浄土真宗の教義について

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●No.149
uu
関西の男性
[ 2370 ] 質問 2011/01/25 (Tue) 02:35 △up ▽down
真宗系の大学で、真宗を学んでいるものです。
みなさんとても熱心に考えておられるので、いくつか質問させて頂きたく書きこまさせていただきました。

みなさんにとって

救いとは
他力とは
信心とは何でしょうか。

できれば、経典などの言葉は使わずに皆さんの言葉で分かりやすく説明していただければ嬉しいです。

●re.1
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2371 ] Re1:質問 2011/01/26 (Wed) 04:02 △up ▽down
uuさま、こんばんは。

私は「救い」「他力」「信心」などということについて、あまり深く考えたことがありま
せんので、私がこのような難しい質問にお答えしてよいのかどうかわかりませんが、
何かの話の種になればと思い、少し考えを述べさせていただきたいと思います。


>救いとは

「救い」という言葉遣いをあまりしたことがないのですが、それは「救っていただく」
「救い取っていただく」「助けていただく」というように言い換えてもよいのではないか
と思います。

「だれに」といえば、それは当然「仏に」ということになるのだと思います。
「だれが」といえば、それは「私が」ということになるのだと思います。
つまり、「私が仏に助けていただく」または「仏が私を助けてくれる」ということを
「救い」と言ってもよいのではないかと理解しております。

それでは「助けていただく」とはどういうことかと言えば、「迷いの世界に戻ってこない」
「仏の世界に招いていただく」つまり「仏にしていただく」ということ、あるいは、
そういう約束をしていただく、ということではないかと思います。


>他力とは

「他力」の文字通りの意味は「他者の力」ということだと思います。「他者」というのは
「自分」に対応する言葉だと思いますが、こと真宗に則していえば「他者」とは「仏」
なのだと思います。

「他力本願」といえば、「他力を頼みとする」つまり「仏の力を頼みとする」というこ
とで、それを裏を返して言えば「自力を頼みとしない」ということになるのだと思います。

それでは「何について」「自力を頼みとしないで、仏を頼みとする」のかと言えば、それ
は「助かることについて」「助けていただくことについて」「仏にしていただくことにつ
いて」だと思います。

>信心とは

「信心」とは、文字通り言えば「信じる心」ということになります。それでは「信じる」
とはどういうことかといえば、「頼りとする」「頼む」「身をゆだねる」「おまかせする」
ということではないかと思います。

だれを頼りとするかといえば、当然それは「仏」ということになります。つまり、信じる
とは「仏を頼りとする」「仏に頼む」「仏に身をゆだねる」「仏におまかせする」という
ことになると思います。

そうすると、「信心」とは、「仏を頼りとする心」「仏に頼む心」「仏に身をゆだねる心」
「仏におまかせする心」ということになります。


とりあえず、私の思いつくところをまとめてみましたが、角度が違えば、また別のことが
言えるかと思いますので、ほかのかたのご意見もうかがえればと思います。

また、uuさまのお考えもうかがえればうれしく思います。


南无阿彌陀佛

●re.2
uu
関西の男性
[ 2375 ] Re2:質問 2011/01/27 (Thu) 04:07 △up ▽down
丁寧な回答ありがとうございます
やさしい言葉で説明していただいてとても嬉しく思います

ボンさんが答えてくれた内容を
助かることについて自力を試みず仏の力を頼みにし(他力)、それを信じること(信心)によって、迷いの世界に戻ってこなくなる(救い)または、仏の世界に招いていただける、というように捉えました

しかし、僕に理解力がないために

迷いの世界に戻ってこないこととはどういったことなのか
仏の世界に招いていただくということはどういったことなのか
助かるとはどういったことなのか
自力を試みずに仏の力を頼みにするとはどういったことなのか


といったところがうまく理解出来ませんでした
どういったことを意味しているのか教えていただけると嬉しいです



また、僕がどのように考えているのかみなさんに伝えなければ、みなさんにアドバイスを受けることもできないような気がするので、お言葉に甘えて僕の考えを書きこませていただきたいと思います。



