浄土真宗の教義について

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●No.125
菩提心
非公開の非公開
[ 1327 ] 人間と人を区別する考え方 2009/04/14 (Tue) 03:18 △up ▽down
[ 1278 ] 愚尼様のご意見
>私は、人間と人とを区別して書いていますが、皆さん見落としているようですね。

[ 1162 ] 愚老様のご意見
>人間で有り人になれば念仏報謝にて心の悪が消滅されるものと思っております。

[ 1026 ] 蓮華蔵様のご意見
>それを聞くことができるのは、餓鬼道から抜けて「人間界」に出た人だけです。

[ 1053 ] ちょっと失礼します様のご意見
> 何も知らない御聖典を読む事も理解する事も出来ない私でも、信心をいただいた人と、そうではない人間を見分ける術は、知っています。

[ 1065 ] ちょっと失礼します様のご意見
>私は、人間ではありません。人です。


私は、ずっと人間と人との区別の事で疑問が有りました。
これは、ここの場所だけではなく、この道探して来る時にも、そのように区別する御著書や、又区別するものだと教えて頂きました。

そこで、この掲示板においても、このような御意見が出てきました。

それに対して、

[ 1069 ] 金剛心様はこのように示して下さいました。

>[ 1062 ][ 1065 ]にちょっと失礼します様はボン様宛に大変ためになる良い事を書いておられます、「この世は修行」だとか「一番の修行はお手引き」だとか「極楽へ往ったから修行が無い訳ではありません」「私は人間ではありません人です」と書き込みされています。他力教を大変良く理解して書かれていると思います。
これだけ理解されていれば上出来だと思います。貴方と一度お会いしたいですネ、お会いして話し合う事が出来れば即真宗の窮極まで了解出来る方であると思っております・・・
追記
上記文の中で「私は人間ではありません人です」それは何故こんな短い文にも蓮師の説明が書かているのです。紹介すれば「人間に尋ねてしれぬ後世の道 とかく他力は人に尋ねよ」と人間と人について解釈されて記されているのです。
未安心者はいくら人間に聞いても後世の解決は出来ないのです。
後世の解決するためには他力法を体験した念仏行者である人に聞かなければ後世の解決は出来ない、という事を顕わす文なのです。


済みませんが、まだいまいち良く分からないのですが、蓮如上人は金剛心様のようなお気持ちで、人に尋ねよと書かれたのでしょうか?

私は、ただそれは言葉の違いであって、そのような深い意味があるのか疑問に思います。

蓮如上人の時代は、読み書きできる人は少ないご時世に、御文を読み聞かせたと思います。
一々、このような区別をされて御文を解釈されたのだろうか、ここはずっと疑問になっていました。

若し、御説明頂けるならお願いしたいのです。

南无阿彌陀佛

●re.1
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1328 ] Re1:人間と人を区別する考え方 2009/04/14 (Tue) 03:43 △up ▽down
愚尼 様

私も、ご説明いただけるのであれば、うれしいです。

愚尼様は、愚尼様の御説を他者に問うことが多いのですが、これは、愚尼様の御説を、愚尼様に問うているのです。

◎疑惑の念仏の人は、報土になしといふなり(一多証文)

◎無量寿仏、もろもろの大衆とその人の前に現ぜん(三経往生)

このような「人」は、どう解釈なさっているのかも、お聞きしてみたいです。

南无阿彌陀佛

●re.2
菩提心
非公開の非公開
[ 1344 ] Re2:人間と人を区別する考え方 2009/04/15 (Wed) 00:49 △up ▽down
愚尼様

あちこちで書き込みされておられるのでしたら、はやく御説明して頂けないですか?


●re.3
ボン
関東の男性
[ 1353 ] Re3:人間と人を区別する考え方 2009/04/15 (Wed) 17:47 △up ▽down
愚尼様、こんにちは。

人と人間の違いにつきましては、浅学につき初耳でした。

前から一度、詳しく聞いてみたいと思っておりましたが、
菩提心様から質問がありまして、ありがたく思っております。

ぜひ、ご教授いただければうれしく思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.4
愚尼
非公開の非公開
[ 1369 ] Re4:人間と人を区別する考え方 2009/04/16 (Thu) 19:37 △up ▽down
ボン様へ

蓮如上人は、未安心の者を人間と表現し、信心を頂いた者を人と表現しています。
蓮如上人の処には、未安心の者も、安心の者も入り交ざっての説法だったそうです。
「ちょっと失礼します」と金剛心様のやり取りをもう一度読み直していただければ、少しは、理解していただけるのではないかと思います。

