浄土真宗の教義について

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●No.155
唯物信者
海外の男性

↑唯物信者様宛にメール
[ 2489 ] 往相/還相とは? 2011/07/06 (Wed) 10:47 △up ▽down
日本では蒸し暑い日々のようですが、皆様お元気ですか?

往相とは一念帰命、18願を戴いた凡夫(11願)

還相とは往相が浄土で修行し、衆生救済のためこの世へ還ってきた「次第相承の善智識」で弥陀の代官とも言われている(17願)

と理解してますが、もうひとつ突っ込むと解りません

還相とは、例えて言うなら、神の子として(=神の使い)生まれたキリストのような存在と同じく、弥陀の使いと見ていいのでしょうか?

だから、還相(=次第相承の善智識)に御逢いできなければ、往相になれないのですか? 毎日、念仏唱えてますが何故その時に直接弥陀から頂けないのですか?(質問1)

外国では「次第相承の善智識」はおられるのでしょうか?
どのすれば御逢いできるのか教えてください (質問2)

以上悩んでいますので、どなた様かお分かりの方教えてください
よろしくお願いします

南無阿弥陀佛

●re.1
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2490 ] Re1:往相/還相とは? 2011/07/07 (Thu) 03:23 △up ▽down
唯物信者さま、こんばんは。

唯物信者さまは、当掲示板の過去ログを詳しく読んでおられるご様子で、たいへん素晴ら
しいことです。

そこで「往相・還相」についてのおたずねですが、ここで、言葉の使い方について整理を
しておきたいと思います。「往相・還相」と言いますと、普通は「往相回向・還相回向」
のことだと思いますが、それとは別に「往相の人・還相の人」という言い方があるように
聞いております。

唯物信者さまは、ここでは「往相の人・還相の人」という意味で「往相・還相」という
言葉を使っておられるようですので、その前提でお話をしたいと思います。

私の聞くところでは、「還相の人」は「次第相承の善知識様」と考えてよろしいかと思い
ます。

>還相とは、例えて言うなら、神の子として(=神の使い)生まれたキリストのような存在
>と同じく、弥陀の使いと見ていいのでしょうか?

私はキリスト教のことはよくわかりませんので、善知識様をキリスト教のどのような存在
にたとえたらよいのかわかりません。ですから、ご聖典で善知識様をどのように記述して
いるかを見てみたいと思います。

--------------------------------------------------------------------------------
善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。(御文2-11)
--------------------------------------------------------------------------------
善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばか
りなり。(御文2-11)
--------------------------------------------------------------------------------
総じていふときは、真の善知識といふは諸仏・菩薩なり。別していふときは、われらに法
をあたへたまへるひとなり。(浄土真要鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
仏・菩薩のほかにも衆生のために法をきかしめんひとをば、善知識といふべしときこえた
り。(浄土真要鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
たとひまた源空・親鸞世に出でたまふとも、次第相承の善知識ましまさずは、真実の信心
をつたへがたし。(浄土真要鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

これによると、善知識とは、阿弥陀仏に帰命せよと私たちに勧める人であり、また、私た
ちに法を与える(または法を聞かせる)人である、ということになります。さらに言えば、
「真実の信心」を後世に脈々とつたえる方でもあるわけです。

>だから、還相(=次第相承の善智識)に御逢いできなければ、往相になれないのですか?

善知識に会って法を聞かなければ、往相の人にはなれない、つまり、往生できないと考え
てよろしいかと思います。以下、また、いくつかご聖典から引用してみます。

--------------------------------------------------------------------------------
願力不思議の仏智を授くる善知識の実語を領解せずんば往生不可なり。(改邪鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし(執持鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
次第相承の善知識これを授けたまはずは、われらいかでか生死の根源をたたん。(持名鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
往生の 善知識に遇はずは、たれかよくあひすすめて弥陀の浄土に生るることを得ん
(浄土真要鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

このように、善知識に会って法を聞かなければ往生できないと、はっきり書いています。

>毎日、念仏唱えてますが何故その時に直接弥陀から頂けないのですか?(質問1)