僕は救いとは阿弥陀仏の本願を信じることだと考えています

このことを説明するためには苦というものが重要になってきますので、まず僕がどのように苦を捉えているかを書かせていただきます
僕は、苦とは、「こうありたいのに、こうあれない」という状態のときに引き起こされるものだと考えています
例えば、死や空腹のときを例にとれば、「死にたくないのに、死ななければならない」「何か食べたいのに、食べられない」というようなときに苦は引き起こされると考えています
また、「このこうありたい」ということと、「こうあれない」ということのどちらかが欠けても苦は引き起こされないと思います
なぜなら、こうありたいだけならば、それは一般でいう希望(なにか食べたい)であり、こうあれないだけならば現状の表明(お腹がいっぱいなどの理由で食べられない)でしかないからです
そして、この苦を引き起こす状態を解決するためには、こうありたい(理想)を成し遂げるか、こうあれない(現実)を受け入れるしかないと思っています
また、分かりやすくするために「死にたくないのに、死ななければならない」を例にあげてみると、「死にたくないのに、死ななければならない」に対して理想を成し遂げるということは、どうにか死ななくなる方法を努力して手に入れ死ななくなるということであり、「死にたくないのに、死ななければならない」に対して現実を受け入れるということは、生への執着を断ち切り死を受け入れることということになります
このどちらかを成就させることによって死に対する苦を取り除くことができると僕は考えています

しかし、それができない人は「死にたくないのに、死ななければならない」というような苦を引き起こす事柄に対処する事ができません
そこで、信じ念仏すれば必ず救うという阿弥陀仏の本願を仮定します
ただ、この仮定を信じても「死にたくないのに、死ななければならない」という苦がなくなるという訳ではありません
なぜなら、必ず救うと言われても、先ほどあげたどちらかの方法が成就する訳ではなく、救いを信じるということは、苦を取り除く効果を持っていないからです
では、どのような効果をもっているのか、それは信じれば必ず救うというところにあります
信じれば救うというのはその者の状態を指定していません
それは救われる対象が「どのような状態であってもいい」ということです
僕は、この「どのような状態であってもいい」というのが阿弥陀仏の救いの大要点だと考えています
この「どのような状態であってもいい」ということは、楽しんでいようが、苦しんでいようが、なんでもいいということです
もう少しフォーカスをあてて言いえば苦しんでいてもいいということです
この苦しんでいてもいいと肯定されることが、苦しんでいる人を救うと僕は考えています
なぜなら、先ほどあげた、苦を引き起こす原因の「こうありたいのに、こうあれない」というところには、そうである自身の現状の否定というものが隠れていると見るからです
「死にたくないのに、死ななければならない」というところには「死にたくないのに、私は死なない身にはなれない、そんな私は嫌だ、変わりたい」という否定が隠れていると思います
阿弥陀仏の救いはここを「死にたくないんだな、死なない身になれないんだな、そんなお前が嫌なんだな、変わりたいんだな、それでもいいよ、救うよ」と肯定していると思っています
この肯定が「死にたくなくてもいい、死ねない身になれなくてもいい、そんな自分を嫌がってもいい、今のままでもいい」というところに繋がり、苦はなくならないが苦を受け入れることができるようにする
この「苦はなくならないが苦を受け入れる事ができるようにする」というのが、阿弥陀仏の本願を信じることの効能だと思っています

稚拙な文で読みにくいと思いますが、以上のようなことを僕は今のところ考えています
しかし、この考えもほとんど、授業で聞いた断片的な内容を勝手に、感覚やそうに違いないという思い込みを押し通しているだけで、まったくもって正しいのかどうかもわかりません
なので、みなさんにしっかりとここが違うだとか、そんなことではないというように教えていただきたいと思っています

あつかましいかもしれませんが、よろしくお願いします

●re.3
ボン
東京の男性
[ 2376 ] Re3:質問 2011/01/30 (Sun) 18:57 △up ▽down
uuさま、こんばんは

お返事ありがとうございます。
私の申し上げた内容を、uuさまが以下のようにまとめていただきました。

>助かることについて自力を試みず仏の力を頼みにし(他力)、それを信じること(信心)
>によって、迷いの世界に戻ってこなくなる(救い)または、仏の世界に招いていただける、
>というように捉えました

確かにそのように言えなくもないのですが、この文章には何か違和感というか、靴下の上
から足の裏を掻いているようなもどかしさを感じます。

そもそものお話をいたしますと、私は、uuさまからおたずねいただいた「救い・他力・信心」
という3つの言葉のそれぞれに対するとらえ方について、個別にお話し申し上げたに過ぎ
ません。

