浄土真宗の教義について

新規スレッド作成タイトル一覧表示ログ検索ホームへ
  《prev 138 next》
・選択したスレッドを表示しています。返信は▽downのフォームからどうぞ。
(「メール送信」ボタンを押すと、書き込み作者宛にメール送信ができます。ヘルプ)(「編集」ボタンで記事の編集ができます。)
 
●No.138
ボン
関東の男性
[ 1733 ] 「聴聞」という言葉について 2009/12/09 (Wed) 02:19 △up ▽down
皆さま、こんばんは。

「聴聞」という言葉が話題となっておりますので、ここで整理してみたいと思いました。
愚尼様は、次のようにおっしゃっておられます。

>身体で聞いたのではないですか?

>聴聞は、善知識の下で一念帰命の事ですよ。

>聴聞は、耳で聞くのが聴聞ではありませんよ。
>顔の横に付いている耳を通して聴くのは、聴聞とは言いません。

私も愚尼様のおっしゃる意味はよくわかります。
おそらく、他力の信心をいただいた方は、どなたもその意味はよくわかると思います。

しかし、愚尼様に限らず「身体で聞く」という言い回しをされたかたが、その昔に、
私の回りにもおりましたが、どうもその言い回しにはなじめませんでした。

どうしてなじめなかったのか、あまり深く考えたことはなかったのですが、
今それを考えてみると、言葉(日本語)に対してことさらに特殊な意味をこめて、
仏法を不必要に難しくしていると思えたからではないかと、思えるのです。

日本語の「きく」には、「耳できく」と「言うとおりする」と、2つの意味があります。
これは日本語として、文字通りすんなり理解できるものと思います。

仏法を聞くという場合も、「耳できく」と「言うとおりする」という2つの意味で
他力の信心というものが十分に理解できると思うのですが、いかがでしょう。

このことは、大和言葉の「きく」だけでなく、漢字の「聴」や「聞」についても
同様のことがいえます。「聴」には「したがう・まかせる」という意味があり、
「聞」には「うけたまわる・したがう」という意味があります。
どちらも「言うとおりする」に通ずるものがあります。

私の持っている小さな漢和辞典でも、以下のことが書かれています。

  聴・・(注意ぶかく)聞く
       (聞いてうけいれる)承知する・許す---したがう・まかせる---させておく
       (耳にしたことを)考察する-----------さばく・おさめる-----役所
       (耳をそばだてて)ようすをさぐる-----しのび・スパイ

  聞・・・音声を耳に感じ取る、聞いて理解する、うけたまわる、したがう

つまり、「聴聞」といった場合でも、「きく」と同様に、「耳できく」のほかに
「言うとおりする」という意味があるということです。そのことで、「仏法の聴聞」には
「耳で聞くだけ」のものと、それ以上のもの、つまり「耳で聞いて、そのとおりにする」
という2種類のものがあるということで、一念帰命の説明がつくものと思います。

そうでなくても、仏法には、平易な日常語に置き換えることが難しい仏教用語がたくさん
存在します。たとえば、南無、帰命、回向、真如、正定聚、不退転、等々・・・。

こういう言葉によって、仏法がわかりづらくなっているのはたしかです。ならば、
せめて文字通り理解できる言葉は、文字通りに理解すればよいのでは、と思うのです。

だから、私は、「聴聞は、耳で聞くのではなく、身体で聞くものだ」という表現には
違和感を覚えてしまうのでしょう。

ちなみに、「大経」には「聴聞」という熟語は登場せず、「聴」と「聞」がそれぞれ
別々に出てくるだけです。そして、「聴」と「聞」は、同様の使われ方をしています。
たくさんありますが、いくつか抜き出します。

「法を聞きて楽ひて受行して、疾く清浄の処を得よ。」(下-27)
「宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。」(下-27)
「甚深の法を聞きて心に疑懼せず、つねによく修行す。」(下-30)
「仏とあひ値うて経法を聴受し、またまた無量寿仏を聞くことを得たり。」(下-33)
「善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。」(下-47)

ここの5つの引用のうち、3つまでが「聴・聞」と「行」がセットになって出てきます。
つまり、「聴・聞」の意味が、必ずしも「行」の意味までカバーしていないということです。

なお、「教行信証」では「聴聞」という言葉が、4回出てきます。すべて経論の引用です。

「宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽んで世尊の教を聴聞せん。」『無量清浄平等覚経』
「かくのごときの妙法すでに聴聞せば、つねに諸仏をして喜びを生ぜしめ」『無量寿如来会』
「舎利弗等、大智を聴聞して世に信伏するところなり。」『涅槃経・迦葉品』
「二つには正法を聴聞することを得じ、」『散善義』

「御文章」には、たくさん「聴聞」という言葉が出てきますが、一部抜粋します。

・「よくよく耳をそばだてて聴聞あるべし。」(1-5)

・「われこころえ顔のよしにて、なにごとを聴聞するにもそのこととばかりおもひて、
  耳へもしかしかともいらず」(2-5)

・「聖道門にてありし人人の、聖人(源空)へまゐりて浄土の法門を聴聞したまふに、
  うつくしくその理耳にとどまらざるによりて、」(2-15)

・「たしかに聴聞せしむるあひだ、その決定の信心のとほり、
  いまに耳の底に退転せしむることなし。」(4-4)

・「信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて他力の安心をば治定
  すべし。一往聴聞してはかならずあやまりあるべきなり。」(4-7)

ここでは「聴聞」という言葉を、「きく」という言葉とたいして変わらない意味で使って
います。「聴聞」を「耳」とセットで使用している例が4つあります。

「聴聞」という言葉に、ことさら特別な意味をもたせるまでもないということを
示す内容のように思えますが、間違っているかもしれませんので、
ご意見をお聞かせいただければ幸いです。

どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛



《 返信フォーム》

なまえ
住所
性別
メアド(任意) (掲示板上では非公開。届いたメールに返信して、はじめて相手の方にアドレスが伝わります。)
サイトのURL(任意)
投稿タイトル
メッセージ
パスワード (記事を編集する際に必要です。)


p.ink

(C) 2007- Mainichi no Jodoshinshu All rights reserved