。
不関二利。只明八種功徳生起。生起次第具見註釈。
--------------------------------------------------------------------------------
「略説」等とは、これ結文なり。問う、「次第成就応知」等とは、自利利他の次第を指す
とやせん、如何。答う、これ如来八種の功徳の生起次第を明かす。但しその八種は、彼の
法体を論ずるに、併ら自利利他の功徳と為ることを置きて論ぜず。然りといえども、今正
しく言う所の次第は、二利に関わらず。ただ八種の功徳の生起を明かす。生起の次第は具
に註釈に見えたり。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.30
ボン
東京の男性
[ 2672 ] Re30:教行信証・学習ノート9 2012/04/04 (Wed) 03:10 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>略説八句示現如来自利利他功徳荘厳次第成就。応知。此云何次第。前十七句是荘厳国土功
>徳成就。既知国土相。応知国土之主。是故次観仏荘厳功徳。彼仏若為荘厳於何処坐。是故
>先観座。既知座已。宜知座主。是故次観仏荘厳身業。既知身業。応知有何声名。是故次観
>仏荘厳口業。既知名聞。宜知得名所以。是故次観仏荘厳心業。既知三業具足。応知為人天
>大師堪受化者是誰。是故次観大衆功徳。既知大衆有無量功徳。宜知上首者誰。是故次観上
>首。上首是仏。既知上首恐同長劫。是故次観主。既知是主。主有何増上。是故次観荘厳不
>虚作住持。八句次第成也。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(論註)略して八句を説きて、如来の自利利他の功徳荘厳、次第に成就したまえるを示現し
>たまえるなりと、知るべし。これはいかんが次第する。前の十七句は、これ荘厳国土の
>功徳成就なり。既に国土の相を知りぬ。国土の主を知るべし。このゆえに次に仏の荘厳功徳
>を観ず。かの仏もし荘厳をなして、いずれの処に於いてか坐したまえる。このゆえにまず
>座を観ずべし。既に座を知り、すでに宜しく座主を知るべし。このゆえに次に仏の身業を
>荘厳したまえるを観ず。既に身業を知りぬ。いずれの声名かましますと知るべし。このゆ
>えに次に仏の口業を荘厳したまえるを観ず。既に名聞を知りぬ。宜しく得名の所以を知る
>べし。このゆえに次に仏の心業を荘厳したまえるを観ず。既に三業具足したまえるを知り
>ぬ。人天の大師となりて化を受くるに堪えたる者〈ひと〉は、これ誰ぞと知るべし。この
>ゆえに次に大衆の功徳を観ず。既に大衆、無量の功徳いますことを知りぬ。宜しく上首は
>誰ぞと知るべし。このゆえに次に上首を観ず。上首はこれ仏なり。既に上首を知りぬ。恐
>らくは長幼に同じきことを。このゆえに次に主を観ず。既にこの主を知りぬ。主いかなる
>増上かましますと。このゆえに次に荘厳不虚作住持を観ず。八句の次第成ぜるなり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (論註)大まかに八句を説いて、如来の自利・利他の功徳の荘厳が次第に成就されるの
  をお示しになっていると、知るべきである。これは、どのような順序でなされるのか。
  その前の十七句は、国土を荘厳する功徳の成就である。それによって、すでに国土の
  相(すがた)を知った。そこで、国土の主を知るべきである。だから、次に仏の荘厳の
  功徳を観察するのである。かの仏が、もし荘厳をなしたならば、どこにお座りになる
  のであろうか。だからまず、座を観察すべきである。すでに座を知ってから、座主を
  知ることができるであろう。だから、次に仏が身業を荘厳なさるのを観察する。既に
  身業を知った。そして、どのような声名(名声)があるのかを知るべきである。だから、
  次に仏が口業を荘厳なさるのを観察する。既に名聞を知った。そして、名聞を得たい
  われを知るべきである。だから、次に仏が心業を荘厳なさるのを観察する。既に三業
  が備わったことを知った。そして、人間や天人の大師となって、化生を授けることが
  できる者はだれかということを知るべきである。だから、次に大衆の功徳を観察する。
  すでに大衆に、無量の功徳があることを知った。そこで、その上首(最上位の者)はだ
  れかということを知るべきである。だから、次に上首を観察する。上首は、仏である。
  すでに上首を知った。恐れるのは、長幼の序(年長者と年少者の順序)と同じだとみら
  れることである。だから、次に主を観察する。すでにこの主を知った。主にはどのよ
  うな増上(優れた働き)があるのだろうか。だから、次に荘厳不虚作住持を観察する。
  こうして、八句の次第がかたちづくられるのである。

  WikiArc
    八句
      『浄土論』に浄土の荘厳功徳について、三厳二十九種荘厳を説く中の
      仏八種荘厳のこと。
    仏の荘厳
      1.荘厳【座】功徳
      2.荘厳【身業】功徳
      3.荘厳【口業】功徳
      4.荘厳【心業】功徳
      5.荘厳【大衆】功徳
      6.荘厳【上首】功徳
      7.荘厳【主】功徳
      8.荘厳【不虚作住持】功徳
    荘厳不虚作住持功徳成就
      仏荘厳八種の第八荘厳。阿弥陀仏の願力は虚妄なものでなく、衆生を完全に
      救いとげるものであるということを示す。
    国土の主
      浄土の主人、阿弥陀仏のこと。
    名聞
      名号のいわれがあらゆるところに聞えること。
    おそらくは長幼に・・・
      仏を上首としだけでは、仏と大衆の関係が長幼の序(年長者と年少者の順序)
      と混同される恐れがあるので。
    増上
      すぐれたはたらき。

  日本国語大辞典
    声名
      よい評判。ほまれ。きこえ。名声。
    上首
      ある一団の中で上位、また最上位の者。転じて、教えのなかの最上の法。


≪六要鈔の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>略説等者。是結文也。問。次第成就応知等者。為指自利利他次第如何。答。是明如来八種
>功徳生起次第。但其八種。論彼法体。併為自利利他功徳置而不論。雖然今正所言次第。
>不関二利。只明八種功徳生起。生起次第具見註釈。
>--------------------------------------------------------------------------------
>「略説」等とは、これ結文なり。問う、「次第成就応知」等とは、自利利他の次第を指す
>とやせん、如何。答う、これ如来八種の功徳の生起次第を明かす。但しその八種は、彼の
>法体を論ずるに、併ら自利利他の功徳と為ることを置きて論ぜず。然りといえども、今正
>しく言う所の次第は、二利に関わらず。ただ八種の功徳の生起を明かす。生起の次第は具
>に註釈に見えたり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  「略説・・・」等というのは、結びの文である。問う。「次第成就応知・・・」等と
  いうのは、自利利他の次第(順序)を指すものかどうか。答える。これは、如来の八種
  の功徳が生じてくる次第(順序)を明らかにするものである。ただし、その八種は、か
  の法体を論ずるにあたって、自利利他の功徳となることをわきに置いて論ずるもので
  はない。そうではあるが、今まさしくここで言う次第(順序)は、二利(自利利他)に関
  わるものではない。ただ、八種の功徳の起こりを明らかにするものである。その生じ
  てくる次第(順序)は、詳細に註釈に見ることができる。

  WikiArc
    法体
      無色無形の真如の体性。

●re.31
ボン
東京の男性
[ 2698 ] Re31:教行信証・学習ノート9 2012/04/19 (Thu) 01:28 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
観菩薩者。云何観察菩薩荘厳功徳成就。観察菩薩荘厳功徳成就者。観察菩薩有四種正修行
功徳成就。応知。真如是諸法正体。体如而行。則是不行。不行而行。名如実修行。体唯一
如。而義分為四。是故四行以一正統之。
--------------------------------------------------------------------------------
(論註)菩薩を観ぜば、いかんが菩薩の荘厳功徳成就を観察する。菩薩の荘厳功徳成就を
観察せば、かの菩薩を観ずるに、四種の正修行功徳成就したまえることあり。まさに知る
べしと。真如はこれ諸法の正体なり。体、如にして行ずれば、すなわちこれ不行なり。
不行にして行ずるを、如実修行と名づく。体はただ一如にして、義をもて分かちて四とす。
このゆえに四行は、一をもって正しくこれを統〈つか〉ぬ。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.32
ボン
東京の男性
[ 2699 ] Re32:教行信証・学習ノート9 2012/04/19 (Thu) 01:28 △up ▽down
本文について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>観菩薩者。云何観察菩薩荘厳功徳成就。観察菩薩荘厳功徳成就者。観察菩薩有四種正修行
>功徳成就。応知。真如是諸法正体。体如而行。則是不行。不行而行。名如実修行。体唯一
>如。而義分為四。是故四行以一正統之。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(論註)菩薩を観ぜば、いかんが菩薩の荘厳功徳成就を観察する。菩薩の荘厳功徳成就を
>観察せば、かの菩薩を観ずるに、四種の正修行功徳成就したまえることあり。まさに知る
>べしと。真如はこれ諸法の正体なり。体、如にして行ずれば、すなわちこれ不行なり。
>不行にして行ずるを、如実修行と名づく。体はただ一如にして、義をもて分かちて四とす。
>このゆえに四行は、一をもって正しくこれを統〈つか〉ぬ。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (論註)菩薩を観察するならば、どのように菩薩の荘厳の功徳が成就するのを観察する
  のか。菩薩の荘厳の功徳が成就するのを観察するならば、かの菩薩を観察するに、
  四種の正しい修行の功徳を成就なされるということがある。まさに知るべきである。
  真如は、諸法の正体である。体を如にして行ずれば、すなわちこれは不行である。
  不行にして行ずるを、如実修行(実の如く修行する)と名づける。その体(本質)はただ
  一如であるが、その義(考え方)によって四つに分けられる。だから、四つの行は一つ
  にまとめることができるのである。

  WikiArc
    四種の正修行功徳成就
      天親菩薩の『浄土論』では、国土荘厳十七種と仏荘厳八種については個々の
      荘厳の名称が付されているが、菩薩荘厳四種については名称が付されていな
      い。 なお、後世に付された名称として、以下のものがある。
        第一 「不動而至功徳」、
        第二 「一念遍至功徳」、
        第三 「無相供養功徳」、
        第四 「示法如仏功徳」
    体如にして
      通常は如を体としてと読む。
    如を体して・・・
      真如の本体のままに行ずるので、すでにみずから行ずるというとらわれの
      意識を離れた行である。
    不行
      とらわれをはなれた修業。
    一を・・・統ぬ
      通常は「一の正をもってこれを統ぶ」と読む。
    如
      一如、真如のこと。

●re.33
ボン
東京の男性
[ 2702 ] Re33:教行信証・学習ノート9 2012/04/23 (Mon) 02:54 △up ▽down
≪六要鈔会本の注釈≫

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観察菩薩荘厳之中。論文有三。一云何下標牒章目。二観彼下標有四種荘厳功徳。三何者下
正釈四種荘厳。二註之中。真如等者。大乗止観云。問曰。云何名此心為真如。答曰。一切
諸法依此心有。以心為体。望於諸法。法悉虚妄。有即非有。対此虚偽法故因為真。又復諸
法雖実非有。但以虚妄因縁而有生滅之相。然彼虚法生時。此心不生。諸法滅時。此心不滅。
不生故不増。不減故不滅。以不生不滅不増不減故名之為真。三世諸仏及以衆生同以此一浄
心為体。凡聖諸法自有差別異相。而此真心無異無相。故名為如。已上。又天台云。万法是
真如。由不変故。真如是万法。由随縁故。已上。就言真如諸法正体。可有二意。一諸法皆
是虚妄之相。真如一法唯是真実。其真如者是心一法。若依此義。言諸法中唯此一真。是正
体也。上所挙之大乗止観叶此意歟。二真如体相。不限一心。森羅万像三千諸法莫非真如。
就其相望。雖有随縁不変之異。色心諸法莫非真如。若依此義。諸法悉是真如正体。是故釈
云諸法正体。天台正意可合此義。不行等者。無分別相。相応真如所修行故。言不行者是約
体如。於其正体離情執故。言而行者。約正修行。於其所行無作意故。三正釈中功徳荘厳為
四種故。文有四段。省文言之。一不動遍至供仏化生。二一念遍至利益群生。三一切世界讃
嘆諸仏。四無三宝処住持荘厳。
--------------------------------------------------------------------------------
観察菩薩荘厳の中に、論文に三あり。一に「云何」の下は章目を牒することを標す。二に
「観彼」の下は四種の荘厳功徳あることを標す。三に「何者」の下は正しく四種の荘厳を
釈す。二に註の中に「真如」等とは、『大乗止観』に云わく「問うて曰わく、云何ぞこの
心を名づけて真如と為すや。答えて曰わく、一切の諸法はこの心に依りて有り。心を以て
体と為す。諸法に望むるに、法は悉く虚妄なり。有は即ち有に非ず。この虚偽の法に対す
るが故に因りて真と為す。また諸法は実に有に非ずといえども、ただ虚妄の因縁を以て而
も生滅の相あり。然も彼の虚法の生ずる時、この心は生ぜず。諸法の滅する時、この心は
滅せず。生ぜざるが故に増せず。減ぜざるが故に滅せず。不生・不滅・不増・不減なるを
以ての故に、これを名づけて真と為す。三世の諸仏および衆生は同じくこの一浄心を以て
体と為す。凡聖の諸法は自ずから差別異相あれども、而もこの真心は異なく、相なし。故
に名づけて如と為す」已上。また天台の云わく「万法はこれ真如なり。不変に由るが故に。
真如はこれ万法なり。随縁に由るが故に」已上。真如は諸法の正体というに就きて二の意
あるべし。一には諸法は皆これ虚妄の相、真如の一法、唯これ真実なり。その真如とは、
これ心の一法なり。もしこの義に依らば、言うこころは、諸法の中に唯この一真なり。こ
れ正体なり。上に挙ぐる所の『大乗止観』はこの意に叶うか。二には真如の体相は一心に
限らず。森羅万像・三千の諸法は真如にあらざることなし。その相望に就きて随縁・不変
の異あるといえども、色心の諸法は真如にあらざることなし。もしこの義に依らば、諸法
は悉くこれ真如の正体なり。この故に釈して諸法の正体という。天台の正意はこの義に合
すべし。「不行」等とは、分別の相なし。真如に相応して修行する所なるが故に。「不行」
というは、これ体如に約す。その正体に於いて情執を離るるが故に。「而行」というは、
正修行に約す。その所行に於いて作意なきが故に。三に正釈の中に、功徳荘厳は四種と為
すが故に、文に四段あり。文を省してこれをいわば、一には不動遍至供仏化生、二には
一念遍至利益群生、三には一切世界讃嘆諸仏、四には無三宝処住持荘厳なり。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.34
ボン
東京の男性
[ 2703 ] Re34:教行信証・学習ノート9 2012/04/23 (Mon) 02:54 △up ▽down
六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>観察菩薩荘厳之中。論文有三。一云何下標牒章目。二観彼下標有四種荘厳功徳。三何者下
>正釈四種荘厳。二註之中。真如等者。大乗止観云。問曰。云何名此心為真如。答曰。一切
>諸法依此心有。以心為体。望於諸法。法悉虚妄。有即非有。対此虚偽法故因為真。又復諸
>法雖実非有。但以虚妄因縁而有生滅之相。然彼虚法生時。此心不生。諸法滅時。此心不滅。
>不生故不増。不減故不滅。以不生不滅不増不減故名之為真。三世諸仏及以衆生同以此一浄
>心為体。凡聖諸法自有差別異相。而此真心無異無相。故名為如。已上。又天台云。万法是
>真如。由不変故。真如是万法。由随縁故。已上。就言真如諸法正体。可有二意。一諸法皆
>是虚妄之相。真如一法唯是真実。其真如者是心一法。若依此義。言諸法中唯此一真。是正
>体也。上所挙之大乗止観叶此意歟。二真如体相。不限一心。森羅万像三千諸法莫非真如。
>就其相望。雖有随縁不変之異。色心諸法莫非真如。若依此義。諸法悉是真如正体。是故釈
>云諸法正体。天台正意可合此義。不行等者。無分別相。相応真如所修行故。言不行者是約
>体如。於其正体離情執故。言而行者。約正修行。於其所行無作意故。三正釈中功徳荘厳為
>四種故。文有四段。省文言之。一不動遍至供仏化生。二一念遍至利益群生。三一切世界讃
>嘆諸仏。四無三宝処住持荘厳。
>--------------------------------------------------------------------------------
>観察菩薩荘厳の中に、論文に三あり。一に「云何」の下は章目を牒することを標す。二に
>「観彼」の下は四種の荘厳功徳あることを標す。三に「何者」の下は正しく四種の荘厳を
>釈す。二に註の中に「真如」等とは、『大乗止観』に云わく「問うて曰わく、云何ぞこの
>心を名づけて真如と為すや。答えて曰わく、一切の諸法はこの心に依りて有り。心を以て
>体と為す。諸法に望むるに、法は悉く虚妄なり。有は即ち有に非ず。この虚偽の法に対す
>るが故に因りて真と為す。また諸法は実に有に非ずといえども、ただ虚妄の因縁を以て而
>も生滅の相あり。然も彼の虚法の生ずる時、この心は生ぜず。諸法の滅する時、この心は
>滅せず。生ぜざるが故に増せず。減ぜざるが故に滅せず。不生・不滅・不増・不減なるを
>以ての故に、これを名づけて真と為す。三世の諸仏および衆生は同じくこの一浄心を以て
>体と為す。凡聖の諸法は自ずから差別異相あれども、而もこの真心は異なく、相なし。故
>に名づけて如と為す」已上。また天台の云わく「万法はこれ真如なり。不変に由るが故に。
>真如はこれ万法なり。随縁に由るが故に」已上。真如は諸法の正体というに就きて二の意
>あるべし。一には諸法は皆これ虚妄の相、真如の一法、唯これ真実なり。その真如とは、
>これ心の一法なり。もしこの義に依らば、言うこころは、諸法の中に唯この一真なり。こ
>れ正体なり。上に挙ぐる所の『大乗止観』はこの意に叶うか。二には真如の体相は一心に
>限らず。森羅万像・三千の諸法は真如にあらざることなし。その相望に就きて随縁・不変
>の異あるといえども、色心の諸法は真如にあらざることなし。もしこの義に依らば、諸法
>は悉くこれ真如の正体なり。この故に釈して諸法の正体という。天台の正意はこの義に合
>すべし。「不行」等とは、分別の相なし。真如に相応して修行する所なるが故に。「不行」
>というは、これ体如に約す。その正体に於いて情執を離るるが故に。「而行」というは、
>正修行に約す。その所行に於いて作意なきが故に。三に正釈の中に、功徳荘厳は四種と為
>すが故に、文に四段あり。文を省してこれをいわば、一には不動遍至供仏化生、二には
>一念遍至利益群生、三には一切世界讃嘆諸仏、四には無三宝処住持荘厳なり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  観察菩薩荘厳のなかに、三つの論文がある。一つに「云何」の下は、章目を書き示し
  たものである。二つに「観彼」の下は、四種の荘厳功徳のあることを示すものである。
  三つに「何者」の下は、まさしく四種の荘厳について解釈している。

