浄土真宗の教義について

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●No.164
連弥陀
東京の男性

↑連弥陀様宛にメール
[ 2630 ] 信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/02/07 (Tue) 08:53 △up ▽down
貴方方は善智識にも会われず、信心決定の意味も知らずに六道輪廻に落ちてゆくでしょう、親鸞上人は何故御身自ら愚徳親鸞の愚の文字を使い、弟子の円心がなぜ善人なをもて往生す、いわんや悪人をやと言わしめた悪人、善人とは
何ぞ矢と言うことび気づいて、真の善知識に会い、1年帰命で信心決定してください、親鸞聖人は一切修行をしないのが他力本願の意に沿うとあります、
『努力しないとは意味が違います)貴方方に宿善が有れば、必ず真の御知識様に会えるでしょう、人に聞いて探す以外善智識に会える方法はありません。


●re.1
ボン
東京の男性
[ 2634 ] Re1:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/02/09 (Thu) 18:03 △up ▽down
連弥陀さま、皆さま、こんばんは。

連弥陀さまは、察するところ、同行様でいらっしゃいますよね。

私などは、いつもフラフラと危なっかしい心持で、宿善のなせる業とはいえ、なぜ私の
ようなものが、このような御法に当たることができたのか、とても不思議です。

このような私でも、門の近くまで来てウロウロしている方を見かけると、なんとか門の
中まで入ってきて欲しいという気持ちが湧いてくるのですが、自らの意思で遠ざかって
いくのを止めることはできません。

自らの力を信じる方は、自力の道を歩まれるのでしょう。自信を持つということは、社会
通念としても立派なことですし、いったん自我の確立した人間が自分を疑ってかかるとい
うのは、口で言うほどたやすいことではないようです。

「自分が愚かだと自覚しなさい」と言われて「はい、わかりました」とは言ってみても、
本当に心の底から「自分は愚かだ」と思える人間は、とてもとても少ないのでしょう。
なぜなら、それは、自我を持ちながら、なおかつ赤子のような心を持つという精神状態を
必要としているように思えるからです。

だから、結局は、「自分は愚かだ」と100%は思えないまでも、「あんたの言うことなら
100%信じるよ」という濃密な人間関係のなかでしか、すべてお任せするというスタイル
に入ってくることができない、というのが実情なのでしょう。

実際のところ、多くが親から子へという家族関係のなかで、細々と受け継がれてきたに
違いありません。「難信の法」です。

六道輪廻に落ちてゆくというよりは、まさに六道輪廻の中にいるのでしょう。しかし、
そこにドップリと浸かっていると、そこが迷いの世界だという自覚すら芽生えません。
みなボーっとしていて、善知識を探しまわる切羽詰った気持ちは、本当にごく限られた
方にのみ湧いてくるもののように思えます。

法華経に「火宅のたとえ」というのがあります。燃え盛る家の中で遊びに夢中の子供に向
かって「火事だから逃げなさい」といくら叫んでも、いっこうに耳を貸しません。しかし、
子供の好きなオモチャをあげるよと言うと、オモチャにつられて家を飛び出して、辛うじ
て難を逃れるという喩は、まさに六道輪廻に迷う我々のことを言っているのでしょう。

オモチャは阿弥陀様の方便ですよね。

南无阿彌陀佛

●re.2
唯物信者
海外の男性
[ 2660 ] Re2:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/03/16 (Fri) 22:36 △up ▽down
連弥陀様ハジメマシテ/ボン様お久しぶりです

私はまだ門の中にも入れず、ウロウロ/フラフラしています。

こんなものがこの掲示版に書き込むのが場違いのような、何か<コワイ>ような思いがし

て自分を曝け出すことができにくいです。

しかしながら、ボン様の書き込みはいつも分かりやすく、自分の心に響き、ついつい<コ

ワイ>と思いながらも磁石にひかれるように、書き込んでしまいます。

自分が愚かで罪深いことは痛いほど解っているが同時に疑い深く、此処で言われているこ

と100%受け入れてません。

その中の一つに<真の善知識>=<次第相承の善知識>にお会いできなければ信心決定が

できないという点です。

弥陀の代官などとも言われていますが、浄土で弥陀の教えを受け、往相回向により、この

世に送り込まれた人だからでしょうか?

なぜ凡夫と阿弥陀様の間だけで頂けないのでしょうか?

どなたかお教えください。

疑いや矛盾を感じながらも、すべては阿弥陀様にお任せするしかないのだと思い毎日

念仏しております

南無阿弥陀仏




















●re.3
唯物信者
海外の男性
[ 2661 ] (削除しました) 2012/03/16 (Fri) 22:42 △up ▽down
(削除しました)
●re.4
ボン
東京の男性
[ 2662 ] Re3:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/03/18 (Sun) 03:58 △up ▽down
唯物信者さま、こんばんは。

唯物信者さまは、次第相承の善知識様の力を借りずに、直接に阿弥陀様から信心をいただ
いて、往生したいとお考えのようですね。

それが可能なのか不可能なのか、私にはわかりません。「そんなことを考えても無駄だ」
と言えるだけの知識は、私にはありません。

ただ、私は、自分が、善知識様のご苦労があって他力の信心をいただけたと思い、それが
ありがたいことだと思い、できることなら自分以外にもそのようにして信心をいただく方
がおられたらいいなあ、と思っているだけなのです。

何度も申し上げますように、仏法には無数の法門があるのです。そのどれが唯一正しくて、
そのほかがすべて間違っているというようなことではないと思います。

阿弥陀仏を実際に目で見ることができたなら、成仏できるというようなことを、どこかに
書いていたような気がします。ご聖典に嘘は書いていないと私は思います。説のとおりに
行を修めれば、みな成仏するものと思います。

ただ、私は、自分の力で仏を見ることも感じることもできないし、そんなことは自分には
端から無理だとあきらめているから、あえてそういう方向に進まないだけのことです。
しかし、そちらのほうに魅力を感じる方に対して、差し出がましくあれこれ言うこともな
いと思っているのです。

これも何度も申し上げますとおり、どの道に進むかは、その人のもって生まれた縁による
ものだと思います。縁があればその方向に近づいていくし、縁がなければ遠ざかっていく
のだと思います。

ただ、こうして掲示版のうえででもお話をしてるということが、他生で何かの縁となるこ
とを願うばかりです。

南无阿彌陀佛

●re.5
酒天童子
関東の男性
[ 2663 ] Re4:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/03/18 (Sun) 12:04 △up ▽down
ボン様

ご無沙汰しております、酒天童子です。

最近の書き込みはボン様ばかりで、ちょっと寂しくも思っております。
かくいう私も、筆無精そのままにときどきここを覗くだけで何もしていないので偉そうなことはいえません。

次第相承の善知識は全国各地に数多くないとはいえ、ひっそりといらっしゃるとは聞いております。
ただし、知識同士のコミュニケーションというものは、おそらくあまりないのではないか、とも思っております。
善知識は一子相伝のようなものであり、佛法を相続するという意味での親から子へ受け継がれていく血脈のようなものであるとも聞いたことがあります。

だから、善知識が相承してきた次第というものがすべて全く同じであるとは言い切れないし、また確認することもできないのだろうし、仮にそんな付け合わせができたとしても果たしてそれが意味を持つことなのだろうか?という疑問も感じます。

以前、忍草様が実語はすべて同一であるはず、と仰っていましたが、それも実は分からないこと、確認など出来ないことだと思っています。

それでも浄土真宗では親鸞聖人を御開山としてもとは同じであったでしょうし、浄土宗でも法然上人を御開祖として相続されていったと思っています。

親鸞聖人と法然上人の相続されたものが同じであったかどうかは、私たちには想像するより他はありませんが、もしかしたら少しだけ違っていたのかも知れません。

ただ、先にも書きましたが、そのことを議論しても意味があるのかないのかは分かりません。
また、信心決定した同行のなかにも、たとえば親鸞聖人から相続された善知識からと法然上人から相続された善知識から頂いた一年帰命では、多少の違いはあるのかも知れませんね。

言えることは、根本=極楽往生治定 は同じであろう、という憶測でしかありません。

もしかしたら、同行のなかには阿弥陀佛や諸々の菩薩を実際に拝んでいる人もいるかもしれませんし、大日如来だって拝んでいるかも知れませんね。

たまに書き込むとこれです。おかしな内容になります。
これはボン様へのお手紙ですから、唯物信者様、気になさらないで下さい。

南无阿彌陀佛

●re.6
ボン
東京の男性
[ 2664 ] Re5:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/03/19 (Mon) 02:25 △up ▽down
唯物信者さま、こんばんは。

酒天童子様、お久しぶりでございます。

善知識様の受け継いでこられた実語あるいは口決というものにつきまして、そういうもの
があるということは聞いておりますが、それがどういうものであるのかについては、まっ
たく存じ上げておりません。

ですから、そのことについてあれこれ語る知識も資格もないものと、私自身は心得ており
ます。また、このような公の場で云々することは、相応しくないような気もいたします。

この毎日様の掲示板においては、仏法繁盛のためにあれこれ語ることは大切なことと思い
ます。ご聖典で公にされているいる内容と、それについての個人的な味わい、感想、疑問
などは大いに語り合りあいたいと思います。

しかし、ご聖典ですら公にされていないことについて、私のようなものが云々することは
おこがましいような気がしますので、このことについてのコメントはさしひかえさせてい
ただきます。せっかくご登場いただいたのに、ほんとうに申し訳ございません。

私は、私がたまたま運よくいただいたものを大切に思うだけです。極論を言えば、仮に、
いただいたものがまやかしだったとしても、何一つ後悔することはありません。なぜなら、
後生を解決することは、私個人の力では不可能だと思うからです。

自分が頑張って努力すれば解決できたものを、それをしないでお任せしたのなら、ことと
次第によっては「ああ、あのとき自分が頑張ってやっていれば・・・」と後悔することも
あるかもしれません。しかし、自分の力ではどうしようもないことなら、お任せした結果
が何の解決になっていなかったとしても、いまさら何の後悔もありません。

また、大切なものをいただいた代わりに何か代償を払っているのなら、ことと次第によって
は後悔することも出てくるかもしれません。しかし、私は一銭の代償も支払っていないの
です。寿命を縮めたわけでも、病気になったわけでもありません。だれにも言わないのが
掟ですから、これまで築き上げた人間関係を壊すわけでもありません。要するに、現世に
おいて何の不利益もこうむっていないのです。

逆に、善智識様をはじめ、多くのまわりの方々が、多くの時間と代償を費やして私を導い
てくれたことは、まったく間違いのないことです。ですから、ただただ、ありがたいと思
うばかりです。

もちろん、煩悩まみれの凡夫のことですから、いただいたものについていろいろ疑いも出
てくるかもしれません。そのためにご聖典があるのだと思います。ご聖典を読みながら、
いただいたものと符合するのかどうか、確認できるのもまた、うれしいものです。

南无阿彌陀佛

●re.7
たぬき丸
非公開の非公開
[ 2668 ] Re6:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/03/29 (Thu) 21:27 △up ▽down
はじめまして。たぬき丸と申します。
通りすがりの念仏行者です。
私は学問はまともにしておりませんので、適当に聞き流していただければと存じます。
まず、唯物信者様の「<真の善知識>=<次第相承の善知識>にお会いできなければ信心決定ができない云々」ですが、ここはやはり単純に「縁なき衆生は度し難し」ということではないでしょうか。本師本佛を浄土に迎えに行く善知識がいなければ、如来さんとの間を取り次いでくれる善知識がいなければ、凡夫がどう足掻いてもどうしようもないです。
まれに自力で十九願往生する人もあり得ますが、たぶん現代では無理でしょう。
善知識に会えない方は、非情なようですが宿善がないと思うしかないです。
「信心決定」もちょっとこの場合違いそうです。信心決定の判定は阿弥陀さんがすることで、凡夫には死ぬまでわかりません。報土に生まれて、初めて信心決定していたんだなあ。ということだと思います。この場合は単に「御法をいただいた」(浄土に行ける切符をもらった)ぐらいでしょう。受けっぱなしで信心決定しなければ・・・「行き易くして人無し」っていうやつです。私なんか完璧に不定聚ですね。
また、「弥陀の代官などとも言われていますが、浄土で弥陀の教えを受け、往相回向により、この世に送り込まれた人だからでしょうか?」ですが、「この世に送り込まれた」は正しいようですが、(法然ー勢至菩薩、親鸞ー観音・弥陀等、私は知識は結局すべて生身の阿弥陀だと思っています。)往相回向還相回向について、往還二回向はほぼ同時一刹那です。御法をいただいた方はすべからく還相回向の身、生きながら浄土行きの切符をいただいております。還相回向の身だからこそ、不来迎平生業成が成り立つ訳です。ただこれは一歩間違うと驕慢が起きてえらいことになります。驕慢が起きると・・・やはり「行き易くして人無し」です。
スレ汚し失礼しました。たぬきは巣穴へ帰ります。


●re.8
ボン
東京の男性
[ 2669 ] Re7:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/01 (Sun) 11:32 △up ▽down
たぬき丸さま、はじめまして。

お話の内容からすると、唯物信者様に対するお話かとも存じましたが、「他力の信心」を
いただいた後のお話も含まれているようですので、横から口を出すことをお許しいただけ
ればと思います。

私も初めは、たぬき丸さまと同じように、通りすがりの者でしたが、ここにご同行の方が
いらっしゃるうれしさに、たびたび覗きにきているうちに、すっかり入り浸るようになっ
てしまいました(苦笑)。

おまけに、教行信証を公開学習しようなどと、無謀なことを思い立ち、「亀の歩み」なが
らも、なんとか継続している次第です。これも毎日さまをはじめ、ご同行の皆さまの励ま
しのおかげだと、ありがたく思っております。

ところで、私自身も一瞬の往還回向のうちに、浄土行きの切符をいただいものと承り、
宿縁のあったことをありがたく喜んでおります。

その浄土行きの切符というのは、「自分の力で浄土に行くのは無理だ」とあきらめて、
すっかり阿弥陀さまにおまかせすることにより、阿弥陀さまからいただいた“信心”だ
とうかがっております。

この阿弥陀さまからいただいた“信心”というのは、凡夫が自分で起こした信心とは違っ
て、決して壊れることがないので、金剛(最も硬い金属)に喩えて“金剛の信心”などと
いわれます。

いただいたものが“金剛の信心”なので、自分の心がどんなにフラフラしていようと決し
て後退することがなく(不退転)、また、正しく定まった方々(正定聚)の仲間入りをし
たものと喜んでおります。

ですから「信心決定」といいましても、自分のフラフラした心をシャキッとさせるという
ことではなくて、あくまでも、「阿弥陀さまから“金剛の信心”を頂戴した」ということ
にほかならないのだと思っております。

正直なところ、私自身の心の有様はといえば、あるときは心の底から信じきっているよう
な気がするときもあるし(それも、もしかしたら思い込み?)、またときには、疑いの心
がムラムラと湧き上がってくるような気持ちのときもあるです。

私自身の主観的な思いを観察すれば、まったく一定していなし、とてもあてにできるよう
な代物ではありません。ですから、浄土行きの切符が、もし私自身の心持ち次第だという
のであれば、とても不安で仕方がありません。

しかし、私は阿弥陀さまのお代官である善知識さまから、「あなたは浄土行きの切符を手
に入れたよ」と太鼓判を押していただきました。ですから、仮に私の心の有様には自信が
持てなかったとしても、いただいた信心が阿弥陀様の下さった“金剛の信心”であるなら
ば、それは死ぬまで揺るぎのないものだと安心して生活していくことができます。

たぬき丸さまは、ご自身のことを「不定聚」とおっしゃっておられますが、それはおそら
く、私と同じように、「自分の心持ちが不安定で、あてにならない」ということをおっし
ゃっているのではないかと思います。しかし「阿弥陀さまから“金剛の信心”を頂戴した」
という意味では、たぬき丸さまもまた、「正定聚」の仲間入りをしていると思うのですが、
いかがでしょうか。

たぬき丸さまは、“巣穴”にお戻りなるそうですが、ぜひ“巣穴”から時々は顔を出して
いただいて、お相手をしていただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.9
たぬき丸
非公開の非公開
[ 2670 ] Re8:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/01 (Sun) 19:40 △up ▽down
ボン様はじめまして。
レスをいただいたので、出てまいりました。
丁寧にお話し下さりありがとうございました。
再び連弥陀様のスレ汚しすみません。

まず、阿弥陀様から頂いたものは、「金剛の信心」に相違ございません。法然上人、親鸞聖人と同じものを頂いております。ボン様のようにそれを素直に信じて、佛が外ににじみ出る方は何の問題もございません。機法一体、その方は正に正定聚でしょう。
「浄土行きの切符が気持ち次第」と取られるとちょっときついのですが、疑い(自身のフラフラした心)につきましては、全く問題視しておりません。その目で何度佛菩薩を見ても、やはり信じられないのが人間だからです。阿弥陀さんはそんなどうしようもない人間を救うため超世の願を立てられましたので、「こんな疑いの塊の凡夫でもお救い下された。ありがとうござます。南無阿弥陀佛ゝ」と思って、後は阿弥陀さんに任せればいいだけですから。こんな楽なことはないと思っております。
私が気になったのは「信心決定」の使い方です。解釈が違うのかもしてませんが、この法にあっただけで、はたして本当に信心決定でしょうか。確かに信心を頂いた瞬間は信心決定かもしれませんが、阿弥陀さんから信心は頂いても、例えばお金儲けに忙しくなり、煩悩の垢が溜まりだして、菩薩としての自覚がなくなった時どうなるのでしょうか。(煩悩が悪いとか、往生のさわりになるとかいう意味ではありません。)
私の知る限りでは、折角このご法をいただきながら、衆生済度もせず、ほったらかしの人が多くいます。と言うより、何か御利益のあるお札でも貰ったかのように、しまいこんでしまう人が見受けられます。逆に勉強して偉くなり、驕慢を起こし、人を下にして、自身が下と思う人の意見を聞かないなどという人もおります。
ぶっちゃけいいますと「浄土行きの切符」と表現しましたのは切符には行き先が書いてあり、その行き先を決めるのは、自分自身ではないかということです。もちろん最初に阿弥陀さんがくれる切符の行先は「報土」です。が多くの人が自分で「化土」と書き換えてしまうのではないでしょうか。報土に行けるなら間違いなく信心決定ですが、「人なし」というからにはほとんどが「化土」なのでしょう。そのことを申しました。
ろくに聖教を読まないので何に書いてあるのか覚えてませんが、「信(心)をいくたびもいくたびもとれ」というようなことを聞いたことがあります。これは阿弥陀さんと心のやり取りをして信心を深め、そうすることにより、煩悩がとろけ、菩薩が外に出てくる。しかし人だから、また色々な垢がたまる。また信心をとる。これを死ぬまで繰り返していけということなのではないかと思います。それを続けられたら気が付いたら「報土」=信心決定ということなのではないでしょうか。
最後に、私が自身を不定聚と申し上げましたのは、衆生済度は阿弥陀如来が私を代官として行っているものであり、私の力など0%なのにもかかわらず、あたかも自分が行ったかのように、勘違いしてしまう驕慢が、私の心の奥底に潜んでいて、他力大行の催促を理解せず、純他力ではなく、どこかに「我」が入って、ともすれば半他力半自力になるので、そう申し上げました。
そういう訳で、わたしなんぞは毎度「まきたてではいかんぞ。足踏み腰かけはいかんぞ。」と叱られております。ご法を頂いた後が肝心とのお仰せです。私は人が悪いので、仮に知識から「信心決定、報土往生間違いなし。」なんて言われようもんなら、うれしいどころか「またまたあ。おいらをかついで化土送りにするつもりですか?あっはっは。」という会話になりそうです。あっ、かつぐといえば御輿には乗るなともいわれています。自身が驕慢になるのではなく、人が驕慢にさせるのだと。
長々とりとめもない話失礼しました。

●re.10
ボン
東京の男性
[ 2673 ] Re9:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/04 (Wed) 03:22 △up ▽down
たぬき丸さま、こんばんは。
いろいろと、詳しくお話いただき、ありがとうございます。

私は、浮世の事情からご恩のある善智識様・同行様たちと疎遠となり、今ではまったく
音信不通となってしまい、もはや、ツテを手繰る手段もなくなったはぐれものです。

音信が途絶えてからというものは、ご聖典は厳重に紙袋に包み込んで、だれにも分からな
いように引き出しの奥にしまい込んでいました。

それからは、日常生活の様々なことがドッと自分の中に押し寄せてきて、それで頭がいっ
ぱいになり、自分が念仏行者であったという意識も次第に薄れていき、いただいた御法も
こうしてだんだんと自分からフェードアウトしていくのだな、などと思っておりました。

実際に、様々な情報の洪水のなかで、「本当は何もかも違っていたのではないのか」とい
う疑惑が繰り返し繰り返し襲ってきて、それが徐々に強まってくるのを感じていました。

そうして仏法とはほとんど縁遠い生活をして十数年経ったある日、戯れに「南無阿弥陀仏
のすがた」というキーワードでネット検索をしてみて、この毎日様のホームページを発見
して、震えるような驚きを感じました。

細々とつながって来たに違いないと思っていたご一流からはぐれて、天涯孤独だと思って
いたのに、明らかに日本の随所に御一流が脈々と流れているということを知ることができ
て、喜びが爆発しました。「これはきっと本物に違いない」(こんなことで本物だなどと
思うのも、浅ましい限りなのですが・・・)

ともかく、まわりに同行様がだれもいなくなると偽物だと思い、同行様の気配を感じると
勇気百倍、こんどは本物だと思う。これほどに、私の信念などというものは、いい加減な
ものなのです。だから、今度また、何がきっかけで疑惑が勝ってくるのか知れたものでは
ありません。(もし、自分の信念がゆるぎないものとなることが「信心決定」だというの
なら、それは私にとって、いつ来るとも知れない夢のまた夢でしょう。)

