浄土真宗の教義について

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●No.119
毎日
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[ 1124 ] 住正定聚について教えてください2 2009/03/19 (Thu) 18:18 △up ▽down
前スレッドが一杯になりましたので、新しいスレッドを立てました。

続きの書き込みは、こちらにお願い致します。

南无阿彌陀佛

●re.1
毎日
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[ 1125 ] Re1:住正定聚について教えてください2 2009/03/19 (Thu) 18:22 △up ▽down
泥凡夫 様

書き込んでおりますと、自身の未熟さが知らされまして、恥ずかしい思いでございます。

驕慢であり、弊であり、懈怠である自身を知らされます。

そして、普段はたいして見もしないお聖教を、こうして少しは読むことになるのですから、すべては弥陀のお導きであると思います。

弥陀にオンブにダッコ、それしか救われてゆく道はない、哀れな凡夫であると思いつつ、こうして法のお話ができることをよろこんでおります。

南无阿彌陀佛

●re.2
毎日
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[ 1126 ] Re2:住正定聚について教えてください2 2009/03/19 (Thu) 18:29 △up ▽down
愚老 様

お久しぶりでございます。

愚老様の夢号、雄大なお話であると思います。

宇宙の大きさも、時間の流れもわからぬこの凡夫、まったく困った存在です。

見捨てぬ弥陀に感謝しつつ、今日も名号お称え致します。

南无阿彌陀佛

●re.3
ちょっと失礼します
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[ 1128 ] Re3:住正定聚について教えてください2 2009/03/19 (Thu) 21:22 △up ▽down
お文を何度も読めば、次の段階に進む為のヒントとなる言葉が見つかるはずです。
そして、お文と照らし合わせて、読んでいけば、間違った解釈は起こらないだろうと思います。
信心の取り直しがなぜ必要なのかも理解しておらず、摂取不捨の文言を持ち出し自分たちのいいように解釈なされている。
信心の取り直しがどうして必要かも、ただし五逆を除く の本来の意味が分からないから、いただいた信心は、何をしても極楽だと思ってしまっている。
信心取り直しの理由には、二種類あります。忍草様のお書きになった、回向・懺悔の説明。もう一つは、掟がかかっているので、この場では申し上げられません。

自身教人信様は、好きだけれど、同じ人物でも愚尼様は気に入らないと言っている。
金剛信様はすばらしい大善知識様でしたという書き込みには、見かけで判断されていませんか、などと言う。自分が見かけで人間を判断しているからこう云う言葉が出て来るのです。

貴女の信じた信心も、見掛けが良かったんじゃありませんか?

●re.4
毎日
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[ 1129 ] Re4:住正定聚について教えてください2 2009/03/20 (Fri) 00:33 △up ▽down
ちょっと失礼します 様

誰宛の書き込みかわかりませんが、思うところをお書きします。(読み返してみましたら、「貴女」とあるので、私宛ではないのだと思ったのですが。)

たとえば、あるひとが、「1+1=2」と言ったとします。

それを聞いて、「なるほど、そうですね」と思う。

これは、自分で検討して、そう思ったのです。

次の日、同じひとが、「2+5=6」と言いました。

それに対して、「え、それは違うんじゃないですか。2+5=7と思いますが」と言ったとします。

そのとき、その人が、「あなたは、昨日は私を信じると言った。それなのに、今日は私を信じないのですね。同一の人物ということが、わかっていないのではないですか」と言う。

このような考え方を、「誰が言ったから、ということで信じる」と私は呼んでいます。

誰が言ったから、ということで信じるのでもなく、何に書いてあるから、ということで信じるのでもない。

自身で検討し、是と思ったことを受け入れる。

経論釈につきましても、自身で検討を加えねばなりません。


また、自信教人信様が書いたものにつきましては、愚尼様ご本人も、「あれは私が書いたものではない」とおっしゃっています。


ある部分についてうなづけることをおっしゃった方が、別の部分までそうとも限りません。

はじめは良くても、途中から内容がおかしくなることもあります。


ちょっと失礼様の御書き込みや、金剛心様の御書き込みには、虫食い算のようなところがあります。

部分的に書くのは、興味を引くためですか?

御本典も、御文様も、そのような書き方はしていないと思います。

一体、何をお手本にしているのですか。


よくわからない話は、よくわからないのです。

私がわからないのは、仕方のないことですから、わからなければ、質問をします。

そして、あまり答えてくれない人は、私にわかってほしいとは、思っていない人です。

わかることを望んでいるのではなく、盲従、盲信を望んでいるのだと思います。

ところが、盲従、盲信は、仏説ではないと私は考えています。

わからないなりに、自身で検討してゆくことが肝要です。

意見が違うならば、互いに思うところと、その根拠を出し合ってゆくのです。

合意には、至らないかもしれません。しかし、互いに、自身の考えがより明確になってゆき、考え方が進展するのなら、それで良いのだと思います。

そこに、「手応え」が出てくると考えています。

南无阿彌陀佛

●re.5
毎日
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[ 1130 ] Re5:住正定聚について教えてください2 2009/03/20 (Fri) 01:05 △up ▽down
蓮華蔵 様

自らのこころを見つめてゆくうえで、直接ご参考になる御書き込み、ありがとうございます。

「医王の想いをなせ」すばらしき方針であると思います。

私は、釈尊の一代教に、不要なところは、ひとかけらもないのだと思っております。

六字をいただけば、もうそれで良いのですが、やはり親しみもわきますので、仏説をお伺いすることが、うれしくなって参ります。


信をいただけたことをよろこび、水火のしたに、白道を感じ、よろこぶことができる。

弥陀の喚び声、苦しくても、これで良いのだと、苦しいだけではないのですね、前に進んでいる感じも致すのです。


不可思議な信心のはたらきをいただけましたことは、誠にうれしいことです。


また、蓮華蔵様の、わかりやすいお話をお聞きできることを、楽しみにしております。

法のお話は、本当に楽しいものですね。


南无阿彌陀佛

●re.6
毎日
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[ 1131 ] 日月火水木金土 2009/03/20 (Fri) 01:15 △up ▽down
ボン 様

教義の掲示版ですが、蓮華蔵さまと、二河白道の関連が深いですので、こちらに味わいをお書きしたいと思います。

日・・・釈尊です。顕説です。
月・・・弥陀です。隠説です。
火・・・瞋嫌の心。怒り、嫌い、功徳の宝を焼いています。
水・・・貪愛の心。執着し、向上心を濡らし、くじきます。
木・・・二河に渡されている、弥陀の御橋。白道です。
金・・・金剛の信心を持って、橋を渡ります。
土・・・彼岸の土。極楽浄土です。

このように味わって参りますと、毎週、二河白道をめぐることができ、味わいが深まって参ります。

ぜひ、おためしください。

南无阿彌陀佛

●re.7
毎日
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[ 1133 ] 揚げ足取りについて 2009/03/20 (Fri) 01:37 △up ▽down
あるときには、「一字一句が大切である」と言い、あるときには、「揚げ足取り」と言うのは、一貫性がないと思います。

私としては、揚げ足取りは歓迎でございまして、それを、「揚げ足取り」とも思わないのでございます。

互いに間違いのある凡夫なのですから、その少ない知性を合わせまして、互いに向上をはかる。素晴らしいことです。

細かい間違いでも、正せるものは、正してゆきたい。

これは、正語の教えにも、叶うことだと思う次第です。

南无阿彌陀佛

●re.8
ボン
関東の男性
[ 1134 ] Re6:住正定聚について教えてください2 2009/03/20 (Fri) 02:31 △up ▽down
毎日様

私のために興味深いお話をいただきありがとうございます。

二河白道を曜日にあてはめたお話しは興味深く、もっと詳しくお尋ねしたいところ
なのですが、その前に、このスレッド他で非難・中傷めいた言葉が行き来している
ことに心を痛めております。

毎日様がこのような貴重な掲示板を皆さまにご提供下さっているから、
ご同行の皆さまと親しく交流ができるものと、心よりありがたく思っております。
私などは、所詮、毎日様の庭で遊ばせていただいている身分のものです。

そのような私が出すぎたことを申し上げるのはたいへん心苦しいのですが、
蓮華蔵様や私などに親しく語りかけていただいているのと同様な態度で、
金剛心様やちょっと失礼します様などの方々にも接することはできないものでしょうか。

私は有縁の善智識様から「同行にはあい近づけ」「同行に荒々しくものを申すな」
と教わりました。しかも、愚老様によりますと金剛心様は、次第相承の善智識様だという
ことですから、なおさらです。

確かに、金剛心様のおっしゃることは、私の有縁の善智識様から教わったこととも
多少のニュアンスの違いは感じますが、所詮、浅学の身ですから、尊いお方のおっしゃる
ことは、まずはしっかりと受け止めて、疑問があったら教えを乞うべきものと
心得ております。

毎日様は私とは違って経文に明るい方だとは思いますが、ここ数日の書き込みを
拝見すると、経釈の問答以前に感情的な対応が先走り、痛々しい感じすらいたします。

私たち他力の信心をいただいたものは、たとえ一瞬でも、つまらない自我を打ち捨てた
からこそ、救われたのではなかったのでしょうか。

ここの掲示板は、多少の解釈の違いはあっても、純粋に教学的な問答のできる場で
あってほしいと心より願っております。

失礼とは存じましたが、私はここの掲示板が大好きですので、僭越ながらあえて
苦言を申し上げました。どうかお許しください。

南无阿彌陀佛

●re.9
毎日
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[ 1135 ] Re7:住正定聚について教えてください2 2009/03/20 (Fri) 05:29 △up ▽down
ボン 様

ご指摘、ありがとうございます。

私の反発心が、ことばに出てしまっているのだと思います。

非難・中傷にならないように心がけているつもりなのでありますが、私の狭心が、どうしてもことばに出てきてしまっているのだと思います。

このような掲示版の利点は、過去の自分の書き込みを読みまして、反省できることにもあると思っております。

また、第三十三願があるのですから、こんな私も、次第に変えていただけるのだろうと思っております。

ボン様の御書き込み、失礼ということはありません。

思うところを、どんどんと打ち出してゆくことが大切であると思います。

これからも、気づいたことがあれば、教えてください。遠慮は要りません。

また、この掲示版が、私の庭ということもありません。(もちろん、私自身、遠慮なく書いてゆく、ということにつきましては、私の庭でもあるわけですが・・・)

あくまでも、みなさまの書き込みによって、成り立っているものです。

私は、喜捨として行っているのですから、個人的なものにならない方が、うれしいのでございます。

もちろん、思ったことを打ち出してほしいということは、これは金剛心様方に対しても、言えることです。

しかし、わからないことがわからないことに変わりはなく、「わからない」と表明すること自体は、非難でも、中傷でもないと思います。

金剛心様は、善知識様だからこそ、ふだん尊重されていて、対等なお話をすることがむずかしくなっているのだろうと思っております。

だからこそ、互いに、驕慢弊懈怠の凡夫だと思い、楽しくなります。

「知識だから驕慢になる・・・弥陀への尊敬を、自分への尊敬と混同している」と思います。いかにも、ありそうなお話が、実際に、眼前に見えるわけですから、おかしいです。

それは正に、仏像を乗せたロバなのです。

そんな方が、蓮師のように、親しく膝を突き合わせて、お話できるような方になってくれたら・・・想像するだけで、うれしいですね。

偉そうにお話しても、それは真宗のあり方とは異なると、これは私がそのような考えを持っております。

高台からは、降りるのでありますし、降ろすのですね。

「土間で、居間で、お話しましょうよ」と。

この掲示版は、談話室のようなものになってほしいのです。

そこには、知識も行者もありません。

皆同じ。知識も間違えるし、行者も間違える。知識もいいことを言うし、行者もいいことを言う。

行者も、信をいただけば、内実は仏と等しのいわれがあるのですから、その言に、互いに耳を傾けるわけですし。

知識と言っても、その差は、お取り次ぎができるかどうかでしょう。それを特別視するのは、間違いのもとだと思います。如来から与えられた、役割の差に過ぎないのです。

「畢竟」ということで言えば、皆同じなのです。そのうえで、知識には、知識にしかできないことがあり、行者にも、行者にしかできないことがある。

そこに上下を持ち込むのは、どうかしています。私は、そう考えるのです。だからこその御同行、だからこその「弟子持たず」ではありませんか。

金剛心様と私の考えには、多少ではなく、大きな違いもございます。

唯除五逆誹謗正法と、摂取不捨の解釈の違いが、その大きなものです。

南无阿彌陀佛

●re.10
金剛心
北陸の男性
[ 1139 ] Re8:住正定聚について教えてください2 2009/03/20 (Fri) 15:28 △up ▽down
  毎日樣へ

