浄土真宗の教義について

新規スレッド作成タイトル一覧表示ログ検索ホームへ
  《prev 123 next》
・選択したスレッドを表示しています。返信は▽downのフォームからどうぞ。
(「メール送信」ボタンを押すと、書き込み作者宛にメール送信ができます。ヘルプ)(「編集」ボタンで記事の編集ができます。)
 
●No.123
ボン
関東の男性
[ 1228 ] 教行信証・学習ノート 2009/04/04 (Sat) 11:25 △up ▽down
皆さま、こんばんは。

突然ですが、私、このたび、一念発起(これは世間一般の意味で)して
「教行信証」を読破してみようと決意いたしました。

ひょっとしたら無謀かもしれませんが、「教行信証」の解説本と言われる「六要鈔」も
参照し、ノートを取りながら、時間をかけて少しずつ読んでみようと思っております。

難解ではありますが、当流の根幹をなす書物ですので、少しでも理解できれば、
これに勝る喜びはありません。

しかし何分、これまで「おふみ」以外はまともに通読したことのない浅学の身ですので、
理解できない部分も多いでしょうし、理解したつもりでも間違っているかもしれません。

そこで恐縮ではございますが、拙い学習ノートをこの掲示板に書き込みさせて
いただきたく、お願い申し上げます。

そうすることで、分からない部分は皆さまから教えていただき、間違っている部分も
訂正していただけるのではと、勝手な期待をしている次第です。

お邪魔かもしれませんが、せめて“野次馬”的に学習プロセスをご覧いただき、
お楽しみいただくことで、勝手な願いをお許しいただければ幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.1
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1229 ] Re1:教行信証・学習ノート 2009/04/04 (Sat) 02:00 △up ▽down
ボン 様

みなさまのご参考になるのではないかと思います。

ありがたいことです。

感謝しております。

南无阿彌陀佛

●re.2
ボン
関東の男性
[ 1230 ] Re2:教行信証・学習ノート 2009/04/04 (Sat) 11:36 △up ▽down
--------------------------
顕浄土真実教行証文類序
--------------------------

題を釈す
  ・初の一字(顕)と後の三字(文類序)・・・能釈の詞(よく釈するのことば)
  ・中間の七字(浄土真実教行証)・・・・・・所釈の法(釈するところの法)

「顕」・・・
  『広韻』に云わく「呼典の切、明著なり」
  『玉篇』に云わく「虚典の切、明なり」
     (注)『広韻』『玉篇』ともに中国の辞書

「浄土」・・・
  弥陀の報土なり。
  浄土の言は十方に亘るといえども、意は西方に在り。
     (諸の仏刹に超えて最も精たるが故に)

「真実」・・・・仮権に対す

「教行証」・・・所依・所修・所得の法

   霊芝『弥陀経義疏』より
     大覚世尊一代の教は、大小殊なるといえども、教理行果を出でず。
     教に因りて理を顕わし、理に依りて行を起こし、行に由りて果を克す
        「教行証 = 教(理)行果」(理 = 教の体 = 教の義)

「文」・・・
  「文は無分の切、文章なり。また美なり、善なり、兆なり」『広韻』
  「亡文の切、文章なり」『玉篇』

「類」・・・「力遂の切、等なり」『広韻』(種類あい似たるなり)

「序」・・・いわゆる次・由・述の義なり。今は述序なり。

●re.3
ボン
関東の男性
[ 1231 ] Re3:教行信証・学習ノート 2009/04/04 (Sat) 03:23 △up ▽down
「教行信証」のあまりの難しさに「六要鈔」を参照して驚きました。
なんと、題字の釈から解説が始まっているのでした。
それで、題字に戻って、題字の釈を箇条書きに抜き出しました。

>題を釈す
>  ・初の一字(顕)と後の三字(文類序)・・・能釈の詞(よく釈するのことば)
>  ・中間の七字(浄土真実教行証)・・・・・・所釈の法(釈するところの法)

よく分かりませんが、中間の「浄土真実教行証」の部分が大事なのかと思いました。

>「顕」・・・
>  『広韻』に云わく「呼典の切、明著なり」
>  『玉篇』に云わく「虚典の切、明なり」
>     (注)『広韻』『玉篇』ともに中国の辞書

「呼典の切」「虚典の切」が何だかわかりませんが、とりあえずパスです。

>「浄土」・・・
>  弥陀の報土なり。
>  浄土の言は十方に亘るといえども、意は西方に在り。
>     (諸の仏刹に超えて最も精たるが故に)

ここは何となくわかります。
浄土といってもたくさんの場所があるのだが、ここで言うのは西方浄土(弥陀の報土)、
というのは、そこが最も素晴らしい浄土だからだ、といった意味かと思います。

>「教行証」・・・所依・所修・所得の法
>
>   霊芝『弥陀経義疏』より
>     大覚世尊一代の教は、大小殊なるといえども、教理行果を出でず。
>     教に因りて理を顕わし、理に依りて行を起こし、行に由りて果を克す
>        「教行証 = 教(理)行果」(理 = 教の体 = 教の義)

ここもなんとなく分かります。
「所依・所修・所得の法」は「依るところの、修するところの、得るところの法」で、
「教に依り、行を修し、証を得る」ということではないかと思います。

御釈迦様の法は、すべて「教理行果」つまり「教に因りて理を顕わし、理に依りて行を起こし、
行に由りて果を克す」という流れに準じているが、「教行証」もこの「教理行果」の流れに
違わないということを述べているものと、思います。

間違いがありましたらご指摘ください。

それにしても、題字の解説だけでこんなにいろんな意味が込められていることに驚きます。
そして、先が思いやられます(^^;

南无阿彌陀佛

●re.4
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1232 ] Re4:教行信証・学習ノート 2009/04/04 (Sat) 04:00 △up ▽down
ボン 様

能釈の「能」は、動作の主体(能動)を表し、所釈の「所」は、動作の客体(受動)を表す文字であると思います。

「切」とは「反切」であって、これは字の読みを示します。今で言う、発音記号のようなものです。

(この場合の「切」は、「2つの音をつなげる」という意味です。刃物で「切る」ときには、刃物を「ピタッ」と当てますね。その「ピタッ」っとくっつける意味を、音に転用し、「反」を言い換えたものです。「切」の「近づく」「くっつく」の字義は、「懇切丁寧」「親切」などの中に見えます。近づいて迫りくることから、「切迫」「切に」などの意味も出て参ります。)

今後とも、応援しております。私も共に学んでゆけたらと思っております。

御聖典にて相続するのは、後念相続のひとつのかたちとして、とても素晴らしいと思います。

また、書き込み致します。

南无阿彌陀佛

●re.5
忍草
北陸の男性
[ 1238 ] Re5:教行信証・学習ノート 2009/04/04 (Sat) 11:14 △up ▽down
ボン様

六要鈔には能・所の二字は多く使われています。

私は毎日樣の受取り方で宜しいと思いますがもっとわかり易く書くと、

能(主体)は阿弥陀仏からの能(あたわり、はたらき)と捉え

所(客体)は機(衆生)側で捉えてはいかがでしょうか。

所依・依る所の教え

所修・修める所の行

所得・得る所の證(あかし、さとり)と私は捉えています。  合掌。

●re.6
ボン
関東の男性
[ 1239 ] Re6:教行信証・学習ノート 2009/04/04 (Sat) 13:45 △up ▽down
毎日 様

ご教授ありがとうございます。

>能釈の「能」は、動作の主体(能動)を表し、
>所釈の「所」は、動作の客体(受動)を表す文字であると思います。

そうすると、「顕」と「文類序」は、「説明する主体(能動)のことば」で、
「浄土真実教行証」は、「説明を受ける客体の法」ということになるのですね。

つまり、このタイトルは「これは『浄土真実教行証』を明らかにする文書です」
と言っているわけですね。

>「切」とは「反切」であって、これは字の読みを示します。
>今で言う、発音記号のようなものです。

「反切」などというものについて、まったく知りませんでした。
調べてみたら、前の字の子音と後の字の母音をくっつけるということのようです。

たとえば、「顕」が「呼典の切」ということは、
「呼(ko)のk」と「典(ten)のen」をくっつけて「ken」と読むということですね。

「○○の切」というのが発音記号だとはっきりわかったことで、今後は、
これに引っかかって、わけがわからなくなるということがなくなります。

ありがとうございました。

南无阿彌陀佛

●re.7
ボン
関東の男性
[ 1240 ] Re7:教行信証・学習ノート 2009/04/04 (Sat) 14:14 △up ▽down
忍草 様

ご教授ありがとうございます。

>能(主体)は阿弥陀仏からの能(あたわり、はたらき)と捉え
>所(客体)は機(衆生)側で捉えてはいかがでしょうか。

「能」と「所」のとらえかたが良く分かりました。

言語学的には、「能」は主体(能動)を表し、「所」は客体(受動)を表す
ということになるのでしょうが、こと真宗のご聖教を読む場合においては、
主体(能動)は阿弥陀仏で、客体(受動)は機(衆生)と考えれば、
たいていの場合はあてはまるということですね。

阿弥陀仏から衆生に向けて「他力の信心」が差し向けられて、
われわれ衆生は、まさにそれを受け取るのみ、ということに通じますね。

>所依・依る所の教え
>所修・修める所の行
>所得・得る所の證

読み進めるにつれ、「依る所の教え」「修める所の行」「得る所の證」が
徐々に明かされてくると思うと、ワクワクします。

たぶん、「結局、あのことなんだ」という帰結になる気がするのですが、
それはそれで、真宗の根本をなす書物でそれが実感できるならば、
とてもうれしいことです。

ありがとうございました。

南无阿彌陀佛

●re.8
ボン
関東の男性
[ 1243 ] Re8:教行信証・学習ノート 2009/04/05 (Sun) 00:51 △up ▽down
----------------------------------------------------------------------------------
竊以。難思弘誓度難度海大船。無礙光明破無明闇慧日。
竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり
----------------------------------------------------------------------------------

「竊以」(ひそかにおもんみれば)・・・発端の言

「難思の弘誓」「無礙の光明」・・・彌陀の徳を讃ず
    共にこれ十二光仏の中の名なり。言を綺えてこれを嘆ず。

      (注)十二光仏
        無量光仏、無辺光仏、「無礙光仏」、無対光仏、焔王光仏、清浄光仏、
        歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、「難思光仏」、無称光仏、超日月光仏

「難度海」・・・生死海
    龍樹菩薩『十住毘婆沙論』「彼の八道の船に乗じて、よく難度海を度す」
      (これ彌陀の利益を讃ずる文なり。故にこの言を用う)

「無明」・・・「通」と「別」あり
   通惑・・・界内の惑、三毒の中の痴煩悩(貪・瞋・痴)
   別惑・・・塵沙と無明

「慧日」・・・仏慧の明朗なる、これを日光に譬う

   大経の下
     慧日は世間を照らして、生死の雲を消除す

   憬興(新羅の僧)
     慧日とは喩に随うるの名なり
     惑・業・苦の三は、よく真空及び智の日月を覆う
     即ち雲の虚空と日月とを覆うに同じ。故に生死雲と云う
     仏智は真に達して、よく自他の惑・業・苦の障を除くが故に慧日という
     物の解を生ぜしめるが故に照世間という

   天親『浄土論』
     仏慧明浄の日、世の癖闇冥を除く

   大師は『観経』の「唯願仏日」の文を釈して・・・
     仏日というは法喩双べて標するなり
     譬えば日出でて衆の闇尽く除こるが如し
     仏智、光を輝かせば無明の夜日朗かなり

   浄影師は同じき経文を釈して・・・
     仏はよく衆生の痴闇を破壊す。日の昏を除くが如し。故に仏日という。
     (これ釈迦を指す。二仏異なりといえども、仏徳の比況、その義は相い同じ)

●re.9
ボン
関東の男性
[ 1244 ] Re9:教行信証・学習ノート 2009/04/05 (Sun) 00:46 △up ▽down
ここは、「六要鈔」の釈文を含めて、比較的スンナリ読めましたが、
「無明」の釈文についてはよくわかりませんでした。

>「無明」・・・「通」と「別」あり
>   通惑・・・界内の惑、三毒の中の痴煩悩(貪・瞋・痴)
>   別惑・・・塵沙と無明

初めに「無明」に「通(通惑)」と「別(別惑)」あると言っておきながら、
後になって「別(別惑)」の一つに「無明」が入ってくるので、混乱します。

また、下の大師というのは誰のことを言っているのでしょうか。

>   大師は『観経』の「唯願仏日」の文を釈して・・・
>      仏日というは法喩双べて標するなり
>      譬えば日出でて衆の闇尽く除こるが如し
>      仏智、光を輝かせば無明の夜日朗かなり

どなたか分かるかたがおられましたら教えてください。

南无阿彌陀佛

●re.10
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1248 ] Re10:教行信証・学習ノート 2009/04/05 (Sun) 18:20 △up ▽down
ボン 様

浅学ですので、間違いがあるかもしれないという前提でお読みください。

◎言無明者。若依天台。此有通別。言通惑者。是界内惑。三毒之中癡煩悩也。言別惑者。合貪瞋癡名為通惑。塵沙無明此二種惑名為別惑。

これは、天台に依っているわけです。天台教学に詳しい方のコメントを待ちたいところでございます。

天台を出しているのは、おそらく当時基本となっていた考えだったからだと思います。

「真宗」というのは、やはり異端の感じがするということで、そこで正統性を表現するために、天台からの視点を述べているのだと思います。

通と別でわけたときに、通惑であれば、「無明」とは、癡煩悩のことであると。

なぜ、癡が無明なのかと言いますと、癡が滅すれば、貪瞋も滅されるからです。

天台の三惑は、見思惑、塵沙惑、無明惑でありますが、見思惑が通惑で、塵沙惑、無明惑が別惑です。

見惑を断じても三毒は残ります。そして、天に生れ、永く地・餓・畜・修の四悪趣には堕ちません。

思惑を断じれば、三毒も滅され、三界六道への生の因が尽きます。

◎七賢は未断見思の位なり。然りと雖も忍世第一に入れば不退の位に住して永く四悪趣に還らず。世々生々に生れて人天に往き終に七聖に入る。七聖とは已断見思の位なり。所謂「見惑を破する故に四悪趣を離れ思惑を破する故に三界の生を離る」とは是なり。(日蓮上人)

見思の惑は、三乗が通じて断ずる惑であるから通惑と呼ばれます。

界内の惑とは、見思の惑の別名であり、三界中にて起こす煩悩です。

そして、三界を出ても存する煩悩があり、界外の惑と呼ばれ、具体的には、塵沙惑、無明惑です。

これらは、別惑と呼ばれ、菩薩が滅して行くものです。

そして、別教中の通惑は、三毒を合して通惑とすると。

塵沙惑は、空が有に展開している仮有の諸相の無知です。

塵沙惑が滅せられてゆくと、利他教化が可能になって参ります。

ここで、菩薩の階位と関連して参ります。

別教は、菩薩に対して説かれた教えであり、五十二位の修行がある教えです。

この階位では、塵沙惑の九品が滅っせられて一地(歓喜地)です。

(一方、通教の階位では十地が説かれます。)

塵沙惑を滅したために、地が民を潤すように、地となることができたのです。

そして、別教における無明とは、これを滅しますと、妙覚に至るのです。

初地から十二品の無明を滅しますと、妙覚に至ります。

つまり、等覚位の菩薩(金剛心の菩薩)が、さらに根源の無明を断じて、妙覚に至ります。

円教における階位は、また別となり、そこでは、四十二品の無明が説かれます。


関連して注釈なのですが、金剛心様が入と住を問題にしていらっしゃるのは、入住満を考えていらっしゃるのだと推察致します。

金剛心様曰く、「お会いすればわかりあえる」とのことですが、立場の違いがありますので、私の側でも、その違いについての整理を進めておかねばなりませんし、教学上のことは、むしろ文書の方が、わかりあいやすいのではないかと思っております。

横竪を説くのが真宗の教えであり、横、ましてや横超というのは、受け入れ難いもので、だからこそ、難信と呼ばれます。

それにしても、このような内容になりますと、浅学が思い知らされ、機会があれば、ぜひ学びたいと思うものであります。とは言え、学びは大切ですが、自身の往生のためではありませず、あくまでも、ご縁を結ぶためのもの、利他のためのものであるのが本来であり、ところが、見思の執着によってしまいますのが、凡夫たるゆえんであります。

菩薩の階位につきましては、『瓔珞経』も学んでおりませず、浅学が思い知らされます。

ここに書きましたようなことも、いずれ(何年後になるかはわかりませんが・・・)自身でも、調べなおし致しまして、間違いが発見されれば、修正の投稿を致したいと思います。

「救われたから良いのだ」ということで、門徒もの知らずになるのでありますが、知らぬから引かれるひともあり、知る(知っているように見える)を見て引かれるひともあり、すべて、如来の計画にお任せであると思う次第です。

私などは、見栄や知識欲がありますので、学びたいと、つい思ってしまうのであります。「必要ない」ということが、心底徹底していないからだと思います。


また、大師とは、善導大師でございまして、観経疏 序分義からの引用でございます。

取り急ぎ。

南无阿彌陀佛

●re.11
ボン
関東の男性
[ 1252 ] Re11:教行信証・学習ノート 2009/04/06 (Mon) 03:59 △up ▽down
毎日様

ご教授ありがとうございます。

私が理解できなっかた「無明」について書かれた「六要鈔」の部分を再度抜粋します。

----------------------------------------------------------------------
言無明者。若依天台。此有通別。言通惑者。是界内惑。三毒之中癡煩悩也。
言別惑者。合貪瞋癡名為通惑。塵沙無明此二種惑名為別惑。
----------------------------------------------------------------------
「無明」というは、もし天台に依らば、これに通別あり。
通惑というは、これ界内の惑、三毒の中の痴煩悩なり。
別惑というは、貪・瞋・痴を合して名づけて通惑と為し、
塵沙と無明と、この二種の惑を名づけて別惑と為す。
----------------------------------------------------------------------

下記の文章を拝読しまして、私の混乱の原因に気がつきました。

>別教中の通惑は、三毒を合して通惑とすると。

「これに通別あり」の部分を「無明が通惑と別惑のふたつで構成される」と読んだ
ことから混乱が生じたわけですね。

正しくは「無明には、通教でいうところの無明と別教でいうところの無明がある」
と読むべきだったのだ思います。

そこで、毎日様のご教示をもとに、再度、箇条書きをし直せば、以下のとおおりです。

----------ここから--------------------------------------------------------------
天台の三惑(見思惑、塵沙惑、無明惑)

   通惑・・・界内の惑(三界中にて起こす煩悩)
        三毒の中の痴煩悩(←無明)
        三乗が通じて断ずる惑(見思惑)
        (注)三乗とは声聞・縁覚・菩薩のために説いた3つの各々の乗教

      見惑・・・見惑を断じても三毒(貪・瞋・癡)は残る
           そして、天に生れ、永く地・餓・畜・修の四悪趣には堕ちない

      思惑・・・思惑を断じれば、三毒も滅され、三界六道への生の因が尽きる

   別惑・・・界外の惑(三界を出ても存する煩悩)
        塵沙と無明
        菩薩が滅して行くもの(塵沙惑、無明惑)

      塵沙惑・・・空が有に展開している仮有の諸相の無知
            (これが滅せられてゆくと利他教化が可能になる)

      無明惑・・・○○○○○○

        (注)三界・・・生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けたもの
                 欲界・色界・無色界
----------ここまで--------------------------------------------------------------

しかし、「正信念仏偈」の部分を見ると、親鸞聖人が「無明」と言っている場合は、
通惑でいうところの痴煩悩を指していると思われるのですが、「六要鈔」では、
なぜわざわざ別惑までも取り上げたのかが、よく理解できません。

以下、「正信念仏偈」から抜粋します。

----------ここから-----------------------------------------------------
  摂取心光常照護   摂取の心光、常に照護したまう
  已能雖破無明闇   すでによく無明の闇を破すといえども
  貪愛瞋憎之雲霧   貪愛・瞋憎の雲霧
  常覆真実信心天   常に真実信心の天に覆ヘり
  譬如日光覆雲霧   たとえば日光の雲霧を覆はるれども
  雲霧之下明無闇   雲霧の下明らかにして闇なきことなきがごとし
----------ここまで-----------------------------------------------------

摂取の心光が無明の闇を破ったとしても、貪愛・瞋憎の雲霧は常に真実信心を
おおっている、ということですよね。

とすると、「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」とは言っても、
それは菩薩道のために用意された別惑で言うところの、根本の無明惑までも
なくしたことにはならないと考えるのが適当かと思うのですが、
いかがなものでしょうか。

どなたでも、間違いがありましたらご指摘ください。

南无阿彌陀佛

●re.12
ボン
関東の男性
[ 1260 ] Re12:教行信証・学習ノート 2009/04/06 (Mon) 23:02 △up ▽down
すみません、自己レスです。
やはり、むちゃくちゃ混乱してますね。

>摂取の心光が無明の闇を破ったとしても、貪愛・瞋憎の雲霧は常に真実信心を
>おおっている、ということですよね。

>とすると、「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」とは言っても、
>それは菩薩道のために用意された別惑で言うところの、根本の無明惑までも
>なくしたことにはならないと考えるのが適当かと思うのですが、
>いかがなものでしょうか。

ここの記述はおかしいですね。正しくは、きっと・・・

無明が三毒の中の痴で、痴は貪(貪愛)・瞋(瞋憎)の根源ですから、
無明(痴)が破られたとしても、無明(痴)によってもたらされた貪・瞋は
あいかわらず凡夫の中に残っていて、それが無碍の光明を曇らせている。

と理解するのが良いのだと思います。

そして、「正信念仏偈」の例の部分は・・・
曇ってはいるんだけど、まったくの闇ではなくなっていて、
雲の上から薄明かりが指している状態だ、

といった、なんとも微妙なたとえになっていますね。

どなたでも、間違いがありましたらご指摘ください。

南无阿彌陀佛

●re.13
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1266 ] Re13:教行信証・学習ノート 2009/04/07 (Tue) 05:29 △up ▽down
ボン 様

これは、解説ではございませんで、思うところです。今後ともに読み進めて参りますれば、私も自身の考えと、六要抄様の違いを見いだすかもしれないと思います。

そのときは、またそこで考えて参りたいと思います。

円教を深いと言う方もいらっしゃいますでしょうけれども、私は蔵通別円、すべて同じであると思っております。

深いと思って、円教をよろこんで学ぶ方がおりますれば、それもまた御方便であるといただいております。

多くの説き方がありますのは、教条主義にならずに良いことだと、よろこんでおります。ひとつの説き方に固執する必要がないことまで、仏様はお示しです。

真宗では、弥陀のお世話になりまして、無明を破していただきます。

智慧の光明いただいて、無知の闇に光が入りました。

そして、貪瞋未だ残っております。

無明の闇に光が入りましても、日常生活でも、たくさんの無知を経験致します。

本当の無知が解消されたとしても、表面的な無知はやまほど残ったままであります。

因が破されて果が消える。ところが、これは、異時の因果でありまして、まだ果として出てきておりません。

ところが、心不退でございます故に、異時の因果ではありましても、とても強い因としていただくわけでございます。

そして、不退でございます故に、そのこと自体を、近果としていただいてしまう。

因果は複雑で、からみあっておりますが、そのからみをすべて超えて、証へと導いてくださる因をいただくわけでございます。

そのような因を造りますのは、並大抵ではございませんはずで、だからこその本師本仏であると、おしいただきます。

凡夫の感覚で行きますと、信をいただいても、まだ生きておりまして、凡夫の日常を体験しておりますから、結果が出るのに時間がかかるようでございますが、永劫の流転を為してきたことを思いますれば、とてつもなく速く結果が出るということになります。

蔵通別円、すべて収まる六字であると思っております。

南无阿彌陀佛

●re.14
ボン
関東の男性
[ 1271 ] Re14:教行信証・学習ノート 2009/04/09 (Thu) 12:07 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
然則浄邦縁熟調達闍世興逆害。浄業機彰釈迦韋提選安養。
斯乃権化仁斉救済苦悩群萌。世雄悲正欲恵逆謗闡提。
-------------------------------------------------------------------------------
しかればすなわち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしめ、浄業機彰れて、
釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。これすなわち権化の仁、
斉しく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す。
-------------------------------------------------------------------------------

ここは「六要鈔」によると、観経に基づいて教えをおこした理由を明かしているとのこと。

  「浄邦縁熟して」・・・浄邦(=極楽)の縁が熟して

  「調達、闍世をして逆害を興ぜしめ」・・・
    調達(提婆達多)が、闍世(阿闍世)をそそのかして、逆害を興ぜしめ

     「逆害を興す」とは、経(観経)に云わく
       「一の太子あり、阿闍世と名づく。調達悪友の教に随順して、父の王、
        頻婆沙羅を収執して、幽閉して七重の室の内に置く」(六要鈔)

  「浄業機彰れて」・・・
    浄業を授かる機(衆生)つまり韋提(韋提希夫人)があらわれて

  「釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり」・・・
    お釈迦様は、韋提希夫人に安養(弥陀の浄土)を選ばせた

  「権化の仁」・・・仏・菩薩がこの世に仮に現われだ方のいつくしみ

    「六要鈔」によると、ここで「権化」には二重の意味があるとのこと
       (1)お釈迦様
       (2)調達(提婆達多)・闍世(阿闍世)・韋提(韋提希夫人)

    つまり、登場人物はみな出向された方々で、逆害をおこしたのも、
    衆生の理解を助けるために、「一芝居」打っていただいたということらしい。

  「斉しく苦悩の群萠を救済し」・・・すべての苦悩する衆生を救済し

  「世雄の悲」・・・お釈迦様が衆生の苦しみを取り除こうとする心は

  「正しく逆謗闡提を恵まんと欲す」・・・
    まさしく、五逆のもの、誹謗のもの、不信のものを救おうと望んでいる

とりあえず、私が理解できる範囲のことを書くとこんな感じですが、
「六要鈔」の解説を読むと分からないことだらけで、それについては
またあらためて書き込みたいと思います。

間違いがございましたら、どなたでもご指摘ください。
どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.15
ボン
関東の男性
[ 1272 ] Re15:教行信証・学習ノート 2009/04/09 (Thu) 01:50 △up ▽down
判らないことを書く前に、まず、判った範囲で感想を述べます。

観経というのは、表向きは自力(19願)を勧めているが、実はこっそりと
他力(18願)を勧めているのだということは、以前に聞いたことがあります。

しかし、この教行信証の冒頭の部分を読むと、観経のなかのこの有名な逸話
「王舎城の悲劇」そのものが、他力(18願)を勧めるための大事なコンテンツ
だったのか、という気が強くいたします。

「六要鈔」によると、この「王舎城の悲劇」の逸話の中に、教えを興した理由が
述べられているといいます。

この逸話、王様と婦人は共謀して仙人を殺すは、生まれた子どもは父を殺そうと
するは、提婆達多は殺人をそそのかすは、登場人物は悪人だらけです。

しかも、浄土の縁が熟した結果として、この悪人だらけのストーリーが展開される
ところがスゴイですよね。

ふつう、浄土の縁が熟したら、心穏やかな人々のストーリーが展開しそうな気がする
のですが・・・。

親鸞聖人のおっしゃる悪人正機というものを、まさに、観経のなかのこのストーリー
が如実に物語っているような気がいたします。

今更ながら「親鸞珍らしき法をも弘めず」なんですね。ありがたいです。

南无阿彌陀佛

●re.16
ボン
関東の男性
[ 1276 ] Re16:教行信証・学習ノート 2009/04/10 (Fri) 00:41 △up ▽down
皆さま、こんばんは。

ここに関して、解らないところが、たくさんあります。

「六要鈔」では、釈迦が韋提希夫人に弥陀の浄土を選ばせたくだりの解説として
以下の文章があります。

  ◎「在世は多く権。分極・凡聖、互いに主伴となりて、おのおの仏化を助すく。
  能化・所化、同じく共に済凡の教を発起す。これ則ち未来の実機を度せんが為なり。」

  ここで
    「在世は多く権」がわかりません。
    「分極」がわかりません。


また、以下の記述があります。

  ◎「『法事讃』に云わく「仏・声聞・菩薩衆と同じく舎衛に遊び祇園に住す」已上。
  仏与といわず、已に与仏という。能所同心、その意知るべし。」

  ここの意味、全体によくわかりません。
  「仏与」と「与仏」の違いもわかりません。

またその後に「密に二義あり」として、前義を述べたあとで、次のように述べています。

  ◎「もし後義に約せば、如来韋提共に因縁を知る。且く衆会に望めて、これを密と為すなり。」

  ここも全体によくわかりません。
  特に「且く衆会に望めて」の意味が解りません。

どなたか、教えていただければ、ありがたく存じます。
どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.17
ボン
関東の男性
[ 1311 ] Re17:教行信証・学習ノート 2009/04/12 (Sun) 13:05 △up ▽down
---------------------------------------------------------------------------------
故知、円融至徳嘉号転悪成徳正智。難信金剛信楽除疑獲証真理也。爾者。凡小易修真教。
愚鈍易往捷径。大聖一代教無如是之徳海。捨穢忻浄。迷行惑信。心昏識寡。悪重障多。
特仰如来発遣。必帰最勝直道。専奉斯行。唯崇斯信。
---------------------------------------------------------------------------------
故に知りぬ。円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを
除きて証(さとり)を獲しむる真理なり。しかれば、凡小修し易き真教、愚鈍往き易き
捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、
心昏く識(さとり)寡なく、悪重く障り多きもの、特に如来の発遣を仰ぎ、
必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。
---------------------------------------------------------------------------------

だから次のように知ることができる。
円融至徳の嘉号(南無阿弥陀仏の六字の名号)は、悪を転じて徳となす正しい知恵であり、
信じることが難しい金剛の信楽は、疑いを取り除いて証(さとり)を得させる真理である。

そうであるならば、これは凡小(器量の小さい凡夫)でも修しやすい真実の教えであり、
愚鈍なものでも往きやすい近道である。

釈尊が一生涯にわたって説かれた教説、この徳海に及ぶものはない。

穢土を捨てて浄土をねがい、行に迷い信に惑い、心は暗く識(さとり)は少なく、
悪心が重くて障りが多いものは、特に如来(釈尊)の発遣(浄土往生ヘの勧め)を仰ぎ、
必ず、最も優れたまっすぐな道にしたがって、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。

---------------------------------------------------------------------------------

≪以下「六要鈔」の注釈から≫

「難信金剛の信楽」等とは、他力真実信心の相なり。

  「難信」・・・
    『大経』「驕慢と弊と懈怠とは以てこの法を信じ難し」
    『大経』「人に信慧あること難し」
    『大経』「もしこの経を聞き、信楽受持すること難が中の難なり。この難に過ぎたるはなし」
    『小経』「一切世間のためにこの難信の法を説く。これを甚難と為す」

「疑を除く」・・・・よく煩悩を破す。用利は通達無礙の徳なり。(梁の摂論)
「証を獲しむ」・・・よく功徳を引す。堅実の義なり。(梁の摂論)

「如来の発遣」・・・これ釈尊の指授なり

「最勝直道」・・・これ弥陀の願力なり

●re.18
ボン
関東の男性
[ 1325 ] Re18:教行信証・学習ノート 2009/04/14 (Tue) 01:16 △up ▽down
---------------------------------------------------------------------------------
噫弘誓強縁多生叵値。真実浄信億劫叵獲。遇獲行信遠慶宿縁。若也此回覆蔽疑網。
更復逕歴曠劫。誠哉。摂取不捨真言。超世希有正法。聞思莫遅慮。
---------------------------------------------------------------------------------
ああ、弘誓の強縁は、多生にも値〈もうあ〉いがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、
かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ。
---------------------------------------------------------------------------------
ああ、弘誓の(阿弥陀様が誓ってくれた)強縁(力強い仏縁)は、何度もこの世に生を
うけても遭遇することが難しく、真実の浄信は、億劫の長い間でも獲得することが難しい。
たまたま行信を獲得したならば、遠く宿縁を慶ぶべきである。

もし、またこのたび(今生でも)、疑網(疑いの網)に覆い隠されたならば、
(次の機会まで)さらにまた曠劫(長い年月)を経ることになるだろう。

摂取して捨てずという真実の言葉、世に越えてたぐいまれな正法、というのは本当の
ことである。(この正法を)聞思して、遅れを取らないようにしなくてはならない。
---------------------------------------------------------------------------------

ここは「千載一遇のチャンスを逃すな!」と言っているように感じます。

「浄信」・・・
  「浄土文類聚鈔」より
    「浄信」と言うは、すなわち利他深広の信心なり。
    すなわちこれ「念仏往生の願」(18願)より出でたり。
    また「至心信楽の願」と名づく、
    また「往相信心の願」と名づくべきなり。

    しかるに薄地の凡夫・底下の群生、浄信獲がたく、極果証しがたきなり。
    何をもってのゆえに、往相の回向に由らざるがゆえに、疑網に纏縛せらるるに
    由るがゆえなり。

    いまし如来の加威力に由るがゆえに、博く大悲広慧の力に因るがゆえに、
    清浄真実の信心を獲しむ。この心顛倒せず、この心虚偽ならず。

    信に知んぬ、無上妙果の成じがたきにはあらず、真実の浄信に得がたし。
    真実の浄信を獲れば、大慶喜心を得るなり。

「行信」(安直にウィキペディアより)
   行・・・本願の名号。本願力の働きで衆生を往生成仏させる行法
   信・・・行法を領受した三心即一の無疑の信心(この信の体は名号)
       真実報土に到って涅槃のさとりを開く因

「たまたま行信を獲ば」については、毎日様と泥凡夫の書き込みもございます。
http://www.shinshu.in/forum/forum.cgi?act=select&id=1&pastno=0&vine=63&page=1

「聞思」については、「ジャンヌ掲示板過去ログ」の泥凡夫様の記述があります。
http://shinshu.in/dorobonbu08

泥凡夫様
  「聞思」を説法聞いて有難く思うと解釈されたら誤りであり、思には「思の三義」が
  ございます。「審慮思」「決定思」「発動勝思」この三つが揃わんならば
  いくら聞いても聞不具足であります。

  安直にウィキペディアより(どうやら経量部の教義らしい)
    審慮思・・・・身語(身・口)の二業を起そうとするとき、審慮するもの
    決定思・・・・決定心をおこして、まさになさんとする
    動発勝思・・・身語の二業において動作する

    私見
      「聞思して」というのは、ご一流の御法を聞いて、身・口・意の三業が
      ともなって初めて、「聞思した」ということになる。(核心部分?)

    ※「聞思」については泥凡夫様から更に詳しく解説いただきたいものです。

「六要鈔」では、この部分を以下のように解説しています。
「聞法の縁を顕わして人をして随喜せしめ、及び疑慮を誡むるの文、見易し。」

●re.19
菩提心
非公開の非公開
[ 1326 ] Re19:教行信証・学習ノート 2009/04/14 (Tue) 01:47 △up ▽down
ボン様

こんばんは、

>ここは「千載一遇のチャンスを逃すな!」と言っているように感じます。

難しいことは分かりませんが、感覚的に上記の御言葉は身に沁みて分かります。

今後の御書込み、楽しみながら拝読させて頂きます。

有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.20
ボン
関東の男性
[ 1347 ] Re20:教行信証・学習ノート 2009/04/15 (Wed) 03:36 △up ▽down
菩提心様、こんばんは。

コメントをいただき、ありがとうございます。

>>ここは「千載一遇のチャンスを逃すな!」と言っているように感じます。
>
>難しいことは分かりませんが、感覚的に上記の御言葉は身に沁みて分かります。

強く求めて、やっとめぐり合えた御法だから、余計に身にしみるのでしょうね。

南无阿彌陀佛

●re.21
ボン
関東の男性
[ 1397 ] Re21:教行信証・学習ノート 2009/04/19 (Sun) 01:25 △up ▽down
------------------------------------------------------------------------------
爰愚禿釈親鸞。慶哉。西蕃月支聖典。東夏日域師釈。難遇今得遇。難聞已得聞。
敬信真宗教行証。特知如来恩徳深。斯以慶所聞嘆所獲矣。
------------------------------------------------------------------------------
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかなや、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、
遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもって、
聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなり。
------------------------------------------------------------------------------
ここに愚禿釈の親鸞は、慶ばしいかぎりである。インドの聖典や、中国・日本の師釈は、
遇うのが難しいのにもかかわらず、いま遇うことができた。聞くことが難しいのに、
すでに聞くことができた。

真宗の教行証を敬い信じて、特に如来(釈尊)の恩徳の深いことを知った。
ここにおいて、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるのである。
------------------------------------------------------------------------------

●re.22
ボン
関東の男性
[ 1402 ] Re22:教行信証・学習ノート 2009/04/19 (Sun) 10:16 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
顕真実教一 顕真実行二 顕真実信三 顕真実証四 顕真仏土五 顕化身土六
--------------------------------------------------------------------------------

≪六要鈔から≫

問う、
  題目の標する所は教行証に在り。三の外に更に信と真仏土と及び化身土とを加う。
  首題の中に於いて、これ等を摂し難し。然らば題に於いて未尽の過あり、如何。

答う。
  教行証の三は常途の教相なり。信と真と化土とは今師の加うる所なり。
  常の教相に任せてその三標すといえども、最要と為るに依りて、今、後の三を加う。

  但し題に余を摂し難しというに至りては、
      行の中に信を摂し、
      証の中に広く真と化仏土を摂す

--------------------------------------------------------------------------------

表題は「教行証」となっているのに、どうしてここに新たに「信」「真仏土」「化身土」
が追加されるのか、と問うています。

それに対して、仏教では普通「教行証」に分けて説明されるから、親鸞聖人も「教行証」
としているが、「信」「真仏土」「化身土」は親鸞聖人が最も重要だと思って、
あらたに加えたものだ、と答えます。

そこで、さらに以下の詳しい説明が続きます。

--------------------------------------------------------------------------------
≪六要鈔から≫

行は所行の法にして、信はこれ能信なり

   『玄義』に云わく
      南無・・・・・帰命、発願回向の義
      阿弥陀仏・・・即ちこれその行なり。
          この義を以ての故に必ず往生を得

信と行とは離れず。機と法とはこれ一なり。この義に由るが故に信を以て行に摂す。

--------------------------------------------------------------------------------

「能」と「所」は以前にも出てきました。
     「能」は、動作の主体(能動)を表す
     「所」は、動作の客体(受動)を表す

とすると・・・

   「所行の法」・・・行ずる客体の法
   「能信」・・・・・信ずる主体

「信と行とは離れず。機と法とはこれ一なり」から判断すると、「信と機」は一体化して
「行と法」に対応するのか・・・。そうすると、次のようになる。

   「所行の法」・・・行ずる客体の法
   「能信の機」・・・信ずる主体の機

これに『玄義』の解説の部分を加えると

   「所行の法」・・・行ずる客体の法・・・阿弥陀仏
   「能信の機」・・・信ずる主体の機・・・南無

こんな感じでしょうか?