私は、これまでに一度のお手引きもしたことがなく、また、いただいたものを何か御利益
のあるお札でももらったかのように懐にしまいこんで、ほったらかして来た人間です。

しかし、御法の記憶も薄れかかっていた私が、なぜ戯れに「南無阿弥陀仏のすがた」とい
うキーワードでネット検索をしてみようと思ったのか、今だに不思議です。また、何もか
も捨ててきた私が、なぜご聖典だけは捨てずに、後生大事に引き出しの奥にしまい込んで
いたのか。なぜ掟だけは守り通したのか。なぜ、まわりに同行様がいないことを天涯孤独
だと感じたのか。これも不思議といえば不思議なのです。

「たまたま偶然そうなっただけ」と言われればそうなのかもしれませんが、私には、何か
阿弥陀様のご加護があったように思えてならないのです。「光明をもつて摂取して捨てた
まわず」というのは、こういうことなのではないかと思っているわけです。

南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得て、一念帰命の他力の信心が定まったとき、光明のう
ちに収め取られて、そのまま一生を過ごし、その命が尽きたときに真実の報土に往生する
のだと教えられたので、ただそのとおりに信ずるばかりです。(聞きっぱなしの人も、
光明に収め取られている以上は、仏の力によって、必ずしかるべきところに戻ってくる
ものと信じます。)

以下、「おふみ」からの引用です。

--------------------------------------------------------------------------------
一心にもつぱら弥陀に帰命せば、如来は光明をもつてその身を摂取して捨てたまふべから
ず、これすなはちわれらが一念の信心決定したるすがたなり。

一念帰命の信心の定まるといふも、この摂取の光明にあひたてまつる時剋をさして、信心
の定まるとは申すなり。

かくのごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期のいのち
尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず。

当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。
--------------------------------------------------------------------------------

南无阿彌陀佛

●re.11
たぬき丸
非公開の非公開
[ 2674 ] Re10:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/04 (Wed) 22:25 △up ▽down
ボン様

調子に乗ってまたまた失礼いたします。
どうも書くのが苦手で、うまくいいたいことを伝えられません。話ですと阿弥陀さん任せで、楽ちんなんですが、文章にしますとどうしても我が入ってしまうみたいです。
適当に思い付くままに書き散らします。品性下劣ですので、文章が軽いのはお赦しください。

誤解があると非常につらいのですが、「自分の信念がゆるぎないものとなること」を「信心決定」と言っているのではありません。それだと自力になってしまいます。おっしゃる通り、疑念を払うなんてことは凡夫には絶対できないことです。「妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり。」(横川法語)ってなもんで、心に暴れ牛を飼っているのがこの私なのです。そんな私を一瞬で菩薩の姿に変えてくださるのがこの法です。単純に、如来さんを近くに置き、行きつ戻りつ反省をし、如来さんに感謝を続けていければ何の問題もないのです。

ボン様のおっしゃられた「南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得て、一念帰命の他力の信心が定まったとき、光明のうちに収め取られて、そのまま一生を過ごし、その命が尽きたときに真実の報土に往生するのだ。」というのは正にその通りなのですが、信心決定したそのまま一生を過ごせる人が少ないのを問題にしております。
(聞きっぱなしの人も、光明に収め取られている以上は、仏の力によって、必ずしかるべきところに戻ってくるものと信じます。)は、確かに佛の側からは雲居寺の阿弥陀よろしく、とらえて離したまわずですが、こちらから離れて行ってしまう人が多いのです。「阿弥陀さんなんか知らねえや。」「おおそうか。」てなもんで、六道に戻ることはありませんが、報土は無理でしょうね。途中で如来さんからの信号をキャッチして、反省してまた如来さんのもとに戻り、如来さんを近くに置く人はいいのですが、やはり受けっぱなしで忘れてそのまま臨終を迎えた場合、報土往生はかないません。最終的には果遂の願がありますので、地獄でない分いいっちゃいいのですが、まあ、時間の無駄で非常にもったいない話です。

私の苦手な御文を引用されましたので、一言。(御文ってどうも肝心なこと全部書かれてなくて、何割か裏に隠してあるので、非常に分かりずらいんですよね。)
一帖八の「そもそも人界の生をうけてあひがたき仏法にすでにあへる身が、いたづらにむなしく捺落に沈まんは、まことにもつてあさましきことにはあらずや。」これってなんでしょう。「あひがたき仏法にすでにあへる身が」「捺落に沈まん」法にあったのに地獄に落ちる?おかしな文章です。
一帖十一「かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。」この「坊主」も「門徒」も法を受けてないのかなあ。蓮如上人の弟子ですよね。法は受けているんです。つまりこの場合、六道の地獄ではなく、浄土の中の地獄(誤解なきよう。浄土には三悪道はないのは知ってます。報土に比べての意です。)である化土を指しているのです。

口伝鈔:光明・名号の因縁といふ事。「過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。」法を受けても受けてないのといっしょということは、たぶん報土じゃないと思うんですが。

つけたしで(すみません。「おてびき」というのは初耳なので、言いなれた「勧化」と言いかえさせていただきます。)勧化を一度もしたことがない。ということは、全く問題ありません。なぜなら、勧化は如来様がおやりになることですので、そのお役目、ご縁がない方は、そういう役回りが回って来ないだけの話です。すべて阿弥陀様の舞台回しによりますので、凡夫の恣意など入り込む隙間などありません。むしろこの場合困るのは「私は百人勧化した。」と誇ることです。阿弥陀様の功を自分のものにすり替えてしまうことです。これは如来さんが一番嫌いますので、化土一直線です。

ボン様ははぐれてお一人とのことですが、御臨末の書にも「一人居て喜ばは二人と思うべし、 二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり。」とありますので、いいではありませんか。 要は阿弥陀さんと心のやり取りをするかどうかですから。


●re.12
ボン
東京の男性
[ 2675 ] Re11:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/07 (Sat) 03:23 △up ▽down
たぬき丸さま、こんばんは。
またいろいろと、詳しくお話いただき、ありがとうございます。

私は、他力の信心をいただいて以降、変わらない気持ちでそれを信じてきたわけではあり
ません。疑う気持ちが強い時期もありました。ただ、今の私は少し心境の変化があって、
それは、信じるとか、疑うという気持ちとは少し違うような気がするのです。

それはどういうことかというと、私は、後生のことについて阿弥陀様に「おまかせした」
という気持ちでいるのが良いのではないかと思っているのです。「おまかせした」のなら、
信じるも疑うもないのかなと・・・。

私はこれまで、信じるとか、疑うとかいうことにこだわりすぎていました。「信心」とい
う言葉にとらわれていました。しかし、他力の「信心」は、阿弥陀様からいただいたもの
ですよね。自分から起こした信心ではありません。

だとしたら、自分の信じる心とか、疑う心とかをあまり問題にしても、仕方がないような
気がするのです。仕方がないどころか、それは、信じ切れない自分を責めてみたり、無理
に信じようと頑張ってみたりして、苦痛を引き起こします。

「おまかせした」のなら、自分のあやふやな心など問題にする必要がありません。これは
とても楽チンなことです。苦しいことを長く続けることは難しいのですが、楽チンなこと
を長く続けることは、とても簡単です。これなら、死ぬまで続けられそうな気がします。
死ぬまでまかせっぱなしにしていればいいのですから・・・。

おまかせして楽チンに救われるのなら、もう、これは感謝するしかありませんね。楽チン
に救われて感謝する、ただそれだけでいいのだと思います。これが究極の他力なのかな、
という気がいたします。

そもそも、私の間違いのもとは、自分の気持ちを問題にしたことではないかと思うのです。
「心から信じよう」「疑うことを止めよう」「いつも仏と向き合うようにしよう」「菩薩
としての自覚を持とう」「煩悩の垢を洗い流そう」「信心決定をゆるぎないものにしよう」
「驕慢な気持ちを起こさないようにしよう」などと思うところから自力がスタートするの
ではないでしょうか。そして、自力はとても苦しいのです。

また、それと同様に、「疑ったら化土だ」「心が離れてしまったら化土だ」「驕慢な心を
起こしたら化土だ」というのも、自力の始まりなのではないでしょうか。

南无阿彌陀佛

●re.13
唯物信者
海外の男性
[ 2676 ] Re12:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/09 (Mon) 00:28 △up ▽down

ボン様

コンバンワ
またすばらしい書き込み有難う御座います

読んで今までの胸のツカエがとれました。
浅はかな自力でなんとかしよう、信じようとするから、益々苦しくなるのですね

ウソであろうが、騙されようが、いいではないか、後悔しない。
後生のことも、その時になってみないとわからない

それでいいではないでしょうか
すべては阿弥陀様にお任せすればいいのでは?

自力で信じようとする方が却って過ちをおかすのでは?と思います

すべて阿弥陀様にお任せいたします

南無阿弥陀仏

ボン様ありがとう!







>それはどういうことかというと、私は、後生のことについて阿弥陀様に「おまかせした」
>という気持ちでいるのが良いのではないかと思っているのです。「おまかせした」のなら、
>信じるも疑うもないのかなと・・・。
>
>私はこれまで、信じるとか、疑うとかいうことにこだわりすぎていました。「信心」とい
>う言葉にとらわれていました。しかし、他力の「信心」は、阿弥陀様からいただいたもの
>ですよね。自分から起こした信心ではありません。
>
>だとしたら、自分の信じる心とか、疑う心とかをあまり問題にしても、仕方がないような
>気がするのです。仕方がないどころか、それは、信じ切れない自分を責めてみたり、無理
>に信じようと頑張ってみたりして、苦痛を引き起こします。
>
>「おまかせした」のなら、自分のあやふやな心など問題にする必要がありません。これは
>とても楽チンなことです。苦しいことを長く続けることは難しいのですが、楽チンなこと
>を長く続けることは、とても簡単です。これなら、死ぬまで続けられそうな気がします。
>死ぬまでまかせっぱなしにしていればいいのですから・・・。
>
>おまかせして楽チンに救われるのなら、もう、これは感謝するしかありませんね。楽チン
>に救われて感謝する、ただそれだけでいいのだと思います。これが究極の他力なのかな、
>という気がいたします。
>
>そもそも、私の間違いのもとは、自分の気持ちを問題にしたことではないかと思うのです。
>「心から信じよう」「疑うことを止めよう」「いつも仏と向き合うようにしよう」「菩薩
>としての自覚を持とう」「煩悩の垢を洗い流そう」「信心決定をゆるぎないものにしよう」
>「驕慢な気持ちを起こさないようにしよう」などと思うところから自力がスタートするの
>ではないでしょうか。そして、自力はとても苦しいのです。
>
>また、それと同様に、「疑ったら化土だ」「心が離れてしまったら化土だ」「驕慢な心を
>起こしたら化土だ」というのも、自力の始まりなのではないでしょうか。
>
>南无阿彌陀佛
>

●re.14
唯物信者
海外の男性
[ 2677 ] Re13:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/09 (Mon) 00:30 △up ▽down
>
>ボン様
>
>コンバンワ
>またすばらしい書き込み有難う御座います
>
>読んで今までの胸のツカエがとれました。
>浅はかな自力でなんとかしよう、信じようとするから、益々苦しくなるのですね
>
>ウソであろうが、騙されようが、いいではないか、後悔しない。
>後生のことも、その時になってみないとわからない
>
>それでいいではないでしょうか
>すべては阿弥陀様にお任せすればいいのでは?
>
>自力で信じようとする方が却って過ちをおかすのでは?と思います
>
>すべて阿弥陀様にお任せいたします
>
>南無阿弥陀仏
>
>ボン様ありがとう!
>

●re.15
ボン
東京の男性
[ 2678 ] Re14:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/10 (Tue) 01:08 △up ▽down
唯物信者さま、皆さま、こんばんは。

私は、どうしたら自分自身が安心していられるかということについて、あれこれ考た結果、
自分の心の状態をあまり問題にしないほうが楽だと思ったのです。

しかし、これが他力の信心をいただいた念仏行者にとって、相応しい態度なのかどうかは
解りません。自分ではご聖典の内容に即した態度を取っているつもりでも、実はひょっと
したら、逆にこれはご聖典の内容に反する態度なのかもしれません。

ですから、私が何か勘違いをしているようなところがございましたら、どなたでもご指摘
をいただければうれしく思います。また、自分でもご聖典をよく読んで、それに反する
態度をとることのない様に、今後も十分気をつける必要があるように思います。

つまり、私はとりあえず今の自分の考えていることを公にしているに過ぎないのであって、
これが一念帰命の念仏行者にとって相応しい態度だと、自信を持って主張しているわけで
はないということをご理解いただければ幸いです。

また、私はあくまでも「他力の信心」をいただいた後のことについて申し上げているので
あって、「他力の信心」をいただく前に、「阿弥陀様におまかせ」といってもしかたのな
いことだと思います。

酒は、飲むから酔っ払うのであって、酒を飲まないで酔っ払うことはできないと思います。

南无阿彌陀佛

●re.16
ボン
東京の男性
[ 2679 ] Re15:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/10 (Tue) 02:48 △up ▽down
たぬき丸さま、皆さま、こんばんは。

私の「おふみ」の引用に関連しまして、たぬき丸さまからも「おふみ」から引用をいただ
きました。いろいろ、私の知らないことを教えていただきまして、ありがたく存じており
ます。

>私の苦手な御文を引用されましたので、一言。(御文ってどうも肝心なこと全部書かれて
>なくて、何割か裏に隠してあるので、非常に分かりずらいんですよね。)

確かに「おふみ」では、肝心なところを表に出さないで、裏にある何かを暗示させる書き
方になっている部分があるので、一般の方がただ読んでも分かりにくいものと思います。
その最たるものが「南無阿弥陀仏の六字のすがた」という表現ですよね。

「他力の信心」をいただいたご同行にとっては、これほどあからさまな表現はほかにない
と思えるのですが、そうでない方にとってはチンプンカンプンで、何が何だかさっぱり分
からないのだと思います。

ですから、他のご聖典では遠まわしな表現になっているものを、「おふみ」ではスレスレ
まで露骨に表現しているという印象を私は持っているのです。しかし、「おふみ」には
「他力の信心」をいただいた者にとってすら、なお分かりにくい裏があるようでしたら、
さらに注意深く読む必要があるということなのでしょうね。

さて、引用をいただきました「そもそも人界の生をうけてあひがたき仏法にすでにあへる
身が、いたづらにむなしく捺落に沈まんは、まことにもつてあさましきことにはあらずや。」
についてですが、今まで何度か「おふみ」は読んでいたのですが、いい加減に読んでいた
せいか、正直に申し上げまして、この部分はあまり印象に残っておりませんでした。

たぬき丸さまの主旨は、「法にあったのに地獄に落ちる」と言っているのだから、それは、
他力の信心をいただいた人であっても、もし聞きっぱなしだとしたら「六道の地獄」では
ないけれど「浄土の中の地獄である化土」に行く(沈む?)ことになるということだと思
います。

そこで、引用箇所の前後を含めてあらためて読んでみましたところ、必ずしもたぬき丸さ
まのおっしゃるようには受け取れないのではないかと感じましたので、やや冗長になると
は思いますが、以下、感じたところを述べたいと思います。まず、その部分の全体を引用
します。

--------------------------------------------------------------------------------
さるほどに道俗・男女群集せしむといへども、さらになにへんともなき体なるあひだ、
当年より諸人の出入をとどむるこころは、この在所に居住せしむる根元はなにごとぞな
れば、そもそも人界の生をうけてあひがたき仏法にすでにあへる身が、いたづらにむな
しく捺落に沈まんは、まことにもつてあさましきことにはあらずや。
--------------------------------------------------------------------------------

この文章は少し分かりづらいので、現代語に訳させていただきます。

--------------------------------------------------------------------------------
このように道俗・男女が(吉崎に)群がり集まってきておられるが、まったく何ほどのこと
もない様子なので、今年から(坊舎に)多くの人々が出入りすることを止めるということの
真意は、(人々が)この在所(吉崎)に居住される本来の理由は何事かと考えるならば、そも
そも人間に生まれることによって、出会うことの難しい仏法にすでに出会った身なのに、
無駄にむなしく捺落(地獄)に沈んでしまうのは、まったく嘆かわしいことではないか。
--------------------------------------------------------------------------------

「吉崎にたくさん人が集まってきているけども、「さらになにへんともなき体」なので、
だれでもかれでもがこの坊舎に出入りすることは禁止します。」と言っているわけですが、
この「さらになにへんともなき体」を現代語で表現すると「まったく何ほどのこともない
様子」ということになります。もう少し砕けた言い方をすると「まるでどうってこともな
い様子」ということになります。

それでは、だれが「まるでどうってこともない様子」なのかといえば、それは「吉崎に群
がり集まってきた道俗・男女」です。そこで、この吉崎に群がり集まってきた道俗・男女
は、「六字のすがた」をわきまえたご同行であるかどうかが問題です。ここでは断定的な
言い方は避けますが、ご同行である可能性は少ないと私は思います。

なぜなら、まず「道俗・男女」というのは「僧侶も、俗人も、男も、女も」という意味で、
要するに「これとは特定できないいろんな人々」というニュアンスを持つ言葉です。した
がって「道俗・男女」が、ごく特定された「ご同行」を指すとは考えにくいと思います。

また「蓮如上人御一代記聞書」のなかに「同行・善知識にはよくよくちかづくべし」とあ
ります。そうであるならば、ご同行を出入り禁止にするというのも考えにくいような気が
します。

そうすると、ここの文章全体が、ご同行ではない一般の方々について語られた文章ではな
いのかという疑問が湧いてきます。少なくとも、「ご同行について語られたものとは断定
できない」ということは言えるものと思います。

これに対して「仏法にすでに出会った身」と書いてあるのだから、それは「信をとったご
同行」のことではないかという反論が成り立つような気もいたします。たしかに、ご聖典
では「仏法に会う」を「信をとる」ということを同じ意味で使っている部分もありますが、
そうでない部分が見受けられるのも事実です。

たとえば、「蓮如上人御一代記聞書」に「他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には
信をとることを宿善といふ。」という表現があります。ここでは明らかに「法にあふ」と
「信をとる」は別のこととして述べられています。

したがって、「仏法にすでに出会った身」と書いてあっても、必ずしもそれは「信をとっ
たご同行」のこととは限らないということになります。そうすると「法にあったのに地獄
に落ちる」ということを、必ずしも「信をとったご同行なのに地獄に落ちる」という意味
に取る必要はない、ということになります。

むしろ、その前後の文脈から判断すると、吉崎に群がり集まってきた多くの人々に、これ
といった進展もない、つまり「他力の信心」をとる気配もないということを嘆いて、人間
界にうまれ、仏法に出会い、その門の近くまで来ているのに、その門の中まで入ってくる
ことができず、むなしく奈落に沈むのは嘆かわしい、と言っているように聞こえます。