お念仏を称えることは、とても素晴らしいことだと思います。しかし、ただそれだけでは
往生の因(たね)にはならないということです。以下、ご聖典から引用します。

--------------------------------------------------------------------------------
たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、(御文2-11)
--------------------------------------------------------------------------------
われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。(御文1-13)
--------------------------------------------------------------------------------
当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしりたりといふとも、一念の
信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。(御文5-2)
--------------------------------------------------------------------------------

以上をまとめますと、善知識にお会いをして、「他力の信心」のいわれを教わらなければ、
どんなに聖教を読んでも、“いたずらごと”だということです。以下、少々くどいかもし
れませんが、もう少し、ご聖典から引用いたします。

--------------------------------------------------------------------------------
善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かなら
ず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。(御文1-15)
--------------------------------------------------------------------------------
「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、
南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の
道理なり(御文3-6)
--------------------------------------------------------------------------------
善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。(大経)
--------------------------------------------------------------------------------
平生のとき善知識のことばのしたに帰命の一念を発得せば、そのときをもつて娑婆の
をはり、臨終とおもふべし。(執持鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、(口伝鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
平生に善知識のをしへをうけて信心開発するきざみ、正定聚の位に住すとたのみなん機は
(口伝鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
善知識の仰せに随ひ信をとれば、極楽へまゐるものなり。(蓮如上人御一代記聞書)
--------------------------------------------------------------------------------

このように、善知識に会って法を聞かなければ往生できないことは、ご聖典の文言より明
らかですが、では、なぜ自力で念仏を称えたそのときに与えてくれないのかということに
ついては、私にはわかりません。

「こんなにお念仏を称えているのに、こんなにお願いをしているのに、どうして阿弥陀様
は私を助けてくれないのか」という疑問は、よくわかります。しかし、ご聖典には、その
ようには書かれていないのです。

仏教は、因果律によって世の中が成り立っていると説いています。極楽に往生するのも、
地獄に堕ちるのも、すべてその人の業因に左右されるということです。だから、過去世よ
り作り続けてきた悪業をすべて消さなければ、極楽往生はかなわないということです。

南無阿弥陀仏の六字の名号が、その罪業をすべて消し去るとはいうものの、阿弥陀仏は、
ご聖典によれば行であり法なのです。その行法(他力の行法)を行わなければ、罪業を消
し去ることはできないということになります。以下、引用します。

--------------------------------------------------------------------------------
南無と言うは、すなわちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏と言うは、
すなわちこれ、その行なり。(『玄義分』行巻より)
--------------------------------------------------------------------------------
「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字
のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。(御文3-7)
--------------------------------------------------------------------------------

「たのむ」は「お願い」ではない、ということは前にも書きました。「たのむ」とは、
「身をゆだねること」「たよりにすること」です。「お願いすれば願いを聞いてくれる」
ということではないと思います。

>外国では「次第相承の善智識」はおられるのでしょうか?
>どのすれば御逢いできるのか教えてください (質問2)

外国に「次第相承の善知識」がおられるかどうかは、私にはわかりません。日本国内には
おられると思いますが、公の前で「私が善知識です」というかたは善知識でないことは
確かだと思います。どうすれば次第相承の善知識にあえるかについては、下記ページを
ご参照いただければと思います。(すでにご覧になっているとは思いますが)

http://shinshu.in/shinotoruniwa


南无阿彌陀佛

●re.2
唯物信者
海外の男性

↑唯物信者様宛にメール
[ 2491 ] Re2:往相/還相とは? 2011/07/07 (Thu) 17:46 △up ▽down

ボン様

毎度、わかり易く教えていただき感謝してます

<なぜ自力で念仏を称えたそのときに与えてくれないのかということに
ついては、私にはわかりません。
>「こんなにお念仏を称えているのに、こんなにお願いをしているのに、どうして阿弥陀様は私を助けてくれないのか」という疑問は、よくわかります。しかし、ご聖典には、そのそうには書かれていないのです。

以上の点がどうしても、わかりませんでした
機法間(凡夫と阿弥陀様間)では機の方で間違いが生じる恐れ大故、確認のため、善智識の承認がいるのではないか?とこれまた「浅ましき凡夫のわろき心」で推測してました。

またぶり返しますが、赤子の場合はどのようにして、善智識を探すのでしょうか?
一旦解ったようで、また解らなくなってきました

解ったようでわからないゾーンに今自分がいるようにも思えますし、
また、わからないようで、わかってくるのかとも思えます-----うまく表現できません。

ぼんやりとした<気>に包まれた自分を感じてますが、そのうちハッキリとした光明が照らされてくるのでしょうか?

