浄土真宗の教義について

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●No.142
菩提心
非公開の非公開
[ 1999 ] 後念相続 2 2010/07/22 (Thu) 15:10 △up ▽down
後念相続  100達成!!

新しくスレッド上げますね。


忍草様

私は至って単純な思考を持っておりまして、蓮如上人は親鸞聖人の再来ということを信じているのです。

その蓮如上人が、末法の私達の為に御文を残された。

御一代記聞書(188)

「聖人の御流はたのむ一念の所肝要なり、故に「たのむ」といふことをば代々遊しおかれ候へども委(くわ)しく何とたのめといふ事を知らざりき、然れば前々住上人の御代に『御文』を御作り候うて「雑行を捨てて後生助けたまへと一心に彌陀をたのめ」と明らかに知らせられ候、然れば御再興の上人にて在しますものなり」

そして100回読んで見て下さいとの書き込みを信じ、その書き込みから今こうして忍草様達とも、後念相続のお話で盛り上がっています。

とても有難いことだと思っています。


その御文を

御一代記聞書(124)

「御文は如来の直説なり」と存ずべきの由に候
「形をみれば法然、詞を聞けば彌陀の直説」といへり

又、(177)

「御文はこれ凡夫往生の鏡なり  
御文の上に法門あるべき様に思ふ人あり、大いなる誤りなり」云々

又、(276)

「・・・常に御文を一人なりとも来らん人にも読ませて聞かせば有縁の人は信をとるべし。この間面白き事を思案し出したる」とくれぐれ仰せられ候。
さて御文肝要の御事といよいよ知られ候ふとの事仰せられ候なり」

そして(268)

「・・・梅干の事をいへば、皆人の口一同に酸し、一味の安心は斯様にあるべきなり」
「同一念佛無別道故」の心にて候ひつるやうに覚え候ふと云々


更に御同行になればこんな嬉しいこともあります。
一文不知の尼入道でも、佛の加備力がつくのですね。

(95)

「自信教人信の道理也」と仰せられ候ふ事
「聖教よみの佛法を申したてたる事はなく候 尼入道のたぐひの「たふとやありがたや」と申され候ふを聞きては人が信をとる」と前々住上人仰せられ候ふ由に候
何も知らねども、佛の加備力の故に、尼入道などの喜ばるるを聞きては、人も信をとるなり
聖教をよめども名聞が先にたちて心には法なき故に人の信用なきなり」

(256)

「前々住上人仰せられ候「佛法者には法の威力にて成るなり、威力でなくば成るべからず」と仰せられ候
「されば佛法をば学匠・物知は言ひたてず、ただ一文不知の身も信ある人は佛智を加へらるる故に佛力にて候間人が信をとるなり、此の故に聖教よみとて、併も我はと思はん人の佛法を言ひたてる事なし」と仰せられ候ふ事に候、ただ何知らねども信心定得の人は佛より言はせらるる間人が信をとる」との仰せに候

南无阿彌陀佛

●re.1
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2003 ] Re1:後念相続 2 2010/07/23 (Fri) 19:57 △up ▽down
    毎日樣     
つね日ごろ、この掲示板を利用させていただき有難うございます。

私は教義の書き込みのところでも毎日樣とは論争する気持ちはありませんと記しました。
その理由も書きました。

毎日樣指摘の菩提心さまへの様の字の件ですが、これは完全な遊び心の皮肉です。
何故かと申しますと、〔1995〕をお読み頂ければ私のいわんとする事もおわかり
いただけるのではないでしょうか?。
〔1994〕に対して書き込みしたのです。その理由は
「そこは違うよと思えば、検証されたらよいと思います」と書かれた事に対しての
〔1995〕です。
ご自分が検証した上で検証を求めるのならば理解もできますが、引用箇所を示したから
といって「検証されたらよいと思います」はないと思います。
理由もキチンと書いたはずです。

皆様がどのように受け取られるかそれは各自のご自由です。
私は祖師聖人の『教行信證』を少しでも理解を深めて死後「極樂淨土」へ旅たちたいと
思っている煩悩だらけの人間です。
ボン樣との会話の中でも意見の違いはあっても、お互いいつかはわかってもらえることを
期待しているのだと思っています。(同じ六要鈔を紐解いているからかも知れませんが)

皆様夫々だと思います。極道坊主樣とも生き方捉え方も違うかも知れませんが、それでも
私が書き込みを読ませて頂くには立派な信心成就の方と見受けられます。

毎日樣も以前の書き込みから見れば、大変変化されたように受け取れます。
でもそれはあくまでも私の個人的見解でしかありませんが。

教義の過去ログを読み返したら菩提心さまにも以前永さまも使っていました。

   
    ボン樣 皆様方へ(特に菩提心さま)
又、以前、泥凡夫樣も菩薩に関して、教義〔856〕で
「機より申せば凡夫、法より申せば菩薩」とお書き込みです。
證巻の還相廻向の箇所も、我々凡夫であっても佛体側(法)からは菩薩とキチンと
理解されてお読みになれば、又理解の仕方も違ってくるのではないでしょうか。

昨日一日かかっても何も書けませんでした。
で、過去ログでも読もうと思って読んでいました。
    合掌 ナムアミダブツ 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.2
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 2007 ] Re2:後念相続 2 2010/07/24 (Sat) 03:32 △up ▽down
皆様

ご無沙汰しております。 極道坊主であります。

書き込みに活気が溢れて居るように感じます。 勿体無い限りですね。

忍草様

>「極道坊主樣は出来るだけご自身の言葉で述べていますね。
>信成就して、蓮師の云う「骨髄に徹った」方の書き込みと見えます。」

>皆様夫々だと思います。極道坊主樣とも生き方捉え方も違うかも知れませんが、それでも
>私が書き込みを読ませて頂くには立派な信心成就の方と見受けられます。

上記の如きお褒めの言葉の数々、自身には勿体無い限りです。

『自身の言葉で語れる。』という事は、租借していなければ出来ないという事です。(租借しているかどうかは疑問です。) というよりも、こんな自身に届いて下さる法側に智慧と慈悲のお心が充満しているのでしょう。

信心に至っては、佛よりの御廻向に依りまして知らされた自身の心と、遥か昔に『救わずには居られん。』とお誓い下さり、願いを成就されました佛とが一緒になって下さっていますから、佛凡一体と感じているところです。

『信念冥合の機法一体を感得させて貰った。』という思いがありますから、『平生業成 住不退転』を地で行かせて貰っていると思っています。

其れも、此れも自身の方から起こすものは一つとして無かったのですが(後になって気が付くことですけど)、その深いであろう心持まで育てて下さった先師のご苦労と如来様の願いを考えると、唯々感謝の御念佛です。

自身を省みれば、『地獄必定 必堕無間』であります。 助かるべき謂れが、これっぽっちの欠片も無い事に気付かされます。 聖人様が云われました所の『地獄は必定すみかぞかし。』が、他人事ではなかった様に思っていました。(今、振り返ってみるとです。)

挙げれば限が無いほどあがるでしょう。 この紙面を覆い尽くす程の醜い心、悪態の数々だと思います。

そんな事に、気付く余裕は無かった。 気付きたくも無かった。 気付かされても、認めたくなかった。 認めれば、認めたで他と比べて落ちて行かねばならん自身に恐怖を感じていました。

その、自身の心に起こる数々の思いに目を向けて、認める事が自身を知る事になるのでしょう。 此れを『如自当知』とも、『如実知自心』とも申すのです。(哲学といわれるものの基本の部分とも聞いています。)

言葉で書けば、文章にすれば易い事のように感じますが、自身の嫌な部分は容易に認められない。 認めたくない心が当然のように起きてきます。

『何故か?』と問われれば、人は他と比較する事で自身の存在、居場所、地位を確認します。 そして自身より劣った位置に他が居る事を確認する事で、謂れの無い安心を感じます。

しかし、自身の嫌な部分は、他と比べる事で『負け』の部分と勝手に判断してしまいます。 人の本能として、幼少の頃から『他よりも多く、他よりも高く、他よりも遠く、他よりも前へ、他よりも先へ、他よりも上へ。』という思いが備わっていると聞かされました。 分かりやすく云えば、『負けたくない。』という心だと云う事でしょう?

上記の如き心は、多かれ少なかれ、誰しもが持っている心のように思えます。 故に嫌な部分を認める事が出来ないから自身が知れないのです。

自身が知れないから、救われる者もいない。(『難信の法』といわれる所以です。)

その、自身の心の内に有る物に気付かされ、認めざるを得ない状態まで育て上げられ、『機』の真実を否が応でも知らされた時、それを待っていたかの様に『助けさせよ。』の佛の願いが自身に飛び込んで来て下さるのだと知らされました。

上記を『機の深信』と言い表され、信念冥合の機法一体と申すのだと感じています。

この『機の深信』がハッキリと知らされますと、『助かる謂れの無い者が、自身であった。』と疑いなく信じさせられます。

その、『助かる縁の無い者』が、救って貰えるのです。 大逆転でしょう? 有り難さを感じ取らずにはいられません。 其れこそ、身をもって『報恩感謝の御念佛』を知らされます。 故に、『助かったのか、助かってないのかハッキリしない。』というような間の抜けた様な事には、決してならないだろうと思います。

もし、上記の如くハッキリしないものがあるのでしたら、自身の内面には目が行ってないのでは?と感じます。
救って下さる佛様の方にばかり目が行っているのでしょう。 其れも大事な事ではあります。 自身を救って下さるのは、当流においては『阿弥陀』といわれる佛しか居られないのです。 これを『法の深信』と申します。(ご存知の事とは思われますが。)

自身は、此の事をハッキリさせて貰っていますから、以前書き込みさせて貰いました『阿弥陀さんが私で、私が阿弥陀さんで。』というような大胆な発言するのです。(あくまで味わいとしては、です。)

此の事を『信心成就』と申されるのでしょうね。 此の思いに気付かされた時は、其れは言葉に表されない様な嬉しさ?、喜び?慶び?を感じました。(こういった世界があるんだなぁ〜って思いでした。)

其れからは、ずぅ〜〜〜っと思いが続いています。 娑婆の者ですから、当然ながら色んな事に出くわしますが、現生十種の益を感じていますので最後は手を合わせ、感謝して喜ばせて貰う事が出来ます。(この世の利益、きわもなしですねっ。)

ボン様

お返事有難うございます。 色々な事を長々と書いておりますので、取り止めも無い事になって申し訳ありません。

>もし仮に「2度目がなければ3度目がない」というふうに理解したとしたらどうでしょう。
>これは大変なことになってしまいます。だれもが血眼になって『信心成就』を求めてしま
>うのではないでしょうか。それは、「安心」とは程遠く、現世の救いもなくなってしまう
>のではないでしょうか。

自身なりの思いを語らせて貰います。 疑問な所があれば聞いて下さい。

『2』を飛び越しての『3』の存在は有りません。 有り得ません。

1階の上には、2階がきます。 2階の無い3階建てはありませんでしょう。

「三度の往生」という言い方に、不自然な感じ、すわりの悪さ、というものを感じては居りますが、それでも2度目を飛び越すという事を云っているのではありません。

『信心成就』することで、今生に於いて『安心』を感じ、現世を救って貰うのだと自身は感じて居ます。

聖人様は『信心成就』をお勧めになっていると、自身は思って居ます。 その理由として、教行信証の中に化身土巻をあらわして御出でだからです。

今生に居る時点で其れをハッキリとさせておかないと、身体を失ってから行く先は『報土』ではなく、辺地 懈慢、疑城 胎宮の仮の浄土に導かれて、そこで真実の信心を備えて貰ってから真実土に迎え取られると聞いております。 深信がハッキリしないという事は、佛の力を過小評価し過ぎているということで疑っているからだそうです。(それでも娑婆よりは信を得やすいとは聞いています。)

でも、それでも良いと云われるのであれば、聖人様はあえて化身土巻に力をお入れにはならないと思っています。

確かに、この法に縁のあられた方は、後戻りはさせられないでしょう。 それが阿弥陀様の誓いだから。 でもよく、『死んだら極楽。』といわれますが、そんなに容易くは無いと思います。

『二種深信』がハッキリするかしないかで、信心の内容が天と地ほどの差、いいえ次元が違うほど変わって来ると自身は思っています。 此の部分を『真仮の水際』と聞かされました。

>真仮を知らざるに由って、如来広大の恩徳を迷失するなり。

とは、此の部分を指していって御出でなのだと思います。

>煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。この条、もつてのほかのこと
>に候ふ。(中略)「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらく
>とならひ候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候ひしか。(歎異抄)

ではありますが、その、煩悩具足の身に佛智が満入するのでしょ? 満入すれば正定聚です。 現生正定聚は、等正覚者の位を約束された身です。 さとりに匹敵する程の地位だと思いますよ。 で、上記の所ですが、かの土とは表記されておりますが、『来世』とは書いておりません。

以前にも書き込みさせて貰ったと思いますが、『御念佛を肝(ハラ)に据えて貰うと『死』というものがちょっとしたイベントのような感覚になりました。』と申しました。 『吹き通しの状態です。』とも書きました。

上記のような状態は、今生と当生の境が曖昧の状態ですから、かの土は此の土でもあるわけです。

確かに此の娑婆では、生きて行く為に肉も喰らうでしょう。 周りを見回せば犯罪もあるし、戦争もある。 喰らえば喰らっただけ糞もする。 しかし、今生に身を置いておっても信心一つで浄土の住人になれるのでしょう。 でなければ、聖人様が『有漏の穢身は変わらねど 心は浄土に遊ぶなり。』とは申されないのでは?と思うのです。

聖人様は、この様なハッキリとした信心を今生において戴ける事が出来るということを示される為に、化身土巻を表して後続の者に『求道』の心を起こさせるよう計らわれたのだと感じます。(ハッキリ云って全て私見です。)

『来世』とか『死んでから』とか申されます。 しかし、聖人様のお言葉にその様な文言が何処に出で来るのでしょうか?

死んでからの宗教では聞く意味が無いではないですか? 

『「報土」は“基本的には”来世である。』という風に読めるかもしれません。 しかし、信一つで現来の垣根を取り除く事は可能だと戴きます。

でありますから、ボン様のお書きになった「その言葉(報土)自体に現世も来世もない」という御言葉、味わいとしては不正確とは感じません。

佛教は『抜苦与楽』が根本にあります。 そのお言葉で「安心」出来、苦しみが抜けるのであれば、正確不正確は問わずとも良いのでしょう。

沢山と私見を書きました。 『何を云っているの?』とお感じになる方も御出でだと思います。

自身の書き込みはこんなものです。 ご意見、お言葉がありましたら、お聞かせください。    合掌

●re.3
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2008 ] Re3:後念相続 2 2010/07/24 (Sat) 09:35 △up ▽down
    菩提心樣へ
今日も3時に寝汗をかいて目がさめました。昨夜寝たのが11時なのに・・・
1時間ほどここを読んで4時には庭の木に水をやって(義兄が今春あたらしく一本
他所から持ってきて、こんなにあついと枯れるかもしれないから枯らさない為に水を
遣ってくれと云われたのでしかたなく)、5時にはニャンニャンのおむつを替えてから
又こうしてパソコンの前に座るともう6時です。

菩提心さまも以前に「光の内住まい」と書かれたはずです。そうだとすればそこが
(現生での)光明土であり、報土ではないですか。

穢体を持った煩悩だらけの我々でも頂いた他力の佛種は清浄ですよね、その佛種が
阿彌陀さんの光の内に住まわせてもらっているのです。又、その佛種こそが
佛体側からみれば菩薩と云うのでしょう。

一念帰命うけるには学問は必要ないことは一枚起請文でも載っています。
ですが煩悩だらけの我々に善導大師は玄義文に、
「信取之者懐疑要引聖教来明欲使之者能遺惑」と書いています。
疑いを懐くからこそ聖教を引いて明らかに惑いをなくせと仰っているのではないですか。
一念帰命をうけたあと、どこにも学ぶなとは書いてないと思います。

行巻に、慈雲法師の云く、「唯安養の浄業は捷直に修す可し。大小の戒體還複清浄なること
を得、念佛三昧を得、菩薩の諸波羅蜜を成就せんと欲はゞ、當に此の法を学すべし。
臨終に諸の怖畏を離れ、身心安快にして衆聖前に現じ、授手接引せらるゝことを得、
初めて塵労を離れて便ち不退に至り、長劫を歴ずして即ち無生を得んと欲はゞ、當に
此の法を学すべし等」と。と書かれています。

私は極道坊主樣とも面識はありませんが信心成就の方とお見受けします。
又以前に書いた私達の勉強会のSさんのような方もいます。
自分の考え方に固執せず、色々な方々の意見も参考にされたらいかがですか。

私の法の親知識さんは、94歳まで現役の社長でしたので「自分はむずかしいことは
勉強するひまがなかったが、戦時中に満州にいったり終戦でシベリアに抑留されたり
してきたおかげで、不思議な体験をいっぱいしてきているから。全て阿彌陀さんの
おかげで今日の自分がある」と話してくれました。
私に「もう自分にこのような聖典は必要がないから持って行って読まれ」と明治時代の
聖典を差し出されて戴いて帰りました。(でも3年前に亡くなられました)

ですから知識さんも色々だと思います。
私もお蔭様で札幌から大阪・高松まで、なぜか不思議と知識さんの知り合いがいます。
今の勉強会にも8〜9人の知識樣がいます。
本当にありがたい事です。  合掌 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.4
菩提心
非公開の非公開
[ 2009 ] Re4:後念相続 2 2010/07/25 (Sun) 12:49 △up ▽down
忍草様
続けてのお書き込み有難うございます。

気に入らないことも有りましょうが、このように書いていくと忍草様との違いもよく分かってきますので、私にはとても有難いことだと思っています。

又、忍草様の書き込みには矛盾するところが多いのでなかなか忍草様のお気持ちが分かりません。

そこで最初に読んだところから少し書かせて下さい。

>ここに『淨土法門見聞鈔』の一番最初の文を書き込みします。
>問(とう)往相還相の二種の廻向いかん
>答(こたう)往相の廻向というは如来の廻向他力なり。還相の廻向というは衆生の廻向
>自力なり。往相還相その名ことなれどもみな如来他力の方便なり。またこれ自然道理の
>いたすゆえなり。たとえば一切のものゝたねを案ずるに、ううるときはこのみとならん
>ことを期し、このみとなりてはたねとならんことを期す。地にあるときは如来往相の
>他力の廻向なり、これ娑婆世界にして極樂をねがうにたとうるなり。このみとなりては
>地にううることを期す、これは還相の廻向のこゝろなり。みなこれ自然の道理なり、これ不思議なりとしるべし。
>地にあるときは如来往相の他力の廻向なり。これ娑婆世界にして極楽をねがうにたとうなり。

往相廻向とは極楽往生する因(たね)を頂き、例えるならば極楽に生まれたいと願う気持ちが起きてくるのだと思います。

今生を憂い、来生を願う(厭離穢土・欣求浄土)人は、仏法を求める基本らしいです。
世間で不平不満の声は聞こえても、極楽に行きたいって思う人はあまりいませんよね。、

>このみとなりては地にううることを期す、これは還相の廻向のこころなり。

私は、往相廻向になったから、この娑婆世界に戻って衆生を済度するのだと思います。

期:この漢字の意味は
@とりきめた日時、また一定の時間、期間
Aまつ、予定する。また必ずそうなると目当てをつける。
Bあう、一定の時と所をきめ約束してあう。ちぎる。
C「期期」とはきつきつともどる様
上記の漢字から、この漢字を書いたのは意味があるのだと思います。

>「還相廻向とは衆生の廻向自力なり」としっかりと書かれています。

又どうして、「淨土法門見聞鈔」という普通はあまりご縁のない聖典から引用しなくても、親鸞聖人84歳の時「往相廻向還相廻向文類」を書いておられるではありませんか。

その中にはっきりと往相廻向之文、二つには「還相廻向」といふは・・・と書いてあります。
ここを引用すればよろしいと思います。


★尚上記のようなご著書は、国会国立図書館(近代デジタルライブラリー)から読めます。

>ここで證巻、還相廻向に論註二文の「菩薩但初地に登れば、漸を以て増進して・・・」が一念帰命をいただいて、初歓喜地に登れば、(頓・漸は愚禿鈔上参照)漸(自力)を以て増進して・・・の文章も理解出来るはずです。

上記の部分は全く理解できません。

一念帰命の時に、私達の目的は達成したのではないですか。
「時剋之極促」ですよね。

後は御恩報謝の御念仏が後念相続にぴったりだと思います。

「南无阿彌陀佛」はいつでもどこでも称えられますものね。
そしてその六字の功徳は計り知れないらしいですから、有難いです。


「曼陀羅を説く」は知恩院の文化財保存局局長を勤められていた塩竈義弘師が書かれたものだそうです。

極楽荘厳を思い描くにはとても良かったです。

その本の最後の方に、
「曼陀羅には甚深の口伝はない。左右及び下、この三方の縁は、観経の説相次第であって、一分も異りない。中台の仏菩薩、及び依報荘厳の如きは、三経一論五部九巻に一々符号する。是を以て専ら浄土宗の曼陀羅と号する。其の三経九巻に合する所の一所一字に秘伝なし、口伝なし」と説かれる。心得るべきことである。大切なことである。

上記の部分は、口伝を否定している箇所か肯定している箇所かよく分かりませんが、当流には「口決面受」のお流れがあり、それは善導大師、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人と引き継がれていますが、在家にも流れていると聞いています。例えば親鸞聖人は御二人、その御一人は平太郎ですよね。


蓮如上人は、「人にあひたずねて」と書いてあります。
ですから過去に泥凡夫様からも、それは隣のおじさんかも知れませんよと言われて探そうと思いました。

往相の人に尋ねることこそ、信心決定する早道です。

南无阿彌陀佛

●re.5
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2011 ] Re5:後念相続 2 2010/07/24 (Sat) 18:32 △up ▽down
極道坊主様、こんにちは。

いつも味わい深いお話をありがとうございます。
そのお話に尊敬の念を覚えるのですが、その前提の上で少し疑問を述べさせてください。

>『2』を飛び越しての『3』の存在は有りません。 有り得ません。
>1階の上には、2階がきます。 2階の無い3階建てはありませんでしょう。

この例えでいきますと、私は確かに1階の入り口に入れさせていただきました。しかし、
私はいまだに半信半疑なんです。半信半疑はちょっと言いすぎですね。あえて言えば、
「九信一疑」でしょうか。今後どうなるかは分かりませんが、とりあえず今のところは
そうなんです。言い換えれば、まだ2階には登っていないということです。

こんな状態のままで、今日か明日にでも、私がポックリ死んでしまったとしましょうか。
そうしたら、お話のとおりだとすると、2階を跳び越して3階に行くことはないわけです
から、私の場合、極楽浄土には往生しなくて、化土行きだということになります。

じゃあ、化土に行かないようにするためにはどうすればいいかというと、まずはとりあえ
ず2階に登っていなくてはならない。2階に登るということは、つまり『信心成就』、
言い換えると「『二種深信』がハッキリする」ということですよね。

『二種深信』というのは「機の深信」と「法の深信」ですね。「機の深信」というのは、
極道坊主様のお言葉を借りますと、『助かる謂れの無い者が、自身であった。』と疑いな
く信じること。「機の深信」は「こんな自分を救ってくれるのは阿弥陀様しかいない」と
疑いなく信じること、ですよね。

『助かる謂れの無い者が、自身であった。』ということについては、疑いなく信じており
ます。というか、疑うべくもありませんよね。そして、「こんな自分を救ってくれるのは
阿弥陀様しかいない」、そう思ったからこのご法にご縁があったわけですよね。少なくと
も、“聞く”ときはそう思ったわけです。そうでないと“聞かせて”もらえませんから。

んん?あれれ?そうすると、私は既に『二種深信』というゲートはくぐってきたのかな?
これをもし『信心成就』というのなら、“信心が成就しちゃってる”ことになります。
しかし、私などは“聞かせて”いただいた後も、しばらくボーっとしてたわけです。
(いまだにそういう部分はあるかもしれませんが・・・)極道坊主様のお言葉をかります
と、『助かったのか、助かってないのかハッキリしない。』というような間の抜けた状態
なわけです。

ということは、こんな間抜けな私でも『信心成就』したということになりますよね。もし
そうであるならば、『信心成就』は「2階」ではなくて「1階」ということになります。
つまり、『一念帰命』のときが『信心成就』のときとなります。

そうすると、以下の3段階の図式を根本から考え直さなくてはならないということになる
ような気がいたします。

>1回目の往生(一念帰命)・・・入正定聚、初地(歓喜地)、報土中の仮、行信を獲る
>2回目の往生(信心成就)・・・住正定聚、八地(不動地)、真実報土、金剛の真心を獲得
>3回目の往生(極楽往生)

そこで、少し聖典から拾ってみました。

--------------------------------------------------------------------------------
「難信金剛の信楽」等とは、他力真実信心の相なり。(中略)凡夫所発の信心に似たりと
いえども、この心は如来選択の願心より発起す。(六要鈔・教巻)
--------------------------------------------------------------------------------
「信心」というは至心信楽なり。(六要鈔・行巻)
--------------------------------------------------------------------------------
「行者」等とは、菩薩等覚の後心を指すにあらず。ただ一心念仏の行者、一念慶喜金剛の
信心を明かす。(六要鈔・行巻)
--------------------------------------------------------------------------------
信心と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。(信巻)
--------------------------------------------------------------------------------

簡単に言いますと、「一念帰命」のときに「金剛の信心」をいただいたということですよ
ね。ただし、「金剛の信心」をいただいたことを「信心成就」と言っていいかどうかは、
よくわかりません。なにしろ、「成就」というくらいですから、よほどすごいことのよう
な気がするわけです。

しかし、「煩悩成就」という言葉があって、煩悩を欠くことなく備えているといったよう
な意味ですから「成就」という言葉に、そんなに恐れをいだくこともないような気もする
のです。

まあ、そんなわけで、非常にあやふやな内容で恐縮なのですが、今のところ感じている
疑問について述べてみました。ほかにも、いくつか感じることはあるのですが、あまり
長くなってしまいますので、それはまた別に書き込みます。

南无阿彌陀佛

●re.6
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 2012 ] Re6:後念相続 2 2010/07/25 (Sun) 02:23 △up ▽down
ボン様

お返事有難うございます。 自身の味わいでありますから、自身以外の方には腑に落ちない点も多々在ろうかと思います。

お答えする内容が、ボン様のお心に浸透出来るかどうか、自身には察する事は出来かねますが、努めて文章にしていきたいと思いますので、読んでみて下さい。

自身が得させて貰いました味わいから表現しますと、『二種深信』は、法に於いても機の側からにしても『疑いなく信じる。』という事です。 もう一度書きます。 『疑いなく信じさせて貰う』のです。

という事は、ボン様が冒頭に書かれました、『半信半疑なのです。』とか、『九信一疑』という言葉は決して出てくる筈が無い。 喩えて言わせて貰うと、九割九分九厘の信が在っても、一厘の疑いがあれば『疑いなく信じる。』という事にはならない訳です。

疑心暗鬼の凡夫のこの身が自身であります。 「信じた。」と口では申してみても『我』というものは消せませんから、当然のように疑いが残る。 其れを努力して一毛、一糸の単位まで少なくしたとしても、疑っている事には変わりはありません。

でありますから、ボン様においては、徹底した『二種深信』であるのか?と問われれば、少し厳しい言い回しになるかもしれませんが、そうであるとは云えないと思います。 そういった事の書かれた論釈から文言を引用し、感情がそれに調子を合わせて居られるだけなのでしょう。 二種深信のゲートも潜っては居ないどころか、法にしても、機にしても深信自体の味わいが未だに無いものと感じます。(ごめんなさい。挑発的な文章ですね。)

『私が信じる。』となれば、一毛、一糸の単位まで疑いを小さくしたとしても、疑っているわけですから徹底した二種深信にはならないでしょう。 佛の光明を受け、自身の影の濃さに気が付かされ、その色の濃さを見せ付けられる訳です。 徹底して調機誘引されるのです。 全ては佛の方からの御育てによりまして知らされる『機の真実』です。 疑う余地の入る隙間が何処にあるのですか?

3階建ての建物の喩えを引き合いに出していますので、続けて書き込んで行こうと思いますが、「2階に登っていなくてはならない。」のではないと思います。 2階には連れて上がられるのではないでしょうか?

上記の如く味わっておりますので、1階に入って来るのは自身の心持や決心かもしれませんが(其れさえも自身は御手回しと受け取っております。)2階へはオンブに抱っこの状態で登っていくのだと感じます。(連れて行って貰うの表記の方が合っていますか?)

先師方は、信心の事に関して『疑心あることなし。』と述べておられます。 疑心暗鬼の此の凡夫が、『疑心あることなし。』の心持にどうやってならされるのでしょうか? やはり上記の如くの佛に依ります御育てによるのでしょうね。 その御育てに合い、実地に体験すれば経、論、釈も租借されて味わいとなり了解(りょうげ)させられるのでしょう。(逆ですね!取り急ぎ信心成就させて貰えれば、経論釈は自然(じねん)と了解出来る事と感じます。)

私の師に当たられます方々は、「体験無き宗教は語るな。」と申されました。 実地に求道の無いものは、人々に語っても通らないのだそうです。 悪戯に経、論、釈を読んで通って知っても、理解しても実地に体験が無ければ、机上の空論、観念の上での悪戯事なのだそうです。

経は当然の事ですが、論も釈もそれらを著述された方々は『信心成就』の域に達せられた方々ではありませんか? 信心に関してあやふやな者が、読んで通って理解や合点をした所で直ぐには肝(ハラ)には染込んでは来ませんよ。(論釈を読む事を軽んじるわけでは在りません。)

>「難信金剛の信楽」等とは、他力真実信心の相なり。(中略)凡夫所発の信心に似たりと
>いえども、この心は如来選択の願心より発起す。(六要鈔・教巻)

此の記述の『この心は如来選択の願心より発起す。』部分によって上記の如く育てられるのではないでしょうか?

「難信金剛の信楽」です。 一切世間難信の法です。 行に於いては此れ程易しい事はないのでしょうが、『難信』と表記されています。 疑いなく信じる事が出来ないから『難信』なのではないですか?

易行であっても、受ける事が難しいから『易往而無人』といわれるのでしょう。 真実の信心をとるという事は本当に難儀なのです。 喩えれば、160キロのスピードボールを投げるプロの投手の球を、練習もしないズブの素人がぼ〜〜〜ぉっとしながらキャッチャーをする様なものでしょう。(例えが変ですか?)


『信心成就』と『煩悩成就』、同じ『成就』の文言ではありますが、同じ意味合いでは無いものと感じます。 経論釈を読むという事は、「言葉遊び」をするのではありません。 その、書かれている文言の奥に筆者のどういった心持があるのかを知る事が肝要に思います。

>こんな状態のままで、今日か明日にでも、私がポックリ死んでしまったとしましょうか。
>そうしたら、お話のとおりだとすると、2階を跳び越して3階に行くことはないわけです
>から、私の場合、極楽浄土には往生しなくて、化土行きだということになります。

ボン様、一寸先の事は自分達には分かりません。 分からないから何とも申し上げ難いのですが、自身とのやり取りで2階の素通りに関しての可能性は少しばかり減ったのではありませんか?

「大した自信。」とお思いになるかもしれませんが、佛により肝(ハラ)を据えて貰うという事は、そういった思いに至る事が出来るという事だと感じます。

ボン様も御記述のとおり、「化土には行きたくない。」とお考えのようです。 ですから、今生において信心成就しようと一瞬でもお考えになられませんでしたか? 化身土巻の役目はそういったところも持ち合わせているのだと思います。 まずは方便でも必死の求道をして見るのもいいかもしれません。 必ずその先には慶べる世界が待っています。(間違いなく。)

まずは蓋を開けねば、功徳は注ぎ込めませんよ。 何も知らずとも救われるのが此の教えではありますけれども、ずるけて怠慢をしている者と、懸命に求めている者と得られる物が一緒だと思われますか?

依怙贔屓は本来佛語だそうです。 佛も法を求めようとする者には、その者に見合った代償を廻向される筈です。 それを平等と云うのでしょう。 決して均等ではありませんよね。

ボン様、かなり挑発的で暴言に近い書き込みもあったかもしれません。 でも、まだ今生の縁が尽きては居ませんので、間に合います。 「この身今生に度せずんば・・・・・・」と三帰依文にもあります。 命尽きるが先か?信心成就が先か? 多分、信心の方がハッキリとしませんと、貴殿のお迎えは来ないものと思います。(死ぬに死ねませんよ。多分。)

此の書き込みに対して、再度の疑問点があるようでしたら云うて下さい。 自身の味わいの中で答えになるようでしたら、返信させて頂きます。     合掌


●re.7
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2014 ] Re7:後念相続 2 2010/07/25 (Sun) 23:15 △up ▽down
極道坊主様、こんにちは。

お返事ありがとうございます。
文章の端々から極道坊主様の信心堅固な様子がうかがい知れて圧倒されております。
とても得がたいお話を聞くことができて、うれしく思います。

わが身を振り返ってみますと、もちろん「半信半疑」は言いすぎですが、「露ほどの疑い
もない」などとは絶対にいえません。また、極道坊主様のおっしゃるとおり、半分だろう
が、露ほどだろうが、疑いがあるという点ではおなじことです。別に開き直るつもりはあ
りませんが、これが嘘偽りのない自分の姿なのだから仕方がありません。

なにを考えるにしても、私の場合、ここらスタートするほかないのです。

ご指摘のとおり、『徹底した二種深信』があるのかといわれれば、それはありません。
ただ、『助かる謂れの無い者が、自身であった。』ということについては、疑いようがあ
りません。これは、仏を信じるのどうのというより、自覚の問題だと思いますので。

それほど、自分がどうしようもない人間だという自覚については、人後に落ちない自身が
あります。なにしろ、いまだに疑うの疑わないのと言っている始末ですから。(変なこと
に自身を持つなと言われれば言葉もありませんが。)

また「このようなどうしようもない自分を救ってくれるのは阿弥陀様をおいてほかにない」
と思ったから“聞かせていただけた”と思っているのも確かです。ただ、それが信後も
一瞬の迷いもなく持続しているということでは、まったくありません。それでも、せめて
「あの一瞬」だけでも、そんな気持ちに染まったから、ご縁をいただいたと思っており
ます。

すべての法門は、第18願に導き入れるための方便だと聞いています。だとしたら、すべて
の経論釈の記述・用語も、「あの一瞬」に収れんしているのではないか、などと考えたり
もしています。私などは、それを確かめるために聖典を読んでいるようなところがあるの
ですが、今のところ、そのような私の基本的な理解を突き崩すような内容には出くわして
おりません。(今後のことまではわかりませんが・・・)その延長線上で、『二種深信』
についても、「あの一瞬」に導かれるプロセスを説明したものと考えられないでしょうか。

これは少し大胆な言い方になりますが、仏は、私たち人間にあまり高望みはしていないと
思っております。仏は、あまりに愚かで哀れな人間たちに涙して「一瞬でも一心になって
くれたら救うよ。あとは大船に乗った気持ちでまかせなさい。」と言っている気がするん
です。

自力で六道の連鎖から抜け出すことも出来ないこの世の人間どもが、仏の他力で救ってい
ただいたからといって、その後に自ら起こす「精進の心」や「求道心」のようなもので
レベルアップしていくということを、仏は、まったく期待していないという気がしており
ます。そこまで、人間の性分というものを見透かしている気がします。(ただ、本人の
自覚とは離れた部分で、包み込んで育てていただいている部分はあると思うのですが)

また、「弾指(一瞬)のうちに救う」ともいいますし、まさに、次元が違うのかと思います。
仏の世界と、私たちの住むこの世とでは、時間の観念が違うでしょうから、その「一瞬」
が「無限大」かもしれないし、逆に人間の一生は一瞬かもしれないなどと思ったりもします。

>ずるけて怠慢をしている者と、懸命に求めている者と得られる物が一緒だと思われますか?

この問いかけにつきましては、極論ですが、「一緒だ」と思っております。アンフェアー
でもなんでもないと思います。誤解のないように申し添えますが、だからずるけて怠慢を
しようと思うと言っているのではありません。人間の目で月とスッポンほどの違いがある
ものが、仏の目から見たら、どんぐりの背比べで、1ミリの違いもないのではないだろう
か、などと勝手な想像をしています。

私の性分からすると「必死の求道をしてみたら」と言われれば、そうしたくなるほうだろ
思います。何をどう求道するかはさておき、とりあえずは一途なほうですし、自力根性も
強いです。ただ、このご一流は、どうも「必死の求道」というものになじまないような気
がして、気乗りがしないだけなのです。「陸路」を歩くより、「海路」を船で渡るほうが
楽だと言っているわけですし・・・。

極道坊主様が、露ほどの疑いも持っていないと断言できることは、本当に素晴らしいこと
だと思いますし、敬意を表します。しかし、私も含めまして、この法にご縁のあった方々
のなかで、極道坊主様ほど確固たる信念を持っておられる方は少ないような気がします。
そのような信念のない者でも救われるから、「仏の智恵は計り知れず」「無量の光は妨げ
ることができず」「不可称・不可説・不可思議」などという表現になるのだと思います。

人の自覚的な意識のレベルはまちまちです。極道坊主様のような信心堅固な方もいらっし
ゃれば、私のようないまだに疑いの心から抜け気っていないものもおりますし、普段は
念仏も忘れて世事にかまけているものもいるでしょう。おそらく、各人の「二河の百道」
もそれぞそれ違った様相を呈するでしょうし、その味わいもまちまちではないでしょうか。

ただし、「ご縁があっても、疑ったまま死んだら化土行きです」ということになると、
少し話は違ってくるものと思います。“味わいの違い”などと暢気なことを言っている
場合ではないような気がします。

当然、私も化土には行きたくないのですが、実は「疑ったら化土行きだ」というのは違う
んではないかという気がしているんです。なにも、自分が疑っているから、自分に都合よ
く解釈しようとしているのではありません。

信心もあやふやなものが聖典を引き合いに出して恐縮ですが、こればかりは、自分の意見
を申し上げても仕方がありませんから、いくつか聖典から拾ってみますね。

--------------------------------------------------------------------------------
仏、慈氏に告げたまわく、もし衆生ありて、疑惑の心をもってもろもろの功徳を修して、
かの国に生まれんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を
了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかもなお罪福を信じ、善本を修習して、
その国に生まれんと願ぜん。(化土巻より「大経」)
--------------------------------------------------------------------------------
仏、弥勒に告げたまわく、もし衆生ありて、疑悔に随いて、善根を積集して、仏智・普遍
智・不思議智・無等智・威徳智・広大智を希求せん。自ら善根において信を生ずることあ
たわず。この因縁をもって、五百歳において宮殿の中に住せん。(化土巻より「如来会」)
--------------------------------------------------------------------------------
何をもってのゆえに、みな懈慢に由って執心牢固ならず。ここに知りぬ、雑修の者は執心
不牢の人とす。故に懈慢国に生ずるなり。(化土巻より「群疑論」)
--------------------------------------------------------------------------------
雑行の中の雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行の中の専修専心・専修雑心・
雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。(化土巻)
--------------------------------------------------------------------------------
この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになお罪福を信じて、善本を修習して、その国
に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まると。(化土巻より「大経」)
--------------------------------------------------------------------------------

あまりたくさん引き合いにだしても仕方がありませんから、このくらいにしておきますが、
化土について書いている部分は、ほとんどこんな書き方になっています。

(つづく)

●re.8
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2015 ] Re8:後念相続 2 2010/07/25 (Sun) 16:49 △up ▽down
(つづき)

つまり、「仏願の不思議を信じないで、自力を頼りに善本を積もうとしたら、どんなに
頑張っても化土行きですよ」と言っているわけですよね。「この法門にご縁のあった者が
完全に信じきることができずに、疑いの念をいだいたまま死んだら化土行きですよ」とい
うことを書いているものを、私は浅学にして見つけることができません。

>「難信金剛の信楽」です。一切世間難信の法です。行に於いては此れ程易しい事はないの
>でしょうが、『難信』と表記されています。疑いなく信じる事が出来ないから『難信』な
>のではないですか?

>易行であっても、受ける事が難しいから『易往而無人』といわれるのでしょう。真実の信心
>をとるという事は本当に難儀なのです。喩えれば、160キロのスピードボールを投げる
>プロの投手の球を、練習もしないズブの素人がぼ〜〜〜ぉっとしながらキャッチャーを
>する様なものでしょう。(例えが変ですか?)

「難信金剛の信楽」とか「難信の法」などと言ったりするのは、私も存じ上げております。
「難信金剛の信楽」は「教巻」、「難信の法」は「小経」からの引用ですよね。

「難信金剛の信楽」についていえば、「信楽」というのは18願のことですから、18願を信
じることができないということだと思います。18願があまりにも簡単すぎて、みな「そん
なはずないだろう」と思って、そこに入ってこずに、難しい方にいってしまうから「難信」
なのだと理解しております。18願に入ったあとも疑念を断ち切ることができないから
「難信」と言っているのではないと思います。

また「小経」では「一切世間のために、この難信の法を説く」と言っています。「すべて
の世間の人々のために、その人々がとても信じられない法を説く」といってるわけです。
「小経」の文言ですが、これも秘かに「大経の18願」のことを言っているのだと思います。
もし、「いただいたあとも信じられない」ということをいうのでしたら、「信じ難い法」
などとは言わずに、「信じることのできない人々」というのではないでしょうか。

『易往而無人』は「大経」からの引用ですよね。「信巻」に「超玄記」からの引用として
次のような記述があります。

--------------------------------------------------------------------------------
法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反す
がごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜ
ん。すなはち『大本』に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり。(信巻)
--------------------------------------------------------------------------------

ここでも、この法があまりに簡単すぎて、「浅き衆生」は疑って信じられないから、そこ
に行く人がいないと書いています。「易行であっても、受ける事が難しい」のではなくて、
「信じることが難しい」のだと思います。それも「入ったあとでも信じることが難しい」
と言っているのではなく、「信じるのが難しいから入ってこれない」と言っているのだと
思います。

我々、ご法をいただいたとはいえ、所詮、「素人の草野球チーム」だと思います。ここに
プロ野球選手がコーチに来たからからと言って、いきなり160キロの剛速球は投げないで
しょう。チームの技量を見て、だれでも捕れそうな、蝶々のとまりそうな球を投げるので
はないでしょうか。(例えが変ですか?)