「口伝鈔」の引用につきましても、その前後を併せて読むと、ほぼ同様のことが言えると
思いますが、長くなりますので、ここでは詳しく述べないことといたします。

「おふみ」(1-11)の引用につきましては、これとはまた別の説明が必要だと思いますが、
長くなりますので、あらためて申し上げることといたします。

ここまで、述べたことで、何かおかしな点がございましたら、どなたさまでも、どうか
ご指摘いただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.17
むじな
非公開の非公開
[ 2680 ] Re16:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/10 (Tue) 08:56 △up ▽down
>たぬき丸さま、皆さま、こんばんは。
>
>私の「おふみ」の引用に関連しまして、たぬき丸さまからも「おふみ」から引用をいただ
>きました。いろいろ、私の知らないことを教えていただきまして、ありがたく存じており
>ます。
>
>>私の苦手な御文を引用されましたので、一言。(御文ってどうも肝心なこと全部書かれて
>>なくて、何割か裏に隠してあるので、非常に分かりずらいんですよね。)
>
>確かに「おふみ」では、肝心なところを表に出さないで、裏にある何かを暗示させる書き
>方になっている部分があるので、一般の方がただ読んでも分かりにくいものと思います。
>その最たるものが「南無阿弥陀仏の六字のすがた」という表現ですよね。
>
>「他力の信心」をいただいたご同行にとっては、これほどあからさまな表現はほかにない
>と思えるのですが、そうでない方にとってはチンプンカンプンで、何が何だかさっぱり分
>からないのだと思います。
>
>ですから、他のご聖典では遠まわしな表現になっているものを、「おふみ」ではスレスレ
>まで露骨に表現しているという印象を私は持っているのです。しかし、「おふみ」には
>「他力の信心」をいただいた者にとってすら、なお分かりにくい裏があるようでしたら、
>さらに注意深く読む必要があるということなのでしょうね。
>
>さて、引用をいただきました「そもそも人界の生をうけてあひがたき仏法にすでにあへる
>身が、いたづらにむなしく捺落に沈まんは、まことにもつてあさましきことにはあらずや。」
>についてですが、今まで何度か「おふみ」は読んでいたのですが、いい加減に読んでいた
>せいか、正直に申し上げまして、この部分はあまり印象に残っておりませんでした。
>
>たぬき丸さまの主旨は、「法にあったのに地獄に落ちる」と言っているのだから、それは、
>他力の信心をいただいた人であっても、もし聞きっぱなしだとしたら「六道の地獄」では
>ないけれど「浄土の中の地獄である化土」に行く(沈む?)ことになるということだと思
>います。
>
>そこで、引用箇所の前後を含めてあらためて読んでみましたところ、必ずしもたぬき丸さ
>まのおっしゃるようには受け取れないのではないかと感じましたので、やや冗長になると
>は思いますが、以下、感じたところを述べたいと思います。まず、その部分の全体を引用
>します。
>
>--------------------------------------------------------------------------------
>さるほどに道俗・男女群集せしむといへども、さらになにへんともなき体なるあひだ、
>当年より諸人の出入をとどむるこころは、この在所に居住せしむる根元はなにごとぞな
>れば、そもそも人界の生をうけてあひがたき仏法にすでにあへる身が、いたづらにむな
>しく捺落に沈まんは、まことにもつてあさましきことにはあらずや。
>--------------------------------------------------------------------------------
>
>この文章は少し分かりづらいので、現代語に訳させていただきます。
>
>--------------------------------------------------------------------------------
>このように道俗・男女が(吉崎に)群がり集まってきておられるが、まったく何ほどのこと
>もない様子なので、今年から(坊舎に)多くの人々が出入りすることを止めるということの
>真意は、(人々が)この在所(吉崎)に居住される本来の理由は何事かと考えるならば、そも
>そも人間に生まれることによって、出会うことの難しい仏法にすでに出会った身なのに、
>無駄にむなしく捺落(地獄)に沈んでしまうのは、まったく嘆かわしいことではないか。
>--------------------------------------------------------------------------------
>
>「吉崎にたくさん人が集まってきているけども、「さらになにへんともなき体」なので、
>だれでもかれでもがこの坊舎に出入りすることは禁止します。」と言っているわけですが、
>この「さらになにへんともなき体」を現代語で表現すると「まったく何ほどのこともない
>様子」ということになります。もう少し砕けた言い方をすると「まるでどうってこともな
>い様子」ということになります。
>
>それでは、だれが「まるでどうってこともない様子」なのかといえば、それは「吉崎に群
>がり集まってきた道俗・男女」です。そこで、この吉崎に群がり集まってきた道俗・男女
>は、「六字のすがた」をわきまえたご同行であるかどうかが問題です。ここでは断定的な
>言い方は避けますが、ご同行である可能性は少ないと私は思います。
>
>なぜなら、まず「道俗・男女」というのは「僧侶も、俗人も、男も、女も」という意味で、
>要するに「これとは特定できないいろんな人々」というニュアンスを持つ言葉です。した
>がって「道俗・男女」が、ごく特定された「ご同行」を指すとは考えにくいと思います。
>
>また「蓮如上人御一代記聞書」のなかに「同行・善知識にはよくよくちかづくべし」とあ
>ります。そうであるならば、ご同行を出入り禁止にするというのも考えにくいような気が
>します。
>
>そうすると、ここの文章全体が、ご同行ではない一般の方々について語られた文章ではな
>いのかという疑問が湧いてきます。少なくとも、「ご同行について語られたものとは断定
>できない」ということは言えるものと思います。
>
>これに対して「仏法にすでに出会った身」と書いてあるのだから、それは「信をとったご
>同行」のことではないかという反論が成り立つような気もいたします。たしかに、ご聖典
>では「仏法に会う」を「信をとる」ということを同じ意味で使っている部分もありますが、
>そうでない部分が見受けられるのも事実です。
>
>たとえば、「蓮如上人御一代記聞書」に「他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には
>信をとることを宿善といふ。」という表現があります。ここでは明らかに「法にあふ」と
>「信をとる」は別のこととして述べられています。
>
>したがって、「仏法にすでに出会った身」と書いてあっても、必ずしもそれは「信をとっ
>たご同行」のこととは限らないということになります。そうすると「法にあったのに地獄
>に落ちる」ということを、必ずしも「信をとったご同行なのに地獄に落ちる」という意味
>に取る必要はない、ということになります。
>
>むしろ、その前後の文脈から判断すると、吉崎に群がり集まってきた多くの人々に、これ
>といった進展もない、つまり「他力の信心」をとる気配もないということを嘆いて、人間
>界にうまれ、仏法に出会い、その門の近くまで来ているのに、その門の中まで入ってくる
>ことができず、むなしく奈落に沈むのは嘆かわしい、と言っているように聞こえます。
>
>「口伝鈔」の引用につきましても、その前後を併せて読むと、ほぼ同様のことが言えると
>思いますが、長くなりますので、ここでは詳しく述べないことといたします。
>
>「おふみ」(1-11)の引用につきましては、これとはまた別の説明が必要だと思いますが、
>長くなりますので、あらためて申し上げることといたします。
>
>ここまで、述べたことで、何かおかしな点がございましたら、どなたさまでも、どうか
>ご指摘いただければ幸いです。
>
>南无阿彌陀佛


初めて投稿致します。皆さまの談義大変意義ある内容で感服致して居ります。
蓮如聖人は仏法は大いに談義して真の信心を正せと言われています。
反論では御座いませんが蓮如さまお文の2−1条に そもそも、今度一七箇日報恩講(ほうおんこう)のあひだにおいて、多屋内方もそのほかの人も、大略信心を決定(けつじょう)したまへるよしきこえたり。めでたく本望これにすぐべからず。さりながら、そのままうちすて候へば、信心もうせ候ふべし。細細に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ云々。早春お弟子と共にお出かけあさばされた聖人田植えの準備に農家の人が田のあぜ作りをして居られた聖人はお弟子にあの者は何の作業をしておるのかとお尋ねになられました。お弟子はあの人は田に取り込む水の流れを良くするための作業に溝に貯まった泥を始末して居られるのです。・・聞かれた聖人も仏法もそのとうり
時々信心の埃を払わないと失せ候と・・大事な事と思います合掌


>

●re.18
たぬき丸
非公開の非公開
[ 2681 ] Re17:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/10 (Tue) 23:30 △up ▽down
ボン様

ご教示誠にありがとうございます。
御文の解釈につきましては、正直申しまして私は勉強不足ですので、至らないところがあると思います。この辺はボン様の長年の研鑽には敵うべくもございませんので、素直に「三舎を避く」です。
また、報化ニ土について、論争?みたいなことはしたくはないのですが、ただどうしても、帰命さえすれば、皆もれなく報土に行ける。ということには同意できないのであります。
またグズグズと申し上げますが、帰命した時点で封土へ一直線のレールが敷かれます。
前にも申しましたが、ボン様のような方は、例えその心の中がどうであれ、真摯に如来様と向きあっておりますので、もし脱線したとしても、如来様の光明の中にあり、如来様のお力により、自然と修正されたり、気付かされるため、問題ないのです。しかしながら、脱線してもこちらが如来様を捨てたり、忘れたりしていれば、いくら如来様の方で修正してくださるように働きかけてくださっても、こちらで拒絶しておりますので、元のレールには戻れないのです。(坊主心得をなおせば元通りです)決して如来様のお力が足りないとか、光明がかかる人とかからない人がいる。とかそういうことを言っているのではありません。佛の側からは平等に摂取不捨でも「受け入れる・拒絶する」という裁量が私達にはあるということを言っております。そしてその部分が、他力とは言いながら自力より難しく、「まかせる」人には容易な部分で、報土・化土の分かれ目になります。

唯物信者様
「弥陀たのむこころをおこせ皆人のかわるすがたを見るにつけても」(親鸞聖人)
これは幽霊済度の話ではありません。親鸞聖人が知識として、実際に目の当たりにした感想を述べております。比喩ではありません。そして次の句です。
「生きて身をはちすの上に宿さずば念仏申すかいやなからん」(西山国師証空上人)
まんまです。こういうふうにならなければ、念仏してもまるで意味がありません。(遠い未来において考えれば、0ではありませんが)
また、外国には善知識はおりません。磯長の夢告に「日域は大乗相応の地なり」とございますので、現在では日本の専売となります。
いつか他力の信心をいただけるといいですね。

むじな 様
はじめまして。
たぬきだのむじなだの怪しい者の集まりになって来ましたが、いい例文を引いて頂きました。私も常々親鸞聖人の田植え歌を忘れないように言われております。実際はすっとんで忘れておりますが・・

五劫思惟ノ稻代ニ
    兆戴永劫ノシロヲシテ
 一念歸命ノタネヲオロシ
    自力雑請行ノ草ヲトリ
 念々相続ノ水ヲ流シ
    往生ノ秋ニナリヌレバ
 コノミトルコソウレシケレ

う〜ん。どうしても「蒔きたて」で勝手に実るとは言ってないように思えるんですよね。


●re.19
ボン
東京の男性
[ 2682 ] Re18:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/12 (Thu) 01:32 △up ▽down
むじなさま、皆さま、こんばんは。

大切なご指摘をいただきまして、ありがとうございます。

「弥陀の法水を流せ」という言葉は、かつて私も、恩師からよく耳にいたしました。実際、
同行様から遠ざかって長く暮らして、浮世の圧倒的な情報量の中に御法が埋もれてしまい、
御法を大事に思う気持ちが薄れてしまったという経験をいたしましたので、やはり、時に
は同行が集まって、浮世の垢を洗い流す作業が必要だということは、今なら私も実感でき
ます。

同行様からはぐれてしまった私は、この掲示板で「信心の沙汰」をしていただくことが、
「弥陀の法水」を流すことができる唯一の機会となっておりますので、この場をご提供い
ただいている毎日さまには、深く感謝をしております。また、私の心の内や考え方などを
可能なかぎる詳らかにしたいと考えておりますので、おかしな点はご指摘いただければ幸
いです。

ところで、お示しいただきましたお文の文章は、これまでなにげなく読んでいたのですが、
あらためて読み直してみますと、容易ならざることが書いてあるんですね。「そのままう
ちすて候へば、信心もうせ候ふべし。」といういうことは、他力の信心をちょうだいした
あとも、そのまま放っておけば、その信心も「失せる」つまり「消えて無くなる」という
ことですよね。

もし仮に、「他力の信心」が消えて無くなってしまったら、どういうことになるのでしょ
うか。その人の行き先は「化土」なのでしょうか、それとも、六道輪廻に留まることにな
るのでしょうか。もし、消えてなくなってしまったら「化土」にすら行けなくなってしま
うような気がするのですが、どうなんでしょうか。

また、阿弥陀様からいただいた信心は壊れることのない「金剛の信心」なのに、「消えて
無くなる」このもあるのでしょうか。「他力の信心」をいただいたものは、そこから退く
ことがないので「住不退転」と言われているのに、いただいた信心がなくなってしまうこ
とがあるのでしょうか。なにか、辻褄が合わないような気がするのですが、ここのところ
はどう理解すればようのでしょうか。

あるいは、ただ「信心」と言ったときは、阿弥陀様からいただいた「他力の信心」を指す
場合と、凡夫の側の「信じる心」を指す場合とがあって、使い分けが必要なのでしょうか。

どなたでも、教えていただければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.20
毎日
非公開の非公開
[ 2683 ] Re19:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/12 (Thu) 02:11 △up ▽down
ボン様

お久しぶりでございます。

御書き込み、いつも拝見しております。

私の自己顕示欲からか、ホームページのタイトルに「毎日の」などとつけてしまったこともあり、かえって(私としては)書き込みにくくなっております。

私自身の気持ちとしては、私の意見は私の意見で、あくまでも個人的なものに過ぎませんので、掲示板の「管理者」というのは、意見を統制しているのではなく、「語る」環境を維持するところに本分があると思っております。

(とは言え、たとえば、単なる商品の広告であったり、結局は、私の「限度」というものも存在し、そこを超えるものについては削除などを致しております。しかしそれもまた、「場の維持」ということにつながると信じてのことですが、その判断においても、私の主観が入っていることもまた、間違いないと思います。)

さて、「信心」の用法ですが、有名なところから引きますと、

>一つは信心淳からず、存せるがごとし、亡せるがごときのゆえに。二つには信心一ならず、決定なきがゆえに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆえに。

という表現があります。

この「信心」がどちらを指すと考えられるかは、わかりやすいのではと思います。

一方、現在話題となっておりますお文さまの該当箇所につきましては、両方の解釈ができそうです。

そうなると、解釈にも、各自の「信じていること」が反映されることになると思います。

あとは、御聖典の他の箇所との照合でありましたり、御同行様との心持ちのやりとりでしたり、そのようなものから、ひとりひとりに、立ち現れてくるものであると思いますし、その姿には、多様なものがあるのではと思っております。


また、「はぐれもの」ということに関しましては、私にも同様のところがあり、ただ、私の場合は、自らを恥じる気持ちのあまり、自分で自分の世界に閉じている面があるのですが、このような時期も、いずれ、通過されるのではないかと考えております。

基本的には、「すべてお任せ」という態度でおります。


そして、こんな私にも、ありがたい六字でありまして、凡夫ですから、「何もすることがない」とかえって手持ちぶさたなのですが、やろうと思えば、名号お唱えするということができるということが、何か罪滅ぼしのような感じも致しまして、凡夫の気持ちをよろこばさせてくださいます。


また、このように書き込んでおりますと、

>一向に不信のよし申さるる人はよく候ふ。ことばにて安心のとほり申し候ひて、口にはおなじごとくにて、まぎれて空しくなるべき人を悲しく覚え候ふよし仰せられ候ふなり

という(私の)心のはたらきが、よく自覚されまして、凡夫の心というものは、さほど変わっていないのだなあと思わされます。


南无阿彌陀佛

●re.21
ボン
東京の男性
[ 2684 ] Re20:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/12 (Thu) 02:11 △up ▽down
たぬき丸さま、こんばんは。

なにか無理やり論争に引き込んだようなかたちになって、申し訳なく思っております。

私などは、長年の研鑽を積んだわけでもなく、つい最近になって、にわかに「ご聖典を読
んでみよう」などと思ったかけ出し者で、これといった確信もないままに、あれこれ思
いつきや疑問などを書き散らすはねっかえり者です。

ただ、報土と化土のことは、前から気になっていたことでしたので、自分のなかではっき
りさせたいという気持ちもあって、必要以上にクドくなってしまったかもしれません。
もし失礼がございましたらお許しをいただきたく存じます。

たぬき丸や、むじなさまなど、よく物の解った方々にお出ましいただいて、心の底から喜
んでおります。今後もいろいろとご指導いただければと思います。

南无阿彌陀佛

●re.22
毎日
非公開の非公開
[ 2685 ] Re21:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/12 (Thu) 02:25 △up ▽down
ボン様

これは、教わったことというよりは、私が思っていることでありまして、もしかすると、私自身を正当化したいからなのかもしれませんが、現在の私は、化土は、佛の方便として、衆生済度のためにお作りくださったものだと考えております。

歎異抄にも、

>辺地の往生をとぐるひと、ついには地獄におつべしということ

とはじまる条がございます。

また、

>化土にうまるる人はすくなからず

ということでして、「少なからずの人が救われているのだなあ、ありがたいことです、なむあみだむぶつ」とお唱えしたりしております。

私などは化土で十分でございまして(もちろん、そうは言いながらも、報土が欲しいという傲慢な気持ちも持っております、ですから「十分」というのは、格好をつけた言い方であるということも添えておきます)、そこでご養育いただけるなら、さらに自分で流転するよりも、「はるかにおトク」であるというような感覚も持っております。

しかし、「報土につれていってもらえるかもしれないなあ」のような気持ちもございます。

もちろん、「これらのお話、すべてウソかもしれない」という疑念も出て参ります。

結局は、私のような凡夫は、報土に生まれる自信がないわけでして、化土くらいなら(という風に思ってしまうのです、今の世界に比べれば、とてつもなく良い場所であるはずなのですが、ついつい「さらに良い」と言われる場所と比べてしまいます)行けるかもしれないなあ、というところから、「それでよいのだ」と自分を納得させたいのかもしれません。

このように、相矛盾するいくつもの気持ちが、ふわふわと心にわいてくるのです。

南无阿彌陀佛


●re.23
たぬき丸
非公開の非公開
[ 2686 ] Re22:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/13 (Fri) 06:19 △up ▽down
管理人様

はじめまして。勝手に上がりこんで、おじゃましております。
よろしくお願いいたします。
ここに書込みをさせていただいて改めて気づきましたが、管理人様のおっしゃるように「心のはたらきが、よく自覚されまして」は同感です。自分で曖昧にしていたことなどが、あぶり出されてくるようで、非常に勉強になります。また人に話しかけているようでいて、実際は自分に言い聞かせているんだなあ、といこうこともよくわかります。
面白い場を提供して頂き、感謝申し上げます。

ボン様

失礼などととんでもないことでございます。いろいろご教示いただきまして、ありがたく存じております。こちらこそ化土化土うるさく申しまして申し訳ございません。けど、自分は絶対に化土には生まれたくないもんですから、この話になるとどうにも止まらなくなります。

私は化土につきましては師より色々と話を聞かされておりますが、聖教に書かれているかどうか、面倒くさいので調べたこともないので、「ここにこう書いてある」と証明もできません。
また、不特定多数の人が見る掲示板では、詳しくお話できませんので、善知識とのやり取りがある方は善知識お尋ねいただければと存じます。ここでは当たり障りのない所でお話しをいたします。(もったいぶって前フリが長いですが、実は大した話ではございませんので、期待しないで適当にお聞き下さい。)

まず「化土」は基本「疑城胎宮」の事を指します。これは浄土の中にあります。(方便などではなく、実在するとしか私には思えません。)私が「化土」といった場合、「疑城胎宮」です。こっちは適当な時期に華が開きます。500年とか言ってますが、故あって早い場合もあります。人間の時間は参考になりません。
「辺地懈慢」なんてのもありますが、こっちは浄土の外ですので、どっちかというと念仏行者の牢屋みたいなもんですね。大体この法にあっていながら、それを利用して知識を騙って金儲けを企むとここですね。重罪です。いつ出られるかわかりません。ですので論外で、普通の人ならやりませんし、我々にはまず関係ありませんので、これ以上話しません。

で、ボン様の疑問

>ところで、お示しいただきましたお文の文章は、これまでなにげなく読んでいたのですが、あらためて読み直してみますと、容易ならざることが書いてあるんですね。「そのままうちすて候へば、信心もうせ候ふべし。」といういうことは、他力の信心をちょうだいした
あとも、そのまま放っておけば、その信心も「失せる」つまり「消えて無くなる」という
ことですよね。
もし仮に、「他力の信心」が消えて無くなってしまったら、どういうことになるのでしょ
うか。その人の行き先は「化土」なのでしょうか、それとも、六道輪廻に留まることにな
るのでしょうか。もし、消えてなくなってしまったら「化土」にすら行けなくなってしま
うような気がするのですが、どうなんでしょうか。
また、阿弥陀様からいただいた信心は壊れることのない「金剛の信心」なのに、「消えて
無くなる」このもあるのでしょうか。「他力の信心」をいただいたものは、そこから退く
ことがないので「住不退転」と言われているのに、いただいた信心がなくなってしまうこ
とがあるのでしょうか。なにか、辻褄が合わないような気がするのですが、ここのところ
はどう理解すればようのでしょうか。

私が帰命したのは学生の時で、「仏教」の「ぶ」の字もわかりませんでしたので、無遠慮に訳のわからない質問をしたもんです。その中でこんな質問をしたことがあります。
「この法にあったら、絶対に死んだら極楽ですよね。もう二度と六道輪廻しないんですよね。でももし、一日中蓮の花の上に座っていても退屈だから、やっぱ波乱万丈の六道輪廻がしたいので、取り消してくれ。と阿弥陀さんに頼んだ場合、どうなります?」
今思うと、アホの極みですね。こう言われました。
「そういうことは煩悩が言っているだけだから、阿弥陀様は全く取り合いません。」
「じゃあ、念仏の代わりに毎日『地獄に行きたい。地獄に行きたい。』って唱えても?」
「同じです。摂取不捨です。」
つまり、摂取不捨ですから、何があっても如来様から頂いた信心が目減りしたり、なくなるようなことはありませんし、六道に戻ってくるなど絶対に無いという事です。
じゃあなんでそんな「失せる」なんていう表現を使うかというと、私にもわかりませんが、多分、ボン様のその次の疑問が正鵠を得ているような気がします。
>あるいは、ただ「信心」と言ったときは、阿弥陀様からいただいた「他力の信心」を指す場合と、凡夫の側の「信じる心」を指す場合とがあって、使い分けが必要なのでしょうか。
ここではやはり凡夫の「裁量部分」を問題にしていると思われます。
「そのままうちすて候へば、信心もうせ候ふべし。」そのままほっときますと、阿弥陀様の方からの「われを頼め」という呼びかけを拒絶して、また助けていただいた感謝もしない訳ですから、佛凡がかけ離れて、機と法がどこまで行っても一体になりませんので、このまま臨終を迎えれば、はじめから信心をいただいていないに等しく、そのまま「奈落」ということになるのだというような話だと思います。
ここで注意が必要なのは、凡夫の側の「信じる心」というと、少しニュアンスが違い、「信じる心」も如来様より与えられますので、それを素直に受け取って、尊がりなさい。ということになると思います。こっちからがんばって信じるのではなく、その信じる気持ちも如来様よりの賜りものですので、その丸抱えに感謝しなさいということ。
ある商品(極楽)を、売る店があって、そこの店主(阿弥陀様)が、お客(私)にお金(信心・念佛)をくれて、お客は全く懐が痛まずにもらったお金で、商品を手にする。ということでしょうか。
何言ってるのか訳がわからなくなりましたが、
帰命の時点で凡夫の魂が菩薩になります。菩薩のみですと煩悩が無いので、世渡りも出来ず、人に立ち交わらなければ衆生済度も出来ませんので、見かけは凡夫、魂は菩薩という変な人?が出来上がります。金剛の信心を頂いた菩薩とういう餡(法)を凡夫の皮(機)で包んだ大福みたいなもん?何か違うな・・
凡夫という泥の中に、如来様の信心という佛種を植えて頂いた状態。(真実誠種の心)の方がいいかな。
この念仏行者が、阿弥陀様に感謝して念仏申し、讃嘆し、(こうして阿弥陀さんの話をするのも讃嘆です)時に甘え、たまに文句を言って阿弥陀様を身近に置きますと、光明がかかります。光明がかかりますと、泥がとろけて、佛の種の部分が外に出てきて、ついにはそこから芽が出ます。
口伝抄の光明名号因縁に「十方世界を照曜する無碍光遍照の明朗なるに照らされて、無明沈没の煩惑漸々にとらけて、涅槃の真因たる信心の根芽わづかにきざすとき、報土得生の定聚の位に住す。」とある通りです。
結局のところ、私がごちゃごちゃ言ってかき混ぜてしまいましたが、最初のボンさまの「おまかせする」が正解だと思います。

