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[ 985 ] 宿善について
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2009/02/07 (Sat) 16:11
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初めまして泥凡夫さん。あるがままと申します。 泥凡夫さんはよく宿善について仰られていますが、どのような意味合いで宿善を捉えられているんですか? 宿善は過去世の意味や、また浄土真宗では阿弥陀如来の救いを頂く前のことだとか文献等で見かけたことがあります。
元々、仏教や浄土真宗では過去世のことをいいませんよね?ですので泥凡夫さんが宿善という言葉をどのような意味合いで使われているのかと思っております。 お手数おかけ致しますが宜しくお願いいたします。
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[ 986 ] Re1:宿善について
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2009/02/07 (Sat) 22:55
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あるがまま 様
こんばんは。泥凡夫でございます。
宿善につきましては、過去いくらか書かせて頂いておりますのでそれが私の考えであるとお考え頂いて結構でございます。
あるがまま様は、私にどのような意味合いで宿善を捉えておるのか?との問い掛けでございますので、あるがまま様のお考えを拝聴させて頂ければ嬉しいです。
ご存じの通り、蓮師の御文には宿善という言葉が非常に多く使われております。 たとえば、有名な「五重の義」の最初は宿善となっております。
『五重の義をたてたり。一には宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義成就せずは、往生はかなうべからずとみえたり。されば善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよといえるつかいなり。宿善開発して、善知識にあわずは往生はかなうべからざるなり。』2-11
蓮師は宿善の機だけを語らず、対になっております無宿善の機を併記されておられることから、宿善というものの輪郭を浮き出させておるのではないかと思います。それもほぼ同様の内容を繰り返し書かれておられることに注目すべき点があるかと思います。
3-12を引いてみます。
『それ、当流の他力信心のひととおりをすすめんとおもわんには、まず宿善無宿善の機を沙汰すべし。されば、いかにむかしより当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心とりがたし。まことに宿善開発の機は、おのずから信を決定すべし。』3-12
と、このように申されております。宿善と無宿善の機を対にして表現されております。
『されば無宿善の機のまえにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かえりて誹謗のもといとなるべきなり。この宿善無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もってのほかの当流のおきてにあいそむけり。されば『大経』に云わく「若人無善本 不得聞此経」ともいい、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいえり。また善導は「過去已曾修習此法 今得重聞 即生歓喜」(定善義)とも釈せり。いずれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば、宿善の機をまもりて、当流の法をばあたうべしときこえたり。このおもむきをくわしく存知して、ひとをば勧化すべし。』3-12
続いて、無宿善の機に対しての勧化について経釈をご引用されてご注意をされております。以下同様のご注意は多々拝見できますが四帖目一通だけから引きます。
『一つには、自身の往生すべき安心をまず治定すべし。二つには、ひとを勧化せんに、宿善無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。』4-1
『されば弥陀に帰命すというも、信心獲得すというも、宿善にあらずということなし。しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよおしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを、聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)とおおせられたり。』4-1
『これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもうとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたずらごとなるべし。このゆえに、宿善の有無の根機をあいはかりて、人をば勧化すべし。しかれば近代当流の仏法者の風情は、是非の分別なく、当流の義を荒涼に讃嘆せしむるあいだ、真宗の正意、このいわれによりてあいすたれたりときこえたり。』4-1
宿善の機でなければ信心獲得することは叶わないこと、無宿善の機は力及ばず。真宗においては宿善というものがあり、それは過去世においての善行の積み重ねの結果である旨は先の4-1にも見えますように、『念仏往生の根機は、宿因のもよおしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。』と祖師も記されておられる通りであると思います。
南无阿彌陀佛
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[ 987 ] Re2:宿善について
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2009/02/08 (Sun) 09:52
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泥凡夫 様
