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[ 91 ] 南無と帰命について
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2007/12/06 (Thu) 10:20
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毎日様
僕は親鸞会では長く、親鸞会の「正信聖典」を、勤行の時に拝読させて頂きました。 被害家族の会にも書いたのですが、 僕はこの道来て、初めて知って驚いたことが多々有ります。
其れは、正しくは「正信念仏偈」と名けて、『教行信證文類』の「行巻」を蓮如上人が、朝晩の勤行の時に御使用されたと知りました。
これは、信心決定した親鸞聖人の歓びのお言葉なのですから、本当なら信心決定された人が唱える方が自然だと思います。
普通は、世間ではお経を唱えるのですね。(本来なら大経でしょうが、時間的なこともあり、阿弥陀経を唱える方が多そうです。)
そして、驚いたのはその中の「和讃」なのです。
どこの宗派も、上記の所からそのまま引用していますので、和讃は同じなのですが、親鸞会は、独自の和讃をあちこちから引っ張ってきているのです。 (調べるにしても、僕は明治書院の聖典の方が読みやすいです)
『教行信證文類』の「行巻」の和讃は、全て(光)のお言葉が入っています。 それほど、親鸞聖人は、阿弥陀如来の光明を尊く思われたのだと、僕はそのように理解しました。
そのような按配ですから、最初の解説から、間違って聞いてきました。 「帰命無量寿如来 南無不可思議光」 親鸞は、無量寿如来に救われたぞ、不可思議光に助けられたぞと聞いてきました。
毎日様なら、この2行をどのように解釈されますでしょうか?
追加です。 他の宗派の、勤行集には、大事なお経や聖徳太子のお言葉など、色々有りますが、親鸞会の中身とは雲泥の差でした。
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●re.1
admin |
毎日 |
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[ 92 ] Re1:南無と帰命について
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2007/12/06 (Thu) 12:36
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おやおや 様
「南無阿弥陀仏」もそうなのですが、これは、信前の方にはハッキリとはわかりません。
もちろん、通常の意味である、「阿弥陀仏に帰命せよ」という内容は、少し勉強すればわかります。
しかし、それだけでは、どのようにしたら救われるのか、わかりません。
「そのような曖昧なものを、命をかけて布教してゆくとは考えにくい」と思う方は、それ以上のものを求め、探そうとするでしょう。
実際、私は子供のときに「南無阿弥陀仏」を聞いたとき、そのように思いました。
(ですけれども、本当の教えは、既に失われているのではないか、とも思っていました。教えを大切に大切にして、伝えてくださってきている方々の存在にまで、思いが及ばなかったのです。)
つまり、「南無阿弥陀仏」も、ご方便なのです。
蓮師の正信偈大意には、
◎「帰命無量寿如来」といふは、・・・阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。
とあります。
しかし、これも、読み流してしまえば、一往の義しかわかりません。
この部分は、再往の義としては、
◎そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり(御文2-11)
という意味であると思っています。
ここで、少し、顕義と隠義に関して説明をします。
御文には、
◎当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり・・・南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり(御文4-9)
「六字の謂れを聞き開け」とおっしゃりながらも、御文に書いてあるのはここまでです。
◎善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば(御文3-6)
「ききひらきぬれば」とおっしゃるくらいであれば、御文に書いて下されば良いのに、とも思いますが、そのようにはしてくださっていません。
◎そもそも、当流において、その名ばかりをかけん輩も、またもとより門徒たらん人も、安心のとほりをよくこころえずは、あひかまへて、今日よりして、他力の大信心のおもむきをねんごろに人にあひたづねて、報土往生を決定せしむべきなり(御文3-1)
あくまでも、「人にあひたづねて」とのことです。
つまり、顕義と隠義がわけて書いてあります。顕義については内容まで書くことができますが、隠義につきましては、その存在をほのめかす程度までです。
◎しかれば近代当流の仏法者の風情は、是非の分別なく当流の義を荒涼に讃嘆せしむるあひだ、真宗の正意、このいはれによりてあひすたれたりときこえたり。かくのごときらの次第を委細に存知して、当流の一義をば讃嘆すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文4-1)
無宿善の機が見る可能性がある以上、顕義を表に出すことによって、教えは守られてきたのだと思います。
そもそも、観経からして、そのような作りになっています。
ぱっと読んだとき、無宿善の機が見ても問題のない内容が見えてきて、しかし、求めている方が見ると、気になる箇所がある。あるいは、無宿善の機は、読んでいるうちに、イヤになってしまう。宿善のある機は、その中から宝を掘り出そうとする。ご聖典は、そのような作法で作られてきていると思います。
親鸞聖人が、正信念仏偈を行巻の最後に配されたことも、推敲を重ねた書であることを考えれば、意味があることと思います。
略本の偈では、念仏正信偈となっており、合わせて見ることにより、理解が深まるようになっていると思います。
また、正信偈や領解文の拝読が勧められるのも、異安心から門徒を守ることと、弥陀の救いの存在を知らせることの双方の意味があると思います。
ですから、ご質問の二行についても、隠義があると考えることができると思います。お会いしたときにでも、お話できたらうれしいです。
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[ 93 ] Re2:南無と帰命について
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2007/12/06 (Thu) 11:48
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毎日様
>あくまでも、「人にあひたづねて」とのことです。
被害家族の会の、あれあれさんの書込みではないですが、
若し、毎日様に、個人的にメールを寄こして、「たずねた」場合、
毎日様は、どのようにお導き頂けるのでしょうか?
