浄土真宗の教義について

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●No.114
ボン
関東の男性
[ 1005 ] 住正定聚について教えてください 2009/02/14 (Sat) 03:10 △up ▽down
ボンです、こんばんは。

私、一流の信心をいただき、後生は安心と喜んでおりますが、
「住正定聚」という言葉の意味がよくわからず、詳しいかたにおたずねしたく、
書き込みをいたしました。

どなたか詳しい方にご教授いただければ幸いですが、まずその前に、
私が現在、「住正定聚」をどのように理解しているかを述べます。


私の理解する住正定聚

 (1)信心を頂いた時刻(瞬間)に、正定聚に住することになる。
   信後、徐々に正定聚に近付くのではない。

 (2)住正定聚とは、娑婆の命が終わったときに極楽に生まれることを、
   約束された身分である。

 (3)住正定聚といっても、娑婆の命が終わるまでは、煩悩具足の凡夫であって、
   この世でさとりを得られるわけではない。さとりは浄土で得られるものである。


以上3点につきまして、それぞれ、その根拠とする経文を引用します。


(1)信心を頂いた時刻(瞬間)に、正定聚に住することになる。

「されば平生業成といふは、いまのことわりをききひらきて、往生治定とおもひ定むる位を、
一念発起住正定聚とも、平生業成とも、即得往生住不退 転ともいふなり。」(御文章1-4)

「愚癡闇鈍の身なれども、ひとえに弥陀如来の他力本願に乗じて、一向に阿弥陀仏に帰命すれば、
即時に正定聚のくらゐに住し、また滅度にいたらしむるとこそつたえたり」(帖外御文章)


(2)住正定聚とは、娑婆の命が終わったときに極楽に生まれることを、約束された身分である。

「『滅度をさとらしむ』と候ふは、此度此身の終り候はんとき、真実信心の行者の心、
報土に至り候ひなば、寿命無量を体として光明無量の徳用離れたまはざれば・・・」(末燈鈔14)

「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚に住す。正定聚に住するがゆゑにかならず
滅度に至る。滅度に至るがゆゑに大涅槃を証するなり。」(浄土真要鈔)


(3)住正定聚といっても、娑婆の命が終わるまでは、煩悩具足の凡夫であって、
  この世でさとりを得られるわけではない。さとりは浄土で得られるものである。

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念之夕、大般涅槃を超證す」(教行信証・信巻)

「問うていはく、正定と滅度とは一益とこころうべきか、また二益とこころ うべきや。
一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にて
あるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもふべきものなり。 」(御文章1-4)

「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ」(歎異鈔15)

「煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。
この条、もってのほかのことにそうろう。」(歎異抄15)


以上が、「住正定聚」についての私の理解と、その根拠とするところですが、
何分、経文を部分的に勉強している段階ですので、間違っている可能性があります。
どなたか、正しい理解を教えていただければ、うれしく思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.1
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1009 ] Re1:住正定聚について教えてください 2009/02/26 (Thu) 10:48 △up ▽down
ボンさま

はじめまして。
こちらの掲示板は、以前より拝見させて頂いておりました。
今回初めて書き込みさせて頂く、蓮華蔵と申します。



さて、正定聚については、教行信証の「証」巻はじめに説かれています。

経文を根拠に、親鸞聖人は次の2者が、正定聚と説かれています。
 @浄土に生まれようとする人(信楽開発した人、信一念以降)
 A浄土の住人

つづく釈文はじめに、曇鸞大師の浄土論註を引用され、正定聚の人には、
次の4つの特徴があることを説かれています。
 @荘厳「妙声」功徳成就
 A荘厳「 主 」功徳成就
 B荘厳「眷属」功徳成就
 C荘厳「清浄」功徳成就

「妙声」「 主 」「眷属」「清浄」の功徳(はたらき)とありますが、
例えばCによって、正定聚の人には、心を「清浄」にするはたらきが起こってきます。

「往相廻向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。」
と「証」巻はじめにありますが、この「心行」が正定聚の人の心を清浄にしていきます。

「心行」とは念仏のことですが、「総序」には、
「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳と成す正智」とありますように、
信楽を獲た人の念仏は、悪を徳に転じ変える、ものすごい功徳があります。

我が心の悪業が縁に触れて、煩悩として吹き上がってきたときに、
阿弥陀仏の光明で我が心の悪業が知らされ、具体的には
こんな自分だから苦しむんだぁ、お粗末だ〜、と自分の内側を見せつけられ
懺悔させられることで、その悪業が以後悪業としてはたらかなくなります。
さらに、その悪業が徳に転じ変わります。

例えば、人に自分の意見を押し付ける人ならば、その悪業が知らされると、
だんだん押し付けることが無くなるとともに(悪業がはたらかなくなる)、
余裕をもって相手の意見が聞ける・相手が押し付けてきても落ち着いていられる
(悪業が徳に転じ変わる)ようになってきます。

穢土から浄土へ引かれ、
浄土に入るとさらに奥へ奥へと引っ張られます。

この、引かれる力が仏力(本願力)であり、信楽を獲た人に巻き起こってきます。
日々の生活の中で具体的に巻き起こり、その人の心はどんどん変わります。

どんどん「優しくなり」、どんどん「智慧」が得られます。
そのことが唯信抄文意には説かれています。
「この不可思議の智慧光仏の御名を信受して憶念すれば、観音・勢至は必ず影の形に
 そえるが如くなり。」 と。
観音(優しさ)・勢至(智慧)が正定聚の人の心に表れてきます。



正定聚とは、成仏定まった人。どんどん仏に近づいていく人。
親鸞聖人は、念仏で転悪成徳とか転悪成善とか説かれていますが、
具体的に心の中に起こってくることで、自分がどんどん変わっていくことです。

不退転とは、三悪道に再び戻らないこと。

ですから、
正定聚は穢土から浄土へ入り、そして奥へ奥へと成仏する前方向を表し、
不退転は浄土から穢土へ戻らないという、後方向を表しています。

正定聚の仲間入りすると、それまで穢土にいたので悪業いっぱいですが、
念仏でどんどん心が清らかになってくると、心が浄土に入り、どんどん極まっていく
ことを感じることになります。



以上です。

●re.2
ボン
関東の男性
[ 1010 ] Re2:住正定聚について教えてください 2009/02/27 (Fri) 01:08 △up ▽down
蓮華蔵様

ボンです、はじめまして。
たいへん懇切丁寧で、わかりやすいご教授ありがとうございます。
心より感謝いたします。

蓮華蔵様のお話をうかがいまして、
「この信心をいただいたものは、悟りを開いたわけではないけども、
御恩報謝の念仏を称えることにより、心が徐々に清らかになっていくものだ」
というように受け取りました。

そこで、更におたずねいたします。

御恩報謝の念仏により心が清らかになっていくというのは、本人が意図するしない
にかかわらず、自然の成り行きとしてそうなっていくものなのでしょうか。それとも、
そこには清らかなころになろうとする本人の自覚のようなものが必要なのでしょうか。

この点が、今ひとつはっきりと理解できませんので、教えていただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.3
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1011 ] Re3:住正定聚について教えてください 2009/02/27 (Fri) 09:47 △up ▽down
ボンさま

お尋ねありがとうございます。
返信できること、大変うれしく思います。

>「この信心をいただいたものは、悟りを開いたわけではないけども、
>御恩報謝の念仏を称えることにより、心が徐々に清らかになっていくものだ」
>というように受け取りました。
>

そのとおりです。
念仏で心が清らかになり、それに応じて「証」が得られます。

教行信証「総序」に「真宗の教・行・証を敬信して・・・」とあるように、
『他力廻向の信には、教・行・証がおさまっている。』と、親鸞聖人は説かれています。

つまり、

●信を離れた「行」は無い。
 信心の念仏行者には、仏力(本願力)によって、現在ただ今から
 浄土へどんどん引っ張られます。

●信を離れた「証」は無い。
 念仏の信心が深まると、それに応じて証(さとり)が私たちの心に届きます。
 「証」巻の内容が、だんだんと分かる(心に現れる)ようになります。 

「信」巻末・真仏弟子釈の最後に、親鸞聖人は悲嘆を述懐されてますが、
「・・・名利の大山に迷惑して、・・・『真証の証に近づくことを快しまず』」
とあるように、「証」が、どんどん深まっていることが分かります。

他力廻向の信心は、本質的には金剛心(壊れない、壊せない)ですが、
私たちの自覚の面からは、最初は柔らかな、何とも頼りないものです。
穢土に振り回されて積み重ねた「悪業・煩悩」はとても強く、
その巨大な「悪業・煩悩」の中に、信(仏性、成仏の種)が飛び込んできたので、
自覚の面からは、泥水いっぱいの風呂水(私の悪業)に「一滴のしずく」(信心)が垂れた
といったようなものでしょうか。

他力廻向の信心が至り届いてから後、「信力増上」して、
私たちの自覚の面からも、だんだんと金剛心へと変わっていきます。

「信力増上」は、龍樹菩薩のお言葉で、教行信証「行」巻の釈文はじめのところに
引用されておりますので、改めて拝読頂きますと、信心が深まると思います。
ちなみに、この箇所には、十住論から「4つの章」が引用されています。

<「行」巻への引用章> @→A→Bと信の進展、Cは獲信について
@入初地品(どうしたら初地に入ることができるか)
A地相品(初地とはどのような世界か)
B浄地品(菩薩初地において、自己がどのように浄化されるか)
C易行品(@の詳細、どのようにして仏道に立つのか(どのように獲信へ至るか))
 ※「信力増上」は、Bの引用箇所です。

「信力増上」の具体的内容が、「信」巻・信楽釈の華厳経引用部分に詳しく説かれています。
私たちの心が、どのように進展していくか説かれていますので、是非拝読お願いします。

<「信力増上」について(ごく一部のみ抜粋)>
信は、
「道の元(もと)・功徳の母となす、一切の諸々の善法を長養す」
 信は仏道のスタート地点に立たせてくれます。
 転悪成徳のはたらきがあるので、功徳の母と説かれるのでしょう。

「疑網を断除して愛流を出で、涅槃無上道を開示せしむ」
 私たちが持っている「真理に対する無知」からの疑いを取り除き、
 世間道(穢土)での「執着」に引きずり回される世界から離れさせ、
 無礙の一道を知らせてくれる。

「清浄の手となりて衆行を受く、信はよく永く煩悩の本を滅す。」
 他力廻向の信で知らされた自利利他(本当の善)を、心で受け止め、振る舞うようになる。
 信は、煩悩の根本である悪業力をどんどんと滅していく。
   ・
   ・
   ・
その他、たくさん。私たちの信が、このように成長していくと説かれています。



>御恩報謝の念仏により心が清らかになっていくというのは、本人が意図するしない
>にかかわらず、自然の成り行きとしてそうなっていくものなのでしょうか。それとも、
>そこには清らかなころになろうとする本人の自覚のようなものが必要なのでしょうか。
>

私たちの悪業が縁に触れて、煩悩として吹き上がってきたときに、
阿弥陀仏の光明で私の悪業が知らされます。
具体的には、「こんな自分だから苦しむんだぁ、お粗末だ〜!」
と自分の内側をまざまざと見せつけられ懺悔させられますので、自覚があります。

自覚した分だけ、その部分の悪業が以後悪業としてはたらかなくなります。
さらに、その悪業が徳に転じ変わります。
(前回、「意見の押し付け」で例示したように。)

「自分で清らかな心になろうとすること」は必要なく、縁があって阿弥陀仏の光明に
照らされると悪業が知らされ、転悪成徳のはたらきが自覚させられます。

誰でも、自力で自分が変わろうとすることは、なかなか難しいですよね。
でも、この他力廻向の信心は、どんどん自分を変えていってくれます。
念仏往生と説かれるとおり、信心念仏これ一つで、どんどん幸せへ導いてくれます。



以上です。
不明な点・ご質問有りましたら、またよろしくお願いします。

●re.4
菩提心
非公開の非公開
[ 1012 ] Re4:住正定聚について教えてください 2009/02/28 (Sat) 10:04 △up ▽down
蓮華蔵様

はじめまして。

早速、分からないながら御指摘の引用場所を少し拝読させて頂きました。

自分は、本当に無知だなと知らされます。

蓮華蔵様のお名前から、直ぐには正信偈にも出てくる「得至蓮華蔵世界」の御言葉も忘れていました。

教行信証の証巻を拝読させて頂き、・・・蓮華蔵世界に入ることを得しむ・・・あ、蓮華蔵の御言葉が有ったと喜ぶような無知な私ですので、昨晩考えたことを書いてみました。

まず、私は五念門を真宗辞典で引いてみました。
その最後に、「即ち五念門は真宗に於ける報恩行である」と書いてありました。

今度は、報恩行を引いてみました。
「・・阿弥陀仏の六字を称ふるを以って報恩の行とする・・・」と書いてありました。

すると、この称ふるは、真実信心頂いた人は、ただ口で称える念仏でないことは知らされていますので、

>信心念仏これ一つで、どんどん幸せへ導いてくれます

の御言葉は、とても有り難く心強くなってくると思います。

そこで質問ですが、

>この他力廻向の信心は、どんどん自分を変えていってくれます。

傍目からは全然喜んでいるのかいないのか皆目分からない人や、むしろ貶しているような人を、蓮華蔵様はどのように思われますか?

私はうまく説明できないのですが、帰命した時点で、もう阿弥陀様の光明の内に住まわせて頂いているのだから、私は、ただ今を生きていくしかないのだなと思うようになってきました。

理想は蓮華蔵様のような境地になれたらどんなに素晴らしいだろうと思います。

私は、天親菩薩と世親菩薩が同じ人だとも知りませんでした。

そのように無知な私が、何故か阿弥陀様やお釈迦様を思い浮かべると、とても懐かしく思う気持ちが少しずつ大きくなってきています。

この掲示板でお話できてとても有難いと思います。

これからも又、質問させて頂きたいと思います。

宜しくお願い致します。

南无阿彌陀佛

●re.5
ボン
関東の男性
[ 1013 ] Re4:住正定聚について教えてください 2009/02/28 (Sat) 15:50 △up ▽down
蓮華蔵様

度重なるご教授ありがとうございます。
本当に分かりやすく、感謝にたえません。

>「自分で清らかな心になろうとすること」は必要なく、縁があって阿弥陀仏の光明に
>照らされると悪業が知らされ、転悪成徳のはたらきが自覚させられます。

>誰でも、自力で自分が変わろうとすることは、なかなか難しいですよね。
>でも、この他力廻向の信心は、どんどん自分を変えていってくれます。
>念仏往生と説かれるとおり、信心念仏これ一つで、どんどん幸せへ導いてくれます。

たいへん頼もしく、ありがたい信心をいただいたものと、認識を新たにいたしました。
よく私のようなボーっとした人間にこのようなご縁があったものだと、
遠く宿善を喜ぶばかりです。

>私たちの悪業が縁に触れて、煩悩として吹き上がってきたときに、
>阿弥陀仏の光明で私の悪業が知らされます。
>具体的には、「こんな自分だから苦しむんだぁ、お粗末だ〜!」
>と自分の内側をまざまざと見せつけられ懺悔させられますので、自覚があります。

>自覚した分だけ、その部分の悪業が以後悪業としてはたらかなくなります。
>さらに、その悪業が徳に転じ変わります。

つまり、こういうことでしょうか。
自分がお粗末だと自覚した分だけ、その「お粗末」が「清らか」に転化していく。
どんどんお粗末さを自覚すれば、どんどん清らかになっていく。

世間一般でも「自分の悪いところに気がついた時点で、ほぼ直ったも同然だ」と
いうようなことが言われますが、それと同じ道理なのでしょうか。

個人的な話で恐縮ですが、私は、功名心、劣等感(その裏返しの優越感)、猜疑心、
自分本位など、人様から顰蹙を買うよな心情を人並み以上に持ち合わせていると
自覚しております。

そのように自覚はしているつもりなのですが、「まあ、凡夫だから(人間だから)
しょうがない部分もあるよねぇ」みたいな、ある種、開き直りのスタイルでお茶を
濁しているようなところがあるんです。

そうすると、いつまでたっても「お粗末」が「清らか」に転化していかないという
あたりに停滞しているのではないかと・・・。実際、わが身をひるがえって見るに、
さほど進歩しているように思えないよなあ、というのが実感です。

仏の側から強力に引っ張る力が働いてはいるんだけれど、私のように煩悩の氷の
硬いものは、ちょっとずつしか良くならない。煩悩の少ないかたは、もっと早く
清らかになっていく。といったように、多少は個人差があるといった理解でよい
のでしょうか。

まあ、仏が「救った」と言い、「以後はどんどん良くなる」と言っているのだから、
あとはゴチャゴチャ言わないで、だまって身をまかせればいいようなものですが、
何分「煩悩具足の凡夫」ですから、このような質問もお許し願えればと思います。

南无阿彌陀佛

●re.6
菩提心
非公開の非公開
[ 1014 ] Re5:住正定聚について教えてください 2009/02/28 (Sat) 10:55 △up ▽down
ボン様

ボン様の書き込みのお陰で、私も「そうなのか〜」って、納得できました。

毎日様が、ここが御示談の場所としてご提供下さっているのが有難いと思いました。

色んなお方のご意見を拝見できて、とても嬉しいです。

有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.7
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1015 ] Re6:住正定聚について教えてください 2009/02/28 (Sat) 19:28 △up ▽down
菩提心さま

初めまして。
質問頂き、大変ありがとうございます。
お話しできること、とてもうれしく思います。

>蓮華蔵様のお名前から、直ぐには正信偈にも出てくる「得至蓮華蔵世界」の御言葉も忘れていました。
>
>教行信証の証巻を拝読させて頂き、・・・蓮華蔵世界に入ることを得しむ・・・あ、蓮華蔵の御言葉が有ったと喜ぶような無知な私ですので、昨晩考えたことを書いてみました。
>

蓮華蔵とは、本当にすばらしい譬えですね。そしてそこへ近づいていけるのですから・・・
教行信証「証」巻の曇鸞大師の釈文に、素晴らしい譬えがあります。

「淤泥華」とは、『経』(維摩経)にのたまはく、
「高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ず」と。
これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。

煩悩の泥の中から、素敵な蓮華という「さとり」の花が咲き、私たちは幸せになれるのですね。



>傍目からは全然喜んでいるのかいないのか皆目分からない人や、むしろ貶しているような人を、蓮華蔵様はどのように思われますか?
>
>私はうまく説明できないのですが、帰命した時点で、もう阿弥陀様の光明の内に住まわせて頂いているのだから、私は、ただ今を生きていくしかないのだなと思うようになってきました。
>

傍目からどう見えるかは、傍目から見ている人の心がそう見させているので、
見られているその人の心がどうなのかが重要だと思います。
その人が幸せを感じているかが大切ですよね。

仏教では、「自業自得」と教えられます。
私の「業」が、現実に起こってくる結果をどう捉えるか、どう感じるかを決めます。
私が幸せであるかどうかに最も重要なのは、私の「業」です。

信心念仏は、私の「業」を教えてくれます。
阿弥陀仏の光明は、智慧をさずけるはたらきによって、私の「業」を教えてくれます。
悪業いっぱいの私の状態から、獲信で仏道をスタートしますので、最初はとても苦しいです。

「暁暗」と表現されますが、最初の光明は、ほんのりわずかです。
夜明け前の薄明かりのような光明で、私を照らし始めます。阿弥陀仏の優しさですね。
真っ黒クロスケの私に、「いきなり全部見なさい・認めなさい!」と言われたら、
大発狂ですものね。

ですから、光明がまだあまり当たっていない(仏法をあまり受け取っていない)時には、
喜びがあまりない人・貶す人もあるでしょうね。

教行信証「信」巻(末)・真の仏弟子釈に、道綽禅師が説聴の方軌を示されています。
説法する人・聴聞する人の心構えです。

●説法する人
 説法のひとにおいては、医王の想(おもい)をなせ、抜苦の想(おもい)をなせ。
 所説の法をば甘露の想(おもい)をなせ、醍醐の想(おもい)をなせ。

●聴聞する人
 それ聴法のひとは、増長勝解の想をなせ、愈病の想をなせ。 

聴聞する人は、次のように心掛けている人(説法者)から、仏法聞きなさいということです。
「自分は世界一の名医のつもりで、聞いている人の苦しみを抜いてあげよう。
 仏法は、甘露・醍醐のようにすばらしいもの。これを聞いている人に届けよう。」と。

そして、
「聴聞する時はしっかり理解しよう。聞きっぱなしでなく、不審をはらい、
 自分の苦しみを癒してもらうように、聞いていこう。」とも。

私たちの悪業が、縁に触れ煩悩として吹き上がった時、
それに引きずり回されて苦しむことは、本当に辛い思いです。
ですが、これは「不要な苦しみ」で、解決できると教えられているのが仏教です。

私たちが自分の悪業を知らされ、自覚することも、とても苦しい。
でも、この苦しみは「必要な苦しみ」。この道を進んでいくのが二河白道です。

信心念仏で「不要な苦しみ」が光明に照らされその元の悪業が焼かれ、やがて尽くされます。
そのはたらきが分かってくると、「必要な苦しみ」と出会った時、
苦しくて辛いけど、でもそれが幸せに繋がる実感と自信を自覚するので、
念仏で悪業(自己肯定する心)が徳(人を大切にすること)に転じ変わるので、
「今を生きていくしかない」から、「今を生きたい、大切にしたい」に変わっていきます。

こんなことが現実に起こってくるので、親鸞聖人は、「不可称・不可説・不可思議」と
おっしゃるのでしょう。

観無量寿経で、散善(次の3つ)が説かれています。
・世福(世間善)
・戒福(小乗善)
・行福(大乗善)

方便ですが、親鸞聖人は「要門」(必要な教え、決して不要ではない)とされています。
中でも、最初に挙げられている「世福」は大変重要です。
私を大切にしてくれる、安心させてくれる人間関係づくりは、仏道を歩むのにとても大切です。
自分を客観的に見つめ、「必要な苦しみ」と対峙する時に、大きな支えになりますね。



>そのように無知な私が、何故か阿弥陀様やお釈迦様を思い浮かべると、とても懐かしく思う気持ちが少しずつ大きくなってきています。
>
そうですよね。
私も、お釈迦様のエピソードをいろいろ聞きますと、憶念の材料がどんどん増えます。

お釈迦様が晩年、「舎利弗は智慧第一、目連は~通第一・・・」と弟子を憶うシーンで、
「提婆は悪いことばっかりやっていたなぁ。」と、何とも優しい気持ちが伝わってくる
エピソードがありますが、私は大好きです。



以上です。
また、お話し聞かせて下さい。

●re.8
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1016 ] Re7:住正定聚について教えてください 2009/02/28 (Sat) 19:49 △up ▽down
ボンさま

分かりやすいとおっしゃって頂き、大変うれしいです。

>自分がお粗末だと自覚した分だけ、その「お粗末」が「清らか」に転化していく。
>どんどんお粗末さを自覚すれば、どんどん清らかになっていく。
>
>世間一般でも「自分の悪いところに気がついた時点で、ほぼ直ったも同然だ」と
>いうようなことが言われますが、それと同じ道理なのでしょうか。
>
そうですね、道理は同じですよね。

世間道では、「悪いところ」の物差しが人それぞれですので、流転してしまいます。
出世間道では、如来が私たちの物差しです。他力の光明によって、悪業を知らされます。



>個人的な話で恐縮ですが、私は、功名心、劣等感(その裏返しの優越感)、猜疑心、
>自分本位など、人様から顰蹙を買うよな心情を人並み以上に持ち合わせていると
>自覚しております。
>
自覚させられることは、大変有り難いことです。
仏道を歩んでいく、進展そのものです。

私たちは、うぬぼれ心(我見・我執)がとても強いです。
何かを認めるその裏側で、何かしら自己肯定感を強めていて、本当に我執が強い。
「こうべを垂れる稲穂」は尊いが、そんな風を装って「卑下慢」を蓄えていることもある。

教行信証「行」巻・道綽禅師の釈文に、
我執を「臭いにおい」(伊蘭林)に、仏性を「何とも素敵な香り」(牛頭栴檀)に
譬えた話しがあります。

----------
伊蘭林の方四十由旬ならんに、一科の牛頭栴檀あり。
根芽ありといへどもなほいまだ土を出でざるに、その伊蘭林ただ臭くして香ばしきことなし。
もしその華菓をたんずることあらば、狂を発して死せん。
後の時に栴檀の根芽やうやく生長して、わづかに樹にならんとす。
香気昌盛にして、つひによくこの林を改変して、あまねくみな香美ならしむ。

いふところの伊蘭林とは、衆生の身の内の三毒・三障、無辺の重罪に喩ふ。
栴檀といふは、衆生の念仏の心に喩ふ。わづかに樹とならんとすといふは、いはく、
一切衆生ただよく念を積みて断えざれば業道成弁するなり。
----------

私たちの悪業である我執、強い強い自己肯定の心を、臭い臭いにおいにたとえ、
そのにおいを嗅ぐと発狂して死んでしまうと説かれてます。
その臭い「伊蘭林」ですが、仏力(本願力)によって転悪成徳で「牛頭栴檀」(仏性)が
小さな苗木となり育ってくると、林を覆っていた我執の悪臭が「ガラッと」転じ変えられ、
仏性の何とも素敵な香りの「新しい人格」が育ち始めます。



>仏の側から強力に引っ張る力が働いてはいるんだけれど、私のように煩悩の氷の
>硬いものは、ちょっとずつしか良くならない。煩悩の少ないかたは、もっと早く
>清らかになっていく。といったように、多少は個人差があるといった理解でよい
>のでしょうか。
>
煩悩は、悪業が縁に触れて現行(意識に現れる)したものです。
煩悩は、私たちを「煩わせ・悩ませる」ものですので、そのもとである悪業が問題になります。
過去一切の経験がおさまっている阿頼耶識に悪業が潜在していて、人によって悪業はそれぞれですよね。
ですので、縁によって煩悩は吹き上がってくるので、煩悩という表面的な結果では、
悪業がどの程度なのか、分かりにくい面もあります。人それぞれ、千差万別でしょうね。

問題なのは、私たちが煩悩に繋がれていて、煩悩に振り回され、穢土に生きている状態です。
煩悩が吹き上がってきた時、往生浄土の縁として念仏していくことが大切であり、
煩悩の原因である悪業に光が差し込み、具体的に自覚させられることが、幸せへの道なのでしょう。

罪障功徳の体となる
 こほりとみづのごとくにて
 こほりおほきにみづおほし
 さはりおほきに徳おほし


ということで、失礼いたします。

●re.9
菩提心
非公開の非公開
[ 1018 ] Re9:住正定聚について教えてください 2009/03/01 (Sun) 17:38 △up ▽down
蓮華蔵様

お返事有難うございました。

新しいパソコンの状態があまり飲み込めないので、蓮華蔵様のお返事が読めませんでした。

私は、この毎日の掲示板に書いていても教学的には難しくて分からない事が多いのですが、でもどういう訳か仏法の御言葉がとても好きになってきました。

ですがずっと落ちこぼれのような人生を歩んできて、そして読んで下さっておられるのならお分かりでしょうが、随分と将来的には不安が一杯でした。

それも、少しずつですが、消えていくようです。

それでもここに書いているのは自信があって書いているのではないので、今でもビクビクしながら開けています。

では、見ないでおいたり書かないでおこうと思うのですが、やはりここは私の後念相続の場所のようで、ここで毎日様や泥凡夫様と繋がっていると思うと、とても楽しくなるのです。

今日は、昨日の続きで、まず真宗辞典を読んでいました。
分からない御言葉が有りますが、でも、真宗って書いてあるところや、根拠を出してあるところに目を通しています。

>「今を生きていくしかない」から、「今を生きたい、大切にしたい」に変わっていきます。

早くそういう心境になってみたいと思います。

ボン様への御返事もじっくり読んでみたいと思います。

有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.10
ボン
関東の男性
[ 1019 ] Re10:住正定聚について教えてください 2009/03/02 (Mon) 03:28 △up ▽down
蓮華蔵様

たいへんご丁寧にご教授をいただきありがとうございます。
私へのご回答もさることながら、菩提心様へのご回答も含めまして、
たいへん興味深く拝読いたしました。

蓮華蔵様のような経文に明るいかたから、詳しくご教説いただけることは、
たいへんありがたく、また、この上ない幸運と喜んでおります。

このうえに、「おんぶにだっこ」状態で、たいへん恐縮なのですが、
重ねてご質問をさせていただければ幸いです。

ご教説を拝読いたしますところ、「一流の信心をいただいたものが信後の人生を
歩んでいくにあたり、“苦しみ”というものが、ひとつの大きな要素となって
登場してくる」というように受け取ることができます。

つまり、「煩悩を自覚したり、悪業を知らされることは、たいへん苦しいことだ。
しかし、その自覚がスタートとなり、悪業が転じて功徳となっていく。」
というように理解しました。

しかし、わが身をふり返ってみるに、どうも、さほど苦しんでいるふうでもない。
これは、いったい、どういうことなのだろうか?

私は、ボーっとしていて鈍感なので、苦しみを苦しみとも感じていないのだろうか?
それとも、苦しみがまだ訪れていないだけで、それはこれからやって来るのだろうか?

まだ苦しんでいないとすると、「自分をお粗末な人間と思っている」というのは、
そのようなポーズを取っているだけで、本心ではそう思っていないのでは・・・?

いやいや、今から考えると確かに苦しんでいた時期はあった。しかし、その苦しみとは、
世俗的なことであって、ここでいう弥陀から救われた者の苦しみとは違うのでは・・?

