浄土真宗の教義について

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●No.148
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2340 ] 後念相続 3 2010/12/26 (Sun) 03:12 △up ▽down
菩提心様、こんばんは。
「蓮如上人いろは歌」からの引用、ありがとうございます。

>無常観によりて佛法の門に入り、罪悪観によりて他力の信仰に入る。

わが身を振り返ってみると、はたして、無常観や罪悪観をよく認識して、佛法の門に入っ
たり、他力の信仰に入ったのかどうか、はなはだ疑問です。

言ってしまえば、その場の勢いというか、流れというか、そのような感じで、他力の信心
というものをいただいたような気がするんです。決して深い考えがあったわけではありま
せん。捜して捜して、捜し求めてたどりついたわけでもありません。

ただ、ある意味で人の言葉に素直だったといいますか、ある意味、赤子が聞かされるよう
に聞いたというのが、実際のところだと思います。だから、聞かされても、しばらくは、
その意味が解っていないし、いまだに解っていないのかもしれません。つまり、私などは、
いまだに「蛇に怖ちざりし盲」の状態にちがいありません。

>又、現在の己が心の状態を思ふて見ると、「一つづゝ塵見えかゝる夜明けかな」実に日光
>の前には垢汚の能く見ゆるが如く、いよいよ我が身のあさましさが知られ「念々称名常懺悔」
>大悲の光の其の下に、あやまりあやまり念佛の、口に絶えぬのが後念相続の行と申すもの。

正直に私の現状を申し上げますと、「垢汚の能く見ゆる」状態にはほど遠く、したがって、
「我が身のあさましさが知られ」といるわけでもないので、「あやまりあやまり念佛」して
いるなどとは、恥ずかしくて、口が裂けてもいえません。

ただ、私のなかには、聞いた、聞かされた、もしくは、聞かせていただいた、という事実
が厳然として残っっていることは確かです。そして、仏法について何を考えるにしても、
その聞かされたという事実を出発点として、それを拠り所として考えることが、あたりま
えというか、そうするほかないというか、そんな感じで、今日に至っているわけです。

しかも、いつもいつも、仏法のことを考えてきたわけではありません。あることをきっか
けとして同行様とも遠ざかり、聞かされたという事実すら、私の意識のなかでは、おぼろ
げなものとなっていた時期もありました。

ただ、幸いなことに、たまたまここの掲示板を発見して、毎日様や、忍草様、菩提心様、
極道坊主様、酒天童子様をはじめとして、同行と思われるみなさまと触れ合うことによっ
て、辛うじて一日に数時間でも仏法に向き合うことができるのは、とてもありがたいこと
だと感謝しております。

このように、いまだに「蛇に怖ちざりし盲」同然の私にとって、後念相続または憶念とは、
どういう状態なのか、ということを考えてみたのが、先の書き込みだったわけです。
(まあ、現状追認といいますか、自分の合理化というとうなものなので、そんなものは
憶念とは言わないといわれれば、そうかもしれないのですが・・・)

ただひとつ、はっきりとわからないので、皆さまにおたずねしたいのは、他力念仏の行者
としてこの浮世をどのように生きればよいのかということです。

たとえば、垢汚にまみれているとか、我が身のあさましさなどというのは、いわば強烈な
自己否定であって、そこに向き合えば向き合うほど、私の感性からすると、とても厭世的
になって「この世のことなどどうでも良い」という感覚になるのですが、はたしてそれで
よいのかというのが、根源的な疑問としてあるわけです。

また、仏の智慧は、不可称、不可説、不可思議といって、人知の及ばない、想像を絶する
ものであるとされます。それに比較するならば、この世のどんな素晴らしい智恵も、どん
な人格者も、どんな感動的なできごとも、とるに足らないものと感じてしまいますが、
はたしてそんな感覚でよいのか、という疑問があります。

菩提心様オススメのユーチューブ「斎藤ひとりさん劣等感を理解する」を聞きました。素晴
らしいと感じました。“この世の”真実を突いていると思います。いったいどういう経験
をとおして、彼は、あのようなことを学び理解したのだろう、と思います。(ちなみに、
斎藤ひとりは、とんでもない大金持ちです。)

先日、テレビで松田勇作の特集をやっていました。彼は、癌に侵されたことを知りつつ、
治療よりも「ブラックレイン」の撮影を選び、壮絶な最後の日々を生きました。とても
感動しました。

しかし、斎藤ひとりの智恵も、松田勇作の覚悟も、不可称、不可説、不可思議の仏智から
みれば、比較のしようもないほど、ちっぽけなものになってしまいます。はたして、そう
いう考え方でよいのでしょうか。

私たちは、不可称、不可説、不可思議の仏智を基準としてものを考えてよいのでしょうか。
不可称、不可説、不可思議なら、それを基準としてはいけないのではないか、という疑問
が沸いてきます。なぜなら、自分の説明のつかないことを基準として、ものごとを判断し
てはいけないと思うからです。

私は、他力の信心をいただきました。仏法を聞かせていただきました。それは、まぎれも
ない事実です。そこを出発点として、ものを考えてきましたし、今後もそうしたいと思っ
ています。

ただし、そのことが、この世の素晴らしいもの、美しいもの、感動的なものを、とるに足
らないちっぽけなものと受け止めることにつながらないように注意したいと思っています。
たぶん、しばらくは、今生限りとなるであろうこの世を、素晴らしいものは素晴らしいと
認めて、力いっぱい堪能して生きて行きたいと思ってます。

仏法はその道しるべにもなるのではないかと期待しています。それを後念相続と考えたら
あまりにも生臭いでしょうか。もう少し枯れたほうがよいのでしょうか。

南无阿彌陀佛

●re.1
菩提心
非公開の非公開
[ 2346 ] Re1:後念相続 3 2011/01/05 (Wed) 01:59 △up ▽down
ボン様 皆さま

新年明けましておめでとうございます。

「門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」一休禅師の句だと教えられ、信心決定しなければ一日地獄に近づいて行くと思って、時計の音が嫌に切なく感じた時も有りました。

今はもうそういう気持ちは起きて来ません。

>私は、他力の信心をいただきました。仏法を聞かせていただきました。それは、まぎれもない事実です。そこを出発点として、ものを考えてきましたし、今後もそうしたいと思っています。