合掌  南無阿弥陀仏

●re.5
ボン
関東の男性
[ 1370 ] Re5:人間と人を区別する考え方 2009/04/17 (Fri) 03:02 △up ▽down
愚尼様、こんばんは。

ご教授いただき、ありがとうございます。

>蓮如上人は、未安心の者を人間と表現し、信心を頂いた者を人と表現しています。

ご教授いただきましたこと、にわかに信じがたいところがございまして、
御文章を調べてみたところ、「信心を頂いた者」を「人」と表現していると考えると、
意味が取れないところが多々でてまいりましたので、以下、列挙します。


「さればちかごろは大坊主分の人も、われは一流の安心の次第をもしらず」1-1

「しかれども、この一流のうちにおいて、しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。」1-5

「そもそも、当宗を、昔より人こぞりてをかしくきたなき宗と申すなり」1-9

「しかるに当世はわが宗のことを、他門・他宗にむかひて、その斟酌もなく聊爾に沙汰するによりて、
当流を人のあさまにおもふなり。」1-9

「かやうにこころえのわろきひとのあるによりて、当流をきたなくいまはしき宗と人おもへり。」1-9

「またよその人の物いむといひてそしることあるべからず。」1-9

「あながちにわが流を一向宗となのることは、別して祖師(親鸞)も定められず、
おほよそ阿弥陀仏を一向にたのむによりて、みな人の申しなすゆゑなり。」1-15

「ただいま三途八難に沈まんことをば、露ちりほども心にかけずして、
いたづらにあかし暮すは、これつねの人のならひなり。」2-1

「弥陀を一心一向に信楽してふたごころのなき人を、弥陀はかならず遍照の光明をもつて、
その人を摂取して捨てたまはざるものなり。」2-2

「このほかになほ信心といふことのありといふ人これあらば、おほきなるあやまりなり。」2-2

「いそぎその秘事をいはん人の手をはなれて、はやくさづくるところの秘事をありのままに懺悔して、
ひとにかたりあらはすべきものなり。」2-14

「肝要はただわが一宗の安心をよくたくはへて、自身も決定し人をも勧化すべきばかりなり。」2-15

「またもとより門徒たらん人も、安心のとほりをよくこころえずは、あひかまへて、今日よりして、
他力の大信心のおもむきをねんごろに人にあひたづねて、報土往生を決定せしむべきなり。」3-1

「機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。」3-2

「ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。
それはおぼつかなきことなり。」3-2

「当流安心のおもむき、ことのほか相違して、みな人ごとにわれはよく心得たりと思ひて、
さらに法義にそむくとほりをもあながちに人にあひたづねて、真実の信心をとらんとおもふ人すくなし。
これまことにあさましき執心なり。」3-8

「近代このごろの人の仏法知り顔の体たらくをみおよぶに、外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、
内心にはさらにもつて当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、」3-11

「自他の門徒中を経回して虚言をかまへ、結句本寺よりの成敗と号して人をたぶろかし、
物をとりて当流の一義をけがす条、真実真実あさましき次第にあらずや。」3-11

「あまつさへわたくしの義をもつて本寺よりのつかひと号して、人をへつらひ虚言をかまへ、
ものをとるばかりなり。」3-12

「すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、
こころうべき次第は、」3-13

「ちかごろもつてのほか、みな人のなにの不足ありてか、相伝もなきしらぬくせ法門をいひて人を
もまどはし、また無上の法流をもけがさんこと、まことにもつてあさましき次第なり。」3-13

「これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずは
いたづらごとなるべし。このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。」4-2

「年五十六まで生き延びたらん人は、まことにもつていかめしきことなるべし。」4-2

「されば信心といふも別のこころにあらず。みな南無阿弥陀仏のうちにこもりたるものなり。
ちかごろは、人の別のことのやうにおもへり。」4-6

「仏法を棟梁し、かたのごとく坊主分をもちたらん人の身上において、
いささかも相承もせざるしらぬえせ法門をもつて人にかたり、」4-6

「いかなる人のなかともいはず、大道・大路にても、また関・渡の船中にても、
はばからず仏法方のことを人に顕露にかたること、おほきなるあやまりなり。」4-6

「人ありていはく、『わが身はいかなる仏法を信ずる人ぞ』とあひたづぬることありとも、
しかと『当流の念仏者なり』答ふべからず。」4-6

「近年は仏法繁昌ともみえたれども、まことにもつて坊主分の人にかぎりて信心のすがた
一向無沙汰なりときこえたり。」4-7

「近年仏法は人みな聴聞すとはいへども、一往の義をききて真実に信心決定の人これなきあひだ、
安心もうとうとしきがゆゑなり。」4-7

「在所をきらはず、いかなる大道・大路、また関屋・渡の船中にても、さらにそのはばかりなく
仏法方の次第を顕露に人にかたること、しかるべからざる事。」4-8

「ただ一心に弥陀をたのみ、後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人をば、
かならず御たすけあらんことは、さらさらつゆほども疑あるべからざるものなり。」4-10