もし仮に、この法門にご縁のあった者が完全に信じきることができずに、疑いの念をいだ
いたまま死んだら化土行きだとしましょうか。そして、このご法をいただいたあとも信じ
きることができず、信心が成就しないから往く人が少ないのだとしましょうか。もしそう
だとすると、18願はいったいなんなのでしょうか。

とりあえず、この法(18願)にご縁のあった方には、少なくとも化土行きの切符は差し上
げます。これでもう、六道をさまようことはありませんよ。だだし、そこから先に進んで
極楽まで行けるかどうかはあなた次第。実際のところ「往く人なし」というくらいだから、
そこまで行く人は本当に少ないんですけどね。60キロの剛速球は飛んでくるかもしれない
し・・・。まあ、でも、必死の思いで道を求めてみたらどうですか。ひょっとしたら仏の
お育てがあるかもしれませんよ。と、こんなふうに言っている感じになりませんか。

ごめんなさい。悪意はないんですが、極道坊主様のお話を聞いていますと、本当にこんな
ふうに荒野にポツンと投げ出されたような不安な感じになってしまうのです。レベルの低
い私としましては、「後生救われました」と、ドーンと太鼓判を押してほしいんですね。
実際、太鼓判を押していただいていると思っていますし・・・。

いろいろ書きましたが、誤解も多々あるかもしれませんので、「これは違う」と思うよう
なところがありましたら、何なりとご指摘いただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.9
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2018 ] Re9:後念相続 2 2010/07/26 (Mon) 17:02 △up ▽down
    菩提心様
たとえば一切のものゝたねを案ずるに、ううるときはこのみとならんことを期し、このみとなりてはたねとならんことを期す。地にあるときは如来往相の他力の廻向なり、これ娑婆世界にして極樂をねがうにたとうるなり。このみとなりては地にううることを期す。

菩提心様は
ものゝたねを、ひょっとしたら種を因と取り違えていませんか?同じように
このみとなりても、木の実を此の身と勘違いをなされているのではないかと
思ったので書き込みしました。
種を植えて育って実となれば、その実は地に落ちてまた種となる自然の道理
を、逆に引用された分かりやすく説明されたカナ聖教です。

私が引用している聖教は、大桑鳳専・智冶心寂・荻英傳の三師校閲の
明治36年発行の眞宗聖教大全3巻から引用しています。眞宗内のものです。

菩提心様の書かれる祖師聖人の『往相廻向還相廻向文類』でも
・ ・・即ち眞實信樂を得たる人は「決定して等正覺にならしめん」・・・
ここで、「獲(え)たる」ではなく「得(え)たる」人と書かれた上に、
さらにかさねて「決定して等正覺にならしめん」となっていることに何も
気付かないですか。獲と得の使い分け、又、得た人に対してかさねて「決定
して等正覺にならしめん」ですよ。ならしめんとは、未だなっていないから
「ならしめん」です。

忍草の解釈は「真実信樂を得た人(48地・不動地まできた人)はしっかりと
決定して(信心成就して)さらに等正覚まで至らしめる」と理解します。

「改悔文」(領解文)では、
「・・・たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ冶定とぞんじ・・・」と
なっていますね。  そこで信心決定という単語をお文で見ると
1帖目1通、・・・正雑の分別を聞きわけ、一向一心になりて信心決定・・・
同11通、・・他力の大信心の次第をよく存知したらん人(信心成就の人)に
 相尋ねて、信心決定して・・・
同14通、・・・一向に二心なく(疑心なき一心)彌陀を信ずるばかりなり。
 これをもって信心決定とは申すものなり。
同4通は・・・「一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。つぎに
 滅度は淨土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。されば二益なりと
 思うべきものなり。(信心決定の単語は多数(70回くらい)使用されている)

この4通目の滅度と淨土にみなさんは単純にひっかかるんですね。
まず滅度ですが、一代聞書の18項の「・・・滅度のさとりのかたは・・・」
があります。自力の滅度と他力の滅度を混同しないで下さい。
例、不断煩悩得涅槃も、煩悩を断ぜずして涅槃(分)を得ですね。

私の解釈は、滅度のさとりは、證巻の八地已上等覚までの法性生身の菩薩
(信心成就の)、淨土(極樂淨土ではない)とは眞實報土・安養淨刹と色々
別名がありますが・・・眞佛土巻に、惑染の衆生、此(ここ)に於て性を
見ること能(あた)わず。煩悩に覆(おお)わるゝが故に。と出ています。

極樂淨土に生身の菩薩が存在する訳がない。又、眞實報土が極樂ならば煩悩
がある訳がない。

極道坊主樣の書き込みもよく読んでください。
私と極道坊主樣は捉え方等色々と違っているとはおもいますが、求める處は
同じ(達観すれば求めてもいないのかも知れませんが)あくまで彌陀まかせ
だとおもいます。
又、>ここで證巻、還相廻向に論註二文の「菩薩但初地に登れば、漸を以て増進して・・・」が一念帰命をいただいて、初歓喜地に登れば、(頓・漸は愚禿鈔上参照)漸(自力)を以て増進して・・・の文章も理解出来るはずです。
上記の部分は全く理解できません。
との書き込みですが、相手の書き込みを理解する気が全くないのでしょうか。

又、辞書も仏教用語辞典もしくは広辞苑あたりを繰られれば良いと思います。
(蛇足・余計なお世話かな)
昨日もお講をつとめていたので、一昨日からあまりあたまの働きがよく
ありません(いつものくせに)。 
 何かまとまりのない文章になりましたが悪しからず。
   合掌  南无阿彌陀佛。

●re.10
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 2020 ] Re10:後念相続 2 2010/07/27 (Tue) 01:56 △up ▽down
ボン様

お返事有難うございます。

自身の書き込み、解り辛いですね? また、ボン様の仰っているお気持ちよく解ります。 自身の思いも其処からなかなか抜け出せず、思い悩んだ事も在ります。 其れは暫くの間続きました。 思い返せば長かったように感じます。

言葉が足らずに、伝えたい事が伝わって行かないもどかしさを感じながら、『どう表現したらよいだろう?』なんて考えたりもしています。

以上のような思いも上がって来ているのですが、今回も申し訳ないのですが、自身の思いを自身の表現で書かせて頂きます。(其れしか出来ないのですが。)

『機の深信』のついては、『自覚の問題』というような事ではないと思います。 三願転入の部分ででてくると思いますが、18願に転入させられるときには『法頓機頓』と申しまして、『法も他力、機の方も他力』なのです。 佛に育てられます故、『自身の悪性を自覚する。』というようなレベル(表現が悪いですが?)では在りません。 『自覚』している自分自身が存在するからです。

『自覚させられるのです。』『此れが貴方の内面なのですよ。 知りなさい。』(表現キツイですね。でも、自身はこのように感じました。)という感じでしたでしょうか?

以前にも書き込みをしたかもしれませんが、佛に依りますお育てで悪性を自覚させられるのです。 言葉遊びをしているのではありません。 言葉で表現すれば、どう云えば良いのか迷ってしまうのですが、能動と受動の違いというのでしょうか? 言葉では二極的ですが、『自覚する。』というのと、『自覚させらされる。』というのでは違いますよね、多分? でも、此の部分は味わい、心持の部分では格段の開きが有る様に感じます。

>それほど、自分がどうしようもない人間だという自覚については、人後に落ちない自身があります。

『人後に落ちない自身。』という表現がチョッとわからないのですが、自身とは、自信のことでしょうか?

もし、『自信』であるならば、上記のように申されますが、『自分がどうしようもない人間だ。』と、自覚しつつ卑下している自身の存在があります。 自身の場合、知らず知らずの間に卑下慢に嵌ってました。

佛に依りまして自身を知らされますと、チョッと言葉に表現し辛いのですが、「情けなさ」とか、「辛さ」とか、「侘しさ」等色々な心持が交錯して慟哭と表現したらよい様な状況になります。 「もう、これ以上落ちる所は有りません。」という所まで蹴落とされ、叩き付けられた様な心持にさせられます。 此の思いを感じた時、「これ以上苦い物は無いのではないか?」という思いを味合わされた時、その刹那に飛び込んでくる御念佛なのです。(自身の思いの中ではですよ。)

その瞬間、慟哭して出ていた涙は、掌を返すように慶びの涙に変えられていました。 とても不思議な心持でした。 自身には此の体験がありますから、何度も申しますように『佛様と自身が一体だ。』と表明するのです。

此の体験がありますから、『難信金剛の信楽は疑いを除き證を獲しむる真理なり。』の言葉に、首を深く縦に振ることが出来る思いです。 故に『後生に関しては疑いは微塵の欠片も無い。』と豪語するのでしょう。(ほんまでっか?)

自身は、上記の如くの体験の後を『信後』というのだと思っています。 言い換えれば、『一念帰命』の時を『信後』というのでは無いと考えます。 

>自力で六道の連鎖から抜け出すことも出来ないこの世の人間どもが、仏の他力で救ってい
>ただいたからといって、その後に自ら起こす「精進の心」や「求道心」のようなもので
>レベルアップしていくということを、仏は、まったく期待していないという気がしており
>ます。そこまで、人間の性分というものを見透かしている気がします。

此の部分も、仰る事よく解ります。 以前はそう考えていましたから。 唯、今の自身が思わされますのに、自らが起こす「精進の心」「求道心」も、その心が起きる前に佛の働き掛けが自らに有り、そして自身の心に発起する形をとって表現されるのだと考えています。 その心が必要と有れば、佛は廻向されるのでしょう。 これも他力といわれるものの現れ方ではないでしょうか?

>ただ、このご一流は、どうも「必死の求道」というものになじまないような気がして、気乗りがしないだけな>のです。「陸路」を歩くより、「海路」を船で渡るほうが楽だと言っているわけですし・・・。

そうですよね。 「必死の求道」という言葉、当流に馴染まない様な気もします。 しかし、聖人様を思い出して頂きたいのです。 必死の求道の挙句、安心を得られなかった訳です。 比叡山の20年間は其れは過酷な御修行と考えられます。 其処までの御修行を経験されても得られなかった御信心。 その、絶望感は計り知れなかったでしょう。 その絶望感に向けての法然聖人の御念佛の教えです。 それは、乾いたスポンジが水を含むが如くのスピードだったでしょう。

当流に馴染みそうにない言葉ではありますが、御開山自体が必死に求道されているではありませんか? その、門流の自分達はそれを避けるのでしょうか?(求道しなさいといっているのではありません。 求道心を敬遠する事はないと言いたいのです。)

取り留めの無い書き込みではありますが、終わりにひとつ。

化身土巻は、「雑行雑種の者が行く。」(平たく言えばです。)という事がかいてあるのでしょう。(此の部分は自身よりボン様が遥かに詳しいと思います。) でも、それはやはり疑心が元になっているのだと思います。 疑心があればやはり化土行きなのでしょう? でも、化土って三悪道ではないですよ。

辺地、懈慢、疑城、胎宮でしょうけど、浄土ですよね? 報土の傍らと聞かせて貰った事があります。『今生で信を得られる縁の整わなかった者は、一度其処に迎え入れ、娑婆よりも遥かに行じ易い場所で信を得てから、真佛土に迎え入れる。』と云って居られるのではなかったでしょうか? その様に聞いた覚えもあります。(確かでない所が申し訳ない。)

でしたら、佛様の『救いとって離さん。』のお誓いはそのまま生きているって事です。

18願の念佛往生の願が本当に届いて下さったら、疑心は起こらないのでしょう。 疑心が起こっているのは、何かが足りないのだと思います。 何か余分な物があるのかもしれません? でなければ、上に記しました『難信金剛の信楽は疑いを除き證を獲しむる真理なり。』という言葉が、偽りになります。 聖人様が必死の求道の末、得られた味わいの中で記された御本典です。 偽り等有りません。

自身は、『死』というものの先が報土だろうと、化土だろうと関係有りません。(大胆な発言ですね?) 死んでからの事は死ななければわかりません。 死んでからの事よりも、今生きているこの時が苦しかったら、聞かせて貰ったのです。 死んでからの事を説くのなら、法を聞かせて貰っている所詮が無いように思います。 そこを何とかして貰いたかったから聞いたのに。 でも、方便として知らねばならなかった後生を切っ掛けに御念佛に救って貰いました。 今は、『私自身は弥陀の掌。』という思いがありますので、何処へ行こうと極楽の思いです。 後生というものを突き詰めていった所、こんな思いにさせられました。 

変な締めくくりになりましたけど、続きはまた縁がありましたら書かせて下さい。

毎回々々変な書き込みですね。 申し訳ありません。 本当は、論釈の何処に何が書いてあるのかさっぱり解ってないんですよ。 ですから、ボン様に引用先を知らされると、とても嬉しく思います。(改めて引き直したりもしています。) こんな事はした事がなかったんですけど。

これからも宜しくお願いします。      合掌

●re.11
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2022 ] Re11:後念相続 2 2010/07/27 (Tue) 20:48 △up ▽down
   ボン樣  菩提心様
まず最初に菩提心さま、
佛と如来の違いのところで貴女にご存知ないのですかと云ったのならば、
なにかを云われても少しは我慢も出来ますが、貴女宛ではないでしょう。
又、ボン樣が貴女にメ―ルか電話ででも上から目線とでもおっしゃったの
でしょうか?。ボン樣が私に書き込まれたのならば話は別ですが。

私も普通の人間ですからキツイことも書くこともあれば過ちをすることも
あるでしょう。でもいままでも間違いを指摘されれば素直に間違いを
認めたり、訂正をしているつもりです。

上から目線とか書くことそのものがヒガミ根性ではないですか。

ボン樣とは理解度が違っても真剣に真面目に会話してるつもりです。

ボン樣
おしゃかさまは、地球上に現実に存在して釈迦牟尼佛とよびますね。
(報身佛)
では、あみださまは、どうでしょうか、歴史上にいましたか。
それでも阿彌陀佛とよびますね。これを法性法身といって、姿もかたちも
においもない、理佛とおよびするのです。

仏壇の中の阿彌陀さまは、もし本山からお寺さんを通して戴いたのならば、
絵像の裏に必ず方便法身尊形図としるされているはずです。
すがた、形をあらわしたならば、方便となって、如来とおよびするのです。
(娑婆で使う言葉の嘘も方便とはちがいます)
ですから佛に四種、法身に二種と愚禿鈔に出ています。

お寺さんの仁王像とか、龍の彫像等は片方は口をあけ、片方は口を閉じて
ますね。神社の狛犬も一緒ですね。不思議ですね。
(本尊に対して二等辺三角形が基本だそうです)
阿吽をあらわしていると云いますが、なにか気付きませんか。
彌陀三尊、釈迦三尊、等、佛に対して必ず脇士がつきますね。
観音・勢至、普賢・文殊、日光・月光、等、どのような佛でも名前が
違っても、それは智慧と慈悲の菩薩が両脇についているのですよね。

以前にお文三帖目一通の阿彌陀佛、阿彌陀如来、彌陀如来、阿彌陀ほとけ、
の違いを理解されていますか、と書き込みしましたがどなたも返事がない
ので、理解されているか若しくは知識さんに尋ねているのだと思って
いるのです。

佛も絶対界(真如界)の阿彌陀佛と相対界の釈迦佛のように、
如来もわかれて使われているのです。

報土に引用した『教行信證大意』に「まことの身土」「眞實の報身は
すなわちこの躰なり」身土は体の居所、報身はこの体ならば、今の土つまり
現生ではないですか。ですから彌陀の光明の内に住まわせてもらっている
という言葉とも符合するのではないですか。
光明・寿命の無量は阿彌陀佛であり同体異名の不可思議光如来です。
一念帰命で報土に往生してもそれは假(仮)で信心成就で眞實報土となり
死して極樂淨土へとつながるのです。(引用した眞佛土巻も則ちです)
「あいかまえてこの一流の正義を心肝にいれてこれをうかがうべし」です。

くりかえして書きますが、極樂は無為涅槃界で三界から離れた因果のない
世界です。

   菩提心さま
以前に書いた、知識さんに「あなたは法蔵比丘ですよ」〔1925〕をその後
尋ねられましたか?真の善知識さんの持ち物の書類の中に書いてあるのです。学が浅い深い関係なしです、必ずお持ちのはずです。
一般的には見せないのですが、部分的ならば見せてもらえるはずです。

皆様、極道坊主樣は自身に沁みこんだ意見です、私は出来るだけ聖教から
引用しているつもりです。
自分で理解しているつもりでも、書きあらわすとなるとなかなか上手く表現
できません。若い時に勉強が嫌いだったからこの始末です。
     合掌 南无阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.12
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2023 ] Re12:後念相続 2 2010/07/27 (Tue) 23:12 △up ▽down
極道坊主様、こんばんは。

お返事をいただき、ありがとうございます。
以下のお言葉に、感銘を受けました。

>佛に依りまして自身を知らされますと、チョッと言葉に表現し辛いのですが、「情けなさ」
>とか、「辛さ」とか、「侘しさ」等色々な心持が交錯して慟哭と表現したらよい様な状況
>になります。「もう、これ以上落ちる所は有りません。」という所まで蹴落とされ、叩き
>付けられた様な心持にさせられます。此の思いを感じた時、「これ以上苦い物は無いので
>はないか?」という思いを味合わされた時、その刹那に飛び込んでくる御念佛なのです。

>その瞬間、慟哭して出ていた涙は、掌を返すように慶びの涙に変えられていました。
>とても不思議な心持でした。自身には此の体験がありますから、何度も申しますように
>『佛様と自身が一体だ。』と表明するのです。

極道坊主様は、なにか、とても得がたい体験をされたように感じます。このような体験が
すべての同行に必要なのかどうか、私にはわかりません。しかし、このような体験をなさ
った極道坊主様は、幸いだと思います。

そこで、うかがいます。極道坊主様は、どのようなきっかけ、またはいきさつで、このよ
うな体験をなされたのでしょうか。

たとええば、とことん、ご自身の内面と向き合ったのでしょうか。または、恩師と仰ぐ方
の強い影響があったのでしょうか。あるいは、この世の生活のうえで、ご自身の内面を突
き動かすだけの大きな事件があったのでしょうか。

仏によって自身を知らされるというのは、どういうことでしょうか。自身を知らされると、
なぜ、「情けなさ」「辛さ」「侘しさ」といった感情が湧き起こるのですか。「これ以上
落ちるところがない」というのは、どんな感じですか。

不躾な質問で恐縮ですが、もし差支えがなければ、少しでもお話をいただけませんか。
それこそ、生まれつき目の不自由なものに、赤とはどんな色かを説明するようなものかも
しれませんが、無理を承知でお尋ねをしております。

なにとぞ、よろしくお願い申し上げます。

南无阿彌陀佛

●re.13
菩提心
非公開の非公開
[ 2024 ] Re13:後念相続 2 2010/07/28 (Wed) 09:53 △up ▽down
>まず最初に菩提心さま、
>佛と如来の違いのところで貴女にご存知ないのですかと云ったのならば、
>なにかを云われても少しは我慢も出来ますが、貴女宛ではないでしょう。

忍草様

私はここの掲示板がボン様と私と忍草様の3人のやりとりならば、別に書かないと思います。

忍草様のように長年仏法と御縁が深い人ばかりではないと思います。

誰が読んでも分かるように、忍草様が書いて下さらないからです。

掟は守り、しかし誰が読んでも理屈に合うお話をして下さらないからです。

>如来の意味は御存じないのですか

じゃあ、そんな書き方ではなく、佛はこうですよ、如来はこうですよと書けばよいことではありませんか。

>「佛」は則ち不可思議光如来と書かれていますよね。(阿彌陀佛ではない)

これもよく分かりません。

不可思議光如来と阿彌陀佛はどう違うのですか?

あちこち場所を変えないで、その場所で書いて下さい。


この「毎日の浄土真宗」のトップページには

>浄土真宗で阿弥陀如来の第十八願による真実信心を獲得し、生きながらにして、極楽往生治定したい方のためのサイトです。

>獲信、信決定、信心決定、真実信心、真実の行、六字の謂れ、これらのことに興味のある方を対象としています。

>そして、信心決定して、後念相続の場を求める方のためのサイトでもあります。

>第十八願の信をいただくにはどうしたら良いのか?

>法然聖人や親鸞聖人、蓮如聖人のお導きにしたがって、書いて参ります。

>どうか、一日も、一刻も早く、弥陀をたのみ、極楽往生治定してください。

との毎日様の思いがあります。

今は、お忙しいのでこの場所にはなかなかおいでになりませんが、でも閉められずにこのように忍草様達ともやりとりしていて有難いと思います。

私は忍草様と喧嘩をしたり、言い争いをしているつもりは毛頭有りません。

自分鏡と言われますが、自分の思いがそうだから、私(菩提心)もそう思っていると、常に私を意識して書いておられるようです。

私は、忍草様と私の書き込みから、少しでも仏法に御縁頂ける人がおられると嬉しいという思いと、ここは常に私の原点の場でもあるので、楽しくなるのです。

宿善、無宿善を見極めて、お勧めするのがこの道では有りませんか。

ここを読んでいるお方の中に、一人でも、極楽浄土ってどんなところだろう、信心決定って、誰でもなれるんだろうか、それじゃ御文を拝読してみようか、そんな人が現れると嬉しいです。

南无阿彌陀佛

●re.14
菩提心
非公開の非公開
[ 2025 ] Re14:後念相続 2 2010/07/28 (Wed) 10:36 △up ▽down
つづきます。

>以前にお文三帖目一通の阿彌陀佛、阿彌陀如来、彌陀如来、阿彌陀ほとけ、
>の違いを理解されていますか、と書き込みしましたがどなたも返事がない
>ので、理解されているか若しくは知識さんに尋ねているのだと思って
>いるのです。

忍草様はどのように理解されておられるのですか?

私は、読み方だけの違いだと思います。

○○さん、○○ちゃん、○○坊、○○君・・・。

普段から、阿弥陀佛とか、阿弥陀様とか呼ばないで、阿弥陀さんと読んでいるお年寄りもおられます。

それだけの違いだと思います。

蓮如上人の時代は、文字も読めない人が沢山いました。

そんな文章を読んで、そのような違いを理解した人は少ないと思います。

蓮如上人は、その地域、地域の文字の読める人、(多分、身分的には道場頭のような人)に御文を渡され、そのような人から伝え聞いたと思います。

それに、ボン様は善知識様とも今は御縁がないと書かれていますし、私の有縁の善知識様も遠方です。

まして、掟に関わるところでも無いのなら、そんな意味深な書き方をしなくてもいいのでは有りませんか?

そこがとても重要な場所ですか?

重要な場所なら、そんな風に書かなくて、どのように違うのか教えて貰えませんか。

それとも、菩提心は何にも分かってないと、遠目から、はやく「樣」と呼ばれるように応援して下さいますか。

忍草様とはこんな調子なので、私は自分が納得したところ、疑問に思うところ、
又、忍草様が私以外の人に書いている場所でも顔を出すと思います。

宜しくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.15
菩提心
非公開の非公開
[ 2026 ] Re15:後念相続 2 2010/07/28 (Wed) 14:34 △up ▽down
>以前に書いた、知識さんに「あなたは法蔵比丘ですよ」〔1925〕をその後
>尋ねられましたか?真の善知識さんの持ち物の書類の中に書いてあるのです。学が浅い深い関係なしです、必ずお持ちのはずです。
>一般的には見せないのですが、部分的ならば見せてもらえるはずです。

[ 1925 ]より引用
>後相続の中で善知識さんから、「貴方は法蔵比丘ですよ」と言われたことは
>ありませんでしたか?
>もし法蔵ならば、精進してもあたりまえですよね。


これで少しずつ理解できてきました。

>「貴方は法蔵比丘ですよ」と言われたことはありませんでしたか?

言われたことは有りません。

それに、そんな解釈をしている真宗の本も読んだことは有りません。

真宗の教えは「摂取不捨」「即得往生住不退転」だと思っていました。


「よろこびおもうこころの一念おこるとき、往生はさだまるなり。これすなわち、弥陀如来、因位のむかし、至心に回向したまえりしゆえなり」となり。
この一念について隠顕の義あり。顕には、十念に対するとき一念というは称名の一念なり。
隠には、真因を決了する安心の一念なり。これすなわち、相好・光明等の功徳を観想する念にあらず、ただかの如来の名号をききえて、機教の分限をおもいさだむるくらいをさすなり。
されば、親鸞聖人はこの一念を釈すとして、「一念というは信心を獲得する時節の極促をあらわす」(信巻)と判じたまえり。
しかればすなわち、いまいうところの「往生」というは、あながちに命終の時にあらず、無始已来、輪転六道の妄業、一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生の名願力にほろぼされて、涅槃畢竟の真因はじめてきざすところをさすなり。
すなわち、これを「即得往生 住不退転」とときあらわさるるなり。
「即得」というは、「すなわち、う」となり。「すなわち、う」というは、ときをへだてず日をへだてず念をへだてざる義なり。
されば一念帰命の解了たつとき、往生やがてさだまるとなり。
「うる」というはさだまるこころなり。
この一念帰命の信心は凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。
しかれば二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもって、一処には如来の願力にたとえ、一処には行者の信心にたとえたり。
「如来の願力にたとう」というは、「念念無遺 乗彼願力之道」(散善義)といえるこれなり。
こころは「貪瞋の煩悩にかかわらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。
「行者の信心にたとう」というは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」(散善義)といえるこれなり。
こころは「貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ず」となり。
されば、「水火の二河」は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。
「中間の白道」は、あるときは行者の信心といわれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。
これすなわち、行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらわすなり。
したがいて、「清浄の心」といえるも如来の智心なりとあらわすこころなり。
もし凡夫我執の心ならば清浄の心とは釈すべからず。
このゆえに『経』(大経)には、「令諸衆生功徳成就」といえり。
こころは「弥陀如来因位のむかし、もろもろの衆生をして功徳成就せしめたまう」となり。
それ阿弥陀如来は三世の諸仏に念ぜられたまう覚体なれば、久遠実成の古仏なれども、十劫已来の成道をとなえたまいしは、果後の方便なり。
これすなわち、「衆生往生すべくはわれも正覚をとらん」とちかいて、衆生の往生を決定せんがためなり。
しかるに、衆生の往生さだまりしかば、仏の正覚もなりたまいき。
その正覚いまだなりたまわざりしいにしえ、法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまいしとき、未来の衆生を浄土に往生すべきたねをば、ことごとく成就したまいき。
そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまったくひとつになるなり。
このくらいに無碍光如来の光明、かの帰命の信心を摂取してすてたまわざるなり。
これを『観無量寿経』には、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」ととき、『阿弥陀経』には、「皆得不退転 於阿耨多羅三藐三菩提」ととけるなり。
「摂取不捨」というは、弥陀如来の光明のなかに念仏の衆生をおさめとりて、すてたまわずとなり。これすなわちかならず浄土に生ずべきことわりなり。「不退転をう」というは、ながく三界・六道にかえらずして、かならず無上菩提をうべきくらいにさだまるなり。」    (浄土真要鈔 存覚上人)


法蔵菩薩の兆載永劫の御苦労は、末代の我々を一念で救う為でしょう。

それを「彌陀の御代官」として教えるのが、真の善知識様であり、忍草様も一念帰命は御理解しておられると思いますが・・・。

「平生の一念によりて往生の得否はさだまるものなり。
平生のとき不定のおもいに住せば、かなうべからず。
平生のとき善知識のことばの下に、帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり、臨終とおもうべし。
そもそも南無は帰命、帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり。」
   (執持鈔 覚如上人)

南无阿彌陀佛

●re.16
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2027 ] Re16:後念相続 2 2010/07/28 (Wed) 19:07 △up ▽down
   ボン樣  菩提心樣
如来について
前回ご仏壇についてちょっと書き込みましたが、その続きです。
中央は阿弥陀如来尊形図、両脇が十字名號・九字名號ですね。
最近は特にお西では親鸞聖人・蓮如上人になっている場合が多いようですが。
十字名號は、帰命盡十方無碍光如来ですね。一念帰命の衆生を摂取の光明で救う如来です(臨時の光明)。九字名號は、南無不可思議光如来ですね。
こちらは行者を護り育てる如来です(常光・彌陀の光明の内住まい)。
そうすれば、真の善知識の役目や、同行の信心成就の行者さんの役目が
理解出来ないでしょうか(お手引きの方も善知識(広義)ですよ)。

「淨土眞要鈔」抜書きします。
一章、「・・・次第相承の善知識ましまさずば、眞實の信心を傳へがたし」
 「自らもこの法を信じ、人を教へても信ぜしむること、難きが中にうたた
 更に難し、彌陀の大悲を傳へて普く衆生を化する、これまことに佛恩を
 報ずるつとめなり」
二章、「・・・信心を得る時往生即ち定まるなり。これを「即得往生」という。
 (獲るではなく、得るに注意。〔釋獲得名號〕参照)
三章、「この一念について隠顕の義あり。・・・隠には眞因を決了する安心の
 一念なり。・・・されば親鸞聖人はこの一念を釋すとして、「一念というは
 信心を獲得する時節の極促をあらわす」と判じたまへり」
 (顕は行の一念(極速)、隠は信の一念(極促)です)
 されば一念帰命の解了たつとき、往生やがて定まるとなり。「得る」と
 いうは定まるこころなり。
四章、「今「即得往生・住不退転」といへる本意は、證得往生・現生不退の
 密益を説きあらわすなり。これを以て我流の極致とするなり。」四章の
 最後のところに「・・・即ちこの意(こころ)なり。聖人の解了、常途の
 所談に同じからず。甚深の教義よくこれを思うべし」
 (甚だ深い教義はこの意(こころ)なり)
六章、一念の信心定まる時往生を證得せんこと、是れその證なり。
 (信の一念(信心成就)定まる時眞實報土に往生(現生・この土で)した
 ことを證(さとり)得(え)ること、がその證(あかし)である)
七章、「信心についていはん時(いう時)は、ただ一念開発の信心をはじめ
 として一念の疑心をまじへず、念々相続して・・・。ただ他力の不思議を
仰ぎ、法爾往生の道理にまかすべきなり。
(疑心なき一心(口では疑わないと云っても、心で疑うこともだめ)で念々
 相続して、佛智不思議を信じて法爾(釋自然法爾参照)往生にまかせる)
だから、極難信なのです。
八章、「淨土と穢土とその境はるかなるに似たりと雖も、正しく去るときは
一念に即ちいたる」・・・惑(まどい)をひるがへして證(さとり)を
開かんこと、掌(たなごころ)をかへす隔(へだて)なるべし」
(ボン樣のようにハッと気付けば一念にいたる)
十五章、「眞の善知識というは諸佛・菩薩なり。別していういう時は我等に
 法を與へたまへる人なり。・・・・・諸佛菩薩の総體は阿彌陀如来なり」
如来として使われる場合は方便法身なのです。
證巻に法性生身の菩薩として八地已上をあげていますが、法座の時には
善知識さんが、応身として「弥陀如来」という呼び名で書かれているのです。

菩提心様
「如来の意味をご存知ないのですか」単語の意味ぐらいならばボン樣は
『六要鈔』のところで辞書・辞典はつねに引き出していることは既に
わかった上で書き込みしています。
私がボン樣に書いた意味は広い意味で佛と如来の違いや、どういう時にどう
使われているのか理解していますかと舌足らずに書いたかも知れません。
でもあなたが不可思議光仏と不可思議光如来と違うのですかと尋ねられた
方が余程素直で素敵です。

一般的に阿弥陀さんの場合は、仏と呼ぶ場合は理仏で絶対界のほとけさま。
 如来とお呼びする場合は、相対界、絵像・彫像・名號・等、時と場合には
 人を指す場合があります。(三帖目一通が例です)
 阿彌陀佛(あみだほとけ)は佛凡一体になったところと書けばわかって
 いただけますか。

〔2024〕〔2025〕今読みましたが、どのような書き方や内容にするかは
私の勝手でしょう、一応はボン樣、菩提心様、毎日樣とあるいは皆様方と
相手を書いているつもりです。
その中で他の人、菩提心様が書き込みされるのもご自由だと思います。
ただ、こういう書き方をすればよいと指定されると、煩悩熾盛の私としては
反発したくなるのです。

三帖目一通の例ですが、蓮如上人も存覚上人も祖師聖人同様に字の使い分け
はキッチリとなされています。もし本当に読み方だけの違いと言い張られるのならば、聖教読みの聖教読まずとなりますよ。
知らないことは聞けばよいのですが、知らずに勝手に自分一人で思い込んで
主張して、教えないのが悪いように書かれては困ります。

私は以前から書くように捉え方は、ひとさまざまだと思いますが、祖師聖人・
覚如上人・存覚上人・蓮如上人他、各上人方が書かれた聖教は大事だと思う
し、特に祖師聖人の『教行信證』は根本聖典なので一番大事だと思いますが、
難解なので『六要鈔』に向うのですが、これも又難解です。ならば他の
上人方のカナ聖教をひもとくしかありません。

聖教読まずの聖教読みの方もいるでしょうけど、アマノジャクの私としては
なおさら何故何故となるのです。

でも今はどちらかと云うと、極道坊主樣に似たような阿彌陀さんまかせの
おかげさまでのひぐらしだと思いますが、煩悩熾盛で原子炉とまでは
いきませんが、なぜか猫二匹も大事なのです。 合掌 南無阿彌陀佛。

●re.17
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2030 ] Re17:後念相続 2 2010/07/29 (Thu) 10:14 △up ▽down
ボン樣  菩提心様
 三帖目一通の仏と如来の件ご理解いただけたでしょうか。
 もっと厳密に言えば、善知識樣は如来の代官の時は阿弥陀如来です、
 その場所で代官以外の法話の時が弥陀如来です。
 
 泥凡夫樣、そのほかの皆様 三帖目一通の仏と如来の使い分けについて
 私の捉え方と菩提心様のみんな一緒の阿弥陀樣だとおもいますについて
 是非ご意見下さいますようお願い致します。

 普段、人夫々の捉え方の違いはあっても、基本的な仏と如来の使われ方
 くらいは理解しあえないと会話も成り立たなくなりますので、是非とも
 お願い致します。

 私一人が突っ張って強調しても皆様がノ―と仰るならば、私は仲間内から
 いいかげんに書き込みをやめたらと注意も受けていますので、書き込みを
 おこなう必要もなくなるのです。  合掌 南無阿彌陀佛。

●re.18
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2031 ] Re18:後念相続 2 2010/07/30 (Fri) 01:44 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

ご丁寧にご対応をいただきまして、ありがとうございます。

「教行信證大意」は、割と短いので何度か読みました。
下記ページに前文掲載されております。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%95%99%E8%A1%8C%E4%BF%A1%E8%A8%BC%E5%A4%A7%E6%84%8F

「特に私が引用した第五節ですが」とのことですが、忍草様が主に引用されたのは以下の
第六節ではないでしょうか。

-------------------------------------------------------------------------------
【6】第五に真仏土といふは、まことの身土なり。すなはち報仏・報土なり。仏といふは
不可思議光如来、土といふは無量光明土なりといへり。これすなはち第十二・第十三の
光明・寿命の願にこたへてうるところの身土なり。諸仏の本師はこれこの仏なり。
真実の報身はすなはちこの体なり。(教行信證大意)
-------------------------------------------------------------------------------

そして、忍草様が「身土は体の居所、報身はこの体ならば、今の土つまり現生ではないで
すか。」とおっしゃっていることから判断すれば、「体」は現世のみに使用されることば
だから、報土は現世であるとおっしゃっているように理解できます。しかし、「体」が
現世の事象についてのみ使用される言葉であるとは、以下の事例を考えると納得しがたい
ものがございます。

-------------------------------------------------------------------------------
理は即ち教の体なり(六要鈔・教巻より『義疏』)
仏の名号をもって、経の体とするなり。(行巻より『論註』)
真如の体にこの差別の相あるというにはあらず。(六要鈔・行巻より『大乗止観』)
-------------------------------------------------------------------------------

それにひきかえ、私が「報土は来世である」と考える理由となる十数ヶ所の引用に是非に
ついては、まったく触れていただいておりません。

したがって、忍草様の報土は現世というご説明が、私の中にすんなりと入ってこないのは
事実です。しかしながら、現在の私の心境からいたしますと、たいへん申し訳ないのです
が、報土が現世か来世かということをことさら突き詰めることが、今の私にとって適切な
ことなのかよく分からないのです。

また、三帖目一通の仏と如来の件は、おおよそ理解できましたが、こまかく見るとまだお
尋ねしたいこともございます。しかし、この点も、今の現状で、あまり細かく突き詰めて
いくのがいいのかどうかわかりません。

それ以前に、私がこれまでに聖典を、自分の現状に合わせて都合よく理解ようとしてきた
のではないかと疑っています。その私のなかの聖典の理解の仕方全般を、ゼロベースで考
え直す必要があるのではないかと思っているのです。

その考え直す場合のキーワードは「信心」ではないかと思っております。「信心」とは何
かということを、もう一度よく考えてみたいと思います。

これまで何度も申し上げているように、私はいまだに「疑いの心」を断ち切ることができ
ません。いくらこのご法にご縁があっても、人間である以上、「疑いの心」が生じるのは
やむをえないことだと思っておりました。絶え間なく「疑いのない信心」を抱き続けるこ
とは、人間である以上、ありえないことだと思っておりました。

しかし、一点の疑心もない方がこの世におられることを知らされました。これはとても
衝撃的なことでした。私は、これまで以上に、私自身の「信心」または「疑心」という
ものを見つめ直してみたいという衝動にかられております。

そういうわけで、今後ともぜひ皆さまから助言、アドバイス等をいただけたら幸いと
存じます。どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.19
菩提心
非公開の非公開
[ 2032 ] Re19:後念相続 2 2010/07/30 (Fri) 11:36 △up ▽down
忍草様

突き詰めれば、お釈迦様の全ての教えは、「南无阿彌陀佛の六字の名号」に納まるのだと思います。

しかし、ただ称える念佛でないことは忍草様もご存じの筈です。

念佛にはスガタがある。

私は、37年間親鸞会で聞いてきて初めて知りました。

御文を拝読していても一度も教えて頂けませんでした。

よく最近は地元の新聞に親鸞会のチラシが入ってきます。

「帰命無量寿如来 南無不可思議光、阿弥陀仏に助けられた。救われた。」という内容のチラシです。

いつもいつも、どうしたら救われるんだろう?

いつになったら助かるんだろう?