  二つに註のなかで「真如・・・」等について、『大乗止観』にこう述べる。「問う。
  どうしてこの心を真如と名づけるのか。答える。一切の諸法(あらゆる事がら)はこの
  心によって存在する。(それは)心を本体とするのである。諸法(あらゆる事がら)をな
  がめてみると、その法(ありかた)はことごとく虚妄(うそいつわり)である。有はすな
  わち有ではない。この虚偽(うそいつわり)の法に対するものであるから真とするので
  ある。また、諸法(あらゆる事がら)は実際は有ではないのだが、ただ虚妄(うそいつわ
  り)の因縁によって生滅(生じたり滅びたりすること)の相(すがた)があるのである。
  しかも、その虚法(いつわりの法)が生ずる時にも、この心は生じない。諸法が滅びる
  時にも、この心は滅びない。生ずつことがないために増すこともない。減ることがな
  いから滅びない。生まれることもなく、滅びることもなく、増えることもなく、減る
  こともないからから、これを真と名づけるのである。三世の諸仏および衆生は、同じ
  くこの一つの浄心を本体とするのである。凡聖(凡夫と聖者)の諸法は自ずから差別や
  異相があるが、この真心(真実の信心)は異なることがなく、相(すがた)もない。だか
  ら、如と名づけるのである。」また、天台にこう述べる。「万法(諸法)は真如である。
  変わることがないから。真如は万法(諸法)である。縁に随うものであるから。」

  日本国語大辞典
    諸法
      仏語。一切の有形および無形のあらゆる事物。万法。諸有。
    体
      作用の根源。本体。事物の本質。本性。
    法
      事物の一定の秩序を支配するもの。物事の普遍的なありかた。のり。法則。
    真心
      仏語。真実の信心
    万法
      仏語。あらゆるものをいう。物質的、精神的な一切のもの。諸法。
    随縁
      多くのさまざまな縁にしたがって異なった相を生ずること、または、生じた
      もの。縁にしたがって行為することもいう。


  真如は諸法の正体であるということについて、二つの意(見方)あるようだ。一つには
  諸法はみな虚妄(うそいつわり)の相(すがた)であり、真如の一法だけが、真実だとす
  るものである。その真如とは、心の一法である。もしこの義(考え方)によるならば、
  その言うこころは、諸法(あらゆる事物)のなかでただこれ一つだけが真である。これ
  が正体である。上に取り上げた『大乗止観』はこの意(見方)に当てはまるものであろ
  うか。二つには、真如の体相は一心に限らない。森羅万像と三千の諸法は、真如でな
  いということはない。その相望(向かい合う)について、随縁か不変かの違いはあるが、
  色心(有形・無形)の諸法(あらゆる事物)が真如でないということはない。もしこの義
  (考え方)によるならば、諸法(あらゆる事物)はことごとく真如の正体である。だから、
  それを釈して諸法の正体という。天台の正意は、この義(考え方)に当てはまるに違い
  ない。

  日本国語大辞典
    体相
      仏語。本体とその外にあらわれたすがた。
    色心
      仏語。物と心。有形の物質と無形の精神。


  「不行・・・」等については、無分別の相(すがた)である。それは、真如に相応して
  修行するからである。「不行」というのは、体如(如を体する)ということである。
  その正体において、情と執(とらわれ)を離れるからである。「而行」というは、正し
  い修行のことである。その行ずるところにおいて、作意がないからである。

  日本国語大辞典
    分別
      仏語。心の働きが対象を思惟し計量すること。知識による理解。または誤っ
      た理解、認識としての凡夫の妄分別にもいう。
    無分別
      仏語。誤って、自己にとらわれ、ものを対立的・相対的に見る分別・妄想を
      離れること。物事の平等性をさとった状態。


  三の正釈のなかで、功徳の荘厳は四種としているために、文に四段がある。文を省して
  これをいえば、一つには不動遍至供仏化生(動かずに遍く至り仏を供養し化生させる)、
  二つには一念遍至利益群生(一念にして遍く至り群生を利益する)、三つには一切世界
  讃嘆諸仏(一切の世界が諸仏を讃嘆する)、四つには無三宝処住持(三宝のないところに
  住持する)という荘厳である。

  WikiArc
    三宝
      仏教徒として帰依し供養すべき三つの宝。すなわち仏(さとりをひらいた人)
      ・法(その教え)・僧(その教えを受けてさとりをめざす集団)を三宝という。

  日本国語大辞典
    住持
      世にとどまって教えをたもつこと。仏法をたもちまもること。

●re.35
ボン
東京の男性
[ 2704 ] Re35:教行信証・学習ノート9 2012/04/25 (Wed) 02:34 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
何者為四。一者於一仏土身不動搖。而遍十方種種応化。如実修行常作仏事。偈言安楽国清
浄。常転無垢輪。化仏菩薩日如須弥住持故。開諸衆生淤泥華故。八地已上菩薩常在三昧。
以三昧力身不動本処。而能遍至十方供養諸仏教化衆生。無垢輪者仏地功徳也。仏地功徳無
習気煩悩垢。仏為諸菩薩常転此法輪。諸大菩薩亦能以此法輪開導一切無暫時休息。故言常
転。法身如日。而応化身光遍諸世界也。言日未足以明不動。復言如須弥住持也。淤泥華者。
経言。高原陸地不生蓮華。卑湿淤泥乃生蓮華。此喩凡夫在煩悩泥中為菩薩開導。能生仏正
覚華。諒夫紹隆三宝常使不絶。
--------------------------------------------------------------------------------
(論註)何ものをか四とする。一には、一仏土において身動揺せずして十方に遍す。種種に
応化して実のごとく修行して、常に仏事を作す。偈に安楽国は清浄にして、常に無垢輪を
転ず。化仏菩薩は、日の須弥に住持するがごときのゆえにと言えり。もろもろの衆生の
淤泥華を開かしむるがゆえにと。八地已上の菩薩は、常に三昧にありて、三昧力をもって、
身、本処を動ぜずしてよく遍く十方に至りて、諸仏を供養し、衆生を教化す。無垢輪とは
仏地の功徳なり。仏地の功徳は、習気煩悩の垢ましまさず。仏、もろもろの菩薩のために
常にこの法輪を転ず。もろもろの大菩薩、またよくこの法輪をもって、一切を開導して暫時
も休息なけん。故に常転と言う。法身は日のごとくにして、応化身の光、もろもろの世界
に遍ずるなり。言うこころは、日は未だもって不動を明かすに足らざれば、また如須弥住持
と言うなり。淤泥華とは、経に言わく、高原の陸地には、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥に、
いまし蓮華を生ずと。これは、凡夫、煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開導せられて、
よく仏の正覚の華を生ずるに喩うるなり。諒〈まこと〉にそれ三宝を紹隆して常に絶えざ
らしむと。
--------------------------------------------------------------------------------


≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
第一段中無垢輪者。問。今註釈初約八地已上所行。後約仏地。一師所釈。於一科中何忽相
違。又智光云。初地已上菩薩。亦能以此法輪開導一切。已上。旁以未審。就中既言仏地功
徳不謂初地八地已上。於因位中何転之耶。答。既云無垢。今釈之意属仏功徳。其義可然。
雖然或云八地已上。或云初地。各約分転。共無所違。次至于云因位之中不可転者。非究竟
者是不為難。其上蒙仏加力故也。淤泥華者。問。指何華乎。答。言淤者濁。言泥者水。生
濁水華是蓮華也。淤泥譬之衆生煩悩。華譬仏性。或又淤泥喩之性徳。華喩修徳。云経言者。
維摩経也。
--------------------------------------------------------------------------------
第一段の中に「無垢輪」とは、問う、今の註釈は、初は八地已上の所行に約し、後は仏地
に約す。一師の所釈、一科の中に於いて何ぞ忽に相違せるや。また智光の云わく「初地已上
の菩薩は、また能くこの法輪を以て一切を開導す」已上。旁以ていぶかし。中に就きて既
に仏地功徳といいて、初地八地已上といわず。因位の中に於いて何ぞこれを転ずるや。
答う、既に無垢という。今釈の意は仏の功徳に属す。その義然るべし。然りといえども、
或いは八地已上といい、或いは初地という。おのおの分転に約す。共に違する所なし。
次に因位の中に転ずべからずというに至りては、究竟にあらざればこれ難しとせず。その
上は仏の加力を蒙るが故なり。「淤泥華」とは、問う、何の華を指すや。答う、「淤」と
いうは濁、泥というは水なり。濁水に生〈な〉る華はこれ蓮華なり。淤泥はこれを衆生の
煩悩に譬え、華を仏性に譬う。或いはまた淤泥はこれを性徳に喩え、華を修徳に喩う。
「経言」というは『維摩経』なり。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.36
ボン
東京の男性
[ 2705 ] Re36:教行信証・学習ノート9 2012/04/25 (Wed) 02:34 △up ▽down
本文と六要鈔の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>何者為四。一者於一仏土身不動搖。而遍十方種種応化。如実修行常作仏事。偈言安楽国清
>浄。常転無垢輪。化仏菩薩日如須弥住持故。開諸衆生淤泥華故。八地已上菩薩常在三昧。
>以三昧力身不動本処。而能遍至十方供養諸仏教化衆生。無垢輪者仏地功徳也。仏地功徳無
>習気煩悩垢。仏為諸菩薩常転此法輪。諸大菩薩亦能以此法輪開導一切無暫時休息。故言常
>転。法身如日。而応化身光遍諸世界也。言日未足以明不動。復言如須弥住持也。淤泥華者。
>経言。高原陸地不生蓮華。卑湿淤泥乃生蓮華。此喩凡夫在煩悩泥中為菩薩開導。能生仏正
>覚華。諒夫紹隆三宝常使不絶。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(論註)何ものをか四とする。一には、一仏土において身動揺せずして十方に遍す。種種に
>応化して実のごとく修行して、常に仏事を作す。偈に安楽国は清浄にして、常に無垢輪を
>転ず。化仏菩薩は、日の須弥に住持するがごときのゆえにと言えり。もろもろの衆生の
>淤泥華を開かしむるがゆえにと。八地已上の菩薩は、常に三昧にありて、三昧力をもって、
>身、本処を動ぜずしてよく遍く十方に至りて、諸仏を供養し、衆生を教化す。無垢輪とは
>仏地の功徳なり。仏地の功徳は、習気煩悩の垢ましまさず。仏、もろもろの菩薩のために
>常にこの法輪を転ず。もろもろの大菩薩、またよくこの法輪をもって、一切を開導して暫時
>も休息なけん。故に常転と言う。法身は日のごとくにして、応化身の光、もろもろの世界
>に遍ずるなり。言うこころは、日は未だもって不動を明かすに足らざれば、また如須弥住持
>と言うなり。淤泥華とは、経に言わく、高原の陸地には、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥に、
>いまし蓮華を生ずと。これは、凡夫、煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開導せられて、
>よく仏の正覚の華を生ずるに喩うるなり。諒〈まこと〉にそれ三宝を紹隆して常に絶えざ
>らしむと。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (論註)その四つというのは、なんであろうか。