「またいささかも世間の人なんども偏執のやからもあり、むつかしき題目なんども出来あらんときは、
すみやかにこの在所において執心のこころをやめて、退出すべきものなり。」4-15

「それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。」5-2

「一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。」5-2

「他流の人に対してかくのごとく沙汰あるべからざるところなり。」5-5

「それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりを
となへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。」5-11

「いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、
明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。」5-16

「されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を
心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。」5-16


これらの蓮如上人の記述をどのように考えたらよろしいのでしょうか。
ご教授いただけましたら幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.6
愚尼
非公開の非公開
[ 1371 ] Re6:人間と人を区別する考え方 2009/04/17 (Fri) 17:24 △up ▽down
ボン様へ


>「さればちかごろは大坊主分の人も、われは一流の安心の次第をもしらず」1-1


信心をいただいたが、自力の僻思いが抜けない人。人の頭数が多い事をただよろこんでいる人です。他の善知識のところへ行くなと言ったりしている善知識、現代でもいますよね。


>「しかれども、この一流のうちにおいて、しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。」1-5

信心のすがたをもえたる人とは、他力の中の他力の人。

信心を頂いても、自力が主流だった時代背景があり、知りもしないエセ法門と言ったら、教行信証をきちんと理解できていない人の事。

>「そもそも、当宗を、昔より人こぞりてをかしくきたなき宗と申すなり」1-9

信心をいただいた人が、悪人正機などの文言を自分の都合の良いように理解してしまい、振舞う行為があったという時代背景があります。


>「しかるに当世はわが宗のことを、他門・他宗にむかひて、その斟酌もなく聊爾に沙汰するによりて、
>当流を人のあさまにおもふなり。」1-9

これは、1-9をはじめから読めば、理解に苦しむことはないと思います。


蓮如が何時、どんな場所で御文を書いたのか知らなければならないし、どんな立場の者との会話なのかを知らなければ、一通の中に、何人の登場人物が存在しているかを考慮して読まなければ、理解できないと思います。
ひらがなの中にも意味を含んでいます。
だから、聖典は、弥陀の金言、真実の教えなのです。
真実しか書かれていないと言う事が前提です。
一字一句加減が許されません。
正法を誹謗するという行為が、皆さんは、理解できていないと感じています。

私、愚尼は、善知識である。
これを私の思い上がりだと思ったら、正法を誹謗しています。
皆さん、信心をいただいたなら、真実の教えを知っているのですから、皆さん、善知識なんですよ。
きちんと、聖典の中に、書いてあります。
皆さん、何を読んでいるのですか?

教行信証を読む前に、もっと知らなければならない事が、沢山あります。
教行信証を読む事は、悪い事ではありません。素晴しい意欲です。
自分の字力や、娑婆で得た知識で理解しようとすれば、親鸞に挑戦状を叩き付けたのと同じで、阿弥陀仏に刃向かっている事になってしまいます。
先ずは、明師・学生に尋ねて教えてもらわなければ、独学では、理解できないと思います。

あくまでも、参考意見ですので、お聞き流し下さい。

合掌  南無阿弥陀仏

●re.7
ボン
関東の男性
[ 1372 ] Re7:人間と人を区別する考え方 2009/04/17 (Fri) 18:34 △up ▽down
愚尼様、こんばんは。

御文章の解説をいただきまして、ありがとうございます。
また、いろいろご忠言をいただきまして、ありがとうございます。

>私、愚尼は、善知識である。
>これを私の思い上がりだと思ったら、正法を誹謗しています。
>皆さん、信心をいただいたなら、真実の教えを知っているのですから、
>皆さん、善知識なんですよ。

私は、愚尼様が善智識であることを否定しません。
その昔、有縁の同行様から、お手引きをなさった方も広い意味で善智識だと
聞いたことがあります。

>教行信証を読む前に、もっと知らなければならない事が、沢山あります。
>教行信証を読む事は、悪い事ではありません。素晴しい意欲です。
>自分の字力や、娑婆で得た知識で理解しようとすれば、親鸞に挑戦状を叩き付けたのと同じで、
>阿弥陀仏に刃向かって>いる事になってしまいます。
>先ずは、明師・学生に尋ねて教えてもらわなければ、独学では、理解できないと思います。