●re.24
毎日
非公開の非公開
[ 2687 ] Re23:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/12 (Thu) 23:14 △up ▽down
たぬき丸様

>はじめまして。勝手に上がりこんで、おじゃましております。
>よろしくお願いいたします。

はい、ぜひ、いつでもいらしてください。

そのための掲示板です。

いらしてくださって感謝しております。

南无阿彌陀佛

●re.25
たぬき丸
非公開の非公開
[ 2688 ] Re24:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/13 (Fri) 06:17 △up ▽down
管理人 様

ありがとうございます。
よろしくお願いします。

●re.26
毎日
非公開の非公開
[ 2689 ] Re25:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/13 (Fri) 12:21 △up ▽down
たぬき丸様

世間様から見れば、実に変わった場所である、このような掲示板にいらしていただけて、本当に感謝です。

辺地懈慢についても、私はもし行かせていただけるなら、それはそれで、ありがたいことだと考えております。

と申しますのも、真実信心いただいたと信じてはおりますが、その「信じる」というのは私の心のことであり、疑う心も浮かんで参りますし、自力を誇る心、そして、自力が足りないと恥じる心は、間違いなく「ある」と感じるからです。

懈慢界は、実に楽しく美しいところですから、私のようなものがそこにゆけば、「ああ、がんばったから、阿弥陀さまがご褒美にここにつれてきてくださったんだな」のように思うのだろうと思います。(そんなことも思わず、「過去生の自分が、がんばったからだな」のように思うのかもしれません。)

そして、楽しいが故に、長居をしたくなり、なかなか進むことが難しくなる、そのような場所なのだろうと想像しております。

このあたり、教義的に根拠があるというよりは、私の単なる想像が多いです。

懈慢界というものは、現世で言えば、自らの努力によって、億万の富を得るようなもの、あるいは、権力の地位を得るようなもので、確かに、そうなると、欣求浄土が弱くなりましたり、その場所にとどまろうとすると思います。現世の富よりも、はるかに荘厳であろう懈慢界ともなれば、きっと楽しんでしまうのでしょう。

ここで興味深いと思うのが、自力の努力が「懈慢」という表現になるところです。

そして、そういう方をご養育するための世界として、懈慢界という荘厳な場所を準備してくださっていることです。

永劫の流転をし、大きな罪をかかえてきた私たちに、残る懈慢の罪、懈とはおそらく帰命していないということでしょうし、慢とは自力を誇ることなのだと思いますが、おそらく、本人からすれば、「良いところ」と感じるところを準備されていることです。(つまり、本人は、「罪の結果」とは感じないだろう場所を準備されているということです。)

たぶん、懈慢界にゆけば、「こここそが浄土である」というような感覚を得て、さらに報土があるとは思いつかないのではないかと思います。

だからこそ、聖人は、そのような場所が牢獄であると教えてくださり、私たちが辺地懈慢に生まれても、気付きやすい種をくださっているのだと考えております。

聖人の御徳により、億千万衆のひとりとなれればと願いも致しますし、そのような荘厳な世界にあって、そこにとどまらず報土にゆかれる方は、実にすばらしい方だと思います。

南无阿彌陀佛

●re.27
たぬき丸
非公開の非公開
[ 2690 ] Re26:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/13 (Fri) 20:25 △up ▽down
管理人 様

ありがとうございます。
「辺地」と「懈慢」につきましては一応私も本や辞典を見ておりましたので、前レスでの私の話と大きく違うことは知っておりましたが、たまに一般から見て荒唐無稽な漫画のような事柄を目のあたりにするため、つい調子に乗り、お経にも書かれてもいないことを申しました。申し訳ございません。
頭のおかしいたぬきのたわごとと、お捨て置きください。
この話につきましては、これでお許し下さい。

ただ、念仏行者が最初から「化土」でもいいと考えるのは、浄土へ行って交わした阿弥陀様との約束を初めから放棄していることになりますし、何のためにこの娑婆に居るのかもわからなくなりますので、賛同しかねるというより、念仏行者としては絶対に口にしてはいけないことであります。そこだけ言わせて下さい。
失礼いたしました。

●re.28
毎日
非公開の非公開
[ 2691 ] Re27:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/14 (Sat) 06:31 △up ▽down
たぬき丸様

どうか謝らないでください。

私の言うことなど、本当に単なる「気持ち」に過ぎません。

何が正しいとか、間違っているとか、実際のところ、私にはよくわからないのです。

お経に書かれてもいないことを言うのは、私も同じです。そもそも、私たちの心は、お経でできているわけではないのですから、思うことを言えば、自然とそうなるものではないでしょうか。

許すも許さないもないですし、そもそも、私が許すかどうかなど、教義上、何の意味もないことです。

それを言ったところで、私の気持ちの吐露に過ぎません。

ましてや、教義やその解釈に関することであれば、どんどん書き込んでいただけることこそ、この掲示板の意義であると思います。

>念仏行者が最初から「化土」でもいいと考えるのは、浄土へ行って交わした阿弥陀様との約束を初めから放棄していることになります

もちろん、このように考えることはできると思います。

ですけれども、このお考えだと、「『約束を保持しよう』とする凡夫の気持ち」によって浄土往生をするということになりますので、私のような考えの者からすると、むしろ自力業の功徳によって報土往生を願っているように感じられるのです。

しかし、それであっても、いったん真実信心をいただいてしまえば、傲慢な凡夫の気持ちが障りになることはない、というのが私の考えです。

たぬき丸さまのお考えは、摂取不捨とは言え、凡夫の側からは捨てることができるということであったと思います。

ところが、私はそのようには考えていないのです。

どうもがいても、捨てることはできないと考えております。

一度信心をいただいたならば、それにて定まると考えております。

機法一体は、その時点で成就されており、凡夫の側から離すことはできないと思います。

ですので、私は、

>十方世界を照曜する無碍光遍照の明朗なるに照らされて、無明沈没の煩惑漸々にとらけて、涅槃の真因たる信心の根芽わづかにきざすとき、報土得生の定聚の位に住す。

この「無碍光遍照の明朗なるに照らされて、無明沈没の煩惑漸々にとらけて」を、帰命前と解釈しているわけです。

しかし、このような解釈が、救われたいという願望のあまりの合理化に過ぎない可能性は、もちろんあると思っております。


決して私は、たぬき丸さまを失礼とは考えておりませんし、それどころか、一体何を「失礼」と思っていらっしゃるのか、もっと詳しくお聞きしたい気持ちです。

たぬき丸様は、教義を論じる掲示板で、教義に関することをお書きになってくださいました。何も失礼なことはないと思います。どうか正々堂々としていらっしゃってください。

たぬき丸さまがこれでいらしてくださらなくなってしまうなら、私がしゃしゃり出てきたことに一因があることになり、それこそ、申し訳ない気持ちです。

皆様が、残念な気持ちになると思います。

どうか遠慮無く、思うところをおっしゃってください。そして私も、思うところを書いてゆきたいのです。

とは言え、書き込む義務等も一切ございませんので、気の向いたときに、いつでもいらしてください。

(そもそも私も、めったに書き込まない時期がよくあります。)

南无阿彌陀佛

●re.29
ボン
東京の男性
[ 2692 ] Re28:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/14 (Sat) 03:15 △up ▽down
毎日さま、たぬき丸さま、むじなさま、皆さま、こんばんは。

「毎日さまが久々に登場していただいて、うれしいなあ〜」と思ってたら、あれよあれよ
といううちに議論が白熱して、なんだかいつか来た道をまたたどっているような気がいた
します。

ところで、化土の話ですが、私は単純に、化土は自力往生(19願)と自力念仏往生(20願)の
人が行くところで、一念帰命の他力念仏往生(18願)の人には関係のないところと思ってお
りました。また、そのように教えられた気がしておりました。本当に単純にそう思ってい
たのです。

ですから、「どうして我々他力念仏の行者が、化土に行かなきゃならないんだろう」とい
うのが、私のそもそもの疑問の出発点なのです。また、今回は出てきでないのですが、
「疑ったら化土だ」という言い方も一部にございまして、私のように疑念が払拭できそう
もない人間はどう考えたらいいのだろうというのが、いつも関心の的でした。

「じゃあ、お前はそんなに化土に行きたくないのか。化土だって浄土だぞ。」と言われて
みると、「いやあ別にぃ・・・化土も浄土ならそんなに毛嫌いするわけでもないんだけど」
といった程度の認識なのです。まあ、行ったこともないところだから良くわからないし、
やはり、ボーっとしているんだと思います。

かつて私が御法をいただいたときの同行様のなかに、いつもニコニコしていて、見るから
に信心深そうなおばあちゃんがいて、やはりニコニコしながら「わたしゃ、化土で十分だ
よ」と言っているのを聞いたことがありました。それを聞いた知識先生は、少し困ったよ
うな顔をして、「ばあちゃん、そう言うなよ」とたしなめておりました。そのやり取りを
そばで聞いていた私は「なんだか微笑ましいなあ」と思った記憶があります。

所詮、穢土に住んでいる私たち凡夫は、ここが迷いの世界だと言う実感も少ないし、浄土
はどんなところかといっても、想像を絶する世界なので、実は良く解っていないに違いあ
りません。ただ、仏から見たら「子供向けの絵本」のようなものを使って、「浄土って、
こんなところなんだよ」と寝物語を聞かされて、「ふーん、そんなにいいところなら、
ボク、そこに行くことにするよ。」といって、「じゃあ、言うことを聞くんだよ」と言わ
れてそのとおりにした・・・という程度のものだと思うんです。

というわけで、「化土で十分」と言ったからって、さほど目くじらを立てることもないと
思うのですが、いかがなものでしょうか。

南无阿彌陀佛

●re.30
たぬき丸
非公開の非公開
[ 2693 ] Re29:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/14 (Sat) 06:17 △up ▽down
皆様

おはようございます。
管理人様、ボン様がおっしゃるように、
少々ごだわり過ぎたかもしれません。
「一宗の繁盛と申すは、人の多く集まり、
威の大なる事にてはなく候」ですが、
掲示板の場合はやはり色々な方の意見が聞けたらいいので、
私のような者でも、何かお役目があるのかなとも思っております。
この話はこの辺にして、また新しいお題を投下していただけましたら、
もし参加できそうな内容でしたら、お邪魔いたします。
早朝より失礼いたしました。

●re.31
毎日
非公開の非公開
[ 2694 ] Re30:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/14 (Sat) 06:37 △up ▽down
たぬき丸様

ありがとうございます。

「管理」と申しましても、

「どこそこに、変な広告が入っているから消して欲しい」ですとか、

そのような内容でしたら、まさに掲示板の管理人としてはたらきたいのですが、教義や味わいについて書き込んでいるときには、全く管理人などではありませんので、活発にお話しいただけることがうれしいです。

たとえば、私が誰かと面前しておりまして、相手の方が何かを話してくださるときに、その方が何かしらの怖い気持ちを感じてしまうなら、それは私の側に否定の心があるからに過ぎず、本当に申し訳ないことなのです。

この点につきまして、私の過去の行状をふりかえりますと、活発な議論に水をかけてしまうような言い方をしていたなあと、反省しております。

>一宗の繁盛と申すは、人の多く集まり、
>威の大なる事にてはなく候

この掲示板をしばらくご高覧くださるとわかると思いますが、「人の多く集まり」というレベルではございませんので、どうかご安心ください。

細々と、よくつづくものだなあと不思議に思っております。

南无阿彌陀佛

●re.32
ボン
東京の男性
[ 2695 ] Re31:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/14 (Sat) 23:11 △up ▽down
皆さま、こんばんは。

私は、この掲示板に、私の信心の有り様、ご聖典に対する疑問、自分なりの捉え方や感じ
方などを書き込みたいと思います。そして、それに対する批判でも、たしなめることでも、
ぜひ書きこんでいただきたいと思います。私は、そこからまたヒントを得て、これまでよ
りもベターな考え方に進むことができます。それを相互に行えば、この場を発展的なもの
とすることができると考えております。

さて、先般も話題になった以下の2つの命題がどちらも正しいとしたら、どう考えたらいい
のでしょうか。

(1) 仏からいただいた「金剛の信心」は壊れてなくなることはない。
(2) 他力の信心をいただいた後も、「信心」が消えて無くなることがある。

先日は、同じく信心といっても「金剛の信心」を指す場合と、凡夫の側の「信じる心」を
指す場合とがあるのではないかと考えてみたのですが、一人の人間のなかに二つの信心が
あるというのは、やはり少し無理があります。これについては、たぬき丸さまの以下のご
指摘が参考になりました。

>凡夫の側の「信じる心」というと、少しニュアンスが違い、「信じる心」も如来様より与え
>られますので、それを素直に受け取って、尊がりなさい。ということになると思います。

「信じる心」も如来様より与えられるものならば、それこそが「金剛の信心」ですよね。
「金剛の信心」も「信じる心」も同じものに違いありません。やはり、信心とは単純に私
自身の「信じる心」であって、それは阿弥陀様からいただいたものだから壊れないという
だけのことなのでしょう。(あまりややっこしく考えたらいけませんね。)

仏様がくれた信心が壊れないという意味は、一念帰命の念仏行者の信心が壊れないように、
無くならないように、阿弥陀様が導いてくれるということですよね。それでは、仏様は、
どのようにして導いてくれるのか。それは“ありとあらゆる因縁を総動員して”その人が
道をはずれないように導いてくれる、というだと思います。

たとえば法話の席であったり、善智識様や同行様との対話であったり、毎日様の掲示板で
の対話であったり、あるいは、なにげない知人のアドバイスであったり、たまたまテレビ
で耳にした言葉であったりというように、強烈な印象を残す経験であったり、その人に縁
のあるすべての人や事柄が、阿弥陀様によって総動員されているのではないでしょうか。

蓮如上人自信もあの世から出向されて、「同行・善智識には近づけ」「弥陀の法水を流せ
(そうしないと信心も消えうせるぞ)」「何か物を言え」「話す時は大声で腹の底を出す
ように言え」「疑っているくせに、信じたふりをして、調子の良いキレイ事を言うな」な
どという耳の痛い言葉を、私たち念仏行者に残してくれました。

「信心も消えうせるぞ!」という、私たちを叱咤する言葉も、無数の「仏の方便」の一つ
であって、そういうご方便に守られて「金剛の信心」が保たれるのであれば、それは何も
「金剛の信心」と矛盾する話しではないと考えられるのですが、いかがでしょうか。

逆に「金剛の信心」といいましても、いついかなる時もビクともしない堅牢無比な信心と
いうことではなくて、穢土に暮らす一人ひとりから見れば「いつ消えるとも知れない危な
っかしい信心かもしれないが、仏のご方便により導かれた結果として「最終的に壊れるこ
とがない」ということを「金剛」に例えたに過ぎないのではないかという気がします。

本人の意識としては、幅50cm足らずの細い一本道をフラフラした足取りで歩いているつもり
でも、火の波、水の波がザブンザブンと覆いかかってきても、仏様が守ってくれているので、
足を滑らして落ちることもなく、結果としては浄土まで渡りきってしまうというたとえ話に
似たようなものではないかと思うのですが、いかがなものでしょうか。

どなたでも、ご意見をいただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.33
たぬき丸
非公開の非公開
[ 2696 ] Re32:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/15 (Sun) 08:11 △up ▽down
おじゃまします。
この法は、書かれたものからすべてを理解するのは難しいし、
またすべて書きませんので、「寄り合い談合せよ」とか、
「知っているものに聞け」とかいう言葉が出てくるのだと思います。

私も見たり体解したりしたものを、証拠を書物から探す。
あるいは、書物で読んでいたことを、見たり体解したりして、
なるほどと納得する。という作業を続けております。
聖教のみを以ってして、ボン様の問いにお答えできる
知識力量がございません。すみません。

ここはきちんと仏法の談義をする掲示板で、
オカルト談義をする場ではありませんので、
以下はいたずら書きの独り言とお流しください。

少しアプローチを変えて、「法の不思議」の観点からみれば、
>(1) 仏からいただいた「金剛の信心」は壊れてなくなることはない。
 (2) 他力の信心をいただいた後も、「信心」が消えて無くなることがある。
は至って見たまんまを言っていると思われます。

「仏からいただいた『金剛の信心』は壊れてなくなることはない。」
は本願にかかわる問題ですので、何があっても間違いありません。

「他力の信心をいただいた後も、『信心』が消えて無くなることがある。」
は比喩的な表現です。この場合の『信心』を帰命した皆様が頭に頂いているもの
と置き換えてみてください。

念仏行者の多くがそうなっております。

●re.34
ボン
東京の男性
[ 2697 ] Re33:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/16 (Mon) 02:49 △up ▽down
たぬき丸さま、こんばんは。

ご教示ありがとうございます。たぬき丸さまのおっしゃることは、たぶん、理解できてい
るものと思います。私もかつて、同行様から「一念帰命の行者は、みなそれをいただいて
いるんだよ」というお話をうかがいましたし、また実際にそれを裏付けるような逸話も聞
いております。

おそらく、たぬき丸さまは、「体解」とおっしゃるくらいですから、それをご覧になるこ
とができるのでしょう。私は、残念ながらというべきか、そのようなものを一度も見たこ
とがありません。(だから信じるとか、信じないとかいうことではないのですが・・・)

もし私に「体解」と言いうるものがあるとしたら、念仏の一行を頂戴したという事実のみ
です。それだけが、私にとって唯一の拠り所です。それは、ご聖典でいう顕彰隠密の密の
部分に違いないと思っているわけですが、同時に、その「体解」がないとご聖典が正しく
読み解けないようなマスターピースになっているのだと思うのです。

そういうわけで、そのマスターピースを念頭に置きながらご聖典を読むという確認作業を
続けている最中なのですが、今のところそれがマスターピースであることを否定せざるを
えないような文言に出くわしておりませんので、日に日に喜びも増してきていると言える
のかもしれません。

「確認作業」などと言うと「やはりお前は信じていないのか」と叱られそうですが、残念
ながらそういう部分も否定しきれないと思います。愚かしい作業だとは思いますが、これ
も持って生まれた性分だからやむをえないと開き直っております。

話を戻しますと、たぬき丸さまのお話を聞きまして「なるほど、そういうことか」と感銘
を受けました。そういうお話を聞けたことはとてもありがたいことだと思います。ただ、
今回の私が持ち出した疑問は、あくまでも、表に出ているご聖典のなかの一見矛盾してい
るように見える記述をどう理解したらいいのかということですので、ご聖典の読み方の中
で解決できるに越したことはないと思っているのです。(それだけではどうしても解決で
きないのなら別ですが・・・)

その意味で、私のご聖典理解の仕方でいいのか悪いのか、そのあたりをどなたでもご示唆
をいただければありがたく存じます。と言っておきながら、こういうのも何なんですが、
先の私の理解のしかたには、問題があったと自分では思っております。

私は先に「他力の信心をいただいた後も『信心』が消えて無くなることがある」と書きま
したが、これは正確ではありませんでした。「そのままうちすて候へば、信心もうせ候ふ
べし」をあわてて読み違えてしまったようです。

「そのまま放っておけば、信心も消えうせてしまうに違いない」と言っているのですから、
これはあくまでも仮定の話です。「そのまま放っておけば」という前提での話なのですが、
仏は一念帰命の行者を「放っておかない」と言っているのですから、結果的に消え失せる
ことはない、ということです。つまり、問題の立て方が、そもそもおかしかったというこ
とになります。

そういうわけで、先の話を少し修正することになりましたが、「金剛の信心」も「信じる
心」も同じものであって、それは仏のご方便により導かれた結果として「最終的に壊れる
ことがない」ので、「金剛」に例えたに過ぎない、という考え方に変わりはありません。

どなたでも、ご意見をいただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.35
ボン
東京の男性
[ 2700 ] Re34:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/21 (Sat) 21:54 △up ▽down
皆さま、こんばんは。

先日「信心」と「信じる心」は同じ意味だと申し上げましたが、どうも、それは正確では
なかったようです。「信心」と言った場合、確かに「信じる心」と考えていい場合もある
よですが、もっとそれ以上に広い意味があるようです。

「信」という字には、「信じる」つまり「疑わない」という意味もありますが、「まこと」
という意味もあるようです。ですから、「信心」と言った場合、「信じる心」でもあるし、
同時に「まことの心」ということにもなります。

「信心」が単に「信じる心」というだけれあれば、「信心を得る」だとか「信心を獲る」
だとか「信心獲得」などという言い回しに違和感を感じるかもしれません。しかし「信心」
が「まことの心」だとすれば、そのような言い回しも、わりとスンナリと受け入れられそ
うな気がします。

しかし、「信心」は、「信じる心」と「まことの心」だけで説明できるわけでもないよう
です。「信巻」には次のように書いています。

--------------------------------------------------------------------------------
信は、すなわちこれ真なり、実なり、誠なり、満なり、極なり、成なり、用なり、重なり、
審なり、験〈しるし〉なり、宣なり、忠〈こころざし〉なり。(信巻)
--------------------------------------------------------------------------------
大信心とはすなわちこれ、長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広
の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信
の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。(信巻)
--------------------------------------------------------------------------------

