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[ 1249 ] 弥陀をたのむについて説法してください
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2009/04/05 (Sun) 20:57
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ふとしたことからこのサイトを知り、見ています。
弥陀をたのむ、とはどんなことなのか、ここには信心決定された方が多くいらっしゃるようで、お話を聞きたいです。 自分には、弥陀をたのむということがよくわかりません。 なにがどうなったのが弥陀をたのむということなのか、どなたかわかりやすく説法していただけないでしょうか。
急に質問すみません。
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[ 1250 ] Re1:弥陀をたのむについて説法してください
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2009/04/05 (Sun) 22:10
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お越しいただき有り難う御座います。 先ず、仏法の考えですが、成仏が目的です。数あるお経に書かれている修行を選び、修行します。 浄土真宗は、弥陀の誓願を信じ弥陀をたのみに、信じて救っていただくのです。 道は、沢山あります。大まかに、小乗・自力の聖道門と、大乗・他力の浄土門があります。 お経には、仏教を疑う者も、謗る者も居ると書かれています。 今の末法の時代に、自分の力で、煩悩を一つずつ消していく、自力の修行は難しく、五濁悪世です。たかが五十年や百年では、修行出来ないと言われています。 自力は、無理だと言うことになります。 では、どうするか?阿弥陀仏の四十八願に頼り、その中の十八願の誓願を信じる事です。他力の行をして、生死の流転の世界と縁を切って頂く。これが一念帰命となります。 先ず、ここまで理解よろしいでしょうか? 私は、ジャンヌで、自信教人信と名乗り、誠意を持って書き込みしていました。 弥陀をたのむに付いても書いていますが、手元に資料がありません。 菩提心様が、全部プリントアウトしてお持ちですので、菩提心様には、ご迷惑かと思いますが、ご協力いただけないでしょうか? 自信教人信は、書き込む前に仏壇に向かって土下座をし、どうぞ私に間違いを書かせないで下さい、お願いしますと挨拶をしてから、パソコンに、手を合わせてから書いていたものなので、多分大きな間違いはないと思います。 自分の手元のないので、菩提心様に頼るしかありません。
お心のある方、ご協力下さい。 こんな事しか書けなくて申し訳ありません。
合掌 南無阿弥陀仏
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[ 1251 ] Re2:弥陀をたのむについて説法してください
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2009/04/05 (Sun) 22:26
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山口様
こんばんは、酒天童子といいます。
愚尼様おっしゃるとおりです。
まずは興味をお示しになられたこと、お喜びいたします。
この掲示板にたどりつき、”弥陀をたのむ”という疑問を持たれたこと、素晴らしいことであると思います。
いろいろな方の書き込みがおそらくはあると思います。
そこから”弥陀をたのむ”とは一体何なのか、感じていただきたいと願います。
山口様のその素直な姿勢に感じ入る方が大勢いるはずです。
酒天童子からは何もアドバイスできませんが、このサイトからすぐに引かずに付き合っていっていただければ、必ず山口様の疑問に的確に応対する方が現れるのではと、、、。
一流の信心を獲得されますことを、、、。
南无阿彌陀佛
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[ 1253 ] Re3:弥陀をたのむについて説法してください
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2009/04/06 (Mon) 05:56
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「弥陀をたのむ」って、このHPの冒頭にも載っているんですが、まだ執筆中って、進展してないんです。
愚尼様のご意向に添ってあげたいのはやまやまなんですけれど、今仕事を片付けないといけないので、若しプリントアウトとなると、時間がかかります。
それより、愚尼様の本来の分かって欲しいの気持ちのまま、お伝えする方がきっと通じると思います。
その方がきっと、阿弥陀様も喜ばれると思います。
また、それで「そこは違うんじゃない」とか、私はこう思うとか意見が出てくるかも知れません。
それが本来の「信心の沙汰」だと思います。
相手の意見、思いを貶すのではなく、こういう考えもあるんだなと一歩相手に近づくことこそ大事だと思います。
偉そうなこと書いて御免なさい。
ここだけでも、仏法繁盛で有りたいと思います。
南无阿彌陀佛
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[ 1254 ] Re4:弥陀をたのむについて説法してください
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2009/04/06 (Mon) 07:20
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>かまってほしい愚尼さま
はい、自力と他力の仏教が違うのはわかります。
ただ、私は阿弥陀仏を信じています、と一口にいっても、 それが弥陀をたのむということとは同じではないのですよね?