私は独力で教行信証を読もうとは思っておりません。
その昔「仏法は聞くもの、一人で読めば必ず間違える」と聞きました。
ですから、学習ノートを公開して、分かる方に間違いをご指摘をいただければと思っております。

それはさておき・・・

>蓮如が何時、どんな場所で御文を書いたのか知らなければならないし、
>どんな立場の者との会話なのかを知らなければ、一通の中に、
>何人の登場人物が存在しているかを考慮して読まなければ、理解できないと思います。
>ひらがなの中にも意味を含んでいます。

たいへんもっともなご指摘と思います。
それがわからないと、愚尼様のおっしゃった以下の内容が理解できないとの
ご指摘だと思います。

>蓮如上人は、未安心の者を人間と表現し、信心を頂いた者を人と表現しています。

私は、「どんな場所で御文を書いたのか」も知らないし、
「どんな立場の者との会話なのか」も知らないし、
「何人の登場人物が存在しているか」も知りません。

もし、愚尼様がそのことをご存知でしたら、ぜひ教えを請いたいと思います。
そうすれば、上記の愚尼様のお話もよく理解できるように思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.8
愚尼
非公開の非公開

↑愚尼様宛にメール
[ 1373 ] Re8:人間と人を区別する考え方 2009/04/17 (Fri) 23:20 △up ▽down
ボン様へ

今少し前に、金剛心様と、忍草様とお話をしていました。
歎異抄【13・本願ぼこりといふ事】後ろから7行目
「弥陀いかばかりの力ましますと知りてか、罪業の身なれば救はれ難しと思ふべき」
上記の文に、二人の登場人物が居ます。
問答となって居ます。

未安心が「弥陀いかばかりの力ましますと知りてか」問うて
答えて「罪業の身なれば救われ難しと思うべき」

金剛心様が、これを教えてあげなさいと言ったので、書きました。

聖典は、そんな文ばかりです。
誰に聞けば、詳しく教えてくれるのか、ボン様は、すでにご存知ではないのですか?

金剛心様は、もうここには登場しません。
どうしても詳しく知りたいのであれば、ここの掲示板に問いかけても、答えは出ません。

私には、プライバシーは、存在しません。何故、メアドを私が公開しているのか、私の今までの文をお読み下さい。
約束は、守ります。

私は、金剛心様に教えてもらわなければ、上記の事柄について、説明出来ませんでした。
金剛心様は、来る者拒まず、去る者追わずです。
こんな私でも受け入れてくれてます。

どうしても、詳しく知りたいのであれば、道はひとつしか、残っていません。
選ぶのもボン様。選ばないのもボン様。ボン様の自由です。
誰にも遠慮は要りません。

私は、いつでもお待ちしています。

法に対しての質問は、これから出し惜しみしたいと思います。
私は、受付窓口でしかありません。

合掌  南無阿弥陀仏

●re.9
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1374 ] Re9:人間と人を区別する考え方 2009/04/18 (Sat) 00:41 △up ▽down
愚尼 様

遠慮なさっているのは、ボン様ではなく、愚尼様ではないでしょうか。

どうかご遠慮なさらず、ご回答を続けてくださったら、うれしく思います。

私と致しましては、「お手引きを最高の修行とすれば、なるほどこういう行動方針になってゆくのか」と、納得できることではございます。

これは、私の推測ですが、愚尼様のところでは、信をいただいても五逆誹謗によってそれは取り消しになるという教義であって、それにより、信徒を思想的に縛っているのではないでしょうか。

もし違うのであれば、「そのようなことはない。信をいただけば、極楽往生治定であり、それがくつがえることはない」とはっきりおっしゃっていただければ、私も安心致します。

ひとりひとり、惹かれる道も違いますし、落ち着きどころも違いましょう。

私が明確にしなければならないことは、私は、愚尼様も、金剛心様も、基本的には外道と見ているということです。

御書き込みからは学べることが多々あり、感謝しております。

しかしだからこそ、愚尼様と金剛心様は、私とは立場が異なると明確に書かねばならないと思っております。

それは、この掲示板を閲覧している方が、愚尼様と金剛心様を、私が推薦していると誤解してしまう可能性があると思うからです。

この掲示板をご覧くださっている方が、愚尼様とご連絡を取ってくださる分には、一向に構いませんが、私は愚尼様は外道であると思っております。

内心に信をたくわえている可能性はあるかもしれませんが、そのふるまいは、(私の立場からは)外道を指向していると思います。

南无阿彌陀佛

●re.10
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1375 ] Re10:人間と人を区別する考え方 2009/04/18 (Sat) 00:29 △up ▽down
愚尼 様

ボン様のご質問へのご回答についてなのですが、

>「さればちかごろは大坊主分の人も、われは一流の安心の次第をもしらず」1-1

>「そもそも、当宗を、昔より人こぞりてをかしくきたなき宗と申すなり」1-9

これらの「人」も、愚尼様は、「真実信心いただいた人」として解釈していらっしゃるということになるのでしょうか?