毎日樣は過去からいろんな釈文を読まれて書き込みなされているのに

何故『尊號眞像銘文』にある一節の釈さえ読まれていないのですか。

「悪趣自然閉」というは、願力に帰命すれば五道生死を閉ずる故に

「自然閉」というなり。とあり六道生死を閉じるとは書かれていない。

これは大経の悪趣自然閉について記されている釈文です、この釈を

無視するのですか。

「願力に帰命すれば」とは阿弥陀仏に帰命することを云うのですが・・・

            合掌 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。

●re.11
毎日
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[ 1141 ] Re9:住正定聚について教えてください2 2009/03/20 (Fri) 16:35 △up ▽down
金剛心 様

非難・中傷めいた書き込みを為してしまい、誠に申し訳なく思っております。

それにもかかわらず、こうして御対話くださいますこと、感謝致します。


>何故『尊號眞像銘文』にある一節の釈さえ読まれていないのですか。

とのことでございますが、わかっているかどうかは別としまして、ご拝読はさせていただいております。

◎「悪趣自然閉」といふは、願力に帰命すれば五道生死をとづるゆゑに自然閉といふ(尊號眞像銘文)

そして、

>この釈を無視するのですか。

とのことですが、無視しているわけではないのです。


「五道をどう解するか」ということであると思っております。


スレッド118にて、六要鈔中の所引を引きましたが、

◎『大経』(下・意)にまたのたまはく、「わが国に生ずるものは横に五悪趣を截る」と。いまこれは弥陀の浄刹に約対して、娑婆の五道を斉しく悪趣と名づく。地獄・餓鬼・畜生は純悪の所帰なれば、名づけて悪趣となす。娑婆の人天は雑業の所向なれば、また悪趣と名づく(安楽集)

とございます。

つまり、五道とは、地獄・餓鬼・畜生・人・天です。

願力帰命により、五道に生ずる因が閉じられる、ということであると思っております。間違いがあれば、ご指摘ください。


では、六道と五道の違いですが、これもスレッド118にても少しお書きしました。

◎五趣と立つる時は、修羅の中に勝るる者を天に摂し、劣なる者を鬼に摂す(六要鈔)

六道においての修羅道が、五道においては、天道と鬼道に配されます。

つまり、実質、五道と六道は、異なるものではありません。


では、なぜ、五道・六道と、二種の説き方をなさるのでしょうか。

これは、このように説かないと、それぞれの道が別の世界だと思いやすいからであると思います。

修羅道は、天道にも、鬼道にも配されるのですから、修羅界と、天界・鬼界は、分かれているわけではありません。

また、歴史的な理由もあると思います。(六道という分類は後のものであって、当初は五道であったという説を指しています。)


したがって、蓮師は、

◎されば五道・六道といへる悪趣にすでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議としてこれをふさぎたまふなり(御文章2-4)

と、並べて説かれたのであると思います。


ご不明の点あれば、ご質問ください。

南无阿彌陀佛

●re.12
毎日
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[ 1147 ] Re10:住正定聚について教えてください2 2009/03/21 (Sat) 03:48 △up ▽down
酒天童子 様

[ 1067 ]
>親鸞聖人の正信偈にこういうくだりがあります。
>“善導独明佛正意”
>単純に解釈すると“善導大師は唯独り、佛の正しい意(意志?)を明かした(明らかにした)”というふうに読めます。

蓮師の正信偈大意では、

◎「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪」といふは、浄土門の祖師その数これおほしといへども、善導にかぎり独り仏証をこうて、あやまりなく仏の正意を明かしたまへり。されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。

となっています。

つまり、「独」とは、「浄土門の祖師その数これおほしといへども、善導にかぎり独り仏証をこうて」ということだと思います。

そして、次の「仏正意」とは、これは、正信偈大意からではなく、私の考えですが、正は雑等に対することばです。

釈尊一代の教えの中で、その要とは何か、本意とは何かを、時期を得て、取り出してくださったのだと思います。

では、なぜ他の先師は、そうなさらなかったのかと言えば、釈尊の教えは、すべて地上で説かれる必要性があってのことであり、それぞれの教えが、必要な場所に伝わる必要があったからだと思います。


ここからは、関連して、金剛心様宛にもなるのですが、同じく蓮師の正信偈大意にて、

◎「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」といふは、弥陀の弘誓に値ひたてまつるによりて、一生造悪の機も安養界に至れば、すみやかに無上の妙果を証すべきものなりといへるこころなり

とございます。蓮師はここで、「すみやかに」を加えて読んでいらっしゃいます。

しかも、「至安養界」の因を、「値弘誓」に置いています。


ここは、証巻にも引かれる所の

◎この経を案じてかの国の菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至らざるべし。十地の階次といふは、これ釈迦如来の、閻浮提における一の応化道なるのみ。他方の浄土はなんぞかならずしもかくのごとくならん。五種の不思議のなかに仏法もつとも不可思議なり。もし菩薩かならず一地より一地に至りて超越の理なしといはば、いまだあへて詳らかならず(論註)

に関連しているところだと思います。

有縁の方のために、現代語にて、大意を記します。(語順が大切な箇所があるので、原文も付します。)

案此経推彼国菩薩、或可不従一地至一地。言十地階次者是釈迦如来於閻浮提一応化道耳。他方浄土何必如此。五種不思議中仏法最不可思議。若言菩薩必従一地至一地無超越之理、未敢詳也。

「この経を考えて、かの国の菩薩について推測すれば、一地から一地にいたるのではないこともあるのだろう。十地の階次というものは、絶対的なものではなく、釈迦如来が、この世界において成立する、ひとつのあり方として説いたものに過ぎない。他方の浄土において、どうして必ずこのようだと言えるだろうか。五種の不思議のなかで、仏法は、もっとも不可思議なものである。もし、菩薩とは、必ず一地から一地に至るもので、超越の理がないと言うならば、まだ、決して細かく隅々まで理解ができているとは言えないのである」

つまり、三祇百大劫とは、応化の説であるということだと思います。

金剛心様の御説は、論註にありますところの「未敢詳」であると考えます。

証巻では、さらに引文が続きますが、有縁の方には、自身でご確認いただければと思います。


阿弥陀仏国におきましては、超越の理があるのであり、それは、因位の時に、そのようなものとして構想なさり、建立なさってくださったからです。

深い慮りを感じ、涙するところでございます。


ただし、この超越の理につきましては、常人の耳には入らず、そうだとは思えないことも仕方がないことであると、論註に述べてございます。

◎此の論の事を聞きて、また当に信ぜざるべし。それ非常の言は常人の耳に入らず。之を然らずと謂えり、またそれ宜べなるかな(論註)


ご不明の点等ありましたら、どなたでも、ご質問いただけたらと思います。

南无阿彌陀佛

●re.13
酒天童子
関東の男性
[ 1163 ] Re11:住正定聚について教えてください2 2009/03/22 (Sun) 12:40 △up ▽down
毎日様

ご教示ありがとうございます。

>◎「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪」といふは、浄土門の祖師その数これおほしといへども、善導にかぎり独り仏証をこうて、あやまりなく仏の正意を明かしたまへり。されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。

この釈も知りませんでした。
勉強になります。

金剛心様は同時代の三人の自力修行僧にたいして“ただ独り”というふうに仰っていたように思いますので、解釈が異なりますネ。

今、いろいろ過去ログを読み返しています。
上記の問答がそのきっかけになりました。

無学なものがこうして勉強させていただけること、有難いことです。
書き込みしてよかったです。

まだまだ読み込みが足りませんし、過去ログに載っていない数多の経論釈もあるわけですから、ひとりよがりだとは思いますが、、、

そうして、読み返しているうちに、ちょっととんでもないことに気が付いてしまったんです。

まだ考えがまとまりませんし、長くなるのでじっくりまとめてから投稿するつもりですが、、、。

もしかしたら途中でまた解釈が変わってしまうかもしれません(笑)。

それは“菩薩の修行の意味”と“相対界(人間界、娑婆)と絶対界(極楽浄土)”などに対する解釈の問題です。

ちょっと弁証法的な考え方ですが、結局毎日様も金剛心様もどちらも正しい、という結論になりそうです。


>◎此の論の事を聞きて、また当に信ぜざるべし。それ非常の言は常人の耳に入らず。之を然らずと謂えり、またそれ宜べなるかな(論註)

以前、次元の話とか集合意識の話を致しました。

上記を読むと、それを裏づけていただいているような気分になります。

南无阿彌陀佛

●re.14
金剛心
北陸の男性
[ 1173 ] Re12:住正定聚について教えてください2 2009/03/24 (Tue) 13:00 △up ▽down
  毎日樣はじめ他の念仏行者の皆様方へ

色々と私事急用が重なり返信の書き込みが遅れた事をお詫び申上げます。

[ 1141 ]で毎日樣の書き込み拝見いたしました。少しでも解って頂けた事を

私も嬉しく思っております。[ 1107 ]ボン様宛に大変理解されている釈文も

載せておられます。こう云う理解力が信心一致というのです。

『尊號眞像銘文』は親鸞聖人直説釈でもあるのです。毎日樣の理解では

「五道閉」とは「地獄、餓鬼、畜生、人、天」と「修羅」が抜けた解釈と

なっていますが、その解釈は一般的仏教思想を知る上に於いて説かれる場合に

表通りの解釈として用いられています。親鸞聖人はそんな事もすべて了知了解

した上であえて「修羅」も入れた五道閉を主張されているのです。

人間の身で実行に移す五逆罪迄仏が予見して閉ざされているのです。

「修羅」は人間の意(こころ)の中に存在意識としていつも持っているからです。

だから五道閉の中には修羅も入れた五道閉の釈として書かれているのです。

まだまだ詳しい説明がしたいのですが公開メールでは中々書く事は出来ません。

お会い出来れば資料を手渡して説明も出来ますが・・・

淨土眞宗の窮極を知るには何回か書きましたが会通と転語と同体異名、そして

事(相対界)と理(絶対界)の意味を理解出来なかったら到底眞宗の窮極を

知るまでに至らないのです。上記を知る上に於いて一部分だけ下記に記すれば

選択本願(十八願)を誓願とも行信とも、またいろいろと転語(言葉を変えた)

した釈文で書かれているのです。いろんな言葉を使って書かれている釈文を

右と左と合せてその釈の意味が一致する事を会通と転語というのです。

その例が上記した選択本願を誓願とも行信とも弘誓とも云い書き方は

違った言葉を以って書かれていますが左右合せれば皆十八願(原点)を顕わす

文として書かれているのです。だから釈文を読むに当っては会通と転語と

同体異名を知って釈文を読まなければ理解する事が大変むつかしいのです。

念仏行者であっても会通転語、同体異名、事と理この意味が理解出来ずに

いくら釈文を読んでも了解する事は出来ないのす。

仏教の布教を専門とする方々でもこの経文は何を意味する釈文かそれが了解

出来ないのです。いろんな釈文の中から会通すれば意味が一致す、るそんな

釈文を集めてその事を自分で理解して行かなければ本当の釈文の意味が了解

出来ないと思います。それが難中の難とされているし、眞宗を知る基本中の

基本ともされているのです。

上記が理解出来ればどんな釈文を読んでもすべて理解する事が出来ると思います。

その理解度に達する位を信成就の位とも言い、その信心が「源空が信心も

善信坊の信心も」我々の信心も一つになる事を「親鸞聖人傳繪上」にも

書かれています。

大経、観経には行信に帰命した者が無生法忍を得たとしか書かれていないのです。

その無生法忍はどの位を指すのか、その短い文を理解する迄にも相当いろんな

釈文を読んで会通転語して解っていかなければならないのです。

だから難中の難とされているのです。

念仏行者の方々に参考になればと思い『愚禿鈔上』に記されている釈文を説明し

下記に記してみました。

「賢者の信を聞いて愚禿が心を顕す。賢者の信は内は賢にして外は愚也。

愚禿が心は内は愚にして外は賢也」と書かれていますがこんな短い文にも三つの

意味を含んで書かれている事を知る必要があるのです。
(自力の賢者、智者、他力の賢者、智者の区別)

