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[ 2488 ] 阿弥陀仏について
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2011/07/05 (Tue) 13:09
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はじめまして、私は真宗について勉強しているのですが、「わからないことリスト」は勿論のことですが、実は阿弥陀仏についても分かりません 勉強前は聖書に登場するヤハウェ神のような意思を持った絶対的存在というファンタジーのような存在だと思っていましたが、今は万物の繋がりというか、関係性を成り立たせる「縁」というイメージです、縁によらなければ生きることも死ぬことも出来ないわけでありますが、そうなりますとやはり社会の底辺で「ただ苦の中で黙々と生きているだけ」である所謂ワーキングプアなどの問題を抱える人々にもたらされたのも縁であり、阿弥陀の意味であります無量なるなる智慧と慈悲のはたらきといった内容との関係性が分からなくなり、縁として考えると、48願の内容とも関係性とも接点が見出せず、阿弥陀とは縁のことを言うのかそれとも大経の法蔵菩薩のような意思を持った存在なのか、阿弥陀仏と因位に立った法蔵菩薩としての阿弥陀仏は同時に存在してはたらくのか 正直分からないのが現状です 阿弥陀とは何なのでしょうか? どうか教えてください
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[ 2494 ] Re1:阿弥陀仏について
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2011/07/09 (Sat) 03:11
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scさま、はじめまして。
私はあまり難しいことはわからないのですが、せっかくお出でいただきましたので、 おたずねの点につきまして、私の考えていることを申し述べたいと思います。
まず、ご聖典は、仏から私ども人間に与えられた“絵本”のようなものだと思っておりま す。絵本というのは、大人が子供にあたえる書物のことです。
生まれつき眼の不自由な方には、赤という色をそのまま認識することができません。もし そのような方に「赤とはどんな色か」とたずねられたら、何と答えたらよいのでしょうか。 「たとえば、ほとばしる情熱のようなもの」などと、たとえ話で答えるほかないのではな いでしょうか。
たとえば、三次元の世界に住む我々に四次元の世界をどう説明したらよいのでしょうか。 あるいは、仮に二次元の世界というものがあったとして、そこに住む人間に対して、我々 の住む三次元の世界をどう説明したらよいのでしょうか。
仏教の説く、いわゆる“あの世”のことについてありのままに理解することは、所詮、こ の世に住む我々には無理なことだという前提が、仏教にはあるように思います。だから、 「不可称、不可説、不可思議」などという言葉があるのだと思います。
scさまは、阿弥陀仏について、次のように述べておられます。
>勉強前は聖書に登場するヤハウェ神のような意思を持った絶対的存在というファンタジー >のような存在だと思っていましたが、今は万物の繋がりというか、関係性を成り立たせる >「縁」というイメージです、
お経では、阿弥陀仏は人格をもった存在として描いています。ただし、それは、この世の 人間にわかるような表現をしているわけです。つまり、それは、まるで子供に見せる絵本 のような表現なのだと思います。絵本のような表現であっても、それは決して嘘ではなく、 真実なのだと思います。
ですから、私たち、この世の人間は、ご聖典によって“あの世”のことを理解するほかな いと思うのです。ご聖典に「慈悲深い阿弥陀様が、自分の修行による功徳を、私たち人間 に分け与えてくださる」と書いていれば、そのように理解するのでよいのだと思います。
そして、何もあるがままに理解できない私たちは、ご聖典に書いてあることからはずれて、 我流に陥らないように注意する必要があるように思います。そこで、注意深くご聖典を読 んでみたのですが、浅学のせいか、「阿弥陀仏は縁である」というような表現を見出すこ とができませんでした。(もしどこかにありましたら教えていただければ幸いです。)
そして、scさまは、「阿弥陀仏は縁である」という前提に立って、次のように論を進めて おられます。
>縁によらなければ生きることも死ぬことも出来ないわけでありますが、そうなりますとや >はり社会の底辺で「ただ苦の中で黙々と生きているだけ」である所謂ワーキングプアなど >の問題を抱える人々にもたらされたのも縁であり、阿弥陀の意味であります無量なるなる >智慧と慈悲のはたらきといった内容との関係性が分からなくなり、縁として考えると、 >48願の内容とも関係性とも接点が見出せず、