  【不動遍至供仏化生(動かずに遍く至り仏を供養し化生させる)】
  一つには、一つの仏土において、身は揺れ動かずに十方に行き渡る。様々に応化して
  、実のごとく修行して、常に仏事(衆生救済の事業)を行う。偈に「安楽国は清浄にし
  て、常に無垢輪(清浄真実の説法)を広げる。化仏・菩薩は、日(太陽)が須弥山によっ
  て保たれるようなものだから」と言っている。もろもろの衆生の淤泥華(蓮華)を開か
  せるからと。八地以上の菩薩は、常に三昧にあって、三昧の力によって、その身は、
  本来の居場所を動かずに、あまねく十方に至って、諸仏を供養し、衆生を教化する。
  無垢輪(仏法を広げる)というのは、仏地の功徳である。仏地の功徳のは、習気や煩悩
  の垢がない。仏は、もろもろの菩薩のために、常にこの法の輪を広げるのだ。もろも
  ろの大菩薩は、また、この法の輪によって、一切を開き導いて、少しの間も休息する
  ことがないであろう。だから常転(常に転ずる)と言う。法身は日(太陽)のようであっ
  て、応化身の光は、もろもろの世界に広まってゆく。その言うこころは、ただ日と言
  っただけでは不動を明らかにするには不十分であるから、須弥山に保たれるようにと
  言のである。淤泥華(汚れた泥の華)というのは、経に言わく、高原の陸地には蓮華は
  生じない。湿った低地の汚れた泥に、まさに蓮華が生ずるのである。これは、凡夫が
  煩悩の泥の中にあって、菩薩によって開き導かれて、仏の正覚の華を咲かせることに
  喩えたものである。まことにそれは、三宝を引き継ぎ栄えさせて、常に絶えないよう
  にさせるものなのである。

  日本国語大辞典
    応化
      仏語。仏、菩薩が世の人を救うために、時機に応じて、いろいろなものに姿
      を変えて現われること。応現。

  WikiArc
    仏事
      衆生救済の事業。
    無垢輪
      煩悩のけがれのない清浄真実の説法。
    無垢輪を転ず
      「法輪を転ず」に同じ。無垢輪は煩悩のけがれのない仏の教法のこと。仏の
      教法は衆生の煩悩を打ちくだき、次々と広まっていくので、車輪に喩える。
    淤泥華
      泥の中に咲く花。蓮の花、蓮華のこと。
    習気
      煩悩の体が断ぜられてもなお習慣となって残る煩悩のはたらきのこと。


≪六要鈔の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>第一段中無垢輪者。問。今註釈初約八地已上所行。後約仏地。一師所釈。於一科中何忽相
>違。又智光云。初地已上菩薩。亦能以此法輪開導一切。已上。旁以未審。就中既言仏地功
>徳不謂初地八地已上。於因位中何転之耶。答。既云無垢。今釈之意属仏功徳。其義可然。
>雖然或云八地已上。或云初地。各約分転。共無所違。次至于云因位之中不可転者。非究竟
>者是不為難。其上蒙仏加力故也。淤泥華者。問。指何華乎。答。言淤者濁。言泥者水。生
>濁水華是蓮華也。淤泥譬之衆生煩悩。華譬仏性。或又淤泥喩之性徳。華喩修徳。云経言者。
>維摩経也。
>--------------------------------------------------------------------------------
>第一段の中に「無垢輪」とは、問う、今の註釈は、初は八地已上の所行に約し、後は仏地
>に約す。一師の所釈、一科の中に於いて何ぞ忽に相違せるや。また智光の云わく「初地已上
>の菩薩は、また能くこの法輪を以て一切を開導す」已上。旁以ていぶかし。中に就きて既
>に仏地功徳といいて、初地八地已上といわず。因位の中に於いて何ぞこれを転ずるや。
>答う、既に無垢という。今釈の意は仏の功徳に属す。その義然るべし。然りといえども、
>或いは八地已上といい、或いは初地という。おのおの分転に約す。共に違する所なし。
>次に因位の中に転ずべからずというに至りては、究竟にあらざればこれ難しとせず。その
>上は仏の加力を蒙るが故なり。「淤泥華」とは、問う、何の華を指すや。答う、「淤」と
>いうは濁、泥というは水なり。濁水に生〈な〉る華はこれ蓮華なり。淤泥はこれを衆生の
>煩悩に譬え、華を仏性に譬う。或いはまた淤泥はこれを性徳に喩え、華を修徳に喩う。
>「経言」というは『維摩経』なり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  第一段のなかの「無垢輪」について問う。今の註釈は、初めは八地以上の所行である
  とし、後には仏地のことであるとしている。一師の所釈であり、しかも一科のなかに
  おいて、どうしてこのようにいい加減に相違しているのか。また智光はこう述べる。
  「初地以上の菩薩はまた、この法輪をもって、一切を開導することができる。」これ
  も不審である。とりわけて、まさに仏地の功徳といって、初地・八地以上といわない。
  因位のなかにおいて、どうしてこれをあれこれ変えるのか。答える。既に無垢(煩悩が
  ない)といっている。今の釈の意(こころ)は、仏の功徳に属するものである。その義
  (考え方)は、そのとおりであろう。そのとおりではあるが、あるいは八地以上といい、
  あるいは初地という。おのおの分転(分かれて転じた?)したものである。どちらも、
  違ったものではない。次に「因位のなかで転ずるべきではない」というにいたっては、
  究竟(究極)のことではないのだから、これは、ありえないということではない。なぜ
  なら、その上位の仏の加力をこうむっているからである。

  WikiArc
    智光
      (709-780頃) 元興寺三論の学僧。 河内(現在の大阪府)の人。 同門の礼光とと
      もに阿弥陀仏の浄土を欣求したと伝えられる。 曇鸞大師の『論註』に依拠し
      て、天親菩薩の 『浄土論』を註釈し 『無量寿経論釈』五巻を著した。

  日本国語大辞典
    無垢
      (心をけがす垢(貪・瞋・痴)のない意)仏語。煩悩のないこと。また、そのさま。


  「淤泥華」について問う、何の華を指すのか。答える。「淤」というのは濁、泥とい
  うのは水である。濁水に生ずる華は、蓮華である。淤泥はこれを衆生の煩悩に喩え、
  華を仏性に喩える。あるいはまた、淤泥はこれを性徳に喩え、華を修徳に喩える。
  「経の言わく」というのは『維摩経』のことである。

  日本国語大辞典
    性徳
      仏語。衆生が本性として具えている生まれつきの能力。
      を用いる。
    修徳
      仏語。修行や学習によって得た能力。

●re.37
ボン
東京の男性
[ 2706 ] Re37:教行信証・学習ノート9 2012/04/26 (Thu) 00:27 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
二者彼応化身。一切時不前不後。一心一念放大光明。悉能遍至十方世界教化衆生。種種方
便修行所作。滅除一切衆生苦故。偈言無垢荘厳光。一念及一時。普照諸仏会。利益諸群生
故。上言不動而至。容或至有前後。是故復言一念一時無前無後也。
--------------------------------------------------------------------------------
(論註)二には、かの応化身、一切の時、前ならず後ならず、一心一念に、大光明を放ちて、
ことごとくよく遍く十方世界に至りて、衆生を教化す。種種に方便し、修行所作、一切衆
生の苦を滅除するがゆえに。偈に無垢荘厳光、一念及一時、普照諸仏会、利益諸群生(無
垢荘厳の光、一念および一時に、普く諸仏の会を照らして、もろもろの群生を利益す)と
言えるが故にと。上に、不動にして至ると言えり。あるいは至るに前後あるべし。このゆ
えにまた一念一時、前ならず後ならずと言えるなり。
--------------------------------------------------------------------------------


≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
第二段中無垢光者。輪光雖異無垢義同。准上応知。
--------------------------------------------------------------------------------
第二段の中に「無垢光」とは、輪と光と異るといえども、無垢の義は同じ。上に准じて知
るべし。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.38
ボン
東京の男性
[ 2707 ] Re38:教行信証・学習ノート9 2012/04/26 (Thu) 00:28 △up ▽down
本文と六要鈔の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>二者彼応化身。一切時不前不後。一心一念放大光明。悉能遍至十方世界教化衆生。種種方
>便修行所作。滅除一切衆生苦故。偈言無垢荘厳光。一念及一時。普照諸仏会。利益諸群生
>故。上言不動而至。容或至有前後。是故復言一念一時無前無後也。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(論註)二には、かの応化身、一切の時、前ならず後ならず、一心一念に、大光明を放ちて、
>ことごとくよく遍く十方世界に至りて、衆生を教化す。種種に方便し、修行所作、一切衆
>生の苦を滅除するがゆえに。偈に無垢荘厳光、一念及一時、普照諸仏会、利益諸群生(無
>垢荘厳の光、一念および一時に、普く諸仏の会を照らして、もろもろの群生を利益す)と
>言えるが故にと。上に、不動にして至ると言えり。あるいは至るに前後あるべし。このゆ
>えにまた一念一時、前ならず後ならずと言えるなり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  【一念遍至利益群生(一念にして遍く至り群生を利益する)】
  (論註)二には、かの応化身は、どんなときにも、前後することなく(一瞬のうちに)、
  一心一念に大光明を放って、ことごとく、あまねく十方世界に至って、衆生を教化す
  ることができる。様々に方便をして、所作を修行し、すべての衆生の苦しみをすっか
  り取り除くからである。偈に「無垢荘厳光、一念及一時、普照諸仏会、利益諸群生
  (穢れのない荘厳の光は、一念および一時に、あまねく諸仏の会合を照らして、もろ
  もろの群生を利益する)」と言うからである。先に、動かずに(随所に)至ると言った。
  もしかしたら、(普通は)至るのに前後(時間の経過)があるのかもしれない。だから、
  また一念一時、前後することなくと言ったのである。


≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>第二段中無垢光者。輪光雖異無垢義同。准上応知。
>--------------------------------------------------------------------------------
>第二段の中に「無垢光」とは、輪と光と異るといえども、無垢の義は同じ。上に准じて知
>るべし。
>--------------------------------------------------------------------------------

  第二段のなかで「無垢光」というのは、輪と光と異ってはいるが、無垢の義(考え方)
  は同じである。上に準じて知るべきである。

●re.39
ボン
東京の男性
[ 2708 ] Re39:教行信証・学習ノート9 2012/04/27 (Fri) 01:08 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
三者彼於一切世界無余照諸仏会。大衆無余広大無量。供養恭敬讃嘆諸仏如来功徳。偈言雨
天楽華衣妙香等。供養讃諸仏功徳。無有分別心故。無余者。明遍至一切世界一切諸仏大会。
無有一世界一仏会不至也。肇公言。法身無像而殊形並応至韻。無言而玄籍弥布。冥権無謀
而動与事会。蓋斯意也。
--------------------------------------------------------------------------------
(論註)三には、かれ一切の世界において、余なくもろもろの仏会を照らす。大衆余なく
広大無量にして、諸仏如来の功徳を供養し恭敬し讃嘆す。偈に雨天楽華衣、妙香等供養、
讃諸仏功徳、無有分別心(天の楽、華、衣、妙香等を雨りて、諸仏の功徳を供養し讃ずる
に、分別の心あることなし)と言えるが故にと。無余とは、遍く一切の世界、一切の諸仏
大会に至りて、一世界一仏会として至らざることあることなきを明かすなり。肇公の言わ
く(註維摩)、法身は像なくして形を殊にす。ならびに至韻に応ず。言なくして玄籍いよ
いよ布き、冥権、謀なくして動じて事と会すと。けだしこの意なり。
--------------------------------------------------------------------------------


≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
第三段中肇公言者。問。是指誰人指何書乎。答。羅什三蔵有其四子。各為英傑。世称之言
生肇融叡。生者道生。肇者僧肇。融者道融。叡者僧叡。今肇公者。即僧肇也。此人造論曰
之肇論。依維摩経所記書也。彼論序云。夫聖智無知而万品倶照。次法身下如今所引。
此釈之意。三論宗旨甚深義理不及輙述。詞雖幽玄。総而言之。是則不行而行意也。
--------------------------------------------------------------------------------
第三段の中に「肇公言」とは、問う、これ誰人を指し、何れの書を指すや。答う、羅什
三蔵にその四子あり。おのおの英傑たり。世にこれを称して生・肇・融・叡という。生と
は道生、肇とは僧肇、融とは道融、叡とは僧叡なり。今の肇公とは即ち僧肇なり。この人、
論を造る。これを『肇論』という。『維摩経』に依りて記する所の書なり。彼の論の序に
云わく「それ聖智は無知にして万品倶に照す」。次法身の下は今の所引の如し。この釈の
意なり。三論の宗旨、甚深の義理は輙く述ぶるに及ばず。詞は幽玄なりといえども、総じ
てこれを言わば、これ則ち不行而行の意なり。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.40
ボン
東京の男性
[ 2709 ] Re40:教行信証・学習ノート9 2012/04/27 (Fri) 01:08 △up ▽down
本文と六要鈔の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>三者彼於一切世界無余照諸仏会。大衆無余広大無量。供養恭敬讃嘆諸仏如来功徳。偈言雨
>天楽華衣妙香等。供養讃諸仏功徳。無有分別心故。無余者。明遍至一切世界一切諸仏大会。
>無有一世界一仏会不至也。肇公言。法身無像而殊形並応至韻。無言而玄籍弥布。冥権無謀
>而動与事会。蓋斯意也。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(論註)三つには、かれ一切の世界において、余なくもろもろの仏会を照らす。大衆余なく
>広大無量にして、諸仏如来の功徳を供養し恭敬し讃嘆す。偈に雨天楽華衣、妙香等供養、
>讃諸仏功徳、無有分別心(天の楽、華、衣、妙香等を雨りて、諸仏の功徳を供養し讃ずる
>に、分別の心あることなし)と言えるが故にと。無余とは、遍く一切の世界、一切の諸仏
>大会に至りて、一世界一仏会として至らざることあることなきを明かすなり。肇公の言わ
>く(註維摩)、法身は像なくして形を殊にす。ならびに至韻に応ず。言なくして玄籍いよ
>いよ布き、冥権、謀なくして動じて事と会すと。けだしこの意なり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  【三つには一切世界讃嘆諸仏(一切の世界が諸仏を讃嘆する)】
  (論註)三つには、彼(仏・菩薩)は、全世界において、余すところなく、もろもろの
  仏の会座を照らす。広大で無量の大衆は、余すところなく、諸仏如来の功徳を供養し
  恭敬し讃嘆する。偈に「雨天楽華衣、妙香等供養、讃諸仏功徳、無有分別心(天の楽、
  華、衣、妙香などを雨と降らせて、諸仏の功徳を供養し讃ずるときは、分別の心があ
  るということはない)」と言うからである。「無余(余すところなく)」というのは、
  あまねく一切の世界、一切の諸仏の会座に至って、一つの世界、一つの仏会たりとも、
  至らないところがないと、いうことを明らかにするものである。肇公は「註維摩」に
  こう述べる。「法身は、像(すがた)はないが、異なった形をとって現れる。そして、
  至極の韻(説法の声)というかたちに相応する。言葉はなくても、玄籍(仏典)はいよい
  よ広く行きわたり、冥(ふかい)権(てだて)は、謀(はかりごと)がなくても、作用して
  仏事(救済の仕事)と一致する。」それは、まさしく、この意(こころ)である。

  日本国語大辞典
    仏会(ぶつ‐え)
      仏の会座(えざ)。釈迦が法を説いたときの集まり。
    恭敬
      仏語。慎み敬うこと。きょうけい。
    分別
      仏語。心の働きが対象を思惟し計量すること。知識による理解。または誤っ
      た理解、認識としての凡夫の妄分別にもいう。