--------------------------------------------------------------------------------
≪六要鈔から≫

証に於いて往生・成仏、分証・究竟、遠・近の差別ありといえども、
先ず往生を以てその近果と為す。これ則ち証なり。

然るに往生の後に見る所の身土は、解行の異なるに依りて真化ありといえども、
総じて証の中に摂す。

--------------------------------------------------------------------------------

証について図式化するとこんなかんじでしょうか?(一益・二益はおふみより)

  近果・・・往生・・・分証・・・一益(穢土の益)
  遠果・・・成仏・・・究竟・・・二益(浄土の益)

間違いがございましたら、どなたでもご指摘いただければ幸いです。

●re.23
ボン
関東の男性
[ 1406 ] Re23:教行信証・学習ノート 2009/04/20 (Mon) 00:19 △up ▽down
-----------------------------------------------
顕浄土真実教文類一
-----------------------------------------------

≪六要鈔の解説≫

問う
  首題は上に在り。何ぞ重ねて挙ぐるや。

答う
  上の首題は一部の総称なり。この故に整足して教行証という。即ち通じて序を加う。
  今の題額は当巻の別号なり。故に行証を略し、ただ教の字のみを置きて序を除き一を
  加う。この故に重ねて題す。

問う
  教はただ当巻のみなり。更に余あることなし。何ぞ一というや。

答う
  六巻の中に於いて、その初に居するが故に、これを称して一と為す。
  所謂、真実教は即ちこれ第一、乃至、顕化身土は即ちこれ第六なり。
  これ則ち大師『観経義』の釈の首題の次第、宜しく例証と為すべし。
  「玄義分巻第一」乃至「散善義巻第四」といいて、巻巻あい換って、
  おのおのその題を異にするが如し。


-----------------------------------------------
愚禿釈親鸞集
-----------------------------------------------

≪六要鈔の解説≫

(問い)
  重ねて撰号を安ずること何の要かあらんや。

答う
  これ総別の差なり。序の前の撰号は総じて一部に被らしむ。
  今は当巻に於いて別してこれを安ず。これ慇懃の義なり。重ねて置くに過なし。
  また異本あり。序の前にこれなし。

問う
  上には述の字を置き、今は改めて集と為す。両所の不同に何の由かあらんや。

答う
  上に述というは、序は意を述ぶるが故に。今、集というは、多く文を集むるが故なり。

●re.24
ボン
関東の男性
[ 1407 ] Re24:教行信証・学習ノート 2009/04/20 (Mon) 01:42 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
大無量寿経 真実之教 浄土真宗
--------------------------------------------------------------------------------

≪六要鈔の解説≫・・・ここであらためてタイトルを掲げる意味について

問う
  上の標列の中に真実教と載する、その義は足りぬべし。
  今は重ねてこれを挙ぐる、あに繁重にあらずや。

答う
  上の標列は広く一部に通ず。今の標挙は限りて当巻に在り。
  況や標列の中に真実教の名目ありといえども、未だ教体を顕わさず。
  今は経名を挙げて、その教体を明かす。総別の異あり。更に繁重にあらず。
  経名等の事は下に至りて詳らかにすべし。

--------------------------------------------------------------------------------

≪六要鈔の解説≫・・・本文全体の区分けについて

正釈の中に就きて文を分ちて三と為す。

 (1)文の初より下、「経体也」に至るまでは、総じて教旨を標す。
    「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一には往相、二には還相なり。
    往相の回向につきて、真実の教行信証あり。(中略)ここをもって、如来の本願
    を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり。」

 (2)次に「何以得」とは、これ徴問の言なり。
    「何をもってか、出世の大事なりと知ることを得るとならば、」
        (ボン注)「徴」・・・問いただす

 (3)「大無」以下はこれ正しく文を引くなり。
    「『大無量寿経』に言わく、『今日世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、(以下略)」


(1)の総標の中に就きて(さらに細かく区分け)

 (A)文の初より、「是也」に至るまでは略して標す。
    「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一には往相、二には還相なり。
    往相の回向につきて、真実の教行信証あり。
    それ、真実の教を顕さば、すなわち大無量寿経これなり。」

 (B)「斯経」より下、「実之利」に至るまでは略して大意を叙す。
    「この経の大意は、弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れみて、
    選びて功徳の宝を施することをいたす。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、
    群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲すなり。」

 (C)「是以」より下は経の宗体を明かすなり。
    「ここをもって、如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号を
    もって、経の体とするなり。」

●re.25
ボン
関東の男性
[ 1419 ] Re25:教行信証・学習ノート 2009/04/20 (Mon) 22:47 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
謹按浄土真宗。有二種回向。一者往相。二者還相。就往相回向。有真実教行信証
--------------------------------------------------------------------------------
謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一には往相、二には還相なり。
往相の回向につきて、真実の教行信証あり。
--------------------------------------------------------------------------------

≪六要鈔の解説≫

初に略標の中に、「謹按」というは発端の言なり。

「浄土」等とは、先ず宗の名を標して所説の真なることを顕わす。

「真宗」というは、即ち浄土宗なり。
  『散善義』に云わく「真宗、遇いがたし」
  『五会讃』に云わく「念仏成仏はこれ真宗」


問う。
  『五会讃』の中に『大般若経』に依りて六根を離るる讃を作るに云わく
  「色性は、もとよりこのかた障礙なし。来なく去なきは、これ真宗なり」と已上。
  声性・香性・味性・触性・法性みな同じ。これ般若を以て真宗と名づくるか。
  また耆闍法師は六宗を立つる時、一には『毘曇』を以て因縁宗と名ぢく。
  二には『成実』を以て仮名宗と名づく。三には『大品』と及び同『大論』を以て
  誑相宗と名づく。四には『涅槃』、並びに『華厳経』を以て常住宗と名づく。
  五には『法華』を以て名づけて真宗という。六には『大集』を以て名づけて円宗という。
  この義の如きならば、真宗の名は正しく『法華』に在り。何ぞ浄教に限りて独り真宗と
  名づくるや。

答う。
  六根を離るる讃は『般若』に依るといえども、既にこれ『浄土五会讃』の文なり。
  これ則ち浄土の法性常楽、畢竟無生甚深の理は、冥に般若無相の空理に契うなり。
  故に真宗の名は必ずしも般若ならず。これ浄土に被らしむ。次に耆闍法師の立名に
  至りては、法華と弥陀とは内証同体なり。彼は聖の為の教にして、これは凡の為の教なり。
  所被の機は聖凡殊なるといえども、所説の法は共にこれ一乗なり。真宗の称は彼此密に通ず。
  これはこれ今家不共の別意なり。総じてこれを言わば、広く仏教に於いて真宗の名を
  立つることは、また遮する所にあらず。圭峰の『盂蘭盆経疏』に云わく「良に真宗は
  未だ至らざるに由りて、周・孔に且く心を繋けしむ」と已上。霊芝の同じき『新記』
  にこれを釈して云わく「真宗は即ち仏教なり」と已上。この義辺に依れば、『五会』と
  六宗所立の名と、また限る所なし。通別の両意は並びにこれを存すべし。ただし真宗の
  名は念仏門に於いて殊にその理あり。『大経』には説きて「真実の利」と為し、
  『小経』にはまた「誠実の言を説きたもう」という。一代教の中に実に凡夫出離の要道たり。
  真実の宗旨、その義知るべし。



「二種の回向あり」等というは『論註』より出でたり。

彼の『註』の下巻に解義分を明かすとして十重を立つる中の第二の起観生信の章門に
本論の文を引きて云わく
  「いかんが回向する。 一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、
  回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」

『註』に云わく
  「回向に二種の相あり。一には往相。二には還相。往相とは、己が功徳を以て
  一切衆生に回施して作願すらく、共に彼の阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめんと。
  還相とは、彼の国に生じ已りて、奢摩他毘婆舎那方便力成就することを得て、
  生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して共に仏道に向かえしむるなり。
  もしは往、もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんが為なり。
  この故に回向為首成就大悲心故と言えり」

問う。
  言う所の回向は、これ衆生所修の回向たりや。はた如来所作の回向たりや。

答う。
  五念門の行は、本これ衆生所修の行なり。しかるにその本を尋ぬれば偏に仏力を以て
  増上縁と為して成就する所なるが故に、実を以て而も論ずれば、諸仏菩薩みな五念を
  以て菩提を得るが故に、弥陀の正覚は即ち五念を修して速やかに成就することを得た
  まえり。
  然るに五門の中にこの回向の行は往生の後に出の功徳として大悲を成就して生死海を
  度す。仏の本願力をその本とするが故に、功を仏に推〈ゆず〉れば、尅する所、ただ
  仏の回向たり。

問う。
  所立の義に、その証あるや。

答う。
  同じき解義分の第十利行満足の章に云わく「また五種の門あり。漸次に五種の功徳を
  成就す。乃至。出第五門とは、大慈悲を以て一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示し、
  生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯して、教化地に至る、本願力の回向を
  以ての故に、これを出第五門と名づく。乃至。菩薩はかくの如く五門の行を修して
  自利利他して速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得るが故に」と已上。
  『註』に云わく「問いて曰わく、何の因縁ありてか速やかに阿耨多羅三藐三菩提を
  成就することを得というや。答えて曰わく、論に言わく、五門の行を修して自利利他
  成就することを以ての故に。然るに覈〈あきら〉かにその本を求むるに、阿弥陀如来
  を増上縁と為す。他利と利他と談に左右あり。もし仏よりして言わば、宜しく利他と
  いうべし。衆生よりして言わば、宜しく他利というべし。今まさに仏力を談ぜんとす。
  この故に利他を以てこれを言う。まさに知るべし、この意なり。凡そこれ彼の浄土に
  生ずると、及び彼の菩薩・人・天の所起の諸行と、みな阿弥陀如来の本願力に縁るが
  故に。何を以てこれを言うとならば、もし仏力にあらずんば、四十八願は便ちこれ徒
  に設くるならん」と已上。この釈文は第二巻にこれを引く。今家特に如来他力回向の
  義を立つること、専らこの文に依るなり。

●re.26
ボン
関東の男性
[ 1433 ] Re26:教行信証・学習ノート 2009/04/24 (Fri) 17:18 △up ▽down
ここの段は難しいので、私がどのように理解したかを記します。
間違いや、不正確な点がございましたら、どなたでもご指摘ください。

>「真宗」というは、即ち浄土宗なり。
>  『散善義』に云わく「真宗、遇いがたし」
>  『五会讃』に云わく「念仏成仏はこれ真宗」

   『散善義』・・・善導撰述『観無量寿経疏』の第4巻
     『観無量寿経疏』は「玄義分」「序分義」「定善義」「散善義」よりなる

   『五会讃』・・・法照禅師「浄土五会念仏略法事儀讃」のこと


>問う。
>  『五会讃』の中に『大般若経』に依りて六根を離るる讃を作るに云わく
>  「色性は、もとよりこのかた障礙なし。来なく去なきは、これ真宗なり」と已上。
>  声性・香性・味性・触性・法性みな同じ。これ般若を以て真宗と名づくるか。

     「真宗というのは浄土宗のことだ」という論拠として、『五会讃』から
     「念仏成仏はこれ真宗」を引用しているけれど、『五会讃』では『大般若経』
     によって「真宗」の説明をしている。これでは「般若」を「真宗」という
     ことにはならないか、という問い。

     (注)六根・・・眼根(視覚)・耳根(聴覚)・鼻根(嗅覚)
            舌根(味覚)・身根(触覚)・意根(意識)


>  また耆闍法師は六宗を立つる時、一には『毘曇』を以て因縁宗と名ぢく。
>  二には『成実』を以て仮名宗と名づく。三には『大品』と及び同『大論』を以て
>  誑相宗と名づく。四には『涅槃』、並びに『華厳経』を以て常住宗と名づく。
>  五には『法華』を以て名づけて真宗という。六には『大集』を以て名づけて円宗という。

   耆闍法師(耆闍寺の安凛)の六宗
     (1)『毘曇』・・・・・・・・因縁宗(毘曇の六因四縁を指す)
     (2)『成実』・・・・・・・・仮名宗(成実の三假を指す)
     (3)『大品』『大論』・・・・誑相宗(大品・三論を指す)
     (4)『涅槃』『華厳経』・・・常住宗(涅槃・華厳等の常住仏性本有湛然を指す)
     (5)『法華』・・・・・・・・真宗
     (6)『大集』・・・・・・・・円宗(天台宗)

>  この義の如きならば、真宗の名は正しく『法華』に在り。何ぞ浄教に限りて独り真宗と
>  名づくるや。

    上の区分では「真宗」は「法華」となっている。どうして「浄教」に限って
    自分だけ「真宗」というのか、との問い。

      (疑問)「浄教」とは、上にいう「浄土宗」のことか


>答う。
>  六根を離るる讃は『般若』に依るといえども、既にこれ『浄土五会讃』の文なり。
>  これ則ち浄土の法性常楽、畢竟無生甚深の理は、冥に般若無相の空理に契うなり。
>  故に真宗の名は必ずしも般若ならず。これ浄土に被らしむ。

    六根を離るる讃は『般若』をもとにしているけども、もはや『浄土五会讃』の
    文章になっている。そして、浄土の法性常楽、畢竟無生甚深の理は、
    般若無相の空理と、実はひそかにつながっている。だから、「真宗」の名は、
    かならずしも「般若」に限らない。これを「浄土」につけてもよい。

      (注)「法性常楽」「畢竟無生甚深」「般若無相の空理」の意味は、
         詳しく解らないが、ここでは、とりあえずパス。


>  次に耆闍法師の立名に至りては、法華と弥陀とは内証同体なり。彼は聖の為の教にして、
>  これは凡の為の教なり。所被の機は聖凡殊なるといえども、所説の法は共にこれ一乗なり。
>  真宗の称は彼此密に通ず。

    つぎに、耆闍法師の立名(法華が真宗に対応していること)についていえば、
    法華と弥陀とでは、結果として得るところのさとりは同じものである。
    あちら(法華)は聖者のための教えで、こちら(弥陀)は凡夫のための教えである。
    その教えを受ける機は、聖者と凡夫に分かれるけども、説かれる法は同じものだ。
    真宗という呼称は、あちら(法華)とこちら(弥陀)で密かに通じ合っている。


>  これはこれ今家不共の別意なり。

    (ここは、まったく意味がわかりません。どなたか教えてください。)


>  総じてこれを言わば、広く仏教に於いて真宗の名を立つることは、また遮する所にあらず。

    一般論として、仏教においてはどの宗派でも、真宗ということを妨げることはできない。


>  圭峰の『盂蘭盆経疏』に云わく
>  「良に真宗は未だ至らざるに由りて、周・孔に且く心を繋けしむ」と已上。

    (ここは、よく意味がわかりません。どなたか教えてください)
    (真宗はまだ盛んでないから、周・孔にしばらくは心をかけている)?

    圭峰宗密(780年−841年)・・・中国・唐代の僧

    「周・孔」とは、周瑜と孔明のことと思われる(たぶん)
      周瑜(175年−210年)・・・中国、後漢末の武将。
      孔明(181年−234年)・・・中国後漢末期から三国時代の政治家・武将・軍略家


>  霊芝の同じき『新記』にこれを釈して云わく「真宗は即ち仏教なり」と已上。
>  この義辺に依れば、『五会』と六宗所立の名と、また限る所なし。

    霊芝『新記』で、これ(『盂蘭盆経疏』の上記部分)を解説して「真宗は即ち仏教なり」
    と言っている。この考え方でいくと、真宗は般若だとか、真宗は法華だとか、
    限定的に考えることはない。


>  通別の両意は並びにこれを存すべし。

    (ここは、よく意味がわかりません。どなたか教えてください)

     以前にも、通惑・別惑(通教・別教)がでてきましたが、なぜここで
     出てきているのかわからない(以前もよくわからなかったが・・・)

       蔵通別円(化法の四教)
         蔵教・・・小乗の三蔵(経・律・論)
         通教・・・蔵教から別教・円教に通ずる教え
         別教・・・先の蔵通二教とも後の円教とも異なるという意味
         円教・・・偏ることがない完全な教え


>  ただし真宗の名は念仏門に於いて殊にその理あり。『大経』には説きて「真実の利」と為し、
>  『小経』にはまた「誠実の言を説きたもう」という。一代教の中に実に凡夫出離の要道たり。
>  真実の宗旨、その義知るべし。

    ただし、「真宗」の名は念仏門において、特にその名を使う理由がある。『大経』には
    「真実の利」とあるし、『小経』には「誠実の言を説きたもう」とも言っている。
    念仏門は、釈迦一代の教えの中でも、まさに凡夫が往生するための要道なのだ。
    真実の宗旨、その義を知る必要がある。

    「出離」・・・迷いを離れて解脱の境地に達すること

    (つづく)

●re.27
ボン
関東の男性
[ 1435 ] Re27:教行信証・学習ノート 2009/04/27 (Mon) 00:35 △up ▽down
    (つづき)

>「二種の回向あり」等というは『論註』より出でたり。

  「二種の回向あり」などというのは、『論註』をもとにして述べたものである。

  『論註』・・・曇鸞「無量寿経優婆提舎願生偈註」(略して「往生論註」「浄土論註」)
    天親の「無量寿経優婆提舎願生偈」(略して『浄土論』『往生論』『論』)を注釈した。
      「浄土論」は、「大無量寿経」を注釈したもの
      だから、『論註』は「大無量寿経」の注釈の注釈ということになる

>彼の『註』の下巻に解義分を明かすとして十重を立つる中の第二の起観生信の章門に
>本論の文を引きて云わく

  その「論註」の下巻に(「浄土論」の)解義分を明らかにするとして、10章をたてた
  なかの第二章「起観生信」で、『浄土論』の文を引用して次のように述べた。

   『浄土論』は、総説分と解義分とに分かれている。

   『浄土論』解義分の10章
     (1)願偈大意 (2)起観生信 (3)観行体相(観察体相) (4)浄入願心 (5)善巧摂化
     (6)障菩提門(離菩提障) (7)順菩提門 (8)名義摂対 (9)願事成就 (10)利行満足


>  「いかんが回向する。 一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、
>  回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」と已上。

     「どのようにして回向をするのか。すべての苦悩する衆生を捨てず、
     心にいつも願を作って、回向を中心とした大悲心を成就するのである」
     以上は、『浄土論』からの引用である。


>『註』に云わく
>  「回向に二種の相あり。一には往相。二には還相。往相とは、己が功徳を以て
>  一切衆生に回施して作願すらく、共に彼の阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめんと。
>  還相とは、彼の国に生じ已りて、奢摩他毘婆舎那方便力成就することを得て、
>  生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して共に仏道に向かえしむるなり。
>  もしは往、もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんが為なり。
>  この故に回向為首成就大悲心故と言えり」

   『註』では次のように述べている。

    「回向には、二種類の相(すがた)がある。ひとつは往相、ふたつには還相である。

    往相とは、自分の功徳をすべての衆生に回施(回し施す)しようと願をたてて、
    ともに彼の阿弥陀如来の安楽浄土に往生させようとすることである。

    還相とは、彼の国(安楽浄土)に生じ終わり、そこで奢摩他毘婆舎那方便力を
    成就して、また「生死の稠林」に舞い戻り、すべての衆生を教化して(教え化かし)
    ともに仏道に向かわせることである。

    往(往相)も還(還相)も、どちらも衆生を引き上げて、生死海から救い出すためである。
    そのために『回向為首成就大悲心故』と言ったのである。」

      「奢摩他」・・・・梵語シャマタの音写。止・止息・寂静と漢訳する。
               散乱した心を離れ、思いを止めて心が寂静になった状態。

      「毘婆舎那」・・・梵語ヴィパシャナーの音写。観・妙観・正見と漢訳する。
               対象をありのままに正しく観察すること。

      「稠林」・・・繁った林の意味。煩悩が多いことのたとえ。

      (つづく)

●re.28
ボン
関東の男性
[ 1438 ] Re28:教行信証・学習ノート 2009/04/28 (Tue) 00:18 △up ▽down
   (つづき)

>問う。
>  言う所の回向は、これ衆生所修の回向たりや。はた如来所作の回向たりや。

    この回向は、衆生が修する回向なのか、または如来が作る回向なのか。

>答う。
>  五念門の行は、本これ衆生所修の行なり。しかるにその本を尋ぬれば偏に仏力を以て
>  増上縁と為して成就する所なるが故に、実を以て而も論ずれば、諸仏菩薩みな五念を
>  以て菩提を得るが故に、弥陀の正覚は即ち五念を修して速やかに成就することを得た
>  まえり。

    五念門の行は、本来、衆生が修する行である。しかし、そのおおもとを見れば、
    ひとえに仏の力を増上縁として成就するものである。だから、実ところを更に論
    ずれば、諸仏菩薩はみな五念によって菩提を得るのだから、弥陀の正覚もまた
    五念を修して速やかに成就することができたのである。

    「五念門」・・・阿弥陀仏の浄土に往生するための行として『浄土論』に示された。
      (1)礼拝門・・・身に阿弥陀仏を敬い拝むこと
      (2)讃嘆門・・・口に仏名を称えて阿弥陀仏の功徳をたたえること
      (3)作願門・・・一心に専ら阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うこと
      (4)観察門・・・阿弥陀仏・菩薩の姿、浄土の荘厳を思いうかべること
      (5)回向門・・・自己の功徳をすべての衆生にふりむけて共に浄土に生れたいと願うこと

    「増上縁」・・・浄土往生を得しめる阿弥陀仏の勝すぐれた力

    「菩提」・・・・
      梵語ボーディの音写。智・道・覚と漢訳する。迷いから目覚めたさとりの智慧のこと。
      菩薩・縁覚・声聞の菩提のうち、とくに菩薩のうる菩提を阿耨多羅三藐三菩提という。

    「阿耨多羅三藐三菩提」・・・
      梵語アヌッタラ・サンヤク・サンボーディの音写。「無上正等覚」と漢訳する。
      阿耨多羅は無上、三藐は正しく完全なもの、三菩提は悟り。
      つまり、「無上の正しく完全な悟り」の意。


>  然るに五門の中にこの回向の行は往生の後に出の功徳として大悲を成就して生死海を
>  度す。仏の本願力をその本とするが故に、功を仏に推〈ゆず〉れば、尅する所、ただ
>  仏の回向たり。

    しかし、五念門のなかの回向の行(回向門)は、(安楽浄土に)往生した後に、出の功徳
    として大悲を成就して、生死の海にさまよう衆生を済度することである。仏の本願力が
    その根本であるために、その功を仏にゆずれば、尅するところは、ただ仏の回向である。

    (「尅するところは」の意味がわかりません。どなたか教えて下さい。)


>問う。
>  所立の義に、その証あるや。

>答う。
>  同じき解義分の第十利行満足の章に云わく「また五種の門あり。漸次に五種の功徳を
>  成就す。乃至。出第五門とは、大慈悲を以て一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示し、
>  生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯して、教化地に至る、本願力の回向を
>  以ての故に、これを出第五門と名づく。乃至。菩薩はかくの如く五門の行を修して
>  自利利他して速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得るが故に」と已上。

    同じ「浄土論」解義分の第十章「利行満足」のなかで次のようにいっている。
    「また五種の門がある。徐々に五種の功徳を成就す。(中略)出第五門とは、
    大慈悲によってすべての苦悩する衆生を観察し、応化身となって、煩悩まみれで
    生死を繰り返す穢土の中に入り込んできて、神通力を自在に操り、衆生を教化する
    地位にいたるのである。これは、(仏の)本願力の回向によるものであるから、
    出第五門と名づける。(中略)菩薩は、このように五門の行を修して、
    自利利他して、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することができるために」

    五種の功徳(五功徳門・五果門)
      @近門・・・・・・・礼拝によって仏果に近づくこと。
      A大会衆門・・・・・讃嘆によって浄土の聖者の仲間に入ること。
      B宅門・・・・・・・作願によって止(奢摩他)を成就すること。
      C屋門・・・・・・・観察によって観(毘婆舎那)を成就すること。
      D園林遊戯地門・・・回向によってさとりの世界から迷いの世界にたちかえって、
                自在に衆生を教化・救済することを楽しみとすること。

    仏身(三身)
      法身・・・宇宙の真理・真如そのもの、仏性。
      報身・・・仏性のもつ属性、はたらき。あるいは修行して成仏する姿。
      応身・・・この世において悟り、人々の前に現れる姿。→ 応化身

    自利利他・・・
      自らの悟りのために修行し努力することと、他の人の救済のために尽くすこと。


>  『註』に云わく「問いて曰わく、何の因縁ありてか速やかに阿耨多羅三藐三菩提を
>  成就することを得というや。答えて曰わく、論に言わく、五門の行を修して自利利他
>  成就することを以ての故に。然るに覈〈あきら〉かにその本を求むるに、阿弥陀如来
>  を増上縁と為す。他利と利他と談に左右あり。もし仏よりして言わば、宜しく利他と
>  いうべし。衆生よりして言わば、宜しく他利というべし。今まさに仏力を談ぜんとす。
>  この故に利他を以てこれを言う。まさに知るべし、この意なり。凡そこれ彼の浄土に
>  生ずると、及び彼の菩薩・人・天の所起の諸行と、みな阿弥陀如来の本願力に縁るが
>  故に。何を以てこれを言うとならば、もし仏力にあらずんば、四十八願は便ちこれ徒
>  に設くるならん」と已上。

    『浄土論註』では次のように述べている。
    「<問い>どのような因縁があって、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することが
    できるというのだろうか。<答え>浄土論では、五門の行を修して自利利他を成就する
    するからだ、と述べている。しかし、そのおおもとを明らかにするならば、それは
    阿弥陀如来を増上縁であるとしている。「他利」と「利他」と二通りの言い方がある。
    もし仏の側から言うならば「利他」と言うべきである。衆生の側から言うならば「他利」
    というべきである。ここでは、まさに仏の力について話しをしようとしているのだから、
    「利他」という言葉を使うのである。まさに知るべきなのは、このことである。
    おおよそ、彼の浄土に生ずるというのも、また、彼の菩薩・人・天の起こすところの
    諸行というのも、みな阿弥陀如来の本願力によるのだから。なぜなら、
    もしそれが仏力によるのでなければ、四十八願は意味のないことになるだろうから。」

    文法的解釈
      他利・・・他が利する(仏が利する)・・・・目的語(衆生)が省略されている
      利他・・・他を利する(衆生を利する)・・・主語(仏)が省略されている

>  この釈文は第二巻にこれを引く。今家特に如来他力回向の義を立つること、
>  専らこの文に依るなり。

    この釈文『浄土論註』は、第二巻(行巻)で引用する。“今家”特に如来他力回向の
    意義について立論するのは、もっぱら、この文章をもとにしているのである。

    (前にも出てきましたが、“今家”の意味がわかりません。どなたか教えて下さい。)
    (ここまで、間違いや、我流の解釈と思われる点がございましたら、ご指摘下さい。)

●re.29
ボン
関東の男性
[ 1441 ] Re29:教行信証・学習ノート 2009/04/28 (Tue) 00:12 △up ▽down
自己レスにて失礼します。

たびたび出てくる「今家」について解らなかったのですが、漢和辞典によると、
「家」と言う字には、「専門の学問の流派。また、その学者」という意味があるようです。

たとえば、「儒教の学者」を「儒家」というようなものです。

この意味からすると、「今家」というのは、「今日の学者」というようにも
考えられるのですが、いかがなものでしょうか。

なんとなく、それで意味が通るような気もするのですが・・・。

どなたかご教授いただければ幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.30
ボン
関東の男性
[ 1442 ] Re30:教行信証・学習ノート 2009/04/28 (Tue) 00:42 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
夫顕真実教者。則大無量寿経是也。
--------------------------------------------------------------------------------
それ、真実の教を顕さば、すなわち大無量寿経これなり。
--------------------------------------------------------------------------------

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

(問い)
  「それ真実の教を顕さば」等とは、問う、現行の本には「無量寿経」という。
  大の字を安ぜず。今何ぞこれを加うるや。

答う。
  今この経に於いて広略の名あり。広くは経題の如し。略名を称する時、これを「大経」
  という。大部の辺に依れば多の義に相応す。仏願を説くに約すれば勝の義に符順す。
  多勝の義を標するが故に大の字を加う。崇重の義なり。


問う。
  異訳の経の中に既に「大阿弥陀経」の名あり。恐らくは混乱すべし、如何。

答う。
  彼は梵語に依る。これは漢音を用う。縦い大の字あるとも何ぞ混乱せんや。


問う。
  この義は今家の私の意巧か。もしは証ありや。

答う。
  その文証あり。『五会讃』に云わく「今、大無量寿経の五会の念仏に依る」と已上。
  また云わく「問いて曰わく、五会の念仏は出でて何れの文にか在るや。答えて曰わく、
  大無量寿経に云わく、或いは宝樹あり、車渠を本と為す。乃至。不退転に住して仏道を
  成すに至る」と已上。

問う。
  この『双巻経』の翻訳は何れの時ぞ。また異訳に於いて幾ばくの種あるや。

答う。
  この二巻の経は曹魏の代に当たる。印度の三蔵康僧鎧訳す。今この経は第四代に当たる。
  異訳の差に於いて『内典録』『衆経目録』『楽邦文類』『貞元録』等の諸録の意に依るに、
  凡そこの経に十二代の訳あり。而してその中に於いて五存七闕なり。

  五存というは、

    一に『無量清浄平等覚経』二巻、月氏の沙門支婁迦懺、後漢の代に訳す。これ第二代なり。

    二に『阿弥陀経』二巻。『大阿弥陀経』と称するこれなり。月氏の優婆塞支謙、字恭明、
       呉の代に当りて訳す。これ第三代なり。

    三には今の経これなり。第四代に当る。

    四には『大宝積経』「無量寿会」二巻。印度の三蔵菩提流支、此に覚愛という、
       大唐の代に訳す。この経の一百二十巻の中に第十七と八となり。一経四十九会の
       中にこれ第五会なり。第十一代なり。

    五に『大乗無量寿荘厳経』三巻。西天の沙門法賢三蔵、大宋の代に訳す。第十二代なり。

  七闕というは、

    『無量寿経』二巻。安息国の沙門安清、字は世高、後漢の代に訳す。これ第一代なり。

    二にまた『無量寿経』二巻。西域の沙門帛延、曹魏の代に訳す。これ第五代なり。

    三にまた『無量寿経』二巻。沙門竺曇摩羅密、此に法護という。晋の代に当たりて訳す。
         これ第六代なり。

    四にまた『無量寿至真等正覚経』二巻。また『楽仏土楽経』と名づけ、また『極楽仏土経』
        と名づく。西域の沙門竺法力、東晋の代に訳す。これ第七代なり。

    五には『新無量寿経』二巻。沙門仏陀跋陀羅、此に覚賢という、同じき代に当たりて訳す。
        これ第八代なり。

    六に『新無量寿経』二巻。涼州の沙門宝雲、宋の代に当たりて訳す。これ第九代なり。

    七にまた『新無量寿経』二巻。ケイ賓国の沙門曇摩羅密多、此に法秀という、
        宋の代に訳するなり。これ第十代なり。

  十二代の中に、ただ『荘厳経』は訳して三巻と為す。余の十一代はみな二巻と為す。

●re.31
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1443 ] Re31:教行信証・学習ノート 2009/04/28 (Tue) 01:21 △up ▽down
ボン 様

「今家(こんけ)」は、「当流」と同じように解して良いと思います。

「今晩」というのは、「この晩」という意味ですが、この「今(こん)」と同じように考えればよろしいかと思います。「今回」「今年」など、似たような用法がございます。

・・・このようにお書きしましたが、勘違いしておるかもしれませず、どなたかご指摘いただければうれしく思います。

続けていらっしゃるお姿に、頭が下がります。

南无阿彌陀佛

●re.32
ボン
関東の男性
[ 1447 ] Re32:教行信証・学習ノート 2009/04/29 (Wed) 00:05 △up ▽down
毎日様、こんばんは。

>「今家(こんけ)」は、「当流」と同じように解して良いと思います。

ご教授、ありがとうございます。これで、ひとつスッキリしました。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.33
忍草
北陸の男性
[ 1449 ] Re33:教行信証・学習ノート 2009/04/29 (Wed) 03:03 △up ▽down
  ボン様
今家について、淨土宗を含む浄土一門(他力一門)の流れ善導家と読み解きたいです。

理由、宗祖は教行信證最後の【後序】で眞宗興隆の太祖源空法師と書かれたうえで、

『選択本願念佛集』を眞宗の簡要・念佛の奥義、斯に攝在せり。と書かれています。

又浄土文類聚鈔で宗師として善導大師をおかれています(論主・天親菩薩)。
入出二門偈頌でも見えます。

「当流」を浄土眞宗だけに限らないで頂きたいのです。善導家とどかに書いてあったはずです。

余計な口出しをして申し訳ございません。  合掌 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛。

●re.34
ボン
関東の男性
[ 1450 ] Re34:教行信証・学習ノート 2009/04/29 (Wed) 23:03 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

ご教授ありがとうございます。

>今家について、淨土宗を含む浄土一門(他力一門)の流れ善導家と読み解きたいです。

今家(当流)を、「善導大師 ⇒ 法然上人 ⇒ 親鸞聖人」という流れでとらようという
ことですね。よく解りました。

>善導家とどかに書いてあったはずです。

「口伝鈔」(7)の以下の部分のことでしょうか。

「おほよそ凡夫の報土に入ることをば、諸宗ゆるさざるところなり。しかるに、
浄土真宗において善導家の御こころ、安養浄土をば報仏報土と定め、入るところの
機をばさかりに凡夫と談ず。」

>余計な口出しをして申し訳ございません。

とんでもありません。おかしなところは、遠慮なくビシバシとご指摘いただき、
また、詳しく教えていただければ幸いです。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.35
ボン
関東の男性
[ 1457 ] Re35:教行信証・学習ノート 2009/05/01 (Fri) 02:36 △up ▽down
1442の六要鈔会本の注釈部分について、理解したところを記します。

>(問い)
>  「それ真実の教を顕さば」等とは、問う、現行の本には「無量寿経」という。
>  大の字を安ぜず。今何ぞこれを加うるや。

    「大無量寿経」について、現行の本では「無量寿経」と言って、「大」の字が
    付いていない。どうして、ここでは「大」の字を加えるのか。

>答う。
>  今この経に於いて広略の名あり。広くは経題の如し。略名を称する時、これを「大経」
>  という。大部の辺に依れば多の義に相応す。仏願を説くに約すれば勝の義に符順す。
>  多勝の義を標するが故に大の字を加う。崇重の義なり。

    この経にはフルネームと略名がある。フルネームは経題のとおりである。略称は
    「大経」という。「大部の辺に依れば」「多」の意味に相応する。仏願を説明する
    ことに限って言えば(大は)「勝」の意味になる。つまり、「多勝」の意味を示す
    ために大の字を加えるのである。尊び重んじているわけである。

    (「大部の辺に依れば」がわかりません。どなたか教えて下さい)

    「多」・・・「まさる」「こえる」という意味がある(漢和辞典による)
    「勝」・・・「まさる」「すぐれる」という意味がある(漢和辞典による)


>問う。
>  異訳の経の中に既に「大阿弥陀経」の名あり。恐らくは混乱すべし、如何。

    (大経の)いろいろな異なった漢訳のなかには「大阿弥陀経」というのもある。
    おそらく、これは混乱するのではないかと思うが、どうか。

>答う。
>  彼は梵語に依る。これは漢音を用う。縦い大の字あるとも何ぞ混乱せんや。

    そちら(大阿弥陀経)は梵語をもとにしており、それに漢音をあてがっている。
    たとえ、そこに大の字があったとしても、どうして混乱するのか。


>問う。
>  この義は今家の私の意巧か。もしは証ありや。

    この考え方は、当流が自分の都合のよいように考えたものか。
    あるいは証拠があるのか。

>答う。
>  その文証あり。『五会讃』に云わく「今、大無量寿経の五会の念仏に依る」と已上。
>  また云わく「問いて曰わく、五会の念仏は出でて何れの文にか在るや。答えて曰わく、
>  大無量寿経に云わく、或いは宝樹あり、車渠を本と為す。乃至。不退転に住して仏道を
>  成すに至る」と已上。

    それには文献にもとづく証拠がある。『五会讃』には「今、大無量寿経の五会の
    念仏に依る」との文言がある。また、次のようにも述べている。「問いて曰わく、
    五会の念仏は出でて何れの文にか在るや。答えて曰わく、大無量寿経に云わく、
    或いは宝樹あり、車渠を本と為す。乃至。不退転に住して仏道を成すに至る」


>問う。
>  この『双巻経』の翻訳は何れの時ぞ。また異訳に於いて幾ばくの種あるや。

    この『双巻経』(康僧鎧訳の『大無量寿経』)の翻訳は、いつごろのことか。
    また、その異訳には、どのくらいの種類があるのか。

    『双巻経』・・・康僧鎧訳の『大経』が上下2巻からなるため『双巻経』と呼ぶ。
            浄土諸宗で『大経』といえば、この康僧鎧訳を指す。


>答う。
>  この二巻の経は曹魏の代に当たる。印度の三蔵康僧鎧訳す。今この経は第四代に当たる。
>  異訳の差に於いて『内典録』『衆経目録』『楽邦文類』『貞元録』等の諸録の意に依るに、
>  凡そこの経に十二代の訳あり。而してその中に於いて五存七闕なり。

    この二巻の経(『双巻経』)の漢訳は曹魏の代のことである。インドの僧
    「康僧鎧」が翻訳した。この経は第四代目の漢訳となる。異訳については、
    『内典録』『衆経目録』『楽邦文類』『貞元録』等の諸録によると、おおよそ、
    十二代の漢訳がある。そして、五つは現存し、七つは見つかっていない。

      「曹魏」・・・「魏」が曹氏の王朝であることから、これを曹魏とも言う。

      『内典録』・・・・正式名称『大唐内典録』(唐代の道宣が編纂した経録)
      『衆経目録』・・・中国隋の法経らが編纂した仏教経典目録
      『楽邦文類』・・・南宋の宗暁の編。 楽邦(西方浄土)に関する経論を集めた文集
      『貞元録』・・・・正式名称『貞元新定釈教目録』(唐代の円照が編纂した経録)


>  五存というは、

>   一に『無量清浄平等覚経』二巻、月氏の沙門支婁迦懺、後漢の代に訳す。これ第二代なり。

>   二に『阿弥陀経』二巻。『大阿弥陀経』と称するこれなり。月氏の優婆塞支謙、字恭明、
>      呉の代に当りて訳す。これ第三代なり。

>   三には今の経これなり。第四代に当る。

>   四には『大宝積経』「無量寿会」二巻。印度の三蔵菩提流支、此に覚愛という、
>      大唐の代に訳す。この経の一百二十巻の中に第十七と八となり。一経四十九会の
>      中にこれ第五会なり。第十一代なり。

>   五に『大乗無量寿荘厳経』三巻。西天の沙門法賢三蔵、大宋の代に訳す。第十二代なり。

>  七闕というは、

>   『無量寿経』二巻。安息国の沙門安清、字は世高、後漢の代に訳す。これ第一代なり。

>   二にまた『無量寿経』二巻。西域の沙門帛延、曹魏の代に訳す。これ第五代なり。

>   三にまた『無量寿経』二巻。沙門竺曇摩羅密、此に法護という。晋の代に当たりて訳す。
>        これ第六代なり。

>   四にまた『無量寿至真等正覚経』二巻。また『楽仏土楽経』と名づけ、また『極楽仏土経』
>       と名づく。西域の沙門竺法力、東晋の代に訳す。これ第七代なり。