その人の「宿善」「無宿善」は、他の場所で、はかることもできますが、 毎日様に、個人的にメールしても、毎日様は、きっと何かの手立てを講じて下さるということでしょうか?
僕もご縁、有りましたなら、お互いに弥陀の身元に往ける身です。
現世において、お会い出来るなら、それはとても素晴らしい、お話が出来るでしょう。
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●re.3
admin |
毎日 |
非公開の非公開 |
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[ 96 ] Re3:南無と帰命について
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2007/12/06 (Thu) 12:50
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おやおや 様
面識がある方であればともかく、メールだけでは、お話できることに限りが出てくると思います。
これは、御文に書いてあることに限りがあることと同じです。
しかし、熱意のある方であれば、すべてを乗り越えてゆくはずです。
これは、その方の側からも、私の側からも、言えることです。
私も、なるべく多くの方にお会いしてゆきたいのですので、全国をめぐってゆきたいと考えているのです。
(これは、必ずしも説法をしてゆくということではなく、仲の良い方を、たくさん作ってゆこうと考えています。)
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[ 102 ] 参考までに
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2007/12/07 (Fri) 04:25
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親鸞聖人が「正信念佛偈」の中に入れた和讃
◎ 弥陀成佛のこのかたは いまに十劫をへたまへり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり (讃阿弥陀仏偈和讃) ◎ 智慧の光明 はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁かふらぬものはなし 真実明に帰命せよ ( 〃 ) ◎ 解脱の光輪きはもなし 光觸かふるものはみな 有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ ( 〃 ) ◎ 光雲無如虚空 一切の有礙にさわりなし 光澤かふらぬものぞなき 難思議を帰命せよ ( 〃 ) ◎ 清浄光明ならびなし 遇斯光のゆゑなれば 一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ ( 〃 ) ◎ 佛光照曜最第一 光炎王佛となづけたり 三塗の黒闇ひらくなり 大應供を帰命せよ ( 〃 )
親鸞会の正信偈 ◎ 善知識にあふことも おしふることもまたかたし よくきくこともかたければ 信ずることもなをかたし (浄土和讃=大経意) ◎ 若不生者のちかひゆへ 信楽まことにときいたり 一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ (讃阿弥陀仏偈和讃) ◎ 真心徹倒するひとは 金剛心なりければ 三品の懺悔するひとと ひとしと宗師はのたまへり (高僧和讃=善導大師) ◎ 超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど こころは浄土にあそぶなり (帖外和讃) ◎ 五濁の時機いたりては 道俗ともにあらそひて 念仏信ずるひとをみて 疑謗破滅さかりなり (正像末和讃) ◎ 利他の信楽うるひとは 願に相応するゆえに 教と仏語にしたがへば 外の雑縁さらになし (高僧和讃=善導大師)
このように並べて見ると、 親鸞聖人が、阿弥陀仏を讃えていたかが、一目瞭然です。 毎日様のご助言も、よく分りました。 今まで、救われるまでは、全く気にも留めませんでしたが、 僕は本当に無智だと知らされます。
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●re.5
admin |
毎日 |
非公開の非公開 |
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[ 106 ] Re1:参考までに
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2007/12/08 (Sat) 03:13
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おやおや 様
和讃ですが、これは蓮如上人が御選定くださったものだと思います。
正信偈を取り上げてくださったのも、和讃を取り上げてくださったのも、日々説法聞きにくることもできない方々にも、少しでも多くの方に気付いていただくために、ご工夫くださったことだと思います。
その成果は、今にまで、続いていると思います。
そして、私は他にも理由があると思います。
ひとつには、口業に関することです。
弥陀の救いをいただいている方はともかく、そうでない方には、善根を積んでいただかねばなりません。
その際、意業というのは難しく、口業と身業が比較的易しいのです。
そして、口業も、ほうっておけば、汚い言葉、間違っている言葉を出すのが凡夫ですから、美しく、正しい言葉を唱えるようにおすすめくださっているのだと思います。
報土に来れない方でも、化土には来て欲しい。
そのような願いを、私は感じます。
南无阿彌陀佛
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