この3つの言葉を組み合わせると、どのような脈絡の文章になるのかということにつきま
しては、私は特に意図しておりませんでした。今こうして、まとめられた文章を眺めてみ
ますと、「他力の信心によって救われる」という、いわば、真宗としてはきわめて当然の
命題が現れてきます。

当然の命題ですから、否定すべくもないし、まったく正しいのですが、拙いながらも、
その3つの言葉の説明に込めた思いのようなものが、たぶん伝わっていないのだろうな
ということが感じられるのです。もっともそれは、私の舌足らずせいなのですが・・・。

そこで更にご質問がございますので、可能な限り、私の考えるところをお答えしたいと
思います。

>迷いの世界に戻ってこないこととはどういったことなのか

「迷いの世界」とは、いわゆる「六道」とか「五悪趣」とか言われるものを指しています。
なるべく経典などの言葉を使わないようにとのことですが、遠回しな言葉を使うよりも、
この場合は、こっちのほうが逆にわかりやすいのではないかと思います。

ここでポイントとなることは、「迷いの世界」というのは「今生」だけを指しているので
はないということです。気の遠くなるほど遠い昔から今生まで、あるいは、遠い遠い未来
まで、私たち衆生(人間だけじゃないから衆生といいます)は、この「迷いの世界」で
生死を繰り返して来たし、また、繰り返していくだろうと、仏教は教えています。

「じゃあ、あなたはそれを見たのか」と問われれば、「見ていない」または「見たかもし
れないが覚えていない」と答えるほかありません。あるいは、「あなたはそれを100%
信じるのか」と問われれば、心許ないと言わざるをえません。

しかし、仏教では、とりあえず、そう教えているのです。そしてまた、「今生」というも
のを飛び越えた視野で自分を考えてみるというのが、仏教の(あるいは宗教の)真骨頂か
もしれませんし、また、そのメリットは確かにあると思います。

(わけもわからず聖典の言葉を振り回すのは良くないかもしれませんが、「聖典に素直に
なってみる」または「聖典に寄り添ってみる」というのもいいかもしれません。)

ともあれ「迷いの世界に戻ってこない」というのは「六道・五悪趣に戻らない」というこ
とであって、言葉を変えれば「不退転」ということになります。そして、それは「今生」
という狭いスパンの話ではなくて、遠い昔からの因果にからんだ悪い連鎖を断ち切るとい
ことだと理解しております。

>仏の世界に招いていただくということはどういったことなのか

「仏の世界」というのは「阿弥陀仏の浄土」とか「極楽浄土」というものを指しています。
ここでも聖典の言葉使うことをお許しいただきたいと思うのですが、「阿弥陀仏の浄土」
とか「極楽浄土」という言葉について、私が説明することはないと思います。

そういうわけで「仏の世界に招いていただく」ということは「阿弥陀仏の浄土に招いてい
ただく」または「そういう約束をしていただく」ということになります。「約束をしてい
ただく」という意味では、これも「不退転」ということになります。

「極楽浄土」はどこかといえは、いろいろな考えがあるようですが、とりあえず私は、
この世の肉体がなくなったあとのことと考えています。いずれにしても、「今生」に限っ
た考え方では納得しにくいものと思います。

>助かるとはどういったことなのか

「助かる」というのは「阿弥陀仏が私を助け出してくれる」という意味です。堂々巡りの
ような話になりますが、どこから助け出すかといえば、「迷いの世界」「六道」「五悪趣」
から助け出すのだということになります。どこに助け出されるかといえば、それは
「仏の世界」「阿弥陀仏の浄土」「極楽浄土」に助け出される、ということです。

>自力を試みずに仏の力を頼みにするとはどういったことなのか

「自力を頼まない」というのは、「仏になるために自らの力を頼んで行をしない」「自力の
行を行わない」ということです。

仏典によると、仏になるための門(入口)は無数にあるのだそうですが、そのほとんどが
「自力の行」によるものだそうです。観経で説かれる観法などもそのひとつとのことで
す。ただ、それらは、今日の散漫な人間にとっては、所詮無理なことが要求されている
ようです。