ボン様のように考えられる方もおられると思いますが、何となく得てしまって日々暮らしている人もいます。

私の家族はそうです。

仏法用語などには興味はあまりないようです。
そんな家族を見ていても、不思議だと思います。
仏縁の遅速を傍で感じています。
生まれる前(母親の胎内)から仏縁の有る子。

信後、私は視野が広がったと思います。(まあ、長年井の中の蛙状態だったこともありますが)
この世の中には素晴らしい人が沢山、沢山いるのだと実感しています。
息子が知り会った人は、突然稼業を棄てて人助けの為に修行に入るそうです。(天からの使命だそうです)
きっと斎藤ひとりさんみたいな菩薩のような人は一杯いるんじゃないかと思います。

でも私にはそんな使命感は有りません。
そして息子と話している時は、「お袋馬鹿だからね」と言われ続けています。
「うん、そうよ。もうお手上げっていう感じかな。全部お任せ」そう答えています。
私はやっぱりなまくらなんでしょうね。
楽な方へと、今は弥陀の大船に乗せて貰っています。

息子が我が子として生れてきてくれた奇跡。
息子であるけれど、でも同志でもあり、未来は蓮台で一緒。
新しく芽生えた命は息子の腕の中で眠っている。

この命が繋がっていく地球の有難さ。
そして私を導いて下さった色々な御縁。有難うございます。

本当に無駄ではなかったこの道。そしてこれから行く道はどんな道になっているだろう?

ちょっと闇夜の独り言。おやすみなさい。

南无阿彌陀佛

●re.2
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2349 ] Re2:後念相続 3 2011/01/07 (Fri) 03:14 △up ▽down
菩提心様、こんばんは。

コメントをいただき、ありがとうございます。

>>私は、他力の信心をいただきました。仏法を聞かせていただきました。それは、まぎれ
>>もない事実です。そこを出発点として、ものを考えてきましたし、今後もそうしたいと思
>>っています。

>ボン様のように考えられる方もおられると思いますが、何となく得てしまって日々暮ら
>している人もいます。

私こそ、「何となく得てしまって日々暮らしている」タイプの人間です。
特に仏教に興味があったわけでもなく、救いを探し求めていたわけでもなく、ただ、
たまたま縁があって、他力の信心をいただくことができたのです。

法話があっても「面倒くさいなあ」と思いながら、行き掛かり上、なんとなく参加して、
それ以外のときは、浮世にどっぷりとつかって生活していました。そのうえ、同行様との
縁の切れてしまい、それを内心に深くたくわえたまま、いただいた事実すら意識の片隅に
追いやって生活したわけです。

その間は、念仏をあげることもほとんどなく、ひょっとしたら、何もかもが違っているん
ではないかという疑念すらわいてきました。

ただ、本当にたまたま、ネット検索でこのページに辿り着き、まさしく自分のいただいた
同じものを得ている方々がいると確信できて、このページに日々アクセスするようになっ
たものの、そのほかの日常は法とはほとんどかかわりのない方々との日常にあけくれて
おります。

つまり、私は「何となく得てしまって日々暮らしている」人間そのものだということです。
そして、そんな人間だからこそ「聞かせていただいたという事実」を出発点としてものを
考えていくほかないと思うわけです。

強く求めて得たわけでもない、信心堅固でもない、日々念仏を欠かさないわけでもない、
疑いの気持ちを取り払うこともできない、懺悔の気持ちがあるわけでもない、躍り上がる
ほど喜んでいるわけでもない、家族など日常の生活圏に同行がいてるわけでもない、そん
なきわめて世俗的な人間だからこそ、意識して意図的に仏法に接したいと思っているわけ
です。

その方法として、「聞かせていただいたという事実」から出発してものを考えることが、
一番適切なのだと思います。というよりも、それ以外に、自分にとって確かなものはない
と思うのです。

まず「聞かせていただいたという事実」があって、そこから「それでは、私がいただいた
ものは何なのだろうか」という疑問が生まれ、その疑問を解決するために、仏典を読み、
同行様にものをたずねるというプロセスをたどるものと思います。

まあ、しかし、私の場合、少々、特殊な経緯をたどって、特殊なスタンスにいるようなの
で、たぶん、あまり皆さまの共感は得られないのかもしれませんね。

南无阿彌陀佛

●re.3
酒天童子
関東の男性
[ 2350 ] Re3:後念相続 3 2011/01/07 (Fri) 11:19 △up ▽down
新年明けましておめでとうございます。
酒天童子です。

ボン様、菩提心様はじめ念仏行者のみなさまにとって今年がよりよい一年であるように祈念いたします。

>まあ、しかし、私の場合、少々、特殊な経緯をたどって、特殊なスタンスにいるようなの
>で、たぶん、あまり皆さまの共感は得られないのかもしれませんね。
>

たしかに他力一流の信心をいただきたければ、まずは往相を訪ねよ、とはよく言われることです。なぜなら往相は必ず還相を知っているからだ、とも言われます。

ボン様からお聞きする内容からすると、おっしゃるとおりボン様のような同行様はあまりいないのかもしれませんね。

皆、お手引きの同行はじめ有縁の知識様方と交流があるのが普通でしょう。
ただ、思うにだからこそ、ボン様でしか成し得ないこともあるのではないかとも思います。

ボン様は同行との交流があるところで途絶えてしまったとおっしゃいました。

それは逆に考えると他の同行の干渉がない、ということでもあります。

だから、他の同行や知識様に聞けない分、独自に考えを巡らせたり、文献を解釈したりできるのではないかと思うのです。

普通はちょっとした疑問を呈すると、すぐにいろいろな人がああでもない、こうでもない、と意見してくれるので(よきにつけ悪しきにつけ)、ああ、そうか、と妙に納得したりしてしまうものです。