私は、これまでそのように解しておりませんでしたので、これから検討してみようと思います。

検討する前の思いとしましては、1-9は、文脈上そのように解することができるかもしれないとも思うのですが、1-1の「大坊主分の人」が「真実信心をいただいている人」であるという解釈につきましては、驚いております。

とは言え、愚尼様は、それほど明確に書いているわけではございませんので、この私の書き込みは、愚尼様へのご確認のご質問も含んでいるのですが・・・

南无阿彌陀佛

●re.11
ボン
関東の男性
[ 1378 ] Re11:人間と人を区別する考え方 2009/04/18 (Sat) 03:35 △up ▽down
愚尼様
思わぬ展開に驚いています。

>今少し前に、金剛心様と、忍草様とお話をしていました。
>歎異抄【13・本願ぼこりといふ事】後ろから7行目
>「弥陀いかばかりの力ましますと知りてか、罪業の身なれば救はれ難しと思ふべき」
>上記の文に、二人の登場人物が居ます。
>問答となって居ます。

>未安心が「弥陀いかばかりの力ましますと知りてか」問うて
>答えて「罪業の身なれば救われ難しと思うべき」

>金剛心様が、これを教えてあげなさいと言ったので、書きました。

私は愚尼様にお尋ねしているのですが、ここでどうして金剛心様のお指図が
出てくるのでしょうか。不思議に思います。

また、私はここのスレッドのタイトルにあるように、「 人間と人を区別する考え方 」
を理解するために、「どんな場所で御文を書いたのか」「どんな立場の者との会話なのか」
「何人の登場人物が存在しているか」をお尋ねしたのですが、なぜ、「歎異抄」の
ここの箇所を教えていただいたのか、理解できません。

「弥陀いかばかりの力ましますと知りてか、罪業の身なれば救はれ難しと思ふべき」
の文が、未安心の者と、(多分)獲信者との問答になっていると言っておられますが、
そのように理解すると、何の理解がどのように深まるのか解りません。

>どうしても、詳しく知りたいのであれば、道はひとつしか、残っていません。
>選ぶのもボン様。選ばないのもボン様。ボン様の自由です。

私は「 人間と人を区別する考え方 」についてお尋ねしているだけのですが、なぜ、
唐突に、ひとつしかない道を選ぶか選ばないかといった、二者択一をせまられるのか
理解できません。

>法に対しての質問は、これから出し惜しみしたいと思います。
>私は、受付窓口でしかありません。

何の窓口なのかよくわかりませんが、もしかしたら、金剛心様へ取り次ぐ窓口でしょうか。
だとしたら、たいへん失礼な話しではないでしょうか。

毎日様は、寛容にも、ここの掲示板でどなたも排除されず、意見の違う方々とも
問答をしておられます。

それをいいことに、ご自身や金剛心様と毎日様の意見が異なることを知りながら、
問答にはまともに答えないで、ただただ毎日様の掲示板を利用して、自ら信じる
道へと参加者を引き込もうとするのは、人として礼節を欠くものと思います。

私は、以前にも申し上げましたとおり、毎日様の掲示板で遊ばせていただいている身と
分をわきまえております。ご理解ください。

南无阿彌陀佛

●re.12
愚尼
非公開の非公開
[ 1381 ] Re12:人間と人を区別する考え方 2009/04/18 (Sat) 09:17 △up ▽down
ボン様へ

私たちの考えを非難されてもかまいませんが、私は、勉強中の身です。
金剛信様に色々と教えていただき、私は、納得する部分が多いだけです。
御文がいつどこで誰との会話を記したものか知りたければ、ご自分でお探しください。
金剛信様は、そういう本もお持ちです。

生きている間に不審を晴らせという言葉を未安心の者に投げかけているとお考えなのだと思います。
聖典は、信心をいただいたものへ書かれています。
それすらも理解できず、否定するのであれば、聖典なんかあなたたちには、必要ないものとなります。

