浄土真宗の教義について

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●No.133
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1540 ]   後念相続 2009/06/24 (Wed) 21:11 △up ▽down
  ボン様

 6月5日以来教行信證・学習ノートの書き込みがストップされていますが

 どうなさったのか、心配しています。

 教行信證は淨土眞宗の根本聖典です。ぜひ続けて頂きたいと願っています。

 私の六要鈔のふりがなも、真仏土巻まで終りました。今は化身土巻に

 入ったところです。ゆっくりとあわてずにやりましょう。

 私がこのような事を思いたったのは、以前に明治36年発行の眞宗聖教大全

 3巻が偶然、古本で手に入りました。それで一般的聖典に載せられていない、

 仮名聖教(カタカナと漢字で書かれ句読点もなし)を、平仮名にして我流で

 句読点等をつけて私達の仲間の欲しい方に読んで頂いていましたが、

 3巻の中巻が全て漢文でしたので六要鈔ノート等を購入しましたが、あとがきに

 「この書の読者は宗学の素養があり学力と研究心のある人々であるから、原則と

 してふりがななしとしました。」そこで「宗学の素養もない学力もない私」は、

 チョット頭へきて、聖典や法要式等にもふりがなが付いているのにと思って

 友人に相談したところ、インターネットで六要鈔會本の和訳を引けると

 聞かされて、その友人の協力で始めた次第です。

 いろいろと読めば読むほどいかに後念相続が大事かとおもい知らされる

 今日此の頃です。 合掌 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.1
ボン
関東の男性
[ 1541 ] Re1:  後念相続 2009/06/25 (Thu) 18:12 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

ご心配をいただき、ありがとうございます。

生来のむらっ気のせいで、また、少々張り切りすぎたせいで、
少し息切れがして、小休止をしておりました。

もちろん、今後とも続けていくつもりですので、
長い目で見守っていただければ幸いです。

また進捗がありしだい、ここの掲示板にご報告を申し上げるつもり
ですので、不明な点はぜひご教授いただきたいと存じます。

お会いしたこともない忍草様から、まさか、このように叱咤激励して
いただけるとは思っておりませんでした。

どうもありがとうございました。

南无阿彌陀佛

●re.2
愚尼
非公開の非公開
[ 1542 ] 臨終 2009/06/27 (Sat) 15:05 △up ▽down
忍草様へ

忍草様のご紹介にあった、六要鈔會本のホームページに《横川法語》があったので、ちょっと見てみました。
【臨終】の捉え方に疑問が生じてしまいました。
どうも、区別をしていないように思ったのですが、忍草様は、いかがお考えですか?
娑婆の終わりと、身の終わり。

●re.3
愚尼
非公開の非公開
[ 1543 ] Re1:臨終 2009/06/27 (Sat) 19:38 △up ▽down
末燈鈔【一・有念無念の事】
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるが故に。臨終といふことは諸行往生の人にいふべし、未だ真実の信心を獲ざるが故なり。

あれだけのホームページを作る人でも、この文言が有る事を知らないのでしょうか?

ホームページの目次に、末燈鈔が入っていませんでした。


合掌  南無阿弥陀仏

●re.4
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1544 ] 後念相続 2009/06/29 (Mon) 22:25 △up ▽down
 愚尼樣

讃歎の[888]釋迦の天眼通の事を書かれたと推察致します。

確か存覺上人の聖道淨土名目の下にもこれに似た文があります。

私も約20年位前に、幼稚園の本に宇宙がこれだけのスピードで膨脹しているというのを

見せられて目を白黒したことを思い出します。

ただ出典を書かないと端的にミクロ、マクロだけでは、私的濫用と捉えられますので要注意。

[最要鈔]に「・・・往生の心行を獲得するに、終焉にさきたちて即得往生の義あるべし。
 
 仮令身心のふたつに付て命終の道理あいわかるべき歟。無始よりこのかた生死に轉環して

 出離を怖求し、ならいたる迷情の自力心に、本願の道理をきくところにて、謙敬すれば

 心命のつくるときにてあらざるをや、そのとき摂取不捨の益にもあずかり、住正定聚の

 くらいにもさだまれば、これを即得往生というべし。善悪の生處をさだむることは心命の
 
 つくるときなり。身命のつくるときにあらず、しかれば臨終を期すべからざる義、道理

 文證あきらけし。信心歓喜乃至一念のとき、即得往生のぎ治定ののちの稱名は、佛恩報謝の

 ためなり。さらに機のかたより往生の正行とつのるべきにあらず、應報大悲弘誓恩と釋し

 たまえるにてこころうべし。大概これをもって思擇すべきなり。」
 (怖求(けぐ)の怖は、こわいではなくかなしむの字ですが、字がでませんでした。)

 心命と身命のふたつの命終で書かれています。これで宜しいですか?

          合掌 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.5
愚尼
非公開の非公開
[ 1545 ] Re1:後念相続 2009/06/30 (Tue) 09:01 △up ▽down
忍草様、ご説明有り難う御座います。
まだまだ、妄念が尽きません。

一念帰命が、娑婆の終わり、臨終と聞かされています。
心命について、いまひとつ理解出来てません。
命終にも2種類あると云う事ですか?
住正定聚のくらいにつくと、心命の命終?
身命は、この人間の体の命終?
同体異名・会通転語、難しいです。

臨は、いどむ・のぞむと言う意味がありますが、この字は、どう解釈するのですか?
なんだか、疑問ばかり出てきてしまいます。

合掌  南無阿弥陀仏

●re.6
愚尼
非公開の非公開
[ 1546 ] 臨終について 2009/06/30 (Tue) 10:05 △up ▽down
金剛信様から送っていただいた、最要抄に臨終は、体失と書かれてありました。
自力の人は、臨終、を待つと言う事で宜しいのですか?
自力の物差しで他力を計ると、一念帰命が臨終に相当するって事なのですか?
浄土真宗は、来迎(臨終・三悪閉)・心命(住正定聚・住不退転)・身命(命終)の順?

合掌  南無阿弥陀仏

●re.7
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1562 ]  所見について 2009/07/20 (Mon) 12:02 △up ▽down
 ボン樣
 [ 1560 ]の所見ですが、ボン樣は部分的に難しく理解されようとしているように見受け
 
 られます。(例)主体、客体(みられる客体等)

 ここでは「見る所」と素直に読めば45願のもろもろの菩薩が、私(法蔵菩薩)の名を

 聞いて、みなことごとく普等三昧を・・・・。

 だとすれば憬興師の釋、所見普く広し。仏をば皆見る。の見る側はもろもろの菩薩達で

 あって、「見られる客体」ではないと思います。見る所が普く広いであって、諸仏が

 普く広いではないと思われますが如何でしょうか?

 玄一師の釋での晋等、(齊等)ならば見る所なし。も通じませんか。

 私は部分的にこだわらずに、全体的に理解したいと思って、會本の漢文をはずして意訳

 だけにして、全ての漢字にフリガナをつけて誰でも読めるようにしてから、自分も

 改めてゆっくり読み直したいと思っています。

 六要鈔は教行信證よりも難しいと思われるように最近なってきました。

 おそらくボン樣と私とは、同一の事を全く逆方向から同じ目的に向けてやっているのだと

 思います。現状は化身土巻本まで終了し、昨日から末に入りました。

     合掌 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.8
ボン
関東の男性
[ 1563 ] Re1: 所見について 2009/07/20 (Mon) 18:10 △up ▽down
忍草さま

いつもありがとうございます。
おっしゃるとおり、私は、「客体」にこだわりすぎていたものと思います。

漢和辞典をみても、「所」は「・・・するもの」と訳してもいいような
ことが書かれておりました。


そうすると・・・

「普とは即ち普遍の義、等とは即ち斉等の義なり。所見普く広し。仏をば皆見る。
故に住する所の定を名づけて普等と為す」

は、以下のような意味に取れますから、おおよそ意味が通ります。

「『普』とは『普遍(広く行き渡ること)』の意味、『等』とは『斉等(わけへだてし
 ない)』の意味である。見るものはあまねく広い。みなが仏を見る。だから、
 仏が住するところの定を『普等』と名付ける」


しかし、もしそうだとしても・・・

「この三昧力に由りて普く諸仏の世界を見る。故に言いて普と為す。平等に現に見る。
所見なし。故に普等と言う」

の部分は、以下のようになって、チョット意味がとれなくなってしまいます。

「この三昧の力によって、みながあまねく諸仏の世界を見る。だから『普』と言う。
だれでも平等にあらわに見ることができる。見るものがない。だから『普等』と言う。」

「見るものがない」を「見るところがない」としても、やはり意味がつかめません。


>玄一師の釋での晋等、(齊等)ならば見る所なし。も通じませんか。

とのことですが、ここのところを「・・・ならば」と、仮説に受け取るのは、
なんだか抵抗を感じます。

仮に、「・・・ならば」がOKだとしても、やはり、どういう意味になるのか解りません。
「晋等ならば見る所なし」とは、平たく言うとどういうことになるのでしょうか。


細かいことで、申し訳ありません。
はっきり解らなくても、それはそれで読み飛ばそうとは思っておりますが、
もし何かヒントになるようなことがありましたら教えていただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.9
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1564 ] Re2: 所見について 2009/07/20 (Mon) 22:56 △up ▽down
  ボン樣
 私は、「普く諸仏世界を見・・・平等に現に見る。」であれば見る所なし。(普遍、齊等)
 (菩薩が諸仏を見て感じるのは大慈悲心、どの諸仏も衆生濟度の広大な親心であれば
 一仏は一切仏、一切仏は一仏とすれば)所見なし。で通じませんか。

 この見るも凡夫の眼ではなく、「菩薩が諸仏を見る」の仏性を見る眼だと考えたら

 如何でしょうか。。。(聞見、眼見)真仏土巻

 又、私は解釈(捉え方)では何方様とも議論する気は毛頭ありません(面識がない為)。

 私がボン樣に伝えたかったのは、(主体、客体、能動、受動)という学問的な解釈ではなく、

 一念帰命を頂いている同行として、祖師聖人が教行信證に著された内容を少しでも

 理解したいと思う私の気持ちです。六要鈔でも意は(意味のいではなく、こころが多い)。

 学問的な解釈は、大学の教授か、勧学に任せておけば良いと思う悪人根性ですが、

 一念帰命を経験しなければ、必ず解けない抑止文になっています。

 部分的な処でこだわると、主客転倒する場合がありますので、ご注意してください。

    合掌  ナムアミダブツ、なむあみだぶつ。

 

●re.10
ボン
関東の男性
[ 1565 ] Re3: 所見について 2009/07/21 (Tue) 18:48 △up ▽down
忍草さま

いつもご指導ありがとうございます。

ご指摘のとおり、部分的なところにこだわって本末転倒にならないよう、
肝に銘じて、やっていきたいと思います。

>私は、「普く諸仏世界を見・・・平等に現に見る。」であれば見る所なし。(普遍、齊等)
>(菩薩が諸仏を見て感じるのは大慈悲心、どの諸仏も衆生濟度の広大な親心であれば
> 一仏は一切仏、一切仏は一仏とすれば)所見なし。で通じませんか。

ご丁寧にご教授いただいているのですが、率直に申し上げまして、やはり、
上記の点は「よくわからない」と申し上げざるをえません。

これは、まったくもって、私の理解力の不足によるもので、申し訳なく思う次第です。

ただ、ここは「普等三昧」について説明しているところですので、
ここの境地にいたれば、みなが「普く等しく」諸仏を見ることができる
ということを理解できれば、とりあえず、それでいいのかなと思っております。

「所見なし」の意味が理解できなくても、あまり気にせずに、先に進もうかと
思っております。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.11
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1782 ] 六要鈔 2010/03/02 (Tue) 22:14 △up ▽down
ボン樣
ご無沙汰しています。私の方でも六要鈔の意訳文のみでの
全文ふりがなづけも終わり、袋とじでの小冊子として全10巻
にして仲間内に読んでもらえるようにしました。
合計頁数1178頁A4用紙で592枚になりました。

ボン樣も私も原文は豊後光西寺釋圓爾會のものだと思われますが、
私の方はさらに明治36年金沢で発行された眞宗聖教大全3巻の
中の六要鈔(全文漢文)とニラメッコしながらの作業でした。

正直言って化身土巻(8、9、10巻)はまだまだ自分には解(ほぐす)
せません。とくに末の10巻は今のところ理解不能です。
ゆっくりと猫二匹と遊びながら勉強しようと思います。
(自分は化土疑城胎宮などには行かぬとうぬぼれて
いるからかもしれませんが?)

濁世の道俗善く己が能を思量せよ、知るべし。と、ご自釈にあります
ので自分の能力の限界を思いながら、ゆっくりと救われている事に
感謝感謝の毎日です。

   合掌 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛。

●re.12
ボン
関東の男性
[ 1783 ] Re1:六要鈔 2010/03/03 (Wed) 09:48 △up ▽down
忍草さま

たいへん素晴らしいお仕事をしておられるようで、敬服のいたりです。
また、いつもお目配りをいただき、ありがとうございます。

私などは、そもそもの出典を気にもかけず、とりあえずネットで拾ってきた文献を
もとにWikiArcやネット国語辞典などを手がかりに、闇雲に読み進めているばかりで、
お恥ずかしい次第です。

それでも、最初はまったくチンプンカンプンだったものが、なんとかそれなりに
読めるようになってきて、それだけでも大喜びをしております。

とはいえ、ここのところ、浮世の野暮用に追い立てられ、やっと聖典に向かうころ
には睡魔に襲われるという日々をすごしております。

ただ、どんなに忙しくても、ここの毎日様の掲示板には一日一回は必ず目を通すよう
にしております。私にとって、この掲示板が、同行の皆さまとつながることのできる
唯一の接点ですから・・・。

私も、何か新しい書き込みがないかと期待しながら開くのですが、このところ、ほとんど
菩提心さまと私の書き込みくらいしかないので、さびしい思いをしておりました。

ちなみに、睡魔も魔のひとつということなのだそうです。教行信証の学習をしていて
おもしろかったのは、「自力に走ると魔が襲う」「この宗は他力なので魔と縁がない」と
いうような趣旨のくだりがあったことです。その部分には、とても心を動かされました。

新しい知識を得ることはとても楽しいことなのですが、必要以上に無理をせず、
今後も身の丈にあったペースで学習を続けていこうと思っております。

どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.13
忍草
url 北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1802 ] 後念相続 2010/03/30 (Tue) 14:14 △up ▽down
  ボン樣 菩提心様 極道坊主樣
 
[1093〜1099]を読ませていただいてわたしの感じたことを

すこし書かせて頂きます。

愚痴は親樣に聞いて貰うのが他人に迷惑をかけないから一番

宜しいと思います。煩悩成就(煩悩熾盛)の私達です。

菩提心様はいつか精進という言葉が好きではないとおっしゃって

たとおもいますが極道坊主樣も使っておいでです。

後念相続も立派な精進ですし「信後の味わい」をこんなに長く

書き続けることも、我々ではなかなか続けれない立派な精進だと

私は思います。

自力、他力のところで「・・・自力の心をふりすてて・・・」

とか「なげすてて」とかありますが、自分でふり捨てれなかった

のではないでしょうか?。これはこれ以上かけません。

二河白道を歩むことが菩薩道・仏道だとおもいます。

ボン樣の余生の捉え方も私は既に後生に入っていると思うのですが

いかがでしょうか?。

本当に見ず知らずの方々ではありますが後念相続うれしいかぎりです。

    合掌  南無阿弥陀仏 南兂阿彌陀佛。

●re.14
ボン
関東の男性
[ 1805 ] Re1:後念相続 2010/04/01 (Thu) 01:42 △up ▽down
忍草さま、こんばんは。

>ボン樣の余生の捉え方も私は既に後生に入っていると思うのですが
>いかがでしょうか?。

「余生」と申し上げたのは、あの一瞬がとても大事であって、その後の人生が
なんだか軽いものに感じられるからです。何があっても、さほど深刻になりません。
どうせこの世はひと時のものであって、行き先は決まっているのだからと・・・。

ただ、この「余生」を「後生」といっていいものかどうなのか、私には解りません。

今が「後生」なら、あのときが「臨終」で、ここが「浄土」なのですよね。
でも、私は、そこまで自分が悟りきっているように思えないのです。

かつて、それこそ何十年も前に、私がまだ「聞いた」ばかりのころ、
「聞いたら、ここが浄土だ」という話を耳にしたようなような気がしますが、
当時の私には、とてもピンとくる話ではありませんでした。

「ええー? ここが浄土??? うそでしょうー!」というのが本音でした。
こんなゴミゴミした身の回りで、落ち込むこともあるし、とんでもないやつもいるし、
嘘も欺瞞もあふれかえっているし、どう考えたって、ここが浄土などと思える
わけがないと・・・。

今となってみると、どうしてあのときに、「ここが浄土とは、いったいどういう意味
ですか」と、率直に質問できなかったのか、返す返すも残念です。

しかし、あれから何十年も経ってみて、自分の勝手な考えかもしれませんが、
その意味が、少しは解るような気もするのです。

もし仮に、「後生救われた」と100パーセント完全に信じきっている人間がいたとしま
しょう。彼は、この世に生きていても、うれしくてたまらないはずです。いくら抑えよう
としても「ぐふふ」という笑いが腹の底からこみ上げてくることを、こらえることが
できないはずです。

それはそうでしょう。万に一つもない幸運にめぐりあって、死んだ後にはこれ以上ない
楽しみがまっているとなれば、当然のことです。だとすれば、彼にとっては、この世が
すでに浄土だといっても過言ではないように思えます。彼は、あのときに、この浮世
(憂き世)に別れを告げて、「後生」を生きているわけです。

ただし、これには条件があります。つまり、「100パーセント完全に信じきっている」
ということが前提となりますが、ひるがえってわが身を鑑みるに、とてもそんな状態
ではありません。半信半疑といったら言いすぎかもしれませんが、心はとてもフラフラ
しているのです。

話は変わりますが、私はかつてここの掲示板で、「善智識様から『喜べ、喜べ』と言われ
るばかりで、『信じろ』とは一度も言われたことがない」というようなことを述べた
ことがあります。しかし、これにも“からくり”があるような気がいたします。

『喜べ、喜べ』と言われても、心から信じていなかったら、どうして喜べるのか、
ということです。『喜べ、喜べ』ということは、『信じろ』と言っているに等しいと
今になって思います。「信じているから喜べる、心から喜んだらそこが浄土だ」という
のは、至極当然な理屈ではないでしょうか。

間違っているかもしれませんが、感覚的には、これで納得がいきます。
しかし、仮にそうだとしても、「この世で浄土に住んでいる」と思える人は、
同行様のなかでも、いったいどのくらいいるのだろうかという疑問も沸いてきます。

不遜かもしれませんが、少なくとも私は、とてもそんなレベルではありません。
生臭い人間です。それでも「聞いていない」人に比べれば、軽やかに人生を歩んでいる
ような気がします。ありがたい話です。

南无阿彌陀佛

●re.15
菩提心
非公開の非公開
[ 1806 ] Re2:後念相続 2010/04/01 (Thu) 16:06 △up ▽down
忍草様

ボン様

お久しぶりです。

お二人の書き込み、有難く拝読させて頂きました。

自宅のパソコンは、ずっと電気店に行ったまま戻ってきません。


忍草様、

又、愚痴ちゃいます。

この時期は、決算、予算等で頭が一杯です。

例年、同じ繰り返しです。

そして性格も有りますが、わたしはこんな時は、
いつも落ち込みます。

特に今年は、おおよその役員の動向も決まっていません。

自分で、自分の処遇を決めなければいけません。

そんな時、大失敗をしてしまいました。

色んな事が重なって、相当落ち込んでいます。

そして、インターネットから鬱病を検索し、自分の心の状態を
調べてみました。

鬱病70%ぐらいの状態です。

で、病院に行こうかどうか迷いましたが、
一応、月曜日に受診することに決めました。

ちゃんと専門医に相談して、この5月までを乗り切りたいと思います。

人生、無常なんて思っていてもこのように、まだまだ未練たっぷりなんです。


この2か月、自分で何とか頑張ってみようと思いました。

自分の目の前の、見る人、見る人が、偉く見えました。

その考え方、生き方を見て、すごい人は世の中に沢山いるんだなと思うと
ますます自信のない自分がいます。

ただわたしは、それでもこの法を信じられたことが救いでした。


わたしは末法の時代に生を受けている凡夫だと思っています。

そんなわたしが救われて往く先が報土だと思います。

救われても、腰が据わったような心持に成れません。

それでも、口から出てくるお念仏が有難いです。


忍草様、

大船の上で、漕ぐ力はわたしにはないようです。

早く、あるがままの境地になりたいです。

そしてゆったり生きたいです。

こんな風に考えるわたしではダメなんでしょうか?


南无阿彌陀佛

●re.16
忍草
url 北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1807 ] Re3:後念相続 2010/04/03 (Sat) 03:20 △up ▽down
  ボン様へ金剛心様からの依頼文です。

  ボン様  金剛心です

大変久しぶりにメ―ル致します

菩薩の使命の使命について「六要鈔」の[ 1402 ]
「信と行とは離れず。機と法とはこれ一なり。この義に由るが故に信を
以て行に摂す。証に於いて往生・成仏、分証・究竟、遠・近の差別あり
といえども、先ず往生を以てその近果となす。これ則ち証なり。然るに
往生の後に見る所の身土は、解行の異なるに依りて真化ありといえども、
総じて証の中に摂す。」とあります。

眞宗は不体失往生だから往生した後にも身土という凡夫道と菩薩道の
併用道があるのです(いずれも現生)。
還相廻向として身を持ち合わせたまま元の人間娑婆界ヘ帰されている
のです。帰された人間界が假土界なのです。その假土界(人間界)に
真と假があるのです。その真が菩薩道であり、假が菩薩位の中の假土
となるのです。それを他力の中の自力假土というのです。
真と假合わせて菩薩道ともいうのですが、真の道は解行道を一直線に
進むことを真道というのです。
解行とは「智解と修行すなわち理論的知識を得ることと実践的修行
を積むことを云いますが、真と假両方を菩薩道というのです。
だから六要鈔には「彼の国(極楽)に生ぜんと欲わん者はまさに三福
を修すべし」とあり、三福を指して以て浄業となすとあり、浄業は
念仏なりともあるのです。
菩薩道の中の假土界にいる現在から死ぬまで娑婆の法律を守って
出来るだけ三福十善につとめて行きなさいこれは過去の諸仏方も
なし遂げて来た道である。と説かれています。
娑婆界の事だけにとらわれず菩薩道の使命である経論釈の智慧の
理解度を高めて精進せよとの仏言である。
だから証巻には「菩薩初地に登れば漸を以て増進して仏と等しかるべし」
とあります。初地とは一念帰命の位の事であり入正定聚の位の事です。

それを宗祖は信巻に「信心というは則ち本願力廻向之信心なり。歓喜と
いうは身心悦豫の貌を形すなり」とあります。
貌とは一念帰命して往生はしたけれどまだ赤子であり経論釈の理解度が
未熟であるから漸を以て精進して増進して行く道を真道とも菩薩道の
使命ともなるのです。
眞宗にとっては特に六要鈔が大事です。
ボン様は六要鈔を読まれて一念帰命した当時より大分考え方の
理解度が高まってこられたと推察致しております。
一念帰命しながら稱名念仏さえ称えた事がないという人も多く
見受けられます、それは娑婆界だけにとらわれて金儲けだけに
あせっている人々を假土ともいうのですが真の道の解行を怠って
いるから假土から死して化土界(胎生界)へつながっていくのです。

解行道を理解して二河白道を進んで行けよとの仏言を忘れては
ならないと思います。その道を金剛心とも大菩提心とも他力の中の
他力とも極楽界へつながる道ともいうのです。

念仏行者の大半の方々は假土を否定するかも知れませんが否定すれば
経釈文も否定することになり極楽往生は出来ない事になりますので
注意が肝要ですネ・・・正と誤は経釈文ですから・・・合掌。

●re.17
ボン
関東の男性
[ 1808 ] Re4:後念相続 2010/04/03 (Sat) 22:48 △up ▽down
金剛心様、ご無沙汰をしております。

この「稀有な掲示板」にわざわざお出ましをいただき、私のようなものにお声がけを
いただき、また、ご高説を拝聴することができて、たいへん、ありがたく存じます。

また、忍草様におかれましては、金剛心様のご教示をお取次ぎいただきまして、
ありがとうございます。

ここのところ、私がこの掲示板で「教行信証・学習ノート」を公開をしておりますもの
ですから、少しは難しいことも理解できるだろうと、高度な教説をご教授いただいた
と推察するのですが、なにぶん行巻にちょっと入ったばかりという状態なものですから、
金剛心様のお話のほとんどが消化できていない状態です。

忍草様からも、私の「余生」という考え方が「後生に入っている」のではというご指摘を
いただきましたが、先にも書きましたとおり、それはとんでもない話でして、日々の生活
(お金儲け)のために大半の時間を費やしておりまして、寝る前にほんのちょこっと聖典
を開くといった、本当に生臭い凡夫道を歩いている次第です。

そもそも、私が教行信証を学習してみようと思った理由からして、「修行」とか「精進」
などという高尚なものにはほど遠く、「私がもらったものが何なのかを確かめたい」とい
う卑近な理由によるものなのです。

「確かめたい」と言えば聞こえがよいのですが、「確かめたい」ということは裏を返せば
「信じていない」ということですよね。信じていたら、わざわざ確かめるまでもないわけ
ですから・・・。

それどころか、「信じていない」というのはまだ飾った表現でして、「信じていない」と
いうことは、すなわち、「疑っている」ということに他ならないわけです。「疑い」を
エネルギーとして聖典を読んでいる、いわば、逆説的なスタイルなのですが、これが最も
自分に正直な自然なスタイルなものですから、「まあ、しょうがないか」と開き直ってい
るわけです。

しかし一方で、「疑い」と言えば聞こえが悪いですが、「疑問」とか「疑念」といえば
どうなんだろう、とも考えるわけです。仏教の聖典の多くは、問答形式を取っています。
「疑問」という言葉が端的に示すように、「疑い」を含まない「問いかけ」というのは
あるんだろうか。もしあるとしたら、それは「誘導尋問」のようなものではないか、
とも考えたりするわけです。

そうしてみると、「仏教は、真宗は、『疑い』を奨励しているんだろうか」などという
「疑問」すら沸いてくるのです。もちろん、これは極論ですが、「探究心」というもの
は、自分も含めて、すべてを「疑う」ところがらスタートをするものではないか、と思
っています。「探究心」がなかったら、聖典を読もうとする意欲すら出てこないと思う
のは私だけでしょうか。「疑う」から余計にのめり込んでしまうというのも、人間の
性分でしょう。

「疑うから拒絶する」という人間もいれば、「疑うから引き込まれる」という人間もい
るのだと思います。おなじ「疑い」でも二種類あるということでしょうか。

「疑ったら化土行きだ」とよく言いますが、これは「他力を疑って、それを拒絶して、
自力に走るから化土行きだ」ということではないかと思っております。いったん聞いて、
それでも「疑い」を感じて、どんどんのめり込んでいったら、それも「化土行き」なの
でしょうか。こののめり込むエネルギーは、「修行」とか「精進」などとは、異質なも
のなのでしょうか。

世間ではよく、遊びほうけている息子を見た父親が「あいつは今、修行をしているんだ」
などと言う話を聞くことがあります。我々と仏の関係にも、そんなところはないのでしょ
うか。本人は好き放題やっているつもりが、実は、傍から見るとそれは修行にほかならな
かった、などということはないのでしょうか。

ところで、数十年前に、信心深い、いつもニコニコ笑っている同行のおばあちゃんがおり
まして、ことあるごとに「私は化土行きでも十分だ」などと話していました。それを聞く
と知識さんは、困り顔で「おばあちゃん、そんなこと言うんじゃないよ」とたしなめるの
ですが、そのおばあちゃんは、どこふく風、いっこうに意に介する気配もなく、相変わら
ずニコニコしているのでした。

実は、私も、このおばあちゃんの気持ちはよくわかるんです。たとえて言えば「金の牢屋
につながれて、500年間仏の顔を見ることができない」というのですが、「金の牢屋と、
この世の自由の身とどちらがいいんだろうか」「人間の一生がほんの一瞬のことならば、
500年もまたほんの一瞬なのではないだろうか」と思うわけです。

なんだか罰当たりで、取り留めのない話になってしまいましたが、私自身のあるがままを
申し述べれば、こんな感じです。

最後になって恐縮ですが、ひとつ質問をさせてください。お話のなかにありました「菩薩
位の中の假土」=「他力の中の自力假土」というのは、どういうものなんでしょう。
この世の「假土界」のなかの更に「假」であるという位置関係はなんとなく理解できたの
ですが、具体的にどんな人間のどんな状態をいうのか、まったくピンときていません。
解りやすく教えていただければうれしく思います。どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.18
忍草
url 北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1809 ] Re5:後念相続 2010/04/06 (Tue) 01:36 △up ▽down
   ボン様へ  金剛心様からの依頼文です

  ボン様金剛心です。返信有難く思います。

眞宗の基本は「義なきをもって義とす」が基本です。

ボン様が云われるように「疑いに二種あるのです」これも基本です。
何故なら例えばどんな経釈文にも二面性の書き方捉え方があるように
経釈文にも仏側の言い分と衆生側に見方、自分勝手な考え方で捉える
言い分があるようにどんな事がらにも二面性の見方考え方があるのです
(自力側他力側)の見方)。
紙にも表と裏があるように自分がいれば相手の言い分があるのです。
その二面性の基本を知らないといくら経釈文を読んでも理解出来ない
のです。
先ずその事を知って「義なきをもって義とす」を考えるに
仏側の書かれている經釈文が絶対間違いがない事に気付いて頂きたい
のです(七高祖方の書かれている經釈文も同じ)。
自分で考える知恵は役に立たないから仏側の書かれた経釈文に絶対順応
随順しなければならないのです。それが基本です。

善導大師の玄義文にも「信を取る者は疑いをいだく必ず諸経を以て
明かり来たらしめてそのまどいをやらしめんと欲す」の釈文があるのです。

上記の文は信心をとった以後疑いが出るからその疑いは経文という明かりを
以て疑いをなくして行きなさいヨとの釈文なのです。
信心をとってから疑いが出るのです。いろんな経釈文を見て読めば疑いが
段々なくなっていくのです。
ボン様の云われるそれが善の探究心の疑いなのです。

とにかく経釈文に書かれている通りの考え方にならなければならないのです。
絶対経釈文に随う事が我々の使命なのです(自分のはからいを一切いれない)。
経釈文に書かれていることに反対の自分の考え方を入れてはならないのです。
仏体側の言い分(経釈文)通りになるような見方考え方にならなければ、
其れは仏に反抗している事になり必定化土往生となってしまうのです
(未安心は別)
絶対仏側の言い分に随う事を「義なきをもって義とす」の釈文なのです。

上記にも疑いに二種ありと記しましたが一念帰命を未だ聞かない仏に
対する疑いと帰命した後に出て来る疑いの二種ですが、未安心者は別として
帰命した後に二種の疑いがあるのです。
@ の疑いとは前記した玄義文の疑い(眞道へ通じる疑い)
A 人間界に生きて行く雑行雑修ばかりの方面に心がけて仏道精進を
一切しない疑いの二種です。
雑行雑修をするなとは書かれていないが、どちらかと云えば仏道精進の
方向におもきをおいて人間生きる道と仏道精進の道と両輪をまわして
前進して行きなさい、と教えるのが眞宗仏教なのです。(眞俗二諦)

一念帰命を聞きながら人間生きる道だけに力を注いでいるから称名念仏
さえ称えられない方々が多いのです。又称名念仏を称えて仏道精進して
いる方々の中にも、仏言に反抗し経釈文に反論している方々も疑いとなり
その疑いの罪が重いのです。
例えば「現生が報土とか安養浄土であると経釈文に多数書かれているのに、
それを否定して、自身の見解や考え方で体失して後に報土・浄土へ救われる、
と思って方々は、仏に反抗し経釈文に反論した思考であるからそれは
疑いの中でも罪が重いのです。
報土は現生である釈文を以前に忍草さんも私も何回か書き込みしました。
仏に反抗し経釈文に反論すれば帰命を聞きながら現在から假土(報中の假)
であり、死して化土界(疑城胎宮・胎生界)行きとなることが必定です
極樂往生は遠い界となってしまうので注意が必要です。

六要鈔真仏土巻初めに「謹んで真仏土を按ずれば・・・「光明寿命の願是なり」
というに到るまで身土を標す」の釈文があるのです。

真仏土を別名報土ともいうのですが、その報土は身土を標す、とあり
一念帰命すれば現生身土が報土なのです。
その六要鈔等の書かれている釈文を否定することが悪の疑いとなるのです。
経論釈に反抗反論する疑いは罪が重いのです。
玄義文に書かれている疑いと全く違うのです。

一念帰命してもまだ初地の未證淨心の赤子の菩薩だから経釈文で智慧の
光明の力を以て今度は成仏に向って精進せよとの仏言であるから何の支障も
ないのです。玄義文の釈こそ菩薩方の極樂往生の仏道なのです。
メ―ル文で書く事になればなかなか上手に書けません、抑止文の関係も
ありますので・・・。
会って語り合えば必ずわかって頂く事が出来ると思います。会って話せば
抑止文の事も話せますので・・・

報土は現生身土の追文
六要鈔證巻に「初地以上はすでに無明を断じて分に我性を顕し身は報土に
居して任連に自ずから報仏の説法を聞く所見の境界は報土の儀式なり」と
あります。間違った思想を正すために経論釈があるのです。
転語文を会通して読まれたし。

経論釈の通り進む道が二河白道であり、無上正眞道ともいうのです。

                合掌  南兂阿彌陀佛。

●re.19
忍草
url 北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1810 ] Re6:後念相続 2010/04/06 (Tue) 19:39 △up ▽down
   ボン様へ  金剛心様より追伸文です

ボン様へ  追伸
全宇宙相対界の世界をすべて化土界というのですがその中で彌陀の誓願に
会った人々を報土(身土)の中の假土(身土)と云います。
仏体側の仏、菩薩方(理界)には假土、化土はありません。
相対界である事界には假土、化土があるのです。

念仏行者の方々は事と理を知ってそれをわきまえて経論釈を読まなければ
理解することがとても困難と思われます。
前回にも記しましたが眞宗の経論釈を理解する時は、事と理そして転語文を
会通してよまなければ絶対理解できない事になっているのです(十八願の
別名とか報土の段階の別名等を知って)。
転語文を会通する事も出来なかったらとても成就の住正定聚位まで到達する
事が出来ません。

ボン様には六要鈔を一生懸命勉強されて早く住正定聚位(現生)必至滅度の
願まで進んで頂きたいと念願する次第です。
入正定聚位(一念帰命)と住正定聚位の経釈文の捉え方には雲泥の差が
あります。住正定聚位を以て諸仏眞の菩薩方に等しいと経釈文に説かれて
います。
ボン様に六要鈔信巻の釈を書き込み致します。
「仏語に依りて道同の義を驗(しらべ)るにたとい報仏・化仏の説なりと
いえども今の仏説に違せば敢えて依信せざれ、これ極成の理なり(成仏に
なる心なり)」
凡夫道を進んでも極楽はありません。菩薩道に極楽があるのです。
菩薩道を主として凡夫道と併用して進んで下さい。

住正定聚に近くなれば経釈文が正しく理解できるようになるのです、
頑張って下さい。
* 誤字に注意 仏側の字を悟りとあらわし衆生側を證(証)と書き等覚位を
覚(さとり)と書きます。
             合掌  南無阿彌陀佛。

●re.20
ボン
関東の男性
[ 1813 ] Re7:後念相続 2010/04/08 (Thu) 01:38 △up ▽down
金剛心様、再度のご教授ありがとうございます。

私のような聖典をちょっとかじった程度のものを相手にしていただいて、たいへん恐縮
なのではございますが、金剛心様のお話はとても難しくて、消化不良を起こしております。
勝手を言わせていただければ、もう少し易しい言葉でお話をいただけましたら、とても
うれしく存じます。

ところで、「義なきをもって義とす」という言葉を引用していただきました。
この意味は、私が昔、お師匠さんから教わったところでは、「はからうな」という
ことだと聞いております。

「はからう」という言葉の意味は、「とりはからう」とか「考えて、ふさわしいと思う
ように処置する」というようなことだと思います。

「往生のためにと思って、自分がいいと思うようなことをあれこれやってみても救われま
せんよ。それを自力というんですよ。」「往生のためには、あれこれはからう気持ちを
投げ捨てて、仏の願力におまかせするほかありませんよ。それを他力というんですよ。」
これが「義なきをもって義とす」の中身だと思っております。

自分の力ではどうしようもないと思い、仏に白紙委任状を差し出して、身も心をおまかせ
したから往生することができる身の上となった、ということではないかと思っております。
だから、いったん白紙委任状を出したのなら、その後の「余生」も白紙委任状を出し続け
て、この世の命を終了させたら理想的な「余生」と言えるのではないかと思います。

白紙委任状を出し続けるということを端的に言うなら、「信じ続ける」または「喜び続け
る」ということではないかと思います。しかし、そこはそれ、私のように自力根性の染み
付いた凡夫は、一心不乱に信じ続けることも、喜び続けることも、とても難儀なことです。