その点、ボン様は疑問をそのまま、自分の心の中で維持しやすい環境にいるのではないかと推測します。

ある程度の期間、疑問を持ち続けることは、思考を整理して構築し、発想の転換を図るうえで大切なことだと思います。

このホームページでもそんなボン様の姿勢が表れているように思うのは私だけではないのではないかと思います。

今後もボン様のご活躍に期待しています。

南无阿彌陀佛

●re.4
菩提心
非公開の非公開
[ 2351 ] Re4:後念相続 3 2011/01/08 (Sat) 09:33 △up ▽down
ボン様 酒天童子様 皆さまへ 

今年もここで色々な御意見や励ましの御言葉頂ける事感謝しています。

ボン様は善知識様とも御縁が無くなっても、ずっと忘れずにいたからこそ、今続けて「教行信証・学習ノート」を書いておられるのだと思います。

>ボン様は同行との交流があるところで途絶えてしまったとおっしゃいました。
>それは逆に考えると他の同行の干渉がない、ということでもあります。
>だから、他の同行や知識様に聞けない分、独自に考えを巡らせたり、文献を解釈したりできるのではないかと思うのです。

酒天童子様の御指摘のように、私はむしろそのような立場の中でボン様が信心を深く内心に蓄えられて来られた道程が知りたかったのです。

御同行が多く集まれば、そこは人間世界。色々な思いも出てきます。

離れてもボン様のような生き方が出来るということは、私にとってはすごい励みになります。

ところで酒天童子様

>皆、お手引きの同行はじめ有縁の知識様方と交流があるのが普通でしょう。

この有縁の善知識様は一人一人違っていても、今こうしてお話して御同行だと分かることが有難いですね。

>たしかに他力一流の信心をいただきたければ、まずは往相を訪ねよ、とはよく言われることです。なぜなら往相は必ず還相を知っているからだ、とも言われます。

こんな言葉も知らなかった私も、お陰さまで尋ねた結果がこのように皆さまとお話している事がやはり不思議です。

ボン様の「教行信証・学習ノート」、いつも楽しみに待っています。

続ける事の尊さ。いつも頭が下がります。

その点やはり私は怠惰な人間だと思います。

でも御安心下さい。それで落ち込んだりしていません。

こんな人間も一味同行になれるだという証拠みたいでしょ。

有難うございます。

南无阿彌陀佛

●re.5
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2352 ] Re5:後念相続 3 2011/01/09 (Sun) 03:39 △up ▽down
菩提心様、酒天童子様、皆さま、こんばんは。

私のような奇妙な者でも、同行の皆さまからみて、何らかの価値があると見ていただけま
すと、嬉しいような、恥ずかしいような、ヘンな感じですが、やはり、仏法は人に聞く
ものなのでしょう。我流に陥ることは、最も戒めなければならないことのように思います。

確かに、面と向かって質問をして、必ずしもしっくりこない返答をいただいても、何か
さらに突っ込んで聞きづらい場合もあるので、こういう掲示版では、純粋に教義を掘り下
げやすい面があるような気がします。

それだけに、個々の感情的な面を棚上げにして、それぞれの信心についてお話し合いができ
れば、ここの掲示板の価値も、ますます高まるような気がいたします。

この世の中には、宗教を否定する見解や、奇妙なスピリチュアルな物の見方などを含めて、
多種多様な情報があふれかえっています。このような世の中に、聞きっぱなしの人間が
ただ一人放り込まれると、どうしても道を逸れていってしまうことは、ある程度止むを
得ないことのように思えます。

そのようなことを恐れるがために、「同行には近づけ」という戒めがあるのだと思います。
同行同士が集まることによって、世の多様な情報の洪水に対抗できるだけの、圧倒的な
同行としての情報が、“弥陀の法水”として、そこに流れるのだと思います。

私自身、同行様から一人離れて、この世で暮らしていますと、やはり、どうしても他力
念仏の行者としての自覚も薄らいで、そこに別の考え方が入り込みそうになったことも
多々ありました。

ただ、そのような状態であっても、消し炭のなかに辛うじて残った火種のようなものが、
細々とつながり、そのような意識が、なんとなく「南無阿弥陀仏のすがた」などという
キーワードでネット検索をすること思い立たせて、同行様の集まる類まれなこの掲示板を
発見するに至ったのです。

その結果、今では教行信証の学習を公開しようなどという大それたことを思い立ち、
忍草様をはじめとする皆様の暖かい励ましもあって、何とかこれまで続けられている
ことは、とてもありがたいことだと、皆さまに感謝しております。(そもそも、この
「後念相続」のスレッドは、教行信証の学習の書き込みがストップしたことを心配
して忍草様が立ててくださったということを、私は忘れておりません。)

ところで、教行信証の学習を「信巻」まで続けてきて、最近ひとつ気づいたことは、
親鸞聖人は、「信」を「心の働き」としてもとらえているということです。
「何をいまさら」と思う方もおられると思いますが、わたしは、これまで「行」も
「信」も「体の働き」としてとらえていたのです。

「よく信ずるすがた」という言葉がありますから、たしかに「信」は「体の働き」という
側面もあると思うのですが、「心の働き」つまり「感情」という側面を無視すべきでは
ないということを強く感じました。

「理性」とか「理念」とか「論理」ということも大事なのですが、それと同等に「感情」
つまり「心の働き」というものを、仏法でも、この世でも、自分のなかでもっとクローズ
アップして生活していく必要があるのではないかと思った次第です。

信心の上でも、社会生活の上でも、私は「感情=心の働き」というものを軽視する傾向に
あったのではないかと、反省しております。

また同時に、「体の働き」から「心の働き」まで串刺しに、体系的に解明している当流の
体系を前にして、感慨を新たにしております。こんなことに今さら気が付く私の愚かさも
さることながら、あらためて“我らが仏法”の持つ強靭さというものを思い知らされて、
とてもワクワクした気分です。

やや世俗的ではありますが、生活のすべてのなかに仏法の視点を持ち込むこともまた、
「後念相続」と言えるのではないかと、強引な解釈をしております。

南无阿彌陀佛

●re.6
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 2404 ] Re6:後念相続 3 2011/02/25 (Fri) 23:39 △up ▽down
ボン様。

お久し振りで御座います。 極道坊主であります。
年末よりこのサイトに書き込む事を離れ、もう既に春分も近づこうとしています。
日にちとしては、1〜2ヶ月の短いような時間ですが、日一日と色々な出来事が有り、色々と体験させられ、色々な思いを味わい育てられるのだと感じます。


年末に書き込みを拝見しました。 ボン様のお書きになった[ 2340 ]の内容が、どうも自身の中に引っ掛かり、シックリ行かず暫くの間考えて居りました。 

何にそんなに引っかかるのだろう? 考えが纏まらずスッキリしませんでした。

自身も、ボン様の仰る事が充分過ぎる程頷けます。 殊に「この世のことなどどうでも良い」という感覚になるというところは、今でもそう思うことがあります。

そういう思いをして来ましたし、自分自身の情け無さ、人間としての未熟さ、非道さ、残酷さにツクヅク愛想が尽き、また、同じ様な種類の人間の済む現世を見て嫌になっていた時期が有りましたから!