正直、何を言っているのかよくわかりませんが、「信」も「信心」も、どれだけ奥が深い
のかということくらいは、なんとなく想像がつきます。これをすべて文字通り、論理的に
理解することなど到底およびもつきませんが、私自身、ご聖典に触れているうちに、日々
新しい発見があるのではないかと、密かに期待している部分もあります。

論理的には解らなくても、ほんの兆しの部分かもしれませんが、私自身は「信心」そのも
のを「体解」しているという自負を持っています。その「体解」が、論理的な理解を助け
て、それが更に今後も道をそれないで歩いていくことを助けてくれるのではないかと、
これも密かに期待をしています。

ご聖典のどれを見ても、上から下まで「信心」という言葉であふれかえっています。それ
ほどに、「信心」というものは、真宗のキー概念であるに違いありません。蓮如上人は、
「当流のこころは信心の一義を申し披き立てたる」とおっしゃっています。「信心こそす
べて」と言っていいのかもしれないと思っております。

「信心」の奥深さを示す文言を、ご聖典からいくつか拾ってみます。

--------------------------------------------------------------------------------
「信心」というは至心信楽なり。(六要鈔・行巻)
信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。(お文5-5)
--------------------------------------------------------------------------------
「聞」はきくといふ、信心をあらはす御のりなり。(唯信鈔文意)
信心はきくにきはまることなるよし仰せのよし候ふ。(蓮如上人御一代記聞書)
--------------------------------------------------------------------------------
大信心は仏性なり、仏性すなはち如来なり(浄土和讃)
さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。(お文5-13)
--------------------------------------------------------------------------------

「信心」というのは至心信楽、つまり18願を心得ることであって、「聞く」という方法に
極まるものであり、それは仏性であり、如来であり、六字の名号だということですね。
いやあ、何となく深そうです。ご聖典の勉強が楽しくなりそうです(^^)

ところで、「六要鈔」の孫引きですが、『大乗止観』に次のような文言があります。

--------------------------------------------------------------------------------
「問うて曰わく、云何ぞこの心を名づけて真如と為すや。答えて曰わく、一切の諸法はこ
の心に依りて有り。心を以て体と為す。・・・三世の諸仏および衆生は同じくこの一浄心
を以て体と為す。凡聖の諸法は自ずから差別異相あれども、而もこの真心は異なく、相な
し。故に名づけて如と為す」
--------------------------------------------------------------------------------

現代語に訳します。

--------------------------------------------------------------------------------
「問う。どうしてこの心を真如と名づけるのか。答える。すべての事物はこの心によって
存在している。心が本体なのである。・・・三世の諸仏および衆生は、同じくこの一つの
清らかな心を本体とする。凡夫や聖者のすべての事物は、自ずから差別があり、異なった
姿をとっていたとしても、この真の心は異なることはなく、相(すがた)もない。だから、
如と名づけるのである。」
--------------------------------------------------------------------------------

ここで「心」と言っているのは、「信心(まことの心)」と置き換えてもいいのではないで
しょうか。「信心」はすべての事物の本体、つまり「如」であるということにならないで
しょうか。

もちろん、「信心」は「真如」であると言ったところで、何も解ったことにはならないの
ですが、ご聖典を読むうちに「信心」のいろいろな側面が少しでも理解できて、それがま
た「信心」を身近なものと感じることに役立てばと思っております。

なお、これまでに書いたことに間違いがあれば大変ですので、どなたでもご意見をいただ
ければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.36
たぬき丸
非公開の非公開
[ 2710 ] Re35:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/28 (Sat) 17:43 △up ▽down
久しぶりにおじゃまします。

ボン様の上の問いかけにレスをつけたかったのですが、
難しくて頭の中が真っ白になり、全く何も浮かんできませんでしたので、
忙しさを言い訳にして、ほっかむりを決め込んでました。すみません。

で、最初に、
レスの11に私は「一帖十一『かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、
さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。
師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。
なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。」
この「坊主」も「門徒」も法を受けてないのかなあ。蓮如上人の弟子ですよね。
法は受けているんです。つまりこの場合、六道の地獄ではなく、
浄土の中の地獄(誤解なきよう。浄土には三悪道はないのは知ってます。
報土に比べての意です。)である化土を指しているのです。』と書きましたが、
以前、この坊主・門徒は帰命していない。と聞いていたのを思い出しましたので、
ここに訂正してお詫びいたします。
恣意的に引用してしまい、反省しております。

で、本題です。
「信心」について分析?しますと、おっしゃるように、御本典の字訓釈に
眞実成種の心、眞実成満の心、極成用重の心、審験宣忠の心、欲願愛悦の心、
歓喜賀慶の心、願楽覚知の心、成作為興の心、大非廻向の心とあり、
それぞれ一字一字に意味もあるようですが、
到底私の及ぶところではございませんので、
現在の私共の取り巻く法のコミュニティとほぼ同じで、
いちばんわかりやすい、「蓮如上人御一代記聞書」から、
「信心」について述べた個所で、私に都合のいい項のみを抜き出して、
考えてみたいと思います。
皆さんとっくに擦り切れるぐらい読んでいるかと思います。
今さらで恐縮ですが、
314条のうち「信・信心・安心」について述べた個所が異常に多く、
いかに「信心」が重要か知れますので、何度見てもいいと思います。

長くなります。

以下引用

(14)教化するひと、まづ信心をよく決定して、そのうへにて聖教をよみかたらば、きくひとも信をとるべし。
(16) 大津近松殿(兼誉−蓮如六男)に対しましまして仰せられ候ふ。信心をよく決定して、ひとにもとらせよと仰せられ候ひき。
(93) 信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからずと、前住上人(蓮如)申さると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼讃 六七六)と候ふ時は、まづわが信心決定して、人にも教へて仏恩になるとのことに候ふ。自身の安心決定して教ふるは、すなはち「大悲伝普化」(同)の道理なるよし、おなじく仰せられ候ふ。
(94) 蓮如上人仰せられ候ふ。聖教よみの聖教よまずあり、聖教よまずの聖 教よみあり。一文字をもしらねども、人に聖教をよませ聴聞させて信をとらするは、聖教よまずの聖教よみなり。―
(95) 聖教よみの、仏法を申したてたることはなく候ふ。尼入道のたぐひのたふとやありがたやと申され候ふをききては、人が信をとると、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふよしに候ふ。なにもしらねども、仏の加備力のゆゑに尼入道などのよろこばるるをききては、人も信をとるなり。聖教をよめども、名聞がさきにたちて心には法なきゆゑに、人の信用なきなり。
(214) 加州菅生の願生、坊主の聖教をよまれ候ふをききて、聖教は殊勝に候へども、信が御入りなく候ふあひだ、たふとくも御入りなきと申され候ふ。このことを前々住上人(蓮如)きこしめし、蓮智をめしのぼせられ、御前にて不断聖教をもよませられ、法義のことをも仰せきかせられて、願生に仰せられ候ふ。蓮智に聖教をもよみならはせ、仏法のことをも仰せきかせられ候 ふよし仰せられ候ひて、国へ御下し候ふ。その後は聖教をよまれ候へば、いまこそ殊勝に候へとて、ありがたがられ候ふよしに候ふ。
(20) 明応五年正月二十三日に富田殿より御上洛ありて、仰せに、当年よりいよいよ信心なきひとには御あひあるまじきと、かたく仰せ候ふなり。安心のとほりいよいよ仰せきかせられて、また誓願寺に能をさせられけり。―
(44) おなじき七年の夏よりまた御違例にて御座候ふあひだ、五月七日に御いとまごひに聖人へ御まゐりありたきと仰せられて、御上洛にて、やがて仰せに、信心なきひとにはあふまじきぞ。信をうるものには召してもみたく候ふ、逢ふべしと仰せなりと[云々]。
(50) 蓮如上人の御時、こころざしの衆も御前におほく候ふとき、このうちに信をえたるものいくたりあるべきぞ、一人か二人かあるべきか、など御掟候ふとき、おのおの肝をつぶし候ふと申され候ふよしに候ふ。
(56) 御一流の義を承りわけたるひとはあれども、聞きうる人はまれなりといへり。信をうる機まれなりといへる意なり。
(282) 前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。ただいまなりとも、われ、死ねといはば、死ぬるものはあるべく候ふが、信をとるものはあるまじきと仰せられ候ふと[云々]。
(31) 一念の信心をえてのちの相続といふは、さらに別のことにあらず、はじめ発起するところの安心を相続せられてたふとくなる一念のこころのとほるを、「憶念の心つねに」とも「仏恩報謝」ともいふなり。いよいよ帰命の一念、発起すること肝要なりと仰せ候ふなり。
(88) 人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ 候ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。万事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ。
(175) 心中をあらためんとまでは思ふ人はあれども、信をとらんと思ふ人はなきなりと仰せられ候ふ。
(183) おなじく仰せられ候ふ。当時ことばにては安心のとほりおなじやうに申され候ひし。しかれば、信治定の人に紛れて、往生をしそんずべきことをかなしく思し召し候ふよし仰せられ候ふ。
(194) 前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。信決定の人をみて、あのごとくならではと思へばなるぞと仰せられ候ふ。あのごとくになりてこそと思ひすつるこ と、あさましきことなり。仏法には身をすててのぞみもとむる心より、信をば得ることなりと[云々]。
(203) 仏法談合のとき物を申さぬは、信のなきゆゑなり。わが心にたくみ案じて申すべきやうに思へり。よそなる物をたづねいだすやうなり。心にうれしきこ とはそのままなるものなり。寒なれば寒、熱なれば熱と、そのまま心のとほりをいふなり。仏法の座敷にて物を申さぬことは、不信のゆゑなり。また油断といふことも信のうへのことなるべし。細々同行に寄合ひ讃嘆申さば、油断はあるまじきのよしに候ふ。
(302)おなじく仰せにいはく、悪人のまねをすべきより、信心決定の人のまねをせよと仰せられ候ふ[云々]。
(314) 蓮如上人、兼縁に物を下され候ふを、冥加なきと御辞退候ひければ、仰せられ候ふ。つかはされ候ふ物をば、ただ取りて信をよくとれ。信なくは冥加なきとて仏の物を受けぬやうなるも、それは曲もなきことなり。われするとおもふかとよ。皆御用なり。なにごとか御用にもるることや候ふべきと仰せられ候ふと[云々]

以上

話を蒸し返すことになるかもしれませんが、
私はどうしても、「帰命後の念仏行者のあり方によっては、
そのまま疑城胎宮だから、幾度も信を取り、
道から外れないようにしなければならない。」
ということを声を大にして主張せざるを得ません。
どうでしょう、引用に異論もあるかもしれませんが、
仮に上記の話、すべてが帰命後の念仏行者のあり方
に対する諌めだとしたら、非常にわかりやすく、
しっくりきませんでしょうか。
(50)などは空恐ろしく感じますが。



●re.37
ボン
東京の男性
[ 2711 ] Re36:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/28 (Sat) 23:49 △up ▽down
たぬき丸さま、こんばんは。

また、話し相手になっていただいて、ありがとうございます。
いただいた信心についてお話しする場所があって、また、実際にお話できるというのは、
とてもうれしいことですね。ありがたいことです。

私ども他力一念の行者がその一念のときに仏からいただいた信心は、「金剛の信心」であ
って、だからどのようなものにも壊されることがなく、その行者は、仏の光明に守られて
捨てられることがなく、「不退転の位」にあるから、そこから後退するすることがないと
いうことは、たぬき丸さまも同意されているものと思います。

その信心は、「信じる心」であると同時に「まことの心」であり、たぶん、仏性であり、
真如につながるものだと思います。それは、自分の心であるようですが、見方を変えれば
仏の心を分けていただいたものであって、この世の煩悩の洪水のなかで紆余曲折があるよ
うに見えても、「二河の白道」の喩えのように、最後には間違いなく彼岸にたどりつくの
だと思います。

その行者を守る手立てというのが「仏の方便」というものであって、ありとあらゆる因縁
を総動員して、現実的に私どもを守っていただいているのだと思います。その方便が、
「同行に近づけ」「なんぞ物を言え」「弥陀の法水を流せ」という蓮如上人の言葉であり、
「道からはずれないないように」と声を大にするたぬき丸さまのお姿ではないかと、理解
しております。

結局、私たち他力一念の行者は、どんなに道をはずれようとしてもはずれることができな
いという宿命のもとにあるのではないかと思います。それはたとえば、師匠から「人を殺
せ」と命じられても、「それだけはご勘弁を」と応じず、結局は人殺しができないという
ことに通じるものがあるような気がします。宿善があったから、この法を聞けたのですか
ら・・・。

ただ、化土については、正直よくわかりません。「化土は自力の行者のための方便として
設けられたもの」とうかがっておりまして、自分には関係のないところと思っておりまし
た。今のところこの考えを覆すだけの材料をご聖典のなかから見つけることができないと
いうのが、正直なところです。

ちなみに、「蓮如上人御一代記聞書」のご指摘の箇所を読んでみても、このよな考えを打
ち消すような材料とはなりませんでした。

しかし、「他力一念の信心をいただいたあとでも、よほど努力をしないと化土にいく」と
いう見方をされるかたもおられるので、断定的なものの言い方は避けようと思っています。
化土巻までよく読んで、化土巻がなんのために書かれているのかをよく考えてから、自分
なりの判断をしてもいいのではないかと、自分のなかでは考えております。

同時に、いろいろな会話のなかで、また新たな発見もあると思いますので、ぜひ皆さまと
いろいろなお話ができればと考えております。

南无阿彌陀佛

●re.38
むじな
非公開の非公開
[ 2712 ] Re37:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/29 (Sun) 07:06 △up ▽down
ボン様たぬき丸様色々な貴重なご意見聞かせて頂き有難うございます。むじなも気温が上がって来るとじっとして居れなくてもじもじたわいもない私の意見ですが間違いでしたら御指摘頂けたらお願い致します。
信心とて唯信心と大の字が就く大信心と菩提心又慈悲心も同じく大の字が就く大慈悲心大菩提心と有ります。仏心即ち大慈悲心大菩提心は願作仏心なり。とは六道四生の済度なり
親鸞聖人蓮如聖人其々衆生済度は当然六道四生の済度までされたお方です。金剛の心には幾たびも幾たびも信をとれと申されるには二河白道の道では有りませんが私の考えは仏と言っても順序位が有るように思います一歩踏み入れて菩薩様にも色々諸仏様も色々で最上位が阿弥陀仏の世界のように感じます。信心とて大信心は阿弥陀仏(仏心)金剛心なりと言われる故と思いますが如何でしょうご意見お聞かせ下さい。合掌

●re.39
たぬき丸
非公開の非公開
[ 2713 ] Re38:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/04/29 (Sun) 14:07 △up ▽down
ボン様

こんにちは

>また、話し相手になっていただいて、ありがとうございます。

こちらこそ、訳のわからないいいがかり?
にお付き合いいただきましてありがとうございます。
大変いい勉強をさせていただいております。

>私ども他力一念の行者がその一念のときに仏からいただいた信心は、
>「金剛の信心」であって、だからどのようなものにも壊されることがなく、
>その行者は、仏の光明に守られて捨てられることがなく、
>「不退転の位」にあるから、そこから後退するすることがないと
>いうことは、たぬき丸さまも同意されているものと思います。

前半は全くおっしゃるとおりです。
ただ、ここの「不退転の位」以下が同意できないのであります。
何度も同じことを申して恐縮ですが、信心をいただいた瞬間は
不退転なのですが、現世に戻ってきた直後・一時間後・一週間後・一年後
(人によって違います)、大体の人は退転してしまうということです。
(もちろんいただいた元の信心が減ったり、変質したりという意味ではございません)
最終的には果遂の願がありますので、基本的には皆浄土ということは
間違いありませんが、ストレート往生か寄り道往生かの違いがある。
と言うことでございます。
御一代記(12)「(前略)弥陀をたのむところにて往生決定と信じて、
ふたごころなく臨終までとほり候はば往生すべきなり。」
とございますが、疑無明により、「ふたごころなく臨終までとほり候」
人は稀で、大体が二心で行動し、それを自覚しないで一生を過ごす訳です。
重要なのは、この疑いの煩悩が悪いと言っているのではございません。
人間なんて所詮そんな存在であることは、阿弥陀さんは修行に入る前から、
とっくの昔にご存知で、如実修行をして下さっております。
ですから、「こんな愚か者が佛になれるとはなんとありがたい。」
と自覚してお念仏を称えていただきたいのです。
私たちが菩薩行ができるのも、すべて陀力(他力)大行の催促と思って、
いささかも功を自分のものにしないでいただきたいのです。
(「そんなこと皆やっている。」というのであればいいのです。
老婆心とお笑いください。)その気持ちで感謝の念仏を称えますと、
第三十四願(聞名得忍の願)に除疑消障の徳がございまして、
その光明が行者にかかります。そうすれば以前申しましたように、
外側の凡夫の泥がとろけて、信心の種に光が当たり、やがて芽が出ます。
ここまで行ってはじめて、住不退転・正定聚と呼べるのだと思います。







●re.40
ボン
東京の男性
[ 2714 ] Re39:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/01 (Tue) 01:48 △up ▽down
むじなさま、こんばんは。

また、貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございます。私自身は直接体験したこ
とはございませんが、おっしゃるような済度があるということは、以前、同行様から聞い
たことがございました。

ところで、お話のご主旨は、仏様も菩薩様も、様々な階位があり、それに応じて、同じく
信心、菩提心、慈悲などといっても、頭に「大」の字がつく場合と、つかない場合とで、
程度の差があるということではないかと承りました。

ここで「程度の差」と申しましたのは、頭に「大」の字が付くか付かないかで「性質の異
なるもの」になるわけではなく、あくまでも「グレードの違ったものになる」ということ
をおっしゃておられるのではないかと思ったからです。

たとえば、大観衆といっても観衆と違ったものではない、大喝采といっても喝采と違った
ものではないが、ただ観衆とか喝采とかいった場合よりもはるかに大規模なものを指して
いるというのと同様のことではないかと受け止めたのですが、いかがでしょうか。

むじなさまの「信心とて大信心は阿弥陀仏(仏心)金剛心なり」というお話も、阿弥陀様の
信心はとてつもなく大きく強く、金剛のように壊れないから「大信心」と呼ぶというよう
に考えてよいわけですよね。

そうすると、私たちが阿弥陀様からいただいた信心は、ただの「信心」なのか「大信心」
なのかということが問題となりますが、私たちのいただいた信心も、阿弥陀様から分けて
いただいたものなので、やはり「大信心」なのではないかと思うのですが、いかがでしょ
うか。

そうでないと、これをくださった阿弥陀様に申し訳ないような気がいたしますし、ご聖典
を見ましても「他力の大信心」という言葉もございますように、他力の(つまり阿弥陀様
からもらった)信心は「大信心」だと考えられるふしがございます。

以下、いくつか引用をいたします。

--------------------------------------------------------------------------------
それまづ当流の安心と申すことは、おほよそ浄土一家のうちにおいて、あひかはりてこと
にすぐれたるいはれあるがゆゑに、他力の大信心と申すなり。さればこの信心をえたるひ
とは、十人は十人ながら、百人は百人ながら、今度の往生は一定なりとこころうべきもの
なり。(御文1-10)
--------------------------------------------------------------------------------
これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられ
たり。かるがゆゑに、行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふ
ことは、いまこそあきらかにしられたり。(御文2-13)
--------------------------------------------------------------------------------
されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるもの
を、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。(御文5-13)
--------------------------------------------------------------------------------
十悪・五逆の罪人なりとも、五障・三従の女人なりとも、さらにその罪業の深重にこころ
をばかくべからず。ただ他力の大信心一つにて、真実の極楽往生をとぐべきものなり。
(御文5-15)
--------------------------------------------------------------------------------
他力の大信心をうるひとは、その内証、如来にひとしきいはれあるがゆゑなり。(持名鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

こうしてみますと、「大信心」と呼んでいけないのは、必然的に、自力の人の信心という
ことになりますよね。なぜなら、それは阿弥陀様からもらったものではないので、それに
比べると、とてもグレードの低いものに違いないと思えるからです。

何度も生まれ変わって自力の行をする菩薩よりはるかに程度の低い煩悩まみれの我々凡夫
が、彼らの得た信心よりもはるかに優れた「大信心」をいただいているという、一見矛盾
しているいるような事態が生じているというとこが、不思議中の不思議ということではな
いでしょうか。(ただただありがたいと思うほかないものと思います。)

何か勘違いがあるかもしれませんので、どなたさまでもご意見をいただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.41
むじな
非公開の非公開
[ 2715 ] Re40:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/01 (Tue) 10:42 △up ▽down

ぼん様、もっともなお話聞かせて頂き有難うございます。
大信心はすなはちこれ仏性なり、仏性はこれ如来なり。 親鸞さまは、「浄土和讃」に
“信心よろこぶそのひとを、如来とひとしとときたまふ。大信心は仏性なり、仏性すなはち如来なり”と詠まれ、如来さまからいただいた信心が仏性であると明記されています。

>ところで、お話のご主旨は、仏様も菩薩様も、様々な階位があり、それに応じて、同じく
>信心、菩提心、慈悲などといっても、頭に「大」の字がつく場合と、つかない場合とで、
>程度の差があるということではないかと承りました。
>
>ここで「程度の差」と申しましたのは、頭に「大」の字が付くか付かないかで「性質の異
>なるもの」になるわけではなく、あくまでも「グレードの違ったものになる」ということ
>をおっしゃておられるのではないかと思ったからです。
>
>たとえば、大観衆といっても観衆と違ったものではない、大喝采といっても喝采と違った
>ものではないが、ただ観衆とか喝采とかいった場合よりもはるかに大規模なものを指して
>いるというのと同様のことではないかと受け止めたのですが、いかがでしょうか。
>
>むじなさまの「信心とて大信心は阿弥陀仏(仏心)金剛心なり」というお話も、阿弥陀様の
>信心はとてつもなく大きく強く、金剛のように壊れないから「大信心」と呼ぶというよう
>に考えてよいわけですよね。
>
>そうすると、私たちが阿弥陀様からいただいた信心は、ただの「信心」なのか「大信心」
>なのかということが問題となりますが、私たちのいただいた信心も、阿弥陀様から分けて
>いただいたものなので、やはり「大信心」なのではないかと思うのですが、いかがでしょ
>うか。
上記のお言葉は全く同感でございます。唯1つ心配なのは同行の人の中に幼少の時本願成就出来ても仏知恵も浅し理解も出来ずに年代を重ね名号が何やら信心が失せて他宗現世利益に迷走した人は大信心の人と言えるでしょうか、如何なものでしょうか?南無阿弥陀仏