  WikiArc
    分別の心
      わけへだてをする心。
    一切諸仏の大会
      あらゆる仏たちの説法の会座。
    肇公
       僧肇(374または384-414)のこと。老荘の学に通じていたが、後に『維摩経』
       を読んで仏教に帰し、鳩摩羅什に師事し経典の翻訳を助けた。
       著作に『肇論』がある。(
    至韻
      至極の韻(ひびき)。説法の声。
    玄籍
      深遠な意義をもつ典籍。仏典を指す。
    冥権
      はかりしることのできない衆生済度のはたらき。
    冥権謀なくして・・・
      冥権は仏・菩薩のはかりしれない権(てだて)。 はからいをせずとも、すべて
      にかなうはたらきをするということ。


≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>第三段中肇公言者。問。是指誰人指何書乎。答。羅什三蔵有其四子。各為英傑。世称之言
>生肇融叡。生者道生。肇者僧肇。融者道融。叡者僧叡。今肇公者。即僧肇也。此人造論曰
>之肇論。依維摩経所記書也。彼論序云。夫聖智無知而万品倶照。次法身下如今所引。
>此釈之意。三論宗旨甚深義理不及輙述。詞雖幽玄。総而言之。是則不行而行意也。
>--------------------------------------------------------------------------------
>第三段の中に「肇公言」とは、問う、これ誰人を指し、何れの書を指すや。答う、羅什
>三蔵にその四子あり。おのおの英傑たり。世にこれを称して生・肇・融・叡という。生と
>は道生、肇とは僧肇、融とは道融、叡とは僧叡なり。今の肇公とは即ち僧肇なり。この人、
>論を造る。これを『肇論』という。『維摩経』に依りて記する所の書なり。彼の論の序に
>云わく「それ聖智は無知にして万品倶に照す」。次法身の下は今の所引の如し。この釈の
>意なり。三論の宗旨、甚深の義理は輙く述ぶるに及ばず。詞は幽玄なりといえども、総じ
>てこれを言わば、これ則ち不行而行の意なり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  第三段のなかの「肇公言」について問う。これはだれを指して、何の書物を指すのか。
  答える。羅什三蔵に、四人の弟子がいる。おのおの英傑である。世にこれを称して、
  生・肇・融・叡という。生とは道生、肇とは僧肇、融とは道融、叡とは僧叡である。
  今の肇公とは、僧肇のことである。この人が論を書いている。これを『肇論』という。
  『維摩経』によって書いたものである。その論の序にこう述べる。「聖智は、無知
  (無分別智)であって、生きとし生けるものをともに照らす。」次の法身の下は、今の
  引用箇所のとおりである。これは、この釈の意(こころ)である。三論宗の宗旨につい
  て、その甚深の義(考え方)と理(ことわり)は、たやすく述べることはできない。
  詞(ことば)は幽玄であるが、総じて言えば、「不行而行」の意(こころ)である。

  WikiArc
    無知
      思慮分別を離れた無分別智のこと。
    三論宗
      龍樹菩薩の『中論』『十二門論』とその弟子提婆の『百論』にもとづいて
      成立した宗派。インドの中観派を中国に移したもので、鳩摩羅什にはじまり、
      吉蔵によって大成された。日本へは推古天皇33年(625)に、高句麗僧慧灌に
      よって伝えられた。南都六宗の一。

  日本国語大辞典
    万品
      この世に生きるものすべて。生きとし生けるもの。万物。
    幽玄
      物事のおもむきが深く、人知でははかり知ることができないこと。奥深く
      深遠ではかり知れないこと。

●re.41
ボン
東京の男性
[ 2734 ] Re41:教行信証・学習ノート9 2012/05/12 (Sat) 12:48 △up ▽down
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四者彼於十方一切世界無三宝処。住持荘厳仏法僧宝功徳大海。遍示令解如実修行。偈言何
等世界無仏法功徳宝。我願皆往生示仏法如仏故。上三句雖言遍至。皆是有仏国土。若無此
句。便是法身有所不法。上善有所不善。観行体相竟。
--------------------------------------------------------------------------------
(論註)四には、かれ十方一切の世界に、三宝ましまさぬ処において、仏法僧宝功徳の大海
を住持し荘厳して、遍く示して、如実の修行を解らしむ。偈に何等世界無仏法功徳宝。我
願皆往生示仏法如仏(何等の世界なりと、仏法功徳の宝なきには、我、皆往生して仏法を
示すこと仏のごとくならんと願ず)と言えるがゆえにと。上の三句は、遍く至ると言うと
いえども、みなこれ有仏の国土なり。もしこの句なくは、すなわちこれ法身、法ならざる
所あらん。上善、善ならざる所あらん。観行体相竟りぬ。
--------------------------------------------------------------------------------


≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
第四段中言上三句雖言等者。此述当段利益周備。其意見註。不能更述。然而猶粗解其意。
上三句者。於有仏国挙遍至徳。未顕無仏世界利益。今至此句彰無仏法功徳宝処住持行相。
是故利物於此円満。功徳於此具足而已。問。三段句数各有一四句偈之故十二句也。何云三
句。准初標者。可云四種。若依章段。可云三章三段等歟。如何。答。唯識論云。名詮自性。
句詮差別。已上。就差別義云句無過。即下釈中国土荘厳云十七句。如来荘厳称曰八句。菩
薩荘厳又云四句。皆此意也。於外典中。又有其例。謂以絶句四韻等作。雖為一首。称一句
詩。是常事也。可准拠歟。便是等者。無三宝処利益。若闕欲明可有法身不遍上善不具之過
意也。言上善者。諸大菩薩所得善法功徳等也。智光疏釈当章意云。然諸大菩薩。普於十方
無量世界。若有三宝処。若無三宝処。受五種生随其所応救済有情令修仏法。此中且就無三
宝処。菩薩受生示法令行。已上。五種生者。一除災生。二随類生。三大勢生。四増上生。
五最勝生。同疏列之。具雖解釈依繁略之。若欲知者可見彼疏。
--------------------------------------------------------------------------------
第四段の中に「上三句雖言」等というは、これ当段の利益の周備せることを述ぶ。その意
は註に見えたり、更に述ぶるに能わず。然るになお、ほぼその意を解す。上の三句は有仏
の国に於いて遍至の徳を挙ぐ。未だ無仏の世界の利益を顕わさず。今、この句に至りて
仏法功徳の宝なき処の住持の行相を彰わす。この故に利物はここに於いて円満し、功徳は
ここに於いて具足すらくのみ。問う、三段の句数は、おのおの一四句偈ある故に十二句な
り。何ぞ三句というや。初の標に准ぜば四種というべし。もし章段に依らば三章・三段等
というべきか、如何。答う、『唯識論』に云わく「名は自性を詮し、句は差別を詮す」
已上。差別の義に就きて句というに過なし。即ち下の釈の中に、国土の荘厳を十七句とい
い、如来の荘厳を称して八句といい、菩薩の荘厳をまた四句という。皆この意なり。外典
の中に於いて、またその例あり。謂わく絶句四韻等の作を以て、一首たりといえども、
一句の詩と称うる、これ常の事なり。准拠すべきか。「便是」等とは、無三宝処の利益、
もし闕くれば法身不遍・上善不具の過あるべきことを明かさんと欲する意なり。「上善」
というは、諸の大菩薩所得の善法功徳等なり。智光の疏に当章の意を釈して云わく「然も
諸の大菩薩は普く十方無量世界の、もしは三宝ある処、もしは三宝なき処に於いて、五種
の生を受けてその所応に随いて有情を救済し、仏法を修せしむ。この中に且く無三宝処に
就きて、菩薩は生を受けて法を示して行ぜしむ」已上。五種の生とは、一には除災生、
二には随類生、三には大勢生、四には増上生、五には最勝生なり。同じき疏に、これを
列ぬ。具に解釈すといえども、繁に依りてこれを略す。もし知らんと欲せば、彼の疏を
見るべし。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.42
ボン
東京の男性
[ 2735 ] Re42:教行信証・学習ノート9 2012/05/12 (Sat) 12:48 △up ▽down
>--------------------------------------------------------------------------------
>四者彼於十方一切世界無三宝処。住持荘厳仏法僧宝功徳大海。遍示令解如実修行。偈言何
>等世界無仏法功徳宝。我願皆往生示仏法如仏故。上三句雖言遍至。皆是有仏国土。若無此
>句。便是法身有所不法。上善有所不善。観行体相竟。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(論註)四には、かれ十方一切の世界に、三宝ましまさぬ処において、仏法僧宝功徳の大海
>を住持し荘厳して、遍く示して、如実の修行を解らしむ。偈に何等世界無仏法功徳宝。我
>願皆往生示仏法如仏(何等の世界なりと、仏法功徳の宝なきには、我、皆往生して仏法を
>示すこと仏のごとくならんと願ず)と言えるがゆえにと。上の三句は、遍く至ると言うと
>いえども、みなこれ有仏の国土なり。もしこの句なくは、すなわちこれ法身、法ならざる
>所あらん。上善、善ならざる所あらん。観行体相竟りぬ。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (論註)四には、かれ(仏・菩薩)は、十方の一切の世界の、三宝(仏法僧)のないところ
  において、仏法僧宝(三宝)の功徳の大海を住持し荘厳して、それをあまねく示して、
  如実の修行を(衆生に)解らせる。偈に「何等世界無仏法功徳宝。我願皆往生示仏法如
  仏(どのような世界であろうと、仏法功徳の宝のないところでも、私は、皆が往生し
  て、仏のように仏法を示すようになることを願う)」と言うからである。上の三句は、
  あまねく至ると言ってはいるが、みなこれは仏のいる国土のことである。もし、この
  句がなければ、法身とはいっても、法のないところがあることになるであろう。最高
  の善とはいっても、善とはいえないところがあるであろう。行体の相(すがた)を観察
  することは、以上のとおりである。

  WikiArc
    住持
       とどめたもち、支えること。
    如実修行相応
      真如の理にしたがって修行し、その信ずるところ、修するところが真如にか
      なうこと。また、阿弥陀仏の本願に相応し、教のごとくに修行して法に違わ
      ないこと。
    観行の体相
      観察の対象となる国土・仏・菩薩の荘厳相を明かす。

    如実
      仏語。(1)思慮や分別を超えたありのままの真実のすがた。真如。
         (2)真実の教えや理にかなっていること。また、その信心。


≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>第四段中言上三句雖言等者。此述当段利益周備。其意見註。不能更述。然而猶粗解其意。
>上三句者。於有仏国挙遍至徳。未顕無仏世界利益。今至此句彰無仏法功徳宝処住持行相。
>是故利物於此円満。功徳於此具足而已。問。三段句数各有一四句偈之故十二句也。何云三
>句。准初標者。可云四種。若依章段。可云三章三段等歟。如何。答。唯識論云。名詮自性。
>句詮差別。已上。就差別義云句無過。即下釈中国土荘厳云十七句。如来荘厳称曰八句。菩
>薩荘厳又云四句。皆此意也。於外典中。又有其例。謂以絶句四韻等作。雖為一首。称一句
>詩。是常事也。可准拠歟。便是等者。無三宝処利益。若闕欲明可有法身不遍上善不具之過
>意也。言上善者。諸大菩薩所得善法功徳等也。智光疏釈当章意云。然諸大菩薩。普於十方
>無量世界。若有三宝処。若無三宝処。受五種生随其所応救済有情令修仏法。此中且就無三
>宝処。菩薩受生示法令行。已上。五種生者。一除災生。二随類生。三大勢生。四増上生。
>五最勝生。同疏列之。具雖解釈依繁略之。若欲知者可見彼疏。
>--------------------------------------------------------------------------------
>第四段の中に「上三句雖言」等というは、これ当段の利益の周備せることを述ぶ。その意
>は註に見えたり、更に述ぶるに能わず。然るになお、ほぼその意を解す。上の三句は有仏
>の国に於いて遍至の徳を挙ぐ。未だ無仏の世界の利益を顕わさず。今、この句に至りて
>仏法功徳の宝なき処の住持の行相を彰わす。この故に利物はここに於いて円満し、功徳は
>ここに於いて具足すらくのみ。問う、三段の句数は、おのおの一四句偈ある故に十二句な
>り。何ぞ三句というや。初の標に准ぜば四種というべし。もし章段に依らば三章・三段等
>というべきか、如何。答う、『唯識論』に云わく「名は自性を詮し、句は差別を詮す」
>已上。差別の義に就きて句というに過なし。即ち下の釈の中に、国土の荘厳を十七句とい
>い、如来の荘厳を称して八句といい、菩薩の荘厳をまた四句という。皆この意なり。外典
>の中に於いて、またその例あり。謂わく絶句四韻等の作を以て、一首たりといえども、
>一句の詩と称うる、これ常の事なり。准拠すべきか。「便是」等とは、無三宝処の利益、
>もし闕くれば法身不遍・上善不具の過あるべきことを明かさんと欲する意なり。「上善」
>というは、諸の大菩薩所得の善法功徳等なり。智光の疏に当章の意を釈して云わく「然も
>諸の大菩薩は普く十方無量世界の、もしは三宝ある処、もしは三宝なき処に於いて、五種
>の生を受けてその所応に随いて有情を救済し、仏法を修せしむ。この中に且く無三宝処に
>就きて、菩薩は生を受けて法を示して行ぜしむ」已上。五種の生とは、一には除災生、
>二には随類生、三には大勢生、四には増上生、五には最勝生なり。同じき疏に、これを
>列ぬ。具に解釈すといえども、繁に依りてこれを略す。もし知らんと欲せば、彼の疏を
>見るべし。
>--------------------------------------------------------------------------------

  第四段のなかで「上三句雖言・・・」等というのは、当段の利益があまねく備わって
  いることを述べたものである。その意(こころ)は「論註」に示されているので、更に
  述べるまでもない。それでもなお、おおまかにその意(こころ)を解釈する。上の三句
  は、仏のいる国における「遍至(あまねく至る)の徳」を挙げている。しかし、それは、
  いまだ仏のいない世界の利益を表すものではない。今、この句(第4の句)にいたって、
  仏法の功徳の宝のないところでの住持の行相を彰わすのである。だから、衆生の利益
  はここにおいて完全無欠のものとなり、功徳はここにおいて揃い整うのであろう。


  問う。三段の句数は、おのおの一つに四句の偈があるから、十二句である。どうして
  三句というのか。初めの標(しるし)に準ずれば、四種というべきである。もし章段に
  よるなば、三章・三段などというべきであろうか、どうだろう。答うえる。『唯識論』
  にこう述べる。「名は自性にいきつき、句は差別にいきつく。」差別の義(考え方)に
  ついて、句というのは間違いではない。すなわち、下の釈のなかで、国土の荘厳を17
  句といい、如来の荘厳を称して8句といい、菩薩の荘厳をまた4句という。すべてこの
  意(考え方)である。外典においてもその例がある。いわく、四韻の絶句などの作って、
  これを一首であるというが、それを一句の詩と称するのは常の事である。これに準拠
  すべきであろう。

  日本国語大辞典
    自性
      仏語。物それ自体の独自の本性。本来の性質。本性。
    差別
      仏語。万物の本体の、一如平等であるのに対し、その万物における高下、
      善悪などの特殊相のこと。


