浄土真宗の教義について

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●No.151
唯物信者
海外の男性

↑唯物信者様宛にメール
[ 2457 ] 幼稚な質問二つ 2011/05/28 (Sat) 00:02 △up ▽down
余りにも幼稚な質問でバカにされ、無視されるのではと内心恐れてますが、本人疑問に思ってきましたので、あえて、質問させて頂きます。

(1)赤子はお願いできないのに阿弥陀様より信心頂けるのはなぜ?
南無は=お願い、阿弥陀は=助ける---の二極から成立してるのに、
老若男女、貧富、貴賎、人種、その他一切の差別なく救って頂けますが、それはお願いする前提があってのこと。

あ!ヒョとすると、言葉もできない赤子がお願いなんかできっこないと決めているのは大人の方の勝手な解釈でしょうか?
赤子も苦しい時はテレパシーでお願いしてるのかな?

(2)信心決定後子供をつくるのはなぜ?
この世は穢土で、苦しさ一杯の地獄----だから、六道輪廻の輪から外れ、極楽往生したのに、なぜ、その後も子供をつくり、修羅のこの世にあえて自分の子供を送り出すのか?
親心なら、もうこんな世界へやる子供をつくるべきではないのでは?

以上私の偏見かもしれませんが、どなたかお答えください。

合掌

●re.1
ボン
東京の男性
[ 2463 ] Re1:幼稚な質問二つ 2011/05/30 (Mon) 01:55 △up ▽down
唯物論者様、こんばんは。

率直なご質問、とてもありがたいことです。ご質問によって、この掲示板が盛り上がれば
うれしいことです。

私は、ご質問にお答えできる立場ではないのですが、思うところを述べさせていただけれ
ば幸いですね。まず、お話ししやすいほうからいきますね。

>(2)信心決定後子供をつくるのはなぜ?
>この世は穢土で、苦しさ一杯の地獄----だから、六道輪廻の輪から外れ、極楽往生したの
>に、なぜ、その後も子供をつくり、修羅のこの世にあえて自分の子供を送り出すのか?
>親心なら、もうこんな世界へやる子供をつくるべきではないのでは?

この掲示板をつぶさにご覧になっていれば既にご承知かもしれませんが、この世が穢土か
浄土かという点については、実は少々見解の分かれるところなのです。(もちろん、それ
は「他力の信心」をいただいたあとの話なのですが・・・)

私は、この世はやはり穢土のような気がするのですが、それも確たる自信のある話ではあ
りません。しかし、それでは話が進みませんので、とりあえず、仮に「この世は穢土だ」
としておきましょうか。

仮に「この世は穢土だ」としても、それは「苦しさ一杯の地獄」なのでしょうか。唯物論
者様は、実感として、「この世は苦しさ一杯の地獄だ」と思っていらっしゃいますか?
私は生まれてこのかた「この世は苦しさ一杯の地獄だ」と思ったことが一度もないのです。

まあ、いわば“脳天気”といいましょうか、ボーッとしているといいましょうか、私自身
について言えば、右も左もわからずに、ただただ前に向かって(この世の終わりに向かっ
て)歩いているだけのような気がします。

世の中のほかの人たちに改まってこのようなことを聞いたことがないので良くわからない
のですが、もし仮にほかの人たちも私と同様なのだとしたら、一個の生命体として、ごく
自然な振る舞いをするのではないかと思うのです。

つまり、飯も食うし、恋愛もすれば、結婚もして、必然的に子供もうまれて当然なのでは
ないかと、思うわけです。そこに何の不思議もないと思うのですが、いかがでしょう?

また仮に、この世で「六道輪廻の輪から外していただいた」という自覚があったといたし
ましょうか。それなら、自分の子供もまた、この世で「六道輪廻の輪から外していただく」
チャンスがあると喜ぶのではないでしょうか。あえて子供を生まない理由が、
あるのでしょうか?

この世(人間界)は「軽い地獄」なのだよ、という話は聞いたことがあります。人間界に
は、他の五道の“見本”があるのだそうです。確かに、世界を見渡せば、戦争は絶えませ
んし、飢餓もなくなりませんし、活き地獄のような天変地異も起こりますし、天上界のよ
うな優雅な生活を送る人おりますので、他の五道の“見本”があると言えなくもありませ
んね。(人間界は、そういう特殊な世界のような気がいたします。)

そして何よりも、この人間界に生まれなかったら、“他力の法”というこの稀有の教法を
聞くことができないのだそうです。この世に生まれなければ、釈尊がいい残して、今日に
いたるまで脈々と伝わる“稀有の教法”にめぐり合うチャンスが、まるでないわけです。

そういう意味で言えば、この世に自分の愛する子供が生を受けるということは、望ましい
ことではあれ、決して忌み嫌うことではないと思うのですが、いかがでしょうか?