実際のところは、時には信じているような気になり、時には喜んでいるような気になり、
またときには、信じていると思い込もうとしたり、喜んでいると思い込もうとしている
自分がおります。また時には、浮世の野暮用にすっかり心を奪われ、自分がとても大事な
ものをいただいた身の上であることもすっかり忘れ去っていることすらあります。また
時には、疑いの気持ちが沸き起こり、確かめずにはおれず、聖典を目を通したりしている
わけです。

結局のところ、気持ちを一定の保つなどということは夢のまた夢であって、いつもフワ
フワ、フラフラしているというのが、まったくの正直なところですが、これも自力往生の
かなわない凡夫としては当然のことと半ば開き直っている次第です。

こんなわけですから、「疑い」の心を抱いている自分を、否定も肯定もしていないのです
が、ただそれでも、「疑い」の心から聖典を確かめようなどと思うのは、一種の「はからい」
のような気がしているのです。

「仏智は不思議」と言っているのに、その「不思議」を確かめようなどとは、「はからい」
そのものであって、まさに、おそれを知らない愚か者のすることではないか言う気もする
わけです。

しかし、そのような愚か者の愚かな「はからい」ですら、最後には否が応でも信じざるを
えない境地にその人を導いてしまうという不思議が、まさにそれこそ「仏のはからい」と
して隠然と存在しているのではないか、ということを密かに期待している部分もあります。

きん斗雲に乗って何千里も飛び回ったつもりの孫悟空が、結局はお釈迦様の手のひらの上
を飛び回っていただけだったのと同じような関係が、自ら「はからおう」とする人間と仏
との間にも存在するのではないかという気がするのです。

そんなわけで、愚かな考えがおこるのもかまわず、気にせず、疑いの心から聖典を確かめ
たいと思えばそのとおり行動し、大船に乗ったような気持ちで仏におまかせしていれば、
「仏の不思議なはからい」によって、しかるべきところに落ち着くのではと思っておりま
すが、こんな考えは間違っておりますでしょうか。

ところで、金剛心様は、「経釈文に書かれている通りの考え方」になることが「はからわ
ないこと」という主旨のことをおっしゃっておられます。しかし、「経釈文に書かれてい
る通りの考え方」になるというのはどういうことか想像ができません。

「経釈文に書かれている通りの考え方」になるためには、「経釈文に書かれていること」
を知らなければなりません。しかし、仏教の経釈文は、とてつもなく膨大なものです。
しかも、とても難解です。経釈文を満足に理解することもできない人間は、どうしたら
「経釈文に書かれている通りの考え方」になれるのでしょうか。これもいずれは
仏智不思議によって導かれるだろうと、鷹揚に構えていればよろしのでしょうか。

差し支えなければ、解りやすくご教授いただきたく存じます。
どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.21
忍草
url 北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1814 ] Re8:後念相続 2010/04/09 (Fri) 01:56 △up ▽down
   菩提心様へ  書く気がおきた忍草です。

菩提心様はお仕事で少し疲れているんだなぁと推察いたします。
金剛心様の代筆で貴女さまへの返事が遅くなりました、ごめんなさい。

少し簡単なお話から入りましょう。
先ず基本的な事ですが、
四字熟語で、即身成仏は真言宗、即心是仏は曹洞宗、で使われる言葉です。
浄土真宗では即得往生ですよネ。臨終往生では無い筈です。
大経下巻のはじめに、「仏告阿難・・・諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心廻向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆 誹謗正法」と
書かれていますよね。これを念仏往生(十八願)の成就文(・・・の部分)と言います。・・・の部分は十一願です。

難しいのは後回しにして、即得往生は何処へ往生したのでしょうか?
末燈鈔6項に「・・・信心決定の人は疑い無ければ正定聚に住することにて
候なり。・・・信心の定まらぬ人は正定聚に住したまわずして、浮かれ給い
たる人なり」又12項に「・・・されば念仏往生と深く信じて、しかも名号を
称へんずるは、疑い無き報土の往生にてあるべく候なり」とあります。

又、眞要鈔4項に「・・・然れば「即得往生・住不退転」といえるも、浄土にして得べき益なりと見えたり。いかでか穢土にしてたやすくこの位に住すというべきや。答えて曰く、土につき機につきて退・不退を論ぜん時は、まことに穢土の凡夫不退にかなう(という)ことあるべからず。浄土は不退なり、穢土は有退なり。菩薩の位において不退を論ず、凡夫はみな退位なり。然るに薄地底下の凡夫なれども、彌陀の名號を持(たも)ちて金剛の信心を發(おこ)せば、横(よこさま)に三界流轉の報を離るゝ故に、その義不退を得るに當れるなり。是れ即ち菩薩の位において論ずるところの位・行・念の三不退にはあらず、今いうところの不退というは、是れ心不退なり。されば善導和尚の『往生禮讃』には、「蒙光觸者心不退」と釋せり。意は「彌陀如来の攝取の光益にあづかりぬれば心不退を得」となり。と書かれています。

又、最要鈔に・・・・・この願成就の文に信心歓喜乃至一念とらのたまへり、
この信心をば、まことのこころとよむうえは凡夫の迷心にあらず、まったく佛心なり。この佛心を凡夫にさずけたまうとき信心といわるゝなり。凡夫の
まことのこころとおぼしきは一念おこすににたれども、まったくすえとおらず。しかれば光明寺の御釋にもたとえ清心をおこすといえども、水に畫(え)かけるがごとしとみえたり。やぶれやすきこというにおよばず。往生ほどの
一大事をやぶれやすき凡情をもって治定すべきにあらず。・・・往生の心行を獲得するに、終焉にさきだちて即得往生の義あるべし。仮令身心のふたつに
付て、命終の道理あいわかるべき歟。無始よりこのかた生死に転環して
出離を悕求し、ならいたる迷情の自力心に、本願の道理をきくところにて、謙敬(けんきょう)すれば心命のつくるときにてあらざるをや、・・・これを即得往生というべし。善悪の生處をさだむることは心命のつくるときなり。
身命のつくる(盡る)ときにあらず、しかれば臨終を期すべからざる義、
道理文證あきらけし。・・・とあります。

私が言いたいのは「即得往生 住不退転」とは不断煩悩でも報土という浄土(極樂浄土ではありません)へ即得往生し、信心成就(十一願成就)ならば
住不退転となるという事です(入正定聚と住正定聚は字も違います)。
一念帰命をいただく人によっては入正定聚の人の方が多数だと思いますが、
中には昔の妙好人のように即住正定聚の方もあるとはおもいますが。

東本願寺出版部から昭和63年発行の著者仲野良俊氏の浄土真宗という本に
副題―往生と不退−目次第一講「信心為本」第二講「即得往生」第三講
「本願成就」第四講「浄土真宗」第五講「現生不退」とわかりやすく書かれています。

菩提心様には眞俗二諦を考えてくださればと思います。
ふりすてられていただいたのは、アマラ識(無垢識)での法性(佛種)です。
穢体の凡夫としては、仕事等は「人事をつくして天命を待つ」の心境では
いかがでしょうか?。念仏行者としては生きることは、生かされているのですからすべてが不断煩悩でも行だと思います。
お陰さまの南無阿彌陀佛です。ご恩報謝の南無阿彌陀佛です。
お陽さまの南無阿彌陀佛ではありません。
二河白道は精進です。素直に生きて行けば良いのです。他人に言われたこともただ反発ではなく、少しは調べてそのうえで反論されたらと思います。

説教する気は毛頭ありません。少しでも理解して頂きたいだけです。

愚禿鈔上巻に、本願を信受するは、前念命終なり。即ち正定之數に入る。
即得往生は、後念即生なり。即時に必定に入る。又必定の菩薩と名くる也。

         合掌  南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛。

●re.22
忍草
url 北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1815 ] Re9:後念相続 2010/04/09 (Fri) 12:11 △up ▽down
   ボン様へ  金剛心様からの依頼文です

  ボン様へ  金剛心です

「義なきをもって義とす」自分のはからいを入れず仏の願力におまかせする
ボン様の説のとおりで間違いありません。
上記のボン様の解釈はその通りですが、これに二種の義があるのです。
上記の文は凡夫が往生するまでの解釈である(往生という意味を先ず理解
されたし)。
それでは往生してしまった以後自分のはからいを入れても良いと思っておられるのでしょうか?。往生前も往生後も「義なきをもって義とす」で進まなければいけません。右も左もわからずに一念帰命を受けたのです。
それが正か誤かそれを知るために経釈文が必要なのです。
阿弥陀仏に言葉はないのです。経論釈を読んで見て正しいと理解していく事を精進というのです。
仏=経釈文である事も理解出来ないのでwしょうか(経釈文にも顕彰あり)
仏と経論釈は同じである。右と左を合わせる(貝合わせのように)ことを
会通というのです。仏と経論釈文は同じであるが名が変わることを転語と
いうのです。
例えば阿弥陀仏を法性法身仏とか方便法身仏とか阿弥陀仏には三十三の名前があるのです。三十三の名前が全部異なった名前(転語名)で書かれていますが、右と左合わせれば全部阿弥陀仏一仏を指すのです。
それを会通転語文ともいうし同体異名ともいうのです(報土名も同じ)。

「この世の命を終了させたら理想的な「余生」といえるのではないかと思います」とありましたが、それは間違いではないのですが貴方様の文は極樂界の事です。
一念帰命はお文とか執持鈔にもあるとおり、お文は後生の一大事(余生)を
解決する事を目的とし、それを解決なさったのが貴方様ではないですか。
後生とは余生のことです。又執持鈔には「平生の時善知識の言葉の下に帰命
の一念発得せば、そのときをもって娑婆のおわり臨終と思うべし」
(行の一念の事)そのうえ更に信の一念あり。

ボン様は一念帰命して身も亡くしたのではないでしょう。
一念帰命しても現在人間界でピンピン生きているでしょう。
それも還相廻向の一つなのですが貴方様のココロが阿弥陀仏の世界に入って
いることを忘れないでください(不退失往生の事)。
身を持って極樂へは行けませんが信成就の心(信一念)が体失後極樂へ行くのです。
ここまで記せば報土浄土は現生である事を理解されるとおもいますが・・・。
聖典に目を通すことを仏道とも精進ともいうのです。
貴方様の書き込みに「信じ続ける、とか喜び続ける」とありますが一念帰命
すれば何を信じ何を喜び続けるのか、その辺りが一寸理解不足かなと
思われますが、一念帰命後、即、仏を信じようとなされるから、それが
間違いの原因となるのです。

一念帰命の行を信じて成就まで進む(行不退)それを六要鈔には行中摂信と
書かれています。

以上書き込みした現生報土・(假土)浄土が理解しずらければ、親知識さんなり、いろいろな知識さんを尋ねたり、仮名聖教や良い本を読んで下さい。
気が向けば会いにみえるのもまたそれも一つの方法かもしれませんが無理に勧めは致しません。

教行信證六要鈔の途中で一度教行信證の證巻真仏土巻を左記に読む事をお勧めして書き込みを終ります。

      合掌  南無阿彌陀佛

●re.23
ボン
関東の男性
[ 1818 ] Re10:後念相続 2010/04/11 (Sun) 00:44 △up ▽down
金剛心様、ご教授ありがとうございます。

私のような経文に暗いものにも解りやすいような言葉で、いろいろ教えていただき、
ありがたく存じます。まだまだ解らない部分のほうが圧倒的に多いのですが、
いくらか理解できる部分もあります。

>後生とは余生のことです。又執持鈔には「平生の時善知識の言葉の下に帰命
>の一念発得せば、そのときをもって娑婆のおわり臨終と思うべし」

>ボン様は一念帰命して身も亡くしたのではないでしょう。
>一念帰命しても現在人間界でピンピン生きているでしょう。
>それも還相廻向の一つなのですが貴方様のココロが阿弥陀仏の世界に入って
>いることを忘れないでください(不退失往生の事)。

上記のおっしゃていただいている意味は、私にも理解ができます。
「即得往生 住不退転」ということですよね。

>貴方様の書き込みに「信じ続ける、とか喜び続ける」とありますが一念帰命
>すれば何を信じ何を喜び続けるのか、その辺りが一寸理解不足かなと
>思われますが、一念帰命後、即、仏を信じようとなされるから、それが
>間違いの原因となるのです。

私が「仏を信じようとしている」とか「仏を疑っている」とかいうのは、少々違和感を
感じます。仏を信じるも疑うも何も、私には、仏を信じようもなければ、疑いようもない
気がいたします。

私は、あの一瞬にあの世に行き、また戻ってきて、そして、二度と迷いの世界に戻らない
身の上となったのだと、教わりました。なんの苦もなく、普通ではとても手に入れられな
い宝物をいただいたのだと、教わりました。とてもありがたいことですし、とても得をし
た気分にもなります。喜ばしく思うということは、それを「信じている」わけです。

しかし、一方で、「本当なんだろうか」「あんなことで本当に救われたんだろうか」と思
う気持ちが存在することも確かです。それどころか、「そもそも、あの世は存在するのだ
ろうか」「自分の罪によって、六道を流転するというのは本当だろうか」「死んだら無に
なるんじゃないだろうか」という疑問さえぬぐい去れないのです。つまり、「疑っている」
わけです。

「半ば信じつつ疑い、半ば疑いつつ信じる」という状態なわけです。こんなことを口にす
るのも罰当たりで、畏れ多いのですが、客観的に自分を見ればこうなのだから、仕方があ
りません。

そこで、疑いを晴らすために、聖典を紐解くわけです。「凡夫往生の鑑」と呼ばれる
「御文」を何度も読めと言われるので「御文」を読みました。すると、どう考えても、
あのことは蓮如上人の時代から伝わっていることは間違いないだろう、思うわけです。

「御文」はときどき思い出したように何度か読みました。しかし、それなら「教行信証」
とは符合するのだろうかと思い、今度は「教行信証」を紐解いているわけです。

まあ、愚かしいといえば愚かしい、まったく不純な動機で、聖典を読んでいるわけです。
しかし、十分に理解できないまでも、それなりに字面を追ってみて、「ますます疑いが
深まった」などということはまったくありません。少なくとも、日々、いただいたものを
意識しながら生活するようになった、と言ってもいいのではないかと思います。

そうすると、日常生活の悩ましいことや、あれやこれやが、まるで他人事であるかのよう
に軽々しいものに感じられてきます。これを私は、まるで「余生」を過ごしているようだ
と申し上げているのです。

このような状態を「仏道精進」とか「修行」とか言っていいものかどうか、私には解りま
せん。「精進」とか「修行」とかいう言葉には、なにかもっと、「頑張る」とか「力こぶ
を入れて努力をする」とかいったようなニュアンスが感じられます。しかし、私は頑張っ
ているわけでも、努力しているわけでもなく、ただ、自分のしたいようにやっているだけ
なのです。

もっとも、これを別の角度からみれば、もしかして「仏の用意したお定まりのコース」に
はまっているだけなのかもしれません。「あの頭でっかちは、ちょっと理屈っぽいから、
疑問を持って聖典を読んで、ますます深みにはまってくるに違いない」などと、すっかり
先の先まで読まれているのでは、などと思ったりもするのです。

「二河の白道」のたとえ話があります。「君たちの生活は、二河の白道を歩いているよう
なものなんだよ」と解き明かして、励ましていただいているような気がします。

「群賊悪獣詐り親む」というのは、私の場合は「疑う」気持ちなのだろうか、などと考え
たりします。それを確かめようとして聖典を読むのは、「疑い=群賊悪獣の呼び声」を振
り払おうとする気持ちなのだろうか、などと思ったりもします。

その具体的な対比は、人それぞれだと思うのですが、だれもが何かしらあてはまるものが
あるような気がします。

「二河の白道」のたとえのところで、「一の譬喩を説きて信心を守護し、もって外邪異見
の難を防がん。」と書いています。「外邪異見」から守ることが、この比喩の目的なのだ
としたら、やはり、仏は行者を守ってくれているかと、ありがたく思う次第です。「二重
三重に取り囲んでいる」というのは、こういうところにもあらわれているのかなどとも、
思ったりします。

ところで、「二河の白道」を歩いていて、後ろに引き返したり、または、火の河や水の河
に落っこちて溺れてしまう行者は、はたしているのだろうか、などと疑問がわいてきたり
しますが、たぶん、そんなことはないのでしょうね。なぜなら、「即得往生 住不退転」
というのですから、「退き、転げ落ちる」などということはありえませんよね、きっと。

けつまづいたり、立ち止まったすることはあっても、きっと最後にはなんとか西の岸にた
どり着くんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょう。

南无阿彌陀佛

●re.24
忍草
url 北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1823 ] Re11:後念相続 2010/04/14 (Wed) 00:30 △up ▽down
   ボン様  忍草です

[ 1815 ]の依頼文の書き込みの中で誤字をしましたので訂正させて頂きます。1.(不退失往生の事)は(不体失往生の事)
2.終りのところの左記は先に訂正させて下さい。
以後は忍草の意見です。
[ 1814 ]で菩提心様に書き込みさせて頂いた眞要鈔4項の引用を今一度
参照して頂きたいのです。
凡夫でも「金剛の信心は心不退を得」ですが、信巻末の現生十益のところで
「金剛の眞心を獲得する者は」と書かれています。

親鸞聖人は和讃の終りに【釋獲得名號】獲の字は因位のときうるを獲という、
得の字は果位のときにいたりてうることを得というなり。・・・とあります。

ボン様の
「疑ったら化土行きだ」とよく言いますが、これは「他力を疑って、それを拒絶して、自力に走るから化土行きだ」ということではないかと思っております。いったん聞いて、それでも「疑い」を感じて、どんどんのめり込んで
いったら、それも「化土行き」なのでしょうか。こののめり込むエネルギーは、「修行」とか「精進」などとは、異質なものなのでしょうか。

これこそが獲から得への精進だと捉えています。
一念帰命は因位(初歓喜地41地)入正定聚で(初地を得已るを「如来の家に生ず」と名く。行巻)、いろいろと疑問が出て来ます。それで、聴聞したり
勉強したりすることも精進だと思います。その後どうにか疑問が解けて
(疑いが全くなくなって、いろんな事が理解出来るようになって)、
はじめて信心成就ではないのですか?果位はその信心成就位を指して不動地
(48地)と成り金剛堅固の眞心(金剛心)住正定聚と思っています。
その間を「未證淨心の菩薩」(真諦門)と證巻に書かれています。
ですから行巻には宗祖の私釋に「帰命」は本願招喚之勅命なり・・・「必得往生」と言うは、不退の位に至ることを獲ることを彰(あらわ)すなり・・・
金剛心成就の貌なり。と書かれ、信巻末で成就文私釋に「信心」と言うは、
則ち本願力廻向之信心なり。「歓喜」と言うは、身心悦豫之貌を形(あらわ)すなり・・・「一念」と言うは、信心二心無きが故に「一念」と曰う。是を
「一心」と名く。と書かれていますから、疑いの無い信心までは最低限精進が必要だと思います。
高僧和讃の源空聖人のところに、
命終その期ちかづきて 本師源空のたまわく
 往生みたびになりぬるに このたびことにとげやすし
爾(しか)れば、真実の行信を獲る者は・・・斯の行信に帰命する者は・・・等、行巻・信巻本は行信となっていますが、信巻末になってはじめて、「一心、是れを「如実修行相応」と名く。即ち是れ正教なり、是れ正義なり、是れ正行なり、是れ正解なり、是れ正業なり、是れ正智なり」「一心即ち金剛眞心」と書かれ、「眞の佛弟子」のところで、・・。金剛心の行人なり。斯の信・行に由りて、・・・又證巻になれば・・・心行を獲れば、即の時に大乗正定聚之數に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る。・・・となっています。
又證巻に
凡夫人の煩悩成就せる有りて、亦彼の浄土に生ずることを得れば、三界の繋業畢竟じて牽かず。則ち是れ煩悩を断ぜずして涅槃の分を得、焉(いずくん)ぞ思議す可けんや、と。浄土論を引いて不断煩悩得涅槃(分)を書かれています。眞佛土巻にも同じ文が論註から引いて書いてあります。
同眞佛土巻に「往生」と言うは・・・故(かるがゆえ)に報佛土なりということを。
私が書きたいことは、
教行信證は眞實信心(一念帰命をいただいた)の行人に対して書かれている著作物だと云いたいのです。
ですから、信心獲得一つにしても、精進は必要だと云いたいし、報土・浄土(極樂浄土とは違います)もこの土だと主張するのです。

私も凄くアマノジャクでしたし、今もそうなのです。何故(なぜ)何故で
今日ここまで来ました。
20年前に頂いた時は、聖典以外読むなとクギをさされました(お手引きしていただいた同行の方から)。10年前にはわかったと思った時は未だわかっていないのだよと、云われました(その方は善知識になっていました)。
5〜6年前から少し本気に勉強をするようになって、3〜4年前からやっと少しづつ解るようになりはじめました(頭がわるいから)。

佛は全てに平等です、修行、精進すればそれなりに応じてくれます。

行信が信・行になり心行になぜなっていくのか?それが重要だと思います。

菩提心様の菩薩ではない凡夫です。と書かれる意味が解らないわけではありませんが、行信は修菩薩行だったはずです。それが成就して心行になるわけ
ですから、穢体ではなく識心です。
菩薩とは俗の穢体ではなく、眞の識心と理解出来ないでしょうか?。
大経下巻に五悪訓誡で「壽終後世・・・魂神精識・・・」とありますが
壽終後ですからタマシイのことですよね、いただいたのは九識の仏性ですから、煩悩成就の凡夫でも信心成就になれば識心は菩薩です。生身の菩薩となるのです。眞の善知識とは、のところを読めば理解して頂けるとおもいます。
      合掌 ナムアミダブツ 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.25
ボン
関東の男性
[ 1826 ] Re12:後念相続 2010/04/16 (Fri) 01:40 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

いろいろご教授いただき、ありがとうございます。
ひとつひとつ経文を取り上げて教えていただき、私なりに理解できる部分もありますが、
ほんの些細なことかもしれませんが、どうしても違和感も残ってしまいます。

忍草様は、精進は「必要」だとおっしゃいますが、引用していただいた経文を見る限り、
私には、「精進が必要だ」と言っているようには見えないのですが・・・。

あえて「精進」という言葉を使うなら、仏は我々、一念帰命の行者に向かって
「あなたがたは、自分でどう思っているが知らないけど、私(仏)の目から見れば、
まさに『精進または修行』をしているんですよ」と言っているように読めるのです。

「二河の白道」のたとえにしても、「二河の白道を歩くべき」と言っているのではなく、
「あなたがたは、自分でどう思っているが知らないけど、まさしく、二河の白道を
歩いているんですよ」と言っているような気がするのです。

「ただ初地に登れば、もってようやく増進して、“自然”に当に仏と等しかるべし」と
いうのも、「この法を聞くと、だんだんと、自然と、仏と等しいようになっていくに
ちがいない」と太鼓判を押しているように読めるのですが、いかがなものでしょうか。

「自然」という言葉は「おのづからしからしむ」と読み、人間の「はからい」を超えた
仏の「はからい」をあらわす言葉と聞いております。仏は、「大船に乗った気持ちで、
ドンとまかせなさい」と言っているんではないでしょうか。

私のように疑い深く、素直でない人間は、その疑い深さのゆえに、自然と増進し、
素直な人は、その素直さのゆえに、自然と増進する。我々の主観がどうあろうと、
結局、仏の手のひらのなかで騒いでいるだけで、仏の「はからい」のおかげで、
次第に仏と等しいようになっていく、ということではないでしょうか。

金剛心様が、「赤子や痴呆の人は疑うことはありませんから心配せずとも阿弥陀樣に
お任せでよいのです。」とおっしゃっているのも、このようなことではないかと
思うのですが、いかがでしょうか。

証巻に「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗
正定聚の数に入らしむるなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。」とあります。
「必ず」とは、たいへん心強い言葉です。「聞いた」以上は「必ず」滅度に至らしめる、
と確約していただいていると、考えていいのではないでしょうか。

一口に「不退」といっても、「心不退」と「三不退(位不退・行不退・念不退)」がある
ということは、忍草様に教えていただいて初めてしりました。ありがとうございます。
そこで、ご指摘の「真要鈔」4項を読んでみると、以下のような記述があります。

--------------------------------------------------------------------------------
「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然にすなはちのとき必定に入る、ただよくつねに如来の
名を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」となり。「すなはちのとき」といふは、信心をう
るときをさすなり。「必定に入る」といふは、正定聚に住し不退にかなふといふこころな
り。
--------------------------------------------------------------------------------

「すなはちのとき必定に入る」を解説しておりますが、「すなはちのとき」は「信心をう
るとき」であり、「必定に入る」は「正定聚に住し」となっております。つまり、「信心
を得たときに正定聚に住する」というように読めるのですが、いかがでしょうか。

金剛心様や忍草様のおかげで、いろいろ勉強させていただいていることに感謝いたします。

南无阿彌陀佛

●re.26
忍草
url 北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1833 ] Re13:後念相続 2010/04/20 (Tue) 01:58 △up ▽down
   ボン樣

ボン樣はご自身のことを「疑い深く、素直でない人間は、その疑い深さのゆえに、自然と増進し・・・」とお書きされていますが、教行信證・六要鈔をひも解くことも精進ではないでしょうか。

私もアマノジャクゆえに少しカジリました。
考えて見れば親の法事の時に(34才の時)お坊さんに「親の法事だというのに、足はシビレるし、お経は全然わからないから早く終らないかな―」と思ったけれど、どういうお経から勉強すればよいのか教えて下さいと、お願いしたら、「こういう席で(宴席)そんな話しなくてもよいだろう」と、云われてカチンときて今日に至りました。
一念帰命を頂いたのはそれから10年以上かかりました。でも何が縁で頂けるのかわからないものですネ(お坊さんにカチンときたのが縁でした)。
その住職とは後に仲良くさせていただくようになりましたが数年前に他界されました。

ボン樣の「ただ初地に登れば、もってようやく増進して、・・・」の文は證巻の「菩薩但(ただ)初地に登れば、漸(ぜん)を以て増進して・・・」の文だと思いますが、ここで「漸」は、ようやくというよりも、愚禿鈔での頓教漸教での「漸」の使われ方だと思えば、他力・自力の『「自力」をもって増進して・・・』と捉えれば、精進ではないでしょうか?。
教行信證も愚禿鈔も祖師聖人の著作です。一字も加減すべからずと思います。

ボン樣は[行信、信・行、心行]の違いを行巻・信巻・證巻での使われ方をどう思われますか。又、「心行を獲れば・・・」も得ればではありませんから、因ですよネ。
前回私が書かせて頂いた識心はご理解いただけたでしょうか、穢体であっても信心成就になれば「識心」は菩薩と云いたいのです(眞諦門)。

六要鈔では「即得往生住不退転」は現生の益に約す(22願の意(こころ))。
又、不退も『群疑論』を引く意の如きは、初益はこれ行不退、後益は念不退なりというべし。と書かれています。

一念帰命頂いたら全て(鬼の首でもとったように)極樂へ往けるのならば
大経の「易往而無人」の文字は何故?と思われませんか。
 源信和讃に
 報ノ浄土ノ往生ハ オホカラズトゾアラワセル
 化土ニムマルゝ衆生ヲバ スクナカラズトオシヘタリ

菩提心様

いかがお過しでしょうか、何も書かれないと心配になります。
お仕事は勤め先で一生懸命するだけで良いのですヨ、
あとはアミダサンにオマカセすれば、気も楽になりますから・・・
生きて行くこと自体が修行です、アミダまかせの人生です。

書き込みも貴女の二河白道の精進です、書くもよし、休むもよしですがこれだけカキコを休まれると、のぞきもさびしいものです。

     合掌  南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.27
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1834 ] Re14:後念相続 2010/04/22 (Thu) 01:54 △up ▽down
忍草様

いつもいろいろと教えていただき、ありがとうございます。
忍草様とお話をしておりますと、私自身、たいへん勉強になります。

>ボン樣はご自身のことを「疑い深く、素直でない人間は、その疑い深さのゆえに、自然と
>増進し・・・」とお書きされていますが、教行信證・六要鈔をひも解くことも精進ではな
>いでしょうか。

これを拝見する限りでは、忍草様は、私の申し上げていることを誤解されているような気
がいたします。私はこれまで、「はたから見て私が精進や修行をしているように見える」
ということについて、一度も否定したことはありません。

はたからみてそうなら、きっとそうなんでしょう。まして、仏の目からみてそのように見
えるというなら、否定すべくもありません。所詮、「自分の目から見て、自分がどう見え
るか」などというものは、たいしたことではないと思います。

ただ、どうしても違和感が残るのが、繰り返しになりますけども、忍草様が「精進が必要」
とおっしゃっていることだけなんです。「必要」ということは、みずから意識的に精進を
しなさい、またはすべきだと言っているのと同じニュアンスとなると思います。

私は何も、「精進が必要」という自覚のもとに、教行信證・六要鈔をひもといているわけ
ではありません。ただ単に疑問・不審を晴らそうと思って、そうしているだけなのです。

私たち他力信心の行者が、他力の信心をいただいたうえで、なおかつ、あたかも自力の行者
のように精進や修行をしなさいと言っているようには、忍草様が経文から引用した文章を
読んでも、私には感じることができません。

これも繰り返しになりますが、あえて「精進」という言葉を使って表現するならば、
「あなたはどうおもっているか知らないが、私の目からみたら精進しているように見えま
すよ」と仏は、言っているように感じます。

たとえ話をしますと、農家はミツバチを使って花の受粉をさせます。そのときに、ミツバチ
は受粉をさせようとして飛び回っているわけではありません。ただ単に自分たちの食料とな
る密を集めよう飛び回っているだけです。しかし、農家の目から見たらミツバチは受粉をさ
せているように見えます。

たとえば、カラスが柿の実を食べて、遠くに飛んでいって糞をしたとします。そうすると、
糞に含まれている種も遠くに運ばれて、種が真下に落ちるよりは、効率よく柿は自らを増殖
させることができます。これは自然の摂理です。カラスはただ食欲を満たそうしているだけ
なのに、“自然の摂理”という観点からすると、カラスは種を遠くに運んでいるように見え
ます。

よく世間では「子作りに励む」などと言いますが、本人たちは決して励んでいるわけでは
なく、ただ単に楽しんでいるだけだったりします。だけど、意図するしないにかかわらず、
結果的に子孫の繁栄に貢献しているわけです。

法華経の中に、有名な「火宅のたとえ」があります。火事になった家のなかで、遊びに夢中
になっている子供にたいして「危ないから逃げなさい」と言っても耳に入りません。そこで、
「外に玩具があるから出ておいで」と言うと、子供たちは玩具ほしさに家を飛び出して難を
逃れるという話です。子供は単に玩具をもらいに来ただけなのに、大人の目から見ると避難
をしたことにほかなりません。

金剛心様や忍草様は、一念帰命の行者は凡夫であると同時に菩薩だとおっしゃいます。
それは、たしかに仏の目からみれば、そのように見えるのでしょう。それも、自らの努力で
そうなったわけではなく、仏の力によってそうさせていただいたのです。

しかし、それでも凡夫だから、いろんな人がいるにちがいありません。自分は菩薩は等し
いのだからと思い、菩薩のように修行・精進して、仏に近づこうとする人もいるでしょう。
または、凡夫が仏になれる不思議をありがたいと思い、感謝して一生を終える人もいるで
しょう。また、私のように疑問・不審を糧にして、聖教に親しみ、引き込まれる人もいる
でしょう。

しかし、そのどれも、計り知れない仏の智恵から見れは、どんぐりの背比べで、五十歩百歩、
たいして違いがないような気がします。いずれにせよ、仏は、“必ず”増進させると約束を
していただいているのではないでしょうか。

「菩薩に等しい」とおっしゃっていただいたからと言って、みんながみんな菩薩であること
を自覚して、“意識して”菩薩のように振舞う「必要」があるのでしょうか。(仏の目から
見て「菩薩に等しい」ということを否定しているわけではありません。念のため。)

「人みて法を説け」とよく言いますが、それぞれの性分にあった増進のプロセスを用意し
ているのではないでしょうか。そして、それが、凡夫の「はからい」を越えた仏の「はか
らい」なのではないでしょうか。「義なきを義とする」というのは、こういうことを言う
のではないかと思うのですが、いかがでしょう。

忍草様は、「鬼の首を取ったように」とおっしゃいますが、私は決してそのように思って
おりませんし、ここに登場する同行様で、そのように思っている方はおられないでしょう。
おそらく、不当な表現だと思います。

『鬼の首を取ったよう』とは、まるで鬼の首を討ち取ったくらいの偉業を達成したかのよ
うに、得意げになる様子をことわざにしたものです。信心をいただいたことを、得意げに
勝ち誇っているかたは、ここにはおられないと思います。

>大経の「易往而無人」の文字は何故?と思われませんか。

「易往而無人」を、読み下すと「往き易く、しこうして、人無し」となります。もっとい
えば「往きやすいのだけど、そこに往く人がいない」ということですよね。つまり、
「往きやすいのだけど、(あまりに簡単すぎて信じないから)そこに往く人がいない」
ということなのだと理解しております。

----------------------------------------------------------------------------------
律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となす
こと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き
衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。
ゆゑに知んぬ、難信なり」と。(信巻)
----------------------------------------------------------------------------------

ここに「あまりに簡単すぎて信じない」という主旨のことが書いてあります。

----------------------------------------------------------------------------------
これによりて『大経』には、「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、
「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひと
まれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。(御文章)
----------------------------------------------------------------------------------

ここに「信心をとる人がまれだから、人なし」と書いています。つまり、「易往而無人」は
「あまりに簡単すぎて信じないから、この法に入ってくる人は極めて少ない」という意味に
理解できますので、信をいただいた後のことには直接関係してこないように思いますが、
いかがでしょうか。

ご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。

南无阿彌陀佛

●re.28
忍草
url 北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1835 ] Re15:後念相続 2010/04/22 (Thu) 09:04 △up ▽down
   ボン樣

精進という単語にこだわっていらっしゃるようですね
ボン樣は疑問・不審を晴らそうと、私はアマノジャクで何故何故とカジッテ
いるだけ、これも五十歩百歩ではありませんか?。
十人十色百人百色です、人それぞれの精進のおこない方があるでしょう
私も普段はあまり精進という単語は意識していません。逆に意識している
あいだは本当の精進ではないのかも?と思うときもあります。
精進もあくまで自然法爾だとおもいます。

歎異抄第二章の「この上は、念佛をとりて信じたてまつらんとも、また
棄てんとも、面々の御計(おんはからい)なり」のように、頂いている
のにまったくその事を信じていない人や、頂いているから何もしなくても
(ご恩報謝の称名も)極楽へ往けると云う人もいます。
稱名の稱にもトナエ・タタエ・ハカルの意味も含まれているのに・・・。

私は後念相続も精進も同義語だと思いますがいかがでしょうか?

菩薩という単語も私は限定して使っていたハズです(眞諦門での九識、識心)

「金剛心様や忍草様は、一念帰命の行者は凡夫であると同時に菩薩だとおっしゃいます。」と書かれていますが
金剛心樣の代筆はしますが別人ですので誤解なきよう願います。
金剛心樣から依頼されても書き込みしない文章も何度かあるのです。
菩薩という単語の使用を理解出来ないと(菩提心様が以前、「私は菩薩では
ない」と書かれていたので)教行信證は紐解けないと思いますので、私も
限定して使う場合があります。金剛心樣と少し使い方が違いますので、為念。
(金剛心樣に叱られるのを覚悟の上で)
不当な表現も時には意識的に致します。ですので取り消し致しません。
何故ならば信心成就(二心なき一心)が必要だと思っているからです。

[ 1823 ]で引用した源空和讃の「・・・往生ミタビニナリヌルニ・・・」をボン樣はどう解釈なされるのかお聞かせください。ぜひともお願いします。

「往き易くして人なし」國にひとり郡(こうり)にひとりとききながら、
一人の知識さんが数百名(二千名も濟度した知識さんの名前も聞いています)
も濟度されるお話を聞くので源信和讃を引用させていただきました。
ボン樣、教授・指導・教えていただくとかの単語は使わないで下さい。
気楽な会話(自然法爾)でシンケンが良いと思います。いかがですか。
       合掌 ナムアミダブツ 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.29
菩提心
非公開の非公開
[ 1836 ] Re16:後念相続 2010/05/20 (Thu) 10:18 △up ▽down
忍草様  ボン様

お久しぶりです。

監査、執行部会議も終わり、理事会もようやく目前に迫り、5月に総会を迎える運びになりました。

電気店に行ったパソコンは今でも我が家に戻らず、又私は2月7日より、4つの出来事が重なり、会社のパソコンを開ける余裕も出てきませんでした。

その間、忍草様よりの色々の御助言も有難く、金剛心様もお元気そうでなによりです。

私は仕事上大失敗をしてしまい、この14年間積み上げて来た信頼が脆く崩れ去るような暗澹たる気持ちになりました。

それに気づいた時は、時遅く「身の毛がよだつ」の如く、全身震えが止まりませんでした。

そう思った瞬間から、もう私の心は萎えてしまってどうあがいても、這い上がる元気が出てきませんでした。

益々、深みにハマっていくようでした。

そしてこれは鬱病かも知れないと、ある医院を訪ねました。

その医師は、脳にエネルギーが足りていないからと、それを補う薬を処方して下さいました。

脳のエネルギーが枯渇する・・・。

(この時、思わず苦笑してしまいました。全部使い果たしてしまっていたのでしょうか?)