「仏の力を頼みにする」というのは、今日の我々にとって、仏になるために残された唯一
の方法は「仏の力を頼むこと」「仏にお任せすること」だけだという意味です。

以上、やはり舌足らずなのかもしれませんが、uuさまのご質問へのお答えとなります。
ご不明な点は、お問い合わせいただければ、言葉を補うように努力したいと思います。

ところで、「救い」についての、uuさまのお考えも拝読いたしました。とても真剣に考え
ておられることに敬服いたします。

「どのような状態であってもいい」または「そのままでいい」という表現は、お寺のお坊
さんの説教などでもよく聞くことがあります。uuさまは、この「どのような状態であって
もいい」ということの中身について、オリジナルな見解を述べられたものと理解しており
ます。

率直な感想を述べますと、とても難解です。なかなか難しい理屈ですが、たぶん、論理的
な辻褄は合っているのだと思います。「苦」についても「ああ、そういう見方があるのか」
と納得できる部分もあります。

ただ、一言一句詳細に検討することは控えますが、私などからみると、何か違和感を感じ
るのは、「今生」のことに少しフォーカスしすぎているのではないか、ということです。
また、「心」の問題、あるいは「心の救い」というものに、フォーカスしすぎているので
はないか、という気もします。

真宗も含めて、仏教全般が教えているのは、この世界が因果律に支配されているというこ
とです。この因果というものは、今生に限らず、過去世・現在世・未来世を貫くものだと
仏教では教えています。

仏教において、「心」の問題もさることながら、「行い」というファクターも、とても
大事なのだと思います。「業因」という言葉があるように、「業」つまり「行い」という
要素は、仏教にとって、とくに「因」という側面においては、欠かせないもののように思
います。

「行」もまた「行い」です。親鸞聖人の「教行信証」が、なぜ「教信証」ではないのか、
そこになぜ「行巻」があるのかというのは、大事な問題を示唆しているように思えます。

真宗を、仏教を、専門用語に終始することなく、こなれた自分の言葉で表現しようとする
ことは、素晴らしいことだと思います。私もできるだけそうしたいと思います。ただ、
その際に気をつけなければならないのは、我流に陥らないように、教典の趣旨をそのまま
受け取るということではないかと思っております。

また、ご意見をお聞かせいただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.4
uu
関西の男性
[ 2377 ] Re4:質問 2011/02/02 (Wed) 05:08 △up ▽down
毎回丁寧な回答ありがとうございます
読みにくい文章であるのにこのようにしっかりと質問に答えていただいてとても嬉しく思います


前回の質問で

>その3つの言葉の説明に込めた思いのようなものが、たぶん伝わっていないのだろうな
>ということが感じられるのです。
とおっしゃっていますが、その思いとはどのような思いでしょうか


また、今回お答えいただいた内容を

死んだ後衆生は六道に輪廻する
阿弥陀仏に頼ることで死んだ後輪廻から解放され浄土に生まれることができる
末法だから定善や散善によって自力で浄土に生まれるのは無理
死んだ後阿弥陀仏に浄土へ生まれさせてもらうのを信じ念仏するしかない

というゆうように理解しました
相変わらずですが、そこに意味されるものが多分理解できていません
死んだ後輪廻から解放されるということにはどんな作用(例えば浄土に生まれることが定まって心配がなくなるなど)があるのでしょうか?




>「今生」のことに少しフォーカスしすぎているのではないか、ということです。
>また、「心」の問題、あるいは「心の救い」というものに、フォーカスしすぎているの
>ではないか、という気もします。

ご指摘ありがとうございます
確かに僕自身、心の問題や今生の救いについて強く意識していると思います
というようりも、そこ意外に重点をおく視点を僕はまだ持っていないと思います
そこ以外の何に重点をおけばいいとお考えでしょうか



>「行」もまた「行い」です。親鸞聖人の「教行信証」が、なぜ「教信証」ではないのか、
>そこになぜ「行巻」があるのかというのは、大事な問題を示唆しているように思えます。

この大事な問題とはなんでしょうか?
また、清沢満之のような近代教学的スタンスをどのように考えていますか?