@賢者に二通りあるのです、自力修行に対し賢い信を持って仏位に到達しよう
 としている賢者、

A願力に帰命し終えて信成就の心を内に持って自力の賢者に対し愚禿の強い
 意思を顕わされている

B願力に帰命した愚禿の心(成就の心)は仏体側から見れば内は愚なれども
 自力賢者に対して外は賢の心を持って書かれた釈文である。
 (信と心の字にも注意)
上記三点を理解して読まなければこんな短い釈文でも何を意味して

書かれたのか理解出来ないのです。参考になればと思い記してみました。

                合掌 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。

●re.15
金剛心
北陸の男性
[ 1174 ] Re13:住正定聚について教えてください2 2009/03/24 (Tue) 16:08 △up ▽down
菩提心樣へ

私の知っている岩手県の善知識高名興仁先生は東北地方では指折りの中に入る

大変有名な先生でした。自分のお寺を持ち大変説法上手な先生であったが、

この先生一つの欠陥があるのです。それは「同心行者の正信念仏偈の味わい方」

という本を発行された事が欠陥となったのです。その本の中味を見れば

約四点程の間違いがある事に気付くのです。それを下記に項目別に記すれば

@「来世は必ず真実報土に往生すること」7P来世と人間死した以後。

A「この世の命終った時無上の妙果が間違いなく極楽往生するのです之を

 必至滅度願成就と申します」74Pに書きながら「平生の時信心決定すれば

 必ず報土往生は間違いありません」368Pと書き74Pとの道理合わず。

B「観経の下三品を拝読して下さい」「御来迎があって成仏しておりましょう」306P

C「お釈迦樣の御姿がコロリと変わって弥陀如来となってしまったのです」100P

上記四点を挙げて説明すれば親鸞聖人の書かれている又は高祖方の書かれている

釈文から相違することがわかる。それを下記で説明すると

@の項目から経論釈を以って説明すれば、報土は現生ではない事を意味する文である。

 宗祖又は高祖方の経釈文と全く相違する。弥陀の報土は現生であると解される

 いろんな釈文を無視した書き方となっている。自分の考えで書かれている事に
 気付かない。

Aこの世の命終った時必至滅度願成就は大乗の滅度と小乗の滅度を混同した

 書き方である。必至滅度願成就とは現生の等覚位を示し報土の中で覺った位をいうのです。

B観経の下三品でたとえ来迎があっても成仏には至らず12大劫の期間があり

 化土往生となり成仏ではない。これも経釈文と相違する。

Cお釈迦様の姿がコロリと変わるという事はあり得ない。

 姿ではなくお釈迦様の衆生済度に対してお釈迦様が弥陀の心になって、と書いて

 あれば少しは理解出来なくもない。

以上これが私の経釈文から見て了解している見解の相違点である。だから上記に記した

高名興仁先生の一つの欠点である理由を申し述べて見ました。上記の本が全国書店で

発売されていたのです。これだけ高名な先生がなぜこんな間違いの本を発行されたのか?

念仏行者の中にも浅学の人には書かれている欠点に気付く人は少ないであろう

だから書くという事は非常に難しい事であると思います。

間違った事を書けば後々まで残るのです・・・本を読んで気付いた事を書いてみました。

                合掌 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛。

●re.16
愚尼
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[ 1175 ] Re13:住正定聚について教えてください2 2009/03/24 (Tue) 16:09 △up ▽down
金剛心様へ

上記の説明、有り難う御座います。無闇(無暗?)に使った事、申し訳ありません。
しっかりと何遍も読み、きちんと理解出来るよう勤めて行きたいと思います。
御文さえ、マトモに理解出来ていない未熟な私です。
一遍には理解出来ない私ですが、1つずつしっかりと正しい理解が出来るよう勤めて行きたいと思います。


お風呂の話、早速、普段の生活に取り入れてみました。子供とお風呂に入り、体の垢と一緒に心の垢も落としましょう、とお風呂で南無阿弥陀仏を称える事にしました。

直接会う事、今は叶いませんが、こうしてこの掲示板を通して金剛心様のお話しを直接読む事ができ、今のこの世の便利に感謝すると共に、このホームページを立ち上げて下さった毎日様に感謝申し上げます。有り難う御座います。

合掌  南無阿弥陀仏

●re.17
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1176 ] Re14:住正定聚について教えてください2 2009/03/24 (Tue) 18:11 △up ▽down
金剛心 様

お返事、ありがとうございます。

時を隔て、場所を隔ててやり取りできますことが、このような掲示板の良さであると思いますので、もちろん、お返事はいつでもかまいませんし、お返事いただけるだけで、とてもうれしく思います。

>[ 1141 ]で毎日樣の書き込み拝見いたしました。少しでも解って頂けた事を私も嬉しく思っております。

とのことですが、「少しでも解って頂けた」ということは、私の考え方に変化が見られたということでしょうか?

もちろん、私の考えは、常住ではありません以上、微細な変化は、常に起こっていると思います。

しかしながら、基本的な立場には、金剛心様の御書き込みを拝読させていただいた前後において、相違がないと思っております。

ですから、もし、私の立場に変化が見られたと金剛心様がお考えであれば、私の書いたことの読解に誤解があるように思います。

もちろん、自身のことがわからない凡夫が私ですので、私が自身の変化に気づいていないだけかもしれません。そこで、私の考えにどのような変化が見られたか、わかりやすく教えていただけたら、幸いでございます。

そして、たとえば、「そうですね、変化が見られるのですヨ」のようなお答えでは、納得することはできないのです。

経論釈を一字ともゆるがせにしないことを信条としていらっしゃる金剛心様です。

私の気づかぬ変化を、私の文字から気づいてくださったのかもしれないとも思います。一方、「一字をゆるがせにしない」というのは驕慢心である可能性もあると思っております。

そして、現在の私は、どちらかというと後者の立場を取っております。互いに驕慢であろうと思う次第です。

そこで、より詳しく教えていただけたらと思います。


たとえば、

>『尊號眞像銘文』は親鸞聖人直説釈でもあるのです。毎日樣の理解では
>「五道閉」とは「地獄、餓鬼、畜生、人、天」と「修羅」が抜けた解釈と
>なっていますが、その解釈は一般的仏教思想を知る上に於いて説かれる場合に
>表通りの解釈として用いられています。親鸞聖人はそんな事もすべて了知了解
>した上であえて「修羅」も入れた五道閉を主張されているのです。

とのことですが、これでは、私の意図を読み取っていらっしゃることができていないと思うのです。

と申しますのも、私が書いたのは、正に「『修羅』も入れた五道閉」ということだからです。

>毎日樣の理解では「五道閉」とは「地獄、餓鬼、畜生、人、天」と「修羅」が抜けた解釈となっていますが、

とのことですが、私の書き込みのどのような部分から、このような解釈になったのか、教えていただければ幸いです。

もし、

[ 1141 ]
>つまり、五道とは、地獄・餓鬼・畜生・人・天です。

というところが、その根拠になるのであれば、金剛心様は、部分的なところを取り出して、独自の解釈を行う傾向があるということだと思います。

なぜなら、私は同書き込みにおいて、

>六道においての修羅道が、五道においては、天道と鬼道に配されます。

とも申しているからです。

金剛心様が、部分的な文章を読んで、独自の解釈を押し進め、他の部分との関連をあまり考えない方ということであれば、今までの経論釈の解釈につきましても、いろいろとうなづけることがございます。

しかし、一点一点ご確認してゆかなければなりませんので、遅筆ではございますが、少しずつ、書いて参るつもりでございます。


>「修羅」は人間の意(こころ)の中に存在意識としていつも持っているからです。
>だから五道閉の中には修羅も入れた五道閉の釈として書かれているのです。

そして、この部分の意味も、よくわかりません。

存在意識とは、何を意味するのでしょうか?


>まだまだ詳しい説明がしたいのですが公開メールでは中々書く事は出来ません。

公開の内容で、得心いただけるようにお話できる内容についておっしゃっていただけたらと思っております。

掟に関することにつきましては、どこからが掟であるから書けないのか、切り分けることが可能だと思います。

この掲示板は、公開のものですので、公開されている内容のみを読んでいる方にもご判断いただけるように、考慮していただけたら幸いでございます。

そうでないと、思わせぶりな書き方になってしまうと思うのです。もちろん、この点については、私も気をつけなければなりません。

公開できる内容で、十分に人生を変えてゆける内容を真宗は持っていると思います。

だからこそ、第十九願、第二十願に意味なしとせずです。

盲信の必要はなく、確かめて進み、第十八願に入ることできると思っております。


>選択本願(十八願)を誓願とも行信とも、またいろいろと転語(言葉を変えた)した釈文で書かれているのです。

第十八願は、「信願」であって、行信は、行が第十七願、信が第十八願に配されるのではないかと思っております。

行信が第十八願となるということは、何か根拠がございますでしょうか。あるいは、根拠がございましても、公開できない内容になるのでしょうか。

私には、公開できる根拠がありますので、書きたいと思います。

◎おおよそ誓願について、真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願なり。その真実の信願とは、至心信楽の願なり。これすなわち選択本願の行信なり(行巻)

「真実の行の願は、諸仏称名の願なり」とございます。

つまり、行とは称名でございます。


また、そもそも、往相回向の選択本願とは、第十七願、第十八願、第十一願の三願に開かれると思いますが、金剛心様は、

>選択本願(十八願)

と書いてございます。この点についても、ご説明いただければ幸いです。

第十七願、第十八願、第十一願、それぞれ、行、信、証であると思います。


>上記が理解出来ればどんな釈文を読んでもすべて理解する事が出来ると思います

とおっしゃるのですから、金剛心様ご自身は、「どんな釈文を読んでもすべて理解する事ができる」と自身を見なしていると思いますが、無知な我らではないのでしょうか。

そのように断言できること自体が、私には、あまりにも不可思議なのです。

金剛心様が、そのような立場をお取りになりますならば、「すべて理解している」金剛心様に、お伺いを立てるようなお講になってしまってはいないでしょうか。

金剛心様には、質問もしにくいと思います。「愚弄している」と取られるからです。

そうなると、金剛心様には、まわりから情報が入ってこなくなってしまうと思います。

おそらく、金剛心様のまわりの方は、質問や疑問があっても、聞くことできずに、心に秘めているのではないですか。

私の有縁の善知識様も、信を求める行者の質問から話をそらしているすがたを見せたことがございます。

そして、私はそれを好ましいとは考えておりません。信を求める行者は真剣です。ですから、道理を言うのであれば、それに徹底的につきあってゆくのが道理であると考えております。