それと同時に、仕事を疎かにしていた罰だとも思いました。

信心決定して喜んでいた気持ちは消え伏せていました。

私はその間、阿弥陀様にすがりました。

毎晩、毎晩懺悔しました。

大難を小難に変えて欲しいと身勝手なお願いもしました。

精一杯「なむあみだぶつ」を呪文のように称えていました。

そして1週間が過ぎ、又受診し新たな薬を処方して貰いました。

それを1錠、夕食後服用しました。

朝起きて、私はその薬の副作用か、心臓が重苦しく、気だるく益々落ち込んでいて全く気力も伏せ、朝会うヘルパーさんからも、すぐに薬の事を医師に相談するように助言して頂きました。

しかし、医院に連絡しましたが、3日服用すれば必ず良くなるからと直接医者の指導もなく、そのまま飲むように言われました。

仕事で失敗して、この先の不安があったのに、翌日は監査、執行部会議があり、これでは本末転倒だと思い、翌日からは薬を飲みませんでした。

数日は虚脱感と、罪悪感が襲ってくるような感覚に陥りました。

そして10日程過ぎて行きました。

しかしこの期間の苦しみは全く無駄では有りませんでした。

それは御恩報謝の南無阿弥陀仏が身を持って知らされたことです。

「弥陀の尊号 となえつつ   信楽まことに うるひとは
   憶念の心  つねにして   仏恩報ずる  思ひあり」

少しずつ、薄皮を剥がすように私の心は落ち着いてきました。

お陰様で大難は無難に終わりました。


私から起こしたものは一つもない。

全て弥陀まかせ。

信じさせる思いも、御恩報謝の思いも、私からではない。

それが信じられた事が有難い。

大失敗は私にとっては、阿弥陀様の善巧方便だったのだと思います。

救われても、まだ足りない、まだ足りないと愚痴を言い続ける私に

大慈悲心で知らせて下さったように思います。

「我をたのめ、必ず救う」

法蔵菩薩の御苦労はこんな悪性な私の為にあったのだと、今回の体験でつくづく知らされました。

地獄一定の私を何処までもついて離れない阿弥陀様

おぶって抱いて、丸抱え。

南无阿彌陀佛

●re.30
菩提心
非公開の非公開
[ 1837 ] Re17:後念相続 2010/04/22 (Thu) 13:51 △up ▽down
続きます。

私はインターネットで鬱病ではないかと思い医院を訪ねました。

その医者はとても温厚で、人の話をよく聞いて下さいました。

しかも、最初の薬は軽いものでした。

1週間飲んで、副作用がないということで、一気に4倍の効き目があるという薬を2週間分処方されました。

その時の私は自分で考える思考も薄らいでいたように思います。

言われるままに1錠、服用しました。

しかし罪悪感は減るどころか、朦朧とし、駅までどのように歩いて行ったのかも覚えていませんでした。

駅に着くなり、ヘルパーさんに「新しい薬を飲んだら、どうも体がおかしい」と訴えました。

彼女も私の異変に気づいてくれました。

最近はそのヘルパーさんとも会っていなかったので、今にして思えばとても幸運だったと思います。

実は、彼女と親しかった娘と同じ歳の鬱病の女性も、私が受診した先生に中学生の時からお世話になっていたそうです。

それを知ったのは極最近でした。

彼女から3級から2級になったと、障害手帳を見せて貰いました。

私はそのような手帳があることも知りませんでした。

若し私は、そのタイミングに出会わなかったら、律儀に処方された薬を飲んで、本格的な鬱病になっていたかも知れません。

インターネットで医院を訪ねてきた事を、その医者は大変に褒めてくれました。

しかしこのような情報過多の時代、その情報が自分に向いているか、いないかもよく選択しなければいけないと今回の自分の体験から、反省することが出来ました。

一見、評判がいい医者でも、自分には向いていなかったのだと思います。

自分で納得できる医者を探すことも一理あると思いました。

これはこの道でも同じではないかと思います。


阿弥陀様の正客は誰でもない、この私であった。

そう思える体験をした私は、全部お見通しの阿弥陀様にすがるしか方法がなかったのです。

阿弥陀様の御修行を、ただ丸貰いした私。

自分が納得できた道。

その道を、一年、二年と過ぎる程に浄土に近付いていると思います。

南无阿彌陀佛

●re.31
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1838 ] Re18:後念相続 2010/04/24 (Sat) 01:22 △up ▽down
忍草様

いつもいろいろな経文をたくさん引いて、お話をいただきありがとうございます。
忍草様とお話をしておりますと、とても勉強になります。

>私も普段はあまり精進という単語は意識していません。逆に意識している
>あいだは本当の精進ではないのかも?と思うときもあります。
>精進もあくまで自然法爾だとおもいます。

まったく、同感です。
忍草様にこのようにおっしゃっていただきますと、なんだかホッといたします。
「他力」「自然」「無義の義」などが、当流のキーワードだと思います。

これは個人的な味わい方の範囲なのかもしれませんが、「○○しなければならない」
とか「○○でなければならない」といった道徳律的な宗教観になじめないんです。

「信心」といっても仏からいただいたもので、自ら起こした「信心」ではない、
といった真宗の逆説的なテーゼが好きです。所詮、人間の考えることなど、
ろくなもんじゃないという、ある種過激で、根底的な見方が好きです。
そう考えると、とても愉快です。

>[ 1823 ]で引用した源空和讃の「・・・往生ミタビニナリヌルニ・・・」をボン樣は
>どう解釈なされるのかお聞かせください。ぜひともお願いします。

正直に申し上げまして、私にはよくわかりません。「何度もこの世に出向された、とても
尊いお方なんだ」ということは何となくわかります。それ以上のことはわかりません。
ここに何か特別な意味があるのでしたら、ぜひ教えて下さい。


菩提心様

少しは元気がでてきたようでよかったですね。
神経に作用する薬は恐ろしいとは聞いていましたが・・・。


それから、この掲示板を定期的にチェックしていると思われる皆様
皆さまの声も聞かせていただけるとうれしく思います。

この稀有な掲示板を管理していただいている毎日様に感謝いたします。


南无阿彌陀佛

●re.32
忍草
url 北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1839 ] Re19:後念相続 2010/04/24 (Sat) 00:54 △up ▽down
ボン樣
命終ソノ期チカヅキテ  本師源空ノタマワク
  往生ミタビニナリヌルニ  コノタビコトニトゲヤスシ
命終がちかいけれども未だ生きているが、今度の往生は遂げ易い。
そこで、次はミタビ(三度)目ですね。
一度目は一念帰命で皆さん納得ですよね、まさかこの世への出生とは
皆様云わないでしょうね。この世への出生は来生ですから。
そこで「釋獲得名號」に親鸞聖人は獲の字は因位のときうるを獲という、
得の字は果位のときにいたりてうることを得というなり。名の字は因位の
ときのなを名という、號の字は果位のときのなを號という。
と釈されてありますね(和讃のおわりのところで)。
もんだいは、得の字は果位のときにいたりてうるをいうなり、ですから
至りて、はどこにいたりてかと、いたるには時間・期間が必要だと思います。
そうすれば、一度目は異論はないと思いますので、二度目は私が前に書いた
信心成就の時(二心なき一念=一心・金剛の眞心・眞實信心)と書くのです。

行巻には、眞實の行信を獲る者は・・・歓喜地と名(なず)く。初歓喜地、
信巻末で聖人は成就文を私釋のあと、現生十益のところで金剛の眞心を獲得
する者は、と獲得となされています。
八地(不動地)已上(證巻参照)で法性生身の菩薩とされていますから、
生身は現生ですよね。ですから行一念、信一念はいたる前といたりての時と
書くのです。
行一念はあの時が入であり、因位であり、報土中の仮であり(何も知らない
十信中の忍でも初歓喜地)未證浄心となります。
信一念は信心成就が果位であり、眞實報土であり、不動地であり、住でも
あり、證(さとり)でもあるが、覚(さとり)からみれば又因でもある。
覚も又、悟からみれば因でしかない。
三度めはこのたびですから、臨終のあとの極樂往生ですよね。
私が書きたいのは、往生・報土・浄土(極樂浄土ではない)現生であり
この地であるということです。又、真仏土巻には、如来の身に凡そ二種あり
一(ひとつ)には生身、二(ふたつ)には法身なり。「生身」と言うは、即ち
是れ方便應化之身なり。是(かく)の如きの身は「是れ生・老・病・死なり、
長・短・黒・白なり・・・」と引用されています。
あの事を体験された方ならば理解出来るはずです。
勉強されなくても人夫々です、よきひとの仰せをしっかりと聴聞すれば
妙好人のようにもなれる方もいると思いますが、末代末法の情報氾濫の現代
です。後相続(人によっては精進)次第で、違ったところへ往くことも・・・
ボン樣は大丈夫だとおもいます、正信偈大意や教行信證大意等もあいだに
一読される事をお勧めいたします。

菩提心様
西洋医学の良い薬は副作用がつきものです。
阿彌陀樣まかせでも仕事は職場では一生懸命頑張って下さい。
私でも書き込みしていなくてもこの場はのぞいています。
最近まわりの方々からあまり余計な事を書くなと注意を受けていますが
私の性格上書きたいと思った時書くだけで、書きたくない時や書きたくない
相手には書き込みしないだけです。
    合掌  ナムアミダブツ 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.33
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1840 ] Re20:後念相続 2010/04/25 (Sun) 12:48 △up ▽down
忍草様

ご丁寧にお答えをいただきありがとうございます。
忍草様のおっしゃることは、とても難解ですので、自分で理解しやすいように
整理をしてみました。

「一念帰命の行者は、あの世に行くまで3回往生する」ということが基本にあると
思います。やや図式的になりますが、以下のように整理できると思います。
もし、捉え違いをしているようでしたらお知らせください。

1回目の往生(一念帰命)・・・入正定聚、初地(歓喜地)、報土中の仮、行信を獲る
2回目の往生(信心成就)・・・住正定聚、八地(不動地)、真実報土、金剛の真心を獲得
3回目の往生(極楽往生)

※1回目から2回目までのあいだ・・・「未証浄心の菩薩」

おそらく説明を省略されているのだと思うのですが、私には論理的に飛躍をしているよう
に感じられる部分もあります。しかし、教行信証すらまともに通して読んだことのない私
には、その飛躍を補う力もございませんので、とりあえず上の図式のように受け止めた上
で、疑問を述べたいと思います。

最大の疑問は、いつをもって2回目の往生と心得たらいいのかということです。
1回目の往生は一念帰命だから、その行者なら誰でもはっきりと解ります。
3回目の往生は、この穢身を捨てるときと考えていいのかと思います。
1回目と3回目は、この上なくはっきりと、その時を認識することができます。
2回目は、それに匹敵する、はっきりとした時があるのかどうかということです。

ほかにも疑問はいくつかあるのですが、ここが解らないと先に進めませんので、
もし差し支えなければ、この点を教えていただければ、ありがたく存じます。
どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.34
酒天童子
関東の男性
[ 1843 ] Re21:後念相続 2010/04/25 (Sun) 17:43 △up ▽down
こんにちは、酒天童子です。

ボン様、菩提心様、同行の方々、御無沙汰いたしております。

ボン様から覗いているなら、なんか言ってくれ、ということなので経文などには全く無知でありますが、一寸思ったことを書きます(またまた教学からは大きく外れて行ってしまいそうですが、、、)。

私は他力の信心に縁があったのは比較的歳をとってからでした。

もちろん浄土教については言葉としては知っていました。

ただ、歳をとってから信心を得たことが自分にとっては幸いだったと思います。

あれこれ迷っていたおかげで、これまで随分といろいろな分野、方面に興味を持つことができ、あちらこちらと頭をぶつけながら歩んで来ることができました。

以前も書きましたが、10歳を過ぎたころに仏教に傾倒し、その後10年以上にわたって寺に通い詰め、半出家状態で生活しました。

その後も神智学その他いわゆる「自分探しの旅」などと言われるものに足を突っ込んで行きました。そうして結局、私はいわゆる修行をやめました。

「〜しなければならない」「〜するのがより良い」「〜こそ真実だ」、こういう考えの塊だった私は、「どっちだって良い」「物事はすべて完全で完璧なんだ」「良いも悪いもない」というように考え、感じ始めました。
 ただ、決して自暴自棄になったわけではありませんでした(もちろん一時は虚無感や絶望感に襲われた時期を過ごしました)。

結局、散々いろいろと人(自分)はやってみるものだと思います。
それが人としての性なのでしょう。
そうして納得するようになるのだと思います。

また、いろいろすること自体もちっとも悪いことではないと感じます。
所詮、佛の掌の上で遊んでいる孫悟空のようなものでしょう。

でも、われわれはその掌の上で、どの指の方に行った方が「より良いか」という議論が大好きだし、楽しいのです(自分のことを言っています)。

おそらくは佛はそんなわれわれを見て、微笑んでいるのでしょう。

そうして、そういう行程こそが私たちにとって唯一大切であり、私たちが自分という存在に意義を見出す瞬間なのだ、ということも御存じなのでしょう。

まとめます。こうした僅かな経験からですが、自分はボン様に近い受け止めかたをしています。

「精進」とはどういう説明をしようとも言葉の響きが「〜すべきもの」というニュアンスを持っています。だから違和感を感じるのです。

また、忍草様は経文や註文などを「絶対」のものとして捉えているようですが、私にはただの「文字」と大差ありません(不遜な言い方でごめんなさい)。

経典についても一部“非仏説”であるという疑問も持っています。

おおよそ「絶対的なもの」や「間違いのないもの」や「唯一の真理」などという言葉を聞くと違和感を通り越して、なんだかいやな気持になります。

それが自分のスタンスであります。
ボン様、水を差すようなことを申し上げてすみません。「教行信証学習ノート」楽しみに読ませていただいております。

菩提心様、落ち込まない人はだれ一人としていません。
なぜなら私たちはすでにこの星に「落っこちて来た」のですから、、。
だから落ち込むことは至極当たり前のことが今、目の前で起こっている、そこから無理やり逃げ出そうなんてしなくていいんだ、と少しでも感じられれば、ちょっとは楽にならないでしょうか?
私自身はどうしようもなく落ち込んだ時にそんな風に開き直るよう
にしています。

南无阿彌陀佛

●re.35
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1846 ] Re22:後念相続 2010/04/26 (Mon) 10:32 △up ▽down
酒天童子様

呼びかけにお応えいただき、お出ましいただき、ありがとうございます。

全国のそれぞれ違った場所で、違った経緯で同行となられた方々が、それぞれ差し障り
のない範囲で感ずるところを述べ合って、ここが「信心の沙汰」する場所となったら
素晴らしいなあ、と思っております。

「信心決定のひとも、細細に同行に会合のときは、あひたがひに信心の沙汰あらば、
これすなはち真宗繁昌の根元なり。」(御文4)

「同行には近づけ」と言うのが、私のお師匠さんの教えでした。それにもかかわらず、
同行様とは離れてしまい、今では、かつての同行様に近づくツテも見つからないという
体たらくが、今の私です。

毎日様のご用意いただいたこの掲示板だけが、今の私が、バーチャルながら同行様に
近づくことができる唯一の手段なのです。

同行様が近くにいれば、自然と御法の話題が出てきて、御法のことを考える機会が多く
なるものと思います。私はこの掲示板のおかげで、日々、御法のことを考えながら
過ごすことができております。これは、日々念仏を称えているに等しいものと私は思っ
ております。

最近では、忍草様が私との問答に付き合っていただいて、正直に申し上げまして、
とてもありがたく思っております。お話を聞いていて腑に落ちない部分もあるのですが、
それがますます経文への興味を掻き立てるもととなっているのです。

過去の問答が、何やら感情的な対立を含んだような成り行きになっていったのを見て、
なんだか悲しく、残念な思いをしておりましたが、実際の理解の仕方において、それほど
に大きな差異があったのかどうか疑問に思っております。問答の成り行きは、白か黒かと
いったような、単純な二律背反にはならないものと思っております。

また、この掲示板をたまたま覗いた誰かが、これが縁となって、御法に近づくきっかけと
なったらうれしく思います。

南无阿彌陀佛

●re.36
忍草
url 北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1855 ] Re23:後念相続 2010/04/28 (Wed) 14:46 △up ▽down
   ボン樣  酒天童子樣

人夫々の人生観があるように、宗教観も違うのだな―、と酒天童子様の
書き込みを読んで感じました。
一寸引用させて頂きます。
「結局、散々いろいろと人(自分)はやってみるものだと思います。
それが人としての性なのでしょう。
そうして納得するようになるのだと思います。

また、いろいろすること自体もちっとも悪いことではないと感じます。
所詮、佛の掌の上で遊んでいる孫悟空のようなものでしょう。

でも、われわれはその掌の上で、どの指の方に行った方が「より良いか」という議論が大好きだし、楽しいのです(自分のことを言っています)。

おそらくは佛はそんなわれわれを見て、微笑んでいるのでしょう。」

以上までは私も納得いたします。ですが

「また、忍草様は経文や註(釈?)文などを「絶対」のものとして捉えているようですが、私にはただの「文字」と大差ありません(不遜な言い方でごめんなさい)。
経典についても一部“非仏説”であるという疑問も持っています。

おおよそ「絶対的なもの」や「間違いのないもの」や「唯一の真理」などという言葉を聞くと違和感を通り越して、なんだかいやな気持になります。

それが自分のスタンスであります。
ボン様、水を差すようなことを申し上げてすみません。「教行信証学習ノート」楽しみに読ませていただいております。」

この文章は納得出来かねます。何故ならば

「・・・信心を得た・・・」と書かれているということは同行と思われる
からです。これが「・・・信心を獲た・・・」ならば何も申しません。

少なくとも眞宗の一念帰命を頂いているならば、
「教行信證」(「顕淨土眞實教行證文類序」)は浄土真宗の根本聖典のはずです。
それをボン樣が「ヒモトイテ」いるのに対して上記の書き込みは失礼だと
思います。
私自身、少しでも祖師聖人の書かれたことを理解したいとカジッテいる
のですからボン樣と意見交換しているのです。

酒天童子様が「違和感を通り越して、いやな気持ちになる」のでしたら
歎異抄に書かれているように「念佛をとりて信じたてまつらんとも、また
棄てんとも面々の御計(おんはからい)なり」棄てゝ信じなければよいと
思うのですがいかがでしょうか。

自分が理解出来るところだけを自分のものにして、理解出来ないところは
「いやな気持ちになる」は虫が良すぎませんか?。
それで「教行信証学習ノート」は楽しみに読ませていただいております。
の言葉はないでしょう。   已上。  酒天童子様へ

ボン樣
上記のような事を書く私です。まだまだ未熟ですので私自身信心成就したと
思っていません。卑下するつもりも又慢心する気持ちもありません。
これが二度目の件の答えです。

私はアマノジャクですが自分にも他人にも素直でありたいと思っています。

ここに「存覺上人の三心三信同一の事」の仮名聖教から「五念門というは」を轉写いたします。
ごねんもん五念門というは
ひとつ一にはぜんちしき善知識のかたちをせそん世尊とみたてまつるをらいはいもん禮拝門というなり。
ふたつ二にはかのかたちよりちえ智慧をあらわしたまうみだ弥陀にょらい如来とみたてまつるをさんたん讃嘆もん門というなり。
みっつ三にはかのちえ智慧をもっていっさい一切しゅじょう衆生をほとけになしたまうがゆえにさがんもん作願門というなり。
よっつ四にはかのちえ智慧をもってしゅじょう衆生をほとけになしたまいとりおさめたまうゆえにじょうど浄土とみたてまつるをかんさつもん観察門というなり。
いつつ五にはいまげん現にいっさい一切しゅじょう衆生をほとけになしたまいてほんがんりき本願力のふしぎ不思議にましますことをときあらわしたまうがゆえにえこうもん廻向門というなり。
か斯くのごと如きのふしぎ不思議をこころう心得るをしんじつ真実しんじん信心をぐそく具足すとし知るべし。しか然ればよよ世々のせんとく先徳はこうみょう光明とちえ智慧とひとつなりとこころう心得べし。このちえ智慧をむじょうねはん無上涅槃にいた到るとも、あんよう安養にいた到るとも、ほうど報土にいた到るとも、じっそう実相をしょう證すとも、こうみょうど光明土にいた到るとも、ほうしょう法性のじょうらく常楽をしょう證すとも、さいほう西方にいた到るとも、みだ弥陀のじょうど浄土にいた到るとも、がんど願土にいた到るともと説きたま給えり。あなかしこ あなかしこ
経論釈・仮名聖教は大事なものだと思っています。
後念相続(後相続)は精進と同義語として捉えられませんか?
人間生きて行くことも大きい意味では修行だと思います。
その人その人の人生に無駄は何もないとも思います。
所詮酒天童子様のかかれる「佛の掌の上の孫悟空」です。
ボン樣あくまで素直な会話にしましょう。
他人のアゲアシをとったり嫌味を書くのはやめたいものです。
私は捉え方の違いで論争はしたくありません。御同行・御同朋となりたい
ものです。
末燈鈔20章に「・・・往生の事を聞きながら、(その)あとを愚かに(も)せん人々は、
その同朋にあらず候べし」とあります。

同行であっても同朋でなければ、信心成就とはならないと思います。
以後、酒天童子様の書き込みに対しては論争のおそれがありますので
無視させて頂きます。

        合掌  南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.37
忍草
url 北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1856 ] Re24:後念相続 2010/04/28 (Wed) 14:53 △up ▽down
  ボン樣

五念門というはを轉写したらフリ仮名が同列になりました。
読み難いとおもいますが勘弁願います。

●re.38
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1857 ] Re25:後念相続 2010/04/29 (Thu) 03:47 △up ▽down
酒天童子樣、こんばんは。

酒天童子樣がこの掲示板に、自らの心境を包み隠さず披露していただいたことを
心の底からうれしく思っております。

私も、自らの「疑う心」をこの掲示板に包み隠さず披露し、そして、自分でも自分の
「疑う心」を見つめてきました。

いただいた御法を「疑う」などということは、考えようによっては、まったくとんでも
ないことでして、だれかから断罪されそうな気がして、口にすることも憚られます。

しかし、実際には、いざ口に出してみると、金剛心様からも、
「信心をとってから疑いが出るのです。いろんな経釈文を見て読めば疑いが
段々なくなっていくのです。ボン様の云われるそれが善の探究心の疑いなのです。」と
たいへん暖かいお言葉をかけていただき、何か肩の力が抜けたような気になりました。

>経典についても一部“非仏説”であるという疑問も持っています。

私もかつて、このことについて考えたことがありました。
詳しいことは解りませんが、歴史学的に、科学的に突き詰めていくと、
どうも「お釈迦様の言葉」というには無理があるお経もあるらしいのです。

ただ、さほど深く考えたわけではありませんが、私の結論は、
「そもそも宗教は、歴史学や科学にはなじまない」ということです。

だいたいにおいて「善智識様は還相の人」という前提があります。この前提に立つならば、
ここからして科学になじまないわけです。ましてや七高僧といわれる人は還相の人で
ないわけがありません。還相の人の言葉は「仏説」といって差し支えないと思います。

七高僧や経論釈すべてをふくめた思想のかたまりが、仏教なのだと思います。
いってみれば「歴史的な整合性がなんなの?」というような感じでしょうか。

ましてや、私たちは“親鸞教徒”です。“親鸞教徒”とは、金剛心様がいみじくも
述べられた言葉です。この言葉は好きです。今後使わせていただきます。私たちは、
自力で仏になれない身でありながら、親鸞聖人の教えに従って仏となれる身分にさせて
いただいたわけです。

聖人が肯定的に引用された文章は、聖人のお言葉と考えて良いかと思います。
歴史学的に「仏説」であろうがなかろうが、聖人がそういうなら、それでいいでは
ないかということです。

>おおよそ「絶対的なもの」や「間違いのないもの」や「唯一の真理」などという言葉を
>聞くと違和感を通り越して、なんだかいやな気持になります。

この気持ちは、私もよくわかります。
現代の学校教育において、科学的なアプローチというものを少しでもかじった人間は、
すべてのものを疑うというのが、基本的なスタンスとなります。これは体の心底に
染み付いています。

だから、私のような頭でっかちなものは、このような疑う気持ちを無理に取り払おうと
せずに、逆に徹底的に疑ってかかるということによって、むしろ、いただいた信心と
親しみ、大事にしていくことにつながるのではないかと思っております。

私どもは、大事な御法をいただいたとはいえ、煩悩にまみれた便所のうじ虫のような
ものですから、正直な心の底を開陳したことが断罪されてはならないと思います。
むしろ、正直な気持ちを見つめることから、御文で言う「信心の沙汰」もスタートする
のではないかと思います。

酒天童子樣に限らず、もっと多くの皆さまが「私の信心はこうだ」「私の信心はこうだ」
「その考えはこうかもしれない」など、率直な考えが行き来するならば、「仏法繁盛」
につながるのではないかと考えます。

南无阿彌陀佛

●re.39
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1858 ] Re26:後念相続 2010/04/29 (Thu) 03:52 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

わたしの知らない「三心三信同一の事」をご披露いただきありがとうございます。
これまでの問答の文脈上、何らかの意味があるのではと思いながら読んでいるのですが、
頭が悪いせいで、十分理解しておりません。追々かみ締めたいと思います。

ところで、

>上記のような事を書く私です。まだまだ未熟ですので私自身信心成就したと
>思っていません。卑下するつもりも又慢心する気持ちもありません。
>これが二度目の件の答えです。

上の文章から、少なくとも、2回目の往生(信心成就)は、忍草様ですら、まだされていな
いということは理解できました。というは、私などは当然、まだまだだ、ということも
理解できます。率直なお話、ありがとうございます。

それと同時に、「3回の往生」についての私の図式的な理解も、必ずしも間違ってはいな
かったということも、間接的に理解できます。

ただ、2回目の往生(信心成就)は、1度目や2度目と同様に、明白な「時」があるのか
どうかという疑問は、いまだ解決されておりません。

忍草様や私がまだその「時」に至っていないだけで、あきらかに2回目の往生の「時」に
いたっている人は実際におられるのでしょうか。それとも、2回目の往生だけは、1度目
や2度目とは違って、あきらかな「時」で示すことはできない、と理解すべきなのでしょ
うか。

ここのところがはっきりと理解できませんので、差し支えなければ、ぜひ教えていただき
たいと存じます。

>ボン樣あくまで素直な会話にしましょう。
>他人のアゲアシをとったり嫌味を書くのはやめたいものです。

私は、これまでこの掲示板で、すべて率直な考えを述べてきたつもりです。
人の揚げ足を取ったり、嫌味を述べてきたつもりもありません。

ただ、私の不明な点につきまして、教えていただきたいと思っているだけです。
私は忍草様のおっしゃっていることを理解したいし、聖人の教えをよく理解したいと
願っているだけです。

とくに、この2回目の往生(信心成就)に関する部分は、これまでもたびたび対立的な論争
となってきた部分なのですが、ここのところがそれほど大きな対立になる部分なのか
見極めたいという気持ちがあります。

単に理解しあっていないだけではないのか、誤解しているだけではないのか、という
思いもあります。現に、私は忍草様や金剛心様ともお話ができて、それ以前よりは
理解できる部分が多くなったように思っているのです。

これは率直な気持ちです。ぜひ今後とも、お付き合いいただければと思います。

とはいえ「人の揚げ足を取ったり、嫌味を述べてきたつもりはない」というのは自分が
思っているだけで、はたから見たらそのように見えているのかもしれません。もし、
そのように感じられる部分がございましたら、具体的にご指摘ください。直します。

どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.40
忍草
url 北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1859 ] Re25:後念相続 2010/04/29 (Thu) 02:13 △up ▽down
   ボン樣

ミタビの件で二度目を下記、浄土眞要鈔末(7章)より引用致します。

所謂「行の一念」をば眞實行の中にあらわして、「行の一念というはいわく、
称名の遍數について選擇易行の至極を顕開す」といい、「信の一念」を
眞實信の中にあらわして、「信楽に一念あり、一念というはこれは信楽開發の
時剋の極促をあらわし、廣大難思の慶心をあらわす」といえり。上にいう
ところの十念一念は、みな行について論ずるところなり。信心について
いわん時は、ただ一念開發の信心をはじめとして一念の疑心をまじえず、念々
相続して彼の願力の道に乗ずるが故に、名號をもって全く我が行體と定む
べからざれば「十念」とも「一念」ともいうべからず、たゞ他力の不思議を
仰ぎ、法爾往生の道理にまかすべきなり。

ここにも疑心をまじえず(二心なき一心)、念々相続して・・・たゞ他力の
不思議を仰ぎ、法爾(自然法爾)往生の道理にまかすべきなり。とあります私はこれを信心成就と捉えて二度目と理解しています。

二河白道の一分二分としてもすこしづつでも近づいて往けていると思って
います。
自分に都合の良い自分勝手な解釈はしたくないのです。
いつの日か佛から自分自身に自覚させて貰えないかと甘い期待も無い訳では
ありませんが・・・いかんせん他力は不可称・不可説・不可思議ですので・・・。

存覚上人の仮名聖教は蓮如上人が多く引用されています。

     合掌  ナムアミダブツ 南無阿弥陀仏 南兂阿彌陀佛。

●re.41
忍草
url 北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1860 ] Re26:後念相続 2010/04/29 (Thu) 02:35 △up ▽down
ボン樣

人のアゲアシをとったり嫌味を書くとはボン樣を指しているのではありません。

もし誤解をされたならばお詫び申上げます。

未熟でアマノジャクな忍草です、金剛心様から昨日酒天童子様への書き込み依頼が
ありましたが、内容的に私がお断りいたしました。

  南無阿彌陀佛

●re.42
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1861 ] Re27:後念相続 2010/05/01 (Sat) 01:56 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

二度目の往生につきまして、真要鈔を引いてご説明をいただき、ありがとうございます。

ただ、「いつをもって2回度の往生と心得たらいいのか」という私の最も大きな疑問に
つきまして、依然としてご回答をいただいていないように思います。

2度お尋ねしてもお答えをいただけないということは、今後もこの点についてお答えを
いただけないものと考えたほうがよろしいかと感じております。

あるいは、もっと踏み込んだ見方をすれば、2回度の往生の「時」はない、と考える
べきかもしれません。なぜなら、もし、それがあるのなら、「これをもって2回度の往生
の時とする」というお話がうかがえるに違いないと思うからです。

それと、もうひとつ、真要鈔の引用文と、忍草様の述べられた次のお言葉に、そのヒント
があるような気がいたします。

>ここにも疑心をまじえず(二心なき一心)、念々相続して・・・たゞ他力の
>不思議を仰ぎ、法爾(自然法爾)往生の道理にまかすべきなり。とあります私はこれを
>信心成就と捉えて二度目と理解しています。

ここに「念々相続」という言葉が出てまいります。「念々」というのは「念」の繰り返し
を指すものと思います。「相続」とは、大辞林によると、「次々に続くこと」を意味する
のだそうです。

つまり、「念を繰り返し次々に続けること」が二度目だとすれば、二度目は「時刻」では
なくて、「時間の流れ」または「継続・持続」だということになります。

まとめて言えば、1度目の往生(一念帰命)の時と3回目の往生(極楽往生)の時をつなぐ
「時間の流れ」が2度目の往生だと考えられると思うのですが、いかでしょう。
こう考えると、私としては割りとスッキリするような気がいたします。

それと、「たゞ他力の不思議を仰ぎ」ともおしゃっておられます。二度目の往生は、
「我々凡夫の思議の及ばない仏の力によるもの」ということですよね。

そして、あとは「法爾往生の道理」にまかせるとしています。「法爾」とは、大辞林によ
ると、「阿弥陀仏のはからいのままにあること」を意味するのだそうです。そうすると、
「法爾往生」というのは、「仏のはからいにまかせて往生する」という意味だと考えて
よろしいかと思います。

つまり、二度目の往生は、「我々凡夫の思議の及ばない仏の力によるもと」とこころえて、
すべて「阿弥陀仏のはからいのままに」におまかせすることであって、それが「信心成就」
である、ということになります。

そして、その状態(仏のはからいにまかせた時の流れ)が、住正定聚であり、八地(不動地)
であり、真実報土であり、金剛の真心の獲得である、ということになるのでしょうか。
忍草様のお話を聞きまして、このように受け止めたのですが、いかがでしょうか。

南无阿彌陀佛

●re.43
酒天童子
関東の男性
[ 1865 ] Re28:後念相続 2010/05/01 (Sat) 16:47 △up ▽down
こんにちは、酒天童子です。

忍草様

>少なくとも眞宗の一念帰命を頂いているならば、
「教行信證」(「顕淨土眞實教行證文類序」)は浄土真宗の根本聖典のはずです。
>それをボン樣が「ヒモトイテ」いるのに対して上記の書き込みは失礼だと
思います。

 まず、勘違いされないでほしいのは、私は真宗ご開山親鸞聖人を批判しているわけではないのです。「教行信證」は素晴らしい書物だと思っています。
聖人はもちろん尊敬をし、聖人には感謝もしています。聖人のおかげでこうして私のようなものさえ信をいただく事が出来たのですから。

 ですが、崇拝はしていません。尊敬と崇拝は似ているようで違います。
 また、何事も疑う気持ちを封じ込めてしまっては、偉人のすること、なすことはすべて敬意を表して肯定しなくてはいけなくなってしまいます。

 忍草様は「失礼だ」とおっしゃいますが、疑う気持ちを持つことが失礼ならば「信心の沙汰」とは「失礼無きよう」表面だけのなれあいか、同じ考えだけをもつ者同士の「和気藹々の場」でなければならなくなってしまわないでしょうか?

>酒天童子様が「違和感を通り越して、いやな気持ちになる」のでしたら
歎異抄に書かれているように「念佛をとりて信じたてまつらんとも、また
棄てんとも面々の御計(おんはからい)なり」棄てゝ信じなければよいと
思うのですがいかがでしょうか。
 
 信じるとは「盲信」や「狂信」も入っていると思います。
 
 聖人だから、高僧だから、ということで疑う心さえも放棄してしまうのは「盲」であり「狂」につながるのではないかと思います。

 私たちはせめて、常に理性的に精一杯の知性を働かせて、感じるところに従って自他ともに検証してゆく態度が求められているように思うのです。

 そういう姿勢と「信を棄てる」とはまったく別問題のように感じます。

>自分が理解出来るところだけを自分のものにして、理解出来ないところは
「いやな気持ちになる」は虫が良すぎませんか?。

 理解できないから「いやな気持になる」のではなくて、まず「正しいのだ」というスタンスから入っていくので「いやな気持になる」のです。

>それで「教行信証学習ノート」は楽しみに読ませていただいております。
の言葉はないでしょう。

 「正しいから」「間違っているから」とかと「楽しく感じる」とは関係がありません。 「正しいから」楽しくて「間違っているから」つまらないのではないのです。
 
>以後、酒天童子様の書き込みに対しては論争のおそれがありますので
無視させて頂きます。

 「論争のおそれがあるから無視する」、これはよく理解ができません。
 「論争してはいけない」というように聞こえます。
 私たちが理性的な態度を失わなければ「論争」から得られるものはむしろ多いように思います。
 それを敢えて拒む理由がわかりませんが、、。


ボン様


>私もかつて、このことについて考えたことがありました。
詳しいことは解りませんが、歴史学的に、科学的に突き詰めていくと、
どうも「お釈迦様の言葉」というには無理があるお経もあるらしいのです。

 お経をただ単に「仏説ではない」と言っているわけではないのです。

 文献学を研究したり歴史を検証することは信仰や宗教の世界でも大切だと思っています。
 常に裏付けを取る作業は放棄してはいけないと思っています。

 今や私たち日本人でも、かつては入手できなかったサンスクリットの経典が読めます。 これが文明の弊害だとはだれも思わないでしょう。
 
 サンスクリットの無量寿経では80佛がでてきます。漢訳(真宗の浄土三部経にある無量寿経)では53佛です。

 どちらが正しいのでしょうか?

 それとも、そんな違いは大したことではないのでしょうか?
 一言一句を大切にするならば大きな差異であると感じます。

 阿弥陀佛はサンスクリットでは最も古い方の佛であり、漢訳のもっとも最後に出世された佛とは違いがあります。

 さらに漢訳の四十八願がサンスクリットでは四十七願であり、最も大切な十八願の内容はかなり異なっています。

 つまり、経典とはつまるところ「人が書き写したもの」なのです。そこに一点の間違いもない、などと言い切ることが果たしてできるのだろうか、という素朴な疑問を言っただけです

 ここにも頭から信じるか「疑問を呈するか」という問題が影を落としています。

>ただ、さほど深く考えたわけではありませんが、私の結論は、
「そもそも宗教は、歴史学や科学にはなじまない」ということです。

 だからといって、歴史や科学を否定することにはならないように、宗教も合理的、科学的に考えるな、ということにはならないと思っています

>だいたいにおいて「善智識様は還相の人」という前提があります。
この前提に立つならば、
>ここからして科学になじまないわけです。ましてや七高僧といわれる人は還相の人で
ないわけがありません。還相の人の言葉は「仏説」といって差し支えないと思います。

 これも、先ほどと関連しますが、どんな高僧でも「絶対に間違いがない」とは断定できないのではないでしょうか?