●re.42
7
中部の男性

↑7様宛にメール
[ 2716 ] Re41:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/01 (Tue) 14:05 △up ▽down

うーん、難しい話は読み飛ばしてしまいましたが、もうあれ以来ずっと安心しっぱなしです。

かれこれ5年になるのでしょうか。ようやく幼稚園レベル(笑)

生きていればいろんな不安やストレスとも無縁ではないですけれど・・・

あなたは本当に幸せそうね。そう言われることが格段に増えました。

それが何故かは分かりませんけれど。

一人のときも一人じゃないような気持ち。

御文章がピッタリくる不思議。頂いた信心は実は間違っていて、ぴったりくるのは思い込み、偶然?だけど真実を知る能力などないのが凡夫なんですね。

思考や感覚、全て、幻想。それでも生きて存在する、この命が何か支えられているようなおぼろげな予感。つかみどころのない安心感。

あくまでも個人的な感想です。あの頃の真っ暗な絶望はどこへ行ってしまったんでしょうか・・・?不思議としか言えないですね。

●re.43
7
中部の男性

↑7様宛にメール
[ 2717 ] 久しぶり過ぎました(汗 2012/05/01 (Tue) 14:08 △up ▽down
ふと無意識に称名していることはありますが、文章に書いたり投稿するのは久しぶりでした。

やっぱりこの六字を書かせていただかないと。


南无阿彌陀佛

●re.44
ボン
東京の男性
[ 2718 ] Re41:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/03 (Thu) 02:41 △up ▽down
たぬき丸さま、こんばんは。

こちらのほうこそ、いろいろ勉強させていただき、ありがとうございます。こうやって
お話をさせていただきますと、ご聖典を勉強するためのモチベーションも高まりますので
うれしいかぎりです。

さて、たぬき丸さまのお話では、信心をいただいた瞬間はともかく、その後、時間の経過
とともに、たいていの人は退転してしまうとのことですが、その趣旨は私もわかるような
気がいたします。実際、「浄土真要鈔」にも「まことに穢土の凡夫、不退にかなふといふ
ことあるべからず」と述べられております。

所詮、私たち穢土の凡夫は、煩悩まみれで、事情が変われば考えなどコロコロ変わるし、
「不退」などとは縁のなさそうなお粗末な存在だということは、自分の内面と向き合って
みれば、まったく否定しようがありません。ただし、「浄土真要鈔」の先の文言のあとに
続けて、次のようにも書かれております。

--------------------------------------------------------------------------------
浄土は不退なり、穢土は有退なり。菩薩の位において不退を論ず、凡夫はみな退位なり。
しかるに薄地底下の凡夫なれども、弥陀の名号をたもちて金剛の信心をおこせば、よこさ
まに三界流転の報をはなるるゆゑに、その義、不退を得るにあたれるなり。(浄土真要鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

「薄地底下の凡夫」であっても「弥陀の名号をたもちて金剛の信心をおこせば」「よこさ
まに三界流転の報(むくい)をはなるる」ので、それは「不退を得る」ことに匹敵するのだ
ということです。

それでは、この「不退を得る」のはどの時点かということについては、ご聖典から拾って
みます。

--------------------------------------------------------------------------------
至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあう
て聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれ
ば体失せずして往生すといはるるか。(口伝鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
この二尊の御のりをみたてまつるに、「すなはち往生す」とのたまへるは、正定聚の位に
定まるを「不退転に住す」とはのたまへるなり。(中略)「即時入必定」とも申すなり。
この真実信楽は他力横超の金剛心なり。(一念多念文意)
--------------------------------------------------------------------------------
いまいふところの往生といふは、あながちに命終のときにあらず。無始以来、輪転六道の
妄業、一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生の名願力にほろぼされて、涅槃畢竟の真因は
じめてきざすところをさすなり。すなはちこれを「即得往生住不退転」と説きあらはさる
るなり。「即得」といふは、すなはちうとなり。すなはちうといふは、ときをへだてず日
をへだてず念をへだてざる義なり。(浄土真要鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、仏の心光かの
一念帰命の行者を摂取したまふ。その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、
またこのこころを願成就の文(大経・下)には「即得往生住不退転」と説けり。(御文4-1)
--------------------------------------------------------------------------------
常没の凡夫人、願力の回向によりて真実の功徳を聞き、無上の信心を獲れば、すなはち
大慶喜を得て、不退転地を獲るなり。煩悩を断ぜしめずして、すみやかに大涅槃を証すと
なり。(浄土文類聚鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

【いつ?】
「至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき」「即得往生住不退転の道理を、善知識に
あうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ」「この二尊の御のりをみたてまつるとき」
「一念南無阿弥陀仏と帰命するとき」「涅槃畢竟の真因はじめてきざす」「宿善開発の行者
一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ」「真実の功徳を聞き、無上の信心
を獲るとき」

【どうなる?】
「体失せずして往生す」「正定聚の位に定まる」「即得往生住不退転」「仏の心光かの
一念帰命の行者を摂取したまふ」「煩悩を断ぜしめずして、すみやかに大涅槃を証す」

つまり、一念帰命の瞬間に、弥陀の光明に摂取されて、煩悩具足のまま、ただちに往生を
得て、不退転に住するということではないでしょうか。そして、その後の念仏は、ただひ
たすら御恩報謝の念仏ということになるのだと思います。

順番としては、(「一念帰命」=「光明による摂取」=「即得往生住不退転」)⇒「御恩報謝
の念仏」となるように思います。(この間は、煩悩具足のままです。)

これが、たぬき丸さまのご説では、「感謝の念仏」を称えていくうちに「光明が行者にか
かり」「外側の凡夫の泥がとろけて」「ここまで行ってはじめて、住不退転・正定聚と呼
べる」となっております。

つまり、「御恩報謝の念仏」⇒「光明による摂取」⇒「凡夫の泥(煩悩?)がとろける」⇒
「住不退転・正定聚」となりますので、ご聖典の説くところと逆転しているように感じる
のですが、誤解でしょうか。

「御恩報謝の念仏」がなければ「住不退転・正定聚」に辿り着かないのであれば、これは
自力念仏、または「行者のはからひ」のように感じられるのですが、いかがでしょうか。

不退であるはずがない煩悩具足の凡夫が「即得往生・住不退転」となるのは、ひとえに、
如来の願力のおがげと思い、自らはからうことをせず、完全におまかせした結果だと感謝
し、この不思議にただただ感謝することが、他力一念の行者のありかたではないかと思っ
ております。

--------------------------------------------------------------------------------
よこさまといふは如来の願力を信ずるゆゑに行者のはからひにあらず、五悪趣を自然にた
ちすて四生をはなるるを横といふ、他力と申すなり、これを横超といふなり。(尊号真像
銘文)
--------------------------------------------------------------------------------

この普通では考えられないご利益は、「証得往生現生不退の密益」であり「わが流の極致」
なのだそうです。返す返すも、ありがたいことです。ありえない幸運に感謝します。

--------------------------------------------------------------------------------
「即得往生住不退転」といへる本意には、証得往生現生不退の密益を説きあらはすなり。
これをもつてわが流の極致とするなり。(浄土真要鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

ちなみに、この「密益」という言葉は、とても意味深ですね。世間に知られないままひっ
そりと受け継がれてきたから「秘密のご利益」だということもあると思います。それと
もうひとつ、本人すら自覚できないご利益だから「密益」という意味もあるのではないか
と想像しております。

世俗を生きている本人は「有退」であり、「不退」などありえないはずなのに、本人も自覚
できない部分で「不退の位」となっているから「密益」だと・・・。

ご意見をお待ちしております。

南无阿彌陀佛

●re.45
たぬき丸
非公開の非公開
[ 2719 ] Re42:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/03 (Thu) 08:29 △up ▽down
ボン 様

丁寧なご教示誠にありがとうございます。
はじめに申しましたように、私は勉強が苦手で、
聖教をあまり読みません。
これまでも背伸びをしまして、大変苦労しました。
話について行くのがやっとな訳です。
ですからボン様が聖教を引用されている部分を見ますと、
大変勉強になります。
これも「ちょっとは勉強しろよ。」という如来様のお計らいだと思います。
それで、包括的にご回答申し上げますと、
また自分の考えを言うのみになってしまいますので、
個々の部分を見ながら考えを述べさせていただきます。

>「薄地底下の凡夫」であっても「弥陀の名号をたもちて金剛の信心をおこせ
>ば」「よこさまに三界流転の報(むくい)をはなるる」ので、
>それは「不退を得る」ことに匹敵するのだということです。

まず、この部分ですが、「弥陀の名号をたもちて金剛の信心をおこせば」
そのものずばり書かれていると思います。
何度も申しますが、「名号をたも」たないで、曲がってしまい、
信心を取らないでほっとくとだめですよということです。
ちゃんと相続する人は菩薩の位で不退転。凡夫は道からそれる可能性があり、
今のところ有退転。だから信心を幾度も取って、不退転になりなさいよ。
ということです。

>これが、たぬき丸さまのご説では、「感謝の念仏」を称えていくうちに
>「光明が行者にか>かり」「外側の凡夫の泥がとろけて」
>「ここまで行ってはじめて、住不退転・正定聚と呼べる」となっております。

これは普段の生活の中、念仏行者が信心を取る過程をそのまま言ってますので、
帰命の話ではないですよ。慈悲摂取の光明の話ではなく、第34願の徳の話です。
他にも第33願の触光柔軟の光明や、その時の状況で行者には色々光明がかかります。

>つまり、「御恩報謝の念仏」⇒「光明による摂取」⇒「凡夫の泥(煩悩?)が
>とろける」⇒「住不退転・正定聚」となりますので、ご聖典の説くところと
>逆転しているように感じるのですが、誤解でしょうか。

すみません。誤解です。どうも読んでいますと私とボン様のお話と
違いがないように感じます。
誤解の生まれる原因もおよそ見当がつきました。

>順番としては、(「一念帰命」=「光明による摂取」=「即得往生住不退
>転」)⇒「御恩報謝の念仏」となるように思います。(この間は、煩悩具足の>ままです。)

これはまさしくその通りです。私の言いたいのは、(「即得往生住不退転」)⇒「御恩報謝の念仏」の「御恩報謝の念仏」自体称えられず、
自力念仏はまだいい方で、
帰命したことさえ忘れたり、如来様の功を自分のものにする。
甚だしきは善知識を騙るなど、それではいけませんよといいたいのです。
凡夫は通常そういった状態におかれやすいので「退転」といっております。
ちなみに念仏は思い出した程度にしか称えられなくても、
信心の人はいますので、要は人それぞれのやり方で「信」を取ってくださいよ。
という事でございます。
ボン様は自然に相続ができて、それが空気のようにあたりまえで、
念仏も自然に口から出て、道にそれること自体、概念として存在しないので、
私の考えに違和感を覚えるのではないでしょうか。

>「御恩報謝の念仏」がなければ「住不退転・正定聚」に辿り着かないのであ
>れば、これは自力念仏、または「行者のはからひ」のように感じられるので
>すが、いかがでしょうか。

違います。『「御恩報謝の念仏」がなければ「住不退転・正定聚」に辿り着かない』
とは言ってないのです。それでしたらおっしゃるように自力になってしまいます。
「信」を取る1例と言いましょうか、信心を取る考えかたのひとつです。
聞書(馬鹿の一つ覚えですみません)(36) 「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(正像末和讃・三九)といふは、
弥陀のかたより、たのむこころも、たふとやありがたやと念仏申すこころも、
みなあたへたまふゆゑに、とやせんかくやせんとはからうて念仏申すは、
自力なればきらふなりと仰せ候ふなり。 」
前にも申しましたが、われわれの行は「たのむこころも、たふとやありがたやと
念仏申すこころも、みなあたへたまふ」ですから、たとえふと申す念仏も如来様
からの催促になります。

>不退であるはずがない煩悩具足の凡夫が「即得往生・住不退転」となるの
>は、ひとえに、如来の願力のおがげと思い、自らはからうことをせず、
>完全におまかせした結果だと感謝し、この不思議にただただ感謝すること
>が、他力一念の行者のありかたではないかと思っております。

そのとおりです。では感謝をしない。お任せせずに計らう場合はどうしますか。を問題としております。

>世俗を生きている本人は「有退」であり、「不退」などありえないはずなの
>に、本人も自覚できない部分で「不退の位」となっているから「密益」だ
>と・・・。

う〜ん。最後に意見が分かれるんですよね。
帰命しただけで無条件に不退転。(一発で浄土)
帰命した瞬間は不退転だが、すぐに有退転になるので、その後が大事ですよ。
(最終的には浄土ですが、寄道するかも)

皆さんが乗っているものがありますよね。あれ浄土にあるものの投影なんですが、
信心の行者でかなり凄い人はベタ金です。
基本きちんと如来様の仰せのとおりに日暮している人は、
鮮やかな色をして、花弁もピンとしてます。法水が流れるからでしょうね。
ほったらかしや曲がってしまうと、色がくすんできて、最悪しぼみます。
そこに生まれますと・・・。

最後は蛇足です。失礼しました。

●re.46
ボン
東京の男性
[ 2720 ] Re43:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/07 (Mon) 02:44 △up ▽down
たぬき丸さま、むじなさま、こんばんは。

ごていねいにお相手をしていただき、ありがとうございます。
たぬき丸さまのおっしゃることと、私の申し上げることは、実はさほど違っていないのだ
ろうという気も確かにいたします。

ただ「では感謝をしない。お任せせずに計らう場合はどうしますか。」と問われますと、
あまりよくわからないのですが、ご聖典に書かれていることを素直によめば、これが一念
帰命をした同行の方であれば、「行くところはみないっしょ、心配いらないんじゃないか
なあ」という気がするんです。

むじなさまの「同行の人の中に幼少の時本願成就出来ても仏知恵も浅し理解も出来ずに
年代を重ね名号が何やら信心が失せて他宗現世利益に迷走した人は大信心の人と言えるで
しょうか」という質問につきましても、「いただいたものは大信心だから、心配いらない
んじゃないかなあ」という気がするんです。

それではなぜそう思うのかと問われれば、繰り返しになりますが「阿弥陀様が光明に収め
取って守ってくれるから」「摂取不捨だから」「不退転だから」「いただいたものは金剛
の信心で壊れることがないから」というふううにお答えすることになるのだろうと思い
ます。もしそうでなかったら、「摂取不捨」「不退転」「金剛」などとという言葉の意味
がわからなくなってしまいます。

そのことについては、すでに、ご聖典の言葉をお示ししましが、再度いくつか引用します。

--------------------------------------------------------------------------------
宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、仏の心光かの
一念帰命の行者を摂取したまふ。その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、
またこのこころを願成就の文(大経・下)には「即得往生住不退転」と説けり。(御文4-1)
--------------------------------------------------------------------------------
この二尊の御のりをみたてまつるに、「すなはち往生す」とのたまへるは、正定聚の位に
定まるを「不退転に住す」とはのたまへるなり。(中略)「即時入必定」とも申すなり。
この真実信楽は他力横超の金剛心なり。(一念多念文意)
--------------------------------------------------------------------------------
この往生は一念帰命のとき、さだまりてかならず滅度に至るべき位を得るなり(浄土真要鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
一念帰命の時、不退の位に住す。(蓮如上人御一代記聞書)
--------------------------------------------------------------------------------

ご聖典は、仏の言葉です。仏の言葉ですから「摂取不捨と言ったら摂取不捨」「不退転と
言ったら不退転」なのではないでしょうか。もしそうでなかったら、「安心しておまかせ」
もしなかったでしょうし、今後もおちおち「安心しておまかせ」などしておれないでしょう。

煩悩まみれの凡夫でも「摂取不捨で不退転だ」というから、罪を滅ぼそうなどと自力にも
走らず、安心しておまかせしておられるのではないでしょうか。もしこれが「いや、基本
的には摂取不捨で不退転なんだけども、ことと次第によってはどうなるか・・・」などと
言われてしまうと、急になんだか不安になってきて、「なにか善行でも積まないとだめな
んじゃないか」などと余計なことを考えてしまいそうな気がします。

「いやそれは、あなたのことを言っているんじゃありません。」「あなたは大丈夫です。
問題は、聞きっぱなしで、聞いた自覚もなく、現世利益に走っている人のことです。」と
おっしゃるのかもしれませんが、現に私は、何十年ものあいだご法から遠ざかって、世俗
のみに生きてきた人間なのです。たまたま今は仏法に親しもうなどと思っているものの、
そいういう心がけが今後も継続できるかどうかは保障の限りではないと思うのが、自分に
対する正当な評価だと思います。

「いやいや、あなたの心だけなら信用おけないのかもしれないが、そこにはちゃんと
阿弥陀様が乗り移っているから大丈夫!十分信用がおけます」というのならわかりますが、
もしそうだとしたら、やっぱりそれは「摂取不捨で不退転だ」ということですよね。それ
は、私に限ったことではなく、他力の信心をちょうだいした人すべてにいえることです。
本人がいくら道をはずれようとしても、阿弥陀様がそうさせてくれないということですよ
ね。ちょうど、何十年も浮世の生活に埋没していた私が、ここのところはほぼ毎日ご聖典
に親しんでいるように・・・。

どう逆立ちしても退くことがないと保証されているから、「ご一流の安心」というのでは
ないでしょうか。実際、ご聖典にもそのように書かれているわけですし・・・。

--------------------------------------------------------------------------------
すでに帰命して正念を得たらんものは、たとひ枷(かせ)おもくして、この帰命ののち無記
になるとも往生すべし。(安心決定鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
このひと、いまだ無記ならざりしとき、摂取の光明に照らされ、帰命の信心おこりたりし
かども、生死の身をうけしより、しかるべき業因にて無記になりたれども、往生は他力の
仏智にひかれて疑なし。たとへば睡眠したれども、月のひかりは照らすがごとし。無記心
のなかにも摂取のひかりたえざれば、ひかりのちからにて無記の心ながら往生するなり。
(安心決定鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

無記は本来は善でも悪でもない行為をいうのですが、ここでは善悪のけじめもつかないよ
うな心の状態をいうようです。すでに帰命して正念を得たものは、善悪のけじめがつかな
い状態でも往生はまちがいないというわけですから、やはり不退転ということではないで
しょうか。

--------------------------------------------------------------------------------
一念をすくなしとおもひて、遍数をかさねずは往生しがたしとおもはば、まことに不信な
りといふべし。往生の業は一念にたれりといへども、(中略)これをとなへば、終日にと
なへ、よもすがらとなふとも、いよいよ功徳をそへ、ますます業因決定すべし。一念とい
へるは、すでに『経』(大経・下)の文なり。これを信ぜずは、仏語を信ぜざるなり。この
ゆゑに、一念決定しぬと信じて、しかも一生おこたりなく申すべきなり。(唯信鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

一念では足りないから、たくさん念仏をしたほうが良いと思うのなら、仏の言葉を信じて
いないことだと言っています。往生のための業因としては一念で十分だけども、もっとた
くさん念仏をして、ますます業因決定するに越したことはないということだと思います。

--------------------------------------------------------------------------------
一念も多念もともに往生のための正因たるやうにこころえみだす条、すこぶる経釈に違せ
るものか。さればいくたびも先達よりうけたまはり伝へしがごとくに、他力の信をば一念
に即得往生ととりさだめて、そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほどは念仏
すべし。(口伝鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

往生のための正因は他力の信の一念であって、その後の念仏は御恩報謝ということなので
しょう。あくまでも御恩報謝であって、「そうしなければどうの・・・」ということでは
ないと思います。

「仏法は何度も人に聞け」「弥陀の法水を流せ」「同行・善智識には近づけ」「なんぞも
のを言え」「大声ではっきりと心中を語れ」等々といわれます。「仏法は何度も人に聞け」
と言われたら「はい」と言ってそのとおりにし、「弥陀の法水を流せ」と言われたら「はい」
といってそのとおりにし、「なんぞものを言え」と言われたら「はい」といってそのとお
りにすればよいのだと思います。

「もしそれをおこたったらどうの・・・」ということは考えなくてもよいものと思います。
なぜなら、仏は必ずそのように他力の行者を導くはずだから・・・。

御文2-3に「弥陀如来の真実信心をば、いくたびも他力よりさづけらるるところの仏智の
不思議なりとこころえて」とあります。弥陀如来の真実信心は、いくたびも繰り返し、
ときに応じて行者に授けられるのではないでしょうか。

仮に前世の業因によって善悪の区別がつかなくなり、わけのわからないことをしようとし
たとしても、必ず仏智に導かれるといういうことが、我々凡夫からみれば不思議なのかも
しれませんが、必ず導かれると信じて「おまかせする」ということがいいのではないかと
思います。仏の力と言うものは、きっと、それほどのものなのでしょう?