それが掲示板を通して、このように救われて後の心境を書いたりしています。

本当に私は、そのことが不思議で不思議でなりません。

忍草様が意見を書いて下さると、私も発奮してしまいます。

でも、それは私にとって、とても有難いのです。

まず、忍草様の教えにどうしても納得いかないので、自分で探してみようという気持ちが出てきます。

親鸞会に居た時は、聞いた場所しか赤線が引いてありません。

いつも同じ個所ばかりです。

まして私は講師でもない、ただ怠惰な一主婦です。

その場所も決まったところです。他の場所を読むことも有りませんでした。


そして掲示板を通して、前の会に御縁頂いた時、とても熱心なおじさんと巡りあい、又それ以上によく勉強をされておられる御同行達がおられました。

きっと、そこで居心地が良かったら、私は泥凡夫様や毎日様とも御縁がなかったと思います。

そして、2か所を経て、今一味同行となりました。

泥凡夫様や毎日様は、もう日々の生活が南无阿彌陀佛の生活なのだと思います。

その点私は、忍草様も御存じのように、女人なので、業が深いのだと思います。

だから、いっぱいいっぱい愚痴も出てくるし、不平不満も出てきます。

それだからこそ、一番の正客は私なんだと嬉しくなります。


忍草様

>私一人が突っ張って強調しても皆様がノ―と仰るならば、私は仲間内から
>いいかげんに書き込みをやめたらと注意も受けていますので、書き込みを
>おこなう必要もなくなるのです。  

そんなことおっしゃらずに、どんどん書いて下さい。

私もどんどん探して反論します。(これってとても楽しいです)

泥凡夫様と2日前にお話しできました。

とてもお忙しいそうで、この掲示板も御無沙汰のようです。

泥凡夫様にその時言いました。

「きっと阿弥陀様は、笑ってこの様子を眺めておられると思うと有難いです。」


どっちみち、ここに登場の人は三悪道は行かないのですから、世間の人から見たらとても幸せじゃないですか。


それでは忍草様、

忍草様の書き込みの場所から、反論できそうな場所、探してみたいと思います。

お互い、絶対何かの御縁が過去世にあったような気がします。

忍草様に土間で叩かれたゴキブリとか・・・・。

南无阿彌陀佛

●re.20
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2033 ] Re20:後念相続 2 2010/07/30 (Fri) 12:12 △up ▽down
   ボン樣
聖教本文の方にはご指摘の【1〜8】のカッコはついていません。
すぐに、そもそもから始まり、第一に第二に第三に第四に第五に第六に、と
書かれているので第五を第五節と書いただけです。

終戦まで、天皇陛下は現人神としていろいろの詔(みことのり)を詔書
(しょうしょ)として出されました。有名な終戦の詔書が最後です。
「朕深く世界の大勢と帝國の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾
せむと欲し茲に忠良なる爾臣民に告ぐ・・・・・・・・・・誓て國體の
精華を發揚し世界の進運に後れざらむことを期すべし、爾臣民共に克く
朕が意を體せよ」

體(体)・教の体、経の体、意を體せよ、と「身土」「報身はすなわちこの
体なり」とは〔体〕の使われ方がちがいませんか。

一方は〔教・経〕は根本とし〔意を體せよ〕は頭の理解だけではなく、体も
使ってと理解できませんか。
一方の『大意』の方は身体と理解出来ませんでしょうか。

何度も申しますように、因・果、獲・得、即ち・則ち、極速・極促、
仏・如来、一念帰命をいただいた念佛行者も衆生側から見れば凡夫に
かわらないかもしれませんが、法(仏体)側から見れば菩薩となるように
見る視点によっても違うし、使い方・使われ方によっても違うでしょう。

私が云いたいのは、その聖教の文章全体の流れの中で〔大意〕を摑んでから
個々の解釈に入らないと、間違いを犯す場合がありますよと忠告するのです。

菩提心様
「淨土法門見聞鈔」の件ですが〔2018〕で書いたように勘違いではあり
ませんでしたか。私はミスを自分で認識すれば謝ったり訂正してきている
はずです。
私も殆ど聖教から引用しますが、菩提心様のように「ダラダラ」と長文の
引用は致しません。『淨土眞要鈔』の引用は何を伝えたかったのかお知らせ
下さい。(多分同じ頃に同じ眞要鈔を開いていたのですね)
又、三帖目一通の件も是非ご返事下さい。

摂取の光明で救われて、弥陀の光明の内住まいをさせて頂いているのならば、
そこが報土(現生のこの土)でなければ、もし報土が極樂ならば、光明の
内住まいというのは理屈があわないのではないでしょうか。

経論釋の経論は、なかなか一般人としては、原文が漢文なので難解ですが
せめて釈文くらいは理解できるようになりたいものですね。
その釈文も古文なので間違うと逆の意味になる事もあるのです。
でも理解できてくると、ここに書かれているのはこの聖教とも合うし、この
聖教のこことも繋がってくると解るようになると結構面白いですよ。
何故何故のアマノジャクより。 合掌 南無阿彌陀佛。

●re.21
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2034 ] Re21:後念相続 2 2010/07/30 (Fri) 12:34 △up ▽down
 追記 菩提心樣

 「まず、忍草様の教えにどうしても納得いかないので」

 私は教えているつもりではありません。

 自分の捉え方や意見を述べているだけなのです。

 ただ、易行だからといって、すべてが『易』ではないと主張するのです。

 極道坊主樣も云うように「極難信」だと云いたいのです。

 書きたい時に書き、書きたくない相手には書かない、(互いに法謗を避ける為)

 こんなわがままな?忍草です。 合掌  南无阿弥陀仏。

●re.22
菩提心
非公開の非公開
[ 2035 ] Re22:後念相続 2 2010/07/30 (Fri) 13:29 △up ▽down
忍草様

菩提心様
>「淨土法門見聞鈔」の件ですが〔2018〕で書いたように勘違いではあり
>ませんでしたか。私はミスを自分で認識すれば謝ったり訂正してきている
>はずです。

種であり、因である。


>私も殆ど聖教から引用しますが、菩提心様のように「ダラダラ」と長文の
>引用は致しません。

忍草様

随分、勿体ない事を言われるんですね。

全てを書いて読めるのに、それを「ダラダラ」と表現なさるのですか。

それにこんなに分かるように説明して下さっておられるじゃ有りませんか。

忍草様だけに分かってもらうつもりで書いているのでは有りません。

若しかして、御縁有る人が気づいて下さると思って書いています。

そして、パソコンを開けると、おおよその聖典等が拝読できます。


又、時折、極道坊主様を引き合いに出されますが、極道坊主様とは違うと思っています。

しかし、極道坊主様がここにお出で下さったお陰で、私は信後の味わいを書いて来れましたし、極道坊主様のようなお方こそ、オアシスのような人柄だと思います。


ということで、わがままな?忍草様

それでも相手して下さいまして有難うございます。

私も仕事やその時の事情で書ける時や、気が進まない時もあります。

いずれ、忍草様が私に書いて下さったところを一つ一つ、御返事出来るようになれたらいいですね。

それまでこの掲示板があることを願って。


南无阿彌陀佛

●re.23
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 2036 ] Re23:後念相続 2 2010/07/30 (Fri) 14:58 △up ▽down
忍草様

>私一人が突っ張って強調しても皆様がノ―と仰るならば、私は仲間内から
>いいかげんに書き込みをやめたらと注意も受けていますので、書き込みを
>おこなう必要もなくなるのです。

この点についてですが、私は菩提心様と、少し意見が異なるのです。

私としては、距離が近いお仲間を大切にしてほしいと思っています。

ですから、基本的には、お仲間が反対であるならば、書き込みはやめた方がいいと思います。

それでも書き込む場合は、忍草様ご自身のお気持ちとして、「言わずにはおれない」というお気持ちがある。

それであれば、書き込んでくださることはうれしいです。

しかし、「書き込みをおこなう必要もなくなるのです」とのことですので、どうか無理はなさらないでください。

私は、仲間割れのようなものは、望んでおりません。


●re.24
菩提心
非公開の非公開
[ 2037 ] Re24:後念相続 2 2010/08/01 (Sun) 19:15 △up ▽down
毎日様

こんばんは、


>私としては、距離が近いお仲間を大切にしてほしいと思っています。


そうですね。それが一番楽しいですし、それが理想だと思います。


私は今、色々なご著書を拝読させて頂いています。


ついつい忍草様の書き込みに反応してしまいました。

でも、これも私にとってはとても有難かったです。

全然、仏教書を手にすることもなかったのが、読んでみようと
せっせと興味がある所をパソコンに入れています。

いつか、インターネットもしなくなると思います。

その時に、読んで楽しめたら嬉しいです。


>私は、仲間割れのようなものは、望んでおりません。

私はそれでも仲間割れと思っていなかったです。

いつかは全部阿弥陀様に救われる身。

そしてそんな人達とお話できたことが有難いです。

一人よがりの思いで、毎日様はじめ読んで下さっている人に
御不快な思いをさせてしまい申し訳ございません。


南无阿彌陀佛

●re.25
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2045 ] Re25:後念相続 2 2010/08/09 (Mon) 11:33 △up ▽down
   毎日樣  菩提心様
>私は、仲間割れのようなものは、望んでおりません。

私達のお同行の中には県を跨いで見える方もあり、知識さんも10名の方が
在籍していますが、仲間割れとかの心配は全くありません。

夫々の個性や自由を縛るようでは長続きいたしません。

当然獲信して日の浅い方もいれば、知識さんになって日の浅い方もいます。
そのような場合、捉え方も若干違う場合も出てきます。
その時こそ自由に質問したり、自分の意見を聞いて貰ったり、時には時間を
(年の場合もあります)かけて本人の意思で(頂いた仏智で)同胞となる
のではないでしょうか。

書き込みさせていただくのも全く私の自由意志であり、自分自身の意見です。

上記のように仲間割れのご心配は今後とも必要はございまいせん。
本当にご心配ありがとうございました。  合掌。ナムアミダブツ。

●re.26
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2046 ] Re26: 私の信心 2010/08/09 (Mon) 14:41 △up ▽down
   皆様方へ
一体、宗教とは何ぞや。仏教とは、淨土眞宗とは、そして私たちは今後
どうあるべきなのか、どう生きていくべきなのかお盆も近いことですから
ゆっくりと考えてみるのも宜しいのではないでしょうか。

まず、私の宗教観ですが、「生きる指針」である。
それは、宗教とは死んだあとのことを考える為ではなく、今後生きていく
為には、「自分は何故生きているのか」ということをみいだすために、自分に
とって一つの「なにかの価値観」が必要だったのです。

むかし、ある信頼している人に「君はなぜ生きているの?」と質問されて
ハタト困ってしまいました。「女房、子供の為と言うなよ、夫婦それぞれ
別々に生れて別々に死んでいく。又、親はなくても子は育つと云うだろう、
子供は成人して30才くらいになれば立派な大人だよ、それでも生きていれば子供のためとは言えないよね。世のため、人のためと言うなよ。
老後もし老人病院にでも入ってボケ老人にでもなれば、お尻の世話も他人樣
にご厄介になるんだろう、そうだとすれば世のため、人のためでもないよね。

その時、返事の仕様がありませんでした。

おかげさまで、今日の自分がいます。「F樣、本当にありがとうございました」。

生きる価値観、
それは「阿彌陀さん」との邂逅でした。
過去世、現世、未来世すべての因果を受け入れる。

「徹頭徹尾、現在の自分に素直に向き合い、現在の自分を受け入れる。」

アマノジャクな自分。すべて過去の自分があって今の自分に繋がっている。
ならばすべてに感謝感謝しかありません。これからもすべてに対して感謝
感謝の「お蔭様」です。今までの一寸したかかわりの方にも、おかげさまで。

ご恩報謝の『南无阿彌陀佛』すこしづつお返しするしかありません。

どうやってお返しするの?。
『なむあみだぶつ』をすこしでも知っていただくことしかありません。

『教行信證』信巻本のおわりに
『樂邦文類』の後序に曰く、淨土を修する者は常に多けれども、其の門を
得て徑(ただち)に造(いた)る者は幾(いくば)くも無し。
淨土を論ずる者は常に多けれども、其の要を得て直(ただち)に指(おし)
ふる者は或は寡(すくな)し矣。曾(かっ)て未だ自障・自蔽を以て説を
為す者有るを聞かず。因りて以て之を言うことを得。夫れ「自障」は愛に
若(し)くは莫(な)し、「自蔽」は疑に若くは莫し。但(ただ)疑・愛
の二心をして了(つい)に障礙(しょうげ)無(な)から使(し)むれば、
則ち淨土の一門未だ始より間隔(けんぎゃく)せず、彌陀の洪願常に自(お
のづか)ら摂持(しょうじ)したまうこと必然之理なり、と。已上。

『淨土文類聚鈔』のおわりに
流転の愚夫・輪廻の群生、信心起ること無し、眞心起ること無し。是を以て
『経』(『大経』)に言(のたま)はく「若し斯の経を聞きて、信樂受持する
こと、難(かた)きが中に之れ難し、此に過ぎて難きは無し」と。亦「一切
世間極難信法」と説きたまへり。
・ ・・凡夫の即生を示すを大悲の宗致と為したまへり。・・・・
常没の凡夫人、願力の廻向に縁りて、眞實の功徳を聞き、無上の信心を獲れ
ば、即ち大慶喜を得、不退転地を獲るなり、煩悩を断ぜ令(し)めずして。
速(すみやか)に大涅槃を證すとなり矣。

    合掌 なむあみだだぶつ 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.27
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2047 ] Re27: 私の信心 2010/08/18 (Wed) 16:49 △up ▽down
   皆様方へ
先ず〔2045〕での字の書き込みミスです。同胞→同朋です。
御同行、御同朋ですから。
又〔2033〕の私が云いたいのは、その聖教の文章全体の流れの中で〔大意〕を摑んでから
の文字化けは扌扁に國(旧字のくに)で「つかむ」という字でした。

もう一つ、讃嘆の〔1129〕で極道坊主さまがご指摘の「邂逅」という字の
使用についてですが、ご指摘のとおり大辞林、広辞苑、用語辞典を繰りまし
たが、めぐりあいとしての使用例しか載っていませんでした。
わたしは、二十数年前に「めぐりめぐってめぐりあう」と、どなた様からか
教えられて多分仏教用語だろうと思い込んでいましたので、時折使用して
いました(めぐりめぐってめぐりあう、ならば偶然の中の必然として)。

お盆も過ぎたのにまだまだ暑いですね。
せめて頭の中だけでもク―ルにしておきたいものだと思っています。
最初の2項は11日にメモしたのですが、なにぶんお盆は雑用が多いので
書き込みも出来ませんでした。 
               合掌  南無阿彌陀佛。

●re.28
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2051 ] Re28: 私の信心 2010/08/21 (Sat) 22:57 △up ▽down
   皆様方へ
ご法にお遇いになられた皆様方、この毎日樣のホ―ムペ―ジでいろんな意見
が出ていますね。
蓮如上人の一代聞書にも書かれているように、「物を申せ」とありますから
大変結構な事と思います。

「私の信心」を後念相続の中に書き込みするのも、毎日樣はお許しされる
ことと思って書きました。
「宗教・仏教とは、生きていくための指針・価値観」と書きました。
けっして死んでからの為ではない、生きてゆくために生死を解決したいのです。
さて、私と多くの方との意見の違いを纏めてみますと。
(1) 同行になれば、皆、死んだら即極樂へ往ける。
(2) 報土とは、極樂のことである。
(3) 精進などは必要がない。
の三つに大別されるかと思います。

この中の(2)でボン樣と最近意見が分かれていますが、他の方々も報土とは、
来世の「極樂浄土」のことと思っている方が多数派だと思いますので私見を
書きます。

まず、一念帰命を頂かれたお同行ならば、「即得往生」したとは思っている
のではないですか。
その「即得往生」は死んでから極樂浄土へ即得往生なのですか。
「後生」とは来世の事でしょうか?。

「阿彌陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候へ」とたのみ申して
候。たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定・・・。の、たのむ前の
「後生」は死後かも知れませんが、「御たすけ治定」の後はたすけられた
皆様は「後生」に入っているのに気付いていないのでしょうか。

理由・『愚禿鈔』上に
眞實淨信心は内因なり、攝取不捨は外縁なり。
本願を信受するは、前念命終なり。即ち正定聚之數に入る。
即得往生は後念即生なり。即時に必定に入る。
            又必定の菩薩と名くる也。

前念命終、後念即生ですよ、これが即得往生ではないですか。
前念命終は今世で、後念即生は来世ですか。

『最要鈔』に
憶念彌陀佛本願 自然即時入必定 唯能常稱如来號 応報大悲弘誓恩。
この文のこころは、彌陀佛の本願を憶念するときたちどころに必定にいると
みえたり。必定というはすなわち四十八願のなかの第十一の必至滅度の願
なり。自然というは如来の本願力をもって、往生を治定せらるるこころなり。
来迎をたのまず臨終を期せざる義あきらけし。しかれば経釋ともに本願の
生起本末をききうる時分にあたりて往生を得證する條、文にてあきらけし。
ひとみなおもへらく果縛の穢體やぶるときならでは、往生の行業成すべから
ずと、しかるにその條僻案なり。そのゆえは善悪の二報しからずまず性相の
さだまるところの悪業を平生のとき、造作する時分に三悪必堕の業因、最後
終焉に先達て治定するにあらずや。造悪につきて生處臨終にあらずと
いえども、治定する義必然ならば善悪は相対の法なれば、善業もまたあい
かわるべからず。これによりて往生の心行を獲得するに、終焉にさきだちて
即得往生の義あるべし。仮令(たとい)身心のふたつに付て命終の道理あい
わかるべき歟(か)。無始よりこのかた生死に転環して出離を悕求(けぐ)し、
ならいたる迷情の自力心に、本願の道理をきくところにて、謙敬すれば心命
のつくるときにてあらざるをや。そのとき攝取不捨の益にもあずかり、住
正定聚のくらいにもさだまれば、これを即得往生というべし。善悪の生處を
さだむることは心命のつくるときなり。身命のつくるときにあらず。
しかれば臨終を期すべからざる義、道理文證あきらけし。信心歓喜乃至一念
のとき、即得往生の義、治定ののちの稱名は、佛恩報謝のためなり。
さらに機のかたより往生の正行とつのるべきにあらず、応報大悲弘誓恩と
釋したまえるにてこころうべし。大概これをもって思擇すべきなり。

このように心命と身命に分けて説いてあります。

又『教行信證』行巻に
善く三悪道の門を閉じ法を見法に入り法を得、堅牢の法に住して、傾動す可
からず、究竟して涅槃に至る。・・・・・初地を得已るを「如来の家に生ず」
と名く。

まず、『最要鈔』の「心命のつくるときなり、身命のつくるときにあらず」の「つくる」は尽きるですから、あの時に身命ではなく、心命(無始以来の
悪業を瞬時に消滅させてもらう)・たましいの葬式でしょう。

聖典の『執持鈔』に「平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を發得せば、
そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし」・・「阿彌陀佛即是其行」
南無阿彌陀佛のすがたを心得るなり(お文5―5)ですよね。

終焉(身命・からだの命の尽きる時)に先だって心命を再生(清浄心に)して
信心を阿彌陀さんから廻向されたから「阿弥陀仏の子」になったのではあり
ませんか。それが行巻の「如来の家に生ず」でしょう。
ならば、「三悪道の門を閉じ法を見法に入り法を得」たのですから「堅牢の法
に住して、傾動す可からず」で「究竟(きわめつくす)して」(どこまで究竟
できるか解りませんが)「涅槃(分)に至る」のが祖師の教えではないでしょうか。

以上の理由で、現在即得往生して報土に住し、「仏の子」として彌陀の光明の
内住まいをさせてもらっているのではないでしょうか。
又、「傾動す可からず」ですから、疑心なき一心ですよね。

又、「究竟して」ですから、言い換えると精進してではないですか。

『一枚起請文』のとおり阿彌陀佛から信心を廻向していただくには、学文は
不要ですが(念(相)仏)、頂いた後に精進とか勉強を行わなくてよいと
何処にも書かれていないと思います。

私は歓喜から大慶喜心になるまで(初歓喜地から不動地)は最低限、自分が
疑心なき一心に到達するまでの精進(真諦門)、言い換えれば、間違った道へ
(S会・S苑等)進まない為にも、自分の足元を確認すべきだと思います。

信心成就(若しくは二河白道を歩んでいれば)して後、死後極樂浄土へ
往きたいものです。

若干、極道坊主樣と捉え方の違いは有るかも知れませんが、現在、既に後生
へ入っていると理解すれば、吹き抜け・垣根が取り払われているという思い
では同じではないでしょうか。
     
      合掌 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.29
菩提心
非公開の非公開
[ 2052 ] 臨終と後生は同じ?? 2010/08/24 (Tue) 10:51 △up ▽down
忍草様

毎日暑いですね。

臨終は、死後迎える直前の時期ですよね。
つまりまだ死後ではない。

★臨終=死に臨むこと。また死ぬこと。末期(まつご)
  類語:一期(いちご)・今際(いまわ)・往生際(おうじょうぎわ)・最期(さいご)・死期(しご)・ 死に際

★後生=@[仏]
  1、死んで後の世に生まれ変わること。その世。来世。後世。未来世
   対義語:今生(こんじょう)  
       前生(ぜんしょう)
  2、来世で極楽に生まれること。来世の幸福。「−を願う」  スーパー大辞林より

★後生(仏教語)
 @死後に生まれ変わって住む世界。後世。来世 
 A死後の世界での安楽、極楽往生。              全訳古語辞典より



真実信心の人は、善知識の下で一念帰命した人です。

そういう人は、今が正定聚の身ですから、あえて来迎をたのみ、臨終を待つこともない。

○来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるが故に。臨終まつこと来迎たのむことは諸行往生の人にいうべし。真実信心の行人は、摂取不捨の故に正定聚に住す。正定聚に住するが故に必ず滅度に至る。かるがゆえに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。是れすなはち第十八願のこころなり。臨終をまち来迎をたのむことは、諸行往生を誓いまします第十九の願のこころなり。

これは覚如上人の時代背景もあると思います。

当時主流だった、臨終往生が弘まっていたので、当流の教えは臨終ではない、現在ただ今救われる(平生業成)のが真宗だと勧められたお言葉だと思います。


又、「根機つたなしとて、卑下すべからず。仏に下根をすくう大悲あり。行業おろそかなりとて、疑うべからず。『経』に「乃至一念」の文あり。仏語に虚妄なし。本願にあやまりあらんや」

★根機=仏語。教えを受ける者にそなわっている素質・能力。機根。

★つたなし=未熟、愚か者

どう読んでも、疑うなとは読めますが、精進しなさいとは読めません。

仏語に虚妄なし、だからこんな私でも救われる教えだと思っています。



>『一枚起請文』のとおり阿彌陀佛から信心を廻向していただくには、学文は
>不要ですが(念(相)仏)、頂いた後に精進とか勉強を行わなくてよいと
>何処にも書かれていないと思います。

「念佛を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じて、智者の振舞をせずして、唯一向に念佛すべし」(一枚起請文、法然上人)

上記の場所を拝読すると、むしろ念佛を勧めています。


暑い中、熱中症にもならず、奮闘されておられるご様子。

(私は心臓が・・・・もうぐったりです→ゲゲゲの女房の竹下景子役のお姑さんのようなセリフを毎日言っています。)

ついつい怠惰な私も、聖典等を紐解く御縁となっております。

有難うございます。

南无阿彌陀佛

●re.30
菩提心
非公開の非公開
[ 2053 ] 精進、こんな風に示してあります。 2010/08/25 (Wed) 12:28 △up ▽down
「精進」について、こんな個所がありました。

唯信鈔文意[善導・散善義の文]=親鸞聖人85歳

「不得外現 賢善精進之相」というは、浄土をねがう人は、あらわに賢きすがた、善人の形をふるまわざれ、精進なるすがたを示すことなかれとなり。そのゆえは、内壊虚仮(ないえこけ)なればなりと。「内」は、うちという。こころのうちに煩悩を具せるゆえに、虚なり、仮なり。虚は、むなしくして実ならず。仮は、かりにして、真ならず。

しかれば今この世を如来のみのりに末法悪世と定めたまえるゆえは、一切有情まことの心なくして師長を軽慢し、父母に孝せず、朋友に信なくして、悪をのみ好むゆえに、世間・出世みな心口各異・言念無実なりと教えたまえり。

「心口各異」というは、心と口にいうこと皆おのおの異なり。「言念無実」というは、ことばと念(こころ)のうちと実なしというなり。「実」はまことという語なり。この世の人は無実のこころのみにして、浄土をねがう人はいつわり、へつらいの心のみなりと聞えたり。

世をすつるも、名(みょう)の心、利の心をさきとするゆえなり。しかれば善人にもあらず賢人にもあらず精進の心もなし、懈怠(けたい)の心のみにして内は空しくいつわりへつらう心のみ常にして、まことなる心なき身と知るべし。


親鸞聖人の年齢を書いたのは、前に御縁頂いた人から、親鸞聖人も年齢を重ねる毎に、分かりやすく伝えようとされたのをお聞きし、そして蓮如上人として再度今生にお生まれなられたのだと教えて頂いたからです。
又、末灯鈔を示して下さり、「あなかしこあなかしこ」って書いてあるだろうと言われた時、「へ〜!」と驚いてしまいました。

こんな熱心な人達の御縁も決して無駄では無かったこの道。


唯信鈔文意[奥書]
「いなかのひとびとの、文字の意(こころ)も知らぬ、あさましき愚痴きわまりなきゆえに、易く心得させんとて、同じことを、たびたびとりかえしとりかえし、書きつけたり。こころあらんひとは、おかしく思うべし。あざけりをなすべし。然れども、おおかたのそしりをかえりみず、ひとすじに、愚かなる者を、心得させんとて、しるせるなり。」


南无阿彌陀佛

●re.31
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2054 ] Re1:精進、こんな風に示してあります。 2010/08/26 (Thu) 13:59 △up ▽down
忍草様、皆さま、こんばんは。

はじめに、私は思考も心境も、常に揺れ動いているという前提で、ものを申し上げている、
ということをご了承いただきたいと思います。断固たる考えはありませんが、疑問点は
疑問点として、はっきりと申し上げたいと思います。

>さて、私と多くの方との意見の違いを纏めてみますと。
>(1) 同行になれば、皆、死んだら即極樂へ往ける。
>(2) 報土とは、極樂のことである。
>(3) 精進などは必要がない。
>の三つに大別されるかと思います。

このようにはっきりと意見がわかれているのかどうかは定かではありませんが、
現在私の感じていることを述べます。

>(1) 同行になれば、皆、死んだら即極樂へ往ける。

これについては正直わかりません。聖典も2通りに読めそうな気がします。これについて
は「法を聞いた後も疑ったら化土行き」かどうかというところが分かれ道のようです。
それによって「易往而無人」の意味の取り方も大きく異なってしまいます。ただし、
「化土も浄土だ」という考えからすれば、この違いは取るに足らないことかもしれません。

>(2) 報土とは、極樂のことである。

これについては、今のところそのように思っております。そのように思わざるをえない
根拠を「報土について」というスレッドを立てて[ 2002 ][ 2004 ]で示しております。
この読み方のどこがどのように間違っているのかを、忍草様に再三お尋ねしておりますが、
この点につきましては、いまだに一言も言及いただいておりません。この違いについて
述べるにあたっては、一言でもこの点に言及していただきたいものだと思います。

>(3) 精進などは必要がない。

一味同行が今生で生きていく姿を「精進」という言葉で表現することには違和感を感じま
すが、とりあえず我々の主観はさて置いて、仏の目から見ればどんな生き方も「精進」と
言えなくもないので、そういう意味では、あえて否定するまでもないと思っております。
(「精進などは必要がない」ではなくで、「意識して精進しようがしまいが、どちらでもかま
わない」というスタンスです。)

>前念命終、後念即生ですよ、これが即得往生ではないですか。
>前念命終は今世で、後念即生は来世ですか。

この点は、だれのどういう考えに対する疑問もしくは反論になっているのか不明です。
もう少し言葉を補ってご説明をいただく必要があるのではないかと思います。

また、以下の引用は、どういう目的でなされたのかよくわかりません。
心命と身命という言葉を分けて使っているということだけを言いたかったのでしょうか。

>憶念彌陀佛本願 自然即時入必定 唯能常稱如来號 応報大悲弘誓恩。
>この文のこころは、彌陀佛の本願を憶念するときたちどころに必定にいると
>みえたり。必定というはすなわち四十八願のなかの第十一の必至滅度の願
>なり。自然というは如来の本願力をもって、往生を治定せらるるこころなり。
>来迎をたのまず臨終を期せざる義あきらけし。しかれば経釋ともに本願の
>生起本末をききうる時分にあたりて往生を得證する條、文にてあきらけし。
>ひとみなおもへらく果縛の穢體やぶるときならでは、往生の行業成すべから
>ずと、しかるにその條僻案なり。そのゆえは善悪の二報しからずまず性相の
>さだまるところの悪業を平生のとき、造作する時分に三悪必堕の業因、最後
>終焉に先達て治定するにあらずや。造悪につきて生處臨終にあらずと
>いえども、治定する義必然ならば善悪は相対の法なれば、善業もまたあい
>かわるべからず。これによりて往生の心行を獲得するに、終焉にさきだちて
>即得往生の義あるべし。仮令(たとい)身心のふたつに付て命終の道理あい
>わかるべき歟(か)。無始よりこのかた生死に転環して出離をケ求(けぐ)し、
>ならいたる迷情の自力心に、本願の道理をきくところにて、謙敬すれば心命
>のつくるときにてあらざるをや。そのとき攝取不捨の益にもあずかり、住
>正定聚のくらいにもさだまれば、これを即得往生というべし。善悪の生處を
>さだむることは心命のつくるときなり。身命のつくるときにあらず。
>しかれば臨終を期すべからざる義、道理文證あきらけし。信心歓喜乃至一念
>のとき、即得往生の義、治定ののちの稱名は、佛恩報謝のためなり。
>さらに機のかたより往生の正行とつのるべきにあらず、応報大悲弘誓恩と
>釋したまえるにてこころうべし。大概これをもって思擇すべきなり。

これは『正信偈』の解説のようですが、参考になりそうなので現代語にしてみました。

--------------------------------------------------------------------------------
「憶念彌陀佛本願 自然即時入必定 唯能常稱如来號 応報大悲弘誓恩。」
この文章の意味するところは、「弥陀仏の本願を憶念するとき、たちどころに必定に入る」
と言っているように思われる。「必定」というのは、四十八願のなかの第十一の必至滅度
の願である。「自然」というは、如来の本願力によって往生が確かに定まるということで
ある。来迎をたのまず、臨終を期待しないという考え方が明らかに示されている。そのよ
うに考えるならば、経も釋もともに、本願の一部始終を聞くことができる時分にあたって、
往生を得証するということは、この文によって明らかであろう。多くの人々は、生死に縛
られた穢れた身体を破るときでなければ、往生の行業が成し遂げることができないと思っ
ているようだが、それは片寄った考えである。なぜなら、善悪の二つの報いは、どちらも
そうではないからである。まず、性と相の定まるところの悪業を普段の生活のなかで造る
時に、三悪道に必ず堕ちる業因が、最後の終焉に先だって確かに定まるのではないのか。
造悪については、生まれたところの臨終でなくても確かに定まることが必然であるとすれ
ば、善と悪は相対する法であるから、善業もまたそれと異なるということはありえない。
そういうわけだから、往生の心行を獲得すれば、終焉に先だって、即得往生があるといえ
るのである。仮にでも、身と心のふたつについて、命終の道理が、それぞれ分かれるとす
るべきであろう。永遠の昔からこれまでに生死を繰り返し、そこから抜け出すことを追い
求め続けてきた迷情の自力心にたいして、本願の道理を聞いて、謙虚にそれを敬えば、
それは心命の尽きるときではないだろうか。そのときに、攝取不捨の利益にもあずかり、
住正定聚の位にも定まるならば、これを即得往生というべきである。善でも悪でも、その
生処を定めるのは、心命の尽きるときである。それは身命の尽きるときではない。そうで
あるならば、臨終を待ち望むべきではないということは、道理からも文の証しからも明ら
かである。「信心歓喜乃至一念」のときに「即得往生」なのであって、それが確かに定ま
った後の称名は、佛恩報謝のためである。このうえさらに、機の側から往生のため正行を
しようと思いを激しくするべきではなく、「応報大悲弘誓恩(大悲弘誓の恩に報いるべし)」
と釋されたように心得るべきである。おおよそ、ここのように思い分別すべきである。
--------------------------------------------------------------------------------

ここでは、この御法に出会って自力を棄てて、他力の信心をいただいたときに心命が尽き
ると言っているわけですね。それは「信心歓喜乃至一念」のときですから、まさにあのと
きということになるわけです。

そして、その後の称名念仏は、御恩報謝の念仏だといっています。特筆すべきなのは、
「さらに機のかたより往生の正行とつのるべきにあらず」と言っていることです。現代語
にすると「このうえさらに、機の側から往生のため正行をしようと思いを激しくするべき
ではない」となります。

この点は、菩提心様の引用された以下の文章につながる部分があるように思います。

--------------------------------------------------------------------------------
浄土をねがう人は、あらわに賢きすがた、善人の形をふるまわざれ、精進なるすがたを示
すことなかれとなり。そのゆえは、内壊虚仮(ないえこけ)なればなりと。「内」は、う
ちという。こころのうちに煩悩を具せるゆえに、虚なり、仮なり。虚は、むなしくして実
ならず。仮は、かりにして、真ならず。
--------------------------------------------------------------------------------

たいへん参考になります。どうもありがとうございました。

南无阿彌陀佛

●re.32
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2057 ] 私の信心 2010/08/27 (Fri) 04:32 △up ▽down
   ボン樣、菩提心様、及び皆様方へ
私は〔2046〕より、〔私の信心〕として書くことが捉え方の違う方々に対し
何かの参考になればとして書いているのです。

極道坊主樣の〔2039〕の意見に従って、各人の捉え方を云々するのではなく、
私の〔信心〕として表現したいのです。

あの時に、心命を清浄にして即得往生させていただいた(後念即生)ところが、報土ではないでしょうか。と云いたいのです。
とりあえず、即得往生したのは心命であって身命ではないのですが、我々は
心命も身命も同じ体ですからややこしくなるとおもいますが心命をたましい
と捉えれば宜しいかと思います。(大経では魂神精識として出ています)。

蓮如上人は『袖中(しゅうちゅう)鈔』の中に第九識「庵摩羅(あんもら)識
(別名、阿摩羅識・無垢識)として説いています。

私が云いたいのは、即得往生したのは現生であって来世ではないということ
です。現生ならばこの地が初歓喜地(未證浄心の菩薩)となり證巻とも合致
するのです。八地已上の法性生身の菩薩とも書かれてありますから極楽の
(理の菩薩)菩薩ではなくこの世の菩薩位でなければ生身とかかれません。
(還相廻向の部分)
来世の極楽浄土往きのキップを戴いただけで、超特急か鈍行(化土)
かは各自次第だと思います。(言葉がきつすぎるかも知れませんが)

菩提心様
「浄土をねがう人は、あらわに賢きすがた、善人の形をふるまわざれ、精進
なるすがたを示すことなかれとなり」
の文ですが、巻頭に「あらわに」と書かれているのをどう捉えるのですか。
私ならば、「あらわに」は、お文三帖目十通の「外相にその色を見せぬように
振舞うべし」の掟として捉えます。
又、「娑婆の終り臨終と思うべし」は心命であって、身命でないからでは
ないでしょうか。(思うべしであって身命の臨終ではありません)
又、後生は前念命終・後念即生の後(念即)生です。一念帰命のところが
辞典に載っているわけがないでしょう。
ここにも精進という語がありますね、讃仏偈には四回出てきます。
ついでに今ひとつ、
〔2026〕の「貴方は法蔵比丘ですよ」と言われたことはありませんでしたか?
言われたことは有りません。
それに、そんな解釈をしている真宗の本も読んだことは有りません。

ボン樣の知識さんはすでに他界されていれば聞けないのですが、菩提心様の
知識さんはご存命ならば聞くことが出来るはずです。
真の善知識さんならば三つの証拠の品をお持ちです。
その一つに「○○○○鈔」というのがありますからその中に書かれています。
また真の善知識さんは全国で百名前後ですし、細君にも見せない書物です。
ですが、聞かれれば教えてくださるはずです。
門外不出の書物ですから、「そんな解釈している真宗の本も読んだことは
ありません」あたりまえの事です。

聞けるだけの信頼関係と、そこまで教えてよい人かどうかの判断ではない
でしょうか。
私も十年位前にあつかましくも一寸読ませて貰えませんかとお願いしたら
偶然読ませていただいたのです。

どんなことでもネットでわかるというものでは有りません。
     合掌 なむあみだぶつ 南無阿彌陀佛。

●re.33
菩提心
非公開の非公開
[ 2058 ] Re1:私の信心 2010/08/27 (Fri) 10:51 △up ▽down
忍草様

>聞けるだけの信頼関係と、そこまで教えてよい人かどうかの判断ではない
>でしょうか。
>私も十年位前にあつかましくも一寸読ませて貰えませんかとお願いしたら
>偶然読ませていただいたのです。
>どんなことでもネットでわかるというものでは有りません。

私は、忍草様のように善知識じゃ有りません。

それに、別に見せて貰わなくても我が身の信心に変わりはないです。

私は、「往相」の泥凡夫様や毎日様を信じられたということです。

忍草様に興味があって、忍草様のお話が聞きたいと思えば、メールして連絡する方法があります。

ボン様や毎日様や極道坊主様も同じ事です。

私が探していた時は、その方法が無かったので、残念ながら遠回りしたのです。

それに私は忍草様からみると「様」であって、「樣」ではないようです。

一味同行となった私に、御同行、御同朋とかしづいて下さった有縁の善知識様、そして地元の明るい善知識様と御縁頂いて有難いです。

忍草様のところは、救われても特別扱いするんですか?

精進の出来る人は超特急で報土行き、精進の出来ない人は化土行きだと、馬鹿にしたりするんですか?

そして、信頼関係が出来た人と思う人だけで、門外不出の書物を眺めて、喜んでいるんですか?

御文1−9
「当流の掟を守るというは、我が流に伝うるところの義を、確と内心に蓄えて、外相にその色をあらわさぬを、よく物を心得たる人とはいうなり。しかるに、当世は我が宗のことを他門・他宗に向いて、その斟酌もなく聊爾に沙汰するによりて、当流の人のあさまに思うなり。かように心得の悪き人のあるによりて、当流を「きたなく・いまわしき宗」と人おもえり。更にもって「これを他人悪きには非ず、自流の人悪きによるなり」と心得べし。

自流を自分と読み替えて、反省します。

尚、以前にもここの掲示板で、泥凡夫様より忍草様とは教義については噛み合わないと教えて頂いています。
私は私の納得出来たこと、不審に思っていることを書いていますので、その点宜しくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.34
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2059 ] Re2:私の信心 2010/08/28 (Sat) 00:33 △up ▽down
忍草様、菩提心様、皆さま、こんばんは。

いつもありがとうございます。

>私は〔2046〕より、〔私の信心〕として書くことが捉え方の違う方々に対し
>何かの参考になればとして書いているのです。

>極道坊主樣の〔2039〕の意見に従って、各人の捉え方を云々するのではなく、
>私の〔信心〕として表現したいのです。

極道坊主様に『邪見』とまでいわれては、とてもショッキングだったことは、十分に察し
がつきます。しかし、このようなことを申し上げるのはおこがましいのですが、忍草様は
極道坊主様のおっしゃっているいることを取り違えているような気がいたします。

「この様だから、こうなんだ。」という論の展開の反対は、他の人に考えや疑問とはかか
わりなしに、ただただ〔私の信心〕だけを述べること、ではないと思います。

「こうでもありますが、この様でもあります。」というのは、世俗的な表現で申し訳ない
のですが、いわゆる“Yes But 方式”だと思います。「たしかに、あなたのいうことは、
もっともなようでもありますが、もう少し視点をかえれば、このようにも捉えられません
か?」というような論の展開をすべきだと言っているのではないかと、私は感じておりま
す。それが、「逆も又、正。」ということではないかと思います。

ですから、「報土について」私が述べた[ 2002 ][ 2004 ]についても、ただ「たいへん
な間違い」と指摘したまま放置するのではなく、忍草様のような経文に詳しい方ならば、
「ここはこのように捉えられないか?」といったふうに、もっと別の見方を示していただ
けるのではないかと、私は期待をしているのです。

といいますのは、先にも述べたように、私には確固とした見地も信念もないからです。
私は、ほかの皆さまがたのおっしゃることと同様に、忍草様のおっしゃることも納得した
いと思って、これまで問答をしてきました。しかし、どうしても納得できない部分が残る
のです。そのひとつが「報土について」私が述べた[ 2002 ][ 2004 ]の内容です。

それは、たとえて言えば“喉に刺さった魚の小骨”のようなものです。喉に小骨の刺さっ
た者の目の前に、どんどん料理を運んできても、それを味わうことも、飲み込むこともで
きません。ですから、料理を運んでくる前に、喉の小骨を抜いてほしいのです。

だれがどう言ったからそのとおりにするとかいうことではなくて、自ら決めたスタンスで
お話をしていただければうれしく思います。

ところで、菩提心様は、泥凡夫様のお話を引き合いに出して「忍草様とは教義については
噛み合わない」とおっしゃいます。しかし、かみ合わないのは、教義そのものではなくて、
教義の理解の仕方ですよね。

同じように他力の法をいただいたものにとって、その教義のもとが聖典のみであって、
そこに一切の私見をいれないのであれば、本来、そこにかみ合わない部分など生じない
はずです。同じ御法を聞いているはずなのに、相容れない流れが2つあるというのは
不幸なことです。

このようなときに、我々のたよりにできるものは聖典しかないのですから、聖典から外れ
ず、私見を交えずにお話し合いをしていたら、いずれは接点がみつかるのではないでしょ
うか。

忍草様も「捉え方も若干違う場合も出てきます。その時こそ自由に質問したり、自分の
意見を聞いて貰ったり、時には時間を(年の場合もあります)かけて本人の意思で(頂い
た仏智で)同胞となるのではないでしょうか。」とおっしゃっております。

ただただ、自分の信心を述べ合うだけで、他人の考えに対するコメントをいっさいしない
のであれば、この掲示板は単なる主張の場になってしまって、“信心の沙汰”をする場で
はなくなってしまうと思います。

南无阿彌陀佛

●re.35
菩提心
非公開の非公開
[ 2060 ] Re3:私の信心 2010/08/28 (Sat) 08:24 △up ▽down
ボン様

>ところで、菩提心様は、泥凡夫様のお話を引き合いに出して「忍草様とは教義について
>噛み合わない」とおっしゃいます。しかし、かみ合わないのは、教義そのものではなく
>教義の理解の仕方ですよね。


[ 856 ]の教義の場所をじっくり読んで頂けませんか?

わたしは、泥凡夫様の書き込みが理解できます。

>忍草様の申されたいことは分かるつもりでおりますが、根本的なことが異なっておりますゆえに、お聖教が紙の粉になるまで拝読しても平行線を辿ることになると思われます。

そして

>何年過ぎたかということに、少なくとも私は意味を見出しておりませんので、今に至るまで一切書く必要など感じておりませんでしたが、書かねばならぬと言われるのであれば書きます。34年でございます。

と書かれています。

泥凡夫様と私では、信後の味わい期間は全然違います。

それは期間で決まるのでないことは聖典を拝読すれば分かることです。

智慧は格別ですから、泥凡夫様や毎日様と同じでは有りませんが、信後の味わいは同じです。

その泥凡夫様が根本的なことが異なっており、平行線を辿ると仰っておられるのですから、其処で色々お話することは、却って読んでいる人に誤解を与えると思います。


ボン様のようなお方でも上記のように書かれる訳ですから。

忍草様は忍草様の有縁の人と一味同行仲良くやればいいのだと思います。

そして私はお陰さまで、3か所を経て、教義の理解の仕方の段階ではないと知りました。


>忍草様も「捉え方も若干違う場合も出てきます。その時こそ自由に質問したり、自分の
>意見を聞いて貰ったり、時には時間を(年の場合もあります)かけて本人の意思で(頂
>た仏智で)同胞となるのではないでしょうか。」とおっしゃっております。

若しそれが真意なら、ボン様がご指摘のように、その都度その都度誠意にお応え下さるのでは有りませんか。

私にはそのように思えません。

我田引水、我が信心が一番で、それになかなか同調しない私に「様」「樣」を付けて区別をして喜んでいるようにしか読めません。

しかし、お互いの単なる主張の場でも十分に「信心の沙汰」の場になっていると思います。

ここを読んでいた人が興味を持って、不審を抱き、直接有縁の善知識様宅に足を運んでおられます。

書いている人は僅かばかりですが、それを縁に宿善開発されるお方がおられます。

それでいいのだと思います。

私達が無理して直接お誘いしなくても、縁ある人は自然に導かれてくるのだと思います。

こういう場が有っての「信心の沙汰」。

有難いと思います。


南无阿彌陀佛

●re.36
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2061 ] Re4:私の信心 2010/08/28 (Sat) 11:43 △up ▽down
   菩提心樣
菩提心様
「浄土をねがう人は、あらわに賢きすがた、善人の形をふるまわざれ、精進
なるすがたを示すことなかれとなり」
の文ですが、巻頭に「あらわに」と書かれているのをどう捉えるのですか。
私ならば、「あらわに」は、お文三帖目十通の「外相にその色を見せぬように
振舞うべし」の掟として捉えます。

ここのところのご返事はいかがですか?