 どうも誤解が誤解を生むような気配がありますので、これ以上は筆を控えます。

 ボン様おっしゃるように、私はただ、感じるところを表明したにすぎないのです。

南无阿彌陀佛

●re.44
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1868 ] Re29:後念相続 2010/05/01 (Sat) 22:39 △up ▽down
酒天童子様、こんばんは。

率直なお話をいただき、ありがとうございます。

> 文献学を研究したり歴史を検証することは信仰や宗教の世界でも大切だと思っています。
> 常に裏付けを取る作業は放棄してはいけないと思っています。

おっしゃるとおりです。認識を新たにいたしました。
教えていただきありがとうございます。

> サンスクリットの無量寿経では80佛がでてきます。漢訳(真宗の浄土三部経にある無量寿経)では53佛です。
> どちらが正しいのでしょうか?

私にはわかりません。私には知る由もございませんが、それを詳しく精査してしていく
作業は、とても尊いことだと思います。だれかがやれば、それを参考にする人も出てくる
と思います。

> つまり、経典とはつまるところ「人が書き写したもの」なのです。そこに一点の間違いもない、
>などと言い切ることが果たしてできるのだろうか、という素朴な疑問を言っただけです

おっしゃることは良くわかります。私も最近、教行信証や六要鈔などに目を通して感じる
ことなのですが、漢文の原文をどこで区切って読み下すかということによって、文章の意味
が違ってくることが、ままあるのです。ましてや、梵語から漢文への翻訳となると少なか
らず誤差が生じているであろうということは、容易に想像できます。

それどころか、親鸞聖人にいたっては、通常の読み方とあえて違った読み方をしている
ケースもあるようです。

正確な記憶ではありませんが、大経の梵語の原典では、48願はもっと少なくて、18願は
17番目くらいだったように記憶しております。(正確な記憶でなくてすみません)

たぶん、このあたりは詳しく精査すれば精査するほど、穴がボロボロでてくるように
思いますが、その現実を目の当たりにしたときに、それをどう考えるかは、ひとそれぞれ
ではないかと思います。

おそらく、後世の仏典は信用に値しないもので、すべて梵語の原典によるべきだという
ように考える人も世の中に多く出てくるものと思います。

>>ただ、さほど深く考えたわけではありませんが、私の結論は、
>「そもそも宗教は、歴史学や科学にはなじまない」ということです。

> だからといって、歴史や科学を否定することにはならないように、宗教も合理的、
>科学的に考えるな、ということにはならないと思っています

宗教を合理的、科学的に考えることは、それはそれでけっこうなことだと思います。
それを否定するつもりはまったくありません。「歴史学や科学にはなじまない」と
申し上げたのは、私の個人的な結論でして、それが客観的に正しいかどうかは、
私には分かりませんし、それを他人に押し付けるつもりもございません。

> これも、先ほどと関連しますが、どんな高僧でも「絶対に間違いがない」とは断定
>できないのではないでしょうか?

どんな高僧でも人間である以上、「絶対に間違いがない」とは断定できないでしょう。
もちろん、親鸞聖人でも、そのことについてはまったく同じだと思います。

ただ、これも私の個人的な感想なのですが、最近は、親鸞聖人が仮に間違っていたとして
もかまわないのではないかという気がしております。それに、間違っているかどうかなど
ということは、私には判断できないと思いますから、このへんが科学的なアプローチと
宗教的アプローチの違いではないかと感じております。

これが狂信・妄信と同じなのかどうか、私にはわかりませんが、感覚的には違うような
気がしております。

ところで、このような考えようによっては少しシュールな会話が成り立つのは、
酒天童子様が同行だと思えるからだと、私は理解しております。

当流では「信心を先とする」という、とても大事な“原則”があると思います。
なにはともあれ、いきさつはどうあれ、我々は「聞いてしまった」わけです。

「聞く」前の人間がこんな会話をしていたら、その人たちは、まず間違いなく当流に
入ってくることはできなかったでしょう。

しかし、いったん「聞いてしまった」ものにとっては、他力の信心を埋め込んでいただい
たおかげて、このよな同じ会話でも、ますます引き込まれていくタネになっていると思い
ます。これにつけれも「信心を先とする」というのは、とても深いと感じます。

これが「仏のはからい」であり、「無義の義」「他力」「自然」だと理解しております。
当流は、徹頭徹尾、「他力」なのだと思います。

そのような意味で、これからも、いろいろな会話でこの掲示板が盛り上がれば、
うれしく思います。

南无阿彌陀佛

●re.45
酒天童子
関東の男性
[ 1881 ] Re30:後念相続 2010/05/05 (Wed) 13:01 △up ▽down
ボン様

こんにちは酒天童子です。

毎日様のおかげでこの掲示板でボン様と信心の沙汰ができることをうれしく思います。

以前、ボン様は周囲に同行がいない、と仰っていましたが、では周囲に同行がたくさんいるのは良いのか?というとそうでもないと思っています。

私たちは修行したわけでも、長年追い求めたわけでもなく、ふと縁あって完全に他力で信心を得たわけです。

だから、同行でも信心のとらえ方は千差万別です。

私たちの周りの同行にも、実は忍草さまや金剛心さまと近い考えをする人も大勢います。

自分としては毎日様の受け止め方、考え方が好きでこの掲示板を真宗の勉強の場として、ときどき顔を出させていただいていますが、むしろ、毎日様のようなとらえ方をする者は少ないように思えます。

だから、なかなか面と向かって自分の考えを言いにくいのです。

縁のあった善知識はとてもすばらしい方で、心服していますがそれでも自分と同じ考えではありません。

毎日様のこの掲示板は、他の同行に押しつけもなく自由に思ったことを表明できる、まさに希有な法座であると思っています。

ここでは、年齢性別地位など関係なく、意見を交換できます。

すばらしいことです。

ですから、この掲示板に集ってこられるかたにたいして、同じとらえ方をする方たちと同様、意見や見識を異にする方々にたいしても、素晴らしい方々であるという認識を持っています。

これからもよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.46
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1890 ] Re31:後念相続 2010/05/07 (Fri) 14:02 △up ▽down
ボン樣
私の周囲よりあまり書くなとの意見がありますので、二度目に関しては自分自身が
未だ信心成就しているとは自覚していませんので、私見とことわった上でボン樣の

つまり、二度目の往生は、「我々凡夫の思議の及ばない仏の力によるもと」とこころえて、
すべて「阿弥陀仏のはからいのままに」におまかせすることであって、それが「信心成就」
である、ということになります。

そして、その状態(仏のはからいにまかせた時の流れ)が、住正定聚であり、八地(不動地)
であり、真実報土であり、金剛の真心の獲得である、ということになるのでしょうか。

(仏のはからいにまかせた時の流れ)の中にその時があると捉えています。
そしてその時は、過ぎてから気がつくのではないかと思います。あくまで私見です。

宗教とは科学等にはなじまないと云うボン樣の意見には大賛成です。
学問的には哲学に含まれるかもしれませんが、別のものだととらえています。

一念帰命を頂いている、一親鸞教徒として自分が信心していることが間違っていないか
たしかめる(こんな簡単な事でよいのか疑うのも含む)ためにも教行信証を勉強して
いるのかも知れませんが・・・。
以前に金剛心樣の書き込みにあったのと同じだと思います。

頂いたならば、(即等覚だから)死んだら即極楽と思われる方もなかにはいるのでは
ないかと思って時折書き込みしているのです。

教行信証の中に又カナ聖教のどこにも書かれていないと思います。

駄文失礼いたします。  合掌  ナムアミダブツ 南無阿弥陀仏。

●re.47
菩提心
非公開の非公開
[ 1891 ] Re32:後念相続 2010/05/07 (Fri) 16:40 △up ▽down
忍草様

ボン様

そして酒天童子様(とても嬉しいです)

本当にお久しぶりです。

ようやく総会も目前に迫ってきました。

時間がちょっと出来たので、開けてみました。

私には難しいお話の展開なので、今度ゆっくり読んでみたいと思います。


http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2010/0419/309359.htm?o=0&p=0

読売新聞(発言小町)より

今上記の場所を読んで涙が出て困っています。

ちょっとした言葉で勇気づけられる事が多いと思いますが、この場所でも見ず知らずの私にもお声かけ下さり、とても有難いと思いました。

忍草様

これは多分私の事なのでしょう。

>頂いたならば、(即等覚だから)死んだら即極楽と思われる方もなかにはいるのでは
>ないかと思って時折書き込みしているのです。

>教行信証の中に又カナ聖教のどこにも書かれていないと思います。

いつもいつも金剛心様や忍草様に反発しているようで申し訳ないと思いますが、
でもやはり納得いかないのです。

私は3回違う所で御縁頂いて、今が一番しっくり行っていると思います。

雑行、正行を分別できたと思っています。

そして今でも、あの自信教人信様の書き込みを信じられたのも、

泥凡夫様が書いて下さったことも

毎日様と違う場所でやりとりしていたお陰で、自分のしっくりいく道を知りました。


わたしは明治の頃の本願寺の説教に(親鸞会の掲示板にも載せましたが)、

蓮如上人が親鸞聖人の生まれ変わり(そのような事が御一代聞書きにも書いてあったと思います)だと思ったら、とても嬉しくなりました。

世間の人でも、上記のようにやさしい言葉にしんみりさせられるのです。



以前、毎日様の書き込みに「愚かだから選ばれた」と書かれていたように思いますが、私は、それを少し知らされたような気がします。


ここは後念相続の場所でしょう。

私はボン様や酒天童子様より、むしろ年齢的には忍草様や金剛心様に近いと思います。

でも、やっぱり側でお話聞きたくないなって思ってしまいます。

なぜか一方的に負かされそうです。

例えば、死んだら即極楽っておもわれる方も中にはいるって書き方でなくて、

「どうして菩提心さんはそう思うの?僕はそうは思えないけれど。一度そう思える事、ここでじっくり聞いてみたいな」って書いて下さると、とっても有難いなと思います。

今度ゆっくり読んで感想書かせて下さい。

これくらい書ける程に、回復しました。

どうも有難うございました。

ここで御縁頂いている皆様へ。

南无阿彌陀佛

●re.48
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1892 ] Re33:後念相続 2010/05/07 (Fri) 17:48 △up ▽down
菩提心様

ご無沙汰しております。

ご回復、何よりです。

皆様の御書き込みを日々拝見しておりまして、
御六字に関わる方がいらっしゃることを
よろこんでおります。

最近は、以前よりも怠けておりまして、
正信偈も忘れてきました。

ただ、さすがに六字は忘れないので
ございます。

いずれ、この六字も忘れてしまうかもしれませんが、
それでもよいのだと、
私としてはよろこんでおります。

実際のところ、死後どうなるか、
私には、わかりようがないのですが、
年がたつにつれ、
安心が深まる感じがすることが、
とてもうれしく思われます。

南无阿彌陀佛

●re.49
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1893 ] Re34:後念相続 2010/05/08 (Sat) 22:38 △up ▽down
  毎日樣

私などにも黙って書き込みさせて頂いて本当にありがとうございます。

  菩提心様

菩提心樣が賛嘆の書き込みをされないとサミシイですョ
3月26日以来ストップしたままです。

人それぞれ受け取り方・捉え方さまざまですが、前に書いたように賛嘆も継続すれば
それも精進だと思っています。後念相続もそういう意味ではやはり精進だと思います。

赤ん坊が生まれて大きくなるにつれて、食べ物も教育も少しづつ変化してやがては
大人になるのではないでしょうか?

二河白道の喩も此岸から彼岸へ白道(仏道)をわたるのですよね
菩提心樣も歩んでいるとかかれたと記憶しています。

ボン樣も私同様いくらかアマノジャクで勉強されているのかなと思っています。

みなさん人それぞれの考え方があるのは、それはそれで良いのではないでしょうか?

「人みて法(仏法)説け」と言うことわざがありますから・・・

御同行・御同胞となりたいと思って一定の範囲内で書き込みしているつもりです。

教行信證は浄土真宗の根本聖典です、信心を獲た方々に書かれているはずです。

又信心を獲た念仏行者の方々も親鸞聖人と同じところへ往きたいのではないでしょうか。

獲(え・う)る、得(え・う)る、即(すなわ)ち、則(すなわ)ち、等教行信證では
文字(漢字や単語・述語)の使い分けがはっきりされています。
又それらの文字をどこに配当されているか等も要注意です。

「信心を獲た」から「信心を得た」御同胞になりたいものです。

    合掌  ナムアミダブツ 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.50
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1894 ] Re35:後念相続 2010/05/10 (Mon) 01:45 △up ▽down
毎日様、こんばんは。

久々に書き込みを拝見することができて、とてもうれしく思います。
また、少し掲示板がにぎやかになってきて、うれしく思います。
これからも時々お声をお聞かせいただければ幸いです。


菩提心様、こんばんは。

徐々にパワーアップしてきているようで何よりです。
ご自分の感性に忠実で、へんに妥協しない菩提心様の姿勢には好感を覚えます。

私自身も、ちょっとした違和感を曖昧にしないで、その違和感を足がかりに調べたり、
考えたりすることによって、なにかいい方向に進んできているような気がします。


忍草様、こんばんは。

いつも示唆に富む書き込みをいただき、ありがとうございます。

>獲(え・う)る、得(え・う)る、即(すなわ)ち、則(すなわ)ち、等教行信證では
>文字(漢字や単語・述語)の使い分けがはっきりされています。
>又それらの文字をどこに配当されているか等も要注意です。

獲と得の使い分けにつきましては、これまで何度か書き込みをいただいておりますので、
これについての忍草様のお考えは、だいたい理解しているつもりです。

今回、即と則の使い分けにつきまして触れていただきましたが、これにつきましては、
初めて耳にしたものですから、教行信証の御自釈の部分を調べてみましたが、まったく
理解できません。ぜひ、詳しく教えていただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.51
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1895 ] Re36:後念相続 2010/05/12 (Wed) 00:12 △up ▽down
    ボン樣
即(すなわ)ち、の即(そく)は同時即、即刻・即時・イコール等
則(すなわ)ち、の則(そく)はのり・のっとっての則で、法則・規則等
ですから行にのっとって・法にのっとって・五念門にのつとって等で
行一念釈と信楽釈のように使い分けられています(到って・至る)。
又、速(すみやか)に、の速(そく)も大行利益釈・横超断四流釈で使用。
乃(すなわ)ちもつかわれていますね。

親鸞聖人は御自釈(私釈)で獲得と使用されているのは「能生清浄願心」釈
の一ヶ所だけだと思います。
必得往生釈 不退の位に至ることを獲(う)ることを彰(あらわ)すなりの釈を考えてくださればとおもいます。
わたしも聖人の御自釈はすべて抜書きしていますが面白いです。
もっと細かく書いたのですが猫がキーボードに乗っかって全部消されて
しまいました。アマノジャクな忍草です。
     合掌  南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.52
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1898 ] Re37:後念相続 2010/05/13 (Thu) 01:44 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

即と則の使い分けにつきまして、教えていただきまして、ありがとうございます。
これまであまりこうゆうことについて考えたことがありませんでしたが、日本語の読みが
同じでも、そもそも字が違うわけですから、意味が違っても当然ですよね。

漢和辞典で調べてみましたが、漢和辞典では以下のようになっています。

  即・・・同一の事物・人物であることを示す(とりもなおさず、つまり)
      ある出来事をうけて間を置かずに起こることを示す(ただちに、すぐに)

  則・・・判断を強調する(〜なのである)
      上下(原因と結果、仮定と結論、など)を結んで両者の関係を示す
      ある行為と、それにより発生・判明する新状況

  乃・・・前述の事実を受けて、それに続く結果を接続する。(そこで、それで)
      前述の条件を受けて、初めてある事態が出現したことを表す。(やっと)
      判断・断定を強調する(これこそ〜である、つまり〜だ)

「のっとって」というのは、原因と結果、仮定と結論を結ぶことにつながるわけですから、
聖人独自の言葉使いというよりは、一般的な言葉使いを踏襲しているように感じられます。

ところで、即と則の使い分けをご指摘いただいたのは、忍草様が以下のようにおっしゃっ
ていることと関連しているように思います。

>頂いたならば、(即等覚だから)死んだら即極楽と思われる方もなかにはいるのでは
>ないかと思って時折書き込みしているのです。

これまで忍草様といろいろお話をしてまいりまして、忍草様のおっしゃることはある程度
理解しているつもりです。死んだら即極楽の人もいれば、死んでも極楽までまだ距離があ
る人もいる、ということではないかと思っております。

そして、そのまだ極楽に至らないところが化土であって、「報土の中の仮土」から抜け出
せないままあの世にいくと、そこが化土だとおっしゃっているのだと思います。

しかし、そこのところは私にはまだわかりません。化土巻まで学習を進めてから、よく考
えてみたいと思います。はたして「報土の中の仮土」のままあの世にいってしまうことが
あるのかどうか、また仮にそうだとしても、その場合の行き先が化土なのかどうか、よく
考えてみたいと思います。

ただし、以下のことは間違いないものと思います。

「一念帰命」から「極楽往生」までの間には時間の経過もありますし、私たちの
「一念帰命」のときの状態と「極楽往生」のときの状態とを比べれば、当然そこに、
何らかのレベルの違いがあってしかるべきものと思います。

もし、そうでないのなら、何のために「二河の白道」のたとえがあるのか、ということに
なってしまいます。「二河の白道」を歩む姿は、「一念帰命」の行者が、ひたすら「西岸」
つまり「極楽往生」に向かって歩いてゆく姿を表現しているのだと思います。

「一念帰命」と「極楽往生」の間をつなぐものが、「二河の白道」であり、「念念相続」
であり、このスレッドのタイトルで言えば「後念相続」なのだと思います。

しかし、この「二河の白道」の歩みは、自力の歩みではなく、すべてが仏力、つまり他力
によって歩まされていると考えるのが、妥当だと思います。そして、他力だから退転する
ことがないのだと思います。

退転することがないから、安心なのだと思います。「仏のはからいにまかせた時の流れ」
の中に身を置くことができることが、とても幸福なことに思えますし、感謝すべきこと
なのだと思います。ここに、恐怖感や不安感の入り込む余地はないものと思います。

忍草様のおっしゃるとおり、「六要鈔」はとても大事だと感じております。
通しで読んでいるのは、まだ「行巻」の途中なのですが、「念念相続」に関する部分を
先回りして整理してみました。

--------------------------------------------------------------------------------
「念念相続」は無間修の義なり。(中略)ただし自力を励まば念念に続きがたし。
他力の益に依らば自然に相続して、十即十生・百即百生せん。(六要鈔・行巻)
--------------------------------------------------------------------------------
 「念念相続」は無間修の義である。(中略)ただし、自力を励むならば、念念を続ける
 ことは難しい。他力の利益によれば、自然と継続して、十人が十人とも往生し、百人が
 百人とも往生するだろう。
    無間修・・・行を間断させず、また煩悩をまじえないこと。
--------------------------------------------------------------------------------

ここでは「念念」が、自力であれば続かず、他力であればこそ継続すると、はっきり述べ
ています。そして、他力による者(つまり一念帰命の行者)は、だれもが必ず極楽往生に
いたると述べています。

--------------------------------------------------------------------------------
「念念不捨者」の句に就きて。その二義あり。一義に云わく、(中略)速かに衆事を抛っ
て、一心に称名を励むべき義なり。一義に云わく、凡夫の行者、この義は得難し。一食の
間に、なおその間あり。一期念念、いかでか相続することを獲ん。既に仏願に帰すれば、
機法一体・能所不二にして、自ずから不行而行の理あり。故に不捨という。機の策励にあ
らず。これ法の徳なり。当流の意に依らば、後の義を本と為す。(六要鈔・信巻)
--------------------------------------------------------------------------------
 「念念不捨者」の句について二つの義がある。一つには、(中略)すみやかに衆事を投
 げ打って、一心に称名を励むべきという義である。もう一つには、凡夫の行者は、この
 義を行うことは困難である。一食の短い間にも、なおその間がある。どうして一生涯の
 あいだ、念念を相続することができようか。しかし、すでに仏願に帰していれば、機法
 一体・能所不二であって、自ずから「不行而行」の理(ことわり)がある。だから、不捨
 という。機が励みを策するのではない。これは法の徳である。当流の意(こころ)によれ
 ば、後の義を本とする。
    一食の間・・・一度食事をするほどの短い時間
--------------------------------------------------------------------------------

ここでは、凡夫が称名に励むことは困難だが、一念帰命の行者は、機法一体だから
「不行而行(行ぜずして、しこうして、行ず)」だと述べています。つまり、「行者の側
から行じようとしなくても、自然と行ずるようになっている」ということだと思います。

私は「不行而行」という文言を見て、とてもうれしくなりました。この段は「一念帰命」
のことを言っているのではなく、まさに、「後念相続」の話をしています。「一念帰命」
の時刻に限らず、「極楽往生」に至るまでの「後念相続」のあいだ、ずーっと他力だと
言っているわけです。

当流は、徹頭徹尾、他力なのだと思います。自力では「後念相続」は続かないが、他力
だから「後念相続」が継続すると言っています。

こうしてみると、「一念帰命」の行者の「後念相続」の白道は、「摂取不捨」の道であり、
「不退転」の道であり、「機法一体」で仏と一緒に「極楽往生」まで続く道行きなのだと
いうことが、よく理解できます。とても力強く、頼もしい限りです。

先に申しましたとおり、「一念帰命」の行者が「報土の中の仮土」のままあの世に行って
しまうことがあるのかどうか、私にはわかりません。しかし、すでに仏願に帰していれば、
それは行者の主観的な意識に左右されるのではなく、仏のはからいにのみ左右されるもの
と感じておりますが、いかがでしょうか。

南无阿彌陀佛

●re.53
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1899 ] Re38:後念相続 2010/05/14 (Fri) 02:57 △up ▽down
    ボン樣
ご理解いただきありがとうございます。
ボン樣の
--------------------------------------------------------------------------------
「念 念相続」は無間修の義なり。(中略)ただし自力を励まば念念に続きがたし。
他力の益に依らば自然に相続して、十即十生・百即百生せん。(六要鈔・ 行巻)
-------------------------------------------------------------------------------
他力の益に依らばは、現生十益の金剛堅固の真心(信心成就位・不動地)
以上ではないでしょうか?
何故ならば過去に一念帰命を頂いて報土と云う言葉も知らずに、このあとは死んだら極楽に往けると思い込み、後念相続も受けず、普通のお寺の説教だけを聞いているうちに(当地の方はS会の地元ですので)ものたりなくなってS会に入会される方が沢山いるのです
(私が身を置いているお講でもそのような過去の話を聞きます)。
そのような方は歎異抄にあるように棄てるも棄てんも面々のはからいです。
頂いているのに棄てて(まったく否定して)本山の布教師になられた方も
知っています。私は本山の布教師になることを反対するのではありません。
棄てること(頂いたことを、信じれないと否定する事)を問題視するのです。
前相続もさせずに簡単に受けさせて、そのあと後相続も受けさせないから
往生は死んでからだとか(当然不体失往生の言葉も知らず)、還相廻向は
次にこの世にうまれて来ることだと思い込んでいる等、極楽(化土も含む)
以外はすべて現生を、すべて死んでからだと思い込んでいる方が多いから、
又S会等他の新興宗教などへ行かないように願って書き込みしているのです。
人は夫々です。人をみて法も説くべきだと思います。
私は一親鸞教徒として教行信證を理解しながら、少しでも祖師聖人の教えに近づければと思うばかりです。
教は大無量寿経
行は17願、諸仏称名の願(注・凡夫称名ではない)
信は18願、至心信楽の願(念仏往生の願)因願
證は11願、必至滅度の願 果(22願含む)であり又因でもある
了もさとり、解もさとり、證もさとり、覚もさとり、悟もさとり。
教行信證では解が一箇所あったはずですから、解から證、覚と現生で
進みたいものです。ひも解くから證へとだと理解します。
他力3願とは、18・19・20願だと思う方もいるかと思いますが、実際は
       18・11・22願です。
もしも仮に(100歩譲って)還相廻向が、死んだあと次の世で人間界へ
生まれて来ると云う方がいたとしても、この世へ生まれてきても赤ん坊
ですからやはり最初は何もわからないはずですよね。何もわからずに一念
帰命をいただいても、それの繰り返しではないでしょうか?。
(ここは菩提心様へ?)
    合掌  南無阿弥陀仏  南無阿彌陀佛。

●re.54
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1900 ] Re39:後念相続 2010/05/14 (Fri) 23:03 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

>後念相続も受けず、普通のお寺の説教だけを聞いているうちに(当地の方はS会の
>地元ですので)ものたりなくなってS会に入会される方が沢山いるのです

>頂いているのに棄てて(まったく否定して)本山の布教師になられた方も
>知っています。

当流に入った上で逸脱するものがそれほどに多いということに驚いています。また、
とても嘆かわしいことに思えます。こんなのは、仏法繁盛とは言わないと思います。
ようやく、忍草様のお気持ちが、多少は理解できたような気がいたします。

私が聞かせていただいたところは、前相続と後相続は、とても大事だと言っていました。
また、安易に聞かせてもかえって誹謗のもとになるからと、因縁をはかることをとても
重視しておりました。

「称」の字には、「はかる、となう、かなう」の意味があって、縁を「はかる」ことが
まず出発点だというのです。宿縁がなければ聞けないのですから・・・。

そこは、ほとんどが親戚・身内のあいだで受け継がれていたようなところで、
私のようなよそ者が聞かせていただくのは稀なことでした。

私が聞く前は、何度も御文の読みあわせをいたしました。それでも、私がピンボケの
対応をしたりすると「この話はなかったものにする」などと言って、しばらく相手に
してもらえなかったりしたものでした。

聞いたあとは、少々気が重たくても法話に顔を出したりすると、知識様は「喜んでいる
証拠だ」といってとても喜んでくれました。どんな馬鹿な質問にも、喜んで丁寧に答えて
くれました。

法話といえば、ほとんどが御文と「牛盗人の話」などの逸話で、「牛盗人と言われよう
とも口を割らなかった」という掟の話に終始したような感じでした。難しい教義は解ら
なくても、いただいたものを死ぬまで懐深くしまいこんで、最後まで捨てないことが
大事だという雰囲気でした。

「仏法は耳で聞くものだ」と言って、法話をとても重視しており、「聖典以外の私見の入
った仏教書は読むな」といわれておりましたので、お寺の説教を聴きに行くなどという
ことは、とても考えられないことです。

だから、忍草様のおっしゃるようなことが多々あるのだとしたら、とてもショッキング
なことです。忍草様が「道を反れるな」と警鐘を鳴らすのも分かるような気がします。
これはもう、教義的な解釈がどうのこうのという以前の問題のような気もします。

「道を反れるのもその人の縁だ」と言えばそれまでですし、「はじめから決まっている
こと」と言えなくもありません。しかし、「すべては仏のはからいだ」などと言ってすま
しておれずに警鐘を鳴らすことも十分理解できるのです。(それもふくめて「仏のはか
らい」なのかもしれません。)

ただ、ここの掲示板に登場する人たちは、「道を反れている」方は一人もおられないと
確信をしております。私も含めまして、教義的な理解が不十分で、不適切な言葉遣いを
していても、大目に見ていただければ幸いです。

教義的な理解が足りなくても、いただいたものを内心深くたくわえて、喜んで、一生涯
守り通すことが、何よりも大事なのではないでしょうか。信心堅固ではないまでも、
ふらふらしながらも、疑問は疑問としてぶつけ合いながらも、最後まで守り通して、
ゴールにたどりつくことが大事なのではないでしょうか。

そのために「同行には相近づけ」と言うのではないかと思っております。
この掲示板が、同行が相近づく場として機能することを願ってやみません。

南无阿彌陀佛

●re.55
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1905 ] Re40:後念相続 2010/05/20 (Thu) 00:54 △up ▽down
   ボン樣
ボン樣の
「私が聞かせていただいたところは、前相続と後相続は、とても大事 だと言っていました。
また、安易に聞かせてもかえって誹謗のもとになるからと、因縁をはかることをとても重視しておりました。

「称」 の字には、「はかる、となう、かなう」の意味があって、縁を「はかる」ことがまず出発点だというのです。宿縁がなければ聞けないのですか ら・・・。」       *佛語多含ですね。

私も「聖典以外は読むな」と教えられて、少し解ったと思った時は、「未だ
解っていない」危険な時とも言われてきました。
皆様方よくご存知の「お文」も、よくよく読めば結構「抑止文(おくしもん)」となっています(わかりそうで、わかりづらい)。

三丁目一通に「他力の大信心の趣を、懇に人に相たずねて、報土往生を決定
せしむべきなり」の「他力の大信心」・「報土往生を決定」が何故「大信心」
で「信心」ではないのか?「報土往生」は何故「浄土往生」となっていない
のか?又この一通目には、「阿弥陀仏」「阿弥陀如来」「弥陀如来」「阿弥陀仏
(あみだほとけ)」と四つの使い分けがされています。
この一通目を皆様方のご縁の方々からどのように聞かされているのか
知りたいのです。蓮如上人は適当に文字を使ってはいません。それなりに
理由があって使い分けされているはずです。

又二丁目一通に「・・・かように心得るを、すなわち他力の信心を得たる
人とはいうなり。又、この位を、或は正定聚に住すとも、滅度に至るとも、
等正覚に至るとも、弥勒に等しとも申すなり。又これを一念発起の往生
さだまりたる人とも申すなり。・・・」

ここでは「獲たる」ではなく、「得たる」人で住正定聚・必至滅度と
なっています。「獲得」の使い分けもきっちりとされています。

私は一人だけからではなく、いろんな人(知りそうもない人を含む)から
聴聞して、それの出典を確かめて、間違いのない信心成就(真実信心・
真実真心・疑心なき一心)となって御同行・御同胞となりたいと思うのです。
同行であっても同胞でなければ、親鸞聖人や蓮如上人とは違ったところへ
往くのです。

愚老樣、極道坊主樣ご意見いかがですか?
いろんな書き込み時にはお願い致します。
   合掌  南无阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.56
菩提心
非公開の非公開
[ 1906 ] Re41:後念相続 2010/05/20 (Thu) 10:16 △up ▽down
総会は終わりました。

しかし、役員改選の年なので色々な点で忙しいです。

その上、年齢的にも持続できません。

「寄る年波には勝てぬ」って言ったところでしょうか?

日々雑多な仕事に追われています。

でもそこで気づいたことが有りました。

大失敗したことは大失敗ではなかったということです。

私の上司はその失敗は失敗として反省するように言って下さいました。

その上司が、有る栄誉ある賞を頂きました。

その賞を頂くには、数多くの書類が必要でしたが、人に言わせると
私は「ラッキー」だったらしいのです。

私はその件に関しては何もしていないのです。

しかし、その後がいけません。

祝賀会をすることになりました。

何もしていなかったお陰で、今度は何をどうするのか全然分からないので
皆に頭を下げて協力して貰うしか有りません。

でも、その大失敗が功を奏していたのです。

今までの私なら、愚痴、不満が一杯出ていたと思います。

きっと書類を集めるにしても、イライラしていたと思います。

だってこの一番忙しい時にしなくてもと思うと、心底腹が立っていたと思います。

あの時の一番落ち込んでいたのは、今の私の心を正常心に抑えているようにという
阿弥陀様の善巧方便だったのだと思います。(前回の字は直しておきます)

私は書類を集める件に関して、人間の様々な利害関係、思惑、又案外、外見では計り知れない厭らしさ、
又その反対にとても思い有る優しさも知りました。

外見では惑うな。言葉では惑うな。それが今回の教訓です。


総会が終わったら、じっくりと思っていましたが、7月までずれ込む事になりました。

その間の、忍草様やボン様の書き込み、時折見られること、感謝です。

後念相続、きっとここで花開くことでしょう。

足しげく通わなくても、私はここの過去ログ読んでいるだけでもとても有難いです。

「一往の義」、「再往の義」の個所等、とても参考になり嬉しくなります。

私は、この掲示板では嘘は書かないように努めて来たのですが、大きな嘘を書いてしまいました。

だから、その気持ちが落ち着くまでは、「味わい」の場所にはとても書けないと思いました。

>そこは、ほとんどが親戚・身内のあいだで受け継がれていたようなところで、
>私のようなよそ者が聞かせていただくのは稀なことでした。

上記のようではないですが、でも昔からいる人達の輪にはなかなか入れないなと感じるようになっていました。

自分に無理していると思っていました。

ただ仏法のお話が聞きたい、それだけなのに、その人間関係で振り回されている自分が嫌でした。

それなのに、楽しく帰ってきたと書いた自分が許せませんでした。

私はそういう点では、融通性のない頑固な人間です。

ですから、ここで仏法のお話が聞けるのはとても楽しいです。

もう、心は元気一杯です。

後は同じ過ちを繰り返さないように、慎重に仕事を全うしていきたいです。

それでは、忍草様、ボン様

そして毎日様、有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.57
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1907 ] Re42:後念相続 2010/05/23 (Sun) 23:21 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

いつも、私の知らない話をいろいろ教えていただいて、ありがとうございます。
また、私の理解していないお話が多々出てきておりますので、ぜひ詳しく教えて下さい。

わからないことはいくつかあるのですが、一度にいろいろうかがいましても、
私のほうで混乱いたしますので、ひとつずつ教えて下さい。

>三丁目一通に「他力の大信心の趣を、懇に人に相たずねて、報土往生を決定
>せしむべきなり」の「他力の大信心」・「報土往生を決定」が何故「大信心」
>で「信心」ではないのか?