私の狭い了見で物を申しておりますので、きっと間違いもあるものと思います。どなたで
もご指摘をいただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.47
毎日
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[ 2721 ] Re44:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/07 (Mon) 06:25 △up ▽down
7様

お久しぶりでございます。よろこばれているようで何よりです。

私にとりましても、「実に不思議だなあ」という感じがあります。

近頃は、ふわふわしているというか、現世なんだか天界なんだか、よくわからないように感じられることもあります。

とは言え、あれこれと苦しみがあることも、もちろんなのですが・・・


ボン様

私も、化土は自力行者を救ってくださる場所だと思っております。

今朝は、このスレッドを読み返しておりまして、このスレッドにある私の書き込みを読みまして、誤解があるような書き方をしていると思いましたので、補足なのですが、一応、私は、「他力の信心をいただいたのだなあ」と思ってはいるのです。

しかし、それが絶対かと問われれば、「絶対だ」と言い切ることはできないのです。

そして、時には、「浄土とか言って、そんなの全部嘘かもしれないじゃないか」のような強い疑いや、「そんなの信じている自分はバカなんじゃないか」のように思うときもあるのです。(そして、「信じていない気持ち」も、いつも心のどこかに流れている感じもするのです。)

「そんなあるかないかわからないもののことより、現実のことをやろう」と思ったりもします。

ところが、その「現実」ですら、「本当にあるのか?」と問われれば、結局、「わからない」と言う他ないという凡夫なのです。

ただ、時間の割合で言えば、素朴に信じている(あるいは、信じたい)時間の割合の方が多く、そのようなときに、それに気付いたら「なむあみだぶつ」と小声でおとなえしております。

私にとっての化土ですが、私は、大信心いただいているとは思うけれども、確信はない。勘違いかもしれない、しかし、そうだとしても、名号をおとなえはしているのだから、自力行をやっていることには、していただけるのではないか。

まず、このような気持ちが出てきたときに、気持ちの安心につながる考えになります。この意味で、「私などは化土で十分」と書いたわけです。

しかし、現在に伝わっているこの「名号」すら、間違いだったらどうするのか・・・

そうすると、化土往生も、実は危なくなってくるのではないか。

しかしそうだとしても、宝蔵菩薩様が願を立てられて、成就なさった。この概念については、細かいストーリーに伝承の間違いがあったとしても、そこに本質は残っているのではないか。

全てを救いたいという意図があり、それが成就している。

もし、広い意味での「この世界」に尊さがあるのなら、そして、この世界が永く続いているのなら、そのような意図を起こした方がいても、おかしくないのではないか。成就されている可能性もあるのではないか。

それであるなら、その可能性にかけてみよう。もし、それがムリでも、自分がそういう願を立てられるように、成長しようとは思ってみよう。もともと永劫の流転をしているのだから、それでも同じじゃないか。

こんなようなことを、あれこれ考えたりするわけです。

そして気付くのが、「なぜ、『永劫の流転をしてきた』ということについては、『そんな気がする』と思えるのだろう」のようなことです。

小さい頃から、知らず知らず輪廻の思想に触れあっているからなのか、それとも、心のどこかの記憶なのか・・・

すると、「六字のいわれ」とは言っても、あれこれ深いなあと、これは自分勝手な味わいなわけですが、そのような多層的理解ができるところに、六字の深さを思うわけです。

そもそも、「阿弥陀仏」という「名称」は、いわゆる固有名詞のような名称ではなく、抽象的な「名」であるわけです。

さらに、六字ではなく、ふたもじであるとしても、それが「南無」であるならば、自分は、どんな対象に南無したいのかと言えば、やはり、阿弥陀様のような方であると思えます。この意味で、南無は、阿弥陀仏でもあります。

ということは、阿弥陀様のお話を聞いたことがなくても、どこかで私が、「南無したい」という気持ちを起こすなら、阿弥陀様のような方のことを、自分で思いつくかも知れない、と思えます。

逆に、阿弥陀様のような方、つまり、永い永い存在であり、善なる意志を持つ存在、そのような存在を思えば、そこに「南無したい」気持ちも生まれるようにも思えます。

このあたり、以前は、「凡夫の願望の投影の可能性があるのではないか」と否定的に思っていたのですが、どうも、否定的な側面だけではないぞ、という気持ちに変わってきたわけです。

つまり、「凡夫の願望」に共通性があるとするなら、皆の心に同じようなものが埋め込まれているとも考えることができるわけで、そこには機法一体のヒントもあるだろうと。

そして、こうして考えてゆくと、私の南无阿彌陀佛は、機法一体の南无阿彌陀佛でありながら、ご恩報謝のお念仏でもあり、しかも同時に、私の不完全さにより、自力行でもあり、いわゆる「聞いた」だけの話ではなく、自らの心が「聞いた」内容でもあるとも感じはじめているわけで、誠に不思議なことです。

南无阿彌陀佛


●re.48
むじな
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[ 2722 ] Re45:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/07 (Mon) 12:40 △up ▽down
ボン様沢山の例文を記帳して頂き解説して頂き誠に解りやすいご意見有難うございます
私とて仏知恵には浅く大変勉強になりました。唯、意見が別れるところですね。
現生で本願成就しても知恵浅く仏法誹謗しても弥陀の本願は大信心大慈悲心願力不思議を以て三世の罪が消滅するゆえに自力の念仏者でなくとも化土でなく含華にも含まれず、宮殿に鎖を以て繋がれず報土往生が定まるとのご意見と。否それなりの償いを懺悔しない限り報土往生が定まらないとの意見・・・(ここで一つ含華の人と宮殿の中の人なぜ違いがあるのでしょう誰かお聞かせ下さいませ。私意ですが(一歩進んだ人と三歩五歩と進んだ人)
『めでたき仏の御ちかいのあればとて、わざとすまじきことどもをもし、おもうまじきことどもをもおもいなんどせば、よくよく、この世のいとわしからず、身のわるきことをもおもいもしらぬにてそうらえば、念仏にこころざしもなく、仏の御ちかいにもこころざしのおわしまさぬにてそうらえば、念仏せさせたまうことも、その御こころざしにては、順次の往生もかたくやそうろうべからん。』(親鸞聖人御消息集)
唯円は歎異抄において、阿弥陀仏の本願を盾に悪行をおこなう者に対して、忠告は行なっているが、彼らの往生は否定せず、かれらも確実に浄土に往生できるとする。しかしながら、親鸞は上文にも見られるように、どのような悪しき行いを為しても無条件に救済されるという考えは採っておらず、そのような念仏者の死後の往生については否定的な見解を述べて居られますが如何なものでしょうか第18願念仏往生の願の後付けに但し五逆罪と正法を誹謗するは除くの掟は未信の人にも案心の人にも呼びかけられたお言葉でしょうか誰かご意見お聞かせ下さいませ。南無阿弥陀仏

●re.49
たぬき丸
非公開の非公開
[ 2723 ] Re46:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/08 (Tue) 22:27 △up ▽down
ボン 様

こんばんは
また、勉強させていただきありがとうございます。

さて、初めの引用文4つは一念のことを言っているのだと思いますが、
あえてここで指摘されるまでもなく、当然の話であります。
私はその一念の後の相続の話をしておりますが、
堂々巡りになりますのでやめます。

>すでに帰命して正念を得たらんものは、たとひ枷(かせ)おもくして、
>この帰命ののち無記になるとも往生すべし。(安心決定鈔)

う〜ん。善悪に関しては基本どうでもいいと思っておりますので、
どうでもいいんですが、この文章だけみると、まさに帰命したあと
ほったらかしでも報土往生ということなんですかね。
だとすると降参するしかないですねえ。
「それでも地球は動いている」と強がりをいうしかないです。
本音は何か解釈の裏があるのかな。と思っておりますが、
私は聖教から証拠を探すことはできませんので。

その後の一念多念の話ですが、おっしゃるとおりです。
言葉としては普段はごっちゃにしてますが、
理屈を言うと念仏と称名は本来別なのも知ってます。
私も多念しろとは言ってませんので、何か誤解があると思います。

>「仏法は何度も人に聞け」と言われたら「はい」と言ってそのとおりにし、
>「弥陀の法水を流せ」と言われたら「はい」といってそのとおりにし、
>「なんぞものを言え」と言われたら「はい」といってそのとおりにすれば
>よいのだと思います。

それはその通りです。ではそうしないで、ほったらかしにする人は、
仏の仰せに従わないということですよね。
従っても従わなくても同じということでしょうか。

という問いの答えは下ですね。

>「もしそれをおこたったらどうの・・・」ということは考えなくてもよい
>ものと思います。
>なぜなら、仏は必ずそのように他力の行者を導くはずだから・・・。

導くのは現世ででしょうか。現世だとすると、了解できません。
阿弥陀さんの仰せに従わずに死んだ人もいますので。
その人は導かれなかったことになります。
帰命後におかしな宗教を作って、人をだまして死んだ後は、
だまされた人は地獄で、教祖自身はは帰命しているので
報土往生でよろしいのでしょうか。納得できません。
屁理屈で申し訳ないのですが、実際に似たようなケースがあります。

>御文2-3に「弥陀如来の真実信心をば、
>いくたびも他力よりさづけらるるところの
>仏智の不思議なりとこころえて」とあります。
>弥陀如来の真実信心は、いくたびも繰り返し、
>ときに応じて行者に授けられるのではないでしょうか。

常に阿弥陀さんの方から信号は出ていますが、
こっちでキャッチしない人がいると言っています。
あっ、また繰り返しですね。


むじな 様

お世話になります。

>否それなりの償いを懺悔しない限り報土往生が定まらないとの意見・・・

これって僕のことでしょうか。そうしますとちょっとニュアンスが
違ってまいりますが、「償いを懺悔」は罪や悪に対してではなく、
法に従わない、阿弥陀さんの仰せに従わない心とすれば問題ないです。

>(ここで一つ含華の人と宮殿の中の人なぜ違いがあるのでしょう
>誰かお聞かせ下さいませ。私意ですが(一歩進んだ人と三歩五歩と進んだ人)

今まで「含華」=疑城胎宮と思っておりました。
なるほど含華というんですね。まさにそれです。
困った行者の蓮台は萎みますので、そこに生まれると、
その中が疑城胎宮と思っておりました。
そんなレベルですので、まともにお答えできません。

>そのような念仏者の死後の往生については否定的な見解を述べて居られますが
>如何なものでしょうか

私どもの考える罪とか善悪はあまり関係が無いような気がします。
帰命後の信をとるかどうかの一点のみが問題になると思います。
ですから法然上人の耳四郎でしたっけ、泥棒の話や、
親鸞聖人の山伏弁円の話が語り継がれているのだと思います。

>第18願念仏往生の願の後付けに但し五逆罪と正法を誹謗するは除くの掟は
>未信の人にも案心の人にも呼びかけられたお言葉でしょうか
>誰かご意見お聞かせ下さいませ。

すみません。わかりません。
正法誹謗は下にスレがありますので、ボン様が詳しそうです。

まともに答えられませんですみません。



●re.50
ボン
東京の男性
[ 2724 ] Re47:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/09 (Wed) 02:25 △up ▽down
むじなさま、こんばんは。

また、私の知らないことをいろいろ教えていただき、ありがとうございます。
むじなさまがお示しくださったところは、以下のとおりです。

--------------------------------------------------------------------------------
めでたき仏の御ちかひのあればとて、わざとすまじきことどもをもし、おもふまじきこと
どもをもおもひなどせんは、よくよくこの世のいとはしからず、身のわろきことをおもひ
しらぬにて候へば、念仏にこころざしもなく、仏の御ちかひにもこころざしのおはしまさ
ぬにて候へば、念仏せさせたまふとも、その御こころざしにては順次の往生もかたくや候
ふべからん。(親鸞聖人御消息)
--------------------------------------------------------------------------------

これを拝見いたしますと、確かに、阿弥陀様の御請願があるからといって、あえて悪事を
働く場合には、命終後の往生は難しいのではないかと、親鸞聖人はおっしゃっているよう
です。つまり、「摂取不捨」「不退転」「金剛の信心」といっても例外はあるよ、という
わけですね。

しかも、あえて悪事を働くような場合は、「念仏にこころざしもなく」つまり、念仏に
気持ちがこもっていないから、そんなこころざしでは、往生も難しいだろうと言っていま
す。つまり、生半可な気持ちで念仏しててもだめだということですよね。

ここまでくると例外どころか、私も含めて多くの人が往生できないということになるので
はないかと心配になってきます。そうすると「完全無欠の金剛の信心をいただいたのだか
ら、摂取不捨で不退転だ」というご聖典の趣旨と矛盾するように思えてきます。

こんな「矛盾したことを言っているなんて、いい加減だから信ずるに足りない」と思われ
る余地も出てくるような気もしますが、この御一流をいただいた者としては、そうは思い
たくないわけです。

そうすると、この一見矛盾するような相反するような中身をどのように統一的に理解する
のかということが問題となってくるように思います。そこで思い至るのが、仏教には方便
というものがあるということです。つまり、どちらかが本意で、どちらかが方便だと考え
れば、この矛盾は解決するのではないかということです。

そこで、「すでに救われたからと言ってあえて悪事をはたらき、心のこもらない念仏をし
ているようでは往生は難しい」というのが本意で、「完全無欠の金剛の信心をいただいた
のだから、摂取不捨で不退転だ」というのが方便だと考えてみると、どうも、この方便が
本意を実現するために作用しているようには思えません。

「完全無欠の金剛の信心をいただいたのだから、摂取不捨で不退転だ」というのが本意で、
「すでに救われたからと言ってあえて悪事をはたらき、心のこもらない念仏をしているよ
うでは往生は難しい」というのが方便だと考えると、この方便が本意を実現するために
作用するように思えるので、全体がスッキリと飲み込めるような気がするのですが、いか
がなものでしょうか。

なお、18願につきましてご質問がありましたので、意見を述べさせていただきます。この
ご質問は必ずしも私に向けられたものではなく、また、私がそれに答えられる立場だとも
思いませんので、あくまでも参考意見ということです。

まず18願の「ただ五逆と誹謗正法とをば除く」の文言が、未信の人に向けられたものか、
あるいは18願をいただいたものに向けられたものかという問いかけについてですが、この
願を素直に読めば、未信の人に向けられたものという気がいたします。

「至心に信楽して、私の国に生まれたいと願って、乃至十念すれば、それを叶えてあげま
すよ」というのですから、これは未信の人に言っているわけですよね。だから、それに続
く「五逆と誹謗正法の人はダメだけどね」というのも未信の人に言っていると考えるのが
妥当なような気がするのですが、いかがなものでしょうか。

ちなみに、この「五逆と誹謗正法の人はダメ」というのも方便のような気がします。なぜ
なら、以下の文言があるからです。

--------------------------------------------------------------------------------
四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。
衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それ
この二の過を造らんことを恐れて、方便して止めて、往生を得ずと言えり。またこれ摂せ
ざるにはあらざるなり。(信巻)
--------------------------------------------------------------------------------
惑染・逆悪斉しくみな生じ、謗法・闡提回すればみな往く。(浄土文類聚鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提みな回心して真実信心海に帰入しぬれば、衆水の海
に入りてひとつ味はひとなるがごとしとたとへたるなり。(尊号真像銘文)
--------------------------------------------------------------------------------
謗法罪はまた仏法を信ずるこころのなきよりおこるものなれば、もとよりそのうつはもの
にあらず。もし改悔せば、生るべきものなり。(口伝鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

以上、間違いもあろうかと思いますので、ご意見をいただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.51
むじな
非公開の非公開
[ 2725 ] Re48:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/09 (Wed) 12:43 △up ▽down
たぬき丸さまボン様貴重なご意見頂き有難うございます。
真宗の教えは表裏一体になっていてとても難儀です。しかし色々ご意見聞けさて頂きますと益々弥陀の本願の有り難さが歓喜が身心とも湧きあがって参ります。
ボン様
「すでに救われたからと言ってあえて悪事をはたらき、心のこもらない念仏をし
>ているようでは往生は難しい」というのが本意で、「完全無欠の金剛の信心をいただいた
>のだから、摂取不捨で不退転だ」というのが方便だと考えてみると、どうも、この方便が
>本意を実現するために作用しているようには思えません。
>
>「完全無欠の金剛の信心をいただいたのだから、摂取不捨で不退転だ」というのが本意で、
>「すでに救われたからと言ってあえて悪事をはたらき、心のこもらない念仏をしているよ
>うでは往生は難しい」というのが方便だと考えると、この方便が本意を実現するために
>作用するように思えるので、全体がスッキリと飲み込めるような気がするのですが、いか
>がなものでしょうか。
親鸞聖人の浄土和讃・・弥陀(みだ)の名号(みょうごう)となへつつ信心まことにうるひとは憶念(おくねん)の心つねにして仏恩(ぶっとん)報ずるおもひあり
誓願(せいがん)不思議をうたがひて御名(みな)を称する往生は宮殿のうちに五百歳むなしくすぐとぞときたまふ・・阿弥陀さまの深いお慈悲と言い親鸞聖人の深いお慈悲と言い18願念仏往生の願の最後の五逆罪。正法誹謗罪は方便慈悲のお言葉と受け止め考えてみ離ると案心致します。

>なお、18願につきましてご質問がありましたので、意見を述べさせていただきます。この
>ご質問は必ずしも私に向けられたものではなく、また、私がそれに答えられる立場だとも
>思いませんので、あくまでも参考意見ということです。
>
>まず18願の「ただ五逆と誹謗正法とをば除く」の文言が、未信の人に向けられたものか、
>あるいは18願をいただいたものに向けられたものかという問いかけについてですが、この
>願を素直に読めば、未信の人に向けられたものという気がいたします。
>
>「至心に信楽して、私の国に生まれたいと願って、乃至十念すれば、それを叶えてあげま
>すよ」というのですから、これは未信の人に言っているわけですよね。だから、それに続
>く「五逆と誹謗正法の人はダメだけどね」というのも未信の人に言っていると考えるのが
>妥当なような気がするのですが、いかがなものでしょうか。
>
>ちなみに、この「五逆と誹謗正法の人はダメ」というのも方便のような気がします。なぜ
>なら、以下の文言があるからです。
>
>--------------------------------------------------------------------------------
>四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。
>衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それ
>この二の過を造らんことを恐れて、方便して止めて、往生を得ずと言えり。またこれ摂せ
>ざるにはあらざるなり。(信巻)
>--------------------------------------------------------------------------------
>惑染・逆悪斉しくみな生じ、謗法・闡提回すればみな往く。(浄土文類聚鈔)
>--------------------------------------------------------------------------------
>小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提みな回心して真実信心海に帰入しぬれば、衆水の海
>に入りてひとつ味はひとなるがごとしとたとへたるなり。(尊号真像銘文)
>--------------------------------------------------------------------------------
>謗法罪はまた仏法を信ずるこころのなきよりおこるものなれば、もとよりそのうつはもの
>にあらず。もし改悔せば、生るべきものなり。(口伝鈔)
たぬき丸様

>否それなりの償いを懺悔しない限り報土往生が定まらないとの意見・・・

これって僕のことでしょうか。そうしますとちょっとニュアンスが
違ってまいりますが、「償いを懺悔」は罪や悪に対してではなく、
法に従わない、阿弥陀さんの仰せに従わない心とすれば問題ないです。
決して貴方さまの事とは思って居りません誤解おかけして申し訳ございません。この懺悔は仏法僧を帰依しないお方の事でした。南無阿弥陀仏。

●re.52
たぬき丸
非公開の非公開
[ 2726 ] Re49:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/09 (Wed) 20:03 △up ▽down
むじな 様

私の言葉が足らず、むじな様を謝らせてしまい、
本当に申し訳ございません。
謝っていただくことは全くございません。

書込みって難しいですね、
私はせっかちなので、じっくり文章を推敲しませんので、こんなことになります。

>現生で本願成就しても知恵浅く仏法誹謗しても
>弥陀の本願は大信心大慈悲心願力不思議を以て三世の罪が消滅するゆえに
>自力の念仏者でなくとも化土でなく含華にも含まれず、
>宮殿に鎖を以て繋がれず報土往生が定まるとのご意見と。

これがボン様の意見としますと、

>否それなりの償いを懺悔しない限り報土往生が定まらないとの意見・・・

が私の意見かと思いますが、

「それなりの償いを懺悔」という部分が気になりまして、
そういったことを求めているのとは、ちょっとニュアンスが違うかな。
とだけ言いたかったのです。

これまでの私の文章も粗だらけですので、
伝わらないのももっともな話で、逆に深く反省しております。

(じつは正直に言いますと、むじな様の文章は難しくて、
基本勉強不足の私なんぞでは、何を言っているのか半分しかわかりません。
お恥ずかしい限りです。)

●re.53
ボン
東京の男性
[ 2727 ] Re50:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/10 (Thu) 01:28 △up ▽down
毎日さま、こんばんは。

いつもこの掲示板で遊ばせていただいてありがとうございます。

>そして、時には、「浄土とか言って、そんなの全部嘘かもしれないじゃないか」のような
>強い疑いや、「そんなの信じている自分はバカなんじゃないか」のように思うときもある
>のです。(そして、「信じていない気持ち」も、いつも心のどこかに流れている感じもす
>るのです。)

毎日さまのこのお言葉は、まったく私の心境と同じです。この疑う気持ちをどう考えたら
いいのか、その思考のプロセスをこの掲示板でも述べてきました。しかし、現在の私の考
えとしては、「自分の疑う気持ちを問題にしてもしかたがない」と思っております。

実は、阿弥陀様も我々の疑う気持ちをさほど問題にしていないのではないかと思います。
(問題は「疑った結果、他力の門に入らずに、自力修行に走る」ことだと思います。)

自分の気持ちはどうあろうと、自分の気持ちなどを問題にしないで、ただただ、ご聖典
に書かれていることを真に受けて、そこに書かれていることをそのまま受け入れれば、
それでいいのではないかという気がします。