>(1)赤子はお願いできないのに阿弥陀様より信心頂けるのはなぜ?
>南無は=お願い、阿弥陀は=助ける---の二極から成立してるのに、
>老若男女、貧富、貴賎、人種、その他一切の差別なく救って頂けますが、それはお願い
>する前提があってのこと。

「他力の信心」をいただいたという自覚のあるものからすれば、これは、とても答えづら
い問題ですね。ある意味で「鋭い!」と思います。そして、「よくぞ聞いてくれた!」と
も思います。核心に迫る問いかけだと思います。

この掲示板のあちこちに「赤子の信心」「赤子の往生」「赤子の獲信」「赤子でも聞ける
この他力の行」「赤子・痴呆でも学問しなくても往生一定なのです」などという表現が出
てきます。これって、一般的には、どう考えても不思議な表現ですよね。

これまで、ここの掲示板を訪れて、そして去っていったかたは、たくさんおられると思い
ます(もっとも、ROMしているかもしれませんが^^)。しかし、「赤子の信心って、わけ
わかんないんだけど、いったいどういうこと?」とストレートに聞くひとはなかなかい
ないんですよね。

そのほか、わけのわからないことはたくさんありますよね。「他力の信心」「信心をいた
だく」というのも、不思議でありませんか? たぶん、不思議な表現があまりにたくさん
ありすぎて、何から手をつけたらいいのかわからないのかもしれませんが・・・。

また、唯物論者様は、救っていただくのは「お願いする前提があってのこと」とおっしゃ
っていますが、まったくそのとおりだと思います。「南無」とたのめば、必ず阿弥陀仏が
救ってくれるということですよね。

「御文(おふみ)」から引用します。

--------------------------------------------------------------------------------
「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、
善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かなら
ず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。
--------------------------------------------------------------------------------

これも、とても不思議な文章ですよね。「南無」とたのむって、いったいどいうことなん
でしょう。善知識って、だれでしょう。名号をとなえるなら解りやすいのですが、名号を
「聞く」というのも解りづらいですよね。しかも「無名無実」に聞くんじゃだめなんです
ね。一言一句、何から何までひっかかってしまいますね。

南无阿彌陀佛

●re.2
酒天童子
関東の男性
[ 2466 ] Re2:幼稚な質問二つ 2011/06/02 (Thu) 16:12 △up ▽down

こんにちは、酒天童子です。

先日は失礼いたしました。

敢えて混乱させるために、ああいう内容にして投稿したと思われましたら謝ります。

そうではなくて、この掲示板は不特定多数の方がのぞける場所ですので、いろいろなタイプの方が訪れる可能性があると思われます。

そういう意味で、唯物論者様だけにというよりは、同じような疑問というか信念をもつ方々に対しても、一つのアプローチの方法を提供したい、という思いからあのような文章になりました。

 さて、ボン様が今回の質問にはお答えしており、酒天童子もほぼ同じ考えなので重複は避けますが、「赤子の獲信」については最後の方でちょっと「謎かけ」のような表現になっています。

 これは察するに、ボン様は決して唯物論者様を謎かけで困らせているわけではない、ということです。

 これまでの過去ログを読んでいらっしゃるということですが、その中に何回も「掟」という言葉が出てきます。

 御文には他力の信心をいただくには、その人に「宿縁」があるかないかをよくよく見極めなさい、という内容があります。

 宿縁の有無を見極めずに、安易に掟にかかわることを話すことは厳に慎まなければならないことになっています。

 ですから、ボン様は唯物論者様の質問に対して、答えを茶化しているわけでは決してないのです、と思います(断言してごめんなさい)。

 このような不特定多数の方がたがのぞく掲示板では書きこめることに限りがあるということをお伝えしたいと思い、余計な事とは思いつつの書き込みです。

南无阿彌陀佛

●re.3
ボン
東京の男性
[ 2467 ] Re3:幼稚な質問二つ 2011/06/02 (Thu) 19:45 △up ▽down
酒天童子様

フォロー、ありがとうございます。
この点は、自分でもフォローが必要だと思っておりました。

こういう場合、どうしても“意地悪”なような書き込みになってしまいますが、
唯物信者様が何かを感じてくれれば、という願いを込めて書き込みをしております。

酒天童子様の記述で、ほぼ私の意は尽くされていると思います。
本当にありがとうございました。

南无阿彌陀佛

●re.4
唯物信者
海外の男性

↑唯物信者様宛にメール
[ 2470 ] Re4:赤子の信心決定 2011/06/14 (Tue) 18:57 △up ▽down

ボン様、酒天童子様、
お答え戴き有難うございます

赤子の信心決定に関し、最近感じたことは<学問>と<信仰>は全く違う、それどころか
相反するかも知れないということです。

そもそも、言葉、文字でコニュミヶートできる唯物世界は理論/知識/客観/理性で表現可能な世界ですが、一方、唯心世界は感情/知恵/主観/直感/本能の世界

故に弥陀から賜る他力(信心)は赤子でも戴けるのではと思えるようになりました。
でも赤子が南無(お願い)をどうしたのかがわかりません。

どなたか教えてください

合掌

●re.5
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 2471 ] Re5:赤子の信心決定 2011/06/14 (Tue) 21:06 △up ▽down
唯物信者様