料理のもてなしは、目くらましに過ぎません。法によっておもてなしをするのが、知識の責務であると思うのです。

無論、知識と言えど凡夫ですから、多々間違いはございましょう。それでも、法が優先されることは、前提であると思います。

ですので、そのお姿を拝して後、少しお話しようと試みはしたのですが、どうも合わないものを感じ、それ以降、人を紹介しておりません。

つまり、私には、善知識に対して、要求があります。

それで困るかと言えば、全然困っておりません。いつでも弥陀が見てくださっております。

たとえば、金剛心様のまわりの方が、私の記述を読めば、疑問を抱くはずです。

そのようなとき、金剛心様にご質問が許されないならば、お講の方々は、どうすれば良いのですか。


金剛心様と私の考えには、かなりの相違があり、どこからお話すれば良いかを考えるだけでも、時間がかかります。

しかも、根拠を問うと「愚弄している」とおっしゃるお方です。

わからないことをわからないと言い、根拠が不足しているままで断言されていると感じることの根拠を求めるのは、愚弄であるとは私は思いません。


互いに間違いだらけの身であるのですから、根拠を出し合って、互いに向上を試みてゆくのが、良きあり方ではないかと考えております。

質問を愚弄と見なすことについて、再考いただけたら幸いです。

そもそも、金剛心様は、自身の考えを述べずして、矢継早に私に質問を投げかけることが多いと思っております。ということは、金剛心様は、私を愚弄していらっしゃるのですか。

愚弄されて仕方のない私です。愚弄されることに非をとなえようとも思いません。

ただ、愚弄の意識を保たれてご質問されているのかどうか、確認したいのでございます。

南无阿彌陀佛

●re.18
金剛心
北陸の男性
[ 1177 ] Re15:住正定聚について教えてください2 2009/03/24 (Tue) 18:16 △up ▽down
  ボン様へ

[ 1153 ]に自身の考えを正直に記しておられますネ

[ 1153 ]に書かれている文は仏道精進するに当っての第一段階でsづ。

念仏行者の疑いに二種あるし喜びにも二種あるのです。

先ず念仏行者の疑いは、一つは彌陀の誓願を疑う事、二つには誓願は疑わないが

経論釈が理解出来ずに疑う、の二つ有るのです。

二つ目の疑いはどれだけ疑っても良いのです。だから少しづつ長い期間をかけて

経文に書かれている事を理解するように努力していけば良いのです。

だから「信を取る者は疑いを懐く経という明りを以って疑いを晴らして行け」よの

善導大師のお言葉があるのです。

一つ目の疑いを持続して身失に至れば救われないのです。十八願文に書かれている
通りです。
喜びについても信心歓喜の喜びと信心慶喜の喜びと二つです。

経文は理解できなくても誓願さえ疑わなかったら救われていくのです。

それが信心歓喜の喜びの事である。二つの疑いさえ出ない全く親まかせの

赤子の信心を云うのです。

信心慶喜の喜びとは經文に書かれている事を理解し喜ぶ事をいうのです。

経文も理解出来ずに喜ぶ事と、經文を理解して喜ぶの二種あるのです。

出来れば人間生きる間に経文を理解して喜ぶ事が最大の喜ぶ事になるのです。

その事がボン様の書かれている中に「聖教を紐解きながら少しずつ疑惑を

晴らしていくほかはないのかな、という気がします」それが正解であると思います。

経文が真実であることを忘れずに・・・ 合掌  南無阿弥陀仏 。

●re.19
毎日
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[ 1178 ] Re15:住正定聚について教えてください2 2009/03/25 (Wed) 23:32 △up ▽down
金剛心 様

>お会い出来れば資料を手渡して説明も出来ますが・・・

議論が隠されることを、私は望んでおりません。

「間違いも、勘違いも、そのまま見せてゆこう」ということを考えております。なぜなら、凡夫が間違いのあるそのままで、救われてゆくのがこの道であると思うからです。

なぜ、公開の掲示板を運営しているのか、ひとつには、このような理由が背後にございます。また、有縁の方のご参考にもなると思います。意を汲んでいただければ幸いでございます。

また、実際には凡夫でありますのに、無謬性を感じさせてしまうのは、間違いのもとであると思います。

間違いだらけであるにも関わらず、無事救われ、間違いだらけのままで、日々をよろこびながら、世間通途の義のもとで、生きてゆくことができる。

このようなところに、この道の良さを感じております。

お手間をかけ、書き込んでくださいますこと、いつも感謝しております。

南无阿彌陀佛

●re.20
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1179 ] Re16:住正定聚について教えてください2 2009/03/25 (Wed) 00:41 △up ▽down
金剛心 様

上の書き込みにて、「質問を愚弄と見なすこと、再考ください」とお願い致しました。

実は、他にもお願いがございます。

それは、

・自身のことを「教典をすべて理解している大人物」とにおわせるように語り

・他者を「浅学な念仏行者」と呼ぶ

この2つのこともやめてほしいということです。

なぜ、私がこのようなことを申すのか、金剛心様には、理解ができないかもしれません。


確かに私は、浅学な念仏行者なのでありますが、金剛心様も、それは同じであると思います。

それとも、金剛心様は、ご自身を、浅学な念仏行者ではない、何か別格な存在として考えていらっしゃるのでしょうか?


南无阿彌陀佛

●re.21
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1180 ] Re17:住正定聚について教えてください2 2009/03/25 (Wed) 02:17 △up ▽down
金剛心 様

完全に他流であると見なしますならば、何も言うことはないのですが、このようにご縁をつづけてくださいますので、思うところを、つづけてお書きしたいと思います。

ご立腹なさるかもしれませんが、金剛心様の御腹は、立ちやすい腹なのだ、ということで、ご納得いただけたらと思います。

上で、「金剛心様には、理由がわからないかもしれない」と書きました。

これまで対話をして参りまして、金剛心様は、教典のことはわかると主張するけれど、私の書くことを理解はできない人だと考えています。

そして、それは不自然なことです。教典の方が難解だと思います。

どうして、そのような不自然なことが起こるのでしょうか?

もし、可能であれば、その理由について、自身を見つめていただけたらと願うのです。


私が上記2つのお願いを書きました理由は単純で、崇拝されるべきは弥陀だからです。

行者に自身を崇拝させるのでは、善知識だのみになってしまいませんか?

浅学な行者の申しますことも、内実が仏と等しかるべきいわれを考えれば、耳を傾けるべき内容なのではございませんでしょうか?


金剛心様の御発言を拝しますと、まわりの方の発言を押さえ込んではいないかと、懸念されるのでございます。

その象徴が、「質問を愚弄とみなす考え方」にあると思うことにつきましては、既に述べました。

もちろん、金剛心様が、「自分はすごいのだ」と言うことは、自由であると思います。そのようなお気持ちも、どんどん語ってほしいと思うのです。

しかし、だからと言って、まわりの発言を押さえようとするのは、行き過ぎであると思います。

つまり、自由に語れば、次のような形になると思います。


金剛心様:私は、教典がすべてわかるのだ

私:本当かなあ?


このようにして、思うところをだしてゆくことが、大切であると思う次第です。

南无阿彌陀佛

●re.22
ボン
関東の男性
[ 1181 ] Re18:住正定聚について教えてください2 2009/03/25 (Wed) 03:59 △up ▽down
金剛心様

ご教授ありがとうございます。

疑いを「彌陀の誓願を疑う事」ことと「誓願は疑わないが経論釈が理解出来ずに疑う」
の二つに分けて考えるのだとすれば、私の場合は、「彌陀の誓願を疑う」ほうに
入るのではないかと思います。

私は、まれに経論釈を拝読しましても、ほとんど分からないことばかりで、
たまに納得できそうな部分に出くわすとうれしくなる程度の理解しかありません。
私の独力で解読できるとは思えないので、これは分かる人に聞くしかないと思っています。
ですから、経論釈については疑うレベルまでも行っていないのだと思います。

「彌陀の誓願を疑う」というと、たいへん不遜な気がして、口にするのも気が
咎めるのですが、正直に申し上げれば、そのように考えるほかありません。

私は、できることなら他力の行で救われたと心の底から信じたいと願っています。
しかし、冷静に客観的に自分を見ると、完全に信じきっているとは言えない自分が
そこにいるのです。

完全に信じ切っていないということは、裏を返せば、その隙間に疑いが入り込んでいる
と考えざるをえないわけです。

だから、その漠然と心の隙間に紛れ込んでいる疑いが少しでも晴れればと思い、
ときにはご聖教を紐解いてみようという気持ちが生まれてくるのです。
(経論釈がわからないからそれを疑うというわけではありません)

たぶん、私は「彌陀の誓願を疑う事」と「経論釈を疑う事」を分けて考えることに
ついて、そもそもピンときていないのだと思います。

お経はすべて仏説ですし、論釈もすべて還相の人が書いたものだから、今日まで
読み次がれているのだと思います。そして、経論釈という膨大な書籍群は、様々な
方便を含めて、すべて18願に導きいれるため、そして18願の縁に会ったものを
導くためのものだと聞いたことがあります。

つまり、彌陀の誓願と経論釈は私の頭の中では一体不可分なものになっているために
このような二分法になじめないのだと思います。

私は何分、浅学の身ですので、間違いも多々あろうかと思います。
「彌陀の誓願を疑う事」と「経論釈を疑う事」の違いについて、さらに詳しく
ご教授いただければ幸いに存じます。どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.23
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1182 ] Re19:住正定聚について教えてください2 2009/03/25 (Wed) 04:32 △up ▽down
ボン 様

金剛心様への問いでありますが、金剛心様の御意見をお伺いしたいこともあり、書いてみたいと思います。

不要でありますれば、読み飛ばしください。

この点につきましては、金剛心様と私とで、考えが異なるところなのです。

まず、同じ所から述べます。

>念仏行者の疑いに二種あるし喜びにも二種あるのです。
>先ず念仏行者の疑いは、一つは彌陀の誓願を疑う事、二つには誓願は疑わないが
>経論釈が理解出来ずに疑う、の二つ有るのです。
>二つ目の疑いはどれだけ疑っても良いのです。だから少しづつ長い期間をかけて
>経文に書かれている事を理解するように努力していけば良いのです。
>だから「信を取る者は疑いを懐く経という明りを以って疑いを晴らして行け」よの
>善導大師のお言葉があるのです。

ここまでは同じです。

違いは、「彌陀の誓願を疑う事」の内容です。

私の考えでは、自分が「彌陀の誓願を疑っているのかどうか」凡夫には自分でわかりません。

真実信心いただいていれば、「彌陀の誓願を疑う事」は解消しているはずです。

つまり、実際には「彌陀の誓願を疑う事」は解消しているのに、「自分では、疑っていると思っている」という状態があるのだと考えます。


>経文は理解できなくても誓願さえ疑わなかったら救われていくのです。

この部分についても、私も同じ考えです。


>信心慶喜の喜びとは經文に書かれている事を理解し喜ぶ事をいうのです。

ここについては、私の考えは違います。

根拠です。

◎また云わく、久遠の因に籍りて仏に値〈もうあ〉いたてまつるなり。法を聞きて慶喜すべきがゆえにと(行巻)

聞法にて、慶喜心が出ています。

◎信を獲て見て敬い大きに慶喜しれば、すなわち横に五悪趣を超截す(正信偈)

即横超截五悪趣の時点では、既に大慶喜しています。


そして、

◎慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽

この部分につきましては、金剛心様と私の考えがかなり異なるところですので、稿を改めまして、また書きたいと思っております。


◎この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり(唯信文意)

つまり、「この信心」とは何であるかが、金剛心様と私とで、考えの違うところであろうと思います。

私の考えでは、「この信心」とは、一念帰命のとき、弥陀からいただく真実信心のことです。


◎「一念喜愛心」は一念慶喜の真実信心よくひらけ、かならず本願の実報土に生るとしるべし。慶喜といふは信をえてのちよろこぶこころをいふなり(尊号銘文)

この「信をえてのち」の「のち」が、どの程度の時の差を表すかが論点になるのだと思います。


◎また慶喜と申し候ふことは、他力の信心をえて往生を一定してんずとよろこぶこころを申すなり(御消息)

このような文言がありますので、金剛心様は、「一定」に、特別の意味を持たせているものと思われます。


いずれまたお書きするかもしれませんが、関連して、一定と治定についてです。

◎されば平生業成といふは、いまのことわりをききひらきて、往生治定とおもひ定むる位を、一念発起住正定聚とも、平生業成とも、即得往生住不退転ともいふなり(御文1-4)