こんな状態ですので、皆さん、ご指導ください

南無阿弥陀仏







●re.3
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2492 ] Re3:往相/還相とは? 2011/07/08 (Fri) 13:40 △up ▽down
唯物信者さま、こんばんは。

>機法間(凡夫と阿弥陀様間)では機の方で間違いが生じる恐れ大故、確認のため、
>善智識の承認がいるのではないか?

唯物信者さまは、凡夫がどのようなプロセスですくわれるのかということを、懸命に想像
しようとしているようですが、それは不可能です。なぜなら、それは阿弥陀仏が因位のと
きに五劫の長きにわたって思惟した結果の産物であって、それは「不可称、不可説、不可
思議の功徳」だと、ご聖典にも書かれているからです。

また、いかにさぐりをいれても、仮にその方法を知っているものがいたとしても、それを
教えるものはいないはずです。それは、次第相承の善知識が、十分に因縁をはかったうえ
で(宿善を見極めたうえで)授けられるべきものです。再度、引用します。

--------------------------------------------------------------------------------
次第相承の善知識これを授けたまはずは、われらいかでか生死の根源をたたん。(持名鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

先にも、これと同じ主旨のご聖典の文言をたくさん引用しました。ご聖典の言葉は弥陀の
直説です。重く受け止めていただきたものと思います。

また繰り返しになりますが、「たのむ」とは「お願いする」ことではありません。「身を
ゆだねること」「たよりにすること」だと申し上げました。それでは、「身をゆだねるこ
と」「たよりにすること」とはどういうことでしょうか。

理解して、納得して、言うとおりしたらそれは、身をゆだねたことになるのでしょうか。
理解も納得も投げ捨てて、白紙委任状を出すから、それは「身をゆだねた」といえるので
はないでしょうか。(赤子は理解も納得も求めません。)

先に「宿善」についておたずねがありました。「宿善があるかないかを見極める」という
のは、授ける側の戒めであって、実は授けられる側の気にすることではないのです。

--------------------------------------------------------------------------------
当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰す
べし。(御文3-12)
--------------------------------------------------------------------------------
この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいた
すこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。(御文3-12)
--------------------------------------------------------------------------------
ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。(御文4-1)
--------------------------------------------------------------------------------

それでは、宿善・無宿善を分別するというのはどういうことかといえば、平たく言えば、
「たのむ」気持ちがあるのかどうか、ということにつきると思います。「たのむ」気持ち
があるというのはどういうことかと言うと、つまり、「身をゆだねること」または「白紙
委任状を出す」ということなのだと思います。「他力」とは、まさにそういうことだと思
います。

「理解も納得もしないで、白紙委任状なんかだせるものか」というのは、この世間を渡っ
ていくうえでは、とてもまっとうな考え方だと思います。そんな考えで生きていたら、
表現は悪いですが、「ケツの毛まで抜かれる」かもしれません。

しかし、この俗世間を生きていく場合ですら、一生に一度や二度は、せっぱつまったあげ
く、何も考えずに白紙委任状を出す局面があるかもしれません。自分の力ではもはやどう
することもできないと思ったときには、わらをもすがる思いで「すべておまかせする」ほ
かないということもあるかもしれませんよね。

まして、「仏になる」なとという末世の人間にはどうしようのないことが仮に可能だとし
たら、そして、それによって失うものがなにもないのだとしたら、仏にすべておまかせす
ることに何のわずらいがあるのでしょうか。心底から他力になりさえすればいいのです。