ここでいう「他力の大信心」はなぜ「信心」ではないのか、私にはわかりません。
もし、差し支えなければ、ぜひ教えていただきたく存じます。

どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.58
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1908 ] Re43:後念相続 2010/05/24 (Mon) 14:23 △up ▽down
   ボン樣へ
[ 1904 ]での極促の解釈ですが、行巻の初めの「極速圓滿す」と聖人の
私釈での『必得往生釈』に書かれている「報土の眞因決定する時剋の極促を
光闡するなり」での極促の解釈を混同されているのではないかと老婆心
ながら心配になったのです。 ボン樣は
極促
「時剋の極促」のこと。信を得、往生が定まった最初のとき。
とされているのが気になるのです。理由は「極促」(極めて短い)とされて
いるからです。
行巻初めの「極速」は大行ですからあの時で理解出来ると思います。
『極促』は「必得往生」釈の「不退の位に至ることを獲(う)ることを彰
(あらわ)すなり。・・・金剛心成就の貌なり」と書かれています。
極は「きわめる」促は「うながす、ちぢめる」ですから極促は極めることを
促す(ちぢめる)と捉えるべきではないでしょうか。

そう捉えれば「獲得」釈も行の一念と信の一念釈も、一念帰命と
信心成就での「眞實信心」「眞實の一心」「金剛の眞心」等の単語も理解
出来るのではないでしょうか。

私はあくまでも、親鸞聖人・覚如上人・存覚上人・蓮如上人がたは、字の
使い分けはハッキリとされていると信じています。
前回も申しましたように色々な方々が読まれても、信心を頂いていない
人には解らないように「抑止文」となっていますので、要注意です。
「抑止(おくし)」も現代では「抑止(よくし)」と読むのですが、
教行信證では「抑止文(おくしもん)」と使われていますので、私も
そのように用いています。

信を獲て後、信心成就となれば信心を得てとなり、大信心と書かれて
いるのです。
教行信證でも信巻末以降、大慶喜心・大菩提心等の文字がでてきます。

遇獲難信です。獲信して則ち(のっとりて)至りて信心成就です。
こだわる忍草です(素直に成就となりたいから)。
合掌  ナムアミダブツ 南無阿彌陀佛。

●re.59
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1909 ] Re44:後念相続 2010/05/26 (Wed) 09:02 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

いつもお相手をいただき、ありがとうございます。

>信を獲て後、信心成就となれば信心を得てとなり、大信心と書かれて
>いるのです。

つまり、忍草様のおっしゃっていることは、「信心」と「大信心」の使い分けが、
 1度目の往生「一念帰命」のときに「信心」を「獲る」
 2度目の往生「信心成就」のときに「大信心」を「得る」
というふうになっているということだと理解できますが、それでよろしいでしょうか。

ところで、以前にも話題になりました、この2度目の往生「信心成就」というのは、
念念相続する時間の流れのなかのどこかに存在するかもしれないし、人によっては
道を反れれば訪れないかもしれない、というようなものだという理解でよろし
いのでしょうか。

それが仮に訪れたとしても、その訪れたときには本人はそれと自覚できないもので
あって、あとになって結果論的にわかるものだということでよろしいでしょうか。

もしそうだとすると、忍草様の引用いただいた御文(3-1)の「あひかまへて、今日より
して、他力の大信心のおもむきをねんごろに人にあひたづねて、報土往生を決定せしむ
べきなり。」という文章としっくりこないような気がするのです。

「あいかまえて」「ねんごろに人にあひたづねて」というのは、まさにあのとき、
つまり、1度目のような印象を受けるのです。

もしそれが2度目だとしても、それは確かな明確な「時」があって、その「大信心」
をさずかった者もそれを自覚しているのでなければ、すっきりしません。

また、御文1-11に次のようなくだりがあります。

--------------------------------------------------------------------------------
しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、
信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、(御文1-11)
--------------------------------------------------------------------------------

つまり、「他力の大信心」の次第をよく知っている人に聞いて、自分が信心決定したら、
今度はそれを弟子にも教えなさい、というわけです。「それを人にも教える」ということ
は、やはり、「他力の大信心」を本人もよく自覚していなければならないのではないでし
ょうか。

また、御文2-13には、次のように述べています。

--------------------------------------------------------------------------------
これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられ
たり。かるがゆゑに、行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふ
ことは、いまこそあきらかにしられたり。(御文2-13)
--------------------------------------------------------------------------------

つまり、「他力の大信心」というのは、行者のおこすところの信心ではなくて、弥陀如来
から授けられるものだから「大信心」というのだ、言っているように読めます。「大信心」
については、こういう理解ではだめなのでしょうか。

それとも、「一念帰命」から進んで「信心成就」に至ったから、「大」というのだという
ことについて書かれている文章を教えていただければ、忍草様のおっしゃることも納得が
しやすいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.60
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1910 ] Re45:後念相続 2010/05/26 (Wed) 23:41 △up ▽down
   ボン樣へ
基本的なことから対話しましょう。
1、先ず、大経は真実の教、観経・阿弥陀経は方便の教ですね。
2、大経の48願は12,13,14願(摂法身)31,32願(摂浄土)を除く他の
 43願は摂衆生の願で理解頂けますか。

ここで、一念帰命で摂取されたのであれば、18願だけを頂いたのでしょうか。
又は何願と何願を頂いたのか、ボン樣の考えをお知らせ下さい。

忍草は43願総ての願を頂いていると思うのですが、人は凡夫であるがゆえ
(十信中の忍ですから)に、三明六通以下、ほとんどの願を貰っている
のか、いないのか、それすらわからないのではないでしょうか。

けれども、11,22,33,35、願あたりはなんとなく頂いているような気がする
のではないでしょうか。あわよくば34,47,48願等もひょっとしたら?と
思う方もいるのではないでしょうか。

48願の中の対機は、国の中の人天、十方の衆生、他方の仏土の諸(もろもろ)
の菩薩衆、国の中の菩薩、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類(たぐい)
十方無量不可思議の諸仏世界の女人、同前諸菩薩衆、同前諸天人民、
他方国土の諸菩薩衆、十方世界の無量の諸仏、の十種類です。

11願は国の中の人天、17願は十方世界の無量の諸仏、18願は十方衆生、
22願は他方仏土の諸の菩薩衆、33,34願は十方無量不可思議の諸仏世界の
衆生の類、35願は同前諸仏世界の女人、37願は同前諸仏世界の諸天人民、
47,48願は他方国土の諸菩薩衆です(八種類の対機)。

こうして見ると自分に都合の良い願だけを貰っているように思われる
のですが(対機で見ると)、大事な処ですのでボン樣の考えを是非
聞きたいのです。

善知識樣といえども他力の信心で頂くのは一念帰命だけです(仏からは)。

ここでの問題点は与える側(阿彌陀佛)と、頂く側の捉え方の違いでは
ないでしょうか?。
頂くのは一度だけの帰命礼ですが、以前に菩提心樣他の方々からそれだけで
弥勒同等の等正覚を頂いたと記憶しているのですが(記憶違いでしたら
謝ります)、だけど自分は凡夫であって菩薩ではないと頑張っておいででした。

私は、頂いた時点では初歓喜地で、精進(正しい後念相続)して信心成就
四十八地以上の上地の菩薩位(出来れば五十一地まで)へと二河喩のように
仏道を歩むべきだと書くのです。(衆生側からの意見)。

与える佛側は一度だけの帰命礼ですから、48願総てを与えているから、
弥勒同等で宜しいと思います。
そうすれば、この世のうちに弥勒同等ならば、三明六通他全ての願が
具わっているはずならば、五念門の出第五門で自由自在に大慈悲心で
お手引きも自在にできるはずです。

都合の良いのはこの世のうちで、むずかしいのは死んでからあの世で
頂けると皆様方はおっしゃりたいのではないでしょうか?。

佛は平等に与えても、頂く方の勝手な捉え方次第(自分に都合の良い)で
宜しいのでしょうか。

仏界は凡夫では往けないと六要鈔に書いてあるはずです。

私は穢体は凡夫であっても頂いた仏種は41地の菩薩位だと以前から書き込み
しているのです(現生と仏界の二重戸籍)。

与えた側(仏)と頂いた側のどちらで見るか、ここだけは与えた側で見て
自分の都合の良い(悪い)ところは、頂いた側で見るというのはいかがかと
思うのですボン樣はどういう風に思われますか。

今回は何もボン樣を皮肉るつもりではありません。
ボン樣との対話の中で今までいつもいろんな方々の書き込みを思い出して
おさらいのつもりです。

個々人の捉え方の違いはそれはそれで宜しいと思います(自由ですから)。
彼此での見方で、まったく逆になったり、ありえないことになったり
すると思われるのです。

是非ともボン樣の見解を知りたいのです。

  合掌 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.61
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1911 ] Re46:後念相続 2010/05/27 (Thu) 10:10 △up ▽down
ボン樣へ
つまり、忍草様のおっしゃっていることは、「信心」と「大信心」の使い分けが、
 1度目の往生「一念帰命」のときに「信心」を「獲る」
 2度目の往生「信心成就」のときに「大信心」を「得る」
というふうになっているということだと理解できますが、それでよろしいでしょうか。

ところで、以前にも話題になりました、この2度目の往生「信心成就」というのは、
念念相続する時間の流れのなかのどこかに存在するかもしれないし、人によっては
道を反れれば訪れないかもしれない、というようなものだという理解でよろし
いのでしょうか。

私はそのように理解します。
完全他力ですから、自分が成就に至ったか至らぬか、それを知ろうとすることは
自力のはからいだと思うのです(量・称・計)。佛法には関係ない煩悩の悪い
ところだと思います。
私はそのような事は阿彌陀さま任せでよいと思って、以前にも佛のみぞ知るところ
なりと書いた記憶があります。

親鸞聖人や法然上人等三願転入の方々と、弘願直入の我々衆生とは、信心の入り方が
違うと思いませんか?。
同じ一念帰命でも、短時日で成就される聖人方と、何もわからない凡夫がいかに
前相続を少しして頂いても、又後相続を少しづつして行っても成就位には時日が
必要だと思われませんか。

それでも二河白道を歩んでいれば、必ず極樂へは往けるとおもいます。

ただ道が反れて行くと違うところへ往きつくと思うのです。
  
    合掌  南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.62
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1912 ] Re47:後念相続 2010/05/28 (Fri) 00:11 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

いつも示唆に富むお話をありがとうございます。
私の知らないお話が次から次と出てきて、息切れがしそうです(^^)が、
ご質問ですのでお答えします。

>ここで、一念帰命で摂取されたのであれば、18願だけを頂いたのでしょうか。
>又は何願と何願を頂いたのか、ボン樣の考えをお知らせ下さい。

私は「信心をいただいた」と教わりました。その信心とは、「他力の信心」ということ
です。「他力」だから「金剛の(こわれない)信心」だと思います。

「18願をいただいた」とは教わりませんでしたが、「18願によって救われた」と教わり
ました。だから、「何願をいただいた」ということではないと思っております。

忍草様の質問に対するお答えはこれだけですが、これでは少々そっけないでしょうか。

ところで、忍草様のお話は難解で、なかなかその意図を理解しづらいのですが、
私なりの理解を試みたいと思います。忍草様は、次のようにおっしゃいます。

「他力の信心で頂くのは一念帰命だけです(仏からは)」
「頂くのは一度だけの帰命礼ですが」
「与える佛側は一度だけの帰命礼ですから、48願総てを与えているから」

つまり、与えるのも、いただくのも、一度だけの帰命礼だが、そこで48願すべてを与え
ていただいている、という前提に立っておられると考えてよろしいのかと思います。

そこで「一念帰命で摂取されたのであれば、18願だけを頂いたのでしょうか。」と問いか
けておられますから、たぶん、私も含めて「18願だけを頂いた」と思っている人が多い
と捉えているのではないかと思います。

しかし、実際は48願すべてをいただいたのだから、一念帰命(18願)から努力を重ねて、
48願すべてを与えられたものにふさわしくなるように、「二河の白道」を進まなければ
ならない、というようにおっしゃているのだと思いますが、いかがでしょうか。

「二河の白道」を進むと言うことについて、もちろん異論はないのですが、
「二河の白道」もまた、自力の道ではなく、他力の道なのだと思っております。
「不行而行」ということです。

ところで、聖人は化土巻で「第十八の願は別願の中の別願」と述べておられます。

--------------------------------------------------------------------------------
念仏証拠門の中に、第十八の願は別願の中の別願なりと顕開したまえり。(化土巻)
--------------------------------------------------------------------------------

また、六要鈔では、第十八願は願王であると述べています。

--------------------------------------------------------------------------------
第十八願、これを願王とす。これ則ち衆生生因の願なるが故に。余の四十七はみな欣慕の
願なり。(六要鈔・証巻)
--------------------------------------------------------------------------------

しかも、「余の四十七はみな欣慕の願」であると述べています。「欣慕」というのは
「ねがいしたう」ということです。つまり、これによって浄土を願い慕わせて、最後は
18願に引き込むということではないかと思います。

そうすると、ベクトルの方向は「47願⇒18願」であって、「18願⇒47願」ではないと
思うのですが、いかがなものでしょうか。

>親鸞聖人や法然上人等三願転入の方々と、弘願直入の我々衆生とは、信心の入り方が
>違うと思いませんか?。
>同じ一念帰命でも、短時日で成就される聖人方と、何もわからない凡夫がいかに
>前相続を少しして頂いても、又後相続を少しづつして行っても成就位には時日が
>必要だと思われませんか。

弘願直入だから、19願、20願に逆戻りするということでしょうか。
弘願直入だったら、「こんなラッキーはない」と喜んでいればいいのではないでしょうか。
いただいたものを内心深くたくわえて、道をそれず、死ぬまで捨てずに大事にすればよい
のではないでしょうか。そうすれば、自ずと増上させると約束いただいているのではない
でしょうか。それが「不行而行」、つまり「行せずして行ず」ということだと思います。
「二河の白道」を歩むというのはそういうことではないかと思うのですが、いかがでしょ
うか。

南无阿彌陀佛

●re.63
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1915 ] Re48:後念相続 2010/05/30 (Sun) 04:21 △up ▽down
    ボン樣
「18願だけを頂いた」のでしたら、何故住正定聚なのでしょうか?。
住正定聚は必至滅度11願で成就文のはずです。

一念多念文意に「他力信樂の人はこの世のうちに不退の位にのぼりて、
必ず大般涅槃のさとりを開かんこと弥勒のごとしとなり」とあります。

11願は證巻に配当されていますね。
『謹んで眞實證を顕わさば、則ち是れ利他圓滿之妙位、無上涅槃之極果なり。
則ち是れ「必至滅度之願」於(よ)り出でたり、亦「證大涅槃之願」と
名(なづ)くるなり』となっています。

信心を頂いたら、極促(極めて短い)で、「往生が定まった最初のとき」と、
一念帰命ですぐに願成就文の必至滅度に到達される感じ方です。

私は上記のように、18願に則(のっとり)てこの世のうちに48地以上の
不退の位まで、二河白道を歩んで涅槃分を證(さとる)るが、
不断煩悩得涅槃(分)だと思うのですがいかがでしょうか。

たのむ一念は行の一念で「往生一定・御たすけ治定」であって、信の一念は
信心成就の滅度の證りだとおもいます。

山科連署記に「御たすけありたる事のありがたさよと。念佛申すべき候や。
又御たすけあろうずる事のありがたさよと。念佛申すべく候やと。
空善たずね申されける時。仰(おおせ)にいずれもよし。但し正定聚の
かたは。御たすけありたるとよろこぶ心なり。滅度のさとりの方は。
御たすけあろうずることのありがたさよと申(もうす)心なり。いずれも
佛になることをよろこぶ心よく候と仰(おおせ)られき。」と、あります。

又同記に、「教化する人まず我信心をよく決定して。そのうえにて聖教を
よみ。かたらば。聞(きく)人も信を取(とる)べきなり」
又「近松顕證寺蓮淳に對して仰(おおせ)に。信心をよく決定して。人にも
信をとらせよと仰られき。」又「聖教をよくおぼえたりとも。他力の安心を
しかと決定なくば。いたずらごとなり。彌陀をたのむところにて。往生
決定と信じて。ふたごころなく臨終までとうり候はば。皆往生すべきなり。」
又同記末にも「信心をしかととりたる人すくなし。・・・・・」
又「御遺言にてあるぞ。一念の信心をよくよくとるべしと。みなみな兄弟中
へ別して仰せられき。」又同記最終に「今度の御遺言聊(いささか)も間違敷
(ちがいまじ)くよし。堅く御兄弟中談合ありて定めらる。しかれば
総坊主衆へも。一念の御遺言をしかと決定なくば。あさましきことなり。
先師上人へはや御請(おうけ)を申さるる上は。しかと信心を決定して。
佛法興行なくば。御住持を御斟酌あるべき旨、顕證寺を御使(おんつかい)
にて諸坊主衆へ。仰出(おおせいだ)さるるあいだ各々忝(かたじけな)き
よし御請申しけり。」等、書かれています。

「信心をよく決定して」「しかと信心を決定して」というのは、たんなる
一念帰命ではなく、その上での信心成就位だと受け取れませんか。

私は現生で證巻(必至滅度、還相廻向)眞佛土巻へと歩む(領解する)のを
精進だと云いたいのです。それが「不行而行」だと思います。
間違った捉え方、還相廻向は死んでまたこの世へ衆生済度のために出てくるとか(それも一部ありますが)、報土とはこの世ではなく極樂のことだと
云う捉え方で、お手引きするのはいかがなものでしょう。
極樂浄土は報土ではないと言うのではありません。真実報土ですから。

ボン樣の「いただいたものを内心深くたくわえて、道をそれず、死ぬまで
捨てずに大事にすればよいのではないでしょうか。」
その通りですが、間違った解釈や間違った捉え方で、自ずと増上して極樂へ
往けるとお思いでしょうか?。

ボン樣は『教行信證』や『六要鈔』を紐解いておいでですから、最終的には
間違った捉え方はなさらないと思いますが、「教行信證」なんかむずかしくて
読む気もしない、何もわからなくても極樂に往ける。と思い込んでいる方々
に捉え方(現生でのことを、死んでから極樂に行ってからと取り違えして)
がそれで好いのかと気になるのです。
簡単に頂いたからこそ、そのうらにはむずかしいものがあるとは思えない
ものなのでしょうか?。顕彰隠密とは表裏一体ではないでしょうか。
自分勝手に捉えるのではなく、素直に聞く耳を持てばよいと思えるのですが。

自他同時が簡単そうでむずかしいのかも知れませんね。

    合掌 南无阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.64
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1916 ] Re49:後念相続 2010/05/30 (Sun) 13:05 △up ▽down
   ボン樣
御一代記聞書にも〔2〕に「・・・たのむ機にやがて大善・大功徳を
與へたまうなり。・・・」と、やがてと書かれ大善・大功徳と大が使われて
います。
〔11〕に「他力の安心をしかと決定なくば徒事なり」ここにもしかとと
書かれています。
〔18〕に「御たすけありたる・あろうずる事」の山科連署記の文。これは
〔204〕も参考にされたし。覺(さとり)の方は涅槃分とあります。
〔39〕「同座をもしてあらば、不審なることをも問えかし、信をよくとれかし」
と「よくとれ」と書かれています。
〔82〕に「日比(ひごろ)知れる所を善知識に逢いて問えば、徳分あるなり。・・・」「不知處(しらざるところ)を問はゞ、いかほど殊勝なる事あるべき」と
確かめて深める事も書かれ。
〔87〕で「物を言へ言へ」「物をいわぬ者は恐ろしき」「信・不信ともに
たゞ物を言へ」「物を申せば心底も聞こえ、又人にも直さるゝなり。たゞ
物を申せ」ともあります。
〔90〕に「聖教を拝み申すも、うかうかと拝み申すはその詮なし。蓮如
上人は「たゞ聖教をば繰れ繰れ」と仰せられ候。又「百遍これをみれば
義理おのづから得る」と申す事もあれば、心を留むべき事なり。聖教は
句面の如く心得べし。其の上にて師傳・口業はあるべきなり。私にして
會釋すること然るべからざる事なり。と勝手な解釈をいましめてあります。
〔108〕には「何ともして人に直され候ように心中を持つべし。・・・たゞ
人に直さるゝように心中を持つべき由儀に候。」と腹立てず、上下を問わず
素直に聞く事を。
〔128〕「法にはあらめなるが悪し。世間には微細なるといえども、佛法には微細に心をもち、こまかに心を運ぶべき」由おおせられ候。と書かれ、
〔152〕に「難中之難」を「往生ほどの一大事、凡夫のはからうべきにあらず」
「後生一大事と存ずる人には、御同心あるべき由仰せられ候」ともあり。
〔160〕には「・・・佛法には無我にて候上は、人に負けて信をとるべきなり。
理をまげて情を折るこそ佛の御慈悲なり」と我をいましめられています。
〔226〕に「・・・佛法の事は幾度も幾度も人に問い極め申す事なる」由
仰せられ候」と極める(解・證・覚)とさとされていると思います。

私も〔213〕「心得たと思うは心得ぬなり、・・・少しも心得たると思う
ことは、あるまじきことなり」・・・「さればこの機の上に持(たも)つ所の
彌陀の佛智を募りとせんより他は、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」を
肝に銘じて「信心成就をして、佛智が少しでも増上するよう心がけていき
たい」と自分を戒めています。

合掌 南无阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.65
菩提心
非公開の非公開
[ 1917 ] Re50:後念相続 2010/06/01 (Tue) 11:36 △up ▽down
忍草様

>私も〔213〕「心得たと思うは心得ぬなり、・・・少しも心得たると思う
>ことは、あるまじきことなり」・・・「さればこの機の上に持(たも)つ所の
>彌陀の佛智を募りとせんより他は、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」を
>肝に銘じて「信心成就をして、佛智が少しでも増上するよう心がけていき
>たい」と自分を戒めています。

私、いつか明治書院の聖典、拝読しているって書いたことあるでしょう。

それで上の個所探してみたんです。

そしたら、間違っている個所発見しました。

グットタイミング。

749頁 御一代記聞書末

(213)さればこの機の上に持つ所の彌彌の佛智を募らんより他は凡夫・・・

ふりがなは「みだ」って書いてあるんですね。


以前、金剛心様ご指摘の有縁の善知識様のご著書が間違いを正して新しくなったので

買って読んでみたら、やっぱり以前のままの「一応の義」「再応の義」になっているんですね。

私、あまりよく分からないので、インターネットで検索してみました。

すると、「一応の義、再応の義」では、147,000件ですが、「一往の義、再往の義」では、15,600,000件なんです。

すぐに色々と調べられるのは有難いですね。


「善き悪しき人は嫌はず煩悩の心を簡(えら)ばず隔てずして往生は必ずするなりとしるべし」   

「釈迦・彌陀・十方の諸佛みな同じ御心にて、本願念仏の衆生には影の形に添へるが如く離れたまはず」と證せり

「しかればこの信心の人を釈迦如来は「わが親しき友なり」とよろこびまします。」

                             (末燈鈔)

大失敗してから、私の心に変化が見られます。

救われているんだなという実感が出てきます。


素直に聞ける私でもなく、

自分を戒める器もない私でも、

一念帰命の六字の姿が信じられたんですから。

これを佛智不思議といわずに何をかいわんや・・・なんて凡夫の私は一人喜んでいます。

世間事で辛い事があっても、後少しの辛抱。

そう思っていたんですが、でも最近は何とかなるような気がしてきました。

この法が絶えず、今の私のところまで届いてきている。

これ以上の有難さはないと思っています。


ちょっとお邪魔しての感想です。

南无阿彌陀佛

●re.66
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1918 ] Re51:後念相続 2010/06/02 (Wed) 04:35 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

浮世の野暮用で、今日から4日間出張のため、そのあいだ残念ながらこの掲示版を開くこと
ができません。

蓮如聖人の数々のいましめのお言葉をご紹介いただきありがとうございます。
私もかつて、諸先輩の方々に「物を申さぬものはおそろしき」「人はかろがろとしたるが
よい」「微音に物を申すな」などと教わりましたので、これらの金言を改めてお示しいた
だき、ありがたく、また懐かしく思っております。

また、仏法に自己流の解釈を入れてはならないし、自己流の解釈の入った書物を読んでは
いけないとも教わりました。ですから、私は、かつて善智識様や諸先輩の方々に教わった
ことをベースとして、聖典の文言に照らし合わせながら、理解を進めたいと思っております。

ところで、少々誤解があるようですので、あらためて申し上げます。

>「18願だけを頂いた」のでしたら、何故住正定聚なのでしょうか?。
>住正定聚は必至滅度11願で成就文のはずです。

私は「18願だけを頂いた」とは申しておりません。もちろん、「18願をいただいた」とも
「48願をいただいた」とも申しておりません。繰り返しになりますので、私が前に書いた
ことをそのまま引用します。

>「18願をいただいた」とは教わりませんでしたが、「18願によって救われた」と教わり
>ました。だから、「何願をいただいた」ということではないと思っております。

そもそも、何願であれ、「願文をいただく」という表現には、どうも馴染めません。
私どもは、仏様から「金剛の信心」をいただいたのであって、願文をいただいたのでは
ないと理解をしております。

ところで・・・、

>ボン樣の「いただいたものを内心深くたくわえて、道をそれず、死ぬまで
>捨てずに大事にすればよいのではないでしょうか。」
>その通りですが、間違った解釈や間違った捉え方で、自ずと増上して極樂へ
>往けるとお思いでしょうか?。

「いただいたものを内心深くたくわえて、道をそれず、死ぬまで捨てずに大事にすれば
よい」ということについて「その通り」とおっしゃっていただいたことは、たいへん
心強いかぎりです。

一方で「間違った解釈や間違った捉え方で、自ずと増上して極樂へ往けるとお思いでし
ょうか」とおたずねですが、裏を返せば「間違った解釈や間違った捉え方をしていたら、
自ずと増上して極樂へ往けるわけがない」とおっしゃっているのだと思います。この点
につきましては、2つの疑問があります。

ひとつは、「いただいたものを内心深くたくわえて大事にしている者」が「間違った解釈
や間違った捉え方」をするということがありうるのかどうかという疑問です。

もうひとつは、「いただいたものを内心深くたくわえて大事にしている者」が、仮に万が一
「間違った解釈や間違った捉え方」をした場合、本当に極楽に往けないのかどうかという
疑問です。

ひとつ目の疑問についていえば、仏は、一念帰命の行者を必ず増上させると誓っている
ことをどう考えればよいのかということです。

--------------------------------------------------------------------------------
もし仏を称して往生する者は、常に六万恒河沙等の諸仏のために護念せらる。故に護念経
と名づく。いますでにこの増上の誓願います。憑むべし。(行巻)
--------------------------------------------------------------------------------
一切善悪の凡夫、生ずることを得る者は、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせ
ざるはなきなりと。(行巻)
--------------------------------------------------------------------------------

「増上の誓願」と述べています。「増上を誓う」ということです。「増上縁とせざるはな
き」と述べています。

また、ふたつ目の疑問についていえば、「摂取不捨」「不退転」「金剛の信心」という
言葉をどうとらえたらよいかということです。「摂取して捨てたまわず」「退転しない」
「壊れない信心」といっているのに、極楽に往けないというのはどういうことなのでしょ
うか。

次のような文言もあります。

--------------------------------------------------------------------------------
正定聚の位に定まるを「不退転に住す」とはのたまへるなり。この位に定まりぬれば、
かならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆゑに、(一念多念証文)
--------------------------------------------------------------------------------
如来の本願のみなを信ずる人は、自然に不退の位にいたらしむるをむねとすべしとおもへ
となり。「不退」といふは仏にかならず成るべき身と定まる位なり。(尊号真像銘文)
--------------------------------------------------------------------------------
「真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 不退のくらゐにいりぬれば かなら
ず滅度をさとらしむ」と候ふ。(親鸞聖人御消息)
--------------------------------------------------------------------------------

「かならず無上大涅槃にいたるべき身となる」「仏にかならず成るべき身」「かならず
滅度をさとらしむ」と述べています。「かならず」です。「かならず」と言っているのに
極楽にいけないのでしょうか。何があっても「かならず」悟らせるといっている仏の言葉
を信用してはいけないのでしょうか。

--------------------------------------------------------------------------------
あながちにさとらんとはげめとにはあらず。無智の凡夫は法性無生のことわりをしらずと
いへども、ただ仏の名号をたもち往生をねがひて浄土に生れぬれば、かの土はこれ無生の
さかひなるがゆゑに、見生のまどひ、自然に滅して無生のさとりにかなふなり。(真要鈔)
--------------------------------------------------------------------------------

「一概に悟ろうとして努力せよというのではない」と言っています。「法性無生のことわ
りを知らなくても、かの土では、自然に滅して無生のさとりにかなう」と言っています。

--------------------------------------------------------------------------------
このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふ
こころなりとおもふべきものなり。(御文)
--------------------------------------------------------------------------------

蓮如上人は、一切の聖教は、ただ南無阿弥陀仏の六字を信じさせるためのものだとまで
言い切っています。いったんこの御法に当たったものが、聖教を詳しく理解することが
何よりも大事だということではない、と言っているようにも見えます。

逆に、「この御法に当たったものが、仏典を読み間違ったらどうなるか」ということにつ
いて書いている聖典について、浅学につき私は知りません。もし忍草様がご存知でしたら、
教えていただきたく存じます。

どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.67
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1925 ] Re52:後念相続 2010/06/12 (Sat) 04:53 △up ▽down
   ボン樣へ
帖外和讃に 
多聞浄戒えらばれず 破戒罪業きらわれず
ただよく念ずるひとのみぞ 瓦礫(がりゃく)も金(こがね)と変じける
金剛堅固の信心は 佛(ほとけ)の相続よりおこる
 他力の方便なくしては いかでか決定心をえん
超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは
 有漏の穢身はかわれねど こころは浄土にあそぶなり

よく念ずるひとのみぞ  
金剛堅固の信心は佛の相続よりおこる
こころは浄土にあそぶなり  とありますね。

後相続の中で善知識さんから、「貴方は法蔵比丘ですよ」と言われたことは
ありませんでしたか?
もし法蔵ならば、精進してもあたりまえですよね。

極促 即ち・則ち 獲・得等を今一度検討下されば私が云いたい事も
少しはおわかり頂けるのではないでしょうか。

有縁の善知識さんにもっとお尋ねください。
善知識さんのお持ちの書類の中からきっと良い話が窺えるはずです。

日光東照宮の三猿も、みざる、きかざる、いわざる も逆に
目できけ、耳できけ、口できけ と捉える方法もありますよ。
徳川家は浄土宗ですが日光東照宮の庭守に知識さんが居たと聞いた事が
あります。「百里の道も九十九里で半分(なかば)とせよ」何かこのような
格言を家康の言葉とうっすらと憶えていますが間違いでしょうか?。

往生一定・御たすけ治定から信心成就まで二河白道を一分二分と歩む事が
後相続であり精進だと書いているのです。
歓喜と大慶喜心の違いです。
還相廻向も五念門の出第五門もすべて現生の精進の中だと云うのです。

法蔵の件能く能く(シツコク)聞かねば教えて頂けないかもしれませんが。
(四大の藏(ぞう)に帰命の一心)とは。と聞けば。
掟にふれるかなと思いながらの書き込みです。

   合掌 ナムアミダブツ 南无阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.68
菩提心
非公開の非公開
[ 1926 ] Re53:後念相続 2010/06/12 (Sat) 17:11 △up ▽down
>私が言いたいのは「即得往生 住不退転」とは不断煩悩でも報土という浄土(極樂浄土ではありません)へ即得往生し、信心成就(十一願成就)ならば住不退転となるという事です(入正定聚と住正定聚は字も違います)。
>一念帰命をいただく人によっては入正定聚の人の方が多数だと思いますが、
>中には昔の妙好人のように即住正定聚の方もあるとはおもいますが。

? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?


>私は現生で證巻(必至滅度、還相廻向)眞佛土巻へと歩む(領解する)のを
>精進だと云いたいのです。それが「不行而行」だと思います。
>間違った捉え方、還相廻向は死んでまたこの世へ衆生済度のために出てくるとか(それも一部ありますが)、報土とはこの世ではなく極樂のことだと云う捉え方で、お手引きするのはいかがなものでしょう。
>極樂浄土は報土ではないと言うのではありません。真実報土ですから。

? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?


まず真宗は誰が相手の教えでしょうか?

忍草様は、精進、精進と仰いますが、私たち末法の者には、とてもそのような事が出来る器でないと見ての教えではないのですか?

迅速、正確、そして最も簡単な方法で、弥陀の浄土に生まれる。

その方法が一念帰命ではないのですか?

それは次第相承の善知識として受け継がれているのではないのですか。

しかし、その善知識を探すのには往相の人に尋ねるのが一番近道だと思います。

教行信證の冒頭から

「謹んで浄土真宗を按ずるに二種の廻向有り 一つには往相 二つには還相なり 往相の廻向に就いて、真実の教行信證有り。」

と書いてあります。

この道に辿り着いた私は、親鸞聖人が「謹んで往相の廻向を按ずるに、大行有り 大信有り・・・・・」と教行信證の行巻の最初に書かれたのは、心底から探し探し求めて、聖覚法印師にお遭いし、そして法然上人の元で一念帰命を受けられた喜びと感謝からのお気持ちで謹んでのお気持ちから書かれたのだと思います。

ですからこの道のご縁となった、自信教人信様も泥凡夫様も毎日様も私には往相の方々ですので、私はいつも感謝しています。

私は善知識では有りませんが、しかし一念帰命の姿を現すなとは教わりました。

「当流の安心の一義といふは、ただ南無阿彌陀佛の六字のこころなり、たとへば南無と帰命すればやがて阿彌陀佛のたすけたまへる意なるが故に「南無」の二字は帰命のこころなり、「帰命といふは衆生のもろもろの雑行を棄てて「阿彌陀佛後生助けたまへ」と一向にたのみたてまつるこころなるべし。この故に衆生を洩らさず、彌陀如来のよく知ろしめて助けましますこころなり。これによりて、南無とたのむ衆生を阿彌陀佛の助けまします道理なるが故に、「南無阿彌陀佛」の六字のすがたは即ちわれら一切衆生の平等に助かりつるすがたなりと知らるるなり、されば他力の信心を獲るといふも、これしかしながら、南無阿彌陀佛の六字のこころなり、この故に一切の聖教といふもただ南無阿彌陀佛の六字を信じしめんがためなりといふ意なりと思ふべきものなり。」 御文5−4

どうも忍草様のところは、救われても色々勉強したり、確認したりして大変なんですね。

後念相続、信後を味わいながら、日々喜んでいます。

ボン様とのやりとりは、聖典を紐解くきっかけにもなり、とても楽しんでおります。

南无阿彌陀佛

●re.69
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1927 ] Re54:後念相続 2010/06/13 (Sun) 03:20 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

いつも私の知らないことを教えていただきありがたく思っておりますが、
何か誤解があるようですので、あらためて申し上げます。

私はこれまでの問答のなかで、一念帰命した後の「精進」を否定したことは一度も
ありませんが、忍草様は「私がそれを否定している」という前提でお話をしている
のではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

私が違和感を覚えて疑問を呈しているのは、一念帰命した後の「精進」そのものに
対してではなく、一念帰命した後も精進が「必要だ」あるいは「しなければならない」
とおっしゃっていることについてなのです。

あるいは、一念帰命した後も精進をしなけれは、「間違った解釈や間違った捉え方」
をするとか、「極楽にいけない」などとおっしゃっていることについてなのです。

私が申し上げておりますのは、一念帰命した後に、それを捨てずに大事にしていれば、
自然と喜びも増してきますし、自然と感謝の念仏も称えるようになるし、疑い深い頭でっ
かちも聖典に触れるうちに自然と理解も深まっていくのではないのか、ということです。

人によっては一生懸命に精進しようとする人もいるだろいし、また、人によってはただ
ありがたいと思って大事にしているだけと思っているだけという人もいるかもしれません。
しかし、それも仏の目からみたら、すべて「精進」と見えるのかもしれないと思って
おります。だから、「精進」そのものを否定しているわけではないのです。

それが、他力の道であり、仏のはからいであり、不行而行(行せずして行ず)であり、
自然であり、無義の義であり、二河の白道なのではないか、ということです。
だから「しなければならない」といった種類のものではないと思うのです。

本人の意図はどうあれ、仏の力に乗じて「かならず」増上して、涅槃に至ると約束を
いただいているのではないか、ということです。そうでなければ、「摂取不捨」
「不退転」「金剛の信心」という言葉の説明がつかないのではないかと申し上げて
いるのです。

ちなみに、忍草様の引用いただいた帖外和讚でも
「金剛堅固の信心は佛の相續よりおこる」となっております。
「金剛堅固の信心は仏からいただいたものだ」と書いています。

また、「ただよく念ずるひとのみぞ」は「瓦礫も金と變じける」にかかっており、
「金剛堅固の信心」にはかかっておりません。しかも、それは、「多聞淨戒えらばれず、
破戒罪業きらはれず」との対比で述べられています。つまり、「多聞淨戒だからといって
選ばれないし、破戒や罪業も妨げにならず、ただ念仏によって救われる」と書いています。

もちろん、忍草様のおっしゃるとおり、まだまだ私の知らない深いことがたくさんある
ということは、十分に想像できます。「一往聞いては誤るから、何度も尋ねなさい」と
よく言われたことを覚えていますが、残念ながら有縁の知識様との接点は数十年前に
なくなりました。当時の年齢からして、すでにあの世にお帰りになられたものと思います。

しかし、私の知らない深い教義があったとしても、それは聖典に書きあらわさていること
を否定する内容ではないはずですが、いかがでしょう。

少なくとも、聖典を読む限り、「一念帰命の後、それを大事にしてきたものが、聖典を
読み違えて、極楽にいけない」ということはないように思えるのですが、これは深い教義
によってくつがえされることがあるのでしょうか。

あるいは、私の聖典の読み方がおかしいのであれば、聖典に即して具体的にご指摘をいた
だければ、たいへんうれしく存じます。

どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.70
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1940 ] Re55:後念相続 2010/06/19 (Sat) 12:04 △up ▽down
   ボン樣へ
体調不良等のためご無沙汰していました。
ボン樣の
私が申し上げておりますのは、一念帰命した後に、それを捨てずに大事にしていれば、自然と喜びも増してきますし、自然と感謝の念仏も称えるようになるし、疑い深い頭でっかちも聖典に触れるうちに自然と理解も深まっていくのではないのか、ということです。

この自然と理解が深まっていくが大事なのではないでしょうか。
ボン樣は間違わないと〔1915〕で書いたのですが。
なぜならばボン樣も私と同様アマノジャクに六要鈔などを紐解いているから
間違うわけがないと書くのです。
親鸞教徒としては『教行信證』に則していくべきではないかと書きたいのです。
* 一念帰命を受ければすべて極樂へ往ける。
* 報土往生とは極樂のこと。
* 還相廻向も死んでからこの世へうまれてくること。
このように捉えて果たしてよいのでしょうか?。
ボン樣あてに書いてはいますがいろいろな方々が読まれていると思って
ボン樣との会話の中で他の方々にも*印の捉え方をなさっている人に対して
書き込みしているのです。
特に代表的な菩提心様
「どうも忍草様のところは、救われても色々勉強したり、確認したりして大変なんですね。」
嬉しい書き方です(皮肉いっぱいですよ)。

おそらくはボン樣も大変だと思って勉強しているのでは無いと思いますが
いかがでしょうか?。楽しみながら紐解いているのではないかと勝手に
想像しています。
私はニャンニャンのおむつを3〜4時間ごとに取り替えることの方が大変
なのです。一度の睡眠が3時間以上とれないのですから。
この子猫が昨年12月に我が家へ来てから私かニャンニャンの命が尽きるまで
ずっとおむつの取替えが必要なのですから・・・。
ついでにもう一匹のリュウ(8才)という猫もいますが性格が全くちがいます。
リュウは普段は滅多に啼きません、啼くのは風呂にいれた時だけです、でも
リュウは風呂ではツメをたててきません。ニャンニャンは全く逆で啼くのが
仕事のようにしているのか煩いくらいによく啼きます、が風呂場では反対に
啼かずに暴れるのですツメをたてて・・・。
このような猫と遊びながらの勉強です。

『淨土眞要鈔末』に「即ち往生を得」といへるは、やがて往生を得といふ
なり。・・・處々の経釋その意(こころ)なきにあらず、与奪の意あるべき
なり。然りと雖も、今「即得往生・住不退転」といへる本意は、證得往生・
現生不退の密益を説きあらわすなり。
『淨土眞要鈔本』この一念について隠顕(おんけん)の義あり。顕には・・・
隠には眞因を決了する安心の一念なり。・・・されば一念帰命の解了たつとき、
往生やがて定まるとなり。「得る」というは定まるこころなり。・・・二河喩。

顕は一念帰命の行の一念、隠は一念帰命の解了で眞因を決了する安心の
一念と「信の一念」をはっきり書かれているではないですか。

ですから「信の一念」とは信心成就ですから、十一願の成就文に到達する
までに凡夫は時間がかかるというのです。

菩提心様、もうすこし素直になって聖典を読んでください。
聖典をあまり読まれない方でも、ボン樣の云われるように大事に奥深く、
そして聴聞をしっかりされている方は私たちの方にもおいでになります。
そのような方々は現生、住正定聚です。金剛堅固の眞實信心の方です。