自分の信じているレベルと、ここで信心決定といわれていることのレベルが だいぶんちがうようなので、そこがお聞きしたいところです。
ほかのみなさまもよろしくお願いします。
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[ 1256 ] Re6:弥陀をたのむについて説法してください
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2009/04/06 (Mon) 15:49
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宿善の有無の確認が先だと思います。 信心の沙汰は、一念帰命した者同士の事だと思いますが。。。
山口智也様へ
弥陀をたのむとは、阿弥陀仏が、私達に、信心を獲ってくれと言う催促の言葉です。 私の方からたのむ時は、弥陀『に』たのむとなり、自発的な言い方になります。 自発的とは、自分から起こす信心になり、自力となります。 阿弥陀仏の立場から言うと、 阿弥陀仏『十方衆生よ、どうか私を信じてくれ。私を信じてくれたら、六道の迷いとの縁を切ってあげるから。』 十方衆生『本当ですか?阿弥陀仏、あなたを信じたら本当に六道の縁を切ってくれるんですか?』 阿弥陀仏『あ、必ず切ってやる。だから信用してくれ。若し、十方衆生よ、私を信じて地獄に堕ちる事があったら、十方衆生の代わりにこの弥陀が十方衆生の苦を全部受けよう。』 十方衆生『そこまで言うなら、阿弥陀仏、あなたを信じます。』 こんな感じです。
もっと分かりやすく説明できる方、補足なり、私の書き方に間違いがあったら訂正願います。
皆様、どうぞ宜しくお願い致します。
愚尼は、やっぱり愚尼です。
南無阿弥陀仏
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[ 1257 ] Re7:弥陀をたのむについて説法してください
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2009/04/06 (Mon) 18:55
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山口智也 様
はじめまして、ボンと申します。 私は、説法はできませんが、自分の経験をもとにお話しすることはできます。
>ただ、私は阿弥陀仏を信じています、と一口にいっても、 >それが弥陀をたのむということとは同じではないのですよね?
おっしゃるとおりと思います。 「私は阿弥陀仏を信じています」ということと 「弥陀をたのむ」ことはまったく違います。
>自分の信じているレベルと、ここで信心決定といわれていることのレベルが >だいぶんちがうようなので、そこがお聞きしたいところです。
これもおっしゃるとおりと思います。 自分の信じているレベルがどれだけすごいレベルでも、 「信心決定」まで到達するとは、まず考えられません。
「私は阿弥陀仏を信じています」というのは、自分の心で考えたことです。 「他力の信心を得る」ということは、自分の心で「信じてる」とか 「信じてない」と考えることとは、実は関係がありません。
私自身、未だに「本当なのかなあ」という疑問の念を払拭できません。 まあ、「半信半疑」といってもいいかもしれません。 それが、五分五分なのか、七分三分なのか、九分一分なのかは別として、 疑念はどうしても残ります。
「他力の信心」をいただくということは、「ある日突然目覚める」とか、 「何かを明確に自覚する」とか、「不思議を体験する」とかいうこととは、 関係がありません。
「他力の信心」をいただいた瞬間から、何か大きな心境の変化がある というわけでもありません。
ただ、弥陀をたのんだから、弥陀から信心をいただいたという 客観的な事実(現実)だけは、私の記憶の中に残っています。
だから、「自分が信じる」ことと他力の「信心決定」というのは レベル(程度)の違いというよりは、考え方の方角(ベクトル)が 180度違うと考えたほうがよいのではないかと思います。
ではどうすれば良いのかということですよね。
それは他のスレッドでも書きましたけど、 下記のページ「信を獲るには」に書かれていることを そのまま実行すればよいのだと思います。
http://shinshu.in/shinotoruniwa
南无阿彌陀佛
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[ 1259 ] Re7:弥陀をたのむについて説法してください
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2009/04/06 (Mon) 20:18
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山口智也様
はじめまして。自分は極道坊主と申します。
私は法を説く程の力量は持ち合わせておりませんが、自分の体験、聞かせて頂いた御話等を書き込んでみたいと思います。
もし、宜しければお付き合い下さい。
愚尼さんの仰る通り、宿善の有無の確認からでありますが、山口様は何かのご縁でこうしてこのサイトに起こしに成られました。 是だけでも、充分過ぎる程の宿善をお持ちなのだと知らされますが如何でしょうか?
