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[ 1715 ] 御文章を読んで気になったこと。
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2009/12/02 (Wed) 08:45
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始めまして星と申します。 こちらの方々は、御文を読むことを勧め、 次第相承の善智識に逢うことが肝要であるとご教示くださいますが。 その点につきまして気づいたことがありますので書き込ませていただきます。
四帖目一通に
>あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、一流真実の法義を沙汰すべからざるところに、近代人々の勧化する体たらく
と有りますのは、聖人一流の法には仏法聴聞のほかに、 宿善の機のための「一流真実の法義」の沙汰と言うものがあると理解してかまわないのでしょうか?
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[ 1716 ] Re1:御文章を読んで気になったこと。
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2009/12/02 (Wed) 21:50
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星さま、はじめまして。
お尋ねの点につきまして、私がお答えするのが適当なのかどうかわかりませんが、 私の考えを述べさせていただきます。
ご指摘の部分につきまして、その前後も含めて引用いたします。
-------------------------------------------------------------------------------- それ、中古以来当時にいたるまでも、当流の勧化をいたすその人数のなかにおいて、 さらに宿善の有無といふことをしらずして勧化をなすなり。所詮自今以後においては、 このいはれを存知せしめて、たとひ聖教をもよみ、また暫時に法門をいはんときも、 このこころを覚悟して一流の法義をば讃嘆し、あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数 おほくあつまりたらんときも、この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんと おもひて、一流真実の法義を沙汰すべからざるところに、近代人々の勧化する体たらくを みおよぶに、この覚悟はなく、ただいづれの機なりともよく勧化せば、などか当流の安心 にもとづかざらんやうにおもひはんべりき。これあやまりとしるべし。 --------------------------------------------------------------------------------
これを現代語で表わすと、以下のようになると思われます。
-------------------------------------------------------------------------------- 中古から今日にいたるまで、当流の勧化をいたす人々のあいだで、宿善の有無ということ をまったく知らないで勧化をしているものがいる。この上は、今後、このいわれを心得さ せて、たとえば聖教を読んだり、また、しばらくのあいだ法門について述べるときも、この こころを理解して、一流の法義を讃嘆しなければならない。また、仏法を聴聞するために と思って人々が多数集まっているようなときも、「この人々のなかに、もしかしたら無宿 善の機があるかもしれない。」と思って、一流真実の法義を沙汰してはいけないにもかか わらず、近ごろの人々の勧化する体たらくをみると、このような理解はなく、「どんな機 であってもよく勧化をすれば、どうして当流の安心に達しないことがあろうか」というよ うに思っている。これは誤りだと知るべきである。 --------------------------------------------------------------------------------
つまり、ここで言っているのは、「宿善の有無ということを考慮しないで勧化をしてはいけ ない。」「無宿善の機がいるところでは、一流真実の法義を沙汰してはいけない。」と いうことではないかと思います。
ご質問の主旨は、「仏法聴聞のほかに、宿善の機のための一流真実の法義の沙汰と言うも のがあるのか」ということだと思います。
私は「宿善の機のための一流真実の法義」はあると思っております。問題は、それが 「仏法聴聞」と別のものかどうかというご質問だと思います。
私の考えでは、「仏法聴聞」と「宿善の機のための一流真実の法義」が同じものか、 あるいは別のものかという設問は、論理的に言って不正確ではないかと思います。