又法蔵比丘の件の書き込みに対しては、ネットや電話で済ませれるようなもの
ではなく、なかなか聞かせてもらえない、まして見せて貰うなんてのは全く
偶然でしたとの思いがつたわらなかったようですね。

あるいは、意識的に自分が都合わるいところはケンカ腰になって話題を
代えるのかなと思いました。

又、樣の件ですが今後すべての方に同じように様を使いたいと思います。

ジャレあうようなケンカは宜しいのですが、法蔵比丘のところは
真の善知識樣に関する持ち物ですから
「そして、信頼関係が出来た人と思う人だけで、門外不出の書物を眺めて、喜んでいるんですか?」
このような書き方はやめて下さいませんか?
   
   取りあえず失礼かもしれませんがお願い致します。  合掌。

●re.37
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2062 ] Re5:私の信心 2010/08/29 (Sun) 01:51 △up ▽down
菩提心様、こんばんは。

いつもありがとうございます。

>[ 856 ]の教義の場所をじっくり読んで頂けませんか?

[ 856 ]の教義の場所を以前にも読んでおりますし、ご指摘ですので、またじっくり読ん
でみました。私にとっては、全体的にしっくりくるお話で、なんの違和感もございません。

ただ最後の「平行線を辿る」の部分は、それ相応のお考えの末の結論なのだとは思います
が、完全に納得できないのが現状でございます。最後は、「泥凡夫様のお話が信じられな
いのか?」という類のお話になるのだとは思いますが、なにぶん、仏の話すら疑ってしま
う馬鹿者でございますので、ご容赦いただきたいと思います。

なお、私が「平行線を辿る」ということに十分に納得できない理由は以下のとおりです。

1.同じ他力の法をいただいている
2.同じ聖典に依拠している
3.私見を一切まじえない

以上の3つの前提に立つならば、最後は同じ考えにたどり着かざるをえないと思うからで
す。(ただし、この前提のひとつでも崩れるなら話は別ですが・・・。)

還相の人によって脈々と受け継がれているご法ならば、そこに仏の意図が働いているはず
なのですが、なぜこのようなちぐはぐな始末のなっているのだろうと考えると、少し悲し
い気持ちになってきます。

釈迦一代の教法のなかに、自力の法や、他力の法など、複数の法があるのは、様々の傾向
の人々を引き寄せ、最後は他力の法に入らせるための方便だと聞いたことがあります。

同じ他力の法に2つの“相容れない”流れがあるということもまた、そのような仏の意図
の一種なのだろうか。などと、愚にもつかないことをいろいろ考えてしまいます。

南无阿彌陀佛

●re.38
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2063 ] Re6:私の信心 2010/08/29 (Sun) 02:58 △up ▽down
忍草様、菩提心様、こんばんは。

いつもありがとうございます。

>「浄土をねがう人は、あらわに賢きすがた、善人の形をふるまわざれ、精進
>なるすがたを示すことなかれとなり」
>の文ですが、巻頭に「あらわに」と書かれているのをどう捉えるのですか。
>私ならば、「あらわに」は、お文三帖目十通の「外相にその色を見せぬように
>振舞うべし」の掟として捉えます。

この部分は菩提心様に対する質問でございますので、横から口を挟むのは少々気が引けま
すが、公開の掲示板上での問答ですので、お許しをいただければと思います。

まず、「あらわに」という言葉ですが、漢字で書きますと「露に」または「顕に」となり
ます。つまり「外側にはっきりとわかるように」といった感じかと思います。

ですから、その文章の全体は「外側にはっきりとわかるように、賢い様子や、善人の形を
とってはいけない。また、精進をしているような姿を示してはいけない」となります。
そして、より大事なのは、それが次の文章に続いていることではないかと思います。

--------------------------------------------------------------------------------
そのゆえは、内壊虚仮(ないえこけ)なればなりと。「内」は、うちという。こころの
うちに煩悩を具せるゆえに、虚なり、仮なり。虚は、むなしくして実ならず。仮は、かり
にして、真ならず。
--------------------------------------------------------------------------------

つまり、「その内側は、煩悩のために、壊れていて、虚しくて、実がなくて、真もない」
と言っています。だから、“あらわに(外側に)”「賢いとか、善人だとか、精進をして
いるだとかいう姿を見せようとしてはいけない」と言っているのだと読めます。

次に、お文三帖目十通の「外相にその色を見せぬように振舞うべし」の文章ですが、その
手前に「仏法を内心にふかく信じて」という言葉がついている点が大事だと思います。
つまり、ここでは「いただいた仏法を深く信じて、それを外に見せるな」といっています。
これは、まさに「いただいたものを隠せ」という掟の文章です。

要するに、「唯信鈔文意」の引用文と「お文三帖目十通」の文章とでは、「外と内」の
対比という点で、文章のスタイルは似ているものの、内にあるものとして対比された中身
はまるで違ったものになっています。

その内にあるものは、「唯信鈔文意」では「煩悩・虚・仮」であって、「お文三帖目十通」
では、「内心にいただいた仏法」です。

「唯信鈔文意」で外に見せるなというのは「賢善精進之相」であって、「内心にいただい
た仏法」ではありません。「賢善精進之相」を見せてはいけない理由は、自身の内実が
「煩悩・虚・仮」だからです。それは掟ではなくて、「自分をよく理解しなさい」という
戒めです。かたや、「お文三帖目十通」では「内心にいただいた仏法」を外に見せるなと
いう掟になっています。

このよに「唯信鈔文意」と「お文三帖目十通」の当該箇所は、文章のスタイルこそ似てい
ますが、その前後をよく読めば、そこに書かれている内容は別物だと考えるのが妥当だと
私は思いますが、いかがでしょう。

南无阿彌陀佛

●re.39
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 2064 ] Re5:私の信心 2010/08/29 (Sun) 04:04 △up ▽down
皆様こんばんは。

極道坊主であります。

活発な意見交換、互いに御同行を縁として順縁、逆縁合い交じり合い御育て下さいます佛の御廻向と押戴かせて貰うのであります。 お互いが対合佛なのでしょうね。 勿体無い事です。

「なかなか、自分の思う様になって下さらない方が、貴方にとっての大切な佛様ですよ。」と、師僧は申されました。 「自分の都合に合わない、思いどおりになってくれない、自身の気持ちを不快にする者の何処が佛様なのだろうか?」と首を傾げる程に疑問に思ったことがありますが、実際は思う様にならないのが道理でして、真理なのです。 其れを知らしめんが為の存在が上記の如くの人なのだと思います。

その様な逆縁の方々にまで手を合わせ、合掌して『有難う御座います。』の御念佛が申されるように育てて貰えれば『ほんまもん』(俗説的な言い回しで申し訳ありません。)だと思います。 手を合わせ『お世話になっております。』の心持でい(生、行、活)かさせて貰う。 この状態(心の)が、聖人様が申される『浄土に遊ぶ。』と言われる所なのでしょうか?

自分の様な、凡夫根性丸出しの人間は意見の反する者、自分側に攻撃的な者、攻撃を仕掛け様とする者を敵とみなし反撃に入ります。 相手の存在を認めず排除しようとする傾向が強いです。 其れは、意に沿わない者も当然の事ながら含まれます。

でも、お師匠様は「見んでよい事を見るでない、聞かんでよい事を聞くでない、されんでよい事をされるでない、受けんでよい事を受けるんじゃぁないんで。」と申されました。 良いとか悪いとかの判断は自分の方からするんじゃぁ無いんです。 其れは自身の計らいだと申されておられるのでしょう。 起こる事は、起こるべき事として『何かを知らねばならんご縁なのだ。』と頂戴する事が肝要なのだと思います。

意見の交わる事は無いであろう方の御意見も、聞かねばならんから、こうして意見交換をしているのではないですか? 「その意見は納得行かんから、お互い納得行く道をどうぞご勝手に。」では、やはり物事を正しく見ては居ないのだと感じます。(こういうのも邪見というのでしょう?)

>極道坊主様に『邪見』とまでいわれては、とてもショッキングだったことは、十分に察し
>がつきます。しかし、このようなことを申し上げるのはおこがましいのですが、忍草様は
>極道坊主様のおっしゃっていることを取り違えているような気がいたします。

ボン様、言葉足らずの部分を補って下さいまして有難う御座います。 ボン様の述べて下さいました思いも一部にあります。 また、別の思いも一つと言わず含まれております。

『邪見』という言葉、ショッキングと言われる程にきつい言葉でしょうか? 「こうでなかったら、こう受け取る。」こういった思いは人間本来の思考でして、其れが『正見』であるならば人は本来迷わないのであります。 正しい見方が出来ないから、煩い悩み迷うのでしょう? 教えの意見交換の上で、一番気を配らせて貰う事が肝心な所ではないでしょうか?(真宗に限らず佛の教えの元にある部分のように思います。)

忍草様の御意見は、自分としては「へぇ〜っ!こんな書物にはこんな事が書いてあるんだ?」とか、「えっ、こんな書物、俺きいたことねえよ。」なんて事も有り、感心させられる事が沢山あります。 大変、勉強をされておられる方なのだと感じる事が出来ます。 ただ、今の時点での思いを断定的に論ぜられる所が強いように思います。 その思いはその時点のものであって、又先にはどの様に変わって行くかわかりません。 同じ文面でも、その時の心のありようで読んだ味わいは変わってきます。 場合によっては今までの思いとは180度反対を向く事もある。 其れが御育てでありまして、佛より賜りたる御信心と言い表すのでしょう。

その心持を、押戴いて味わって述べられるのであれば反発も少なく、お互いが意見の共有をし、「あぁ、そんな味わい方もあるんだね。」と、皆が満遍なく味わう事が可能になるのだと感じます。 でありますから、「こうだから、こうなんだ。」という論の展開は、教えの意見の遣り取りでは控えられた方がよろしいかと感じるのです。(生意気な意見でしたね。お気に障られる様でしたらご容赦下さい。)

で、この書き込みでは、忍草様のご意見を元に『報土』と『精進』の事について述べられておりますので、自分の意見もチョッと聞いてやって下さい。(後から感想など戴ければ自分自身も育てられますので宜しくお願いします。)

>(1) 同行になれば、皆、死んだら即極樂へ往ける。

自分としては、『即』か、どうかは疑問ですが、極楽へは迎えとって下さると思っています。 その点に関しては疑っていません。 其れが阿弥陀さんの願いですから。 でも、往生に関する疑いが拭い取る事が出来ないのであれば、「化土行き」だとも思っています。 この様に書いてしまえば、またボン様の質問を戴きそうなのですが、ボン様の申される、「法を聞いた後も疑ったら化土行き」という部分、法が確かに私に届いて下さったならば、往生に対しての疑いは起こりようがありません。 それだけの力が佛の方にあるからです。 本当に聞けたのであればです。 法に縁があっても聞けていなければ疑いが起こってきますから、「一先ず化土に迎え入れる。」で無三悪趣の願いを叶えて下さり、娑婆とは比べ物にならないくらいの聞き易い場所ではっきりと信心を賜ってから極楽に迎え入れて下さるのだと聞いております。

>(2) 報土とは、極樂のことである。

自分自身は、『報土』とは『極楽』だけとは思っておりません。 数限りない佛様が御出でになります。 その佛様の数だけ『浄土』が存在します。 『極楽』は、阿弥陀佛の建立された浄土と聞いておりますので、究極の所は其処に辿り着く事を望んではいましたが、以前にも書かせて貰いました様に、『必堕無間』を味わっておりますので、自分の方からはどんなに精進した所で『極楽』には参れません。 それどころか、諸佛の浄土にも参れません。 でも、其処に目掛けて阿弥陀さんの願い『悪人こそ正客』が飛び込んで来て下さいまして拾い上げて貰いましてから、私自身は『既に弥陀の掌の上。』という思いがあります。 掌に居ますから、極楽浄土の教主と共という思いから、今を『極楽』とあじわっております。(こんな事、大っぴらには言えることではないんですけどね。) その思いは今の生活に表れて下さり、家族や縁ある方々に手を合わせお礼を申せる姿がありますので、この娑婆にありながら『浄土』(報土)の生活をさせて戴くのであります。 この様な状態を、平生業成とも現正正定聚とも言い表せられるのでしょう。(違っていますか? 心得違いでしたら言うて下さい。)

>(3) 精進などは必要がない。

この部分です。 これが今この書き込みで、皆様が一番捕らわれている部分だと感じるのです。 『精進』という言葉、自力、他力を論じる真宗の者だから『精進』は即ち『自力』と言うような偏った受け取り方をするのではないですか? 『精進をする。』となれば、精進している自分が頭角を現しますから敬遠した方が良いのかも知れません。 『真宗には「私」と言う者は無い。』と聞かせて貰っていますから。

やはり『精進』はさせられるのです。 必要に応じて、その者にあった形で。 これが後念相続と言う形で現れるのではないでしょうか? 「私は『精進』という言葉には抵抗がある。」とは、言ってみても気が付かぬうちに『精進』させられているのでしょう。 時間がそうじゃぁないですか? 進みたくなくても進められていますよ? 阿弥陀さんの別名、無量寿佛の寿の部分が時間です。(喩えが的外れですか?)

この『精進』が廃ってくると、佛より賜りたる信心を「私の信心」と言ってしまっています、知らないうちに。 『信心』は、あくまで佛様より賜ったものです。 自らにおいては信心の味わいなのでしょう。 ボン様が仰る「意識して精進しようがしまいが、どちらでもかまわない」というスタンスと言うよりも、自分としては「意識せずとも精進させられている。」という思いの方が強いかも知れません。 ということで、『精進』させられるのでありますから、下記のボン様の取り上げられました

>「さらに機のかたより往生の正行とつのるべきにあらず」と言っていることです。
>現代語にすると「このうえさらに、機の側から往生のため正行をしようと思いを激しくするべきではない」

という部分も、矛盾は生じなくなると思うのですが如何でしょうか?(ご意見下さいね。)

>前念命終は今世で、後念即生は来世ですか。

五逆罪を犯し、法を誹る様な者と信知させらせた、絶対の悪性の自身に佛様の御智慧が充ち満ちて下されば上記の如くでしょうが、十劫のご苦労をさせた、その佛様の目当てが誰なのかがハッキリしていませんと、忍草様の申される『心命』の終わりを迎えられませんから、上記の如くには行かないのではないか?と言うのが今の時点での自身の思いです。

菩提心様

皆様、拠り所とされているものは同じだと思うのです。 佛様の教えは、一瞬にして52段を横様に飛び越して行く様な摩訶不思議なものであっても、それを聞いている凡夫の方が崇高な教え(チョッと表現に疑問が残りますが?)を堕落させているのだと感じます。 掴み取ろうとするから。 理解出来ない物を理解しようとするから。 理論付けて解釈しようとするから結果として違う方向に行ってしまうのだと思います。

論釈が読めてくると解ったような気になるから不思議です。 そういった時は人間舞い上がってしまって、知らぬうちに増上慢に嵌っているんでしょうね。 でも、其れは自分自身では気がつけないんです。 相手がいて始めて気が付く。 鏡が有るから自分の姿が映るのです。 その嫌な姿を見せて下さるのが「何でこの人こんな事をするんだろう?」という思いに至った、自分の都合に合わない人だと聞きました。 嫌な役回りを引き受けられて、貴女を救う為に表れられた対合佛と押戴いて行かれれば、怒りも喜びに変えて貰えます、間違いなく。(生意気言いましたね。でも、宗教を聞くってこういった所の解決でしょう?)

解釈では何の解決も着かないと思っているのが『極道坊主』という者です。 でも、夫々に通ってくる道順があって、通って見て始めて気が付くのでしょう。 決して不必要なものは無いのだと信じています。

今回も変な書き込みでしたでしょうか? 結果、自分自身も自論の展開をしたまでだったのでしょう。
言っている事と矛盾していましたね。 反省しています。   合掌

●re.40
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2065 ] Re6:私の信心 2010/08/29 (Sun) 03:27 △up ▽down
ボン様
極道坊主様の
「この様だから、こうなんだ。」という、論の展開では必ず反発を呼びます。 論が二極化するからです。 主張する側の反対の意見は否定の形になってはいませんか? 主張される事は大事ですが、断定は無理を生じさせます。 また、上記のような主張は『邪見』と感じますよ。

そもそも、その様な形をとれば、『中道』の姿勢を離れます。 極論に走るからです。 「こうでもありますが、この様でもあります。」(言葉で表しますので表現し辛いですが、ニュアンスをお察し下さい。)でも良いのだと思います。 聞く側にすれば「逆も又、正。」がありえるのでしょう。 その聞き手から『苦』を抜き取る事が出来れば、そういうことです。

私はショックも感じませんし、ああ確かに中道の姿勢からはずれているかも知れないなぁ
と反省はしています。ですが取り違えてはいませんので心配はご無用です。

私がボン様にあえて強い口調で書くのは、源空和讃の「往生みたびになりぬるに」の
ところで、信心成就を理解して貰えなかったのが大きくズレはじめたのではないかと
思っています。

なぜ強く書くかは、『六要鈔』をやっていらっしゃるからです。
『六要鈔』は私見ですが『教行信證』以上にむずかしいとおもいます。證巻の還相廻向
や五念門が現生だと理解されないと大きくズレていくと心配するのです。

基本的には中道で説明すればよいとは思うのですが極道坊主様のように表現が上手く
出来ません、又ボカシてよいところだとも思えない事もあるのです。

例えば「仏・菩薩」「如来」にも二種の捉え方を行わないといけないのです。
それは理仏と事仏の違いが代表的だと思います。菩薩・如来も同じような見方が必要に
なってきます。

十七願は諸佛稱名の願ですよね、帰命の時は理ではなく、事仏・菩薩なのです。
眞要鈔の〔15〕を読めば理解出来ると思います。

以前にも書きましたが仏体側で見たり衆生側で見たり見方での捉え方が必要なのです。

このところを理解されたく思います。

今日もお講がありますので簡単に終わらせていただきます。
     合掌  なむあみだぶつ  南无阿彌陀佛。


●re.41
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2066 ] Re7:私の信心 2010/08/31 (Tue) 22:18 △up ▽down
極道坊主様、こんばんは。

いつもありがとうございます。

>「なかなか、自分の思う様になって下さらない方が、貴方にとっての大切な佛様ですよ。」
>と、師僧は申されました。

なるほど。“目から鱗”です。まったく同じ考えの人ばかりでしたら問答も起こらないし、
新たな発見も、認識の深まりもないということですね。ということは、このご一流でも、
交わらないよいうに見える二つの流れがあるということも、やはり、仏の方便なのでしょ
うか。

>『邪見』という言葉、ショッキングと言われる程にきつい言葉でしょうか? 「こうでな
>かったら、こう受け取る。」こういった思いは人間本来の思考でして、其れが『正見』で
>あるならば人は本来迷わないのであります。

なるほど。煩悩まみれの凡夫なら『邪見』で当然なのですね。そう思うと気が楽です。
所詮、我々は『邪見』の応酬をしていると考えるべきなのでしょう。

それと、我々凡夫は、白黒をはっきりとつけたがる。しがし、白と黒を越えた部分に仏智
があるのですね。「ひとつの角度からみればそうだけど、別の角度からみれば別の見方が
出てくる」ということでしょうか。

>ボン様の申される、「法を聞いた後も疑ったら化土行き」という部分、法が確かに私に届
>いて下さったならば、往生に対しての疑いは起こりようがありません。それだけの力が佛
>の方にあるからです。 本当に聞けたのであればです。 法に縁があっても聞けていなけ
>れば疑いが起こってきますから、「一先ず化土に迎え入れる。」

「法を聞いた後も疑ったら化土行き」なのかどうか私にはわかりませんが、仮にそうだと
しても私はいいと思っています。おっしゃるとおり「化土も浄土」なのですよね。私の心
のなかから「疑う心」がなくなることは、今のところ想像だにできませんが、それで化土
行きなら、それでも十分です。所詮、自分の力ではどうにもならないのですから・・・。

>やはり『精進』はさせられるのです。必要に応じて、その者にあった形で。これが後念相
>続と言う形で現れるのではないでしょうか?「私は『精進』という言葉には抵抗がある。」
>とは、言ってみても気が付かぬうちに『精進』させられているのでしょう。

>ボン様が仰る「意識して精進しようがしまいが、どちらでもかまわない」というスタンス
>と言うよりも、自分としては「意識せずとも精進させられている。」という思いの方が強
>いかも知れません。

この点につきましては、まったく異論がございません。そのとおりだと思います。「我々
の主観はさて置いて、仏の目から見ればどんな生き方も「精進」と言えなくもない」とい
うのは、そういう意味です。

>>「さらに機のかたより往生の正行とつのるべきにあらず」と言っていることです。
>>現代語にすると「このうえさらに、機の側から往生のため正行をしようと思いを激しく
>>するべきではない」
>という部分も、矛盾は生じなくなると思うのですが如何でしょうか?(ご意見下さいね。)

おっしゃるとおりだと思います。「精進」をしようと思っている人も、「精進」のかけら
も考えていないかたも、仏の力で増進させられるのが必然であるならば、仏の目からみれ
ば、それは「精進」と言えなくもない。「意識せずとも精進させられている」のだから、
「意識して精進しようがしまいが、どちらでもかまわない」ということです。

そして、このような話は忍草様との長い問答のなかで繰り返し申し上げていることですの
で、その繰り返しの果てに「精進などは必要がないと思うか否か」というような整理の
仕方をされるのは、すべて振り出しに戻るような感じで、正直に申し上げまして、今まで
の問答を無にしているような気がいたします。

>佛様の教えは、一瞬にして52段を横様に飛び越して行く様な摩訶不思議なものであって
>も、それを聞いている凡夫の方が崇高な教え(チョッと表現に疑問が残りますが?)を
>堕落させているのだと感じます。 掴み取ろうとするから。 理解出来ない物を理解しよ
>うとするから。 理論付けて解釈しようとするから結果として違う方向に行ってしまうの
>だと思います。

おっしゃることは解るような気もします。摩訶不思議な仏智を、我々凡夫の浅はかな智慧
で理解しようなどというのは所詮無理な話だと思います。しかし、お経は我々凡夫のため
に書かれたものでしょう。お経は、いわば子供に読んで聞かせる絵本のようなものであっ
て、摩訶不思議な仏智そのものではないと思います。

想像を絶する仏の智慧というものがまずあって、それをこの世の愚かな人間どもにもわか
るようにこの世の言葉で書き表したものが仏典なのだと思います。だからこそ、仏典の
一言一句を大切にして、それを少しでも理解しようとする態度はあってもいいものと思
います。

そのなかで、仏典の読み方の違いが起こって、それを相互の話し合いのなかで摺り合わせ
をすることも出てくるに違いありません。その場合に大切なことは、あくまでも仏典に即
して話をし、私見の応酬にならないようにすることではないか思います。そのようにして、
厳密に仏典に即した話のなかで、「その捉え方は違うのではないか」といった話はあって
もよいと思います。

もっとも、味わいというレベルの話は、個人的な感想としてあってもよいと思いますが、
それは経文の主旨とそぐわないという範囲内でのことだと思います。また、経文を理解し
たからといっても、それはこの世の人間の理解できる範囲のことを理解したというに過ぎ
ないのであって、それは摩訶不思議な仏智とは次元が違うという自覚が必要と思います。

以上、極道坊主様の含蓄の深いお話を承って、私の感じるところを述べさせていただきま
した。また、お話を聞かせていただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.42
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2067 ] Re8:私の信心 2010/09/01 (Wed) 01:00 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

いつもありがとうございます。

>私がボン様にあえて強い口調で書くのは、源空和讃の「往生みたびになりぬるに」の
>ところで、信心成就を理解して貰えなかったのが大きくズレはじめたのではないかと
>思っています。

私は忍草様から強い口調で書かれた、という思いをしたことは一度もございません。なにを
もって「強い口調」とおっしゃるのかは定かではありませんが、ひょっとしたら、私の報土
についての書き込みを「大変な間違い」とおっしゃったことを指しているのでしょうか。

もしそうだとしたら、私はそれを「強い口調」とも「弱い口調」とも思っておりませんし、
また、それが「強い口調」であったとしてもいっこうにかまいません。ただ「大変な間違い」
の中身を知りたいと思うだけです。

もし本当に間違っているのであれば、「ここの読み方がこのように違う」と具体的に指摘
していただきたいと思います。私はただ単に正しい理解の仕方を身につけたいと思うだけ
です。「大変な間違い」とおっしゃるだけでは、それが仮に「強い口調」であったとして
も何も響くものがありませんから、私の中に何の変化も生まれません。

それから、何度も申し上げるように、教義について私に特定の決まった考えなどないので
す。いつもフラフラしていて、誰かがああ言えばそれももっともだな思い、他の誰かがこ
う言えばそれもそうだなと思い、納得がいかなければ納得がいかないと言っているだけで
す。

だから、特定の考えから「大きくズレはじめた」などというようなものではなくて、もと
もとあっちにいたり、こっちにいったり、グラグラしているだけのことなのです。とはい
うものの、私はちょっとひねくれたところがあるので、多少「強い口調」でものを言われ
ても「はいそうですか」と従う従順さもなく、その中身を具体的に言っていただかないと、
納得しないという頭でっかちな人間なのです。

>なぜ強く書くかは、『六要鈔』をやっていらっしゃるからです。
>『六要鈔』は私見ですが『教行信證』以上にむずかしいとおもいます。證巻の還相廻向
>や五念門が現生だと理解されないと大きくズレていくと心配するのです。

確かに私は現在『六要鈔』を読んでいるところですが、私の主観的な意識としては
「教行信証」の学習をしているつもりです。『六要鈔』の構成を見ればわかるとおり、
それはまぎれもなく「教行信証」の解説本です。

『六要鈔』は確かに読みにくい本ですが、そこに還相廻向や五念門が現生だと書いていれ
ばそのように理解するだけですし、それが現世でないと書いていればそのように理解する
だけです。難解で意味不明であれば「何を書いているか解らない」思うだけです。あらか
じめ決まった考えもありませんから、ズレるもズレないもありません。

>基本的には中道で説明すればよいとは思うのですが極道坊主様のように表現が上手く
>出来ません、又ボカシてよいところだとも思えない事もあるのです。

おっしゃるとおり、ぼかす必要はまったくないと思います。私の間違っていると思われる
点を具体的にはっきりと指摘していただきたいと思います。「大変な間違い」とだけおっ
しゃって、それ以上何もおっしゃらないほうが、むしろボカシているように感じられます。

ちなみに、極道坊主様のおっしゃる「中道」というのは、「自分の考えがあっても、それ
についてぼかして、詳しく述べない」ということなのでしょうか。腹の中にあることをは
きりと言った上で、角度を変えれば別の見方も成り立つとか、または、違った2つの見解
の上に、そのどちらも包み込んだより大きな見地があるかもしれないということにも思い
をいたすということが、中道というのではないかと私は理解しました。

だとすると、「中道」というのは、様々な意見をはっきりと述べ合って、その違いをよく
理解することが出発点なのではないでしょうか。

生意気を申し上げましたが、ご意見を伺えれば幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.43
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 2068 ] Re9:私の信心 2010/09/01 (Wed) 05:27 △up ▽down
ボン様

>おっしゃるとおり、ぼかす必要はまったくないと思います。私の間違っていると思われる
>点を具体的にはっきりと指摘していただきたいと思います。「大変な間違い」とだけおっ
>しゃって、それ以上何もおっしゃらないほうが、むしろボカシているように感じられます。

この部分、私も同感です。


他宗をこなしおとしめることは、我宗の名望ではないという教えは、私にとって、とてもうれしいことです。

そして同時に、念佛修行の輩は、信心沙汰を行うという教えも、とてもありがたいです。

私は、自分に信心があると思いますが、それが本当に本当の真実信心かと問われれば、正直、「わからない」と言う他ありません。

そして、もし、目前に、「私は真実信心を得ている」と主張する人がいても、それを信じられるかと言えば、おそらく、信じないのだろうと思います。

私の場合、これは想像に過ぎないのですが、「信じたい」と思うきっかけは、その人が醸しだす雰囲気のようなものや、一緒にいて、心が自由になり、落ち着くことを感じるかなどの、自身の感覚が基準になるのだと思います。

私は、私に、私が納得出来る本当の真実信心を教えてくれる人がいるのなら、ぜひ教えを請いたいという思いを持っていると思います。

だからこそ、聖典もご拝読させていただくのだと思います。

ただ、納得するかどうかの基準は、自身の感覚の中にあると感じます。

そして、この自身の感覚を、何よりも大切にしたいと考えているように思います。


このようなことを考えている私ですが、

> 私は忍草様から強い口調で書かれた、という思いをしたことは一度もございません。なにを
> もって「強い口調」とおっしゃるのかは定かではありませんが、ひょっとしたら、私の報土
> についての書き込みを「大変な間違い」とおっしゃったことを指しているのでしょうか。
>
> もしそうだとしたら、私はそれを「強い口調」とも「弱い口調」とも思っておりませんし、
> また、それが「強い口調」であったとしてもいっこうにかまいません。ただ「大変な間違い」
> の中身を知りたいと思うだけです。

このボン様の感覚は、私の感覚と比較すると、より成熟しているものを感じました。

私は、あまり「強い口調」で指摘されてしまうと、感情が揺らいでしまうと思います。もちろん、理性的には、「強い口調」というのは、どうでもいいことです。それで、根拠が増えるわけではありません。

理性的にはそうですが、感情が、そこまで成長していないのが私だと思います。

そして、ボン様のこの記述を見て、私の心は、成長したような感じが致します。感謝致します。


◎仏智不思議と信ぜさせたまひ候ひなば、別にわづらわしく、とかくの御はからひあるべからず候ふ(親鸞聖人御消息24)

ただ如来の誓願に任せきれていない自身を思うのです。

しかし、不可思議ということで、理解を放棄してしまうのは、誤った道に入ったままになる可能性を残すと考えています。


ボン様の探究心と問答により、多くを学ばせていただいていることに、感謝致します。

私の信心というものは、

・称名により、弥陀をたのんだ
・一念でも救われるのだから、もう救われたのだろう
・死後、浄土に往くだろうと思っている。ただし、完全な確信ではない
・現世は穢土と捉えている。もちろん、一種の報土ではあるが、これは、因果を認めるならば、すべての世界は、報土であるから。

このようなものです。

南无阿彌陀佛

●re.44
菩提心
非公開の非公開
[ 2069 ] Re10:私の信心 2010/09/01 (Wed) 15:36 △up ▽down
皆さま、ここは今開けました。

私に対しての御意見、有難く思います。

まず忍草様

>ジャレあうようなケンカは宜しいのですが、法蔵比丘のところは真の善知識樣に関する持ち物ですから
>「そして、信頼関係が出来た人と思う人だけで、門外不出の書物を眺めて、喜んでいるんですか?」
>このような書き方はやめて下さいませんか?

申し訳ありません。
しかし、忍草様が尊敬されておられる真の善知識様に関する持ち物云々言われましても、私は全く違う善知識様ですし、又私が忍草様の書き込みにすぐに反応示すのには理由が有ります。

忍草様も多少は御存じの筈ですが、親鸞会から来た私は、親鸞会発刊の土蔵秘事の本で、すごく嫌な思いをしました。
一念帰命のスガタを露わにした本です。(でも本の中身とは違いましたが)

そして、どうしても逢いたい泥凡夫様には逢えず、中傷な書き込みをされ、回り道をしました。

ようやく連絡出来、毎日様との御縁も頂きそしてこのようなHPを立ち上げて頂き、一味同行ここで色々お話できるのがとても楽しかったです。

私が信じられたと常に書いているのは、泥凡夫様をどのように探せば良いのか雲を掴むような暗中模索の中、「必ず彌陀は導いて下さいます」と書かれ、信じて探した結果そのようになりました。

私は、一日も泥凡夫様を忘れたことは有りません。
それは毎日様も自信教人信様も同じです。そしてみちくさ様もです。(忍草様は御存じないと思いますが)

そしてこのHPを読めば読むほど、過去意味が分からなかったことが分かって嬉しいです。

私にとって、善知識様も阿弥陀様も尊いですが、往相の人が呼んで下さらなかったらこの道来れなかったと思います。

ここでいつも書いている時は、ジャレあうような喧嘩なんて思ったことは有りません。

読んでいる人に、私のように回り道して欲しくないから、いつも真剣に自分の分かる範囲内で書いてきました。

忍草様から色々私に質問されればされる程、全く信じていない人には不審に映ると思います。

尚、私に対しての質問ですが、ボン様が分かりやすく書いて下さいましたので、有難かったです。



その他の方には、いずれ御礼、感想等書かせて頂きます。

有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.45
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2070 ] Re11:後念相続 2010/09/01 (Wed) 16:03 △up ▽down
ボン様へ
ボン様の
なお、私が「平行線を辿る」ということに十分に納得できない理由は以下のとおりです。

1.同じ他力の法をいただいている
2.同じ聖典に依拠している
3.私見を一切まじえない

以上の3つの前提に立つならば、最後は同じ考えにたどり着かざるをえないと思うからです。(ただし、この前提のひとつでも崩れるなら話は別ですが・・・。)

全く同感です。
ただ、聖典の文言の解釈をどういうふうに捉えるのか、この部分の理解の
しかたでどうしても私見(捉え方)がはいる可能性が有るとおもいますが
いかがでしょうか。

 今ひとつ菩提心様への「あらわに」の件ですが
まず、「あらわに」という言葉ですが、漢字で書きますと「露に」または「顕に」となります。つまり「外側にはっきりとわかるように」といった感じ
かと思います。

ですから、その文章の全体は「外側にはっきりとわかるように、賢い様子や、善人の形をとってはいけない。また、精進をしているような姿を示しては
いけない」となります。

たしかにボン様の書かれる通り
「要するに、「唯信鈔文意」の引用文と「お文三帖目十通」の文章とでは、
「外と内」の対比という点で、文章のスタイルは似ているものの、内に
あるものとして対比された中身はまるで違ったものになっています。

その内にあるものは、「唯信鈔文意」では「煩悩・虚・仮」であって、
「お文三帖目十通」では、「内心にいただいた仏法」です。」

私が「唯信鈔文意」と「お文三帖目十通」を比較せずに書き込みしたのは
ミスでした。そうであっても私が問題提起したのは「あらわに」の文章は
わたしの〔2051〕に対して〔2052・2053〕での書き込みです。
その上での「あらわに」をどう捉えるのかとお聞きしたのです。
菩提心様は以前から「精進」という単語が好きではないといって精進は
する必要がないという見解ですから、そこのところを指摘したのであって、
両書の前後は気にもとめませんでしたが、大きい意味では「あらわに」
するなは「同行以外にあらわにするな」であって、「精進しなくてもよい」
ではないはずです。
あくまでも、「あらわに」をどういうふうに捉えて「唯信鈔文意」を書き込み
されたのか伺うのです。

菩提心様
私は〔2008〕でも善導大師・慈雲法師の文言を載せましたが一切書き込み
されていません。〔2009〕での「浄土法門見聞鈔」での「たね・このみ」も
たねを因と書かれただけで、このみを私は木の実とあとで書いたのに前記の
因を書かれて、この身のほうは木の実と認めていません。

どこにでも首をつっこんでくるのは大歓迎ですが、都合の悪い處は知らん
ふりですか?、あるいは理解しょうという気持ちがないのですか?。
私はけっして「イジメ」ているのではありませんよ、是非ご返事下さい。

   ボン様
〔2002〕〔2004〕に対して、私は〔2016〕で誓願(17・18願)に酬報されて
いるのではないですかと書き込みしましたが、ボン様のご返事はありません。

一念帰命(誓願)で信心をいただいたのならば、その土が報佛土ではないですか。
仏・如来の使い分けをどのように捉えるのか、ボン様の捉え方によっては
私の云わんとするところが理解されない事もあるかもしれませんね。
仏も如来も二通りの捉え方があると書いたつもりです。
〔理界・事界(この土を含む三界)〕

證巻の還相廻向の論註に「何が故ぞ広略相入を示現すとならば、諸佛菩薩に
二種の法身有り、一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身に由りて
方便法身を生ず、方便法身に由りて法性法身を出(いだ)す。此の二の法身
は、異にして分(わか)つ可(べ)からず、一にして同ず可からず。是の故
に広略相入して、統(つか)ぬるに法の名を以てす。菩薩若し広略相入を
知らずんば、則ち自利利他すること能(あた)はず。

広略相入は上記の理界と事界の相入です。
今一度證巻を終わりまで吟味していただけば、還相廻向も五念門の出第五門
も現生だと理解していただけるものと信じます。

あの時の善知識様は諸佛菩薩扱いですから。
すくなくともこれはご理解されているとは思いますが。

冒頭の三項を、お互いに念頭において。 合掌 南无阿彌陀佛。

●re.46
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2071 ] Re12:後念相続 2010/09/01 (Wed) 16:22 △up ▽down
  菩提心様へ追記
日本全国どこであろうとも、祖師聖人の流れを汲む真の善知識様ならば
必ず三つの持ち物をお持ちのはずです。その中の○○○○鈔は全て同じ
です。他の二つは内容が若干違うかも知れませんが。

○○○○は四字の字は書けません。
書き込みした後で菩提心樣の書き込みを読みましたので追記しました。

親鸞会の発行書物は以前の物は当然読んで知っています。
最近の書物は読む気になりませんので読んでいませんが。
   
       合掌  なむあみだぶつ  南無阿弥陀仏。

●re.47
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 2072 ] Re13:後念相続 2010/09/03 (Fri) 02:59 △up ▽down
忍草様

> ただ、聖典の文言の解釈をどういうふうに捉えるのか、この部分の理解の
> しかたでどうしても私見(捉え方)がはいる可能性が有るとおもいますが
> いかがでしょうか。

これは、全くその通りであると思います。

ですから、私たちが、「最後は同じ考えにたどり着く」ということは、おそらくないでしょう。

この点において、私は、ボン様とも意見が違います。

私は、私たちの考えは、多種多様であり、同じ聖典を読んでも、さまざまな考えが心に生じ、一致することはないだろうと思います。

そして、だからこそ、彌陀により、同一の信心を埋め込んでいただく必要があるのだと思っております。

究極のところ、私たちがどのように解釈するかは、どうでも良いことで、そのようなことは、浄土往生の正因になるのではなく、この世のひぐらしのなぐさめになるという考えです。


>日本全国どこであろうとも、祖師聖人の流れを汲む真の善知識様ならば、必ず三つの持ち物をお持ちのはずです

これは、公開されている御聖典に、明確な根拠はありますか。

私にとって、私がご縁をいただいた善知識様が三つの持ち物を持っていようと、持っていまいと、正直申しまして、どうでもよいことです。

そのようなことにこだわるのは、六字の価値を貶めるような感覚が致します。

伝統は貴重ですが、物証で救われるかが決まるのかということについては、私はとても懐疑的です。

弥陀の救いが届いたかどうかが肝要であり、我らが能因を起こしたときに、弥陀が準備されている所因がはたらいて、救われるようになっていると解釈しております。

忍草様が「三つの持ち物」を大切に信じていらっしゃるのは尊いことですし、忍草様がご自身を保つために、大切なことだとも思います。しかし、「祖師聖人の流れを汲む真の善知識様ならば、必ず」とは言えないのではないでしょうか。

それが、忍草様(たち)の思い込みである可能性はありませんか。

私は、私が信じていることは、すべて私の思い込みに過ぎず、間違っている可能性があると思っております。

私は、釈尊の時代から、弥陀の法は地上にあったと思いますが、これは信仰であり、物証はありません。

しかし、釈尊の時代には、その三つの持ち物は、ありませんね。

忍草様のお考えでは、祖師聖人以降に生じた新しい教えになるのではありませんか。

それとも、善知識の条件が、変わったのでしょうか。

この部分については、私は、私が存じております善知識様にも異論がありますが、少し問答したところ、十分に関わってはいただけませんでした。

その善知識様は、自身が信じていること、自身が覚えていることは語りますが、門徒の疑問には、あまり関わらず、話をそらす方でした。

もちろん、熱意はお持ちでいらっしゃいますが、その熱意は、ひとりひとりに強く向いているわけではないと、私は感じたのです。

この時点で、「最後は自分で判断しなければならない」と結論づけたのです。私は、自分のことを甘かったと思いました。人を見るのも、自分の責任です。

そして同時に、だからこそ、愚者が救われるこの道を尊いと思ったのです。

善知識様も俗物。聖と対比されるような人間味に溢れている。これはある意味、すごい世界であり、外部から見れば、やはり異様であると思います。

世の中には、偽物が横行しています。

私は、あくまでも、ひとりの道を歩み続ける所存です。

物は盗まれることもあります。それよりも、私は自分の考えを大切にしたいと思っております。

六字を信じて、我が道を歩む。しかし、「信じて」と書きましたが、疑いを抱いている。そして同時に、信じてもいるのです。


◎槃特がともがらなりともたもちやすく(唯信鈔)

唯信鈔の中で、特に私が好きな一節です。

祖師聖人は、唯信鈔のご拝読をおすすめでいらっしゃいますね。

唯信鈔におかれましては、はじめの部分におきまして、仏説を分類して参ります。

忍草様のご知性であれば、忍草様のご主張は、どの宗に分類されるか、ご理解できますよね。


以前もご引用しましたが、私は、次のような一節も、好きなのです。

◎故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。いまにいたるまでおもひあはせられ候ふなり(末灯鈔)

