皆さま、こんばんは。
「聴聞」という言葉が話題となっておりますので、ここで整理してみたいと思いました。 愚尼様は、次のようにおっしゃっておられます。
>身体で聞いたのではないですか?
>聴聞は、善知識の下で一念帰命の事ですよ。
>聴聞は、耳で聞くのが聴聞ではありませんよ。 >顔の横に付いている耳を通して聴くのは、聴聞とは言いません。
私も愚尼様のおっしゃる意味はよくわかります。 おそらく、他力の信心をいただいた方は、どなたもその意味はよくわかると思います。
しかし、愚尼様に限らず「身体で聞く」という言い回しをされたかたが、その昔に、 私の回りにもおりましたが、どうもその言い回しにはなじめませんでした。
どうしてなじめなかったのか、あまり深く考えたことはなかったのですが、 今それを考えてみると、言葉(日本語)に対してことさらに特殊な意味をこめて、 仏法を不必要に難しくしていると思えたからではないかと、思えるのです。
日本語の「きく」には、「耳できく」と「言うとおりする」と、2つの意味があります。 これは日本語として、文字通りすんなり理解できるものと思います。
仏法を聞くという場合も、「耳できく」と「言うとおりする」という2つの意味で 他力の信心というものが十分に理解できると思うのですが、いかがでしょう。
このことは、大和言葉の「きく」だけでなく、漢字の「聴」や「聞」についても 同様のことがいえます。「聴」には「したがう・まかせる」という意味があり、 「聞」には「うけたまわる・したがう」という意味があります。 どちらも「言うとおりする」に通ずるものがあります。
私の持っている小さな漢和辞典でも、以下のことが書かれています。
聴・・(注意ぶかく)聞く (聞いてうけいれる)承知する・許す---したがう・まかせる---させておく (耳にしたことを)考察する-----------さばく・おさめる-----役所 (耳をそばだてて)ようすをさぐる-----しのび・スパイ
聞・・・音声を耳に感じ取る、聞いて理解する、うけたまわる、したがう
つまり、「聴聞」といった場合でも、「きく」と同様に、「耳できく」のほかに 「言うとおりする」という意味があるということです。そのことで、「仏法の聴聞」には 「耳で聞くだけ」のものと、それ以上のもの、つまり「耳で聞いて、そのとおりにする」 という2種類のものがあるということで、一念帰命の説明がつくものと思います。
そうでなくても、仏法には、平易な日常語に置き換えることが難しい仏教用語がたくさん 存在します。たとえば、南無、帰命、回向、真如、正定聚、不退転、等々・・・。
こういう言葉によって、仏法がわかりづらくなっているのはたしかです。ならば、 せめて文字通り理解できる言葉は、文字通りに理解すればよいのでは、と思うのです。
だから、私は、「聴聞は、耳で聞くのではなく、身体で聞くものだ」という表現には 違和感を覚えてしまうのでしょう。
ちなみに、「大経」には「聴聞」という熟語は登場せず、「聴」と「聞」がそれぞれ 別々に出てくるだけです。そして、「聴」と「聞」は、同様の使われ方をしています。 たくさんありますが、いくつか抜き出します。
「法を聞きて楽ひて受行して、疾く清浄の処を得よ。」(下-27) 「宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。」(下-27) 「甚深の法を聞きて心に疑懼せず、つねによく修行す。」(下-30) 「仏とあひ値うて経法を聴受し、またまた無量寿仏を聞くことを得たり。」(下-33) 「善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。」(下-47)
ここの5つの引用のうち、3つまでが「聴・聞」と「行」がセットになって出てきます。 つまり、「聴・聞」の意味が、必ずしも「行」の意味までカバーしていないということです。
なお、「教行信証」では「聴聞」という言葉が、4回出てきます。すべて経論の引用です。
「宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽んで世尊の教を聴聞せん。」『無量清浄平等覚経』 「かくのごときの妙法すでに聴聞せば、つねに諸仏をして喜びを生ぜしめ」『無量寿如来会』 「舎利弗等、大智を聴聞して世に信伏するところなり。」『涅槃経・迦葉品』 「二つには正法を聴聞することを得じ、」『散善義』
「御文章」には、たくさん「聴聞」という言葉が出てきますが、一部抜粋します。
・「よくよく耳をそばだてて聴聞あるべし。」(1-5)
・「われこころえ顔のよしにて、なにごとを聴聞するにもそのこととばかりおもひて、 耳へもしかしかともいらず」(2-5)
・「聖道門にてありし人人の、聖人(源空)へまゐりて浄土の法門を聴聞したまふに、 うつくしくその理耳にとどまらざるによりて、」(2-15)
・「たしかに聴聞せしむるあひだ、その決定の信心のとほり、 いまに耳の底に退転せしむることなし。」(4-4)
・「信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて他力の安心をば治定 すべし。一往聴聞してはかならずあやまりあるべきなり。」(4-7)
ここでは「聴聞」という言葉を、「きく」という言葉とたいして変わらない意味で使って います。「聴聞」を「耳」とセットで使用している例が4つあります。
「聴聞」という言葉に、ことさら特別な意味をもたせるまでもないということを 示す内容のように思えますが、間違っているかもしれませんので、 ご意見をお聞かせいただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いします。
南无阿彌陀佛
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