淨土文類聚鈔に、眞實の淨信實に得ること難し。眞實の淨信を獲れば、
大慶喜心を得るなり。大慶喜心を得というは、『経』に言わく、「其れ至心に
安楽国に生れんと願ずること有れば、智慧明かに達し、功徳殊勝なることを
得可し」と。と書かれています。行のところでは、歓喜ですが信では大慶喜
心となっています。
又最後に、常没の凡夫人、願力の廻向に縁りて、眞實の功徳を聞き、無上の
信心を獲れば、即ち大慶喜を得、不退転地を獲るなり、煩悩を断ぜ令めず
して、速に大涅槃を證すとなり矣。

私は最初に書いたように、『教行信證』に則して往きたいと書いているのです。

極道坊主樣の
『私が阿弥陀さんで、阿弥陀さんが私で。』そんな思いを味わいながら生活させて貰っております。
『なんと、思い上がった。』と思われるかもしれませんが、其れが今の自分の味わいです。
そんな思いを抱かせて貰えるまで、佛様に育てて貰えたのです。 後はこの世界で自分の味わいを伝えていくばかりです。 其れを報恩謝徳というのでしょう。
後は、使って貰うばかりです。

言葉が荒っぽいですがその通りなのです。
私が〔1925〕で知識さんから法蔵比丘と聞いたことありませんか、と問い
かけたのです。法蔵菩薩は法性法身、法蔵比丘は方便法身ですが、使い方
では応化身です。
菩提心様も精進という言葉にあまり抵抗することはないのではないですか。
信後の味わいを書き続けることも精進だと以前に書きました。
後念相続も立派な精進です。
進むということは、すこしは前進するものです。
最初に書いた*印の捉え方、すべて死んでからが報土だと思っているのでは
最初に教えた方の責任もあるかもしれませんが、自分の相続なり、精進の
仕方の方が大きいですよ。

生んだ親だけではなく、この娑婆世界では立派な大人の自分たちで相続する
べきだとおもいます。

極道坊主樣
文章引用させていただきました。
個々人の捉え方の違いは多少はしかたがないかも知れませんが、大事な処は
違ってはいけないと思いますが如何でしょうか?。
捉え方が全然違ってもみんな極樂に往けるとお思いでしょうか。

   合掌  南無阿弥陀仏  南無阿彌陀佛。

●re.71
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1941 ] Re56:後念相続 2010/06/21 (Mon) 09:06 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

いつも、いろいろと教えていただき、ありがとうございます。

>聖典をあまり読まれない方でも、ボン樣の云われるように大事に奥深く、
>そして聴聞をしっかりされている方は私たちの方にもおいでになります。
>そのような方々は現生、住正定聚です。金剛堅固の眞實信心の方です。

このようにおっしゃっていただき、何かほっとする気持ちです。
しっかりと内心にたくわえて喜んでいれば、自然と感謝の念仏も称えるようになるし、
道からそれることもなく、かならず増上して、涅槃に至るということをおっしゃって
いるのだと思います。

>* 一念帰命を受ければすべて極樂へ往ける。
>* 報土往生とは極樂のこと。
>* 還相廻向も死んでからこの世へうまれてくること。
>このように捉えて果たしてよいのでしょうか?。

つまり、「このように捉えてはいけない」とおっしゃっているのだと思います。

この2つ目と3つ目については、よくわかりません。ただ、今のところの理解では、
たぶん、2通りの捉え方があってよいのだと思っています。特に還相廻向については
一念帰命のときと、死んでからこの世へうまれてくることと、二重の意味を持たせて
いるのではないかと理解しております。

しかし、1つ目の「一念帰命を受ければすべて極楽へ往けるかどうか」ということに
ついては、「すべて極楽へ往ける」というように理解しております。繰り返しになり
ますが、そうでなければ、「摂取不捨」「不退転」「金剛の信心」という言葉の説明
がつかないと考えております。

ただし、誤解のないように申し添えますが、「すべて極楽へ往ける」のだから、もらった
ものを棄てようが、誹謗しようが、何をしてもかまわないと言っているのではありません。
前にも別のところで引用しましたが、「信巻」に「散善義」からの引用で次のような
文言があります。

---------------------------------------------------------------------------------
四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。
衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、
それこの二の過を造らんことを恐れて、方便して止めて、往生を得ずと言えり。
またこれ摂せざるにはあらざるなり。(信巻)
---------------------------------------------------------------------------------

もらったものを棄てたなら「謗法」と言っていいほどのことだと思います。それでも
「摂せざるにはあらざるなり」と述べています。これは重要な文言だと思います。
18願によって救われたなら、何が何でも救うと言っているわけです。ここには、
「絶対に道からそらさないぞ」という決意と確約が込められているのだと思います。

だから、我々は仏の力によって「二河の白道」を歩いていけるのだと思います。
仏から「金剛の信心」を与えられ、だから「不退転」なのだと思います。
これを「摂取不捨」と言うのだと思います。

だとするならば、我々にできることは、ただただ感謝することだと思います。だから、
御文にも、繰り返し、繰り返し、「御恩報謝の念仏」を称えよと言っているのだと思い
ます。

私の恩師は、二言目には「○○さんは喜んでいる」「それは喜んでいる証拠だ」などと
言っていました。「喜んでいるかどうか」しか眼中にないような口ぶりでした。だから、
お講は「歓喜講」であり、「報恩講」なのだと思います。

極端な話、喜んで、喜んで、あの世に行けば、そこは極楽だと思っています。そして、
仏は必ず「喜ばせる」と約束しているのだと思います。だから「一念帰命を受ければ
すべて極楽へ往ける」のだと理解しています。

ただし、一念帰命の行者のなかには、私のようなひねくれ者もいて、疑い深くてなかなか
素直に喜べない始末の悪いものもいます。そういうひねくれ者は、疑った結果、聖典を
読もうとします。そうすると、どんどん引き込まれていって、結果的に喜びがふくらみ、
結果的に感謝するようになります。

仏はとても用意周到で、こんな馬鹿者のためにも、最後には喜ばせる道を用意しているの
だと思います。だから「一念帰命を受ければすべて極楽へ往ける」のだと理解しています。

しかし、これは例外の少数派で、大勢の素直な方々は、仮に聖典を詳しく精査しなくても、
ただ喜び、感謝し、同行に近づいていれば、“耳学問”をしながらでも、自ずと仏智が
ついてくるのだと思います。

そうすれば必ず極楽に往けると思います。あるいは、聞いた直後に亡くなったとしても
間違いなく極楽に往けるものと思っております。仏の力は、それくらい強力で、不可思議
なのだと思います。

恩師は「この世で何が不思議かといって、我々凡夫が、煩悩具足のままで救われることく
らい不思議なものはない」と言っておりました。これは「先生は、この世で不思議を見た
ことがありますか」という質問に対する答えでした。

以上、「一念帰命を受ければすべて極楽へ往ける」ということの根拠をのべましたが、
このような考えは間違っておりますでしょうか。おかしな理解がありましたら、どなたで
もご指摘いただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.72
菩提心
非公開の非公開
[ 1942 ] Re57:後念相続 2010/06/21 (Mon) 13:44 △up ▽down
忍草様

体調がすぐれないご様子、今はいかかでしょうか?

>特に代表的な菩提心様
>「どうも忍草様のところは、救われても色々勉強したり、確認したりして大変なんですね。」
>嬉しい書き方です(皮肉いっぱいですよ)。

上記の点ですが、
皮肉いっぱいは、私の書き方ですか?
それとも、忍草様が皮肉いっぱいのお気持ちなのですか?

両方に取れるのではないかと思い、お尋ねしました。

まず、私は皮肉で書いたのでは有りません。
又、代表的な菩提心でも有りません。

ただ私は、どうしても納得いかないので、自分の気持ちを言っているだけです。

「精進」・・・六度(六波羅蜜)の一つ

「六波羅蜜」・・・1、布施 2、持戒 3、忍辱 4、精進 5、禅定 6、六智慧

ごめんなさい。精進と言うとすぐに上記の言葉を思い浮かべます。

>(1) 一念帰命を受ければすべて極樂へ往ける。
>(2) 報土往生とは極樂のこと。
>(3) 還相廻向も死んでからこの世へうまれてくること。

(1)一念帰命の六字のスガタが一緒なのかどうか私はよく分からないので、お答え出来ませんが、今の私はそれで喜んでいます。(スガタも統一されていないのは2か所を経て分かりました)

(2)そのとおりだと思います。

(3)還相廻向も死んでからこの世へうまれてくること。→還相廻向は浄土に往生して、又この娑婆世界に戻ってこられた人だと思います。

○御文の中の六字にはスガタがあること。
○摂取の光明の中に住まいしていること。

それだけを信じ、喜んでいるのです。

往相のお言葉も還相のお言葉も知りませんでした。

「必ず弥陀に心を向ければ、弥陀が導いて下さいます。」

「私は往相です」

それを頼りに、有縁の善知識様を探しました。

しかし、直接の往相の方々ばかりではなく、途中色々な人の書き込みからこの道辿り着いたのですから、
不思議な御縁だと思います。

南无阿彌陀佛

●re.73
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1943 ] Re58:後念相続 2010/06/22 (Tue) 01:36 △up ▽down
ボン様、忍草様

大変ご無沙汰をしております。 極道坊主であります。

暫く、書き込みの方から遠ざかって居りましたが、近頃起こった出来事の中から一層のお育てを賜りましたので、菩提心様の御呼びかけをご縁に再度顔を出した次第です。

毎日の様にこのサイトには寄らせて貰っていましたので、お二方の書き込みは常に拝見させて頂いておりました。

継続される事は、とても尊い事だと感じます。 頭の下がる思いです。

忍草様に引用戴きました次の言葉は、今の時点での自身の味わいに違いありません。

>『私が阿弥陀さんで、阿弥陀さんが私で。』そんな思いを味わいながら生活させて貰っております。
>『なんと、思い上がった。』と思われるかもしれませんが、其れが今の自分の味わいです。
>そんな思いを抱かせて貰えるまで、佛様に育てて貰えたのです。 後はこの世界で自分の味わいを伝えていくばかりです。 其れを報恩謝徳というのでしょう。
>後は、使って貰うばかりです。

この先も、この味わいが続くかどうかは自身の知る所ではありませんが、『佛より賜りたる信心。』と、戴きますのでこの先も変わって行く事は無いと確信しております。(味わいは深まるばかりでしょうが。)

言葉が荒っぽいとお感じになられたのであれば、自分の表現が適切では無かったのかもしれません。 申し訳ありませんでした。

唯、自身も言葉を慎重に選びまして、『今の味わいを、適切に表現するには?』と考えた末での表現でありますので、異を感じる所あればご指摘下さい。

以前にも、書き込みをさせて貰ったかもしれませんが、心の有様を言葉として表現するには、実に文字、言葉は不完全に感じます。

相対の世界の伝達用具なのですが、思いを適切に表現できない。 表現すれば、表現の時点で対する事柄を否定してしまいます。 しかし、心持は逆側も否定している訳ではありません。

故に、言葉から筆者の心持を汲み取るのは、至難の技なのかもしれませんね?

聖人様も、教行信証の完成までに幾度と無く筆を加えられています。 其の時々の味わいから、適切と思われた文言に書き換えられたり、付け加えたりされたのだと察します。

其のお言葉は、弥陀より賜りたる信より味あわされたもの。 であるならば、自身に届いて下さった大行、大信が変わらぬものならば必然として教行信証も領解させられるのではないでしょうか?

言葉は、大切です。 日本語、漢字にはそれぞれに意が含まれている。 故に、聖人も上人も慎重に言葉を吟味されておられるのだと思います。 その意を自身も慎重に味わいたいと感じます。

ただ、『この字には、この様な意味が含まれるからこうだ。』とか、『この字は、この様に受け取るべきだ。』と英語で言うところの『must』調に解釈、理解を入れたのでは、既に佛教の心を逸脱していると感じます。

解釈しようとすれば、知らず知らずに上記の如くに嵌っている自分が居りました。 『こうあるべきだ。』は既に『執着』なのです。

真宗に於いては、論釈を理解して信を得るのでは無いと考えます。(勿論、そうでなければならないとは申しません。 其処を経験しなければ知る事の出来ない先があります。)

このスレッドでお話し合いの『精進』についても然りかと感じます。

『精進する』となれば菩提心様ご指摘の、六波羅蜜になりえましょう。 『私が精進する』となり、『私』が頭角を現します。

一念帰命の後においても『精進』が必要と感じる者には、佛の方より『精進』の形を御廻向下さり『精進』させられるのではないでしょうか?

また、その様に感じていない者には、別の廻向にて導き下さって居るのだと感じます。 行者が居れば、行者の数だけ、其の者に合わせて導かれるのでしょう。

決まった形等有る様で無いのが佛教ではありませんか?


弥陀は『怠り無く、私の方を向いて居れ。』と申されているのだと思います。 

其れも精進かもしれませんが、自身が気を付けて向いている訳ではなく、『向かずには居れん。』という心持まで育て上げられ、向かされているのです。 自身には忘れるものしかありませんから。


>* 一念帰命を受ければすべて極樂へ往ける。
>* 報土往生とは極樂のこと。
>* 還相廻向も死んでからこの世へうまれてくること。

上記の返答も、引用下さいました言葉の中に含まれていると思います。

ちょっと、Big mouthかもしれまえんが、一念帰命(自身にとっては?なのです。)、信心の関門を越えた処から、次第に『佛凡一体』を感じさせられております。

『自身の胎(ハラ)に、弥陀が座って御出でになる。』とも、思っています。 弥陀が憑いて下さって御出でですから、弥陀の手の内です。

故に、極楽浄土の教主の掌(たなごころ)に居ますので、何処に居っても浄土でしょう?(自身は其の性格、行動から地獄必定疑いなしなのですが、佛の願は其れを遥かに凌駕しますので。) 

極楽は、彼の岸にあるのでは無いと思います。 信の備わった者(備えて下さった者)の所へ、浄土の方が来て下さるのでは無いでしょうか?(心は浄土にあそぶなり、ですか?)

>そんな思いを抱かせて貰えるまで、佛様に育てて貰えたのです。 後はこの世界で自分の味わいを伝えていくばかりです。 其れを報恩謝徳というのでしょう。
>後は、使って貰うばかりです。

上記の文面から、私の還相廻向という事に対しての心持ちはお分かり下さるかもしれません。

自身にとっては、死んでからの事など、どうでも良くなったのです。(どうでも良いと言わない所が意味深でしょ?)

この様な心持まで育て上げられ、娑婆の出来事、数々、様々に遭遇しますが、其れを歓んで悦んで慶んで喜んで生かさせて貰って居る事が勿体無い。

凡夫故、常に喜んでいるとは申しませんが、怒、哀が少々減っています。

其の思いを伝えていくお手伝いが出来れば、と考えます。 此れを、還相廻向というのでは有りませんか?


>常没の凡夫人、願力の廻向に縁りて、眞實の功徳を聞き、無上の
>信心を獲れば、即ち大慶喜を得、不退転地を獲るなり、煩悩を断ぜ令めず
>して、速に大涅槃を證すとなり矣。

今、まさに上記の内容を味わいとして喜ばせて貰っています。

上記故に、自身の上に『無為の領解は不可思議なり。』となるのです。


>極道坊主樣
>文章引用させていただきました。
>個々人の捉え方の違いは多少はしかたがないかも知れませんが、大事な処は
>違ってはいけないと思いますが如何でしょうか?。
>捉え方が全然違ってもみんな極樂に往けるとお思いでしょうか。

ちょっとキツイ表現かもしれませんが、捉えて居るから違いが出てくるのだと思います。 大事な処は『弥陀御廻向の信心』であります故、出所が一緒なのです。 違いが出る筈は無いではないですか?

水源地が一緒でありますから、どの蛇口を捻っても同じ味わいの水が出て来る筈です。 蛇口の違いで、水源地が変わるという事は無いでしょう? 水源地が違うという事は、別の道を選んだという事です。

捉えるという事は、捉えておる自分がシッカリと生きています。 其れを『自力』というて、皆嫌うのでしょうが。

嫌いながらも、自分が嵌っているんですよ、知らん内に。

その『自力』も『自力』という、貶めた名を借りた佛の御廻向ではありますが、尽くし切らずに『他力』に回り込んで真似事をしているから、知らず知らずに頭角を現すのでしょう。

真宗に於いては、徹底して『我』という物を退けなければ、『佛』に対しての御恩は深まらないと思います。

深まらないから、いつまでも報恩感謝の御念佛という事に違和感があるのでしょう。

人夫々に段階はあろうかと思いますが、御念佛にご縁を結ばれた方々です。 弥陀は離しちゃぁ〜ないですよ。


皆様に対しては、過激な発言でお心を逆撫でしてしまったかもしれません。

疑問、異論が御座いましたら、叱責下さい。          合掌

●re.74
菩提心
非公開の非公開
[ 1944 ] Re59:後念相続 2010/06/22 (Tue) 10:40 △up ▽down
極道坊主様

一番乗りで〜す。

あくまで自分の意見なので宜しくお願いします。

>極楽は、彼の岸にあるのでは無いと思います。 信の備わった者(備えて下さった者)の所へ、浄土の方が来て下さるのでは無いでしょうか?(心は浄土にあそぶなり、ですか?)

信の備わった者には極楽は来て下さっているのですか?

とても私には思えません。

極楽浄土は、やはり阿弥陀様の佛国浄土だと思います。

○阿弥陀経には「これより西方に十萬億の佛土をすぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に佛まします、阿弥陀と号す、いま現在に説法したまふ。舎利弗、かの土を何故ぞ名づけて極楽とする。その国の衆生、衆苦あることなし、ただ諸楽をうく、故に極楽と名づく」

この世には、苦しみはないのですか?

(心は浄土にあそぶなり)は、信心決定するともう行先は極楽浄土ですから、今生でどれだけ辛くても我慢も出来るし、自分を勇気づけることも出来るし、いつ死んでもいいんだなと思うと、今生から楽しめる気持ちも起きてくるのだと思います。

特に私のように取り柄のないものはとてもよく分かります。

(もう少しの辛抱)

だから年を経る程、浄土に近付いて行く訳ですから、きっと喜びもそのような気持ちになるような気がします。

「厭離穢土、欣求浄土」

私は早く極楽に行きたいです。

ただこの世の命も定まっているようですので、それに身をまかせるだけです。

>其の思いを伝えていくお手伝いが出来れば、と考えます。 此れを、還相廻向というのでは有りませんか?

私は往相回向の働きだと思います。

往相回向と還相回向はどちらも阿弥陀仏から回向されたものですよね。

還相回向は、死んでから又戻ってくるのか、一念帰命したその時点で還相回向の働きがあるのかの違いで、ずっと忍草様より言われているような気がします。

往相回向の働きこそ大事なのだと思います。

還相回向の働きをされるのが次第相承の善知識様ではないかと思います。

だから往相回向である私達は、彼の国に行って還相回向として戻って衆生を済度できるのではないかと思います。

往相回向の人こそ「自信教人信」で、共に極楽浄土に行こうよと誘う人ではないかと思います。

それとも、今生で私達は覚ることが出来るのでしょうか?

頭が悪いので、感じた事を書きました。

南无阿彌陀佛

●re.75
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1950 ] Re60:後念相続 2010/06/23 (Wed) 00:09 △up ▽down
菩提心様

早速のご返答有難う御座います。

まず、最初にお詫び申し上げなければなりません。

>極楽は、彼の岸にあるのでは無いと思います。 信の備わった者(備えて下さった者)の所へ、浄土の方が来て下さるのでは無いでしょうか?(心は浄土にあそぶなり、ですか?)

の部分ですが、自身の心持を喩えて表すならば!です。 誤解を招く表現を致しました。 申し訳ありません。

ただ、『自身の胎(ハラ)に、弥陀が座って御出でになる。』と感じておりますから、その弥陀が、極楽を引き連れて御出で下さっておるとは思っています。

しかし、此れにも異論が御有りかもしれませんね?


>この世には、苦しみはないのですか?

との事でありますが、当然ながら苦しみは確かにあります。 『此の世は苦也。』と、釈尊も申されて御出でなのですから。

でもですよ、弥陀を戴けたのであるならば、現生十益が生きてくるのでは有りませんか? 『転悪成善の益』であります。

『煩悩を断ぜずして大涅槃を得る。』のです。 煩悩は苦しみの元ではありますが、その煩悩を因として慶べる智慧を授かっているのです。

苦しみも含めて、丸々喜ぶ事が出来るではありませんか? 故に苦は、苦ではなくなるに等しいのだと思いますが如何でしょうか?

佛の願いは、阿弥陀様に限らず、『抜苦与楽』です。 苦を抜き、楽を与えんと欲されておられるのです。

その、恩恵を一身に受けているのでありますから、ご恩を感じるのです。 故に、自身の御念佛は報恩感謝に違いありません。


>信心決定するともう行先は極楽浄土ですから、今生でどれだけ辛くても我慢も出来るし、自分を勇気づけることも出来るし、いつ死んでもいいんだなと思うと、今生から楽しめる気持ちも起きてくるのだと思います。

菩提心様は、今生の『辛』や『苦』を我慢されておられるのですか?

一念帰命の後、信心決定されて浄土往生まで約束されたのですよね? 其の域まで達する事が出来たのですから、『この世の利益際も無し』で慶ばれておいでの筈です。

『知足』のうえ、満たされた生活を送られて御出ででしょう。 生活とは、『活き活きと、生かされる事』と聞かされました。

(もう少しの辛抱)(辛くても我慢)という言葉は、命尽きて後に望みを掛けておいでなのですか? であるならば、『この世の利益際も無し』は、生きては居ませんよね?

真宗の御教えは、『死んでから先』を謳っているのではありませんよ。 後生の不安を取り除く事で、今生を活き活きと行き切る事を眼目としている筈です。

でなければ、宗教に廻り逢った所詮が無いではないですか? 『百千萬劫にも逢う事難し』の妙法に出会えたのですよ。

『極楽は西方十万億佛土の彼方にある』という表現は、『自身の修行の成果によって行くのであれば、遥か彼方にある。』という喩えです。

阿弥陀様を信じられた時、その佛様と一体になれた時に一足飛びに到達するのだと感じます。 其れは、行くのか、来て下さるのかは分かりませんが、遥か彼方ではないのでしょう。

自分は、上述の通りに感じています。

手厳しい表現になりました。 申し訳ありません。


>其の思いを伝えていくお手伝いが出来れば、と考えます。 此れを、還相廻向というのでは有りませんか?

この言葉にも表現が足りませんでした。 自身、上記の如く味わいを戴いております。

身の回りの方々、順縁、逆縁会い交じり合い、自身を慶ばせんが為にご活躍下さいます。

嫁さん然り、子供達然り、周りの人々に手が合わさる思いです。 この状況を、浄土と表さずになんと表現しましょうか?

その思いを味あわせてもらった上でのお手伝いです。 自身は、還相と感じています。

自身に及んで下さった味わいを、披露して行くばかりです。


往相、還相どちらも大切です。 目的地に行こうとする者を、迷わず導く『道先案内人』なる者が居なければ、悪戯に迷子が増えるだけです。

また、行こうとするものが居なければ、『道先案内人』は必要有りません。 必要であるから存在しているんではないですか?


最後に

>今生で私達は覚ることが出来るのでしょうか?

自身に於いては、『今生では覚る事は出来ない。』と言う事を覚りました。 御念佛に廻り逢えて知らせれました。

でも、その御念佛は、『等正覚者』をお誓いです。 忝くも勿体無いではありませんか?


菩提心様、自分は文献から引用する程の知識はありません。 また、文献も余り重要視していません。

私自身が文献を読めば、それに迷うからであります。 

聖人様も上人方々も数々の文献を残してくださいました。

先師方は先駆者ではありますが、心の面においては私自身の独り凌ぎだと思います。

阿弥陀様と自身の関係の有り方を、聖人様がお手本を見せてくれました。

唯々御念佛をお勧めなんですよね。


今回も、取り留めの無い話でした。 すみません。     合掌

●re.76
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1951 ] Re61:後念相続 2010/06/23 (Wed) 00:28 △up ▽down
皆様

お久しぶりでございます。私も、この掲示板は毎日のようにチェックしておりまして、新しい御書き込みにつきましては、流し読みすることもあるのですが、必ず見るようにしております。

この掲示板は、私のことを信じさせることが目的ではありませんので、本日が、私が如何に情けないかということについてお書きしたいと存じます。

この掲示板の過去ログをご覧になるとお分かりになるかと思いますが、私は以前は、御聖典に触れようとしておりまして、その内容を確認しようとしておりました。

これは、自身の心に疑いがあったからに他ならないと思っております。

では、今はどうかと申しますと、あまり紐解くこともなくなりまして、その内容や表現を忘れて参りました。もちろん、六字は、とても短く言いやすく、忘れることがないものです。簡単に口に出すことができますので、何かについて、口に出しております。

後生についての疑いですが、今現在の私の心において、疑いはあると思います。

ではなぜ、以前は疑いがありながら聖典を紐解き、今は紐解かなくなったのかと言えば、ある種のあきらめと申しましょうか、そのようなものが心に生じ始めまして、疑うも信じるもないのだと、そのような状態になってきたのだと思っております。

以前も疑っていて、今も疑ってはいるのですが、その状態には、差があるという感じでございます。

また、疑いと言っても、完全に疑っているわけではなく、信じている面もあるのでございます。

これがなぜわかるかと言えば、弥陀をたのむ前には、もっとはるかに疑っており、苦しんでおったからです。

それが今は、こうして、疑いながらも、苦しみながらも、喜びの気持ちもいただけるようになった。

一縷の望みとでも申しましょうか、「ひょっとしたら、救われるかもしれない」という気持ちも持てるようになったということです。

ただ、私の気持ちなど、揺れ動くものですから、その気持ちの程度も、日によって、強くなったり弱くなったり致します。

御聖典の細かい字釈については、私には「わからない」としか、申し上げようのないものです。何が真実かがわかるような私ではないからです。

「あそことここの意味の違いが、わかるか」と問われれば、「わからない」ということになりますし、誠に自身を無知だと思います。

このように甚だ頼りない私ではありますが、六字を尊いと思う気持ちは持っているわけでして、それが実に不思議だと思う次第です。

いろいろな方の心からのご意見、思いを読めますことを、とてもうれしく感じております。

こうして、皆々様とのご縁が続いておりますことも、真実不思議でございまして、そんな不思議も喜んでおります。

これからも、どうかよろしくお願い致します。

南无阿彌陀佛

●re.77
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1952 ] Re60:後念相続 2010/06/23 (Wed) 00:52 △up ▽down
   菩提心様  ボン樣
皮肉は仰る通り両方の意味です。
それでも本当にうれしいのです。

報土について現生であるという釈文をひろってみました。
身土という単語はからだを指しますから極樂ではありませんね。
(極樂へは穢体は持っていかないでしょうから)

往生の後に見る所の身土は解行の異るに依りて真化ありといえども
総じて証の中に摂す               六要鈔 教巻
入正定聚の益とは第十一願所説の益、本これ処不退の位を説くと
いえども現生の中に且その益を得          同上 信巻
即得往生は後念即生なりこれ平生の義なり      同上 信巻
本願を信受するは、前念命終なり。即ち正定聚の數に入る。
即得往生は、後念即生なり。即時に必定に入る。
             又必定の菩薩と名くる也。 愚禿鈔上
難思議往生の益によりて得る所の証これを無上涅槃の果となす、
これ現生の意なり                 六要鈔 證巻
まず文の初め「謹んで真仏土を按ずればから光明・寿命の願これなり」
までは略して身土を標す               同上 證巻
凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることを得・・・
則ちこれ煩悩を断ぜずして涅槃の分を得という     同上 行巻
「即得往生・住不退転」といえる本意は、證得往生・現生不退の
密益を説きあらわすなり。これを以て我流の極致とするなり  眞要鈔
涅槃の眞因たる信心の根芽わずかに萌すとき、報土得生の定聚の位に
住す。(この2行ほど前に報土往生の言葉もあります)    口伝鈔
不体失往生の事。善信は「念仏往生の機は體失せずして往生を遂ぐ」
といふ。                         口伝鈔

菩提心様 報土往生とは、以上の文言からでも現生にて体失せずして
この娑婆界で弥陀界へ願入して報土・淨土(極樂淨土ではない)に入る
のです。勧衆偈に出てくるでしょう。極樂は体失して往く真実報土です。

又、還相廻向も、あの時も還相廻向ですが五念門の出第五門でお手引き
するのも還相廻向なのです。あの時は知識さんからの還相廻向、出第五門は
仏種を頂いた行者からの還相廻向です。
極道坊主樣が書かれた「後は、使って貰うばかりです」の意味です。

佛語多含です。意味も上記では二通りあるのです。

前に書いたように、他力三願は十八・十一・二十二願なのです。
十八願で信心を頂いたら、則りて十一・二十二願となるのです。

ボン樣  極道坊主樣
又々極道坊主樣の言葉を引用させていただきます。
人夫々に段階はあろうかと思いますが、御念佛にご縁を結ばれた方々です。 弥陀は離しちゃぁ〜ないですよ。

人夫々の段階だと思いますが、当地は眞宗王国です。
ですが善知識にも色々ありまして、俗にいう、かいだん知識とか、又、二役
の知識とか、聖典とか仮名聖教等、経論釈からはずれた教えがあるのです。

私は、親鸞聖人の教行信證を根本にして、すこしでも近づきたいと紐解く
のです(間違いたくないから)。意をお汲み取り下さればと思います。
自分でも自我と慢心には十分気をつけているつもりです。

愚老樣もときには意見を聞かせて下さいませんか。
   合掌  ナムアミダブツ 南无阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.78
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1953 ] Re61:後念相続 2010/06/23 (Wed) 03:39 △up ▽down
極道坊主様、こんばんは。

極道坊主様の以下のお言葉に触発されて、書き込みをしております。

>自身にとっては、死んでからの事など、どうでも良くなったのです。

なんだか、心にズシッと響きますし、そこはかとないすご味を感じます。
ひるがえって自分はどうかと考えて見ますと、その心境が何となくわかるような
気もするし、そこまで開き直っていない自分も感じられます。

確かに、聞いた後、時間が経つにつれて、この世の様々なことがだんだんと“軽く”
感じられるようになってきました。「苦もさほど苦にならない」という感じです。
「後生救われた」という思いがそうさせるのでしょうが、結局、それは「この世で
楽に生きられる」つまり「この世で救われる」もととなっているのだと思います。

「後生救われた」という思いによって「この世で救われた」のなら、それだけでも十分
満足だということですよね。それで十分満足なのだから、もはや、「あの世で救われる」
ことなどどうでもよくなった、ということですよね。(勝手な解釈かもしれませんが)

「もし私がこの法を聞いていなかったら・・・」と考えてみたことはありますか。
私は、そう考えたらぞっとします。必ずやってくる死の恐怖から逃れることのできない
自分をそこに見出すからです。年を重ねるにつれて「私は何も成し遂げていない」と
焦っているだろう自分をそこに見出すからです。

今なら、「なるようになるさ、ケセラセラ〜」てな感じです。
とりもなおさず、これが「私がこの世で救われた」このと証明だと思ってます。
安っぽくて、すみません。

とは言いながら、あの世にも興味津々で、どんなとこか見てみたいなどと愚かしいこと
も考えたりしますが・・・(^^)

ところで、「お経は、子供に読んで聞かせる絵本のようなものだ」という話を聞いた
ことがあります。生まれつき目の不自由な人に、赤とはどんな色かを説明するような
ものだというわけです。この世という限られた不自由な世界に住む人間に対して、
もっと自由自在で無限の世界を説明することは至難の業です。だから、「絵本」に
ならざるをえないというわけです。

仮に二次元(平面)の世界に住むものがいたとしたら、三次元(立体)の世界に住むもの
は、二次元の世界の住人に対して、三次元の世界をどう説明したらよいのでしょうか。
これを正しく説明することは不可能です。お経もそのようなものだと思っています。
これが不可称・不可説・不可思議というのではないかと思っております。

次元が違うというのはまさにこのことで、比較したり、想像したりするのも愚かしい
というではないでしょうか。だったら、有無を言わず、ひれ伏すしかないわけですよね。
しかし、我々には中途半端は智恵(自我)があるから、お経が必要なのでしょうね。

「西方」も「清らかな国」も「光」も「智恵」も「あの世」も「この世」も、すべて
たとえ話でしょう。決してウソではないけども、すべてを説明しきっているわけでは
ないということだと思います。なぜなら、所詮、この世のことばで説明しているわけ
ですから・・・。

それでも、我々は中途半端は智恵(自我)を頼りにしなければこの世では生きていけない
宿命を負っています。だから、すべてにおいて、この自我を振り回そうという習性が
しみついているものと思います。だから、経論釈を読むのだと思います。

>真宗に於いては、徹底して『我』という物を退けなければ、『佛』に対しての御恩は
>深まらないと思います。

とても考えさせられるお言葉で、まったくおっしゃるとおりだと思います。
わが身を振り返ると、私など『我』のかたまりのようなもので、なんだかんだ言っても、
とてもこれでは御恩報謝も深まらないな、と反省しております。

ただし、『我』をなくそうなどと思ってみても、それは自力の行みたいなものですから、
やはりそこはあるがまま、「自然」でゆくのが当流にふさわしいいき方なのだろうと、
思ったりもしております。無理をせず、むしろ、とことん自分の『我』と向き合って
みるというのもいいかもしれませんね。それが「修行」といえば「修行」かもしれません。

ところで、このスレッドは、忍草様と私との問答がメインとなっておりましたが、
久々に皆様方の味わいを聞かせていただく機会を頂戴して、はじめの方から読み直して
みました。

普段は世俗のことに心を奪われているし、とても信心堅固とも思えない私が、
なぜこんなにも信心について熱く語っているのか、我ながら不思議な感じがいたしますが、
これも仏のはからいなのかなあ、と感慨を新たにしております。

>行者が居れば、行者の数だけ、其の者に合わせて導かれるのでしょう。
>決まった形等有る様で無いのが佛教ではありませんか?

このお言葉は、とてもよくわかります。
私の場合は、疑って聖典を読み、聖典を読むことでいっそう引き寄せられ、そして、
喜びが増してくるというプロセスが、愚かな私には最もふさわしかったのだと思います。
堅苦しい文字を読むのは嫌いだけど、いただいたものを大事にし、喜んでいる方も
おられると思います。

「二河の白道」は、人それぞれなのだ思います。
私は、やはり、聖典を紐解いてみたいという欲求があります。それが「我」のなせる業で
あったとしても、その「我」のままにふるまったとしても、結局は、仏のはからいの
範囲内を出ていないものと思います。なんといっても、次元が違うのですから・・・。

南无阿彌陀佛

●re.79
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1956 ] Re62:後念相続 2010/06/26 (Sat) 16:16 △up ▽down
ボン様

極道坊主であります。 書き込みが遅くなって申し訳ありません。

忍草様がこのスレッドを立ち上げられて、1年が経過しました。

皆様が蓄えられます所の御信心を、披露し合える場にてお話が出来る事、勿体無く思います。

これからも、ご縁の続きます限り御導き下さい。


>極道坊主様の以下のお言葉に触発されて、書き込みをしております。

以上のように申されますと、何か大層な事を書き込んだ様な気がしてなりません。 お恥ずかしいばかりですが、自身の今の思いであり、味わいなのです。

この世に生がある限り、一番の不安は、『死』なのだと思います。 『老』も『病』もその先に『死』が結びついてくるから人々は嫌がり、思慮する事を遠ざけようとするのでしょう。 

「縁起でもない。」とか云って避けて通ったり、葬儀の後、「穢れを祓う。」という意味合いを込めて塩を撒く行為をしたりします。

一番考えなければならない大事な事だと思うのですが、それを有耶無耶の内に交わそうとしている姿なのでしょうか?

その根底にあるのは、『死んで先の、自身の行き場所、居場所、身の置き所。』が分からない事への不安からなのだと感じます。 また、『死』が、全ての終わりだと感じて居るからかもしれません。

解決の付かない不安だから、知らずに措こうとして居るのでしょうね?(知りたくないのが本音でしょうか?)

自分自身はその不安を、御念佛に依って取り除いて貰ったと味わっています。 『佛様と、親子の名乗りがあがった。』と表現したらいいのでしょうか? 真宗のお言葉で表現すれば、『二種深心が徹底した。』というのでしょうか。 

そういう思いが、自身の心を占拠しますと次第に下記のような表現をするようになっていました。

>『私が阿弥陀さんで、阿弥陀さんが私で。』そんな思いを味わいながら生活させて貰っております。

上記のような思いを巡らしておりますと、『浄土に往かなければ。』の気持ちを越え、『何処に居させて貰っても、其処が浄土。』という思いに到らされておりました。

この世に穢身は残されておりますが、救って貰わなければならない『心』は既に佛様と一緒なのです。(今の思いは、です!)

ですから、行き先と言うよりも、今の時点で『死』より先の身の置き所というものがはっきりとしましたので、自身の不安が大方取り除かれたように感じています。


先日、菩提心様とのやり取りで書かせてもらいました所の、

>死から先の不安が取り除かれましたので、『死』がひとつの通過点の如くなりました。
>彼と此が吹き通しなりましたので、時期が来るまではこちらで出来る事をして待っていようと思います。

『死』と言うものが、ちょっとしたイベント程度の感覚になったような気がします。(表現の仕方がちょっとおかしいですか?)