毎日様の意見と合わない者は、ここでは受け入れられず、外道になります。私が、何を説明しても無駄だと思います。

ここは。毎日様が法律だと感じています。

ここの掲示板を去った方々は、とてもかしこい選択をしたと思います。

ここで話し合うことは、無益に感じます。

合掌  南無阿弥陀仏

●re.13
ボン
関東の男性
[ 1391 ] Re13:人間と人を区別する考え方 2009/04/18 (Sat) 17:53 △up ▽down
愚尼様

>ここは。毎日様が法律だと感じています。

この指摘はある意味で、正しいと思います。
インターネットの世界では、誰でも自分の「王国」を作ることができます。
愚尼様も、その気になれば、十分可能です。

掲示板の主催者は、自分が適切だと考えるルールを作る権利があります。
掲示板の主催者は、自分の掲示板(家)を整然と保つ権利があります。

>ここで話し合うことは、無益に感じます。

ここで話し合うことは、無益ではありません。有益です。

ここで話し合いもせずに、参加者を自分のテリトリーに引っ張り込もうと
する行為は、無益です。それ以上に有害です。

愚尼様は、「人間と人を区別する」というお考えに対する質問(疑問)には
まともにお答えになっていないにもかかわらず、新たに別スレッドを立てて、
そこで同じ主張を繰り返しておられます。これは不誠実です。

しかも、「・・・こともご存知ないのでしょうか」と他者をさげすむ表現で
ご自分の主張が100%正しいかのような主張をした上で、「私は、勉強中の身」
「質問には答えられない」というのでは、ただただ混乱を持ち込もうとしている
ようにしか見えません。

「掲示板荒らし」ととられても止む終えない行為と、私は考えます。

南无阿彌陀佛

●re.14
ボン
関東の男性
[ 1394 ] Re14:人間と人を区別する考え方 2009/04/19 (Sun) 01:21 △up ▽down
せっかくのご紹介ですので、「歎異抄」のご紹介の箇所を読んでみました。

「弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、
往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。
(中略)
願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよほすゆゑなり。されば善きことも悪しきことも業報に
さしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ他力にては候へ。
『唯信抄』にも、『弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、
すくはれがたしとおもふべき』と候ふぞかし。
本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ。
おほよそ、悪業・煩悩を断じ尽してのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかる
べきに、煩悩を断じなば、すなはち仏に成り、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。」

初めてこの箇所を読んでみて、驚きました。
「本願ぼこり」を批判しているのかと思ったら、「本願ぼこり」を批判している人たちの
行き過ぎを批判しているんですね。

その中で例の「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、
すくはれがたしとおもふべき」という文章が出てきます。

これは、もともと『唯信抄』の引用なので、『唯信抄』のその部分も見てみました。

「世の人つねにいはく、『仏の願を信ぜざるにはあらざれども、わが身のほどをはからふに、
罪障のつもれることはおほく、善心のおこることはすくなし。こころつねに散乱して一心を
うることかたし。身とこしなへに懈怠にして精進なることなし。仏の願ふかしといふとも、
いかでかこの身をむかへたまはん』と。
このおもひまことにかしこきに似たり、驕慢をおこさず高貢のこころなし。
しかはあれども、仏の不思議力を疑ふとがあり。
仏いかばかりのちからましますとしりてか、罪悪の身なればすくはれがたしとおもふべき。」

弥陀が仏に置き換わっていますが、同じ文章です。
そして、こちらを読むと、この文章の意図がよけいにはっきりと伝わってきます。

これは「仏がいったいどれだけの力を持っているのか知った上で、罪業の身であれば
救われがたいなどと思っているのだろうか」という疑問文であると思います。

疑問文といっても、ごれは逆説的表現ですから、その意図するところは、
「仏がどれだけの大きな力をもっているか知らないから、罪業の身は救われない
などと思うんだよ」ということだと思います。

もっといえば、「罪作りなことをすれば救われないなどと思うのは、仏の力を
疑っていることになるんだよ」ということにつながります。

以上を読んでみると、「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか」が問いで、
「罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」が答えと考えるのは無理があるような
気がいたします。

文法的に考えると「しりてか」の「か」は、「おもふべき」にかかり、文章全体を
疑問文にする働きをもった言葉です。

ですから「しりてか」と「罪悪の身なれば」の間で文章を区切ってしまうと、
この文章が、文章に体をなさなくなると思うのですが、いかがなものでしょうか。

間違いがあるようでしたら、どなたでもご指摘ください。

南无阿彌陀佛

●re.15
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1395 ] 人間と人を区別する考え方 2009/04/18 (Sat) 22:51 △up ▽down
皆様

極道坊主で有ります。

皆様の話が、スレッドの建て方のほうに傾いておられる様なので、また元に戻す感じで自分の思いを書き込ませて貰おうと思います。

人間と人を区別する考え方、多分、聖典・論・釈の何処を探されても明確に答えは載っていないと思われます。(くまなく探したわけでは有りませんので、何処かに書かれて在る様でしたら教えて下さい。)

人間と人、どの様に違うのでしょうか?