ですから、おっしゃる事に頷けるのですが、なんとなくシックリと行かず、思いの中に霧がかかったと言いますか、靄がかかったと言いますか?ハッキリとしない物が有って、悶々としていました。

多分その時は心持ち?味わいとして「んっ!なにか違う。」という思いが上がったままだったのだと思います。 それは、なんだったんでしょうか?

ボン様は次の様に仰って居られます。

>仏の智慧は、不可称、不可説、不可思議といって、人知の及ばない、想像を絶するものであるとされます。それに比較するならば、この世のどんな素晴らしい智恵も、どんな人格者も、どんな感動的なできごとも、とるに足らないものと感じてしまいますが、はたしてそんな感覚でよいのか、という疑問があります。

また、それに付け加えて次のようにも述べられます。

>しかし、斎藤ひとりの智恵も、松田勇作の覚悟も、不可称、不可説、不可思議の仏智からみれば、比較のしようもないほど、ちっぽけなものになってしまいます。はたして、そういう考え方でよいのでしょうか。

この部分を、何度も繰り返し読ませて貰いました。 そして感じたことなのですが、ボン様は佛と凡夫を対比してお考えなのではないでしょうか?

「比較」という言葉が、どちらの文章にもある。

確かに、この世は相対の世界でありまして、自分自身の存在も何かと比較、対称を持つ事で自身の位置を計ろうとします。 この考えは、どの人にも当て嵌り、どの人も例外なく其の様にしていると考えます。 その思考から外れることは、至難なのかもしれません。

ただ、上記のお話も其の様に考える、受け取る?理解する?事なのでしょうか? 佛樣を仰ぐ者としてその様に頂くんでしょうか?

もし、このような理解で教えを頂くならば、私の様な常没の凡愚は将来的に於いても浮かばれる事はないように思います。 何時まで経っても安心が行かない様に感じる。

どんな賢人も、偉大なる学者も、その道に精通した上達者も、凡夫であることには変わりませんから、彼らの言葉、行動、教訓、訓示等は総て虚しいことになる。 そんな事は無いでしょう?

もしそうであるならば、例えば佛ヘ以外の教祖、孔子や老子も同等にはなりませんか? いや、それは極論だ!と反論頂いても、「そうかもしれませんねぇ〜。」と素直に頷く事にはなりませんよ。

自身が思わされるには、以下の様に思われます。 「佛が斎藤ひとりさんに現れ佛の智慧の一端を示され、また、松田優作と現れて俳優としてのプロ根性、物事に対しての取り組み方の覚悟を示された。」 どちらも、佛智の一端を人間の姿を借りて顕現され、示されたと頂きます。 所謂、ご化身と申されるものと感じます。 此の様な味わい方は如何でしょうか?

浄土教を聞かされると「厭世」的に成ることは否めません。 しかし、そこに留まる様な教えではないようにも感じます。 殊に親鸞聖人の残された教えに限っては、自分は強く思います。 もし、そこに留まって居る様であるならば、今一歩の何かが足りないのではないでしょうか?

聖人様の残して下さった教えは、生かされている今、「今」に安心の行かない教えではありません。 「今、今を喜んで行ける。」そういう教えだと味わっています。

不可称、不可説、不可思議の佛智は、自身の計り知れない現れ方をして、十方衆生を救うのです。 自分如きの考えの及ぶ世界ではない。 其の様な事を気にする段階では無いのではないでしょうか?

ボン様、少々荒い申し方をするかもしれませんが、お赦し下さい。

>不可称、不可説、不可思議の仏智を基準としてものを考えてよいのでしょうか。不可称、不可説、不可思議なら、それを基準としてはいけないのではないか、という疑問が沸いてきます

本当に上記の事をお思いでしたら、まだ佛に対しての疑念が払拭されていません。 故に他力の信心は貴方様に届いたかもしれませんが、まだ貴方にそれが沁みて入ってはいないのではないでしょうか? 本当に届いたならば喜べます。 「いや、それは、じわじわと来るのでは?」 そんな事は無いと思います。

「どの様な喜び方ですか?」と問われても喩えようがありませんが、敢えて言わして貰うならば、腹底を流れる血を沸々とさせ、込み上げる様な物を感じました。(過去形ですし、表現に個人差があると思いますが。)

地獄に堕ちるべき者(この自分)、そこにしか行けない自分の矛先を変えられるのです。 それが知らされた瞬間ですのに、「じわじわ。」で有るはずがない。 そうは思いませんか?(すみません。押し付けではありません。)

私達、念佛行者は、不可称、不可説、不可思議の佛智を基準としていいのです。 この他に基準になろうべきものが何処にありますか? これ以外を基準として佛弟子と言えますか?