>「後生救われた」という思いによって「この世で救われた」のなら、それだけでも十分
>満足だということですよね。それで十分満足なのだから、もはや、「あの世で救われる」
>ことなどどうでもよくなった、ということですよね。(勝手な解釈かもしれませんが)

おっしゃる事、頷けます。 唯、今の自分の味わいとしては、『死』が通過点の如くですから、『今生と後生を纏めて救って貰った。』という感じの方が強いように思います? 後生をハッキリして貰ったので、「後生の事に使っていた力を今生の事に纏めて使える。」と表現したらいいのでしょうか? 『その分思い切って生活させて貰っているような。』という思いです。(適切な言葉が見当たりませんので申し訳ない。)

『先の不安を取り除いて貰ったのだから、今はその恩返し。』と言うような心持でしょうか? ということで、『後は唯、使って貰うばかり』なのだと感じます。


>「もし私がこの法を聞いていなかったら・・・」と考えてみたことはありますか。

此れは私への質問なのでしょうか? 正直申し上げて以前、自分も不安を感じながら考えた事があります。 おっしゃるとおりです。 不安で不安でしょうがなかった。 

しかし、今考えればそれは過去形です。 何故、過去形かと言いますと『過ぎたる過去に「もしも」と云う事は無い。』と聞かされたからです。 そちらを選択していないから、今の自分があるのです。 『自身に降り掛かるものは、全て必然。 不必要な物は無い。』のだそうです。

自身に御廻向下さいました縁にて、『此の法に廻るべくして廻り逢えた。』と戴き、慶ばせて貰っています。

皆さん、夫々の味わいで『安心』を戴かれ、慶ばれて御出でなのですね。 佛の願い、『抜苦与楽』は確かに自分の上に現れております。


>仮に二次元(平面)の世界に住むものがいたとしたら、三次元(立体)の世界に住むもの
>は、二次元の世界の住人に対して、三次元の世界をどう説明したらよいのでしょうか。
>これを正しく説明することは不可能です。お経もそのようなものだと思っています。
>これが不可称・不可説・不可思議というのではないかと思っております。

これ、いいですね。 分かり易いです。 佛は『光と命極み無き』です。 空間と時間を超越した存在と言う事ですか? 自分達の三次元を遥かに超えている所の存在なのでしょうね?

ならば、自分には到底知れよう筈もありません。 でも、その『無為』の世界を領解させられるのです、御念佛によって。 勿体無い事です。


>真宗に於いては、徹底して『我』という物を退けなければ、『佛』に対しての御恩は
>深まらないと思います。

ボン様、自分は言葉を考えさせられました。 『我』という物を退けなければ、と書きました。 『我』の存在は消える事は無いのだと思います。 その『我』が、煩悩の主体なのでしょうから、此れをなくせば『煩悩を断ぜずして大涅槃を得。』が叶わなくなってしまします。

自分は『我』と言うものも、『佛より賜る廻向』と感じます。 その『我』と、私を救うと誓って下り、憑いて下さった『佛』とが、自分と言う器の主客の交代をする。 以上のような意味合いを込めて『退ける』という言葉を使いました。 此れもちょっと表現が難しいみたいですので、誤解を招かないように書くのも至難です。

煩悩の主体である『我』に振り回され、疎ましく思うように業を積み重ね、救いの道を探すように仕向けられ、佛の方を向くように手引きを受けて御念佛を知る。 其処から御念佛によって育てられ、御念佛に救われて、念佛にして貰う。

此れを『念佛の独り働き』と申すのでしょう。 手引き下さる知識さんまで、佛の廻向なのです。

とある、人気アニメの名台詞じゃぁ〜有りませんが、『全ては佛のシナリオ通り』なのだと思います。Aha ha(笑)


聖典を拝読される事、すごい事だと思います。 ボン様の『教行信証・学習ノート』には、感動を覚えます。 自分は活字嫌いなのか、なかなか聖典等を開く事がありません。 喩え、開けたとしてもあっと言う間、時間が経たないうちに目が潰れています。(ついでによだれも垂れている。)

こんな状態では、詳しく知るにも時間がかかります。(学生時代に、真面目に授業を受ける訓練をしておけば良かったと、今になって反省です。)

それでも、縁があって目にする、耳にする聖典、論、釈のお言葉に頷かされる事、しばしばです。 味わいに共感が出来るのです。 勿体無くも。

佛の智慧は、優秀な図書館司書の沢山居る国立図書館を、自身一人の貸切として永久使用を認められたようなもの。
必要な時に、必要な分だけ、必要に応じて適切に、授けて頂けるのでしょう。

また、分けの分からない話になって行っています。 自論の連発で申し訳ありません。 教義から随分離れているのではないかと思う事もショッチュウあります。

疑問に思われる事や、「其れは違うじゃろ。」とか、いう所が見受けられましたら教えてください。

皆さんのお話もお聞かせください。                    合掌

●re.80
菩提心
非公開の非公開
[ 1957 ] Re63:後念相続 2010/06/27 (Sun) 18:47 △up ▽down
極道坊主様

こんにちは

お返事有難うございます。

>菩提心様は、今生の『辛』や『苦』を我慢されておられるのですか?
>(もう少しの辛抱)(辛くても我慢)という言葉は、命尽きて後に望みを掛けておいでなのですか? であるならば、『この世の利益際も無し』は、生きては居ませんよね?

どうなんでしょう?
うまく説明できませんが、現在の環境にもよると思いますし、生まれ育った性格にもよると思います。

私は、この世の生活が決して楽だと思っていません。
問題を上げればいくらでも出てきます。

ただ随分と落ち着いて来ていると思います。

とても極道坊主様のような『この世の利益際も無し』という気持ちには程遠いので、本当に羨ましいです。

忍草様も精進とよく仰いますが、そういう点では人間関係では修行していると思っています。

それに、自分でも融通性がないというか、性格的には面白い人間ではないと思います。

それに僻み根性が未だに抜けていないと思います。

表面上はドジや抜けた点が多いので、馬鹿とか変な人とか言われています。

それでも、最近は助けられているという思いをする事が多くなっています。

体験というよりも、好い人とのご縁が多くなったということでしょうか?

最初、この法にご縁頂いた頃は、有頂天になって、喜びを表していましたが、今はそれもなく、ただ聖典等を拝読させて頂いたり、一味同行のお方のご著書を拝読させて頂くときはとても心が安らぎます。

>真宗の御教えは、『死んでから先』を謳っているのではありませんよ。 後生の不安を取り除く事で、今生を活き活きと行き切る事を眼目としている筈です。
>でなければ、宗教に廻り逢った所詮が無いではないですか? 『百千萬劫にも逢う事難し』の妙法に出会えたのですよ。

本当にそう思います。

宿縁といいますが、家族がみな(娘はまだですが)、同じ信心を獲ている幸せを実感しています。
息子は全く真宗の教義等を知りませんが、私はその息子や主人からいつも見習う事が多いです。

そう考えると、この家族も縁で結ばれた家族だと思います。

>その思いを味あわせてもらった上でのお手伝いです。 自身は、還相と感じています。
>自身に及んで下さった味わいを、披露して行くばかりです。

一凡夫様にも疑問を投げかけたのですが、

22願の還相は次第相承の善知識様なのかと思ったんです。

「弥陀の御代官」と言われるお方が善知識様でしょうけれど、でも善知識様も色々おられる訳ですから。
往相の人も善知識様って例えられたりしますでしょう?

>菩提心様、自分は文献から引用する程の知識はありません。 また、文献も余り重要視していません。

私も文献を引用する智慧なんて有りません。

でも「往生の鏡」と称される御文は割符が合うので、有難いと思います。

その御文を一味同行のお方はどのように味わっておられるのか、
そういうご著書と巡り会えるととても嬉しくなります。

そしてこの掲示板で、色々な事をお聞きすることもとても有難いです。

南无阿彌陀佛

●re.81
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1958 ] Re64:後念相続 2010/06/27 (Sun) 19:23 △up ▽down
菩提心様

極道坊主であります。

>(もう少しの辛抱)(辛くても我慢)という言葉は、命尽きて後に望みを掛けておいでなのですか? であるならば、『この世の利益際も無し』は、生きては居ませんよね?

『生きては居ませんよね?』なんて突き放した様な、冷たい書き方をして申し訳ありません。

行者夫々の味わいが有りますので、深く味わいを覚える方、サラッと味わいを覚えられる方、またそれ以外の表現で味わいを覚えられる方、様々であると思います。

>現在の環境にもよると思いますし、生まれ育った性格にもよると思います。

本当にその通りです。 『この様に感じなければならない。』と言うものはありません。 『漠然とは感じているものの、「詳しく説明しろ。」と言われれば「説明するにはチョッと。」と、でも喜びを感じている事は間違いない。』という味わい方もあるように思います。

自身も、そんな思いの時が在りました。 ひとり、その喜びを思い出しては「ニンマリ」と笑みを浮かべる。 周りから見れば「変な野郎です。」

ここに集われる方々、「少なからずともよく似た経験を重ねて御出でだ。」とその様に感じます。

自分も、面白みの無い人間でありました。 ですから、人付き合いが苦手でありました。 それが此の法を求める切っ掛けでもありましたけど。

師から、『佛様と一緒の生活をさせてもろうとったら、「寄ってくんな。」云うても人の方から寄ってきて下さるわい。』と申されました。 今は、『言われる事誠よのぉ〜。』という実感があります。

「融通が利かない。」とか、「僻み根性が抜けない。」とか、自分にも充分以上、十二分以上備わっている物でもあります。 それでも、そんな事は救って貰う事の支障にはなんら問題は無いのでしょう。

>宿縁といいますが、家族がみな(娘はまだですが)、同じ信心を獲ている幸せを実感しています。
>息子は全く真宗の教義等を知りませんが、私はその息子や主人からいつも見習う事が多いです。

>そう考えると、この家族も縁で結ばれた家族だと思います。

勿体無いですね。 家族とて他人の集合です。 縁深くして、家族として今生で結びついているのでしょう。 夫々が夫々の思いが在って当然の筈。 其れが同じ所を味わうご縁を貰って居られるのです。 不思議といえば不思議なのでしょうね。

教義は、後世の者が築き上げたものが大半の筈。 聖人の御時世には、今よりシンプルであったと想像します。 其処には、宗門側の権威付けの意味合いも含まれている所も在るでしょう?

教義等知らずとも、『御念佛一つで救われる。』と聖人が申されるのですから、御念佛があれば良いのですよ、きっと。

菩提心様のお勧めで、御文章を拝読させて頂くご縁を貰いました。 『割賦が合う。』といわれる事、頷けます。 『うん、うん。』と云いながら目を通す所が沢山あります。 聖人のお心を上人がお著しなのでしょう。 ここでも、出所の一緒である事を感じます。 唯、ご時勢の違いから表現の仕方に違いが現れているものもあるのでしょうね。

自分にとっては、やはり聖人様に思いが行ってしまいます。 その、聖人様の向こうに、阿弥陀さんが窺えます。

自分達の還る所は、やはり阿弥陀さんの元という事でしょう。(そう、自負しています。) 

皆さんとこうして味わいを語り合える事も、同じ方向へ向かって行っている証なのだと思います。

上の一行、先の書き込みと矛盾する様な書き込みかもしれませんが、言葉で表現するには限界が有り過ぎます。 心境、御汲み取りください。

また、お話聞かせて下さい。                      合掌

●re.82
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1959 ] Re65:後念相続 2010/06/28 (Mon) 02:13 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

「報土が現生である」ということにつきまして、いろいろ釈文を引いていただきまして
ありがとうございます。ただ、そこに引用されている釈文が「報土が現生である」ことの
証拠になっているのかどうか、残念ながら私には理解ができません。

誤解のないように申し添えておきますが、私は「報土が現生である」こと自体を否定する
つもりはありません。また、同時に来世に報土があってもよいと思っております。つまり、
報土は「報いの土」ということですから、その言葉自体に、現世とか来世とかの限定は
ついていないものと、今のところは理解しております。

話を戻しますが、お示しいただいた釈文を見て、なぜ私がそれを「報土が現生である」こ
との証拠と理解できないかを考えてみると、忍草様の以下の言葉が理解できないために、
思考停止してしまって、そこから先に進めないからではないかと思っております。

>身土という単語はからだを指しますから極樂ではありませんね。

ここに2つのことが書かれています。
  (1)「身土」という単語は「からだ」を指す
  (2)「からだ」を指すものは極樂ではない

正直に申し上げまして、「身土」が「からだ」を指すということも理解できませんし、
また、「からだ」を指すものは極楽ではないということも理解できないのです。

もちろん、これは私の理解力のなさによるものだと思いますが、これはどう考えたら
よいのか、もう少し詳しく教えていただけませんでしょうか。

ただ教えて下さいというのでは申し訳ありませんので、少し私の考えていることも
述べさせていただきます。

「身土」を国語的に解釈すると「身」と「土」に分けられますが、それぞれの
意味を漢和辞典から引用すると以下のようになります。

  身・・・からだ、生命、自分
  土・・・土地、国土、いどころ、場所

単に言葉の意味から考えてみると、「身」は「からだ」、「土」は「いどころ」という
ことになると思います。それを並列に考えると「からだとその居所」となります。
あるいは「からだの居所」なのかもしれません。いずれにしても、「身土」を単に
「からだ」と考えることはできない気がするのですが、いかがでしょうか。

「からだ」を指すものは極楽ではないということにつきまして、「からだ」を
「生身の肉体」と考えれば、当然それは極楽には存在しないものと思いますが、
三身(法身、報身、応身)の「身」も「からだ」だとすれば、「からだ」は必ずしも
極楽と無縁だとはいえないような気がするのですが、いかがなものでしょうか。

たとえば、六要鈔・証巻に「蓮華蔵世界とは、盧舎那仏所居の処、報身の土なるが故に」
とあります。仏の「所居の処」が「報身の土」となっています。

また、六要鈔・真土巻のはじめの部分に「上来の四巻は能帰の機に約す。教より証に至る。
然して後に宜しく所帰の身土を知るべし。」とあります。つまり、教行信証の四巻は帰する
主体の「機」に限定して書かれたものであり、その後の真土巻と化土巻は、帰する客体の
「身土」について書かれたものだとしています。

さらに、六要鈔・教巻に「往生の後に見る所の身土は、解行の異なるに依りて真化ありと
いえども」とあります。つまり、往生の後に見る「からだとその居所」または
「からだの居所」は、それぞれの解行(智解と修行)の違いに応じて、真土と化土に
分かれる言っています。

この2つの文言を合せると、帰する(依り頼む)主体は「機」であって、帰する(依り頼む)
ことによってもたらされる客体は「身土」だと言っています。そして、そのもたらされる
「身土」は、各人が宗義をどう理解してどう振舞うかに応じて、「真実真仏土」と
「方便化身土」に分かれると理解できます。

つまり、「身土」とは、おのおのの振る舞いによってもたらされる「身の置き所」と
考えれば、教義上もスッキリしませんでしょうか。もし「身土」を「からだ」と理解する
ならば、「真実真仏土」も「方便化身土」も「からだ」だということになってしまうよう
な気がするのですが、いかがでしょうか。

もしかしたら、私が何か誤解しているのかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.83
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1960 ] Re66:後念相続 2010/06/28 (Mon) 03:28 △up ▽down
ボン様

身土という語句が出ましたので、思うところをお書きしたいと思います。

忍草様の真意は、もちろん私にはわかりませんので、忍草様のお返事をお待ちいたします。

身土の身とは正報であり、土とは依報であり、正依につきましては、

「正報は眉間の白毫相より・・・」

「依報は、宝樹の葉ひとつも・・・」

という文章が『安心決定鈔』にございます。


つまり、私は、「身土」は、「からだとその居所」ということで考えております。

身は個別性がより強く、土は、その世界に共通しています。

したがって、身が正報であり、土とは依報である。

たとえば、ボン様と私は、今現在におきまして、異なる身体を持っております。ただし、「人間の身体」ということで共通性もあります。そして、この地上という世界に属しています。

それぞれ、別個の身体を持っていることも、この同じ世界にいることも、どちらも報(行為の結果)であることには変わりありませんが、正依を考えることができるということです。

私は、このように考えております。

ただし、南无阿彌陀佛が素晴らしいのは、どのように考えようとも、六字において、救われているということだと思っております。

だからこそ、私には、考え違いが多数あるでしょうが、安心しておられるのです。

南无阿彌陀佛

●re.84
菩提心
非公開の非公開
[ 1963 ] Re67:後念相続 2010/06/29 (Tue) 09:46 △up ▽down
毎日様

ボン様へのお答えですが、すぐに聖典をひろげてみました。


>身土の身とは正報であり、土とは依報であり、正依につきましては、
>
>「正報は眉間の白毫相より・・・」

上記の場所は正報ではなくて、正法になっています。

ボン様も毎日様もこのようなやりとりで納得できるような智慧をお持ちでしょうが、読んでいる私にはよく分かりません。

正法(しょうぼう)

1 正しき理に順じたる法の意で、佛の法のこと

2 正像末の三時の一。正法の行われる時代の意で、釈尊の滅後五百年の間をいう。
  この時期は、教も残り、之を修行する人もあり、またこれによって證りを開く人もある故かくいう。

>「依報は、宝樹の葉ひとつも・・・」
>
>という文章が『安心決定鈔』にございます。

依報(えほう)

正報に対す。衆生若しくは佛の依りどころとなる果報の義にて、国土、衣服、飲食、器具等をいう。器世間のこと。

ここでは正報に対すると書いてあります。

正報(しょうほう)

依報に対す。
自己の業因によって與えられた正しき果報の意で、肉体と精神のことをいう。
依正二報を見よ。

依正二報(えしょうにほう)

善悪浄穢の業因によりて報いらるる果報を二種に分つたもので、其れに依報と正報の二報あり。
其の二條を見よ、浄土論には浄土の依正二報を詳述し、玄義分には又この二報に就いて論じ、先ず依報を釈して、「依報の中について即ち其三あり、一には地下荘厳即ち一切寶幢光明互いに相映発す等是なり、二には地上荘厳即ち一切寶地、池林、寶櫻、空閣等是なり、三には虚空荘厳、即ち一切變化、寶宮、華網乃至声楽是なり」とあり、
正報について「亦其二あり、一には主荘厳即ち阿彌陀佛是なり、二には聖衆荘厳、即現に彼にあるの衆、及び十方法界同生者是なり」等とある。

かえって難しくなってしまいました。

申し訳ありません。

南无阿彌陀佛

●re.85
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1966 ] Re68:後念相続 2010/06/30 (Wed) 22:33 △up ▽down
毎日様、こんばんは。

正依二報について教えていただき、ありがとうございました。

正報と依報ということを知りませんでした。正報が身で、依報が土なのですね。
以下のとらえかたは、とても分かり易く感じます。

>身は個別性がより強く、土は、その世界に共通しています。

言葉の意味としても、とてもしっくりきます。
正報は「主たる報い」で、依報は「その依って立つ報い」ですね。

どうもありがとうございます。


菩提心様、こんばんは。

>「正報は眉間の白毫相より・・・」
>上記の場所は正報ではなくて、正法になっています。

私も聖典を調べてみました。
明治書院発行、島地大等編の本は、確かに菩提心様のご指摘のとおりです。
一方、本願寺出版社発行の本では「正報」となっております。

聖典の内容を云々することは、とても畏れ多いのですが、二つの異なった内容がある以上、
そのどちらかがミスプリントであると考えるべきなのではないしょうか。

ヤフー検索では、「正報は眉間の白毫相」は8件がヒット、「正法は眉間の白毫相」は
0件のヒットとなっております。

「安心決定鈔」の問題の箇所をそのまま引用したのが、以下の部分です。

--------------------------------------------------------------------------------
浄土の依正二報もしかなり。依報は宝樹の葉ひとつも極悪のわれらがためならぬことなけ
れば、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。正報(正法?)は眉間の白毫相より千輻輪のあな
うらにいたるまで、常没の衆生の願行円満せる御かたちなるゆゑに、また機法一体にして
南無阿弥陀仏なり。
--------------------------------------------------------------------------------
浄土の「依正二報(正報と依報)」もまたそのとおりである。「依報」は、宝樹の葉ひとつ
を取ってみても、極悪の我らのためでないものはないから、機法一体であり南無阿弥陀仏
である。「正報(正法?)」は、「眉間の白毫相」から「千輻輪のあなうら」にいたるまで、
常に迷いの世界に沈んでいる衆生の願行が円満した御かたちであるから、これもまた、
機法一体であり南無阿弥陀仏なのである。
--------------------------------------------------------------------------------

まず、大事と思われるのは、この段は、「依正二報(正報と依報)」について書かれている
ということです。であるならは、ここは「正法」よりも「正報」のほうが、文脈として
すっきりします。

また、眉間の「白毫相」も「千輻輪仏」も、仏の三十二相のひとつです。つまり、それは
「報いの身」ということになります。そうすると、それは必然的に「正報」ということに
なります。

結論としまして、ここは「正報」と書かれている本を生かすのが適切ではないかと思うの
ですが、いかがでしょうか。

南无阿彌陀佛

●re.86
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1969 ] Re69:後念相続 2010/07/02 (Fri) 11:41 △up ▽down
   ボン樣
身土についてはボン樣の仰る通りです。
又毎日樣の
「私は、「身土」は、「からだとその居所」ということで考えております。」

全く異論はありません。
「身土」の身はと書くべきでした。  ボン樣の
「単に言葉の意味から考えてみると、「身」は「からだ」、「土」は「いどころ」ということになると思います。それを並列に考えると「からだとその居所」となります。あるいは「からだの居所」なのかもしれません。いずれにしても、「身土」を単に「からだ」と考えることはできない気がするのですが、
いかがでしょうか。」

私が簡単に書きすぎました。云いたい事は体を持って極樂へ往くのでは
ないでしょう。身の居る土は現生娑婆界でありこの土にて不体失往生という
往生の仕方をなされたのでしょう。

又〔1952〕に極樂は眞實報土とも書いたはずです。
「菩提心様 報土往生とは、以上の文言からでも現生にて体失せずして
この娑婆界で弥陀界へ願入して報土・淨土(極樂淨土ではない)に入る
のです。勧衆偈に出てくるでしょう。極樂は体失して往く真実報土です。

又、還相廻向も、あの時も還相廻向ですが五念門の出第五門でお手引き
するのも還相廻向なのです。あの時は知識さんからの還相廻向、出第五門は
仏種を頂いた行者からの還相廻向です。
極道坊主樣が書かれた「後は、使って貰うばかりです」の意味です。

佛語多含です。意味も上記では二通りあるのです。」

〔1952〕では現生での報土往生を書いたつもりです。

ここ数日我が家の猫に色々ありまして、今日は大きいほうのリュウの
手術(喧嘩の傷が化膿した為、命に危険が及ぶので)、明日は小さいほうの
ニャンニャンの手術(メス猫なので避妊手術)です。
人間の勝手で避妊手術です。なき声があまりにもうるさいので近所迷惑に
なるのでやむをえずですが・・・。

落ち着いてキチンとした返事も書けません。
    合掌 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.87
菩提心
非公開の非公開
[ 1974 ] Re70:後念相続 2010/07/07 (Wed) 04:04 △up ▽down
ボン様

忍草様

いつも教えて頂いて有難うございます。

まず、ボン様へ

正法の件なんですが、法蔵館の聖典にも正法って載っていました。

あの後、以前買った「曼陀羅を説く」という本を読んでいました。

観無量寿経を曼陀羅にして善導大師が布教の手段として使われたものを解説した本でした。

まだ詳しく読んでいませんでしたが、この本の中には、今までよく分からなかったお言葉も詳しく書いてあったので、段々分かるようになってきています。

メール交換を長く泥凡夫様と過去にしていたのですが、残念ながら2度のパソコン不良でそのメールも消えてしまいました。

そのメールに、御文を拝読するのも結構ですが、善導大師のご著書を拝読すれば良くわかります(今となっては定かでないですが)という内容が書いて有りました。

きっと最初から読んでもちんぷんかんぷんだったでしょうが、こういう流れで読む機会を与えられて、今は楽しく読んでいます。

その中に、正報と依報のお言葉も沢山出てきました。
簡単に略されて書いてある場所を引用します。

「依報と正報」

過去の業のむくいとして得た身を正報といい、その身のよりどころとする世界を依報という。
また、正報とは、業因に報いて感ぜられた有情の身をいい、各人はそれぞれの業によるから、その果報も各人各種である。
依報は正報のよりどころである国土の果報をいう。


忍草様へ

>云いたい事は体を持って極樂へ往くのではないでしょう。身の居る土は現生娑婆界でありこの土にて不体失往生という往生の仕方をなされたのでしょう。

>「菩提心様 報土往生とは、以上の文言からでも現生にて体失せずして
>この娑婆界で弥陀界へ願入して報土・淨土(極樂淨土ではない)に入る
>のです。勧衆偈に出てくるでしょう。極樂は体失して往く真実報土です。

済みませんが、上記の説明は体失・不体失往生の意味での御説明でしょうか?

浄土真宗では、現益と当益の二益有るとお聞きしてきました。

現益は、体失せずに現在の世に正定聚不退転の身になることで、必ず仏となるべき身に定まったことで、当益とは滅度の益で、だからこそ臨終ではなく、現在ただ今救われる平生業成の教えが浄土真宗ではないのですか?

忍草様の御説明は、きっとボン様に示した、「曼陀羅を説く」の御著書を何度も拝読すると、理解出来てくるのかなと思います。

今の私ではよく分かりません。

それで還相廻向の件ですが、これは別スレッドで又の機会に書きます。

なぜ、親鸞聖人は往相廻向を詳しく説かれているのに、還相廻向の事はそれ程詳しく説かれていないと思うからです。
それに第22願を還相廻向の願とされたのは親鸞聖人だと知りました。

煩悩具足の凡夫が、即還相廻向の徳を身につけられるのかな?

わたしには心情的に、なかなか納得いかないのです。

滅度に至って、この娑婆世界に戻って済度するのが還相廻向だと理解する方がしっくりいくからです。

法論する智慧もない身で、生意気で済みません。

南无阿彌陀佛

●re.88
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1975 ] Re71:後念相続 2010/07/08 (Thu) 09:07 △up ▽down
ボン様

極道坊主であります。

此の2〜3日の間、このスレッドを遡って改めて読み返してみました。

此れも何かのご縁なのでしょう。

何故、その様に思い立ったかは自分でも定かではありません。

殊にこの5月は、私用にて一月程家を空けておりましたので、ゆっくりと読む機会が無かったのは確かです。

そこで気になり「一月分を読み返してみよう。」と、その様に思わされたのかもしれません。

その、5月分の中、忍草様からの書き込みに対して、ボン様が図式とした次のような部分がありました。

>1回目の往生(一念帰命)・・・入正定聚、初地(歓喜地)、報土中の仮、行信を獲る
>2回目の往生(信心成就)・・・住正定聚、八地(不動地)、真実報土、金剛の真心を獲得
>3回目の往生(極楽往生)

>※1回目から2回目までのあいだ・・・「未証浄心の菩薩」

このことについて、ボン様は次のように疑問を投げ掛けられておられます。

>最大の疑問は、いつをもって2回目の往生と心得たらいいのかということです。
>2回目は、それに匹敵する、はっきりとした時があるのかどうかということです。

その部分について、自身の思う所を少し述べさせて貰おうと思います。
かなり、古い話題を持ち出して申し訳ありませんが、少しばかりお付き合い下さい。

2回目の往生は、『信心成就』と、書かれております。 でありますならば、自身の中で『二種の深信』がはっきりした時ではないでしょうか?

この部分が、肝(ハラ)に坐りませんと佛に対しての疑心が起こるのも当然だと思います。 この部分が肝要なのだと感じています?

「自身は煩悩具足、罪悪生死の凡夫。」とは、云ってみても、其れは人から聞いたものであって、自身が租借していない。 「有りがたい話だ。」「為になる話だ。」と聞いてはみても、自身の肝(ハラ)がその様に感じていないので、味わいとして残っていない。 耳からは入ってきますが、意識を経由せず口に出る真似事であれば、いざという時根底から揺らぎます。(ちょっと、言い回しがキツイですね?。)

「その、出離の縁の無い、自身を救って下さる佛は、阿弥陀佛より他は無い。」と、云う事がはっきりしませんと、「もしかしたら、落ちて行かにゃならんかもしれん。」と先が不安になります。

ここの二点、法と機の深信がはっきりさせてもらえますと、「疑心あることなし。」という言葉の意味を、身を以って知る事が出来るのではないでしょうか?(知らされるのですが。)

「二心なき」とは、以上のような心持を感得させて貰った者の思いをさすのだと感じます。

先師方が「疑いなく信じろ。」と申されてきたのは、この部分なのでしょう。

上記の如くが、自分自身に届いてくださいましたから、最近の書き込みにありました言葉の如くの味わいが有ります。

ここが、はっきりしますと御聖典の内容に頷く事が出来るようにして貰えますよ、きっと。(其れを割賦が合うと申すのでしょう。)

間違いだらけの凡夫が、間違いなく「教行信証」を理解する事など不可能なのです。

「間違いなく。」と構えた時点で、間違える事の不安に悩まされます。

そもそも、御聖典の内容は膨大な智慧の塊なのではないでしょうか?

それでも、佛の智慧からすればほんの一部でしょう?

「お猪口で、四大海水を汲むが如し。」です。(私自身の思いです。)

信心成就して佛凡一体として貰えれば、平生業成を叶えられます。 

故に不退転の位に就く事が出来、滅度に到る事が約束されます。 

滅度は、無為涅槃であり、其処に到る者は佛と同等の智慧が授けられるのではないのですか?(それは、「必至滅度」予約の入った時点で有効なのでしょうね。 現益として賜っていると感じます。)

その智慧を以って、「教行信証」を領解させられるのでしょう。 

自身はそう思います。

御聖典は「自分達、真宗後続の為の道標。」と戴きます。 

オリエンテーリングに使われる地図の如き使い方でも良いのではないかと思っています。(ナビと言わない所に意味があるんですよ。)

自身の味わいを、聖人様の味わいと照らし合わせてみるのも一つの方法でしょう。

上記の如くの心持まで育てられておるのです。 必ず頷ける筈です。

また、変な事を書いちゃったかな?

おかしな点、疑問点があれば聞かせて下さい。     合掌

●re.89
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1976 ] Re72:後念相続 2010/07/10 (Sat) 17:01 △up ▽down
極道坊主様、こんばんは。

このスレッドを詳しく読んでいただき、また、ご意見をいただきありがとうございます。

>1回目の往生(一念帰命)・・・入正定聚、初地(歓喜地)、報土中の仮、行信を獲る
>2回目の往生(信心成就)・・・住正定聚、八地(不動地)、真実報土、金剛の真心を獲得
>3回目の往生(極楽往生)

>※1回目から2回目までのあいだ・・・「未証浄心の菩薩」

ご承知のこととは思いますが、この部分は忍草様のお話を私なりに整理させていただいた
ものですが、私自身は、このような「三度の往生」という考え方に十分に納得しているわ
けではありません。

むしろ、「三度の往生」という言い方に、不自然な感じ、すわりの悪さ、というものを感
じているのですが、あえて言葉の問題にはこだわらず、忍草様の言葉使いに則って、お話
をさせていただいたうえで、以下の疑問を申し上げました。

>最大の疑問は、いつをもって2回目の往生と心得たらいいのかということです。
>2回目は、それに匹敵する、はっきりとした時があるのかどうかということです。

そして、忍草様から次のようなお答えをいただきました。
(何度かにわたってお話いただいたなかから抜き出してまとめています。)

>上記のような事を書く私です。まだまだ未熟ですので私自身信心成就したと
>思っていません。卑下するつもりも又慢心する気持ちもありません。
>これが二度目の件の答えです。

>ここにも疑心をまじえず(二心なき一心)、念々相続して・・・たゞ他力の
>不思議を仰ぎ、法爾(自然法爾)往生の道理にまかすべきなり。とあります私はこれを
>信心成就と捉えて二度目と理解しています。

>(仏のはからいにまかせた時の流れ)の中にその時があると捉えています。
>そしてその時は、過ぎてから気がつくのではないかと思います。あくまで私見です。

>完全他力ですから、自分が成就に至ったか至らぬか、それを知ろうとすることは
>自力のはからいだと思うのです(量・称・計)。佛法には関係ない煩悩の悪い
>ところだと思います。
>私はそのような事は阿彌陀さま任せでよいと思って、以前にも佛のみぞ知るところ
>なりと書いた記憶があります。

つまり、二度目の往生は、過ぎてから気づくものだから、そのときを特定することはでき
ないし、それをあえて知ろうとすることは自力のはからいだ、とおっしゃっています。

それでは、「2回目の往生の時点」をいつ認知するするのかといいますと、「佛のみぞ
知る」というわけですから、それは現世ではなく、来世だということになります。
あの世に行ってから「ああ、私は、あのときに2回目の往生を遂げたんだ」と初めて
気がつくというわけです。

もしそうであるならば、私たちがこの世で「二河の白道」を進んでいくにあたって、
「2回目の往生」ということをさほど強く意識しなくても、ただひたすら歩いていけば
よい、というふうに考えることができると思います。言い換えるなら、「2回目の往生」
というのは、“この世”的には、さほど大きな意味を持たない、ともいえると思います。

ところで、聖典によると「信心成就」というのは、どうやら、三忍(喜忍・悟忍・信忍)
のなかの「信忍」にあたるもののようです。

--------------------------------------------------------------------------------
喜・悟・信の三忍といふは、一つには喜忍、二つには悟忍、三つには信忍なり。喜忍とい
ふは、これ信心歓喜の得益をあらはすこころなり。悟忍といふは、仏智をさとるこころな
り。信忍といふは、すなはちこれ信心成就のすがたなり。(正信偈大意)
--------------------------------------------------------------------------------

また、「信巻」に、この三忍(喜忍・悟忍・信忍)について、次のような記述があります。

--------------------------------------------------------------------------------
すなわち無生の忍を得るを、また喜忍と名づく、また悟忍と名づく、また信忍と名づく。
これすなわち玄〈はるか〉に談ずるに、未だ得処を標〈あらわ〉さず、(中略)これ多く
はこれ十信の中の忍なり、解行已上の忍にはあらざるなりということを明かす。(信巻)
--------------------------------------------------------------------------------

つまり、「信忍」は、十信の中の忍であって、解行位(十住、十行、十回向など)の高位
の菩薩の忍ではなく、しかも、その得処をあらわしていないというわけです。したがって、
忍草様のおっしゃる「信心成就のときを特定することはできない」ということは、確かに
聖典でも裏付けられているように思えます。

ただし、「信心成就」が八地(不動地)であるとすることにつきましては、「信忍」を十信
の中の忍とする「信巻」の記述と矛盾するように思えます。

前置きが少々長くなってしまったのですが、2回目の往生が『信心成就』という前提が、
このように私のなかで不明瞭になっているものですから、極道坊主様の以下のお話から
始まる内容にすんなりと入っていくことができないのです。

>2回目の往生は、『信心成就』と、書かれております。でありますならば、自身の中で
>『二種の深信』がはっきりした時ではないでしょうか?

また、『二種の深信』ということにつきまして、私自身、はっきりと理解をしておりま
せんので、極道坊主様のお話もまた十分理解できていないのだと思います。

ただ、『信心成就』が2回目なのかどうかは別としまして、『二種の深信』につきまして
は今後さらに勉強をしていきたいと思いますし、また、いろいろ教えていただければと願
っております。

なお、以下のご指摘につきましては、またく同感です。

>間違いだらけの凡夫が、間違いなく「教行信証」を理解する事など不可能なのです。

そうであるならば、なおさら私見を交えず、慎重に聖典を読むことが必要でしょうし、
また、聖典を理解できなくても「南无阿彌陀佛」の一念で救われたことに感謝するほか
ないのだと思います。

南无阿彌陀佛

●re.90
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1983 ] Re73:後念相続 2010/07/12 (Mon) 01:47 △up ▽down
ボン様

極道坊主であります。

お返事有難うございます。 また、御聖典を紐解きながらのご説明も、大変嬉しく思います。

ボン様が申される所の、

>むしろ、「三度の往生」という言い方に、不自然な感じ、すわりの悪さ、というものを感
>じているのですが、あえて言葉の問題にはこだわらず、忍草様の言葉使いに則って、お話
>をさせていただいたうえで、以下の疑問を申し上げました。

の部分なのですが、自身も「三度の往生」という表現というか、言い表しにしっくりと行かない思いが残ります。

人間は、物事などを理解するために、色々と事細かく分類をして整理し、順序だて段階、ランク、クラス付けをしているのだと思います。

脳の記憶回路も、この様な仕組みで記憶するらしいですから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれませんが? 『佛の教えは人間の知恵如きでは理解し難い。 理解し得ない。』と申されるのは、上記のような分別をつけて理解しようとする行為を諫めて御出でなのでしょうか?

実際、『往生』と言うものに段階などあるのかと言うのも、自身には疑問なのではありますが、もし段階付けて『2度目は何時?』と問われれば、前回の書き込みの如きと申し上げるのです。(自身の意いでは、そう感じています。)

『二種深信』においては、流れ過ぎる時間の中で、自分は佛より御廻向されまして得させて貰った思いなのですが、振り返ってみれば、『あの時だったのかなぁ〜。』と思い出されるような感じだったでしょうか?

その時期より自身の心持に、喜びとしてハッキリとしたものが起こってきたのは事実です。 大袈裟な表現ですが、『もう迷う事は無い。』『もう後戻りは無い。』という心持です。(信仰に対してはです。)

それらの心持は、『死』という区切りを境として『後生』と言う時まで続くのかもしれませんが、如何せん、人間には『死』という区切りが重過ぎます。 重過ぎるが故、どうしても『死』のところで一度段階を踏むのでしょう。

其れを『3度目の往生』と表されたのでしょうか?