>   五には『新無量寿経』二巻。沙門仏陀跋陀羅、此に覚賢という、同じき代に当たりて訳す。
>        これ第八代なり。

>   六に『新無量寿経』二巻。涼州の沙門宝雲、宋の代に当たりて訳す。これ第九代なり。

>   七にまた『新無量寿経』二巻。ケイ賓国の沙門曇摩羅密多、此に法秀という、
>       宋の代に訳するなり。これ第十代なり。

    1代(欠)『無量寿経』・・・・・・・・安息国の沙門「安清」の訳(後漢の代)
    2代(存)『無量清浄平等覚経』・・月氏の沙門「支婁迦懺」の訳(後漢の代)
    3代(存)『大阿弥陀経』・・・・・・・月氏の優婆塞「支謙」字恭明の訳(後漢の代)
    4代(存)『双巻経』・・・・・・・・・・・インドの僧「康僧鎧」の訳(曹魏の代)
    5代(欠)『無量寿経』・・・・・・・・・・西域の沙門「帛延」の訳(曹魏の代)
    6代(欠)『無量寿経』・・・・・・・・・・沙門「竺曇摩羅密」の訳(晋の代)
    7代(欠)『無量寿至真等正覚経』・・西域の沙門「竺法力」の訳(東晋の代)
    8代(欠)『新無量寿経』・・・・・・・・沙門「仏陀跋陀羅」の訳(東晋の代)
    9代(欠)『新無量寿経』・・・・・・・・涼州の沙門「宝雲」の訳(宋の代)
    10代(欠)『新無量寿経』・・・・・・・・ケイ賓国の沙門「曇摩羅密多」の訳(宋の代)
    11代(存)『大宝積経』・・・・・・・・・・インドの僧「菩提流支」の訳(大唐の代)
    12代(存)『大乗無量寿荘厳経』・・・西天の沙門「法賢三蔵」の訳(大宋の代)


>  十二代の中に、ただ『荘厳経』は訳して三巻と為す。余の十一代はみな二巻と為す。

     12代の経のなかで、『大乗無量寿荘厳経』だけは、訳して三巻となっている。
     ほかの11代はすべて二巻である。

●re.36
ボン
関東の男性
[ 1467 ] Re36:教行信証・学習ノート 2009/05/02 (Sat) 01:37 △up ▽down

--------------------------------------------------------------------------------
斯経大意者。弥陀超発於誓広開法蔵。致哀凡小選施功徳之宝。
釈迦出興於世光闡道教。欲拯群萌恵以真実之利。
--------------------------------------------------------------------------------
この経の大意は、弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れみて、
選びて功徳の宝を施することをいたす。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、
群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲すなり。
--------------------------------------------------------------------------------

この経(大経)の大意は以下のとおり。

弥陀が誓いをおこして、真理をおさめた蔵を広く開いて、愚かな凡夫を哀れに思い、
(たくさんの真理の中から)選んで「功徳の宝(阿弥陀仏の名号)」を与えてくれたこと。

釈迦が仏の化身となってこの世に現れて、仏道の教えを明らかに説き示し、
無数の衆生をすくい、「真実の利」を恵み与えようしたこと。


  ・「功徳の宝」・・・阿弥陀仏の名号のこと

  ・「群萠」・・・・・雑草のこと(雑草のように無数の生まれてくる衆生のたとえ)

  ・「真実の利」・・・阿弥陀仏の名号によって得る利益のこと

--------------------------------------------------------------------------------

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

大意を叙する中に「弥陀、誓を超発す」等とは、重誓偈の意なり。
彼の偈に説いて云わく「我、超世の願を建つ。必ず無上道に至らん」と已上。

「広開」等とは、また同じき偈に云わく「衆の為に宝蔵を開きて、広く功徳の宝を施す」と已上。

「釈迦」等とは、下の引文に至りて委しくこれを解すべし。

  ・重誓偈・・・『仏説無量寿経』の中の偈文

--------------------------------------------------------------------------------

●re.37
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1468 ] Re36:教行信証・学習ノート 2009/05/02 (Sat) 01:39 △up ▽down
ボン様

聖典の意訳、有難う御座います。

極道坊主で有ります。

以前、

>今家について、淨土宗を含む浄土一門(他力一門)の流れ善導家と読み解きたいです。

と、忍草様が書き込んで下さいました。

確かに、宗祖が戴かれるには、善導大師を宗師と仰がれ、戴かれておられます。

然し、現代においては浄土宗を含む他力一門とは言い切れないかもしれません。

忍草様は、浄土門全てを『善導家』とされておられるのでしょうか。 文献にも根拠が有ります故に、頷けます。

聖人様も、ご自身を源空聖人の門流とお考えなのですね。

唯、今の浄土宗は聖人様のお心持ちとは違うように感じます。

鎮西流、九品寺流、西山流(禅林寺派、深草派、光明寺派)、長楽寺流、一念義、これ等に於いては聖人様の教えとは異なるところが有ります。(詳しくは宗旨を書く事が出来ませんが、殊に証空の西山義は、真宗の宗旨とは異なります。十劫秘事に近いのです。)

また、浄土門と一括りにすれば、融通念佛宗も時宗も入ってくる。

こうなりますと、聖典に書かれた聖人の心持とは異質なものになってくる様な気がします。

「今家」は、現代では『真宗』を指す言葉と限定して御理解されても良いと思います。

つまり、

>今家(当流)を、「善導大師 ⇒ 法然上人 ⇒ 親鸞聖人」という流れでとらようということですね。よく解りました。

と言う事で宜しいかと思います。

要らぬ御世話で申し訳有りません。 また、忍草様の書き込みに対して結果、反論の形になってしまいました。 重ねて申し訳有りません。

聖典の学習ノート、頭の下がる想いです。 これからも縁ある限りよろしくお願いします。

合掌



●re.38
忍草
北陸の男性
[ 1476 ] Re37:教行信証・学習ノート 2009/05/02 (Sat) 12:16 △up ▽down
   極道坊主様

 お文2―3
 然れば祖師聖人御相傳一流の肝要は、ただこの信心一に限れり。これを知らざるをもって
 他門とし、これを知れるをもって眞宗のしるしとす。

 このように書かれていれば、今の淨土宗、浄土眞宗も『これを知れるをもって・・・』に

 意味があるので、祖師・蓮師・現代という時代背景の中で「現代では・・・」という事に

 何の意味があるでしょうか?時代背景で変わるのは経論釈に書かれている[三時の教え等

 又自力、他力等]の問題であって、佛法・他力法が変わるのではないと思います。

 >今家(当流)を、「善導大師 ⇒ 法然上人 ⇒ 親鸞聖人」という流れでとらようということ ですね。よく解りました。

 ボン様が了解された事に私は異論は申しませんが、極道坊主様の説は違うと表明致します。

 あくまで『これを知らざるをもって他門、これを知れるをもって・・・』がボン様の

 今家(当流)に繋がると思います。

 現、眞宗でも知らない方が大半ではありませんか。祖師聖人、蓮師の時代でも

 「御傳鈔」「式文」「お文」「改邪鈔」その他の釈文を見ても「これ、それを」知らない

 方が居たのではないでしょうか。そうすれば、祖師聖人、覺如、存覺、蓮如上人と続く

 今家・当流も「これ、それ」を知っている方々を前提としていると思うべきでは

 ありませんか。御開山から現代に変わっても宗祖が宗師と崇められた善導大師の

 流れを今家・(善導家)当流そして『これ、それ』をしっている他力一門としては

 いかがでしょうか。  

        合掌  南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

 

●re.39
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1477 ] Re38:教行信証・学習ノート 2009/05/02 (Sat) 16:21 △up ▽down
忍草様

極道坊主で有ります。

御教授有難う御座います。

>然れば祖師聖人御相傳一流の肝要は、ただこの信心一に限れり。これを知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって眞宗のしるしとす。 

確かに本願寺8世蓮師の御文章、2帖目第3通後半に記載された文言で御座います。

源空聖人の御門弟には、御聖人様を初め、主だった高弟方が居られた事は自分でも存じております。

既に其の頃から、源空聖人の教えの解釈を巡って分派の元が形成され始めておりました。 例の行の座、信の座の問答もその一端なのではないでしょうか?

源空聖人から親鸞聖人へと受け継がれました御法は、『念佛成佛』の教えです。

これをもって蓮氏は、『祖師聖人御相傳一流の肝要は、ただこの信心一に限れり。』と書かれたのではないでしょうか?

この頃には、聖光坊弁長、善慧坊証空の派祖から夫々の浄土宗の形になって行って居ると思います。 その内容は、当流のお心持ちと同じでしょうか?

源空聖人以降の浄土宗と、当流との分派の経緯は異なります。 当流は教えの解釈の違いで分派したのでは有りません。(歴史的経緯による分派、宗政による分は見受けられますが。)

源空聖人の浄土宗は、聖人様の御味わいと異にする所は無いと思います。 其の味わいを依り一層深められたのが、御開山聖人ではないですか?

故に、今、現在に伝えられておる浄土宗のお心持ちと、当流の信心とは違うものと感じて居るのは自分だけでしょうか?

忍草様の表現なされる『これ、それ』は、何を指しておられるのでしょう?

浄土門は、他力の教えには違いないと思います。

しかし、当流は言葉で表すならば、『純他力』と表現したら良いのでしょうか?

他宗他派を、誹謗した形の書き込みになってないか少々不安では有りますが、自分は親鸞聖人が伝えて下さった『御念佛』の教えは、善導大師から始まり、源空聖人と伝わって、其の真髄を極められた教えだと戴いております。

多分、過ぎた過去なので「もしも」は有りませんが、浄土宗では今の心持には到ってはおらんと思います。 『真宗』の教えでなければいかんかったので有ります。

忍草様のお書き下さいました『これを知れる』は、『念佛成佛』に掛かって来るのだと思いますが、如何でしょうか?

これは、自分の信仰上からの書き込みで有りますので、縁あってお読み下さいます方々には、各様に受け取り方が御座います故、大変申し訳有りませんが、『親鸞聖人の教え以外に正しく御念佛の教えは伝わってきてはいない。』とこの様に思っております。

でありますから、先の様な書き込みをしました。

ボン様には、思想の押し売りになってしまいました。 申し訳有りません。

この様に味わっておる者であります。

当流の味わい方と異にする所が有りましたら御指摘下さい。

合掌

●re.40
ボン
関東の男性
[ 1479 ] Re39:教行信証・学習ノート 2009/05/02 (Sat) 18:35 △up ▽down
極道坊主様 忍草様 皆様、こんにちは。

私が「今家」について、皆様にお尋ねしたことをもとにして、
議論が起こっておりますが、なんだか枝葉末節にこだわって、
不毛な議論になっているような気がいたします。

もともと私は、単純に国語的に「今家」の言葉の意味が解らず、お尋ねをしました。
この限りにおきましては、私の中では、毎日様からご教示いただいたように
「今家=当流」ということで解決しております。

その後、忍草様から「今家=当流」ということを前提にして、
「私たち一念帰命の念仏者が、どのように『当流』をとらえるべきか」という
より進んだ視点から、ご教示をいただいたものと思っております。

そこで、親鸞聖人がいかに法然上人を重んじられているかをお示しいただき、
また、「善導家」という言葉の存在も教えていただき、その上で、
「『当流』を浄土眞宗だけに限らないで頂きたいのです」と述べられました。

実は、「『当流』を浄土眞宗だけに限らないで頂きたいのです」という表現が、
極道坊主様がご指摘のような「誤解」をまねき安い表現だと感じたので、あえて、
「今家(当流)を、『善導大師 ⇒ 法然上人 ⇒ 親鸞聖人』という流れでとらよう
ということですね」と念を押させていただきました。

これにつきまして、極道坊主様も「善導大師 ⇒ 法然上人 ⇒ 親鸞聖人」と
言う事で宜しいかと思いますとおっしゃり、忍草様も「異論は申しません」との
ことですから、この点につきましては、どなたも異存はないものと考えております。

極道坊主様の趣旨は「様々に分かれて多様化した浄土門すべてを『当流』とする
のはどうか」という懸念であって、その分化が「現代」になってからのことなのか、
それとも昔からあったのかは、さほど重要なことではないと思います。

忍草様のお話の趣旨も、「多様化した浄土門どころか、浄土真宗の中でも一念帰命が
わからなければ当流とはいえない」というように見えますので、極道坊主様の趣旨と
矛盾するところはないと思います。

一念帰命の念仏者であるならば、いずれにいたしましても、無理なく受け入れられる
話ですから、どうしてこのように論争的なスタイルになってしまうのかわかりません。

「当流」などと漢字二文字熟語で表すと、私たち日本人は、そこに深い意味や
抽象的な意味を込めようとする傾向があるようですから、易しい「やまとことば」で
「私たちの流れ」と言ったらどうなんでしょう。

そうすると「私たち」というのは、どういう範囲をいうんだろう、ということに
なると思うのですが、それはやはり一念帰命者であるならば、そのことを知って
いるかどうかという、至極当然な結論となるような気がします。

一応、これまでの議論の私なりの整理を試みましたが、これ以上に何か発展的な、
または、より理解の深まるような議論がございましたら、今後もぜひお聞かせ
いただきたいと思います。

南无阿彌陀佛

●re.41
ボン
関東の男性
[ 1499 ] Re40:教行信証・学習ノート 2009/05/09 (Sat) 02:08 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
是以説如来本願為経宗致。即以仏名号為経体也。
--------------------------------------------------------------------------------
ここをもって、如来の本願を説きて、経の宗致とす。
すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり。
--------------------------------------------------------------------------------

宗と体(辞書的理解)
  宗・・・根本、おおもと、要(かなめ)、本質、真髄、Essence
  体・・・実質、実体、中身、主質、かたち、すがた、Substance

宗と体(山邊習學・赤沼智善による)
  宗・・・一経に説く法門義理の中で、最も肝要なもの
  体・・・一経の全体に渉る地質、即ち一経の始終を一貫する根本精神

  致・・・・きわめる、きわまる、きわみ
  宗致・・・本質・真髄のきわみ(「宗」の意味を強調している)

  経の宗(経宗)・・・経の根本・・・・・如来の本願
  経の体(経体)・・・経の実体・・・・・弥陀の名号

--------------------------------------------------------------------------------

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

(問い)
  宗体を明かす中に、問う、如来の本願は即ちこれ名号なり。
  然らば宗体と何の別かあるや。

答う。
  本願というは、先ず六八を指す。これを以て宗と為す。願願の所詮は偏に念仏にあり。
  これを以て体と為す。この故に且く総別を以て異と為す。

--------------------------------------------------------------------------------
(問い)
  宗と体について述べるなかで、如来の本願は、すなわち名号であるとしている。
  そうであるならば、宗(本願)と体(名号)とのあいだにはどんな違いがあるのか。

答う。
  本願というのは、まず四十八願のことである。これが宗(根本)である。
  いろいろな願によって表される内容は、ただ一つ念仏である。これが体(実質)である。
  だから、まずは総と別の区別によって、(宗と体を)異なったものととらえるのである。

--------------------------------------------------------------------------------

  六八・・・・・・四十八願のこと(6x8=48)

  所詮・・・・・・言葉や文章・教えなどで表される意義・内容。
  能詮・・・・・・教えなどを表す言語・文字。

  総別(一般論として)
    「総」・・・全体に通じる一往の意味、一般的な意義
    「別」・・・総に含まれる特別な再往の意義、肝要の意義

●re.42
ボン
関東の男性
[ 1500 ] Re41:教行信証・学習ノート 2009/05/09 (Sat) 09:48 △up ▽down
皆さま、こんばんは。

>ここをもって、如来の本願を説きて、経の宗致とす。
>すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり。

ここのところ、非常に難しいです。

大経を宗と体に分けて説明しようとしていて、宗が如来の本願で、体が弥陀の名号と
言っているのですが、そもそも、宗と体をよく理解できておりません。

とりあえず、宗は「根本」で、体は「実体」と理解してみたものの、
それじゃあ、「根本」とは何で、「実体」とは何なの、と言われれば、
やはり良く解らないのです。

そこで「六要鈔会本」の注釈を見てみると、ますます、訳が解らなくなります。
今度は、「宗と体」を「総と別」になぞらえて理解しているように見えるからです。

「宗と体」は「根本と実体」で、「総と別」は「一般と特殊(肝要)」ではないのか。
「宗と体」と「総と別」とでは、分別の切り口が違うように思うのですが・・・。

本当に解らないことだらけです。どなたか教えてください。

南无阿彌陀佛

●re.43
ボン
関東の男性
[ 1502 ] Re42:教行信証・学習ノート 2009/05/10 (Sun) 00:40 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
何以得知出世大事。
--------------------------------------------------------------------------------
何をもってか、出世の大事なりと知ることを得るとならば、
--------------------------------------------------------------------------------

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

(問い)
  次に徴問の中に、問う、先に判じて出世の大事といわず。今何ぞ此の如く徴問を説くや。

答う。
  仏の本願といい、仏の名号といい、出離の正道、大悲の極際なり。
  言を発さずといえども、如来出世の大事はここに在り。故に徴問するなり。

--------------------------------------------------------------------------------

正しく文を引く中に、またその四あり。
いわゆる『大経』と及び『如来会』と『平等覚経』と憬興師の釈となり。

--------------------------------------------------------------------------------

初に『大経』の中に、今の所引は序分の終の文なり。

且く浄影に依らば、
所引の上の「爾時世尊」より、下の「願楽欲聞」の句に至るまで、文を分かちて六と為す。

彼の疏に云わく
「五に爾時の下は正しく発起を明かす中に三双六重あり。
  初に如来の現相、
  次に尊者の下は阿難の請問、
  三に於是の下は如来の審問、
  四に阿難の下は阿難の実答、
  五に仏言の下は如来の嘆許、
  六に対曰の下は阿難の楽聞なり」已上。

この科文の内に今の所引の文は、
初の現相と並びに請問の座起等の儀を除きて、正発問の言以下はこれを引く。
又下の如来嘆許の文の残りと、第六の阿難楽聞とは、これを略す。当要にあらざるが故に。

初の現相を除くことは、
「爾時世尊、諸根悦予、姿色清浄、光顔巍巍」は、
下の阿難の請問に挙ぐる所の「今日世尊。乃至。巍巍」に同じ。この故にこれを除く。

また「座起」等は請問を致さんと欲する前方便なるが故に、その要にあらざるを除きて、
正しき発問以下の文を引くのみ。

●re.44
ボン
関東の男性
[ 1503 ] Re43:教行信証・学習ノート 2009/05/10 (Sun) 01:42 △up ▽down


六要鈔会本の注釈につきまして、理解したところを記します。
おかしなところがありましたら、ご指摘ください。

>(問い)
>  次に徴問の中に、問う、先に判じて出世の大事といわず。今何ぞ此の如く徴問を説くや。

>答う。
>  仏の本願といい、仏の名号といい、出離の正道、大悲の極際なり。
>  言を発さずといえども、如来出世の大事はここに在り。故に徴問するなり。

 質問
   次に、先に「出世の大事」とはっきりと言わないで、どうしてこのように
   問いかけるかたちをとるのか。

 回答
   仏の本願にしても、仏の名号にしても、この穢土を離れるための正しい道であり、
   仏の衆生に対するあわれみのきわまりである。はっきり言わなくとも(明らかに)、
   如来の「出世の大事」はここにある。だから、問いかけるかたちをとるのである。

    徴・・・・問いただす

    出離・・・穢土を出で離れること

    大悲・・・仏の衆生に対するはあわれみ,同情(衆生済度の原動力)

    極際
      極・・・きわみ、きわまる
      際・・・きわ、ふち、さかい


>正しく文を引く中に、またその四あり。
>いわゆる『大経』と及び『如来会』と『平等覚経』と憬興師の釈となり。

 ここで正しく文を引用するにあたって、四つの文を引用している。
 いわゆる『大経』と『如来会』と『平等覚経』と憬興師の釈である。


>初に『大経』の中に、今の所引は序分の終の文なり。

>且く浄影に依らば、
>所引の上の「爾時世尊」より、下の「願楽欲聞」の句に至るまで、文を分かちて六と為す。

初めに『大経』について、ここで引用するところは、序分の終の文である。

まずは浄影によれば、
引用の初め「爾時世尊」から終りの「願楽欲聞」の句に至るまでを6つに分割する。

  浄影・・・慧遠(浄影寺)による『大乗起信論疏』2巻(浄影疏)のことか?


>彼の疏に云わく
>「五に爾時の下は正しく発起を明かす中に三双六重あり。
>  初に如来の現相、
>  次に尊者の下は阿難の請問、
>  三に於是の下は如来の審問、
>  四に阿難の下は阿難の実答、
>  五に仏言の下は如来の嘆許、
>  六に対曰の下は阿難の楽聞なり」已上。

  (1)如来の現相、
     そのときに世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔巍々とまします。

  (2)尊者〜(阿難の請問)
     尊者阿難、仏の聖旨を承けてすなはち座より起ちて、ひとへに右の肩を袒ぎ、
     長跪合掌して、仏にまうしてまうさく、「今日世尊、諸根悦予し、姿色清浄に
     して光顔巍々とましますこと、明浄なる鏡の影、表裏に暢るがごとし。威容顕
     曜にして超絶したまへること無量なり。いまだかつて瞻覩せず、殊妙なること
     今のごとくましますをば。やや、しかなり。大聖、われ心に念言すらく、今日
     世尊、奇特の法に住したまへり。今日世雄、仏の所住に住したまへり。今日世
     眼、導師の行に住したまへり。今日世英、最勝の道に住したまへり。今日天尊、
     如来の徳を行じたまへり。去・来・現の仏、仏と仏とあひ念じたまふ。いまの
     仏も諸仏を念じたまふことなきことを得んや。なにがゆゑぞ、威神光々たるこ
     といまし、しかるや」と。

  (3)於是〜(如来の審問)
     ここに世尊、阿難に告げてのたまはく、「いかんぞ阿難、諸天のなんぢを教へ
     て仏に来し問はしむるか。みづから慧見をもつて威顔を問へるか」と。

  (4)阿難〜(阿難の実答)
     阿難、仏にまうさく、「諸天の来りてわれを教ふるものあることなし。
     みづから所見をもつてこの義を問ひたてまつるのみ」と。

  (5)仏言〜(如来の嘆許)
     仏のたまはく、「善いかな阿難、問へるところはなはだ快し。深き智慧、真妙
     の弁才を発し、衆生を愍念せんとしてこの慧義を問へり。如来、無蓋の大悲を
     もつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、
     恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。無量億劫にも値ひがたく見たてま
     つりがたきこと、なほ霊瑞華の、時ありて、時にいまし出づるがごとし。

     いま問へるところは、饒益するところ多し。一切の諸天・人民を開化す。阿難、
     まさに知るべし。如来の正覚は、その智量りがたくして、〔衆生を〕導御する
     ところ多し。慧見無碍にして、よく遏絶することなし。

     一餐の力をもつて、よく寿命を住めたまふこと、億百千劫無数無量にして、また
     これよりも過ぎたまへり。諸根悦予してもつて毀損せず。姿色変ぜず、光顔異
     なることなし。ゆゑはいかん。如来は、定と慧と究暢したまへること極まりなし。
     一切の法において自在を得たまへり。阿難、あきらかに聴け、いまなんぢがため
     に説かん」と。

  (6)対曰〜(阿難の楽聞)
     対へてまうさく、「やや、しかなり。願楽して聞きたてまつらんと欲ふ」と。


>この科文の内に今の所引の文は、
>初の現相と並びに請問の座起等の儀を除きて、正発問の言以下はこれを引く。
>又下の如来嘆許の文の残りと、第六の阿難楽聞とは、これを略す。当要にあらざるが故に。

 ここの段落のなかの、この引用文は、初めの「如来の現相」と「阿難の請問」の座起等の
 儀礼の部分を除いて、正しい発問の言葉以下は引用している。また、下の如来嘆許の文の
 残りと、第六の「阿難の楽聞」とは、必要ないので省略している。

   座起等の儀・・・「座より起ちて、ひとへに右の肩を袒ぎ、長跪合掌して」


>初の現相を除くことは、
>「爾時世尊、諸根悦予、姿色清浄、光顔巍巍」は、
>下の阿難の請問に挙ぐる所の「今日世尊。乃至。巍巍」に同じ。この故にこれを除く。

 初めの「如来の現相」を除くのは、「爾時世尊、諸根悦予、姿色清浄、光顔巍巍」が、
 以下の阿難の請問に挙げるところの「今日世尊。乃至。巍巍」に同じだからである。


>また「座起」等は請問を致さんと欲する前方便なるが故に、その要にあらざるを除きて、
>正しき発問以下の文を引くのみ。

 また「座起」等は請問をしようとする前方便だから、その必要ないものを除いて、
 発問以下の文だけを引用しているのである。

●re.45
ボン
関東の男性
[ 1504 ] Re44:教行信証・学習ノート 2009/05/12 (Tue) 03:07 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
大無量寿経言。今日世尊諸根悦予。姿色清浄光顏巍巍。如明鏡浄影暢表裏。
威容顕曜超絶無量。未曽瞻覩殊妙如今。
--------------------------------------------------------------------------------
大無量寿経に言わく、今日世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、光顔魏魏とましますこと、
明らかなる鏡に、浄き影、表裏に暢〈とお〉るがごとし。威容顕曜にして、超絶したまえ
ること無量なり。未だかつて瞻覩せず、殊妙なること今のごとくましますをば。
--------------------------------------------------------------------------------

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

請問の文の中に「今日」というは、上の「爾時」を指す。義寂の云わく
「爾時とは、謂わく大衆已に集まり、如来は説かんと欲して、まず相を現じたまう時なり」。

「諸根」等とは、浄影の云わく
「眼等の五根、同じく喜相を現ずるを根悦予と名づく。姿色清浄は喜色を示現す。
色に惨戚なし。故に清浄という。光巍巍というは重ねて喜色を顕わす。
顔巍巍というは重ねて喜相を顕わす。巍巍とは、これはその高勝の貌なり」と已上。

憬興は大いに同じ。義寂の云わく
「眼等の諸根は熙然として舒泰なり。姿色清浄とは、姿容色像静かにして澄淵のごとし。
光顔巍巍とは、光輝顔貌厳然として観つべし。まさに奇特の法を宣説せんと欲す。
この故に、まず非常の相を現わすなり」已上。

「如明」等とは、浄影の云わく
「鏡の光、外に照らすを名づけて影表と為す。外照の光明にして鏡の内に顕わるるを
名づけて影裏と為す。仏身もかくの如し。光明は外に照らして施す所の光は仏身を
顕耀するを影表裏と名づく」と已上。

嘉祥の云わく「表裏とは、表はその形を語す。裏は心悦を明かす」と已上。

憬興の云わく
「鏡の光の外に照らすを名づけて影表と為す。即ち仏身の光明は外に舒びて影の表裏に
暢るに同じ。即ち己が所視を挙ぐるなり」と已上。

義寂の云わく「謂わく、明鏡の面の極めて浄なるが故に、艶釆の外に将て還りて自内に
映ずるが如し。如来の容色の耀すること此に同じ」と已上。

●re.46
ボン
関東の男性
[ 1505 ] Re45:教行信証・学習ノート 2009/05/12 (Tue) 03:08 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>大無量寿経に言わく、今日世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、光顔魏魏とましますこと、
>明らかなる鏡に、浄き影、表裏に暢〈とお〉るがごとし。威容顕曜にして、超絶したまえ
>ること無量なり。未だかつて瞻覩せず、殊妙なること今のごとくましますをば。
>--------------------------------------------------------------------------------

  大無量寿経では次のように述べている。今日の世尊は、全身に喜びが満ちあふれ、
  清らかなお姿で、光り輝く容貌がおごそかで威厳のあるのは、まるで、明らかな鏡に
  清浄な影が表裏に貫き通っているかのようです。堂々たる姿は光り輝き、他に比類の
  ないほど優れていることははかり知れません。いまだかつて、このように美しく優れた
  お姿を拝見したことがありません。

  魏魏・・・おごそかで威厳のあるさま

  顕曜
    顕・・・あきらか、ひかりかがやく
    曜・・・かがやく、てらす

  瞻覩(せんと)
    瞻・・・見あげる、あおぎみる
    覩・・・よく見る、見わける

  殊妙
    殊・・・異なる、分ける、特に、とりわけ
    妙・・・美しく良いこと、奥深いこと、優れる


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>請問の文の中に「今日」というは、上の「爾時」を指す。義寂の云わく
>「爾時とは、謂わく大衆已に集まり、如来は説かんと欲して、まず相を現じたまう時なり」

  請問(阿難の請問)の文の中で「今日」というのは、その前の文(如来の現相)の
  「爾時」と同じことを指している。義寂は次のように述べている。
  「爾時(そのとき)とは、大衆がここに集まり、如来が説法をしようとして、
  最初にすがたを現わした時、という意味である」

  義寂・・・新羅の僧(「無量寿疏」「無量寿経述義記」「法華経集験記」など)

  相・・・顔つき、すがた


>「諸根」等とは、浄影の云わく
>「眼等の五根、同じく喜相を現ずるを根悦予と名づく。姿色清浄は喜色を示現す。
>色に惨戚なし。故に清浄という。光巍巍というは重ねて喜色を顕わす。
>顔巍巍というは重ねて喜相を顕わす。巍巍とは、これはその高勝の貌なり」と已上。

  「諸根」等について、浄影では次のように述べている。
  「眼などの五根がすべて同じく喜びの相(すがた)を現わしている状態を『根悦予』と
  名づける。『姿色清浄』は喜色(うれしそうな顔つき)を示し現わす。見た目に
  ひどく悲しんだり、心を痛めている様子がない。だから、清浄という。光巍巍という
  のはさらに重ねて喜色(うれしそうな顔つき)を顕わしている。顔巍巍というはさらに
  重ねて喜相(うれしそうなすがた)を顕わしている。『巍巍』とは、その気高く優れた
  容貌を現している。」

  五根・・・眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・身(触覚)の感覚器官および機能。

  悦予・・・悦楽、満足
  予・・・・たのしむ、よろこぶ

  喜色・・・うれしそうな顔つき

  色・・・・物の表面に表れている状態、顔色、表情、様子、容姿

  惨戚
    惨・・・むごい、いたましい、ひどく悲しい
    戚・・・憂う、ひどく悲しむ、心を痛める

>憬興は大いに同じ。義寂の云わく
>「眼等の諸根は熙然として舒泰なり。姿色清浄とは、姿容色像静かにして澄淵のごとし。
>光顔巍巍とは、光輝顔貌厳然として観つべし。まさに奇特の法を宣説せんと欲す。
>この故に、まず非常の相を現わすなり」已上。

  憬興はだいたいこれに同じである。義寂は次のように述べている。
  「眼などの諸根はゆったりと落ち着いて安らかである。『姿色清浄』というのは、
  すがたかたちが静かに澄んだ淵(ふち)のようだということである。
  『光顔巍巍』とは、光り輝く顔(容貌)がおごそかにみえるということである。
  まさに今、不思議な効力のある法を述べてときあかそうとしている。だから、
  まず尋常ではない相(すがた)を現わしているのである」

  憬興・・・新羅の法相宗の僧(『無量寿経連義述文賛』など)

  熙然
    熙・・・ひかる、ゆったりする、たのしむ

  舒泰
    舒・・・ひろがる、ゆったりする、おちつく
    泰・・・なめらか、やすらか、平穏な、ゆるやか

  姿容・・・すがたかたち、容姿。
  色像・・・すがたかたち

  淵(ふち)・・・水の深いところ


>「如明」等とは、浄影の云わく
>「鏡の光、外に照らすを名づけて影表と為す。外照の光明にして鏡の内に顕わるるを
>名づけて影裏と為す。仏身もかくの如し。光明は外に照らして施す所の光は仏身を
>顕耀するを影表裏と名づく」と已上。

  「如明」等について、浄影は次のように述べている。
  「鏡の光が外に照らすのを影表(影のおもて)と名づける。外から照らす光明が鏡の
  内に顕われるのを影裏(影のうら)名づける。仏身もまた、このようなものである。
  光明が外に照らして(衆生に)施される光が、仏身を顕らかに輝かすのを『影表裏』
  と名づける」

  影・・・・水面や鏡などにうつるそのものの姿。そのものの形。

  顕耀
    顕・・・あきらか、ひかりかがやく
    耀・・・かがやく


>嘉祥の云わく「表裏とは、表はその形を語す。裏は心悦を明かす」と已上。

  嘉祥は次のように述べている。
  「表裏について、表はその形を物語り、裏は心の悦びを明示する」

  嘉祥(549-623)・・・名は吉蔵。会稽の嘉祥寺に住したので嘉祥大師と呼ばれる。
            三論宗を大成した。『観経義疏』『三論玄義』『大乗玄論』等

>憬興の云わく
>「鏡の光の外に照らすを名づけて影表と為す。即ち仏身の光明は外に舒びて影の表裏に
>暢るに同じ。即ち己が所視を挙ぐるなり」と已上。

  憬興は次のように述べている。
  「鏡の光が外に照らすのを影表と名づける。それは、仏身の光明が外に伸びて影の
  表裏に通るのと同じである。すなわち、自分が視る客体を取り上げているのである。」


>義寂の云わく「謂わく、明鏡の面の極めて浄なるが故に、艶釆の外に将て還りて自内に
>映ずるが如し。如来の容色の耀すること此に同じ」と已上。

  義寂は次のように述べている。
  「思うに、明るい鏡の面が極めて清浄であるために、艶釆の外にもって還って自らの
  内側に映るようなものである。如来の容色(みめかたち)が白く光り輝くことは、
  これと同じである」

  ≪艶釆外将還(艶釆の外に将て還りて)≫・・・ここは読解できませんでした

  艶釆
    艶・・・あでやか、色っぽい、つや
    釆・・・分ける、区別する
    采・・・すがた、かたち

  耀
    ・・・白い、白く光るさま
    耀・・・かがやく

●re.47
菩提心
非公開の非公開
[ 1506 ] Re46:教行信証・学習ノート 2009/05/12 (Tue) 11:51 △up ▽down
ボン様

ちょっと骨休み(勝手な書き込みお許し下さい)。

ここを楽しみに読んでいる人がいます。(ここにはまだ一度も書き込みしていない人です)

でも、ボン様がここにご登場下さったことを喜んでいます。

[光顏巍巍]

私も、興味有ります。

私には難しいですが、でも活字として残っているので時間が取れた時じっくり味わいたいと思います。

有難うございます。

南无阿彌陀佛

●re.48
ボン
関東の男性
[ 1507 ] Re47:教行信証・学習ノート 2009/05/12 (Tue) 21:11 △up ▽down
菩提心様、こんばんは。

書き込み、ありがとうございます。

楽しみに読んでいる方がおられることは、正直、うれしいです。

とても歯が立たないと思っていたものが、時間をかけて調べているうちに、
少しでも解る部分が出てくるのが、何よりうれしく思います。
たぶん、自分が一番楽しんでいるのだと思います

一方で、自分の理解しているところが間違っていないかと怖い気持ちもあります。
詳しくお解かりの方に、それでいいとか、間違っているとか、指摘していただければ
うれしくおもいます。

どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.49
ボン
関東の男性
[ 1508 ] Re48:教行信証・学習ノート 2009/05/17 (Sun) 02:31 △up ▽down
--------------------------------------------------------------------------------
唯然大聖。我心念言。今日世尊住奇特法。
今日世雄住仏所住。今日世眼住導師行。今日世英住最勝道。今日天尊行如来徳。
--------------------------------------------------------------------------------
ややしかなり。大聖、我が心に念言すらく、今日、世尊、奇特の法に住したまえり。
今日、世雄、仏の所住に住したまえり。今日、世眼、導師の行に住したまえり。
今日、世英、最勝の道に住したまえり。今日、天尊、如来の徳を行じたまえり。
--------------------------------------------------------------------------------

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「唯然」等とは、浄影の云わく
「唯はこれ専の義。己が専念を彰わす。乃至。然は謂わく爾なり。己が心中の所念の
実に爾ることを彰わす」已上。

義寂の云わく
「唯然大聖とは、所念を申ぶるなり。中に於いて、まず正しく申べ、後に比決す。乃至
。敬いて彼の旨を諾するなり。既に聖旨を蒙りて教ゆる所、これに従う。故に明らかに
然なり。我心念言とは、自の所念を申ぶるなり」已上。

「今曰世尊住奇特法」等とは、興は下に引くが如し。法位はこれに同じ。

浄影の意の云わく、
初の句はこれ総なり。仏所住の法は余人を超えたるが故に奇特法と名づく。
後の四はこれ別なり。この別の中に於いて、

初の句は自徳、即ちこれ涅槃なり。諸仏は同じく住するが故に仏住という。
世に於いて猛たり。故に世雄と名づく。

次の句は利他。謂わく四摂等なり。この行に住するが故に人を導きて正を見せしむ。
故に世眼と名づく。

第三の句は自徳。即ちこれ菩提なり。此に住して能く諸仏の徳を知る。
世に於いて英勝なり。故に世英と名づく。

第四の句はこれ利他の徳なり。いわゆる十力四無畏等なり。これを行じて物を度す。
五天の中の上なり。故に天尊と名づく。

  その五天とは、
    一には世天、世間の人王なり。
    二には生天、三界の諸天なり。
    三には浄天、四果の支仏なり。
    四には義天、菩薩は善能く空寂の義を解す。
    五には第一義天、仏は仏性不空の義を解するが故なり。

義寂の云わく

「略して五号を標す。五法に住すとは、顕揚等に、諸仏の功徳を説くに略して五種あり。
一には妙色、二には寂静、三には勝智、四には正行、五には威徳なり。乃至。

今日世尊住奇特法とは、即ちこれ第一妙色功徳なり。相好荘厳の、世に倫〈ともがら〉
なきが故に、即ちこの徳に由りて名づけて世尊と為す。

今日世雄住仏所住とは、これ即ち第二の寂静功徳なり。密かに根門を護りて永く惑習を抜く。
ただ仏のみ独りこの法に住することを得るが故に、即ちこの徳に由りて名づけて世雄と為す。

今日世眼住導師行とは、即ちこれ第三の勝智功徳なり。世・非世を知りて能く衆人を
導くが故に、即ちこの経に由りて名づけて世眼と為す。

今日世英住最勝道とは、即ちこれ第四の正行功徳なり。自他を利楽して、
行の最も勝導たるが故に、則ちこの徳に由りて名づけて世英と為す。

今日天尊行如来徳とは、即ちこれ第五の威徳功徳なり。
神通遊戯を如来徳と名づく。即ちこの徳に由りて名づけて天尊と為す」

と已上。

●re.50
ボン
関東の男性
[ 1509 ] Re49:教行信証・学習ノート 2009/05/17 (Sun) 02:37 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>--------------------------------------------------------------------------------
>ややしかなり。大聖、我が心に念言すらく、今日、世尊、奇特の法に住したまえり。
>今日、世雄、仏の所住に住したまえり。今日、世眼、導師の行に住したまえり。
>今日、世英、最勝の道に住したまえり。今日、天尊、如来の徳を行じたまえり。
>--------------------------------------------------------------------------------

  私はこう思います。大聖(釈尊への呼びかけ)、私が自分の心に思ったことを述べますと、
  今日、世尊は、「奇特の法」に住しておられます。今日、世雄は、「仏の所住」に住し
  ておられます。今日、世眼は、「導師の行」に住しておられます。今日、世英は、
  「最勝の道」に住しておられます。今日、天尊は、「如来の徳」を行じておられます。

  漢和辞典による
    念・・・おもう、心にかける
    言・・・いう、のべる
    住・・・すむ、とどまる、滞在する


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「唯然」等とは、浄影の云わく
>「唯はこれ専の義。己が専念を彰わす。乃至。然は謂わく爾なり。己が心中の所念の
>実に爾ることを彰わす」已上。