この事がはっきりと知らされましたら、この世に有りながら、この世のものに合掌、礼拝して生きていけると思います。 心持ちとしては「心は浄土に遊ぶなり。」です。 下記のような思いには至らないと思いますよ。

>ただし、そのことが、この世の素晴らしいもの、美しいもの、感動的なものを、とるに足らないちっぽけなものと受け止めることにつながらないように注意したいと思っています。たぶん、しばらくは、今生限りとなるであろうこの世を、素晴らしいものは素晴らしいと認めて、力いっぱい堪能して生きて行きたいと思ってます。


今、自身の中に「今迄覚えて来た事を、少しづつでもいいから捨ててしまおう。」という思いが起こってきています。 「なんとなく、御念佛だけでいいかなぁ〜!」なんて感じるのです。 「そんなもん、なむあみだぶつの付随じゃないか?」なんて。

生活の中、総てが御念佛。 ボン様は、以下の様に申されて居られます。

>やや世俗的ではありますが、生活のすべてのなかに仏法の視点を持ち込むこともまた、「後念相続」と言えるのではないかと、強引な解釈をしております。

「佛法の視点を持ち込む。」 常に佛の観点より世間を観る。 そういった生活をして行きたいなぁ〜と思い、そうなれるよう佛と共に進ませて貰っています。

「常に法に生きよ、人間を相手に生きるな。」と先師は申されました。 「法を基準とし、凡夫の都合を相手にしない。 しかし、その人の姿に現れるご縁を佛智と仰いでいきなさい。」と申されて居られるのでしょう。 今は、其の様に味合わさせて貰っています。

厳しい言葉遣い、また、内容になったかもしれません。 決して、お心持ちを非難している訳ではありません。(すみません、適切な言葉が見当たらない。)

でも、上記の様な頂かれ方では、本当に勿体無い。 そう思います。

佛と凡夫は、対称的ではありますが、対比されるばかりではなく、凡夫は佛に包含されると感じています。

ご意見御座いましたら、お聞かせください。    合掌

●re.7
ボン
東京の男性
[ 2405 ] Re7:後念相続 3 2011/02/26 (Sat) 04:24 △up ▽down
極道坊主さま、こんばんは。

どうもありがとうございます。
私の愚かしいたわ言を、真剣に読んでいただき、心から感謝申し上げます。

極道坊主さまを悩ませた[ 2340 ]の私の書き込みは、とても混乱していると、自分でも
思います。お恥ずかしい限りですが、そのときはそう書かざるをえない心境でした。
どこか矛盾した内容なのですが、自分の狭い感性から抜け出せないと、ああいう書き込み
になってしまうのだと思います。

「佛と凡夫を対比」しようとしているという極道坊主さまのご指摘は、おそらく、核心を
突いているのだと思います。「そうかあ、対比しちゃあいけないんだあ」と素直に思います。

「仏智を基準としてものを考えていいのか」というやや過激な発言も、自分の心境をうま
く表現できなかったのだと気づきます。「仏智を基準として」を「仏智と対比して」に
置き換えればよかったわけです。

極道坊主さまのご指摘をいただき、とてもすっきりしました。ありがとうございます。

>本当に上記の事をお思いでしたら、まだ佛に対しての疑念が払拭されていません。 
>故に他力の信心は貴方様に届いたかもしれませんが、まだ貴方にそれが沁みて入っては
>いないのではないでしょうか? 本当に届いたならば喜べます。

このご指摘も、まったくおっしゃるとおりです。他力の信心は私に届いたかもしれません
が、まだ沁みて入ってはいないのです。ですから、心から喜んではいないのです。

対比しちゃあいけないとは解ったものの、「心は浄土に遊ぶなり。」という心境には
私自身、程遠いのです。「今迄覚えて来た事を、少しづつでもいいから捨ててしまおう。」
いやあ、すごいなあ、と思います。私など及びもつきません。

ただ、最近、おぼろげながら考えていることがあります。
以前、この掲示板で「精進」ということが盛んに取りざたされていたことがありました。
今でも「精進しなければならない」という考え方には馴染めませんが、仏の目から見たら
現にこうやって生きていること自体が精進・修行と見えるかもしれないとは思うのです。

で、その場合の「精進」って何だろう。どこからどこに向かって「精進」または「修行」
しているのだろうなどと考えるわけです。

私たちは、オギャーと生まれてからこのかた、この浮世の荒波を泳ぎまわっているうちに、
様々なヨロイを知らず知らずに身につけてきているのではないかと思います。いろいろな
外敵から身を守ろうとして、いつのまにか皮膚が角質化して、アルマジロのようなヨロイ
を身につけてきたのではないか、と思うのです。

しかし、このヨロイは、一種の軽い地獄であるこの世を生き抜くためには役立つものかも
しれませんが、本当に自分を助けるためにはならない代物かもしれません。

そして、仏法に出会いました。自分の力ではどうにもならないから、すべておまかせしま
すから、なんとか助けてくださいとお願いしたわけです。そして、赤子のような気持ちに
なったはずです。

しかし、長年をかけて体に染み付いたアルマジロのようなヨロイは、そう簡単にとれま
せん。ヨロイを着たまま、赤子になったつもりの滑稽なアルマジロです。そのヨロイは、
もしかしたら、死ぬまでとれないかもしれません。とれないかもしれないけど、一枚ずつ
はがしていくことが「精進」または「修行」と言ってもいいかもしれない、と思っている
のです。

はがしていくのではなく、はがれていくのかもしれません。仏さんが、はがしてくれるの
かもしれません。法に出会うまでは、日ごとにヨロイが厚くなり、出会ったあとは、日ご
とにヨロイが薄くなるのではないかと。

つまり、だんだんと余計な浅知恵を棄てていくのだと思います。言い方を変えれば、だん
だんと赤子のようになっていくのではないか、と思います。

おかしなことを言っているかもしれませんが、現在の私のせいいっぱの表現です。
また、極道坊主さまを悩ませてしまうかも知れませんね。

南无阿彌陀佛

●re.8
菩提心
北陸の女性
[ 2412 ] Re8:後念相続 3 2011/03/01 (Tue) 12:41 △up ▽down
ボン様、酒天童子様、そしてご覧頂いている皆様へ