  「便是・・・」等については、もし無三宝処(三宝のないところ)の利益がないならば、
  法身があまねく行き渡らず、上善がそなわらないという誤りがあるであろうことを明
  らかにしようとするものである。「上善」というのは、もろもろの大菩薩が得るとこ
  ろの善法功徳などである。智光の疏に当章の意(こころ)を釈してこう述べる。「しか
  も、もろもろの大菩薩は、あまねく十方無量世界の、三宝のあるところや三宝のない
  ところにおいて、五種の生を受けて、その願いにしたがって有情を救済し、仏法を修
  めさせる。菩薩は、しばらくのあいだ無三宝処(三宝のないところ)に生を受けて、法
  を示してそれを行じさせるのである。」五種の生とは、一には除災生、二には随類生、
  三には大勢生、四には増上生、五には最勝生である。同じ疏に、これを列挙し、詳し
  く解釈しているが、煩雑になるので省略する。もし知りたければ、その疏を見てくだ
  さい。

  WikiArc
    智光(709-780頃)
      元興寺三論の学僧。 河内(現在の大阪府)の人。 同門の礼光とともに阿弥陀仏
      の浄土を欣求したと伝えられる。 曇鸞大師の『論註』に依拠して、天親菩薩
      の『浄土論』を註釈し『無量寿経論釈』五巻を著した。

  日本国語大辞典
    除災
      災害を除いて安楽を与えること。
    随類
      仏語。仏菩薩が、衆生凡夫の素質、能力の相違にしたがって身を現わし、
      教化すること。
    大勢
      大きな権勢があること。大きな威勢。
    増上
      仏語。力が加わること。強大になること。すぐれていること。
    最勝
      最もすぐれていること。いちばんまさっていること。また、そのもの。

  http://ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/5591/1/KJ342200089.pdf
   〔五種の生とは〕
     (1) 除災生 (災難を静める生)
     (2) 随類生 (それと同等の種類に随う生)
     (3) 大勢生 (偉大なるものとして生まれる生)
     (4) 増上生 (業のカによる生)
     (5) 最後生 (無上の開悟を得る生)

●re.43
ボン
東京の男性
[ 2737 ] Re43:教行信証・学習ノート9 2012/05/13 (Sun) 02:27 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
已下是解義中第四重。名為浄入願心。浄入願心者。又向説観察荘厳仏土功徳成就・荘厳仏
功徳成就・荘厳菩薩功徳成就。此三種成就願心荘厳。応知。応知者。応知此三種荘厳成就。
由本四十八願等清浄願心之所荘厳。因浄故果浄。非無因他因有也。
--------------------------------------------------------------------------------
(論註)已下はこれ解義の中の第四重なり。名づけて浄入願心とす。浄入願心とは、また、
さきに観察荘厳仏土功徳成就と、荘厳仏功徳成就と、荘厳菩薩功徳成就とを説きつ。この
三種の成就は願心荘厳せり。知るべしといえり。知るべしとは、この三種の荘厳成就は、
もとの四十八願等の清浄願心の荘厳したまうところなるによって、因浄なるがゆえに果浄
なり。因なくして他の因のあるにはあらざるなりということを知るべしとなり。
--------------------------------------------------------------------------------


≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
浄入願心章中有二。一註中自言已下已来二十字者。結前生後。又牒章目。二又向説下是正
釈也。此有五段。今是其初。SYOZEN2-335/TAI7-413

此第一段正是浄入願心義也。当段之文第三巻本被引用之。仍於彼下解章目意。粗述大意。
故今略之。因浄等者。是破外道所執妄計。言無因者。於五見中是指邪見。他因有者戒禁
取也。
--------------------------------------------------------------------------------
浄入願心の章の中に二あり。一に註の中に「已下」というより已来二十字は、前を結して
後を生じ、また章目を牒す。二に「又向説」の下はこれ正釈なり。これに五段あり。今は
これその初なり。

この第一段は正しくこれ浄入願心の義なり。当段の文は第三巻の本にこれを引用せらる。
仍て彼の下に於いて章目の意を解し、ほぼ大意を述ぶ。故に今はこれを略す。「因浄」等
とは、これ外道所執の妄計を破す。「無因」というは、五見の中に於いて、これ邪見を指
す。「他因有」とは戒禁取なり。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.44
ボン
東京の男性
[ 2738 ] Re44:教行信証・学習ノート9 2012/05/13 (Sun) 02:29 △up ▽down
本文と六要鈔の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>已下是解義中第四重。名為浄入願心。浄入願心者。又向説観察荘厳仏土功徳成就・荘厳仏
>功徳成就・荘厳菩薩功徳成就。此三種成就願心荘厳。応知。応知者。応知此三種荘厳成就。
>由本四十八願等清浄願心之所荘厳。因浄故果浄。非無因他因有也。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(論註)已下はこれ解義の中の第四重なり。名づけて浄入願心とす。浄入願心とは、また、
>さきに観察荘厳仏土功徳成就と、荘厳仏功徳成就と、荘厳菩薩功徳成就とを説きつ。この
>三種の成就は願心荘厳せり。知るべしといえり。知るべしとは、この三種の荘厳成就は、
>もとの四十八願等の清浄願心の荘厳したまうところなるによって、因浄なるがゆえに果浄
>なり。因なくして他の因のあるにはあらざるなりということを知るべしとなり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (論註)以下は、解義分のなかの第四重であり、これを浄入願心と名づける。浄入願心
  については、さきに観察荘厳仏土功徳成就と、荘厳仏功徳成就と、荘厳菩薩功徳成就
  とを説いた。この三種の成就は、願心を荘厳したものであることを、知るべきである
  といった。知るべきであるというのは、この三種の荘厳の成就は、もとの四十八願等
  の清浄な願心の荘厳したものであることから、因が清浄だから果も清浄だということ
  である。(願心の)因がなくて、他の因のあるということではない、ということを知る
  べきである。

  WikiArc
    浄入願心
      国土荘厳・仏荘厳・菩薩荘厳として示される浄土の徳は、法蔵菩薩が生きと
      し生けるものを救いたいと願われた大悲の心にもとづくものであるから、因
      にかえしていえば阿弥陀仏の因位における法蔵菩薩の清浄願心におさまると
      いうこと。
    願心
      一切衆生を浄土に生れさせようという法蔵菩薩の願い。
    因なくして・・・知るべしとなり
      通常は「無因と他因の有にはあらざるを知るべしとなり」と読む。
    無因と他因の有にはあらざる(論註)
      浄土は清浄願心によって成就したのだから無因ではなく、願心以外に因はな
      いから、他因の有でもない。 願心荘厳の正縁起の世界であることをあらわす。
      なお親鸞聖人は 「因なくして他の因のあるにはあらざるなり」 と読まれた。


≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>浄入願心章中有二。一註中自言已下已来二十字者。結前生後。又牒章目。二又向説下是正
>釈也。此有五段。今是其初。SYOZEN2-335/TAI7-413

>此第一段正是浄入願心義也。当段之文第三巻本被引用之。仍於彼下解章目意。粗述大意。
>故今略之。因浄等者。是破外道所執妄計。言無因者。於五見中是指邪見。他因有者戒禁
>取也。
>--------------------------------------------------------------------------------
>浄入願心の章の中に二あり。一に註の中に「已下」というより已来二十字は、前を結して
>後を生じ、また章目を牒す。二に「又向説」の下はこれ正釈なり。これに五段あり。今は
>これその初なり。

>この第一段は正しくこれ浄入願心の義なり。当段の文は第三巻の本にこれを引用せらる。
>仍て彼の下に於いて章目の意を解し、ほぼ大意を述ぶ。故に今はこれを略す。「因浄」等
>とは、これ外道所執の妄計を破す。「無因」というは、五見の中に於いて、これ邪見を指
>す。「他因有」とは戒禁取なり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  浄入願心の章のなかに、二つがある。一つに、「論註」のなかの「已下」からあとの
  二十字は、前を結んで後を生じさせ、また章目を示すものである。二つに、「又向説」
  の下は、正釈である。これに五段がある。今のところは、その初めである。

  この第一段は、まさしく浄入願心の義(考え方)である。当段の文は、第三巻(信巻)に
  も引用している。したがって、そこで章目の意(こころ)を解説し、ほぼ大意を述べて
  いる。だから、ここではこれを略す。「因浄・・・」等については、外道にとらわれ
  た妄計を破するものである。「無因」というのは、五見のなかの邪見を指す。
  「他因有」とは戒禁取である。

  大辞泉
    五見
      仏語。仏教で批判される五つの誤った見解。実体的自我があるとする我見と
      一切のものが我に属するとする我所見とを合わせた有身見、自我は断絶する
      あるいは死後も常住であると一方の極端に偏る辺執見、因果の道理を否定す
      る邪見、自らの見解だけを最高とし他の見解を誤りとする見取見、誤った
      戒律や誓いを守ることで解脱が得られるとする戒禁取見(戒取見)の五つ。

【六要鈔・信巻の解説】
--------------------------------------------------------------------------------
「浄入願心者」というは、浄とは三種の荘厳、その体無漏なり。即ちこれ果浄なり。入と
いうは、因位の願心に酬入する義なり。願心は即ち四十八願の体、また無漏なり。即ちこ
れ因浄なり。六八の願心はその因浄なるが故に、三種の荘厳は、その果また浄なり。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.45
ボン
東京の男性
[ 2741 ] Re45:教行信証・学習ノート9 2012/05/23 (Wed) 01:07 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
略説入一法句故。上国土荘厳十七句・如来荘厳八句・菩薩荘厳四句為広。入一法句者為略。
何故示現広略相入。諸仏菩薩有二種法身。一者法性法身。二者方便法身。由法性法身生方
便法身。由方便法身出法性法身。此二法身。異而不可分。一而不可同。是故広略相入統以
法名。菩薩若不知広略相入。則不能自利利他。
--------------------------------------------------------------------------------
(論註)略して入一法句を説くがゆえに。上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩
の荘厳四句とを広とす。入一法句は略とす。何ゆえぞ広略相入を示現すとならば、諸仏菩薩
に二種の法身あり。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身に由りて方便法身を
生じ、方便法身に由りて法性法身を出だす。この二法身は、異にして、而も分かつべから
ず。一にして同ずべからず。このゆえに広略相入して、統〈かぬる・すぶる〉に法の名を
もってす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなわち自利利他することあたわず。
--------------------------------------------------------------------------------


≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
略説以下第二段也。入一等者。合以依正二十九句荘厳成就。皆悉摂入一法句中。一法句者。
一法二字。所詮法体。句一字者能詮名字。以彼三種入一法句。以之為名。智光疏云。第四
浄入願心即分二。一因果相成。二入一法句。已上。此釈之意以下三段摂当段歟。一者法性
法身。二者方便法身等者。問。依何経論立二身乎。答。智度論云。一者法性生身仏。二随
衆生優劣現化仏。為法性生身仏故。説乃至聞名得度。為衆生現身仏故。説雖共仏住。随業
因縁有堕地獄者。法性生身仏者。無事不弁。無願不満。已上。智光疏云。龍猛説二種仏。
一法性生身仏。二随衆生現身仏。即以本迹為二法身。由法性法身出方便法身。即以本垂迹。
由方便法身出法性法身。即以迹顕本。此二法身異而不可分。一而不可同。已上。此疏之中。
龍猛言者。指上論歟。問。云生云出有何別耶。答。言生者起。出者顕也。是故広略相入。
乃至。不能自利利他者。法性法身是自利徳。方便法身利他徳也。
--------------------------------------------------------------------------------
「略説」以下は第二段なり。「入一」等とは、合して依正二十九句の荘厳成就を以て、
皆悉く一法句の中に摂入す。一法句とは、一法の二字は所詮の法体なり。句の一字は能詮
の名字なり。彼の三種を以て一法句に入る。これを以て名と為す。智光の疏に云わく
「第四に浄入願心、即ち二を分かつ。一には因果相成、二には入一法句なり」已上。この
釈の意は以下の三段を当段に摂するか。「一には法性法身、二には方便法身」等とは、
問う、何れの経論に依りて二身を立つるや。答う、『智度論』に云わく「一には法性生身
の仏、二には随衆生優劣現化の仏。法性生身の仏の為の故に、乃至、名を聞きて得度すと
説く。衆生現身の仏の為の故に、仏と共に住すといえども、業因縁に随いて地獄に堕す者
ありと説く。法性生身の仏とは、事として弁ぜざることなく、願として満ぜざることなし」
已上。智光の疏に云わく「龍猛は二種の仏を説く。一には法性生身の仏、二には随衆生現身
の仏なり。即ち本迹を以て二法身と為す。法性法身に由りて方便法身を出だす。即ち本を
以て迹を垂る。方便法身に由りて法性法身を出だす。即ち迹を以て本を顕わす。この二法身
は異にして分かつべからず。一にして同ずべからず」已上。この疏の中に「龍猛言」とは、
上の論を指すか。問う、生といい、出という、何の別かあるや。答う、生というは起、
出とは顕なり。「是故広略相入。乃至。不能自利利他」とは、法性法身はこれ自利の徳、
方便法身は利他の徳なり。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.46
ボン
東京の男性
[ 2742 ] Re46:教行信証・学習ノート9 2012/05/23 (Wed) 01:07 △up ▽down
本文と六要鈔の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>略説入一法句故。上国土荘厳十七句・如来荘厳八句・菩薩荘厳四句為広。入一法句者為略。
>何故示現広略相入。諸仏菩薩有二種法身。一者法性法身。二者方便法身。由法性法身生方
>便法身。由方便法身出法性法身。此二法身。異而不可分。一而不可同。是故広略相入統以
>法名。菩薩若不知広略相入。則不能自利利他。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(論註)略して入一法句を説くがゆえに。上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩
>の荘厳四句とを広とす。入一法句は略とす。何ゆえぞ広略相入を示現すとならば、諸仏菩薩
>に二種の法身あり。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身に由りて方便法身を
>生じ、方便法身に由りて法性法身を出だす。この二法身は、異にして、而も分かつべから
>ず。一にして同ずべからず。このゆえに広略相入して、統〈かぬる・すぶる〉に法の名を
>もってす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなわち自利利他することあたわず。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (論註)略して「一法句に収まり入るから」と説く。上述の国土の荘厳十七句と、如来
  の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広(詳細)とする。「入一法句」は略(簡略)とする。
  どうして広略相入(広と略が相互におさまり入ること)を示し現すかといえば、諸仏菩薩
  に二種の法身があるからである。一つには法性法身、二つには方便法身である。法性
  法身によって方便法身を生じ、方便法身によって法性法身が出てくる。この二つの法身
  は、異なったものであるが、分けられるものでもない。一つのものでありながら同じ
  ものではない。だから、広略相入して、法の名によって統一させるのである。菩薩が、
  もし、広略相入を知らなかったら、自利利他することができない。

  WikiArc
    一法句
      真如法性のこと
    入一法句
      真如法性におさまり入ること。
    広略相入
      広は浄土の二十九種荘厳、略は一法句を指す。真如法性の略から浄土荘厳の
      広が生じ、浄土荘厳の広により一法句の徳をあらわす。広略が相互に摂入す
      るありさまを広略相入という。
    法性法身
      色も形もない真如法性の理体のこと。
    方便法身
      真如そのものである法性法身が、衆生救済のために名を示し形を現した仏身
      のこと。