  「唯然(ややしかなり)」について、浄影は次のように述べている。
  「『唯(やや)』というのは、『専(単独に)』の意味である。それは、(以下に述べるこ
  とが)自分の単独の考えであることを表している。(中略)『然』は『爾(そのとおり)』
  であるといえる。それは、自分の心の中の考えが、実に『そのよう(以下のよう)』であ
  ることを表している。」

  漢和辞典による
    唯・・・ただひとり、それだけ
    専・・・もっぱら、いちずに、単独に、混じりけがない
    然・・・しかり、正しい、そうである、そのようである
    謂・・・告げる、語る、批評する、なづける、意味、趣旨、おもう
    爾・・・なんじ、それ、これ、そのとおり、そのように


>義寂の云わく
>「唯然大聖とは、所念を申ぶるなり。中に於いて、まず正しく申べ、後に比決す。乃至。
>敬いて彼の旨を諾するなり。既に聖旨を蒙りて教ゆる所、これに従う。故に明らかに
>然なり。我心念言とは、自の所念を申ぶるなり」已上。

  義寂は次のように述べている。
  「『唯然大聖(ややしかなり。大聖)』というのは、(自分の)考えを述べるものである。
  (述べるところの)中の部分で、まず正しく述べ、(述べるところの)後の部分では
  (ほかと)比べて(それを)定める。(中略)敬意を払ってその意図を受諾するのである。
  すでに、聖なる意図を身に受けて、教えるところに従う。だから、明らかに然(そのよう)
  なのである。『我心念言』とは、自らの考えを述べるということである。」

  漢和辞典による
    決・・・きめる、さだめる
    旨・・・うまい、よい、すばらしい、考え、意図、わけ
    諾・・・こたえる、返事のことば「はい」、承知する
    蒙・・・こうむる、身に受ける、


>「今曰世尊住奇特法」等とは、興は下に引くが如し。法位はこれに同じ。

  「今曰世尊住奇特法」について、その興(おもむき)は、以下に引用するとおりである。
  「法位」というのは、これ(住奇特法)と同じである。

  漢和辞典による
    興・・・おこす、始める、盛んになる、生じる、おもむき、たのしみ


>浄影の意の云わく、
>初の句はこれ総なり。仏所住の法は余人を超えたるが故に奇特法と名づく。
>後の四はこれ別なり。この別の中に於いて、

  浄影は次のように述べている。
  最初の句は、総(一般的な表現)である。
  あとの4つの句は、別(個別に、より立ち入った表現)である。
  この別の中で・・・

  総別(一般的なことと個別的なこと)
    総・・・全体に通じる一往の意味、一般的な意義
    別・・・総に含まれる特別な再往の意義、肝要の意義


>初の句は自徳、即ちこれ涅槃なり。諸仏は同じく住するが故に仏住という。
>世に於いて猛たり。故に世雄と名づく。

  最初の句(今日世雄住仏所住)は「自徳(自らの徳)」、すなわち、これは「涅槃」で
  ある。諸仏が同じく住するがために「仏住」という。世の中において強く勇ましい。
  だから「世雄」と名づける。

  漢和辞典による
    猛・・・勇ましい、強い、激しい

>次の句は利他。謂わく四摂等なり。この行に住するが故に人を導きて正を見せしむ。
>故に世眼と名づく。

  次の句(今日世眼住導師行)は「利他(他を利すること)」である。また「四摂」とも
  いう。この行(導師行)に住するために、人を導いて、正しいものを見せることがで
  きる。だから「世眼」と名づける。

  四摂・・・仏や菩薩等が、人々を仏道に導く四種の方法
   (1)布施−相手の好む物や法を施して親愛を感じせしめ、仏道に引き入れる
   (2)愛語−相手に物腰の柔らかい言葉をかけて親愛を感じせしめ、仏道に引き入れる
   (3)利行−相手に身口意の善行をもって利益し親愛を感じせしめ、仏道に引き入れる
   (4)同事−相手の機根に随い、その所行によって同化し、仏道に引き入れる


>第三の句は自徳。即ちこれ菩提なり。此に住して能く諸仏の徳を知る。
>世に於いて英勝なり。故に世英と名づく。

  第三の句(今日世英住最勝道)は「自徳(自らの徳)」。すなはち、これは「菩提」である。
  ここに住することで、諸仏の徳を知ることができる。世の中で「英勝(秀でて優れてい
  る)」である。だから、「世英」と名づける。

  漢和辞典による
    英・・・美しい、ひいでる、すぐれる
    勝・・・かつ、まさる、すぐれる


>第四の句はこれ利他の徳なり。いわゆる十力四無畏等なり。これを行じて物を度す。
>五天の中の上なり。故に天尊と名づく。

  第四の句(今日天尊行如来徳)は、「利他(他を利すること)」の徳である。それは、
  いわゆる「十力」や「四無畏」などのことである。これを行ずることによって、世の
  中のすべてのものを済度する。五天の中の上である。だから、「天尊」と名づける。

  漢和辞典による
    物・・・世の中にあるすべてのもの、万物、ことがら、ひと

  十力・・・仏が具えている十種の力
     (1)処非処智力・・・・・・・道理・非理を知る力
     (2)業異熟智力・・・・・・・業とその果報との因果関係を知る力
     (3)静慮解脱等持等至智力・・禅定や三昧を知る力
     (4)根上下智力・・・・・・・衆生の能力や性質の優劣を知る力
     (5)種種勝解智力・・・・・・衆生の意欲や望みをあきらかに知る力
     (6)種種界智力・・・・・・・衆生の本性を知る力
     (7)遍趣行智力・・・・・・・衆生の人・天等の諸世界に趣く行の因果を知る力
     (8)宿住随念智力・・・・・・自他の過去世のことを思い起す力
     (9)死生智力・・・・・・・・衆生の未来の生死・善悪の世界を知る力。
    (10)漏尽智力・・・・・・・・涅槃の境地と、それに到達するための手段を知る力

  四無畏(四無所畏)・・・仏が説法するにあたり畏れるところのない自信
    (1)正等覚無所畏・・・一切の法をさとっているとの自信
    (2)漏永尽無所畏・・・煩悩をすべて断じ尽したという自信
    (3)説障道無所畏・・・さとりをさまたげる法(煩悩のこと)を説いて畏れなき自信
    (4)説出道無所畏・・・さとりに入る正道を説いたという自信。


>  その五天とは、
>    一には世天、世間の人王なり。
>    二には生天、三界の諸天なり。
>    三には浄天、四果の支仏なり。
>    四には義天、菩薩は善能く空寂の義を解す。
>    五には第一義天、仏は仏性不空の義を解するが故なり。

    その五天とは、
      (1)世天・・・・・世間の人王
      (2)生天・・・・・(天界の神々)三界の諸天
      (3)浄天・・・・・(声聞・縁覚)四果の支仏
      (4)義天・・・・・(菩薩)菩薩は「空寂」の意味を理解することができる
      (5)第一義天・・・(仏のひとつ)仏は「仏性不空」の意味を理解するから

    世間の人王・・・この世の人間界を治める王???

    三界(三有)・・・衆生が生死流転する迷いの世界を三種に分類
      (1)欲界・・・地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上(六欲天)の六道から成る。
      (2)色界・・・浄妙な物質(色)から成り、欲を離れた清らかな世界。四禅天。
      (3)無色界・・物質を超えた精神の世界。四無色定を修めたものが生れる天界。
               (四無色定・・・無色界における四段階の瞑想)

    四果・・・小乗における悟りの証果の四段階(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)

    辟支仏・・・「縁覚」ともいう。仏の教えによらず各自に単独で覚ったもの。

    空・・・万物はすべて因縁によって起こる仮の相で、実体がないということ
    寂・・・煩悩を離れ、悟りに達すること。涅槃。

    仏性不空・・・仏性は、空ではなく、無量の徳用をもち、常住であること
              徳用・・・徳の働き
              常住・・・永遠不変

●re.51
ボン
関東の男性
[ 1510 ] Re50:教行信証・学習ノート 2009/05/17 (Sun) 08:16 △up ▽down
(つづき)

>義寂の云わく

  義寂は次のように述べている。

>「略して五号を標す。五法に住すとは、顕揚等に、諸仏の功徳を説くに略して五種あり。
>一には妙色、二には寂静、三には勝智、四には正行、五には威徳なり。乃至。

  「五つの呼び名について、大まかに示す。五つの法に住すというのは、諸仏の功徳を
  解説して世間に知らしめるに、大まかに五つの種類があるということである。
  一には妙色、二には寂静、三には勝智、四には正行、五には威徳である。(中略)

  漢和辞典による
    標・・・めじるし、しるす、しめす

  功徳・・・梵語グナの漢訳。善い行為(功)の結果として報いられた果報(徳)。

    顕揚・・・功績などをたたえて世間に広く知らせること。顕彰。

>今日世尊住奇特法とは、即ちこれ第一妙色功徳なり。相好荘厳の、世に倫〈ともがら〉
>なきが故に、即ちこの徳に由りて名づけて世尊と為す。

  『今日世尊住奇特法』とは、第一の『妙色』という功徳である。顔かたちに威厳が
  あって気高いことが、この世の中に匹敵するものがないことから、この徳に基づいて
  『世尊』と名付けるのである。

  国語辞典による
    相好・・・顔かたち。表情。
    荘厳・・・重々しく、威厳があって気高いこと

  漢和辞典による
    倫・・・たぐい、同類、匹敵する

>今日世雄住仏所住とは、これ即ち第二の寂静功徳なり。密かに根門を護りて永く惑習を抜く。
>ただ仏のみ独りこの法に住することを得るが故に、即ちこの徳に由りて名づけて世雄と為す。

  『今日世雄住仏所住』とは、第二の『寂静』という功徳である。密かに根(?)と門(法門)
  を護り、永遠に惑(煩悩)と習(習気)を抜き取る。ただ仏だけが独りこの法に住するこ
  とができることから、この徳に基づいて『世雄』と名付けるのである。

    ここで「根」をどのように理解したらよいのかわかりません。

    根・・・教えを受ける者の資質(認識・知覚を生ずる働き)
    門・・・法門、教えのこと
    惑・・・煩悩のこと
    習・・・習気のこと。煩悩の体が断ぜられても習慣性となって残る煩悩の気分のこと

>今日世眼住導師行とは、即ちこれ第三の勝智功徳なり。世・非世を知りて能く衆人を
>導くが故に、即ちこの経に由りて名づけて世眼と為す。

  『今日世眼住導師行』とは、第三の『勝智』という功徳である。この世とあの世を
  知り、多くの人々を導くことができるために、この経(?)に基づいて『世眼』と名付
  けるのである。

  世・非世
    世(世間)・・・世の中。煩悩(ぼんのう)に束縛されて存在しているもの。
    非世・・・・・世(世間)にあらざるもの(つまり、世間を超出した悟りの境界?)

  国語辞典による
    衆人・・・多くの人。大勢の人。

>今日世英住最勝道とは、即ちこれ第四の正行功徳なり。自他を利楽して、
>行の最も勝導たるが故に、則ちこの徳に由りて名づけて世英と為す。

  『今日世英住最勝道』とは、第四の『正行』という功徳である。自分や他人を利益し、
  安楽を与え、それが行の最も勝れた導きであることから、この徳に基づいて『世英』
  と名付けるのである。

  利楽・・・利益し安楽にさせること。救い、喜びを与えること。

>今日天尊行如来徳とは、即ちこれ第五の威徳功徳なり。
>神通遊戯を如来徳と名づく。即ちこの徳に由りて名づけて天尊と為す」

  『今日天尊行如来徳』とは、第五の『威徳』という功徳である。『神通遊戯』を
  『如来徳』と名ける。すなわち、この徳に基づいて『天尊』名付けるのである」

  神通遊戯(神通に遊戯する)・・・超人間的な力の中で自由自在にふるまうこと
    神通・・・超人間的で自由自在な不可思議な力のはたらき
    遊戯・・・仏、菩薩、また悟りの中にいる修行者が、自由自在にふるまうこと

>と已上。

●re.52
ボン
関東の男性
[ 1511 ] Re51:教行信証・学習ノート 2009/05/21 (Thu) 00:41 △up ▽down
------------------------------------------------------------------------------
去来現仏。仏仏相念。得無今仏念諸仏邪。何故威神光光乃爾。
------------------------------------------------------------------------------
去・来・現の仏、仏と仏とあい念じたまえり。今の仏も諸仏を念じたまうこと、
なきことを得んや。何がゆえぞ威神の光光いまし爾ると。
------------------------------------------------------------------------------

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「去来現仏仏仏」等とは、
浄影の云わく「去来現の下は仏の所為を念ず。諸の如来に勝れたり。これ所為なり。
仏仏相念は余を挙げてこれに類す。得無今仏念諸仏耶とは、これを測って余に因る。
耶とはこれはその不定の辞なり。理を以て測度するに、未だ敢えて専決せず。
この故に耶というなり」已上。

憬興はこれに同じ。寂の云わく
「謂わく三世の仏は更に互に所住の功徳を相念す。今の仏は諸仏を念ずることなきことを
得るやとは、謂わく今の世尊は必ず諸仏の徳を相念することあるなり。得無というは、
謂わく必ず有るなり。下に耶を置くが故に。即ち我が世尊釈迦牟尼仏は、弥陀法身浄土の
因果の功徳を念ず。旨を承けて相を覩るに必ず有ることを知るなり」。

「何故威神光光」等とは、浄影の云わく「宝積経に云わく、世尊今は大寂定に入りて
如来の徳を行ず。皆悉く円満して、よく大丈夫の行を建立したまえり。去来現在の諸仏を
思惟するに、世尊は何が故ぞこの念に住するや。已上。

この文に依りて、我今、仏仏の相念することを思惟するに、釈尊は何ぞ諸仏の現相を知り
たまわざらんや。然るに今、諸仏に超過してこの奇相を現じたもう。何の故あるや」と已上。

義寂の云わく「謂わく、もし仏仏相念したもうこと有ることなくんば、何が故ぞ威光乃し
かくの如きならんや」と已上。「光光」というは、同じき次下に云わく「表裏並びに耀くを
名づけて光光と為す」已上。

憬興の云わく「即ち顕曜の状なり。梵網の疏に云わく、光光とは盛なる義なり」と已上。

●re.53
ボン
関東の男性
[ 1512 ] Re52:教行信証・学習ノート 2009/05/21 (Thu) 00:45 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>去来現仏。仏仏相念。得無今仏念諸仏邪。何故威神光光乃爾。
>-----------------------------------------------------------------------------
>去・来・現の仏、仏と仏とあい念じたまえり。今の仏も諸仏を念じたまうこと、
>なきことを得んや。何がゆえぞ威神の光光たるいまし爾ると。
>-----------------------------------------------------------------------------

  過去・未来・現在の仏は、仏と仏とがお互いに念じあっている。今の仏(釈尊)も
  諸仏を念じておられることが、ないといえるだろうか。{そうでなかったら}どうし
  て神々しい威光の光り輝くことが、このようであるのだろう。

  威神・・・神々しい威光。絶対なる威力


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「去来現仏仏仏」等とは、
>浄影の云わく「去来現の下は仏の所為を念ず。諸の如来に勝れたり。これ所為なり。
>仏仏相念は余を挙げてこれに類す。得無今仏念諸仏耶とは、これを測って余に因る。
>耶とはこれはその不定の辞なり。理を以て測度するに、未だ敢えて専決せず。
>この故に耶というなり」已上。

  「去来現仏仏仏」について、「浄影」は次のように述べている。
  「『去来現』以下の記述は、仏(釈尊)の所為(おこない)を念頭に置いている。それは、
  もろもろの如来(のそれ)よりも勝れている。これは{まさに}所為(おこない)なのである。
  『仏仏相念(仏と仏とあい念じたまえり)』は、他の例を挙げてこれと比較している。
  『得無今仏念諸仏耶(今の仏も諸仏を念じたまうことなきことを得んや)』とは、
  他の例(過去・未来・現在の仏)によって、これ(釈尊のおこない)を推し測っている。
  『耶』とはそれが定まっていないことを表す言葉である。道理にそって推測すれば、
  いまだに敢えて、決め付けてはいないということである。だから『耶』と言うのである」

  漢和辞典による
    余・・・あまり、なごり、そのほかの
    類・・・たぐい、なかま、たぐえる、比較する
    理・・・おさめる、ただす、ととのえる、さばく、ことわり、道理
    度・・・ものさし、かぎり、きまり、すがた、わたる、わたす、考える


>憬興は、これに同じ。寂の云わく
>「謂わく三世の仏は更に互に所住の功徳を相念す。今の仏は諸仏を念ずることなきことを
>得るやとは、謂わく今の世尊は必ず諸仏の徳を相念することあるなり。得無というは、
>謂わく必ず有るなり。下に耶を置くが故に。即ち我が世尊釈迦牟尼仏は、弥陀法身浄土の
>因果の功徳を念ず。旨を承けて相を覩るに必ず有ることを知るなり」。

  「憬興」はこれ(「浄影」)と同じである。「寂(義寂)」は次のように述べている。
  「三世の仏は、更に、お互の住するところの功徳を相互に念じあっているわけである。
  『今の仏は、諸仏を念ずることなきことを得るや』とは、今の世尊は必ず諸仏の徳を
  相互に念じあっているに違いないということである。『得無』というは、{釈尊におい
  て仏仏相念が}必ず有るということである。なぜなら、文の最後に『耶』の字が付いて
  いるからである。すなわち、私たちの世尊である釈迦牟尼仏は、弥陀法身浄土の因果の
  功徳を念じているのである。{文の}趣旨をうけて、その相(かたち)をよく見れば、
  {釈尊において仏仏相念が}必ず有るということがわかるのである」。

  漢和辞典による
    謂・・・いう、告げる、なづける、わけ、意味、考える、思う
    住・・・すむ、とどまる、とまる、滞在する
    旨・・・うまい、よい、すばらしい、考え、意図、わけ
    承・・・うける、ささげもつ、うけつぐ、たすける
    相・・・たがい、ただす、よくみる、かたち、顔つき、すがた、たすける
    覩・・・よく見る、見わける

  仏の所住
    (1)仏が禅定において修す慈住、空住等の実践。
    (2)遍平等な仏の境地。普等三昧。大寂定。


>「何故威神光光」等とは、浄影の云わく「宝積経に云わく、世尊今は大寂定に入りて
>如来の徳を行ず。皆悉く円満して、よく大丈夫の行を建立したまえり。去来現在の諸仏を
>思惟するに、世尊は何が故ぞこの念に住するや。已上。この文に依りて、我今、仏仏の
>相念することを思惟するに、釈尊は何ぞ諸仏の現相を知りたまわざらんや。然るに今、
>諸仏に超過してこの奇相を現じたもう。何の故あるや」と已上。


  「何故威神光光」について、浄影は次のように述べている。
  「『宝積経』では次のように述べている。『世尊は今、大寂定に入って、如来の徳を
  行じている。すべてことごとく完全に成就して、大丈夫の行を建立なさることができ
  た。過去・未来・現在の諸仏を思うに、世尊はどういうわけでこの念に住するのだろ
  うか。』この文によって、私が今、仏仏の相念することを思うに、釈尊はどうして
  諸仏の実際のすがたをご存知ないといえるだろうか。それなのに今、諸仏に超過して
  このような世にも希なすぐれたすがたを現わされた。そこには、どういうわけがある
  のだろうか。」

  大寂定・・・・釈尊が『大経』を説くときに入られた禅定の境地。弥陀三昧という。
  弥陀三昧・・・念仏三昧の異名

  如来の徳・・・自利利他を円満(完全に実現)した徳

  円満・・・・悟り・智慧・往生・願いなどが完全に実現すること。成就すること。
  大丈夫・・・???
  思惟・・・・思いはからうこと。考えること。分別すること。思考。

  漢和辞典による
    建・・・たてる、定める、設ける
    立・・・たつ、たてる、樹立する、さだまる、存在する、
    円・・・まる、まるい、まるめる、完全な、そろっている
    満・・・みちる、みたす、すべての
    現・・・あらわれる、あらわす、いま、実際


>義寂の云わく「謂わく、もし仏仏相念したもうこと有ることなくんば、何が故ぞ威光乃し
>かくの如きならんや」と已上。「光光」というは、同じき次下に云わく「表裏並びに耀く
>を名づけて光光と為す」已上。

  義寂は次のように述べている。「謂わく、もし(釈尊が今)仏仏相念されておられない
  というのならば、どうしておごそかな光がこのようであるのだろうか」。また「光光」
  については、同じ義寂で次のように述べている。「表も裏もともに輝いている状態を
  『光光』と名付ける」

>憬興の云わく「即ち顕曜の状なり。梵網の疏に云わく、光光とは盛なる義なり」と已上。

  憬興は次のように述べている。「すなわち、それは光り輝く状態である。『梵網経菩
  薩戒本疏』では、『光光』とは盛(さかり)という意味であると述べている」

  梵網・・・・・「梵網経」
  梵網の疏・・・法蔵撰「梵網経菩薩戒本疏」

●re.54
酒天童子
関東の男性
[ 1513 ] Re53:教行信証・学習ノート 2009/05/21 (Thu) 21:58 △up ▽down
こんばんは、酒天童子です。

読むのが遅くて申し訳ありませんが、下記について、

>  然るに五門の中にこの回向の行は往生の後に出の功徳として大悲を成就して生死海を
>  度す。仏の本願力をその本とするが故に、功を仏に推〈ゆず〉れば、尅する所、ただ
>  仏の回向たり。

> しかし、五念門のなかの回向の行(回向門)は、(安楽浄土に)往生した後に、出の功徳として大悲を成就して、生死の海にさまよう衆生を済度することである。仏の本願力がその根本であるために、その功を仏にゆずれば、尅するところは、ただ仏の回向である。
>(「尅するところは」の意味がわかりません。どなたか教えて下さい。)

というところですが、自分なりの解釈を記します。

尅(こく)とは「相反する」「妨げる」のような意味があるのではないでしょうか?

そうすると「尅するところ」とは「相反するところ」ということになって、「その功を仏にゆずれば」とは仏の功徳を意味するわけですから、それは回向とは逆向きの方向になるわけですよね。

ですから、「仏の回向」は「仏の功徳」を回し向けるわけですから、こういう表現になるのではないかと思った次第です。

ちょっと感じたことをそのまま書きました。間違いがある可能性は多々あります。

ボン様

楽しく読ませていただいております。また、勉強になります。ありがとうございます。

よろしくお願いします。

南無阿弥陀佛

●re.55
ボン
関東の男性
[ 1514 ] Re54:教行信証・学習ノート 2009/05/23 (Sat) 02:01 △up ▽down
酒天童子様、こんばんは。

教えていただき、ありがとうございます。

>尅(こく)とは「相反する」「妨げる」のような意味があるのではないでしょうか?

私の持っているチャチな漢和辞典には、せいぜい「勝つ」「できる」「きびしい」くらい
に意味しか出ておりませんでしたので、ここは訳が解りませんでした。
これを「相反する」と考えると、意味がとおりそうな気がいたします。
ありがとうございます。

ごらんいただいている方はお解かりと思いますが、不明なところはほかにもまだ
たくさんございます。

ぜひ、みなさまに教えを請いたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.56
ボン
関東の男性
[ 1515 ] Re55:教行信証・学習ノート 2009/05/24 (Sun) 11:51 △up ▽down
----------------------------------------------------------------------------
於是世尊告阿難曰。諸天教汝来問仏邪。自以慧見問威顏乎。
阿難白仏。無有諸天来教我者。自以所見問斯義耳。
----------------------------------------------------------------------------
ここに世尊、阿難に告げて曰わく、諸天の汝を教えて来して仏に問わしむるや、
自ら慧見をもって威顔を問えるやと。阿難、仏に白さく、諸天の来りて我を教うる者、
あることなし。自ら所見をもって、この義を問いたてまつるのみと。
----------------------------------------------------------------------------

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「於是世尊」乃至「問斯義」とは、浄影の如きは、如来の審問、阿難の実答、
第三第四の両科の文なり。

義寂は名づけて審彼所問と云う。中に於いて二に分かつ。一には如来の審問、
二には阿難の奉答なり。分文は聊か異なれども、その意は大いに同じ。

寂の云わく「位は不定に居して、よく深義を問うが故に審問したもうなり。冥に聖旨を
承けて自らこの問を発す。更に諸天の我に教えて問わしむることなし。義意かくの如し。
煩わしく文を帖せず」已上。

五に如来嘆許の中にまた三。
  初には所問を嘆じ、
  二に「阿難当知」の下は請問に対す。
  三に「阿難諦聴」の下は勅聴許説を明かす。
    初の文にまた三。
       まず慧問を嘆じ、
       次に「如来」の下は仏出の難値を挙ぐ。
       三に「今所」の下は所問の益多きことを嘆ず。已上。


●re.57
ボン
関東の男性
[ 1516 ] Re56:教行信証・学習ノート 2009/05/24 (Sun) 12:43 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>----------------------------------------------------------------------------
>於是世尊告阿難曰。諸天教汝来問仏邪。自以慧見問威顏乎。
>阿難白仏。無有諸天来教我者。自以所見問斯義耳。
>----------------------------------------------------------------------------
>ここに世尊、阿難に告げて曰わく、諸天の汝を教えて来して仏に問わしむるや、
>自ら慧見をもって威顔を問えるやと。阿難、仏に白さく、諸天の来りて我を教うる者、
>あることなし。自ら所見をもって、この義を問いたてまつるのみと。
>----------------------------------------------------------------------------

  ここで世尊は阿難に次のように告げた。「諸天があなたに教えたから、あなたは私
  に質問をしたのですか。それとも、自らの知恵にもとづいて私の威顔について質問
  をしたのですか。」阿難は、仏(釈尊)に次のように言った。「諸天が来やってきて
  私に教えたのではありません。自らの考えで、このことをご質問申し上げただけです。」

  漢和辞典による
    教・・・しむ、させる(使役の助詞)
    来・・・くる、召す、招く、いたる
    慧・・・かしこい、知恵


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「於是世尊」乃至「問斯義」とは、浄影の如きは、如来の審問、阿難の実答、
>第三第四の両科の文なり。

  「於是世尊」から「問斯義」までは、浄影などによると、如来(釈尊)の問い、
  阿難の答え、つまり、(先に六分割したうちの)第三と第四のふたつの文である。

  審問・・・くわしく問いただすこと

  漢和辞典による
    如・・・似ている、のようだ、おなじ、及ぶ、いたる、どのような、あるいは
    実・・・みちる、富む、みたす、財産、みのる、まこと


>義寂は名づけて審彼所問と云う。中に於いて二に分かつ。一には如来の審問、
>二には阿難の奉答なり。分文は聊か異なれども、その意は大いに同じ。

  義寂は、それを名づけて「審彼所問」という。そして、それを二に分ける。
  一つには如来の問い、二つには阿難の答えである。分けられた文の内容は、
  いささか異なっているが、その意味はだいたい同じである。


>寂の云わく「位は不定に居して、よく深義を問うが故に審問したもうなり。冥に聖旨を
>承けて自らこの問を発す。更に諸天の我に教えて問わしむることなし。義意かくの如し。
>煩わしく文を帖せず」已上。

  寂(義寂)では次のように述べている。「位は不定であるのに、深い意義を質問した
  ために、(釈尊は阿難に)詳しく問いただしたのである。(阿難は)暗黙のうちに釈尊の
  意図をうけて、自らこの問いを発した。さらに、それは諸天に教えられて質問させら
  れたわけでもない。意味はこのようなものである。煩雑に文章を書きつけない。」

  漢和辞典による
    冥・・・くらがり、やみ、おろか、奥深い、遠い
    義・・・正しい、みち、つとめ、わけ、意味
    煩・・・わずらう、苦しむ、苦しめる、わずらはしい、煩雑
    帖・・・通知、書きつけ、おちつく


>五に如来嘆許の中にまた三。

>  初には所問を嘆じ、
>  二に「阿難当知」の下は請問に対す。
>  三に「阿難諦聴」の下は勅聴許説を明かす。

>    初の文にまた三。
>       まず慧問を嘆じ、
>       次に「如来」の下は仏出の難値を挙ぐ。
>       三に「今所」の下は所問の益多きことを嘆ず。已上。

  (この部分は、ここから先の文の区分け)

●re.58
ボン
関東の男性
[ 1517 ] Re57:教行信証・学習ノート 2009/05/27 (Wed) 01:06 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
仏言。善哉阿難。所問甚快。発深智慧真妙弁才。愍念衆生問斯慧義。
-----------------------------------------------------------------------------
仏の言わく、善きかな阿難、問えるところ甚だ快し。深き智慧、真妙の弁才を発して、
衆生を愍念せんとして、この慧義を問えり。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「善哉」等とは、義寂の云わく
「善哉阿難とはその人を美むるなり。所問甚快とはその問を嘆ずるなり」。

「発深」等とは、浄影の云わく
「発深智慧とはその問の智を嘆ず。さきに仏の五種の功徳を念ずるを発深智と名づく。
真妙弁才とは、その問辞を嘆ず。さきに仏の五徳に住することを嘆ずるを真妙弁と名づく。
実なるを弁ずるを真と名づく。言の巧なるを妙と称す。言よく弁了し、語よく才巧なるが
故に弁才という」と已上。

義寂の云わく
「智の聖旨にかなうが故に深し。弁の時機に当るが故に妙なり。智深く弁妙なり。
故に善哉なり」。

「愍念」等とは、浄影の云わく
「愍生問義とはその問の意を嘆ず。また名づけて問の所為を嘆ずと為すことを得るなり。
阿難はさきに仏の五徳を挙げて而も請問を為す。この五徳は慧を以て主と為れば問慧義と
名づく」と已上。

義寂の云わく
「所問はただ衆生を愍念することを存して名利を求めず。故に甚快なり」已上。

憬興の云わく
「仏の五号を称す。故に深智慧を発すという。五住の徳をもて五号の義を嘆ず。
故に真妙弁才なり」と已上。

●re.59
ボン
関東の男性
[ 1518 ] Re58:教行信証・学習ノート 2009/05/27 (Wed) 01:07 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>仏言。善哉阿難。所問甚快。発深智慧真妙弁才。愍念衆生問斯慧義。
>-----------------------------------------------------------------------------
>仏の言わく、善きかな阿難、問えるところ甚だ快し。深き智慧、真妙の弁才を発して、
>衆生を愍念せんとして、この慧義を問えり。
>-----------------------------------------------------------------------------

  仏はこう述べた。「素晴らしいですね、阿難。その問いかけは、たいへん快い。
  深い知恵とまことに優れた見極める能力を発揮し、また、衆生にあわれみをかけよ
  うとして、この深遠な意義について質問をしたのですね。」

  国語辞典による
    愍念・・・あわれむこと
    慧義・・・智慧によって知ることができる意義

  漢和辞典による
    愍・・・あわれむ、かわいそうに思う、うれえる、心配する
    弁・・・区別する、見わける、おさめる、とりさばく、言い争う
    才・・・資質、はたらき、能力
    慧・・・かしこい、知恵
    義・・・正しい、みち、つとめ、わけ、意味


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「善哉」等とは、義寂の云わく
>「善哉阿難とはその人を美むるなり。所問甚快とはその問を嘆ずるなり」。

  「善哉(善きか)」等について、義寂はこう述べる。
  「『善哉阿難(善きかな阿難)』とは、その人を褒めているのである。
  『所問甚快(問えるところ甚だ快し)』とは、その問いを賞賛しているのである。」

  漢和辞典による
    美・・・うまい、うつくしい、うるわしい、りっぱ、ほめる
    等・・・ひとしい、段階、順序、たぐい、はかる

>「発深」等とは、浄影の云わく
>「発深智慧とはその問の智を嘆ず。さきに仏の五種の功徳を念ずるを発深智と名づく。
>真妙弁才とは、その問辞を嘆ず。さきに仏の五徳に住することを嘆ずるを真妙弁と名づく。
>実なるを弁ずるを真と名づく。言の巧なるを妙と称す。言よく弁了し、語よく才巧なるが
>故に弁才という」と已上。

  「発深」等について、浄影はこう述べる。
  「『発深智慧(深き智慧を発する)』とは、その問いの知恵を賞賛している。以前に、
  仏の五種の功徳を念ずることを『発深智』と名づくけた。『真妙弁才』とは、その問い
  の言葉を賞賛している。以前に、仏の五徳に住することを賞賛することを『真妙弁』と
  名づけた。実なることを見わけることを『真』と名づける。言葉の巧みであることを
  『妙』と称する。言うことがものごとをよく見わけて理解できており、語ることによく
  資質が現れており巧みであるがために、それを『弁才』という」

  漢和辞典による
    智・・・ちえ、かしこい、はかりごと
    嘆・・・なげく、ほめる、賞賛する
    実・・・みちる、富む、みたす、財産、みのる、まこと
    真・・・まこと、真実、本来の、正しい
    妙・・・たえ、うつくしくよいこと、奥深いこと、すぐれる、たくみである
    了・・・おわる、さとる、理解する、あきらか
    巧・・・たくみ、技術、じょうずな、美しい

>義寂の云わく
>「智の聖旨にかなうが故に深し。弁の時機に当るが故に妙なり。智深く弁妙なり。
>故に善哉なり」。

  義寂はこう述べる。
  「知恵が仏の意図にかなうがために深い。見わけが時と機会に適しているがために
  妙(奥深く優れている)である。知恵が深く弁が妙である。だから『善哉(善きか)』と
  いうのである」

  国語辞典による
    時機・・・あることをするのに適したとき。しおどき。機会。チャンス。

>「愍念」等とは、浄影の云わく
>「『愍生問義』とはその問の意を嘆ず。また名づけて問の所為を嘆ずと為すことを得るなり。
>阿難はさきに仏の五徳を挙げて而も請問を為す。この五徳は慧を以て主と為れば問慧義と
>名づく」と已上。

  「愍念」等について、浄影はこう述べる。
  「『愍生問義』とは、その問いの意味を賞賛する。また『問いのなせる業を賞賛する』
  と言うこともできる。阿難は、さきに仏(釈尊)の五徳を列挙して、そうして、質問を
  行った。この五徳は『慧(知恵)』がその主な内容であるから、『問慧義』と名づける」

  「愍生問義」・・・「愍念衆生問斯慧義」を縮めたものか?