そもそも、私の拝読の仕方に問題があったのではないか。

等々、いろいろと考えあぐねている次第です。

そこで、たいへん勝手なお願いなのですが、信心をいただいた者の苦しみについて
もう少し詳しくご教示いただけますと、たいへんありがたく存じます。

どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.11
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1020 ] Re11:住正定聚について教えてください 2009/03/02 (Mon) 08:49 △up ▽down
ボンさま

お返事ありがとうございます。またお話しできること、とてもうれしいです。



>ご教説を拝読いたしますところ、「一流の信心をいただいたものが信後の人生を
>歩んでいくにあたり、“苦しみ”というものが、ひとつの大きな要素となって
>登場してくる」というように受け取ることができます。
>
お釈迦様は、仏教の旗印である四法印のひとつに、「一切皆苦」と説かれています。
正しいものの見方ができない私たちは、何を求めても「最後には苦に帰す」と。

善導大師は、
「帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、
 ことごとくみな経たり。到るところに余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。」と、
 娑婆世界は愁歎の声ばかりで、苦しみの声ばかりが聞こえてくるとおっしゃります。



>つまり、「煩悩を自覚したり、悪業を知らされることは、たいへん苦しいことだ。
>しかし、その自覚がスタートとなり、悪業が転じて功徳となっていく。」
>というように理解しました。
>
そのとおりですね。



>しかし、わが身をふり返ってみるに、どうも、さほど苦しんでいるふうでもない。
>これは、いったい、どういうことなのだろうか?
>
>私は、ボーっとしていて鈍感なので、苦しみを苦しみとも感じていないのだろうか?
>それとも、苦しみがまだ訪れていないだけで、それはこれからやって来るのだろうか?
>
>まだ苦しんでいないとすると、「自分をお粗末な人間と思っている」というのは、
>そのようなポーズを取っているだけで、本心ではそう思っていないのでは・・・?
>
なるほど。

苦しみを問題にするようになる段階は、解決一歩手前の最終段階です。
私たちは、心の奥底に抱える不安を、見ないように見ないようにしています。
ほとんど自覚無しに、自分の不安が苦しみにならないよう、いろいろとはからって安心しよう、
安心しようとする心のはたらきがあり、あんまり苦しんでいないように思わせるのです。
自分のしていること、自分の人生、自分の考え方・見方に対して、強烈な「自己肯定」によって
安心させようと、心がはたらきます。(「唯識」という大乗の仏教心理学より)



>いやいや、今から考えると確かに苦しんでいた時期はあった。しかし、その苦しみとは、
>世俗的なことであって、ここでいう弥陀から救われた者の苦しみとは違うのでは・・?
>
>そもそも、私の拝読の仕方に問題があったのではないか。
>
>等々、いろいろと考えあぐねている次第です。
>
考えあぐねる気持ち、よく分かります。
原因が分からないとスッキリせず、不安になったりもしますしね。

さて、苦しみには、2種類有ります。

一つ目は、御釈迦様や善導大師がおっしゃる苦しみです。
娑婆につながれ、煩悩に振り回されて流転を続けている状況です。
永遠に苦しみ続けなければならない「ものの見方」によって安心させようとする心のはたらきに
ほとんど無自覚で、迷いながらも最終的には自分の人生を肯定し続けるせいで出会う苦しみです。
永遠に苦しむ「ものの見方」なのにそれを自己肯定するから、仏教では「邪見」が苦しみの原因と教えられます。

二つ目は、ほとんどの人が出会わない苦しみです。
娑婆につながっている限り、「なぜ生きていくのか」を問題にしない限り、出会いません。
一つ目の、お釈迦様や善導大師がおっしゃる苦しみを苦しみと認め、「解決したい」と向き合って
初めて現れる苦しみです。

仏教では、一つ目の苦しみは「必要ない苦しみ」として、「解決できる苦しみ」として説かれます。
二つ目の苦しみは、一つ目を解決するプロセスで避けられませんが、逃げず向き合い、
解決に近づくにつれて消え始め、やがては現れなくなる苦しみです。

二つ目の苦しみは、仏法に会わなければ問題にならない苦しみです。人生に登場しない。
でも、仏法聞き難し、仏法に会い難くて会っても、それでも聞き難し。聞くのは苦しいから。

二つ目の苦しみに向き合って、二河白道を恐る恐る進み、「この身を度す」ことが幸せへの一本道です。
「仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生において度せずんば、更に何れの生に向かってかこの身を度せん。」ですからね。



>そこで、たいへん勝手なお願いなのですが、信心をいただいた者の苦しみについて
>もう少し詳しくご教示いただけますと、たいへんありがたく存じます。
>
先に、あらましを記載いたしました。
再整理方、まとめてみます。

<苦しみの根源>
●心の深層(自覚しにくい、あるいは無自覚)
 私たちの心は奥深く、自覚しにくいその奥には、「無明」があると仏教では教えられます。
 無明とは「真理に対する無知」のことで、そのために「畏れ」(大きな不安)が生じます。
【根本無明ともいう】

●心の表層(普段、私の心と思っている部分)
 無明から生じる「畏れ」を何とかしよう・安心しようと、いろいろとはからい「分別」します。
 あーすれば成功する、これを手に入れると幸せになる、あの人良い感じ、・・・と。
 善⇔悪、損⇔得、正⇔邪、好き⇔嫌い、勤勉⇔怠惰、誉め⇔貶し、・・・と。
 仏教では「我他此彼(がたぴし)」と代表させて言い、「自分」と「自分じゃない」に分けます。
 ・我他・・・これは私のもの、あれは私のものではない。
 ・此彼・・・これはこちらがわ、あれはそうじゃない。
【始末無明ともいう】

私たちは、心の実態を知らず、表層の心の中に埋没し、これを私の人格・私らしさと思ってます。
表層の心で分別して分別して分別して、分別した一方を握りしめ「執着」します。
自分が握りしめ「執着」した一方を、正しい・良い・評価されるべき・認められるべき・私らしさなどとと思います。
すべて、心の奥底に抱える「畏れ」(大きな不安)を何とかしよう、安心しようとして、
「執着」する心のはたらきが生じます。

ですから、一番表面に現れ、最も自覚しやすい「執着」から、光が当たります。
お釈迦様は苦しみを解決できるとおっしゃり、「執着」への取組方を仏法として教え残されました。

ボンさんだけでなく、私たちはみんな、同じように思ってます。
「苦しんでいると言えば苦しんでいるが、苦しんでいるポーズを取っているだけなのかなぁ、
 苦しいのが人生、苦しむのは当たり前、何か勘違いしているのかぁ・・・」などと。
自分の心がよく分からない、どうしたら心から安心できるのかよく分からない、これが本音ですよね。

苦しみの構造は、仏教ではハッキリ教えられています。
その教えに沿って自分の心を深く見つめていきますと、だんだん分かってきます。

心の表面は、はからい・分別から生まれた「執着」が煩悩となって私たちを振り回します。
心の奥底は、真理に対する無知から「畏れ」が生まれ、安心したい気持ちでいっぱいです。



私は、仏法を求めて行けば行くほど、一層思います。
「お釈迦様の教法を、七高僧を通して頂かれたのが親鸞聖人で、
 親鸞聖人は、この苦しみを解決して欲しい一心で、教えを広められたのだろう」と。

煩悩や苦しみの原因を知らされると、ついつい「あーすべき、こーすべき」と自分に対して課してしまい、
やるべき「こと・もの」にとらわれてしましいますが、自分の心を大切にしてあげて下さい。
今まで粗末してきた自分の心を、本当に本当に、大切にしてあげて下さい。

●re.12
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1022 ] Re12:住正定聚について教えてください 2009/03/03 (Tue) 20:00 △up ▽down
菩提心さま

>ですがずっと落ちこぼれのような人生を歩んできて、そして読んで下さっておられるのならお分かりでしょうが、随分と将来的には不安が一杯でした。
>
将来に対する不安は、みんな持ってますよね。
私も、いろいろと考えます。

龍樹菩薩は、教行信証に引用されている「十住論」のなかで、
仏道に立つと、「不活畏」「死畏」「堕悪道畏」「大衆威徳畏」「悪名畏」が無くなると説かれています。

@「不活畏」  :食べていけなくなるのではないか、という不安。
A「死畏」   :文字通り、死に対する恐怖。
B「堕悪道畏」 :地獄・餓鬼・畜生道の三悪道に落ちることを恐れる心。
C「大衆威徳畏」:多くの人を前にするときの威圧感、プレッシャー。
D「悪名畏」  :人から悪く言われるのではないか、と言う不安。

無くなると、うれしいですね!



>今日は、昨日の続きで、まず真宗辞典を読んでいました。
>分からない御言葉が有りますが、でも、真宗って書いてあるところや、根拠を出してあるところに目を通しています。
>
いろんな書籍を読むのがお好きなのですね。
私も大好きです。

仏教聖典、ご存じですか?
聖書がホテルによく置いてありますが、この仏教聖典も置いてあったりします。
ネットでも全文(?)読めますので、興味がありましたらどうぞ。
心の構造とか煩悩とか、仏教全体のエッセンスがサラッと読めますよ。
   ↓
http://butto.j-7.net/bukkyouseiten.htm

●re.13
菩提心
非公開の非公開
[ 1023 ] Re12:住正定聚について教えてください 2009/03/03 (Tue) 20:32 △up ▽down
蓮華蔵様

こんばんは

>煩悩や苦しみの原因を知らされると、ついつい「あーすべき、こーすべき」と自分に対して課してしまい、
>やるべき「こと・もの」にとらわれてしましいますが、自分の心を大切にしてあげて下さい。
>今まで粗末してきた自分の心を、本当に本当に、大切にしてあげて下さい。


頑張らなくてもいいんだよ。
救われたんだから、少しずつ少しずつ心が軽くなってくるんだから。
流転してきた長い長い日々も、もう少しだから。
って、自分に言い聞かせているのですが・・・。


今まで粗末にしてきた自分の心っていう事がよく分らないんです。

ボン様のように、自分の心を深く分析できる私でもないんです。

ただ、なぜか今は本当に、今救われた時期が有難いと思います。
これが、一年遅れていたら、きっと私は又、違う道を歩んでいたかも知れません。
もう、ぎりぎりだったと思います。
精神的にも肉体的にも金銭的にも、お手上状態だったと思います。

まだ満足な状態ではないですが、でも、救われて嬉しいという気持ちはずっと持ち続けています。
それが有難いです。

ボン様へのご回答ですが、
やさしいお言葉頂けて嬉しかったです。

南无阿彌陀佛

●re.14
菩提心
非公開の非公開
[ 1024 ] Re13:住正定聚について教えてください 2009/03/03 (Tue) 20:49 △up ▽down
蓮華蔵様

パソコンに入れている間に書き込み頂いて有難うございます。

私は、色んな本を読むのが好きではなくて、要は三日坊主なんです。

集中力がないので、あっちの本、こっちの本って読んでいます。

でも、もともと学力がない上に、もう歳もいっているので、好きな場所を楽しんで読もうと思っています。

自然と読めてくるのが楽しいです。

ずっと、「割符が合う」って教えて頂いてきましたが、こういう事だなって思います。

上のメールの中でも
>@「不活畏」  :食べていけなくなるのではないか、という不安。
が一番です。

後は少しずつ消えてきています。
特にD番は、考え方を変えられるようになってきました。

ちょっと、意地悪な考え方なので、申し訳ないですが、「もう少し、三悪道を流転してきてね」って心の中で思っています。

やっぱり意地悪ですか?

お返事有難うございました。
まるで、以心伝心みたいなお返事内容でしたので、嬉しかったです。

南无阿彌陀佛

●re.15
ボン
関東の男性
[ 1025 ] Re14:住正定聚について教えてください 2009/03/03 (Tue) 22:51 △up ▽down
蓮華蔵様

私の状況に即して、私のための処方を書いてくれるようにお話をいただき
ありがとうございます。心より感謝申し上げます。

確かに、冷静に振り返ってみると、これまで大いに迷い悩んで生きてきたことは
否定できないと思います。当然、苦しいこともありました。

過ぎたことは、まだ、冷静に振り返ることができますが、今現在のことになると
なかなか自分を冷静にみることができません。私は、苦しい渦中にいればいるほど、
自分が窮地に立っていると認めることができない傾向があるようです。

「迷い、悩み、苦しんでいるなんていうのは、そもそも男らしくない」
「ましてや、それを人様に見せるなどは、敵に弱みをみせるようなものだ」
「迷い、悩み、苦しんでいるなんてカッコ悪いし、人にも嫌われそう」
「楽観的に生きているほうが、体裁がいいし、世間的にも成功しそう」等々

こういった考えに基づき、自分の迷い、悩み、苦しみを封印し、忘れ去ろうとし、
自分の心にモルヒネを打って、苦しみから逃れようとしていたのではないか。
これも「凡夫のはからい」の一つだったのか・・・。

ひとつ垣根を取り払って、見方を変えると、180度違った自分が見えてくるような
気がいたします。

これまで本当に、自分の本心と向き合ってきたかというと、やはり疑問です。
「今まで粗末してきた自分の心を、本当に本当に、大切にしてあげて下さい。」
とおっしゃっていただきました。

しかし、自分の心を見つめれば見つめるほど、下らないことばっかり考えているし、
醜いし、つくづく下劣の輩だと思わざるをえません。

これも凡夫だからしょうがないと言えば言えなくもないのですが、もし、
このご法に当たったものにしか歩めない道があるのだとしたらどうなのだろう?

一応の今生でしか体験することのできない生き方があるのだとしたら、
それを堪能し、味わい尽くさなければ損ではないのか?

私の醜い心のなかに、はからずも、一滴だけ飛び込んできた清浄な金剛心が、
私を強力にサポートしてくれているんですよね。

こんな考えかたでよいのでしょうか?
また、いろいろとご指導ねがいます。

南无阿彌陀佛

●re.16
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1026 ] Re15:住正定聚について教えてください 2009/03/04 (Wed) 09:31 △up ▽down
ボンさま

>私の状況に即して、私のための処方を書いてくれるようにお話をいただき
>ありがとうございます。心より感謝申し上げます。
>
ボンさんの心に、少しでも届くこと・光が差すことは、私にとっても、何よりの喜びです。



>確かに、冷静に振り返ってみると、これまで大いに迷い悩んで生きてきたことは
>否定できないと思います。当然、苦しいこともありました。
>
>過ぎたことは、まだ、冷静に振り返ることができますが、今現在のことになると
>なかなか自分を冷静にみることができません。私は、苦しい渦中にいればいるほど、
>自分が窮地に立っていると認めることができない傾向があるようです。
>
仏法に会わねば、「自分が窮地に立って苦しんでいることの根本」は見えてきません。
苦しい渦中では、心の表層で、「いかに自分を肯定するか」と心がはたらきます。
自覚しにくい心の奥底の「強烈な不安」を、苦しい渦中が刺激するから、安心したい・肯定したいのです。



>「迷い、悩み、苦しんでいるなんていうのは、そもそも男らしくない」
>「ましてや、それを人様に見せるなどは、敵に弱みをみせるようなものだ」
>「迷い、悩み、苦しんでいるなんてカッコ悪いし、人にも嫌われそう」
>「楽観的に生きているほうが、体裁がいいし、世間的にも成功しそう」等々
>
私たちは、多少の差こそあれ、同じような思いで苦しんでいます。
私も、多分あなたに負けないくらい(?)、いろんな思いで苦しんできました。



>こういった考えに基づき、自分の迷い、悩み、苦しみを封印し、忘れ去ろうとし、
>自分の心にモルヒネを打って、苦しみから逃れようとしていたのではないか。
>これも「凡夫のはからい」の一つだったのか・・・。
>
そうですね。はからいですね。
心の表面は、永田町(政界)のようなものですから、いろんな思いがぶつかり合いながら、
麻生おろしの声のようなことで、騒がしい。エスカレートすると、統合失調・精神分裂します。
一つ一つの思いが、「惑・業・苦」の渦として生き続け、「渦の力」の強いものが表面に浮かび上がり言動となります。
恐ろしいのは、強い渦に負けた「弱い渦」も死んでません。業の中に生き続けます。縁が来れば、現れます。
業は、いろいろの思いを起こす潜在力、心の奥底で待機している「思いのエネルギー体」みたいなもの。



>ひとつ垣根を取り払って、見方を変えると、180度違った自分が見えてくるような
>気がいたします。
>
おっしゃること、本当に尊いお言葉です。

仏教は、「正しいものの見方」が説かれています。
私たちの生きる世界は「一切皆苦」であり、その根源をつきとめ解決できると、お釈迦様は言う。
仏教で説かれる「正しいものの見方」は、苦しみを解決するためのものです。

実践すれば、現在ただ今から、受ける結果が変わってきます。
現在ただ今から、幸せに近づいていけます。
現在ただ今から、「ニコニコ」が生活に増えてきます。
現在ただ今から、業が変わってきます。その業で、毎日毎日、結果を受け続けます。



>これまで本当に、自分の本心と向き合ってきたかというと、やはり疑問です。
>「今まで粗末してきた自分の心を、本当に本当に、大切にしてあげて下さい。」
>とおっしゃっていただきました。
>
>しかし、自分の心を見つめれば見つめるほど、下らないことばっかり考えているし、
>醜いし、つくづく下劣の輩だと思わざるをえません。
>
「下らない」「醜い」と下劣の評価をするのも、一方では安心しようとする心のはたらきです。
思っていること・やっていることが縁に触れ、人から・自分から悪く評価されると、不安があおられます。
先手を打って自分で酷評しておけば、未来に人から評価されてもダメージが少ない。
また、「下らない」「醜い」と酷評するその部分を、自分の人格として実際は認めてなく、
「自分も努力すればもっとできる」「本当の自分ではないのだ」と安心しようとしたりもします。



>これも凡夫だからしょうがないと言えば言えなくもないのですが、もし、
>このご法に当たったものにしか歩めない道があるのだとしたらどうなのだろう?
>
>一応の今生でしか体験することのできない生き方があるのだとしたら、
>それを堪能し、味わい尽くさなければ損ではないのか?
>
法財は、三世十方を貫く真理に基づいて手にする財産ですので、生死を超えて生き続けるものです。
私の心を知り、真理に照らして違わない智慧は、「限りない命」ある財産です。
光明に照らされ獲られた智慧は「無量寿」なので、永遠に続くものと説かれてます。
仕事やお金や家や車などとは、比べものになりません。肉体さえ、今生涯での借り物です。

世間道に埋没している私たちは、仏法を教えてもらわなければ、自分からは決して知り得ません。
埋没している限り、流転輪廻し続けます。
現在この世で娑婆世界で、毎日が流転輪廻そのもので、この生涯も流転を続けていきます。

この生涯・この人生、たいていの人は「餓鬼道」を生きています。
仕事で上司やお客さんに評価されたい、出世したい・給料上がって欲しい、家が欲しい・車が欲しい、
恋人・配偶者に、優しくして欲しい・いたわって欲しい。欲しい欲しい、もっと欲しい。

お金持ちでさえ、餓鬼道を生きる人、たくさんいます。
働くお母さんでバリバリ稼ぐ人、増えてきましたね。
時間単価で家事と仕事のどちらをやるべきか決めていたら、天上・人道でなく餓鬼道です。
お金が一番大切になっているから。
人の心が大切であれば、自分や子供達にとって大切なものは手放しません。
料理を家政婦さんにまかせ、自分は仕事をした方が家計収支が良くても、家族にとって手料理が大切であれば、自分で作って料理・食事にたっぷり時間を使います。
この方は、無明から生じる不安を、仕事でたっぷり稼ぐことで自己肯定しようとしますが、
不安が無くならないから、年収数千万円になっても、時間単価で物事を決めてしまう。
これ以上たくさんお金は必要ないのに、仕事を減らすことは不安でしょうがない。
「真理に対する無知」は怖いです。この心を抱えて、一生どころか死んだ後もずーっと続いていく。

人間界とは、肉体をもった現実(物質)社会を生きることではないですよね。
たいていの人は、餓鬼道をさまよいながら肉体を手にして生まれてきて、親に育てられ社会へ出て行きます。
子供のことを、よくガキと言いますが、心を正直に出す子が多いので、「餓鬼道ぶり」がわかりやすいのでしょう。
私たちは餓鬼道(世間道とも言う)を生きていて、世間道に埋没している限り、今生も流転し、死んでも流転し続ける。
自業自得(因果の道理)は三世十方を貫く真理だから。今の業を持って、未来ずーっと続いていく。

仏法は、「出」世間の方法です。
それを聞くことができるのは、餓鬼道から抜けて「人間界」に出た人だけです。
「人身受け難し、今既に受く。」でも「仏法聞き難し。」なのは、肉体を持つが餓鬼道にいるからです。
私たちは、「餓鬼道」の心が大半を占めているので、まず「ほとんど仏法を聞けてない」
という所に立つことが大切です。鼓膜を振動させているだけで、分かったつもりが圧倒的に多い。

自力で自分を変えることが難しいので、浄土門が開かれました。本当に有り難いです。
「信力増上」とは、「仏道を歩む」とは、「仏力(本願力)」のはたらきを受けるとは、自分の業が変わるということです。

私たちの業は、マナ識の「変わらないよう変わらないよう(自己肯定)」するはたらきで
悪業が温存されたまま、過去よりずーっと続いてきました。
あの手・この手で「自分を肯定」し、無明から起こる畏れを安心させようと。

仏法は、この悪業に「光明」が差し込んで、私たちの業を変えてくれます。
でも、娑婆に繋がれたまま悪業が知らされても、それを自分と認められません。
奥さんが、旦那さんのちょっとした悪い所を直してもらうのに、どれほど言い方を工夫しても達成しがたいか、
ほんの些細なことでさえ、人はなかなか認められません。
どこどこまでも、自己中心で自己肯定するのは、マナ識のはたらき。
そして根本原因は「無明」(私たちの、真理に対する無知)です。何か言われると、すぐ不安になるから。
本当に、自力で自分を変えることが難しい。

だから、阿弥陀仏の光明には、「摂取不捨」のはたらきが誓われているのです。
無明を刺激して不安にしないよう・不安にならないように、と。

「摂取不捨」は、「光明」でお粗末な自分が知らされたときに「退転させず」、
私たちの崩れそうになる不安いっぱいの心を守ってくれ、返って浄土へ引っ張ってくれる。
二河白道を歩ませてくれる。

二河白道は、具体的に自覚させられる道です。
毎日、火の河と水の河がおそって来て、チャプンと河に足を落とします。

・火の河:相手に執着する心
・水の河:自分の執着が妨げられたとき相手に対して出てくる怒り
  * 相手とは、人である場合が多いですが、モノ・コト・目前の状況などもあり

自分の悪業が自分の問題として受け止められたら、
自分の悪業がひとつ知らされたたら、白道をひとつ進みます。

・二河:自分の悪業。知らされ認め懺悔して、その悪業のはたらきがストップします。
・白道:「転悪成徳」で自分の心が清らかになっていく道。

ですから、「摂取不捨」も「光明」も、二河白道も、すべて具体的なこと、心の中の進展です。
信心を獲た念仏行者は、二河白道を東岸から「一歩」踏み出した人です。
心の中で具体的に巻き起こった分だけ、進ませて頂けます。
「転悪成徳」が起こった分だけ、浄土に近づきます。(起こらないと、穢土から離れられません。)



>私の醜い心のなかに、はからずも、一滴だけ飛び込んできた清浄な金剛心が、
>私を強力にサポートしてくれているんですよね。
>
親鸞聖人は、教行信証の冒頭である「総序」の一番始めにおっしゃります。

光明に照らされて、自分の悪業を知らされなさい。
自分を知り・認めることが智慧であり、その智慧が穢土から浄土へ渡してくれるから。
自分の悪業を知らされるのは苦しく不安なことだけど、摂取不捨の大船で、必ず浄土に入れる。
だから、あなたは自分と向き合うことから、逃げ出さないでいいんだよ。

<教行信証「総序」の最初部分>

難思弘誓 度難度海 大船、(難思の弘誓は難度海を度する大船、)
無礙光明 破無明闇 慧日。(無碍の光明は無明闇を破する恵日なり。)

「難思の弘誓」 仏力(本願力)のこと。
「難度海」 生死海・娑婆・穢土のこと。
「大船」 穢土から浄土へ渡す唯一の道。摂取不捨だから不沈の「大きい」船。

「無礙の光明」 無始より流転させてきた「私の悪業」を知らせるはたらき。
「無明の闇」 真理対する無知。このため自覚しにくい心の奥底に「畏れ」が生じる。
「慧日」 光明を太陽(毎日降り注ぐ)に喩える。私を知らせるはたらきが、智慧を生む。

----------
源信僧都も、仏道は自分の心を見つめることとおっしゃってます。
「よもすがら 仏の道を求むれば わがこころにぞ たずね人りぬる」と。

●re.17
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1027 ] Re16:住正定聚について教えてください 2009/03/04 (Wed) 09:40 △up ▽down
菩提心さま

>今まで粗末にしてきた自分の心っていう事がよく分らないんです。
>
とても大切なところです。ご質問いただき、うれしいですね。
改めて整理して、お話しさせていただきます。
失礼します。

●re.18
ボン
関東の男性
[ 1028 ] Re17:住正定聚について教えてください 2009/03/05 (Thu) 00:38 △up ▽down
蓮華蔵様

微に入り、細に渡り、たいへんご丁寧なご教説まことにありがとうございます。
心より感謝申し上げます。

>>しかし、自分の心を見つめれば見つめるほど、下らないことばっかり考えているし、
>>醜いし、つくづく下劣の輩だと思わざるをえません。
>>
>「下らない」「醜い」と下劣の評価をするのも、一方では安心しようとする心のはたらきです。
>思っていること・やっていることが縁に触れ、人から・自分から悪く評価されると、不安があおられます。
>先手を打って自分で酷評しておけば、未来に人から評価されてもダメージが少ない。
>また、「下らない」「醜い」と酷評するその部分を、自分の人格として実際は認めてなく、
>「自分も努力すればもっとできる」「本当の自分ではないのだ」と安心しようとしたりもします。

まったくご指摘のとおりです。心底を見透かされている思いがいたします。
また同時に、自分の心をありのままに見つめるのは、たいへん難しいことのようにも感じます。

ところで、餓鬼道と人間界の関係、それと仏法との出会いとの関係、
このあたりが微妙で分かりづらいところと感じますので、すこし詳しく質問させて下さい。


>私たちは餓鬼道(世間道とも言う)を生きていて、世間道に埋没している限り、
>今生も流転し、死んでも流転し続ける。

>仏法は、「出」世間の方法です。
>それを聞くことができるのは、餓鬼道から抜けて「人間界」に出た人だけです。

つまり、こういうことでしょうか。
私たちが生きているこの世は、餓鬼道(世間道)と人間界(出世間道)に分けられる。
仏法に出会い、一念帰命の信心を獲得できるのは、餓鬼道から人間界に移行した者だけだ。
ということでしょうか。


>「人身受け難し、今既に受く。」でも「仏法聞き難し。」なのは、肉体を持つが餓鬼道にいるからです。
>私たちは、「餓鬼道」の心が大半を占めているので、まず「ほとんど仏法を聞けてない」
>という所に立つことが大切です。鼓膜を振動させているだけで、分かったつもりが圧倒的に多い。

ここで言うところの「仏法を聞く」いうのは、どういうことをいうのでしょうか。
「仏法を聞く」いうのは、「信楽開発」「信一念」とは別物なのでしょうか。
この世で正定聚に住する人(信楽開発した人、信一念以降)でもまだ、
「ほとんど仏法を聞けてない」と思うべきなのでしょうか。

このあたりのところを詳しく教えていただけたらうれしく思います。
どうぞよろしくお願いいたします。


南无阿彌陀佛

●re.19
菩提心
非公開の非公開
[ 1029 ] Re18:住正定聚について教えてください 2009/03/05 (Thu) 05:38 △up ▽down
蓮華蔵様

教えて頂いたHPの場所を開けて読んで見ました。

私への御返事、どのような内容なのかすごく興味があります。

その間に、私も又、ボン様のような疑問が出てきましたので教えて頂きたいと思います。


>「仏法を聞く」いうのは、「信楽開発」「信一念」とは別物なのでしょうか。
>この世で正定聚に住する人(信楽開発した人、信一念以降)でもまだ、
>「ほとんど仏法を聞けてない」と思うべきなのでしょうか。

例えば、幼子は親に連れられて知らないまま信心決定の身になっても、直ぐに病気になり死んだり、
何も良く理解出来ないまま、一念帰命を頂き、その後縁もなく、離れてしまった人はどうなのでしょうか?

そのような人達は今生で喜びは得ていないように思われますが、それでも真実報土に行けるのでしょうか?

蓮華蔵様は、金剛心様達とも全然違うお立場のようですが、

私は、確かに信心決定した後に、蓮華蔵様のように臨終までそのようなお気持ちになられる人は幸せだろうなと思います。

そして、阿弥陀様の光明は全ての衆生を照らしておられる訳ですから、後は一人一人の受取方で違うとも思います。

自分の読みの浅いのを棚に上げて申し訳ないのですが、
でも、やはり蓮華蔵様

一念帰命のその時こそが大事でなければ、やはり安心満足は出来ないのではないのだろうかと思います。

これこそ「凡夫のはからい」をしているのでしょうか?