もし仮に、すべておまかせした結果が地獄行きだったとしましょうか。仮にそうだとして
も、もともと地獄行きの身の上だったなら、おまかせした結果失うものなどないはずなの
です。(それ以外に、なにかいい方法があるのなら別ですが・・・)

--------------------------------------------------------------------------------
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはん
べるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏し
て地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏
に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりて
といふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞか
し。(歎異抄)
--------------------------------------------------------------------------------

歎異抄の有名な一節ですが、これは「すべておまかせする」気持ちを表しているのではな
いでしょうか。

掲示板「讃嘆・味わいなど」に書いた「修行者と羅刹」のお話を読んでいただけましたで
しょうか。

http://shinshu.in/forum/forum.cgi?act=select&id=3&pastno=0&vine=26&page=0

これは、どんなに修行しても悟れず、万策尽きた修行者が、羅刹の言葉に身をゆだねたお
話です。「涅槃経」にすでに他力のことが書かれているのです。

羅刹は最後に帝釈天に変化したのですが、「羅刹の言葉が真実でなかったらどうしよう」
などと考えていたら、修行者はなにも得られなかったことでしょう。理解して、納得して
飛び込もうと思っていたら、結局、飛び込むことなどできません。

しかし、これも「宿善」次第なのです。無理に勧めるものではありません。

南无阿彌陀佛

●re.4
唯物信者
海外の男性

↑唯物信者様宛にメール
[ 2493 ] Re4:往相/還相とは?--灯りが燈された 2011/07/08 (Fri) 22:45 △up ▽down

ボン様

「修行者と羅刹」のお話、心に染みました

この世の地獄を70年も生きてきたら、疑わないと自分がヤラレルが常識で、すぐ

「下種の勘繰り」の盾を使ってしまいます。

自力ばかりのこの世から他力の世界への飛躍の道に灯りが燈された感じがしています。

迷いのゾーンにいる私にボン様が灯りを付けてくださり、その方向性が示されたように感

じています。<白紙委任>の表現お見事!!

やはり、この掲示板にたどり着いてよかった!

接する毎に自力の厚い皮が剥がされて、そのうちに他力が自然と出てくるのでしょうか?

南無阿弥陀仏


●re.5
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2496 ] Re5:往相/還相とは?--灯りが燈された 2011/07/11 (Mon) 22:32 △up ▽down
唯物信者さま、こんばんは。

他力ということについて、私の説明が不十分だったので、唯物信者さまに何か誤解を与え
てしまったのではないかと危惧しております。

よく世間では、様々な団体が主催する法話の会のようなものがあって、そこに通って法話
を「聴聞」し続けることを通して、次第に何か特別な境地に近づいていくのではないか、
というようなスタイルが存在しているのは確かです。

もちろん、それはそれでけこうなことではあるのですが、何か心に残るお話を聞いたから
といって、薄皮が一枚ずつむけるように認識が新たになって、その結果として、今まで
自力頼みだった心が徐々に薄らいで、少しずつ他力への道を歩み始める、といったような
ことではないと思うのです。

また「修行者と羅刹」のお話をいたします。修行者が羅刹と出会っって“上の句”を聞い
たときに、「うーん、とてもいい言葉を聞いた。これで私も、一皮むけたかもしれない。
これで、少しはいい方向に歩みを進めたような感じだ。これからも、いろんな人からいい
話を聞くようにしよう。」と思ったのでしょうか。そうではありません。

修行者は、これは仏の言葉に違いないと直感し、羅刹に“下の句”を教えてくれるように
必死に懇願し、挙句の果てに、羅刹の口をめがけて飛び込んだのです。

もうひとつ、「白紙委任状」は、いつまでも手元においておいたとしたら、「白紙委任」
したことになるのでしょうか。「白紙委任状」は、提出しなければ、実際に「白紙委任」
したことにはなりません。

修行者が飛び込んだ話も、白紙委任状の例えも、「他力とは身をゆだねることである」と
いうことを申し上げたかったからなのですが、そこに至るためには、明確な意思と行動が
必要です。それは、単なる心境や境地といった、心の中だけのことではないと思います。

南无阿彌陀佛



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