  国語辞典による
    所為・・・した事。仕業。
    請問・・・問い尋ねること。

  漢和辞典による
    意・・・気持ち、考え、意味、おもむき、予想する
    而・・・そして、しかし、しかるに、さらに、すなわち、そこで

>義寂の云わく
>「所問はただ衆生を愍念することを存して名利を求めず。故に甚快なり」已上。

  義寂はこう述べる。「(阿難の)『所問(問うところ)』は、ただ衆生をあわれむことを
  思い、名声や利益を求めていない。だから、はなはだ快いのである」

  存・・・みまう、なぐさめる、ある、生きながらえる、とっておく、思う


>憬興の云わく
>「仏の五号を称す。故に深智慧を発すという。五住の徳をもて五号の義を嘆ず。
>故に真妙弁才なり」と已上。

  憬興はこう述べる。
  「仏の五号(五つの名前)を称する。だから、深い知恵を現したという。五住の徳に
  よって、五号の意義を賞賛する。だから、まことに優れた見解なのである。」

●re.60
ボン
関東の男性
[ 1526 ] Re59:教行信証・学習ノート 2009/06/05 (Fri) 00:33 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
如来以無蓋大悲矜哀三界。所以出興於世。光闡道教。欲拯群萌恵以真実之利。
無量億劫難値難見。猶霊瑞華時時乃出。
-----------------------------------------------------------------------------
如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀す。世に出興する所以は、道教を光闡して、
群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲す。無量億劫にも値いがたく、
見たてまつりがたきこと、霊瑞華の時あって時にいまし出ずるがごとし。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「如来以無蓋大悲」等とは、浄影の云わく
「次に難値の中にまた二。初に法。次に猶霊の下は譬なり」と已上。

初の文の中に就いて、「無蓋大悲」とは、浄影の云わく
「仏悲殊勝にして上を蓋うこと能わざるを無蓋悲と名づく」と已上。

義寂の云わく
「無蓋というは、猶し無上のごとし。更に余の悲の、上を覆蓋することなきが故なり。
有る本には無尽と作す。義また爽〈たが〉うことなし」と已上。

憬興はこれに同じ。玄一師の意は尽を以て勝と為す。

「矜哀三界」とは、憬興の云わく「矜はまた憐なり」。

「矜」は『宋韻』に云わく
「拱陵の切。矛柄。一に曰わく、愍なり、荘なり、憐なり」。

「三界」というは、『倶舎論』の第十八の頌に曰わく
「地獄と傍生と鬼と人と及び六欲天とを欲界の二十と名づく。地獄と州との異に由る。
この上の十七処を色界と名づく。中に於いて三静慮に各の三、第四静慮に八あり。
無色界には処なし。生に由りて四種あり」已上。

『論註』の上に云わく
「三界とは、
  一にはこれ欲界、いわゆる六欲天と四天下と人と畜生と餓鬼と地獄等これなり。
  二にはこれ色界、いわゆる初禅と二禅と三禅と四禅との天等これなり。
  三にはこれ無色界、いわゆる空処と識処と無所有処と非想非非想処との天等これなり。
この三界は蓋しこれ生死の凡夫の流転の闇宅なり」と已上。

「光闡」等とは、
教法の人を利するを名づけて道教と為し、理を証して物を益するを以て真実と為す。
光は広なり。闡は暢なり。恵は施なり。諸師の意なり。

今、宗義に依るに、「道教」というは、光〈ひろ〉く一代を指す。益は五乗に亘る。
「真実利」とは、この名号を指す。即ちこれ仏智なり。

名号を指すとは、「流通文」に云わく
「それ、彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念することあらん。
まさに知るべし、この人を大利を得と為す。即ちこれ無上の功徳を具足するなり」と已上。

同経の文に仏の五智を説きて云わく
「疑惑を生ずる者をば大利を失すと為す」と已上。

信と疑とに就きて、その得失を説くに共に大利という。
名号を念ずるを以て説きて大利と為し、仏智を疑うを以て大利を失すと為す。
名号と仏智と全くこれ一法なり。
「序分」にこれを標して真実の利と説く。宜しくこれを思択すべし。

次に譬の中に就きて、浄影の云わく
「霊瑞華とは、梵には優曇波羅という。また優曇鉢樹という。

『法華文句』に云わく
「優曇華とは、此に霊瑞という。三千年に一たび現ず。現ずれば則ち金輪王出ず」と已上。
霊瑞の名は、これを以て知るべし。
この経の下に云わく「優曇鉢華の如し。希有にして遇い難きが故に」と已上。

『法華』の「第一方便品」に云わく
「かくの如きの妙法は、諸仏如来の時に乃しこれを説きたもう。
優曇鉢華の時に一たび現ずるがごとくならくのみ」と已上。

また「第八巻厳王品」に云わく
「仏は値うことを得ること難きことは、優曇波羅華の如し」と已上。

「時時」というは、憬興の云わく「希出の義なり。善時を以て出ずるが故に」と已上。

●re.61
ボン
関東の男性
[ 1527 ] Re60:教行信証・学習ノート 2009/06/05 (Fri) 00:37 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>如来以無蓋大悲矜哀三界。所以出興於世。光闡道教。欲拯群萌恵以真実之利。
>無量億劫難値難見。猶霊瑞華時時乃出。
>-----------------------------------------------------------------------------
>如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀す。世に出興する所以は、道教を光闡して、
>群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲す。無量億劫にも値いがたく、
>見たてまつりがたきこと、霊瑞華の時あって時にいまし出ずるがごとし。
>-----------------------------------------------------------------------------

  如来は、この上ない大悲をもって三界を深くあわれんでいる。この世に現れるわけは、
  仏道の教えを広く解き明かし、無数の衆生を救い、真実の利を恵み与えようと望んで
  いるからである。はかり知れない長い歳月のあいだにも出会うことが難しく、拝謁す
  ることが難しいのは、霊瑞華が機会あってまさに出現するときに出会えないのと同様
  である。

  国語辞典による
    無蓋・・・蓋(ふた)のないこと。おおう屋根のないこと。
    矜哀・・・深くあわれむこと。
    所以・・・ゆえん。いわれ。わけ。理由。
    道教・・・仏道の教え。
    光闡・・・教えを広く明らかに説き述べること。
    群萠・・・雑草のこと(雑草のように無数の生まれてくる衆生のたとえ)
    億劫・・・一劫の一億倍。非常に長い時間。

  漢和辞典による
    値・・・あう、あたう、遭遇する、かなう、一致する、相当する

  真実の利・・・・阿弥陀仏の名号によって得る利益のこと

  無蓋の大悲・・・いかなることにもおおい隠されることのない無上の大慈悲心。
          この上ない大慈悲心。

  霊瑞華(れいずいけ)
    梵語ウドゥンバラの漢訳。音写は優曇鉢羅(うどんばら)、優曇鉢華(うどんばけ)、
    優曇鉢樹(うどんばじゅ)。桑科のイチジクの一種で三千年に一度だけ咲く花という。
    仏の出世が稀なことや、めでたいことのおこる前兆を示す喩えに用いられる。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「如来以無蓋大悲」等とは、浄影の云わく
>「次に難値の中にまた二。初に法。次に猶霊の下は譬なり」と已上。

  「如来以無蓋大悲(如来、無蓋の大悲をもって)」等について、浄影はこう述べる。
  「次に『難値(値いがたい)』について、二つがある。ひとつは法であり、
  次に『猶霊』以下はたとえである。」


>初の文の中に就いて、「無蓋大悲」とは、浄影の云わく
>「仏悲殊勝にして上を蓋うこと能わざるを無蓋悲と名づく」と已上。

  はじめの文の中の「無蓋大悲」について、浄影はこう述べる。
  「仏の衆生を哀れむ心が特に優れていて上をおおううことができないことを
  『無蓋悲』と名づける」

  国語辞典による
    殊勝・・・特にすぐれていること


>義寂の云わく
>「無蓋というは、猶し無上のごとし。更に余の悲の、上を覆蓋することなきが故なり。
>有る本には無尽と作す。義また爽〈たが〉うことなし」と已上。

  義寂はこう述べる。
  「『無蓋』というは、あたかも『無上』のようである。さらに、ほかの(仏以外の)
  『悲』が、その上をおおうことないからである。ある本では、それを『無尽』として
  いる。その意味もまた、違っているわけではない。」

>憬興はこれに同じ。玄一師の意は尽を以て勝と為す。

  憬興はこれに同じである。玄一師の考えでは『尽』が『勝』であるとする。

  漢和辞典による
    尽・・・つきる、おわる、つくす、すっかり
    勝・・・かつ、まさる、たえる、こらえる、こぞって

  ※「玄一師」とは何かわかりません。
  ※「尽を以て勝と為す」とは、どういうことなのか解りません。

>「矜哀三界」とは、憬興の云わく「矜はまた憐なり」。

  「矜哀三界」について、憬興はこう述べる。「『矜』はまた『憐』である。」

  漢和辞典による
    矜・・・あわれむ、ほこる、つつしむ、うやまう、おごそか
    憐・・・あわれむ、かわいがる、けちけちする


>「矜」は『宋韻』に云わく
>「拱陵の切。矛柄。一に曰わく、愍なり、荘なり、憐なり」。

  「矜」は『宋韻』によると
  「音は『拱(kou)』の子音と『陵(ryou)』の母音を張り合わせたもの。矛柄。
  一に曰わく、『愍』なり、『荘』なり、『憐』なり」。

  漢和辞典による
    矛・・・ほこ
    柄・・・え、器物の取っ手、にぎる
    愍・・・あわれむ、かわいそうに思う、うれえる、心配する
    荘・・・草がしげるさま、おごそか、うやうやしい、つつしむ

  ※『宋韻』・・・『広韻』に同じか?
   『広韻』・・・宋代の『切韻』系の韻書。正式名称は『大宋重修廣韻』

  ※「矛柄」とは何かわかりません。
  ※「一に曰わく」の「一」が、なんなのかわかりません。


>「三界」というは、『倶舎論』の第十八の頌に曰わく
>「地獄と傍生と鬼と人と及び六欲天とを欲界の二十と名づく。地獄と州との異に由る。
>この上の十七処を色界と名づく。中に於いて三静慮に各の三、第四静慮に八あり。
>無色界には処なし。生に由りて四種あり」已上。

  「三界」について、『倶舎論』の第十八の頌(偈)ではこう述べる。

   「地獄、傍生(畜生)、鬼、人、六欲天を欲界の二十と名づく。
    これは地獄から州(四州)までの間の違いによるものである。

    この上の十七の『処』を色界と名づける。そのなかで(色界の四禅のなかで)、
    下位の三静慮(三禅)にそれぞれ三、第四静慮(第四禅)に八がある。

    無色界には『処』がない。『生』によって四種がある」


  ※ここで『処』とか『生』などと言っていることがよくわかりません。
  ※無色界には『処』がないといいながら、あとで、無色界が、空処、識処、無所有処、
   非想非非想処などからなるというのは、矛盾しているように思われる。


  『倶舎論』・・・天親菩薩『阿毘達磨倶舎論』三十巻

  頌・・・梵語ガーターの意訳。偈ともいい、韻文体の詩句をさす。

  六欲天・・・天のうち、いまだ欲望に捉われる6つの天界
        四王天・とう利天・夜摩天・兜率天・化楽天・他化自在天

  四州・・・・仏 須弥山を取り巻く九山八海の最も外側にある四大陸。
        南瞻部洲(または閻浮提)・東勝身洲・西牛貨洲・北倶盧洲

  色界・・・・梵語ルーパ・ダーツの漢訳。三界の一。
        初禅天・第二禅天・第三禅天・第四禅天の四禅天に大別される。
        欲望のよごれを離れ、清らかな物質から成り立つ境界。
        ただし形へのとらわれがある。

  静慮・・・・禅に同じ

  無色界・・・天部の最高部に位置し三界の一つである。欲望も物質的条件も超越し、
        ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定に住している世界。
        4つの禅定があるので四禅定という。


  国語辞典による
    傍生・・・横になって生きるもの。すなわち、畜生。
    静慮・・・心を落ち着けて静かにおもいをめぐらすこと。

  漢和辞典による
    州・・・水に囲まれて陸地、しま、行政上の区画、あつまる、住む
    処・・・いる、とどまる、住む、おちつく、中止する、定める、ところ、とき
    異・・・ことなる、別々にする、分ける、珍しい、すぐれた、不思議な


>『論註』の上に云わく
>「三界とは、
>  一にはこれ欲界、いわゆる六欲天と四天下と人と畜生と餓鬼と地獄等これなり。
>  二にはこれ色界、いわゆる初禅と二禅と三禅と四禅との天等これなり。
>  三にはこれ無色界、いわゆる空処と識処と無所有処と非想非非想処との天等これなり。
>この三界は蓋しこれ生死の凡夫の流転の闇宅なり」と已上。

  三界(『論註』による)・・・生死の凡夫の流転の闇宅
    (1)欲界・・・・六欲天、四天下、人、畜生、餓鬼、地獄
    (2)色界・・・・天(初禅、二禅、三禅、四禅)
    (3)無色界・・・天(空処、識処、無所有処、非想非非想処)

  四天下・・・四州に同じ

●re.62
ボン
関東の男性
[ 1528 ] Re61:教行信証・学習ノート 2009/06/05 (Fri) 00:39 △up ▽down
(つづき)

>「光闡」等とは、
>教法の人を利するを名づけて道教と為し、理を証して物を益するを以て真実と為す。
>光は広なり。闡は暢なり。恵は施なり。諸師の意なり。

  「光闡」等とは、
  教法が人に利益をあたえることを「道教」といい、道理を明らかにして世の中にある
  すべてのものに利益をあたえることを「真実」とする。「光」は広(ひろい)である。
  「闡」は暢(ゆきわたる)である。「恵」は施(めぐみあたえる)である。
  もろもろの導師の意味である。

  「諸師の意なり」の意味がよくわかりません。

  漢和辞典による
    利・・・するどい、よい、すばやい、利益、もうける、めぐむ
    理・・・おさめる、ただす、ことわり、道理、すじみち
    証・・・いさめる、あかす、正しいことを明らかにする
    物・・・世の中にあるすべてのもの、万物、ことがら、ひと
    広・・・ひろい、ひろめる、ひろげる
    闡・・・ひらく、はじめる、明らかにする
    暢・・・のべる、のびる、のどかになる、達する、ゆきわたる
    施・・・ほどこす、おこなう、めぐみあたえる
    諸・・・もろもろ、おおく、
    師・・・軍隊、おおぜいの人、人を教え導く人

>今、宗義に依るに、「道教」というは、光〈ひろ〉く一代を指す。益は五乗に亘る。
>「真実利」とは、この名号を指す。即ちこれ仏智なり。

  今、宗義によると、「道教」というのは、ひろく釈尊一代の教法を指す。その益は
  五乗にいたる。「真実利」とは、この名号を指す。すなわち、これは仏智である。

  一代・・・「釈尊一代の教法」(釈尊が一生の間に説いた教法)のことか?

  五乗・・・人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗
       五種類の教え、あるいはその教えによって区別されている人。

  国語辞典による
    宗義・・・その宗派の根本となる教義

>名号を指すとは、「流通文」に云わく
>「それ、彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念することあらん。
>まさに知るべし、この人を大利を得と為す。即ちこれ無上の功徳を具足するなり」と已上。

  「名号を指す」ということについて、「流通文」ではこう述べる。
  「さて、彼の仏の名号を聞くことができて、躍り上がるほどに喜んで(中略)一念する
  ことがあるとしよう。まさに知るべきなのは、このことである。この人を、大利を得る
  ものとする。すなわち、この上ない功徳を身に備えるのである。」

  国語辞典による
    乃至・・・中間を省略することを示す語
    具足・・・身に備えていること。所有すること。

  ※おおよそすべての経典は序分、正宗分、流通分にわけられる。
  ※ここでいう「流通文」とは大教の流通分のことと思われる。

>同経の文に仏の五智を説きて云わく
>「疑惑を生ずる者をば大利を失すと為す」と已上。

  同じ経(大経)の文に、仏の五智を説いてこういう。
  「疑惑を生ずる者は、大利を失う」


>信と疑とに就きて、その得失を説くに共に大利という。
>名号を念ずるを以て説きて大利と為し、仏智を疑うを以て大利を失すと為す。
>名号と仏智と全くこれ一法なり。
>「序分」にこれを標して真実の利と説く。宜しくこれを思択すべし。

  信と疑について、その得失を説くにあたって、ともに大利という。
  名号を念ずるをもって大利と説き、仏智を疑うをもって大利を失すとする。
  名号と仏智とは、まったく同じ一つの法である。
  (大経の)「序分」では、これ(名号と仏智)をしめして「真実の利」と説いている。
  このことを十分に考えて見なければならない。

  漢和辞典による
    標・・・めじるし、しるす、しめす

  国語辞典による
    思択・・・深く思いをめぐらすこと。十分に考えること。


>次に譬の中に就きて、浄影の云わく
>「霊瑞華とは、梵には優曇波羅という。また優曇鉢樹という。

  次にたとえの部分について、浄影ではこう述べている。
  「『霊瑞華』とは、梵語では『優曇波羅』という。また『優曇鉢樹』ともいう。」


>『法華文句』に云わく
>「優曇華とは、此に霊瑞という。三千年に一たび現ず。現ずれば則ち金輪王出ず」と已上。
>霊瑞の名は、これを以て知るべし。
>この経の下に云わく「優曇鉢華の如し。希有にして遇い難きが故に」と已上。

  『法華文句』ではこう述べている。
  「『優曇華』は、不思議なめでたいしるしといわれる。三千年に一度現れる。それが
  現れれば、金輪王が出現する。」「霊瑞」については、これによって知るべきである。
  この経(『法華文句』)の下ではこう述べている。
  「優曇鉢華のようである。たいへん珍しく、出会うことが難しいから。」

  国語辞典による
    金輪王・・・転輪王の一。転輪王のうち最後に出現し、金の輪法を感得して
          四州全体を治めるとされる聖王。金輪聖王。金輪。

    霊瑞・・・・不思議なめでたいしるし。祥瑞。


>『法華』の「第一方便品」に云わく
>「かくの如きの妙法は、諸仏如来の時に乃しこれを説きたもう。
>優曇鉢華の時に一たび現ずるがごとくならくのみ」と已上。
>また「第八巻厳王品」に云わく
>「仏は値うことを得ること難きことは、優曇波羅華の如し」と已上。
>「時時」というは、憬興の云わく「希出の義なり。善時を以て出ずるが故に」と已上。

  『法華経』の「第一方便品」ではこう述べている。
  「このような奥深く優れた法は、諸仏如来が、必要な機会にお説きになる。
  それはただ、優曇鉢華が必要な時に一度現れるようなものである。」
  また『法華経』の「第八巻厳王品」ではこう述べている。
  「仏に出会うことことが難しいのは、優曇波羅華に会うのが難しいようなものである」
  「時時」について、憬興ではこう述べている。
  「希に出現することの意味である。適切な時期に出現するから。」

  漢和辞典による
    妙・・・たえ、うつくしくよいこと、奥深いこと、すぐれる、たくみである
    時・・・時間、そのとき、よい機会、ときどき
    乃・・・すなわち、そこで、やっと、かえって、つまり、なんじ、あなた
    説・・・とく、話す、解釈する、論議する、告げる、さとす
    善・・・よい、正しい、うつくしい、すぐれている

●re.63
ボン
関東の男性
[ 1550 ] Re62:教行信証・学習ノート 2009/07/04 (Sat) 02:35 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
今所問者多所饒益。開化一切諸天人民。阿難當知。如来正覚其智難量。多所導御。
慧見無礙無能遏絶。已上。
-----------------------------------------------------------------------------
今問えるところは饒益するところ多し。一切諸天・人民を開化す。
阿難、当に知るべし、如来の正覚はその智量りがたくして、導御したまうところ多し。
慧見無碍にして、よく遏絶することなしと。已上。
-----------------------------------------------------------------------------

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「今所問」の下、「天人民」に至るまでは、仏の所問の益多きことを嘆ずる文なり。

「阿難」等とは、浄影の云わく
「二に請問に対する中にまた二。初に請問を述成し、次に所以の下は因を挙げて果徳を結
す。初の文にまた二。先ず阿難の所問を述べ、次に以一の下は阿難の所見を述ぶ」と已上。

初にまず阿難の所問を述ぶるに就きて、相対するに異あり。

浄影の云わく「如来等とは、これに五句あり。初の一句は総、後の四句は別なり。
これ則ち前の五徳を述成す。謂わく如来覚は前の奇特を述す。正覚は即ちこれ仏の所得
なるが故に。其智難量は、前の仏住を述す。仏智は能く涅槃の理を証するが故に。
多所導御は前の導師を述す。四摂等を以て衆生を導くが故に。慧見無礙は如来の徳を述す。
如来の徳はみな慧を主とするが故に。無能遏絶は最勝道を述す。菩提の勝れたるが故に。
他人の為に止抑せられざるが故に」と已上。

憬興はこれに同じ。ただ少異あり。第四と第五と相翻する、これなり。

問う。
今の所引の文は、一科の文に於いて何ぞ初後を除くや。その初を除くとは、且く浄影の
三双六重の解釈の中に依るに、最初の如来現相の文これなり。その終を除くとは、
如来嘆許の三の文段の中に、二に所問を対する内に、また二を分つ中に、初に請問を
述成する内、まず阿難の所問を述す。今の所引はこの文に至る。次に所見を述する
以下の文、重重の子段と乃至、第六の阿難楽聞の句等はこれを除く。何の意かあるや。

答う。
かくの如きの引文は、その当用に就きてこれを引くばかりなり。一科の始終を何ぞ
強ちに悉く引かん。その初を除く意は、如来の現相は既に阿難の請問の詞に在り。
彼の現相を以て請問の言を載す。彼此の相は別にあらざるが故なり。その終を除く意は
今の要にあらざるが故に。

問う。
今引用する所の、その要は如何。

答う。
出世の大事たる旨を述して、この『大経』は真実の教たることを成ず。これその要なり。

問う。
大事の因縁は、文は『法華』に在り。今の経に更に本懐の言なし。何ぞその義を成ぜん。

答う。
その出世本懐の義を論ずるに略して二の意あり。
一には教の権実に約す。三乗はこれ権なり。一乗はこれ実なり。故に一乗を以て説きて
本懐と為す。これ『法華』の意なり。

二には機の利鈍に約す。
『般舟讃』に云わく
「根性利なる者はみな益を蒙る。鈍根無智なるは開悟しがたし」と已上。

『玄義』に云わく
「諸仏の大悲は苦者に於いてす。心偏に常没の衆生を愍念したもう。これを以て勧て浄土
に帰せしむ。また水に溺れたる人の如きは急に須く偏えに救うべし。岸上の者をば何ぞ用い
てか済うことをせん」と已上。

『観念法門』に云わく
「釈迦の出現は五濁の凡夫を度せんが為なり。則ち慈悲を以て十悪の因は三途の苦を報果
することを開示し、また平等の智慧を以て人天回して弥陀仏国に生ずることを悟入せしむ」
と已上。

大悲の本懐は、ただ障重根鈍常没の衆生を済度するに在り。しかるに利根は少く、鈍根の者
は多し。故に知りぬ、諸教の出離はこれ少く、浄土の得脱はその機これ多しということを。
この道理に依れば、施する所の利益は諸教に超過せり。浄土の教門は、あに本懐にあらずや。
故に『大経』に云わく「如来の智慧海は深広にして涯底なし」と已上。蓋しこの意なり。
慈悲深重にして悪機を救度す。故に説きて深と為す。利益広大にして普く群機に被らしむ。
故に説きて広と為す。

●re.64
ボン
関東の男性
[ 1551 ] Re63:教行信証・学習ノート 2009/07/04 (Sat) 02:41 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>今所問者多所饒益。開化一切諸天人民。阿難當知。如来正覚其智難量。多所導御。
>慧見無礙無能遏絶。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------
>今問えるところは饒益するところ多し。一切諸天・人民を開化す。
>阿難、当に知るべし、如来の正覚はその智量りがたくして、導御したまうところ多し。
>慧見無碍にして、よく遏絶することなしと。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------

  いま質問した内容は、他の者を利益するところが多い。すべての天上界や人間界の
  住人を啓発して生まれ変わらせるものである。阿難よ、まさに知らなければならな
  いのは次のことである。如来の正しい悟りについて、その智恵の深さは計り知れず、
  衆生を導き制御するところが多い。その素晴らしい知恵は、妨げることができず、
  また、それをさえぎって留めることもできない。

  国語辞典より
    饒益・・・他を利益すること。
    利益・・・仏神の慈悲や人々の善行・祈念が原因となって生ずる恩恵や幸福。
    諸天・・・もろもろの天上界。また、天上界の神仏たち。
    遏絶・・・さえぎりとどめること。
    正覚・・・仏の正しい悟り。最高の悟りの境地。
    導御・・・?

  漢和辞典より
    開・・・ひらく、通す、ひろげる、はじめる、花が咲く、啓発する、さとす
    化・・・かわる、ばける、ばかす、姿を変える、なりかわる、生まれる
    導・・・みちびく、案内する、教える
    御・・・馬車をあやつる、おさめる、制御する、統治する


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「今所問」の下、「天人民」に至るまでは、仏の所問の益多きことを嘆ずる文なり。

  「今所問」から「天人民」まで(今問えるところは饒益するところ多し。一切諸天・
  人民を開化す。)は、仏の問うところの益が多いことを賞賛する文章である。

>「阿難」等とは、浄影の云わく
>「二に請問に対する中にまた二。初に請問を述成し、次に所以の下は因を挙げて果徳を結
>す。初の文にまた二。先ず阿難の所問を述べ、次に以一の下は阿難の所見を述ぶ」と已上。

  「阿難」等について、浄影ではこう述べる。
  「第二区分で阿難が問いたずねるところを更に二つに分けることができる。はじめに
  問いを述べて、次に『所以』の下は因を挙げて果徳を結す。また、はじめの文章を更
  に二つに分けられる。まず阿難の問いを述べて、次に『以一』の下は阿難の意見を述
  べている」

   ※ここでいう『所以』や『以一』などが、どこの部分を指しているのか解りません。

    述・・・のべる、言う、説明する、したがう
    成・・・なる、きまる、みのる、しあげる


>初にまず阿難の所問を述ぶるに就きて、相対するに異あり。

  はじめにまず阿難の質問を述べるについて、相対するに異なる見方がある。


>浄影の云わく「如来等とは、これに五句あり。初の一句は総、後の四句は別なり。
>これ則ち前の五徳を述成す。謂わく如来覚は前の奇特を述す。正覚は即ちこれ仏の所得
>なるが故に。其智難量は、前の仏住を述す。仏智は能く涅槃の理を証するが故に。
>多所導御は前の導師を述す。四摂等を以て衆生を導くが故に。慧見無礙は如来の徳を述す。
>如来の徳はみな慧を主とするが故に。無能遏絶は最勝道を述す。菩提の勝れたるが故に。
>他人の為に止抑せられざるが故に」と已上。

  浄影ではこう述べる。
  「如来以下(如来正覚 其智難量 多所導御 慧見無礙 無能遏絶)は、五つの句に分け
  られる。はじめの一句は全般的な意味を現し、後の四句は個別的な意味を現わす。
  これはすなわち、前にふれた五つの徳を述べたものである。つまり、
  『如来覚』は前の『奇特』を述す。正覚は、仏の得るところであるから。
  『其智難量』は『仏住』について述べている。仏智は涅槃の道理を明らかにすること
          ができるから。
  『多所導御』は『導師』について述べている。四摂などによって衆生を導くから。
  『慧見無礙』は『如来の徳』について述べている。如来の徳はみな知恵を主のものと
          するから。
  『無能遏絶』は『最勝道』について述べている。菩提が勝れているから。また、
          他人が止めて抑えらることができないから。」

  総別
    「総」・・・全体に通じる一往の意味、一般的な意義
    「別」・・・総に含まれる特別な再往の意義、肝要の意義。個別的なこと。

  前にふれた五つの徳
    今日、世尊、奇特の法に住したまえり。
    今日、世雄、仏の所住に住したまえり。
    今日、世眼、導師の行に住したまえり。
    今日、世英、最勝の道に住したまえり。
    今日、天尊、如来の徳を行じたまえり。

  四摂・・・仏や菩薩等が、人々を仏道に導く四種の方法
   (1)布施−相手の好む物や法を施して親愛を感じせしめ、仏道に引き入れる
   (2)愛語−相手に物腰の柔らかい言葉をかけて親愛を感じせしめ、仏道に引き入れる
   (3)利行−相手に身口意の善行をもって利益し親愛を感じせしめ、仏道に引き入れる
   (4)同事−相手の機根に随い、その所行によって同化し、仏道に引き入れる

  漢和辞典による
    理・・・おさめる、ただす、ことわり、道理、すじみち
    証・・・いさめる、あかす、正しいことを明らかにする
    慧・・・かしこい、知恵


>憬興はこれに同じ。ただ少異あり。第四と第五と相翻する、これなり。

  憬興はこれと同じであるが、少し違うところもある。第四と第五が互いにひっくり
  返っているのがそれである。

  漢和辞典による
    相・・・たがいに、ただす、ことなる、よくみる、顔つき、すがた
    翻・・・飛ぶ、ひるがえる、ひっくりかえす、逆に

>問う。
>今の所引の文は、一科の文に於いて何ぞ初後を除くや。その初を除くとは、且く浄影の
>三双六重の解釈の中に依るに、最初の如来現相の文これなり。その終を除くとは、
>如来嘆許の三の文段の中に、二に所問を対する内に、また二を分つ中に、初に請問を
>述成する内、まず阿難の所問を述す。今の所引はこの文に至る。次に所見を述する
>以下の文、重重の子段と乃至、第六の阿難楽聞の句等はこれを除く。何の意かあるや。

  問う。
  いまの引用文のなかで、一科の文(『大無量寿経』の引用)において、どうして
  最初と最後を除くのだろうか。最初を除くというのは、浄影による「三双六重」の
  解釈によると、最初の「如来現相」の文を除くということである。その最後を除く
  というのは、『如来嘆許』の三つの段落分けのなかの二番目で、阿難の質問に応対
  する部分をさらに二つ分けて、はじめに請問について述べるなかで、まず阿難の
  質問について述べている。ここでの引用はこの文にいたるまでとなっている。
  その次に所見を述べる以下の文、重重の子段と、第六段の「阿難の楽聞」の句など
  は除かれている。ここにはどんな意味があるのか。

  「重重の子段」とは、どういうことなのか、さっぱりわかりません。

  教巻の区分けについて
   一科・・・『大無量寿経』の引用
   二科・・・『無量寿如来会』と『平等覚経』の引用・・・『大無量寿経』の補足
   三科・・・憬興師『述文讃』(『大経』の註疏)・・・・『大無量寿経』の補足

  三双六重(大経の引用部分は以下の6段落に分けられる)
    (1)如来の現相・・・はじめから
    (2)阿難の請問・・・「尊者」以下
    (3)如来の審問・・・「於是」以下
    (4)阿難の実答・・・「阿難」以下
    (5)如来の嘆許・・・「仏言」以下
    (6)阿難の楽聞・・・「対曰」以下


>答う。
>かくの如きの引文は、その当用に就きてこれを引くばかりなり。一科の始終を何ぞ
>強ちに悉く引かん。その初を除く意は、如来の現相は既に阿難の請問の詞に在り。
>彼の現相を以て請問の言を載す。彼此の相は別にあらざるが故なり。その終を除く
>意は今の要にあらざるが故に。

  答える。
  このような引用文は、さしあたって必要なことについて引用するだけである。一科の
  初めから終りまでを、どうして一概にすべて引用することがあろうか。その初めを除
  く意図は、「如来の現相」がすでに「阿難の請問」のことばの中に存在しているとい
  うことである。その現相によって、請問のことばが飾られているのである。それとこ
  れの相は別のものではないからである。その終りを除く意図は、ここでの要点ではな
  いからである。

  国語辞典より
    当用・・・さしあたって用いること。さしあたっての用事。当面の必要。
    強ち・・・一概に。まんざら。必ずしも。

  漢和辞典より
    載・・・車に乗る、上になる、いただく、置く、重ねる、積む、なす、かざる

>問う。
>今引用する所の、その要は如何。

  問う。
  ここの引用の要点はなにか。

>答う。
>出世の大事たる旨を述して、この『大経』は真実の教たることを成ず。これその要なり。

  答える。
  如来がこの世に出現することの大事な意図を述べて、この『大経』が真実の教えであ
  ることをあらわす。これがその要点である。

  国語辞典より
    出世・・・諸仏が衆生救済のためにこの世界に姿を現すこと。

  漢和辞典より
    旨・・・うまい、よい、考え、意図、わけ
    成・・・なる、できあがる、きまる、みのる、しあげる

●re.65
ボン
関東の男性
[ 1552 ] Re64:教行信証・学習ノート 2009/07/04 (Sat) 09:50 △up ▽down
(つづき)

>問う。
>大事の因縁は、文は『法華』に在り。今の経に更に本懐の言なし。何ぞその義を成ぜん。

  問う。
  如来出世の大事のいわれについては、『法華』に記述がある。今の経(大経)のなかで
  ことさらに、出世の本意について言及していない。どうして、ここにその出世の本意の
  意義があるとしようとするのだろうか。

  国語辞典より
    因縁・・・結果をもたらす直接原因(因)と間接原因または条件(縁)。
         事物を生ぜしめる内的原因である因と外的原因である縁。
         前世から決まっていたとして、そのまま認めざるを得ないこと。宿命。
         由来。来歴。いわれ。
    更に・・・いっそう。その上に。少しも。全然。あらためて。こと新しく。
    本懐・・・本来の望み。本望。本意。

  漢和辞典による
    義・・・正しい、みち、つとめ、わけ、意味


>答う。
>その出世本懐の義を論ずるに略して二の意あり。
>一には教の権実に約す。三乗はこれ権なり。一乗はこれ実なり。故に一乗を以て説きて
>本懐と為す。これ『法華』の意なり。

  答える。
  その出世の本懐の意義を論ずるにあたって、大まかにいえば、二つの考え方がある。
  一つは略していえば、教の「権実」である。三乗は「権」、一乗は「実」である。
  だから、一乗が如来の本来の望みであると説くことができる。これが『法華』の
  意(こころ)である。

  権実
    権・・・一時的なかりそめのてだてとして設けたもの。真実の教(実教)に
        入らしめるために、一時的に方便として仮に説かれた教(権教)。
    実・・・永久不変の究極的な真実のもの。真実の教(実教)。

  三乗
    声聞乗・・・仏の声(教説)を聞いて修行しさとる教え。四諦、十二因縁など。
    縁覚乗・・・師仏の教えによらず独りでさとる道を行く教え。
    菩薩乗・・・大乗菩薩のために説かれた六波羅蜜等の法門。

  一乗
    一は唯一無二、乗は乗物の意で、一切の衆生を載せてひとしくさとりに至らしめ
    る唯一の教法のこと。大乗仏教の唯一にして最高の教え。浄土真宗では、とくに
    阿弥陀仏の本願の教えをもって一乗法であるとする。


  漢和辞典による
    約・・・たばねる、くくる、ちかう、縮める、ととのえる、おおよそ


>二には機の利鈍に約す。
>『般舟讃』に云わく
>「根性利なる者はみな益を蒙る。鈍根無智なるは開悟しがたし」と已上。

  二つには略していえば、機の「利鈍」である。
  『般舟讃』はこう述べる。
  「生まれつきの性質が利発な者はみな利益を受ける。生まれつきの性質がにぶく、
  無智な者は悟りを開くことが難しい。」

  国語辞典より
    根性・・・生まれつきの性質。根本的な考え方。

  漢和辞典による
    利・・・するどい、よい、すばやい、かしこい、利発
    鈍・・・にぶい、のろい


>『玄義』に云わく
>「諸仏の大悲は苦者に於いてす。心偏に常没の衆生を愍念したもう。これを以て勧て浄土
>に帰せしむ。また水に溺れたる人の如きは急に須く偏えに救うべし。岸上の者をば何ぞ用
>いてか済うことをせん」と已上。

  『玄義』はこう述べる。
  「もろもろの仏のあわれみの心は、苦しんでいる者に向けられている。その心はひと
  えに、つねに迷いの世界に沈んでいる衆生をあわれんでいる。このような衆生にたい
  して、浄土にむかうように勧めるのである。また、水に溺れているような人などは、
  急いですべて救うべきである。岸の上の者を、どうしてわざわざ済わなければならな
  いのか」

  国語辞典より
    大悲・・・衆生の苦しみを救おうとする仏・菩薩の広大な慈悲の心。
         仏の衆生に対するはあわれみ,同情(衆生済度の原動力)
    常没・・・つねに迷いの世界に沈んでいること。
    愍念・・・あわれむこと

  漢和辞典による
    帰・・・とつぐ、かえる、おちつく、むかう


>『観念法門』に云わく
>「釈迦の出現は五濁の凡夫を度せんが為なり。則ち慈悲を以て十悪の因は三途の苦を報果
>することを開示し、また平等の智慧を以て人天回して弥陀仏国に生ずることを悟入せしむ」
>と已上。

  『観念法門』はこう述べる。
  「釈迦がこの世に出現したは、五濁の凡夫を救済しようとするからである。すなわち、
  慈悲をもって、『十悪という原因が三途の苦しみという結果まねくこと』を明らかに
  示し、また、すべてのものにへだたりなくなく示される真実の智慧(さとり)をもって
  人間や天人を変化させて、弥陀仏の国に生まれ変わらせるのである。」

  十悪・・・人間の基本的な10の罪悪(身・口・意の三業)
    殺生(身)・・・命あるものを殺すこと
    偸盗(身)・・・ぬすみ
    邪婬(身)・・・不淫らな行為
    妄語(口)・・・うそいつわり
    綺語(口)・・・まことのないかざった言葉
    両舌(口)・・・二枚舌を使うこと、人を仲たがいさせる言葉
    悪口(口)・・・他人の悪口を言うこと、きたないののしりのことば
    貪欲(意)・・・欲深いこと、むさぼり、我欲
    瞋恚(意)・・・いかり
    愚癡(意)・・・おろかさ、真理に対する無知

  三途・・・三悪道・三悪趣
    火途(地獄)・・・猛火に焼かれる
    刀途(餓鬼)・・・刀・杖で迫害される
    血途(畜生)・・・互いに食いあう

  智慧・・・
    梵語プラジュニャーの漢訳。般若と音写する。一如をさとる無分別智のこと。
    物事を正しくとらえ、真理を見きわめる認識力。六波羅蜜のひとつ。

  六波羅蜜・・・大乗の菩薩の修めねばならない六種の行業
    布施・・・施しをすること。
    持戒・・・戒律を守ること。
    忍辱・・・たえ忍ぶこと。
    精進・・・すすんで努力すること。
    禅定・・・精神を統一し、安定させること。
    智慧・・・真実の智慧(さとり)を得ること。前五波羅蜜の根拠ともなる無分別智

  国語辞典より
    開示・・・事柄の内容を明らかに示すこと。

  漢和辞典による
    回・・・まわる、まわす、向きを変える、改める、かえる


>大悲の本懐は、ただ障重根鈍常没の衆生を済度するに在り。しかるに利根は少く、鈍根の者
>は多し。故に知りぬ、諸教の出離はこれ少く、浄土の得脱はその機これ多しということを。
>この道理に依れば、施する所の利益は諸教に超過せり。浄土の教門は、あに本懐にあらずや。
>故に『大経』に云わく「如来の智慧海は深広にして涯底なし」と已上。蓋しこの意なり。
>慈悲深重にして悪機を救度す。故に説きて深と為す。利益広大にして普く群機に被らしむ。
>故に説きて広と為す。

  仏が衆生を哀れむことの本来の望みは、ただ、さわりが重く、生まれ持った性質が鈍
  く、つねに迷いの世界に沈んでいる衆生を救済することである。しかし、利口なもの
  は少なく、性分の鈍い者は多い。だから以下のことが言える。もろもろの教えによっ
  て迷いの世界を離れ出るものは少く、浄土の教えにより悟りを得るものは多いのであ
  る。この道理によれば、浄土の教えが施す利益は、もろもろの教えに超過している。
  浄土の教門は、どうして仏の本来の望みでないといえるだろうか。だから『大経』で
  はこう述べる。「如来の智慧の海は深くて広く、はてしなく底知れない」。思うに、
  それはこの意味である。慈悲が深くて大きいから、性分の悪いものを救度するのであ
  る。だから「深」と説く。利益が広く大きくて、あまねく多くのものにおよぶ。だから
  「広」と説くのである。

  漢和辞典による
    障・・・さわる、さしさわり、さえぎる、しきり
    涯・・・岸、はて、終り、かぎり、きわみ

  国語辞典より
    出離・・・迷いの世界を離れ出ること
    得脱・・・悟りを得ること。得道。

●re.66
ボン
関東の男性
[ 1553 ] Re65:教行信証・学習ノート 2009/07/11 (Sat) 02:08 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
無量寿如来会言。阿難白仏言。世尊。我見如来光瑞希有故発斯念。非因天等。
仏告阿難。善哉善哉。汝今快問。善能観察微妙弁才。能問如来如是之義。
汝為一切如来応正等覚及安住大悲利益群生。如優曇華希有大士出現世間。故問斯義。
又為哀愍利楽諸有情故。能問如来如是之義。已上。
-----------------------------------------------------------------------------
無量寿如来会に言わく、阿難、仏に白して言さく、世尊、我、如来の光瑞希有なるを
見たてまつるがゆえに、この念を発せり。天等に因るにあらずと。仏、阿難に告げた
まわく、善いかな、善いかな。汝、今快く問えり。よく微妙の弁才を観察して、
よく如来に如是の義を問いたてまつれり。汝、一切如来・応・正等覚および大悲に
安住して、群生を利益せんがために、優曇華の希有なるがごとくして、大士世間に
出現したまえり。故にこの義を問いたてまつる。また、もろもろの有情を哀愍し
利楽せんがためのゆえに、よく如来にかくの如きの義を問いたてまつれりと。已上。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次に『如来会』。説相は大いに同じ。この諸相を以て『大経』の説を校するに、
「阿難白仏」の下、「非因天」等に至るまでは阿難の実答なり。
「仏告阿難」の下は如来の嘆許なり。中に於いて初より「是之義」に至るまでは、
まず慧問を嘆じ、「汝為」より下、「問斯義」に至るまでは仏出の難値を挙ぐ。
「又為」より下は所問の益多きことを嘆ず。

●re.67
ボン
関東の男性
[ 1554 ] Re66:教行信証・学習ノート 2009/07/11 (Sat) 10:57 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>無量寿如来会言。阿難白仏言。世尊。我見如来光瑞希有故発斯念。非因天等。
>仏告阿難。善哉善哉。汝今快問。善能観察微妙弁才。能問如来如是之義。
>汝為一切如来応正等覚及安住大悲利益群生。如優曇華希有大士出現世間。故問斯義。
>又為哀愍利楽諸有情故。能問如来如是之義。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------
>無量寿如来会に言わく、阿難、仏に白して言さく、世尊、我、如来の光瑞希有なるを
>見たてまつるがゆえに、この念を発せり。天等に因るにあらずと。仏、阿難に告げた
>まわく、善いかな、善いかな。汝、今快く問えり。よく微妙の弁才を観察して、
>よく如来に如是の義を問いたてまつれり。汝、一切如来・応・正等覚および大悲に
>安住して、群生を利益せんがために、優曇華の希有なるがごとくして、大士世間に
>出現したまえり。故にこの義を問いたてまつる。また、もろもろの有情を哀愍し
>利楽せんがためのゆえに、よく如来にかくの如きの義を問いたてまつれりと。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------

  「無量寿如来会」はこう述べる。「阿難は、仏に次のように言った。『世尊、私は、
  如来が光明に輝くすばらしい姿が、たぐい希であるのを拝見したので、このように
  思いました。天人などの考えをもとにしてそう思ったのではありません。』
  仏は阿難に言った。『よろしい、よろしい。あなたは、今、快い質問をしました。
  よく観察をして、おもむき深い弁舌の才能を発揮して、よく如来に『如是の義』に
  ついて質問をいたしました。一切の如来が「応供」「正等覚」および「大悲」に
  安らかに住して、多くの生きとし生けるものを利益しようとして、あたかも優曇華
  がたぐい希に花開くように出現するのですが、そにように大士(釈尊)もこの世に
  出現しました。そこで、あなたは、この義(如是の義)について質問をいたしました。
  また、あなたは、もろもろの生きとし生けるものをあわれみ、それを救い安楽を与え
  ようとしているから、如来にこのような意義(如是の義)を質問できたのですね。』」