往生治定が、住正定聚となっています。


◎一念をもつては往生治定の時剋と定めて、そのときの命のぶれば自然と多念におよぶ道理なり。これによりて、平生のとき一念往生治定のうへの仏恩報尽の多念の称名とならふところなり(御文2-3)

一念往生治定の後に、多念の仏恩報尽の称名となっております。

「往生治定の時剋」と「往生治定とおもひ定むる」が別時であるかにつきましても、また稿を改めて書きたいと思っております。


>経論釈という膨大な書籍群は、様々な方便を含めて、すべて18願に導きいれるため、そして18願の縁に会ったものを導くためのものだと聞いたことがあります。

私も、同じ考えです。



>つまり、彌陀の誓願と経論釈は私の頭の中では一体不可分なものになっているためにこのような二分法になじめないのだと思います。

私が思います二分法は、「自分ではわからない、根本の疑い」「自分でわかる疑い」であり、後者は自力のものですので、往生には関係がありません。解消したつもりでも、前者が残りますので、極楽往生の因を得ていないことになると思います。

一方、前者が解消されているならば、後者が残っていても、まったく障りにはならず、往生治定であると考えております。


不明なところがありますれば、どなたでも、ご質問いただければ、うれしいです。

もちろん、金剛心様のご回答を待ってからで構いません。


私も、現在は金剛心様と考えが違いますが、このようにして、違いを明確にしてお話を続けるうちに、私の考えもかわるかもしれません。

それも、自身ではわからぬことでございます。

南无阿彌陀佛

●re.24
酒天童子
関東の男性
[ 1186 ] Re20:住正定聚について教えてください2 2009/03/25 (Wed) 22:55 △up ▽down
毎日様、ボン様、金剛心様

こんばんは、酒天童子です。

今日はちょっと失礼なことを書きます。お許しください。

いま、過去ログを読み返しています。そこで、、、、たくさんの引っかかる文章に出くわしました。
今、一つ一つじっくり考えているところですが、これは“揚げ足取り”ではないと思います。

今日はそのうちのひとつ、、、。

以前、金剛心さまは“未来迷える衆生を真実真理の絶対界へ往生させる為に五劫思惟兆載永劫の御修行なされた事を思えば、仏の期待に沿うように懸命に仏道精進しなければならない身でもあるのです。”
とかかれました。

人は自分の信念が文章の端はしにでるものです。

この文章には金剛心さまの“本音”がよく表れているように思います。
まず、“仏の期待に沿うよう”とかかれました。

おそらくは仏とは阿弥陀仏でありましょう。

いったい、修行のできない救われようのない“未来永劫に流転する凡夫たるわれわれ”に仏は何を“期待”したのでありましょうか?

まさか、自力で“なにがしかを成就せよ”と“期待”しているのでしょうか?
本気で、阿弥陀仏の期待(期待があったとして)に応える(互角にわたりあう)つもりなのでしょうか?

仏は我々凡夫を憐れみこそいたしましたが、何かを”期待”したとはとうてい思えないのです。

つまり、“救おう”とはなさいましたが“救うから期待してるぞ、何かせよ”とは申していないように思います。

もし、何かせよとの具体的な指標がありましたら、ご教示いただきたいと思います。
自分自身、自力修行は過去に書きましたとおり、密教門で辟易するほどしてきましたから、、、。
菩薩の41段階以上の過程であります。密教の法など問題にならないほど“高度かつ深遠なもの”でしょう。

これが第一であります。

つぎに“懸命に”とあります。

菩薩道とは“懸命”にするものでしょうか?

我々相対界に生きる身の上、懸命に上を目指せば絶対界に至るとでも申すのでしょうか?

絶対界とは次元が違う世界でありましょう。
これでは有限の数字を懸命に足していけば、そのうち無限になる、とでも言っているようなものです。
そもそも“懸命”と書くこと自体が、金剛心さまの自力の心の現れでないでしょうか?

金剛心様は浄土(真実報土)に行ってもそこですら、さらに”懸命に“頑張りそうである意味、怖いですネ。

金剛心様自身書かれているように、浄土は“絶対界”でありますから“懸命”などという“相対的な概念”が存在しないと思います。

どこかの経文に“懸命に浄土に云々”というくだりがあったら教えてください。

さらに“仏道精進しなければならない”とあります。

こんな短い金剛心さまの文章の一言一句にさえ、おおくの示唆が含まれています。

これは金剛心さまの“一言一句おろそかにしてはならない”という教訓に教えられたことであります。

“仏道精進”とは何でしょうか?

“仏道”と“精進”とはそれぞれ何でしょうか?

われわれは一体、どのくらい“仏道”を歩んでいるのでしょうか?

まさか、せいぜいこの一期数十年の一生だけで“十分”とは思わないでしょう、誰も、、、。

そうして、仏道なるものは何か?明確に定義できるのでしょうか?
三十七菩提分法というものはあります。

皆さん、ご存じだと思います。

他力に入ったら、どんな他の仏道修行があるのでしょうか?
もちろん、声聞、縁覚の及ばない素晴らしい菩提の道でありましょう。
なぜなら、41段階以上の菩薩道でありましょうから、、、。

ただ“衆生済度”“お手引き”などの行動を基準とした行いで“無色界、絶対界”の悟りが得られるもとになると本気でお思いでしょうか?

“仏道”など“自力”では歩めないから釈尊はこの一流の法を残された、とは考えないのでしょうか?

さらに“精進”とあります。

一体、精進とは何でしょうか?

親鸞聖人(歎異抄に千人殺せ、というくだりがありますよね)ならずとも、現代の心理学者、生理学者、遺伝学者、そろって言っています。

“努力、精進ということができるかできないかは生まれつき決まっている”と。

心理学者は“個人の無意識的傾向により”努力、精進などの精神的な献身度は潜在意識によってけっていされていると言っています。

また、生理学者は“大脳の構造によってもともと努力できたり、目標にむかって継続する力を維持できるかは決定されている”と。

さらに遺伝学者によると“努力できる遺伝子、頑張れる遺伝子、さらには忠実な遺伝子、あるいは裏切る遺伝子”などがあって、人や物事に”尽くせる“のも”裏切る“のも”遺伝子“のなせる業であるとまで言っています。

こうした思い込みはわれわれ凡夫の性であろうと思います。

金剛心さまには失礼ですが、金剛心さまの心中には“自分は正しい”と“他は誤り”がないでしょうか?
また“自分と同じく正しく理解の深いものは真実報土に近く”“自分と異なる誤っていると思われ理解が浅いものは化土に近い”と思ってはいないでしょうか?

これまでのやりとりを読んでいると“金剛心様の仰ることは筋が通っている”にもかかわらず、“毎日様やボン様のほうが”より菩薩としての姿勢を強く感じるのは私だけでしょうか?

ここは毎日様のおっしゃる“ご示談”の場であるとのこと、失礼の数々お許しください。

南无阿彌陀佛

●re.25
菩提心
非公開の非公開
[ 1187 ] Re21:住正定聚について教えてください2 2009/03/26 (Thu) 09:33 △up ▽down
金剛心様

教義の場の過去ログは、よく読んでいませんでしたので、

[ 1174 ]のような書き込みがあったのにはビックリしました。

そして、私は今気づいたことがあります。

その店主様も、どうも真実信心の流れと違うという人もおられますと、私に言われました。

そして22日に富山の「○○講」に行ってきますと言われました。

これでよく今までの流れが理解できました。

何だか、ますます阿弥陀様のお計らいとしか思えなくなってきました。

逆説的にいえば、私から言わなくても、金剛心様の方から宣伝して頂いたようなものですね。

私は、この御著書を有難く拝読させて頂いています。

南无阿彌陀佛

●re.26
菩提心
非公開の非公開
[ 1188 ] Re22:住正定聚について教えてください2 2009/03/26 (Thu) 09:25 △up ▽down
金剛心様の違うと思われるC番目は、

>Cお釈迦様の姿がコロリと変わるという事はあり得ない。
> 姿ではなくお釈迦様の衆生済度に対してお釈迦様が弥陀の心になって、と書いてあれば少しは理解出来なくもない。


讃佛偈(歎佛偈)の一番最初に「光顔巍巍 威神無極」と書いてあります。

そこの場所を浄土和讃(大経意)で、示して教えて頂きました。

○尊者阿難座よりたち、世尊の威光を瞻仰(せんごう=仰ぎ見る=下から上へ目を移していく)し、生希有心とおどろかし、未曾見とぞあやしみし

○如来の光瑞希有にして、阿難はなはだこころよく、如是之義ととへりしに、出世の本意あらはせり

○大寂定にいりたまひ、如来の光顔たへにして、阿難の慧見をみそなはし、問斬慧義とほめたまふ

ここを真宗辞典では

「光顔」・・・光明の如く輝しい佛の顔を云う。大経には、五徳瑞現の釈尊を述べて、「その時に世尊、諸根悦豫し、姿色清浄にして、光顔巍々とまします」等とある。

「巍々」・・・高大にして、おごそかなる貌を云う。大経上には出世本懐を説く釈尊の尊容を、「光顔巍巍」と言えり。

ここはどう読んでも心ではなく、その時の姿が釈尊から、阿弥陀如来に変られたので、阿難尊者がビックリされた場面だと思います。

この上記の場面は、私が読んだどのような御著書にも、そのように書かれていました。


金剛心様はお電話の中で、法蔵館の真宗聖典でなくては駄目だと断言されました。
これは、同じように忍草様にも言われたと思います。

私は長年、親鸞会で使用してきましたが、初めて明治書院の真宗聖典を手にしたとき、あまりに読みやすいのに驚きました。(これは親鸞会をやめてきた人のみんなの感想でした)

しかし、それより読みやすい真宗聖典を本屋で見つけたので、今それを買おうか思案中です。

中身はどれを選ぶかだけで、全て真宗に関連した御著書があるのですから、逆にうがった考えだと、読みにくい聖典だと読む気もしないのを狙っての事かと思ってしまいます。自ら進んで読むのでなく、指示された場所だけを読んで、前後を読まない癖がついてしまいます。(これは親鸞会体験からの思いです)

金剛心様は、何も分からない私が色々と根拠を上げるのは可笑しいような書き方をされておられますが、真実信心頂けると、無知な私でも、読めてくるという不思議な仕組みになっているのです。

だから、有縁の御同行とお話すると、その喜びが倍加していくので、有り難いです。

そこには、一方的なお話ではなく、和やかな雰囲気が出てくると思います。

私は上記のようにC番を味わったのですが、毎日様がどのようにお話されるかは分かりません。


南无阿彌陀佛

●re.27
毎日
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[ 1189 ] Re22:住正定聚について教えてください2 2009/03/26 (Thu) 05:38 △up ▽down
酒天童子 様

現生にて、初地よりの仏道精進を、私たちの意識によって為してゆくという説については、私は、「はなから問題にしていない」という程度の認識です。

(金剛心様が尊んでいらっしゃる六要鈔にも、この点についての議論は書いてあると思っています。)

どうしたら一体そこまで傲慢になれるのか、あまりにも不思議なことです。

定善もできない凡夫でありますのに・・・

おそらく、ご自分たちで階級をつけて、楽しんでいらっしゃるのではと思います。

信を獲た後に、修行して金剛心に至るそうですから、「金剛心」と名乗っている方は、その階級にたどりついたとされている方なのではないかと想像します。

そして、その階級にたどり着いていない方は、お手引きにはげんで、階級をのぼろうとしている可能性があると思います。

これは、真宗のあやうさなのです。

信前と信後があります故に、信前の方を、「知らない人」と見なして、見下しがちな教えであると思います。

信前の方こそが、救われるべき方で、その方々のために、この命があるのであると思っております。

信前の方が、お客様なのです。だからこその正客であります。

ただ、傲慢だからと言って捨てる弥陀ではありません。

それに、私は弥陀から信心をいただいたと思っていますが、このように不完全な私が「現生にて信心をいただき、極楽往生が治定し、やがて仏になる」という説についても、「はなから問題にしていない」方々は、たくさんいらっしゃることと思います。