「文沙汰して、さかさかしきひと」というのは、浄土は遠いと思っております。

これは、世間一般の価値観とは逆なのです。

もちろん、御聖典を学ぶことは尊いです。私も、ご拝読します。

しかし、重点はそこにはなく、正因は、あくまでも六字にある。

この基本を、私は大切に捉えております。


さらに、さまざまなご意見がある中、最後は、すべてを弥陀が救って下さると思います。

この点においては、現時点において、弥陀を信じる、信じないですら、問題ではなく、ただただ、彌陀にお任せするのみということになります。


精進ということについてですが、御恩報謝のお念仏をとなえる。これも、精進と呼べば呼べます。それ以外の行為をするための時間、エネルギーを称名に振り向けているのですから。

真宗においては、御恩報謝のお念仏こそが大切な精進なのだと思いますが、私たちは、疑いを持っているために、これ以外のことをやろうとしてしまいます。

結局、六字にそこまでの価値があるということを、理解出来ないという姿を見せつけられるわけです。


再度、唯信鈔から引きたく思います。

◎読誦大乗をもちゐんとすれば、文句を知らざるものはのぞみがたし(唯信鈔)

南无阿彌陀佛

●re.48
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 2073 ] Re14:後念相続 2010/09/01 (Wed) 18:25 △up ▽down
菩提心様

上にも引きましたが、

◎読誦大乗をもちゐんとすれば、文句を知らざるものはのぞみがたし(唯信鈔)

この節を菩提心様は、しみじみと味わえると思うのです。


そして、少しく親鸞会様風に申せば、「それでは、『文句を知らざるものはのぞみがたし』ではないか!」というお気持ちではないかと思います。

私は、もう、基本的には彌陀に任せているのですね。

人智では、わからないことが、たくさんありすぎます。

信謗ともに縁となり、そして、自身が信なのか謗なのか、自分ではわからない。

人は、自分を正しいと思う傾向がありますから。


それでも、何を信じれば幸せになるのかと言えば、それは、私は、自身の「感覚、感情」だと思っております。

感覚や感情がラクになれば、実にしあわせですね。

そして、六字の信心をこの方向に向ければ、実にラクであると思うのです。


他人に信じてもらおうと思えば、疲れます。

ただ、自身が信じていて、六字で足りている。そう思えれば、ラクだと思います。


私には、疑いがありますが、実に不思議なことに、こうして、この掲示板をご拝読しているだけでも、確かに御念相続(これは、あえてこう字を当てます)になっていて、私の気持ちは、ラクになっています。

そういう部分に弥陀の不思議さを覚えつつも、疑いを残しつつも、大要としては信じており、それが日々の生活を支えているという感じです。


小さな信心かもしれませんが、それでも、いただく前に比べれば、ラクになっています。

そして、それを喜んでおります。

こうして、皆様とやり取りできますこと、有り難く。

南无阿彌陀佛

●re.49
泥凡夫
北陸の男性
[ 2074 ] Re15:後念相続 2010/09/01 (Wed) 22:53 △up ▽down
皆様

こんばんは。泥凡夫でございます。
長い間ご無沙汰しておりました。

まだ死んではおりませんが、日々のことで精一杯という浅ましい日暮らしをしておりました。折に触れて、掲示板での皆様の真剣な議論を拝見させて頂いておりました。

毎日様

ご無沙汰しております。
毎日様のありのままのお心がぐっと伝わってまいりました。
ご自分を正直に見つめ、飾らずに正直に語られておられると私は思います。

私の心のあり様は日々刻々と変化し、例えるなら、まあ、こんにゃくのようなものです。
我心のあり様が浄土の正因であれば、これは遥か彼方の届かぬ場所になってしまいます。
なるほど、信心は南无阿彌陀佛が体でなければいかんなぁ。六字は何とまあ私のような者にも宜しかろうと出来ておるんですねぇ。

私の心は妄念で出来ております。妄念の私でもはっきり真実として分かることは、一切を取り除いた純粋な南无阿彌陀佛だけなのです。

弥陀たのむ一念、それが宜しかろうか悪かろうか、はて善知識だのみになってはおらんか。あれこれ思案したり、お聖教に眼を当ててみたり。それで宜しいではありませんか。
誰に同意を貰わんでも、毎日様と全てをご承知の弥陀と一緒に歩まれれば。

毎日様のお言葉でとても清々しい気持ちにさせて頂きました。

忍草様

お久しゅうございます。皆様との議論を拝見して忍草様の教学の熱心さと知識の豊富さに感嘆と共に頭が下がります。私も日々の僅かな時間の中でお聖教に眼を当てる機会を頂いておる次第でございます。

善知識「伝持の物」についてのご発言がございましたので、少しだけ私の意見を述べさせて頂きます。

御開山よりの「伝持の物」も含めて、これはお流れでございます。御開山御一流などとも呼ばれます。お聖教にも相承、相伝などの文言を含む場所はいくつか見当たります。
ただし、「伝持の物」がどういったものであるのかは明記されておりません。

少なくとも私共のお流れは忍草様方のお流れとは別のものであると思います。

以前、実語についての議論となりましたが、何が是で何が非であるかは、誰にも分らんのです。ただ「伝持の物」が「物証」となり各々正義を主張するだけにすぎんのでございます。

>日本全国どこであろうとも、祖師聖人の流れを汲む真の善知識様ならば必ず三つの持ち物をお持ちのはずです。

恐らく、忍草様ほどの見識をお持ちであられるのであれば、お流れが様々であることをご存じの上であえてそう申されたのではないかと推察いたします。

正確には、「忍草様方のお流れにおいては、善知識は必ず・・・。」となりましょう。
忍草様はそれを尊ばれておられる。それで宜しいのではないかと思います。

真要鈔では『親鸞聖人は深智博覧にして内典・外典にわたり、恵解高遠にして聖道・浄土をかねたり。ことに浄土門にいりたまいしのちは、もっぱら一宗のふかきみなもとをきわめ、あくまで明師のねんごろなるおしえをうけたまえり。あるいはそのゆるされをこうぶりて製作をあいつたえ、あるいはかのあわれみにあずかりて真影をうつしたまわらしむ。としをわたり日をわたりて、そのおしえをうくるひと千万なりといえども、したしきといい、うときといい、製作をたまわり真影をうつすひとはそのかずおおからず。したがいて、この門流のひろまれること自宗・他宗にならびなく、その利益のさかりなること田舎・辺鄙におよべり。化導のとおくあまねきは、智恵のひろきがいたすところなり。しかれば、相承の義さだめて仏意にそむくべからず。ながれをくむやから、ただあおいで信をとるべし。』とございます。

なるほど、相承の義について大事なことが書かれてはおりますが、自流が正意である証明にはならんのです。

久しぶりに出現して意見を述べさせて頂きましたが、お聞き流しのほどお願い申し上げます。

私が汲むお流れにおいて、大事なことは南无阿彌陀佛の六字でございます。それ以上でもそれ以下でもありません。数多のお聖教を全て知り覚えたとて、辿り着く結論は南无阿彌陀佛になります。真偽が分らんでも、難しいお聖教が分らんでも南无阿彌陀佛は分りますし、真実はただ六字だけであることくらいは私にも分ります。

私も歳が増してゆきまして、どういったご縁があるか分りませんが、だんだん知った事も覚えたこともポロポロとこぼれ落ちてゆくだろうと想像できます。同行の顔も分らんようになるかもしれません。

南无阿彌陀佛

●re.50
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2075 ] Re15:後念相続 2010/09/01 (Wed) 23:42 △up ▽down
皆様方へ
私は以前にも書き込み致しましたが、毎日様とは問答いたしかねます。

毎日様のホームぺージではございますが理由も以前に書いた通りです。

書き込みをさせて頂くことに対しては大変感謝申し上げます。

易行の浄土門に入れたことだけでも大変仏恩に感謝の南無阿彌陀佛です。

しかしながら、人としては煩悩熾盛(煩悩成就?)な私たちとしては、

祖師聖人が遺された『教行信證』を根本聖典として認識している訳ですから

少しでも祖師聖人に近づきたい・『教行信證』を理解したいと思って

紐解いているわけです。同行であっても同朋にあらずではいかがかと

おもわれますので。

ボン様の書かれた
1.同じ他力の法をいただいている
2.同じ聖典に依拠している
3.私見を一切まじえない

これに対して私は
全く同感です。
ただ、聖典の文言の解釈をどういうふうに捉えるのか、この部分の理解の
しかたでどうしても私見(捉え方)がはいる可能性が有るとおもいますが
いかがでしょうか。

上記の書き込みをいたしました。ここの部分で私たちは10名位の知識さんも

入って勉強会をさせて頂いているわけです。

一人だけの知識さんよりもすこしでも多くの知識さんがいれば、一方的な

意見や捉え方を修正できると思えるからです。またその中でも個人の意見も

尊重しての喧々諤々とした勉強会です。

そうすることでボン様の3項目に近づくのではないかと思っているわけです。

「化身土」巻に
「今日従(よ)り法に依りて人に依らざる応(べ)し、義に依りて語に依らざる

応し、智に依りて識に依らざる応し、了義経に依りて不了義に依らざる応し」と。

中略 爾(しか)れば末代の道俗、善く四依を知りて法を修す可(べ)きなり。」

この四依釋が大変気になりました。

ボン様 真摯に意見交換いたしましょう。

極道坊主様 改めて書き込みさせていただきます。
         合掌  南無阿弥陀仏  南無阿彌陀佛。


●re.51
菩提心
非公開の非公開
[ 2076 ] Re16:後念相続 2010/09/02 (Thu) 13:02 △up ▽down
毎日様

泥凡夫様

いつも有難うございます。

37年間居た古巣はなかなか消せないようです。


しかし同じ流れだと、安心して拝読できます。

気張らず、それでも自分の道を歩みたいと思います。


>私も歳が増してゆきまして、どういったご縁があるか分りませんが、だんだん知った事も覚えたこともポロポロとこぼれ落ちてゆくだろうと想像できます。同行の顔も分らんようになるかもしれません。

泥凡夫様、上記のセリフはまず私が先ですよ。(病気になったら別ですが)

それに、本当に書き込んで下さっておられた時は、随分と年上だと思っていました。

年齢的には私が年上ですが、この娑婆世界の年の差は、仏の眼からは、全然変わらないです。

まるで御文のように、智慧も、性別も、年齢も、貧富もそれぞれ異なるのに御縁頂き感謝しています。

順番に行けば、まず私だと思いますので、その後からお釈迦様のように、後押しして頂いていると思えるから、だからいつも安心していられるのだと思います。


「真実信心」のお言葉から、今ちょっとあることに気がついて、一人喜んでいます。

それは、真実信心の付く個所が、親鸞聖人と蓮如上人の御文に沢山書かれているところです。

時間が出来たら新しいスレッドでまとめてみるのもいいかと思ったりしています。

このようにすると、自然に聖典にも親しめますね。

最近、物忘れも多くて、ボケ防止に良さそうです。

本当にお二人揃って御登場。

とても有難く、嬉しいです。

いつもいつも見守って下さり有難う御座いました。

南无阿彌陀佛




忍草様


ボン様との真摯な意見交換。

期待しております。

南无阿彌陀佛

●re.52
菩提心
非公開の非公開
[ 2077 ] Re17:後念相続 2010/09/02 (Thu) 16:34 △up ▽down
忍草様

付け加えておきます。

私が示した、「露わ」は文字通り、本にそのまま姿、やり方が掲載されたのです。

ですから、ボン様とのやり取りでのあらわではないので宜しくお願いします。


又、
>菩提心様は以前から「精進」という単語が好きではないといって精進はする必要がないという見解ですから

上記の場所も誤解です。

私は精進という言葉が、浄土真宗に馴染まないと思っていて、修行みたいならと書いたと思います。

又、ボン様の例えの
>一味同行が今生で生きていく姿を「精進」という言葉で表現することには違和感を感じますが、とりあえず我々の主観はさて置いて、仏の目から見ればどんな生き方も「精進」と言えなくもないので、そういう意味では、あえて否定するまでもないと思っております。
>(「精進などは必要がない」ではなくで、「意識して精進しようがしまいが、どちらでもかまわない」というスタンスです。)

場所を拝読して、いつも泥凡夫様から聞かせて頂いている、機の方と、法の方からの見方がこういうことなのかと思っていました。


又、極道坊主様がこのように書いて下さり、思わず苦笑してしまいました。

>論釈が読めてくると解ったような気になるから不思議です。 そういった時は人間舞い上がってしまって、知らぬうちに増上慢に嵌っているんでしょうね。 でも、其れは自分自身では気がつけないんです。 相手がいて始めて気が付く。 鏡が有るから自分の姿が映るのです。 その嫌な姿を見せて下さるのが「何でこの人こんな事をするんだろう?」という思いに至った、自分の都合に合わない人だと聞きました。 嫌な役回りを引き受けられて、貴女を救う為に表れられた対合佛と押戴いて行かれれば、怒りも喜びに変えて貰えます、間違いなく。(生意気言いましたね。でも、宗教を聞くってこういった所の解決でしょう?)

きっと、親鸞会の御縁でなくて、最初から極道坊主様のようなところと御縁頂いていたら、この道探すこともなかったと思います。

本当に極道坊主様の文章はオアシスみたいで、ホッとします。

(以下に書き込みしました分、はしたないので削除しました。ちょっと仕事でイライラしていました。ごめんなさい。忍草様)


毎日様の「御念相続」、変換しなくてもすぐに出てくるのでいいですね。

いつになったら自然体になれるのでしょう。

でも救われてやっぱり有難いです。

南无阿彌陀佛

●re.53
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2078 ] Re18:後念相続 2010/09/03 (Fri) 02:41 △up ▽down
忍草様、皆さま、こんばんは。

多くの皆さまのお話が活発に交わされて、とてもうれしく思います。

そのような中で、忍草様が毎日様との問答を拒絶されるのは、どのようないきさつはあれ、
残念な思いがいたします。ここに書き込みできることに感謝するお気持ちがあるのでした
ら、お話をする余地があるのではありませんか。

毎日様との問答を拒絶なさった上で、「ボン様 真摯に意見交換いたしましょう」といわ
れましても、「なんだかなぁ」といったような複雑な心境です。とは言うものの、私がお
答えしなければならないこともあるようですので、お話をさせていただきます。

>〔2002〕〔2004〕に対して、私は〔2016〕で誓願(17・18願)に酬報されて
>いるのではないですかと書き込みしましたが、ボン様のご返事はありません。

はい、確かにこの点につきまして、私は一言も述べておりません。といいますのは、実は
ご指摘の部分で何をおっしゃっているのか、まったく理解できなかったからです。全文、
引用します。

>まず、誓願とは、行巻の終りの前に、
>凡そ誓願に就いて、眞實の行・信有り。・・・其の眞實の行の願は諸佛稱名
>の願なり。其の眞實の信の願は、至心信樂の願なり。斯れ乃ち選擇本願之行・
>信なり。其の機は則ち一切善悪・大小凡愚なり。往生は則ち難思議往生なり。
>佛土は則ち報佛報土なり。斯れ乃ち、誓願不可思議一實眞如海なり。
>『大無量寿経』之宗致、他力眞宗之正意なり。とはっきり書かれています。

>諸佛稱名の願は17願・至心信樂の願は18願ですね。
>ならば、17・18願に酬報された報佛土ではないですか。

理解できないなら質問すればいいではないか、と言われれば確かにそのとおりです。
しかし、正直に申し上げまして、忍草様のお話はとても難解で、理解できない部分があま
りにも多いのです。それについて、いくつか質問をしても、それに輪をかけて難解なご説明
をいただき、ますます混乱してくるものですから、なるべく理解できるところだけでお話を
しようとしたような気がします。(まあ、これは言い訳です。)

そこで、この部分を何度も読み直して、どのようにしたら言わんとしている意味を理解で
きるのかを、よくよく思案をしてみましたので、ここにそのプロセスを示します。

まず、行巻の引用文と「諸佛稱名の願は17願・至心信樂の願は18願ですね。」までは、
私も理解できます。しかし、その後の「ならば、17・18願に酬報された報佛土ではないで
すか。」がどういう文章が、その前段とどういう脈絡になっているのか理解できませんで
した。

そもそも、それ以前に「ならば、17・18願に酬報された報佛土ではないですか。」という
文章自体の意味がわかりません。そこで、なぜ意味がわからないかを考えてみたところ、
そこに主語が省略されているということに気が付きました。

つまり、「ならば、○○が、17・18願に酬報された報佛土ではないですか。」という文体
にならないと意味がわかりません。そこで、その○○とは何かといういうことを、あれこ
れ考えてみたのですが、これまでの忍草様の主張から判断して、○○は「現世」ではない
のか、という結論にいたりました。(違っていたら、おっしゃってください)

つまり「ならば、(現世が)17・18願に酬報された報佛土ではないですか。」となります。
これで忍草様のおっしゃりたい主旨は解った(たぶん)のですが、今度は、「諸佛稱名の願
は17願・至心信樂の願は18願ですね。」と「ならば、(現世が)17・18願に酬報された報佛土
ではないですか」のあいだの脈絡がつながりません。

つまり、諸仏称名の願が17願で、至心信楽の願が18願なら、なぜ、現世が17・18願に酬報
された報仏土となるかが、はっきりしないのです。

そこで、もう一度じっくり読み返してみて、そこにひとつの前提(仮定)が隠れているので
はないかという思いにいたりました。それは「17・18願の行信によってもたらされる仏土
は現世である。」という前提(仮定)です。これも、これまでの忍草様の主張から判断して、
たぶん、そうではないかと思ったのです。(違っていたら、おっしゃってくださいね)

つまり、以下の三段論法になります。
--------------------------------------------------------------------------------
(1) 諸佛稱名の願は17願・至心信樂の願は18願である。
    ↓
(2) 17・18願の行信によってもたらされる仏土は現世である。
    ↓
(3) ならば、(現世が)17・18願に酬報された報佛土である。
--------------------------------------------------------------------------------

このような脈絡で、忍草様は「報土は現世であることが明らかだ」とおっしゃっているの
ではないかと理解したのですが、違っておりますでしょうか。

もしそうだとしたら、(2)の前提は意見の分かれているところですし、そもそも(2)を明ら
かにしたいがために、いろいろお話をいただいていたのではなかったでしょうか。

要するに、「明らかでない前提が入り込んだ論証は証明たりえない」という単純な理由に
より、私は、忍草様のここのご説明に納得がいかないのです。また、この三段論法を成立
させるためには、(2)が「真」であるという証明を先にしておかなければなりません。

しかし、実際問題として、17・18願にもたらされる利益は、この世のもの(正定聚)と、
あの世のもの(滅度・さとり)の2つがあるといわれておりますので、この仮定の証明は難
しいものと思います。いくつかご聖典から引用します。

--------------------------------------------------------------------------------
一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にて
あるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもふべきものなり。(御文)
--------------------------------------------------------------------------------
煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。この条、もつてのほかのこと
に候ふ。(中略)「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらく
とならひ候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候ひしか。(歎異抄)
--------------------------------------------------------------------------------

以上が、忍草様からご指摘いただいた部分にたいする私の理解ですが、そこには2つばか
り推測が混じっておりますので、この推測が違っていたら、この理解は成り立たないとい
うことになります。

もし、違っておりましたら、正しい理解の仕方をお知らせいただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.54
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 2079 ] Re19:後念相続 2010/09/03 (Fri) 02:55 △up ▽down
菩提心様

>いつになったら自然体になれるのでしょう。

実は、私たちは、どう騒いでも、既に「自然体」なんだと思いますよ。

信を獲ていても、獲ていなくても、自然である以外の道を、私たちは持っていないと思います。

だからこそ、弥陀の助けが必要なのだと思います。

自力では、自然から出れないからです。

南无阿彌陀佛

●re.55
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 2080 ] Re20:後念相続 2010/09/03 (Fri) 03:03 △up ▽down
泥凡夫様

お久しぶりで御座います。

泥凡夫様の懐の広い感じが、私は大変好きでございまして、そこに良さを感じて、引かれた面が強いのです。

証拠を固めても、理論を固めても、そこには信心はないのだと思っております。

信心というのは、全く別次元のものであって、なぜか、そこにポツンとあるようなものですね。

南无阿彌陀佛

●re.56
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 2081 ] Re21:後念相続 2010/09/03 (Fri) 03:19 △up ▽down
ボン様

嫌われてしまうのは、私の人格が至らないからで、それでも、逃げ出す程に嫌われていないのは、ボン様のご存在があるからですから、ありがたいことです。

二益なわけですから、現世が報土でも、別に私は構わないのですが、だからこそ、平生業成でもあると思いますが、当益が定まっていることによって、現益があるわけですので、「必ず守られる約束」に近いようなものを信じるわけですよね。

当益への確信が強まれば、この世からの影響が薄くなることを感じるわけです。これは、体感として、実感としてわかるわけで、なぜなら、もはやそれらは因ではないからです。

そうなると、「どうでも良い」ということになり、「どうでも良い」のだから、できる範囲で良いことをする。

熟語を弄んだところで、単語というのは、文脈によって、意味が変わります。

そもそもそれは、忍草様も認めているところで、同じ単語が別の意味であったり、別の単語が同じ意味であったりすることがあると、以前お書きでいらっしゃったと思います。

ところが同時に、「一字一字の使い分けが大切だ」ともおっしゃいますので、私から見ると、忍草さまは混乱しているのです。

使い分けが大切なのであれば、同じ単語を別の意味に使うのは、おかしなことですね。専門用語をきっちり定義して、意味範囲を絞り、語義が混乱しないように用いるはずです。

ひょっとすると、「書いてある内容を、読むだけではわからないようにするために、あえて、そのようにしているのだ」とお考えかもしれませんが、もしそうであれば、御聖典をいくら読んでも、意見の一致はしないことになります。

しかし、混乱していると思われて、良い気持ちもしないでしょうから、問答をしたくないのもわかります。

それでも別に、私は構わないのです。変な漢方薬の宣伝は、気づいたら消していますが、忍草様の御書き込みは、そういうものではないですから。

南无阿彌陀佛

●re.57
菩提心
非公開の非公開
[ 2084 ] Re22:後念相続 2010/09/05 (Sun) 16:32 △up ▽down
毎日様

唯信鈔、拝読いたしました。

>◎槃特がともがらなりともたもちやすく(唯信鈔)
>唯信鈔の中で、特に私が好きな一節です。

>◎読誦大乗をもちゐんとすれば、文句を知らざるものはのぞみがたし(唯信鈔)
>この節を菩提心様は、しみじみと味わえると思うのです。


「名号は、わずかに三字なれば、槃特がともがらなりともたもちやすく、これをとなうるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらわず、在家・出家、若男・若女、老・少、善・悪の人をもわかず、なに人かこれに、もれん。」  唯信鈔


私はこのように味わいました。

周利槃特(しゅりはんどく)は、味わいの場所でも極道坊主様にも言われたように、自分の名前さえ、覚えられない有名な人です。

誰でもきっと仏教にご縁のある人は聞いたことがあるお名前です。

そのような馬鹿で愚かな私でも、僅か名号を称えることならできるでしょう。



しかし、泥凡夫様の最後の御言葉のように、私はどのような縁で、覚えていることも忘れてしまうか知れません。


>私も歳が増してゆきまして、どういったご縁があるか分りませんが、だんだん知った事も覚えたこともポロポロとこぼれ落ちてゆくだろうと想像できます。同行の顔も分らんよう>になるかもしれません。

ここはこんな風に書いてある、こんな解釈だと言っても、最後はそんな知識などふっとんでしまうような、脆ういものだと思います。

だからこそ、「摂取不捨」の真実信心頂いた私は、御恩報謝の御念仏に尽きると思います。

しかし、それもこの命消える頃には、そんな気持ちも消え伏せているかも知れません。

弥陀に丸投げしてしまった私は、それでも煩悩が有る為に、日々の暮らしに執着するのだと思います。


信心頂く前とは、随分と落ち着いてきていますから、残りの人生、谷あり山あり、なんとか過ごせるといいなと思っています。

欲を言えば、無難に過ごせれば、万々歳です。



唯信鈔の最後の御言葉です。

「われおくれば人にみちびかれ、われさきだたば人をみちびかん。生生に善友となりて、たがいに仏道を修せしめ、世世に知識として、ともに迷執をたたん。」

導かれてきた道、感謝しています。

南无阿彌陀佛

●re.58
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2111 ] Re23:後念相続 2010/09/16 (Thu) 03:10 △up ▽down
   ボン様へ
〔2078〕の
--------------------------------------------------------------------------------
(1) 諸佛稱名の願は17願・至心信樂の願は18願である。
(2) 17・18願の行信によってもたらされる仏土は現世である。
(3) ならば、(現世が)17・18願に酬報された報佛土である。
--------------------------------------------------------------------------------

このような脈絡で、忍草様は「報土は現世であることが明らかだ」とおっしゃっているの
ではないかと理解したのですが、違っておりますでしょうか。

もしそうだとしたら、(2)の前提は意見の分かれているところですし、そもそも(2)を明ら
かにしたいがために、いろいろお話をいただいていたのではなかったでしょうか。

要するに、「明らかでない前提が入り込んだ論証は証明たりえない」という単純な理由に
より、私は、忍草様のここのご説明に納得がいかないのです。また、この三段論法を成立
させるためには、(2)が「真」であるという証明を先にしておかなければなりません。

しかし、実際問題として、17・18願にもたらされる利益は、この世のもの(正定聚)と、
あの世のもの(滅度・さとり)の2つがあるといわれておりますので、この仮定の証明は難
しいものと思います

まず、なぜ現世(現生)なのか。
ボン様は、この世のもの(正定聚)と、あの世のもの(滅度・さとり)に分けていますが
入正定聚(一念帰命)は異論がないと思います。
(滅度・さとり)をあの世としていますが、私は信心成就を滅度のさとりと捉えます。
〔一代聞書〕18項〔山科連署記・空善日記〕の「・・・正定聚のかたは「御たすけあり
たる」と喜ぶこころ、滅度のさとりのかたは「御たすけあろうずる事のありがたさよ」
と申すこころなり。何れも佛になることを喜ぶ心よし」

一念帰命でたすけられた入正定聚と、滅度のさとりで極楽へ往生できるであろうという
住正定聚の違いで「ありたる」は過去形、「あろうずる」未来形ですが、何れも現生です

滅度は聖道門と浄土門で捉え方が違います。あくまで滅度のさとりです(證〜覚)。
不断煩悩得涅槃と同じです。

逆に、ボン様は「即得往生」とは死後と捉えているのですか?聞かせて下さい。

『愚禿鈔上』の「前念命終」「後念即生」「他力金剛心」のところです。
『浄土眞要鈔』二章、四章で「眞實信心の行人は・・・滅度に至るが故に、大涅槃を
證するなり・・・」四章「即得往生・住不退転」といへる本意は、證得往生・現生不退
の密益を説きあらわすなり。これを以て我流の極致とするなり。・・・
本願の意(こころ)現身の益なりと見ゆる上は、今の釋も彼にたがうべからず。聖人
ふかくこの意を得たまいて、「信心を得るとき正定の位に住する」義を引き釋したまへり。

一念帰命は「行の一念」で入正定聚(信心を獲る)一度目の往生
眞實信心の行人→金剛堅固の行者で「信の一念」住正定聚である(信心を得る)二度目の
往生で臨終が三度目で筋が通りませんか。

また、ボン様は即得往生は何処で、何処に往生したと捉えるのですか。
『淨土眞要鈔』第四章をよく読めば理解出来るはずです。『末灯鈔』も同時にお読み下さい。

源信和讃に「報ノ淨土ノ往生ハ オホカラズトゾアラハセル
       化土ニムマルゝ衆生ヲバ スクナカラズトオシヘタリ」
ここ10日ほど前にギックリ腰をおこしてパソコンの前に座る事も出来ませんでした。
マイぺースでしか書けません。 合掌 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.59
菩提心
非公開の非公開
[ 2112 ] Re24:後念相続 2010/09/16 (Thu) 10:15 △up ▽down
忍草様

>10日ほど前にギックリ腰をおこしてパソコンの前に座る事も出来ませんでした。

これはやった身でないと、その痛さは分かりませんね。
私も持病になっています。今はなだめなだめしながら日暮ししています。

毎日様のような「御念相続」と思い、時々ここを読んでいます。

忍草様の書き込みがあって嬉しいと思いました。

ところで、ボン様に対してのお書き込みですが、信心の沙汰ということで、私も楽しんで読みたいと思います。

それではお身体お大切に。

南无阿彌陀佛

●re.60
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2113 ] Re25:後念相続 2010/09/17 (Fri) 17:59 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

腰痛に見舞われているとのこと、心よりお見舞い申し上げます。
私自身、二十歳のころぎっくり腰を起こし、椎間板ヘルニアとなって以来、腰痛とは
“長い友達”です。急性のときは、安静がなによりです。くれぐれも無理をなさらぬよう
願っております。

さて、ご指摘の点ですが・・・。

>(滅度・さとり)をあの世としていますが、私は信心成就を滅度のさとりと捉えます。
>〔一代聞書〕18項〔山科連署記・空善日記〕の「・・・正定聚のかたは「御たすけあり
>たる」と喜ぶこころ、滅度のさとりのかたは「御たすけあろうずる事のありがたさよ」
>と申すこころなり。何れも佛になることを喜ぶ心よし」

>一念帰命でたすけられた入正定聚と、滅度のさとりで極楽へ往生できるであろうという
>住正定聚の違いで「ありたる」は過去形、「あろうずる」未来形ですが、何れも現生です

確かに、「ありたる」は過去形、「あろうずる」未来形です。未来形ということは、まだ
起こっていないこと、これから起こるであろうことを述べるときに用いられます。この世
の我々にまだ起こっていないということは、それが起こるのはこの世の可能性もあるし、
あの世の可能性もあるということになります。

したがって、「滅度のさとりのかた」を「御たすけあろうずる」と未来形で述べたからと
いって、それが「この世で起こることである」と断定する根拠にはなりません。

そのあとに何の説明も入れずに、ただ単に「何れも現生です」というのは、論理的に飛躍
があるように感じられます。

それよりも、いつ死ぬかわからない我々に対して「滅度のさとり」がいまだに訪れておらず、
しかも今後訪れるであろうと予言していることは、それがむしろ、この世のものではなく、
あの世に行ってから起こるものであることを示唆しているように思われます。

>滅度は聖道門と浄土門で捉え方が違います。あくまで滅度のさとりです(證〜覚)。
>不断煩悩得涅槃と同じです。

「不断煩悩得涅槃」というとは「行巻(正信偈)」の文章ですが、これは曇鸞「論註」の
「不断煩悩得涅槃分」からの引用です。もともとの文書には「分」の字がついて、
「涅槃分」となっていることに注意が必要なように思います。

この点につきましては、「六要鈔」でも次のような記述がなされております。

--------------------------------------------------------------------------------
問う。今の註の釈には「涅槃の分を得」という。今は「分」といわず、いかん。
答う。「分」は初生に約す。もし究竟に約せば宜しくこの字を略すべし。或いはまた七言
の字数を調えんが為に、これを除くに失なし。(六要鈔・行巻)
--------------------------------------------------------------------------------

「初生」つまり「初めの往生(一念帰命)」では「涅槃分」と考えるべきだと述べています。
さらに、「究竟」つまり「きわめつき」つまり「極楽浄土」では、「分」を略して「涅槃」
とすべきだと述べています。そうなると「涅槃」はあの世だということになります。

しかも「或いはまた」として、七言の字数を整えるために省略していると言っています。
そうすると、これは本来「涅槃」ではなくて「涅槃分」だということになります。

それでは「分」ということをどう考えたらいいかというと、「親分」とか「兄弟分」とかの
言い方を考えてみればよろしいのではないかと思います。「親分」とは「親そのもの」で
はないし、「兄弟分」も「兄弟そのもの」ではありません。実際は違うのだけれども、
そのようにみなしてもよい関係にある場合に「分」という言い方するのではないかと思い
ます。

そこで「涅槃分」について考えてみると、「涅槃そのもの」ではないが「涅槃とみなして
もよいもの」ということになるかと思います。それでは、なぜ「涅槃」とみなしてもよい
のかということを考えるにあたって、忍草様も引用されている「蓮如上人御一代記聞書」
の以下の記述が参考になるものと思います。

--------------------------------------------------------------------------------
前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。一心決定のうへ、弥陀の御たすけありたりといふは、
さとりのかたにしてわろし。たのむところにてたすけたまひ候ふことは歴然に候へども、
御たすけあらうずというてしかるべきのよし仰せられ候ふ[云々]。一念帰命の時、不退
の位に住す。これ不退の密益なり、これ涅槃分なるよし仰せられ候ふと[云々]。
(蓮如上人御一代記聞書)
--------------------------------------------------------------------------------

ここでは「不退の密益」が「涅槃分」だと言っています。つまり、煩悩の付きまとうこの
世は「涅槃そのもの」ではないけども、もはやそこから退くことがなく、あの世でさとり
を開く秘密の利益があるから「涅槃分」だということになります。

しかもここでは、「御たすけありたり」と過去形でいうのは、この世ですでにさとりを開
いたようで良くないとまで言っています。たのんで助けられたのは歴然としているけれど
も、「御たすけあらうず」と未来形でいうのが良いといっています。つまり、この世で
さとりを開くなどとは思わないほうが良いということになります。

これは「煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほ
かのことにそうろう。」という「歎異抄」の記述にも合致するものと思われます。

(つづく)

●re.61
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2114 ] Re26:後念相続 2010/09/17 (Fri) 09:55 △up ▽down
(つづき)

>逆に、ボン様は「即得往生」とは死後と捉えているのですか?聞かせて下さい。

どういう脈絡でこの質問がなされているのか良くわからないのですが、私は「即得往生」
を死後とは捉えておりません。「即得往生」につきましては「一念多念文意」のなかに
詳しい説明があります。

--------------------------------------------------------------------------------
「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。
また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことを
えたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てた
まはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、
すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへ
るなり。(一念多念文意)
--------------------------------------------------------------------------------
「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に
住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、
これを「即得往生」とは申すなり。(一念多念文意)
--------------------------------------------------------------------------------

ここに「即得往生」は、「ときをへずに正定聚の位につき定まること」だと述べています。
それは「不退転に住する」ことだとも言っています。そして、それは「無碍光仏の御ここ
ろのうちに摂取して捨てたまはざるとき」であると述べています。摂取不捨となるときと
いうのは、つまり一念帰命のときだということになります。それは「信心をうればすなは
ち往生すといふ」ということからも明らかであるように思います。

--------------------------------------------------------------------------------
念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、
即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、
この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。(口伝鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて、そのときいのちをはらざらん機は、いのち
あらんほどは念仏すべし。(口伝鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

「即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ」
ということであり、また、「他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて」ですから、
ここからも、一念帰命のときだということがわかります。

しかも、「そのときいのちをはらざらん機は」と述べているわけですから、やはりそれは、
一念帰命のときであると考えてよろしいかと思います。

--------------------------------------------------------------------------------
知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力をすてて他力に帰する」ともなづけ、また
「即得往生」ともならひはんべれ。
--------------------------------------------------------------------------------

知識伝持の仏語に帰属して「自力をすてて他力に帰する」とき「即得往生」というわけで
すから、一念帰命のときだということになります。

>『愚禿鈔上』の「前念命終」「後念即生」「他力金剛心」のところです。

以下の部分ですね。

--------------------------------------------------------------------------------
本願を信受するは、前念命終なり。[「すなはち正定聚の数に入る」(論註・上意)と。
文] 即得往生は、後念即生なり。[「即の時必定に入る」(易行品 一六)と。文]
--------------------------------------------------------------------------------

「即得往生は、後念即生なり」ですから、「念のあとただちに生まれる」ということです
よね。ここで言う「念」とは「一念帰命」と考えてよろしいかと思いますので、やはり、
一念帰命のあとただちに生まれるのが「即得往生」であると思います。

>『浄土眞要鈔』二章、四章で「眞實信心の行人は・・・滅度に至るが故に、大涅槃を
>證するなり・・・」四章「即得往生・住不退転」といへる本意は、證得往生・現生不退
>の密益を説きあらわすなり。これを以て我流の極致とするなり。・・・

--------------------------------------------------------------------------------
真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚に住す。正定聚に住するがゆゑにかならず
滅度に至る。滅度に至るがゆゑに大涅槃を証するなり。(浄土真要鈔)
--------------------------------------------------------------------------------
「即得往生住不退転」といへる本意には、証得往生現生不退の密益を説きあらはすなり。
これをもつてわが流の極致とするなり。(浄土真要鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

摂取して捨てないから正定聚に住し、正定聚に住するから滅度に至ると述べています。
「至る」というのは「これから到達する」ということであって「現在、滅度に住している」
ということではないと思います。それでも必ず滅度に至るという保障があるから不退だと
いうわけですよね。それが密益だということは、表立って現れていることでもないし、
本人もそれが自覚できるわけではない、つまり、この世でさとれないから密益なのだと思
います。

>本願の意(こころ)現身の益なりと見ゆる上は、今の釋も彼にたがうべからず。聖人
>ふかくこの意を得たまいて、「信心を得るとき正定の位に住する」義を引き釋したまへり。

ここでなぜこの引用があるのか脈絡がわかりませんが、関連しそうなところを引用します。

--------------------------------------------------------------------------------
無始以来、輪転六道の妄業、一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生の名願力にほろぼされ
て、涅槃畢竟の真因はじめてきざすところをさすなり。すなはちこれを「即得往生住不退転」
と説きあらはさるるなり。「即得」といふは、すなはちうとなり。すなはちうといふは、
ときをへだてず日をへだてず念をへだてざる義なり。されば一念帰命の解了たつとき、
往生やがて定まるとなり。うるといふは定まるこころなり。(浄土真要鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

「涅槃畢竟の真因はじめてきざすところ」が「即得往生住不退転」ということのようです。
「はじめてきざす」というのは「他力の信心」に出会ったときをさすのでしょう。また、
「一念帰命の解了たつとき、往生やがて定まる」ということです。ここで「やがて」とい
うのは「ただちに」という意味です。さらに「うるといふは定まるこころ」というのです
から「一念帰命」のときが「即得往生」だということになります。

>一念帰命は「行の一念」で入正定聚(信心を獲る)一度目の往生
>眞實信心の行人→金剛堅固の行者で「信の一念」住正定聚である(信心を得る)二度目の
>往生で臨終が三度目で筋が通りませんか。

申し訳ありませんが、これまでのお話の流れのなかで、なぜ突如としてこのような結論が
でてくるのかわかりません。ちなみに「親鸞聖人御消息」のなかで、聖人は、信の一念と
行の一念が不可分だと述べたとされています。以下、引用します。

--------------------------------------------------------------------------------
仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の
一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとな
へて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。こ
の御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつと
きけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。
また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。(親鸞聖人御消息)
--------------------------------------------------------------------------------

「ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり」と言っています。そして、「本願
の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、・・・疑ふこころのすこしもなき
を信の一念と申せば」と言っているわけですから、「行を一声すれば往生すると聞いて疑
わない」ことが「信の一念」であることは、ほぼ間違いのないことのように思われます。

つまり、「行の一念で救われるということを信じて疑う心がない状態が信の一念であって、
そういう状態でなければ、行の一念に入ることができない」というように読めます。そう
すると「疑ったら化土行きだ」というのは、「行の一念によって救われることを信じるこ
とができず、それを疑って自力に走るから化土行きだ」というふうになると思われます。

長文にて失礼いたしました。

南无阿彌陀佛

●re.62
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2115 ] Re27:後念相続 2010/09/18 (Sat) 03:38 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

長文のあとに恐縮ですが、最後の以下の書き込みにつきまして触れておりませんでしたの
で、付け足しをさせていただきます。

>源信和讃に「報ノ淨土ノ往生ハ オホカラズトゾアラハセル
>       化土ニムマルゝ衆生ヲバ スクナカラズトオシヘタリ」

なぜ、ここでこの引用があるのか、ここだけでは理解できなかったのですが、過去に以下
の書き込みをいただいたことを考え合わせると、その意図が理解できるような気がします。

>一念帰命頂いたら全て(鬼の首でもとったように)極樂へ往けるのならば
>大経の「易往而無人」の文字は何故?と思われませんか。
> 源信和讃に
> 報ノ浄土ノ往生ハ オホカラズトゾアラワセル
> 化土ニムマルゝ衆生ヲバ スクナカラズトオシヘタリ

つまり、「易往而無人」だから、一念帰命のあとも、そのまま浄土に生まれる人は少なく
て、その多くのものが化土にいってしまうというように、忍草様はこの和讃を理解してい
ると考えてよろしいのだと思います。

しかし、ここで留意する必要があると思われるのは、「源信和讃」の引用をいただいた
部分の直前に以下の記述があるということです。

--------------------------------------------------------------------------------
報化二土ををしへてぞ 専雑の得失さだめたる
--------------------------------------------------------------------------------
専修のひとをほむるには 千無一失とをしへたり
雑修のひとをきらふには 万不一生とのべたまふ
--------------------------------------------------------------------------------

ここでは、報土と化土の二つの土について教えて、専修念仏と雑修の長所と短所を定めた
と言っています。この長所と短所というのは、専修念仏は他力(弥陀の力)によるから容易
に報土に生まれることができ、他方、雑修は煩悩にまみれた自力にたよるから頑張っても
化土行きだ、というふうに理解できます。

その後で、専修念仏のひとは千人の中に一人の例外もなく報土に往生し、雑修のひとは万
に一人も報土に生れないと述べています。

さらにその後に、報土に生まれるひとは少なく、化土に生まれる人は多いと続くのが、
引用をいただいた箇所です。

こういう文章の流れのなかでこの部分を読んでみると、「報土に生まれるひとが少ない」
というのは「専修念仏に入ってくるひとが少ない」と読むのが適当であり、「化土に生ま
れる人は多い」というのは「本願を疑って雑修に流れる人が多い」と読むのが正当である
ように思われます。

