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[ 2516 ] 一休和尚vs連如上人
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2011/08/02 (Tue) 17:42
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他力の心を表現した面白い歌をみましたので書き込みます
その昔、一休和尚が親交のあった蓮如上人に歌を送った
「阿弥陀には、まことの慈悲は、なかりけり、 たのむ衆生を、のみぞたすくる」-----一休和尚
コレに対し蓮如上人の返歌は
「阿弥陀には、へだつる心は、なけれども、 蓋(ふた)ある水に、月は宿らじ」
阿弥陀様のご慈悲の光はすべてに平等に注がれているのに、光をいただく、 衆生の側で心に蓋(ふた)をしていたのでは映るもの映らない=いただけるものも、いただけない。
問題は我々(私)の側なんだなあ!!
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[ 2520 ] Re2:一休和尚vs連如上人
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2011/08/04 (Thu) 11:48
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唯物信者さま
法然聖人も、同じようにうたわれています。
月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人のこゝろにぞすむ
往生はよにやすけれとみな人の まことのこゝろなくてこそせね
親鸞聖人は、信巻(本)の最後に、
それ「自障」は愛にしくなし。「自蔽」は疑にしくなし。 ただ疑・愛の二心了に障碍なからしむるは、すなわち浄土の一門なり。
と。 疑いが蓋になっているというが、私たち凡夫は、この「疑い」が問題にならない。
また、三信いずれも、「疑蓋無雜」が説かれてます。
・如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。則ち是れ利他の真心を彰す。故に、疑蓋雑わること無し。(至心) ・何をもってのゆえに、正しく如来、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念・一刹那も疑蓋雑わることなきに由ってなり。(信楽) ・欲生はすなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋雑わることなし。(欲生)
(至心)以如來至心回施諸有一切煩惱惡業邪智群生海。則是彰利他眞心。故疑蓋無雜。 (信楽)何以故、正由如來行菩薩行時、三業所修、乃至一念一刹那、疑蓋無雜。 (欲生)欲生即是廻向心。斯則大悲心、故疑蓋無雜。
理解しては超えられないので、よくよく聞いてください。
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[ 2523 ] Re3:一休和尚vs連如上人
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2011/08/08 (Mon) 00:11
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サラさま、唯物信者さま、皆さま、こんばんは。
> それ「自障」は愛にしくなし。「自蔽」は疑にしくなし。 > ただ疑・愛の二心了に障碍なからしむるは、すなわち浄土の一門なり。 > >と。 >疑いが蓋になっているというが、私たち凡夫は、この「疑い」が問題にならない。
この「凡夫は疑いが問題にならない」というのは、とてもうれしいですね。 浄土一門は、疑いの心があっても、それを差し障りのないものにするということですよね。 私のような疑り深い人間にとっては、心強い言葉です。
しかし、それも浄土一門に入らなければ、その限りではないということですね。 まずは、門に入ることですね。門に入ってから、すべてが始まります。
>理解しては超えられないので、よくよく聞いてください。
まったく、おっしゃるとおりですね。 超えてから(門に入ってから、聞いてから)、少しずつ「理解」することが可能になった くるのだと思います。
唯物信者さま、わき目をふらず、まっすぐに、目の前の門に向かって歩いてきてください。
南无阿彌陀佛
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[ 2526 ] Re4:一休和尚vs連如上人
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2011/08/08 (Mon) 14:45
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>私のような疑り深い人間にとっては、心強い言葉です。