詳しく説明して下さってとても嬉しいのですが、詳しく説明して頂ければ頂く程、実は本当は救われるという事は、もっと単純なもののように思えてくるのです。

佛凡一体となった身となっているから、(阿弥陀様と一緒と思えるから)私はそのまま極悪最下の身でも、極善の阿弥陀様に包まれて安心していられるのだと思います。

南无阿彌陀佛

●re.20
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1030 ] Re19:住正定聚について教えてください 2009/03/05 (Thu) 09:59 △up ▽down
ボンさま

長い文章を読んでいただき、ありがとうございます。
また、具体的なご質問いただき、お返事しやすくうれしいです。

>まったくご指摘のとおりです。心底を見透かされている思いがいたします。
>また同時に、自分の心をありのままに見つめるのは、たいへん難しいことのようにも感じます。
>
そうですね。
自分を肯定したい気持ちを自覚して、そこから離れることですから、
自分が否定されるような、自分が無くなってしまうような、そんな思いいっぱいにさせられます。

せっかく自分を肯定して何とか安心させているのに、それが流転輪廻の実相だといわれると、ショックです。
「積み上げてきたモノを壊していくのか? トホホ・・・」ですよね。
もちろん、モノ・コト(物質、仕事などなど)ではなく、心の中のことですが。



>ところで、餓鬼道と人間界の関係、それと仏法との出会いとの関係、
>このあたりが微妙で分かりづらいところと感じますので、すこし詳しく質問させて下さい。
>
餓鬼道では、無明(真理に対する無知)のために生じる畏れから、
何とか逃げ出したい・安心したい気持ちいっぱいで、いろんなことを求めずにおれない。

大無量寿経・下巻の三毒訓誡に、「貪欲」について誡められています。
ここに書かれているのが、まさに餓鬼道です。

有無同然にして憂き思まさに等し。
屏営として愁苦し、念を累ね、慮りを積みて、〔欲〕心のために走り使はれて、安きときあることなし。
田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。
田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。
   ↓
無ければ不安、有っても不安はおさまらない。餓鬼道の不安・苦しみは、つらいですね。

三悪道では、
「貪欲」に振り回されると、餓鬼道で苦しみます。(もっとやらねば、もっと・もっと!)
「瞋恚」に振り回されると、地獄道で苦しみます。(思うとおりにならない、嫌なことだらけ!)
「愚痴」に振り回されると、畜生道で苦しみます。(どうしていいか、よくわからない!)

※私たちが、畏れ(不安)から行動しているときは、餓鬼道の心です。
 お釈迦様は、目に見えない死後の世界を説かれたのではなく、生きている現在ただ今の苦しみを
 解決するために、苦しみの実相を説くために、六道輪廻を説かれました。生きている今が、輪廻転生です。



>つまり、こういうことでしょうか。
>私たちが生きているこの世は、餓鬼道(世間道)と人間界(出世間道)に分けられる。
>仏法に出会い、一念帰命の信心を獲得できるのは、餓鬼道から人間界に移行した者だけだ。
>ということでしょうか。
>
世間道(餓鬼道と人間界)と出世間道に分かれます。

餓鬼道に苦しんでいるときは、肉体を持っても「ヒト(人)」のまま。
自分(ヒト)と自分の求める「モノ・コト・状況」との「間柄」が人生の中心。

人と人との「間柄」に意識が向いてきて、「人間」です。
押し付けたり押し付けられたりすることが問題になってきて、相手や自分の心が大切になってくる。

仏法が心に届き、仏力(本願力)が具体的にはたらくところが「出世間道」です。
以下のような進展でしょうか。
・ 餓鬼道 → 人間界 →→→ 出世間道



>ここで言うところの「仏法を聞く」いうのは、どういうことをいうのでしょうか。
>「仏法を聞く」いうのは、「信楽開発」「信一念」とは別物なのでしょうか。
>この世で正定聚に住する人(信楽開発した人、信一念以降)でもまだ、
>「ほとんど仏法を聞けてない」と思うべきなのでしょうか。
>
餓鬼道の人には、仏法がほとんど心に届いてこないです。
善友が必要で、その人を通して少しずつ、少しずつ・・・

人間界に入って、仏法が少しずつ聞こえ始めます。
「仏法を聞く」いうのは、例えば、お釈迦様の言葉で分かりやすいもの、いろいろありますよね。
「苦しみには原因があって、それを観察しなさい。」とか、
「善いことばを語れ、正しい理を語れ、好ましい言葉を語れ、真実を語れ」などと。
こうした言葉を聞いて、心に届き、少しずつ行動に表れる人が、「仏法を聞く」人です。

「信楽開発」について、仏凡一体ということで見てみましょう。
・凡=自力=悪業いっぱい(餓鬼道の心)
・仏=他力=自利利他円満(善業のかたまり)

私たちは、もともと「凡」がほとんどでした。
(凡100%+仏0%)    * 数字は分かり易くするためです。厳密ではありませんので。

@それが、信楽開発で他力廻向の信(仏性)が獲られました。「南無」
(凡99%+仏1%)
   ↓
   ↓Aすると、「阿弥陀仏」のはたらき(摂取の光明)で「転悪成徳」が起こります。
   ↓
   ↓
 (どんどん仏へ近づく)

「@南無」以降、「A阿弥陀仏」というはたらきで、毎日毎日わたしが変わっていく。
毎日、少しずつ真理が知らされていく。
毎日、少しずつ仏法が分かってくる。
毎日、凡夫性が知らされ、転悪成徳で仏に近づく。

ですので、「信楽開発」以降、どんどん仏法が分かるようになり、もっと聞きたくなります。
そう、「仏法を聞く」というのは、「仏法が届き、仏法が分かる」ということです。
仏性が開き、自分に現れた分だけが、本当に仏法聞けたということ。

私たちは自力で仏になれない。
だから、他力で仏にさせていただく。南無の後の「A阿弥陀仏」というはたらきで。

他力とは、頂き物とは、「A阿弥陀仏」というはたらきです。
これが具体的に起こってきて初めて、浄土に近づき、仏に近づく。

仏法聞けているかどうかは、仏法説けるかどうかでも分かると思います。
目の前の相手を、幸せな方へ導くことができた分だけ、仏法聞けてますので。



これだけ深く心をみつめているボンさんなら、毎日、いろんなことが知らされていると思います。
もし今日、苦しいことがあったなら、自分の心の中に、その苦しみの原因があったと、知らされませんでしたか? 具体的に・・・

●re.21
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1031 ] Re20:住正定聚について教えてください 2009/03/05 (Thu) 10:16 △up ▽down
菩提心さま

>私への御返事、どのような内容なのかすごく興味があります。
>
ありがとうございます。楽しみにして頂けているようで。
その前に、以下、先にお返事差し上げます。



>例えば、幼子は親に連れられて知らないまま信心決定の身になっても、直ぐに病気になり死んだり、
>何も良く理解出来ないまま、一念帰命を頂き、その後縁もなく、離れてしまった人はどうなのでしょうか?

>そのような人達は今生で喜びは得ていないように思われますが、それでも真実報土に行けるのでしょうか?
>
「南無阿弥陀仏」のいわれは、蓮如上人が善導大師の言葉を引用され、説かれていますように、
「@南無」と「A阿弥陀仏」の2つがポイントですよね。

私たちは、自力で仏になることができませんので、他力で仏へと導いていただきます。
他力とは、「A阿弥陀仏」のはたらき(摂取の光明)によって、悪業いっぱいの私たちが
光明に触れる都度、毎日、「転悪成徳」が起こってくることです。そのはたらきが私の業を仏の業へと変えてくれます。

上の幼子、離れてしまった人、それぞれ自分の業があります。
「因果の道理」(自業自得)は、三世十方を貫く真理と説かれていますので、
自分の業で、自分の生きる(見る)世界が展開され、生命が流れていくということでしょう。

もし、今生で喜びを得ていないのであれば、その思い(業)で続いていくのでしょう。
生死の手綱が切れてあれば、生死の迷いは無いのでしょう。



>一念帰命のその時こそが大事でなければ、やはり安心満足は出来ないのではないのだろうかと思います。
>
>これこそ「凡夫のはからい」をしているのでしょうか?
>
上に書きましたとおり、「@南無」と「A阿弥陀仏」の2つあって、「@南無」以降は
「A阿弥陀仏」のはたらきが毎日具体的におこってくるので、やがて安心満足できる日があり得ます。
蓮如上人の御文章にも、「A阿弥陀仏のはたらき」が不可思議だ、
これが悪業・煩悩を尽くしてくれるのだ、仏にしてくれるのだ、とおっしゃってます。「Aがすごい!」と。

●re.22
菩提心
非公開の非公開
[ 1033 ] Re21:住正定聚について教えてください 2009/03/05 (Thu) 11:47 △up ▽down
蓮華蔵様

お返事有難うございます。

明日より2日間会議で出張します。

今、その準備に入ります。

金剛心様に宛てた「御文」は、多分、蓮華蔵様への疑問の内容とも重なると思いますが、
又、後日この掲示板でお話お聞きしたいと思います。

済みませんが、多分パソコンを開ける時間もままならないと思いますが、宜しくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.23
酒天童子
関東の非公開
[ 1034 ] Re22:住正定聚について教えてください 2009/03/06 (Fri) 00:13 △up ▽down
こんばんは、蓮華蔵様、ボン様、そして菩提心様

活発な議論を展開されて、とても興味深く拝見させていただいております。
もうしばらくは横から口を挟まずに、じっくり皆さんのご主張を聴かせていただきたいところですが、、、

生来の野次馬根性故、何の知識もないにも関わらず割り込むことをお許しください。

>龍樹菩薩は、教行信証に引用されている「十住論」のなかで、
仏道に立つと、「不活畏」「死畏」「堕悪道畏」「大衆威徳畏」「悪名畏」が無くなると説かれています。

@「不活畏」  :食べていけなくなるのではないか、という不安。
A「死畏」   :文字通り、死に対する恐怖。
B「堕悪道畏」 :地獄・餓鬼・畜生道の三悪道に落ちることを恐れる心。
C「大衆威徳畏」:多くの人を前にするときの威圧感、プレッシャー。
D「悪名畏」  :人から悪く言われるのではないか、と言う不安。

蓮華蔵様、こういう話は知りませんでした。勉強になります。

ただ、これは方便かもしれませんよね。

だって、そんな人、いるとおもいますか?実際。凡人では無理でしょうから。

私たちは皆つながっておりますよね。

そうして、ある人は先祖の中からたとえば優れた遺伝的な形質を受け継いだりして、物覚えが良かったり、物事の解釈が上手だったりしますよね。

また、ある人は遺伝のいたずらによってあまり、いわゆる利口では無かったりして、物事の了解が悪かったり、飲み込みが遅かったりします。

たとえば、自覚とか反省とか認識とか、あるいは理解とか了解とかが往生に影響するならば、どうなるのでしょうか?

遺伝的にそういうことに向いている人が往生できるのでしょう。

釈尊の妙法とはどんなものでしょうか?

よくよくじっくり考えてみる必要がありそうです。

親鸞聖人は晩年、実の息子と絶縁しました。

また、晩年の数年間は失明したとも聞きます。

親鸞聖人ほどの方ならば、そんなことはものともしなかったのでしょうか?

そんなことはないはずです。私自身子だくさんですが、おそらく心痛は察して余りあるものであったのではないでしょうか?

もし、そうでなかったなら自分には聖人はちょっと人間離れしていて親しみがわかないです。

聖人でさえ往生するまで、凡夫として苦しんだのではないでしょうか?ましてや我々です。

悪人であろうとなんだろうと凡夫が間違いなく往生できる法であるからこそ、尊いのではないでしょうか?

その先を云々するのであれば、能力とか素質とかの問題になってしまいます。

素質や能力に恵まれた一部の人たちが、自己満足的に理論をまとめて展開することを戒めて”声聞”であってはならない、というのではないでしょうか?

あくまで、狭い見方でありますし、かってな解釈であります。

失礼な文言の数々、お許しください。

南无阿彌陀佛

●re.24
ボン
関東の男性
[ 1035 ] Re22:住正定聚について教えてください 2009/03/06 (Fri) 00:45 △up ▽down
蓮華蔵様

たいへん詳しくご説明いただき、ほんとうにありがとうございます。
心より感謝申し上げます。

たいへん分かりやすく噛み砕いてご教示いただいているのですが、
「南無」ということについて、いまひとつ私のなかで判然としておりませんので、
さらに詳しく教えていただければ、ありがたく存じます。

>@それが、信楽開発で他力廻向の信(仏性)が獲られました。「南無」
>(凡99%+仏1%)
>   ↓
>   ↓Aすると、「阿弥陀仏」のはたらき(摂取の光明)で「転悪成徳」が起こります。
>   ↓
>   ↓
> (どんどん仏へ近づく)

「南無」の人は、「南無」の直後のときは「仏」の要素はほとんどないけども、
「阿弥陀仏」の働きで、死ぬまでの間にどんどん「仏」へ近づいていくということですよね。

ところで、ここでいうところの「南無」とは、何を指すのでしょうか。
「南無」=「信楽開発」=「信一念」=「一念発起」と理解してよろしいのでしょうか。


>ですので、「信楽開発」以降、どんどん仏法が分かるようになり、もっと聞きたくなります。
>そう、「仏法を聞く」というのは、「仏法が届き、仏法が分かる」ということです。
>仏性が開き、自分に現れた分だけが、本当に仏法聞けたということ。

ここでいう「仏法を聞く」ということを、どう理解すればよろしいのでしょうか。
「仏法を聞く」=「仏法が届き、仏法が分かる」=「仏性が開き、自分に現れた」=
「仏性に近づく」というように理解してよろしいのですか。

そうすると、「南無」=「信楽開発」=「信一念」=「一念発起」の人は、
「南無」の時点から「仏性」に向かって「二河の白道」を歩み始めると思われるのですが、
その歩み始める時点をいつと理解すればよろしいのでしょうか。

例えば、私個人に即して言えば、私個人がどうなったとき、またはどうしたとき、
「南無」した(つまり仏1%のスタート地点に立った)と考えればよいのでしょうか。

質問の仕方を変えれば、私は、どの時点から「二河の白道」を歩み始めるのでしょうか。
あるいは、すでに歩み始めているのでしょうか。それとも、このスタート地点は、
はっきりとは認識しえないものなのでしょうか。

この「南無」=「二河の白道のスタート地点」につきまして、詳しく承ることが
できましたら幸いと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。


南无阿彌陀佛

●re.25
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1036 ] Re23:住正定聚について教えてください 2009/03/06 (Fri) 20:36 △up ▽down
ボンさま

>ところで、ここでいうところの「南無」とは、何を指すのでしょうか。
>「南無」=「信楽開発」=「信一念」=「一念発起」と理解してよろしいのでしょうか。
>
そうですね。仏道のスタートです。



>例えば、私個人に即して言えば、私個人がどうなったとき、またはどうしたとき、
>「南無」した(つまり仏1%のスタート地点に立った)と考えればよいのでしょうか。
>
>質問の仕方を変えれば、私は、どの時点から「二河の白道」を歩み始めるのでしょうか。
>あるいは、すでに歩み始めているのでしょうか。それとも、このスタート地点は、
>はっきりとは認識しえないものなのでしょうか。
>
ハッキリ認識するものです。
信楽を獲るとスタートし、浄土へ向かい始めます。

教行信証「教」巻はじめにあるとおり、真宗大綱は『廻向』ですよね。
「謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向有り。一つには往相、二つには還相なり。」

では、何が廻向されるのか?
それは、まず「往相」ですから、私たちは浄土へ向かい始めます。

「証」巻はじめの「往相廻向の心行を獲れば」となった時が二河白道のスタートで、
浄土へ向かっていくすがた(往相)になります。この信は自力で起こせないので「廻向」されます。
私たちは信楽を獲た時、「二河白道を東岸から一歩」踏み出します。

菩提心が少しずつ自分の心に現れてくることで、二河白道を進んでいるかどうか、だんだん分かります。
<菩提心>
・阿弥陀仏のようになりたい(願作仏心)
・目の前の苦しんでいる人の力になりたい(度衆生心)

そして、自分の悪業が問題になってきます。
煩悩が吹き上がって苦しくなった時、この菩提心が崩れそうで不安になりますが、煩悩即菩提で守られます。

「真実の信楽まことに獲ること難し。」ですが「たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず。」ですので、
本当の「獲」であれば浄土に向かうすがた(往相)が続き、進ませてもらえます。

ハッキリするのは西岸に至るときです。
「不体失往生」ですので、「肉体の臨終を待つことなく」西岸に到達します。
現在ただ今、浄土に入る時が来ます。それ以降、「証」巻の内容が心にどんどん開けてきます。
西岸に至ると住正定聚なので、確信が得られます。自心へ清浄のはたらき(浄土の功徳)を確信します。
凡心から仏心へ、心の中心が変わります。

善導大師の説かれるとおり、東岸からスタートしたときは、自分の心と向き合うことがとても恐ろしい。
だから、「行者のために、一つの譬喩を説きて『信心を守護』し・・・」と説かれました。
東岸から西岸へ至るまでは、必ず善友・善知識のサポートが必要になります。
自力には、東岸に引き返す心(悪業、自己肯定)が強いので。

二河白道の歩みは、阿弥陀仏の光明に自己の悪業が照らされて「転悪成徳」していきます。
これまで、たくさん書きましたとおりに。

「現生正定聚」とは、浄土に入る(西岸に至る)ということです。

<正定聚について補足>
11願のとおり、浄土の住人のことを「正定聚」というのですが、
真実の信楽を獲る人は仏力(本願力)がはたらき必ず浄土に至るので、
親鸞聖人は信楽を獲る段階(@)で「正定聚の数に入る」と説かれました。
住正定聚は、Aより先の西岸に至ってからです。(信楽≠正定聚)

※正定聚は成仏(必至滅度)が確定した人、仏力(本願力)がはたらいて自分の業が仏へと変わり続ける人。
 正定聚の特徴は、「妙声」「 主 」「眷属」「清浄」の功徳(はたらき)が現れること。



>ここでいう「仏法を聞く」ということを、どう理解すればよろしいのでしょうか。
>「仏法を聞く」=「仏法が届き、仏法が分かる」=「仏性が開き、自分に現れた」=
>「仏性に近づく」というように理解してよろしいのですか。
>
そうですね。
「仏法を聞く」とは、阿弥陀仏の光明に照らされて具体的に自己の悪業が知らされ、
徳となり智慧となって身につくことです。

●re.26
金剛心
北陸の男性
[ 1037 ] Re24:住正定聚について教えてください 2009/03/07 (Sat) 16:33 △up ▽down
  蓮華藏様
初めまして金剛心と申します。途中に割込み大変失礼とは思いますがお許しください。
蓮華藏様に一部分に対してだけ助言致します。
 
[ 1009 ]で@浄土に生まれようとする人(信楽開発した人、信一念以降)とありますが、

その生まれようとする浄土とはどの界を指して言われるのか意味不明の点がありますネ。
まさか極楽浄土ではないのですよネ・・・

[ 1011 ]で●信を離れた「行」は無い。と書込みなされていますが、これは全く逆である。

勿論信は大事であるが信の前(さき)に「行」の大事さを必要条件としてますが書込みなされて

いないところが気がかりに思います。

最初に「行を離れた信はない」と書くのが真宗では常道である。

教行證の中味そして六要鈔を会通すれば「信」の字が抜けている事にお気付きの筈ですが?

[ 1011 ]で「信は仏道のスタート地点に立たせてくれます」と書込みありますがこれも
全く逆ですよネ。

その事も含めて『六要鈔』には「行中摂信」となっているのです。

「行」とは阿弥陀仏の建立なされた發願廻向の「行」がスタート地点(入正定聚)になり

住正定聚の證りにつくまで行を信じて仏道を精進(畢命を期とし)するのです。その事を

釈文には「真実の信というは真実の行を信ずる心なり、それを真実の信と名く」と真宗用意に

あるが如く・・・蓮華藏様には非常に難文とは思いますが他力浄土真宗に対する原点の間違いが

あってはと思い記した次第です。

その他に就いては丁寧な書込みだと拝見いたしております。   合掌


●re.27
ちょっと失礼します。
非公開の非公開
[ 1038 ] Re25:住正定聚について教えてください 2009/03/07 (Sat) 17:12 △up ▽down
揚げ足かと思いますが、

[ 1031 ]光明に触れる都度

とありますが、信心をいただいた者は、弥陀の光明の中に摂め取って頂いていて、弥陀の光の中で生きている筈です。

●re.28
ボン
関東の男性
[ 1039 ] Re26:住正定聚について教えてください 2009/03/07 (Sat) 23:08 △up ▽down
蓮華蔵様

いつもいつも、たいへん分かりやすく明確なご教授ありがとうございます。
心より感謝いたします。

仏道のスタート時点は信楽を獲た時点であること、また、仏法を聞くというのは
仏性に近づくことである点つきましてはたいへん良くわかりましたが、
別にわからないところが出てまいりましたので、再度質問をさせていただきます。
それは以下の点です。

>「不体失往生」ですので、「肉体の臨終を待つことなく」西岸に到達します。
>現在ただ今、浄土に入る時が来ます。

上記「現在ただ今、浄土に入る時が来ます」とのご教授ですが、
私は、現世は穢土で、浄土は肉体の臨終の後に行くところと理解しておりました。

また、御文章の下記の記述もあります。

「問うていはく、正定と滅度とは一益とこころうべきか、また二益とこころ うべきや。
一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にて
あるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもふべきものなり。 」(御文章1-4)

これによると、正定は穢土の益、滅度は浄土の益というように、穢土と浄土とを
はっきりと区別しているようにみえます。

これは、どのように理解したらよろしいのでしょうか。
この現世の穢土は、あるときから浄土に転化するということでしょうか。
もしそうだとしたら、その個人がどうなったときにその転化が起こるのでしょうか。

度重なる質問で、たいへんなご苦労を強いるのは恐縮ではございますが、
なにとぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.29
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1041 ] Re27:住正定聚について教えてください 2009/03/08 (Sun) 12:11 △up ▽down
ボンさん

>度重なる質問で、たいへんなご苦労を強いるのは恐縮ではございますが、
>なにとぞよろしくお願いいたします。
>
優しいおこころ、とてもうれしいです。



>>「不体失往生」ですので、「肉体の臨終を待つことなく」西岸に到達します。
>>現在ただ今、浄土に入る時が来ます。
>
>上記「現在ただ今、浄土に入る時が来ます」とのご教授ですが、
>私は、現世は穢土で、浄土は肉体の臨終の後に行くところと理解しておりました。
>
仏教では、生死は「迷いの見方」であり、そのため無始より流転輪廻し苦しみ続けているのだよ、
と説かれています。
生死の苦海から離れさせてくれるのが、親鸞聖人の教え、他力です。
「迷いの見方」がすたってくると、「死んだら○○○○○する。」ということが教えの中心には無い、
というのが知らされます。

生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしづめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ
 のせてかならずわたしける

下図の最右(東岸)に私たちはいて、善友・善知識(17願諸仏)の「西へ行け!」という言葉を聞き開き、
「真実の行」が私たちに初めて届いてスタートします。
浄土とは、下図タテの線を越えたところです。他力(真実の行)によって、東岸から西岸へ渡るのです。


                         |               
           浄土           |                   穢土
                         |              
                      (証)|             
       /                住|
     /――――――――――― 正|捨      (行)              「西へ行け!」
【滅度】     無礙の一道       定|命←−−−−−−−−−(信)私  ←目の前の善友・善知識
     \――――――――――― 聚|      二河白道     【真実の行】  (17願諸仏)
       \                 |                 初めてが届く
                         |                 
                       西岸|                   東岸
                         |                 

>「問うていはく、正定と滅度とは一益とこころうべきか、また二益とこころ うべきや。
>一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にて
>あるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもふべきものなり。 」(御文章1-4)
>
>これによると、正定は穢土の益、滅度は浄土の益というように、穢土と浄土とを
>はっきりと区別しているようにみえます。
>
善導大師・二河譬の言葉で言うと、「捨命已後」、上図西岸へ至り、浄土へ入ります。
「正定は穢土の益」とは、「真実の行」により二河白道を捨命まで進むと、穢土に繋がれる命が終わる
ということです。上図タテの線のところまで到達できるよ、ということ。

「滅度は浄土にて得べき益」とは、西岸に至り住正定聚となると、
正定聚ということがどういうことかハッキリしますので、当来滅土に至ることが確信させられます。
(補足)○当来:当(まさ)に来たる・・・必ずそうなる
    ×未来:未だ来ず・・・そうなるかどうか、分からない
上図タテの線を越えると(住正定聚)、必ず滅土に至ると確信しますよ、ということ。



>これは、どのように理解したらよろしいのでしょうか。
>この現世の穢土は、あるときから浄土に転化するということでしょうか。
>もしそうだとしたら、その個人がどうなったときにその転化が起こるのでしょうか。
>
前回お話し致しましたとおり、下記のようにハッキリします。

>ハッキリするのは西岸に至るときです。
>「不体失往生」ですので、「肉体の臨終を待つことなく」西岸に到達します。
>現在ただ今、浄土に入る時が来ます。それ以降、「証」巻の内容が心にどんどん開けてきます。
>西岸に至ると住正定聚なので、確信が得られます。自心へ清浄のはたらき(浄土の功徳)を確信します。
>凡心から仏心へ、心の中心が変わります。
>
「穢土の命が終わって、浄土の命(無量寿)が始まった」という心になる、ということです。
以下善導大師の言葉2つとも、上図タテの線が境界です。



●「信」巻・善導大師の言葉@

「『今身』にかの国に生ぜんと願はんものは、行住座臥にかならずすべからく心を励ましおのれに剋して、
 昼夜に廃することなかるべし。『畢命を期』として、上一形にあるは、少しき苦しきに似たれども、
 『前念に命終して後念にすなはちかの国に生じて』、長時永劫につねに無為の法楽を受く。
 『乃至成仏までに生死を経ず』。」

(補足)
『今身』にかの国に生ず:不体失往生
『畢命を期』:上図タテの線まで
『前念に命終して後念にすなはちかの国に生じて』:上図タテの線を越える
『乃至成仏までに生死を経ず』:必死滅土の確信



●「信」巻・善導大師の言葉A

「もろもろの行者にまうさく、凡夫の生死貪じて厭はざるべからず。弥陀の浄土軽めて欣はざるべからず。
 厭へばすなはち娑婆永く隔つ、欣へばすなはち『浄土につねに居せり』。隔つればすなはち六道の因亡じ、
 輪廻の果おのづから滅す。因果すでに亡じてすなはち形と名と頓に絶えぬるをや」

(補足)
『浄土につねに居せり』:タテの線を越えた、住正定聚の心



現在ただ今、三悪道の心に引きずり回されていたら、タテの線を越えていない。
タテの線を越えていたら、三悪道の心が起こっても、煩悩即菩提、転悪成徳で浄土の奥へと進ませて頂けます。

「真実の行」であれば、二河白道も本質的には無碍の一道ですが、
私たちの自覚の面からは、無明煩悩が強いので、とてもそんな風に思えません。
こうした「心の道程」を経て、西岸へ至ります。そこでハッキリ無碍の一道を自覚します。

真実の行、阿弥陀仏の光明、具体的なはたらきです。
光明は智慧をたとえたものですので、心の中の気付きとして具体的に現れます。
(光明に触れるとか摂取不捨なども、どういうことかハッキリすることです。)

※ポイントは2つ。
@真実の行が初めて私に届いて「信楽」を獲る。【スタート】
 真実の行を「信」じ、往生浄土を「楽(ねが)」う。(願作仏心、度衆生心)自分の悪業が問題となる。→機の深信へ
A二河白道を進み、西岸に至る。【西岸では、浄土・滅度・光明・摂取など、いろんなことがハッキリする】



ご不明な点が有りましたら、ご質問宜しくお願いします。

●re.30
菩提心
非公開の非公開
[ 1042 ] Re28:住正定聚について教えてください 2009/03/08 (Sun) 19:03 △up ▽down
蓮華蔵様

>善導大師・二河譬の言葉で言うと、「捨命已後」、上図西岸へ至り、浄土へ入ります。
>「正定は穢土の益」とは、「真実の行」により二河白道を捨命まで進むと、穢土に繋がれる命が終わる
>ということです。上図タテの線のところまで到達できるよ、ということ。

>現在ただ今、三悪道の心に引きずり回されていたら、タテの線を越えていない。
>タテの線を越えていたら、三悪道の心が起こっても、煩悩即菩提、転悪成徳で浄土の奥へと進ませて頂けます。


上記の部分を読ませて頂いて、ボーとしていた頭も、ちょっとビックリ目が覚めました。

「タテの線」、これってS会でも良く聞いてきたお言葉です。

私は、そのタテの線の水際が何度聞いても分かりませんでした。

タテの線って、御言葉は真宗ではごく普通に使われる御言葉ですか?