あえて言うならば「仏法」=「宿善の機のための一流真実の法義」だと思います。 ここでは「仏法」に無数の法門があるということは無視します。「宿善の機のための 一流真実の法義」が、無数にある「仏法」のひとつである、ということです。
また、これもあえていえば、「仏法」も、「宿善の機のための一流真実の法義」も、 「聴聞」の対象であるということは、いえると思います。
だから、「仏法」のほかに「宿善の機のための一流真実の法義」があるのかと問われれば、 それは否だと私は思います。「宿善の機のための一流真実の法義」は、まさしく「仏法」 そのものであると思うからです。
こんなことではいかがでしょう。答えになっておりますでしょうか。
南无阿彌陀佛
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[ 1717 ] Re1:御文章を読んで気になったこと。
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2009/12/02 (Wed) 20:30
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ボン様ありがとうございます。
私も書いて見ました。
星様
初めまして。
丁度この場所を説明している御縁ある善知識様の御著書より引用させて頂きます。
御絵伝を解釈した御著書です。
・・・・この手を引いて下さったお方は、聖覚法印、極楽様からおいで下さった雄鳥が法然様、二人のお世話になりまして、御開山聖人は立ちどころに、他力の御信心を決定できた訳です。
それで分かりましたか、一つは三願転入、十九の願から二十の願に、二十の願から第十八願に入ったのだ。
皆さんもどっさりお寺に寄付もしました。釣鐘堂も改築しました。沢山の功徳を積んでおりましたが、無駄になると思うなよ。それは善根功徳だから、また十九の願だ、そうして念仏申したのが二十の願だ、この二つのものが宿善になって、初めて法然様にお会いさして貰うことができるように、善知識様に会うことができるのだ。
会いさえすれば教えて戴くのが、南無阿弥陀仏の根元、礼拝、讃嘆、作願、観察という御修行が出来上がった、南無阿弥陀仏のスガタを与えて貰うと言うと、頭が上がらぬ内に如来の光明に摂取され御信心が決定するという、これを頓教の極致と申します。
・・聖覚法印は川の流れを見ていますが、中啓を持っていましょう。 中啓とは半ば広げたというのです。
無宿善がいないと云うと、全部広げて、お目にかけても結構だが、無宿善が聞くというと、信じてくれるかしら、なかなか信じてくれないでしょう。
菩提をうまじきひとはみな 専修念仏にあだをなす 頓教毀滅のしるしには 生死の大海きはもなし (正像末和讃)
これは御開山の御和讃ですから、みんな広げて見せたいけれども、無宿善があるから全部は広げて見せることは出来ないし、すぼめておいたらいつまで経っても、聞く気になってくれないし、せめて半ばだけでも広げて見せようと云うので、絵に描いて皆さんに教えて下さった訳でございます。
坊さんは皆中啓を持っています。 坊さんは肝心要を手に握っている、衣をその上にかけている、半ば広げているのがお寺さんお説教です。
なぜかと云ったら御文章を見なさい。
ここに星様が御引用の場所が出てきます。
>仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、一流真実の法義を沙汰すべからざる
というのは中古以来の御文章です。
ですから、無宿善のその時は、半ば広げておくより他ないではありませんか。 全く南無阿弥陀佛のおいわれは、若し聞いておきたい、会いたい人があったれば、宿善開発の身とならなければならない訳でしょう。
真の法を頂くときには、必ず往相還相二つがあり、この二つの廻向に会わなければ駄目だということは御和讃で御承知でしょう。
往相還相の廻向に まうあはぬ身になりにせば 流転輪廻もきはもなし 苦界の沈淪いかがせん (正像末和讃)
浄土真宗はこの往相、還相の二つによる訳でございます。
どうか真の法を勧めて下さる人がありましたら、その人は往相廻向の菩薩と考えて、その人のおっしゃることは下手であっても、間違いのないお経様とぴったり合ったことでしたら、疑わずはからわずして、この妙法に会い奉るようにさせて貰わねば、いつまで経っても若存若亡、三不三信の思いで、暮らしてしまわなければならないじゃございませんか。
無常の風は今日とも分かりません。明日とも分かりません。いつ死のうとも大丈夫という、安心決定させてもらう方法はこれより他にないということがおわかりでしょう。
南无阿彌陀佛
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[ 1718 ] Re2:御文章を読んで気になったこと。
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2009/12/02 (Wed) 20:33
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このホームページの最初より