  国語辞典による
    光瑞・・・光り輝く奇端の相。光明の輝くすばらしい姿。
    微妙・・・なんともいえない味わいや美しさがあって、おもむき深いこと。
    弁才・・・弁舌の才能。うまく話す能力。
    哀愍・・・かなしみあわれむこと。あわれみ、情けをかけること。
    利楽・・・利益し安楽にさせること。救い、喜びを与えること。

  弁才の智・・・自由自在な弁舌の才智。四無碍智の一。
  弁才智慧・・・自由自在でさわりのない理解表現能力。四無碍智のこと。

  四無碍智・・・仏・菩薩に具わる自由自在でさわりのない四種の理解表現能力。
    (1)法無碍弁・・・・文字や文章に精通する。
    (1)義無碍弁・・・・文字や文章に表された意味内容に精通する。
    (1)辞無碍弁・・・・すべての言語に精通する。
    (1)楽説無碍弁・・・衆生のために説法するのに自由自在であること。

  応・・・応供、仏十号の第二。阿羅訶(Arhat)の訳。応ずべき力ある人の意味。
      仏は人天の供養をうくべき資格あることから応供という。

  如来の十号(10種類の呼び名)
    (1)応供・・・・・供養を受けるに値する者
    (2)等正覚・・・・平等の真理をさとった者
    (3)明行足・・・・智慧と行とが共に完全な者
    (4)善逝・・・・・迷界をよく超え出て再び迷いに還らない者
    (5)世間解・・・・世間・出世間のことをすべて知る者
    (6)無上士・・・・最上最高の者
    (7)調御丈夫・・・衆生を調伏・制御してさとりに導く者
    (8)天人師・・・・神々と人間の師
    (9)仏・・・・・・覚れる者
    (10)世尊・・・・・世間で最も尊い方

  群生・・・多くの生類という意。生きとし生けるもの。一切衆生のこと。

  有情・・・梵語サットヴァの漢訳。情を有するもの。生きとし生けるもの。

  大士・・・すぐれた人。一般には菩薩のこと。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に『如来会』。説相は大いに同じ。この諸相を以て『大経』の説を校するに、
>「阿難白仏」の下、「非因天」等に至るまでは阿難の実答なり。
>「仏告阿難」の下は如来の嘆許なり。中に於いて初より「是之義」に至るまでは、
>まず慧問を嘆じ、「汝為」より下、「問斯義」に至るまでは仏出の難値を挙ぐ。
>「又為」より下は所問の益多きことを嘆ず。

  『大経』の次に『如来会(無量寿如来会)』の引用である。説の相(すがた)は『大経』
  にだいたい同じである。このもろもろの相(すがた)によって『大経』の説を引き比
  べて考えるに、「阿難白仏(阿難仏に白して)」から「非因天等(天等に因るにあらず)」
  までは阿難の素晴らしい答えである。「仏告阿難(仏阿難に告げたまわく)」以下は
  如来が阿難を褒めたたえ、その素晴らしさを認めているのである。その褒めたたえる
  中で、初めより「是之義」に至るまでは、まず賢い質問をほめたたえ、「汝為」から
  「問斯義」までは、仏の出現に遭遇することが難しいことを取り上げている。
  「又為」以下は、阿難の質問が、きわめて有益であることをほめたたえている。

  実答・・・内容のある答え
  嘆許・・・褒めたたえて良いと認めること

  漢和辞典による
    相・・・かたち、すがた
    校・・・まねる、ならう、くらべる、しらべる、ひきくらべて考える
    慧・・・かしこい、知恵
    値・・・あう、あたう、遭遇する、かなう、一致する、相当する
    挙・・・あげる、かかげる、とりあげる、ほめる
    許・・・ゆるす、良いとする、みとめる
    実・・・富む、豊かである、みたす、まこと、あきらかにする

●re.68
ボン
関東の男性
[ 1555 ] Re67:教行信証・学習ノート 2009/07/12 (Sun) 12:42 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
平等覚経言。仏告阿難。如世間有優曇鉢樹。但有実無有華。天下有仏乃華出耳。
世間有仏甚難得値。今我作仏出於天下。若有大徳。聡明善心。縁知仏意。
若不妄在仏辺侍仏也。若今所問。普聴諦聴。已上。
-----------------------------------------------------------------------------
平等覚経に言わく、仏、阿難に告げたまわく、世間に優曇鉢樹あり、ただ実ありて
華あることなし、天下に仏まします、いまし華の出ずるがごとくならくのみ。世間に
仏ましませども、はなはだ値うことを得ること難し。今、我仏に作りて天下に出でた
り。もし大徳ありて、聡明善心にして仏意を知るに縁〈よ〉りて、もし妄りに、仏辺
にありて仏に侍えず。もし今問えるところ、普く聴き、諦らかに聴け。已上。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次に『覚経』の文。その意、見つべし。

●re.69
ボン
関東の男性
[ 1556 ] Re68:教行信証・学習ノート 2009/07/12 (Sun) 12:47 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>平等覚経言。仏告阿難。如世間有優曇鉢樹。但有実無有華。天下有仏乃華出耳。
>世間有仏甚難得値。今我作仏出於天下。若有大徳。聡明善心。縁知仏意。
>若不妄在仏辺侍仏也。若今所問。普聴諦聴。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------
>平等覚経に言わく、仏、阿難に告げたまわく、世間に優曇鉢樹あり、ただ実ありて
>華あることなし、天下に仏まします、いまし華の出ずるがごとくならくのみ。世間に
>仏ましませども、はなはだ値うことを得ること難し。今、我仏に作りて天下に出でた
>り。もし大徳ありて、聡明善心にして仏意を知るに縁〈よ〉りて、もし妄りに、仏辺
>にありて仏に侍えず。もし今問えるところ、普く聴き、諦らかに聴け。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------

  『平等覚経』ではこう述べる。「仏は阿難に告げた。『この世に優曇鉢樹というもの
  があります。それは、ただ実が成るだけで、花は咲きません。この世に仏が現れるのは、
  ちょうど、その咲かないはずの花が咲くようなものなのです。もし、この世に仏が現れ
  たとしても、そこに居合わせることができるのはきわめて難しいでしょう。いま、私は、
  仏となってこの世に現れました。そして、あなたは、大きな徳があって、聡明で善い心
  もあって、仏の意志を知る縁がありました。また、あなたは、無意味に仏の近くにいて
  仏に仕えているわけではありません。あなたがいま質問したことついて、皆があまねく、
  細かな点まではっきりと聴くがよいでしょう。』」

  漢和辞典による
    作・・・つくる、なす、作り上げる、出現する
    若・・・したがう、のようである、なんじ(二人称)、もし(仮定の語)
    縁・・・ふち、もとづく、たよる、ゆかり、関係
    妄・・・でたらめである、道理に合わない、みだりに、むやみに
    普・・・広くいきわたる、広い、大きい
    諦・・・つまびらか、あきらか、つまびらかにする、さとり、真理

  (注)六要鈔会本では「若」を「もし」と読み下しているが、明治書院と本願寺出版社の
    聖典ではどちらも「なんじ」と読み下している。

  国語辞典による
    作仏・・・仏となること。悟りを開くこと。成仏。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に『覚経』の文。その意、見つべし。(次覚経文。其意可見。)

  次に『平等覚経』の文を引用している。そこで、その意味を知ることができる。

  漢和辞典による
    意・・・こころ、気持ち、考え、意味
    可・・・よい、べし(義務・可能・決意・推量・命令などを表す)
    見・・・みる、みとめる、知る、予想する

●re.70
ボン
関東の男性
[ 1557 ] Re69:教行信証・学習ノート 2009/07/13 (Mon) 23:05 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
憬興師云。今日世尊住奇特法。依神通輪所現之相。非唯異常。亦無等者故。
-----------------------------------------------------------------------------
憬興師の云わく、今日世尊住奇特法というは、神通輪に依りて現じたまうところの
相なり、ただ常に異なるのみにあらず、また等しき者なきがゆえに。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次に興の釈の中に、「奇特法」を釈するに、「神通輪」とは、三業の中に、これ身業の
名なり。即ち口業を以て説法輪と名づく。また意業を以て記心輪と名づく。これ法相宗
の名目ならくのみ。

●re.71
ボン
関東の男性
[ 1558 ] Re70:教行信証・学習ノート 2009/07/13 (Mon) 23:32 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>憬興師云。今日世尊住奇特法。依神通輪所現之相。非唯異常。亦無等者故。
>-----------------------------------------------------------------------------
>憬興師の云わく、今日世尊住奇特法というは、神通輪に依りて現じたまうところの
>相なり、ただ常に異なるのみにあらず、また等しき者なきがゆえに。
>-----------------------------------------------------------------------------

  憬興師は言う。「『今日世尊住奇特法(今日、世尊、奇特の法に住す)』というのは、
  神通輪によって現したところの相(すがた)のことを言っている。それは、ただ通常と
  異なっているというだけではなく、ほかに匹敵する者ないために、そういうのである。」

  神通輪・・・三輪のひとつ。身に神変をあらわす。

  三輪・・・仏・菩薩が衆生を教化のときに示す身・口・意のすぐれたはたらき。
       輪とは衆生の煩悩を打ち砕いて教化するという意。
          (1)身に神変をあらわす神通輪
          (2)口に法を説く説法輪
          (3)聞き手の心を自在に知る記心輪

  国語辞典による
    神変・・・人間の考えでは理解できない不思議な変化(神ははかり知れないの意)


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に興の釈の中に、「奇特法」を釈するに、「神通輪」とは、三業の中に、これ身業の
>名なり。即ち口業を以て説法輪と名づく。また意業を以て記心輪と名づく。これ法相宗
>の名目ならくのみ。

  次に、憬興師の釈について、「奇特法」を解釈すれば、「神通輪」というのは、三業
  の中の身業の名称である。すなわち、口業を「説法輪」と言う。また意業を「記心輪」
  と言う。これは「法相宗」に出てくる名称にほかならない。

  法相宗
    中国十三宗の一。唯識宗・慈宗ともいう。玄奘がインドの戒賢から伝えた護法系の
    唯識学説をうけて、その弟子慈恩大師窺基が法相宗として大成した。

  国語辞典による
    名目・・・物の名。名称。

  ならくのみ(而已)・・・文末に置かれ、限定・強意を表す。

●re.72
ボン
関東の男性
[ 1559 ] Re71:教行信証・学習ノート 2009/07/18 (Sat) 11:43 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
今日世雄住仏所住。住普等三昧能制衆魔雄健天故。
-----------------------------------------------------------------------------
今日世雄住仏所住というは、普等三昧に住して、よく衆魔・雄健天を制するがゆえに。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

仏の所住を釈するに、
「普等三昧」とは、六八願の中に第四十五の聞名見仏の願に説きて言わく
「たとい我、仏を得んに、他方国土の諸の菩薩衆、我が名字を聞きて、皆悉く普等三昧
を逮得せん。この三昧に住して成仏に至るまで、常に無量不可思議の一切諸仏を見たて
まつらん。もし爾らずば正覚を取らじ」と已上。

憬興の釈に云わく
「普とは即ち普遍の義、等とは即ち斉等の義なり。所見普く広し。仏をば皆見る。
故に住する所の定を名づけて普等と為す」と已上。

玄一の釈に云わく
「この三昧力に由りて普く諸仏の世界を見る。故に言いて普と為す。平等に現に見る。
所見なし。故に普等と言う」と已上。

この三昧に於いて多くの異名あり。遍至三昧、普至三昧、及び普遍三摩地と名づく是なり。
次の如く『悲華』と『分陀利経』と『荘厳経』との説なり。

問う。
何等の義に依りて普等と名づくるや。

答う。
上の所引の両師の釈の如きは、見仏の義に依りて名づけて普等と為す。
これは果の名に従う。因に従いては、言いて念仏三昧と名づくる、是れ其の名なり。

●re.73
ボン
関東の男性
[ 1560 ] Re72:教行信証・学習ノート 2009/07/18 (Sat) 15:11 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>今日世雄住仏所住。住普等三昧能制衆魔雄健天故。
>-----------------------------------------------------------------------------
>今日世雄住仏所住というは、普等三昧に住して、よく衆魔・雄健天を制するがゆえに。
>-----------------------------------------------------------------------------

  「今日世雄住仏所住」というのは、普等三昧に住して、多くの魔や雄健天を押さえ
  込むことができるからである。

  普等三昧・・・一切の諸仏を同時に等しく見る禅定(深い精神統一)の境地。

  三昧・・・梵語サマーディの音写。
       心を一処にとどめて散り乱れぬ安らかで静かな状態になること。

  魔・・・梵語マーラの音写。悪魔、人の生命を奪い善を妨げる悪鬼神。魔羅の略。
      欲界第六天の主である魔王。

  欲界・・・三界の一。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道から成り、
       欲界の天を六欲天という。欲界の衆生には婬欲と食欲との二欲がある。

  三界・・・欲界・色界・無色界の三つの世界。衆生が生死流転する迷いの世界。
    (1)欲界・・・上述のとおり
    (2)色界・・・浄妙な物質(色)から成り、欲を離れた清らかな世界。四禅天。
    (3)無色界・・物質を超えた精神の世界。四無色定を修めたものが生れる天界。
           (四無色定・・・無色界における四段階の瞑想)

  雄健天・・・欲界の第六天の魔王。
        さまざまな悪鬼神の中でもとくに力が強く勢いが盛んである。

  漢和辞典による
    衆・・・おおい、多くのひと、多くの


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>仏の所住を釈するに、
>「普等三昧」とは、六八願の中に第四十五の聞名見仏の願に説きて言わく
>「たとい我、仏を得んに、他方国土の諸の菩薩衆、我が名字を聞きて、皆悉く普等三昧
>を逮得せん。この三昧に住して成仏に至るまで、常に無量不可思議の一切諸仏を見たて
>まつらん。もし爾らずば正覚を取らじ」と已上。

  「仏の所住」を解釈すれば、「普等三昧」については、
  48願のなかの第45「聞名見仏の願」で、次にように説明している。
  「もしも私が、さとりを開こうとしたときに、ほかの国土のもろもろの菩薩たちが、
  私の名を聞いて、みなことごとく普等三昧を得たとしよう。この三昧に住してさと
  りを開くに至るまでのあいだ、常に無量不可思議の一切の諸仏を見るであろう。
  もしそうでなかったら、私はさとりを開かないであろう。」

>憬興の釈に云わく
>「普とは即ち普遍の義、等とは即ち斉等の義なり。所見普く広し。仏をば皆見る。
>故に住する所の定を名づけて普等と為す」

  憬興の釈はこう述べる。
  「『普』とは『普遍(広く行き渡ること)』の意味、『等』とは『斉等(わけへだてし
  ない)』の意味である。所見(見るところ)はあまねく広い。みなが仏を見る。だから、
  仏が住するところの定を『普等』と名付ける」

   ここでいう所見の意味がわかりません。
   「所見」を文字通り解釈すると「見られる客体」「見る対象となるもの」となりま
   す。直前に「常に無量不可思議の一切諸仏を見たてまつらん」とありますから、
   ここでは「見る対象となるもの」は「諸仏」ということになりますが、「諸仏が
   あまねく広い」では意味が通りません。また、あとに「所見なし」と出てきます。
   これも「諸仏がない」では意味が通りません。どなたか教えて下さい。

  定・・・雑念を断ち切って心を静かにする修行

  漢和辞典による
    斉・・・・ととのえる、同じにする、みな、おしなべて
    斉等・・・ひとしい、平等、わけへだてしない

>玄一の釈に云わく
>「この三昧力に由りて普く諸仏の世界を見る。故に言いて普と為す。平等に現に見る。
>所見なし。故に普等と言う」と已上。

  玄一の釈ではこう述べる。
  「この三昧の力によって、みながあまねく諸仏の世界を見る。だから『普』と言う。
  だれでも平等にあらわに見ることができる。所見がない。だから『普等』と言う。」


>この三昧に於いて多くの異名あり。遍至三昧、普至三昧、及び普遍三摩地と名づく是なり。
>次の如く『悲華』と『分陀利経』と『荘厳経』との説なり。

  この三昧について、多くの異名がある。それは「遍至三昧」「普至三昧」「普遍三摩地」
  などであろ。それぞれ順に『悲華経』と『分陀利経』と『荘厳経』との説である。


>問う。
>何等の義に依りて普等と名づくるや。

  問う。
  どのようなわけで「普等」と名づけるのか。

>答う。
>上の所引の両師の釈の如きは、見仏の義に依りて名づけて普等と為す。
>これは果の名に従う。因に従いては、言いて念仏三昧と名づくる、是れ其の名なり。

  答える。
  上に引用した両師(憬興と玄一)の釈では、「見仏」の意義によって「普等」と名づけ
  ている。これは「果(結果としてもたらされたもの)」にしたがって名付けられたもの
  である。「因(もたらされたものの原因)」によるならば、それは「念仏三昧」と名付
  けられる。これはその名称である。

  国語辞典による
    見仏・・・仏の姿を目のあたりに見ること。

●re.74
ボン
関東の男性
[ 1568 ] Re73:教行信証・学習ノート 2009/08/13 (Thu) 01:08 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
今日世眼住導師行。五眼名導師行。引導衆生無過上故。
-----------------------------------------------------------------------------
今日世眼住導師行というは、五眼を導師の行となづく、衆生を引導するに
過上なきがゆえに。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

導師の行の中に、五眼というは、常途の説に依るに、
一には肉眼、二には天眼、三には慧眼、四には法眼、五には仏眼なり。

肉眼というは、人間の扶根の四境を肉と名づく。正根の浄色の能く見るを眼と名づく。
ただ隙塵已上の麁色を縁じて、牛塵已下の細色を縁ぜず。また障内を縁じて障外を縁ぜず。
また近境を縁じて遠境を縁ぜず。

天眼というは、禅定を天と名づく。天に依りて眼を得るが故に天眼と名づく。天中の浄色
を以てその体と為す。能く衆生の此死生彼を見る。

『大論』の三十三に云わく
「肉眼は近を見て遠を見ず。前を見て後を見ず。外を見て内を見ず。昼を見て夜を見ず。
上を見て下を見ず。これらを以ての故に天眼を求む。この天眼を得れば遠近みな見る。
前後・内外・上下、悉くみな無礙なり」と、已上。

慧眼というは、真諦を縁ずる智は能く空理を照らす。故に慧眼と名づく。

法眼というは、俗諦を縁ずる智は能く法を照らすが故に名づけて法眼と為す。

仏眼というは、人に就きて名と為すが故に仏眼と名づく。中道を縁ずる智を以てその体と
為す。

この五眼に於いて四眼はこれ別、仏眼はこれ総なり。四眼は仏に至れば悉く仏眼と名づく。
この故に天台の『文句』の四に云わく「仏眼は円通なり。本勝にして劣を兼ぬ。四眼は
仏眼に入ればみな仏眼と名づく」と已上。これはこれ諸教通途の説相なり。


問う。
『大経』の下に云わく「肉眼清徹にして分了せずということなし。天眼通達して無量無限
なり。法眼観察して諸道を究竟す。慧眼真を見て能く彼岸に度す。仏眼具足して法性を
覚了す」と已上。これ、上の説と同異いかん。

答う。
同あり、異あり。その同というは、五眼の功用は相濫せざるが故に。その異というは、
今『大経』には浄土の菩薩の功徳を説くが故に、肉眼・天眼の所見の分量は人天の分に
超えたり。仏眼に至るとは、これは菩薩所具の徳を説くが故に究竟に及ばず。
また法と慧と、三と四と前後せり。

「肉眼清徹にして分了せず」とは、
義寂の云わく「その所応に随いて、もしは近、もしは遠、もしは内、もしは外、みな分明
に見る。根の精徹と境の無障とに由るが故に」。

「天眼通達して無量無限なり」とは、論(『大論』第四十九)に説かく
「菩薩の天眼に二種あり。一には果報得、二には修禅得なり。果報得とは、常に肉眼と
合用す。ただ闇夜には天眼独り用ゆ。余人は果報の天眼を得て四天下を見る。欲界の
諸天は下を見て上を見ず。菩薩所得の果報の天眼は三千大千世界を見る。乃至。菩薩は
この天眼を用いて十方如恒河沙等の国土の中の衆生の生死・善悪・好醜及び善悪の
業因縁を見るに障礙する所なし。一切皆見る。四天王天、乃至、阿迦弐?天眼の所見は、
また能くこれに過ぎたり。この諸天は菩薩の天眼の所見を知ること能わず。何を以ての
故に。この菩薩は三界を出でて法性生身を得、弁才力を得るが故に。この中に言う所の
無量限とは、応に随いて通じて報得及び修を説く。四十八願の中に説く所は、最少に就
きて説くが故に相違せず」と已上。

問う。
「肉眼精徹」と「天眼通達」と、二眼の所見は同じく無限ならば、何をか差別とせん。

答う。
憬興の云わく「現在の色像を照瞻するを名づけて肉眼と為す。能く衆生の此に死し彼に
生ずるを見る。故に天眼と名づく」と已上。

「法眼観察して諸道を究竟し」とは、同師の云わく「法眼は即ち有智を以て体と為す。
能く衆生の欲性の心と及び諸仏の法を見る、故に法眼と名づく。普く三乗の道法の差別を
知る。故に究竟諸道と云う」と已上。

義寂の云わく「余処には多く慧眼を第三と説く。この中に先ず法眼を説くことは、修起の
次第は応に先の如く説くべし。要ず先ず真に達し、方に俗を了するが故に。然も法眼の境
と前の二眼とは同じくこれ俗なるが故に、これはこの中には慧眼に先だちて説く。

論に云わく、菩薩初発心の時、肉眼を以て衆生の苦を受くるを見て心に慈愍を生じ、諸の
禅定を学び五通を修得す。天眼を以て遍く六道の衆生の種種身心の苦を受くるを見て、
ますます憐愍を加う。故に慧眼を求めて以てこれを救済す。この慧眼を得て、已に衆生の
心相の種種不同なるを見て、云何が衆生をしてこの実法を得せしめん。故に法眼を求めて
衆生を引導して法の中に入らしむ。故に法眼と名づく」と已上。

「慧眼真を見て能く彼岸に度す」とは、浄影の云わく「能く真空を見るが故に見真と
名づく。有相を除捨して平等無相の彼岸に達到するを度彼岸と名づく」と已上。

憬興の云わく「度とは至なり」と已上。

義寂の云わく「論に云わく、肉眼は障外の事を見ること能わず。また遠く見ること能わず。
この故に天眼を求む。天眼はまた見るといえども、また虚誑なり。一異の相を見るに、
衆物の和合の虚誑の法を見る。これを以ての故に慧眼を求む。慧眼の中には、かくの如き
の過なし」と已上。

『思益』の三に云わく「もし所見あらば慧眼と名づけず。慧眼は有為の法を見ず、無為の
法を見ず」と已上。

『大論』の三十三に云わく「この天眼は、和合因縁生の仮名の物を見て、実相を見ず。
故に慧眼を求む。慧眼を得れば衆生の尽滅一異の相を見ず。諸の著を捨離して一切の法を
受けず。智慧、自内に滅す。これを慧眼と名づく」と已上。

「仏眼具足して法性を覚了す」とは、義寂の云わく「また位位の中に随分に成仏す。故に
位位の中にまた眼を具足す。経に説かく、初発心の位に已に十力分を得るが故に」と已上。

●re.75
ボン
関東の男性
[ 1569 ] Re74:教行信証・学習ノート 2009/08/13 (Thu) 01:14 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>今日世眼住導師行。五眼名導師行。引導衆生無過上故。
>-----------------------------------------------------------------------------
>今日世眼住導師行というは、五眼を導師の行となづく、衆生を引導するに
>過上なきがゆえに。
>-----------------------------------------------------------------------------

  「今日世眼住導師行」についていえば、「五眼」は「導師の行」と呼ばれる。
  それは、衆生を導き引き入れるためには、これ以上のものがないからである。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>導師の行の中に、五眼というは、常途の説に依るに、
>一には肉眼、二には天眼、三には慧眼、四には法眼、五には仏眼なり。

  「導師の行」について、「五眼」というのは、一般の説によれば、
  一には肉眼、二には天眼、三には慧眼、四には法眼、五には仏眼であるとされる。


>肉眼というは、人間の扶根の四境を肉と名づく。正根の浄色の能く見るを眼と名づく。
>ただ隙塵已上の麁色を縁じて、牛塵已下の細色を縁ぜず。また障内を縁じて障外を縁ぜず。
>また近境を縁じて遠境を縁ぜず。

  「肉眼」についていうと、人間を支える拠りどころとなる四つの状態を「肉」と名づ
  ける。正しい資質によって清浄な色(物質)を見ることができることを「眼」と名ける。
  ただ、それは「隙塵」以上の大まかな色(物質)は見えても、「牛塵」以下の細かな色
  (物質)を見ることができない。また、障(さわり)の内側は見えても、障(さわり)の外側
  を見ることができない。また近いところは見えても、遠いところを見ることができない。

  漢和辞典より
    扶・・・たすける、ささえる、よりかかる
    根・・・ね、みなもと、よりどころ、たち、本来の性
    境・・・さかい、ところ、場所、状態、身分
    隙・・・すきま、あいだ、油断、使っていない、機会
    塵・・・ごみ、ちり、けがれ、俗世間
    麁・・・あらい、そまつ、細かくない、うとい、つまらない、大きい
    縁・・・ふち、ふちどる、もとづく、ちなむ、たよる、したがう、ゆかり、めぐる
    障・・・さわる、さしさわり、さえぎる、しきり

  国語辞典より
    塵・・・感覚や心の働きの対象。心を汚すもの。煩悩。

  WikiArcより
    根・・・・教えを受ける者の資質
    機・・・・仏の教法を受けて救われるべきもの。一般に衆生、人間のこと。
    色・・・・五蘊(ごうん)のひとつ。物質。
    五蘊・・・五種類の要素の集まり。
           色・・・物質
           受・・・感受作用
           想・・・知覚表象作用
           行・・・受・想・識以外の「思」などに代表される心作用
           識・・・識別作用

  ※「隙塵」「牛塵」は、物質の大きさの単位と思われる


>天眼というは、禅定を天と名づく。天に依りて眼を得るが故に天眼と名づく。天中の浄色
>を以てその体と為す。能く衆生の此死生彼を見る。

  「天眼」についていうと、「禅定」を「天」と名づける。「天」によって「眼」を得る
  ことから「天眼」と名づける。「天」の中の清浄な色(物質)をその体(実質)とする。
  それは、衆生の「此死生彼(ここで死に彼の地に生まれる)」を見ることができる。

  WikiArcより
    禅定・・・精神を統一し、安定させること。六波羅蜜の一。


>『大論』の三十三に云わく
>「肉眼は近を見て遠を見ず。前を見て後を見ず。外を見て内を見ず。昼を見て夜を見ず。
>上を見て下を見ず。これらを以ての故に天眼を求む。この天眼を得れば遠近みな見る。
>前後・内外・上下、悉くみな無礙なり」と、已上。

  『大論』の三十三巻にこう述べる。
  「肉眼は近くを見て遠くを見ない。前を見て後を見ない。外を見て内を見ない。昼を
  見て夜を見ない。上を見て下を見ない。だから、天眼を求める。この天眼を得れば
  遠くも近くもをすべてを見る。前後・内外・上下、ことごとくすべてさえぎるものが
  ない。」

  『大論』=龍樹菩薩「大智度論」・・・『摩訶般若波羅蜜経』の註釈


>慧眼というは、真諦を縁ずる智は能く空理を照らす。故に慧眼と名づく。

  「慧眼」についていうと、「真諦(仏教の絶対の真理)」を明らかにする智は、
  「空理」を照らすことができる。だから、「慧眼」と名づける。

  国語辞典より
    慧眼・・・五眼の一。この世の空であるという真理を悟る能力をもつ目。
    真諦・・・仏教の絶対の真理。根本・究極の真理。第一義諦。勝義諦。
    俗諦・・・世間の人々の考えるこの世の真理。世間的知恵。世諦。世俗諦。
    空理・・・万物はすべて仮のもので、実体をもたないとする教理
    荘厳・・・浄土などの仏国土、仏・菩薩などの徳を示す美しい姿や飾り

  WikiArcより
    荘厳・・・麗しく身や国土を飾ること。身口意の三業を整えて清浄にすること


>法眼というは、俗諦を縁ずる智は能く法を照らすが故に名づけて法眼と為す。

  「法眼」についていうと、「俗諦(世間的真理)」を明らかにする智は、「法」を照ら
  すことができるから、「法眼」と名づける。

  国語辞典より
    法眼・・・五眼の一。諸法を観察する智慧のまなこ。
         菩薩は、これによって諸法の真相を知り、衆生を救う。

  WikiArcより
    法・・・梵語ダルマの漢訳。達磨などと音写する。
        それ自体の本性を保持して、認識や行為の軌範となるもの。


>仏眼というは、人に就きて名と為すが故に仏眼と名づく。中道を縁ずる智を以てその体と
>為す。

  「仏眼」についていうと、ここでは属人的な命名をしているので「仏眼」と名づける。
  「中道」にもとづく智が、その体(本質・実体)である。

    ※「人に就きて名と為す(就人為名)」の意味がよくわからないが、「人に就きて」
     は「人的要素にもとづいて」つまり「だれがその眼をもっているかを基準として」
     名付けたからと理解した。ちなみに、ほかの四眼(肉眼、天眼、慧眼、法眼)は、
     どのような眼であるのかという「属性的」な命名となっている。
     (間違いがありましたらご指摘下さい)

  漢和辞典より
    体・・・かたち、もの、すがた、きまり、本質
    就・・・つく、おもむく、むかう、ちかづく、つきしたがう、なる、なす
    人・・・ひと、他人、ある人、おとな、すぐれた人
    為・・・する、できあがる、おさめる
    名・・・なまえ、評判、きこえ、功績、うわべ、外見上の形式(実の反対語)

  国語辞典より
    中道・・・仏教の基本的教義の一。対立する見解や態度を克服した立場。
    体・・・・事物の本質。実体。

  WikiArcより
    人・・・釈迦・諸仏を指す。教法を説く人。
    名・・・阿弥陀仏の名。
    中道・・・方便(権)と真実(実)を差別する立場を越えた絶対真実の教え。
         非権非実とも実相ともいう。
    体・・・・本質。本体。当体。そのもの。


>この五眼に於いて四眼はこれ別、仏眼はこれ総なり。四眼は仏に至れば悉く仏眼と名づく。
>この故に天台の『文句』の四に云わく「仏眼は円通なり。本勝にして劣を兼ぬ。四眼は
>仏眼に入ればみな仏眼と名づく」と已上。これはこれ諸教通途の説相なり。

  この五眼において、四眼は「別(個別的な見方)」であり、仏眼は「総(総体的な見方)」
  によるものである。四眼は、それが仏にいたればことごとく仏眼と名づけられる。
  だから、天台宗の『法華文句』四巻にもこう述べられている。「仏眼はすべてにいき
  わたっている。それは、すべての根本であり優れたものであるが、同時に劣った部分も
  兼ね備えている。四眼は、仏眼に入れば、すべて仏眼と名づけられる」
  これは、もろもろの教説に共通した教えの様相である。

  国語辞典より

    円通・・・真理があまねく行き渡っていること。
         修行者や仏・菩薩の知慧がすべてに及んでいること。

    通途・・・普通なこと。並であること。通常。
         〔仏〕仏教一般に共通する教義のこと。

●re.76
ボン
関東の男性
[ 1570 ] Re75:教行信証・学習ノート 2009/08/13 (Thu) 01:04 △up ▽down
(つづき)

>問う。
>『大経』の下に云わく「肉眼清徹にして分了せずということなし。天眼通達して無量無限
>なり。法眼観察して諸道を究竟す。慧眼真を見て能く彼岸に度す。仏眼具足して法性を
>覚了す」と已上。これ、上の説と同異いかん。

  問う。
  『大経』下巻ではこう述べる。「肉眼は、清く貫きとおり、物事を理解しないという
  ことはない。天眼は、くまなく行き渡り、計り知れず限りがない。法眼は、物事を
  観察して、もろもろの道を完成させる。慧眼は、真実を見て、衆生を彼岸に度すこと
  ができる。仏眼は、物事が十分にそなわっており、法性を覚り理解する。」これは、
  上の説と同じことか、それとも異なっているのか。

  漢和辞典より
    徹・・・とおる、つらぬきとおす、しみとおる
    分・・・わける、わかる、区別する、
    了・・・おわる、理解する、会得する
    覚・・・おぼえる、わかる、記憶する、さとる、気がつく、意識する

  国語辞典より
    通達・・・とどこおりなく通じること。くまなくゆきわたること。
    具足・・・物事が十分にそなわっていること。過不足なくそろっていること。
    究竟・・・絶対で最上であること。最後に到達する所。究極。

  WikiArcより
    究竟・・・完成する。到達する。


>答う。
>同あり、異あり。その同というは、五眼の功用は相濫せざるが故に。その異というは、
>今『大経』には浄土の菩薩の功徳を説くが故に、肉眼・天眼の所見の分量は人天の分に
>超えたり。仏眼に至るとは、これは菩薩所具の徳を説くが故に究竟に及ばず。
>また法と慧と、三と四と前後せり。

  答える。
  同じところもあり、異なっているところもある。その同じというのは、五眼のはたら
  きが乱れないからである。その異なっているというのは、『大経』のこの箇所は、
  浄土の菩薩の功徳を説明しているところであるから、肉眼・天眼についての所見の
  分量が、人天の分を超えた内容となっていることである。仏眼に至るというのは、
  菩薩が備えている徳を説明しているのであるから、究竟(最上の究極)には及ばない。
  また、法眼と慧眼とは、三番目と四番目の前後が入れ替わっている。

  漢和辞典より
    濫・・・水が広がるあふれる、うかべる、ひたす、みだれる、みだす

  国語辞典より
    功用・・・実際に役に立つこと。はたらき。
    究竟・・・最後に到達する所。究極。きわめて優れていること。最上。


>「肉眼清徹にして分了せず」とは、義寂の云わく
>「その所応に随いて、もしは近、もしは遠、もしは内、もしは外、みな分明
>に見る。根の精徹と境の無障とに由るが故に」。

  「肉眼清徹にして分了せず」について、義寂はこう述べる。
  「その応ずるところにしたがって、近くも、遠くも、内側も、外側も、みな明確に
  見る。その『根』が清らかに貫きとおり、その『境』に障害がないからである。」

  漢和辞典より
    精・・・白くする、まじりっけなしにする、こまかい、美しい、きよらかな
    境・・・さかい、ところ、場所、状態、身分

  WikiArcより
    根・・・教えを受ける者の資質。


>「天眼通達して無量無限なり」とは、論(『大論』第四十九)に説かく
>「菩薩の天眼に二種あり。一には果報得、二には修禅得なり。果報得とは、常に肉眼と
>合用す。ただ闇夜には天眼独り用ゆ。余人は果報の天眼を得て四天下を見る。欲界の
>諸天は下を見て上を見ず。菩薩所得の果報の天眼は三千大千世界を見る。乃至。菩薩は
>この天眼を用いて十方如恒河沙等の国土の中の衆生の生死・善悪・好醜及び善悪の
>業因縁を見るに障礙する所なし。一切皆見る。四天王天、乃至、阿迦弐?天眼の所見は、
>また能くこれに過ぎたり。この諸天は菩薩の天眼の所見を知ること能わず。何を以ての
>故に。この菩薩は三界を出でて法性生身を得、弁才力を得るが故に。この中に言う所の
>無量限とは、応に随いて通じて報得及び修を説く。四十八願の中に説く所は、最少に就
>きて説くが故に相違せず」と已上。

  「天眼通達して無量無限なり」について、論(『大論』第49)ではこう説明している。
  「菩薩の『天眼』には二種がある。一には『果報得』、二には「修禅得』である。
  『果報得』とは、常に『肉眼』と併せて用いられる。ただし、闇夜には『天眼』だけ
  が用いられる。(菩薩を除く)余人は、『果報の天眼』を得て四天下を見る。欲界の
  諸天は、下を見て上を見ない。菩薩が得るところの『果報の天眼』は、三千大千世界
  を見る。(中略)菩薩は、この天眼を用いて、何者にも妨げられずに、ありとあらゆ
  る場所の数限りないの国土に住む衆生の生死・善悪・好醜、および、善悪の業やその
  因縁を見ることができる。いっさいのものをみな見るのである。四天王天や阿迦弐?
  天眼の見るところは、また、これに過ぎることができる。この諸天は、菩薩の天眼の
  見るところを知ることができない。なぜなら、この菩薩は三界を抜け出して、法性生身
  を得て、自由自在な弁舌の力を得るからである。ここで言う『無量限』とは、応ずる
  ところにしたがって、報得および修行んついて説くことに通ずる。四十八願のなかで
  説くところは、最小限のことについて説明しているのだから、これに相違しているわ
  けではない。」

  国語辞典より
    四天下
      四州に同じ。須弥山を取り巻く九山八海の最も外側にある四大陸。
      南瞻部洲(または閻浮提)・東勝身洲・西牛貨洲・北倶盧洲の四つ。
    三千大千世界
      一人の仏の教化する世界。須弥山・日・月・四大州・上天の一世界を千集め
      たものを小千世界、それを千集めたものを中千世界、中千世界を千集めたも
      のを三千大千世界という。三界。
    恒河沙
      (1)恒河(ガンジス川)にある砂の数。数のきわめて多いたとえ。恒沙。
      (2)数の単位。極(ごく)の一億倍。すなわち一〇の五六乗。
    十方
      (1)四方(東西南北)・四隅(東南・東北・西南・西北)と上下。
      (2)あらゆる場所・方角。残るくまもないところ。
    四天王
      仏教を守護する四神。帝釈天に仕え、須弥山の中腹にある四王天の主。
      東方の持国天・南方の増長天・西方の広目天・北方の多聞天をいう。


  漢和辞典より
    通・・・かよう、とおる、とどく、つらぬく

  WikiArcより
    法性生身の菩薩・・法性真如から生じた身をもっている菩薩。
    弁才の智・・・・・自由自在な弁舌の才智。

>問う。
>「肉眼精徹」と「天眼通達」と、二眼の所見は同じく無限ならば、何をか差別とせん。

  問う。
  「肉眼精徹」と「天眼通達」というように、二眼(肉眼と天眼)の見るところのもが
  同じく無限であるならば、どこに両者の違いがあるというのだろうか。


>答う。
>憬興の云わく「現在の色像を照瞻するを名づけて肉眼と為す。能く衆生の此に死し彼に
>生ずるを見る。故に天眼と名づく」と已上。

  答える。
  憬興ではこう述べる。「現にある色像を照らし見ることを『肉眼』と名づける。
  衆生がこの地に死んで、彼の地に生ずるを見ることができることを、それゆえに
  『天眼』と名づける。」

  漢和辞典より
    瞻・・・みる、みあげる、あおぎみる


>「法眼観察して諸道を究竟し」とは、同師の云わく「法眼は即ち有智を以て体と為す。
>能く衆生の欲性の心と及び諸仏の法を見る、故に法眼と名づく。普く三乗の道法の差別を
>知る。故に究竟諸道と云う」と已上。