ですので、泥凡夫様おっしゃいますように、最後は平行線を辿るしかなく、是非も私にはわからないのです。

私は信をいただき、自分がラクになってゆくのを感じます。

極楽に一歩一歩近づいて、苦しくなるのもおかしなことですから、次第にラクになってゆく自身を感じ、さらに弥陀に感謝しているのです。

私は、金剛心様も、忍草様も、愚尼様も、とても苦しそうだと思います。なにかをしなければいけない思いに捉えられていて、弥陀の信心をよろこぶよりも、世間の価値に身をおいているように思います。

苦しんでいるお姿を、ご本人方は否定しますが、それは、もう苦しみに捉えられてしまっていて、気づく事がとても難しくなってしまっているのだと思っています。

そこまで捉えられていない方々の中には、苦しみに気づく方もいるでしょう。

そして、弥陀に救われ、そのすがたを見るひとから、また弥陀に救われるひとが現れるのだと思います。

弥陀は、十方衆生を、必ず見捨てないと思います。全員に気を配り、全員を見ていると思います。

このような気持ちは、結局は信仰に基盤を持っているのですから、基盤は経論釈ではなく、信心であると思うのです。

誠に誠に、主観の世界であります。

文字に救いがあると見なす方々が、その文字とは、南无阿彌陀佛であると気づく日がいつか来ることを、願っております。

南无阿彌陀佛

●re.28
毎日
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[ 1190 ] Re23:住正定聚について教えてください2 2009/03/26 (Thu) 06:03 △up ▽down
菩提心 様

>私は上記のようにC番を味わったのですが、毎日様がどのようにお話されるかは分かりません。

おそらく親鸞会様でのご経験が長いことによって、「間違った説を言ってはならない」という思いが強いのであろうと思います。

ところが、私たちが「間違えない」というのは、無理なのです。

ですから、基本スタンスとしては、「間違いばかり言うけれど、たまにはいいこと言う」くらいのところを、狙っていただけたらと思います。

こういうことを言うと、「開き直っている」という方がいらっしゃいます。

ところが、私はそれは良いことだと考えています。

なぜなら、信心をいただけば、心にはたらく弥陀の真実信心があるからです。

(開かないはずの自力の心が開き、根本の疑いが直されたのだと思っているのです。そして、その後に、また閉じた状態だと思っています。)

だからこそ、思ったことをどんどん言うことが大切で、たいしてつくろわなくても、自然に話していって、そこに真実が出てくるようでなければ、信心などいただいていないということになるはずだからです。

いちいち経論釈を確認せねばならぬのは、それを固めた真実の信心を心に抱いているのであれば、おかしいことです。

経論釈のすべてをちぢめたものが南无阿彌陀佛の六字であり、この六字は、信心なのですから。

信心いただけば、一切経が自らの中に埋め込まれたようなものです。

もちろん、仏凡一体ですから、信心いただいても、間違いだらけです。

ところが、信心いただく前は、すみからすみまで単なる煩悩まみれであった私たちが、今度は、菩提のしみ込んだ煩悩にまみれることになるのです。

ですから、「何かが違う」ということになるはずです。

そうして、手放して、生きているうちに、次第に仏心のはたらきが優勢になり、最後には、浄土に迎えとられます。

愚か者を迎えてくれる極楽浄土です。

間違っていても、いいのです。間違っているままで、あっているのです。

私も間違えだらけ。そして、それをそのまま言えば、気づいた誰かが直してくれます。

そうなると、それは問答になってしまって、広い意味での生きた経論釈の一部になるのです。

本当に、不思議な教えです。

そういう内容を侃々諤々やっていると、なぜかそれが宿善の沙汰になるのだと思います。

南无阿彌陀佛

●re.29
菩提心
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[ 1191 ] Re24:住正定聚について教えてください2 2009/03/26 (Thu) 06:19 △up ▽down
毎日様

>間違っていても、いいのです。間違っているままで、あっているのです。

なんとなくホンワカするお言葉ですね。

きっと、浄土もそうだろなと思います。

こうしなければいけない、ああしなければいけない、そんな感じではないと思います。

阿弥陀経を拝読させていただくと、自由さがあります。

今は劣等感からも解放され、親鸞会のしがらみから少しずつ解放していけたらと思います。

有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.30
毎日
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[ 1192 ] Re24:住正定聚について教えてください2 2009/03/26 (Thu) 06:23 △up ▽down
菩提心 様

私が不思議に思っているのは、

>Cお釈迦様の姿がコロリと変わるという事はあり得ない。

の「あり得ない」のところですね。

別に「あり得ない」でもいいと思うのですが、「あり得ない」と感じるからということで、それはあくまでも感想ですから。

だからやっぱり結局は、金剛心様も、文字通りには読んでいないのだと思います。

「あり得ない」と感じれば、受け入れられない、「こういう意味に決まってる」と思えば、そうだと思う、ということなのだと思います。

そして、それは無理がないことです。だって、信じられる方が変わってます。

少なくとも私の身のまわりの人で、そんな急に光顔巍巍な人、見たことありません。

ですけれども私も、お釈迦様に関しては、盲信的なところがありますね。自分を見ると、そう思います。お釈迦様だったら、光顔巍巍、あり得るだろうなあ、と思ってしまいますから。

結局は、念仏行者には、そういうところがあるのだと思います。見たことのない阿弥陀様、会ったことのない阿弥陀様を、「親様」と感じて、親しみを感じてゆく。

しかも、私は、信をいただいたときに、阿弥陀様が、自分に触れてくださったと思っています。

だから、信じられないのが当然なので、だからこそ、内に秘めるのが良いのだと思います。

そういう変わったことを信じながら、「そういうことを言うのは、仲間内だけにしておけ」という教えなので、それも気に入っているところです。

そうして心の中でよろこんで、世間の仁義を重んじなさい、という教えですから、実に道理にかなうと思っております。

南无阿彌陀佛

●re.31
菩提心
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[ 1193 ] Re25:住正定聚について教えてください2 2009/03/26 (Thu) 09:22 △up ▽down
毎日様

朝、歩きながら考えたんです。

>>Cお釈迦様の姿がコロリと変わるという事はあり得ない。
>
>の「あり得ない」のところですね。
>
>別に「あり得ない」でもいいと思うのですが、「あり得ない」と感じるからということで、それはあくまでも感想ですから。
>
>だからやっぱり結局は、金剛心様も、文字通りには読んでいないのだと思います。
>
>「あり得ない」と感じれば、受け入れられない、「こういう意味に決まってる」と思えば、そうだと思う、ということなのだと思います。
>
>そして、それは無理がないことです。だって、信じられる方が変わってます。


信じられるから、そのまま色々な御著書が拝読できる。

何〜だ、簡単な理屈だったんだわ。

信じられるように、阿弥陀様からして頂いたから信じられるのであって、やっぱり自力で何とかしようとしても無理なんですね。

南无阿彌陀佛

●re.32
菩提心
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[ 1194 ] Re26:住正定聚について教えてください2 2009/03/26 (Thu) 09:53 △up ▽down
[ 1112 ] 愚尼様の書き込み

>未熟者の私です。ジャンヌの自信教人信の書き込みに、言いたい事が沢山あると存じます。
>お叱りを受ける覚悟は出来ています。
>どんなきつい言葉でも、言われても仕方が無いと思っています。
>結果、きちんと最後まで責任を持ってお手引き出来なかった事、この場をお借りしてお詫び申し上げます。
>私が気が付かなかった為と、直に相手を判断出来なかった為に、こう云う事になって仕舞った事を深くお詫びいたします。
>そこには、骨を砕きても、身を粉にしてもと言う心が薄かったんだと自分自身を省みています。
>私が進んで欲しかった道は、金剛心様のお考えの道でした。
>しかし、現実は、この有様です。


ここも読んでいなかったけれど、何もかも分ってきました。

愚尼様の責任じゃないですよ。

ただ、私の過去世の宿縁でこうなる道に辿り着いただけですから。

「有縁の道がその人の道」

今、同じ有縁の人とこのようにお話できて幸せです。

これも、やっぱり「自信教人信」様のお陰です。

南无阿彌陀佛

●re.33
愚老
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[ 1196 ] Re27:住正定聚について教えてください2 2009/03/27 (Fri) 08:49 △up ▽down
毎日様、菩提心様,愚老です.大変な問答色々順序上から拝読させて頂いて居ります.あり難い事です
私は金剛心さまとは知識さまも又,忍草さまの有縁の知識さまとも昨年一度お会いしたこと迄
面識も有りませんでした。
唯、私のご縁の知識様の遺骨は既に20数年前に亡くなられ親鸞様縁の寺に眠って居られます。
相続は現在脈々と続いて居ります。金剛心さま又忍草さまのお講に参ったわけでも有りません
当然金剛心さま忍草さま方の一方的に片寄せした考え方しているとも思いませんが教義のお話は愚老の知識さまが何十年否何百年相続されて聞かされてきた話とは私なりの知恵で平たく納得できるお話なのです。皆さんから言えば其れが同調と言われるでしょう。レス(1174)菩提心様宛
何処のお寺のご住職様のお書きになられた書物か知りませんが一番目―3番の解釈は皆様此れも違って居るとお思いでしょうか?お尋ね致します。
釈迦様がコロリと阿弥陀様との解釈にも金剛心さまの注釈が入って居りますが。
私は冷静に読ませて頂きますと亡き知識様の言われたそのもののように理解致します。
当然各自各自の理解度の問題であり喜び方の違いであり、間違い,正しいと決め付けは致しませんが愚老の私はその様に思って居ります・。

●re.34
毎日
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[ 1197 ] Re28:住正定聚について教えてください2 2009/03/28 (Sat) 00:24 △up ▽down
愚老 様

いつも御書き込み、ありがとうございます。

1-3の解釈ですが、3について、思うところをお書きしたいと思います。

>B観経の下三品でたとえ来迎があっても成仏には至らず12大劫の期間があり、化土往生となり成仏ではない。これも経釈文と相違する。

「化土往生をしないで成仏する」ということであれば、経釈文と相違すると思いますが、化土を介して成仏するのであれば、私は問題とは思いません。

化土に往くことできれば、成仏するものだと思っていたのですが、違うでしょうか・・・

真実信心得ることを、成仏と等しいと考えることができると思います。

化土に往くのでも、成仏と等しいと考えることができると思います。

「経釈文と相違する」ということであれば、「化土往生しても、成仏しないことがある」という経釈文が必要だと思います。

あるのかもしれませんが、私はまだ知りません。

もし、ご存知でしたら、教えていただければ幸いです。

それと、これは金剛心様宛です。

化土往生しても、成仏しないことがあるとお考えでしょうか?