自分は、次のように思います。

人は、この世に有ります。 六道の内の『人道』であります。

この他には、皆様、御存知の如く『地獄』『餓鬼』『畜生』『修羅』『天道』と有りますが、是等は今住んでいる『人道』の外の世界ではないと思います。

外の世界とも取れましょうし、また、そうかもしれませんが、是等は我が身の心の有り方によっても、「今、この時、この場であっても六道を輪廻する。」と感じています。

自分を導いて下さいました先師に、次の様に聞かせて貰った覚えが有ります。

『地獄いうのは、今現在、刑罰を受けつつも、其の刑罰を受けている事を知らん者の済む世界を言うんで。』と。 また餓鬼道については、

『餓鬼いうんは、惜しい、欲しい、やりとうない言う心の塊で、施しを受けつつもそれらに感心を待たん者の住む世界を言うんで。』と。 畜生については、

『恩恵を受けながらも、恩に報いる事を知らず、また、その事すらも感じない者の世界を畜生道言うんじゃ。』

『修羅いうんはのう、今既に戦いの中に有りながら、其の戦いの中に在る事も知らず其れを享楽する者の住む世界を言うんで。』

『人道はのう、わし等の世界じゃが、真新しい苦しみを「楽しみ」と言うてそれに執着して、「何処かに別の楽しみがあるんじゃぁないか。」と探し廻っとる者達の世界をいうんで。』と。

『最後の天道じゃが、天上界といえば聞こえは良いけど天国とは違うんで。 是も迷いの世界じゃ。 今現に迷いの中に有りながらも、迷いの中に在ることを知らず、これを享楽する者の住む世界じゃ。 ようは、呆けとるのよ。』と、教えて貰いました。

この様に聞かせて貰いましたら、自分にも当て嵌まります。 此の身はこの場に有ります。 穢土に居ますが、心は他の世界を行ったり来たり。

此の身、今生に有りながら六道輪廻の真っ最中です。 殊に三悪道とは、常に往復をしています。 この姿、「人道と三悪道の間」の者を指して『人間』と申すのでしょうか? この様に考えるのならば、分からなくもありません。

ただ、この区別、自らの反省、戒め、律する心に立って、自分に向けて発する言葉ならば問題はないように感じます。 自分を知る為の手立てとして。

「人の心の中には、そういった心を起こす可能性を秘めているぞ。」と内省を即す為の方便のようにも感じます。

然し、この言葉を盾に人様に対して、他人に対して発するのは如何なものでしょうか? 他に向けて発すれば、言われた側は其の根拠を求めてきます。

多分、この言葉に関しての根拠となる、明確に記された書物は何処を探しても無い筈です。(「見つけた。」と主張される方が在ろうかと思いますが、それはその人の思い込みでしょう。)

そもそも、何を持って区別するのかが、自分には分かりません。

この言葉をもって、信心を戴いた得信者と未決定の未安心者(この言葉、他を見下げている様で好きになれません。)に当て嵌める等もってのほかの様にさえ感じます。

何故、区別せねばならんのですか? 区別する必要が有りますか?

区別する事で、他よりも優位な処に自分を置こうとする慢心の現われでは有りませんか?(そもそも、信心を戴けた方々も其処を通って来たではないですか?)

大体に、区別・分別を付けられる様に成る事が、成長過程で大事に思われていますが、それらは人間世界での「道徳」にしか過ぎません。

以前も書き込んだ事が在るかも知れませんが、ものの存在を有りの儘に見、それらを有りの儘に感じ、有りの儘に知る『無分別智』というのが、佛様の御知恵です。

人は、必ず佛様に対して相反する行動、思考を取ってしまいます。 

愚かであるが故、無智であるが故、無明であるが故です。

人の認識の基本に、区別、分別をする事で、順序立てて識別するという構造が有ります故、致し方ないのかもしれませんが?

それ故、『無分別智』等、知ろうにも知る事は叶わんと思います。 解り得ないかも知れません。

しかし、分からん者が、判らん様に、解らん儘、了解させられるのが、当流の御念佛の教えだと聞かせて貰っています。

佛教の究極は自分には、分らんし、判らんし、解らんのでありますが、其の解らん事を『なむあみだぶつ』と佛様は凝縮下さったのです。

小賢しい議論は、本当は要らん事。 議論して持論を通そうとするから、姿を変えて異論になるのではないでしょうか?