はじめまして、極道坊主と申します。
暫く、このサイトが静かになりましてご無沙汰しておりましたが、貴方様のお出ましで再度活発な話し合いが始まりました。 有難うございます。
少しの間、眺めさせて頂いておりました。 浅薄な故、なかなか言葉にできず入ってくることが出来ませんでした。
訳の解らんゴタクを並べる者ですが、よろしくお願いします。

お気付きのとおり、「学問」と「信仰」というものは違うものであろうと思います。
学問を突き詰めると、その学んだ者の思想を形成するのではないかと考えます。
「信仰」も「思想」を作り上げる物ではありますが、「思想」は「信仰」には成り得無いと思います。
この論法に依りますと「学問」と「信仰」が同じ様な物に感じられ誤解を招く様でありますが、決して同じものでは無いと思います。 学問は「分類する事で理解を深めていく事。」の様に考えております。 自分の知識の積み重ねであって、必ず起きるであろう矛盾点の解決が付かんからであります。 必ず分類できないものが出てくる筈。 それをまた新しいジャンルを作って分類する。それの繰り返しです。 

仰られる通り、信仰は言葉での表現を超える部分があります。
説明をつけようにもつけられない。「どのように表現したらいいのか分からない。」という部分が有る。 でも、自身の中には実感として存在するものがある。 その部分が信仰にて得られた、獲させて貰った部分なのだと感じます。
それらの事は、説明は付かんし証明も出来ん。 根拠はないが信じるしか無いのであります。

上記の部分は、味わった者でしか領解し得ない物で、言葉で伝えたとしても聞いた者は自身の経験知に当て嵌めて理解の出来る様に加工し、解釈して受け取ろうとしてしまう。
でありますから、伝わって行かんのだと思います。 1割伝われば良い方ではないでしょうか? 

これらの想いは、私自身の持論でありますからお聞き流し下さい。

以前から問われておる「赤子の信心」ですが、この件について自身の思いを少し書かせて頂けたらと思います。 持論ですので、これもお聞き流しください。

「南無とお願いした先に信心が届く。」というのが通説だと思います。
「南無」と帰命する「機」に届いた下さる「法」であります。
この想いは、帰命する私と助けて下さる佛様が何処迄行っても対になっているように感じます。
「南無」と帰命する処には、「南無」と帰命させる佛の働きが掛かっておって下さる。
「南無」と帰命したのは私の様では有りますけれども、私の口を使って「南無」と発して下さった佛の働きなので御座います。
故に、「南無」の帰命も「あみだぶつ」という現れる救いの働きも、何処にも私の入り込む余地が無い。
物心が付き、言葉や判断が出来る様になった自分であるならば、「南無」の段階が自身の行いと感じるところなのでありましょうが、それは本来大いなる誤解なのだと感じます。
「赤子の信心」というのは、私達大人の『「南無」とタノム。』というプロセスをすっ飛ばしたところではないでしょうか?

師僧より「佛のひとり働き」という言葉を聞いたことがあります。 当初、意味が理解できませんでした。 佛のご廻向が自分の想い、行ない等になって現れる。 そこには自身のはからいの入り込む余地が無いのだと言う事のように感じております。

歎異抄の第一章に記される「念佛もうさんとおもひたつこゝろのおこるとき」というのは、聖人様のそういった味わいを獲得され、心持ちを表されたのではないかと感じるのであります。

分かり辛い話だったかもしれません。 やはり言葉を使っての伝達には限界があるように思います。
どうか、ニュアンスだけでもお汲み取りください。

初めましてから、偉そうな話を並べてしまいました。
懲りずにお付き合い下されば嬉しいです。 これからもよろしくお願いします。 合掌

●re.6
唯物信者
海外の男性

↑唯物信者様宛にメール
[ 2473 ] 仏のひとり働き? 2011/06/15 (Wed) 01:17 △up ▽down

極楽坊主様

お答え有難うございます

>味わった者でしか領解し得ない物で、言葉で伝えたとしても聞いた者は自身の経験知に当て嵌めて理解の出来る様に加工し、解釈して受け取ろうとしてしまう。
>でありますから、伝わって行かんのだと思います。 1割伝われば良い方ではないでしょうか?------->その通りですね、逆に科学の新発見や新発明は姿形が伴いますので
万人に100%伝わりますね。

>「佛のひとり働き」------->初めてお聞きしました。これじゃ、もう南無とお願いする必要はなくなるのですか?、それとも、赤子のように、自力のなき者のみへの弥陀の慈悲による救済策でしょうか?

伝える手段が文字以外にもっとわかり易い方法がないものかと悩んでしまいます。

初心者ですが、これからも、よろしくご指導ください

合掌


●re.7
唯物信者
海外の男性

↑唯物信者様宛にメール
[ 2474 ] 仏のひとり働き=機法一体 2011/06/15 (Wed) 02:17 △up ▽down
追加:

前文で書き損じましたが、仏のひとり働きと機法一体は同じ意味になるでしょうか?



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