南无阿彌陀佛

●re.35
毎日
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[ 1199 ] Re29:住正定聚について教えてください2 2009/03/28 (Sat) 01:09 △up ▽down
金剛心 様

そして、2番なのですが、

>A「この世の命終った時無上の妙果が間違いなく極楽往生するのです之を必至滅度願成就と申します」74Pに書きながら「平生の時信心決定すれば必ず報土往生は間違いありません」368Pと書き74Pとの道理合わず。

ここにつきましては、私にとりましては、金剛心様のことばが足らず、どこが道理が合わないのかがわかりません。

「道理が合わない」のであれば、矛盾点をより明確に表現が可能だと思っております。

金剛心様は、「わからないのは、理解力が低いから」という言い方で自身の理論を正当化することが多いと思っております。

相手が自分の言うことを理解しないとき、「あなたがわからないのは、あなたの理解力が低いからですヨ」あるいは、「あなたがわからないのは、浅学だからですヨ」というのでは、どんな議論も正当化できてしまいますネ。

言葉少なく説き、相手が理解できないと言えば、「それはあなたの能力が低いのです」ということを繰り返しているのが金剛心様だと思います。

自らのことばが不足している可能性については、説法にご自信がおありなのかもしれませんが、あまり考慮されていないように思っております。

そして、これは推測ですが、おそらくまわりにも、「わからないのは、あなたの能力が低いから」という態度で接しているのではないかと思っております。

それを信じたひとたちは、自身で考えることを放棄し、「自分にはわからない」と見なしてしまうのではないでしょうか。そして、それは、そのひとたちの業によるものです。しかし、その因つきれば、考えかたも変わってくるでございましょう。

一文不知の者が救われる道であるはずですのに。

そして、自分が質問されれば愚弄していると言い、自身は相手に問うのが金剛心様であると思っております。

(根拠を問うのが愚弄とは・・・これには少しおどろきました。その方針が継続するのであれば、金剛心様の理論を理解することは、私には、ほぼ無理です。)

金剛心様ご自身の理論について私に問われても、わかるはずがありません。金剛心様の考えを私に問うのではなく、金剛心様の考えは、金剛心様が説明するものだと思います。

私は、私の考えを金剛心様に問うのではなく、金剛心様はどのように考えているのかを、金剛心様に問うているつもりでございます。

南无阿彌陀佛

●re.36
毎日
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[ 1202 ] Re30:住正定聚について教えてください2 2009/03/28 (Sat) 01:31 △up ▽down
金剛心 様

1番です。逆からお話することになってしまってスミマセン。

>@「来世は必ず真実報土に往生すること」7P来世と人間死した以後。
>@の項目から経論釈を以って説明すれば、報土は現生ではない事を意味する文である。宗祖又は高祖方の経釈文と全く相違する。弥陀の報土は現生であると解されるいろんな釈文を無視した書き方となっている。自分の考えで書かれている事に気付かない。

ここなのですが、これは忍草様にも言えることだと思うのですが、現生か、来世なのか、単純な二分法では説けないことだと思っております。

眼前に証果が現れますのは来世(より正確には、穢身の因が尽きたとき)でございますが、その正因は、いただいておりますので。

過去ログでも述べてきておるのですが、愚考につきまして、再度書こうとも思っております。

なるべく、金剛心様の説き方に相応して書きたいと思っておりますので、まだ考えているところでございます。

南无阿彌陀佛

●re.37
毎日
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[ 1204 ] Re31:住正定聚について教えてください2 2009/03/28 (Sat) 01:26 △up ▽down
金剛心 様

つづきでございます。

そして、「宗祖又は高祖方の経釈文と全く相違する」このような強調表現は、金剛心様の大きく得意とするところでございますネ。

お気づきかもしれませんが、私も、少し表現を変えまして、この種の強調表現を、最近の書き込みでいくつか使用してみました。

思い入れは表現できますが、根拠には、「全く」ならないと思っております。

それとも、やっぱり、金剛心様にとっては、説得力があるのでしょうか?

たとえば、「はなから問題にしていない」と言われれば、「なるほど、問題にならぬなあ! これは、間違えたわい!」とでも、思いますか?

たぶん、思っていないと思うんですよね・・・

「全く相違」するのであれば、見事に矛盾している経釈文が引用できると思うのですが・・・

それが出せないということは・・・

一つアドバイスすれば、明確な根拠が出せるのであれば、「全く」と強調するよりも、内容において、きちんと明確に伝わると思いますヨ。

南无阿彌陀佛

●re.38
愚老
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[ 1208 ] Re32:住正定聚について教えてください2 2009/03/28 (Sat) 08:13 △up ▽down
毎日様
愚老の頂いた知恵が間違っていましたら修正して下さい。
「経釈文と相違する」ということであれば、「化土往生しても、成仏しないことがある」という経釈文が必要だと思います。
化土往生は浄土の一門をくぐる成仏とは仏と成る即ち入三門をくぐって弥陀世界(佛界)五十ニ段の世界に納まると言いましょうか。
極楽浄土を須弥山の世界・・須弥段・・仏壇の作りが須弥段の作りに成っていると思います
三千大千世界・小千世界。中千世界,大千世界,合わせて三千大千世界
一般家庭の真宗仏壇は良く見ていただければ解ると思いますが一段二段弥陀様の欄干の有る三段と作られて居ります。三門真仏土の門をくぐって始めて成仏と思いますが.愚老は高祖方の成された書き記された事.知識さまから頂いて信じるばかりです。各所尋ねて見て感じての喜びです
親鸞様のご和讃の中からの味わいを喜ぶばかりです
誓願不思議をうたがひて 御名を念佛成佛これ眞宗 萬行諸善これ假門 権實眞假をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ
浄土和讃 聖道権假の方便に 衆生ひさしくとヾまりて 諸有に流轉の身とぞなる 悲願の一乗歸命せよ
浄土和讃 恩徳廣大釋迦如來 韋提夫人に勅してぞ 稱ずる往生は 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたもう
還相の廻向ととくことは 利他教化の果をえしめ すなはち諸有に廻入して 普賢の徳を修するなり
願作佛の心はこれ 度衆生のこヽろなり 度衆生の心はこれ 利他眞實の信心なり
浄土の大菩提心は 願作佛心をすすめしむ すなはち願作佛心を 度衆生心となづけたり
正像末和讃 度衆生心といふことは 彌陀の智願の廻向なり 廻向の信樂うるひとは 大般涅槃をさとるなり
正像末和讃 如来の廻向に歸入して 願作佛心をうるひとは 自力の廻向をすてはてて 利益有情はきはもなし
信心すなはち一心なり 一心すなはち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなはち他力なり
南無阿弥陀仏。

●re.39
毎日
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[ 1209 ] Re33:住正定聚について教えてください2 2009/03/28 (Sat) 11:00 △up ▽down
愚老 様

愚老様が間違っていらっしゃるかどうか、私にはわからないのです。

私はただ、自らが思うところを述べるだけでございます。

「違い」を感じることはあっても、「間違っている」かまではわからないというのが実情でございます。

下品下生の機、化土往生についてでございますが、十二大劫のお育てによりまして、観音・勢至の大悲の音声に至り、法を聞き、歓喜し、菩提心を発します。

この菩提心とは、他力の菩提心なのではないでしょうか。

下品下生にて称名の往生を為しますときに、如来聖衆来迎すると言えど、そのお姿を拝することできず、日輪として見えるわけでございます。

これもまた、煩悩の眼が残る故であると思っております。

聖衆は、浄土からいらっしゃるのですから、おそらくご縁のあった方々が、よろこびまして、利他として来てくださるのでございましょう。

もともと、永劫流転してきた私たちです。十二大劫と言えど、弥陀の誓願なければ、それだけでは済まず、さらなる流転を重ねただろうと思います。

南无阿彌陀佛

●re.40
愚老
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[ 1210 ] Re34:住正定聚について教えてください2 2009/03/28 (Sat) 12:48 △up ▽down
毎日さま
>下品下生の機、化土往生についてでございますが、十二大劫のお育てによりまして、観音・勢至の大悲の音声に至り、法を聞き、歓喜し、菩提心を発します。

>この菩提心とは、他力の菩提心なのではないでしょうか。
包華の中は人間界で言えば母親の体内の赤子のような場所でしょか
観音・勢至の法を聞き南無阿弥陀仏の漸偽で一挙に開華するんでしょうね・子供の誕生の様に。
>
菩提心にも色々でして上記に書き記した(浄土の大菩提心は 願作佛心をすすめしむ すなはち願作佛心を 度衆生心となづけたり) 。大菩提心,大慈悲心・この大の一字に何か意味有りそうですね。
南無阿弥陀仏・

●re.41
毎日
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[ 1211 ] Re35:住正定聚について教えてください2 2009/03/28 (Sat) 13:33 △up ▽down
愚老 様

お返事ありがとうございます。

◎応時即発菩提之心

愚老様は、この「応時即発菩提之心」の「菩提之心」とは、どのような菩提心であるとお考えなのでしょうか?

と申しますのも、「何か意味有りそうですね」このような述べ方は、綺語であると思います。

「何か意味有りそう」とのことでは、愚老様のご意見がわかりませんので、なるべく明確にお願い致します。

たとえば、「何か意味有りそうだけれども、その意味がわからないのです」ということであれば、そのようにおっしゃっていただければ、よくわかりますし、「何か意味が有りそうで、〜のような意味だと思います」ということであれば、そのように、きちんと内容を説明していただけたらと思います。

曖昧な表現は、無用な混乱を招きます。

また、綺語に問題があることを知らないひとが綺語を聞くと、まるで自分に理解力がないかのように思って、その人に苦しみを生んでしまいます。

わからないのは、表現が不明確だからで、不明確なことは、もともとわかりようがないのです。

不明確なことには質問をし、明確にしてゆき、わかってゆくことであると思います。

そして、明確化のための質問に答えが返ってこないなら、実は、話し手がそもそもわかっていないということなのです。

話し手によっては、自分が現に答えられないのに、自分が不明確であったことに気づくことができません。

そして、自らの無知を認めることができずに、聞き手の理解力を責めるのです。

嘘が苦しみを生むように、綺語も苦しみを生みます。

有縁の方に苦しみをなるべく生まないためにも、教義のことですので、はじめから明確に述べていただけたらと思います。

私もなるべく明確なことばを心がけたいと思っております。

南无阿彌陀佛

●re.42
愚老
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[ 1212 ] Re36:住正定聚について教えてください2 2009/03/28 (Sat) 17:47 △up ▽down
毎日さま
浄土の大菩提心は 願作佛心をすすめしむ すなはち願作佛心を 度衆生心となづけたり) 。大菩提心,大慈悲心・この大の一字に何か意味有りそうですね。
悪業ばかり積み重ね地獄一定の身であるこのの自覚も出来ない我々凡夫を如何しても救いたいと願って居られるのが如来の大慈悲心でありこの大慈悲心を頂くのが信心獲得、信心頂いたなら娑婆の命終わるまで,如来の光明の中での生き甲斐のある喜びの日常生活を送ることが出来,その上、天地の神々,諸々の菩薩のご加護を受ける身となりますね、この大慈悲心を度衆生心かと、度と言えば渡すとゆう意であって迷いの岸から悟り世界へ渡したいの如来のお心であり、この心をお与え下さる事が廻向と意いますね、このことを蓮如上人は(仏心と凡心と一体になるところを指して真の念仏行者という)べきであるとお示し下され又親鸞上人さまの和讃には(度衆生というは弥陀智願の廻向なり廻向の信樂うる人は大般涅槃をさとるなり)と有ります,信樂とは信心が我が胸に届いて下されたことを喜ぶ心であり智願とは知恵の願、即ち第12願の光明無量の願でありこの仏の頂くと同じに寿命無量13願もお与え下さるので永遠に死の苦から逃れるので有りましょう。和讃に願作佛心の心はこれ度衆生の心なり度衆生の心はこれ利他真実の信心なり
尽十方の無碍光佛一心に帰命するをこそ天親論主のみことには願作仏心とのべたもう
自己が救われると同じに他をも救うことが出来るとなるとその大慈悲心は無限大に広がります
正に底知れぬ大功徳であって無量無辺不可称不可説の大功徳といわれる訳です
その上大難は小難に小難は無難にのがれされて頂くのです。この度衆生心の働きを自利利他と言い自利とはわが身が仏になる利益を与えられることであり利他とは他をも救うという利益を与えることであって此れを菩薩の行としこの行をする人を普賢菩薩とゆのあります。他を利するということは菩薩の位を得た念仏行者としての報謝でありこの報謝をすることが阿弥陀如来様のお手伝いを出来ることでありますがこの穢れた娑婆に生きている間にだけ出来ることでありここに生かされている尊さも感じる次第です和讃に(還相の廻向ととくことは利他教化の果をえしめすなわち藷有に廻入して(藷有とは諸々の迷界)普賢の徳を修すなり)藷有に廻入とは全て生ける生けるものの苦悩の中に返り入りと、親鸞さまも信巻に(しかればもしは行、もしは信,一事として阿弥陀如来の清浄願心の廻向成就に給うところにあらざることあることなし)と仰せられこの度衆生心は如来から我ら凡夫にお与え下された仏心であることをお教え下されているのでありますから、信後は衆生済度(供養)を心掛けねばならないと思います命終わったら利他教化の大功徳を施すことが出来ません命ありこと喜ばずに居れません。南無阿弥陀仏。、


●re.43
毎日
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[ 1213 ] Re37:住正定聚について教えてください2 2009/03/29 (Sun) 00:47 △up ▽down
愚老 様

尊いお話、ありがとうございます。

弥陀の大菩提心、誠にありがたく、日々感謝しております。

この大信心がなければ、私のような凡夫が、どうして極楽に往くこと、かなうでしょうか。

そして、不綺語を書きながら、私の書き込みが長くなってしまい、わかりくくなってしまったと反省しております。

そこで、もう一度お伺いしたいと思うのですが・・・

◎応時即発菩提之心

の「菩提之心」とは、愚老様は、大菩提心とは異なるとお考えでいらっしゃるのでしょうか?