「人間と人は、この私の身の内に在る。」というのが、今の時点での自分の味わいです。

  合掌

●re.16
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1398 ] Re1:人間と人を区別する考え方 2009/04/19 (Sun) 01:36 △up ▽down
ボン 様

歎異抄の「本願ぼこり」の段につきましては、一般の誤解が多い箇所だと思っております。

弥陀のお力の広大さを知らされる段であると思います。

私のような凡夫は、どうしても、本願をほこってしまいます。

ですから、本願をほこる凡夫が救われないなら、「やはり私は救われないのだ」ということになります。

本願をほこっても救われますが、だからと言って、いくらでもほころうとするのではなく、「こんな自分でも救われる」ということから、感謝の気持ちを生じさせようとし、その感謝から、自身を律しようとする気持ちを作ろうとすることが、望ましいのであろうと考えております。

そして、「感謝の気持ちを生じさせよう」「自身を律しようとする気持ちを作ろうとする」と書きましたが、そのような気分になりましたことが、他力のはたらきであるといただいてゆくのであると思います。

>文法的に考えると「しりてか」の「か」は、「おもふべき」にかかり、文章全体を疑問文にする働きをもった言葉です。

ここにつきまして、私は、ボン様と同意見でございます。「おもふべき」が係り結びになっていると読めますので、対話と読むことは難しいと思います。

(対話と読むならば、後半部分は、「連体形によって詠嘆を示す」と解することになるのでしょうか・・・)

現代語では、「か」は疑問の終助詞であり、文末に用いますが、中古文においては、疑問の係助詞であって、文中に用いる場合と、文末に用いる場合がございます。

文中に用いる場合、

「AやB」・・・Bを疑問にする(あるいは、A+Bを疑問にする)

「AかB」・・・Aを疑問にする

傾向があると言われております。

「人やある」であれば、「人はいるのか」と、「ある」かどうかを疑問にし、

「誰かある」であれば、「いることはわかっているが」「誰なのか」という疑問になるというわけでございます。

「餅や食ふ」であれば、「何か食べていることはわかっているが」「それは餅であるか」という疑問になるのでございます。

(この「や」と「か」の使い分けは、絶対的なものではありませず、大きな傾向なのでございますが、古文を読み解く上で、実用的な指針であると思っております。)

ここでは、「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」でありますので、「罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」という人がいるときに、「弥陀、いかばかりのちからましますとしり」てなのか、しらずなのかを問うていると思います。

そして、この疑問は、私も反語と解しておりますので、「知らず」ということをおっしゃっているのであると解しております。

つまり、「弥陀にいかほどの力があるかを知らないので、罪業の身であるから、救われることは難しいと思うのに違いない」というくらいの意味になると思います。

この対偶を取れば、

「罪業の身であっても、救われることは難しくないと思うのであれば、弥陀にいかほどの力があるかを知っているのに違いない」

となると思います。

南无阿彌陀佛

●re.17
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1399 ] Re2:人間と人を区別する考え方 2009/04/19 (Sun) 01:39 △up ▽down
極道坊主 様

お師匠様のすばらしいお話のご紹介、ありがとうございます。

小賢しい話が本当は必要もないことにも、全く同感でありまして、六字があれば、それで良いのだと思っております。

南无阿彌陀佛

●re.18
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1416 ] Re3:人間と人を区別する考え方 2009/04/20 (Mon) 20:41 △up ▽down
毎日様

極道坊主で有ります。

>小賢しい話が本当は必要もないことにも、全く同感でありまして、六字があれば、それで良いのだと思っております。

ハイ。 其の通りで有ります。

然し乍、話し合いが無ければ戴きました思いも深める事は出来ません。

教義も本当は大切なのでしょう。 でも、味わいが深まれば、「自然の徳として教義の理解も出来るのでは?」とも感じています。

教義は、時代々々で変わっているものなのでしょう?(教義の意味合いが混同していますね?)

変わっていくものに真実は有りません。 「味わいが深まれば、先師方の残された文献も味わえる事でしょう。」とした方が正解かもしれませんね?

やはり、変わらぬものは『なむあみだぶつ』の御念佛です。 勿体無い事です。

 合掌

●re.19
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1417 ] Re4:人間と人を区別する考え方 2009/04/20 (Mon) 22:29 △up ▽down
極道坊主 様

凡夫である私が申せば、何を申しても、そこには不正確さ、不明瞭さ、無知、怒り、貪欲、思い上がり、他者否定などが入り込んでしまいます。

ですので、たとえば正語を実行しようとしても、完全に実行することはできません。

ところが、南无阿彌陀佛。

真実の六字は、真実なのですから、誠に尊いことであると思います。

南无阿彌陀佛



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