縁無くば、御念佛にも興味を示しませんし、自分自身を省みようともしません。
この先、如何様に成るかは山口様ご自身の事で有りますので存じ得ぬところでは有りますが、此処でこうして巡り会える事も過去からの宿縁だったのでしょう。 有り難く思います。
>弥陀をたのむとは、阿弥陀仏が、私達に、信心を獲ってくれと言う催促の言葉です。 >私の方からたのむ時は、弥陀『に』たのむとなり、自発的な言い方になります。 >自発的とは、自分から起こす信心になり、自力となります。
愚尼さんの仰る事、其の通りだと感じます。 自分が此の教え(法)にご縁の有った当初は、思い返せば「弥陀“に”たのむ。」だったのではないでしょうか? 心が落ち着かない故、「どうか、この苦しい心を楽にして下さい。 助けて下さい。」という自分の方からの一方的な依頼で有りました。 御恥ずかしい事です。
「弥陀“を”たのむ。」と言う事、『自分達が其の佛様の事を思い浮かべようとするその時には、既に佛様の方から「私の事を思い浮かべてくれ。」というお働きが、自分の心に働き掛けて下さっておるから、佛を思う事が出来るのだ。』と聞かせて貰ったことが有ります。
其処には思わされた私は居りますが、自発的に思った私は居ないと思います。
然しながら、最初から“を”の方はそうそう居られません。 苦しい故、辛い故、「此の苦を早く如何にかして下さい。」という想いから、「弥陀にたのむ」のだと思います。 丸投げの状態です。 此の時の丸投げは、投げ遣りに近いかな? 地に足が着いて居ないと表現すればいいのでしょうか? 「なんとかしてくれよ。」の気持ち。 自力根性丸出しかもしれませんね? 祈願、祈祷の言葉が当てはまるかも?
それでも、いいのかもしれません。 それがご縁で「なむあみだぶつ」の御念佛とご縁を戴くのです。(申し訳ありません。御念佛が横書きになる事に抵抗が有ります故、ひらがなで記させて下さい。)
一度、御念佛とご縁を結ばれますと、此の『保ち易く、忘れ難い。』御念佛が、事有る事に思い浮かびます。
苦しければ、「助けて下さい。」の御念佛で宜しいかと思います。 其の苦が少しでも和らぐ様でしたら、「有難う御座います。」の心を込めて御念佛させて貰って下さい。 辛ければ、「力になって下さい。」でも宜しいかと思います。
そのうち御念佛が、生活の上で貴方の口を使って自然に出て下さることでしょう。 その様にして戴いた時が、「弥陀をたのむ。」に近づけて貰った時だと思っています。
其処に至るようでしたら、佛様の光によって自性が照らし出され、少しづつ自分を知らされてきます。 自分が見えてきます。 否定していた自性を自身が目の当たりにします。 佛様の目当てが誰であるのかがハッキリしてくる筈です。
よく、真宗では自力、他力を論じますが、自力を高じているから「自力では限界が有りますから捨てましょう。」と先師方はお勧めなのです。 自力が縁で此の法に巡り会えるのだと思います。 自力があるから他力に向かって進もうとするのでは有りませんでしょうか?(自力が自身を苦しめますが故に。) 其れも此の自分が救われるには必然な事なのであります。
知らぬ間に自力と他力を比較して、「自力は詰まらんから除けといて。」「他力は佛さんだから、ありがたいから戴いて。」と有り難い方に回り込んで居ったのが自分でした。
「御恩報謝の他力の御念佛」と聞いて有り難がっているのは良いかもしれませんが、戴いた御恩が解らない様では何に対してお礼を申すのかハッキリしませんよね。
まずは、自力というものを尽くすだけ尽くしてみればよいと思います。 必ず「自力にはようがない。」事を知らされる筈です。 其の自力が尽きた時に、初めて佛様のお力が(是を他力と申すのでしょう。)スポンジが水を吸うが如く浸透していきます。
聖人様もお山で長年自力を尽くされ、尽くす手をなくされた時の源空聖人の御念佛の出会いです。 きつい言い方かもしれませんが、「自分でまだなんとかなる。」という思いがあるようでしたら、多分この「他力」といわれる信心は、此の身に入っていきませんでしょう。
本当の事を申せば、「信じるだけで良い。」のが真宗の信心なのだと思います。 しかし、容易く獲られた方は少ないと思います。 皆様、紆余曲折、色々と感じる所がありながら、知らされながら、今に至っていると思います。
結果として「獲りやすい信心だった。」と気付かれたのではないでしょうか?(私は違います。と申される方が居られましたら申し訳有りません。)
書き込みが下手で、思いが表現しきれていませんが、今の時点ではこのように戴いております。
“弥陀をたのむ”という文言。 当流にとっては大切な言葉かもしれません。
これを機会に皆様の御意見を頂戴したいと思っております。
何となく御質問内容から大幅にずれてしまった様に思います。 すみません。
自分はHNの如く、気性の激しい人間です。
知らぬ間に不快な思いをさせとるやも知れません。 もし、その様なことが有りましたら叱ってやって下さい。
合掌
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[ 1261 ] Re8:弥陀をたのむについて説法してください