私は、タテの線は分からなくても、


御文5−22

「・・・かならず弥陀如来の摂取の光明をはなちてその身の娑婆にあらんほどのこの光明のなかにおさめをきましますなり、されば南無阿弥陀佛とまうす体はわれらが他力の信心をえたるすがたなり、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり・・」

上記の御言葉をお陰様で心得ことができました。


そして、

「さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことのさらになにのうたがひもなし」

まったく疑う気持ちも出てきません。


「あら殊勝の弥陀如来の本願や、このありがたさの弥陀の御恩をばいかがして報じてたてまつるべきぞなれば」

ということで

「ただ寝ても起きても南無阿弥陀佛ととなえて、かの弥陀如来の佛恩を報ずべきなり」

のようにはいきませんが、時々、思い出しながらお念仏を称えています。


「されば南無阿弥陀佛ととなえる心はいかんぞなれば、阿弥陀如来の御助けありつる有難さ、尊さよと思ひて、それをよろこび申す心なりと思うべきものなり」

私は、自分の愚かさを自覚できる程、自分を見つめて精進できるような人物では有りません。

ただ、阿弥陀様の六字の御名号の功徳を丸貰いさせて頂いていると実感できますので、とても有難いと思っています。

ここ2日間の行事でさえ、私はくたくたになり正直、生きるっていうことの辛さを感じましたが、それでも不思議に、阿弥陀様に救われていると思えると有難いなと沸々と心から出てくる思いが、ますます有難くなってきます。



「一念の信心さだまらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべき事、さらに疑いなし・・・」


私は浄土に往生すること、全く疑っておりません。

皆様の書き込みを拝読させて頂いて、単純な頭の構造で良かったです。

きっと阿弥陀様は私の罪の大小など問題になんてしていません。

ただ一心に頼んだ私を必ず救うと仰って下さり、私はその御言葉を素直に信じられた事が有難いです。


南无阿彌陀佛

●re.31
ボン
関東の男性
[ 1043 ] Re29:住正定聚について教えてください 2009/03/09 (Mon) 03:37 △up ▽down
蓮華蔵様

いつもいつも、たいへんご丁寧なご教授ありがとうございます。
今回はわかりやすく図解までしていたき、感謝にたえません。

この図によると、「捨命」することにより「タテの線」を越えて「住正定聚」に至ると
理解できるように思いますが、それでよろしいでしょうか。

国語辞典によると「捨命」とは仏教用語で「悟りのために命を捨てること」
とのことです。

もちろん、ここでは
>「不体失往生」ですので、「肉体の臨終を待つことなく」西岸に到達します。
とありますように、「命を捨てる」というのは、肉体の命を捨てるということではなく、
「心の命?」ないしは「何か別の命」を捨てると理解してよろしいかと存じます。

そして、私は「信楽」をいただいた自覚はございますが、それ以降につきましては
何の自覚もございませんので、当然、「二河白道」を歩んでいる真っ最中で、
「捨命」に至っていないと考えるのが妥当だと考えます。

そこで、私はどうなったときに「捨命→住正定聚」に至ったと自覚できるのでしょうか。
堂々巡りのようですが、やはり、私ががどうなったときに穢土から浄土への転化が
起こるのかという前回の疑問は依然として私の中で解決されておりません。

>前回お話し致しましたとおり、下記のようにハッキリします。

>>ハッキリするのは西岸に至るときです。
>>「不体失往生」ですので、「肉体の臨終を待つことなく」西岸に到達します。
>>現在ただ今、浄土に入る時が来ます。それ以降、「証」巻の内容が心にどんどん開けてきます。
>>西岸に至ると住正定聚なので、確信が得られます。自心へ清浄のはたらき(浄土の功徳)を確信します。
>>凡心から仏心へ、心の中心が変わります。

>真実の行、阿弥陀仏の光明、具体的なはたらきです。
>光明は智慧をたとえたものですので、心の中の気付きとして具体的に現れます。
>(光明に触れるとか摂取不捨なども、どういうことかハッキリすることです。)

つまり、その個々人の心中に起こる変化(確信・自覚・気付き)によってハッキリする
ということでしょうか。そこには心中の変化以外に、何かもっと具体的で客観的な指標は
ないのでしょうか。(そうでなければ、思い込みや自己暗示という要素が払拭しきれ
ない気がするのですが・・・)

例えば「信楽→二河白道スタート」といのは、私にとって、思い込みや自己暗示と
いった次元を超えた、この上もなくハッキリした客観的な事実に基づくものです。

ここでいう「捨命→住正定聚」は、「信楽→二河白道スタート」と同等に重要な区切りと
思われるのですが、そこにハッキリした客観的な裏づけがないとなると、
非常に心もとないような気がするわけです。

あるいは、この「捨命→住正定聚」というのは、二河白道を歩む者がすべて、
その穢身を捨てるまえに到達できる境地とは限らない。「捨命→住正定聚」が
この世の寿命が尽きるときまで持ち越される例もある。ということなのでしょうか。

以上の点をはっきりと理解することができません。
度重なる質問で、たいへん恐縮ではございますが、
詳しく承ることができましたらありがたく存じます。

なにとぞよろしくお願いいたします。


南无阿彌陀佛

●re.32
金剛心
北陸の男性
[ 1044 ] Re30:住正定聚について教えてください 2009/03/09 (Mon) 19:35 △up ▽down
蓮華藏様
蓮華藏様には実に失礼とは思いますが私の見解では八十%真宗の未安心の僧侶であると認識
致しております。

それは一つには説教上手の書き方、二つには心を主とした書き方(未安心者の僧侶に多い)
この二点から見た私の見解です。

最初にこの書込みに登場された時から見れば書けば書く程経論釈から異なる書き方に移行して

ボロがポロポロと出て来るそんな書き方となって来ています。

例えば[ 1011 ]に「他力廻向の信には教行証がおさまっている」と書かれているが、

本来ならば「他力廻向の行信には」と書くべきところを、行を捨てた書き方で行信の区別なし。

その他項目を挙げて説明すれば下記となる。

@[ 1030 ]*に「お釈迦樣は目に見えない死後の世界を説かれたのではなく生きている現在

ただ今の苦しみを解決するために、苦しみの現実実相を説くために六道輪廻を説かれました」
(経論釈の論点からズレて信心の無い人の書き方である)

A[ 1026 ]に「信心を獲た念仏行者は二河白道を東岸から一歩踏み出した人」
(これが入正定聚からの原点のスタートです)

B[ 1036 ]に「西岸に至ると正定聚」「正定聚は成仏(必至滅度)が確定した人」

C[ 1036 ]に「往相廻向の心行を獲ればその時が二河白道のスタートである」
(経文では証からのスタートはあり得ない)

先ず@から説明すれば、大経に書かれている地獄説を全く否定無視している書き方である
  (未安心の僧侶方に多い)三世了達の智慧を以て書かれた大経を無視している。

  A信心を獲た念仏行者とは十八願の因願を初めて体験した人の事である、すなわち
   弥陀界に初めて入った入正定聚になって入口に入ったばかりの人を指す、入口から
   奥へのスタートである。不体失往生の原点。

  B西岸に至るとは極楽浄土の事で体失して到達する界である。
   正定聚は成仏(必至滅度)が確定した人とは、必至滅度は証巻であり十一願であり
   信成就の一念に気付く現生が滅度界であることを蓮華藏様は理解出来ないだけである、
   成仏ではない。各高祖方や六要鈔には滅度はこの土この身と書かれている釈文が
   会通出来ていないだけである。

  Cは証巻の事であり住正定聚(現生)の事であり、十一願の事である。いわばAに対して
   果からの二河白道のスタートとなり出口からのスタートを意味する事となりAとCでは
   スタート地点が全く異なり、意味も異なるし文章の書き方自体理屈も道理も全く
   合わない書き方となっている。

  Bの滅度(還相廻向)は現生であることが真宗で最大の難門である。これを理解するには
   長年の月日もかかるし、いろんな経論釈を読まなければ領解する事が出来ないのです。
   真宗の最大の難関とされている明師が必要。

 *Aの獲は十八願の因の獲Cの獲は十八願に対する十一願果の獲十一願に対し二十二願は
   得となる。

阿弥陀仏の本願は成仏の本願ではなく往生の本願であると広瀬杲大谷大学学長も曽我量深師も
本に書かれているのです。これが高祖説でもあり六要鈔の説でもあるのです。

報土往生(現生)しても成仏ははるかに遠い遠い道なのです。それを「往生近果成仏遠果」と
六要鈔に書かれてあるのです。

蓮華藏様は高祖方の説や六要鈔の説に対し異説の書込みであると思いますが教義に浅い
念仏行者の方々には大変わかり易い現代釈を使っての説明が大変受けている事に対しては
私は意義をはさむ事は出来ません。

[ 1029 ]に菩提心様は
「私は確かに信心決定した後に蓮華藏様のように臨終までそのような気持ちになられる人は
 幸せだろうなと思います。一念帰命のその時こそ大事でなければやはり安心満足は
 出来ないのではないのだろうかと思います」と書かれています。

私も菩提心様のこの書込みには全く同感致します。

我々親鸞教徒は高祖方の書き残された経論釈文に随順しその宗旨に反する事だけは出来ない

それをしっかりと胸の奥に持って頂きたいと思っております。他力真宗の教えに間違いが

生じてはならない事だけは知って頂きたい。真実の教えは道徳の教えと違って時代が変わった

から経論釈の内容が変わるものではない、未来永遠に変わらないのが真実であり、仏教説
なのです。

これだけ記すれば蓮華藏様なら少し理解されるのではないかと思っております・・・合掌。

追記
一念帰命、南無阿弥陀仏のすがた、が解っていないのではないのでしょうか?
失礼かもしれませんが。反論願います。

●re.33
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1045 ] Re31:住正定聚について教えてください 2009/03/10 (Tue) 16:38 △up ▽down
菩提心さま

>タテの線って、御言葉は真宗ではごく普通に使われる御言葉ですか?
>
普通に使われているのかどうかは、分かりませんが、
図中の位置を示すため、私は指示語として使いました。

●re.34
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1046 ] Re32:住正定聚について教えてください 2009/03/10 (Tue) 16:43 △up ▽down
ボンさま

>この図によると、「捨命」することにより「タテの線」を越えて「住正定聚」に至ると
>理解できるように思いますが、それでよろしいでしょうか。
>
そのご理解でよろしいかと思います。
「捨命」とは、本当に理解困難ですね。私たちの「ものの見方」を否定してくるんですからね・・・



>ここでいう「捨命→住正定聚」は、「信楽→二河白道スタート」と同等に重要な区切りと
>思われるのですが、そこにハッキリした客観的な裏づけがないとなると、
>非常に心もとないような気がするわけです。
>
おっしゃる点、よく分かります。
悪業という言葉をこれまで何度か使いましたが、悪業がどのように知らされてくるのか、見てみたいと思います。

まず、道徳的な「善悪」のイメージと、仏教で教えられる「善悪」は異なっています。
仏教では「苦しみの解決」を問題としていますので、
・悪業 → 苦しみをもたらすもの
・善業 → 幸せをもたらすもの と教えられます。

悪業の「悪」とは、世間的な罪悪感情とは違い、自分が人に悪いことをした、という時の感覚ともズレがあります。
仏教で「悪」とは、思ったり・したりすると「自分が苦しむ」ことになる、というものです。

悪業は、心の表面に現れる煩悩から、だんだんと知ることが出来ます。
三毒の煩悩は苦しみの代表ですが、心の表面に現れる苦しみの中でも、一番分かり易いのが「怒り」です。
「怒り」は「執着」とセットです。

@執着:心の奥底にある不安に対して、安心しようとして求めること。(貪欲)
A怒り:執着が妨げられた時、人・状況などに対して出てくる感情(瞋恚)

「@執着」は心の表面で活動していて、執着心が満たされると一時的に大きな喜びが得られますが、
やがて苦しみの原因になってしまいます。
「貪」欲とは字のとおり、欲が悪いのでなく、貪ること(人を押しのけてでも手に入れようとする心)が悪と教えられます。
人を押しのけてでも手に入れたいと思う執着心ですが、自分で気づかないことも多いです。
順境だったり、自分の執着度合いと環境とが、たまたま、さほどアンバランスでない時などです。

一方で、「A怒り」はだいたい自分で気づきます。
心から怒っている時はもちろん、相手や状況に対する嫌悪感、イライラ、小さな波立ち・不安など。

仏道を進んでいくと、「穏やかな心」がだんだん基本となってきます。
縁に触れ「A怒り」の心が出てくると、小さなイライラ・不安も自覚するようになって、さらに
心の中の原因について、自分が何に「@執着」しているのかについて、光が差し込むようになってきます。

光明に照らされると、何が悪業か、だんだん知らされてきます。
知らされた分だけ悪業のはたらきが止まりますので、同じような縁に触れても、だんだん苦しみが減ってきます。
光明は、自分の心の中にある苦しみの原因を教えてくれます。

「信」は、いわれに対して疑いが晴れた時。どうして幸せになれるのか理解した時。
その後、「行」(二河白道)を実践していくと自分の業が変わり、いわれのとおりのことが、
自身(自分の心)に確かに起こってきたと分かる。

「信」は、「行」の道理が分かった時。
その後、の「行」(二河白道)によって、その道理が自身(自分の心)の体験を通して
「なるほど、そういうことか」と知らされます。

正定聚について説かれていることが、確かに自身(自分の心)に現れてくることでもハッキリします。
 @荘厳「妙声」功徳成就 :教を聞く身となる
 A荘厳「 主 」功徳成就 :主を持つ身となる(阿弥陀仏が心の中心に)
 B荘厳「眷属」功徳成就 :友が生まれる、つながりができる
 C荘厳「清浄」功徳成就 :悪業が浄化される(転悪成徳、転悪成善)



信は、救われていく道理に対して疑い晴れた時なので、

>ここでいう「捨命→住正定聚」は、「信楽→二河白道スタート」と同等に重要な区切りと
>思われるのですが、そこにハッキリした客観的な裏づけがないとなると、
>非常に心もとないような気がするわけです。
>
自分の心・自分の業において、教えられたことが起こってくる前の段階です。
自分に起こってくることが実際どうなのか、業が変わるという体験がどういうことか知らない状態ですから、
おっしゃるような印象になるのは当然かもしれません。



>あるいは、この「捨命→住正定聚」というのは、二河白道を歩む者がすべて、
>その穢身を捨てるまえに到達できる境地とは限らない。「捨命→住正定聚」が
>この世の寿命が尽きるときまで持ち越される例もある。ということなのでしょうか。
>
穢身を捨てるまえに到達してくれ、というのが親鸞聖人の願いです。



>つまり、その個々人の心中に起こる変化(確信・自覚・気付き)によってハッキリする
>ということでしょうか。そこには心中の変化以外に、何かもっと具体的で客観的な指標は
>ないのでしょうか。(そうでなければ、思い込みや自己暗示という要素が払拭しきれ
>ない気がするのですが・・・)
>
「思い込みや自己暗示という要素が払拭しきれない」という心配も、よく分かります。
思い込みが「正見」でなければ「邪見」ですので、「邪見」に基づき人生を歩んでいくと、苦しむ時が必ず来ます。

心の苦しみを物差しにして、進んでいくことが一番分かり易く、間違いないと思います。
仏教は「苦しみを解決」するための教え、そして「自灯明・法灯明を拠り所として生きなさい」と教えられますので。

世間道では、「苦しみからいかに逃れるか」を問題にして、何とかしようとします。原因を「外」に求めます。
しかし、出世間道では、「信楽」を獲て「住正定聚」となると、苦しみが幸せになるためのもの、ということが分かって自分がどんどん変わっていきます。
不安から逃げようとする行動が苦しみに繋がることが分かり、そうした苦しみから離れるようになり、自分の幸せを実感するようになります。

住正定聚では、苦しみの原因を「外」に見ようとせず、苦しみの原因を自分の「内側」に見つけることが出来るようになります。

ボンさんが信楽している「行」を実践してみてもらえれば、自分にどんな変化があるか、分かると思います。
変化なければ幸せに向かって進んでいないですし、変化あれば進んでいるかどうか、分かると思います。

●re.35
ボン
関東の男性
[ 1047 ] Re33:住正定聚について教えてください 2009/03/11 (Wed) 10:25 △up ▽down
蓮華蔵様

度重なる質問に対していつもご丁寧にお答えいただきありがとうございます。
心より感謝いたします。


前回、私は以下のように疑問を申し上げました。

>ここでいう「捨命→住正定聚」は、「信楽→二河白道スタート」と同等に重要な区切りと
>思われるのですが、そこにハッキリした客観的な裏づけがないとなると、
>非常に心もとないような気がするわけです。


これに対するお答えを、いくつか引用すると以下のとおりです。

>仏道を進んでいくと、「穏やかな心」がだんだん基本となってきます。

>光明に照らされると、何が悪業か、だんだん知らされてきます。

>その後、「行」(二河白道)を実践していくと自分の業が変わり、いわれのとおりのことが、
>自身(自分の心)に確かに起こってきたと分かる。

>その後、の「行」(二河白道)によって、その道理が自身(自分の心)の体験を通して
>「なるほど、そういうことか」と知らされます。

>心の苦しみを物差しにして、進んでいくことが一番分かり易く、間違いないと思います。

要するに、二河白道を進んでいくと、自分の気づきに応じて、“だんだんと”自分の心が
変化してくるので、それが自覚できるということと理解できます。つまり、それはあくまでも
自分の心の中のことで、はっきりした客観的な指標はない、と理解できますが、
そのようなことでよろしいのでしょうか。

そうすると、やはり堂々巡りになるのですが、「信楽→二河白道スタート」と同等に重要な
現世での「捨命→住正定聚」という区切りが「非常に心もとない」という思いを払拭する
ことができず、結局、私の疑問は解決されません。


また、以下の文章が私にはよく理解できません。

>ボンさんが信楽している「行」を実践してみてもらえれば、自分にどんな変化があるか、分かると思います。

「私が信楽している行」というものを具体的にイメージすることができません。
「私が信楽した行」なら、この上もなくハッキリとイメージできます。
私の中で「信楽」とは、「過去に完了した他力の行」と理解しております。
今まさに信楽している現在進行形の「行」というものが理解できません。

これまでのご教示のなかでも、信楽開発は「二河白道=仏道」のスタートと教わりました。
これは信楽が完了してはじめて、仏道スタートの条件が整うということではないのでしょうか。

>私たちは、もともと「凡」がほとんどでした。
>(凡100%+仏0%)    * 数字は分かり易くするためです。厳密ではありませんので。
>@それが、信楽開発で他力廻向の信(仏性)が獲られました。「南無」
>(凡99%+仏1%)   ↓
>   ↓Aすると、「阿弥陀仏」のはたらき(摂取の光明)で「転悪成徳」が起こります。
> (どんどん仏へ近づく)

>>ところで、ここでいうところの「南無」とは、何を指すのでしょうか。
>>「南無」=「信楽開発」=「信一念」=「一念発起」と理解してよろしいのでしょうか。
>>
>そうですね。仏道のスタートです。

この教えによりますと、やはり、信楽開発は「二河白道=仏道」の出発点と理解できます。


>>質問の仕方を変えれば、私は、どの時点から「二河の白道」を歩み始めるのでしょうか。
>>あるいは、すでに歩み始めているのでしょうか。それとも、このスタート地点は、
>>はっきりとは認識しえないものなのでしょうか。
>>
>ハッキリ認識するものです。
>信楽を獲るとスタートし、浄土へ向かい始めます。

ここでも「信楽を獲る」ことが、「二河白道=仏道」のスタートと教えていただきました。


>「証」巻はじめの「往相廻向の心行を獲れば」となった時が二河白道のスタートで、
>浄土へ向かっていくすがた(往相)になります。この信は自力で起こせないので「廻向」されます。
>私たちは信楽を獲た時、「二河白道を東岸から一歩」踏み出します。

ここでも「信楽を獲た時」「二河白道を東岸から一歩」踏み出すと教わりました。

しかし、「私が現在まさに信楽している行」というという考え方は、
「信楽を獲た時に仏道がスタートする」という考え方と矛盾すると思いますが、
いかがでしょう。

ひょっとしたら、蓮華蔵様にとりましては、「信楽→二河白道スタート」も
「捨命→住正定聚」と同様に、ハッキリと確認できる客観的な事実ではなく、
心の中の変化に過ぎないものなのでしょうか。


また、ここで引用いただいた「往相廻向の心行を獲れば」の全文をみると
「往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。」とあります。
これを素直に読むと「往相廻向の心行を獲れば」“ただちに”大乗正定聚の数に入るとのことです。

また、教行信証の信巻に以下の記述があります。
「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、
広大難思の慶心を彰すなり」

ここで「即のとき」「時剋の極促」というのをどのように理解すればよろしいのでしょうか。
「即のとき」は「ただちに」、「時剋の極促」は「ときのきざみのきわみ」ということでは
ないのでしょうか。つまり“瞬時に”と理解できますが、これは“だんだんと”という
漸進的な概念の対極をなすものではないでしょうか。

私の疑問は解決するというよりは、逆に深まっていく感じがいたします。
これも、私の根本的な誤解、または理解力のなさから来るものに違いありません。
度重なる質問で、たいへん恐縮ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします。


南无阿彌陀佛

●re.36
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1048 ] Re34:住正定聚について教えてください 2009/03/11 (Wed) 18:21 △up ▽down
ボンさま

私がボンさんのことを認識違いしていて、適切でない説明をしているといけませんから、
いくつか確認させて頂けますか?

@
>「私が信楽している行」というものを具体的にイメージすることができません。
>「私が信楽した行」なら、この上もなくハッキリとイメージできます。
>私の中で「信楽」とは、「過去に完了した他力の行」と理解しております。
>
「過去に完了した他力の行」とは、どのような内容でしょうか?
信後、この「他力の行」を実践していませんか?



A
>ハッキリと確認できる客観的な事実ではなく、心の中の変化に過ぎないものなのでしょうか。
>
心の中の変化ではない、「ハッキリと確認できる客観的な事実」とは、どういったことなのでしょうか?
信楽を獲た時の、「この上もなくハッキリした客観的な事実」とは、どんなことなのでしょうか?
(心の中でないとすると、心の外でしょうか?)



B煩悩即菩提は、「過去に完了した他力の行」に含まれていますか? 実際に現れていますか?



>「即のとき」は「ただちに」、「時剋の極促」は「ときのきざみのきわみ」ということでは
>ないのでしょうか。つまり“瞬時に”と理解できますが、これは“だんだんと”という
>漸進的な概念の対極をなすものではないでしょうか。
>
おっしゃるとおりです。

親鸞聖人は、至西岸ではなく、二河白道を東岸から一歩踏み出した時点(獲信)へと、
手前に入正定聚を持ってこられました。現生正定聚、現在から浄土に入り始めると説かれました。
真実の信楽であれば、ここ(東岸から一歩)から「浄土の功徳(清浄のはたらき)」を受けるので、
他力行が実践でき、転悪成徳や煩悩即菩提が起こってきて、「証」果がハッキリしてきます。
ですから、信一念を重視されました。

獲信直後から、煩悩即菩提があり「証」果が開け始めますので、法の面からは「信一念で充分」です。
信一念以降は、救われている状態です。

信一念以降、煩悩が吹き上がる都度、「機の深信」を改めて自覚させられ、煩悩即菩提が起こり菩提心が崩れず、
転悪成徳で徳が積み上がってきて、「法の深信」へと自覚が進んでいきます。
法の面からは信一念で充分、二種深信や煩悩即菩提などの法が私たちに届いています。

●「教行証」を敬信する = 「『教え』に基づき実践する『行』によって『証』果がある」 ことに対して『信楽』する

つまり、完了した信楽だけでなく、「行」と「証」が必ず具体的事実になります。

信楽の体験だけでなく、信後継続して実践する「行」と現れる「証」が、現在ただ今の事実です。
信楽は大切ですが、「行」と「証」が必ずあって、私たちに幸せを実感させてくれます。(完了ではなく継続)

「私が信じることができた」というよりは、「行→証」が始めて分かったのが信楽を獲ることなので、
獲信以降、「行」じて「証」果がえられ続きます。(開発で始まり、以降継続)
信楽も、信力増上により継続して変化(成長)を続けます。

●re.37
ボン
関東の男性
[ 1049 ] Re35:住正定聚について教えてください 2009/03/12 (Thu) 00:51 △up ▽down
蓮華蔵様

いつもご丁寧なご教授ありがとうございます。
お尋ねですので、正直にお答えします。

>「過去に完了した他力の行」とは、どのような内容でしょうか?
>信後、この「他力の行」を実践していませんか?

まず、信後この「他力の行」を実践したことはありません。1回かぎりのことです。

しかし、この「他力の行」の内容につきまして、このような誰でも見れるネット上の
掲示板で詳しく述べることはできません。

なぜなら、御文章のなかで、何度も何度も、口がすっぱくなるほど
他宗・他人に対して沙汰するなといわれているからです。
これは一期を限り守ると誓った掟(おきて)です。
以下、御文章からいくつか引用します。

「しかれば祖師(そし)聖人(親鸞)御相伝一流の肝要は、ただこの信心ひとつにかぎれり。
これをしらざるをもつて他門とし、これをしれるをもつて真宗のしるしとす。
そのほかかならずしも外相において当流念仏者のすがたを他人に対してあらはすべからず。」

「そもそも、当流の他力信心のおもむきをよく聴聞して、決定せしむるひとこれあらば、
その信心のとほりをもつて心底にをさめおきて、他宗・他人に対して沙汰すべからず。」

「それ当流の掟をまもるといふは、わが流に伝ふるところの義をしかと内心にたくはへて、
外相にそのいろをあらはさぬを、よくものにこころえたる人とはいふなり。」

「これについて、まづ当流の掟をよくよくまもらせたまふべし。そのいはれは、
あひかまへていまのごとく信心のとほりをこころえたまはば、身中にふかくをさめおきて、
他宗・他人に対してそのふるまひをみせずして、また信心のやうをもかたるべからず。」

また、「領解文」でも以下のように約束を申し上げました。

「もろもろの雑行雑修自力のこころを、振り捨てて、一心に阿弥陀如来、
我らが今度の一大事の後生、御助けそうらえと頼み申してそうろう。頼む一念のとき、
往生一定御たすけ治定とぞんじ、このうえの称名は、御恩報謝とぞんじよろこびもうしそうろう。
この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識の
あさからざる御勧化の御恩と、ありがたくぞうじそうろう。このうえは、
さだめおかせらるる御おきて、一期をかぎありまもりもうすべくそうろう。」

私はこのように約束をしましたので、詳しく申し上げることができないのです。


>心の中の変化ではない、「ハッキリと確認できる客観的な事実」とは、どういったことなのでしょうか?
>信楽を獲た時の、「この上もなくハッキリした客観的な事実」とは、どんなことなのでしょうか?
>(心の中でないとすると、心の外でしょうか?)

「ハッキリと確認できる客観的な事実」というのは、この「他力の行」そのものです。
前述の事情により、明確に申し上げることはできませんが、暗示はできます。

心の中でないとすると、もちろん心の外ということになるでしょう。
私は、人の心ほどあやふやなものはない、と聞きました。
「身・口・意」は、重く確かな順番に並んでいるのだそうです。
「意」は、「音」に聞こえる(つまり外見に表れた)「心」だそうです。
つまり、心は「身・口・意」の中にすら入っていない軽い存在ということになります。

ひょっとしたら言葉の使い方がおかしいかもしれませんが、
ここでいう「信楽」「他力の行」というのは、金剛心様のおっしゃる
「一念帰命」「南無阿弥陀仏のすがた」と同じことを言っているつもりです。

私は諸般の事情で、有縁の善智識様・同行様と音信不通になり数十年をすごした後、
何気なく「南無阿弥陀仏のすがた」とうい言葉でネット検索をかけて、
この掲示板を発見しました。(たぶん、同行様でなければ、このような言葉使いは
しないだろうと思ったからです)

そして、ここには同行様がたくさんいらっしゃることを知り、涙が出ました。
ここのメンバーの誰とも一面識もなく、だれもその姿をつまびらかにしなくても、
書いていることの行間から「あっ、同行様だ」と確信が持てるのです。
同じ「他力の行」を行った方なので「同行」ということです。

ここは“奇跡の掲示板”だと、私の中では思っています。
管理人の毎日様には、感謝しても感謝し切れません。
はぐれも者の私が、同行様と親しくお話ができるのですから・・・。
細々とつながっていたと思った御一流の法が、それぞれの流れでこんなに繁盛して
いたなんて・・・。
何百年前に枝分かれしたかもしれない流れが、お互いに何の干渉もないはずなのに
こんなに金太郎飴状態だなんて・・・。


>煩悩即菩提は、「過去に完了した他力の行」に含まれていますか? 実際に現れていますか?