  「法眼観察して諸道を究竟し」について、同師(憬興)はこう述べる。「法眼は有智
  (知恵のあること)を体(本質)とする。衆生の欲を持つ性質の心と諸仏の法を見ること
  ができる。だから、法眼と名づける。広く三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)の道法
  (道と法)の違いを知っている。だから『究竟諸道(諸道を究竟し)』と言うのである。」


>義寂の云わく「余処には多く慧眼を第三と説く。この中に先ず法眼を説くことは、修起の
>次第は応に先の如く説くべし。要ず先ず真に達し、方に俗を了するが故に。然も法眼の境
>と前の二眼とは同じくこれ俗なるが故に、これはこの中には慧眼に先だちて説く。

  義寂ではこう述べる。「(『大経』以外の)ほかのところでは、慧眼を第三番目である
  と説明することが多い。この(『大経』の)なかで、先に法眼を説くことについて、
  これが作りおこされた次第は、まさに、先に述べたように説明すべきである。まず
  「真」に達することを必要とし、そこからまさに「俗」を理解しようとするためであ
  る。しかも、法眼の状態と前の二眼(肉眼・天眼)とは同じく「俗」であるから、これ
  (法眼)は、この(『大経』の)中では、慧眼に先だって説明しているのである。

  漢和辞典より
    修・・・おさめる、正す、ととのえる、かざる、つくろう、つくる、建設する
    起・・・おきる、立ち上がる、始まる、発生する、もりあがる
    応・・・まさに・・・べし
    方・・・まさに・・・しようとしている、・・・しているところである
    要・・・まねく、しめくくる、無理強いする、要求する、符合する
    境・・・さかい、ところ、場所、状態、身分


>論に云わく、菩薩初発心の時、肉眼を以て衆生の苦を受くるを見て心に慈愍を生じ、諸の
>禅定を学び五通を修得す。天眼を以て遍く六道の衆生の種種身心の苦を受くるを見て、
>ますます憐愍を加う。故に慧眼を求めて以てこれを救済す。この慧眼を得て、已に衆生の
>心相の種種不同なるを見て、云何が衆生をしてこの実法を得せしめん。故に法眼を求めて
>衆生を引導して法の中に入らしむ。故に法眼と名づく」と已上。

  『論』(龍樹菩薩)ではこう述べる。菩薩が初めて菩提心を起こしたとき、肉眼によっ
  て、衆生が苦を受けるのを見て、心に慈しみ憐れむ心を生じ、もろもろの禅定を学び、
  五通を修得する。天眼によって、あまねく六道の衆生が様々な身心の苦痛を受けるの
  を見て、ますます憐れみの心を増加させる。そこで、慧眼を求めて、それをもって、
  これ(衆生)を救済する。この慧眼を得ることにより、衆生の心相が様々に異なってい
  るのを見て、どのようにして衆生にこの真実の法を得させようか(と思案する)。だ
  から、法眼を求めて、衆生を導いて法のなかに入らせる。だから、法眼と名づけるの
  である。」

  国語辞典より
    発心・・・菩提心を起こすこと。仏となり最高の悟りに達しようと決心すること。
    憐愍・・・あわれむこと。なさけをかけること。同情。

  WikiArcより
    慈愍・・・いつくしみあわれむこと。
    五通・・・五神通のこと。天眼通・天耳通・宿命通・他心通・神足通をいう。
         これに漏尽通を加えて六神通という。

●re.77
ボン
関東の男性
[ 1571 ] Re76:教行信証・学習ノート 2009/08/13 (Thu) 01:05 △up ▽down
(つづき2)

>「慧眼真を見て能く彼岸に度す」とは、浄影の云わく「能く真空を見るが故に見真と
>名づく。有相を除捨して平等無相の彼岸に達到するを度彼岸と名づく」と已上。

  「慧眼真を見て能く彼岸に度す」について、浄影はこう述べる。「真空を見ることが
  できることから『見真(真を見て)』と名づける。有相を除き捨てて、平等で無相の
  彼岸に達到するを『度彼岸(彼岸に度す)』と名づける。」

  国語辞典より
    真空
      大乗仏教における存在の究極的な理解。
      妙有に対して、非空の空である真実の空。
      あらゆる事物は本質をもたず、因縁による仮の現象として存在すること。
    有相
      姿形をもって存在している事物。姿形をもって存在しているというありかた。
      また、その姿形。
    無相
      事物や現象が存在しないということ。非存在性。
      すべての事物・現象は本来空で、固定した姿をもたないこと
    平等
      真理の立場から見れば、事物が独立しているのではなく、
      同一の在り方をしていること。


>憬興の云わく「度とは至なり」と已上。

  憬興はこう述べる。「『度』とは『至』である。」


>義寂の云わく「論に云わく、肉眼は障外の事を見ること能わず。また遠く見ること能わず。
>この故に天眼を求む。天眼はまた見るといえども、また虚誑なり。一異の相を見るに、
>衆物の和合の虚誑の法を見る。これを以ての故に慧眼を求む。慧眼の中には、かくの如き
>の過なし」と已上。

  義寂はこう述べる。「『論』はこう述べる。肉眼は、障(さわり)の外のことを見るこ
  とができない。また、遠くを見ることができない。だから、天眼を求める。天眼は、
  また見るとはいっても、それは空しい偽りである。一異(同一かまたは異なっているか)
  の相(すがた)を見るに、衆生の物の混じりあった空しい偽りの法を見る。このような
  わけだから、慧眼を求める。慧眼の中には、このような過ちがない。」

  漢和辞典より
    虚・・・むなしい、うそ、にせ、つくりごと
    誑・・・たぶらかす、だます、いつわり

  WikiArcより
    虚誑・・・ いつわりたぶらかすこと。


>『思益』の三に云わく「もし所見あらば慧眼と名づけず。慧眼は有為の法を見ず、無為の
>法を見ず」と已上。

  『思益経』の三にこう述べる。「もし、見る対象があるならば、それは慧眼とは呼ば
  ない。慧眼は、有為の法を見ず、また、無為の法をも見ない。」

  国語辞典より
    有為
      さまざまの因縁によって生じ、常に生滅し永続しないすべての物事・現象。
      有為法。
    無為
      因果関係に支配される世界を超えて、絶対に生滅変化することのないもの。
      すなわち、涅槃・真如といった仏教の絶対的真理のこと。無為法。


>『大論』の三十三に云わく「この天眼は、和合因縁生の仮名の物を見て、実相を見ず。
>故に慧眼を求む。慧眼を得れば衆生の尽滅一異の相を見ず。諸の著を捨離して一切の法を
>受けず。智慧、自内に滅す。これを慧眼と名づく」と已上。

  『大論』』(大智度論)の三十三ではこう述べる。「この天眼は、混じりあった因縁
  から生ずる仮りの名の物を見て、実相を見ない。だから、慧眼を求める。慧眼を得れ
  ば衆生の尽きたり、滅したり、同じであったり、異なったりする相(すがた)を見ない。
  もろもろの著(あらわれ)を捨てて離れて、いっさいの法(しばり)を受けない。智慧は、
  自らの内に滅する。これを慧眼と名ける。」

  漢和辞典より
    著・・・あらわす、あらわれる、いちじるしい
    法・・・おきて、規則、やりかた、みち

>「仏眼具足して法性を覚了す」とは、義寂の云わく「また位位の中に随分に成仏す。故に
>位位の中にまた眼を具足す。経に説かく、初発心の位に已に十力分を得るが故に」と已上。

  「仏眼具足して法性を覚了す」について、義寂はこう述べる。「また、それぞれの位
  のなかで、その分にしたがって成仏する。だから、それぞれの位の中で、それぞれに
  眼を備える。経にこう説く。初めての発心の位において、十力の分を得るからである
  と。」

  WikiArcより
    十力・・・仏が具えている十種の力。


●re.78
ボン
関東の男性
[ 1572 ] Re77:教行信証・学習ノート 2009/08/19 (Wed) 23:24 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
今日世英住最勝道。仏住四智。独秀無匹故
-----------------------------------------------------------------------------
今日世英住最勝道というは、仏、四智に住したまう、独り秀でたること、
匹〈ひと〉しきことなきがゆえに。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

最勝道の中に四智というは、如来所具の功徳なり。

一には大円鏡智。第八識を転じて仏果にこれを得。諸の分別を離れてこの智の上に
於いて身土の影現すること鏡の上に於いて衆の色像を現ずるが如し。
この故に名づけて大円鏡智と為す。

二には平等性智。第七識を転じて初地にこれを得。これ自他の有情の平等を観ず。
この智品と大慈悲等の功徳と相応す。

三には妙観察智。第六識を転じて真の見道の初にこの智品を得。善く諸法の自相・共相
を観ず。

四には成所作智。前五識を転じて仏果にこれを得。普く十方に於いて種種の変化の三業
を示現して事業を応作す。

●re.79
ボン
関東の男性
[ 1573 ] Re78:教行信証・学習ノート 2009/08/19 (Wed) 23:24 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>今日世英住最勝道。仏住四智。独秀無匹故
>-----------------------------------------------------------------------------
>今日世英住最勝道というは、仏、四智に住したまう、独り秀でたること、
>匹しきことなきがゆえに。
>-----------------------------------------------------------------------------

  「今日世英住最勝道」というのは、仏が、四智に住し、ただひとり秀でており、
  それに匹敵するものがないからである。

  国語辞典より
    四智・・・唯識派に始まる概念で、仏の完成された悟りに備わる四つの智。
      (1)大円鏡智・・・万物の真理の姿を示す智
      (2)平等性智・・・自他が根本的に区別のない同一の存在であることを知る智
      (3)妙観察智・・・教化の対象をよく知り、的確な説法を行う智
      (4)成所作智・・・対象に適した変化を示す智

  WikiArcより
    四智・・・仏の四種の智慧
      (1)大円鏡智・・・大きなくもりのない鏡のように、すべてを照し出す智。
      (2)平等性智・・・すべての事象は平等であると知る智。
      (3)妙観察智・・・すべての事象をありのままに観察する智。
      (4)成所作智・・・なすべきすべての事をなしとげ衆生を救済する智。
         四智は、それぞれ八識の阿頼耶識、末那識、意識、
         他の五識が真理に転換して生ずるとされる。

  国語辞典より
    八識・・・五官やからだを通じて対象を認識する八種の心的作用。
         眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識

    阿頼耶識(第八識)
      知覚や認識・推論・自己意識などの諸意識の根底にある意識。すべての心の
      働きの源となるもの。唯識思想の八識の第八。阿頼耶識を煩悩をもつとするか、
      真如とするかは説によって分かれる。阿梨耶識。頼耶。頼耶識。蔵識。無没識。

    末那識(第七識)
      諸感覚や意識を統括して、自己という意識を生み出す心のはたらき。自己意識。
      空の考えに反する誤った意識とされる。唯識思想の八識の第七。


  ウィキペディアより
    八識
      仏教の意識作用の8種をいう。4世紀のインドに興った瑜伽行唯識学派によって
      立てられた。なお、天台宗では、さらに第九・阿摩羅識を立てて全九識とする。
      また真言宗ではさらに第十・乾栗陀耶識を立て全十識とする。

    阿頼耶識(第八識)
      唯識思想により立てられた心の深層部分の名称であり、大乗仏教を支える根本
      思想である。8つの識のうち第8番目で、人間存在の根本にある識であると考え
      られている。

    阿摩羅識(菴摩羅識・無垢識)
       天台宗や華厳宗などの法性宗は、(八識に)この阿摩羅識を加えて新たに
       九識を立てた。天台宗では、阿摩羅識をけがれが無い無垢識・清浄識、
       また真如である真我、如来蔵、心王であるとし、すべての現象はこの
       阿摩羅識から生れると位置づけた。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>最勝道の中に四智というは、如来所具の功徳なり。

  「最勝道」の説明のなかにある四智というは、如来がそなえている功徳である。


>一には大円鏡智。第八識を転じて仏果にこれを得。諸の分別を離れてこの智の上に
>於いて身土の影現すること鏡の上に於いて衆の色像を現ずるが如し。
>この故に名づけて大円鏡智と為す。

  その第一は大円鏡智である。この智は、第八識(阿頼耶識)を転じて、仏になった果報
  として獲得されるものである。もろもろの分別(我にとらわれた意識)を離れて、この
  智(大円鏡智)のうえに身土(わが身とそのとりまく国土)の影が現われることは、鏡の
  うえに衆生の色像(すがた・形)を現わすようなものである。だから大円鏡智と呼ぶ。

  国語辞典より
    仏果・・・仏道の修行によって得た仏の境地。
    分別・・・虚妄である自他の区別を前提として思考すること。
         転じて、我にとらわれた意識。

  ウィキペディアより
    身・・・今までの行為の結果=正報
    土・・・身がよりどころにしている環境=依報

  WikiArcより
    色像・・・すがた。形。

>二には平等性智。第七識を転じて初地にこれを得。これ自他の有情の平等を観ず。
>この智品と大慈悲等の功徳と相応す。

  第二は平等性智である。第七識(末那識)を転じて初地にこれを得る。これは自分や
  他者などの有情が平等である(独立した存在ではない)ことを観る智である。
  この智の品(等級・位)と大慈悲などの功徳とが相応(和合・統一)している。

  国語辞典より
    平等
      真理の立場から見れば、事物が独立しているのではなく、
      同一の在り方をしていること。
    相応
      複数の事柄が親しく和合していたり、統一されていたりすること。

  漢和辞典より
    品・・・多い、しな、もの、性質、等級、くらい

  WikiArcより
    智品・・・真如法性をさとる智慧のこと。


>三には妙観察智。第六識を転じて真の見道の初にこの智品を得。善く諸法の自相・共相
>を観ず。

  第三は妙観察智である。第六識(意識)を転じて真の見道の初にこの智の品(等級・位)を
  得る。もろもろの法の自相(それ自体のすがた)と共相(全体のなかでのすがた)を観る。

  国語辞典より
    見道
      真理を知るための、煩悩に汚されることのない智慧を起こして、仏教の
      基本的真理である四諦を、知性的な理解ではなく、直観的に明瞭に見る位。
      この位に入ると、凡夫から聖者に変わる。

  WikiArcより
    須陀おん
      はじめて法の流れに入ったものの意。声聞の修道階位、四向四果の中の初位
      で、三界の見惑(分別によって起す知的なまよい)を断じつつある位を
      須陀おん向(見道)といい、断じ尽した位を須陀おん果(修道)という。

  『成唯識論』・・・法相宗(唯識宗)が所依とする論典の一つ
    「眞といふは、謂く自相なり。假智と及び詮とにおいて、倶に境に非ざるが
    故なり。謂く、假智と詮とは自相を得ず、唯諸法の共相に於てのみ轉ず。」

  http://ameblo.jp/renshi/ より
    自相・共相
      自相・・・それ自体においてあるところの個体
      共相・・・普遍・一般のなかでの特殊性


>四には成所作智。前五識を転じて仏果にこれを得。普く十方に於いて種種の変化の三業
>を示現して事業を応作す。

  第四は成所作智である。これは、前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)が転じて、
  仏になった果報として獲得されるものである。ありとあらゆるところで、様々な変化
  の三業(身業・口業・意業)を現して、なすべきことに応じてそれを行うのである。

  国語辞典より
    応作(=応化=応現=応用)
      仏や菩薩が衆生を救うために、時機に応じた姿となって現れること。

  漢和辞典より
    事・・・こと、事情、なす、いとなむ、つとめる
    業・・・わざ、おこない、仕事、てがら
    応・・・あたる、対応する、あしらう、こたえる
    作・・・つくる、なす、行う

●re.80
ボン
関東の男性
[ 1574 ] Re79:教行信証・学習ノート 2009/08/21 (Fri) 00:03 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
今日天尊行如来徳。即第一義天。以仏性不空義故。
-----------------------------------------------------------------------------
今日天尊行如来徳というは、すなわち第一義天なり。仏性不空の義をもってのゆえに。
-----------------------------------------------------------------------------

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

如来徳の中に「すなわち第一義天なり」等というは、釈の意は全く浄影の所解に同じ。
その釈は初に在り。重ねて挙ぐること能わず。

●re.81
ボン
関東の男性
[ 1575 ] Re80:教行信証・学習ノート 2009/08/21 (Fri) 00:03 △up ▽down

本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>今日天尊行如来徳。即第一義天。以仏性不空義故。
>-----------------------------------------------------------------------------
>今日天尊行如来徳というは、すなわち第一義天なり。仏性不空の義をもってのゆえに。
>-----------------------------------------------------------------------------

  「今日天尊行如来徳」についていえば、それはすなわち「第一義天」である。
  それは「仏性不空」の義のためである。

  WikiArcより
     仏性不空・・・仏性は、空ではなく、無量の徳用をもち、常住であること
     徳用・・・・・徳のはたらき。すぐれたはたらき。

  大辞泉より
     徳用・・・功徳の力。
     常住・・・仏語。永遠不変なこと。変化しないで常に存在すること。⇔無常。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>如来徳の中に「すなわち第一義天なり」等というは、釈の意は全く浄影の所解に同じ。
>その釈は初に在り。重ねて挙ぐること能わず。

  如来徳の中に「すなわち第一義天なり」等について、その釈の意(こころ)は全く浄影
  の解説と同じである。その釈は初めに述べてあるので、ここで重ねて取り上げるまで
  もない。

●re.82
ボン
関東の男性
[ 1576 ] Re81:教行信証・学習ノート 2009/08/23 (Sun) 02:02 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
阿難當知如来正覚。即奇特之法。慧見無礙。述最勝之道。無能遏絶。即如来之徳。已上。
-----------------------------------------------------------------------------
阿難当知如来正覚というは、すなわち奇特の法なり。慧見無碍というは、最勝の道を
述するなり。無能遏絶というは、すなわち如来の徳なり。已上。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「阿難」以下は前の問に対する文なり。ただしこの所対は浄影と憬興と少しきの不同あり。
「如来正覚」已下の三句は所対全く同じ。「慧見無碍無能遏絶」。今この二句前後相翻せ
り。いわゆる浄影は上の所引の如し。興は今の文の如し。

問う。所引の釈の中に何ぞ中間の「其智難量多所導御」の二句を除くや。

答う。別の意趣なし。ただ初後を挙げて、その中間を略す。省略の義なり。

●re.83
ボン
関東の男性
[ 1577 ] Re82:教行信証・学習ノート 2009/08/23 (Sun) 02:03 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>阿難當知如来正覚。即奇特之法。慧見無礙。述最勝之道。無能遏絶。即如来之徳。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------
>阿難当知如来正覚というは、すなわち奇特の法なり。慧見無碍というは、最勝の道を
>述するなり。無能遏絶というは、すなわち如来の徳なり。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------

  「阿難当知如来正覚」というのは、すなわち「奇特の法」である。「慧見無碍」と
  いうのは、「最勝の道」を述べるものである。「無能遏絶」というは、すなわち
  「如来の徳」である。

  WikiArcより
    奇特の法・・・特にすぐれた禅定。
    慧見無碍・・・仏の智慧が自在であること。
    最勝の道・・・最もすぐれた智慧の境地。
    無能遏絶・・・仏の徳はさえぎりとどめられないこと。
    如来の徳・・・自利利他を円満した徳。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「阿難」以下は前の問に対する文なり。ただしこの所対は浄影と憬興と少しきの不同あり。
>「如来正覚」已下の三句は所対全く同じ。「慧見無碍無能遏絶」。今この二句前後相翻せ
>り。いわゆる浄影は上の所引の如し。興は今の文の如し。

  「阿難」以下は、前の問いに対する文である。ただし、この部分を浄影と憬興とのあ
  いだで対比してみると、少し違いがある。「如来正覚」以下の三句は、比較したとこ
  ろ全く同じである。しかし、「慧見無碍無能遏絶」の二句は、お互いに前後が逆さま
  になっている。浄影は、上の引用のとおりである。憬興は、今の文のとおりである。


>問う。所引の釈の中に何ぞ中間の「其智難量多所導御」の二句を除くや。

  問う。引用した釈の中で、どして中間の「其智難量多所導御」の二句を除くのか。


>答う。別の意趣なし。ただ初後を挙げて、その中間を略す。省略の義なり。

  答う。別に意味はない。ただ、最初と最後を挙げて、その中間を略しているのである。
  省略したわけである。

●re.84
ボン
関東の男性
[ 1578 ] Re83:教行信証・学習ノート 2009/08/26 (Wed) 01:49 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
爾者則此顕真実教明証也。誠是如来興世之正説。奇特最勝之妙典。一乘究竟之極説。
速疾円融之金言。十方称讃之誠言。時機純熟之真教也。応知。
-----------------------------------------------------------------------------
しかればすなわち、これ顕真実教の明証なり。誠にこれ、如来興世の正説、奇特最勝
の妙典、一乗究竟の極説、速疾円融の金言、十方称讃の誠言、時機純熟の真教なりと、
知るべし。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「爾者」已下はこれ総結なり。今その中に於いて「如来興世の正説」とは、出世本懐、
済凡の義は上に具に述ぶるが如し。「奇特最勝の妙典」とは、奇特の法に住し、最勝の
道に住して説く所の教なるが故に。「一乗究竟の極説」とは、この経の下に云わく
「一乗を究竟して、彼岸に至る」と已上。

義寂の釈に云わく「一妙道を以て普く群生を載せて自他倶に無為の岸に至る」と已上。
この徳を得べき極説なるが故に。「速疾円融の金言」とは、また云わく「一世の勤苦は
須臾の間なりといえども、後に無量寿仏国に生じて快楽極まりなし。長く道徳と合して
明らかなり。永く生死の根本を抜く」と已上。「須臾の間」「永く生死の根本を抜く」
はこれ速疾の益なり。

また云わく「横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ず」と已上。「横截」というは、頓速の
義なり。また云わく「法を聞きて楽いて受行し、疾く清浄処を得よ」と已上。
また『覚経』に云わく「速疾に超えて便ち安楽国の世界に到るべし」と已上。
また『十住毘婆沙論』に云わく「若し人疾く不退転地に至らむと欲せば、恭敬心を以て、
執持して名号を称すべし」と已上。『浄土論』に云わく「能く速やかに功徳の大宝海を
満足せしむ」と已上。これみな速疾得益の義なり。

「円融」というは、序の中に述ぶるが如し。

「十方称讃の誠言」とは、第十七の願の諸仏咨嗟、則ちその意なり。
『小経』所説の諸仏の証誠はこの願に依らまくのみ。

「時機純熟の真教」とは、釈尊の興世、大悲の本懐は、これ時機の純熟に依るが故なり。
流通文に云わく「当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲をもって哀愍して、ことにこの経を
留めて止住すること百歳せん」と已上。法滅百歳の時の下機は、なお以て得脱す。何に
況んや末法最初の今は、時節相応し機縁純熟す。『西方要決』に云わく「末法万年に余経
悉く滅す。弥陀の一教の物を利すること、ひとえに増せん」と已上。

当巻の大旨、略して述ぶること、かくの如し。

●re.85
ボン
関東の男性
[ 1579 ] Re84:教行信証・学習ノート 2009/08/26 (Wed) 01:57 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>爾者則此顕真実教明証也。誠是如来興世之正説。奇特最勝之妙典。一乘究竟之極説。
>速疾円融之金言。十方称讃之誠言。時機純熟之真教也。応知。
>-----------------------------------------------------------------------------
>しかればすなわち、これ顕真実教の明証なり。誠にこれ、如来興世の正説、奇特最勝
>の妙典、一乗究竟の極説、速疾円融の金言、十方称讃の誠言、時機純熟の真教なりと、
>知るべし。
>-----------------------------------------------------------------------------

  このようなわけで、これは真実を明らかにする教えであることの明証である。まっ
  たくもって、これは、如来がこの世にお出ましになることの正しい説明であり、希に
  見る最も勝れた妙典であり、一乗教の究極の説であり、速疾円融の金言であり、
  十方が称讃をする誠(まこと)の言葉であり、時機純熟の真実の教えであると、知る
  べきである。

  大辞林より
    奇特・・・珍しいさま。不思議なさま。
    究竟・・・絶対で最上であること。最後に到達する所。究極。

  WikiArcより
    一乗
      一仏乗ともいう。三乗に対する語。一は唯一無二、乗は乗物の意で、一切の
      衆生を載せてひとしくさとりに至らしめる唯一の教法のこと。大乗仏教の
      唯一にして最高の教え。浄土真宗では、とくに阿弥陀仏の本願の教えをもっ
      て一乗法であるとする。
    一乗究竟の極説
      一切の衆生をことごとく仏のさとりに至らせる一乗教の究極を説きあらわし
      た最高の教え。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「爾者」已下はこれ総結なり。今その中に於いて「如来興世の正説」とは、出世本懐、
>済凡の義は上に具に述ぶるが如し。「奇特最勝の妙典」とは、奇特の法に住し、最勝の
>道に住して説く所の教なるが故に。「一乗究竟の極説」とは、この経の下に云わく
>「一乗を究竟して、彼岸に至る」と已上。

  「爾者」以下は、まとめて締めくくる言葉である。その中で「如来興世の正説」に
  ついていえば、それが「出世の本懐」と「凡夫の救済」を意味していることは、
  これまでに詳しく述べたとおりである。「奇特最勝の妙典」というのは、たぐい希な
  法にのっとり、最も勝れた道にしたがって説くところの教であるがためである。
  「一乗究竟の極説」というのは、この経(大経)の下に述べるとおり「一乗の教えを
  突き詰めて、彼岸に至る」ということである。


>義寂の釈に云わく「一妙道を以て普く群生を載せて自他倶に無為の岸に至る」と已上。
>この徳を得べき極説なるが故に。「速疾円融の金言」とは、また云わく「一世の勤苦は
>須臾の間なりといえども、後に無量寿仏国に生じて快楽極まりなし。長く道徳と合して
>明らかなり。永く生死の根本を抜く」と已上。「須臾の間」「永く生死の根本を抜く」
>はこれ速疾の益なり。

  義寂の釈ではこう述べる。「ひとつの妙なる道をもって、あまねく群生を載せて、
  自他ともに無為の岸に至る。」それは、この徳を獲得すべき究極の説であるからであ
  る。「速疾円融の金言」について、また次のように述べる。「この世の一生の間の
  勤め苦しみはしばしの間のことであるが、後に無量寿仏国に生まれて、その快楽は
  極まりがない。長く道徳(さとりの功徳)と合わさって明らかである。生死を繰り返す
  根源となっていたものを、永遠に抜き去るのである。」「須臾の間(しばしの間)」
  「永く生死の根本を抜く」というのは、「速疾(素早いこと)」によって得られる
  利益である。

  大辞林より
    無為
      因果関係に支配される世界を超えて、絶対に生滅変化することのないもの。
      すなわち、涅槃・真如といった仏教の絶対的真理のこと。
    須臾
      少しの間。しばし。
    一世
      過去・現在・未来の三のうちの一つ。現在。
    勤苦
      つとめくるしむこと。非常に骨を折ること。

  WikiArcより
    無為
      梵語アサンスクリタの漢訳。有為に対する語。種種の原因や条件(因縁)に
      よって生成されたものではない存在。すなわち生滅変化を超えた常住不変の
      真実のこと。涅槃の異名。
    道徳
      さとりの功徳。


>また云わく「横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ず」と已上。「横截」というは、頓速の
>義なり。また云わく「法を聞きて楽いて受行し、疾く清浄処を得よ」と已上。
>また『覚経』に云わく「速疾に超えて便ち安楽国の世界に到るべし」と已上。
>また『十住毘婆沙論』に云わく「若し人疾く不退転地に至らむと欲せば、恭敬心を以て、
>執持して名号を称すべし」と已上。『浄土論』に云わく「能く速やかに功徳の大宝海を
>満足せしむ」と已上。これみな速疾得益の義なり。

  (義寂は)また次のように述べる。「横ざまに五悪趣を断ち切り、悪趣が自然に閉じる」
  「横截(横ざまに断ち切る)」というのは、「頓速(急に素早い)」という意味である。
  また次のように述べる。「法を聞いて、お願いをして(楽にして)、行を授かり、素早く
  清浄なところを獲得せよ。」また『覚経』ではこう述べる。「速やかに超えて、すぐに
  安楽国の世界に到るべきである。」また『十住毘婆沙論』ではこう述べる。「もし、
  だれでも素早く『不退転の地』に行こうとするのなら、つつしみ敬う心をもって、
  しっかりと取り保ち、名号を称えるべきである。」『浄土論』ではこう述べる。
  「(称名によって)速やかに功徳の大きな宝の海を満たすことができる。」これらは、
  すべて、「速疾得益(素早く利益を得る)」という意味である。

  大辞林より
    五悪趣
      煩悩を断ちきれぬ者が死後に生まれかわる五種類の存在、またその生活。
      天上・人間・地獄・畜生・餓鬼。五悪道。五道。
    不退地
      再び迷界に退転することのない地。極楽浄土。
    恭敬
      つつしみうやまうこと
    執持
      しっかり持つこと。

  WikiArcより
    五悪趣
      五悪道・五趣・五道ともいう。衆生が自分のなした悪い行為(悪業)によって
      導かれ赴くところ。地獄・餓鬼・畜生・人・天の迷いの世界のことをいう。
    悪趣
      衆生が自分のなした悪い行為(悪業)によって導かれ趣くところの生のありさ
      まで、迷いの世界のことをいう。迷いの境界を地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・
      人・天の六趣(六道)とし、阿修羅を除いて五趣(五道)という。その中、
      地獄・餓鬼・畜生を三悪趣(三悪道)といい、人・天を善趣というが、広く
      六道(五道)を悪趣という場合もある。
    受行
      受持奉行。教えを受けて、その通り行ずること。
    恭敬の心
      つつしみ敬う心。ここでは他力の信心のこと。
    執持
      しっかりととりたもつこと。親鸞聖人はこれを阿弥陀仏の名号を信じ称える
      ことと解釈された。

  漢和辞典より
    頓・・・ぬかずく、とどまる、やめる、にわかに、急に
    楽・・・うたう、かなでる、たのしむ、ねがう、心身がのびのびする
    便・・・すなわち、〜するとすぐに

  「一念多念証文」より
    功徳の大宝海
      「功徳」と申すは名号なり、「大宝海」はよろづの善根功徳満ちきはまるを
      海にたとへたまふ。

●re.86
ボン
関東の男性
[ 1580 ] Re85:教行信証・学習ノート 2009/08/26 (Wed) 02:16 △up ▽down
(つづき)

>「円融」というは、序の中に述ぶるが如し。

  「円融」については、序の中に述べたとおりである。

   「序」の解説(その部分では省略していました)
     「円融」というは、これ隔歴に対す。乃ちこれ円満融通の義なり。
     この阿弥陀の三字は即ちこれ空仮中の三諦の理たるが故に名づけて
     円融至徳の嘉号という。

       「円融」というのは「隔歴(各々が隔たっている状態)」に対する言葉で
       ある。すなわち、これは「円満融通(完全に満たされ滞りなく通ずる)」と
       いう意味である。この阿弥陀の三字は、「空仮中の三諦」の理(ことわり)
       であるために「円融至徳の嘉号」と呼ぶのである。

  大辞林より
    円満
      悟り・智慧・往生・願いなどが完全に実現すること。成就すること。
    融通
      とどこおりなく通ずること。
    空仮中
      天台宗の教義の中心的な考え方である三諦のこと。
    三諦
      天台宗の根本教義の一。空・仮・中の三つの真理。
      すなわち、この世の事物は
        すべて実体ではないとする空諦、
        すべて縁起によって生じた現象であるとする仮諦、
        すべては空・仮を超えた絶対的真実であるとする中諦
      の総称。三諦は孤立して成立するのではなく、同時に一つの真理として
      成立するもので、それを三諦円融という。空仮中。

  漢和辞典より
    隔・・・へだてる、しきりをつける、間をあける、離す、さえぎる
    歴・・・へる、すぎる、こえる、ひとつひとつ、まばらでふぞろいなさま


>「十方称讃の誠言」とは、第十七の願の諸仏咨嗟、則ちその意なり。
>『小経』所説の諸仏の証誠はこの願に依らまくのみ。

  「十方称讃の誠言(十方が称讃するまことの言葉)」というのは、第17願「諸仏咨嗟」
  の意(こころ)である。『小経(阿弥陀経)』で説くところの「諸仏の証誠」は、この
  願に依っている。

  WikiArcより
    咨嗟
      讃嘆の意で、ほめたたえること。
    諸仏証誠の行
      『小経』において、念仏往生の法門がまことであることを六方の諸仏が証明
       したもうこと。


>「時機純熟の真教」とは、釈尊の興世、大悲の本懐は、これ時機時機の純熟に依るが故なり。
>流通文に云わく「当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲をもって哀愍して、ことにこの経を
>留めて止住すること百歳せん」と已上。法滅百歳の時の下機は、なお以て得脱す。何に
>況んや末法最初の今は、時節相応し機縁純熟す。『西方要決』に云わく「末法万年に余経
>悉く滅す。弥陀の一教の物を利すること、ひとえに増せん」と已上。

  「時機純熟の真教」というのは、「釈尊の興世(釈尊がこの世にお出ましになること)」
  や「大悲の本懐(いつくしみの本当の思い)」は、その機会が熟したということによる
  からである。(大経の)流通文ではこう述べる。「きたるべき世に、諸経に教示された
  解脱の道が滅び尽きてしまったときに、私は、慈悲をもって衆生を憐れみ、特別に、
  この大経の教えだけは留めて、もう100年間は存続させようと思う。」法が滅びて100
  年を経たのちも、下根の機は、なおもって悟りを得ることができるのである。ましてや、
  末法の最初の今は、時節が相応して、機縁が熟しているのである。『西方要決』では
  こう述べる。「末法万年に(大経以外の)ほかの経は、ことごとく滅びてしまう。弥陀
  の一教がすべてのものを利益することは、ひとえに増大するであろう。」

  大辞林より
    時機・・・あることをするのに適したとき。しおどき。機会。チャンス。
    純熟・・・時機が熟すること。事がととのうこと。
    当来・・・きたるべき世。未来。来世。
    得脱・・・悟りを得ること。得道。
    下機・・・「下根」に同じ

  WikiArcより
    経道・・・諸経に教示された解脱の道。
    下機・・・修行能力の劣ったもの。

  『西方要決』・・・慈恩大師(後期唯識の教えである中国法相宗の大成者)の釈


>当巻の大旨、略して述ぶること、かくの如し。

  当巻(教巻)の大旨を略して述べるならば、このようなことである。

●re.87
ボン
関東の男性
[ 1581 ] Re86:教行信証・学習ノート 2009/08/26 (Wed) 03:02 △up ▽down
みなさま、こんばんは

ここの段で、特に印象に残った部分がありましたので、再度、記載します。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  義寂「聞法楽受行。疾得清浄処。」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  義寂「法を聞きて楽いて受行し、疾く清浄処を得よ」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  義寂「法を聞いて、お願いをして(楽にして)、行を授かり、
     素早く清浄なところを獲得せよ。」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

なお、ここで教巻は終了です。

南无阿彌陀佛

●re.88
菩提心
非公開の非公開
[ 1582 ] Re87:教行信証・学習ノート 2009/08/26 (Wed) 10:05 △up ▽down
ボン様

おはようございます。

早速、プリントアウトしました。

ログ検索にかけてみると、88件だったので、小さな活字にはなりましたが、全部印刷出来ました。100%にすると101ページ分ありました。

実際は100ページで収まります。

過去にも、パソコンの画面を見るのでなく、直接印刷したものを読んできましたので、これからじっくり眺めていきたいと思います。

遅々として進まないと思いますが、真実信心のお方の文章はとても嬉しいです。

有難うございました。

これからも続きの「教行信証・学習ノート」、楽しみに待っています。

南无阿彌陀佛

●re.89
ボン
関東の男性
[ 1583 ] Re88:教行信証・学習ノート 2009/08/27 (Thu) 01:55 △up ▽down
菩提心様、こんばんは。

コメントをいただき、ありがとうございます。

これまで「御文」以外はまともに通して読んだことのない私にとっては、
ほとんどすべての言葉が初めてみるものでしたので、いちいち調べながら読むのは
なかなか骨が折れます。

しかし、少しずつ言葉がわかってくると、だんだんと読みやすくなってきたような
気もして、楽しみながらやっています。

ところで、あとでわかったことですが、「聞法楽受行。疾得清浄処。」は、
義寂ではなくて「大経」の下巻のなかに、すでに出てくる言葉のようです。

「六要鈔会本」のなかでは、義寂からの引用のあとで、「また云わく」「また云わく」
と更に続いたのちにこの文章がでてくるので、義寂からの引用と思ってしまいました。

ここで最も興味深かったのは、「受行」ということばです。

WikiArcによると、受行とは、「受持奉行。教えを受けて、その通り行ずること。」と
なっていますが、文字通りそのまま読むと「行を受ける」または「受けて行ずる」と
なります。

「行を受ける」でも「受けて行ずる」でも、どちらでもいいのですが、私たちのような
ものから見ると、「ああ、やはり、行は受けるものなのか」と、とてもうれしく感じる
わけです。

それも、大経のなかに、すでにそのように書かれているということであれば、
本当にもう、これ以上のことはないわけですよね。

このような楽しい発見が今後もあることを期待しつつ、また「亀のような歩みで」
学習を続けていきたいと思っております。

ありがとうございました。

南无阿彌陀佛

●re.90
酒天童子
関東の男性
[ 1584 ] Re89:教行信証・学習ノート 2009/08/27 (Thu) 17:42 △up ▽down
ボン様

こんにちは酒天童子です。
ご無沙汰しております。

教巻の終了、お疲れ様です。

小生、用紙を横にして少し大きめに印刷して読んでおりました。
ここまでで、222ページになっています。

時間のある時々にじっくり、ゆっくり読み返しております。

ボン様の苦労の跡がしのばれますが、とてもよい仕事であると感じ入り、また勉強になり有り難いことです。

一時期、お休みの期間がありましてちょっと心配しておりましたが、ここで一気に進みましたね。

これからも焦らず、無理せず、一歩一歩執筆を続けてくれたら嬉しいです。


南无阿彌陀佛

●re.91
ボン
関東の男性
[ 1585 ] Re90:教行信証・学習ノート 2009/08/28 (Fri) 02:29 △up ▽down
酒天童子様、こんばんは。

励ましのお言葉をいただき、ありがとうございます。

菩提心様も、酒天童子様も、間違いがあるかもしれない学習ノートを、
わざわざプリントアウトしていただいてることを知って、
お恥ずかしいやら、恐れ多いやら、恐縮するばかりです。

ただ、こうして同行の皆さまに学習のプロセスをご覧いただき、不明な点を教えていた
だいたり、励ましをいただくことができて、本当にありがたいことだと思っております。

これも、毎日様がこのような場所をご提供下さっているおかげと思い、
心から感謝しております。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.92
ボン
関東の男性
[ 1587 ] Re91:教行信証・学習ノート 2009/08/29 (Sat) 00:30 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
顕浄土真実行文類二
-----------------------------------------------------------------------------

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

当巻大文第二に行を明かす。中に於いて五と為す。

一には題目。

二には標挙。題の後の一行は第一巻の如し。彼は総じて経名を標し、
これは別して願名を標す。以下の諸巻また当巻に同じ。

三には正釈。文初より下終り、下に『安楽集』に「これまた聖教に依る」と云う文を
引くに至るまで、これなり。広く諸文を引き、少しき私の釈を加う。

四には総結。「斯乃」より下、「之大行也可知」というに至るまで、二行余これなり。

五には重釈。次に「言他力者」というより下、巻の終わりに至るまで、これなり。


初に題目の中に、二に分つこと前に準ず。題に就きて第一には教といい、一という。
この巻の題には行といい、二という。次第知るべし。

●re.93
ボン
関東の男性
[ 1588 ] Re92:教行信証・学習ノート 2009/08/29 (Sat) 00:31 △up ▽down
>-----------------------------------------------------------------------------
>顕浄土真実行文類二
>-----------------------------------------------------------------------------


以下、六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>当巻大文第二に行を明かす。中に於いて五と為す。

  当巻は、大文の第二として、「行」を明きらかにする。
  そして、そのなかは、五つの部分からなっている。


>一には題目。

  その第一は、題目(顕浄土真実行文類二)である。


>二には標挙。題の後の一行は第一巻の如し。彼は総じて経名を標し、
>これは別して願名を標す。以下の諸巻また当巻に同じ。

  第二には、標挙(諸仏称名の願 浄土真実の行・選択本願の行)である。
  題目(顕浄土真実行文類二)の後の一行(諸仏称名の願)は第一巻と同様のスタイルで
  ある。しかし、そちら(第一巻)は総合的な見地から経名(大無量寿経)を標しており、
  一方、こちら(第二巻)は個別的な見地から願名(諸仏称名の願)を標している。
  以下の諸巻もまた、当巻と同様に、それぞれ願名を標している。


>三には正釈。文初より下終り、下に『安楽集』に「これまた聖教に依る」と云う文を
>引くに至るまで、これなり。広く諸文を引き、少しき私の釈を加う。

  第三には正釈(釈の本体)である。文の初めより、『安楽集』から「これまた聖教に
  依る」という文を引用するに至るまでが、これである。広く諸文を引用し、少々の
  私的な釈を加えている。


>四には総結。「斯乃」より下、「之大行也可知」というに至るまで、二行余これなり。

  第四には総結(まとめとむすび)である。「斯乃」から「之大行也可知」に至るまでの
  二行あまりが、これである。


>五には重釈。次に「言他力者」というより下、巻の終わりに至るまで、これなり。

  第五には重釈(さらに釈を重ねたもの)である。総結の次に「言他力者」というところ
  から、巻の終わりに至るまでが、これである。


>初に題目の中に、二に分つこと前に準ず。題に就きて第一には教といい、一という。
>この巻の題には行といい、二という。次第知るべし。

  初めの題目の中を二に分けることは、前(教巻)に準ずる。題について第一(教巻)には
  「教」といい、「一」という。この巻(行巻)の題には「行」といい、「二」という。
  その次第を知るべきである。

●re.94
ボン
関東の男性
[ 1589 ] Re93:教行信証・学習ノート 2009/08/31 (Mon) 00:59 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
諸仏称名之願 浄土真実之行 選択本願之行
-----------------------------------------------------------------------------

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

二に標挙の中に、「諸仏称名の願」とは、これ第十七願なり。これ則ち往生の行たる
名号を説く願なるが故に当巻にこれを出だす。凡そ四十八願の中に於いて、この願は
至要なり。

もしこの願なくば、名号の徳は何ぞ十方に聞こえん。聞きて信行するはこの願の力なり。
もしこの願なくば、超世の願意、諸仏は何んぞ証せん。証に依りて信を立つるは、
またこの願の恩なり。

浄土真実の行とは、往生の行の中に仏の本願なるが故に正しく念仏を以てその生因と為す。
故に真実という。これ称名なり。余は本願に非ず。故に真実に非ず。

選択本願の行とは、その意また同じ。念仏は正しくこれ選択本願なり。余は選択本願の行
にあらず。故に念仏を以て真実の行と云い、選択の行と云う。

●re.95
ボン
関東の男性
[ 1590 ] Re94:教行信証・学習ノート 2009/08/31 (Mon) 01:00 △up ▽down
>-----------------------------------------------------------------------------
>諸仏称名之願 浄土真実之行 選択本願之行
>-----------------------------------------------------------------------------

本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>二に標挙の中に、「諸仏称名の願」とは、これ第十七願なり。これ則ち往生の行たる
>名号を説く願なるが故に当巻にこれを出だす。凡そ四十八願の中に於いて、この願は
>至要なり。

  第二に、標挙のなかに「諸仏称名の願」とあるのは、これは第十七願のことである。
  これ(第十七願)は、すなわち、「往生の行であるところの名号」を説く願であるが
  ゆえに、当巻(行巻)にこれを出だしているのである。およそ四十八願のなかにおいて、
  この願はきわめて重要である。


>もしこの願なくば、名号の徳は何ぞ十方に聞こえん。聞きて信行するはこの願の力なり。
>もしこの願なくば、超世の願意、諸仏は何んぞ証せん。証に依りて信を立つるは、
>またこの願の恩なり。

  もしこの願がなければ、名号の徳はどうして十方に聞こえるのだろう。「聞いて信じて
  行ずる」というのは、この願の力である。もしこの願(17願)がなければ、世に超えて
  勝れている阿弥陀仏の願意(願のこころ)を、諸仏はどのようにして証することができ
  るであろう。「証」によって「信」を立てるということは、またこの願によって与え
  られた恵みである。

  大辞林より
    超世・・・世に超えすぐれていること。
         特に、阿弥陀仏が三世の諸仏より超えすぐれていること。
    恩・・・・他の人から与えられためぐみ。いつくしみ。

  ※「証によって信を立てる」というのは、どういうことなのでしょう?