●re.5
ボン
東京の男性
[ 2378 ] Re5:質問 2011/02/03 (Thu) 01:56 △up ▽down
uuさま、こんばんは。

また、書き込みを拝見できてうれしく思います。
いくつか質問をいただいておりますので、私はそれに答える義務があると思います。

>>その3つの言葉の説明に込めた思いのようなものが、たぶん伝わっていないのだろうな
>>ということが感じられるのです。
>とおっしゃっていますが、その思いとはどのような思いでしょうか

「救い」「他力」「信心」という3つの言葉について、はじめにお話しした内容に、その
思いを込めたつもりです。また、2回目にお答えした内容に更にその思いをこめたつもり
です。

どうにもあいまいな書き方で申し訳ありませんが、はっきりとした言葉で述べた途端に
なにか言いたいことと違う内容になってしまうのではないかという気がして、うまく表現
することができないのです。申し訳ありません。


>死んだ後衆生は六道に輪廻する
>阿弥陀仏に頼ることで死んだ後輪廻から解放され浄土に生まれることができる
>末法だから定善や散善によって自力で浄土に生まれるのは無理
>死んだ後阿弥陀仏に浄土へ生まれさせてもらうのを信じ念仏するしかない

>というゆうように理解しました

おっしゃるとおりです。そのとおりだと思います。
ただ、問題は「念仏する」というこのと中身にあるものと思いますが・・・。


>死んだ後輪廻から解放されるということにはどんな作用(例えば浄土に生まれることが定
>まって心配がなくなるなど)があるのでしょうか?

「どんな作用があるのか」という場合の「作用」という言葉がよく理解できませんが、
とりあえず、その功徳(またはメリット)として、「浄土に生まれることが定まって心配
がなくなる」ということは、おっしゃるとおりだと思います。

ただ、私の個人的なことを申しあげますと、「浄土に生まれることを定めていただいた」
というのは事実として間違いないのですが、「それは本当にそうなのか」という疑問がい
まだにないとは言い切れないようです。まあ、(たぶん)それも、そのうち無くなってく
るものと思いますが・・・。


>確かに僕自身、心の問題や今生の救いについて強く意識していると思います
>というようりも、そこ意外に重点をおく視点を僕はまだ持っていないと思います
>そこ以外の何に重点をおけばいいとお考えでしょうか

「どこに重点をおけばよいのか」ということについては、よくわかりません。ただ、
私が申し上げましたのは「フォーカス」ということです。「フォーカス」というのは、
つまり「焦点を絞る」ということです。あまり今生に焦点を絞り過ぎないほうが良いので
はないか、ということを申し上げました。

といいますのは、「後生で救われた」または「後生に決着をつける」ということがなけれ
ば、「今生で救われる」ということもまた実現しないと思うからです。つまり、「今生で
救われる」というのは、あくまでも、「後生で救われた」結果もたらされるものであって、
過去世と来世を切り離した今生の中だけで救われるわけではない、と思うのです。

以下のuuさまの文章を読む限りでは、uuさまは「今生での心の持ちようで救われる」と考
えておれれるように見えましたので、このようなことを書きました。(誤解でしたらお許
し下さい)

--------------------------------------------------------------------------------
僕は、この「どのような状態であってもいい」というのが阿弥陀仏の救いの大要点だと考
えています この「どのような状態であってもいい」ということは、楽しんでいようが、
苦しんでいようが、なんでもいいということですもう少しフォーカスをあてて言いえば苦
しんでいてもいいということです この苦しんでいてもいいと肯定されることが、苦しん
でいる人を救うと僕は考えています
--------------------------------------------------------------------------------

ちなみに、「どのような状態であってもいい」というのが「阿弥陀仏の救いの大要点」だ
というのは、私の目から見ますと教典を拡大解釈しているような気がします。おそらく、
その元となっている教典の主旨は「煩悩まみれの凡夫であっても救う」ということではな
いかと思います。

言い換えれば、「どのような状態であっても」は「煩悩まみれの凡夫であっても」であり、
「いい」は「救う」であると考えられます。そして、「救う」は「仏の主体的な行為」に
ほかなりません。つまり、「いい」は「私は救う」という意味になります。しかも、
「念仏の一行があれば救う」という条件付です。

ですから、「どのような状態であってもいい」を「煩悩まみれの凡夫であっても念仏の
一行があれば救う」という意味でいうのであれば教典どおりなのですが、ここから「念仏
の一行」を取り除き、なおかつ、「いい」を「肯定する」と読みかえてしまうと、だんだ
んと、経典の本来の主旨からはずれていくような気がいたします。

また、「苦しみ」は「煩悩」の結果かもしれませんが、「煩悩」そのものとは違うのでは
ないかと思います。


>>「行」もまた「行い」です。親鸞聖人の「教行信証」が、なぜ「教信証」ではないのか、
>>そこになぜ「行巻」があるのかというのは、大事な問題を示唆しているように思えます。

>この大事な問題とはなんでしょうか?