煩悩即菩提についてよくわかりませんが、たぶん含まれていないと思います。
それが、実際に私の中に現れているかどうかにつきましても、よくわかりません。

私は、元はといえば、仏教に関心がないどころか、死んだら無になる、あの世はない
などと考えるような唯物論者でした。それが、不思議なご縁でこの御一流の法を
いただくことができたのです。遠く宿縁を喜ぶばかりです。

しかも、いただいた御法を何十年も内心に蓄えたまま、満足に念仏も称えずにきた
ふとどき者です。また、経文を確かめたり、誰かに分からないことを聞いたりするのは、
畏れ多い話ですが、内心、いただいたものを疑う気持ちがあるからかもしれないと
思っています。
「あの程度のことで本当に救われるのだろうか・・・」
「そもそも、あの世があるのかどうかさえ確証がもてない・・・」等々

たぶん、「煩悩即菩提」というよりは、「煩悩まみれ」と言ったほうがいいかもしれません。

しかし、疑えば疑うほど、より深く信じ、より深く喜ばざるをえないといった仏の罠が、
しかけられているのではないか、と思うこともあります。


「住正定聚について教えてください」という私の質問に、ただ一人お答えいただいた
蓮華蔵様には、本当に感謝しております。

初めは、同行様なのかどうかよくわかりませんでした。
そして、「二河の白道このスタート地点ははっきり認識できるか」との問いに、
「ハッキリ認識するものです。信楽を獲るとスタートし、浄土へ向かい始めます。」
とお答えいただき、一時は「たぶん同行様では」と思いました。
そして、今回の書き込みで同行様ではないとわかりました。

しかし、それでも経文に暗い私にとって、蓮華蔵様のお話が、たいへん参考になった
ことはまぎれもない事実です。深く感謝しております。

どうか一流の安心を獲得されますよう願うばかりです。


南无阿彌陀佛

●re.38
菩提心
非公開の非公開
[ 1051 ] Re36:住正定聚について教えてください 2009/03/12 (Thu) 04:41 △up ▽down
ボン様

蓮華蔵様の御書き込みを私も最初はそのように受け止めて読んできました。

私はボン様と違い、蓮華蔵様のような過程を踏んで信心決定するものだとずっと思っていました。

この道探してくる時、最初に御縁頂いた場所で、「行」が有ることを知りました。

しかし、長年聞いてきた私でしたが、その時は全く違和感は有りませんでした。

それはずっと個人的に泥凡夫様とメール交換し、その後毎日様とも御縁頂いてメール交換してきて、ようやく一味同行とさせて頂きました。

私は、泥凡夫様から頂いた御著書を何度も読むように言われました。

その中に、「行信不離」の御言葉が出てきました。

このお言葉は真宗辞典にも載っています。

しかし、前の御縁頂いた先生から、信を頂いた人の御著書を読むように言われてきましたので、真宗辞典も良く吟味するように言われました。

確か、ボン様は、現代人様の御書込みに、信前はチンプンカンプン分からないと書かれてあったと思いますが、信心決定すると、不思議に色々な御著書が読めてくることが実感できるようになってきました。

私は、ずっと泥凡夫様と掲示板でやりとりしてくる間、信心決定すると割符が合うって書かれていたけれど、その意味が良く分かるようになってきました。

でも、救われるのには、難しい御言葉を知る必要もないですよね。
救われた後も、必要ないと思います。

ただ、私は、こんな私が極楽浄土に往けるなら、きっと御縁ある人はまだまだおられるかも知れないと、毎日様の掲示板に首を突っ込んで書いてきました。

でも、これも阿弥陀様のなされる事なのでしょう。

「義なきを義とす」

ようやくこのお言葉の真髄を少しながら理解出来るようになってきました。

南无阿彌陀佛

●re.39
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1052 ] Re37:住正定聚について教えてください 2009/03/12 (Thu) 13:48 △up ▽down
ボンさま

仏教では、こころについて、以下3つが教えられています。

@「識」・・・第六識 意識
A「意」・・・第七識 末那識
B「心」・・・第八識 阿頼耶識

普段、私たちが自覚していて、こころと言っている部分は@「意識」です。
ABは自覚しにくい、こころの奥底部分です。

B阿頼耶識には、無始より薫習されてきた過去一切の「業」(心の潜在エネルギー)が蓄えられています。
身口意という私たちが経験した総ての事を記録して蓄えています。
私たちの本体・本性です。

A末那識は、B阿頼耶識に執着するこころです。
刹那刹那に私達のこころは生滅を繰り返し、変わり続けるはたらきがあるのですが、
無明を抱えるため、安心するために、この末那識は、阿頼耶識に執着し、
「自分と思っている部分」(我)が変わらないよう変わらないようにはたらきます。

A末那識の執着するはたらきは、私たちがこころとして自覚している意識には、
「自己肯定」したい気持ちとして表れます。

いろいろのこころが出てきますので、いろんな思いがでてきますので、
A末那識は都合のいい思いをつかまえて、自己肯定して我を構築して、自分を安心させようとします。

このA末那識のはたらきが、流転輪廻させる原因として教えられます。
親鸞聖人の教えは、このA末那識を死滅させるための教えです。



>心の中でないとすると、もちろん心の外ということになるでしょう。
>私は、人の心ほどあやふやなものはない、と聞きました。
>
ボンさんが言う「人の心」というのは、@意識のことです。
おっしゃるとおり、これはあやふやです。



>「身・口・意」は、重く確かな順番に並んでいるのだそうです。
>
そのとおりです。
意が、身・口をはたらかせます。



>「意」は、「音」に聞こえる(つまり外見に表れた)「心」だそうです。
>つまり、心は「身・口・意」の中にすら入っていない軽い存在ということになります。
>
この言葉の意味は、私に理解できませんでした。

「身・口・意」の「意」とは、@意識のことです。私達が自覚できるこころです。
私たちの本性・本体の、ごく表面です。

軽い存在は、@意識です。
意識は、「意(A末那識)に依る識」という意味で、我があると執着するA末那識を拠り所とするので、
おっしゃるとおり、軽い存在です。

私がいう心とは、B阿頼耶識のこと、私たちの本性・本体のことです。
ここに、「迷いの命」を突き破って「如来の命」が生まれてくるのです。信一念のことです。
信一念以降は、死んだら浄土という思いではなく、今が浄土に居る、という心です。
(親鸞聖人は善導大師の心を読みかえて説かれてますので、もともとの善導大師・二河譬の心と異なっています。)



A末那識の執着力は、自己肯定力は、強烈です。
ボンさんが、「どうか一流の安心を獲得されますよう願うばかりです。」と言いたい気持ちが、
A末那識のはたらきそのものと思いませんか?

私は、ボンさんの疑問・不審を晴らすことに役に立ちたい、その思いだけでこれまで文章で説明を繰り返してきました。
この気持ちは、ボンさんに伝わっていると思います。
それなのに、会って話したわけではないのに、自分の同行と違うと判断すると、
簡単に、「どうか一流の安心を獲得されますよう願うばかりです。」と思うこころは、
自己肯定のこころではないですか? 相手否定のこころではないですか?
自分が知ること以外の可能性を認めていないことではないですか?

私のこういう言葉に対して、嫌な思いは出てきませんか?
自分の信心が否定されたように感じるとき、その相手に対し、強烈な嫌悪感が出てきませんか?
こうした思いは、A末那識のはたらきです。解決しなければならない、A末那識による思いです。
嫌な思い、苦々しい思い、これが解決しなければならないこころです。



私たちの本体は、Bの心です。
無明とは「真理に対する無知」と教えられますが、「自分に対する無知」のことであり、「自分のこころ(AB)に対する無知」のことです。
私たちの心と仏心がひとつになるのは、心の内側で起こることです。

上記は唯識に基づき説明しました。唯識は、天親菩薩とお兄さんの無著菩薩が開かれた教えです。
(大乗の仏教心理学)

不審な点がありましたら、ご質問お願いします。
もちろん、お返事無くとも、やむを得ないと承知しています。

●re.40
ちょっと失礼します。
非公開の非公開
[ 1053 ] Re38:住正定聚について教えてください 2009/03/12 (Thu) 14:33 △up ▽down
私は、智恵も才覚も無い底辺の者ですので、義と云うものにはとても疎いですが、蓮華蔵様の文章を読む限り、念仏の行も南無阿弥陀仏の謂れも経験していらっしゃらないと見受けられます。
信心をいただいた人なら、『光明に触れる都度』と云う書き方は、絶対にしない筈です。
何故なら、光明の中で生きているからです。弥陀の光明が途切れる事はありません。
信心をいただいた、その一刹那の間にこの魂は、極楽に往き、そしてこの世に戻って来たからです。戸籍は、極楽に在ります。
詳しい事は、分かりません。
ですが、何も知らない御聖典を読む事も理解する事も出来ない私でも、信心をいただいた人と、そうではない人間を見分ける術は、知っています。
信心をいただいても、執着心はなくなりません。
何の為に、親鸞聖人が、袈裟を着たまま肉食をしたのでしょうか?
人間に与えられた生き方を業に任せて生きる事しか出来ないと云う手本を示してくれたものと、私は考えています。
羊の毛の先に付くホコリでさえ、自分の因縁だと言われています。
信心をいただいた瞬間から、この命は、阿弥陀仏にいただいた命だと思っています。

●re.41
ボン
関東の男性
[ 1054 ] Re39:住正定聚について教えてください 2009/03/12 (Thu) 17:52 △up ▽down
蓮華蔵様

ご丁寧なお返事ありがとうございます。
まず、蓮華蔵様が不快な思いをされたとしたら、たいへん申し訳なく思います。


>私は、ボンさんの疑問・不審を晴らすことに役に立ちたい、その思いだけでこれまで
>文章で説明を繰り返してきました。この気持ちは、ボンさんに伝わっていると思います。

もちろん伝わっております。本当にありがたいことだと思っております。
心より感謝申し上げます。


>それなのに、会って話したわけではないのに、自分の同行と違うと判断すると、
>簡単に、「どうか一流の安心を獲得されますよう願うばかりです。」と思うこころは、
>自己肯定のこころではないですか? 相手否定のこころではないですか?
>自分が知ること以外の可能性を認めていないことではないですか?

察するに、蓮華蔵様は、いつも皆様に説法をされている尊いお方とお見受けしました。
そのような方に「どうか一流の安心を獲得されますよう願うばかりです。」などと
申し上げるのは、失礼のきわみとは存じ上げております。

ただ、これは私の正直な気持ちです。一縷の望みを託して、あえて申し上げました。
決して「簡単に」申し上げたわけではありません。

蓮華蔵様が明らかに他流とわかるのであれば、このようなことは申し上げません。
「謹んで遠ざかる」のみです。愚かな考えかもしれませんが、蓮華蔵様は単に
未安心なだけだと思ったのです。


>私のこういう言葉に対して、嫌な思いは出てきませんか?
>自分の信心が否定されたように感じるとき、その相手に対し、
>強烈な嫌悪感が出てきませんか?

正直に申し上げますが、私は嫌な思いは出てきません。ただ、やっぱり反発されたか、
と残念に思うだけです。また、蓮華蔵様が嫌な思いをされたと思うと心が痛みます。

私は、蓮華蔵様の「信心」と思われていることを、結果として否定した形になる
わけですから、人間である以上嫌悪感も出るでしょうし、反発されるのも
当然の帰結と思います。


また、「識・意・心」など、ご教授をいただき、本当にありがとうございます。
蓮華蔵様が理解できないのは、私の「身・口・意」の理解がおかしいせいだと
思います。身口意を引き合いに出したのは、ただ、私のいただいた大事なものを
暗示しようと思っただけです。いたらない話で申し訳ありません。

私は経論には暗いのですが、私には後生救われたという確かな確証があります。
私が助からないのであれば、蓮如上人も、親鸞聖人も、みな助からないと思える
だけの符合が確認できるのです。

私の知らない経論上の話を教えていただけるのは、本当にありがたいのですが、
蓮華蔵様が未安心だと思うと気もそぞろで、落ち着いてお話を聞く気分になれない
のが正直なところです。

この御一流では「信心を先とする」とされます。御文章から引用します。

「そもそも、開山聖人(親鸞)の御一流には、それ信心といふことをもつて先
とせられたり。その信心といふはなにの用ぞといふに、無善造悪のわれらがやう
なるあさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立なり。
この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。」

万が一違ったら大変失礼なんですが、蓮華蔵様には、「他力の行」をして
「他力の信心」をいただいたという確かな確証または記憶はないものと思います。
繰り返しになりますが、これは心が云々というレベルの話ではないんです。

「どうか一流の安心を獲得されますよう願うばかりです」という気持ちに変わり
ありませんが、そもそも、こればかりは宿善がなければ、どうにもなりません。
残念ですが、会ったこともない方に、ネット上で、これ以上申し上げるべきこと
ではないのかもしれません。


南无阿彌陀佛

●re.42
酒天童子
関東の男性
[ 1055 ] Re40:住正定聚について教えてください 2009/03/12 (Thu) 19:01 △up ▽down
蓮華蔵様

こんばんは 酒天童子です。

以前もいきなり横から口出しして、今回もか、と思われるのを覚悟での書き込みです。

蓮華蔵様はこのホームページに登場されたときに“こちらの掲示板は、以前より拝見させて頂いておりました”と書きこんでおられましたから、毎日様、泥凡夫様はじめ愚老様ほかいろいろな方の文章を読まれたのではないかと思います。

蓮華蔵様の博学と高い見識にはおそらくみな一目置くと思います。

それでもなお、今一度過去ログをじっくり読み返されたらいかがでしょうか?

ボン様のおっしる“どうか一流の安心を獲得されますよう願うばかりです”は私だけでなく、上記の同行方々皆皆同じ思いであると確信しております、が、こればかりは宿善のあるなしにゆだねられております。
また掟ゆえ、詳しい説明が致しかねます。

しかしながら、たとえば愚老様の投稿だけでも“一念帰命”や“六字の謂れ”または“南無阿弥陀仏のすがた”などはある程度は推して知ることができるのではないでしょうか?

蓮華蔵様はなにかの縁でこのホームページに書き込みされました。

阿弥陀様の深いご配慮かもしれません。

金剛心様は愚老様によりますと“次第相承の善知識”でありましょう。

ネット上ではありますが、やり取りされたご縁です。

蓮華蔵様には“宿善”があるように思えてなりません。

蓮華蔵様が獲信されましたら、その素晴らしい見識で、瞬時にしてすべてを領解されること間違いないと思われます。

そうして多くのかたがたに計り知れない影響をもたらすのではないでしょうか?

おかしな書き込みですが、今までのやりとりを拝読させていただいて、書き込まずにおれませんでした。

失礼します。

南无阿彌陀佛

●re.43
ちょっと失礼します。
非公開の非公開
[ 1056 ] Re41:住正定聚について教えてください 2009/03/12 (Thu) 20:55 △up ▽down
蓮華蔵様へ
私の指摘を無視して書き込まれていましたが、『光明に触れる都度』をどういうお考えで無視をしていたのかお聞かせ願いたいと思います。
若し、信心をいただいている者ならば、ハッと気付き、訂正されたと考えます。
人間に生まれて来たと云う事は、仏法を聞き入れる器だと教えられています。
信心を獲得すると云う事は、自分も気が付かない瞬時に弥陀の誓願によって救い取られます。
しかし、人間と言う者は、疑い深い生き物です。その為の確証も用意してくれています。
御聖典には、信心の獲り方が事細かに書かれています。
信心をいただいた人なら、ここか・・・あの事か・・・と分かります。

蓮華蔵様は、善知識の下で『一念帰命』をしたのですか?
念仏の行とは何をする事ですか?
南無阿弥陀仏のすがたとは、どんな姿なのですか?
本当に他力の行を熟知していらっしゃったら上記の質問に答えて戴けると信じています。
この世は、四苦八苦で苦しみの世界だとお釈迦様は言っています。
この世で悟りを開いたのは、お釈迦様一人です。

私の縁のある善知識様も、この世は修行だといつも言っています。
私には、何をする事が修行なのか分からずに居ます。
金剛心様にお聞きしますが、この人間界でする修行とはどう言った事をするのでしょうか?どうぞ易しい言葉でお教えください。

ボン様
私も、弥陀を疑う心や疑問が生じたりする度に直接弥陀に色々教えられます。
この信心が本物であったと再確認もしますが、より、弥陀のお力の殊勝な事を感じずには居られません。

蓮華蔵様も、心を素直にして、もう一度、愚鈍の身になして、知者の振舞いをせず、弥陀をたのむと云う事はどんな事なのかお考え頂けたらと思います。

私を生意気な不届き者と思われても、もう一度、赤子でも聞けるこの他力の行が何であるか探して欲しいと思います。

●re.44
蓮華蔵
非公開の非公開
[ 1057 ] Re42:住正定聚について教えてください 2009/03/12 (Thu) 21:13 △up ▽down
ボンさんへ
(※[ 1054 ]拝見する前に書き込みしてしましました。
  参考になると思ったものですから、今、お読み頂かなくても結構ですので。)

親鸞聖人が「心」をどのように捉えているか、その言葉を紹介します。
参考にしていただけますと幸いです。

<愚禿抄巻頭>
賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。
賢者の信は、 内は賢にして 外は愚なり。
愚禿が心は、 内は愚にして 外は賢なり。

親鸞聖人ご自身は、「信」とは言わずして、現実の『心』を打ち出して
「内愚外賢」と告白されています。謙虚な信が宿る、と教えられます。

・内側:内愚・・・愚とは、「凡心」
・外側:外賢・・・賢とは、「仏心」

「内愚外賢」で『仏凡一体』を言い表しています。
私たちの心の中心が「凡心」、その外側を取り囲むようにして「仏心」が守ってくれています。
内外一体で、私たちの信心(一心)です。



<愚禿抄下巻・はじめ>

一つには至誠心。
至とは真なり、誠とは実なり、一切衆生、身口意業に修するところの解行、
『かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐん』ことを明かさんと欲ふ。
  ↓
外賢の「仏心」を用いなさい、ということ。
私たちに真実心は有りませんので、他力廻向の真実心を用いよ、ということ。

@不善の三業はかならず真実心のなかに捨てたまひしを須ゐよ。
Aまたもし善の三業を起さばかならず真実心のなかになしたまひしを須ゐて・・・
  ↓
@外「仏心」からは、ことごとく「不善の三業」を捨てて下されています。
 内「凡心」から生まれる「不善の三業」を、私たちには自力で捨てることができないので、
 外「仏心」をたのんで「不善の三業」を捨てさせてもらいなさい、ということ。
A内「凡心」からからは「善の三業」が起きないので、外「仏心」の善根功徳を
 そのまま頂きなさい、ということ。



私たちの心は、内愚「凡心」ばかりを生み出します。
他力廻向の「仏心」に照らされて「凡心」(自心の愚かさ)が知らされます。これが阿弥陀仏の光明です。
このはたらきで、煩悩即菩提、転悪成徳が心の中に起こってきます。

<照らす側「仏心」・・・まことの心>
ここをもつて『大経』(上)にのたまはく、
「欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味の法に着せず。
 忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無碍なり。
 虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語にして意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦きことなし。
 もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利しき。三宝を恭敬し、師長に奉事しき。
 大荘厳をもつて衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしむとのたまへり」と。

上記は「信」巻・至心釈に引用されている部分です。
この「仏心」と、もともとの私たちの心「凡心」が一体となるんだ、と親鸞聖人は教えられます。
他力廻向の信を頂くと、常にこの「仏心」に照らされます。



<愚禿抄下巻・さいご>
 内外対
      内は外道、外は仏教    内は聖道、外は浄土
      内は疑情、外は信心    内は悪性、外は善性
      内は邪、外は正      内は虚、外は実
      内は非、外は是      内は偽、外は真
      内は雑、外は専      内は愚、外は賢
      内は仮、外は真      内は退、外は進
      内は疎、外は親      内は遠、外は近
      内は迂、外は直      内は違、外は随
      内は逆、外は順      内は軽、外は重
      内は浅、外は深      内は苦、外は楽
      内は毒、外は薬
      内は怯弱、外は強剛    内は懈怠、外は勇猛
      内は間断、外は無間    内は自力、外は他力

   ※内が「凡心」、外が「仏心」です。


「内愚外賢」が信心の姿、と説かれています。
私たちの内側、こころ以外ではなく、こころの姿そのものが信心、と教えられています。

●re.45
ちょっと失礼します。
非公開の非公開
[ 1058 ] Re43:住正定聚について教えてください 2009/03/12 (Thu) 21:21 △up ▽down
機法一体の説明をお願いします。
信心をいただいたなら、凡心の三業と弥陀の三心と一緒になると聞いています。
機は、いただく人間で、法は弥陀のお心だと理解していますが・・・
この体は、阿弥陀仏が染み込んでいると感じていますが・・・

●re.46
ちょっと失礼します。
非公開の非公開
[ 1059 ] Re44:住正定聚について教えてください 2009/03/12 (Thu) 21:27 △up ▽down
生まれて間もない赤ん坊は、蓮華蔵様の内容だと、信が獲れない様に思うのですが、蓮華蔵様は、赤ん坊は理論上ではなく、現実に救う事が出来ると感じていますか?
●re.47
金剛心
北陸の男性
[ 1060 ] Re45:住正定聚について教えてください 2009/03/13 (Fri) 22:33 △up ▽down
ボン様へ
蓮華藏様の信心のない事にヤット気付かれたようですネ[ 1047 ]にボン様は

「それ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念あり、「一念」とはこれ信楽開發の

『時尅之極促』を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」と信巻末の宗祖の私釈を

引用して書かれています。その下に即と「時尅之極促」についてボン様の説明も

書かれています。

下に書かれている解釈の説明はそれで良いのです。これだけの説明が出来ることは

一歩も二歩も釈文に対して理解出来たという事になります。その上にもう一歩前へ

進んで頂きたいと思います。それはこんな短い釈文の中にも親鸞聖人の奥深い意味が

隠れているのです。その一つは顕と彰という字の使い分け方に重要さが秘められて

いるのです。宗祖の釈文全体が因と果とに分けて釈文が構成されているのです。

その一つが前記の釈文なのです。例を下記で説明すれば(正定聚全体が現生です)

正定聚の中にも入正定聚と住正定聚と等覚位があるのです。その入正定聚の中にも

因と果に分けられて書かれており、住正定聚の中にも因と果に分けられて釈文が

書かれているのです。字も違えば字の書き方によって意味も違って来るのです。

例えば獲と得(因と果)即と則と速、顕と彰(特に證巻、真仏土巻、文類聚鈔等その他)

入正定聚の原点が十八願の因となり十八願成就が十一願の因となり十一願の果が

二十二願の因となり二十二願の果が等覚となるのです。このような意味を以って

釈文全体が書かれている事に全く念仏行者の方々は気付こうとしないのです。

上記の事を忘れずにしっかりと記憶に留めて何回も何回も釈文を熟読含味すれば

念仏行者であれば必ず理解することが出来るのです。これが五念門の道理です。

未安心者は他力の原点を知らないからいくら釈文を読んでも理解出来ないのです。

奥の深い深い意味で書かれた釈文は再度又時間をおいて読んで会通して理解して

行く事が念仏行者の使命でもあり、そしてそれが理解する事が出来た状態を

住正定聚というのです。上記のように因果因果因果と繰り返し廻り廻って華が咲く
のです。

住正定聚のに於ける最大の使命は仏恩報謝の念仏はもちろんの事ですがその事

よりも迷える衆生をいかにして救う手助けをするか、それが最も重要な事なのです。

たえず大慈大悲心を持って衆生教化に努めねばならぬ、それが阿弥陀仏への最強の

恩返しともなり、極楽往生の要因ともなるのです。・・・合掌

追記
蓮華藏様の書かれた自分に取って良い部分だけを取り入れて一段と奥への理解度を

深めて頂きたいと願っております。

娑婆の修行と仏道の修行と全く異なりそれを理解するには先ず還相廻向が理解出来ないと

理解出来ないのですが、敢えて娑婆の修行を挙げれば、念仏行者に獲信以後「観経」に

書かれている三福十善の修行をいうのです。   南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

●re.48
金剛心
北陸の男性
[ 1061 ] Re46:住正定聚について教えてください 2009/03/14 (Sat) 00:25 △up ▽down
 ちょっと失礼します様、ボン様、酒天童子様、その他の念仏行者の皆様方へ

前記ボン様にも少し説明したように人間の修行と他力仏道の修行は全く別問題である。

人間界の修行に二種あるのです。一つは自分の持つ悪業を一つ一つ山にこもって

煩悩を断じて行く釈迦仏のように難行苦行の修行を指すのです。
(煩悩を断じきったのが仏の悟り界即ち理界の事)

二つには人間生きるための修行それは地位、名誉、財産を求めて一生懸命頑張って

それに達するまで持続心を持って人間生きていくための修行のことをいうのです。

この二つの修行は同じ人間に生まれていながら出来ないのが現実である。

仮に生きるための修行を満足に達したとしても未来には全く通用しないのです。

煩悩を断じて行く修行も人間五十年や百年位の修行ではとても断じることは出来ない

のです。釈迦仏は世々生々に渡って長い長い年月をかけてやっと最後の人間界にて

仏の悟りに到達されたのです。

又仏道精進の修行とは五念門の事をいうのです。礼拝門から讚嘆、作願、鑑察、廻向と

進んで行く修行をいうのです。その修行の原点が他力の行の中に一切の功徳善根等が

含まれているのです。だから六要鈔に前記した「行中摂信」とあるのです。

他力の中へ入った事を(真宗では)信心というのです。

他力原点の最初を入正定聚の貌というのです。貌とは赤子を意味する言葉なのです。

信心悦豫の貌なりと信巻に書かれているのす、赤子から大人になる修行を仏道の

修行というのです。その内容は多く書かれている経釈文を一つ一つ異解、異執、異見、

別行、悪見、邪心の心に惑わされず他力釈の経と自力釈の経文とはっきりと区別

できるような自分になって行く事が仏道精進に於ける修行なのです。

はっきりと経論釈文が理解出来る位を還相廻向の菩薩とも住正定聚の位ともいうのです。
(仏道修行の中に観経の三福十善も入るのです)

蓮華藏様は[ 1052 ]に六識、七識、八識の事も書いていられるが八識の上に第九識

アンモラ識(無垢識)があるのです。その九識と六、七、八識を阿弥陀仏の願力

を以って分離させて頂く事を仏法に遇うというのです。
(蓮華藏様は阿弥陀仏の住立空中はいつあるのかそれも理解されていない)

蓮華藏様は又[ 1052 ]に「親鸞聖人の教えは末那識を死滅させるための教えです」とか

又「迷いの命を突き破って如来の命が生れてくるのです」と書かれていますが

どうすれば末那識を死滅させられるのか又どうすれば迷いの命を突き破れるのか

その問題について全くふれられていない。それはなぜか前記したように他力の

原点である阿弥陀仏の願力の意味を全く知っていないから説明のしようがないのです。

だれが経釈文を見ても未安心者には絶対理解出来ないように書かれているのです。

信と心とも違うのです。最要鈔も一度読んで見られたら如何でしょうか、

捨命についても深い意味があるのです。抑止文とか奥義等があるためこれ以上の事は

書けないのです。念仏行者同志会って語り合えば必ず理解する事が出来るのです。

追記
他力の中に入った人の為に教行信證や浄土文類聚鈔が書かれているのです。

信心獲得するには自分の持つ知恵をゼロにしなければ絶対聞く事は出来ません。
聴聞について一宗意得等の釈文を参考(参照)されたし。
                           合掌。



●re.49
ちょっと失礼します。
非公開の非公開
[ 1062 ] Re47:住正定聚について教えてください 2009/03/14 (Sat) 09:03 △up ▽down
金剛心様
ご説明ありがとう御座います。
五念門と、五重の義は全く別のものなのでしょうか?
信心をいただく為には、五重の義が揃わなければならないと理解しています。
金剛心様の言う、五念門は、信心をいただいてから、順次に進んで行くと解釈できます。
一念帰命は、五念門だと感じていますが、ここではあまり詳しく書けないので、これ以上詳しく書けませんが・・・
他力の修行は、先ず、お手引きだと思っています。
私は、本当に愚鈍な身でありますが、御文を読む時など、間違った解釈をしないようにと心に思いながら読んでいます。
何の力も無い私ですが、いざと言う時は、いつも阿弥陀様が教えてくれているように思います。
心強く思っています。
お手引きは、私に出来る一番の御恩報謝だと思っています。
こんな私ですが、金剛心様のお話をいっぱいいっぱいお聞かせ頂きたいと切に願っています。

教行信証は、親鸞と同じ心境に達した者しか理解できないと世間で言われていますね。

私のご縁の善知識様は、信心を打ち捨ててしまうとお浄土には往けず、地獄には行かなくても辺地に行く事になると言っていました。
掟を破ると、地獄に堕ちるのでしょうか?
信心をいただいた者が何をしたら地獄に堕ちてしまうのでしょうか?
私は、お浄土に往きたいです。辺地には行きたくありません。
すぐに気持ちが折れてしまう自分ですが、生きている間は、一人でもご縁のある人をお手引きできたらと思って生きています。

こんな私を救って下さった有り難さを思うと、実際は何も出来なくても、衆生を救うお手伝いがしたいです。

●re.50
菩提心
非公開の非公開
[ 1063 ] Re47:住正定聚について教えてください 2009/03/14 (Sat) 11:15 △up ▽down
金剛心様

御書込み有難うございます。

>信心悦豫の貌なりと信巻に書かれているのす、赤子から大人になる修行を仏道の修行というのです。
>その内容は多く書かれている経釈文を一つ一つ異解、異執、異見、別行、悪見、邪心の心に惑わされず他力釈の経と自力釈の経文とはっきりと区別できるような自分になって行く事が仏道精進に於ける修行なのです。


その他の念仏行者の中に私も入れてもらえますか?

済みませんが、よく上の御言葉の意味が理解できないのです。

どうして、救われた後も修行が必要なのですか?

蓮華蔵様と金剛心様が違うことは、私もよく理解できるのです。

しかし、金剛心様は私のようなものを赤子と理解しておられ、その私は赤子だから一歩一歩理解して仏道修行を励まなければいけないということですよね?

全く、無常迅速なこの世界と逆境していると思うのですが、こんな私の理解では、仏道修行の初歩の初歩っていうことでしょうか?