ここで忍草様は、大経の「易往而無人」にも触れておられます。この文脈で考えますと、
忍草様はおそらく、「一念帰命(行の一念)」までは「易往(往き易い)」けれども、「信心
成就(信の一念)」までとなると「無人(人がいない)」と理解されておられるのだと思いま
す。

そして、その考えを推し進めると、「一念帰命(行の一念)」までは行っても「信心成就
(信の一念)」まで行くひとはほとんどいないから、一念帰命の人でも、ほとんどが化土行
きだということになります。

しかし、もしそうだとすると、「源信和讃」に「専修のひと」は「千無一失(千人に一人も
失われない)」と書いていることと矛盾することになります。

またそれは先に引用した「行の一念をはなれたる信の一念もなし」(親鸞聖人御消息)とい
う内容にもそぐいません。

ところで、私が「易往而無人」をどのように理解するかにつきましては、他のところにも
書きましたのでそのまま引用します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反す
>がごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜ
>ん。すなはち『大本』に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり。(信巻)
>--------------------------------------------------------------------------------
>
>ここでも、この法があまりに簡単すぎて、「浅き衆生」は疑って信じられないから、そこ
>に行く人がいないと書いています。「易行であっても、受ける事が難しい」のではなくて、
>「信じることが難しい」のだと思います。それも「入ったあとでも信じることが難しい」
>と言っているのではなく、「信じるのが難しいから入ってこれない」と言っているのだと
>思います。

間違いがございましたら、どなた様でもご指摘ください。
どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.63
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2116 ] Re28:後念相続 2010/09/19 (Sun) 00:24 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

「易往而無人」の私の理解につきまして、先の説明では不十分と思われますので、
もうひとつ、最近読んだ「信巻」のなかの御自釈から引用します。

--------------------------------------------------------------------------------
常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽実に獲ること難し。
何をもってのゆえに。いまし如来の加威力に由るがゆえなり。博く大悲広恵の力に因るが
ゆえなり。
--------------------------------------------------------------------------------

常没の凡愚・流転の群生にとって「無上の妙果」をなすのが難しいのではないと言ってい
ます。そうではなくて、難しいのは「真実の信楽」を手に入れることだというのです。
その理由は「如来の力」によるからだということです。

言い換えると、「如来の力」によるから凡愚が「無上の妙果」をなすのはたやすい(易往)。
それは他力だからです。逆に、「如来の力」によらなければ「真実の信楽」を手に入れる
ことは難しい(而無人)。「真実の信楽」は凡愚の自力でなせる業ではないから、というこ
とになります。

ここで「無上の妙果」というのは、「この上なくすぐれた証果」ということですから
「仏のさとり」に他ならないということになります。つまり、「仏のさとり」をえること
は簡単だと言っているわけです。なぜなら、如来の力によるからです。

もちろんそれは、他力の信心をいただいた人に限られますし、それはあくまでも密益であ
って、この世で「仏のさとり」を開くなどは歎異抄にあるとおり「もってもほか」である
とは思いますが・・・。

それでは「真実の信楽」とはなにか。これについては、同じ「信巻」の少し先の御自釈で
次のように述べています。

--------------------------------------------------------------------------------
信楽というは、すなわちこれ如来の満足大悲、円融無碍の信心海なり。このゆえに疑蓋
間雑あることなし、故に信楽と名づく。すなわち利他回向の至心をもって、信楽の体とす
るなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、
衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし。法爾として真実の信楽なし。ここをもって無上
功徳、値遇しがたく、最勝の浄信、獲得することかたし。
--------------------------------------------------------------------------------

信楽というのは、如来の信心海のことだから、疑いのまじわる余地がない。その中身は、
如来から施された「至心」である。一方、遠い昔から無明海を流転してきた群生には、
「清浄の信楽」などはない。つまり、そのありのままの姿としては「真実の信楽」がない。
このように無上の功徳(利他回向の至心を体とする信楽)に出会うことは難しい、と述べて
います。

これは先の「真実の信楽実に獲ること難し」の中身をより詳しく述べた中身と思われます。
同時に「而無人」の中身でもあるように思われます。

間違いがございましたら、どなた様でもご指摘ください。
どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.64
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2151 ] Re29:後念相続 2010/10/04 (Mon) 02:22 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

その後、腰痛の具合はいかがでしょうか。
元気なお声を聞かせていただければ幸いです。

なお、先に述べました「即得往生」や「不断煩悩得涅槃分」などのことにつきまして、
舌足らずのため十分に伝わっていないかも知れませんので、最近学習した「二種の深信」
のことにからめて、少し補足しておきます。

深心につきまして、「信巻」のなかで「散善義」から次の引用がなされております。

--------------------------------------------------------------------------------
深心と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一には決定して深く、自身は
現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に没し常に流転して、出離の縁あること
なしと信ず。二には決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまう、疑い
なく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。(信巻)
--------------------------------------------------------------------------------

深信については、2種類があって、ひとつは、自分は罪悪生死の凡夫であって、自分の力
では迷いの世界を離れることなどできないと信じること、もうひとつは、阿弥陀仏が助け
てくれるのだから、それを疑うことなく、また、あれこれ考えることもなく、仏の眼力に
乗っかれば、必ず往生ができると信じること、この2つだと言っています。

そして、この部分についての六要鈔の解説は、以下のようになっています。

--------------------------------------------------------------------------------
正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。(中略)
今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。(中略)「若不生者不取正覚」、
正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、
故に無慮という。(六要鈔・信巻)
--------------------------------------------------------------------------------

衆生に善があるとかないとかいうことを論じないし、自分の功績を借りることもなく、
迷いの世界から離れられるかどうかは、ただただ仏の他力にあると言っています。

そして、法蔵菩薩が「もしこれで往生しないのなら正しい覚りは開かない」とまで言って、
すでに覚りを開いたのだから、往生することは疑いがないと言っています。さらに、
「即得往生住不退転」というのは、つゆほども間違うことがないのだから、あれこれ考え
ることはない、と言っています。

ここで大事なことは、凡夫の自力では絶対に助からないと自覚すること、そして、そのよ
うなどうしようもない凡夫を仏は間違いなく助けてくれるのだから、それを信じること
であると考えられます。(これが、いわゆる「二種の深信」ですよね。)

そうして、この「二種の深信」があるから自力に走らず、仏にお願いして完全おまかせの
「他力の行」をいただくことができるのはないでしょうか。そして「他力の行」をいただ
いてしまえば、「即得往生と住不退転」は間違いがないのだから、あれこれ考えることは
ないということではないでしょうか。(ここを素直に読むと、そんなふうに感じます。)

そして、ここでさらに大事なことは、煩悩まみれの凡夫の善行など、はなから問題にして
いないということです。「有善・無善を論ぜず」です。その理由は、同じ「信巻」のひと
つ前の段で、同じく「散善義」から引用された以下の部分や、それを解説している六要鈔
の記述からも明らかです。

--------------------------------------------------------------------------------
貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵〈や〉め難し。事、蛇蝎に同じ。(信巻)
--------------------------------------------------------------------------------
凡夫の心は更に賢善精進の義なし。ただこれ愚悪懈怠の機なり。(六要鈔・信巻)
--------------------------------------------------------------------------------

凡夫は、むさぼり、怒り、よこしまであり、人をあざむく心が数限りなく起こり、悪い性分
をやめることができない。それは、へびやさそりと同じだとまで言っています。さらに、
賢く、善であり、精進をするなどということはなく、ただただ愚かで、悪であり、なまけ
てばかりだと言っています。(まったくひどいものですが、これが煩悩具足の凡夫という
ものでしょう。)

それが「二種の深信」をわきまえて「他力の行」をいただいた途端、「即得往生住不退転」
となり「不断煩悩得涅槃分」だというのですから、これが、「密益」とはいえ仏智不思議
ということなのでしょう。

そして「不断煩悩」のまま「得涅槃分」なわけですから、「他力の行」をいただいたあと
も、あいかわらず「貪瞋邪偽、奸詐百端」で「愚悪懈怠」のままだということですよね。
そして「即得往生住不退転」は微塵の間違いもないのだから、無慮(おもんばからない)
がいいということですよね。なんと言っても、へびやさそりと変わらないというのですから。

このうえは、「寝てもさめても御恩報謝の念仏」しかないということでしょうか。

南无阿彌陀佛

●re.65
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2181 ] Re30:後念相続 2010/10/20 (Wed) 01:59 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

その後いかがお過ごしでしょうか。体調を崩してはおられませんでしょうか。

このスレッドでも、最近は忍草様のご意見を拝聴することができず、寂しい思いを
しております。

正直に申しまして、ここでは自分の感じるままを書いているのですが、はたしてこういう
理解でよいのか、独りよがりになっていないか、不安も感じております。

もし忍草様の納得が得られる部分があったとしたら、それは一味同行のだれもが納得する
内容であるでしょうし、逆に忍草様の納得が得られない部分があるとしたら、忍草様のお
話も拝聴したうえで、さらに理解を深めるステップになるのではないかと思えるのです。


ところで、上に書きました「二種の深信」にかかわって、最近の学習のなかで興味深い
文章を見つけましたので、上の補足の意味で、それについて申し述べたいと思います。

聖人は、信巻の中で、『集諸経礼懴儀』から次の言葉を引用しています。

--------------------------------------------------------------------------------
二には深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少に
して三界に流転して火宅を出でずと信知す。今、弥陀の本弘誓願は、名号を称すること
下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで、
疑心あることなし。故に深心と名づく。(信巻)
--------------------------------------------------------------------------------

ここでは、はっきりと二種とは書いていませんが、先に書きました「二種の深信」と同じ
中身であるあることは明らかです。

ここで、興味深いのは「下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、
一念に至るに及ぶまで、疑心あることなし。」と書いていることです。

「下至十声一声等に及ぶまで」というのは「一番下は十声一声まで」つまり「一声でも」
ということです。「一声の念仏でも往生すると信じて、一念に至るまで疑わない」という
ことです。

「一念」というのは、「ほんの短い間」「信の一念」「行の一念」などの3つの意味があ
るようです。このどの意味にとっても、一味同行にとっては、これは「一念帰命」または
「他力の行」などといわれることに他ならないと思われます。また、「一声等に及ぶまで」
と言っている文の流れからしても、「一念」は「一声の念仏」つまり「他力の行」と考え
てよいのだと思います。

そうすると、ここは「一声の念仏でも往生すると信じて、一声の念仏に至るまで疑わない」
という意味になります。もちろん「一声の念仏に至るまで疑わない」というのは、その後
は疑っても良いということではないと思いますが、わざわざこのように言うということは、
「一念帰命に至るまで疑わない」ことが、決定的に大事だからなのではないでしょうか。

一念帰命に至るまでに疑いにとらわれれば、自らを頼んで自力の門に走り、逆に、それま
でに疑わずに深く信じることができたから、その門に入り「他力の行」をいただくことが
できた、ということではないでしょうか。言い換えると、「二種の深信」がそなわったの
で、その前提に立って初めて他力の門に入ることができた、ということになります。

以上、上に述べたことの補足ですが、間違っている可能性もありますので、どなたでも
ご指摘をいただけましたら幸いです。どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.66
菩提心
非公開の非公開
[ 2182 ] Re31:後念相続 2010/10/20 (Wed) 12:09 △up ▽down
ボン様

時折、お邪魔しております。

「教行信証・学習ノート」も拝読しております。


「二種の深信」・・・私は、二種深信をログ検索しました。

赤字で示して有ります。(パソコンによっては違うかも知れません)

2007年、もうかれこれ3年の月日が流れました。

何をするでもなく、日々怠惰な生活を送っています。

あの頃の思いと違い、今はとても落ち着いています。

とても有難いと思います。

そして、毎日様、泥凡夫様の書き込みに、「そうだな〜」と頷ける私がいます。

過去ログ検索のきっかけを頂き、感謝しています。


南无阿彌陀佛

●re.67
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2183 ] Re32:後念相続 2010/10/22 (Fri) 00:51 △up ▽down
菩提心様、皆さま、こんばんは。

私も、「二種深信」でログ検索をかけてみました。
菩提心様の書き込みのおかげで、また新しい発見をすることができました。
ありがとうございます。

私自身、この掲示板に出会うまでは、「御文」以外はほとんどまともに読んだことがなく、
「二種深信」という言葉が存在することすら知らず、この掲示板のなかではじめて、
そういう言葉があるということを知った次第です。とてもありがたいことです。

過去ログは以前にもよく読んだつもりだったのですが、今回検索をかけてみて、過去に
毎日様が「二種深信」について詳しく解説されていることを始めてしりました。

それによると、どうやら「二種深信」は、「真実の行」を行ったあとで、弥陀からいただけ
る信心ということのようです。多少、ニュアンスの違いはあるようですが、極道坊主様も、
忍草様も、「真実の行」または「一念帰命」があったのち、「二種深信」が得られる、
または、それに近づくと考えておられるようです。

そうしてみると、私のように「『二種深信』がそなわったから、「真実の行」または
「他力の行」「一念帰命」に入ることができる」と受け取るのは、通常とは逆転した特殊
なとらえ方のような気もします。

特殊とはいえ、私自身、聖典を素直に読んだ結果、そのように感じられたというのが正直
なところなのですが、やはり、まだ教行信証も途中までしか読んでおりませんので、
なにか不十分なところがあるのかもしれません。

どなたでも、この点につきまして詳しくご指導いただけましたら、うれしく思います。
どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.68
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2203 ] Re33:後念相続 2010/10/26 (Tue) 02:45 △up ▽down
忍草様、皆さま、こんばんは。

その後いかがお過ごしでしょうか。
これまで、忍草様との問答のおかげで、聖典を学習するモチベーションが維持されてきた
ことは間違いありません。深く感謝しております。

ところで、私は[ 2181 ] で「『二種深信』がそなわったから、『真実の行』または
『他力の行』『一念帰命』に入ることができる」という主旨の書き込みをしたときに、
「信巻」のなかに「一念に至るに及ぶまで」という記述があることを引き合いに出して、
「『一念』は『一声の念仏』つまり『他力の行』」であるということを述べました。

しかし、これにつきましては「行の一念」「信の一念」についてのとらえ方にかかわって、
異論もあるものと思われますので、少し整理をしてみようと思いました。

この点につきまして、忍草様は以下のように考えられておられるものと、これまでの書き
込みから理解することができます。(違っておりましたら、おっしゃってください)

--------------------------------------------------------------------------------
○行の一念・・・一度目の往生 因位 報土中の仮 初歓喜地 一念帰命
  ↓(時間がかかる)精進が必要
○信の一念・・・二度目の往生 果位 眞實報土  不動地  信心成就(滅度の證り)
--------------------------------------------------------------------------------

これは、忍草様の以下の書き込みをとりまとめたものです。

忍草様 No.1839
>八地(不動地)已上(證巻参照)で法性生身の菩薩とされていますから、
>生身は現生ですよね。ですから行一念、信一念はいたる前といたりての時と
>書くのです。
>行一念はあの時が入であり、因位であり、報土中の仮であり(何も知らない
>十信中の忍でも初歓喜地)未證浄心となります。
>信一念は信心成就が果位であり、眞實報土であり、不動地であり、住でも
>あり、證(さとり)でもあるが、覚(さとり)からみれば又因でもある。

忍草様 No.1859
>所謂「行の一念」をば眞實行の中にあらわして、「行の一念というはいわく、
>称名の遍數について選擇易行の至極を顕開す」といい、「信の一念」を
>眞實信の中にあらわして、「信楽に一念あり、一念というはこれは信楽開發の
>時剋の極促をあらわし、廣大難思の慶心をあらわす」といえり。上にいう
>ところの十念一念は、みな行について論ずるところなり。信心について
>いわん時は、ただ一念開發の信心をはじめとして一念の疑心をまじえず、念々
>相続して彼の願力の道に乗ずるが故に、名號をもって全く我が行體と定む
>べからざれば「十念」とも「一念」ともいうべからず、たゞ他力の不思議を
>仰ぎ、法爾往生の道理にまかすべきなり。
>ここにも疑心をまじえず(二心なき一心)、念々相続して・・・たゞ他力の
>不思議を仰ぎ、法爾(自然法爾)往生の道理にまかすべきなり。とあります私はこれを
>信心成就と捉えて二度目と理解しています。

忍草様 No.1915
>たのむ一念は行の一念で「往生一定・御たすけ治定」であって、信の一念は
>信心成就の滅度の證りだとおもいます。

忍草様 No.1940
>顕は一念帰命の行の一念、隠は一念帰命の解了で眞因を決了する安心の
>一念と「信の一念」をはっきり書かれているではないですか。
>ですから「信の一念」とは信心成就ですから、十一願の成就文に到達する
>までに凡夫は時間がかかるというのです。

忍草様 No.2111
>一念帰命は「行の一念」で入正定聚(信心を獲る)一度目の往生
>眞實信心の行人→金剛堅固の行者で「信の一念」住正定聚である(信心を得る)二度目の
>往生で臨終が三度目で筋が通りませんか。

このように「行の一念」から時間をかけて「信の一念」に向かうという考え方もあるよう
ですから、ここであらためて原典にあたって検証してみたいと思います。

まず「行の一念」につきましては、「行巻」に次のように書かれています。

--------------------------------------------------------------------------------
おおよそ往相回向の行信について、行にすなわち一念あり、また信に一念あり。行の一念
と言うは、いわく称名の遍数につきて、選択易行の至極を顕開す。故に『大本』(大経)
に言わく、仏、弥勒に語りたまわく、それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍し
て乃至一念せんことあらん。当に知るべし、この人は大利を得とす。すなわちこれ無上の
功徳を具足するなりと。(行巻)
--------------------------------------------------------------------------------

「行の一念」について言えば、称名の回数について述べて、それが選びぬかれた易行の至極
(きわめつけ)であから、名号を聞いて、歓喜踊躍して、乃至一念すれば、大利(無上の功徳)
を手に入れることができるとしています。

つまり、「行の一念」は「称名の回数」であり、それは「乃至一念(1回の念仏でもいい)」
ということです。それは、まさに行そのもですが、ここで注目すべきなのは「歓喜踊躍し
て乃至一念せん」と述べていることです。「歓喜踊躍」は行ではなく、むしろ、信じきっ
ている心のありさま、つまり「信心のすがた」と考えられます。

要するに「歓喜踊躍(信心のすがた)」が先にあって、その後に「乃至一念」となっている
のです。または、「歓喜踊躍」と「乃至一念」は並列であって、それは同時に起こるもの
かもしれませんが、少なくとも「乃至一念」のはるか後に「歓喜踊躍」が起こるのでない
ことだけは確かです。

ここで「乃至一念 = 行の一念」「歓喜踊躍 = 信の一念」としてみますと、「行の一念」
のはるか後に「信の一念」が起こるのではない、と言い替えることができそうです。

しかし、そうすると次のような反論が出てくるかもしれません。「乃至一念 = 行の一念」
はまだいいとして「歓喜踊躍 = 信の一念」には無理があるのではないかと。たしかに、
これは、やや図式的かもしれませんが、「大経」の18願の成就文では「信心歓喜乃至一念」
となっています。

--------------------------------------------------------------------------------
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへ
り。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。(大経)
--------------------------------------------------------------------------------

ここから「歓喜踊躍」と「信心歓喜」は、ほぼ同様の使われ方をしていることが解ります。
この点につきましては、「一念多念証文」のなかでの解説も参考になります。

--------------------------------------------------------------------------------
「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなき
なり。「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこば
しむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。(一念多念証文)
--------------------------------------------------------------------------------
「歓喜踊躍乃至一念」といふは、「歓喜」は、うべきことをえてんずと、さきだちてかね
てよろこぶこころなり。「踊」は天にをどるといふ、「躍」は地にをどるといふ、よろこ
ぶこころのきはまりなきかたちなり、慶楽するありさまをあらはすなり。(一念多念証文)
--------------------------------------------------------------------------------

要するに、「信じて躍り上がるほどに喜んで一念に至る」ということになります。
そうすると「信心歓喜 = 歓喜踊躍 = 信の一念」としても、さほど無理がないように
思われます。

(続く)

●re.69
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2204 ] Re34:後念相続 2010/10/26 (Tue) 03:30 △up ▽down
(続き)

以上のことを考え合わせてみると、「行の一念」のはるか後に「信の一念」に至るといの
ではなく、「行の一念」と「信の一念」はほぼ同時に起こるか、または、同じことをそれ
それに違った観点から表現しているといえるのではないでしょうか。

この点につきまして、上記「信巻」の記述を解説した「六要鈔」では、次のように述べて
います。

--------------------------------------------------------------------------------
次に『大経』の流通分の初に彼の如来の名号の徳を明かす文なり。この故に、これを以て
行の一念と為す。問う。今この文を以て起行といいがたし。既に「歓喜踊躍」の言あり、
宜しく安心に属すべし。(中略)いかん。答う。行は信を離れず、信は行を離れず。今の
文の意は信行相備りて互いに以て通用す。(六要鈔・行巻)
--------------------------------------------------------------------------------

この文が「起行(行の実践)」を指しているとは思えない。なぜなら、先に「歓喜踊躍」の
言葉があるから、それは「安心(信心の確立)」に属するのではないか、と質問しています。
それに対して次のように答えています。行は信を離れず、信は行を離れない。信には行が
備わっていて、行には信が備わっていて、互いに通じあっている。

ここで大事なことは、「歓喜踊躍」は「安心(信心の確立)」に属するという考えが示され
てていることです。もちろん、これは質問文のなかの記述ですが、それに対する答えも、
その内容を否定しておらず、むしろ、それを受けたかたちとなっています。

ここに「安心」と「起行」という言葉が出てきます。これについては、善導が「往生礼讃」
の「前序」のなかで、「安心」「起行(五念門)」「作業(四修)」の順に説明しています。

--------------------------------------------------------------------------------
いかんが安心・起行・作業してさだめてかの国土に往生することを得るや。(中略)かなら
ずかの国土に生ぜんと欲せば、『観経』に説きたまふがごときは、三心を具してかならず
往生を得。なんらをか三となす。一には至誠心。(中略)二には深心。(中略)三には回向発
願心。(中略)この三心を具すれば、かならず生ずることを得。(往生礼讃)
--------------------------------------------------------------------------------

このあとに「起行(五念門)」「作業(四修)」と続きますので、これは「安心」を説明した
部分にあたります。つまり「安心」とは、『観経』でいう「至誠心・深心・回向発願心」
の三心であるということです。

そして、この『観経』の三心は、実は『大経』の三信(至心・信楽・欲生)と同じである
ことは、下記の文言より明らかです。

--------------------------------------------------------------------------------
二経の三心、将に一異を談ぜんとす。善く思量すべきなり。『大経』『観経』、顕の義に
依れば異なり、彰の義に依れば一なり。知るべし。(化土巻)
--------------------------------------------------------------------------------
彼の『観経』の三心と、『大経』の三信と和会して終に一心と成るに約する時は、
この三信は如来発起他力の大信なり。(六要鈔・証巻)
--------------------------------------------------------------------------------
『大経』『観経』三信・三心はもとこれ一意なり。(六要鈔・信巻)
--------------------------------------------------------------------------------

つまり、「安心」とは「三信」、つまり「三つの信じる心」と同じだということになり、
「歓喜踊躍 = 安心 = 信の一念」といっても差し支えないものと思われます。これもま
た、「行の一念」と「信の一念」が一体不可分であることを示すものと思われます。

つぎに、「信巻」によって「信の一念」を見てみます。

--------------------------------------------------------------------------------
それ真実信楽を按ずるに、信楽に一念あり。一念とは、これ信楽開発の時剋の極促を顕し、
広大難思の慶心を彰すなり。ここをもって『大経』に言わく、諸有〈あらゆる〉衆生、
その名号を聞きて、信心歓喜し、乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。かの国に生
ぜんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せんと。(信巻)
--------------------------------------------------------------------------------

ここでは「信楽に一念あり」と述べていますが、これが「信の一念」について述べたもの
であることは、この部分を解説した「六要鈔」の文言からも明らかです。

--------------------------------------------------------------------------------
「夫按真実信楽」等とは、これ私の御釈なり。上の第二巻に行の一念及び信の一念ありと
いいて、行の一念を証するに流通の文を出だす。今、当巻に至りて信の一念を証するに
第十八の願成就の文及び諸文等を出だす。(六要鈔・信巻)
--------------------------------------------------------------------------------

つまり「信の一念」とは「信楽の一念」であるということになりますが、これはとても
重要なポイントであるように思われます。

「信楽」とは言うまでもなく、18願の「至心・信楽・欲生」の「信楽」です。つまり、
あの時、つまり「一念帰命」のときです。これによって、「信の一念」が「行の一念」
のはるか後にやってくるものではないということは、明らかなように思われます。

むしろ「六要鈔」に「行は信を離れず、信は行を離れず」と述べるように、「信の一念」
と「行の一念」は、同じときのものを別々の観点から述べたものと考えるのが適当だと
思われます。

この場合の「一念」は、「行」としてみれば「一回の念仏」であり、「信」としてみれば
「疑いのない一心」であり、同時にどちらの観点からみても「極めて短い一瞬」という
意味も込められているのではないかと思います。

最後に「真要鈔」から引用します。

--------------------------------------------------------------------------------
よろこびおもふこころの一念おこるとき往生は定まるなり。(中略)この一念について隠顕
の義あり。顕には、十念に対するとき一念といふは称名の一念なり。隠には、真因を決了
する安心の一念なり。(中略)しかればすなはち、いまいふところの往生といふは、(中略)
一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生の名願力にほろぼされて、涅槃畢竟の真因はじめて
きざすところをさすなり。(中略)されば一念帰命の解了たつとき、往生やがて定まるとな
り。(真要鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

「よろこびおもうこころの一念(歓喜の一念)」は「安心の一念」であると述べています。
それは南無阿弥陀仏と帰命する「一念」であって、涅槃畢竟の真因が“初めて”兆すとこ
ろであり、「一念帰命」のときである、と述べています。

以上、長文にて失礼いたしました。おかしな点がございましたら、何なりとご指摘下さい。
どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.70
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 2205 ] Re35:後念相続 2010/10/26 (Tue) 05:27 △up ▽down
ボン様

二種深信につきまして、私の名前が出ておりましたので、久しぶりに書き込み致します。

ボン様の尊い継続、本当に尊いものと、拝む気持ちで、見させていただいております。

二種深信についてですが、正しい、誤っているということではなく、今現在の私の感じていることとして、書きたいと思います。

血気盛んと申しますか、破邪を望むとでも言うのでしょうか、そういう気持ちに傾いていた時期もあり、そのような時期は怒りやすく、激昂しやすく、誠に未熟な自分自身であると思います。

しかし、今考えますと、「何が正しいか」などということが、わかる私ではないのです。

本当にただ、「私は、今、このように感じているような気がする」程度のことしか、考えることができない凡夫なのだと、理性的には考えております。

しかし、感情的には、自らを、そこまで凡夫とは思っておらず、傲慢の蛇が舌を出しているのが、私の心なのです。

と、ここまで読みますと、「ん、機の深信がないではないか?」と思われる方がいらっしゃると思います。

確かに、無いかもしれないのです。

ところが、「おそらく、あるだろう」という信仰を持っているわけです。

これはどういうことかと申しますと、私の考えでは、信をいただくまでは、いわば、二種浅信のようなものを、私たちは抱いているのだと思っております。

こんな自分ではダメだと。しかし、弥陀ならば救ってくださるかもしれない。

深くはないが、浅い信を持ってはいる。

このような状態なのだと思います。

それが、弥陀をたのむことで、二種の深信をいただく。

つまり、二種深信は、真実信心の2つの側面にしか過ぎないのだと思います。

ところが、真実の信心をいただいたところで、凡夫である私には、本当にいただいたのかどうかなど、わかりはしないのです。

それでも、教義として、「どうもいただいたらしい」という理解をします。

そして、それから少しの時が過ぎて思うのですが、やはり、どうも、「弥陀様の御信心は、活動なさっているのではないか」と感じることがあるのです。

真実の信心を捉えられるわけではありません。その正体もわかりません。

しかし、雲の切れ目から時折、漏れる光のように、その御はたらきを感じることがあるような気が致します。

なぜなら、この罪深き私の人生が変わり、心持ちが次第に変わり、人生がしあわせになってきていると言えるからです。

私の理解は、このようなものです。

何かご不明な点があれば、何なりとご質問下さい。

南无阿彌陀佛

●re.71
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2206 ] Re36:後念相続 2010/10/27 (Wed) 02:27 △up ▽down
毎日様、皆さま、こんばんは。

いつもこの掲示板で遊ばせていただき、ありがとうございます。

毎日様のゆったりとした考え方を拝読しまして、わが身を振り返り、少し反省するところ
もございます。物事には何でも二面性がございまして、あまりにも理詰めで白か黒かとい
うことを突き詰めすぎると、確かに窮屈になってくる面もあるように思います。

二種深信は、真実信心の2つの側面であるということにつきましては、私も同じように
受け止めております。そして、その正体はよくわからないまでも、「雲の切れ目から時折、
漏れる光のように、その御はたらきを感じることがある」ということも、なんとなく解る
ような気がいたします。「雲の切れ間からでも何か感じることができる」というのは、
とても幸いなことです。

ところで、「二種深信」というと堅い言葉のようですが、平たく言えば「(1)自分の力で
はどうやったって助からないと確信する」「(2)そんな自分でも必ず助けてくれるという
んだから、ここはひとつそれを信じて、身をあずけて、言うことを聞いてみようという
気持ちになる」ということじゃないかと思うんです。「二種深信」って、こんなことです
よね、きっと。

そうでなかったら、我々同行のだれもが、この法にはご縁がなかったわけですよね。
宿縁(宿善)をはかる、といいます。何を測るかと言えば、この法に縁があるかどうかとい
うことですが、直接的には、この「二種深信」があるかどうかを測るしか、その方法はな
いと思うのです。

ところが、この「二種深信」というのは、簡単な人には簡単なようですが、難しい人には
とても難しいのでしょう。たとえば、ドロボーやヤクザ者ならは、自分は所詮地獄行きだ
と思っているから、初めっから一つ目の深信は持っているようなものです。悪人正機とい
うことでしょうか。ところが、教師や人徳者やお坊さんなどは、自分はそれなりの善人だ
と思っていることが多いので、何か自分で努力すればいいところにいけるくらいに思って、
なかなか一つ目の深信にすら及ばない、ということなのだと思います。

二つ目の「阿弥陀さんが助けてくれるというだから、それを信じてみよう」というのも、
きっぷのいい粋なお兄さんなら、「まな板の上の鯉」のようになって「信じるからどうに
でもしてくれ」ってなもんで、わりと簡単でしょう。つまり、「疑わない」というのは形
に表れるわけですね。ところが、世の中には疑い深い方もおられるもので、なかなか煮え
切らない態度だと、この易行に入ってこれないことになるわけです。つまり、これが難信
の法だということだと思います。

悟りの言葉を聞くために羅刹の口に飛び込んだ修行者のような思いが、「疑いなく信じる」
ということではないかと思います。(下記参照)

http://www.geocities.jp/yasuko8787/rasetu.htm

ちなみに「粋」という字は、「米」と「卆」からできていて、「米」は「木」つまり「十八」に
二つの点、「卆」は「九」と「十」、つまり「九字・十字の名号」なのだそうです。
スパッと竹を割ったような「粋」な心意気が大事なんだとか・・・。

最後は、なんだか取り留めのない話で申し訳ありませんが、
こんな「二種深信」の理解ではいかがなものでしょうか。

南无阿彌陀佛

●re.72
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 2217 ] Re37:後念相続 2010/10/29 (Fri) 03:04 △up ▽down
ボン様

永らく、ご無沙汰を致しておりました、極道坊主であります。

専ら、教行信証の方を進められておられるご様子。 あまりのスピードに、感心を通り過ぎ只々感服しております。 すでに、500スレッドを越されておられる。 まさに、根気のいるお仕事だと思います。 楽しみにしております。 この後も宜しくお続け下さい。

毎日様

ご無沙汰を致しておりました。 改めて、御味わいを聞かせて貰いますと、なんというか、こう、伸びやかな気持ちにさせられます。 清々しいというか、何と言うか? 爽快な気にさせられます。

自分の経験した処とは、違った味わいをされておられる。 その者々々によって様々な道程が有り、お育ての方法があることを知らされます。 有難うございます。

今、この書き込みにおいては、「二種深信」についての御心持ちが記されております。

ボン様もまた、「二種の深信」についてもご考察の事と拝します。 この部分に、自分のハンドルネームがありましたので、私も少しばかり想いを書かせて戴こうと思います。

>「真実の行」または「一念帰命」があったのち、「二種深信」が得られる、または、それに近づくと考えておられるようです。

ボン様に、上記の様な受け取り方をさせてしまったのであれば、自身の言葉足らずであったのかも知れません。 申し訳ありません。

「真実の行」、「真実の信」は、大行であり大信でありまして、佛様より賜りますご廻向であると聞いております。 所謂、「なむあみだぶつ」の御念佛です。 その行と信とに育てられまして「二種深信」が得られるのではなく、この身に備えて貰うのだと自身は感じています。 その時点で行があって、信があって、帰命した後、云々という、タイミングのズレが有る訳では無いのです。 行と信は多分一緒。 微妙な時間差、絶妙な同時。 そんな関係を繰り返しながら、御念佛に育てられ、助けられながら「法の深信」、「機の深信」を知らされ肝に据えさせられるのでしょう。

でもそのとき、「同時だった。」とか、「時間差があった。」とか、その様に感じられる事ってありましたか? 思い返して、初めて「一緒だったのかなぁ〜。」とも感じられますし、「いや、時間的には一緒じゃなかったかも?」とも受取ったのかもしれません。

時間的な経過は、機の方のご縁に依って様々であろうと思いまが、「機の深信」においては、ボン様の仰るところの様な平たい部分では無いと感じています。

>平たく言えば「(1)自分の力ではどうやったって助からないと確信する」

確かに。 確かにそうなのです。 そうなのですが、何故助からないのか? 上記の如くでしたら、「その様に聞いたから、たすからないんだろう。 いや、助からないんだ。」という思い込みを、確信とすり替えても成立してしまいます。 

また、自身は「根気よく続ければ助かるのではないか?」とも思ったこともありました。 他宗の佛教を勉強していた時です。 しかし、その根気が続かない。 そこまでの覚悟も起こらない。 起こらなければ続かない。 続かなければ、助かる謂れは無い。 

そういう自分なのです。 何かにつけ、三日坊主。 このような心持ちでも「自身の力では、どうやったって助からない。」という気持ちは起こります。 半ば、投げ遣りな考え方のようでもあります。 でも、このような想いが「二種深信」の機の深信と同じ思いでしょうか? 味わいに感じられますか?

何か違和感があります。 「貴方の考え方の所為でしょう。」と言われれば、そうかもしれませんが。 何かが抜けているような? 何かが足りないような?そんな気がします。 「機の深信」とは、「機の真実を深く知る。」ということではないのでしょうか? 「機の真実」とは、「本当の私の心」ということ? 佛様が「たすける。」「救う。」とお誓い下された、私の機根は如何なるものなのかを知るという事ではないのでしょうか?

佛教では、(哲学でもそうですが、)「如実知自身」とか、「如自当知」とか申します。 自らを知る事が大切だというのです。 「機の深信」とは、正にそういう事を指しておられるのではないですか?

自性を知る事をお留守にしていると、(実際は知らされるのですが。)全てのものの受取り方が、他人事で終わってしまう様に感じます。

聖人様も、ご自身を内省されて自性を知られたのでしょう。 「自身は、こんなものでありましたか。」と深くご自身を悲歎され、懺悔されておられるではありませんか。

>貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵〈や〉め難し。事、蛇蝎に同じ。(信巻)

上記の内容を、愚禿悲歎述懐和讃の中にも記されてお出でです。

「悪性さらにやめがたし こゝろは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなずけたる」

聖人様は、この様にご自身の心に起こる醜い心持ちをご述懐されておいでです。 この「蛇蝎のごとく」は、ボン様の仰る「へびやさそりと変わらない。」というお心持ちでは決して無い。 「へび、さそりにおなじ。」ではないのです。

聖人様は「へびやさそり、毒虫にも劣る。」と自信を振り返られ、そうお考えであったに違いありません。 「その考えは、想像の域を超えないじゃないか?」といわれるかもしれませんが、もし、自身と同等のところに相手を建てると、遜る事をしなくなるからです。

自分の師も、「自分よりも、一人でも下に居る者が在れば、この法は一言一句、入っちゃ行かんので。」と申されました。 「他人様の足元を戴くのが、この法じゃ。」とも。

そのお心持ち、言葉にして、文章にして上手く伝える事が出来ませんが、味わいとして頷けるところがあります。 勿体無いと感じます。

その、『「へび、さそり、毒虫に劣る。」のが自身と悲歎して居る者を真っ先に救う。』ということがハッキリと知らされて御覧なさい、それこそ「踊躍歓喜」の心持ちはでは済まないと思います。 それ以上の喜び(慶び、喜び、歓び、悦び。)を味わえるのだと思うのです。

「へび、さそり、毒虫に劣る。」という心持ちだけではありません、御念佛の働き(真実の行と信)によって自分を見せられ、自身を知らされ、本当の機(こころ)が照らし出されると、真実の法に任せるしか無くなるのだと思います。 その、自分を写し出してくれる鏡のような役目が、佛であり、法なのだと戴きます。 

法によって知らされ、「自身にはたすかる謂れが無い。」とこのとき確信して、佛様に帰命するのでしょう。 その時には既に、法の側から私の方に歩み寄られ一つになって下さるのです。 故に「機法一体」というのだと思います。

「一念帰命する。」ともうされますが、「一念帰命」は「する。」のではなく、帰命させられるのではないかと感じるのです。 「帰命する。」となれば、帰命した『自分』がいます。 この自身が消えませんから、色々な事が簡単にはいかないのだと感じています。


>たとえば、ドロボーやヤクザ者ならは、自分は所詮地獄行きだと思っているから、初めっから一つ目の深信は持っているようなものです。悪人正機ということでしょうか。ところが、教師や人徳者やお坊さんなどは、自分はそれなりの善人だと思っていることが多いので、何か自分で努力すればいいところにいけるくらいに思って、なかなか一つ目の深信にすら及ばない

ボン様、ドロボーやヤクザとて、自身の行動を「悪い。」と思いながら動いている人間は、多分独りも居ないでしょう。 まして、欲にかまけての日々に狂うて居るのです。 地獄、極楽を考えている余裕は無いでしょう。 然し、縁が至って考える事があったとしても、本気で地獄行きを覚悟する者はいないと思います。 

その訳は、上記の如くが自分の知らされた「二種深信」の味わいの一部でありまして、佛のご廻向によるお育てにあづからなければ、決して至るところでは無いと思うからです。

どんな人でも、自身を容易く『悪人』とは覚悟できません。 もし、「私は素直にそう思えました。」ともうされる方が居られましたら、その方もやはり、御自身を御存知無いのだと感じます。

「三千大千世界の何処を探しても、独りとして素直な人間などいないのですよ。 それくらい凡夫の性根はひねくれ者です。」と師僧は申されました。 素直であれば、悩む必要が無いのです。 迷う筈もありません。 『「素直に聞けた。」「素直に分かった。」は、自身が驕慢の土天井に舞い上がっとるんでぇ〜。』というのも師僧の弁。 そういうことなのですね。


最後に、ボン様 「疑心あることなし。」というのは、「疑わない。」ということではありません。 「佛のご廻向によりまして、疑心さえも起こらなくして貰った。」と云う事だと聞きました。 凡夫の性根は、ほんの短い一声の御念佛にも疑いが起こるのでしょう。 「疑わない。」となれば、疑わないように頑張っている自身の存在が見えてきませんか?