主語が省略されている部分があって、少し意味が取りづらいのですが、結局、「阿弥陀仏 は縁である」と考えると、ほかの記述との辻褄が合わなくなるとおっしゃっているのでは ないかと思います。だから、結論として「阿弥陀仏は縁である」という見方は成り立たな いとおっしゃているのではないかと思います。
あるいは、もう少し想像をたくましくすると、scさまは「阿弥陀仏は縁である」とおっし ゃっているのではなくて、「阿弥陀仏は縁をたぐって人間を救う」ということをイメージ して、そのようなことをおっしゃったのでは、などと想像したりもします。
実際に御文に「無宿善の機は信心をとりがたし」などという文言があるわけですから、 「阿弥陀仏は縁をたぐって人間を救う」といっても、あながち間違いではないような気が します。
そうすると、先のscさまの文章も、「無量の智慧と慈悲を持つ阿弥陀様が、どうして縁を たぐるといったまどろっこしいことをするのか。もっと大きな網をかけて、直接縁のない ワーキングプア一なども含めて、網打尽に救ったらどうなんだ」といったふうな主旨にも 取れるわけです。
もし、このような主旨でしたら確かにもっともなような感じもするのですが、それについ ての私の考えは、別のスレッドの[ 2490 ]でも述べましたので、ここでは詳しく申し述べ ることはいたしません。
ただ一言だけ言えば、仏教の教えでは、この世は因果律によって支配されていて、その人 の先行きは、その人の過去の業因によって決まるということです。だから、阿弥陀様は、 その因果律の世界のなかで、どうやったら罪深い人間どもを救えるのかということを、 それこそ「無量の智慧」を働かせて考え出したのだと思います。
ちなみに「無量」というのは「(人間には)計り知れない」という意味であって、決して、 「オールマイティのジョーカー」みたいな意味合いではないと思います。
いずれにしても、仏から絵本を与えられた私たちこの世の人間としては、物語のとおりの 意思をもった人格的な存在として「阿弥陀仏」を理解してよいと思うのですが、あえて、 ご聖典の中から「阿弥陀仏」の非人格的表現を探すならば、以下のとおりです。
-------------------------------------------------------------------------------- 南無と言うは、すなわちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏と言うは、 すなわちこれ、その行なり。(『玄義分』行巻より) -------------------------------------------------------------------------------- 「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字 のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。(御文3-7) -------------------------------------------------------------------------------- 阿弥陀仏はすなはち他力弘願の法体(安心決定鈔) --------------------------------------------------------------------------------
つまり、「阿弥陀仏」とは行であり、法であるということです。あるいは、行法であり、 法体である、ということになります。
以上、ご質問にたいするお答えとなるかどうかはわかりませんが、私の考えるところを 申し述べました。何か誤解などがございましたら、お知らせくださいませ。
南无阿彌陀佛
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[ 2495 ] Re2:阿弥陀仏について
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2011/07/09 (Sat) 11:08
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>ボン様
大変丁寧な御返答ありがとうございます
阿弥陀仏が縁であると思った由来は、上で挙げてくださいました御文の「「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。」の言葉から、法というものが、仏陀釈尊が説かれた縁起の理法であると解釈し、日常において大経の法蔵菩薩の物語より身近に感じる事が出来る為、阿弥陀仏は縁であると考えておりました。
ポン様のご返答を拝見させていただいたところ、私達衆生を仏法に近づけるために慈悲を以って差し向けてくださった縁であり、その因となるのが法蔵菩薩の物語であると解釈しました 阿弥陀仏は意思を持った法であり行であるという事で頷くことが出来ました
誠にありがとうございました、これからも獲信に向け精進したいと思います
合唱
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