帖外御文

「浄土の法門念仏の一行をこころうるに、五重あり。この五重をはこばずして法門をのぶれば、衆生をあやまつなり。

その五重といふは、一には宿善なり、無宿善のものは浄土教にあはず。

二には遇善知識なり、こころは宿善のひとはかならず善知識にあふて法をきく。

三には光明に摂取せらる。善知識にあふて本願のおこりをきくとき、彌陀如来もとより无碍光佛とあらはれたまふゆへに、行者の心想のうちに影現したまふなり。
このとき无始已来輪莫轉妄業の重罪、摂取の心光に照護せられて、轉じて功徳となり、すなはち往生を證得するなり。

四には信心獲得す。さきの光明智相の行者の心身を摂取せらるるゆへに、はからざるに信心を生ず。これさらに行者の信にあらず。

五にはさきの信心より催促せられて口に名号をとなふ。これまた行者の行にあらず。佛の无碍智より信心を生じ、信より名号を生ぜしむ。

この信心と名号とは、佛恩報謝のための佛智よりもよされたてまつりて行ずるなり。

この念仏をもて往生のためとはおもふべからず。そのゆへに、三重の光明にてらされたてまつるとき、佛智は摂して凡心にいり、凡心はさつて佛心に帰す。

佛智難思の光明の皈托したまふとき、往生の大益を證得しぬるうへには、みづからも信じ人を教へても信ぜしむるも、信行ともに佛恩報謝のつとめなり。

龍樹の偈にいはく、恩を知るはこれ大悲のもとなり、恩を知らざるは畜生となづく、とのためへり。

また、外典のことばにも、恩を得て恩を報ぜざるは、いきて横死にあひ死して地獄におつ、といへり。

彌陀如来の三祇百劫の薫修五劫思惟の恩徳、釈迦如来五百塵點劫よりこのかた往来娑婆八千遍の重恩、十方諸佛の舌根を三千大千世界におほひましまして證誠護念しまします御恩、かれといひこれといひ、連劫累劫をへても報じつくしがたき重恩をかうふりて、いま宿善にもよほされて、善知識にあふてこのことはりをきき、知識にあふとき摂取の光益におさめとられまつりて、光明智相より名号をもよほされたてまつりて、釈迦彌陀十方諸佛の恩徳を報謝したてまつる、とこころうべし。

名号をとなへて往生のためとおもむくべからず。

しかれば、往生は如来の摂取にまかせ、名号をば佛恩報謝にそなふべし。

この信行はかつて行者の信にあらず、行者の行にあらず、无碍光佛の大信大行なり。

この信行をうれば、生死即ち涅槃なり、煩悩すなはち菩提なり。

生死即涅槃煩悩即菩提のいわれをこの土にしてわれとさとらんとはげむを、聖道門といふ。権者修行の法門なり。

佛智帰托によりて信行をうれば、かの土にいたりて大涅槃のさとりをひらく、これを他力といふなり。あなかしこ、あなかしこ」



同じく帖外御文より

「・・・その方にみなみな申されさふらふなるは、信心をうるとき、はやほとけになり、さとりをひらきたるよし、うけたまはりおよび候。

言語道断くせ事にて候。それはあさましくこそさふらへ。

聖人御一流には定聚滅度とたてましまして、雑行をすてて、一心に彌陀に帰したてまつるとき、摂取不捨の利益にあずかり、正定聚のくらいにさだめてまふ。

これを平生業成となづく。

さて、今生の縁つきていのちおはらんとき、さとりをひらくべきものなり。

これをすなはち大涅槃をさとるとも、滅度にいたるとも申すなり。

かくこころうる人を信心決定の人とは申べし。

と我々は聴聞申してさふらふ。

されば和讃にいはく、如来すなはち涅槃なり、涅槃を佛性となづけたり、凡地にしてはさとられず、安養にいたりて證すべし、とうけたまはり候。

よくよくこのむねを御心得あるべく候。あなかしこ、あなかしこ」



ずっと、思っていたんですが、金剛心様の勧める御修行は、雑行ではないのですか?

蓮如上人が上記のように、分かりやすく説かれているのに、なぜ難しい聖典を持ち出さなくてもいいのではないのかなと思うのです。

「とりわき六要鈔は・・・無宿善には聊爾にあたふべからずときこえたり」 蓮如上人

例えば、「歎異抄」もそのような扱いをされた訳でしょう?


難しい聖典を読めない人や理解出来ない人は、阿弥陀様の救いの対象ではないのでしょうか?


>書けないのです。念仏行者同志会って語り合えば必ず理解する事が出来るのです。

金剛心様は上記のように仰いますが、

でもボン様は御同行だと分かりましたよね。

なぜ分かったのですか。

それは金剛心様が私の意見に同感と仰って下さった、それに尽きるからではないのでしょうか。

親鸞聖人も晩年には、田舎の人々の文字のこころも知らず云々と書かれました。

その親鸞聖人が蓮如上人として再誕されたという言い伝えも有難くなってきます。

利口でもない、諸佛にさえ逃げられるような私のようなものに、まだこれ以上の修行を課すと言われるのでしょうか。


南无阿彌陀佛

●re.51
ボン
関東の男性
[ 1064 ] Re48:住正定聚について教えてください 2009/03/14 (Sat) 16:05 △up ▽down
金剛心様

ご教授いただき、ありがとうございます。

たいへん詳しくご教授いただき、とてもありがたいのですが、
どうしても「修行」という言葉にひっかかってしまうのです。

といいますのは、私は、すでに音信不通になってしまった有縁の善智識様から、
「喜べ、喜べ」としか言われたことがないんです。しかも、「仏法は聞くもの。
一人で経文を読めば必ず間違える。」とも言われておりました。

「なるほど、この御一流は徹頭徹尾“他力”なのだな」と納得しておりました。
私がここの掲示板で偉そうに経文を引用して述べていることは、
すべて、以前に善智識様や同業様から聞いたことばかりです。
自分で経文を紐解いて発見したわけではないのです。

ですから、「他力仏道の修行」「何回も何回も釈文を熟読含味すれば念仏行者で
あれば必ず理解することが出来るのです」「奥の深い深い意味で書かれた釈文は
再度又時間をおいて読んで会通して理解して行く事が念仏行者の使命」という
ことを言われますと、正直に申しまして、なにか違和感を感じてしまいます。

もちろん、有縁の善智識様からも聖典を買うように進められましたし、
「経文を読まなくてもいい」ということではないと思います。
「自分で読むのもいいけれど、疑問は詳らかに語って、質問しなさい」
ということだと思います。

また、有縁の善智識様から、こうも言われました。
「お念仏は救っていただいたことに対する御恩報謝ですが、最大の御恩報謝は、
未安心のかたのお手引きをすることです。それが最も喜んでいる姿です。」と。
(ちなみに、私はいまだ一人もお手引きなどしたことがありません)

金剛心様からも、それとまったく同様のことをおっしゃっていただきました。

>住正定聚のに於ける最大の使命は仏恩報謝の念仏はもちろんの事ですがその事
>よりも迷える衆生をいかにして救う手助けをするか、それが最も重要な事なのです。

「ちょっと失礼します。」様も、同様のことをおっしゃっています。

>お手引きは、私に出来る一番の御恩報謝だと思っています。

これも“金太郎飴”状態で、仏のはからいを感じてありがたくなりますし、
結局、目的地はみな同じなのかな、という気もいたします。

金剛心様から「他力仏道の修行」の内容につきまして、まだ詳しくご教授いただい
ていないのですが、「修行」というのは言葉のあやであって、実は「修行」という
ことも「喜ぶ」ということも、実態としては同じものなのではないか、
などとも考えたりしているのです。

といいますのは、単に「喜べ、喜べ」といわれましても、これも案外と難しいと
いう気がするからです。聞いた後でもいろいろ疑惑はでてくるし、善智識様が
「○○さんは本当に喜んでいる」なとど心の底から嬉しそうに話しているのを
見ると、「私、疑惑いっぱいありますし、喜んでいるかどうかもわかりません」
などとはとても言えない雰囲気です。意を決して心底を申し述べても、「こうして
法話に顔を出しているのが喜んでいる証拠」などと言われてしまいますし・・・。

もうひとつ、蓮華蔵様との問答のなかで、気がついたことがあります。
蓮華蔵様は、以下のようにおっしゃいました。

「信心の念仏行者には、仏力(本願力)によって、現在ただ今から浄土へどんどん
引っ張られます。」
「念仏の信心が深まると、それに応じて証(さとり)が私たちの心に届きます。
「証」巻の内容が、だんだんと分かる(心に現れる)ようになります。」
「他力廻向の信心が至り届いてから後、「信力増上」して、私たちの自覚の面からも、
だんだんと金剛心へと変わっていきます。」

これは一見、修行について述べているようですが、仏の側から一念帰命したものに
約束していただいていることではないか、と思いました。つまり、他力の行者が
意図するしないにかかわらず、仏のはからいにより、他力の行者は信力増上せざるを
えないのですよ、と。

そうすると、これは凡夫本人は修行とは思っていないかもしれないが、仏の側から
みると「ああ、今まさに修行しているなあ」と見えるのではないか。
(勝手な解釈です)

そう考えると、「凡夫のはからいをやめよう」というのも、まさに「凡夫のはからい」
そのもので、凡夫とはそもそもはからいだらけで生活しているのだ、と考えるのが
妥当なような気がしてきます。凡夫のはからいとは別の次元で仏のはからいが
着実に進行しているのではないのか・・・。

何の例えなのか覚えてないのですが、以前、有縁の善智識様から聞いた
ひつつの例え話が鮮明に記憶に残っています。曰く、

「鳥が甘く実った木の実を食べて、どこかに飛んで行き、糞をすると、甘い実の中に
隠れていた種が地面に落ち、その種から芽がでて花が咲く」と。

甘い実を食らって飛び回っているのが、まさしく我々凡夫で、そうやって遊びまわった
結果、植物の花を咲かせるお手伝いをすることになった、ということではないのか・・・。

おそらく、仏法もこのように広がっていくという例えだったような気がするのですが、
よく覚えていません。

そうすると、「歓喜」=「修行」=「遊び」となるような気がするのですが、
こじつけでしょうか。

このようなわけで金剛心様のおっしゃる「他力仏道の修行」というものについて
もっと詳しく教えていただければ、うれしく思います。

とりとめなく、長文にて失礼いたします。

南无阿彌陀佛

●re.52
ちょっと失礼します。
非公開の非公開
[ 1065 ] Re49:住正定聚について教えてください 2009/03/14 (Sat) 16:08 △up ▽down
信心をいただいたと言う皆様へ

信心をいただいたと言う証拠をお持ちですか?
私は、この目ではっきりと見て触れる証拠を持っています。


初めまして、ボン様

私の有縁の善知識様は、この世は修行だと言う事を言っていました。
私は、生きていると言うか、生かされている事自体が修行だと感じています。
そして、一番の修行が、お手引きではないかと感じています。
何も知らない人間にこの話をする事は、とても根気が要る事ですし、相手にどうにか分かってもらおうと、あの手この手と手を変え品を変えそれはそれは苦労します。
しかし、案ずるより生むが易しで、一人お手引きする度に、言い表せない歓びを感じ、そして、私を救う為に私に直接関わって、手を引いて下さった方への並々ならぬお心を思い知らされます。
勿論、自分の地獄行きを賭けて謂れを教えて下さる善知識様の並々ならぬ責任を背負ったお話は、言うまでもありません。
阿弥陀様への感謝は日々ありますが、より一層、この私の為に他力の行を与えて下さった阿弥陀仏への感謝で、また新たに精進して行こうと思います。
極楽へ往ったからと、修行が無い訳ではありません。
私は、人間ではありません。人です。

仏縁は、本当に縁以外に言いようが無いと思います。
私は、たまたま人をお手引きする縁に巡り会えましたが、自分が直接関わらなくても,私を縁に他の人に手を引かれて信心がいただけるのであれば、それはそれで良いと考えています。


金剛心様へ

底辺の私にも分かり易くお話下さり有り難うございます。
飾らない文面、親しんで読ませて頂いてます。
金剛心様のお知恵を色々お聞かせ頂きたいと思っています。
信心をいただいて何年と言ったって、阿弥陀仏の世界から見れば、所詮、生まれたてだと思っています。
死ぬまで赤子なんだと思っています。
だからと言ってこの他力の行にあぐらをかくつもりはありません。
阿弥陀仏へつたないながらも親孝行をしたいと考えています。
有縁の善知識様が言っていましたが、坊主ほど難しい者は居ないと。
坊主一人聞かせると、一般人を千人聞かせるのに匹敵すると言ってました。


蓮華蔵様へ

人間は、指摘を受けると反発心が出ます。
折角のご縁です。
この掲示板を無駄に使うのではなく、蓮華蔵様が仰った、自分の内側をもう一度、見つめ直してみてはいかがでしょうか?
誰が正しいと言うのは無いと思います。
よくよく考えて、何故にこの掲示板に辿り着いたのか、もう一度考えて欲しいです。
阿弥陀仏以外正しい者はいません。
皆が皆、ここで話し合ってこそ、自分の間違いに気がつくのだと思います。

●re.53
酒天童子
関東の男性
[ 1067 ] Re50:住正定聚について教えてください 2009/03/15 (Sun) 00:04 △up ▽down
金剛心様

今晩は、酒天童子です。

しばらくぶりです。書き込みない時に批判的なことを書きました。

この場所をお借りしてお詫びいたします。

そうして、ふたたびこのようにやり取りできることを幸せに思います。

ちょっと、いままでの流れとはずれると思いますが、これまで博識の方にぜひとも聞きたいと思っていたことがあります。

ほかの方に聞いても多分、適当な答えしか返ってこないように思うので、質問しませんでした、が金剛心様ならもしかして、、、と思った訳です。

よろしくお願いします。

親鸞聖人の正信偈にこういうくだりがあります。

“善導独明佛正意”

単純に解釈すると“善導大師は唯独り、佛の正しい意(意志?)を明かした(明らかにした)”というふうに読めます。

この解釈が正しいかどうか?まずお聞きします。

そうして、そのように訳して良いとすると、それはつまり、善導大師しかこれを明かしていない、ということになります。

私は善導大師の“観経蔬”を読めばこの意味が分るのかと思って何度か読み返しましたが結局、よくわかりませんでした。

もちろん、親鸞聖人も正信偈にこのように書かれたわけですから、その“佛正意”はわかっていたわけです。

この“佛正意”とはなんでしょうか?

また、どうして他の高僧方々はこれを明かされなかったのでしょうか?

以前から、ずっと疑問になっていました。

金剛心さまは顕と彰など引き合いに出されますし、次第相承の善知識でありましょうから、教えられることと、教えられないこともあることと存じます。
その場合、“教えられないけれどもわかります”、くらいの返答でもよいのですが、、、。

いろいろな方から質問があり、面倒かもしれませんが、とにかく何らかのご返事をお願いします。

南无阿彌陀佛


●re.54
金剛心
北陸の男性
[ 1068 ] Re51:住正定聚について教えてください 2009/03/15 (Sun) 23:42 △up ▽down
ちょっと失礼します様、菩提心様にお答え致します

「五念門と五重の義は全く別のものなのでしょうか?」の問いですが

全く別途考えて良いかとおもいます。五念門には因と果の釈文があるのですが

私の記した五念門は因の五念門を記したのです。因の五念門は丹生正定聚と

なった以後をあらわす事をいうのです。即ち凡夫が往生した以後の仏道を精進

して住正定聚の位に就くまでの道のりを因の五念門というのです。六要鈔、浄土論等。

五重の義とは、凡夫が報土に往生するまで(入正定聚に入るまで)を五つの文に

分けて書かれているのです。細かく云えば凡夫が往生するまでの釈文と凡夫が往生

した以後の釈文の違いです。五重の義の説明は昨年菩提心様に上記の説明はしてある

のですが覚えて頂けていないのが残念におもいます。何回も何回も同じ説明を

しなければわかって頂けない事が残念なのです。又掟を破ると地獄に堕ちるのでしょうか

とか信心をいただいた者が何をしたら地獄に堕ちるのでしょうか?とありますが

掟を破るという事にも二種あるのです。

物事にはどんな事でも二つの釈があるのです、先ずこれをしっかりと頭に入れておいて

欲しいのです。釈文にも必ず二通りの釈が書かれているのです。例を挙げれば

仏体側の言い分と凡夫側の言い分と又信心を獲た入正定聚の言い分と信を得た

住正定聚側から云われた釈文と又信心と信一字の釈文との二つの釈文が字の書き方に

よって違う事を前回でも説明したのですが理解されていないのです。

上記の掟を破るにも身で掟を破る事と心で掟を破る事の二種あるのです。

心で掟を破るとは@には経釈文から全くはずれた異解・異執・異見・悪見・邪心等の

心を持つ事を群賊ともいう(愚禿鈔下)のです。これはあくまで心の邪心の悪業の

ことですが口称念仏で消されて行くのです。身で行う罪の掟は永遠に残るのですが
それにも細かい説明がいるのですがここでは省略いたします。

身で犯す罪は一念帰命後に犯す事の罪の事ですが、例を挙げれば仏を利用して大金を

稼ぐとか、仏像を盗み出すとか父母を殺すとか、一念帰命を聞きながら因果説を否定

して悪事を身で犯す等を掟を破るというのです。

上記の掟を身を以って犯す人は絶対救われないのです。

「私はお淨土に往きたいです、辺地には行きたくありません」との書き込みですが、

上記の文は菩提心様にも云いたいのですが一念帰命を獲たその時から淨土なのです。

淨土の事を報土とも云うのですが(六要鈔)阿弥陀仏は一念帰命すれば即報土

(淨土)に生まれさせた、と云っておられるのですが凡夫側の自性の根性を持ち出し

この娑婆界がとても報土とは思えない又は一念帰命すれば東宮の位の如しとか菩薩の

位とか書かれているにもかかわらず経釈文の書かれている事を信用せず凡夫自性の

根性を持ち出してその釈文に書かれている事を否定したりする意を報土中の假土と

云うのです。報土の中の假土の人は絶対地獄へは堕ちないのですが未来辺地懈慢界へ

行ってしまうのです。現世からの疑いを持つ字を假(仮)と書き未来の字を化(土)と

書き示されているのです。意という字も凡夫の意と書き信成就位を心と書くのです。

字の書き方にも注意が必要である事を前回にも記しました。

菩提心様へ

結論から申上げます。10〜12程に渡って長々といろんな釈文ばかり書き込みされて

いますが、どの釈文が帰命を聞かせる事に必要な釈文かどの釈文が入正定聚に対して

書かれた釈文か、又住正定聚を意味する信成就に対する釈文か何が自力側の釈文か

他力側の釈文か短い釈文の中に書いてある字はどんな字を使って書かれているのか、

菩提心様は自分で理解して書き込みされているのですか、区別判断も出来ずに只長々と

釈文ばかりメールに載せていても我々には何の意味もないのです。

例えば「今生の縁つきていのちおわらんときさとりをひらくべきものなり、これすなわち

大涅槃をさとるとも滅度にいたるとも申すなり。かくこころうる人を信心決定の人とは

申すべし」と書き込みされていますが上記は何を意味する釈文か理解出来ずに載せても

意味がないのです。

「縁つきていのちおわらんとき」とはいつのいのちおわらんときなのか

又「さとりをひらくべきものなり」「さとるとも」「いたるとも」「こころうる人を」とか

ひらかなで書かれている文を漢字で書けばどんな字を使うのか、さとりはどんな漢字を

使えば上と下の文の意味が一致するのか短い文の中にも漢字を使わず仮名で書かれている

宗祖や蓮師の釈文の奥深い理由があって書かれている事も知らず意味も字もわからず

釈文ばかり載せていても何の意味もないのです。

上記の書かれ方自体にも奥義がかくされているのです。

昨年も記したように一字一句加減して読むから混同文ばかり書き込みされているのです。

だから一度お会いして説明を聞かなければ浅学の人には絶対理解出来ない事を以前から

お伝えしてあるのにそれを拒否しておられるのです。

自分が相手に何を言いたいのかそれを区別した上でその言いたい事の釈文を区別して

書く事が道理です。
さとりに対する漢字も4〜5通りあるのです。そんな事を自分で調べる事だけでも勉強にも

なるし理解度も深まり安心感も得られるしどんな経論釈文を読んでも理解出来るようにも

なるし、理解出来れば大慶喜心も出て来て衆生済度の手助けも出来るし阿弥陀仏に

御恩報謝の念仏も今以上に出来るのです。
私達は菩提心様は何を言わんとしてこんな釈文を載せておられるのか全て了解して菩提心様に

これを書いているのです。キツイ文章ですがあしからず。

酒天童子様へ

貴殿へは明晩書き込みさせていただきます。遅れて申し訳ございません。

      合掌 南無阿弥陀仏、南無阿彌陀佛。

●re.55
金剛心
北陸の男性
[ 1069 ] Re52:住正定聚について教えてください 2009/03/16 (Mon) 17:34 △up ▽down
  酒天童子様へ

お久しぶりです、近頃大分問答が深くなって来ましたネ

善導獨明仏正意の前に至安養界證妙果とあります。結論から申せば

この安養界に至って證れ、という事を明らかにされたのです。

酒天童子様の解釈は正しいとおもいます。理由下記に記す。

善導大師の時代に聖道門の自力修行に専念されていた三人の聖者が

おられたのです。善導と合せて四人です。善導一人が弥陀法を体験

しておられた方です。その自力修行の方々との問答が書かれている

のです。聖道門の目的は即身成仏を今生に悟る事を目的とするのです。

淨土門は今生にて即得往生を目的とするのです。

その事については理解して頂けるとおもいますが、他力法の深い

意味は先ず凡夫を迷界から救い出すことが第一の目的である。

その救い方に二種有るのです。一つは「五道生死を閉ずる」救い方

二つには「六道を閉じる」救い方の二つです。そこで問題になる

のが「安養に至りて證るべし」の釈文が必要になって来るのです。

一つ目の五道生死を閉ずる釈は尊号真像銘文に書かれています。
(願力に帰命すれば五道生死閉)

皆様方の考え方は願力に帰命すれば六道生死を閉じていただき

死んで即極楽へ行かれると思っておられる事が浅い考え方の人に

多いのです。願力に帰命して即六道生死閉になるのであればなぜ

多くの化土釈が釈文等に書かれているのか。五道生死閉の釈文が

あるから安養に至りて證るべし等の釈が必要になって来るのです。

そんな深い意味さえ考えようともしない浅学の行者ばかりです。

安養に至りて證るべしとは今生界に於いて安養の證りに到達せよ

との善導様の深い心根を宗祖は正信偈に書かれたのです。

今生に安養の證を得た人達に極楽往生が約束されているのです。

上記の経は還相廻向が理解されないと釈文の理解も出来ないのです。

喜びにも二種有って一念帰命後の初歓喜地の喜びと、安養に至って

喜ぶ大慶喜の喜びと二つ有るのです。

善導大師は下記の二つの有る事を明かされたのです。安養界の證り

までは書けません。

@假土往生と報土往生(報土往生でなければ極楽には行けない)
A報土に往生させたけれどそれは仏体側の言い分を理解しようと

せず、いつまで経っても凡夫本来の意を捨てきれず、報土の菩薩で

有りながら仏に反感している。だから安養界の證りに至らなければ

極楽に往生出来ないヨ、との深い心が正信偈に書かれているのです。

正信偈にも二つの正信偈がある事を浅学の行者は知っていないのです。
(忘れている?)
一念帰命する迄の正信偈、帰命した後文類聚鈔を対象に書かれた
正信偈の二つあるのです。
上記二つの意味が有る事を明らかにされたのです。

その根本的な事を知って衆生済度に心掛けるのが真宗の基本です。

基本的な事を知らなければ衆生済度に無理が有ると思いますが?・・

[ 1062 ][ 1065 ]にちょっと失礼します様はボン様宛に大変ために

なる良い事を書いておられます、「この世は修行」だとか

「一番の修行はお手引き」だとか「極楽へ往ったから修行が無い

訳ではありません」「私は人間ではありません人です」と書き込み

されています。他力教を大変良く理解して書かれていると思います。

これだけ理解されていれば上出来だと思います。貴方と一度お会い

したいですネ、お会いして話し合う事が出来れば即真宗の窮極まで

了解出来る方であると思っております・・・

追記
上記文の中で「私は人間ではありません人です」それは何故こんな

短い文にも蓮師の説明が書かれているのです。紹介すれば

「人間に尋ねてしれぬ後世の道 とかく他力は人に尋ねよ」と

人間と人について解釈されて記されているのです。

未安心者はいくら人間に聞いても後世の解決は出来ないのです。

後世の解決するためには他力法を体験した念仏行者である人に

聞かなければ後世の解決は出来ない、という事を顕わす文なのです。

この文は念仏行者であれば良く理解出来るように思われますが・・・

尚仏道の修行とは二十二願に書かれている「衆生の為の故に弘誓の

鎧を被て徳本を積累し、普賢の徳を修習せん」とある如く十八願の

因願を背中に担いで衆生を済度に導き、その功徳を自分の功徳と

しながら普賢菩薩の位に到達するように修習せんと書かれている
のです(娑婆界での仁義礼智信を守っていく事も入る)

私は昨年から現在に至るまで一貫してして如来に救われれば菩薩位

であると主張して来ました。今度は菩薩が仏の悟りを得るための

修行をすることが最も私達には大事である。その事を主張したいの
です。
その修行の道が今も始まっていることに浅い方々は理解されて
いない。
一念帰命して身の命が終れば即極楽で仏の悟りを得られると勘違い

している。菩薩が仏位に到達するまで三祇百大劫の長い年月が

かかるのです。皆様方が考えておられるそんな甘いものではない。
(往生近果、成仏遠果)
上記のような事を書けば又浅い念仏行者の方々はお前の言っている

事は自力の事を言っている私達は阿弥陀仏に救われているからそんな

修行など必要ないと主張されるのです。それは大間違いである。

機会があれば上記の事についても少し書きたいと思っておりますが。

前回も記しましたが我々の本願は往生の本願であり、成仏の本願で

ある、その基本的な事も頭において考える必要有り。   合掌

                南無阿彌陀佛  南無阿弥陀仏

●re.56
ちょっと失礼します。
非公開の非公開
[ 1070 ] Re53:住正定聚について教えてください 2009/03/16 (Mon) 21:56 △up ▽down
金剛心様

沢山のお話有り難う御座います。ご苦労をおかけして申し訳ありません。

金剛心様が、私の書き込みを一読して下さると云う前提で、ボンさまへと言うメッセージに、わかる人が見ればわかるメッセージを書きました。
金剛心様には、分かってもらえるモノだと思っていました。


私は、理屈で他力を知っている訳ではありません。
本当に、経文ひとつ理解できないで居ます。
折角阿弥陀様から悪道と切り離して頂いた、有り難さを思うと、何もせずにはいられません。
菩薩と同じだと言われ、・・・という事は、私は菩薩と同じなんだ。
さて、菩薩は何をする人ぞ?ご修行ではないか。
・・・という事は、いただいたからとノンビリしている身分ではないと感じています。
しかし、菩薩行で浮かぶのは、やはり阿弥陀仏の衆生済度のお手伝い。

こんな何も出来ない私でありますが、唯一できる事は、阿弥陀様への御恩報謝としてのお手引きです。

縁だからと開き直って自分が特別のモノを手にしているような書き込み、浮かれあがって自分の都合の良いように解釈している事に悲しい気持ちがしていました。

縁だからお手引き出来ないなんて事ありません。
弥陀の催促、強縁は、人々の思いを表している様にも感じています。
自分の親兄弟くらいお手引きするべきだと思います。
それすらもせずに能書きたらすのはやめて頂きたいです。
何の努力もせず、こればかりは縁だからと、自分の身内をお手引きもしようとせずに、何時かは聞けるんだし、阿弥陀様がどうにかするでしょっ、て云う考えの人も見受けられます。

色々と優しいお言葉を私におかけ下さり、嬉しく思い、また阿弥陀様が金剛心様を私にお与え下さったんだと思えます。

蚊に刺されれば、条件反射で殺してしまいます。
殺してしまった蚊の思いを思うと、成仏しろよって声を掛け、心の中で南無阿弥陀仏を称えます。

今回、金剛心様へ色々と質問をさせて頂いているのは、自分の信心が、これで良いのか、確認したいと言うのが一番です。
自分勝手に解釈してしまっている部分を正して、私に続く者へ、きちんと繋げて行きたいと考えています。

信心をいただく者が、往相回向で、お手引きをする人が還相回向だと思っていますが、この考えは間違いでしょうか?
また、お浄土から人間界に下りて来てくれている人が、還相回向の人とも聞いています。

私の頭の中は、ぐちゃぐちゃだと思いますが、こんな私を見捨てず、ご鞭撻お願いいたします。

南无阿弥陀仏と書くよりも、南無阿弥陀仏と書いている金剛心様に親しみを感じます。

私は、ただ、念仏行者の歩む道を教えて頂きたいのと、お手引きにあたってのアドバイスをお願いしたいです。
仏法に私と云う心は入れてはいけないと考えて居ます。

念仏の行者にとって、この娑婆世界が報土と言う見解でよろしいのですか?
私は、ただ、阿弥陀仏の光の中に住まわせて頂いていると言う考えしか持って居ませんでした。

ここで、こうしてお話が聞けて不思議な力を感じます。
物分りか悪いので、ご苦労をおかけしてしまいますが、どうぞこれからも、分かり易いお言葉で色々とお教え下さい。
なにとぞよろしくお願いします。
合掌

●re.57
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1071 ] Re54:住正定聚について教えてください 2009/03/16 (Mon) 22:15 △up ▽down
ちょっと失礼します 様