深信がハッキリとし、真実の信心が届いて下さって居るのであるから、頭の先から爪先まで疑心の入る余地は無いと云う事を言っているだと感じるのです。 ここら辺は定かではありませんが、凡夫は常に念佛をしないものと聞きました。 その凡夫の口を借りて「なむあみだぶつ」と出て下さる。 故に、自分自身は勿体無さを感じるのです。

「真宗においては、私というものはありません。」と聞かせて貰っています。 その部分に注意を払うと文章が書き辛くなります。 しかし、細心の注意を払わなければ、誤解を招きます。 「矛盾しているのかなぁ〜。」なんて考えながら、書き込みをしています。

このたびも、取り留めの無い話になりました。 申し訳ありません。

不明瞭な部分、疑問に思う点、えっ!それ違うじゃろと感じる点がありましたらご意見を下さい。 素直に認める程、寛大な心の持ち主ではありませんが、それも大切なご縁。 佛の御育てと頂、ありがたく賜ります。 合掌

●re.73
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2218 ] Re38:後念相続 2010/10/30 (Sat) 03:54 △up ▽down
極道坊主様、皆さま、こんばんは。

極道坊主様のコメントを聞くことができて、本当にうれしく思います。同時にまた、
そのお話を聞くたびに、「いつも厳しいなあ〜」と思います。ですが、いくつか
疑問もございますので、そのへんを率直に述べさせていただきたいと思います。

>その時点で行があって、信があって、帰命した後、云々という、タイミングのズレが有る
>訳では無いのです。 行と信は多分一緒。 微妙な時間差、絶妙な同時。 そんな関係を
>繰り返しながら、御念佛に育てられ、助けられながら「法の深信」、「機の深信」を知ら
>され肝に据えさせられるのでしょう。

極道坊主様が、「真実の行」の後に「二種深信」が徐々に深まってくるとお考えでないこ
とを理解しました。誤解をしましたことをお詫び申し上げます。

しかし、そのおっしゃっていることは、やはり難しく、十分に理解することができません。
「真実の行」のあとも、行と信が繰り返されるということなのでしょうか。その繰り返さ
れる行というのは、「南无阿彌陀佛」のお念仏ということなのでしょうか。教えていただ
ければ幸いです。

>>平たく言えば「(1)自分の力ではどうやったって助からないと確信する」
>
>確かに。 確かにそうなのです。 そうなのですが、何故助からないのか? 上記の如く
>でしたら、「その様に聞いたから、たすからないんだろう。 いや、助からないんだ。」
>という思い込みを、確信とすり替えても成立してしまいます。

「自分の力ではどうやったって助からないと確信する」というのは、本当は思い込みかも
しれないというご指摘かと思います。確かにそうだと思います。“自分の考え”というも
のほど、あやふやなものはないということは、私にもわかるよう気がします。

だからこそ、仏は我々の“自分の考え”などというものは、はなから問題にしていないの
ではないでしょうか。だから、「二種深信」がそなわったかどうかは自分で判断するので
はなくて、「仏の代官」に判断していただくのではないかと思ったのです。(お断りしてお
きますが、これは私見です。経文を読むとどうもそのように理解できると思ったのです。)

また、この「二種深信」というのは“自分の意識”というあやふやなレベルの話ではなく、
姿形に現れたものを指すのではないかと思ったのです。その姿形というのは、「お願いする」
「おすがりする」または「おまかせする」という思いや態度ではないかと思ったのです。
その思いや態度を「仏の代官」に判断していただくのではないかと思ったのです。(もち
ろん、これも私見です。)

そうすると、「二種深信」があって初めて「真実の行」があるということになってしまう
わけです。だから、「これは、普通の理解とは逆転しているよなあ」と思ったわけです。

>自性を知る事をお留守にしていると、(実際は知らされるのですが。)全てのものの受取
>り方が、他人事で終わってしまう様に感じます。

極道坊主様のお言葉は、私のようなものにとっては、とても厳しいものに感じられます。
どうしたら自分の本性を知ることができるのでしょう。私には解りません。「私は煩悩
具足の凡夫です」と思ってみたところで、それは思い込みかもしれません。そう考える
と、もう、お手上げですよね。

まあ、こんなことを言っているうちは、自分の本性を知るなどということは、夢のまた夢
なのでしょうが、でも、本当にどうしたらいいでしょう。本当に解らないんです。お念仏
が足りないのか、人にもまれていないのか、もっと、たたきのめされたらいいのか・・・。

そうしてみると、やはり、仏は我々の“自分の考え”などというものは、はなから問題に
していないのではないか、と考えたくなってくるわけです。そう考えるのが、私にとって
一番楽なのです。そして、経文を読んでみると、確かに仏は我々の“自分の考え”など
はなから問題にしてないじゃないかと思えるふしがあって、うれしくなってくという次第
なわけです。

>「自身にはたすかる謂れが無い。」とこのとき確信して、佛様に帰命するのでしょう。
>その時には既に、法の側から私の方に歩み寄られ一つになって下さるのです。
>故に「機法一体」というのだと思います。

そうですよね。「自身にはたすかる謂れが無い」と確信して、帰命して(帰命させられて)、
機法一体となったわけですよね。だから、救われたんですよね。私はすでに救われたと考
えていいんですよね。私にとって確かなことは、この帰命したという事実しかないんです。
これこそが、私にとって、すべてのより所です。

そうすると、すでに帰命して救われたということは、ものの順番から考えて、仮に一瞬
(一念)であっても「自身にはたすかる謂れが無い」と確信したと考えていいのではないか、
と思うわけです。つまり「二種深信」がそなわったというわけです。(ここが普通の考え
と逆転しているようでもあるのですが、ものの順番からするとこうなるわけです。)

どうも屁理屈っぽい感じがしないでもありませんが、これが私の今感じている率直なとこ
ろです。ご批判をいただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.74
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 2223 ] Re39:後念相続 2010/10/31 (Sun) 02:38 △up ▽down
ボン様

お世話になっております。 極道坊主であります。

早速のご返答、有難うございます。 このサイトの訪問が、日課となっておられるようですね。 勿体無い事だと感じます。 格言う自分も、最低でも午前と午後の一日二回の確認はさせて貰っています。 それを楽しみにしている自分が知らされます。 有難うございます。

ボン様、自分の書き込みは厳しいでしょうか? この味わい、想いは師匠と共に送らせて貰って来た、日々の生活の中から自身に届いたものです。 『本来、「佛道を歩む」という事は、厳しいことである。』とお聞きしたことがあります。 真宗は「易行道」ではあります。 聖道門と比較をすればです。 しかし、「簡単に。」と同義語なのでしょうか? この部分が、自身の通らせて貰って来た道程に合致しませんので、何時までも納得出来ないでいます。(我が考えなのですが。)

さて、ボン様のご質問に対しての答えになるやら、どうやら少々疑問ではありますが、再度の書き込みをさせて貰います。 改めて疑問点が起こるようでしたら、ご質問下さい。

>極道坊主様が、「真実の行」の後に「二種深信」が徐々に深まってくるとお考えでないことを理解しました。誤解をしましたことをお詫び申し上げます。

『「二種深信」が徐々に深まって行くのではない。』と、申し上げているのではありません。 『「真実の行」の後にではなく、「真実の行」と共にだと感じている。』と、この様に申し上げたかったのです。 お育てに授かっているのですから、個々の因縁に依りスピードは様々であろうと感じますが、「徐々に」であることには違いないと思っています。 

私自身を、お育て下さるのは何でしょうか? 自分を育ててくれたのは、法の上では師僧になります。 でも、『その師の姿を借りて「法」(佛)が自身をお育て下さった。』と仰がして貰っています。 その「法」とは何か? 突き詰めて言う所の「なむあみだぶつ」の御念佛であると受け取らせて戴きます。 

「真実の行」も、「真実の信」も、「本願」も皆詰まる所の『御念佛』ではありませんか? その御念佛は、私の方が忘れて居っても間断なく、私に関わって下さり育てて下さって居るのだと、この様に感じております。

『御念佛にご縁を結び、御念佛に依りまして「法の真実」に気付かされ、その御念佛に依って「機の真実」を徐々に知らされ、深めて貰いながら、徹底した「二種の深信」まで育て導いて貰う。 そして佛様が自身と一体になって下さり「真実の信」を味わう事が出来ましても、その後の日々の一挙手一投足においても「真実の行」がお供して下さる。 それは、今迄とは違う味わいで、其れまでとは増してであります。』とこの様な味わいがあります。

上記の様に感じさせて貰って居ります故、『「二種深信」があって初めて「真実の行」があるということになってしまう。』とは、感じられないのであります。 

「本願」、「真実の行」、「真実の信」は、「なむあみだぶつ」の御念佛だと申しましても、私達の耳に音声(おんじょう)として聞こえ、目に名號として伝わってくれば、それはその時点で「方便」だと聞かせて貰っております。 佛様が、自分達のレベルに合わされ歩み寄って下さって居るのでしょう。 勿体無い事です。

以上は、あくまで自身がお育てにあいました環境から感じた自身の味わいです。 異論も多々有りましょう。 参考意見としてお読み下されば有り難いです。 

>仏は我々の“自分の考え”などというものは、はなから問題にしていないのではないでしょうか。だから、「二種深信」がそなわったかどうかは自分で判断するのではなくて、「仏の代官」に判断していただくのではないかと思ったのです。

ボン様、「自身の考えは問題ではない。」のは確かです。 しかし、自分の脳裏に思考として想いが起こらねば、人間は微動たりとも出来ません。 「自身の考えの様ではありますけれども、自身の思考に先回りして佛のご廻向があり、考えとして脳裏に働き掛けて下さる。」 それが自身の考えとして起こって来るのではないでしょうか?

上記の様な喩えは、『歎異抄』の中に記されてあります。 先を見通された佛様が、今の時点で全体に最善の策として自分を動かして下さる。 私自身は、良いにつけ悪いにつけ(善悪の判断は自身には知る由もないのですが。)佛様に動かされ、使って貰っているのでしょう、きっと。


>極道坊主様のお言葉は、私のようなものにとっては、とても厳しいものに感じられます。 どうしたら自分の本性を知ることができるのでしょう。 私には解りません。「私は煩悩具足の凡夫です」と思ってみたところで、それは思い込みかもしれません。 そう考えると、もう、お手上げですよね。

ボン様、貴殿にとって「師僧」または「師匠」といわれる方はおいででしょうか? もし、おいででなかったら一人でもいい。 『この人なら、着いて行っても良い。』『 騙されても悔いは無い。』と思える様な「師」をお探し下さい。 そして着いて行って下さい。 ご縁も有りましょう。 簡単な事では有りませんが、大切な事の様に思います。

佛教は、独学では学べません。 行じ得ません。 人は必ず「易きに就く。」からです。 上記の通り厳しいものであるのでしょうが、「師」は慈しみと悲哀の心で見守って下さる筈です。 師が居なければ、行者は「糸の切れた凧」状態で何処に飛んで行くやら解りません。 「易きに就く。」故、勝手な解釈も起こり得るのです。 その、歯止めと成って下さるのが「師」です。 前進が有れば、共に喜んで下さる。 怠惰の気を起こせば、叱咤激励して下さる。 故に聖人様が、『恩徳讃』のなかで師の徳を讃えて下さって居るのでしょう。(聖人様の賛嘆は、それはもう師方々に心酔しきって居られます。)

>だから、救われたんですよね。私はすでに救われたと考えていいんですよね。 私にとって確かなことは、この帰命したという事実しかないんです。 これこそが、私にとって、すべてのより所です。

この事も、師に問うて見られたら良いと思います。 唯、一言付け加えて書かせて貰いますと、「一瞬」の想いでは、「確信」という物には成り得ない。 「確信」とは「固く信じる。」という意味があります。 一瞬の作業で、固まる物など無いと思うのです。 練って、練って、練って、練りあげるから固まるのではないでしょうか? 一瞬、「自身にはたすかる謂れが無い。」という想いが頭をかすめたとしても、それは確信では無いと考えます。 逆に、今度は既に固まった物をポンと与えられても、理解、納得出来ないでしょう。 するとそこでやはり愚痴が出る。 確信には至らないのではないですか?

この度も、手厳しい言葉の応酬になってしまったかもしれません。 貴殿の信仰を壊すつもりでは無いのです。 また、自身の側に「正」があるとも思ってはいません。 唯、師僧より教わった事を書かせて貰っているのです。

ボン様のお陰で、昔、「師」より聞かせて貰った事を思い出しながら、キーボードを叩いています。 有難うございます。 このサイトと、ボン様がおいでにならなければ、思い出す縁もありませんでした。 誠に、佛の成される事には無駄が御座いませんね。         合掌

●re.75
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2224 ] Re40:後念相続 2010/11/01 (Mon) 18:22 △up ▽down
極道坊主様、皆さま、こんばんは。

とても、懇切丁寧なお返事ありがとうございます。

「厳しい」と申し上げたのは、私の勝手な感想ですので、どうぞ、あまりお気になさらな
いで下さい。ただ、私自身の意識のレベルを考えますと、やはり「ちょっと厳しい考え方
だなあ」と思ってしまうわけです。

>『本来、「佛道を歩む」という事は、厳しいことである。』とお聞きしたことがあります。
>真宗は「易行道」ではあります。聖道門と比較をすればです。しかし、「簡単に。」と
>同義語なのでしょうか?この部分が、自身の通らせて貰って来た道程に合致しませんので、
>何時までも納得出来ないでいます。

なるほど、やはり、納得がいかないんでしょうね。わかるような気がします。
私も自分が通ってきた道と違ったら、納得がいかないと思いますので・・・。

>ボン様、貴殿にとって「師僧」または「師匠」といわれる方はおいででしょうか? もし、
>おいででなかったら一人でもいい。 『この人なら、着いて行っても良い。』『騙されて
>も悔いは無い。』と思える様な「師」をお探し下さい。 そして着いて行って下さい。 
>ご縁も有りましょう。 簡単な事では有りませんが、大切な事の様に思います。

アドバイスありがとうございます。そのようにおっしゃっていただけることは、本当に
ありがたいことです。しかし、正直に申し上げまして、おっしゃるような「師匠」は、
残念ながら現在の私にはおりません。本当に残念なことです。

ただ、私がこの御法に出会ったあとの法話で知識先生のおっしゃったこと、あるいはまた、
その法話に集う方々の雰囲気などが、私の思いの基準となっていることは確かです。その
ことが、ある意味で私の「師匠」といえるのかもしれません。

私が迷ったときに、そのつど的確なアドバイスをくれて、時には叱咤し、ともに喜んでく
れる生身の「師匠」ではありませんが、私が常に立ち返る原点であることは確かです。

その思い出を話せば、法話に顔をだすと嬉しそうな顔をして「喜んでいる証拠だ」と言っ
ていただき、法話と言えば御文に始まり、鬼子母神の話、貧者の一灯の話、一休さんの虫
の知らせの話、法然の大原問答の話、木蓮の地獄めぐりの話、「牛盗人と言われようと口
を割らなかった」という掟の話、等々・・・。

私の受けた印象としては、ただただ「喜べ、喜べ」としか言われていなかったような感じ
がします。「念仏はお礼の念仏であり、また、この世でさとりを開くなどというの、はも
ってもほか」「喜んでいれば、自然とお念仏も出るし、自然と仏智もつく」とも言われた
ような気がします。この「この世でさとりを開く」という考え方に対しては、ある意味で
手厳しかったかもしれません。

聖典は勧められて買ったものの、同行様でもきちんと読んでいる思われる方はほとんどお
らず、それは私も同様でした。しかし、「法話は聞くもんだ」と言って、もっぱら法話を
重視しておられました。そして「もらったものを心の奥深くに隠し持って、死ぬまで大事
にしろ」とばかり言われていたような印象です。

「今の信心では不十分である」とか「信心を深めるために、自らを厳しく律し、少しずつ
でも向上するように努力しなさい」などというニュアンスのことを一度も言われたことが
ないものですから、それが「仏は我々の“自分の考え”などというものは、はなから問題
にしていないのではないか」という私の発言の元になっているような気がします。

また、真宗の仏典を読んでいると、そのように感じられるふしが多々あって、なにかその
後ろ盾を得たような気がしてうれしくなってくるわけです。

また「易きに就く」「楽をしたい」というのは人間の性分だから、しょうがない気がしま
す。私は、そうやって自分を甘やかしいます。

>「一瞬」の想いでは、「確信」という物には成り得ない。「確信」とは「固く信じる。」
>という意味があります。一瞬の作業で、固まる物など無いと思うのです。練って、練って、
>練って、練りあげるから固まるのではないでしょうか?

おっしゃる意味はよくわかります。練りに練って、試練を潜り抜けて、徐々に固まってき
たものが「確信」だというわけですね。逆に、そうではない「一瞬」の想いは、「確信」
と呼ぶにふさわしくないということですよね。まったく、そのとおりだと思います。

そして、そういう試練を潜り抜けて、確信(確固とした信念)を得たかたは素晴らしいと思
います。しかし、私の場合は「確固とした信念」を持つなどということを、自らの意思で
行うことは、とてもできそうにありません。そうしようと心持を保とうと思えば、とても
苦しく感じます。それは、私にとって「厳しい」と感じます。

それに、「喜んでいれば自然と仏智がついてくる」と教わりましたので、自らの心の持ち
ようとしては、ただ喜んでいればいいのかなと思うのです。確かに、易きに流れていると
思います。(喜び続けるというのも、けっこう難儀ではありますが・・・。)

ただ、私は知識先生の次の言葉が脳裏に残っています。「この世で何が不思議かといって、
凡夫が、たったあれだけのことで救われることくらい不思議なことはない。」これは、
一瞬(一念)のうちに救われることについて述べたものです。

確かにこの世の人間の常識からすれば、一瞬(一念)のうちに「信心」が得られるなどと
いうことは考えられないことです。いわば非常識です。だから「信じがたい法」なのだと
思うのですが、やはり、仏のなすことは、不可説・不可称・不可思議ということで、納得
がいかないものでしょうか。

こう考えてみると、やはり、私は、「すでに救われたことを喜んでいればいい」という思
いから離れることはできないような気がします。

そして、私も、自分が通ってきた道と違ったら、納得がいかないという思いは棄てがたい
ような気がします。しかし、それが正しいとか、そうでなければ間違っているというつも
りはありません。通ってきた道が違えば、また、そういう感覚も避けられないものなのか
な、と思うわけです。

それに、自分と違った考えや、感覚を拒絶するつもりはありません。ここの掲示板で、
いろいろな感性の方とお話してきたこと、そして、現にお話できることが、どれだけ自分
にプラスになっているのかわかりません。

これからも、この掲示板で極道坊主様をはじめ、皆さまとお話ができることを切に願って
おります。これからもどうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.76
酒天童子
関東の男性
[ 2262 ] Re41:後念相続 2010/11/21 (Sun) 15:22 △up ▽down
毎日様、ボン様、ご無沙汰しております。

酒天童子です。

ボン様と忍草様のやり取りを興味深く拝見させていただいておりました。

ただ最近、忍草様の投稿がないのは残念ですね。

極道坊主様の見解も自分からすればある種独特なものがありまして、「そういう認識もあるのか」という勉強になります。

最近のやりとりを見ていると、内容的に専門的かつ高度なので、なかなか横から投稿するのは大変だという印象を持つ方も出てきているのではないかと思います(自分がそうです)。

それでも毎日様のこの掲示板は気軽にどんな方でもどんな内容でもどんどん投稿することによって盛り上がっていければ、より楽しいものになっていくようにも思います。

一連のやりとりを拝見させていただいて、ふと思ったのが以前、過去ログにあった「赤子の獲信」についてです。

赤子でなくても便宜上「幼児」でもよいのですが、この「幼児の獲信」について見解が次のようにわかれているのではないかと思ったのです。

1、 幼児の「行の一念」も「信の一念」もある。というか「行の一念」も「信の一念」もようは同じで幼児でも問題ない。

2、 幼児の「行の一念」はあるが「信の一念」はその後、長じてからでないとまずないと考える。

3、 幼児の念仏はあるかもしれないが、獲信はない。

大きく分けて、このように分かれるのではないかと思いました。

毎日様、ボン様、自分などは1であり、忍草様は2であり、極道坊主様は3、という立場なのではないか、と感じたのでちょっと聞いてみたくなって投稿しました。

単純な分類であり、説明も拙いので、また何を言われるかわかりませんが、こういう程度の理解しかできないものもいて、かつ投稿しても許されるのであれば、嬉しいことです。

南无阿彌陀佛

●re.77
菩提心
非公開の非公開
[ 2263 ] Re42:後念相続 2010/11/24 (Wed) 13:42 △up ▽down
酒天童子様

毎日様、ボン様が書かれていないので、上記の酒天童子様のご質問とは離れるのですが、宜しいでしょうか?

過去に酒天童子様が、宿善について[ 1004 ][ 1005 ][ 1007 ]の書き込みが気になっていました。

>勝手な解釈ですが、現代人にも違和感がないようにアレンジしてみました。

2009・2月頃の書き込みです。

今は、全然違和感なく読むことが出来ます。

私は、インターネットから色々な情報を得ることができました。

私がインターネットをするようになったのは、仏教を知りたい、この道知りたいという思いが有ったのではありません。

恥ずかしい話ですが、簡単にお金を得る方法がないかと思い、紀伊国屋書店に行きました。

そこで、「ナンバーズ4が当たる方法」という本を買い求めました。

その頃は、精神的に一番辛かった時でした。本当にお金が欲しいと思いました。

信心決定するには、お金が必要だと思っていました。

しかし働いてお金を得るには、もう年齢的に限界だと思っていました。


その方法を知り、実践しました。それでもなかなか当たりません。

段々深みにはまり、当たる器具なんかも買いました。

それでも当たりませんでした。

ノートは、その方法でびっしり埋まりましたが当たりません。

もう書いていくのも億劫になり、パソコンに入力した方が手っ取り早いと思い、パソコンを買いました。
(会社でエクセルを少し覚えた頃でした)

パソコンだけしていても、面白くないのでインターネットを始めることにしました。

会社で愚尼様の書き込みを見た時と、同じ頃でした。

ある時、ナンバーズ4を買おうと思いましたが、お客さんが来られて買えませんでした。

私はその時、セットボックスに印をしていました。

朝、見ました。その数字が当たっていました。

それを見て興奮しました。

次も予想して買おうと思いました。その時も当たっていました。

しかし私はその時も買いに行けませんでした。

私は、その時金運は私にはないときっぱり諦めました。

その時のノートの中身を知っている人は、私の集中力にビックリするというか、呆れて馬鹿にされました。

気が付いたら、お金を得るより、出ている方が多かったです。(当然ですよね)

でも結果的にはこの道に来ることが出来ました。

今思うと、紀伊国屋書店でその本を選び、パソコンを買い、インターネットをしていなければ、今こうして書き込むことも無かったのだと思います。

今インターネットのお陰で情報は無限です。

一日パソコンの前に居ても飽きないくらいです。(幸せになる方法の場所を検索しています)

色々な人が、○○の法則、運命論、人生論等や、宗教を超えた話にまで広がっていきます。

○○の法則だけでも、すごい数になります。

気になった場所は、プリントアウトして何度も読んでいます。

そして今の私は、そんな人達の考え方に共感したり、宗教とはどう違うのか、分からない頭で楽しんでいます。

いい時代に生まれているなと実感しています。

それでも性懲り無く、時々ナンバーズを当てたという人の書き込みなんか読んでいます。

どうしてこんな私が、ここでお話できるんでしょうか?

不思議で、嬉しくて、そしてこのご縁とても有難いです。

馬鹿な経験談でした。


南无阿彌陀佛

●re.78
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 2264 ] Re43:後念相続 2010/11/25 (Thu) 02:50 △up ▽down
酒天童子様

ご無沙汰を致して居ります、極道坊主であります。

久し振りのご投稿との事。 ご意見を頂戴しまして、有り難く想う次第であります。

確かに最近、忍草様のご投稿が拝見出来なくなりまして、残念に思っております。 以前、「体調の方が芳しくない。」と仰っておいででした。 大変に多忙な方の様に察します。 「ご無理をされて、体調を崩されてお出でではないか。」と思っています。 謹んで御念佛申し上げます。

>極道坊主様の見解も自分からすればある種独特なものがありまして、「そういう認識もあるのか」という勉強になります。

酒天童子様、自身の主張? 発言?(言葉が見つかりませんが?)は、他の方から見ると「独特」と感じられる内容でしょうか? もし、そのような印象を与えて居るようでしたら、誠に申し訳ありません。 表現足らずな処、説明不足な処、言葉知らずの処がそういう思いを貴方に引き起させたのかも知れません?

もう少し表現に、細心の配慮が要るのかも知れませんね? すみません。

さて、この度の本題です。 自身のH.Nがあります故、「私に対しての質問でもあるのだ。」と感じまして、投稿させて頂きました。 お答えになるやら分かりませんが、参考になれば嬉しく思います。

>一連のやりとりを拝見させていただいて、ふと思ったのが以前、過去ログにあった「赤子の獲信」についてです。

>赤子でなくても便宜上「幼児」でもよいのですが、この「幼児の獲信」について見解が次のようにわかれているのではないかと思ったのです。

>1、 幼児の「行の一念」も「信の一念」もある。というか「行の一念」も「信の一念」もようは同じで幼児でも問題ない。

>2、 幼児の「行の一念」はあるが「信の一念」はその後、長じてからでないとまずないと考える。

>3、 幼児の念仏はあるかもしれないが、獲信はない。

>大きく分けて、このように分かれるのではないかと思いました。

>毎日様、ボン様、自分などは1であり、忍草様は2であり、極道坊主様は3、という立場なのではないか、と感じたのでちょっと聞いてみたくなって投稿しました。

自分の今迄の投稿の内容から、酒天童子様には、3番の『幼児の念仏はあるかもしれないが、獲信はない。』と言う考えが「極道坊主の見解。」と受け取られたのでしょう。 やはり、そういう風に受け取られるのは、何か理由が在るのでしょうね?

以前から申します様に、「言葉は全てを伝えきれない不完全な物。」なのでありますから、「こういった事は起こるであろう。」という推測はありました。

人は、見聞を分類し、その何処かに自分の存在場所を認めるかで判断し、認識するのだと考えます。 その分類も多様に在る筈なのに、「おおまか」に分類してしまう。 その「おおまか」なところで自分の考えに似通った処に、ポジションを置きませんか?(実際には、似ているだけで一緒では無い筈です。)

以前、何処かで書き込みをさせて貰ったかも知れませんが、人間の脳の構造がそういう風に出来ているのだそうです。(脳医学の専門家ではありませんので、明確な答えかどうかは分かりませんが?)

本来、このような思考回路では限界が有るのでしょう。 経の中にも、そう言うておられるではないですか。

と、ひとしきり言い訳をしておいて、自分の思いを書かせて貰います。

赤子であろうと、幼児であろうと『佛』といわれるものを、感じてはいるのだと思います。

以前、師僧が次の様に申されました。「産まれたばかりの赤ん坊が、目が見える頃になって宙を目が追うとろうが?」「ありゃぁのぅ、ワシ等には見えん世界の人とお話をしとるのよ。」

自分は、それらの話を聞かせて貰いまして「赤ん坊は、佛様と交信が出来ている。」と信じています。 赤子故、言葉には表現は出来ませんが、感覚として受け取っているのでしょう?(科学的に立証は出来ませんけど。)

幼児にしても同様に感じます。 「なむあみだぶつ」をハッキリとはよう言いません。 でも、幼児言葉で「まんまんまん」とか「ののさん」とか言いますでしょう。(家の子はですけど。) ヤハリ、それって佛様を念う(おもう)のに違いはないのでは?と思うのです。 表現は違えど御念佛ですよね?

願、行、信、3つのようですけど、それらは1つなのでしょう? であるならば、自分は「赤子、幼児の念佛はある。」と考えている一人ではないかと思うのです。

唯、もう片方のご質問?『赤子、幼児の獲信』の方に於いては、「わかりません。」というのが答えです。

獲信は、信を獲る(しんをとる)と読めますが、信はとるのではなく、獲(え)させて貰うのが当家の御信心だと頂きます。 「信を獲れ。」と佛は十方衆生に働き掛けて下さっておいでなのです。 この事は間違いない。 十方衆生でありますから、赤子であろうと幼児であろうと、その加威力(かいりき)は及んでいる筈です。

自分達は、その加威力を感じる事が出来、それを喜びとして表現が出来る。 それを『「獲信」させて貰った。』と言う事が出来ますが、赤子、幼児には表現力がありません。

子供ですから、自分達、大人の様な感覚ではないとは思いますが、そこは自分には計り知れません。 故に上記の如く、「わたしには、わかりません。」というのが答えになります。

投げ遣りな言い方かもしれませんが、「赤子、幼児の獲信等、自分には知った事ではないのです。 でも、佛様は誓われてお出でなのですから、それが成就されてあるのですから、手抜かり等在る訳が無い。」そういう事だと思います。

ということで、申し訳ないのですが、私の想いは1、2、3のどの分類にも当て嵌らないような気がします。 上記の如くが、現時点での自身の味わいであります。

此度も、過激な発言になったかもしれません。 お許し下さい。 ご意見、ご感想などがあれば、言うて下さい。 宜しくお願いします。    合掌

●re.79
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2267 ] Re44:後念相続 2010/11/27 (Sat) 13:38 △up ▽down
酒天童子様、菩提心様、極道坊主様、皆さま、こんばんは。

酒天童子様にご登場をいただいて、お話をうかがえたことを、とてもうれしく思います。
これをきっかけに、また話題が盛り上がるといいですね。

極道坊主様、いつも含蓄に富むお話をありがとうございます。

>以前、師僧が次の様に申されました。「産まれたばかりの赤ん坊が、目が見える頃になっ
>て宙を目が追うとろうが?」「ありゃぁのぅ、ワシ等には見えん世界の人とお話をしとる
>のよ。」

>自分は、それらの話を聞かせて貰いまして「赤ん坊は、佛様と交信が出来ている。」と信
>じています。 赤子故、言葉には表現は出来ませんが、感覚として受け取っているのでし
>ょう?(科学的に立証は出来ませんけど。)

とても得がたいお話をうけたまわることができて、ありがたく思います。

たしかに、赤ん坊を見ていると不思議に思うことがありますが、動物を見ていてもそう思
います。特に犬などは、とても感が鋭く、こちらの考えていることを何も言う前から察知
しているとしか考えられない場面に多々遭遇するのです。

それでは、言葉を話すわけでもない犬を見て、私がなぜそのようなことを感じるかという
と、犬の態度や様子を見ているからです。つまり、犬の行動に、犬の心情が現れているわ
けですね。

この「行動」と「心情」のあいだには、切っても切れない関係があるということが、これ
によって知ることができます。これは、「行」と「信」に関係に似ているところがあるよ
うな気もします。「信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし」
(親鸞聖人御消息)といいますから。

赤ん坊を“高い高い”してあげると、手足の力を抜いてなすがままにされて、キャッキャ
と喜んでいる赤ん坊もいれば、持ち上げた手にしがみついて、表情をこわばらせている
赤ん坊もいます。前者は持ち上げている大人を信じきっている“すがた”のようですし、
後者はその大人を疑っている“すがた”のように、私には思えます。

犬も同じです。人間に甘えて抱っこされているときは、犬も全身脱力してコンニャクのよ
うになってしまいます。そんなときは完全に無防備で、首を絞めて殺そうと思えば簡単に
できそうですが、その犬としては、首を絞めて殺されるかもしれないなどということは、
夢にも思っていないわけです。これも信じきっている“すがた”なのだと思います。
ケモノですら、こうです。

つまり、「信じる」ということは、何も目に見えない精神的な活動にとどまらず、その
全身全霊をもって現される、まさに、目に見えるものなのだと思います。それこそ、
「信じるすがた」でしょう。

『化土巻』に「故に経の始めに如是と称す。如是の義は則ち善く信ずる相(すがた)なり」と
あります。「如是」というのは「かくのごとし」ということです。つまり「そのとおり」と肯定
することを「信じる相(すがた)」というのだと言っています。逆に「そのとおりではない」
と否定することは「信じない相(すがた)」「疑いの相(すがた)」だということです。

この「信じる相(すがた)」というのは、「いいなりになる」「いうことをきく」という
すがたであり、抱っこされて全身脱力してコンニャクのようになってしまった犬のような
ものではないか、と思われます。そして、赤ん坊でも「他力の信心」をいただくことがで
きるというのもまた、これと似たようなものではないかと思うのです。

それは決して、精神を統一して、疑いの心を追い払う、つまり煩悩を追い払うという、
修行僧のようなすがたではないと考えられます。もしそうだとしたら、赤ん坊のなせる
わざではないですよね。

大経の33願に「わが光明を蒙りてその身に触れんもの、身心柔軟にして人・天に超過せん」
とあります。また、大経のそのあとにも「この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟な
り。歓喜踊躍して善心生ず。」とあります。

身も心も柔軟になるということは、相手の言いなりになって、自我がなくなるという状態
だと考えられます。自我をなくして、すべて受け入れるから“聞く”というわけですよね。
“聞法”というのは、文字どおり読めば「法を聞く」ということですが、その意味は、
「法の言いなりになって、法に身をゆだねる」ということなのだと思います。

以前、別のスレッドで 「聴聞」という言葉の意味についてまとめたことがありますが、
そこでわかったことも、「聴」も「聞」も、その国語的な意味自体に「言うことをきく」
「言いなりになる」という意味が含まれているということでした。とても興味深いことです。

思いつくままに、取り留めのない内容となってしまいました。ひとりよがりかもしれませ
んので、ぜひ、ご意見、ご批判をいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.80
酒天童子
関東の男性
[ 2272 ] Re45:後念相続 2010/11/28 (Sun) 23:15 △up ▽down
こんばんは、酒天童子です。

今日は私の感じるところを書き込みたいと思います。

菩提心様
お久しぶりです。

過去ログの自分の書き込みを気にして読んでくれた人が居たなんて、なんだかとても嬉しいです。

真宗とは関係のないような話ばかりで、その上ちゃんとした説明もなく、意味不明だとおもいますが、読んでくれてありがとうございます。

あんな話でよければ、いくらでも書きます。

菩提心様の書き込みを拝見していて、いつも感じるのはあなたの「やさしさ」です。

菩提心様は経済的、仕事上にとても苦しいときもあるようで、多分自分にはその大変さは想像すらできていませんが、それでも自分からみると菩提心様の金持ちになりたい気持ちは「他の芝生はよく見える」みたいな感じがします。

というのも菩提心様は普段、人の気がつかないような細やかな心配りができるやさしさを持っているのに(今回の投稿も私にはそう感じられました)、その素晴らしい宝物は知らんぷりして置いといて、お金というの宝物を追い求めているように見えるからです。

もし、菩提心様が宝くじに当たったら、どうでしょうか?もしかしたら、引き換えにそのやさしい心を減らしてはしまわないでしょうか?

私はそんな余計な心配をしてしまったりします。
もし、そういう可能性が少しでもあるなら、私からみると菩提心様は宝くじなどに当たらずに、お金持ちにもならずに、今のままでいてほしいな、と勝手に望んでしまいます。

私の周囲には思いがけず大金を手にしたために、親友や協力者を失い、家庭も崩壊してしまった人が何人かいます。

お金のためにもっと大事なものを失ってしまったのだと、思わざるを得ないのです。

もちろん、やさしい心を持ったままお金持ちになれたら最高かもしれませんね。

でも、自分の周りにはそんな人は見当たりません。

菩提心様のやさしさはかけがえのないものだと、感じます。

それを羨ましく思っている人はたくさんいると思います。

極道坊主様

返信ありがとうございます。

今回の返信そのものも自分の想像にもなかったものです。
そういう意味でいつも新鮮な発見をいただいているのです。

だから、説明不足など気にしないでください。

確かにおっしゃる通り、あまりにおおまかに分類していますよね(笑)。

言い訳しますが、ちょっと話が難しくなりすぎてきていて、ただ単に話題を少し逸らしたかった、という気持ちがあったんです。
素直に謝ります。ごめんなさい。

今日は自分の勝手な印象を綴らせてもらっていますが、極道坊主様は察するに「信念の人」という感じがしています。

それと同時に「極道」と自らを名乗りながらも、言葉の端端に隠しきれないあたたかさを感じます。そして強さも。

ボン様にも私はよくあたたかさを感じるのです。

ボン様

ボン様は酒天童子がなんとなくそう感じながら、はっきりと表現できない思いを、具体的に明確に表現しているようによく感じます。

多分、受け取り方、感じ方は似ているように思いますが(あっ、私の勝手な感想なので気にしないでくださいね)、それを自分に分かるような形で気づかせてくれます。

だから、とっても勉強になります。ある意味、教行信証ノートを読むよりサイトでのやり取りを読んだほうが勉強になります(失礼しました)。

ボン様は深く、深く考える人だと思います。そうして慎重です。

学者のような人だと想像します。

毎日様はどちらかというと諸葛公明のようなスマートな超絶的というか浮世離れした人をイメージしてしまいますが、ボン様は浮世にもどっぷり浸かりながら、そんな自分を冷静に見ている、そんな感じがしています。

こんなことをくだくだと書くのも、私はこの掲示板が大好きなのだからだと思います。

一面識もない、ネット上だけのお付き合いですが、みなさんに(もちろん忍草様、金剛心様、愚老様他の方々にも)とても親しみを感じています。

この世知辛い日本の状況にいて、一銭の得にもならないこうしたことをこうやってやり取りできるなんて、奇蹟に近いことだと感じています。

この掲示板にも時々、おかしな情報が流れこんでくることがありますが、毎日様のおかげでこうして、気持ちよく情報交換ができることにとてもよろこびを感じます。

わたしは後年相続として、よい場所を見つけたと思うのです。

だから、何が正しい、何が間違っている、という議論も大事ですが、そうでなくても、とんちんかんでも、的外れでも、ちょっとした疑問でも、なんでも良いから、ひとりでも多くの人がこの掲示板に集い、発言していって、たくさんの意見がたくさんの人達から交わされるようになってくれたら、と思います。

南无阿彌陀佛

●re.81
菩提心
非公開の非公開
[ 2273 ] Re46:後念相続 2010/11/29 (Mon) 10:34 △up ▽down
酒天童子様

お返事有難うございました。

思わず書き込み読みながら、涙が溢れてきました。

昨日、報恩講が有りました。

その時、又失敗をしてしまいました。

2月に鬱病になるきっかけと同じような失敗でした。

有る人の視線がとても気になりました。

周りの人が、「大丈夫だよ」と言ってくれるのですが、その人だけには無視をされました。

皆で取る会食の時に失敗の発端である、理事長の理不尽な電話を思い出し、その席上愚痴ってしまいました。

わずか30分前には、救われても愚痴を言ってしまう御同行のお話を遠方の善知識様から聞いたばかりというのに・・・。

>というのも菩提心様は普段、人の気がつかないような細やかな心配りができるやさしさを持っているのに(今回の投稿も私にはそう感じられました)、その素晴らしい宝物は知らんぷりして置いといて、お金というの宝物を追い求めているように見えるからです。

全く上記のような善知識様のご説法なんです。
ここを読ませて頂いて、つくづく自分の愚かさを知らされます。

知らんぷりはしてないつもりなんですが、でもお金があれば、遠方の善知識様や泥凡夫様や毎日様にも会えるだろうなとは思います。

きっと、ボン様や極道坊主様達にも会いに行っていると思います。


帰りには、その方も普通の態度になっておられました。ちょっと楽になりました。

家に着き、主人に話しましたら、態度に出る人の方が案外腹黒くないからいいんじゃないかと半分慰めて貰い、半分還暦になっても落ち着かないと叱られてしまいました。


宝くじの件ですが、酒天童子様の御指摘のように、知り合った名古屋の人から言われた事があります。

「お母さん、宝くじが当てたいなら、当てる方法を伝授しますよ。でも、きっと当たったらお母さんは変わってしまうでしょう。当たらない方がいいんです。」

そしてその通りにして当てた人がいたそうですが、今は行方不明だそうです。

それでも、この娑婆世界。命の次に一番大事なお金の執着はなかなか消えません。

まだ本当の宝物のよさが、私には分かっていないのでしょう。

ですから、自分の味わいを書いているのかも知れません。


>あんな話でよければ、いくらでも書きます。

是非お願いします。

私はここに書いて下さる人は、絶対過去に何かしらのご縁が有ると思っています。

もう数限りないブログとかHPが有るのに、今こうしてやり取りできるのは、不思議で有難いなと思います。

阿弥陀様とのご縁で繋がっている。

ここで勇気を貰い、智慧を育み、少しずつ前向きに生きて行きたいです。

有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.82
菩提心
非公開の非公開
[ 2274 ] Re47:後念相続 2010/11/29 (Mon) 12:59 △up ▽down
酒天童子様

書いていて気付いた事があります。

モラル・ハラスメントって言葉は、ご存知でしょう。

理事長のタイプがそれに近いなと最近思うようになってきました。

自分の意見、思い込みは常に正しい。

だから違和感を感じて少し抵抗すると、それ以上に激昂されるんですね。

それと昔、金貸し業をしていたせいか、いつもお金で人の心を買うというか、物やお金で人を自分の味方にするようなタイプだと思います。

口癖は、「自分の手のうちに入れる」というか、金で人を動かせると思っていると思います。

でも、昨日同じ席の人から「そんな人はいくらでもいる」と言われてしまいました。

私はあまり多人数の中で揉まれた事がないので、きっと社会的には成長していないのかも知れません。

又、ずっと劣等感が強かったこともあると思います。

それに親鸞会の教えをずっと聞いていたので、その影響も多分にあると思います。

救われたという喜びよりも、なぜこんな私がご縁頂いたのだろう?と思う気持ちの方が大きいです。

インターネットで見ると幸福感を味わっている人は、ずっと幸福になる方法や幸福になった人の言葉を聞いたり読んだりして、それに近づこうと、アファとか引き寄せとか色々な秘訣を探っているようです。

でも私は37年間も、「死んだら無間地獄で八万劫中大苦悩を受ける」と聞いてきました。

そして仏法は人間の時にしか聞けない。

そう聞かされてきた私は、辞める頃には、いつ救われるんだろう?という諦めの気持ちでいました。

その私が今は救われているという思いよりも、もう地獄には堕ちないという思いの方が強いと思います。

又、続けていくにはお金が必要でした。

ずっとお金がないと言うのが私の口癖でした。

しかし、インターネットで得た知識では、毎日潜在意識に、「楽しい、幸せ、有難う、感謝しています」と語りかけることです。

随分損した気分ですが、でも私にはこのようになっていたのだし、そして今の環境が有るからこそ、喜べることも出来るようになってきていると思います。

小さい世間しか知らない私ですが、この場所では色々な地域や、年齢が違う人の意見や教えを頂いて有難いと思います。

南无阿彌陀佛

●re.83
菩提心
非公開の非公開
[ 2275 ] Re48:後念相続 2010/11/30 (Tue) 11:35 △up ▽down
「事務局」。

私には名前が有りません。

いつも事務局なのです。

会議で意見を言うと、叱られます。

しかし言わないと、馬鹿にされます。


いつも命令口調です。

しかし自分では気が付いていません。


ある会議の後の懇親会の席上、他県の理事長の前に座りました。

この法に巡り合って3カ月の事です。

今まで個人的にお話させて頂いた訳では有りません。

しかしどうしたのでしょう。

泣かれるのです。

私まで涙がこぼれてきました。

「○○さん、良く頑張っているね。すごく成長している」と言われました。


側で聞いていた上司はビックリしたと言いました。


あれから3年が経ちました。

私はやはり今でも名前が有りません。


でも、○○、○○と私を呼んで下さる阿弥陀様の声を感じます。


南无阿彌陀佛

●re.84
菩提心
非公開の非公開
[ 2276 ] Re49:後念相続 2010/12/01 (Wed) 11:05 △up ▽down
酒天童子様とのやりとりで、今まで何がこんなに辛いのだろう。

その答えを今見つけたようです。

モラル・ハラスメントの脱出小冊子をダウンロードして読みました。

スーと心のしこりが溶かされていくようです。

人間としての尊厳を無意識に傷つけられると、ずっとそれが潜在意識として残っているのかも知れません。

私には信じられるものがある。

信じられるものがあるだけで、どれ程心が救われるか。

この状況も決して楽ではないけれど、それでも前向きに生きていけるでしょう。

南无阿彌陀佛

●re.85
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 2279 ] Re50:後念相続 2010/12/02 (Thu) 03:11 △up ▽down
ボン様 極道坊主様 皆様方へ
皆様 おひさしぶりでございます。
9月16日以来、時折、ここを眺めるだけで何も書けなくなりました。
それは極道坊主様の「邪見に見えますよ」は納得出来ましたが、その後の
「2064」での
「論釈が読めてくると解ったような気になるから不思議です。そういった
時は人間舞い上がってしまって、知らぬうちに増上慢に嵌っているんで
しょうね。でも其れは自分自身では気がつけないんです。・・・」
これが大変なショックでした。
自分では慢心におちいる事が一番きらいでしたので・・・。

ここはしばらく自省して、自分を見つめ直さないといけないなと思い
知らされました。
ボン様が体調を気遣って下される文章をよんでも何も書けませんでした。
本当に皆様方のお心遣いありがとうございました、心からお礼申し上げます。

これから又すこしづつ書き込みさせていただこうと思います。
毎日様、宜しくお許しください。

ここ2、3日、8月21日以降のスレッドをプリントアウトして読み直して
いるところです。
  合掌 ナムアミダブツ 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.86
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2280 ] Re51:後念相続 2010/12/02 (Thu) 21:41 △up ▽down
忍草さま、こんばんは。

久々に忍草様のお便りに接してうれしく思います。
忍草様の書き込みがなかったのが、体調のせいではないということがわかって何よりです。

ところで、以下のご指摘は、私に対するアドバイスだと私は受け止めておりました。

>「論釈が読めてくると解ったような気になるから不思議です。そういった
>時は人間舞い上がってしまって、知らぬうちに増上慢に嵌っているんで
>しょうね。でも其れは自分自身では気がつけないんです。・・・」

私などは、生来、調子に乗りやすいタチなので、こういうご指摘はありがたく受け止めて
おります。

また、そうであるからこそ、なおさら、論釈を読んだ自分の受け止め方、感じ方を、この
ようなある種の開かれた場所で、皆さまの前に開陳することは、必要なことなのだと感じ
ております。そうすることによって、“独り善がり”に陥る危険をある程度避けることが
できると思うからです。

今後もまた、いろいろとお話ができれば、うれしく思います。
どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.87
菩提心
非公開の非公開
[ 2283 ] Re52:後念相続 2010/12/03 (Fri) 11:45 △up ▽down
忍草様

お久しぶりです。

忍草様の本音を垣間見るようで、なぜか私まで目がうるうるになってきました。

私は酒天童子様の書き込みで、モラル・ハラスメントの言葉を最近聞きかじっていたので、じっくり読んで納得しました。

きっとこの掲示板だけでは、真意は伝わらないかも知れません。

しかし、心の琴線に触れることもあると思います。

なぜあんなに金剛心様や忍草様の書き込みに反応してしまったのか、今は少し分かるような気がします。

みんな五十歩百歩でしょ。

そんなつもりで書いていないけれど、でもその時の自分の感情がそう読めてしまう事も有ると思います。

私は酒天童子様が呼びかけて下さらなかったなら、きっとまだまだこの辛さは消えなかったと思います。


忍草様

お元気になられて、又ボン様達とお話出来るといいですね。

南无阿彌陀佛

●re.88
酒天童子
関東の男性
[ 2284 ] Re53:後念相続 2010/12/03 (Fri) 18:12 △up ▽down
菩提心様

気分が少し晴れたようで、嬉しく思います。

前にも書いたような気がしますが、人として生まれた以上、誰一人として「落ち込まない」人はいません。

どんなに自信満々で成功しているように見える人でも、トイレの壁に頭を付けてうなだれているものです。

だから、皆そうなんだと思うと、少しは気が楽になりませんか?