  日本国語大辞典
    広略
      仏語。広と略。内容を詳細に述べることと簡略に述べること。


≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>略説以下第二段也。入一等者。合以依正二十九句荘厳成就。皆悉摂入一法句中。一法句者。
>一法二字。所詮法体。句一字者能詮名字。以彼三種入一法句。以之為名。智光疏云。第四
>浄入願心即分二。一因果相成。二入一法句。已上。此釈之意以下三段摂当段歟。一者法性
>法身。二者方便法身等者。問。依何経論立二身乎。答。智度論云。一者法性生身仏。二随
>衆生優劣現化仏。為法性生身仏故。説乃至聞名得度。為衆生現身仏故。説雖共仏住。随業
>因縁有堕地獄者。法性生身仏者。無事不弁。無願不満。已上。智光疏云。龍猛説二種仏。
>一法性生身仏。二随衆生現身仏。即以本迹為二法身。由法性法身出方便法身。即以本垂迹。
>由方便法身出法性法身。即以迹顕本。此二法身異而不可分。一而不可同。已上。此疏之中。
>龍猛言者。指上論歟。問。云生云出有何別耶。答。言生者起。出者顕也。是故広略相入。
>乃至。不能自利利他者。法性法身是自利徳。方便法身利他徳也。
>--------------------------------------------------------------------------------
>「略説」以下は第二段なり。「入一」等とは、合して依正二十九句の荘厳成就を以て、
>皆悉く一法句の中に摂入す。一法句とは、一法の二字は所詮の法体なり。句の一字は能詮
>の名字なり。彼の三種を以て一法句に入る。これを以て名と為す。智光の疏に云わく
>「第四に浄入願心、即ち二を分かつ。一には因果相成、二には入一法句なり」已上。この
>釈の意は以下の三段を当段に摂するか。「一には法性法身、二には方便法身」等とは、
>問う、何れの経論に依りて二身を立つるや。答う、『智度論』に云わく「一には法性生身
>の仏、二には随衆生優劣現化の仏。法性生身の仏の為の故に、乃至、名を聞きて得度すと
>説く。衆生現身の仏の為の故に、仏と共に住すといえども、業因縁に随いて地獄に堕す者
>ありと説く。法性生身の仏とは、事として弁ぜざることなく、願として満ぜざることなし」
>已上。智光の疏に云わく「龍猛は二種の仏を説く。一には法性生身の仏、二には随衆生現身
>の仏なり。即ち本迹を以て二法身と為す。法性法身に由りて方便法身を出だす。即ち本を
>以て迹を垂る。方便法身に由りて法性法身を出だす。即ち迹を以て本を顕わす。この二法身
>は異にして分かつべからず。一にして同ずべからず」已上。この疏の中に「龍猛言」とは、
>上の論を指すか。問う、生といい、出という、何の別かあるや。答う、生というは起、
>出とは顕なり。「是故広略相入。乃至。不能自利利他」とは、法性法身はこれ自利の徳、
>方便法身は利他の徳なり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  「略説」以下は、第二段である。「入一・・・」等については、合わせて依報と正報
  の二十九句の荘厳成就を、みなことごとく、一法句のなかに含むということである。
  一法句についていうと、一法の二字は所詮の法体であり、句の一字は能詮の名字であ
  る。かの三種の荘厳が、一法句に含まれる。これを名とする。智光の疏に、こう述べ
  る。「第四の浄入願心は、二つに分かれる。一つには因果相成、二つには入一法句で
  ある。」この釈の意(こころ)は、以下の三段を当段に摂するということであろうか。

  日本国語大辞典
    所詮
      仏語。言語、文字などで表わされるもの。能詮に対していう。
    能詮
      仏語。教法など、その示そうとする意味、内容を表わす言語・文字をいう。
      所詮に対していう。

  WikiArc
    浄入願心
      国土荘厳・仏荘厳・菩薩荘厳として示される浄土の徳は、法蔵菩薩が生きと
      し生けるものを救いたいと願われた大悲の心にもとづくものであるから、
      因にかえしていえば阿弥陀仏の因位における法蔵菩薩の清浄願心に
      おさまるということ。


  「一には法性法身、二には方便法身・・・」等について問う。いずれの経論をもとに、
  この二身を立てるのであろうか。答える。『智度論』にこう述べる。「一つには法性
  生身の仏、二つには随衆生優劣現化の仏(衆生の優劣にしたがって現化する仏)。法性
  生身の仏であるから、(中略)その名を聞いて得度すると説く。衆生現身であるから、
  仏とともに住すといえども、悪業の因縁にしたがって地獄に堕ちる者があると説く。
  法性生身の仏とは、事として成し遂げられないものはなく、願として満たされないも
  のもない。」智光の疏にこう述べる。「龍猛(龍樹)は二種の仏を説く。一つには法性
  生身の仏、二つには随衆生現身の仏(衆生にしたがって身を現す仏)である。すなわち、
  本迹(本地と垂迹)をもって、二つの法身とする。法性法身によって方便法身を出だす。
  すなわち、本(本地)をもって迹(垂迹)を垂れる。方便法身によって法性法身を出だす。
  すなわち、迹(垂迹)をもって本(本地)を顕わす。この二つの法身は、異なるものであ
  るが、分けることができない。一つであるが、同じものではない。」この疏のなかで
  「龍猛言・・・」というのは、上の論を指すのであろうか。

  WikiArc
    法性生身
      法性より生じた身体。
    業因縁
      悪業をつくらればならないような因縁。

  日本国語大辞典
    本迹
      本地と垂迹。
    本地
      仏語。本地垂迹説によるもので、世の人を救うために神となって垂迹したそ
      の本の仏・菩薩をいう。神はこの世に仮に姿を表わした垂迹身で、仏・菩薩
      をその真実身である本体とするもの。たとえば、天照大神の本地は大日如来
      だとする。
    垂迹
      仏語。本体である本地としての仏や菩薩が、その衆生を済度する目的で、
      仮に神や人間などの姿となって現われること。たとえば日本固有の神々は、
      仏が衆生教化のために現われたものとする考え方。本地垂迹。
      また、神が鎮座していること。
    垂れる
      神仏が加護や恵みなどをあらわし示す。


  問う。生(生ずる)と言い、また、出(出だす)と言う。そこに何の区別があるのか。
  答える。生(生ずる)というのは起(起こる)、出(出だす)とは顕(顕われる)である。
  「是故広略相入。乃至。不能自利利他」について言うと、法性法身は自利の徳、
  方便法身は利他の徳である。

●re.47
ボン
東京の男性
[ 2743 ] Re47:教行信証・学習ノート9 2012/06/01 (Fri) 02:17 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
一法句者。謂清浄句。清浄句者。謂真実智慧無為法身故。此三句展転相入。依何義名之為
法。以清浄故。依何義名為清浄。以真実智慧無為法身故。真実智慧者実相智慧也。実相無
相故真智無知也。無為法身者法性身也。法性寂滅故法身無相也。無相故能無不相。是故相
好荘厳即法身也。無知故能無不知。是故一切種智即真実智慧也。以真実而目智慧。明智慧
非作非非作也。以無為而樹法身。明法身非色非非色也。非于非者。豈非非之能是乎。蓋無
非之曰是也。自是無待復非是也。非是非非。百非之所不喩。是故言清浄句。清浄句者。
謂真実智慧無為法身也。
--------------------------------------------------------------------------------
(論註)一法句とは、いわく清浄句なり。清浄句とは、いわく真実智慧無為法身なるがゆえ
に。この三句は展転して相入す。何の義に依りてか、これを名づけて法とする、清浄をも
ってのゆえに。何の義に依りてか、名づけて清浄とする、真実智慧無為法身をもっての故
になり。真実智慧とは実相の智慧なり。実相は無相なるがゆえに、真智は無知なり。無為
法身とは法性身なり。法性寂滅なるがゆえに、法身無相なり。無相のゆえによく相ならざ
ることなし。このゆえに相好荘厳すなわち法身なり。無知のゆえによく知らざることなし。
このゆえに一切種智すなわち真実の智慧なり。真実をもってして智慧に目〈なづ〉くるこ
とは、智慧は作にあらず非作にあらざることを明かすなり。無為をもって、而して法身を
樹つることは、法身は色にあらず非色にあらざることを明かすなり。非にあらざれば、あ
に非のよく是なるにあらざらんや。けだし非なき、これを是と曰うなり。自ずから是にし
て、また是にあらざることを待つことなきなり。是にあらず、非にあらず、百非の喩えざ
るところなり。このゆえに清浄句と言えり。清浄句とは、いわく真実の智慧、無為法身な
り。
--------------------------------------------------------------------------------


≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
一法句下。是第三段。釈一法句。三句展転相入等者。問。真実智慧無為法身。是為一法為
別法耶。答。依相宗意。是為別法。能証之智所証之理為各別故。依性宗意。是為一法。理
智不二之極談故。今鸞師者。是性宗故。今釈所述。真実智慧即是無為法身義也。凡当段意。
甚深義趣。愚鈍領解輙以難及。閑伺宗旨可加料簡。謂其大意。已云百非之所不喩。是故千
是所不顕也。SYOZEN2-336/TAI7-444
--------------------------------------------------------------------------------
「一法句」の下は、これ第三段。一法句を釈す。「三句展転相入」等とは、問う、真実智慧
・無為法身は、これ一法たりや、別法たりや。答う、相宗の意に依らば、これ別法と為す。
能証の智、所証の理、各別たるが故に。性宗の意に依らば、これ一法たり。理智不二の
極談なるが故に。今鸞師は、これ性宗なるが故に、今の釈に述ぶる所は、真実智慧即ちこ
れ無為法身の義なり。凡そ当段の意は甚深の義趣にして、愚鈍の領解は輙く以て及び難し。
閑に宗旨を伺いて料簡を加うべし。その大意を謂うに、已に百非の喩えざる所という。
この故に千是も顕わさざる所なり。
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●re.48
ボン
東京の男性
[ 2744 ] Re48:教行信証・学習ノート9 2012/06/01 (Fri) 02:18 △up ▽down
本文と六要鈔の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>一法句者。謂清浄句。清浄句者。謂真実智慧無為法身故。此三句展転相入。依何義名之為
>法。以清浄故。依何義名為清浄。以真実智慧無為法身故。真実智慧者実相智慧也。実相無
>相故真智無知也。無為法身者法性身也。法性寂滅故法身無相也。無相故能無不相。是故相
>好荘厳即法身也。無知故能無不知。是故一切種智即真実智慧也。以真実而目智慧。明智慧
>非作非非作也。以無為而樹法身。明法身非色非非色也。非于非者。豈非非之能是乎。蓋無
>非之曰是也。自是無待復非是也。非是非非。百非之所不喩。是故言清浄句。清浄句者。
>謂真実智慧無為法身也。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(論註)一法句とは、いわく清浄句なり。清浄句とは、いわく真実智慧無為法身なるがゆえ
>に。この三句は展転して相入す。何の義に依りてか、これを名づけて法とする、清浄をも
>ってのゆえに。何の義に依りてか、名づけて清浄とする、真実智慧無為法身をもっての故
>になり。真実智慧とは実相の智慧なり。実相は無相なるがゆえに、真智は無知なり。無為
>法身とは法性身なり。法性寂滅なるがゆえに、法身無相なり。無相のゆえによく相ならざ
>ることなし。このゆえに相好荘厳すなわち法身なり。無知のゆえによく知らざることなし。
>このゆえに一切種智すなわち真実の智慧なり。真実をもってして智慧に目〈なづ〉くるこ
>とは、智慧は作にあらず非作にあらざることを明かすなり。無為をもって、而して法身を
>樹つることは、法身は色にあらず非色にあらざることを明かすなり。非にあらざれば、あ
>に非のよく是なるにあらざらんや。けだし非なき、これを是と曰うなり。自ずから是にし
>て、また是にあらざることを待つことなきなり。是にあらず、非にあらず、百非の喩えざ
>るところなり。このゆえに清浄句と言えり。清浄句とは、いわく真実の智慧、無為法身な
>り。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (論註)一法句とは、いわく清浄句である。清浄句とは、いわく真実の智慧、無為法身
  だからである。この三句(一法句・清浄句・無為法身)は、巡り移って相入している。
  どのような考え方によって、これを法と名づけるのかといえば、清浄だからである。
  どのような考え方によって、清浄と名づけるかといえば、真実の智慧、無為法身だか
  らである。真実の智慧とは、実相の智慧である。実相は無相であるから、真智は無知
  (無分別智)である。無為法身とは法性身である。法性寂滅であるから、法身は無相で
  ある。無相であるから、相でないということがない。だから、相好荘厳は法身である。
  無知であるから、知らないということがない。だから、一切種智は、真実の智慧なの
  である。真実という言葉を智慧の頭につけるのは、智慧が作でもなく非作でもないと
  いうことをあきらかにするものである。無為をもって法身をたてるのは、法身は色で
  もなく非色でもないことを明らかにするものである。非でないのだから、どうして、
  非が是でもありうるということがないといえようか。思うに、非でないことを是と言
  うのである。自ずから是であって、また是ではないということを待つまでもない。是
  でもなく、非でもなく、百の非でも喩えることのできないものである。だから清浄句
  と言うのである。清浄句とは、いわく真実の智慧、無為法身なのである。

  WikiArc
    一法句
      真如法性のこと。
    無為法身
      生滅変化を離れた色もなく形もなく、常住にして一切にあまねく満ちる絶対
      の真理そのものである仏身のこと。
    実相
      名号は仏のさとった諸法実相の徳が含まれているので、仏の名号のことを
      実相という。
    無相
      有無の相を超えたもの。執着すべき何ものもない絶対平等の空そのものをいう。
    無知
      思慮分別を離れた無分別智のこと。
    法性
      梵語ダルマターの漢訳。法の法たる性という意で、一切の存在の真実常住な
      る本性を指す。真如・実相・法界などの異名として用いられる。
    寂滅
      涅槃の異名。あらゆる煩悩が滅した寂静の境地。
    相好荘厳・・・
      仏のすがたも実体的にあるのではなく、それがそのまま色も形もない絶対の
      真理そのものになっているという意。
    一切種智
      完全なさとりの智慧。一切の存在について平等と差別、空と有を不二一体に
      さとり尽す仏の智慧。

  日本国語大辞典
    相入
      仏語。華厳宗で、事物・事象が互いに交わりあい支えあい入りあって
      相摂自在であること。相即相入と合わせていう。
    実相
      仏語。一切のもののありのままの真実のすがた。生滅・無常を離れた、万物
      の真相。森羅万象、あらゆる現象の仮のすがたの奥にある真実の相。真如。
      本体。一如。
    無相
      仏語。がた・形がないこと。一定の形態や様相を欠いていること。有相に対
      していうが、多くは有相・無相の差別を超えた空のすがたをいう。
      また、涅槃の境界にもいう。
    真智
      仏語。二智の一つ。絶対平等の道理を知る智。もののありのままの平等で
      差別のないことを知る、真如にかなった智。実智、根本智ともいう。
    法性身
      仏語。法身のなかの法性法身のこと。一如を体とする無色無形の法身。
      無為法身ともいう。
    法性
      仏語。一切の存在、現象の真の本性、万有の本体。不改不変の真理を示す語。
      法性真如。真如。実相。法界。

≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>一法句下。是第三段。釈一法句。三句展転相入等者。問。真実智慧無為法身。是為一法為
>別法耶。答。依相宗意。是為別法。能証之智所証之理為各別故。依性宗意。是為一法。理
>智不二之極談故。今鸞師者。是性宗故。今釈所述。真実智慧即是無為法身義也。凡当段意。
>甚深義趣。愚鈍領解輙以難及。閑伺宗旨可加料簡。謂其大意。已云百非之所不喩。是故千
>是所不顕也。SYOZEN2-336/TAI7-444
>--------------------------------------------------------------------------------
>「一法句」の下は、これ第三段。一法句を釈す。「三句展転相入」等とは、問う、真実智慧
>・無為法身は、これ一法たりや、別法たりや。答う、相宗の意に依らば、これ別法と為す。
>能証の智、所証の理、各別たるが故に。性宗の意に依らば、これ一法たり。理智不二の
>極談なるが故に。今鸞師は、これ性宗なるが故に、今の釈に述ぶる所は、真実智慧即ちこ
>れ無為法身の義なり。凡そ当段の意は甚深の義趣にして、愚鈍の領解は輙く以て及び難し。
>閑に宗旨を伺いて料簡を加うべし。その大意を謂うに、已に百非の喩えざる所という。
>この故に千是も顕わさざる所なり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  「一法句」の下は、第三段である。それは、一法句を釈するものである。「三句展転
  相入・・・」等について問う。真実智慧と無為法身は、一つの法であろうか、それと
  も別の法であろうか。答える。相宗の意(こころ)によれば、別の法である。能証の智
  (証する主体の智)と、所証の理(証する客体の理)が、それぞれ別であるために。性宗
  の意によれば、これは一つの法である。理智不二(理と智が二つではない)という極ま
  りの談義だから。今、鸞師(曇鸞)は、性宗であるから、今の釈に述べるところでは、
  真実智慧すなわち無為法身という義(考え方)である。おおよそ、当段の意(こころ)は
  はなはだ深い義趣であって、愚鈍の領解ではたやすく及び難いものである。しずかに
  宗旨を察知して料簡(思案)を加えるべきである。その大意をおもうに、すでに百の非
  でも喩えられないところという。であるから、千の是でも顕しえないものなのである。

  日本国語大辞典
    相宗
      現象的変化差別の相対的なすがたを中心に探求しようとする宗旨。
      たとえば、倶舎宗や法相宗など。
    性宗
      宇宙や人生における不変平等の絶対の本源や道理の探求を中心とする宗旨。
      たとえば、三論宗や華厳宗など。

●re.49
ボン
東京の男性
[ 2745 ] Re49:教行信証・学習ノート9 2012/06/04 (Mon) 02:16 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
此清浄有二種。応知。上転入句中通一法入清浄。通清浄入法身。今将別清浄出二種故。
故言応知。
--------------------------------------------------------------------------------
(論註)この清浄に二種あり、まさに知るべしと。上、転入句の中に、一法の通じて清浄に
入る。清浄に通じて法身に入る。今将に清浄を別ちて二種を出ださんとするが故に、
故〈ことさら〉に、知るべしと言えり。
--------------------------------------------------------------------------------


≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
此清已下。是第四段。上一法句。開為二種。其文可見。
--------------------------------------------------------------------------------
「此清」已下は、これ第四段なり。上の一法句を開して二種と為す。その文見るべし。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.50
ボン
東京の男性
[ 2746 ] Re50:教行信証・学習ノート9 2012/06/04 (Mon) 02:17 △up ▽down
本文と六要鈔の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>此清浄有二種。応知。上転入句中通一法入清浄。通清浄入法身。今将別清浄出二種故。
>故言応知。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(論註)この清浄に二種あり、まさに知るべしと。上、転入句の中に、一法の通じて清浄に
>入る。清浄に通じて法身に入る。今将に清浄を別ちて二種を出ださんとするが故に、
>故〈ことさら〉に、知るべしと言えり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (論註)この清浄に二種あることを、まさに知るべきである。上の転入句のなかでは、
  一法句に通じて清浄に入り、清浄に通じて法身に入るとしている。今まさに清浄を
  二種に別けようとするために、ことさらに「知るべきである」と言ったのである。

  WikiArc
    上の転入句
      上の『浄土論』の文の展転相入する三句(一法句・清浄句・真実智慧無為法身)
      のこと。


≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>此清已下。是第四段。上一法句。開為二種。其文可見。
>--------------------------------------------------------------------------------
>「此清」已下は、これ第四段なり。上の一法句を開して二種と為す。その文見るべし。
>--------------------------------------------------------------------------------

  「此清」以下は、第四段である。上の一法句を広げて、二種とする。その文を見てく
  ださい。

●re.51
ボン
東京の男性
[ 2814 ] Re51:教行信証・学習ノート9 2012/08/06 (Mon) 22:06 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
何等二種。一者器世間清浄。二者衆生世間清浄。器世間清浄者。如向説十七種荘厳仏土功
徳成就。是名器世間清浄。衆生世間清浄者。如向説八種荘厳仏功徳成就。四種荘厳菩薩功
徳成就。是名衆生世間清浄。如是一法句摂二種清浄義。応知。夫衆生為別報之体。国土為
共報之用。体用不一。所以応知。然諸法心成無余境界。衆生及器復不得異不一。則義分不
異同清浄。器者用也。謂彼浄土是彼清浄衆生之所受用故名為器。如浄食用不浄器。以器不
浄故食亦不浄。不浄食用浄器。食不浄故器亦不浄。要二倶潔乃得称浄。是以一清浄名必摂
二種。
--------------------------------------------------------------------------------
(論註)何等か二種。一には器世間清浄、二には衆生世間清浄なり。器世間清浄とは、さき
に説くがごとき十七種の荘厳仏土功徳成就、これを器世間清浄と名づく。衆生世間清浄と
は、さきに説くがごとき八種の荘厳仏功徳成就と、四種の荘厳菩薩功徳成就となり。これ
を衆生世間清浄と名づく。かくのごとく一法句に二種の清浄の義を摂すと、知るべしとの
たまえり。それ衆生は別報の体と為す。国土は共報の用とす。体用一ならず。このゆえに、
知るべしという。しかるに諸法は心をもって無余の境界を成ず。衆生および器、また異に
して一ならざることを得ず。すなわち義をもって分かちて異ならざれば、同じく清浄なり。
器は用なり。謂わく、かの浄土は、これかの清浄の衆生の受用するところなるがゆえに、
名づけて器とす。浄食に不浄の器を用うれば、器不浄なるをもってのゆえに、食また不浄
なり。不浄の食に浄器を用うれば、食不浄なるがゆえに、器また不浄なるがごとし。かな
らず二ともに潔くして、いまし浄と称することを得しむ。これをもって一の清浄の名に必
ず二種を摂す。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.52
ボン
東京の男性
[ 2815 ] Re52:教行信証・学習ノート9 2012/08/06 (Mon) 22:07 △up ▽down
本文について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>何等二種。一者器世間清浄。二者衆生世間清浄。器世間清浄者。如向説十七種荘厳仏土功
>徳成就。是名器世間清浄。衆生世間清浄者。如向説八種荘厳仏功徳成就。四種荘厳菩薩功
>徳成就。是名衆生世間清浄。如是一法句摂二種清浄義。応知。夫衆生為別報之体。国土為
>共報之用。体用不一。所以応知。然諸法心成無余境界。衆生及器復不得異不一。則義分不
>異同清浄。器者用也。謂彼浄土是彼清浄衆生之所受用故名為器。如浄食用不浄器。以器不
>浄故食亦不浄。不浄食用浄器。食不浄故器亦不浄。要二倶潔乃得称浄。是以一清浄名必摂
>二種。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(論註)何等か二種。一には器世間清浄、二には衆生世間清浄なり。器世間清浄とは、さき
>に説くがごとき十七種の荘厳仏土功徳成就、これを器世間清浄と名づく。衆生世間清浄と
>は、さきに説くがごとき八種の荘厳仏功徳成就と、四種の荘厳菩薩功徳成就となり。これ
>を衆生世間清浄と名づく。かくのごとく一法句に二種の清浄の義を摂すと、知るべしとの
>たまえり。それ衆生は別報の体と為す。国土は共報の用とす。体用一ならず。このゆえに、
>知るべしという。しかるに諸法は心をもって無余の境界を成ず。衆生および器、また異に
>して一ならざることを得ず。すなわち義をもって分かちて異ならざれば、同じく清浄なり。
>器は用なり。謂わく、かの浄土は、これかの清浄の衆生の受用するところなるがゆえに、
>名づけて器とす。浄食に不浄の器を用うれば、器不浄なるをもってのゆえに、食また不浄
>なり。不浄の食に浄器を用うれば、食不浄なるがゆえに、器また不浄なるがごとし。かな
>らず二ともに潔くして、いまし浄と称することを得しむ。これをもって一の清浄の名に必
>ず二種を摂す。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (論註)二種とはどのようなものか。一つには器世間清浄、二には衆生世間清浄である。
  器世間清浄とは、さきに説いた十七種の荘厳仏土功徳成就であり、これを器世間清浄
  と名づける。衆生世間清浄とは、さきに説いた八種の荘厳仏功徳成就と、四種の荘厳
  菩薩功徳成就とである。これを衆生世間清浄と名づける。このように、一法句に二種
  の清浄の義(考え方)を含んでいると、知るべきであると言ったのである。そもそも、
  衆生は別報の体である。国土は共報の用である。体と用は、同じではない。だから、
  知るべしというのである。そうではあるが、諸法(すべての事物)は、心をもって無余
  (無余涅槃)の境界を生み出す。「衆生および器は、それぞれ異なるものであって、同
  じものではない」ということではない。すなわち、義(意味)のうえでは分かれている
  が、異なるものではなく、同じく清浄である。器は用である。いわく、かの浄土は、
  かの清浄の衆生が、用(はたらき)を受けるところであるから、器と名づける。清らか
  な食物に不浄の器を用いれば、器が不浄であることによって、食物もまた不浄となる。
  不浄の食物に清らかな器を用いれば、食物が不浄であるために、器もまた不浄である、
  というようなものである。間違いなく二つともに清らかであれば、まさしく浄と言う
  ことができる。このように、一つの清浄の名に、必ず二種を含んでいるのである。

  WikiArc
    器世間清浄
      器世間とは有情をすまわせている山河大地等を指す。浄土が清浄であるとい
      う意味。
    衆生世間清浄
      器世間に住んでいる生きとし生けるものを衆生世間といい、浄土の仏、菩薩
      はきよらかであるから衆生世間清浄という。
    別報の体
      衆生の各別の業からあらわれる各別の果報。すなわち衆生の身心を指して
      別報の体という。
    共報の用
      衆生の共通の業からあらわれるもの。山河大地などは衆生の等しく受用する
      果報であるから共報の用という。
    諸法は・・・成ず
      通常は「諸法は心をもって成ず。余の境界なし」と読む。
    無余
      無余涅槃のこと。煩悩業苦を完全に滅し尽した状態。
    無余涅槃
      煩悩を断じ尽しただけでなく、肉体もまた無に帰したさとりの状態のこと。
      煩悩を断ち切ってなお肉体を残している有余涅槃に対する語。

  日本国語大辞典
    諸法
      仏語。一切の有形および無形のあらゆる事物。万法。諸有。

●re.53
ボン
東京の男性
[ 2837 ] Re53:教行信証・学習ノート9 2012/08/28 (Tue) 22:16 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
問曰。言衆生清浄。則是仏与菩薩。彼諸人天得入此清浄数不。答曰。得名清浄非実清浄。
譬如出家聖人以殺煩悩賊故名為比丘。凡夫出家者亦名比丘。又如潅頂王子初生之時具三十
二相。即為七宝所属。雖未能為転輪王事亦名転輪王。以其必為転輪王故。彼諸人天亦復
如是。皆入大乗正定之聚。畢竟当得清浄法身。以当得故得名清浄。
--------------------------------------------------------------------------------
(論註)問うて曰わく、衆生清浄と言うは、すなわちこれ仏と菩薩となり。かのもろもろ
の人天も、この清浄の数に入ることを得るや、いなや。答えて曰わく、清浄と名づくるこ
とを得れども、実の清浄にあらず。譬えば出家の聖人は、煩悩の賊を殺すをもってのゆえ
に、名づけて比丘とす、凡夫の出家の者をまた比丘と名づくるがごとし。また潅頂の王子
初生の時、三十二相を具して、すなわち七宝のために属せらる。未だ転輪王の事を為すこ
とあたわずといえども、また転輪王と名づくるがごとし。それ必ず転輪王となるべきをも
ってのゆえに。かのもろもろの人天も、またかくのごとし。みな大乗正定の聚に入りて、
畢竟じて当に清浄法身を得べし。当に得べきをもってのゆえに、清浄と名づくることを得
るなりと。
--------------------------------------------------------------------------------

●re.54
ボン
東京の男性
[ 2838 ] Re54:教行信証・学習ノート9 2012/08/28 (Tue) 22:16 △up ▽down
本文について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>問曰。言衆生清浄。則是仏与菩薩。彼諸人天得入此清浄数不。答曰。得名清浄非実清浄。
>譬如出家聖人以殺煩悩賊故名為比丘。凡夫出家者亦名比丘。又如潅頂王子初生之時具三十
>二相。即為七宝所属。雖未能為転輪王事亦名転輪王。以其必為転輪王故。彼諸人天亦復
>如是。皆入大乗正定之聚。畢竟当得清浄法身。以当得故得名清浄。
>--------------------------------------------------------------------------------
>(論註)問うて曰わく、衆生清浄と言うは、すなわちこれ仏と菩薩となり。かのもろもろ
>の人天も、この清浄の数に入ることを得るや、いなや。答えて曰わく、清浄と名づくるこ
>とを得れども、実の清浄にあらず。譬えば出家の聖人は、煩悩の賊を殺すをもってのゆえ
>に、名づけて比丘とす、凡夫の出家の者をまた比丘と名づくるがごとし。また潅頂の王子
>初生の時、三十二相を具して、すなわち七宝のために属せらる。未だ転輪王の事を為すこ
>とあたわずといえども、また転輪王と名づくるがごとし。それ必ず転輪王となるべきをも
>ってのゆえに。かのもろもろの人天も、またかくのごとし。みな大乗正定の聚に入りて、
>畢竟じて当に清浄法身を得べし。当に得べきをもってのゆえに、清浄と名づくることを得
>るなりと。
>--------------------------------------------------------------------------------

  (論註)問う。衆生清浄と言うのは、仏と菩薩のことである。かのもろもろの人天も、
  この清浄の数に入るのか、入らないのか。答える。清浄とは言えるが、本当の清浄で
  はない。たとえば、出家の聖人は、煩悩の害悪を消滅させることによって比丘と呼ば
  れる。凡夫でありながら出家した者を、また比丘と呼ぶようなものである。また潅頂
  の王子は、生まれたばかりの時から、三十二相を具えて、七宝が付属される。未だに
  転輪王としての仕事を行うことができなくても、またこれを転輪王と呼ぶようなもの
  である。それは、いずれ必ず転輪王となるであろうからである。かのもろもろの人天
  も、また同様である。みな大乗正定の聚の仲間入りをして、ついには清浄な法身を得
  るであろう。まさにその「得るであろう」という理由で、清浄と呼ぶことができるの
  である。

  WikiArc
    灌頂王子
      転輪王の王子。王子はやがて灌頂の式(頭から水を灌ぎかける即位の儀式)
      を受けて、転輪王の位に昇ることに定まっているから、この称がある。
    七宝のために属せらる
      通常は「七宝の属するところとなる」と読む。
    転輪聖王の七宝
      輪宝(輪形の武器で金・銀・銅・鉄の四種がある)・象・馬・珠・玉女・主蔵臣
      (すぐれた大臣)・主兵臣(すぐれた将軍)の七。

