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[ 2541 ] 無根の信
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2011/09/10 (Sat) 02:48
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皆さま、こんばんは。
「涅槃経」のなかに、お釈迦様は阿闍世に「無根の信を獲させた」とあります。 この「無根の信」というのは、面白いですね。
「無根」とは「事実無根」の「無根」です。 「日本国語大辞典」によると、「無根」とは「よりどころのないこと。事実とする根拠を もたないさま。根も葉もないこと。」だそうです。
そうすると、「無根の信」とは、「よりどころろのない、根拠のない、根も葉もない信」 ということになります。
なんだか、とてもあやふやな感じですが、ここには「自分の中に」という言葉を補わなけ ればならないでしょう。
つまり、「自分の中によりどころろのない信」「自分の中に根拠のない信」ということな のでしょう。つまり、「他力の信」ということですよね。そうでなければ、意味がとれま せんよね。
阿闍世は父を殺した悪人です。お釈迦様が、「阿闍世の中に根拠のない信」を授けること によって、悪人の阿闍世を救ったのです。ありがたいことです。
南无阿彌陀佛
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[ 2542 ] Re1:無根の信
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2011/09/13 (Tue) 02:05
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ボン様/皆様
コンバンハ!、お元気ですか? 「無根の信」=「他力の信」----面白い発想ですね
事実無根の事実とは何なんでしょうか? この世の人間社会では常識=事実、この眼でみえるもの=事実、なんだか解ったようで わからないが、凡夫の世界はすべては虚構で拠り所のない事実から成り立っているからでしょうか?
人類の歴史始まって以来長い間地球が丸く、しかも自転してるなど、正気の沙汰ではなかった。この世の大地は平面で、不動、地の果ては絶壁か巨大な滝で、その先は謎の世界であった太陽が東から登り、西へ沈むように、星が動いているのだと(天動説)と信じられてきた。それが15世紀以降の科学の芽生え以降、180度ひっくり返された。
今では、義務教育でも教えているし、衛生からのTV放送もみれ、誰しも疑う余地のない事実である。長い間感じていた、信じていたものが科学によって、大きく覆された。
しかし、それ以降、今度は、人間は科学を盲信し、支配され始めた。極論すれば科学=神仏である。しかし、「心」や「浄土」は証明されない------これからも永久に無理でしょうね?。
仏様からみれば、所詮は科学なんかは浅はかな凡夫の猿知恵にすぎないのですね。
他力の世界からいえば、科学によってつくられた事実もまた180度ひっくり返えされるようにも感じます。
地動説のような人間の英知もまだ宇宙のほんの一部しかわかっていないようで、私は丁度 天道説と地動説の狭間に生きた人間のように、いやそれ以上に驚いています。 なんだかわからないようでゴメンナサイ。
南無阿弥陀仏
「無根」とは「事実無根」の「無根」です。 >「日本国語大辞典」によると、「無根」とは「よりどころのないこと。事実とする根拠を >もたないさま。根も葉もないこと。」だそうです。 > >そうすると、「無根の信」とは、「よりどころろのない、根拠のない、根も葉もない信」 >ということになります。 > >なんだか、とてもあやふやな感じですが、ここには「自分の中に」という言葉を補わなけ >ればならないでしょう。 > >つまり、「自分の中によりどころろのない信」「自分の中に根拠のない信」ということな >のでしょう。つまり、「他力の信」ということですよね。そうでなければ、意味がとれま >せんよね。 > >阿闍世は父を殺した悪人です。お釈迦様が、「阿闍世の中に根拠のない信」を授けること >によって、悪人の阿闍世を救ったのです。ありがたいことです。 > >南无阿彌陀佛 >
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[ 2543 ] Re2:無根の信
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2011/09/18 (Sun) 03:31
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皆さま、唯物信者さま、こんばんは。
「無根の信」が「他力の信」のことであることについて、念のためにご聖典を引きます。
-------------------------------------------------------------------------------- 無根とは、我初めより如来を恭敬せんことを知らず。法・僧を信ぜず。これを無根と 名づく。(「涅槃経」信巻より) -------------------------------------------------------------------------------- 我ために法を説きて、・・・無根の信を獲しめたまえり。(「涅槃経」信巻より) --------------------------------------------------------------------------------
如来を恭敬することもなく、法も僧も信じないものが得る信、それが無根の信。つまり、 その本人のなかには何の根拠もない信、ということですね。
自ら如来をうやまい、自ら法や僧を信じていれば、それはちゃんとそれなりの根拠のある 信といえます。しかし、それがないのに、そこに信だけがあるというのは、実に不思議な ことといわざるをえません。
いったい、それって本当に「信」と言えるんですか。というのは、ごくごく普通に考えた ときの疑問だと思います。しかし、それこそが、毒にまみれた私たち凡夫が獲ることので きる唯一の信なのでしょう。
「我ために法を説きて」というときの「我」とは、釈尊(釈迦如来)のことのようです。 お釈迦様が、阿闍世(悪人)に「無根の信を獲らせた」ということです。
それでは、お釈迦様のいなくなった現代においては、だれが「無根の信」を獲らせるのか。 やはり、お釈迦様のようにこの世に出向した生身の如来なのでしょう。たとえば、だれか の頭のなかに存在する空想上の何者か(たとえば心に思い描かれた阿弥陀様?)が無根の 信を獲らせるわけではないのでしょう。
「無根の信」というときに、「この世が虚構か実体か分からない」ということを指して 無根と言っているわけではないように思います。それは、「ご聖典に則していえば」と いうことなのですが、私たち凡夫は、あくまでもご聖典から離れるべきではないと思い ます。
南无阿彌陀佛
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