言葉にすれば、自身の思いも伝え切れるものではないのですが、この『死』と言うものの解決をつけて貰えますと、(最大の迷いですね?)『吹き通し』と表現すればいいのでしょうか?身の回りの全てのものの思いというか、意思というか?流れというものを感覚として漠然とでも感じている思いがします。(抽象的に表現すれば、「宇宙を感じる。」というのでしょうか?)

言葉と言うものに、重点を置かなくなっているのも事実なのですが、言葉が無ければ伝わりませんね。(以前から自分はくどい様に言っております。 申し訳ありません。)

『吹き通し』のように感じまして、『死』というものがちょっとしたイベント感覚のようになっていますので、段階的にとは感じておりません。 それゆえに『3度目』という表現が、腑に落ちません。(自身としての器である体を失いますから、やはり3度目なのですかね?)

そういった思いに到った因は、やはりその『二種の深信』がはっきりして、佛のご恩の深い事を徹底して知らされたからであります。

『横超の直道』という言葉があります。 『二種深信』がハッキリしますと、縦に五十二段の菩薩の修行を横様に飛び越え、一足飛びに『等正覚』の位まで連れて行って下さるのではないのでしょうか? それは、瞬間技を遥かに凌ぐスピードだと思います。(刹那の単位よりも短いかもしれません。)

其処には、自身の精進とか云々は度返しだと感じます。 阿弥陀さんの願いはそういったものではないのですか?(心得違いでしたら言うて下さい。)

もし、段階を追って自ら精進するものが必要であるならば、佛のお誓いに二言が出て来ます。 佛説に嘘はありません。 ですから、そう主張しておいでの方は、心得違いの部分があるのやも知れないと感じます。(大胆不敵な発言ですね。 敵を作るような発言です。 でも、以前にも書き込んだかもしれませんが、その精進自体も御廻向なのでしょう。)


以下、忍草様のご意見ですが、自身の思いを少し述べさせて戴こうと思います。

>上記のような事を書く私です。まだまだ未熟ですので私自身信心成就したと
>思っていません。卑下するつもりも又慢心する気持ちもありません。
>これが二度目の件の答えです。

何を持って、どのような状態になれば『信心成就』と定義されるのか、自身は知りません。 しかし、佛よりの願いが自身に届いて下さって、今のこの現世において『安心した生活を送らせて貰っている。』という思いが続いて起こっておいででしたら、『佛様が救ってくださった。』、『御念佛が届いて下さった。』と言う事でしょうから、此れこそが『信心成就』なのではないのですか?(如何でしょう?平たく申していますので意が通じて行っていますでしょうか? 異論があれば申し出下さい。)

『信心成就は二種深信が徹底した時。』と申しました。(文の脈絡に矛盾が生じていますか?) でありますから自身が思わせられるには、『信心が成就したか、していないかがはっきりしない。』という事は無いと思います。

其れは、個々人によって、ジワジワ来るものなのか、一時期を基点としてハッキリと感じるものなのかは定かではありません。 また違った心持をお感じの方もおいででしょう。

『でも、信心が成就したかどうか分からない。』という様な不明瞭なものではないと思うのです。

ジワジワと届いて下さっているものであれば、明確に『あっこれだ。 このことか!』とは、いえないかもしれませんが、それでも喜びの心は味わっているのではないでしょうか?

その喜びを感じておいででしたら、このたびの書き込みに上りました話題の『喜忍』に相当しませんか?

>ここにも疑心をまじえず(二心なき一心)、念々相続して・・・たゞ他力の
>不思議を仰ぎ、法爾(自然法爾)往生の道理にまかすべきなり。とあります私はこれを
>信心成就と捉えて二度目と理解しています。

徹底した深信が廻向されますと、自然と疑心がまじりません。 まざらなくなります。 阿弥陀さんの願いに対しても、自身の往生という事に対しても、全てに於いて疑う余地が無いからでしょう。

疑心をまじえず、念々相続して・・・・・・往生の道理にまかせば『信心成就』するのではなく、信心成就したからこそ、疑心がまじらず、念々相続もさせて貰えるのでは無いでしょうか?(逆説的ですか?) 故に佛智不思議を仰ぐ事が出来、御恩に感謝も出来るのでしょう。

そういった一連の行為を、『法爾(自然法爾)往生の道理にまかすべきなり。』とお勧め下さっているものと感じます。 平たく言えば、『御念佛に任せろ。』といわれるのだと思います。


>完全他力ですから、自分が成就に至ったか至らぬか、それを知ろうとすることは
>自力のはからいだと思うのです(量・称・計)。佛法には関係ない煩悩の悪い
>ところだと思います。
>私はそのような事は阿彌陀さま任せでよいと思って、以前にも佛のみぞ知るところ
>なりと書いた記憶があります。

ゴール(この表現はこの度は適切では有りませんが。)に達しているものは、目的地に到着した達成感を味わっているものです。 そこで喜んでいる筈です。

道案内をされながら、案内人に従って歩む者は、行き先の不安から『ここは何処?』と探りたくなるものです。 『案内人を信じている。』とは云ってみても、『此れだけ歩いてきたんだから、そろそろ目的地だろう。』と、周りを見渡します。 

そうしながらも、『まだまだ。』といって自身を奮起させ、目的地を目指すのでしょう。 歩んでいる位置が気になるのは、まだ先が見えていないからです。 到達点の予測も立ってないのではないでしょうか?(失敬な言い方かもしれません。 でも、まだ間に合うのではないでしょうか?)

法華経の中にも『化城喩品第七』という所があります。 道半ばで挫折しそうになる者には、方便にて仮の城を現し、そこで一時の休息を取らせ、また整えて目的地を目指す、という件(くだり)です。

真宗の書き込みに、法華経はどうかとは思いますが、自身の位置が気になるという事は、そういった心が働いているものと感じます。

信心成就すれば、到、未到は気にならなくなります。 気にする必要が無いからです。 気になっている時は、まだ道中なのでしょう。


自力というものは、決してなくなるものでは有りません。 その自力に催されて佛道を歩む事にご縁があったのです。 自力も立派な御廻向では?と思うのです。

自身の都合で阿弥陀さんをたのみ、自身の都合で任せるのですけれども、いざ手柄となれば弥陀をさておき自身のものにする。 そんな都合のいい考えをしていたのが自身です。

任せるならば、全てを任せる。 そう、御育てに預かりました。(此れも簡単な事ではありません。) そのようにはなってはいませんが、それでも今の味わいを慶ばせて貰っております。

色々な味わいは、過ぎてから気が付くということに異論はありません。

しかし、喩えて云う所の『2度目の往生』の部分、『信心が届いて下さった。』というハッキリとした部分を感じる事が出来なければ、法を聞かせて貰った所詮が無いと思います。

『明信佛智』という言葉を聞かせて貰ったことがあります。 上記の事等を指すのかどうかは分かりませんが、自身には今まで書き込ませて貰った思いが、肝(ハラ)に坐って下さったという自覚がありますから、此の土が娑婆であり浄土と感ずる事が出来るのだと戴きます。

ですから、『後は、使って貰うばかりです。』と申し上げるのでしょう。

此の度は、何時に無く過激な発言になりました。 力が入ったように感じます。

逆鱗に触れる行為をしたかもしれませんが、今の自身の味わいには違いありません。

不思議に思われるところもあるかもしれません。 疑問に思われるところもあるでしょう。

ご意見をお待ちしております。 合掌

●re.91
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1984 ] Re74:後念相続 2010/07/12 (Mon) 02:01 △up ▽down
ボン様

極道坊主であります。

>そうであるならば、なおさら私見を交えず、慎重に聖典を読むことが必要でしょうし、
>また、聖典を理解できなくても「南无阿彌陀佛」の一念で救われたことに感謝するほか
>ないのだと思います。

私見をまじえても構わない事だと思います。 それがボン様の味わいだからです。

ボン様に合った御縁を、御育てを佛が用意されておいででしょう。 『私見を交えず。』という心持は、ボン様側からのお心だと感じます。

任せるという事は、そういったことまで任せるのでしょう?

だから、御念佛なのでしょうね。 合掌

●re.92
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1985 ] Re75:後念相続 2010/07/15 (Thu) 00:32 △up ▽down
  ボン樣及び皆様方へ
猫の手術と自分の抜歯(4本)等体調不良もありましてご無沙汰しました。

久しぶりに金剛心樣に一寸みられて指摘をうけましたので訂正致します。

報土往生の報土ですが聖典の眞佛土巻に「如来の願海に由りて果成の土を
酬報したまえり」と載っています。
ですから眞實報土は誓願(弥陀の振袖17・18願)への酬報と訂正させて
いただきます。又極樂淨土は48願成就してと訂正いたします。

又六要鈔の「往生の後に見る所の身土は解行の異るに依りて真化あり・・」
とありますのであくまでも現生と主張いたします。
ボン樣
ボン樣の「それでは、「2回目の往生の時点」をいつ認知するするのかといいますと、「佛のみぞ知る」というわけですから、それは現世ではなく、来世だということになります。あの世に行ってから「ああ、私は、あのときに2回目の往生を遂げたんだ」と初めて気がつくというわけです。

上記の件は、過ぎてからと書きましたがあくまでも現世です。
そうでなければ「命終その期ちかづきて・・・このたびことにとげやすし」
の和讃と合いません。ですから信心成就(48地以上)を二度目とするのです。

  極道坊主樣
書き込みありがとうございます。
「御聖典は『自分達、真宗後続の為の道標。』と戴きます。」

ボン樣は出来るだけご自身の言葉で述べていますね。
信成就して、蓮師の云う「骨髄に徹った」方の書き込みと見えます。

私は少しでも上人方に近づきたいとの想いで聖典やカナ聖教の字句を
用いています。 極道坊主樣の
「任せるならば、全てを任せる。 そう、御育てに預かりました。
(此れも簡単な事ではありません。) そのようにはなってはいませんが、
それでも今の味わいを慶ばせて貰っております。
色々な味わいは、過ぎてから気が付くということに異論はありません。」

嬉しいことばです。
私自身の定義としては、すべてが「おかげさま」でひぐらしさせて頂き且つ
聖典やカナ聖教もほとんどが数珠の輪のようにひとつに繋がって理解出来
れば、ほぼ成就かなと思っています。がそれも意識していません。
以前に書いたように過ぎてから気づくのだろうなと思うからです。

菩提心様
還相廻向が貴女の云う通りだとしたならば、いつ衆生済度の為の勉強を
なさるのでしょうか?
自分に都合の良い解釈ばかりでは矛盾が生じてこないでしょうか。
蓮師の「ありたる」「あろうずる」のあろうずるは、滅度のさとりの方と
書かれています。
證巻の必至滅度は滅度の證(さとり)です。 正信偈の
「成等覚證大涅槃 必至滅度願成就」等覚を成り大涅槃を證することは
必至滅度の願に成就したまえり。ですから11願は眞實證果なのです。

自力の滅度と他力の滅度の意味が違うのです。滅度のさとりなのです。
ですから證するなのですよ。又則ちなのです。
金剛の信心で菩提心を起して利他行をおこなうのが還相廻向であり、
五念門の出第五門なのです。獲から得へ、即ちから則ちへ、行信から心行へ
今一度ゆっくりと教行信證をめくって下さい。
法性生身の菩薩とはこの現生界ですよね。

菩提心様はいつも菩薩ではありません、凡夫です。と書かれますが、私も
何回も書くように普段は凡夫でも、頂いた佛種は九識でいただいているので
真諦門では菩薩なのです(未證浄心の菩薩)(魂神精識・たましいの部分)

極道坊主樣のようになれば上地の菩薩となるのです。
涅槃分・滅度のさとりの方、現生ですよね。
菩提心様は、本願鈔、願々鈔、最要鈔、正信偈大意、教行信證大意等は
読もうと思えば読めるでしょう。

今日はなにかとりとめのない書き込みになりました。
   合掌 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.93
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1986 ] Re76:後念相続 2010/07/15 (Thu) 00:56 △up ▽down
極道坊主様、こんばんは。

お返事ありがとうございます。
素晴らしい味わいをお聞かせいただき、とてもうれしく思います。

たくさんのことをおっしゃっていただいたのですが、あまりにも盛りだくさんですので、
三度の往生のことに限定して述べさせていただきます。

>人間は、物事などを理解するために、色々と事細かく分類をして整理し、順序だて段階、
>ランク、クラス付けをしているのだと思います。

>脳の記憶回路も、この様な仕組みで記憶するらしいですから、仕方ないと言えば仕方な
>いのかもしれませんが? 『佛の教えは人間の知恵如きでは理解し難い。 理解し得な
>い。』と申されるのは、上記のような分別をつけて理解しようとする行為を諫めて御出
>でなのでしょうか?

たいへん興味深いご指摘だと思います。お経は、所詮、「子供に読み聞かせる絵本」とい
う見方に通じるものと思います。この世の人間に分かり易いように、三身(報・応・化)
とか、三不退(位・行・念)とか、三種功徳(水・地・虚空)とか、二十五有などと言っ
てはいるものの、それらは真理を余すとこと表しているものではなく、いわば“例え話”
の類ということなのでしょうね。

だから、我々、この世の人間の智恵で考えることなど、仏の目から見れば、赤ん坊、いや
それどころか、便所の蛆虫にも届かないと考えておくのが妥当なところだと思います。

しかし、そうは言っても、極道坊主様のご指摘のとおり、無い智恵を絞って自力で考えた
いと思うのも人間の性(さが)でしょうから、そうすると、この世の“蛆虫”としては、
これまでの流れに従えば、「三度の往生」という三分法を下敷きにして考えざるをえない
ということになるわけです。

前置きはさておき、「二度目(信心成就)」の件ですが、極道坊主様のお話を聞きまして、
尊敬の念を覚えました。

>『二種深信』においては、流れ過ぎる時間の中で、自分は佛より御廻向されまして得さ
>せて貰った思いなのですが、振り返ってみれば、『あの時だったのかなぁ〜。』と思い
>出されるような感じだったでしょうか?

>その時期より自身の心持に、喜びとしてハッキリとしたものが起こってきたのは事実です。
>大袈裟な表現ですが、『もう迷う事は無い。』『もう後戻りは無い。』という心持です。
>(信仰に対してはです。)

>佛よりの願いが自身に届いて下さって、今のこの現世において『安心した生活を送らせ
>て貰っている。』という思いが続いて起こっておいででしたら、『佛様が救ってくださ
>った。』、『御念佛が届いて下さった。』と言う事でしょうから、此れこそが
>『信心成就』なのではないのですか?

とても素晴らしいことだと思います。私などは、さすがに後戻りはしていないと思います
が、いつもフラフラした危なっかしい心持で、そのような心境には及びもつきません。

私などは、このようなあやふやな心境のままこの世の生涯を終えるかもしれませんし、
明日にで、もののはずみで命を落とさないとも言い切れません。そうすると『信心成就』
に至らないまま、あの世に行ってしまうかもしれません。

極道坊主様のような心境にいたることは、とても素晴らしいことだと思います。しかし、
この法に縁のあったものがすべて、極道坊主様のような心境に至るとは言えないという
ことも紛れもない事実に違いありません。赤ん坊のときに聞いて、物心がつく前に亡くな
ってしまうこともあるかもしれません。

この御一流の教えでは、「この信心をえたるひとは、十人は十人ながら、百人は百人なが
ら、今度の往生は一定なり」(御文)といわれています。つまり、この法にあたったもの
は必ず助かる、というのがこの御法の真髄だと思っております。そうでなければ、
「摂取不捨」「不退転」という言葉が、うそになってしまいます。

言い換えると、この法に当たった者(1度目の往生の者)は、『信心成就』(2度目の往生)
に至らなくても、あの世で極楽に往生(3度目の往生)する、ということがいえるのでは
ないかということです。

繰り返しますが『信心が成就する』ということは、とても素晴らしいことだと思います。
そこまで至った方にたいしては、心の底から尊敬をします。しかし、『信心成就』しなく
ても、この法を聞いたものは、極楽往生が間違いなく約束されていると理解しております。

もし仮に「2度目がなければ3度目がない」というふうに理解したとしたらどうでしょう。
これは大変なことになってしまいます。だれもが血眼になって『信心成就』を求めてしま
うのではないでしょうか。それは、「安心」とは程遠く、現世の救いもなくなってしまう
のではないでしょうか。

私は、なんだかんだ言っても、結局は「御恩報謝の念仏」に尽きるのではないかと思って
おります。御文は「凡夫往生の鑑」だとよく言われますが、くどいほど「御恩報謝」と
いう言葉を繰り返しております。

『信心成就』するも良し、しないも良し。いったんこのご法にあたって、仏に囲繞されて
いるものは、何が何でも極楽往生まで連れて行くというのが、このご一流の肝ではないで
しょうか。それこそが「安心」の元であり、現世で救われるということの中身なのではな
いでしょうか。だから「御恩報謝」なのだと思います。

私は、極道坊主様のように救っていただいたことに対するゆるぎない確信を持てたらどん
なに素晴らしいことかと思います。しかし、同時に、こんなにフラフラしている確信のな
い私でも「必ず救う」と確約していただいていることをありがたく思います。

ちょっと矛盾した言い方ですが、言いたいことが伝わるでしょうか。
他力本願って、そいうことではないかと思うのですが・・・。

ちなみに余談ですが、同じ仏教でも、自力の宗と他力の宗とでは、天動説と地動説くらい
の違いがありますよね。ガリレオも、親鸞も、迫害されたわけですし・・・。

南无阿彌陀佛

●re.94
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1987 ] Re77:後念相続 2010/07/17 (Sat) 03:42 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

4本も抜歯なされたとは、たいへんなことですね。私などはかつて、親知らずをたった1本
抜いただけで、熱が出て、具合の悪い日が続いたことがありました。ご自愛くださいませ。

ところで・・・。

>ボン樣は出来るだけご自身の言葉で述べていますね。
>信成就して、蓮師の云う「骨髄に徹った」方の書き込みと見えます。

たいへんなお褒めのお言葉をいただいているような気がするのですが、私自身は、まった
くその自覚がございません。もちろん、自覚があろうがなかろうが、どうでもよいのかも
しれませんが、この程度ではたして「骨髄に徹った」などと言えるものなのでしょうか。

これまでも何度か書いていますが、実は、私は疑っているのです。何をって、それは来世
の存在です。疑ったり、信じたり、実にあやふやな状態です。聖典では「六道を流転する」
と言っているのに、来世の存在を疑っているといったら、聖典を疑っていることになるわ
けですよね。

「来世を疑っているくせに、なんでこのご法を聞いたんだ」と問われれば、それはもう、
「縁があった」という以外に、何とも返答のしようがありません。でも、いただいたもの
を棄てるつもりはさらさらないわけです。なぜって、いただいたものを大事に守っていく
ことに何の煩いもなければ、損失も無いわけです。それどころか、莫大な利益を与えてく
れるかもしれないのに、なぜ、棄てる必要があるのかということです。

もともと私は唯物論者でした。つまり、物質があってはじめて、その上に精神作用が働く
という考え方です。人間の思考や感情は、脳を構成するタンパク質の働きによって生み出
されるという考えかたです。したがって、そういう考えに基づけば、肉体が滅びれば、
そこに宿った精神も滅びると考えるわけです。つまり、人間が死ぬと、それまで働いてい
た精神作用は無に帰すということになります。無です。とても寂しい話です。

しかし、だんだん人間としての歳を重ねてくると、生命の精神作用を、ただ単に物質の側
から捉えるのでは、なかなか説明のつかないことに多々遭遇するわけです。たとえば、犬
を飼っていても生命の不思議を感じることはあるし、子供をみててもそうです。生命の本能
というものはとても不思議なものです。また、自然の織り成す精緻な秩序は、はたして、
単なる物質の集積によって生み出すことができるのだろうか、という疑問も沸いてくるわ
けです。物質を越えた何かがあってもおかしくないとも考えられます。

そうしてみると、公平に考えてみて、来世を信じる根拠もなければ、死後は無だと決め付
ける根拠もないわけです。所詮、我々には何も解らないのです。

そこで、「信じる」という行為についてよく考えてみると、我々は、何かを信じるときに
根拠があって信じるわけではありません。仮に子供が親から「道に落ちているものを拾っ
て食べてはいけないよ」と言われてそのとおりにしたとしたら、その子は親を信じている
わけです。衛生的観点や人格的尊厳の観点から様々な検討を加えた結果、親の言ったとお
りにしている子供がいたとしたら、気持ち悪いですよね。

この世で、ひとの言うことをひとつも信用しないで生活することは、極めて困難です。
天気予報を信用しなかったら、山に登ることもできません。道で出会ったひとが「この道
を行ったら通行止めだよ」と教えてくれたら、引き返すのが懸命です。この目で確かめな
かったら信用できないと言って、そのまま進んでいく人はきっと無駄な労力を費やすこと
になりますよね。

そもそも根拠を確かめてから行動していたら、それは何かを「信じている」とは言わない
はずです。「根拠がないから信じられない」などと言ったら、その言葉は矛盾しています。
我々は日々、何かを信じて生活しています。しかし、世の中のすべてを信じて生活してい
たら、いいようにだまされて「ケツの毛まで抜かれてしまう」かもしれません。所詮、
この世は“軽い地獄”です。この世を生き抜くには、それなりの智恵や眼力も必要だと
思います。

我々人間には、信じる力もあれば、疑う力もあります。時には何かを信じて、時には何か
を疑って、この世を泳ぎ回り、時にはドツボにはまり、時には浮かび上がって、一喜一憂
しているのではないでしょうか。こういう世俗の垢にどっぷりとつかりきっている私には、
何かを信じ続けることも、すべてを疑い続けることも極めて困難です。私がかたじけなく
もいただいたこのご法につきましても、基本的に信じるに足ると思いながらも、「死んだ
後が“無”だったらどうしよう」などという考えがチラつくのを抑えることができません。

まあ、無理に抑えることもないような気もするのですが、このようなわけで、私は「信心
成就」や「骨髄に徹った」などという状態にはほど遠い、ということは間違いありません。

ところが、ところがです。ひとつ、とても重要な事実があります。それは、私がこの法を
聞いてしまったという事実です。信じようが、疑おうが、聞いてしまったのです。これは
とても大事なポイントです。だから、この御一流では「信心を先とする」ことを重視して
いるのだと思います。もちろん、この場合の信心は、仏からいただいた信心です。我々
凡夫の側から起こす信心ではありません。

否が応でも、我々念仏行者は、「聞いてしまった」という事実からスタートせざるを得ま
せん。私は、ここに重大な仕掛けが隠されているという気がしてならないのです。同じ
聖典を読んでも、この御法を聞いたものと、聞かないものとでは、受け止め方がまるで違って
きます。来世を考えるにしても、今世を考えるにしても、「あなたを救って離しません」と
宣言された人間は、何かが違っているような気がするのです。

救われた御恩報謝の念仏をするようにと言われても、「あなたを救いましたよ」と言われ
ていない人間は、いったいどんな御恩に感謝したらいいのかわからないはずです。すでに
聞いてしまったからこそ「御恩報謝」ができるわけです。

聞くのもある意味で簡単なのですが、「御恩報謝の念仏」も聞いたものにとっては、ある
意味で簡単です。あまりに簡単なので、この本当のすごさを我々はほとんど理解していな
いのかもしれません。理解していなくとも「御恩報謝の念仏が大事ですよ」「救われたこ
とを喜びなさい」といわれたら、子供のように素直に「はーい」と言われたとおりにして
いれば自然と育てられる仕掛けになっているのでは、などと考えたりしております。
そして、それが「後念相続」の姿なのかもしれないと思っております。

信じたり、疑ったりする愚かものにとっては、「すでに聞いてしまった」という事実が、
唯一のよりどころです。

南无阿彌陀佛

●re.95
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1992 ] Re78:後念相続 2010/07/19 (Mon) 12:20 △up ▽down
    ボン樣
〔1985〕で大変な間違いを犯しました。
それは、私が
「ボン樣は出来るだけご自身の言葉で述べていますね。
信成就して、蓮師の云う「骨髄に徹った」方の書き込みと見えます。」
と書いた事です。
ここは極道坊主樣に書いているのについついボン樣と書き間違えたのです。
〔1987〕のボン樣の書き込みを昨日(18日)に見て気付きました。

あまりにも大変なミスを犯したことで気が動転して昨夜は眠れませんでした。

ボン樣は、ご自分の心情をいつも正直に述べていらっしゃいますので、私も
ボン樣との会話の中で菩提心様やその他の皆様方に『教行信證』を少しでも
読んで頂きたいと思って、いろんな書き込みをさせて貰っていました。

その一番の主目的は報土は現生での往生であり、又往相廻向だけではなく
還相廻向もこの娑婆世界である事を皆様方に理解して頂きたくて書いて
いるのです。

改めてお詫び申し上げます。
〔1985〕の上記の「ボン樣は・・・」の文章は「極道坊主樣は・・・」と
訂正してお読み下さいますよう心からお願いいたします。

又、ボン樣には、私の書いた文章通りにお読み下されて、なお且つお返事も
書いて頂いたのに、このような訂正の書き込みをして大変恥をかかせた
ような事になり、どのように謝ればよいのかわかりません。

ただ自分がミスを犯したらそのままにして知らないフリが出来ない性分
なので、素直に謝るよりほか出来ない自分です。

取りあえず、訂正とお詫びまで。
合掌 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.96
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1993 ] Re79:後念相続 2010/07/20 (Tue) 01:38 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

なにかたいへん心を痛めておられるようですが、どうぞお気になさらないで下さい。

私は、忍草様の書き込みをお言葉通り受け取ったのは確かですが、恥をかいたなどとは
ひとつも思っておりません。私は、忍草様の書き込みを引き合いにだして、ただ、私の
書きたいことを書いただけです。

なるほど、例の部分を「極道坊主樣は」と置き換えて読めば、おっしゃることはよく
理解できます。

ただ、忍草様が「報土は現生」とたびたび強調されるのが、いまだによく理解できません。
「報土」とは「報いの土」ということですから、その言葉自体に現世も来世もないのでは
ないでしょうか。

現世もその人の「報いの土」であるし、来世もその人の「報いの土」ではないでしょうか。
その人の行いが「因」となって、その「果」として、その人の「報いの身と土」があるの
ですよね。

また、「“聞けば”この世が浄土」というのも、一部理解できる部分もありますが、
基本的には理解できません。

どうしたって、この世で生きていく限りは、動物の死肉を「美味い、美味い」と言って
喰らい、悪臭のする腐敗物を排泄しながら生きていくほかありませんよね。道を歩けば
無数の虫を踏み殺して歩いているわけですよね。これって、まさしく穢身であり、穢土
だと思います。

まわりを見渡せば、戦争の絶えない国もあるし、殺人も絶えませんよね。これって、
まさしく“軽い地獄”であり、六道の見本ではないでしょうか。

ただ、一部理解できるというのは、“聞いた”ものにだけ与えられるこの世の浄土も
あるような気がします。それは、お講であり、お座であり、この掲示版ではないかと
思っております。

まあ、これは勝手な解釈ですので、間違いがありましたらご指摘ください。
どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.97
菩提心
非公開の非公開
[ 1994 ] Re80:後念相続 2010/07/20 (Tue) 15:15 △up ▽down
>菩提心様
>還相廻向が貴女の云う通りだとしたならば、いつ衆生済度の為の勉強を
>なさるのでしょうか?

還相廻向のお方は衆生済度をなされるお方なのだと思います。

真の善知識を探そうと思えば、往相の人を探せば簡単に見つかります。

私は善知識では有りませんから、どのような勉強をされるのかも分かりませんが

きっと「次第相承の善知識」「口決面授」「如来の御代官」と言われるお言葉からも、全ての人が還相廻向と言われるのではないと思います。

それに誰がいつ往相廻向から還相廻向になられるのか、わたしは分かりません。

ただ信心決定すれば、それは弥陀より賜った信心ですから、この頃は南無阿彌陀佛の六字に全てが納まっているという思いがするので、この法は迷信でもなく、お伽話でもないと思えるようになっています。

還相廻向は目的を持ってこの娑婆世界に衆生済度にこられるお方と思う方が、違和感がないのでそのような場所を探している訳です。

その反対に往相廻向の救われる姿を見て、信心決定したい、浄土に行きたいという気持ちになって、
善知識を尋ねようと心も起き、身体を運ぶのではないかと思います。

確かに信心決定すれば「次如弥勒」という身分になる訳ですが、でも覚りは死んだ後だと思います。

聖道門と違い、善知識の下で一念帰命した真宗の御同行の方はそういう立場となり、平生ただ今成れる訳です。

その場に百人いれば、聖者も悪人も、男性も女性も、大人も子供も、金持ちも貧乏人も、天才も凡人も、百人救われる教えが真宗ではないですか?

そして御恩報謝の御念仏が最高だから、悪いことをしても良いと言っているのではないと思います。
助かった人は悪いことは止めよう、善をしようという気持ちが起こってくるのだと思います。

悪人正機が正客だと思えるからこそ、助かる縁もない自分だった。

それが今、三悪道の道は塞がり、死んだら仏と肩並べて衆生済度のお手伝いが出来る。

それは自分から起こした信心ではなく、弥陀より廻向された信心だからだと思います。


>自分に都合の良い解釈ばかりでは矛盾が生じてこないでしょうか。

我田引水にならないように気を付ける為にも引用場所を示しています。

だから矛盾というより、むしろとても有難いと思います。

全く仏法を知らなかった私がまずこのような御著書を拝読できる事です。

興味がないものには関心を示しませんが、今は楽しいと思えることです。

そして落ち込むような事が起きても、未来が明るいと思えるので苦労、我慢も出来るようになってきた事です。

「菩提心が考える還相廻向」にこれからも書いていけたら嬉しいです。

そこは違うよと思えば、検証されたらよいと思います。

そして御自身が納得された道を歩まれたらいいのだと思います。

親鸞聖人や蓮如上人を弥陀如来の応現と信じられる人は宿善多幸の人らしいです。

今の時代はそういう点ではとても有難い時代だと感謝しています。

暑い最中でも、調べたい時は汗を流さずとも色々な御著書が拝読できます。

「あまりの炎天のあつさに、これを筆にまかせて書きしるしをわりぬ」  御文2−12

五百年前の蓮如上人はどのようなお気持ちで今日のような炎天下を過ごされたのか、信心決定する前は微塵も起きてこない思いでした。

それ一つとっても有難いと思います。

南无阿彌陀佛  南无阿彌陀佛 

●re.98
忍草
北陸の男性

↑忍草様宛にメール
[ 1995 ] Re81:後念相続 2010/07/21 (Wed) 07:10 △up ▽down
   ボン樣
〔1993〕のボン樣のお心遣いありがとうございます。
素直に感謝申し上げます。

暑苦しくて目がさえてしまったのでパソコンの前にすわりました。
  

菩提心様
還相廻向について一寸書きます。
先ず「曼荼羅を説く」という本のことですが、正直私は読んでいません。
ただ、この著書は他力の信心をお持ちの方が書かれたものですか?。
もしそうでなければ、その本がどんなに立派な本であろうとも、そこからの引用は
考えものです。

理由。現在、本山の勧学であろうとどのような布教師であろうとも、一念帰命の
他力信心をお持ちでない方はこの彌陀法(餘の一法)が解けないわけですから、
そのような方々が書かれる還相廻向は、親鸞聖人の『顕淨土眞實教行證文類序』略して
『教行信證』に説かれる還相廻向とは意味が違うとおもわれます。

又、理由。祖師聖人の還相廻向は「行信」の證の中での還相廻向ですから、行信も
うけていない方がその證が書ける訳がないのです。

私は以前にも書いたのですが、「聖典」以外読むなと教えられて、著名な方の眞宗関連の
本を購入しましたがいまだによんでいません。
理由。今になってよくわかりますが必ず解釈がどこかでちがっています、なにも全てが
違っていると云うのでありません。もし大事なところで間違った解説をされていたら
著名な方の名前のゆえにその本に書かれていることを信じてしまうのではないでしょうか。

ここに『淨土法門見聞鈔』の一番最初の文を書き込みします。
問(とう)往相還相の二種の廻向いかん
答(こたう)往相の廻向というは如来の廻向他力なり。還相の廻向というは衆生の廻向
自力なり。往相還相その名ことなれどもみな如来他力の方便なり。またこれ自然道理の
いたすゆえなり。たとえば一切のものゝたねを案ずるに、ううるときはこのみとならん
ことを期し、このみとなりてはたねとならんことを期す。地にあるときは如来往相の
他力の廻向なり、これ娑婆世界にして極樂をねがうにたとうるなり。このみとなりては
地にううることを期す、これは還相の廻向のこゝろなり。みなこれ自然の道理なり、これ
不思議なりとしるべし。

「還相廻向とは衆生の廻向自力なり」としっかりと書かれています。

ここで證巻、還相廻向に論註二文の「菩薩但初地に登れば、漸を以て増進して・・・」が
一念帰命をいただいて、初歓喜地に登れば、(頓・漸は愚禿鈔上参照)漸(自力)を以て
増進して・・・の文章も理解出来るはずです。

菩提心様の「そこは違うよと思えば、検証されたらよいと思います。
そして御自身が納得された道を歩まれたらいいのだと思います。」

逆に、ご自身の「今の私ではよく分かりません」
「わたしには心情的に、なかなか納得いかないのです。
滅度に至って、この娑婆世界に戻って済度するのが還相廻向だと理解する方がしっくり
いくからです。
法論する智慧もない身で、生意気で済みません。」
「・・・と思います」を多用されますが、ご自身が眞宗の聖典や聖教の中でこそ納得の
いくまで「検証」されるべきです。

今朝は一寸菩提心様にはきつい書き込みになりましたが、是非、ボン樣のように
『教行信證』を読み解いて下さい。 根本聖典です。

あくまでも、都合のよいところだけではなく、時間をかけて(他の書物を読む時間が
あれば)こころゆくまで、あきれるくらい読んで下さい。

獅子は子を千尋の谷に落とすのたとえもあり、親は馬鹿な子ほど可愛いと申します。

今まで菩提心様だけに水さまを使用しています、永さまをいつか使用したいものです。

   合掌 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.99
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1996 ] Re82:後念相続 2010/07/22 (Thu) 03:22 △up ▽down
忍草様

ご無沙汰しております。

>今まで菩提心様だけに水さまを使用しています、永さまをいつか使用したいものです。

これは、忍草様が、何かしらの位付け、すなわち、評価をしていて、そして、忍草様は、その評価基準の妥当性を信じていらっしゃるわけです。

もちろん、私どもは、評価する心、秤にかける心、裁く心を持っていると思います。私も持っています。

しかし、私は、弥陀の救いは、そのような差別、区別を超えたところにあると信じているわけです。

では、その信の根拠はというと、つきつめれば、「私は、そう信じている」というだけのことです。

聖典の根拠と言っても、解釈が多様である以上、聖典をどう読もうとも、絶対的な根拠にはならないと考えています。

忍草様の御立場は、私の解釈では、聖典の文字が読めるかどうかで、往生の姿が変わるということだと捉えております。

つまり、聖典をどう解釈するかが因となって、それに応ずる果としての土があるのだと。

たとえば、漢字の意味をどう捉えるかが因となって、報土が変わる。では、漢字文化圏以外の翻訳聖典では、弥陀は救ってくれないですね。

しかし、私が考えているのは、そのような因果ではあらず、ただ、弥陀をたのむ一点において往生があるのだと考えております。

こう捉えることにより、「物知らず」であることに怖じることなく、安心して往生に臨むことができると感じているわけです。

◎このほかに、なを、信心といふことのありといふ人これあらば、おほきなるあやまりなり

この一文の解釈も多様であると思います。しかし、「なを」という信心はない、ということですから、信楽は、今生において得るものであり、さらに、漸進するという立場は、「承引すべからざるもの」であると、私は考えております。

そして、忍草様の御書き込みを拝見するたびに、私は、

◎故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。いまにいたるまでおもひあはせられ候ふなり(御消息)

この一節を思い出します。

◎学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず

複雑な道を往く仏門もあると思うのですが、真宗は易行の道、救われる道、安心の道、終着点であり、そこに辿りつけたと感じることができることを、私はよろこびます。

これは、不思議な心持ちですが、疑いながら、信じているのです。

南无阿彌陀佛


●re.100
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1997 ] Re83:後念相続 2010/07/22 (Thu) 03:32 △up ▽down
忍草様

現世が報土かについてですが、私には、「信をいただいた」と思う時があるのですが、その前後であたりを見渡しても、特に土に変化は感じません。

よって、報土は、異時因果であると捉えます。ただし、報土の時がこの土の時と直線上につながっているとも思っておりません。

信をいただく前後で、この世の土を私がどう感じるかは、変わっているかもしれませんが、土が変わったとは、見えません。

私から見れば、忍草様は、このような単純な認識を、捨ててしまっているわけです。

ですから、文の中に、囚われている人に見えます。

しかし、もちろん、私からそう見えるというだけで、忍草様から私を見れば、また別の見方(救われていない等)があるだろうと思います。あるいは、聖典を理解していない人に見えるかもしれません。

基本的には、私は、「読めずして読めるのだ」という、うぬぼれの中にいるのであり、そして、そのうぬぼれをよろこんでいるのが私なのだと思っております。

そして、よろこんでいる以上、それが思い込みで間違いかもしれなくても、そこで良いと思ってしまっているわけです。

強い思い込みを持っているから、取り付く島がない。そういう状態が、今の私なんだろうと思っております。

南无阿彌陀佛


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