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2009/04/06 (Mon) 23:00
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極道坊主 様
こんばんは。 山口様へのお話なのに、横から口出ししてすみません。 自力と他力のお話に感銘を受け、ついキーボードを叩いてしまいました。
自力は難行、他力は易行と簡単にいいますけれど、実は我々凡夫は、骨の髄まで 自力根性が染み付いておりまして、他力になりきるというのは、 理屈では分かっててもなかなか難しいことではないかと感じておりました。
だから、阿弥陀仏は、ほんの一瞬でも身も心も自力をなくした瞬間を捉えて、 光明の内に絡め取るのではと、自分なりの理解をしております。 (不正確な点がありましたら、味わいの内と思い、ご勘弁ください)
そしてまた、信後も、瞬く間に自力根性がよみがえり、人それぞれに 長く短く、自力の心と付き合っていくのだと思います。
私など、あまり深く考えもせず、まるで赤子のように、信心をいただいて しまったので、人より長く、自力根性と付き合っていかなくてはならいのかなあ、 などと思っております。
ひょっとしたら、こういうことでも山口様の参考になるのではないかと、 勝手に思っている次第です。
南无阿彌陀佛
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●re.10
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[ 1265 ] Re9:弥陀をたのむについて説法してください
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2009/04/07 (Tue) 05:30
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山口 様
「自分が弥陀を信じている」というのは、あくまでも自身が弥陀を信じているわけで、自分が作った信心になるわけです。
それが尊くないかと言えば、私は尊いと思います。
ただ、それをどこまで尊くできるかと言えば、やはりどうしても邪心が混じってしまう。
ですけれども、「どうしても邪心が混ざる」ということを実感するには、自身で弥陀を信じようと、弥陀からの尊い気持ちに照応しようとがんばることによって、その実感が深まるものだと思いますし、自分で自分の気持ちを見る力も育たなければ、全然そう思えないかもしれません。
一方、弥陀をたのむというのは、阿弥陀様から、阿弥陀様が私たちのためにこしらえてくださった信心をいただきます。
いただいても、煩悩の眼でありますので、わかりません。
そういうものだと思います。
もともと、助かるはずのない自分が助かるという、不思議な話です。
そういう不思議な話を信じる気分になって、法に頭が下がりますことを、宿善開発と、当流では呼んでいるのではないかと思います。
南无阿彌陀佛
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[ 1267 ] Re10:弥陀をたのむについて説法してください
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2009/04/07 (Tue) 10:52
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山口 様
こんにちは。
蓮如上人の御文の1−7に
”なにのようもなく、ただわが身は十悪、五逆、五障、三従のあさましきものぞとおもいて、ふかく、阿弥陀如来は、かかる機をたすけまします御すがたなりとこころえまいらせて、二心なく弥陀をたのみたてまつりて、たすけたまえとおもうこころの一念おこるとき、かたじけなくも、如来は八万四千の光明をはなちて、その身を摂取したまうなり。
これを弥陀如来の念仏の行者を摂取したまうといえるはこのことなり。
摂取不捨というは、おさめとりてすてたまわずというこころなり。
このこころを、信心をえたるひととはもうすなり”
とあります。
ボン様おっしゃるように”阿弥陀仏は、ほんの一瞬でも身も心も自力をなくした瞬間を捉えて、光明の内に絡め取るのではと、自分なりの理解をしております。”
わたしもほぼ同じように思っています。
ただ、自力で自力をなくせるのかといえば、やはりそれさえも弥陀の本願のお力であろうとは思うのです。
南无阿彌陀佛
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[ 1268 ] Re10:弥陀をたのむについて説法してください
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2009/04/07 (Tue) 11:15
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ボン 様
有難う御座います。 極道坊主で有ります。
拙い話で誠に申し訳ない限りです。
皆様は如何に思われるでしょうか?