>浄土真実の行とは、往生の行の中に仏の本願なるが故に正しく念仏を以てその生因と為す。
>故に真実という。これ称名なり。余は本願に非ず。故に真実に非ず。

  「浄土真実の行」というのは、「往生の行」のなかでも、これが仏の本願であるがゆ
  えに、まさしく「念仏」をもって浄土に生まれる因とするのである。ゆえに、真実
  という。これが称名である。そのほかは、仏の本願ではない。だから真実でもない。


>選択本願の行とは、その意また同じ。念仏は正しくこれ選択本願なり。余は選択本願の行
>にあらず。故に念仏を以て真実の行と云い、選択の行と云う。

  「選択本願の行」というのも、その意(こころ)はまた同じである。念仏は、まさしく
  選び出された本願である。そのほかは、選び出された本願の行ではない。だから、
  念仏をもって真実の行といい、選択の行というのである。

●re.96
ボン
関東の男性
[ 1591 ] Re95:教行信証・学習ノート 2009/09/04 (Fri) 00:37 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
謹按往相回向。有大行有大信。大行者則称無礙光如来名。斯行即是摂諸善法。具諸徳本。
極速円滿。真如一実功徳宝海。故名大行。然斯行者出於大悲願。即是名諸仏称揚之願。
復名諸仏称名之願。復名諸仏咨嗟之願。亦可名往相回向之願。亦可名選択称名之願也。
-----------------------------------------------------------------------------
(御自釈)謹んで往相回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行というは、すなわち
無碍光如来の名を称するなり。この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろも
ろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。故に大行と名づく。しかる
にこの行は、大悲の願より出でたり。すなわちこれ諸仏称揚の願と名づく。また諸仏称
名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく。また往相回向の願と名づくべし。また
選択称名の願と名づくべきなり。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

三に正釈の中に就きて文を分かちて二と為す。文の初より下、「之願也」に至りまでは、
先ず行体を標し、兼ねて願名を挙ぐ。「諸仏称名の願」と云うより下は正に諸文を引く。

「謹按」と言うは発端の詞なり。往相の回向は前の巻に述ぶるが如し。

「諸の善法を摂す」とは、『玄義』に云わく「無量寿とはこれ法。覚とはこれ人。人法
並べ彰わすが故に阿弥陀仏と名づく」已上。法は所覚の法。覚は能覚の人なり。その所覚
の法はすなわちこれ八万四千の法門なり。因行・果徳、法として備わらざることなし。
諸の善法を摂するの義、まさに知るべし。

「諸の徳本を具す」とは、『大経』の上に云わく「一切の仏を供養し、もろもろの徳本を
具足す」已上。饒王の徳を讃じて順求してこれを得。慈恩の『西方要決』に云わく「諸仏
の願行はこの果名を成ず。ただ能く号〈な〉を念ずれば具に衆徳を包〈か〉ぬ」已上。

「真如」等とは、『唯識論』に云わく「真とは謂わく真実。虚妄にあらざることを顕わす。
如は謂わく如常。変易なきことを表わす」已上。『起信論』に云わく「いわゆる心性は
不生不滅なり。一切の諸法はただ妄念に依りて而も差別あり。もし心念を離るれば、即ち
一切境界の相なし。この故に一切の法は本よりこのかた言説の相を離れ、名字の相を離れ、
心縁の相を離る。畢竟平等にして変移あることなし。破壊すべからず。ただこれ一心なり。
故に真如と名づく」已上。

この真如の理は言説名字の相を離るといえども、今この名号は即ち真如法性正体の義たる
こと宛然なり。『浄土論』に依報の相を説きて云わく「彼の無量寿仏の国土の荘厳は
第一義諦妙境界の相なり」已上。『論註』の上に本論の真実功徳相の文を解して云わく
「二種の功徳あり。一には有漏心より生ずるは法性に順ぜず。いわゆる凡夫人天の諸善、
人天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒なり。みなこれ虚偽なり。この故に不実
の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性に依りて清浄
の相に入る。この法は顛倒せず。虚偽ならず。名づけて真実功徳とす」已上。また同じき
下に往生の義を釈して云わく「彼の浄土はこれ阿弥陀如来清浄本願無生の生なり。三有虚
妄の生の如くにはあらず。何を以てか、これを言うとならば、それ法性清浄畢竟無生なり。
生というは、これ得生の者の情ならくのみ」已上。また名号の功徳を嘆じて云わく
「彼の阿弥陀如来至極無生清浄宝珠名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念念の中に
罪滅し、心浄くして即ち往生を得」已上。真如・法性・第一義諦・涅槃・無生は、
みなこれ一法の異名なり。

「功徳の宝海」とは、今、名号の功徳は甚深殊勝なるを嘆じて宝と称す。広大なるを海に
喩う。『論』に云わく「能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ」已上。註に云わく
「我が成仏せん時、我に値遇せん者をして、みな速やかに無上大宝を満足せしめん」已上。
智光の疏に云わく「仏身所有の不共の功徳は、数、塵沙を過ぎて測量すべからず。故に海
の如しと喩う」已上。

「大悲の願より出でたり」とは。問う。浄影の云わく「四十八願、義要はただ三なり。
文別に七あり。義要に三とは、一には摂法身の願、二には摂浄土の願、三には摂衆生の
願なり。四十八の中に十二と十三と及び第十七とはこれ摂法身なり。第三十一と第三十二
とはこれ摂浄土なり。余の四十三はこれ摂衆生なり。文別に七とは、初の十一願を摂衆生
と為す。次に両願あり。これはその第二に摂法身と為す。次に三願あり。これはその第三
に重ねて摂衆生とす。次に一願あり。これはその第四に重ねて摂法身とす。次に十三あり。
これはその第五に重ねて摂衆生とす。次に両願あり。これはその第六に摂衆生と為す。
下に十六あり。これはその第七に重ねて摂衆生なり」已上。義寂・憬興は共にまたこれに
同じ。然れば大悲の言は摂衆生の義なり。摂法身に於いて何んぞ大悲と云うや。

答う。解に二義あり。一に云わく。摂法身なりといえども、専らこれ大悲なり。然るゆえ
んは、何ぞ仏意に於いてその名聞を求めん。咨嗟の願に依りて仏の証誠あり。仏の証誠に
依りて、衆生は帰信す。故に仏讃を願ずるは、しかしながら利益の為なり。故に大悲と云
う。一に云わく。義寂は影を引き已わりて云わく「これまた多く願相に従えて説く。もし
委細に論ぜば一一に具足す」已上。大師また義寂師の意に同じく諸願は三に亘りて簡ぶ所
なきか。摂法身とは、『玄義』に云わく「一一に願じて言わく。もし我、仏を得たらんに、
十方の衆生、我が名号を称して我が国に生ぜんと願ぜん。下、十念に至るまで、もし生ぜ
ずといわば、正覚を取らじと。今既に成仏したまえり。即ちこれ酬因の身なり」已上。
摂浄土とは、『礼讃』に云わく「四十八願の荘厳より起こりて、諸仏の刹に超えて最も精
たり」已上。摂衆生とは、『散善義』に云わく「四十八願をもて衆生を摂受したもう」
已上。『法事讃』に云わく「四十八願慇懃に喚ばいたもう。仏の願力に乗じて西方に往く」
已上。もしこの義に依らば、四十八願一一にみな大悲の誓願たらくのみ。

「称揚」と言うは、「称」は『玉篇』に云わく「歯証の切。遂なり。歯陵の切。讃なり」
已上。今は讃の義を用う。また云わく「揚は与章の切」。『広韻』に云わく「音は揚。
飛挙なり。明なり」已上。

「称名」と言うは、これ称念にあらず。今、彼の名号を称揚する義なり。「咨嗟」と言う
は、憬興の云わく「咨とは讃なり。嗟とは嘆なり」已上。『広韻』に云わく「咨は即夷の
切。嗟なり。謀なり」。『玉篇』に云わく「子祇の切。謀なり。嗟なり」。『広韻』に云
わく「嗟は子邪の切。咨なり。嘆なり。痛惜なり」。

●re.97
ボン
関東の男性
[ 1592 ] Re96:教行信証・学習ノート 2009/09/04 (Fri) 00:40 △up ▽down

本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>謹按往相回向。有大行有大信。大行者則称無礙光如来名。斯行即是摂諸善法。具諸徳本。
>極速円滿。真如一実功徳宝海。故名大行。然斯行者出於大悲願。即是名諸仏称揚之願。
>復名諸仏称名之願。復名諸仏咨嗟之願。亦可名往相回向之願。亦可名選択称名之願也。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(御自釈)謹んで往相回向を按ずるに、大行あり、大信あり。大行というは、すなわち
>無碍光如来の名を称するなり。この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろも
>ろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。故に大行と名づく。しかる
>にこの行は、大悲の願より出でたり。すなわちこれ諸仏称揚の願と名づく。また諸仏称
>名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく。また往相回向の願と名づくべし。また
>選択称名の願と名づくべきなり。
>-----------------------------------------------------------------------------

  (聖人御自身の釈)謹んで「往相回向」について考えてみるに、「大行」と「大信」
  がある。「大行」というのは、すなわち「無碍光如来の名」を称えることである。
  この行は、その中に、もろもろの「善法」を含んでおり、もろもろの「徳本」を備え
  ている。(この行によって)極めて速やかに往生の願いが実現する。また、それは、
  「真如一実」の功徳の宝の海である。だから、大行と名づけられる。ところで、この
  行は、「大悲の願」より出てきたものである。すなわち、これを「諸仏称揚の願」と
  名づける。また、「諸仏称名の願」と名ける。また「諸仏咨嗟の願」と名づける。
  また「往相回向の願」と名づけるべきである。また「選択称名の願」と名づけるべき
  である。

  WikiArcより
    善法
      人々を安穏ならしめるような善き行いのことで、とくに六波羅蜜行のような
      自他ともに仏に成ることのできる善行のことをいう。
    徳本
      もろもろの功徳の根本である名号をさす。ここでは名号を称えること。
        1.本は因の意味、勝れた果徳を得るための因となる善法、善根のこと。
        2.徳は徳号。すべての仏の徳号のもととなる阿弥陀仏の名号を指す。
        3.功徳の本である六波羅蜜のこと。
    極速円満
      きわめてすみやかに往生の仏因が満足する。
    真如
      梵語タタターの漢訳。かくあること。衆生の虚妄分別を超えた存在のありの
      ままのすがた。形相を超えた絶対究極のありかた。すなわちすべての存在の
      本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることをいう。
    一実
      一真実の略。
      1.ただ一乗のみが真実であるという意。阿弥陀如来の本願一乗の教え。
      2.一は無差別平等の意。平等の実相。真如・涅槃の異名。
    大悲
      仏の衆生に対するいつくしみ。大智、すなわち悟り(自覚、自利)をあらしめる
      智慧に対し、衆生済度(覚他、利他)をあらしめる原動力。


  大辞林より
    六波羅蜜
      菩薩が涅槃の世界に入るために修める六つの行。
      すなわち布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧(般若)の各波羅蜜。六度。
    円満
      悟り・智慧・往生・願いなどが完全に実現すること。成就すること。
    真如
      あるがままにあること。存在の本質、存在の究極的な姿としての真理その
      ものをいう。大乗仏教では、法性・実相などとほぼ同義に用いる。実性。
    一実
      唯一絶対の真理。真如。
    大悲
      衆生の苦しみを救おうとする仏・菩薩の広大な慈悲の心。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>三に正釈の中に就きて文を分かちて二と為す。文の初より下、「之願也」に至りまでは、
>先ず行体を標し、兼ねて願名を挙ぐ。「諸仏称名の願」と云うより下は正に諸文を引く。

  第三の正釈(釈の本体)について、文を二つに分ける。文の初めから「之願也」まで
  は、先ず行体を示し、あわせて願名を挙げている。「諸仏称名の願」からあとは、
  もろもろの文章を引用している。


>「謹按」と言うは発端の詞なり。往相の回向は前の巻に述ぶるが如し。

  「謹按(謹んで按ずる)」と言うは、端を発する言葉である。
  往相の回向は前の巻(教巻)で述べたとおりである。


>「諸の善法を摂す」とは、『玄義』に云わく「無量寿とはこれ法。覚とはこれ人。人法
>並べ彰わすが故に阿弥陀仏と名づく」已上。法は所覚の法。覚は能覚の人なり。その所覚
>の法はすなわちこれ八万四千の法門なり。因行・果徳、法として備わらざることなし。
>諸の善法を摂するの義、まさに知るべし。

  「諸の善法を摂す」について、『玄義』では次のように述べている。「『無量寿』と
  は『法』である。『覚』とは『人』である。『人』と『法』を並べてあらわすがゆえ
  に『阿弥陀仏』と名づけるのである。」「法」は覚る対象であるところの法である。
  「覚」は覚る主体であるところの人なり。その覚る対象であるところの法は、すなわち
  八万四千の法門である。「因行(仏となるための因となる行)」と「果徳(結果として
  得られる徳)」は、法として備わらないということはない。「諸の善法を摂する」の
  意味は、まさにこのように理解するべきである。

  WikiArcより
    因行
      仏果を得るための因となる行。
    
    因行果徳対
      念仏は阿弥陀仏の果上の徳がおさまる果分の行であるが、諸善は仏になるた
      めに積む因分の行である。


>「諸の徳本を具す」とは、『大経』の上に云わく「一切の仏を供養し、もろもろの徳本を
>具足す」已上。饒王の徳を讃じて順求してこれを得。慈恩の『西方要決』に云わく「諸仏
>の願行はこの果名を成ず。ただ能く号〈な〉を念ずれば具に衆徳を包〈か〉ぬ」已上。

  「諸の徳本を具す」について、『大経』の上では次にように述べている。「一切の仏
  を供養し、もろもろの徳本を過不足なく備える。」饒王の徳を讃じて、従い求めて
  これを得る。慈恩の『西方要決』では次のように述べる。「諸仏の願行(誓願と修行)
  は、この果名(果としての名号)を生み出す。ただ名号を念ずることができるならば、
  ことごとくもれなく、そこにはもろもろの徳が含まれている。」

  WikiArcより
    世饒王仏
      世自在王仏のこと。
    世自在王仏
      世自在王は、梵語ローケーシュヴァラ・ラージャの漢訳。世間一切法に自在
      なることを得、世間を利益するに自在を得た仏という意。法蔵菩薩の師であ
      る過去仏の名。楼夷亘羅と音写し、世間自在王仏・世饒仏・饒王仏ともいう。
    願行
      誓願と修行。
       1.仏が因位の時に誓われた願と、その願を実現するための行。
       2.往生に必要な願と行。善導大師は、「南無阿弥陀仏」の「南無」には願
        の意味があり、「阿弥陀仏」には往生の行となるいわれがあるから、南無
        阿弥陀仏と称えるところには、往生に必要な願と行が具わっていると説く。
    果名
      さとりのみ名。南無阿弥陀仏の名号をいう。


>「真如」等とは、『唯識論』に云わく「真とは謂わく真実。虚妄にあらざることを顕わす。
>如は謂わく如常。変易なきことを表わす」已上。『起信論』に云わく「いわゆる心性は
>不生不滅なり。一切の諸法はただ妄念に依りて而も差別あり。もし心念を離るれば、即ち
>一切境界の相なし。この故に一切の法は本よりこのかた言説の相を離れ、名字の相を離れ、
>心縁の相を離る。畢竟平等にして変移あることなし。破壊すべからず。ただこれ一心なり。
>故に真如と名づく」已上。

  「真如」等については、『唯識論』ではこう述べる。「『真』とは、いわく『真実』
  である。それは虚妄ではないことを表している。『如』とは、いわく『如常』である。
  それは変化しないことを表している。」『起信論』ではこう述べる。「いわゆる
  『心性』は、生まれることもなければ滅びることもない。すべてのもろもろの法は、
  ただ妄念によるものであり、しかも、それぞれが独立した異なった存在である。もし、
  心念(心の思い)を離れるならば、すなわち、すべてに境界(区別・さかい目)の相(すが
  た・かたち)がなくなる。したがって、すべての法は、もとよりこのかた、言説の相を
  離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れている。要するに、すべてが本来同じもので
  あり、変移することがない。これを破壊することはできない。これは、ただ『一心』
  である。だから、『真如』と名づけるのである。」

  大辞林より
    心性・・・ 不変な心の姿。本来の清浄な心。
    妄念・・・煩悩によって引き起こされる、邪悪な思いや誤った考え。
    差別・・・平等に対して、それぞれの物が異なる独自の仕方で存在している姿。
    心念・・・こころ。考え。思い。
    平等・・・事物が独立しているのではなく、同一の在り方をしていること。
    一心・・・唯一絶対の心。すべての現象の根源としての心。真如。

●re.98
ボン
関東の男性
[ 1593 ] Re97:教行信証・学習ノート 2009/09/04 (Fri) 00:43 △up ▽down
(つづき)

>この真如の理は言説名字の相を離るといえども、今この名号は即ち真如法性正体の義たる
>こと宛然なり。『浄土論』に依報の相を説きて云わく「彼の無量寿仏の国土の荘厳は
>第一義諦妙境界の相なり」已上。『論註』の上に本論の真実功徳相の文を解して云わく
>「二種の功徳あり。一には有漏心より生ずるは法性に順ぜず。いわゆる凡夫人天の諸善、
>人天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒なり。みなこれ虚偽なり。この故に不実
>の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性に依りて清浄
>の相に入る。この法は顛倒せず。虚偽ならず。名づけて真実功徳とす」已上。また同じき
>下に往生の義を釈して云わく「彼の浄土はこれ阿弥陀如来清浄本願無生の生なり。三有虚
>妄の生の如くにはあらず。何を以てか、これを言うとならば、それ法性清浄畢竟無生なり。
>生というは、これ得生の者の情ならくのみ」已上。また名号の功徳を嘆じて云わく
>「彼の阿弥陀如来至極無生清浄宝珠名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念念の中に
>罪滅し、心浄くして即ち往生を得」已上。真如・法性・第一義諦・涅槃・無生は、
>みなこれ一法の異名なり。

  この「真如」の理(ことわり)は、「言説」「名字」の相(すがた)を離るとはいっても、
  いま言うところの「名号」は、すなわち「真如」「法性」の正体であるという意味で、
  それはまさにそれ自身である。『浄土論』では依報の相(すがた)を説明して、次のよ
  うに述べる。「かの無量寿仏の国土の麗しい姿は、『第一義諦』の妙なる境界の相
  (すがた)である。」『論註』の上では、本論(『浄土論』)の真実功徳相の文を解説し
  て次のように述べる。「二種の功徳がある。一つには、有漏心(煩悩を持つ心)から生
  ずるものは、法性の道理に適わない。いわゆる凡夫・人天のもろもろの善、人天の
  果報、あるいは因、あるいは果、いずれもみな、誤りに満ちている。これらは、みな
  空虚な偽りである。だから、実のない功徳と名づける。二つには、菩薩の智慧や清浄
  の業より起こって、仏事(衆生救済の仕事)を行って身を清らかにする。法性によって
  清浄の相(すがた)に入る。この法は誤りがない。虚偽ではない。これを真実の功徳と
  呼ぶ。」また、『論註』の下は、往生の意義を解釈して次のように述べる。「かの
  浄土は、阿弥陀如来の清らかな本願「無生の生(生滅の迷いを超えた生)」である。
  三有(生死流転する迷いの世界)における嘘偽りの生のようなものではない。どういう
  わけでこのように言うかといえば、それは、法性の清らかな究極の無生だからである。
  生というのは、生を得たもののありさまであるに過ぎない。」また、名号の功徳を
  賞賛して次のように述べる。「かの阿弥陀如来の究極の無生の清らかな宝の玉である
  名号を聞いて、これを濁った心に投げ与えれば、一瞬にしてその罪が消滅し、心が
  きれいになって、往生を得る。」真如・法性・第一義諦・涅槃・無生は、みな、一つ
  の法の異名である。

  WikiArcより
    法性
      梵語ダルマターの漢訳。法の法たる性という意で、一切の存在の真実常住な
      る本性を指す。真如・実相・法界などの異名として用いられる。
    依正二報
      依報と正報の二種の果報。
        1.正報はまさしく過去の業の報いとして得た有情の心身をいい、
          依報はその心身のよりどころとなる国土・環境をいう。
        2.浄土の依正二報。阿弥陀仏と菩薩衆(聖衆)が正報にあたり、
          その国土が依報にあたる。
    荘厳
      うるわしく身や国土を飾ること。身・口・意の三業をととのえて清浄にする
      こと。天親菩薩の『浄土論』には、阿弥陀仏の浄土のうるわしさについて
      二十九種荘厳を説く。大別して依報荘厳に十七種、正報荘厳の中、仏荘厳に
      八種、菩薩荘厳に四種ある。
    第一義諦
      梵語パラマールタ・サトヤの漢訳。真如実相のこと。無上にして絶対的な
      真理という意。真諦・勝義諦に同じ。世俗諦に対する語。
    有漏
      煩悩をもつもの。漏とはもれ出るもの、汚れの意で煩悩の異名。
    無漏
      有漏(煩悩)に対する語。煩悩に全く汚されていない清浄な状態をいう。
    仏事
      衆生救済の仕事。
    無生
      生じないこと。本来生滅変化を超えていること。涅槃の異名。
      また浄土のさとりをいう。
    無生の生
      無生無滅の生。浄土の往生は生滅(迷い)を超えたものであることをいう。
    三有(三界)
      欲界・色界・無色界の三つの世界。
      衆生が生死流転する迷いの世界を三種に分類したもの。

  大辞林より
    法性
      宇宙万物の共有する不変・平等無差別な本体。あらゆる存在の本来の真実な
      るあり方。仏の真理。真如。実相。
    依報
      過去の世の行為の結果として、この世に生まれた者に与えられている世界。
    正報
      この世の中に心をもつ者として生じてくること。また、そのような者。
      過去の行為の報いを受けている本人。
    荘厳
      浄土などの仏国土、仏・菩薩などの徳を示す美しい姿や飾り。また、仏堂・
      仏像などを美しく飾ること。また、その飾り。
    第一義諦
      最高の悟りの立場からみた絶対の真理。「真如実相」にあたる。勝義諦。真諦。
    境界
      報いとして得られた境遇。
    有漏
      いろいろな欲望や迷いの心をもっていること。
    無漏
      悟りが開け、迷いや欲望がなくなったこと。
    顛倒
      煩悩のために誤った考えやあり方をすること。
    仏事
      教化・説教など仏の行為。
    無生
      物事の真の姿は空であるから、何物も生じることがなく、また滅することも
      ないということ。
    三有
      (1)欲界・色界・無色界の三界のこと。また、三界に生きるもの。
      (2)現在の生である本有、次の生である当有、その中間の状態である中有の総称
    情
      実際のようす。ありさま。
    念念
      一刹那一刹那。瞬間瞬間。


>「功徳の宝海」とは、今、名号の功徳は甚深殊勝なるを嘆じて宝と称す。広大なるを海に
>喩う。『論』に云わく「能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ」已上。註に云わく
>「我が成仏せん時、我に値遇せん者をして、みな速やかに無上大宝を満足せしめん」已上。
>智光の疏に云わく「仏身所有の不共の功徳は、数、塵沙を過ぎて測量すべからず。故に海
>の如しと喩う」已上。

  「功徳の宝海」については、名号の功徳がはなはだ意味深遠で特にすぐれていること
  を賞賛して「宝」と称する。また、それが広大であることを「海」にたとえている。
  『論』では次のように述べている。「速やかに功徳の大きな『宝』の『海』を、その
  身に満たし備えることができる。」また、註では次のように述べている。「私が仏に
  なろうとするときに、私に出合う縁のあったすべての者が、速やかにこの上ない大き
  な『宝』をその身に満たし備えることができるようにしよう。」また、智光の疏(注釈
  書)では次のように述べている。「仏の身だけが持ち合わせている功徳は、その数、
  塵や沙のように無数であるという表現すらとおりこして、測量することもできない。
  だから、『海』のようだとたとえるのである。」

  大辞林より
    値遇
      前世の宿縁によって現世で出会うこと。

●re.99
ボン
関東の男性
[ 1594 ] Re98:教行信証・学習ノート 2009/09/04 (Fri) 00:44 △up ▽down
(つづき2)

>「大悲の願より出でたり」とは。問う。浄影の云わく「四十八願、義要はただ三なり。
>文別に七あり。義要に三とは、一には摂法身の願、二には摂浄土の願、三には摂衆生の
>願なり。四十八の中に十二と十三と及び第十七とはこれ摂法身なり。第三十一と第三十二
>とはこれ摂浄土なり。余の四十三はこれ摂衆生なり。文別に七とは、初の十一願を摂衆生
>と為す。次に両願あり。これはその第二に摂法身と為す。次に三願あり。これはその第三
>に重ねて摂衆生とす。次に一願あり。これはその第四に重ねて摂法身とす。次に十三あり。
>これはその第五に重ねて摂衆生とす。次に両願あり。これはその第六に摂衆生と為す。
>下に十六あり。これはその第七に重ねて摂衆生なり」已上。義寂・憬興は共にまたこれに
>同じ。然れば大悲の言は摂衆生の義なり。摂法身に於いて何んぞ大悲と云うや。

  「大悲の願より出でたり」について問う。浄影は次のように述べる。「四十八願の意義
  の要(かなめ)となるのは、ただ三点である。また、文を区分けすると七つの部分に分か
  れる。その意義の要点が三つというのは、一つには摂法身の願、二つには摂浄土の願、
  三には摂衆生の願である。四十八願のなかで、第十二願、第十三願および第十七願は、
  摂法身である。第三十一願と第三十二願は、摂浄土である。ほかの四十三願は摂衆生
  である。文を分けて七つになることについていえば、初めの十一願を摂衆生とする。
  次に二願がある。これは、その第二の区分として摂法身である。次に三つの願がある。
  これは、その第三の区分として、再び摂衆生である。次に一つの願がある。これは
  その第四の区分として、再び摂法身とする。次に十三の願がある。これは、その第五
  の区分として、摂衆生とする。次に二つの願がある。これは、その第六の区分として、
  摂衆生とする。そして、その後の願がある。これはその第七の区分として、再び摂衆
  生である。」義寂・憬興は、どちらもこれと同じである。そうだとするならば、大悲
  の言葉は摂衆生という意味になる。摂法身は、どうして「大悲」というのだろうか。

  WikiDharmaより
    慧遠と憬興による仏願の三分類
      (1)摂法身願・・・求仏身願 仏が自らの仏身を完成すること 第12・13・17願
      (2)摂浄土願・・・求仏土願 衆生を往生せしめる仏土の完成 第31・32願
      (3)摂衆生願・・・利衆生願 正しく衆生の救済を願うもの  その他の43願

  三義要
    (1)摂法身の願(12・13・17)
      (12)光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、
      (13)寿命よく限量ありて、下、百千億那由他劫に至らば、
      (17)十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、
    (2)摂浄土の願(31・32)
      (31)国土清浄にして、みなことごとく十方一切の無量無数不可思議の諸仏
        世界を照見すること、なほ明鏡にその面像を覩るがごとくならん。
      (32)地より以上、虚空に至るまで、宮殿・楼観・池流・華樹・国中のあらゆる
        一切万物、みな無量の雑宝、百千種の香をもつてともに合成し、厳飾奇妙
        にしてもろもろの人・天に超えん。その香あまねく十方世界に熏じて、
        菩薩聞かんもの、みな仏行を修せん。
    (3)摂衆生の願(その他)

  七文別
    (1)初めの十一願(1〜11)・・・摂衆生
    (2)次に両願(12・13)・・・・・摂法身
    (3)次に三願(14・15・16)・・・摂衆生
    (4)次に一願(17)・・・・・・・摂法身
    (5)次に十三(18〜30)・・・・・摂衆生
    (6)次に両願(31・32)・・・・・摂衆生(摂浄土?)
    (7)下に十六(33〜48)・・・・・摂衆生


>答う。解に二義あり。一に云わく。摂法身なりといえども、専らこれ大悲なり。然るゆえ
>んは、何ぞ仏意に於いてその名聞を求めん。咨嗟の願に依りて仏の証誠あり。仏の証誠に
>依りて、衆生は帰信す。故に仏讃を願ずるは、しかしながら利益の為なり。故に大悲と云
>う。一に云わく。義寂は影を引き已わりて云わく「これまた多く願相に従えて説く。もし
>委細に論ぜば一一に具足す」已上。大師また義寂師の意に同じく諸願は三に亘りて簡ぶ所
>なきか。摂法身とは、『玄義』に云わく「一一に願じて言わく。もし我、仏を得たらんに、
>十方の衆生、我が名号を称して我が国に生ぜんと願ぜん。下、十念に至るまで、もし生ぜ
>ずといわば、正覚を取らじと。今既に成仏したまえり。即ちこれ酬因の身なり」已上。
>摂浄土とは、『礼讃』に云わく「四十八願の荘厳より起こりて、諸仏の刹に超えて最も精
>たり」已上。摂衆生とは、『散善義』に云わく「四十八願をもて衆生を摂受したもう」
>已上。『法事讃』に云わく「四十八願慇懃に喚ばいたもう。仏の願力に乗じて西方に往く」
>已上。もしこの義に依らば、四十八願一一にみな大悲の誓願たらくのみ。

  答える。その解釈には、二つの意味がある。一つには、「摂法身」であっても、これ
  はひとえに「大悲」である。その理由としては、仏の意(こころ)において、どうして
  そのような名声を求ることがあるのか、ということである。「咨嗟の願」は、仏が真
  実であることの証明である。その仏の真実の証明によって、衆生は仏を頼り信じる。
  だから、仏を賞賛することを願うのは、実は、衆生を利益(りやく)するためなのであ
  る。だから、大悲と言うのである。もう一についていえば、義寂は影(浄影?)を引用
  し終わって、次のように述べる。「これはまた、多くの願の相(かたち)にしたがって
  説いている。もし、委細に論ずるならば、一つ一つに過不足なく備わっている。」
  (善導)大師や義寂師の意(こころ)と同じように、もろもろも願(48願)を三つに区別す
  ることはないものといえよう。「摂法身」について、『玄義』は次のようにのべる。
  「一つ一つに願いをかけて次のように言う。もしも、私が仏になろうとするときに、
  十方の衆生が、我が名号を称して、我が国に生まれることを願うとしよう。その後、
  十念に至るまで、もしその者がわが国に生まれないのであれば、私は正しい覚りを開
  かないであろう。そして、いますでに成仏した。すなわち、これはその因にむくいた
  結果としての身なのである。」「摂浄土」について、『礼讃』ではこう述べる。
  「四十八願を麗しくととのえたことに起因して、諸仏の国土に超えて最も優れており
  美しい。」「摂衆生」について、『散善義』ではこう述べる。「四十八願によって
  衆生を慈悲深くおさめ取る。」また、『法事讃』ではこう述べる。「四十八願はてい
  ねいにに呼び寄せる。仏の願力に乗じて西方に往く。」もし、このような見地に立つ
  ならば、四十八願の一つ一つが、すべて大悲の誓願であるといえよう。

  WikiArcより
    名聞
      T 名号のいわれがあらゆるところに聞えること。
      U 自らの名声を求める心。名誉欲。
    酬因
      四十八願を総摂した第十八願にむくいてあらわれた仏身。
    刹
      梵語クシェートラの音写。世界の意。仏国土。
    摂受
      慈悲心をもっておさめ取ること。

  大辞林より
    名聞
      世間の評判。名誉。
    証誠
      真実であると証明すること。
    摂受
      衆生を教え導く方法の一つで、慈悲の心で、相手をやさしく
      仏道に入らしめること。


  漢和辞典より
    精・・・白くする、こまかい、すぐれている、美しい、清らか


>「称揚」と言うは、「称」は『玉篇』に云わく「歯証の切。遂なり。歯陵の切。讃なり」
>已上。今は讃の義を用う。また云わく「揚は与章の切」。『広韻』に云わく「音は揚。
>飛挙なり。明なり」已上。

  「称揚」について言うと、「称」は『玉篇』に次のように述べられている。「歯(shi)
  証(sho)の接合した音。意味は『遂』である。歯(shi)陵(ryo)の接合した音。意味は
  『讃』である。」今ここでは『讃』の意味を用いる。また次のように述べる。「揚は
  与(yo)章(sho)の接合した音。」『広韻』では次のように述べる。「音は『揚』。
  飛挙である。『明』である。」


>「称名」と言うは、これ称念にあらず。今、彼の名号を称揚する義なり。「咨嗟」と言う
>は、憬興の云わく「咨とは讃なり。嗟とは嘆なり」已上。『広韻』に云わく「咨は即夷の
>切。嗟なり。謀なり」。『玉篇』に云わく「子祇の切。謀なり。嗟なり」。『広韻』に云
>わく「嗟は子邪の切。咨なり。嘆なり。痛惜なり」。

  「称名」と言うのは、念仏を称えることではない。ここでは、彼の名号をほめたたえ
  るという意味である。「咨嗟」と言うのは、憬興は次のように述べている。「『咨』
  とは『讃』である。『嗟』とは『嘆』である」『広韻』にはこう述べる。「『咨』は
  即(soku)夷(i)の接合した音。『嗟』である。『謀』である」。また、『玉篇』には
  こう述べる。「子(shi)祇(shi)の切。『謀』である。『嗟』である。」また、『広韻』
  にはこう述べる。「『嗟』は子(shi)邪(ja)の接合した音。『咨』である。『嘆』であ
  る。意味は『痛惜(非常に悲しみ惜しむこと)』である。」

  大辞林より
    称念
      (1)称名と念仏。口に仏の名を唱え、心に仏の姿を思い浮かべること。
      (2)南無阿弥陀仏と唱えること。



《 返信フォーム》

なまえ
住所
性別
メアド(任意) (掲示板上では非公開。届いたメールに返信して、はじめて相手の方にアドレスが伝わります。)
サイトのURL(任意)
投稿タイトル
メッセージ
パスワード (記事を編集する際に必要です。)


p.ink

(C) 2007- Mainichi no Jodoshinshu All rights reserved