>こんな何も出来ない私でありますが、唯一できる事は、阿弥陀様への御恩報謝としてのお手引きです。

この段落は、自身の行為についてですね。

>縁だからと開き直って自分が特別のモノを手にしているような書き込み、浮かれあがって自分の都合の良いように解釈している事に悲しい気持ちがしていました。

>縁だからお手引き出来ないなんて事ありません。
>弥陀の催促、強縁は、人々の思いを表している様にも感じています。
>自分の親兄弟くらいお手引きするべきだと思います。
>それすらもせずに能書きたらすのはやめて頂きたいです。
>何の努力もせず、こればかりは縁だからと、自分の身内をお手引きもしようとせずに、何時かは聞けるんだし、阿弥陀様がどうにかするでしょっ、て云う考えの人も見受けられます。

ところが、次にこのように展開し、自身に向けての話を、他に向けてしまっていると思います。

それでは、せっかく自身に視線を向けているようでいて、その実、目を逸らしていることにはならないでしょうか。

南无阿彌陀佛

●re.58
酒天童子
関東の男性
[ 1073 ] Re54:住正定聚について教えてください 2009/03/16 (Mon) 22:43 △up ▽down
金剛心様

お返事ありがとうございます。

至安養界證妙果

たしかにあります。

まだまだ、十分に理解できていませんので、これからいままでこのホームページに書き込まれた金剛心様のやりとりを何度もじっくり読み返してみたいと思います。

ただ、思ったのは“入正定衆”“住正定衆”“等覚”などの使い分けや“声問、縁覚”と“菩薩”との明らかな区分け、また“18願”“11願”“22願”の解釈について、いろいろ考えさせられること多しです。

そうしたなかでいままで、賛否両論のいろいろな方の書き込みで共通しているのは“一念帰命”は明らかに“ある大きな区切りである”ということでしょうか?(失礼します様投稿の“人間”から間がとれて“人”になる)。

そうして、そこが“究極的なゴール”なのか“そこからさらに先があるのか”というところにこれまでの議論の焦点があるように受け取りました(“人”がさらに“大人”になる?)。

金剛心様はそこから菩薩道が始まり、等覚に至るまでは往生(どのような往生かはおいといて)しようともその道程は終わらないというようにおっしゃっているように理解しました。

私自身は“一念帰命”して“信心決定”してもそれは今の次元から“ひとつ上のレベル”に行くことであって、その先は永遠に続いていくと感じています。

そういう意味では同じかもしれませんね。

ただ、どの境涯においてそれを歩んでゆくのか?この娑婆なのか?それとも他のどこかなのか?選択肢はあるのか?等々、わかりません。

いずれにしても、これからじっくり過去ログを読ませていただきます。

もちろん、金剛心さまだけではなく毎日様、泥凡夫様の過去ログも一緒に読み返します。

その上で(何日かかるかわかりませんが)必ずご返事いたします。

ご教示ありがとうございます。

とりあえずの書き込みですがよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.59
金剛心
北陸の男性
[ 1074 ] Re55:住正定聚について教えてください 2009/03/17 (Tue) 11:24 △up ▽down
菩提心様へ

菩提心様の書き込み[ 1063 ]

「利口でもない諸仏にさえ逃げられるような私のようなものに、

まだこれ以上の修行を課すと言われるのでしょうか」と貴女は

弥陀の救い方、救われ方の問題に過信があると思います。

釈迦仏、弥勒菩薩は別として、龍樹菩薩は自分自身の力で難行

苦行の修行を幼少の時からなされて現生でやっと初歓喜の位(41地)

のさとりまで到達されているのです。天親、曇鸞大師でさえ自力

修行で38位までしか到達されていないのです。達磨大師様は

9年間も坐禅修行して33位までのさとりにしか到達されていない

のです。それなのに貴女は「私のようなものにまだこれ以上の修行

を課すと言われるのでしょうか」と書かれていますが上記難行の

修行を見てもわかるように貴女は一回きりの簡単な他力行によって

龍樹菩薩同等の位まで(現生で阿弥陀仏の願力によって初歓喜地の

位まで)就けて頂いた事を何と意得ておられるのか。

一休和尚(一念帰命体験者)は達磨大師宛に「9年も坐禅するも無益

なり、まさかのときは弥陀の一声」とダルマ大師の自力修行に対して

歌を残されているのです、

それにつけ貴女はこんな高い位に就けて頂いた事をさほど喜びもせず

まだ上記の貴女の言葉は阿弥陀樣に対して、こんな高い位に就けて

頂いている本当の有難さもわからず、まだ不服であるような文を載せ

ておられるように見受けられます。41地菩薩位の高い位まで就けて

頂いたその後は18願の因を背にして、漸をもって仏位の悟りに向って

精進という修行をする事位は至極当然の事ではなかろうか。

貴女のそんな考えが他力の菩薩の中の初歩の初歩というのです。

もっと精進して理解度を深めて頂く事を望みます。   合掌。

●re.60
金剛心
北陸の男性
[ 1076 ] Re56:住正定聚について教えてください 2009/03/17 (Tue) 13:46 △up ▽down
  酒天童子様へ

[ 1073 ]で「一念帰命は明らかにある大きな区切りであるという

ことでしょうか?」とかかれていますがその通りです。

その下に「そこが究極的なゴールなのか」とも書かれています。

一念帰命が原点の区切りであると何回も書きましたが理解されて

いないのでしょうか・・・

18願の原点が究極的なゴールではありません。

一念帰命で往生した(現生で報土)その報土を菩薩道であるとも

記しましたが・・・

下記に自分の書かれた答えを記していながら・・・貴殿は会通

転語という意味が理解されていないだけである。

2点目の質問ですが
「どの境涯においてそれを歩んでゆくのか?この娑婆なのか?

それとも他のどこなのか?選択肢はあるのか?」等々とありますが

一念帰命を受けたのがこの娑婆で受けているのでしょう、だから

この娑婆で受けた以後から未来成仏位に到達するまでこの娑婆界

であれ、天上界であれ、極楽界であれ仏位に向っての道を精進

しなければならないのです。念佛行者の未来界は天上界か

極楽界か二つしかないのです。聲聞菩薩が遠果成仏できるのですが

「縁覚菩薩は独学なるが故に仏になれず」と一代聞書に有り。
*未安心者は絶対に天上界にも行けないのです。
天上界は菩薩の修行の界である。

忍草様とちょっと失礼します様方の考え方と私の考えと同感と
思います。
            合掌。

●re.61
毎日
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[ 1077 ] Re56:住正定聚について教えてください 2009/03/17 (Tue) 13:55 △up ▽down
金剛心 様

御書き込み、ありがとうございます。

>41地菩薩位の高い位まで就けて頂いたその後は18願の因を背にして、漸をもって仏位の悟りに向って精進という修行をする事位は至極当然の事ではなかろうか。

「当然」ということになりますと、わかってもらおうとして語ることを放棄することにはなりませんでしょうか。


私と金剛心様の考え方の相違を考えますに、金剛心様は、41位までは、自力難行ではなく、他力易行の門をくぐり、そこから先は、漸次自ら進むのである、という考えに思っております。

たとえるならば、弥陀の大船に乗ったといえども、41位まではつれていってくださるけれども、そこから先は、弥陀の願船に乗ってはいても、自ら漕がねばならないのだ。

だからといって、弥陀の願船に意味がないのではなく、船がなければ沈むだろう。

乗せていただいたことに感謝して、自ら漕いで進むのである、のような感じなのではと思っております。


一方、私と致しましては、自ら漕いでいるつもりでも、進んでいるのは、弥陀の願船のおかげなのです。

「自分で漕いでいる」と思っているからと言って、「そんなことを思うのなら、降りなさい」とおっしゃるような弥陀ではないと考えております。


弥陀の船に乗っており、弥陀が前に進めてくださっているのですが、そうして弥陀に守られながら、弥陀によりかかりながらも、乗組員として、生活を整えてゆく。

そのように考えております。

では、船上で和を乱したり、殺生をするような乗組員はどうなるのかと言えば、それでも弥陀は捨てないのだと考えます。

船上で自らさらに小さな船を造り、それを漕いで進む。そのような方も捨てるかと言えば、捨てないと思います。

なぜかと言えば、そのような認識はそもそも、幻であるからだと思います。

幻をいだいたままで、連れて行ってくださる。


細かい漢字の使い分け等、私にはわかりませんので、わかりにくいところあれば、ご指摘ください。


南无阿彌陀佛

●re.62
ちょっと失礼します。
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[ 1080 ] Re57:住正定聚について教えてください 2009/03/17 (Tue) 14:39 △up ▽down
やっと、同じ解釈の方々にめぐり合えて嬉しく思っております。
さて、この世は、諸苦毒の中ですよね。四苦八苦・三毒の中に住んでいる我等です。
嘆仏偈を称える度、我行精進・我行精進と気を引き締めています。
信心をいただいたと言うのは、単なる出発点だと私も考えております。
これからが本当の修行の始まりです。
軽い言葉で申し訳ありませんが、信心をいただいたと云う事は、菩薩の位に行くまでの自力の修行を免除されたという風にも取れます。

合掌  南無阿弥陀仏

●re.63
菩提心
非公開の非公開
[ 1082 ] Re58:住正定聚について教えてください 2009/03/17 (Tue) 19:37 △up ▽down
金剛心様

お返事遅れて申し訳ありませんでした。

私、5年に1回、役所に出さなければいけない書類で、頭が一杯で疲れて、味わいの場所しか読んでいませんでした。

[ 1074 ]の金剛心様の御書込み、私はそのようには思っていません。

それは私の書き込みを読んだ金剛心様のとらえ方であって、私は常に弥陀と一緒と思えますので、有難いのです。

私は、金剛心様が送って下さった「女人往生聞書」の内容全てが私だと思います。

読めば読むほど有難くなります。


金剛心様、有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.64
ちょっと失礼します。
非公開の非公開
[ 1083 ] Re59:住正定聚について教えてください 2009/03/17 (Tue) 21:52 △up ▽down
念仏行者の未来界は、天上界か極楽界かの2つしかないとおっしゃる言葉の真相が分かりません。
申し訳ありませんが、天上界に行く人と極楽界に往く人の違いを教えて下さい。
よろしくお願いします。

●re.65
ちょっと失礼します。
非公開の非公開
[ 1085 ] Re60:住正定聚について教えてください 2009/03/17 (Tue) 22:37 △up ▽down
皆様へ

修行する必要が無いとか、こんな私に修行は無理と言うのは、他力の念仏者がする修行の内容が理解されて居していないからだと思います。

泥凡夫様・毎日様・菩提心様・7様などと、金剛心様に賛同する方々の教えには、根本がズレてしまっているから、より厳しい行者の身の振り方など、理解出来ないのだと思います。
信心いただいたばかりの頃は、私も浮かれていました。
やはり、いただくまでは易しく、いただいた後は厳しくなりますね。
さんざん叱られました。普段の善知識様は、とてもお優しいのに、仏法になるとまるで別人になります。
善知識様が言っていましたが、善知識同士顔を知らなくとも、同じ繋がりであれば、必ず連絡が入ると聞いています。
善知識は、御聖典を把握していなければならないとも聞いた事があります。
自分の地獄行きを見知らぬ他人の為に賭けて、滞り無く信心を取らせるのは、とても大変だと聞きました。人の命も預かっているわけですから。

私の今までに教えていたただいたことなどをここに書くことで、考えが浅いと、厳しくご指導いただきたいと願っています。、私は、知らない事が多過ぎるので、皆様に引っ張って行っていただけたらと思っています。

私の書き込みで間違いがあったり、考え違いをしている部分がありましたらどうぞご指摘下さい。

女性が黒袈裟を着ると言うのは正しい事ですか?

●re.66
毎日
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[ 1086 ] Re61:住正定聚について教えてください 2009/03/17 (Tue) 22:55 △up ▽down
ちょっと失礼します 様

>私の書き込みで間違いがあったり、考え違いをしている部分がありましたらどうぞご指摘下さい。

>自分の地獄行きを見知らぬ他人の為に賭けて、滞り無く信心を取らせるのは、とても大変だと聞きました。

もし、本当にこういうことをおっしゃっているのであれば、「随分と恩着せがましい言い方をする人だなあ」と思います。

南无阿彌陀佛

●re.67
ボン
関東の男性
[ 1088 ] Re62:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 03:15 △up ▽down
金剛心様

この掲示板に再度ご登場いただき、私ども浅学のものに対して、いろいろご教授
いただきましたことを、たいへんありがたく、うれしく思います。

金剛心様の経文・釈文に対する造詣に敬意を表するとともに、あらためてこれまでの
書き込みをすべて読み直しました。

理解の深まった部分もありますが、浅学の私には、基本的な言葉遣いなど分からない
部分も多いため、今後は更に経文・釈文をよく読み、基本的な理解を深めてから、
金剛心様の書き込みを良く読み、それでも理解できない部分を質問させていただきたく、
というのでなければ、失礼にあたるのではないかと考えております。

とは申しながらも、浅学の私でもある程度理解できたことのなかから、とりあえず1つだけ
質問させていただければ、うれしく思います。

金剛心様は、化土往生ではなく、極楽に往生するために、仏道の修行、または菩薩道の精進
をすべきであるということを、繰り返し述べておられます。

No.106スレッド[ 793 ]
>凡夫が阿弥陀仏に摂取されたその後、心を切替えてて菩薩道を精進すべきだと考えます。
>法然聖人の和語燈録に「往生のためには学問すべからず、但し念仏往生を信ぜんためには
>学問すべし」と両語等のあることを御存知でしょうか。

No.106スレッド[ 793 ]
>又善導大師の玄義文に「信取之者懐疑要引聖教来明欲使之方能遣惑」とあり、訳して
>「信を取る者疑を要す、聖教を引いて明り来たらしめこれを聞かん者をして方に能く
>惑を遣らしめんと欲す」となり信心を取る者は疑いが出るから聖教という明りでその
>疑いの惑いをなくして行け、との念仏行者に対して善導大師の注意文であります。

しかし、同時に以下のようにも述べておられます。

No.106スレッド[ 834 ]
>皆様方は、本当は詳しい教学まで勉強する必要はないのです。ただ阿弥陀仏を信じて
>臨終まで仏恩報謝(弥陀のお手伝いの御手引きも含め)の念仏さえ持続して忘れなければ、
>金剛堅固の信心となって極樂往生に繋がるのです。

また、こうも述べておられます。

No.106スレッド[ 793 ]
>赤子や痴呆の人は疑うことはありませんから心配せずとも阿弥陀樣にお任せでよいのです。

上記のことを言い換えると、中途半端に頭でっかちな凡夫は、どうしても疑惑を生じるから、
聖教を良く学び、疑惑を取り除くよう精進する必要がある。これに対して、頭でっかちでない
凡夫は、素直に喜び、仏恩報謝の念仏さえ続ければ極楽に往生できる。さらに、疑いを知らない
赤子や痴呆の人は、そのままでも極楽に往生できる、ということなのだと思います。

そうすると「修行・精進」と「喜び・仏恩報謝」と「無知」が同じものというのは無理が
あるにしても、それらは同じ極楽に往生できる種であるから、それぞれ同じレベルのもの
である、ということはできるのでしょうか。

なぜこのようなことを考えるのかというと、金剛心様の精進が必要というお話しもたいへん
説得力があるのですが、有縁の善智識様からもっぱら「喜べ」と言われた記憶も強烈で、
そこの間のギャップによって、私自身が戸惑いを感じているからなのです。

なにとぞ、ご教授をいただきたく存じます。


南无阿彌陀佛

●re.68
毎日
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[ 1089 ] Re63:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 03:46 △up ▽down
ちょっと失礼します 様

>修行する必要が無いとか、こんな私に修行は無理と言うのは、他力の念仏者がする修行の内容が理解されて居していないからだと思います。

◎かくのごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず。このほかには別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修してもなににかはせん(御文章3-4)

「余の功徳善根を修してもなににかはせん」とございます。


また、

◎されば一心一向にわれをたのまん衆生をば、かならず十人あらば十人ながら、極楽へ引接せんとのたまへる他力の大誓願力なり(御文章3-5)

ともございます。



さらに、

◎ただ一念の信心定まるとき、竪に貪・瞋・痴・慢の煩悩を断ぜずといへども、横に三界・六道輪廻の果報をとづる義あり。しかりといへどもいまだ凡身をすてず、なほ具縛の穢体なるほどは、摂取の光明のわが身を照らしたまふをもしらず、化仏・菩薩のまなこのまへにましますをもみたてまつらず。しかるに一期のいのちすでに尽きて、息たえ、まなことづるとき、かねて証得しつる往生のことわりここにあらはれて、仏・菩薩の相好をも拝し、浄土の荘厳をもみるなり。これさらに臨終のときはじめて得る往生にはあらず。されば至心・信楽の信心をえながら、なほ往生をほかにおきて、臨終のときはじめて得んとはおもふべからず。したがひて信心開発のとき、摂取の光益のなかにありて往生を証得しつるうへには、いのちをはるときただそのさとりのあらはるるばかりなり(真要鈔)

でありまして、六道輪廻の果報も閉じているのであります。

そして、信心開発のとき、往生は証得されているのであり、ただ、具縛の穢体なるが故に、それがわからないだけなのだと思います。

わからないからこそ、既に救われているのに、まだ、あれこれしようとするのであると思います。

それは、そうしないと不安であるからと思います。

「救われている」とは言え、やはりそれは信じがたいからこそ、何かせずにはいられないのではないでしょうか。

だからこそ、「もう、救われているのだよ」というお話を聞いてゆき、その疑心を溶かして、楽になってゆくことが肝要であろうと思います。


南无阿彌陀佛

●re.69
毎日
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[ 1090 ] Re64:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 03:58 △up ▽down
金剛心 様

金剛心様の御書き込みから、学ぶこと多いのでありますが、やはり、私にとりましては、金剛心様の御説は、源空聖人一枚起請文の内容に異なると思うのです。


「別の子細候はず」

「このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはづれ」

「智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし」


ただただ一向に、「ありがたい」と南无阿彌陀佛。

それは、多大なるご恩を被っているからです。

そのご恩の甚大さを思うとき、自然と口からはお念仏が出てくる。

このはたらきに、信心が関与していると思う次第です。

南无阿彌陀佛

●re.70
毎日
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[ 1092 ] Re65:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 05:07 △up ▽down
ちょっと失礼します 様

[ 1062 ]
>信心をいただいた者が何をしたら地獄に堕ちてしまうのでしょうか?

とのことですが、

◎如来の誓願を信じて一念の疑心なきときは、いかに地獄へおちんとおもふとも、弥陀如来の摂取の光明にをさめとられまゐらせたらん身は、わがはからひにて地獄へもおちずして極楽にまゐるべき身(御文章2-4)

とあるのですから、「如来の誓願を信じて一念の疑心なきときは」ちょっと失礼します様のはからいにては、地獄に堕ちることもなく、極楽に参ることできると思います。

南无阿彌陀佛

●re.71
毎日
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[ 1093 ] Re66:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 05:34 △up ▽down
ボン 様

略本には、

◎獲往相心行、即住大乗正定之聚。住正定聚必至滅度

広本には、

◎獲往相廻向心行。即時入大乗正定聚之数。住正定聚故必至滅度。

とございます。

これを会わせて読んでみますと、即時に正定聚之数に入るのであり、即時に正定之聚に住するのであると読めると思います。

住定聚は、第11願です。

略本にございますように、往相の心行を獲れば、正定之聚に住するのであると思います。


如来二種回向文からも引きたく思います。

◎【2】 往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。

【3】 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願、『大無量寿経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」文

【4】 真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」文

【5】 真実証果といふは、必至滅度の悲願(第十一願)にあらはれたり。証果の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」文
 これらの本誓悲願を、選択本願と申すなり。

【6】 この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。

南无阿彌陀佛

●re.72
菩提心
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[ 1094 ] Re67:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 06:13 △up ▽down
添え書きさせて頂きます。

略本・・・浄土文類聚鈔のこと

広本・・・教行信證六巻のこと

実は、これ私への回答です。

毎日様、楽しみに読みました。

仏法花盛り。

今後の成り行き、どうなるか分かりませんが、阿弥陀様はやっぱり見護って下さっておられるんだなと嬉しくなりました。

お身体に気をつけて、ゆっくり休んで下さいね。

南无阿彌陀佛

●re.73
現代人
関西の男性
[ 1095 ] Re68:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 13:54 △up ▽down

この掲示板を拝見して、疑問が生じました。

「信の一念」に立った時、即時入大乗正定聚之数。住正定聚故必至滅度です。
歴史の年表のごとく、時間的要素が混入したり、悟りに到るための修行の階位が再度登場することは理解出来ません。

本願力をたのむことよって仏道の正因が成就される。因の成就が押さえられれば佛果を得ることを特別には説かれないはずではないか。

「無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽実にうること難し」です。

真宗は、あまりにもうまい話であるが故に、努力精進を最高善とした概念が習い性となっている凡夫には信じがたいことです。 だから難信です。
むしろ受け取り方によっては、かえって心の飢えを感じてしまうのが凡夫の悲しさです。

もともと、浄土教は人生の破綻から出発したはずです。破綻した者を如来はどのように
ご覧になったか。

入信によって破綻を修復し、修道段階に入る。ここには時間的要素が混入していることになります。「因」と「果」がずれてしまいます。
これは十分に吟味されなければなりません。

信心を頂いていると公言していない者の、出る幕ではないとは思いましたが書き込みをさせていただきました。


●re.74
ちょっと失礼します。
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[ 1096 ] Re69:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 14:44 △up ▽down
ただし、五逆を除く
信前の者に向かって言っている言葉だと解釈していませんか?
信心をいただいた人に向かって言っていると理解できないのでしょう。
信心をいただいた人が、金儲けにこの法を利用しても極楽行きでしょうか?


金剛心様へ

私の有縁の善知識様は、信心が廃れてしまうと、地獄には堕ちないけれど、報土には往けなくなると言っていました。私には、何処に書いてあるのか、教えてもらわなかった(自主的に聞く事をしなかったので)ので、詳しく知りませんが、お聖典の中に書かれていると言っていました。
何をしたら地獄行きなのか、境界が分からなかったので、質問させて頂きました。

●re.75
愚尼
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[ 1097 ] Re70:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 17:06 △up ▽down
金剛心様へ

失礼を承知の上でお願いがあります。
どうぞ、ご連絡下さい。

●re.76
金剛心
北陸の男性
[ 1098 ] Re71:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 18:38 △up ▽down
ちょっと失礼します様

[ 1070 ]に往相と還相廻向と報土についての見解を少し述べられて

いますが、貴殿の考えは経論釈に書かれている見解とすべて合致

いたします。貴殿のような考え方を持っておられる人はめずらしい

と思っております。これからは自信教人信を以って衆生済度に

努めて頂きたいと私も願っております。

貴殿の思いが私にもヒシヒシと伝わって来ています。

真仏土巻に如来について書かれています、参考にして下さい。
(法性生身について)・・・

[ 1083 ]についての回答は後日改めてさせていただきます。

            合掌 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。

●re.77
金剛心
北陸の男性
[ 1099 ] Re72:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 19:27 △up ▽down
  毎日樣へ

忍草さんは菩提心様に「じゃじゃ馬姫」と名付けられたように私は

毎日樣に「あげ足鳥」と名付けたい気持ちです。

昨年から毎日樣と問答を続けて来ましたが私の書いて来た良い所を

一つも取り入れようとしない、扉は閉ざされたまま開いて頂けない

のが実に残念としか言いようがありません。

今迄毎日樣とは六要鈔に書かれている畢竟軟語の意を以って問答を

続けてまいりましたが、これからは畢竟呵責を以っての問答で

なければ理解して頂けないのかナと思ったりもしています。

何故閉ざされたトビラを開けようとなさらないのか不思議でならない。

水戸黄門の歌に「後から来たのに追い越され泣くのがいやならサア

歩け」と歌われています。それが現在の毎日樣の心境のように感じ

られて仕方ありません、折角今「ちょっと失礼します様」のような

短期間の問答にて急速前進されているのに又昨年の様に玄中様や

おせっかい様のようにその人のマイナス面だけ捉えて引きずり

下ろそうとなさるのか、私にはとても考えられない。今度はもっと

受け入れるトビラを開いて頂けることを第一の条件として

これからの問答を続けて頂けたらと念願致しております。

この掲示板は全国で多くの智者の方々も見ておられる事を

忘れずに・・・今迄貴殿の書かれて来た過去文(還相廻向、報土は
体失後等)に対して
間違いがあったのか又間違いがなかったのか再度読み返されたら

如何でしょうか・・・

*なぜ證巻に「菩薩初地に登れば漸を以って増進して、自然に當に

仏と等しかるべし」等の釈文があるのか再考されたし。

往生治定して住正定聚であると主張されて来た毎日樣ならば

理解出来ないはずがない。       合掌。

●re.78
ちょっと失礼します
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[ 1100 ] Re73:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 20:03 △up ▽down
金剛心様へ

勿体無いお言葉有り難く頂戴致します。

感謝いたします。

念仏申し上げます。合掌

●re.79
ちょっと失礼します
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[ 1101 ] Re74:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 20:41 △up ▽down
忍草様・金剛心様へ

胸のスカッとした書き込み、よく言って下さいました。

毎日様は、忍草様の書き込みを素直にお読みになっていないと感じています。
私は、揚げ足を取られ、必死に説明しているつもりですが、最初に書いた通りの底辺の者なので、返答に困ってしまっています。
回心・懺悔について、忍草様はご説明されている筈です。
何をお読みなのでしょうか?
私が何故に、金剛心様に、分かりやすい易しいお言葉での説明を求めたのかも分からないでいるようですね。
私は本当に、難しい事は何も知りません。
それでも精進すれば、こんな私でも理解できる素晴しい法だという事を示したいのです。
噛み砕いた説明をするのは、とても大変だと思います。
これからもよろしくお願いします。
合掌 南無阿弥陀仏

●re.80
毎日
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[ 1103 ] Re75:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 21:34 △up ▽down
金剛心 様

これまでの解説は、軟語でいらしたのですネ。

私と致しましては、扉を開けようとしないというよりも、金剛心様のご説明は、私には、ことばが不足しており、よくわからないという印象です。

私の間違いについても、「理解されてない」「理解できるはず」とおっしゃるばかりで、どこがどう間違っているのか、根拠の説明が、よくわからないのです。

「菩薩初地に登れば漸を以って増進して、自然に當に仏と等しかるべし」

であるからこそ、すぐには仏にはならないのではないですか。

自然だからこそ、弥陀が牽くのであって、行者のはからいは要らないのではないでしょうか。

南无阿彌陀佛

●re.81
ちょっと失礼します
非公開の非公開
[ 1104 ] Re76:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 22:04 △up ▽down
一念他力の行は、修行ですよ。
まず、他力に修行があるという事を理解されていないように見受けられます。
修行は、自力だけにあるものではありません。
お文にも、念仏の修行が書かれています。

私は、金剛心様の厳しさが好きです。

知恵無き者ゆえに、真宗の教えを、最初から1つずつ話さなければ、金剛心様の書き込みに反発して揚げ足を取っている人には、それでも、この法を説くのは難解だと思います。

開き直りにも見えますよ。

南無阿弥陀仏

●re.82
酒天童子
関東の男性
[ 1105 ] Re77:住正定聚について教えてください 2009/03/18 (Wed) 22:50 △up ▽down
皆様

こんばんは、酒天童子です。

活発な議論にちょっと水を差すようであり、またせっかくご教示いただいている方々には失礼なことでありますが、、、。

以前、わたしは書き込みで“もっととことんやりあってほしい”、と書き込みいたしました。

だから、こういう風に議論が白熱すること自体はうれしいのですが、

書き込みをされた方々がたとえ、自分の意にそぐわないからと言って「じゃじゃ馬姫」だとか「あげ足鳥」だとか“胸のスカッとした”とかという明らかに相手を非難するような“感情的な”書き込みは、見ていてあまり気持ちの良いものではありません。

やりあってほしい、とは書きましたが“罵りあってほしい”とは思っていません。

こういうのを見ているとつくづく“我々は凡夫だなあ(もちろん自分も含めて)”と実感させられてしまいます。

こんなんじゃ、やっぱりいくら“修行”とか“精進”なんていったって、“救われないなあ”とも。

でも、こんなわれわれが救われる法があるとしたらやっぱり本当に素晴らしいものなんだなあ!と思い直した次第です。

失礼な文言の数々、平にお許しください。

南无阿彌陀佛




●re.83
毎日
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[ 1106 ] Re78:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 00:39 △up ▽down
現代人 様

金剛心様[ 1099 ]の御書き込み、

>なぜ證巻に「菩薩初地に登れば漸を以って増進して、自然に當に仏と等しかるべし」等の釈文があるのか再考されたし。

に対しまして、

[ 1103 ]
>「菩薩初地に登れば漸を以って増進して、自然に當に仏と等しかるべし」
>であるからこそ、すぐには仏にはならないのではないですか。
>自然だからこそ、弥陀が牽くのであって、行者のはからいは要らないのではないでしょうか。

これは、私なりに金剛心様の意を汲んで書いたつもりですが、見当違いだったかもしれないと思います。

(金剛心様、私には、なぜ、ここでこの釈文を引かれたか、意図がよくわかりません。そして、「再考されたし」とだけあって、意図を明示しないのも、金剛心様のこれまでの方針と同じです。意図を明示していただかなければ、金剛心様がどのような意図で引かれたのか、私には、よくわかりません。)

そして、証巻の文脈に照らせば、さらにお話が続いてゆきます。

私が[ 1103 ]に書きましたように、他力教に引きつけて、「菩薩初地に登れば漸を以って増進して、自然に當に仏と等しかるべし」を解釈したとします。

しかしそれでも、それであれば、なぜ、あえて菩薩と等しいと言うのか、自然に仏と等しくなるのであれば、はじめから、仏と等しいと言えばいいではないか、と続いてゆきます。

そして、さらにお話はつづき、未証浄心の菩薩も、弥陀がいるのだから、七地にとどまることがないのだと。

さらに、

◎十地の階次というは、これ釈迦如来、閻浮提にして、一の応化道ならくのみ。他方の浄土は、何ぞ必ずしもかくのごとくならん

とございます。

十地の階次というのは、すべての世界について成立する教説ではないというのです。

そして、

◎人ありて、釈迦如来、羅漢を一聴に証し、無生を終朝に制したまえるを聞きて、これ接誘〈とる、こしらう〉の言にして、称実の説にあらずと謂〈おも〉えり。この論事を聞きて、また当に信ぜざるべし。それ非常の言は常人の耳に入らず。これをしからずと謂えり。またそれ宜しかるべきなり

ここが大切なところだと思います。

釈尊が羅漢を一聴に証したのを信じられないのと同じように、あるいは、好堅樹があまりに速く生長するのが信じられないように、未証浄心の菩薩も、浄心の菩薩も、上地の菩薩も、同じくなってしまうことが、信じられないのだと思います。

◎もし菩薩必ず一地より一地に至りて、超越の理なしと言わば、未だ敢えて詳らかならざるなり

南无阿彌陀佛

●re.84
毎日
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[ 1107 ] Re79:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 01:07 △up ▽down
ボン 様

口伝鈔から引きたいと思います。

◎いふこころは、十方世界を照曜する無碍光遍照の明朗なるに照らされて、無明沈没の煩惑漸々にとらけて、涅槃の真因たる信心の根芽わづかにきざすとき、報土得生の定聚の位に住す

「無明沈没の煩惑漸々にとらけて、涅槃の真因たる信心の根芽わづかにきざすとき」このとき、住定聚であると思います。

そして、「無明沈没の煩惑漸々にとらけて」とは「乃至一念」、「涅槃の真因たる信心の根芽わづかにきざす」とは「至心回向願生彼国」、「報土得生の定聚の位に住す」とは「住不退転」であると思います。

南无阿彌陀佛

●re.85
毎日
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[ 1108 ] Re80:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 01:18 △up ▽down
ちょっと失礼します 様

[ 1096 ]
>信心をいただいた人が、金儲けにこの法を利用しても極楽行きでしょうか?