「自力」と言えば凡夫今生丸出しで、消し去らねば助からん様に思われるのでしょうか?
確かに佛教でも、聖道門では、そうかもしれません。
六根清浄にして、佛に近づく事を目的としているからでしょう。
真宗の教え(法)は、少し違うと自分は感じております。
「自力」の持ち主の此の我が身は、今生の命尽きるまで延々と「自力の根性」を持ち続けます。
ただ、親様と親子の名乗りがあがった時といいますか、信心の関門を超えさせて貰った時といいますか、佛様がハラに据わって下さった時と表現するのが良いのでしょうか? よく分かりませんが、其処を超えた時、佛様の力が雪崩の様に流れ込んで来たように思います。(そんな思いを感じさせられた事が有ります。)
佛智が満入するという表現なのでしょか?
佛様の力を「他力」と表現します。 其れに対して凡夫の「自力根性」です。
佛様の智慧が我が身に満入して下さるのですから、自力と他力の一騎打ちが自分のなかで起こると思います。
他力の多勢に、自力の無勢。 勝負は決しているのですが、自力の無勢は如何せん根絶やしにはならんのです。
しかし、そうなってしまうと、自分自身は他力の勢力下です。
自身を支配するのは御念佛が主体と成って来る筈です。
そう様にして頂きますと、自力の根性も加勢しながら前へ進ませて貰うのではないでしょうか?
信心獲得してといっても、自力の心が払拭しきれた訳では有りません。
自力心は消えません故、時を選ばず疑念は生じると思います。
生じはしても、何の問題もないのだと思っています。
多勢の勢力は、決して自力の勢力には屈しない。
屈する様でしたら、諸佛諸菩薩、先師、聖人皆様方は弥陀を賛嘆しては居ないのです。
自力根性を因として、また縁として、自身と親様の関係をより一層深めて貰えるものと思っております。 其処には不安はないものと感じております。
言葉にすれば色々と簡単に感じてしまうと思いますが、たった二文字の熟語の中にも膨大なお心が潜んでいるものと思っています。
言葉の理解、解釈に振り回されず先師、聖人のお心、親様の願いが届いて下されば「自力の心」は目立たなくなると思いますが如何でしょうか?
自身の自力根性にも掌を合わせ、お礼が申せる身にして貰えれば、本物かと存じます。 (自分自身も怪しいですが?)
戦(いくさ)を喩えにして良かったのかどうか分かりませんが、私の味わいを喩えれば以上の如きです。
偉そうな事を書いてしまいました。 すみません。
合掌
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[ 1269 ] Re11:弥陀をたのむについて説法してください
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2009/04/07 (Tue) 12:25
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山口様
こんにちは、付け加えます。
”二心なく弥陀をたのみたてまつりて、たすけたまえとおもうこころの一念おこるとき”
とありますので、二心ではありません。
また、一念であります。
また、かつてボン様が蓮華蔵様にお答えしたように、”弥陀をたのむ”のは生涯一度きりであると、理解しております。
有縁の善知識が弥陀のお代官となり、六字の謂れを聞き開き、凡夫がただ一度だけ”弥陀をたのむ”のであろうと。
南无阿彌陀佛
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[ 1270 ] Re12:弥陀をたのむについて説法してください
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2009/04/07 (Tue) 20:09
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山口様へ
仏教では、この人間界は、悪い所だとされています。 地獄・餓鬼・畜生界よりマシな世界なだけです。 弥陀をたのむとは、漢字で書けば、弥陀を憑むと書きます。 これは、阿弥陀仏をこの身に憑けるという事です。
私は、弥陀をたのむ前に必要なのは、気付きと自覚だと考えています。 これを読んでいる、信心決定して、極楽に生まれたいと少しでも興味のある方に言っておきますが、仏法の立場では、この世の人間、全員が、悪人であり、そして、この世は、汚れて穢い世界だという事です。 気付きと自覚。 私は、悪い、どうしようもない人間だとお思いの方々に言いますが、それが気付きと自覚です。 人間全員悪人なのです。 皆、気付かないだけです。 上記の事柄を受け入れられる人を宿善のある人と言うのです。 自分は、良い人間だ、素晴しい世界だと思っている人は、この世が天国か極楽なのです。 そういう人は、その上を求めません。
合掌 南無阿弥陀仏
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