大事な問題とは、この文章の前に書いてあった部分を指しています。文章が後先になって
いて読みにくかったものと思います。申し訳ありません。

つまり、仏教または真宗において、「業」または「行」という要素は不可欠なものであっ
て、「心の救い」という側面だけが独立して存在しているのではないということを言いた
かったのです。


>また、清沢満之のような近代教学的スタンスをどのように考えていますか?

恐れ入りますが「清沢満之」も「近代教学」もまったく存じ上げませんので、残念ながら
この質問にはお答えできません。

ただ、それと関連するかどうかはわかりませんが、宗教は、哲学や科学とは異質なものだ
ということは確かなような気がします。

哲学とは一切の前提をなくして思索するところからスタートするような気がします。
科学もまた、すべてを根底から疑うところからスタートします。それは、いわゆる、
西欧流の近代精神というものかもしれません。

しかし、宗教は、これとはかなり趣を異にします。宗教とは信じるところからスタートす
るのではないかと思います。親鸞証人の言っていることはすべて正しい、七高僧の言って
いることはすべて正しい、ひいては、釈尊の言っていることはすべて正しいという前提に
立つところからスタートするもののような気がします。

私は、自分を“親鸞教徒”だと自認しております。少なくとも、私は、真宗を科学や学問
と同等に捉えようとは思っておりません。また、論理的な理解などは、なくてもかまわな
いと思っております。


南无阿彌陀佛

●re.6
ボン
東京の男性
[ 2379 ] Re6:質問 2011/02/05 (Sat) 13:32 △up ▽down
uuさま、こんばんは。

uuさまの「その思いとはどのような思いでしょうか」という質問に対して、漠然とした
返答をいたしまして、少々気がとがめておりましたが、あとになって気が付いたことも
ございますので、その点につきまして補足をいたします。

私は、最初のご返答をしたときに、以下のように申し上げました。

--------------------------------------------------------------------------------
「救い」という言葉遣いをあまりしたことがないのですが、それは「救っていただく」
「救い取っていただく」「助けていただく」というように言い換えてもよいのではないか
と思います。
--------------------------------------------------------------------------------

実は「救い」という言葉に対して、多少の違和感といいますか、おさまりの悪さというも
のを感じまして、あえて「救っていただく」「救い取っていただく」「助けていただく」
というような言い換えをさせていただいたのです。

通常、「救い」という言葉は、「救いがある」とか「救いがない」とか、あるいは「救い
を求める」などといった文脈のなかで使われるものと思います。そうすると、そこには
「救い」とはいったいなんだろう、という疑問が当然湧き出てくるもののように思います。

そして、「救い」という言葉に対して「抽象的で静的な実体」を見出そうとするのだと
考えられます。いわく「救いとは安心である」「救いとは苦からの開放である」等々・・・。

しかし、私がこれまでご聖典に接してきた感覚からしますと、ただひたすら「阿弥陀仏が
念仏衆生を救う」と言っているだけのように感じられるわけです。まるで「溺れた人を水か
ら救い上げる」ような感覚です。

つまり、そこには「救う」という“動的”な感じがあるわけです。言い換えると、阿弥陀仏
が「救う」という“行動”を取るということです。「救う」行為の主体は阿弥陀仏であり、
「救われる」客体は念仏衆生ということになります。

主体の阿弥陀仏から見れば「救う」であり、客体の念仏衆生からみれば「救われる」とい
う表現が適当なような気がいたします。“行動”から切り離された、なにか客観的な
「救い」という実体が存在しているのではなく、「救う」または「救われる」という表現のほう
が、私にとっては、なにかスッキリと馴染むような気がするのです。

これが「救い」という言葉を、あえて言い換えさせていただいた理由です。そして、これ
が私の「思い」のすべてではありませんが、その一端であると言ってもいいかもしれません。

言葉足らずかもしれませんが、少しは具体的な話になったのでないかと思っております。
とりあえず、補足まで。

南无阿彌陀佛



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