月初めということで、書き込みします。

その節は、御心配頂き有難うございました。

やはり予想していた通り、3月31日を以て、今の職場を辞めることにしました。

辞める動機は色々と有ったのですが、今振り返ると「成るように成っていた」と思います。

それは味わいの場所でおいおい書いていけたら嬉しいと思います。

仕事という執着から解放されました。

ずっとギューと握っていたものを手放したという感覚。

今は有給休暇を消化しながら、この1カ月を過ごそうと思います。

去年の「大失敗」と思っていたのが、実はここに来るまでの道しるべだったのです。

ちょっとした偶然の積み重ね。

でも、これを「シンクロ二シティー」とも云うらしいですね。


ずっと思っていたんです。

どうして阿弥陀仏は、私達の代りに御苦労されたのだろう?って。

そして私は今このように感じています。

やはり阿弥陀様は、苦労している私をちっとも喜んでいない。

楽しんでいる私を一緒に喜んで下っておられる。

そう思えたら、もう毎日が感謝です。

今までの嫌な感情がどんどん変化していきます。

あ、この人のお陰だった。あ、あの人のお陰だった。

とても不思議な感情です。

そういう日々の積み重ね。

過去でもなく、未来でもなく、今日の一日を充実して生きられる幸せ。

御念相続とはこういうことだと思いました。

南无阿彌陀佛

●re.9
ボン
東京の男性
[ 2413 ] Re9:後念相続 3 2011/03/05 (Sat) 17:49 △up ▽down
菩提心さま、こんばんは

心機一転ですね。何か思い切った決断をしたあとは、もやもやした霧が晴れ渡り、
青空がパーッと広がるような思いがするものですよね。

古いものを捨てると、そこに新しいものが入ってくるのだそうです。逆に言えば、
古いものを捨てないかぎり、新しいものは入ってこないということになります。

流れる水は腐らない、といいます。
変化するということは、決して悪いことではないと思います。

世俗的な話ばかりですみませんが、きっとなにかいいことが
起こるにちがいありません。

素晴らしい転機になることを祈っております。

南无阿彌陀佛

●re.10
酒天童子
関東の男性
[ 2414 ] Re10:後念相続 3 2011/03/06 (Sun) 22:47 △up ▽down
菩提心様

酒天童子です。

いままでいろいろなやりとりをさせていただいてきましたが、菩提心様の状況は本当のところは何もわかっていません。

それでも、こんなとき、どんな言葉をかけたらよいのでしょうか?

私には自分のことを話すしかできないみたいです。

わたしもかつて事業に行き詰まり、にっちもさっちもいかなくなって、その上さらにいわゆる泣きっ面に蜂的な出来事が重なって身の置き場がない状態になったことがありました。

何日も何日も「どうしてこんなことになってしまったんだろう」後悔してばかりいました。

翌朝目が覚めたらすべて夢であったらどんなに良いだろう、なんどもそう思ったものです。

あがいても、もがいても、あるいは開き直っても状況は変わりません。

そんな状態が続きます。

もう、だめだ、もうすべて嫌だ、もう、なにもかも投げ出したい、逃げたい、そういう思いばっかりが強くなっていきました。

そうこうしているうち、状況は何も変わらないのにある日ある時、不思議なことにふと、いままで自分では気がつかなかった、何か力が湧いてくるのを感じたのです。

もう、疲れきっていてそんな力は残っていないはずなのに、どこからかなにか説明できないけれど、確かな力が私を奮い立たせたのです。

その後も紆余曲折をえながらも、どうにかこうにか、何とかなったということが過去にありました。


結局、私はそのことによって「得られないという」ことと「手放すということ」を少しだけ学ぶことができて、ちょっとだけ成長できたと感じています。


人は皆、誕生の時、虚空を掴んで生まれてくるといいます。

生まれおちた瞬間から、私たちは何かを求め、得ようとして生きてゆきます。

何を求め、何を得ようとしているのか、何を求めるべきで、何を得られれば良いのか、はっきりとは分からなくても、追い求めます。

そうして得られないことに気づかされるのです。

「求不得苦」

仏教でも、そう教えています。

でも、その苦しみから離れることは残念ながら私たち凡夫には生きている間はできないのかもしれません。

私たちはしがみ付くことには慣れていても、手放すことには慣れていないのでしょう。

一体どうしてこんなにまでして、しがみついているのか、実は自分自身でもよくわかっていなかったりもします。

もしかしたら、ただ手放すのが不安なだけかもしれません。

私たちが手放すときは、結局手放さざるを得ないときなのかもしれません。

一生懸命しがみついていたけれども、いろいろな状況から諦めて手放さざるを得ないときに私たちは初めて、何かを手放すことを受け入れるのでしょう。

そうして、しがみつくのをやめて手放したときに、「気づき」という別の何かを得ることになるのだと思います。

求めても得られないこの娑婆で、もし得難いものを得たとすれば、そうしてそれをよろこぶことができれば、それでもう、吉(よし)なのでしょう。

南无阿彌陀佛

●re.11
菩提心
北陸の女性
[ 2421 ] Re11:後念相続 3 2011/03/08 (Tue) 14:08 △up ▽down
ボン様  酒天童子様

御返信有難うございました。


最後の六県ブロック会議が三重県で有りました。

愛知県以外の女性5人で、もう1泊しました。

会議の時に利用する旅館でしたが、料理もおいしく、湯もなめらかでとても楽しく、
翌日は、伊勢神宮、二見浦を見学出来ました。

岐阜県の事務局は、退職勧告を受けたそうです。
パートでもいいからとお願いしたそうですが、ダメだったみたいです。

私は自分から決断しました。

みんなから、一番若い(60歳でも一番若いんです)私が辞めるのでビックリされました。

しかし、今日それぞれの方と電話で話しましたが、とても皆さん喜ばれていました。

どこかでスパって決断すると、本当にすっきりするんですね。

何を今までこんなに辛かったのだろう。

でも、今までの辛さが有ったからなんだろうな・・・・。

やはり比較してみると分かるみたいです。


電車で通う周りの人から、

やっと本来の貴方の笑顔が戻ったねと、声を掛けて頂きます。

とても有難いことだと思います。

今は仏教っていうよりも、生きているって云う事だけで、

「人間ってとても幸せなんだ」と思えるようになってきています。

そんな幸せなちょっとした思いを書いていけたら嬉しいですね。

それには、もう少し自分自身の心の変化を楽しみたいと思います。

ボン様、酒天童子様

本当に見ず知らずの私に声掛けて下さいまして有難うございました。

決して、今生だけのご縁では無いと思っていますので、とても楽しいです。


南无阿彌陀佛

●re.12
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 2436 ] Re12:後念相続 3 2011/03/20 (Sun) 21:22 △up ▽down
ボン様。