●re.55
ボン
関東の男性
[ 2875 ] Re55:教行信証・学習ノート9 2012/11/23 (Fri) 01:55 △up ▽down
≪六要鈔会本の注釈≫

--------------------------------------------------------------------------------
何等等者。是第五段。釈其開出二種之相。如是等者。当段之中。初開二種。今其二種還又
摂入一法句也。衆生為別報之体者。別報正報唯自受用。他不受用故。別報者是不共也。国
土為共法之用者。依報自他共受用故。言之共法。問。衆生云体器界云用。其意如何。答。
依衆生報感所居土。以此義故。体是衆生。用器界也。問。就此別報共法之中有幾種耶。答。
有四不同。言其四者。別報有二。一不共中不共。謂如眼等根。唯是自識依用。非他所受用
故。全為不共。二不共中之共。如扶根四塵。他亦受用故。又如以手摩触。如此之事為之共
法。共法又二。一共中之共。所謂山河大地等是。鬼畜人天同受用故。云共中共。二共中不
共。所謂田宅舎宅衣服資具。如此之類。雖為共法。自身之外他不共也。言諸法心成無余境
界者。華厳経云。三界唯一心。心外無別法。已上。又起信論多有此意。其論文等。所引第
二新本并当巻鈔上也。問。器者用者。体用義歟。受用義歟。答。受用義也。問。上対衆生
及以国土判其体用。准彼思此。可為体用之義者耶。答。上判体用不及異論。今釈不爾。下
細釈云。清浄衆生之所受用。故名為器。已上。為受用義。尤分明也。問。所言受用。衆生
与器何為能所。判属如何。答。器所受用。清浄衆生能受用也。問。見下譬喩。器是能受。
人所受歟。謂食如人。器是国土。以国土人如次配当能所受者。叶道理耶。答。釈云衆生之
所受用。人為能受。其理無諍。但今譬者非強分別能受所受。只顕人器共得称浄之義而已。
--------------------------------------------------------------------------------
「何等」等とは、これ第五段、その二種の相を開出することを釈す。「如是」等とは、
当段の中に、初に二種を開し、今はその二種を還りて、また一法句に摂入するなり。「衆
生は別報の体とす」とは、別報は正報、ただ自ら受用して、他は受用せざるが故に。別報
とはこれ不共なり。「国土は共報の用と為す」とは、依報は自他共に受用するが故に、こ
れを共法という。問う、衆生を体といい、器界を用という。その意、如何。答う、衆生の
報に依りて所居の土を感ず。この義を以ての故に、体はこれ衆生、用は器界なり。問う、
この別報・共法の中に就きて幾の種あるや。答う、四の不同あり。その四というは、別報
に二あり、一には不共の中の不共、謂わく眼等の根の如き、唯これ自識依用して、他の
受用する所にあらざるが故に、全く不共と為す。二には不共の中の共、扶根の四塵の如き、
他また受用するが故に。また手を以て摩触するが如き、かくの如きの事はこれを共法と為
す。共法にまた二、一には共の中の共、いわゆる山河大地等これなり。鬼畜・人天は同く
受用するが故に、共の中の共という。二には共の中の不共、いわゆる田宅・舎宅・衣服・
資具なり。かくの如きの類は、共法と為すといえども、自身の外、他は共にせざるなり。
「諸法は心をして無余の境界を成ず」というは、『華厳経』に云わく「三界は唯一心なり。
心の外に別法なし」已上。また『起信論』に多くこの意あり。その論文等は、第二の新本
并びに当巻の鈔の上に引く所なり。問う、「器とは用なり」とは、体用の義か、受用の義
か。答う、受用の義なり。問う、上に衆生および国土に対してその体用を判ず。彼に准じ
てこれを思うに、体用の義たるべきものや。答う、上に体用を判ずることは異論に及ばず。
今の釈は爾らず。下の細釈に云わく「清浄衆生の受用する所なり。故に名づけて器と為す」
已上。受用の義となすこと、尤も分明なり。問う、言う所の受用は、衆生と器と、何をか
能所と為する、判属如何。答う、器は所受用、清浄衆生は能受用なり。問う、下の譬喩を
見るに、器はこれ能受、人は所受か。謂わく、食は人の如し、器はこれ国土なり。国土と
人とを以て次の如く能所受に配当せば、道理に叶うや。答う、釈に「衆生の受用する所」
という。人を能受と為すること、その理に諍いなし。但し今の譬は強て能受・所受を分別
するにあらず。ただ人・器共に浄と称することを得る義を顕わすらくのみ。
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●re.56
ボン
関東の男性
[ 2876 ] Re56:教行信証・学習ノート9 2012/11/23 (Fri) 01:56 △up ▽down
六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

≪六要鈔会本の注釈≫

>--------------------------------------------------------------------------------
>何等等者。是第五段。釈其開出二種之相。如是等者。当段之中。初開二種。今其二種還又
>摂入一法句也。衆生為別報之体者。別報正報唯自受用。他不受用故。別報者是不共也。国
>土為共法之用者。依報自他共受用故。言之共法。問。衆生云体器界云用。其意如何。答。
>依衆生報感所居土。以此義故。体是衆生。用器界也。問。就此別報共法之中有幾種耶。答。
>有四不同。言其四者。別報有二。一不共中不共。謂如眼等根。唯是自識依用。非他所受用
>故。全為不共。二不共中之共。如扶根四塵。他亦受用故。又如以手摩触。如此之事為之共
>法。共法又二。一共中之共。所謂山河大地等是。鬼畜人天同受用故。云共中共。二共中不
>共。所謂田宅舎宅衣服資具。如此之類。雖為共法。自身之外他不共也。言諸法心成無余境
>界者。華厳経云。三界唯一心。心外無別法。已上。又起信論多有此意。其論文等。所引第
>二新本并当巻鈔上也。問。器者用者。体用義歟。受用義歟。答。受用義也。問。上対衆生
>及以国土判其体用。准彼思此。可為体用之義者耶。答。上判体用不及異論。今釈不爾。下
>細釈云。清浄衆生之所受用。故名為器。已上。為受用義。尤分明也。問。所言受用。衆生
>与器何為能所。判属如何。答。器所受用。清浄衆生能受用也。問。見下譬喩。器是能受。
>人所受歟。謂食如人。器是国土。以国土人如次配当能所受者。叶道理耶。答。釈云衆生之
>所受用。人為能受。其理無諍。但今譬者非強分別能受所受。只顕人器共得称浄之義而已。
>--------------------------------------------------------------------------------
>「何等」等とは、これ第五段、その二種の相を開出することを釈す。「如是」等とは、
>当段の中に、初に二種を開し、今はその二種を還りて、また一法句に摂入するなり。「衆
>生は別報の体とす」とは、別報は正報、ただ自ら受用して、他は受用せざるが故に。別報
>とはこれ不共なり。「国土は共報の用と為す」とは、依報は自他共に受用するが故に、こ
>れを共法という。問う、衆生を体といい、器界を用という。その意、如何。答う、衆生の
>報に依りて所居の土を感ず。この義を以ての故に、体はこれ衆生、用は器界なり。問う、
>この別報・共法の中に就きて幾の種あるや。答う、四の不同あり。その四というは、別報
>に二あり、一には不共の中の不共、謂わく眼等の根の如き、唯これ自識依用して、他の
>受用する所にあらざるが故に、全く不共と為す。二には不共の中の共、扶根の四塵の如き、
>他また受用するが故に。また手を以て摩触するが如き、かくの如きの事はこれを共法と為
>す。共法にまた二、一には共の中の共、いわゆる山河大地等これなり。鬼畜・人天は同く
>受用するが故に、共の中の共という。二には共の中の不共、いわゆる田宅・舎宅・衣服・
>資具なり。かくの如きの類は、共法と為すといえども、自身の外、他は共にせざるなり。
>「諸法は心をして無余の境界を成ず」というは、『華厳経』に云わく「三界は唯一心なり。
>心の外に別法なし」已上。また『起信論』に多くこの意あり。その論文等は、第二の新本
>并びに当巻の鈔の上に引く所なり。問う、「器とは用なり」とは、体用の義か、受用の義
>か。答う、受用の義なり。問う、上に衆生および国土に対してその体用を判ず。彼に准じ
>てこれを思うに、体用の義たるべきものや。答う、上に体用を判ずることは異論に及ばず。
>今の釈は爾らず。下の細釈に云わく「清浄衆生の受用する所なり。故に名づけて器と為す」
>已上。受用の義となすこと、尤も分明なり。問う、言う所の受用は、衆生と器と、何をか
>能所と為する、判属如何。答う、器は所受用、清浄衆生は能受用なり。問う、下の譬喩を
>見るに、器はこれ能受、人は所受か。謂わく、食は人の如し、器はこれ国土なり。国土と
>人とを以て次の如く能所受に配当せば、道理に叶うや。答う、釈に「衆生の受用する所」
>という。人を能受と為すること、その理に諍いなし。但し今の譬は強て能受・所受を分別
>するにあらず。ただ人・器共に浄と称することを得る義を顕わすらくのみ。
>--------------------------------------------------------------------------------

  「何等・・・」等については、これは第五段であって、その二種の相(すがた)の現れ
  出ることを釈している。「如是・・・」等とは、この段の中で、初めに二種を現し、
  こんどはその二種に戻って、また一法句に摂入するのである。「衆生は別報の体とす」
  というのは、別報(個別のむくい)は正報であって、ただ自らが身に受けて、他の者が
  身に受けることがないからである。別報(個別のむくい)とは「(ほかのものと)共にし
  ない」ということである。「国土は共報(共通のむくい)の用と為す」というは、依報
  は自他ともに身に受けるために、これを共法というということである。

  日本国語大辞典
    別報
      仏語。前世の業因による果報のうち、個別的な差別のすがたをとる報をいう。
      たとえば同じ人間として生まれた者でも、男女・貧富の差別があること。
    正報
      仏語。過去に行なった善悪の行為の報いとして衆生が直接受けたもの。
      衆生の体をいう。←→ 依報(えほう)。
    依報
      仏語。過去の行為(業=ごう)の報いとして受ける、身の依りどころとして
      の国土、家屋、衣食などの環境。


  問う。衆生を体といい、器界を用という。その意(こころ)は、いかなるものであろうか。
  答える。衆生は、その報(むくい)によって、その居どころである土を感ずる。だから、
  体は衆生であり、用は器界なのである。

  日本国語大辞典
    器界
      「きせけん(器世間)」に同じ。
    器世間(き‐せけん)
      仏語。二種世間、三種世間の一つ。生命あるもののよりどころとなる山河大地
      などをいう。人間をつつむ自然環境。器世界。器間。器界。器世間境。


  問う。この別報(個別のむくい)と共報(共通のむくい)のなかには、いくつの種類があ
  るのだろうか。答える。四つの違うものがある。その四つというは、まず別報(個別の
  むくい)に二つある、一には「不共の中の不共」、つまり眼などの根のように、ただこ
  れを自ら認識し依用するものであって、他の受用する対象ではないために、まったく
  不共とするものである。二つには「不共の中の共」、扶根の四塵のように、他者もま
  た受用するからである。また、手で触ることができるようなものは共法という。共法
  にまた二つがある。一つには「共の中の共」といって、いわゆる山河大地などがこれ
  にあたる。鬼畜・人天も、同じく受用できるために、「共の中の共」という。二つに
  は「共の中の不共」といって、いわゆる田宅・舎宅・衣服・資具などである。このよ
  うな類は、共法とはいっても、自身のほかに、他者が共にするものではない。

  http://homepage3.nifty.com/junsoyo/yuisiki/sanjuu3/s3-2-1-2.htm
    根依処:
      色根を助けるもので,扶根とも言う。眼で言えば,角膜や水晶体,網膜のこ
      とで,現代でいう感覚器官。仏教では,このような感覚器官は第2次的なも
      ので,その奧に本当の感覚体があると考え,それを色根と呼んだ。色根は、
      扶根と違って直接確認できない。

  WikiArc
    六根
      六識の依りどころとなり、対象を認識するための六種の器官。眼根・耳根・
      鼻根・舌根・身根の五つの感覚器官と、前刹那の意識である意根。

(続く)

●re.57
ボン
関東の男性
[ 2877 ] Re57:教行信証・学習ノート9 2012/11/23 (Fri) 01:57 △up ▽down
(続き)

  「諸法は心をして無余の境界を成ず(すべての事物は、心をもって無余涅槃の境界を生
  み出す)」については、『華厳経』にこう述べる。「三界はただ一心である。心のほか
  に別の法はない。」また『起信論』にも多くこの意(こころ)が示されている。その
  論文等は、第二の新本ならびに当巻の鈔の上に引用するところである。


  問う。「器とは用なり」とは、体用の義か、受用の義か。答える。受用の義である。

  WikiArc
    器
      器世間の略。衆生が住んでいる山河・大地などの自然界。
    用
      はたらき。
    体用
      体は本体、用ははたらきのこと。

  日本国語大辞典
    用
      本体に対し、それに備わるはたらき(力用=りきゆう)をいう。本体の絶対
      に対する相対的分野。また体・相・用の三大の一つとして、真如のはたらき
      とする。
    相
      内面の本質を見るべき外面のようす。すがた。かたち。ありさま。外見。
      仏教では、性(しょう)または体と用(ゆう)に対させる。
    体
      ことばの表わすものについて、事物のはたらき、すなわち用に対する本体。
      また、事物のはたらきを表わして活用のあることに対する、本体を表わし
      て活用のないこと。
    体用
      本体とそのはたらき。たいよう。
    受用
      仏が仏土にあって法楽を味わうこと、または法を説いて法楽を味わわせるこ
      と。また、そうした仏(自受身)のこと。


  問う。上に衆生および国土について、その体(本体)と用(はたらき)を考えてみた。それ
  に準じてこれを考えるなら、これは体と用の義たるべきものであろうか。答える。上に
  体と用を考察したことは異論の余地がない。しかし、今の釈はそうではない。下の詳し
  い釈にこう述べる。「清浄衆生の受用するところである。だから器という。」だから、
  これは、受用の義であることは、明らかである。


  問う、ここで言うところの受用は、衆生と器とでは、何を能(主体)として、何を所
  (客体)とするのであろうか。その仕分けはどんなものだろうか。答える。器は受用す
  る客体、清浄衆生は受用する主体である。問う。下の比喩を見ると、器は受ける主体、
  人は受ける客体であろうか。いわわく、食は人のようであり、器は国土である。国土
  と人とを、次のようにそれぞれ能受(受ける主体)と所受(受ける客体)とに当てはめれ
  ば、道理にかなうであろうか。答える。釈に「衆生の受用する所」という。人を能受
  (受ける主体)とすることに間違いはない。ただし、今の喩えは、しいて能受・所受を
  分別するものではない。ただ、人・器ともに、「浄」ということができるということ
  を顕しただけである。

  日本国語大辞典
    能所(のう‐じょ)
      仏語。能と所。主体と客体。能依と所依、能化と所化などの類。
    能依(のう‐え)
      依っている依り手。経論など典拠となる所依に対して、それに依って成りた
      つ教義などがこれにあたる。
    所依(しょ‐え)
      よりどころとなっているもの。たよりとなるもの。能依に対していう語。
    能化(のう‐け)
      仏語。師として他を教化できる者。主として仏菩薩をさす。
    所化(しょ‐け)
      仏語。仏菩薩などにより教化されること。また、教化を受ける者。



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