他にもお聞きしたい点あるのですが、長くなりますので、ひとまずここに限りたいと思います。

様々な理由により、答えにくい等ありましたら、無視してください。


南无阿彌陀佛

●re.44
ボン
関東の男性
[ 1214 ] Re38:住正定聚について教えてください2 2009/03/29 (Sun) 02:27 △up ▽down
毎日様
こんばんは。いつもありがとうございます。

>私の考えでは、自分が「彌陀の誓願を疑っているのかどうか」凡夫には自分でわかりません。
>真実信心いただいていれば、「彌陀の誓願を疑う事」は解消しているはずです。
>つまり、実際には「彌陀の誓願を疑う事」は解消しているのに、
>「自分では、疑っていると思っている」という状態があるのだと考えます。

ということは、自分が「疑っているか、信じているか」などと主観的に考えるのは
無意味だということになりますね。

確かに、私の“いただいた”信心は、自らの意思と努力で手に入れたものではありません。
自分の力では信じることすらできず、結局は、手を引かれて、“信心をいただく”ほか
なかったわけです。(この点は一味同行の方なら、だれでもうなづけると思います)

自分の意思で(自力で)信じたわけでもないのに、自分の意思で(自力で)疑ってみよう
などと考えるのは、そもそも矛盾していますし、たぶん、おこがましいのでしょうね(笑)

この御一流は、“信じること”すら阿弥陀様からいただくわけですから、どこまでも、
徹底して他力なのだなあ、とあらためて感じ入る次第です。

なんだか、とても力が抜ける感じですね。これを「心身柔軟」というのでしょうか。

これと関連して、ひとつ疑問があるのですが、我々一味同行は、菩薩なのでしょうか。
「弥勒に等しい」などと“かしづきて”いわれるようなのですが、“等しい”というのは、
思うに“匹敵する”ということであって、“そのもの”とは違うわけですよね。

金剛心様や忍草様のおっしゃることも、我々が信心をいただいた当初は、菩薩の行に
あてはめていえば「初地」なんだけども、実は“菩薩そのもの”ではないのだから、
そこから等覚を目指して、自ら(自力で)修行をするという意志(こころざし)も、
必ずしも必要ないのではないのかという気がいたします。

(忍草様から、我々は菩薩か、凡夫か、という問いかけもあったように記憶しています)

時には喜び、時には疑惑し、時には確信し、おぼつかない足取りでも、
愚老様や蓮華蔵様のおっしゃるように、仏の側から強力引っ張る力が働いて
いるから次第にいい方向に進むのかな、と勝手に思っております。
これも第三者的にみれば、修行と言えなくもないですよね。(無理がありますか)

なにしろ、私は有縁の善智識様から「喜べ」としが言われたことがないし、
法話といえば「牛盗人の話」などの逸話ばっかり、繰り返し繰り返し聞かされて
おりましたので、経論釈などなかなか一人では読めません。

一応、聖典なども買い求めて、少しずつでも読むようにはしておりますが、
お念仏が足りないせいか、なかなか理解できませんので、やはり分かる方に
お尋ねするのが一番かなと、思っております。

何か考え違いなどございましたら、どなたでもご指摘ください。

南无阿彌陀佛

●re.45
毎日
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[ 1215 ] Re39:住正定聚について教えてください2 2009/03/29 (Sun) 04:04 △up ▽down
ボン 様

お返事ありがとうございます。

「自分が『疑っているか、信じているか』などと主観的に考えるのは無意味」であるならば、思考停止をすすめていることになってしまいます。

安心して、検討なさってみるとよろしいかと思います。

お聖典をご覧ください。たくさんの問答が掲載されております。

疑問を抱くことがいけないことであれば、問に対して、「疑問を抱かず、ただ信じなさい」のような答えが書かれているはずでございますが、そうなってございません。

そして、ボン様は、他力であるということをわかっておられます。

他力であるとわかり、他力の行であるとわかり、他力の信であるということがわかれば、自力の信ではない信があるのかもしれないと感じることはできるのではないかと思います。

さらに、自力の疑いも出ず、「ありがたいなあ」と感じ入ることができる方は、宿善が厚いのであろうと思います。

しかし、私のように疑い深い機は、お聖典を確認してゆくことになるのでございます。

それでありながら、ときには、「ありがたいなあ」と手が合わさるのでございます。

また、同行の話を聞いていったりするうちに、少しずつ、合点もできてくるような気が致します。

南无阿彌陀佛を称えておりますと、不思議な名号のはたらきがあるように思うのです。

時には心に感謝を抱き、身体には合掌致しまして、口業にて南无阿彌陀佛と申すとき、何とも言えない、うれしい気持ちになることがございます。

すべての行が南无阿彌陀佛にはこもっておるのですから、こんなに簡単で、ありがたいことはございません。

あらゆる神や菩薩や仏への感謝も、南无阿彌陀佛の中に入っております。

あらゆる尊いお経様も、南无阿彌陀佛の中に入っております。

菩薩に等しいかどうかでございますが、私たちは、もちろん凡夫でございます。

しかし、菩薩になることが定まっているのでありまして、この意味において、菩薩に等しいのでございます。

六要鈔から引きます。

(近頃、この掲示板に六要鈔のことをよく書きますのは、金剛心様をご配慮してのことです。これもまた、何かのご縁であると思いまして、そうしております。)

◎一に云わく、此土の不退なり。これ則ち行に於いてその難易を論じ、機に於いて精進・儜弱(にょうじゃく)と分かつといえども、至る所は共にこれ阿惟越致、即ちこれ不退なり・・・或いは即時と云い、或いはこの身と云う。これ此土の不退を以て本と為す(六要鈔)

すなわち、不退と申しますのは、ここ、この地において、不退に入るのでございます。

◎況んやまた生後の義を存すといえども、現生不退の益を遮するにあらず。位は未だ不退の地に至らずといえども、光触を蒙る者は心不退の義、摂取不捨、横超断四流、あに以て空しからんや。これ等の明文は虚説にあらざれば、不退の義は何ぞ成ぜざらんや。三不退にあらず、処不退にあらず、ただこれ信心不退の義なり(六要鈔)

そして、その「不退」とは、「三不退にあらず、処不退にあらず、ただこれ信心不退」なのです。

「位は未だ不退の地に至らず」というところが肝心であろうかと思います。

三不退とは、位・行・念の不退のことです。

ところが、真宗における現生不退とは、この不退のことではないのです。

また、処不退でもないわけです。

このことは、真要鈔にも出て参ります。よかったら、お手持ちの御聖典にて、ご確認ください。

◎土につき機につきて退・不退を論ぜんときは、まことに穢土の凡夫、不退にかなふといふことあるべからず。浄土は不退なり、穢土は有退なり。菩薩の位において不退を論ず、凡夫はみな退位なり。しかるに薄地底下の凡夫なれども、弥陀の名号をたもちて金剛の信心をおこせば、よこさまに三界流転の報をはなるるゆゑに、その義、不退を得るにあたれるなり。これすなはち菩薩の位において論ずるところの位・行・念の三不退等にはあらず。いまいふところの不退といふは、これ心不退なり(真要鈔)

不退と言えども、あくまでも「不退を得るにあたれる」であり、「心不退」なのです。

弥陀の信心が金剛でありますが故の不退であります。

また、「凡夫はみな退位なり」という御文も大切であると思います。

◎ただし、「即得往生住不退転」といへるは、浄土に往生して不退を得べき義を遮せんとにはあらず。まさしく往生ののち三不退をも得、処不退にもかなはんことはしかなり(真要鈔)

三不退・処不退は、現生ではなく、往生ののちのことです。

しかしながら、真宗念仏者におきましては、往生が治定しておりますので、三不退・処不退を得たことにもなるのであります。

つまり、退位でありながら、不退であるのです。

これすなわち、凡夫にして、菩薩であるということです。


以前であれば、六要鈔から引かずに、真要鈔から引いたでありましょうから、こういうことを書いておりますと、勝他のためではないかと、ちょっと自分がイヤになります。

ボン様に法をお伝えする(とは言え、私の知っている範囲に過ぎず、誤解や間違いがあることはご承知置きください)ために書いているのだと自分に言い聞かせ、なぐさめとしたいと思います。

不十分な論でありますので、不足の点や間違い等ございましたら、どなたでも、ご指摘いただければうれしく思います。

南无阿彌陀佛

●re.46
愚老
非公開の非公開
[ 1216 ] Re40:住正定聚について教えてください2 2009/03/29 (Sun) 09:04 △up ▽down
毎日さま
◎応時即発菩提之心
の「菩提之心」とは、愚老様は、大菩提心とは異なるとお考えでいらっしゃるのでしょうか?
私は違いますと思います。阿弥陀如来様の大慈悲心,大菩提心・他力
聖道自力の菩提心、慈悲心・自力・・
下記の聞き終わって歓喜する・・・時に応じて云々・・菩提心をおこしたのです。
観無量壽経より
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「「下品下生」というは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作る。もろもろの不善を具せるかくのごときの愚人、悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし。多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなからん。かくのごときの愚人、命終の時に臨みて、善知識の、種種に安慰して、ために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友告げて言わく、「汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と。かくのごとく心至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。命終の時、金蓮華を見る。猶し日輪のごとくしてその人の前に住す。一念の頃のごとくに、すなわち極楽世界に往生することを得ん。蓮華の中において十二大劫を満てて、蓮華方に開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもって、それがために広く諸法実相・除滅罪の法を説く。聞き已りて歓喜す。時に応じてすなわち菩提の心を発す。これを「下品下生の者」と名づく。これを「下輩生想」と名づく、「第十六の観」と名づく。」
私は長年の知識からの頂いたものを喜ぶばかりで、問答して信心の沙汰も疲れます。
休ませて頂きます。有難う御座いました。南無阿弥陀仏。

●re.47
毎日
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[ 1217 ] Re41:住正定聚について教えてください2 2009/03/29 (Sun) 14:59 △up ▽down
愚老 様

お返事ありがとうございます。

承知致しました。

感謝しております。

南无阿彌陀佛

●re.48
毎日
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[ 1218 ] Re42:住正定聚について教えてください2 2009/03/29 (Sun) 15:24 △up ▽down
愚老 様

つけくわえなのですが、

◎経に云わく、なお比丘の三禅の楽に入るがごときなりと。知るべし。華の中にありて、多劫開けずといえども、阿鼻地獄の中にして、長時永劫にもろもろの苦痛を受けんに勝れざるべけんや(散善義)

(経云。猶如比丘入三禅之楽也。応知。雖在華中多劫不開、可不勝阿鼻地獄之中、長時永劫受諸苦痛也。)

十二大劫の間、罪の結果としてそうなるわけでございますが、とても苦しいかと言えば、そうではなく、「比丘の三禅の楽に入るがごとし」、そのような状態でお育てをいただきます。

化土往生もまた、衆生誘引のための素晴らしい仕組みであると思う次第です。

阿弥陀如来の愛情を感じるところでございます。

南无阿彌陀佛



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