また暫く間を開けてしまいました。 申し訳ありません。
先のご返答に対して、今一つ誤解が有る様に感じましたので、自分の味わいをもう少し書かせて戴こうと思います。

>「佛と凡夫を対比」しようとしているという極道坊主さまのご指摘は、おそらく、核心を突いているのだと思います。「そうかあ、対比しちゃあいけないんだあ」と素直に思います。

自分はボン様に「対比してはいけない。」と申し上げているのではありません。

対比するものが無ければ、どのようにして自分を知ることができるのでしょうか? しかも、その対象となるものは、ちょっとした事で揺れ動くような不完全なものであっては困ると思います。 基準となるものがあやふやではいかんのです。

自分を知らされる為には、それを写し出す対象となるものが必要です。 その対象となるのは「佛」であって欲しいと思います。 


「佛の光明に照らされる。」事で自分の自性が知らされます。 という事は佛と凡夫が対比しているという事です。 その比較対象となるものは、時として人として現れる。 それを「対合佛」と戴きます。

「人の振り見て我が振り直せ。」というのはそういう事の譬なのではないかと思います。

という事で、「対比してはいけない。」というのではないのです。

人は得てして、この度の様な「対比してはいませんか?」等と問われたとします。 この度は対比することで問題が生じていますので、この様な時は「あぁ〜、対比してはいけないんだ。」と受け取ります。 
それは、正しいものの見方ではありません。

「〜〜でなければ、その逆を取る。」という行為。 それを「邪見」といいます。 有りの儘に物事を見てはいないのです。


アルマジロの譬、いいですね。 自分を護る為に、色々な経験を、知識として身に纏います。 それが鎧なのでしょうね。

それらを一枚、一枚剥していく事、それが「精進」という事でしょうか? それを佛様がなさる、そういう事ですね。

私としましては、アルマジロはアルマジロの儘で良いのではないかと思うのです。 付いてしまった経験や知識も有るが儘、そのままで救う。 それが阿弥陀という佛様の誓いだと思うのです。

前回、「身に付けた知識を捨てて行こうと思う。」と申しました。 今回の意見と矛盾する処があります。 それでもいいのだと思います。

その時も、自分自身の本当の思い。 今現在も、考えているのは自分ですから本当の思い。 どちらの思いも、自身の思いですから本当の思い。 所詮、凡夫の言い分なのです。 矛盾が有って然りです。 矛盾が有りながら、その儘で救われる教えなのでしょう。

分かり辛い話の内容だったかもしれませんね。 申し訳ありません。

もし、腑に落ちない事があれば言うて下さい。   合掌

●re.13
ボン
東京の男性
[ 2437 ] Re13:後念相続 3 2011/03/23 (Wed) 03:31 △up ▽down
極道坊主さま、皆さま、こんばんは。

今回の大震災と原発事故は、私の仕事にも少なからぬ影響をあたえました。
多くの取引先の方々が被災し、みな生存の確認は取れたものの、仕事を失いました。
原発事故は、依然として放射性物質を撒き散らしながらも、やっと収束の方向に向かいつ
つありますが、悪いほうのシナリオが否定しきれない日々が続きました。

何気ない日々の生活が、いかに危うい基盤のうえに成り立っていたのかということを思い
知らされました。また、ほんの短い時間のあいだに、世間の空気がガラッと変わってしま
うという現実も体験しました。

そうしたなかでも、被災地の方々の驚くほど冷静で秩序正しい態度、救援隊のわが身を
省みない献身、そして、世界各国からの共感、これらの現実にふれて、思わず涙を落とし
そうになることもしばしばでした。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5696
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5688
http://www.youtube.com/watch?v=F1lhwSTqe-Y&feature=youtu.be (韓国発)

この世には、やはり、人を感動させるような美しいものがたくさんある、と思わずにいら
れません。以前、松田勇作の例を引き合いに出しましたが、「自分よりもっと大変な人が
いる」というおばあちゃん、自ら被災しながらもボランティアとして駆けずり回る高校生、
使命感に燃える自衛隊員や消防士、遠い国の出来事を我が事のように心をよせる外国の
人たち、彼らすべてがみな美しいと私には思えます。

しかし、彼らがどんなに美しくても、この法に出会わない限り迷いの連鎖から抜け出すこ
とができない、というのがこの御一流の教えです。そう考えると、何かすべてが虚しいよ
うに思えてくるのです。

これらの人々の美しさもまた、仏智の一端が人間の姿を借りて現れたと受け止めることも
確かにできます。しかし、仏智の一端が現れた人々が救われるわけではありません。これ
が、私のなかでひとつのジレンマとなって、私のこころを霧のように覆っているのです。

最近は、「彼らが救われない」と思う自分がおかしいのかなと思うようになっています。
それは、何か自分が一段高いところに立って“上から目線”で世の中を見ているような気
がするからです。

仏の目から見れば、確かにそうです。しかし、仏の目線で世の中を見てはいけないと思う
のです。「住不退転」にしてもらったとは言っても「煩悩具足の凡夫」です。私よりも
美しい彼らから、私はまだまだ多くのことを学ばなければならないのだと思います。

「ああ、比較してはいけないんだ」と思ったのはそういう意味です。極道坊主さまに、
仏と凡夫を対比しているのではないかといわれて、ハッと思いました。邪見かどうかは
わかりませんが、そう思わないと自分のなかですっきりとしないのです。

私は、この世にあとどのくらいいるのかわかりませんが、まだ死んだわけではありません。
まだまだ、この世の泥にまみれて生きていかなければならないでしょう。泥の中に咲いた
美しい花を美しいと感じながら生きていきたいと思います。そうでなければ救われた気が
しません。

私の考えていることは、この御一流からずれているのでしょうか。
どなたか、教えてください。

南无阿彌陀佛

●re.14 admin 
毎日
非公開の非公開
[ 2438 ] Re14:後念相続 3 2011/03/23 (Wed) 03:49 △up ▽down
ボン様