--------------------------------------------------------------------------------
往生の業因は一念発起信心のとき、無碍の心光に摂護せられまゐらせ候ひぬれば同一なり。
このゆゑに不審なし。このゆゑに、はじめてまた信・不信を論じ尋ねまうすべきにあらず
となり。このゆゑに他力なり、義なきがなかの義となり。ただ無明なることおほはるる
煩悩ばかりとなり。(親鸞聖人御消息)
--------------------------------------------------------------------------------
貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからず(尊号真像銘文)
--------------------------------------------------------------------------------

「信・不信を論ずるな」と言っています。それは、いただいた信心が煩悩に覆われていて
も往生の障害にはならないからではないでしょうか。

>私にとっての化土ですが、私は、大信心いただいているとは思うけれども、確信はない。
>勘違いかもしれない、しかし、そうだとしても、名号をおとなえはしているのだから、
>自力行をやっていることには、していただけるのではないか。

私たち一念帰命の行者の念仏は、阿弥陀様から与えられるものであって、自力行とは違う
のではないでしょうか。妄念によって疑いの心が起ころうが、一念のときにすでに往生は
定まっているのであり、化土は一念帰命の行者とは関係のないところだと思うのですが、
いかがでしょうか。

--------------------------------------------------------------------------------
念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、
凡夫自力の善にあらず。
--------------------------------------------------------------------------------
しかれば名号執持することさらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてな
り。このゆゑに光明の縁にきざされて名号の因は顕るるといふこころなり。(正信偈大意)
--------------------------------------------------------------------------------
弥陀のかたより、たのむこころも、たふとやありがたやと念仏申すこころも、みなあたへ
たまふゆゑに、とやせんかくやせんとはからうて念仏申すは、自力なればきらふなりと仰
せ候ふなり。(蓮如上人御一代記聞書)
--------------------------------------------------------------------------------

おこがましいとは思いましたが、少し気になる部分がございましたので、私見を述べさせ
ていただきました。

南无阿彌陀佛

●re.54
毎日
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[ 2728 ] Re51:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/10 (Thu) 03:19 △up ▽down
ボンさま、こんばんは。

もちろん、おこがましいなどということはありません。

私がどう思うか感じるか、あるいは、私について誰が何を言おうが、信心をいただいていれば、往生できるはずなのだと思っております。そういう気持ちも持っております。

しかし不思議なのは、「信心をいただいていれば、往生できるはずなのだ」という気持ちが生じていることです。この気持ちは、自覚ができることです。

そもそも、真宗の教義全体を荒唐無稽と思うならば、「信心をいただいていれば、往生できるはずなのだ」とも思わないはずです。

つまり、私の心が問題としているのは、「信心をいただいているかどうか、自分では分からない」という部分なのです。

しかし、全くわからないのかと言えば、それも違います。なぜなら、自らの心境の変化を感じることができるからです。

それはどのようなものかと言うと、疑うにしても、その雰囲気が違う感じがしますし、何より、自らの心がラクになっています。

このようなところから、基本的には、「信心をいただいたのだ」と思っております。

しかし、それは証明ができるようなことではなく、個人的な信仰だと思っております。ところが不思議なのは、これは「個人的な信仰」なのにも関わらず、心には疑いが出るということなのです。

そして、この疑いを「重大なこと」と考えるならば、このように落ち着いた気持ちでいることもできません。

つまり、私の心には強い疑いがでることも確かなのですが、それをさほど問題としていない状態も見るわけです。

別の言い方をすれば、疑いを考える心もありますが、それが私の心のすべてではないのだと思います。

もちろん、「他力」ということは、そこに自力の要素はないわけです。

そこには、教義を理屈として理解する面と、実体験として与えられる面があると思います。

私の場合は、理屈としての理解が先行し、次第に、しみじみとした体験によって、少しずつ、わからされているように感じます。

阿弥陀様は、私が疑おうと信じようと、救ってくださることでしょう。私の思いなど、どうでも良いことで、たいした価値はないはずです。

「信じた」と思ったとしても、そんな思いは泡のようなものです。疑いも信仰も、水に浮かぶ泡です。たよりになりません。

私が書きたらず、わかりにくいかもしれませんが、理屈上、「阿弥陀様の救いは嘘ではないか」と仮定することもできますし、そこから不安も出るわけです。

すると、自らの心中に問答が生じます。その一部を、書き込み致しました。

そうして、さまざまな問答が心中に生じ、次第に、心が落ち着いて参ります。

「六字があるから良いではないか」だけではなく、そのような問答に対してゆける教えの広さがあるわけです。私のような人間にとりましては、それもまたありがたいことです。

私の心には、常に疑いが出ているような感じがしますが、同時に、常に、その疑いを照らしてくださる光があるようにも感じるのです。

信をいただいた直後から、時間が経つにつれ、私の心境も変化して参りました。

そこには弥陀のご養育があるのだと信じております。

私は、ずっとお念仏を口称しているわけではありませんが、それでも毎日、日に何度もおとなえしています。それはもちろん、何かを信じているからでしょう。感謝の気持ちを込めて、お念仏しているようにも感じます。

そして、どうして、私は、このようにおとなえするようになったのでしょうか。私は、真宗を学び始めたのが遅かったですので、幼少期からお念仏をとなえる習慣があったわけではありません。

むしろ、「どうしてあんなことを信じられるのだろう」「よっぽど苦しくてすがるしかないからなのか」「小さい頃から言われて信じ込んでいるのか」「苦しむ人々を依存させて儲けている坊主がいる」のようなことを考えるくらいでした。

そんな私がお念仏をとなえております。他力であると感じます。

信をいただいたその瞬間に往生治定であり、不退転であると思っております。不退転は不退転であり、そこに条件は無いと思います。

そして、無条件に不退転ということは、あまりにも常識に反しており、認めがたいことなのだとも思います。ところが、私には、それが魅力でした。少しでも条件があれば、私はそれに反するだろうからです。

言葉足らずのところがあると思いますし、私が勘違いしているところもあるでしょうから、何か不審なところがありましたら、遠慮なくお知らせください。

南无阿彌陀佛

●re.55
むじな
非公開の非公開
[ 2729 ] Re52:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/10 (Thu) 13:49 △up ▽down
たぬき丸さま色々聞かせて頂き感謝いたして居ります。(じつは正直に言いますと、むじな様の文章は難しくて、基本勉強不足の私なんぞでは、何を言っているのか半分しかわかりません。お恥ずかしい限りです。)とんでも御座いません私とて仏知恵も浅く文章に続ることは大変難しく伝わらない部分が多々あろうかと申し訳なく思います。娑婆事と違って仏語談義は本当に難儀です。

>現生で本願成就しても知恵浅く仏法誹謗しても
>弥陀の本願は大信心大慈悲心願力不思議を以て三世の罪が消滅するゆえに
>自力の念仏者でなくとも化土でなく含華にも含まれず、
>宮殿に鎖を以て繋がれず報土往生が定まるとのご意見と。

これがボン様の意見としますと、

>否それなりの償いを懺悔しない限り報土往生が定まらないとの意見・・・

が私の意見かと思いますが、はーいむじな(私)自信もそのように感じて居りました。
親鸞聖人の浄土和讃には称名の功徳をもって往生の因にしょうとする人々(第二十願(真門)自力念仏)に誓願不思議をうたがいて、御名を称する往生は、宮殿のうちに五百歳、むなしくすぐとぞときたもう・・自力の心から本願を疑う真実の浄土へ生まれるので無く化土往生ですよと戒められたわれですね。しかし本願聞きながら誓願不思議を疑えばそれでも報土往生ここに非常に違和感を感じておりました。
愚禿悲歎述懐賛の一句に(晩年聖人自ら)・・浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて、清浄の心もさらになし・・聖人自身も信の人になっても生まれついての虚仮不実はいつまでも改まらず真実も清浄の心もないと深く悲しみ嘆いて居られます。高祖親鸞さまでもと思うと安堵致します。私意ですが娑婆世界では法に背けば其れなりの牢獄で其々刑に処され懺悔期間後に放免なり。真実信心の人も仏法に背くことは不可と思い全て方便では済まされないように思って居りました。。
たぬき丸様が前に記された
皆さんが乗っているものがありますよね。あれ浄土にあるものの投影なんですが、
信心の行者でかなり凄い人はベタ金です。
基本きちんと如来様の仰せのとおりに日暮している人は、
鮮やかな色をして、花弁もピンとしてます。法水が流れるからでしょうね。
ほったらかしや曲がってしまうと、色がくすんできて、最悪しぼみます。
そこに生まれますと・・・。このお言葉が自分には驚きました。なぜなら以下の文です。
仏知恵が何やらチンプンカンプンの以前です。夢想で大変恐ろしい体験をしました今でこそ言えるんですが含華でしょうか宮殿の中でしょうか知識同行一行バス旅行に同乗したことから始まります。今ではこの言葉も使えます知識から一向専念無量仏と言い聞かされながら・・神に実社と権社あり実社の神に祈願祈祷を一部の人々がお百度参りの様に参拝されました(自力雑行)旅2日目私は実行したわけでは御座いませんがその夜の旅夢で一部の人達の蓮華が一枚一枚萎んで行くんですしおれた後。うす暗く牢獄の様では有りませんか当然そこに私も居ました苦しくもなく白衣装着た清楚な皆さんと一緒では有りませんか。そのうちに鉄柵のような物が上に上がって先方を見ると先方に尊厳麗ししい仏となじみの方々が多数居るでは有りませんか行こうか止めようか躊躇していたら間髪入れずに鉄柵が下りてしまいました何故何故と此処に居るのか判らず、訳も分からず不安で南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称えた瞬間一瞬にして光明が差しこんで夢想が覚めて飛び起きた体験しました。自力雑行懺悔せよと、金剛信心なれよの御仏の御方便とは思います・・たわけた夢想でお笑いでしょうが、私には一大事の事でした南無阿弥陀仏


●re.56
たぬき丸
非公開の非公開
[ 2730 ] Re53:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/11 (Fri) 05:46 △up ▽down
むじな様

こんばんは。
大変いい経験をされたと思います。
これを単に夢は夢だ。とするか、
阿弥陀さんが何かを伝えようとしている。
と取るかが信心の分かれ道になると思います。
私も数限りなくそんな経験があります。

阿弥陀さんは常に色々な手立てで、
私たちに信心を取るようにと信号を発しております。
直接であったり、夢であったり、書物であったり。
ただ、それすらも受け取る私たちの捉え方ひとつになりますが。

(極力硬い聖教抜きで少し雑談させてください。)
以前こんな経験をしました。
ボランティアというか趣味というか、あるスポーツの審判をしているのですが、
毎度試合ごとに、「うまく審判ができるよう、選手が楽しくできるよう、
選手が怪我をしないよう、選手を含め会場に集うすべての人に仏縁がつきますように」と阿弥陀さんにお願いしてから試合に臨んでおりました。
もちろん審判の勉強もしました。
しばらく経つうち、なかなか審判がうまいと人からも言われるようになり、
すこし天狗になって来たころ、「驕慢」の2文字が頭の隅を掠めました。
げど、「いやいや、審判は娑婆世界の話しだし、
自分の努力で勉強したんだから阿弥陀さんは関係ねえだろう。」
と「驕慢」の2文字を打ち消しました。

それから数日後、私は身近に『蓮如上人御一代記聞書』を置いていたのですが、
テレビを見ていて、コマーシャルになったので、
ふと『聞書』を手に取って開けてみたところ、

「 皆人ごとによきことをいひもし、働きもすることあれば、
真俗ともにそれ を、わがよきものにはやなりて、
その心にて御恩といふことはうちわすれて、わがこころ本になるによりて、
冥加につきて、世間・仏法ともに悪しき心がかならずかならず出来するなり。
一大事なりと[云々]。 」(227)

という箇所がいきなり目に飛び込んできまして、
思わずびっくり仰天、「南無阿弥陀佛」と念仏が出ました。

結局私が気持ちよく審判ができたり、上達したのは阿弥陀さんのお陰なのに、
「『俗』の話だからまるまるおいらの努力のたまもので、佛は関係ねえ。」
と思っておりましたところ、「真俗ともに」とガツンとやられたわけです。

これとても、偶然そのページが開いたんだろう。と言ってしまえばそれまでな訳です。
私はこのことがあってから「御身一生涯御沙汰候事皆佛法ニテ」(232)
がなんとなく了解できるようになってきました。
まだまだ紙切れを拾って仏法領のものとは思えませんが。

私は阿弥陀さんは奉りません。御恩に思わないという意味ではないです。
遠くに置物の神様を置いて拝むというようなことはしないという意味です。
しょっちゅう遠慮なく、色んなことを頼みますし、聞いてくれなければ文句も言います。悪態をつきます。甘えます。そして感謝をします。物欲の現世利益ではないですよ。
ちょっとは含みますが。(笑)とにかくいつも阿弥陀さんのことを考えています。
馬鹿な子ほどかわいいの理屈です。

御恩報謝の念仏は仏の部分が前面に出てきた時は、常に称えておりますが、
それ以外の忙しいときや、寝ている時などは、
仏の部分に称えてもらうようにしております。
1日に何万べんも称える昔の人は皆そうやっていたはずです。
以上のことは無理にやっているのではなく、
自然にそうやりたいときにそうやっているだけで、
もう癖というか習慣みたいになってます。
そんなことも阿弥陀さんからの催促と思っております。

神社参りも一般の人にとっては、仏教に帰依する第一歩になりますので、
侮ることはしません。わざわざ初詣に行って、お参りに来た人に、
仏縁がつくように阿弥陀さんにお願いします。

●re.57
ボン
東京の男性
[ 2731 ] Re54:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/11 (Fri) 04:16 △up ▽down
たぬき丸さま、こんばんは。

「例外なく摂取不捨」といえば、間違いなく以下の疑問が出てくると思います。
いわば、究極の選択ですね。

>帰命後におかしな宗教を作って、人をだまして死んだ後は、
>だまされた人は地獄で、教祖自身はは帰命しているので
>報土往生でよろしいのでしょうか。納得できません。

私にもよくわかりません。実際のところどうなんでしょう。たぬき丸さまは、どう思われ
ますか。その「教祖様」は、地獄に真っ逆さまでしょうか、それとも化土往生でしょうか。

一度帰命したのちに裏切って捨ててしまい、他の宗教に走ってしまう人間がどうなるか、
ということについては、どこかに書いているかもしれませんが、私は見つけることができ
ません。こういう人間を特定する言葉も見当たりません。一種の誹謗正法にあたるとは思
うのですが・・・。

よくわからないにもかかわらず、あえて私見を述べさせていただきますと、やはり「例外
なく摂取不捨」なのだと思います。なぜなら、経文に「摂取不捨」と書いてあるからです。
誹謗正法の人も「摂せざるにはあらざるなり」と書いているからです。(とはいっても、
決して悪事を奨励しているわけではありません。)

そもそも、仏教の基本には「因果応報」という考えがあって、どのような悪行も過去の業因
に左右されているということです。そのような業因の連鎖を断ち切れない凡夫を憐れんで、
阿弥陀様は、18願という究極の請願をたてられて、それを成就させたということですよね。

--------------------------------------------------------------------------------
極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く。(持名鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

この世の中だけで考えると、その「インチキ教祖様」はとんでもない極悪人ですが、仏の
目から見たら、我々「普通の人間」とその「インチキ教祖様」とのあいだに、どれほどの
違いがあるのでしょうか。

仏の目から見たら、五濁悪世に住む人間はみな「便所の中のうじ虫」のようなものだと思
います。「普通の人間」が「インチキ教祖様」をあれこれいうのは、ちょうど、糞つぼの
上層にいるうじ虫が、底の方にいるうじ虫を「おまえは汚れがひどい」と言って嗤ってい
るようなものだという気がします。

もちろん、一念帰命の行者が少しでも仏心に近づこうと思う気持ちは尊いと思いますが、
我々「普通の人間」が「インチキ教祖様」を別世界のものとみなすいわれはないものと思
います。仏は、この世に「インチキ教祖様」がはびこっているのを見て、憐れみの心で、
涙をポロっとこぼしているのではないでしょうか。

のちに「インチキ教祖様」に転じる人間であっても、一念帰命の光益にあずかるというこ
とは宿善があったということではないでしょうか。その「インチキ教祖様」に「帰依」し
た人間も、このご一流になんらかの縁ができたということにはなりませんでしょうか。
(これは極論ですが、もともと究極の選択の話ですのでお許しくださいませ。)

また、この法を聞くと、過去・現在・未来の罪の業障がすべて消えるのだそうです。
「未来の罪」もです。それがほめられたことがどうかは別として、帰命のものちに「イン
チキ教祖様」になっても、往生の支障にはならないということではないでしょうか。

--------------------------------------------------------------------------------
この大功徳を、一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しましますゆゑに、過去・
未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まる
ものなり。(御文5-6)
--------------------------------------------------------------------------------
しからしむといふは、行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の
一切の罪を転ず。転ずといふは、善とかへなすをいふなり。(唯信鈔文意)
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釈尊は、自分を裏切り三逆罪を作った提婆達多の罪をも軽くしようとしました。仏は、裏切
り者の「インチキ教祖様」を見捨てるのでしょうか。

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如来、弟提婆達多あり。衆僧を破壊し、仏身より血を出だし、蓮華比丘尼を害す、三逆罪
を作れり。如来ために種種の法要を説きたまうに、その重罪をしてすなわち微薄なること
を得しめたまう。(「涅槃経」信巻より)
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いろいろ申しましたが、十分に確信を持っているわけではないでの、疑問を投げかけるよ
うな書き方が多くなりました。どなたでも、ご意見をいただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.58
毎日
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[ 2732 ] Re55:信心決定の意を理解して無い者は悲しからずや 2012/05/11 (Fri) 05:25 △up ▽down
特にどなた様宛というわけではないのですが、現在進行中のテーマに関しまして・・・

私が思うのは、たとえば、私が信心いただいているとします。

そして、そうであるならば、おそらく死後は浄土往生かもしれないと思っているとします。

ところが、この世の中には、私のことを恨んでいる人もいますし、にくたらしく思っている人もいます。

「決して許さん」のように思っている人もいると思いますし、「地獄に堕ちろ」「地獄に堕ちても飽き足らない、もっともっと苦しめ」のように願っている人がいても不思議とは思いません。「地獄に行って当然だ」と思う人は、もちろんいるでしょう。

進んで悪事をしようなどとは思っていなかったつもりなのですが、そんなものは、やはり「つもり」に過ぎず、たいした人物ではなかったということだと思います。

生きているうちに、恨まれたりするようなこともすれば、怒りを買うようなこともするわけです。

そして、もし、私に対して恨みを持っているような人に対して、「阿弥陀さんに帰命したから、私は浄土行きだよ。浄土って、天国のようなものだよ」と言ったとすれば、

「納得いかない」

と思われるに違いないのです。

「ふざけるな」とも思われるに違いありません。「都合良く考えるにも程がある」とあきれられてしまうだろうとも思います。

「ふざけたことを言うな。そんな夢のようなことを言っても、地獄行きに決まっているだろう」のように思う人もいるかもしれません。

教義の上から言えば、阿弥陀様の信心があまりにも尊くて、ものすごい悪行をしているとしても、そのマイナスを打ち消して余りあるプラスをいただいてしまうということだと思います。

「帰命後におかしな宗教を作って、人をだます」方がいるとして、ただ、そういう人も、割合としては少ないわけです。

ということは、帰命が原因というよりは、もともとそういう願望を持っていた人、「教祖になりたい」のような願望を持っていた人が、信をいただくことで、「ネタ」を得たとでも言いましょうか、元気づいて、もともと持っていた傾向が表に現れてきたのではないでしょうか。

この場合、帰命しない場合と比べて、さらにひどくなっているのか、私にはわかりません。

その方が、帰命しなかったら、さらにとんでもない悪事を成したかもしれません。

それに私だって、今後、どんな悪事を成すことになるのか、私にはわかりません。阿弥陀様に守られて、どうかひどいことはしでかさないようにと願うばかりです。

ただ、私にとって納得が行くことは、そんな一見「ひどい」ことをする人でも救ってしまう真実の信心は、誠に尊いものであるということです。

大体、私自身にしても、別に真実を知っているわけではありませんので、真宗について思うところを述べているときに、結果的に「だます」ことになってしまっている可能性も、もちろんあるわけです。

六字のいわれというのは、そのような「とてつもないプラス」が生じたということであり、私の心などは全くあてになりませんが、そんな「素晴らしいプラス」があるのなら、それに乗っかってみようということであると思います。

無限に広いかに思われる、この宇宙をさらに含むような、私たちが生きている「時間」をさらに包含してしまうような、そのような悠久な世界を思いまして、そこに、ものすごい願を立てて、達成した方がいてもおかしくないと思えれば、乗っかるきっかけができると思うわけです。

それが荒唐無稽と思えても、「ひょっとしたら」と思えるだけでも、きっかけにはなるだろうと思います。

今、「方(かた)」と書きましたが、それは人間に限定されるわけではなく、神様のようなイメージと言いましょうか、さらに素晴らしい生命であると考えるわけです。

人間をはるかに超えて尊い菩薩様が、素晴らしい願を立てて、成就してくださった。

そして、それが単なる絵空事ではなく、その願の成就は、体験ができるということです。

なぜなら、その願が対象としているのは私たちであり、そのような願が成就しているのなら、こちらに届くはずだからです。

空間を超えて、時を超えて届くからこその尽十方無碍光如来であり、信仰の実践からすれば、「そのような素晴らしい無碍光でありながら、なぜ、私の心には届かないのか、帰命しようとしても、できないではないか」ということだと思います。

すると、「帰命しようとしても、できない」という体感が、無碍光を否定するに十分だと思えるわけです。

ところが、あきらめようにも、あきらめきれないような、信仰を求める気持ちが内にあるわけです。

南无阿彌陀佛



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