おなじく、口伝鈔から引きたいと思います。

◎某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。

「弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに」でありますから、どのような悪と言えど、弥陀の本願の方が、大きいものであると思います。


そして、

>信心をいただいた人が、金儲けにこの法を利用しても極楽行きでしょうか?

とおっしゃるということは、

◎しかるに善機の念仏するをば決定往生とおもひ、悪人の念仏するをば往生不定と疑ふ。本願の規模ここに失し、自身の悪機たることをしらざるになる

とございますように、「自分は、もっとマシ」と考えているということになると思います。

私は、いつこの法を金儲けに利用してもおかしくないような、傲慢な機です。だからこそ、そのようなことをしないように、自身を警戒せねばならないと思います。

それでも、将来、そうならないとは、誰が言えましょうか。

そうならないことを、現在願っているつもりでおりますが、自身で自身がどうにもならぬこの身だからこそ、弥陀をたのんだのです。


そして、この種のお話に伴いまして大切なことが、

◎また悪業はもとよりもろもろの仏法にすてらるるところなれば、悪機また悪をつのりとしてその土へのぞむべきにあらず

ということだと思うのです。

悪業が往生の正因ではなく、あくまでも、信心が正因です。


悪もおそれぬから好んで悪を為す、ということではないのです。

ここが誤解されやすいところであって、だからこそ、この種の内容も、相手を見て説かねばならぬのだと思います。


南无阿彌陀佛

●re.86
愚老
非公開の非公開
[ 1109 ] Re81:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 10:18 △up ▽down
愚老です随分ご無沙汰致して居りました。懐かしい皆様方、大変問答も活発になり尊いお知恵皆様方から頂いて居ります。有り難い事です。
大いに沙汰して喜びを益して行くことも大事なことと感じ入ります・
彼岸に向かって善光寺三尊阿弥陀さまのご開帳も始まりました。招く手乗せる手回向j柱も用意されました
西方十万億仏土極楽浄土荘厳・・奈良の浄瑠璃寺の彼岸は浄土荘厳拝む人で満員でしょうね。
穢土から三千大世界弥陀界まで三段ロケット発射されます。
三段ロケットは名は往相弥陀光号スピードは秒速三十万キロで出発致します。第一段目菩薩車にご乗車の菩薩初一念のお方々ご乗車券を入場受付係り観音菩薩様にご提示の上御乗車願います。
第二段目諸仏号等覚のご乗車券をご持参のお客様には勢至菩薩様に確認お願い致します。
第三段目阿弥陀号妙覚(52段)佛同体不ニご乗車券のお客百宝蓮華台座に席に御付下さいませ・
極楽浄土駅には小千世界(菩薩駅)にて一段目のロケットが切り離されます。二十五菩薩が歓迎の蓮華旗を以って迎えて居られますので小千世界の浄土の荘厳十分に堪能して頂きたく存じます。時々曼荼羅の華が白鵠孔雀、鸚鵡舎利、等珍しい鳥達が五根五力、七菩提分、八聖道分と大声で鳴き叫びますが驚かないで下さい。皆仲間の佛菩薩の変化でございます。
又、中千世界(諸仏駅)にては二段目のロケットが切り離されます。等覚ご乗車の皆様には恒砂の数諸仏方がお待ちかねで御座います。諸仏世界の荘厳世界十分に堪能して頂きたく諸仏方々がお案内させて頂きます。
又、五十二段階妙覚の仏のご縁の御方三千世界の無量諸仏菩薩方が迅速神通力にて集合され万来の拍手合掌礼拝にてお迎え下さいます。六神通具足を十分に駆使して頂き浄土荘厳三千大世界堪能されます事。すでに用意されました。各自の金色宮殿、百宝蓮華
天蓋等御拝欄確認の上、大慈悲心、大菩提心を以ってとくと衆生済度に御願いたくの阿弥陀如来ご恩に心頂けるよう出広長舌相にて説ききかせて居られますこと。
十分堪能の後は全て菩薩初一念の御方始め妙覚御方も大慈悲心、大菩提心、度衆生心を頂き返りは
還相弥陀号にて各諸仏駅、菩薩駅に立寄り娑婆世界に帰還致します。後は心して自信教人信に励んで頂きますよう節に節にお願い申し上げます。・・愚老の夢号の話です。南無阿弥陀仏。

●re.87
菩提心
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[ 1110 ] Re82:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 10:51 △up ▽down
愚老様

お久しぶりです。

夢号ですか?

私は、まだまだ世間事で忙しい日々を送っています。

でも、お陰様で、少しずつ周りの環境に変化が見られてきました。

夢号なら、私はこんな楽しい思いをしました。

今、朝JR駅まで三日坊主にもならず、歩いて通っています。

昨日の朝、金剛心様から頂いた「女人往生聞書」を読みながら歩いていました。

多分太陽光線と、私のメガネのフレームのせいでしょうが、

チラチラと、その上を虹になって、動いているんです。

ちょっと見にくいんですが、これも阿弥陀様と一緒って思えるので、あっという間に駅に着いたって感じです。

この40分間は、色々考えられる時間となりました。

本当に、自分を見つめられる時間です。

とても貴重な時間だなと有り難いと思います。

愚老様、4月23日に吉崎御坊で行事があるそうですが、詳しい事分ったら教えて下さい。

南无阿彌陀佛

●re.88
金剛心
北陸の男性
[ 1111 ] Re83:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 15:39 △up ▽down
 毎日樣へ

貴殿も菩提心様も経論釈の理解度は全く同じようにおもいます。なぜ自分でも

理解出来ない文を長々と載せるのですか[ 1089 ]二重丸の部分(お文3-4)

「住正定聚について教えて下さい」この文は何を意味する文なのですか。

「摂めおかれまいらせてのうえには」「一期のいのち盡きなばただちに

真実の報土に往生すべきこと」「このほかは別の仏をもたのみ、また余の

功徳善根を修しても」以上のこんな短い文にも三つの意味が含まれているのです。

菩提心様にも前回記しましたが自分でも理解出来ない釈文ばかり載せても

意味がないのです、又その下のお文3-5「他力の大誓願力なり」も「力」とは

だれを指して書かれているのですか。

その下の眞要鈔文も5点についてかかれている釈文なのですが理解されていますか。

一つアドバイスすれば信心と開發とは違う意味を持っているのです。

私は貴殿に長々と書く必要はないと思っておりますが、一枚起請文にしても

全く理解不足と思われる。一枚起請文の「もろもろの智者達」とはだれを指して

書かれているのですか?・・・

親鸞聖人の言われる本当の「念佛」とは何を意味する念佛なのか・・・

「南無阿弥陀仏と申せば」の申せばとはどんな意味なのでしょうか?

上記2点私より貴殿に対し逆に質問させて頂きます。貴殿の解釈を

教えて下さいお願い致します。

又スレッドを替えた[ 1006 ]の懺悔と反省と罪の告白の所でも

ちょっと失礼します樣は「懺悔は自力では出来ません」と書かれて

いるのに、只毎日樣は反発しているだけです。ちょっと失礼します樣の

書かれている事は道理にかなっていると私も思います。

懺悔について少し記してみます。懺悔注戒本疏第一下に曰く

懺悔の悔は是れこの土の音機、これ西方の略語なり梵悔の悔は音の

如きは懺摩なり。又華厳経音義三に「懺は懺摩此に請忍という、謂く

前人に我が悔罪を忍受することを請なり」又業報差別経に

「若し人重罪を作り作し已りて深く自ら責め懺悔して更に造らざれば

能く根本の業を抜く」又心地観経三には「若し能く如法に懺悔せば

所有の煩悩悉く皆除こること猶し劫火の世間を壊し須弥並びに巨海を

焼くが如し。懺悔は能く煩悩の薪を焼く」又往生禮讃には

十方盡虚空の三寶及び盡衆生界等に向って具に發露懺悔す」と有る。

毎日樣の記されたお文4-5の釈文と私が上記した懺悔文とは懺悔に

対して合致しているが意味は異なるのです。

又スレッドの違う「1091」に即横超截五悪趣(六要鈔)の所で

お文2-4を載せておられますが毎日樣は自分の信心は六道生死を閉じ

られていると主張したいために、このお文を載せていると思いますが

貴殿の記されているお文のその後に「悪趣自然閉」の文が書かれて

います。悪趣自然閉はどこの界まで閉じられたのか、そんな事さえ

理解されていない浅学の念仏行者である、悪趣自然閉は六道生死は

閉じられていない。

自分達の信心が浅いがために、理解度の深い他の行者を指して

お互いの信心が違うとは言語道断である。
(一念帰命の念仏行者としては同行である)
                   合掌。

●re.89
愚尼
非公開の非公開

↑愚尼様宛にメール
[ 1112 ] Re83:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 15:50 △up ▽down
改めまして、金剛心様

未熟者の私です。ジャンヌの自信教人信の書き込みに、言いたい事が沢山あると存じます。
お叱りを受ける覚悟は出来ています。
どんなきつい言葉でも、言われても仕方が無いと思っています。
結果、きちんと最後まで責任を持ってお手引き出来なかった事、この場をお借りしてお詫び申し上げます。

私が気が付かなかった為と、直に相手を判断出来なかった為に、こう云う事になって仕舞った事を深くお詫びいたします。
そこには、骨を砕きても、身を粉にしてもと言う心が薄かったんだと自分自身を省みています。

私が進んで欲しかった道は、金剛心様のお考えの道でした。
しかし、現実は、この有様です。

ここに、私が何か書けば、必ず争いになってしまいます。
ですから、金剛心様のご意見を仰ぎたいのです。

どうぞ何卒、ご連絡下さいませ。かしこ


毎日様へ

ジャンヌの凡々様みたいと思うのは、私だけでしょうか?
学識を智識に変えて下さる事を切に願います。


甘くまろやかな物は、口当たりもいいですね。

●re.90
毎日
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[ 1113 ] Re84:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 16:35 △up ▽down
金剛心 様

金剛心様は、自身を「理解度が深い行者」(あるいは、それ以上の存在)と見なし、私を、「信心が浅い」と見なしているのですよね?

違うのでしょうか?

私は、信心も浅いのでしょうし、浅学だとも思います。

しかし、そのような自身をおとしめようとも思っておりません。

なぜなら、弥陀に救われ、守られていると信じているからです。

ただ、この「信じている」というのは、個人的なものです。

たとえば、私のご縁の善知識様に「あなたの信心は違うよ」と私が言われたとします。

しかし、それでも私はその根拠を聞くでしょう。

なぜなら、善知識様も凡夫であるからです。ひょっとすると、支配欲に取り込まれてしまったのかもしれません。だからと言って、互いに凡夫なのですから非難はできませんが、確認はしなければなりません。

それに、単なるお試しの質問かもしれません。善知識たのみにおちいっていないのかを、ご確認くださっている可能性もあります。

あくまでも、知識が与える信心ではなく、弥陀がくださる信心です。


これは、私の感じ方ですが、金剛心様は、ご自身の意見を述べられませんね。

ここで言う「意見」というのは、「主張+根拠」ということです。


例をあげます。

>以上のこんな短い文にも三つの意味が含まれているのです

この「三つ」とは、何ですか?

三つであれば、番号をつけて、書くことができるはずです。

そしてそれぞれ、根拠があるはずだと思います。


>又その下のお文3-5「他力の大誓願力なり」も「力」とはだれを指して書かれているのですか。

金剛心様は、どのように解釈なさっているのですか。


>毎日樣の記されたお文4-5の釈文と私が上記した懺悔文とは懺悔に対して合致しているが意味は異なるのです。

「懺悔に対して合致しているが意味は異なる」とは、どういう意味ですか? わかりやすく、言い換えてはいただけないでしょうか?

「懺悔に対して合致している」というのは、「文字は同じ」ということなのでしょうか?


>悪趣自然閉はどこの界まで閉じられたのか、そんな事さえ理解されていない浅学の念仏行者である、悪趣自然閉は六道生死は閉じられていない。

では、どの界まで閉じられたという御説なのですか?

六道中、天界以外ということでしょうか。しかしそれであれば、私が「スレッドの違う「1091」に即横超截五悪趣(六要鈔)の所」で引きました六要鈔の内容に反すると考えます。

これまでの御書き込みを読んだ限りでは、金剛心様は、五道について、独自の解釈を行っていると感じますが、先ほども書きました通り、金剛心様は、自身の考えを語らずして、「他人の主張の否定+引用+質問」がほとんどですので、どのようなお考えか、よくわかりません。

もちろんそれには、私の理解不足も原因になっているでしょうが、それ以上に、思うところを明らかにしない金剛心様の語り方が理由であろうと思います。

私は、独自であろうとも、通説と違かろうとも、そのような理由だけでは、否定する根拠にはならないと考えています。

しかし同時に、肯定してゆくためには、そのための根拠が必要です。金剛心様が強気で断言するだけでは、私に対して根拠にはなりません。

経論釈の重要性をお説きになる以上、経論釈から根拠を示せるはずであると考えます。


ちょっと失礼します様につきましては、私は、金剛心様よりも、自身の思うところを述べてくださる方だと思っています。

金剛心様は、思うところを、ほとんどお書きになりません。

例外となるのは、「あなたは理解していない」「あなたには理解できるはず」「あなたの信心は浅い」「あなたは浅学だ」のような内容です。

しかし、これらはすべて、金剛心様の主観に過ぎません。そして、金剛心様がいだく主観について、とやかく言う必要を私は感じません。

私は、浅学であり、浅心であるのです。しかし、それは仕方がありません。だからこそ、弥陀をたのんだのです。

金剛心様は否定しても、弥陀は否定しないからです。


金剛心様は、金剛心様が、金剛心様以外のひとの信心も認定する必要があるとお考えですか?

私は、金剛心様の信心について、とやかく言っているのではありません。

私は、自身の考えを書き、金剛心様が書いていらっしゃることについて、「それは違うんじゃないか」と思うところについては、さらに自分の考えを書きます。

だからと言って、金剛心様が間違っているという断定は、私にはできません。私には、そのような認識能力がないからです。だからこそ同時に、金剛心様のおっしゃる内容を、未批判に受け入れることもできません。

間違っているかもしれなくても、自身で検討し、納得した道を進んでゆきたいと考えています。

そして、それは私からすれば、釈尊がおすすめになっている道です。


私は、私以外のひとに、「私の言うことを受け入れるように」とは、言いたくないのです。

私が、私の道を歩み、私が思ったことを述べる。

すると、中には、それが参考になるひともいるでしょう。それ以上のものではありません。


金剛心様を、説得する必要も感じません。そもそも、説得が良いこととは、私は思っていません。「説得」というのは、相手の心を変えることを含みますが、大切なのは、自身の思うところを述べてゆくことです。

金剛心様が自身の思うところを述べてゆくことができないのは、間違えることを恐れているからではないかと思います。自身の凡夫性を、認めることができないのではないでしょうか。

一方、私は、間違えだらけだと思います。ですから、私は私の間違いをご指摘くださる方を歓迎したいです。

金剛心様は、歓迎されているとお感じにならないかもしれませんが、それは、金剛心様の述べ方では、私には、よくわからないからです。私がわかるには、金剛心様は、さらにことばを尽くさねば無理です。

私は、「金剛心様を理解したい」のではなくて、「私がわかりたい」のです。この差がおわかりになりますでしょうか?

金剛心様の理論体系を理解することの必要性は感じません。ただ、私の間違いは、知りたいと思います。

しかし一方、釈尊がお説きになっていることの理論体系は、知りたいとも思います。これは、私が金剛心様に対して抱いている気持ちと、私が釈尊に対して抱いている気持ちが違うからです。

そして、金剛心様が私に親切に丁寧にお話しすることを、私が要求することに、特に正当性はないと思います。

金剛心様は、相変わらず、ご自身の考えをわかりやすくご説明しようとはなさらないのですから、書き込みの目的は、私にわかってもらうためでないということは感じております。

だからこそ、なおさら、わかりやすいご説明を行おうとしてくださったご開山、蓮師の素晴らしさに、感謝したくなって参ります。

こうして、私のような不遜な態度も、転悪成善になるのだと、これは自分勝手な考えかもしれませんが、よろこんでおります。

この私の感想も、間違っているかもしれません。

金剛心様は、金剛心様の道を歩むのが肝要だと思うことに、変わりはありません。


金剛心様の御書き込みが、私には考えるきっかけになり、とても勉強になっております。

感謝申し上げます。

南无阿彌陀佛

●re.91
毎日
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[ 1114 ] Re85:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 16:50 △up ▽down
愚尼 様

お久しぶりです。

>ジャンヌの凡々様みたいと思うのは、私だけでしょうか?

これについては、私には、わかりません。


>学識を智識に変えて下さる事を切に願います。

私には、学識もなければ、智識もない。それが実情だと思います。

だからこそ、救いを求め、南无阿彌陀佛をいただくことができたのだと思います。


未熟で極悪ではありますが、弥陀を尊ぶ気持ちは、自分なりにはもっているつもりです。

そして、この「つもり」について攻撃されることがあることもわかります。

ですけれども、六根からの攻撃にも守られている信心は、破壊されることはないはずです。


この道は、一人のしのぎであって、無義の義であり、弟子もない。


自分勝手な私にとりまして、とても居心地が良いのです。

ひとりひとりと弥陀との関係であると思います。


そしてそれは、あくまでも心の世界のことです。


南无阿彌陀佛

●re.92
金剛心
北陸の男性
[ 1115 ] Re84:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 16:56 △up ▽down
  毎日樣へ

「菩薩初地に登れば漸を以って増進して仏と等しかるべし」の釈文だけ

細かく説明致しましょう。

未安心者(凡夫)が菩薩の位(即ち一念帰命者を初地の位という)に

登る事が出来れば漸を以ってとは(漸は自力を顕し又自分の努力を

顕す意である)これを他力の中の漸という。

即ち未安心者が41地という菩薩の位に登る事が出来たならばその後

自分の努力等で増進(仏道を精進して経釈文を理解して行く事)して

41地から等覚の位の智慧に到達する事が出来る(現生で)。

等覚位に達すれば仏体側の智とほぼ等しくなるという意味の釈文で

ある(仏と等しかるべしは、等しと同じとは違う)。

私がいつも強調している入正定聚の位から住正定聚に達するまでの

道理の事であり。

智慧とは入正定聚の知恵ではとても経論釈の理解は出来ないのです。

長年の相続心によって経論釈に書かれている理解度が深まって

正しくそれらの内容が理解出来るようになって来る事の意味である。

謂わば入正定聚から住正定聚へ到達する智慧を意味する事である。
(悪趣自然閉の釈文とも繋がる)

入正定聚の位に就いていながらいろんな疑いが出て来るのです。

だから仏と等しい智慧になるまで精進せよという意味の釈文である。

これを毎日樣流で云えば「どこがまちがっているのか根拠の説明がない」

と書かれていますが間違いがあるから指摘するのであって指摘されれば

自分の努力でいろんな釈文を読んで調べて理解していく事が仏道精進の

道である。それなのに間違いを指摘されても人の責任にして根拠の説明が

ないとはあまりにも人を愚弄した言い方ではなかろうか。

41地に就けて頂きながら精進もせず理解度を深めようともせずに

全て摂取されているからと彌陀まかせでは「オンブにダッコ」としか

云いようがない。貴殿の信心は入正定聚であるとはじめから書かれていれば

私も細かい説明もしたであろう、はじめから自分は住正定聚であると

云われるから細かい説明はする必要はなかったのです。

住正定聚以上の位は時には法性生身の如来とも云うのです、だから細かい

説明をすることは要らなかったのです。もっともっと経文の理解度を深められたし。

これが畢竟呵責の一つの書き方である。  合掌 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。

   


●re.93
ちょっと失礼します
非公開の非公開
[ 1116 ] Re85:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 17:13 △up ▽down
ちょっとのつもりが長居しています。
金剛堅固の信心とは、他人に何か言われても自分の意思を曲げない事ではありません。
自分の信心はこれでいいのかと疑ってみることも大切だと思います。
私の書き込みへのツッコミを、私は、また揚げ足を取って、と内心思っていましたが、ただ黙していただけです。
真宗は、普通の人間が理解しようとすれば、矛盾だらけです。
金剛心様は、無学な私に対して、とても分かりやすい言葉でお話して下さっていると『私は』思っております。
私は、わからずやにも分かりやすい言葉で、金剛心様にお話して頂きたくて、書き込んでいるだけです。
金剛心様とは、面識も何もありませんが、多分同じお考えの方だと思っています。
私は、この場を借りて確認しているだけです。
善知識がどれ程大変な任務を背負っていられるかご存知ない方々が多いようにも思います。
金剛心様が、何故多くを語れないかと言ったら、掟がかかっているからだと言う事も分からないようですね。
この公の場で話せる事が限られていると云う事は、このホームページを作った毎日様は分かっていらっしゃると信じたいです。
言っておきますが、私は善知識ではありません。あしからず。

●re.94
毎日
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[ 1117 ] Re85:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 17:27 △up ▽down
金剛心 様

ご説明ありがとうございます。またお返事いたしますが、取り急ぎ。

>これを毎日樣流で云えば「どこがまちがっているのか根拠の説明がない」
>と書かれていますが間違いがあるから指摘するのであって指摘されれば
>自分の努力でいろんな釈文を読んで調べて理解していく事が仏道精進の
>道である。それなのに間違いを指摘されても人の責任にして根拠の説明が
>ないとはあまりにも人を愚弄した言い方ではなかろうか

このようにお考えになるのは、金剛心様が自身を私よりも上と見ているからです。

私は金剛心様の五道理解について指摘しておりますが、「指摘されれば自分の努力でいろんな釈文を読んで調べて理解していく事が仏道精進の道である」このようなことを、自身は実践されていらっしゃいますか?

私には、そのようには思えません。

つまり、平等でも、対等でもないのですね。

私は、自らを弟子として、金剛心様に教えを請うているのではないのです。

もしかすると、ここに誤解があるかもしれません。

あくまでも、対等なものとして、意見を出し合ってゆく場がこの掲示版であり、また、ご示談の場所であるという認識でございます。


「人を愚弄した言い方」と金剛心様はお感じになっていますが、私は、私が師と思うひとを選ぶなら、親切にご説明くださる人を選びたい、と思っています。あんまり怒りっぽい人も、師とはしたくありません。

そうでなければ、自身の理解を追求できないと思うのです。

私が、金剛心様のような言い方(「自分で調べなさい」という方向性)を納得するには、それより以前の時点の金剛心様の御説明によって、「この人は、よくわかっている人である」という認識が私の中に生じ、何かしらの意味で(少なくともその間は)師と認識していなければ、むしろごまかされている、逃げようとしている、と感じます。

私の考え方を述べるならば、どちらかと言うと、おさえつけられて我慢している人たちがいれば、そのような人たちを解放したい、自由になってほしい、というのが私の思いです。

弥陀はすべてを受け入れてくださる。救いとってくださる。だからこそ、そこには自由があると思います。

御開山が、北陸の地でご布教なさった。はじめのうちは、耳を傾けていただけなかった、と聞いております。

では、「指摘されれば自分の努力でいろんな釈文を読んで調べて理解していく事が仏道精進の道である」このようなことをおっしゃって、当地の方々の努力不足を非難なさるのでしょうか。

私には、そのように思えません。

南无阿彌陀佛

●re.95
毎日
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[ 1118 ] Re86:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 17:22 △up ▽down
ちょっと失礼します 様

掟を尊重するにしても、話せる範囲でことばを尽くし、心を尽くそうとしてくださる方がいれば、そのお気持ちは伝わってくることと思います。

>金剛心様は、無学な私に対して、とても分かりやすい言葉でお話して下さっていると『私は』思っております。

とのことですが、もしそうなら、ちょっと失礼します様が、無学なりに、ご自身のことばで語れるはずです。

金剛心様の御説明を、ちょっと失礼します様が御自身のことばで説明できるかどうか、試してみてはいかがでしょうか。

もし、それができなければ、「わかりやすい」と思っているだけで、「実はわかっていなかった」ということであると思います。

このように、私は内容を確認してゆこうとします。

「わかりやすい」と言う方がいれば、その理解内容を聞いてゆくのです。

南无阿彌陀佛

●re.96
毎日
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[ 1119 ] Re87:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 17:31 △up ▽down
金剛心 様

>全て摂取されているからと彌陀まかせでは「オンブにダッコ」としか云いようがない。

実際私は、弥陀に「オンブにダッコ」と捉えております。

南无阿彌陀佛

●re.97
ちょっと失礼します
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[ 1120 ] Re86:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 17:44 △up ▽down
悪口をよく言っている人は、自分が悪く言われていやしないかと心配するものです。
やっぱり、馬鹿正直が一番ですね。
ひねくれ者はいけません。
人の忠告を素直に聞けないと云う事は、損な事だと思います。

●re.98
泥凡夫
北陸の男性
[ 1121 ] Re88:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 18:08 △up ▽down
毎日 様

こんばんは。
お久しぶりでございます。

いろいろな方々がいろいろなご意見をご主張されておられますね。
皆様、有縁の道を大事に大事になされておられるのだと感じました。

私が思いますに、経論釈に通じるも、理解が深まるも、お喜びの種としてならば結構なことだと思います。そのお喜びは、優しく温かな言葉となって有縁の方々に届くこともあるのだと思っております。何故ならば、一切の聖教はただ、「南无阿彌陀佛」を信じさせるがための方便でございますので。

私も浅学者であって、日々煩悩に振り回され、ちょっと煽てられれば驕慢の鼻がピノキオのように伸びるのであります。浅学ではありながら、皆様のご主張をご縁として、ご聖教に眼を当てる時間も頂くわけであります。

お聖教を通じて、少なくても私が分からせて頂くことは、罪悪深重な己が分かることと、私も毎日様と同様に弥陀にオンブにダッコの身であるということでございます。そして、このオンブにダッコが如何に尊いものであるのか身にしみるのであります。

少なくても私の御縁ある道は、「南无阿彌陀佛」だけで十分な道であり、そういうことをご縁あるたびに言ってまいりましたつもりでございます。

南无阿彌陀佛

●re.99
毎日
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[ 1123 ] Re88:住正定聚について教えてください 2009/03/19 (Thu) 18:30 △up ▽down
金剛心 様

[ 1115 ]についてなのですが、

「菩薩初地に登れば漸を以って増進して仏と等しかるべし」

は、問答中の問に書かれてている部分です。


私は[ 1103 ][ 1106 ]におきまして、金剛心様の意を汲もうとしながら、問答全体の流れをお書きしたつもりです。

証巻のこの付近の問答につきましては、菩薩の階位を進めるには、多大な時間が必要だという常識につきまして、「弥陀を見たてまつれば、畢竟じて上地のもろもろの菩薩と、身等しく、法等し」である。

その理由は、ひとつには、「畢竟じて」だからであり、もうひとつには、「超越の理」があるからである。

このように理解しております。

そして、この「超越の理」とは、おそらく金剛心様がおっしゃる「道理」([ 1115 ])とは異なるのだと思います。


また、「阿弥陀仏を見たてまつる時」「安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつる」につきまして、前者は現益、後者は当益と解することができると思っております。


南无阿彌陀佛



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