私は、いずれ、すべての生命は、阿弥陀様に救われると思っています。

人は、その過程で、仏智の一端を表すこともあれば、悪事を為す(ように見える)こともあると思います。

しかし、そうしていながらも、いずれは、すべて弥陀が救ってくださる、そう思っています。

本願成就をよろこび、弥陀のはたらきをよろこび、感謝する。

人知をはるかに超えた大きな流れを、ただただありがたいと思います。

もちろん、「ありがたいと思う」とは言っても、その流れの存在をしっかり認識できるわけではなく、素朴に「そう感じる」という程度のものです。

ですから、「ありがたいと思えるように、思うようにしている」という側面もあると思います。

しかし、それがありがたいです。

すべて、救いに至る径なのですから、考えようによっては、すべて、美しいと捉えることもできるのではと思います。

もちろん、このような視点は、古来から言われていますように、「すべて美しい」と言っても、あえて悪事をはたらくのを勧めるわけではないのは、論を待ちません。

そして、泥の中に咲いた美しい花は、やはり美しいのだと思います。

少しでも、仏法にのっとった行為は、やはり光であると思います。

南无阿彌陀佛

●re.15
ボン
東京の男性
[ 2439 ] Re15:後念相続 3 2011/03/25 (Fri) 09:48 △up ▽down
毎日さま、皆さま、こんばんは。

ご示唆をいただき、ありがとうございます。

私も、いずれ、すべての生命は、阿弥陀様に救われる、と教わりました。しかし、それは、
海の水をヒシャクで一杯ずつすくっていけば、いつかは海の底が現れるといったような、
想像を絶する気の長い作業の末にもたらされるものだともうかがいました。有縁を頼りに
ひとりひとり救っていくのですから、当然、そういうことになります。

また、そうしている1分1秒の間にも、おびただしい数の生命が、自ら作る罪によって
“雨恒沙のごとく”しかるべくところに堕ちていくのだとも聞いています。いずれは救わ
れる生命ではあっても、救われる法のある世界に浮かび上がってくるまでには、気の遠く
なるような歴劫の苦しみにを経なければならないのだそうです。そして、やっとの思いで
この世に浮かび上がってきても、善智識に遭って法を聞くのは“難中の難”だといいます。

そう考えてみると、いずれは救われるとは言っても「なんだかなぁ」という割り切れない
ような思いも断ち切れないわけです。ここのところを、どうクリアして考えていったらよ
いのでしょうか。また、まわりに感動を与えるような“美しい”人々は、それだけ仏法に
近づいているのでしょうか。どなたでも教えていただけませんでしょうか。

どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.16
毎日
非公開の非公開
[ 2444 ] Re16:後念相続 3 2011/03/28 (Mon) 07:07 △up ▽down
ボン様

>ここのところを、どうクリアして考えていったらよいのでしょうか。

私にとっても、クリアではありません。弥陀にお任せするよりなく、名号をおとなえするばかりです。

(だからこそ、折に触れ、おとなえしているとも言えます。)

自分が救われるとして、それでも、歴劫の苦しみを経てゆく姿は、自らの過去の姿です。関係のない話ではありません。

しかし、今の私に直接できることは、あまりありません。

直接できると思えることがあれば、致します。しかし、そうでない場合も、「名号をおとなえする」という選択肢があることで、常に、「なにかしらできる」ということが、ありがたいと思っております。


>また、まわりに感動を与えるような“美しい”人々は、それだけ仏法に近づいているのでしょうか。どなたでも教えていただけませんでしょうか。

これも、人知ではわからないことだと思います。そして同時に、とても大きな視点から見れば、救いに近づいているはずであり(そのように信じ)、この意味では、誰もが仏法に近づきつつあるのだと思います。

「教える」という程のことは申し上げることできず、あくまでも、今の私が感じることです。

南无阿彌陀佛

●re.17
ボン
東京の男性
[ 2445 ] Re17:後念相続 3 2011/04/03 (Sun) 17:52 △up ▽down
毎日さま、皆さま、こんにちは。

これまで体験したことのないこの世の危機に直面して、ことさら美しいものに目を向けよ
うとしてきた自分を感じます。無意識に、美談を求めていたかのかもしれません。

しかし、現実はひどいものです。マスコミの映像は見ることができても、そこに漂う死臭、
ヘドロや腐臭や下水の臭いなどの説明はありません。正視に堪えないほどに傷んだ遺体も
公共の放送では流されません。さながら、“この世の地獄”だという人もいるようです。
物陰で嘔吐する自衛隊員や消防士の映像もながされません。援助の届かない地域の人心は
すさみ、窃盗・略奪も起きているようです。

やはり、これがこの世の現実なのでしょう。だからこそ、このような泥沼に咲いた白い花
を美しいと感じます。しかし、それらすべてを含めて、移ろいやすい無常なのでしょう。
無常ではあるのですが、こうした泥塗れの世の中も、そこに咲く美しい花も、すべて私が
今生きているこの世の現実です。そこのすべての事象にシンパシーを感じます。

それは、無常だから仮の現実かもしれません。ひょっとしたら夢のようなものかもしれま
せん。しかし、私はそこにどっぷり浸かって生きていこうと思います。私はおそらく生臭
い人間なのでしょう。とても「心は浄土に遊ぶ」といった心境にはなれません。

不確かかもしれないこの世の現実を泳ぎまわった末に、ふと目が覚めたらそこは浄土だっ
た、というハッピーエンドを期待しつつも、それを心の底に深くしまい込んで、残された
この世を生きていこうと思います。もう、これが最後なのだから(自分で戻ってこようと
しないかぎりは・・・)

生きとし生けるものはみな仏性があるといいます。この世の美しいものは仏性の発露かも
しれません。この世の泥沼のなかで小さな美しい花を咲かせることは、あの世で大輪の花
を咲かせるよりはるかに難しいかもしれません。仏は、そこから何かを学べ、と言ってい
るのかもしれません。

もしそうだとしたら、念仏一行のものにとって、この世にどっぷり浸かって力いっぱい生
きることが、来たるときに仏として生まれるために示されたレール(白い道)なのではな
いのだろうか、と感じております。

何か大きな勘違いをしているのではないかという不安を感じつつも、とりあえず、これが、
自分が自分に与えた回答です。同時に、仏典を読みながら、皆様のお考えも聞きながら、
これを検証していきたいと思っております。

南无阿彌陀佛



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