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[ 2546 ] 如来は終に畢竟じて涅槃に入りたまわず
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2011/09/20 (Tue) 03:18
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皆さま、こんばんは。
「涅槃経」のなかに「如来は終に畢竟じて涅槃に入りたまわず(如来終不畢竟入於涅槃)」 という記述があります。(信巻からの引用ですが・・・)
これを現代語に訳すと「如来は、最後には、とうとう涅槃に入ってしまう、などというこ とはない」ということになるのでしょうか。
これは、釈尊(釈迦如来)が3ヶ月後に自分が入滅すると予告したことに対して、「釈尊でも 入滅するのなら、自分はいったいどうしたらいいんだ」と動揺するのを押さえるために言 ったことだとされています。
ここで注目すべきことは、釈尊が自ら3ヵ月後に入滅するといい、実際にすでにこの世に おられないにもかかわらず、「如来が最後には涅槃に入るということはない」と宣言して いることです。言い換えると「最後の最後まで、如来はこの世にいる」といっているわけ です。
ということは、釈尊のあとも綿々と如来はこの世に出向し続けているということになりま す。七高僧はもちろんのこと、次第相承の善知識も、「如来」と言っていいのではないか という気がいたします。
「如来」とは、梵語タターガタ(真如より現われてきた者の意)の漢訳だとされます。次第 相承の善知識を「還相の人」というのなら、当然、「如来」といっても差し支えないとい う気がいたします。
もし如来が現代もこの世におられるとするなら、次第相承の善知識がそうでないはずがな いという気がするのです。
かつて、忍草様が「仏」と「如来」の違いについて言及されていたことがございましたが、 このように考えることは、忍草様のお話とも矛盾しないものと思います。
もちろん、仏教の言葉はとても奥が深くて一面的に捉えられないものと思いますので、 なにか間違いがあるかもしれません。その場合は、どなたでもご指摘いただければ幸い です。どうぞよろしくお願いします。
南无阿彌陀佛
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[ 2555 ] Re1:如来は終に畢竟じて涅槃に入りたまわず
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2011/10/16 (Sun) 23:35
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皆さま、こんばんは。自己レスにて、失礼いたします。
先に「如来は終に畢竟じて涅槃に入りたまわず」について「釈尊なきあとも、如来は綿々 とこの世に出向し続けている」ことを意味するものに違いないと述べました。
しかし、もっと普通に考えれば「釈尊は亡くなったあとも、あなたたちのまわりに、いつ までも居続けるのだよ」というふうに受け取れるわけです。
それは「如来が次から次へこの世にやって来て、その誰かがそばに居る」というようにも 考えられるし、または、「釈尊自身が、この世の身は滅んだとしても、この世の人間には 理解しがたい不思議な存在として身近に居続ける」というように受け取れるわけです。
それと同様のことは、親鸞聖人の有名な「御臨末之御書」にも述べられています。
-------------------------------------------------------------------------------- 一人居て喜ばば二人とおもふべし。二人寄て喜ばば三人と思ふべし。その一人は親鸞なり。 --------------------------------------------------------------------------------
この「喜ばば」というのは、いうまでもなく、仏法(名号)を聞いて他力の信心をいただい たからこそ「喜ぶ」ということなのでしょうが、念のため御聖典から引用しておきます。
-------------------------------------------------------------------------------- 諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せん (大経) 真実信心いたりなば おほきに所聞を慶喜せん(讃弥陀偈讃) 深法を聞きて歓喜信楽して(三経往生文類) 慶喜といふは信をえてのちよろこぶこころをいふなり。(尊号真像銘文) --------------------------------------------------------------------------------
このように、法を聞いて喜んでいる人がいれば、必ずそこには親鸞聖人がそばにいるとい うことなのですが、先にも述べたとおり「涅槃に入りたまわず」というからには、釈尊も またそばにいるということになります。(もちろん、これも「法を聞いた」という確かな 自覚がなければ、喜ぶも何もないわけですが・・・。)
そこで「それなら、あなたは、そばに釈尊や親鸞がいると感じられますか」と問われれば 「まったく感じられない」と答えざるをえません。残念ながら、感じないものは感じない と言わざるをえないのです。
しかし、そのように感じることはできないけども「ご聖典にそう書いているのだから、きっ とそうなのだろう」と考えることはできそうです。これは「仏法を鵜呑みにしている」と ことなのですが、これが「仏法に対して素直になる」ということではないかと思うのです。
そこで「それなら、あなたは、なぜ仏法を鵜呑みにすることができるのか」と問われれば、 それは、やはり「仏法を聞いてしまったから」「他力の信心をいただいてしまったから」 というほかないのでしょう。(これは、とても大切なポイントのような気がします。)
つまり「あなたの後生は救われました」と太鼓判を押されてしまったのです。(「〜して しまった」というのは語弊があります。本来なら「〜していただいた」というべきなので しょうが、あえて“過去完了”として申し上げております。)
「他力の信心をいただいた」ということが、もはや否定できない事実となってしまってい る以上、その行く末の確かさを実証できようができまいが、如来に取り囲まれて居ること を実感できようができまいが、それが人知を超えたものだというのなら、素直に受け止め るほかないのだろうと思うのです。それを疑ってみたところで、なんの得るものもないの です。
「奇妙な理屈」と感じるかたもいらっしゃるとは思いますが、これが、今の私が人様に 向かって申し上げられる偽りのない心情です。
釈尊が、親鸞が、「お前のそばにいる」というから、「きっとそうなのだろう」と思う だけです。
南无阿彌陀佛
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[ 2556 ] Re2:如来は終に畢竟じて涅槃に入りたまわず
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2011/10/09 (Sun) 03:19
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皆さま、こんばんは。再度、自己レスにて、失礼いたします。
前に引用した「御臨末之御書」の箇所の直前に、以下の文章があります。
-------------------------------------------------------------------------------- 我歳きはまりて安養浄土へ還帰すとも和歌の浦の片雄波の よせかけよせかけ 帰らんに同じ。(御臨末之御書) --------------------------------------------------------------------------------
これを現代語にすると「私も年がきわまって、安養浄土へ帰るのではあるが、それは、 和歌山の片雄波海岸の波が寄せては返し、返しては寄せて、また戻ってくるのと同じで ある。」といったような感じだと思います。
つまり、これは、親鸞聖人自身が、これまで何度もあの世からこの世にやってきたし、 また、これからも何度もやってくるであろう、ということを言い表しています。
もっといえば、あの世からこの世に、如来(真如より現われてきた者)が、次から次と波の ように押し寄せてきては、また帰っていくという営みが、綿々と繰り返されている、とい うことではないかと思います。
そのために、私もこの仏法にご縁をいただくことができたのでしょう。 ありがたいことです。
南无阿彌陀佛
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