ここからは、菩提心様ではなく、自分を含めて言えることですが、、

たとえば、世の中を良くしたいとか、神聖な使命感を持ったりすると、自分の周りに罪や汚ればかりが見えてきます。

自分を浄化したり、向上したいと願っていると、自分の汚いところばかりが見えてきます。

瞑想して、意識が広がり、宇宙と一体になったような恍惚感を味わったとしても、瞑想から醒めて自分の現実生活に戻ると、あまりの違いに落胆し、落ち込んだりします。

だから、あまりに上を目指して、上ばかり見ていると精神衛生上、あまり良いことでなないのではないか、と思ってしまいます。

良いことがあって、有頂天になるとその後、かならず反動で落ち込むような出来事が起こります。

めでたさも ちゅうくらいなり おらがはる

こんな感じが生きやすいかと。

自分に厳しく向上心にあふれる人は、もう少し自分に優しくなってあげる必要があると思います。

南无阿彌陀佛

●re.89
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 2285 ] Re54:後念相続 2010/12/04 (Sat) 08:49 △up ▽down
酒天童子様 菩提心様 ボン様 忍草様

お世話になります。 極道坊主であります。

酒天童子様、お褒めのお言葉を頂戴しまして有難う御座います。 正直申しまして、照れ臭さが隠せませんが、うちの女房も、この書き込みを読む縁が有り、「よかったね!素直によろこばせて貰えばいいんじゃない。」と申してくれました。

決して、自身のなせる技ではありません。 佛様のお育て、また、自分を導いて下さいました師僧方々、佛の御化身の御化導のお陰と仰いで居ります。

私の方には何も有りませんから、唯、信じるしかないと思っています。 また、その様に教えて頂きました。 その部分が酒天童子様には「信念」とうつるのでしょうか?

私自身は、何処まで行っても不甲斐無い者です。 「強さ」とうつるものも、「優しさ」と感じられるものも、佛様よりの授かり物。 佛より賜わりたる物故に、その様に感じさせられるのではないかと思われます。

いつの間にか、お話のほうが理論ぽく、理屈ぽく成って行っていましたか? それは大変に申し訳ないことでありました。 お許し下さい。

本来、真宗の教えは、理論ではないように感じているのは自分だけではないと思っています。 でも、話し合いをしているうちに自身の持論合戦になり、知識の応酬になりして難しくしているのでしょうね? 味わいの語り合いが最良だという事は、お互いが気付いてはいる筈なんですけど!


ボン様、赤子の件、仔犬の喩え、有難う御座います。 分かり易いご説明、真に頷ける気がします。 「まかせる」というのは、部分的にではなく、全身全霊(チョット表現が違いますか?)ということなのでしょうか? 「全身を佛に投げ出す。」と表現すれば良いのでしょうか? 「まかせる。」と言いつつも、力んでしまって任せきれていない自分でありました。

「佛様の教えは、触光柔軟である。」と師僧はもうされました。 その光に触れる者は、身も心も柔軟にして下さり、全てを有りの儘に受け入れる事の出来る智慧を授けてくれるのだそうです。 その様に聞かせて貰った事があります。 そういう意味なのでしょうね?


菩提心様、度重なる御心労、大変な事と感じますが、その深さまでを察して差し上げる事が出来ません。 申し訳ありません。 しかし、この世の事は総て、取るに足らん事の様に感じます。 所詮、「空言、戯言、誠有る事無し。」ですよ。 人のする事ですよ、末まで一貫して徹るものは、何一つとして無いと思います。 唯、末徹るのは佛のされる事のみでしょう。 私にはその、『阿弥陀』と言われる佛様が、常に後ろ楯でご一緒下さっております。 その事一つが信じられれば後の事は、「なんとかなる。」そう思っています。

名前を呼ばれなくても、貴女は貴女。 それを佛様は、充分ご承知の筈です。その存在も、役割も総てです。 人間一人が知ろうが知るまいがどうでもいいではないですか? 佛様は御存知ですよ! 既に貴女と、親子の名乗りを済ませておいでなのですから。 貴女の名すら呼ばない上司も、佛様はご存知でしょう。 でも、名乗り合ってはいませんでしょうね。 その方は佛様と向き合ってはいないのでしょうから。(今、現在は。 後の事は分かりませんが!)

私を教えて下さいました、ある和上様の御法語のなかに『常に法に生きよ。 人間を相手に生きるな。』というお言葉があります。

毎日の日暮らしの中、御念佛を中心とした生活をさせて貰う。 「教え(法)を基本とした生活を営ませて貰おう。」ということなのでしょうか? 日々の生活、どうしても世間の流れに任せて、というよりも世間の流れに足を取られて、考え方が『常識』と言われる物に呑み込まれ、そこから抜け出せ無くなってしまっている様に感じます。

『「御念佛を本とする。」というのは、佛様の智慧を戴き、それによって世間の苦海を乗り越えて行けるだけの力(智慧)を授かる。  佛様と共に歩まして貰う。 荒波を渡して貰う。』ということも含まれているのだと感じます。(表現が下手ですみません。)

「人間を相手に生きるな。」の部分、言葉通りに読んでしまえば誤解を生んでしまうのでしょうね? 注意が必要に感じます。 「三毒、五欲の煩悩まみれの人間の思い、行動に流される事の無い様に注意をしなさい。」ということでしょうか? 「自身の中の貧欲、瞋恚、愚痴にも目をくれるな?」とも仰っている様に感じるのは自分だけなのかもしれませんが、平たく言えば、「人間の持つドロドロとした欲の部分、煩悩の部分は自身の様な凡夫の手に負える所ではないので放って置きなさい。 私(阿弥陀)にまかせなさい。」と、もうされているのかな?とも感じます。(全然、平たくないですね。)

その、三毒五欲の煩悩成就の人間の上に、人身を借りて『化身』として佛様は現れて下さるのです。 そういった智慧を授かれば、無碍に人を嫌う事も要りません。 また、自分に向けられる仕打ちも、『佛様に依る、自身を知らしめる為のお育ての一環。』と受け止められる智慧を戴けば、辛さも喜びに転嫁して貰えるものと感じます。 『佛のされることに無駄は無い。』と、その様に信じさせられた自分であります。

他人がどの様に関わって来ようが、良いではありませんか? 自分の都合に良いにつけ、悪いにつけ、貴女の後ろ楯には『阿弥陀』と言われる佛様がついて居られます。 なんの心配も要らぬ筈です。

前述の和上様が、次の様にも仰っておられました。「人に会う時、御念佛を忘れて会えば、悉く失敗しますよ。」 正しくその通りだと感じております。 人は、「業」の集大成。 その人と人が会うのです。 「業」と「業」のぶつかり合ではありませんか? そんな処に御念佛なくして、どの様に解決策を見つけるのですか? その御念佛を貴女はご存知なのですよ。 安心して頂いてもよろしいかと思います。

.
忍草様、久方振りの御出座し、有難う御座います。 また、大変申し訳無い事でありました。 不用意な書き込みで、心を傷付けて仕舞ったのですね。 配慮の無さを、唯々々反省するばかりです。 すみませんでした。

>論釈が読めてくると解ったような気になるから不思議です。 そういった時は人間舞い上がってしまって、知らぬうちに増上慢に嵌っているんでしょうね。 でも、其れは自分自身では気がつけないんです。 相手がいて始めて気が付く。 鏡が有るから自分の姿が映るのです。 その嫌な姿を見せて下さるのが「何でこの人こんな事をするんだろう?」という思いに至った、自分の都合に合わない人だと聞きました。 嫌な役回りを引き受けられて、貴女を救う為に表れられた対合佛と押戴いて行かれれば、怒りも喜びに変えて貰えます、間違いなく。

この部分、私の師僧よりの受け売りでもあります。 自身に対しての戒めでもある。(真宗に戎は無い。と言わないで下さい。) 難しい書物の内容が分かってくると、嬉しさも手伝って舞い上がって仕舞い、理解出来た事を「自身の読解力による。」と勘違いしている自分に気付かされたから書きました。 多分、読めたのは上記の如きでは無いのだと思います。 知るべき縁が整ったから、知らされた。 唯、それだけなのでしょう。

人間、慢心だらけです。 『七慢』と言う言葉が有ります。 人には七つの慢心があるのだそうです。 「慢」、「過慢」、「慢過慢」、「増上慢」、「卑慢」、「我慢」、「邪慢」、詳しくは調べてみて頂く方が宜しいかと思います。

その何れかに、常に嵌って居る、落ち込んでいるのが人間ではないですか? 慢心に陥るのは嫌でしょうが、陥らない日は無い事に気が付くことが肝要かと感じます。 他と比較して、自身の存在を認識しようとするのが、人間の本来の構造です。 その構造を持ち合わせているという事は、常に慢心を伴うのです。

そんな自分を、「そのまま救ってやる。」と誓って下さった『阿弥陀様』です。 頼もしいではありませんか。 だから自分は、『阿弥陀様』なのです。(おすがりするという意味です。)

私の聞かせて貰った「法」は、「周りや他を変えて救われよう、助かろう。」では無かった様に思います。 私自身を知らされ、遜る事を教えて貰い、見方、思い、思考を根本から築き直して貰う。 その上で改めて過ごして来た、見て来た世間に対峙させて貰うのでしょう。 其の時には多分、世界観も変わっていると思います。(味わいが違っています故。)

この度は、まぁなんと、長たらしい取り留めの無い書き込みで申し訳ありません。

また、活発な意見交換が出来ます事、楽しみにしております。 皆様がお出まし下さり、有難く思います。 これからも宜しくお願いします。      合掌

●re.90
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2288 ] Re55:後念相続 2010/12/05 (Sun) 01:24 △up ▽down
皆さま、こんばんは。

このスレッドのなかで、お金のことも話題になっておりますので、この際、私が普段気に
なっていることを述べさせていただければと思います。

正直に申し上げまして、私も「お金が欲しい」と思います。
世間では「お金で“すべてのもの”が買えるわけではない」といいます。
しかし、それは裏を返せば「お金で“ほとんどのもの”が買える」ともいえます。

お金自体は、そこに社会的は約束ごとがなければ、単なる紙切れであり、単なる金属の
かたまりであり、単なる数字の羅列にすぎません。しかし、そこに「何かと交換できる」
という社会的な約束事が加味されると、それは物欲を満たすものに変化し、世の中を
動かす力に変化します。

つまり、「お金が欲しい」ということは、物が欲しい、力が欲しい、ということに他な
りません。それは、仏教の教えでいうと、まさに、煩悩そのものであり、煩悩のなかの
貪欲(むさぼり・我欲)にあたるものということができます。

自力聖道門の立場からすれば、この「お金が欲しい」という貪欲は、仏になるためには
乗り越えていかなければならないものに違いありませんし、そのためには出家もしなけれ
ばなりません。(しかし、それで貪欲をなくすのは、99.99999%無理かと思われますが)

他方、私たちのような他力の浄土門では、「煩悩をなくせ」という教えは受けておりませ
ん。まさに「不断煩悩得涅槃分(煩悩を断たずして涅槃分を得る)」というわけです。もち
ろん、煩悩、貪欲(むさぼり・我欲)を積極的に肯定しているわけではないでしょうが、
この世で暮らしている以上、止むを得ないということだろうと思います。

実際問題として、私たち在家で暮らしているものは、そのほとんどが仕事をしています。
仕事は何のためにするかというと、お金を得るためです。なかには「自分の仕事は天職で、
仕事から得られる喜びは、お金に代えがたい」という人もいるかもしれませんが、そのよ
うな人はとても幸いなかたです。

ほとんどの人々は、微々たるお金を得るために、それこそいやな仕事でも、いやな上司が
いようが、人間関係がまずかろうが、毎日せっせと働かなければならないわけです。
つまり、それこそお金に縛られているわけです。

そう考えてみると、「お金がほしい」という欲求は、お金に縛られたくない、お金から自由
になりたい、という欲求といえるかもしれません。お金さえあれば、こんないやな仕事も
やめられるのに、お金さえあれば、あんないやな上司の顔を見なくてもすむのに、お金さ
えあれば、自由な時間を手に入れて、もっと自分の好きなことができるのに、等々。

そうすると「お金がほしい」という気持ちは、あながちに「貪欲(むさぼり・我欲)」だけ
とも言えないような気がしてきます。この世である程度の自由を得るために必要なものを
もとめているだけかもしれません。それも煩悩といえば煩悩なのでしょうけども、そこま
で否定してしまったら、この世で生身の人間として生きていけなくなってしまいます。
(開き直りでしょうか)

聖典のなかでお金について触れている部分はあまりないようですが、御文のなかでは
「あきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ」と述べています。ここで
「せよ」というのは「しなさい」というよりは「してもかまわない」という程度の意味だ
とは思いますが・・・。

「商売(ビジネス)をしてもかまわない」ということは「お金儲けをしてもかまわない」と
いうこととほぼ同義だと思います。それでかまわないのだけども、そんなことは極楽往生
とはなんのかかわりもないということなのでしょう。

極楽往生は、ただ「信心(おまかせする気持ち)ひとつ」によるものならば、お金を欲しが
ってもしかたがないし、逆に、お金を欲しがったところで何の妨げにもならないというこ
とになるものと思います。だとするならば、お金を欲しがるのは娑婆の人間の常として、
ことさらそれに逆らうことがないような気がします。

以上、お金にたいする現在の私の正直な気持ちなのですが、他力の行者の生き方として、
なにか考え違いをしているようなところがありましたらご指摘いただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.91
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2289 ] Re56:後念相続 2010/12/06 (Mon) 23:41 △up ▽down
皆さま、こんばんは。

自分で書いた文章を読み返してみて、ひとつ引っかかったところがございましたので、
その点について述べてみたいと思います。

>「商売(ビジネス)をしてもかまわない」ということは「お金儲けをしてもかまわない」と
>いうこととほぼ同義だと思います。それでかまわないのだけども、そんなことは極楽往生
>とはなんのかかわりもないということなのでしょう。

「お金儲けをしようとしまいと、極楽往生にはなんのかかわりもない」のは間違いないこ
とだと思います。また、「お金儲けをしたいと思おうと思うまいと、極楽往生にはなんの
かかわりもない」というのも間違いないことだと思います。

しかし、「お金儲けをしたいと思う気持ちがある」と自覚すること、または、そういう
気持ちを打ち消すことができないと自覚することはどうなんだろう、と思ったわけです。
これは、広い意味でいえば「煩悩から逃れがたい」という自覚を持つということになるわ
けですよね。

これは、二種深信の一つ目にあたるのではないかと思ったわけです。
(毎日様の言葉を借りると、浅信かもしれませんが・・・)

--------------------------------------------------------------------------------
深心と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一には決定して深く、自身は
現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に没し常に流転して、出離の縁あること
なしと信ず。二には決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまう、疑い
なく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。(信巻)
--------------------------------------------------------------------------------
深心は、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、
三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十
声聞等に及ぶまで、定んで往生を得と信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。
故に深心と名づくと。(行巻)
--------------------------------------------------------------------------------

「なんだかんだ言っても自分はお金が欲しい」という開き直りは、煩悩具足を自覚するこ
とに他ならないのであって、それなら自力で仏になるなど、夢の夢の夢であって、それな
ら仏にしてくれるという話を信じるほかないのであって、すべておまかせするほかない。

これこそまさに二種深信(二種浅信?)ですよね。つまり、「お金がほしい」と思うことは、
信心(おまかせする心)の出発点であって、そう考えたら、「極楽往生とはなんのかかわり
もない」というわけでもないなと思ったわけです。

ヘリクツかもしれませんね。

南无阿彌陀佛

●re.92
酒天童子
関東の男性
[ 2301 ] Re57:後念相続 2010/12/10 (Fri) 17:13 △up ▽down
こんにちは、酒天童子です。

ボン様のご感想を受け、ちょっと書き込みたいと思います。

お金についてのボン様の思い、だれしもがもっているものであると思います。

私たちは、現代の日本に生まれた以上、長ずるにしたがってお金にどうしても縛られていくものだと思います。

娑婆で生きている限り、それは逃れることがとても困難なことだと思います。

そうして私たちのうち、大多数は物欲を満たそうと、物欲を満たす力を持っていると思われるお金を一生懸命稼ごうとします。

ボン様がすでに書き込んだ通りです。

そうして、たとえばある人は首尾よくかなりの大金を手にすることができたりします。

一生、働かなくてもよいくらいの大金を手中に収めることができると、大体まずは有頂天になります。

「俺はすごいぞ」「俺は自由だ」ってなもんです。

そして、いままで欲しかったけれど手に入らなかったもの(他人を見ていて羨ましく思ったいろいろなもの)を片っ端から買ってみたり、旅行に行ってみたり、贅沢してみたりします。

人も羨む満ち足りた生活というわけです。

ところが、そんな生活をしばらく続けていくうち、ふと気が付くといままで考えもしなかったような心配が頭をもたげてきます。

今のこの状況を死ぬまで続けたい、もう絶対に貧乏に戻りたくない、そう強く思うようになります。

欲求不満で何かを欲しがっている時の想いよりも、大切なものを失いたくない、という恐怖のほうがだいたいにおいて、より大きく人を動かすものです。

すると、とたんに周りの人の誰もが自分の財産を狙っているような気がしてきます。

親戚あるいは親子、夫婦でさえも疑ってかかったりするようになったりします。

人間関係が次第にぎすぎすしてきます。

孤独感が増していきます。

財産をかすめ取る悪賢い奴らの話を聞いて、内心怯えたりします。

なんとか騙されまいとして、汲々としていきます。

その一方で、いわゆるセレブの集まりなどに顔を出すようになると、自分とは比べ物にならないくらいの金持ちに出会ったりもします。

より一層の贅沢を知ると、いままで一生働かなくてもよいくらいの金額の財産がなんだか、足りないような気がしてきます。

もっと、もっとお金が欲しい、もっとすごい贅沢がしたい、と欲求が増大していきます。
一方では財産を失うことを恐れ、一方では欲求不満が募ります。

こうなると物質の充足とは裏腹に心はどんどん貧しくなっていきます。

西洋の諺に「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴をくぐるより難しい」というものがありますが、そんなところを指したものではないかと思います。

こんな心の状態は、実は地獄にいるようなものなのですが、本人は多くの場合、気が付きません。

自分は人よりお金持ちで、幸せに違いないと信じ込もうとするからです。

不幸にも、そのまま財産を抱え込んだまま、目に見えない多くのもの(友情、家族の愛情、心の絆など)を失って寂しく死んでしまう人もいます。

もちろん、すべての人がそんな状態で居続けるわけではないでしょう。

別に財産を放棄して、もとの貧乏にもどらなくても、そんな状態から抜け出す方法はあります。

ほとんどの成功者は「自分はついている」「自分は人より運が強い」と感じるだけの経験を持っているものです。

また、自分の行いは正しかったから世間から認められてお金持ちになれたのだ、とも思いたいのです。

だから、賢いお金持ち(ようするに地獄の心情に気づき、そのままではいたくないお金持ち)は自分の運が尽きないためと、自分の行いが正しかったことの証明のためにあることをします。

それは寄付、あるいは寄進と呼ばれるものです。

そうして、自分を正当化し、安心しようとするのです。

だから、お金持ちが施しをするのは、心が綺麗だから(稀にそういう人がいないとは断言できませんが、会ったことはありません)ではなく、自分がお金持ちになったのは「運命」であり「必然」でありこの先も間違いなくお金持ちであり続けることができると信じるためなのです。

つまりは自己満足のためなのです。

それと自分を正当化するためにも、周りから誉めてほしいのでしょう。

こんなカラクリがわかってしまうと、お金持ちになりたいという人の想いはわかりながらも、はた目からは「あの人にはお金持ちになってほしくない」などと思ってしまうのです。

それが、菩提心様に先日申し上げた、私の気持ちなのです。

優しくて澄んだ心は何物にも代えがたい宝です。

私は不徳ゆえに泥沼のようなところも見てしまったために、まして強くそう思うのです。

清らかな心を維持するために大金は大きな障害になってしまいます。

それでもお金持ちになりたい、とどうしても私たちは思ってしまいます。

だから、心優しい守護天使たちは、本人の希望とは裏腹にあえて大金を持たせないのだ、と思ったりします。

冗長になり、申し訳ありませんでした。

南无阿彌陀佛

●re.93
菩提心
非公開の非公開
[ 2302 ] Re58:後念相続 2010/12/10 (Fri) 12:43 △up ▽down
皆様、こんにちは

「二度有る事は、三度有る」

失敗した時、そう言われました。

以前の失敗から、私には二つは同時に出来ないとよく分かりました。

それで、仕事ではへまをしないように極力気を付ける為に、1週間インターネットはしないようにしていました。


その間に色々な御助言頂き有難いと思います。

又、少し賑やかになっていて嬉しいです。

今日は、日曜日の代わりに、午後から休みを頂きます。

家に帰ってからゆっくり読ませて頂きます。


自分の心の変化も書きたいと思います。

有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.94
菩提心
非公開の非公開
[ 2303 ] Re59:後念相続 2010/12/10 (Fri) 22:55 △up ▽down
モラル・ハラスメントのダウンロードした中に以下のような事が書いて有りました。

「・・・・あなたが辛くなるのは、あの人の些細な一言の「内容」ではないのです。その一言がきっかけに、これまで受けてきた過去の辛さを思い出してしまうからなのです。それは、30分も延々と人格否定された、突然怒鳴られた、ずっと口を聞いてもらえなかった、というような本当に辛く傷ついた経験です。だから、どんなにひたすら努力しても我慢できないのです。あなたの我慢不足ではありません。モラハラからの脱出には、まず、この発想の転換が大事なのです。」

私は、どうしてこんなに辛くなるのだろう、どうしてお金に執着するのだろうと考えました。

辛くなる原因が分からず、アドバイスを受けた事を実行したり、前向きな書物を読んだり、言葉で言ったりしていました。

誰に相談してもこの心の苦しさはなかなか理解して貰えません。

しかし今、記憶を思い返していると一致する点を幾つか見つけました。

その点を繋げると、それは私の潜在意識(阿頼耶識?)に眠っていたものです。

それは味わいで書いていた事ですが、書くことによって、知らず知らずに癒されていたのかも知れないと思いました。

私の劣等感が如何に根深いものか、自分が嫌になるくらいです。

ここ1週間、過去を振り返り、それでもそれは自分が選んだ道だったのだと思います。

しかし、「鏡の法則」とか「波長の法則」とか分かりませんが、理事長と私は、表と裏の関係のような気がします。

お金を持つ者と持たない者だけで、二人ともお金に振り回されていると気が付きました。

似ているからこそ、嫌になったり軽蔑したりするのかも知れません。

又劣等感も然り。
そう思えるようになってきました。

劣等感の裏返しで、少しでも自分の意に叶った人を周りに置いておきたいのだと思います。

私もきっと劣等感の裏返しかも知れません。

ここでは智慧者ばかり。

そんな方達とご縁頂いて有難いです。

でも救われるには、智慧は関係ないので、益々嬉しくなります。


南无阿彌陀佛

●re.95
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 2312 ] Re60:後念相続 2010/12/12 (Sun) 18:16 △up ▽down
菩提心様

いろいろお読みになられていらっしゃるご様子、とても元気づけられます。

私自身に照らしてみても、「信をいただき」その結果、お育てが加速しているような実感を受けます。

私の場合、信をいただいた直後、あるいは、直前は、御聖典をひもときました。

しかし、その後、「いずれにしても救われているのだから(あるいは、そのはずだから)」という(そこそこ大きい)安心のもと、当初は多少の抵抗を感じながらも(今でも、少しの抵抗は残しているのですが)その以外のものにも手を伸ばしはじめ、今後は、さらに自分の求める心に従って、読んでゆくのだろうと思います。

たとえば、『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書)という本があるのですが、このような本も、真宗の体験により、とても読みやすくなる感じがします。

私は、キリスト教について詳しくはありませんが、イメージとしては、「ああじゃない、こうでもない」と話してゆくお講は、聖書について議論しているプロテスタントのような感じです。

「答えを知っている人が、その答えを与える」のではなく、自らの中から答えが引き出されてゆくような、開示されてゆくような営みです。

そのような営みに、誰もが参加できる扉が開かれている。これは実に奇跡だと思います。

しかし同時に、カトリック的な秘儀もあり、前相続についても、カトリックで言うところの「修行者」という概念と似たものがあると思います。

私は、信をいただいた後の人生が、「実際に変わる」ということについて、最近、理解が深まってきた感覚がしています。

それは、六字と一体になる体験により、それまで行わなかった思考がはじまり、その結果、深いところで自分が変わっているような感じです。

もちろん、この思考は「単に主体的に行われている」ものではなく、導かれているような、育てられているような不思議な感じを伴うものです。

このように、いろいろな感慨を持って、真宗の味わいは「味わわれてゆく」ものであって、自由でありながら、六字のもとにまとまる不思議と合わせ、ますます有り難いことだと合掌する次第です。

南无阿彌陀佛

●re.96
菩提心
非公開の非公開
[ 2315 ] Re61:後念相続 2010/12/13 (Mon) 22:16 △up ▽down
毎日様

お久しぶりです。

>たとえば、『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書)という本があるのですが、このような本も、真宗の体験により、とても読みやすくなる感じがします。

早速、本屋に行って買ってきました。

ハイデガーという人の哲学者の名前は親鸞会で知りました。

親鸞会のHPより引用
「ハイデッガーは1920年代から仏教などの東洋哲学と出会い、学び始めたと言われます。
そして
「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」など、仏教では存在と時間は分けられないことが説かれいることを知りハイデッガーは大変驚いたそうです。
つまり主著の『存在と時間』 (Sein und Zeit) は直訳すると「有」と「時」ですが、『存在と時間』の哲学がすでに2600年前、仏教に明らかになっていたわけです。
そして、英訳をとおして、かの歎異抄を知り、もっと早く知っていたなら、日本語を勉強して親鸞聖人の教えを全世界の人に伝えることを生きがいにしたであろうと語っています。」


私でも、分かりますか?ざっと目を通しただけの感想ですが、難しそうですね。

紹介して下さっている著者は、丁度私と同じ年の生まれですから、世代的な感覚は読んで入っていけそうです。

>いろいろお読みになられていらっしゃるご様子、とても元気づけられます。

そうじゃないんです。

読んでないんです。読んでなくてインターネットで遊んでいるんです。

例えば、モラル・ハラスメントの言葉を知って、そこを読んで行くと、又別の言葉が気になってくる。それで又その言葉を調べて行くと、又違う言葉に出くわす。

そうしているうちに、最後にはとんでもないところまで行って今日はここまでっていう感じです。

そして色んな人が色んな考え方を持っていることが分かってとても不思議な感じになってきます。

ある事柄を調べると、真逆な考えのHPに出くわす。

何が正しくて、何が間違いなのか、さっぱり分からなくなってくるんです。

キリスト教を信仰している人の神の愛と、仏教を信仰している仏の慈悲。

又、宗教を超越した真理の話。

お気に入りに入れないと、もうそのHPを探そうとしても見つからない。

でも、最後には古巣に戻ってくるような、フッと落ち着ける安心感がこの掲示板には有ります。


こんな事書いて馬鹿にされるだろうな、って最初は思っていましたが、私は私なんだ。

毎日様にも、ボン様にも、酒天童子様にも、極道坊主様にも、忍草様にも成れない。

そんな私。でも何というか、みんなに守られている感覚。

有難うございます。

読んでみます。

南无阿彌陀佛

●re.97
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 2316 ] Re62:後念相続 2010/12/13 (Mon) 23:08 △up ▽down
菩提心様

極道坊主であります。

いいですなぁ〜! 夫々で。

全体の中に夫々の差別(しゃべつ)があって、個々がひかり(光・輝)。

区別された個々の働きによって、全体がいかされて(活かす・生かす)いるんでしょうかねぇ〜?

何処が切られても、お互いの存在に何らかの影響があるんでしょうなぁ〜?

有難う御座います。  合掌

●re.98
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2317 ] Re63:後念相続 2010/12/15 (Wed) 09:13 △up ▽down
皆さま、こんばんは。

この掲示板で、いろいろな方々のご意見がうかがえて、ありがたく思います。

ところで、他力一念の行者にとって、ここでのタイトルの「後念相続」とは何だろうと、
ずっと考えてきました。その場合、何と言っても、一番に念頭に置くべきなのは、ご聖典
にどう書かれているかということでしょう。

実は、ご聖典のなかで「後念相続」という言葉を発見することはできませんでした。しか
し「念々相続」という言葉は見受けられます。たとえば、行巻では善導の『往生礼讃』か
ら引用して、次のように述べています。

--------------------------------------------------------------------------------
もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期とするものは、十はすなはち十ながら生れ、
百はすなはち百ながら生る。
--------------------------------------------------------------------------------

この世の命が終わるまで念仏を続けたものは、必ず往生するということです。そして、
この部分を解説した「六要鈔」では、以下のように述べられています。

--------------------------------------------------------------------------------
「念念相続」は無間修の義なり。「畢命為期」とは長時修の義なり。ただし自力を励まば
念念に続きがたし。他力の益に依らば自然に相続して、十即十生・百即百生せん。
--------------------------------------------------------------------------------

「無間修」とは「休みなく」ということであり、「長時修」とは「命ある限り」というこ
とです。そうすると『往生礼讃』の上の文章は、「命ある限り休みなく」念仏を続けたも
のは往生できる、ということになります。

同時に、自力では「命ある限り休みなく」など土台無理な話で、他力によらなければでき
っこないとも言っているわけです。それはそうですよね、なにしろ「休みなく」というわ
けですから、人間わざではありません。

そもそも、『往生礼讃』に説かれる四修(恭敬修、無余修、無間修、長時修)は、菩薩の
行法ですから、私たちのような凡夫には所詮無理な話です。「六要鈔・化土巻」に次の
ように述べています。

--------------------------------------------------------------------------------
四修の法とは、論蔵等に深位の菩薩の所修の法を論ずるなり。(中略)彼の大菩薩の四修の
行は、今時の煩悩繋縛の凡夫は修行分絶えたり。ただ回願往生の心を発せば、一生の一行
に於いて分に四修を具する義を明かすなり。
--------------------------------------------------------------------------------

今の時代の煩悩まみれの凡夫は、修行ができる分際ではないが、ただ願を回向して往生す
る心を起こせば、一生にたったの一行をするだけで、四修を備えた分際になるといってい
るわけです。

まとめると、「念念相続」は往生の因ではあるが、それは今日の凡夫のなせる業ではない。
しかし、一生にたったの一行をすれば、「念念相続」をしたのと同じ身分になれる、とい
うことになります。言い換えると、一念帰命にすべてがこもっているから、それ以上何も
心配することはなく、大船に乗った気持ちでいればよい、ということになります。

とても、とても、ありがたいことなのですが、それでは、私たち他力の行をいただいたも
のは、今後の残された人生をどのように生きていったらよいのかということについて、
いまひとつ、明確な指針を得ることができません。私たち末代の他力一念の行者にとって、
「後念相続」とは何なんだろう。

御文によると、大事なものをいただいたうえは、御恩報謝の念仏しかない、といいます。
同行には近づけ、ともいいます。しかし、それだけでは人にもまれ、お金の翻弄される生々
しい日常にどのような意味を見出して生きていったらよいのかまでは、わかりません。

私たちは一度死んだともいわれます。この上ない完全なものをいただいたうえは、あとは
2度目の死を待つのみなのでしょうか。世俗を離れて仏法の世界に遊んで生きていくのみ
なのでしょうか。この世のどのような喜びも、悲しみも、感動も、共感も、達成感も、
挫折も、すべて煩悩のなせるわざ、取るに足らないものとして打ち捨てるべきものなの
でしょうか。

私たち他力の信心をいただいたものは、いったん、すべてを仏におまかせをした身です。
今後もすべてを仏におまかせして生きていくことになるのでしょう。おまかせしたときに
私たちの主観的な意識をどのように考えればよいのでしょうか。

「おまかせをする」というのは、別の表現で言えば「言いなりになる」ということです。
「仏におまかせをする」というのは「仏の言いなりになる」ということです。それでは
「仏の言いなりになる」になるというのは、どういうことなのだろうか。

「悪魔に魂を売る」という言葉があります。「ひょっとしたら、私は仏に魂を売ったので
はないのか。」「売る」というのは語弊があるかもしれません。「あるものと引き換えに、
僕は魂(自我)を差し出したのではないのか。」「あるもの」とは極楽往生です。

「悪魔に魂を売る」とは、自分の欲しいもののために悪事に手を染めるということです。
「仏に魂を売る」というのは、極楽往生のために自力(自我)を棄てることではないのだろ
うか。「仏に魂(自我)を売る」というのは、日常生活のすべてにおいて、“仏の価値観”
を持ち込むことではないのだろうか。「法を聞く(仏の言うことを聞く)」というのは、
そういうことではないのだろうか。

私たち末代の他力一念の行者にとって、「後念相続」とは「法のいうことを聞き続けるこ
と」ではないのだろうか。法が十方世界を貫くものなら、この世の生活原理にも通用する
ものであってよいはずです。御文の「あきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをも
せよ」というのは、実は、消極的肯定ではなく、積極的肯定だったのではないのだろうか。

「後念相続」とは、世俗を離れて仏法の世界に遊ぶことではなく、世俗の生活のなかに
仏法を貫き通すことではなかったのか。そうでなかったら、他力の信心をいただいたあと
も、この世に生き続けることに、何の価値があるのだろう。

仏法者であることを外相に現さず、それを内心に深くたくわえて、素知らぬ顔をして勤労
にいそしみ、人にもまれながら、すべての規範を仏法に求めて日々の生活に明け暮れる。
それを「後念相続」と言ってもかまわないのではないだろうか。それなら「休みなく」仏
を念じているといえるかもしれません。

とても無理な論法ののような気もしますが、こう考えると、他力一念の行者でありながら、
この浮世の様々な日常を積極的に生きていけそうな気がするのです。まちがっているかも
しれませんが、とりあえず、こういう心構えで生きていくほかないという心境です。

南无阿彌陀佛

●re.99
菩提心
非公開の非公開
[ 2318 ] Re64:後念相続 2010/12/15 (Wed) 13:37 △up ▽down
極道坊主様  

お返事有難うございました。

ボン様

「後念相続」のお話有難うございます。


http://shinshu.in/genzeriyaku   (毎日の現世利益和讃)

◎南無阿弥陀仏をとなふれば
 観音・勢至はもろともに
 恒沙塵数の菩薩と
 かげのごとくに身にそへり


>御文によると、大事なものをいただいたうえは、御恩報謝の念仏しかない、といいます。同行には近づけ、ともいいます。しかし、それだけでは人にもまれ、お金の翻弄される生々しい日常にどのような意味を見出して生きていったらよいのかまでは、わかりません。

私はお講の時に、「やまびこ」のお話をお聞きした時、何だか肩の荷が降りたという心境になりました。

御恩報謝のお念仏が出てこないのです。

救われたら、どんどん出てくるんじゃないかと思っていました。

有難くて、嬉しくて、どんどんどんどん出てくると思っていました。

でも、出てきたり、出て来なかったりの毎日です。

蓮如上人は、「夢にたに佛を拝む心こそ、寤寐(ごび)に忘れぬ人というなり」と歌を作られたそうです。
寤寐:目覚めている時と寝ている時

それって自分で意識している訳ではない、気付かないでお念仏を称えているっていうことでしょう。

だから他力念仏ってすごいなと思っています。

自分で称えようとしなくても、寝ている間に阿彌陀様の方から称えさせて頂いていると思っています。

そうじゃなければ、こんな私、やっぱり地獄行きですもの。


それと同じように、いつもここを開くと、上記の和讃がなんとなく脳裏に浮かんできます。

観音菩薩も勢至菩薩も阿彌陀佛の本願で成佛されておられ、その方々が私達念仏行者を友達だって言って下さっています。

世間では、その人の肩書や学歴を評価してその人を見るでしょう。

でも毎日様は、分け隔てなく接して下さっています。

智慧や才覚は世間では一流でしょうが、佛の目から見たら、同じ凡夫です。

仏法信じている人でさえ、世間の目で見ようとします。

毎日様は違います。私に読んでごらんと言って下さいます。

私こういう時は、本当に救われているんだなと喜んでいます。

難しいことは分かりませんが、生きている今が、上記の和讃をそのまま味わっていると思っています。

ちょっとした心の変化も、「後念相続」しているって思っています。

南无阿彌陀佛

●re.100
菩提心
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[ 2339 ] Re65:後念相続 2010/12/25 (Sat) 10:27 △up ▽down
○かかる身を助けたまふの嬉しさを常におもふを憶念といふ

○よしあしの心につけて念佛の口に絶えぬを相続といふ


人命の不定を知ることを無常観といひ、我が身の徒を知るを罪悪観といふ。

無常観によりて佛法の門に入り、罪悪観によりて他力の信仰に入る。

すでに他力の信仰に入りたれば、後念はいよいよ如来の大悲が慕われる。

如来の大悲が慕はるるにつけても、今まで無常を無常と知らずして、蛇に怖ちざりし昔の盲の危うさが憶ひ出され、いよいよ他力々々の御手丈夫を喜ぶ心の起るのを憶念と申す。

又、現在の己が心の状態を思ふて見ると、「一つづゝ塵見えかゝる夜明けかな」実に日光の前には垢汚の能く見ゆるが如く、いよいよ我が身のあさましさが知られ「念々称名常懺悔」大悲の光の其の下に、あやまりあやまり念佛の、口に絶えぬのが後念相続の行と申すもの。

されば一たび他力の信心に入れて見れば、たすかられぬ身の助かりしを喜ぶ心が憶念心、五欲の境界に携はりつつ感謝の思ひがそのままに、口に浮かむが報謝の相続、この心の憶念と口の相続、互いに相待ち相資(たす)けて如来の慈光の下に、安穏の日送りをさせて頂くといふが、この二首の御心である。
                        (蓮如上人いろは歌より)

南无阿彌陀佛


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