こんなふうに、「自分が疑っている」と、自分の疑いが問題にならないのが凡夫。 自分が疑っていると知れないうちは、自分の疑いが問題にならない身にはなれない。
●ある師の言葉。「疑起す人少し」
疑といふものは、流転のきづなにして、これはどおそろしいものはない。 然るところ、この疑は、往生に望みがおこらねば、疑はおこらぬそれゆゑに、疑のおこる人さへも少ない。おこる人さへすくないからは、晴れた日とは猶々少ない、夫れぢやほどに云云
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[ 2527 ] Re5:一休和尚vs連如上人
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2011/08/12 (Fri) 02:19
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サラさま、こんばんは。
心から疑いなく信じているとは言い切れない自分について、いったいどう考えたらいいの かと、長いことわだかまっておりました。
このような私にとって、サラさまは、うれしくもありがたいことをおっしゃっていただい ているような気がするのですが、おっしゃることを間違って受け止めてはいけないと思い ますので、確認のために質問をさせていただきたく存じます。
>ただ疑・愛の二心了に障碍なからしむるは、すなわち浄土の一門なり。 >疑いが蓋になっているというが、私たち凡夫は、この「疑い」が問題にならない。 >こんなふうに、「自分が疑っている」と、自分の疑いが問題にならないのが凡夫。
「浄土の一門に入った凡夫は、自分の疑いが往生の妨げにならない」と理解してよろしい のですね。
>自分が疑っていると知れないうちは、自分の疑いが問題にならない身にはなれない。
「自分が疑っていることを自覚しないうちは、自分の疑いが往生の妨げにならない身には なれない」と理解してよろしいでしょうか。そうすると、「自分が疑っていることを自覚 しないうちは、その自覚していない疑いが往生の妨げになってしまう。つまり、往生もお ぼつかない身である。」ということになりますよね。
もし、そうだとすると、そこに2つの前提があるように思います。
(1) 我々凡夫には、疑う心はつきものだ。 (2) その疑う心が、本願(18願)に向けられることも、避けられない。
さらに、次のようにおっしゃいます。
>この疑は、往生に望みがおこらねば、疑はおこらぬ
つまり、極楽往生したいという気持ちが起こらなかったら、本願に対する疑いも起こらな い、ということですね。
逆にいえば、本願に対する疑いがある者には、極楽往生したいという気持ちが起こってい る、ということになります。
さらに言えば、疑う心は、すべての極楽往生したい者に起こるわけではないが、極楽往生 したい者のなかに、ごく普通に起こるありふれたものである、ということになりますでし ょうか。
サラさまのおっしゃることを、以上のように解釈してよろしいですか。それとも、これは、 拡大解釈のしすぎでしょうか。あるいは、なにかを捻じ曲げておりますでしょうか。
私のような疑い深い者は、このような前提に立つと、自分を否定する必要もなく、また、 むしろ自分の現状をそのまま肯定することになるので、とても気が楽になるのです。
逆にいえば、疑う自分を肯定できなければ、その自分を否定しなければならず、しかも、 どんなに否定しようと思っても、「疑う心はやはりある」と思うほかなく、そうなると、 どこかで思考停止をして「まあ、いいか」と思うほかないわけです。
しかし、とりあえず「まあ、いいか」と思ってはみても、心の底に「やはり、それではい けないのではないか」という罪悪感がくすぶり続けて、いつまでたっても心の安心は得ら れないというのが、今の私の偽らざる心境なのです。
だから、上記のように理解すると、私個人としては気が楽で、救われたような気になるの ですが、しかし、他の皆さまのご意見をうかがうと、どうもこのような理解ではいけない ような雰囲気があるのです。
たとえば、以下のようなご指摘があります。
>念仏行者の疑いは、一つは彌陀の誓願を疑う事、二つには誓願は疑わないが >経論釈が理解出来ずに疑う、の二つ有るのです。・・・(二つ目の疑いはいいけれど) >一つ目の疑いを持続して身失に至れば救われないのです。
あるいは、次のようなご指摘もいただいております。
>往生に関する疑いが拭い取る事が出来ないのであれば、「化土行き」だとも思っています。
「化土行き」なら、化土も浄土のうちだからまだいいとして、「救われない」となると、 容易ならざることなので、本願を疑うことも含めてあたりまえのことだといわれると、 やはり、そこに飛びつきたくなるというわけなのです。
サラさま、どうか、サラさまのおっしゃることの、正しい理解を教えてください。
唯物信者さまへ こんなあやふやな考えで申し訳ないのですが、こんな私でも「聞く」以外に後生が救われ る方法はないと思っているです。それだけは間違いのないことだと確信しております。 どうか、まっすぐに門に向かってきてください。
南无阿彌陀佛
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