泥凡夫様 過去ログ 01
何が秘事で何が正法なのかは弥陀のみしか知りません。どれだけ計らってみてもだめでしょう。結局、私が正しい、あなたが間違っているというだけです。秘事、異安心の問題なんて今に始まったことではないでしょう。自流にないものを全て秘事だ異安心だなど衆生を惑わすことになりますし、真宗内部での争いが絶えない元となります。それでも私が正しいとやるんですよね。私達凡夫は。
御文にちゃんと書かれていますね。 それ、八万の法蔵を知るといふとも後世をしらざる人を愚者とす・たとい一文不知の尼入道なりというとも・後世をしるを智者とすといえり・しかれば当流のこころは・あながちにもろもろの聖教をよみ・ものをしりたりというとも・一念の信心のいはれをしらざる人は・いたづら事なりとしるべし・・・
信心獲得すというは・第十八の願をこころうるなり・この願をこころうるというは・南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり・・・
・・・いかなる十悪五逆・五障三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて・ひたすら後生たすけたまへともうさん人をば、たとえば十人もあれ・百人もあれ・みなことごとくもらさずたすけたまふべし・・・
・・・南无とたのむ衆生を・阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆえに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは・すなわちわれら一切衆生の、平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり・・・
当流の安心のおもむきを・くはしくしらんとおもわんひとは・・・ ・・・行者のおこすところの信心にあらず・・・
有縁の善知識に逢うことが五重の義の第一段めですよね。 それがその人の宿善でしょう。 あちらが正しい、こちらが正しいとは浅ましい限りです。
どれだけ自分で弥陀の誓願を信じた、信心を得たと思っても、それは凡夫の起こすところの自力の心です。金剛心ではありません。 そう思い込んでいるだけです。 例えれば、金剛心は弥陀より賜る往生の切符でしょう。私がどれだけ愚かでも、疑いのこころが起ころうが、それは消えたりしないものです。正信偈にあります。憶念弥陀佛本願と。 信は憶念できるものでしょう。
往相(十一願の人)と還相(十七願の人)に逢わねば往生の道は見えません。そして私(十八願の人)。
ただ、おうようにして聞くにあらずでしょう。善知識に逢わねば。 一生聞法しても往生は定まりません。これは第二十願の人です。 死ぬまで聞いても往生が定まらない不定聞です。 善知識は、それこそ弥陀のお計らいによって使わされた還相の人で、改邪鈔にあるように「実語をつたえて口授した次第相承(血脈相承)の人」でしょう。日本にたった一人しか居ないなんてことはありませんし、立派な僧侶さんとも限りません。近所のお祖父さんかも知れません。
弥陀の誓願(十八願)は、いかなる老少男女でも救われます。 年齢制限があるとか、重度障害で聞法できなくてもそれは障りには なりません。
南無阿彌陀佛の廻向の 恩徳広大不思議にて 往相廻向の利益には 還相廻向に廻入せり (正像末和讃)
この二つのお世話にならなければ真の法は戴かれません。(御絵伝講話より)
南无阿彌陀佛
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[ 1719 ] Re3:御文章を読んで気になったこと。
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2009/12/02 (Wed) 20:45
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菩提心様、ボン様回答ありがとうございました。 なんというか分かったような分からないようなそんな気分です。 ただ、聖人一流の法に関してはなんとしても会いたいと思っていますので。 これからも何かあれば書きこむかもしれません。 そのときはどうぞよろしくお願いします。
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[ 1720 ] Re4:御文章を読んで気になったこと。
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2009/12/03 (Thu) 03:10
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星さま、こんばんは。
申し訳ありません。 星さまの主旨を取り違えてお話していたようですので、書き直します。
>聖人一流の法には仏法聴聞のほかに、宿善の機のための「一流真実の法義」の沙汰 >と言うものがあると理解してかまわないのでしょうか?
「仏法聴聞」というのには、いろいろなレベルがあると思います。 仏法を聴聞しようと思う人々がたくさんあつまったところで、お話があって、 それを聞くのも聴聞であると思います。
もしそれを「仏法聴聞」というのであれば、星さまも述べられたように、そのほかにも、 「宿善の機のための一流真実の法義の沙汰」があると考えてもよろしいのかと思います。
御文章というのは、読めば読むほど不思議な文章です。 誰の手ほどきもなく、自力でそれを真剣に読むと、必ず大きな謎にぶつかります。 その謎を人にたずねることも「仏法聴聞」であると思います。
そもそも、真宗においては、「聴聞=聞く」ということが、なぜこれほどまでに重要視 されるのでしょうか。それは、現代の煩悩まみれの私たち凡夫が、自力修行で悟りを開き 往生するなどということが、ほとんど限りなく不可能だということによるのだと思います。
つまり、「自分で解らなければ、解る人に聞くしかない」というのが、「聴聞=聞く」と いうことなのだと思います。
ただし、それは、何度も何度も「聴聞」しているうちに、少しずつ進歩して、 いつか悟りが開けてくるといった類のものではないと思います。
弥陀の本願は、「弾指(指を弾くほんのわずかな間)」のうちに救う鋭利な刃物である というようなことが経釈でも述べられています。切れ味抜群ということですよね。
ただし、先にも書きましたとおり、 「宿善の有無ということを考慮しないで勧化をしてはいけない。」 「無宿善の機がいるところでは、一流真実の法義を沙汰してはいけない。」 ということを、蓮如上人が御文章のなかで述べておられます。
だから、人のたくさん集まるようなところでは聞けない、ということになります。 これを「大水に飲み水なし、大火事に煙草の火が取れない」というわけです。
「それなら、自分には宿善があるのだろうか」という不安を抱くのはもっともなことで すが、ある人は「宿善の有る無しは結果論だ」といっていました。つまり、結果的に 法に当たれば宿善があった、法に当たらなければ宿善がなかった、というわけです。
だから、どんなことをしてでも聖人一流の法を聞きたいという気持ちが強ければ、 しかるべく道は開けるのだと思います。そして、結果的に宿善はあったと・・・。
南无阿彌陀佛
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[ 1726 ] Re5:御文章を読んで気になったこと。
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2009/12/07 (Mon) 20:11
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お久しぶりです。
改悔文(領解文)
〜この御ことわり聴聞申しわけ候こと〜
の聴聞をもう一度、思い出して下さい。
ボン様も、菩提心様も、老少えらばず、何をどう聞いたのですか?
身体で聞いたのではないですか? 何を行じたのですか?
聴聞は、善知識の下で一念帰命の事ですよ。
三願転入は、親鸞会ではないですか?
今死にそうな人に三願転入が出来ますか? よくよく思案していただきたいと思います。
合掌 南無阿弥陀仏
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[ 1730 ] Re7:御文章を読んで気になったこと。
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2009/12/08 (Tue) 10:19
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愚尼様
真実信心求めたい人は、自分から求めます。
どうしても納得いかない人は探すでしょうし、
そこで納得すれば、その人の縁はそこで落ち着くということではないですか?
ですから、ここは無理してお誘いしている掲示板でもないですし、
門の鍵は開いていますよ。
でもその門を開ける人は、その人自身です。
聴聞を、ただ何処でも聞いているのが聴聞と思っている人もいます。
愚尼様のように、
>聴聞は、善知識の下で一念帰命の事ですよ。
と聞いた人もいます。
これは、どういうことだろうと疑心が起きた人が尋ねればいいのでは有りませんか?
それにこの事はずっとこの掲示板の過去ログでも書いてあります。
本当に救われたい人は、
どのようにしてでも探してくると思います。
それに、意見が言いたいのであれば、新しいスレッドを立てて、「聴聞とは」とすれば、
愚尼様の意見が、ジャンヌ掲示板の「自信教人信」様のような書き込みに共感を覚える人も現れるかも知れません。
南无阿彌陀佛
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[ 1731 ] Re8:御文章を読んで気になったこと。
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2009/12/08 (Tue) 13:23
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生まれたばかりの赤ん坊はどうやって求めたのでしょうか? 絶対他力の意味を未だ理解為されていないように感じます。
赤ん坊はどうやって、三願転入したのですか?
私はジャンヌで、20願19願をすっ飛ばせと書いてます。
聴聞は、耳で聞くのが聴聞ではありませんよ。顔の横に付いている耳を通して聴くのは、聴聞とは言いません。
アシカラズ
合掌 南無阿弥陀仏
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