泥凡夫様 浄土真宗のごく入門的な疑問点を問わせていただきたく投稿します。 皆様が引っかからないような問題に引っかかるのが私なのです。
宿善は真宗、いや蓮如上人においては中心的とも言える課題のようにも思えます。
>宿善の機でなければ信心獲得することは叶わないこと、無宿善の機は力及ばず。真宗においては宿善というものがあり、それは過去世においての善行の積み重ねの結果である旨は先の4-1にも見えますように、『念仏往生の根機は、宿因のもよおしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。』と祖師も記されておられる通りであると思います。 >
御文における全体的な響きには、ある種キリスト教のような実体的な捕らえ方が濃厚の様に思えて仕方がありません。
また、上記のようなお言葉には、運命論に近いような強いイメージが浮かぶのです。 宿善を、呼びかけの言葉として自己に引き当てるならば、必然的に悲観的な情操が湧いてくるのは避けられません。
真宗の布教では、佛教でありながらこのような課題に関しましては全く触れられていません。(実体的な捕らえ方ー唯物論からの開放)
「凡夫だから実体的な表現である」では答えにはなりません。むしろ凡夫ゆえにそれに引っかかり、迷うのではないですかと私は申し上げたいです。 (迷うものに、さらに水を注ぐようなものではないかということ)
元々、凡夫は実体的な捉え方しか出来ないところに無明があるのですから。
昔、篤信なお方(妙好人)が、夏の暑い日に阿弥陀のご絵像を外の縁側に出して、暑いでしょうねと言ってウチワで扇いだという話もあります。 これが悪いと言うのでは決してありませんが。
しかしながら、現代人におきましては唯物論がはびこり、資本主義的な頭に凝り固まっているのが現状です。
このような状況下では、単に古い言葉の引用では中々受け取られがたいのではないでしょうか。
宿善とは何か。ではなく、一体何を示そうとされているのか これが問題です。 機の善悪を問われない本願。その本願がどうして過去世を云々しなければならないのか。
それとも、真実への方便なのか。このようなことを思っております。
僧侶でもなく、教団人でもない、一介の在家の者が変な質問ですよね。 もしかしたら、答えようがないような質問かもしれません。 まあ、こんなやつもおるということです。 読んでいただくのみでも結構です。
南無阿弥陀仏
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[ 988 ] Re3:宿善について
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2009/02/08 (Sun) 11:18
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現代人 様
こんにちは。泥凡夫でございます。
現代人様の疑問が晴れるか否か分かりませんが、少しお話させて頂けますか。
>宿善は真宗、いや蓮如上人においては中心的とも言える課題のようにも思えます。
なるほど、蓮師ほど宿善云々をうるさく言われたお方はおられんかもしれません。ただ、これは蓮師が独断と偏見で申されておることではありません。どちらかと言えば、御文はより実践に近いお話でございまして、蓮師は経論釈を元にして実践的な経験も加えて申されたことであると私は思います。
誰もが分け隔てなく救われるご本願であるはずなのに、何だか差別やある種の拘束があるようにもお感じになられるかとも思います。宿善・無宿善を自分を除いた人類全体のイメージで捉えると、そのように思えるのではないかと思うのです。
大事なことは、宿善・無宿善は他でもない、自分自身を問われておるのだということだと思うのです。自分はどうなのか。宿善がないのかもしれん。助からんのかもしれん。皆そう思うと思います。それは何故でしょうか。恐らく、自分自身の中の善行や悪行、諸善、諸行を見つめ、それを浄土に運ぼうとするからだと思うのです。また、そういった雑行・雑修・自力のこころでは往生できんことも聞いておられるわけで、正反対の現実に対する葛藤のようなものがせめぎ合うのかもしれません。
こういった状態にある時は恐らく、前にも後にも進まれず、弥陀の誓願など眼にも入らず、どうすれば宿善厚くなるだろうか。とか、少しでもよい行いをしてお助けに逢えるようにしよう。と精一杯の自力で頑張るのかもしれません。
そうではなく、南无阿彌陀佛だけで我等は易く往生できるのだという理をよき人を通じて頂くことが大事なのだと思います。
「安心決定鈔」の冒頭にご誓願の理が記されておりますが、なるほど、宿善とも重要な関わりがあると私は思います。
『仏は衆生にかわりて、願と行とを円満して、われらが往生を、すでに、したためたまうなり。十方衆生の願行円満して、往生成就せしとき、機法一体の南無阿弥陀仏の正覚を、成じたまいしなり。かるがゆえに、仏の正覚のほかは、凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚をなるゆえに、仏の正覚なりしと、われらが往生の成就せしとは、同時なり。仏のかたよりは、往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること、不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかわりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかもそうることはなきなり。』安心決定鈔
佛の方からは何の煩いもなく往生を既にしたためてあるにもかかわらず、その理を機が受け取るのはバラバラであるのでございます。御開山も和讃において、『三恒河沙の諸仏の 出世のみもとにありしとき 大菩提心おこせども 自力かなわで流転せり』と申されておりますように、過去世において、諸佛の出世にせっかく逢えたのにもかかわらず、自力の執心によって再び流転してしまったと申されております。
安心決定鈔に『凡夫は左右なく他力の信心を獲得することかたし。』とございますが、宿善なければ力及ばずなのだと思います。
現実というか、実践面で考えれば、現代人様に関わりのあられる全ての方が真宗を聞くかと言えば、それは否のはずでございます。そもそももって、宗教などというものに対してアレルギーをお持ちの方も数多いはずでございます。にもかかわらず、現代人様は真宗を聞き求められるわけです。弥陀の永い間のご養育の結果であると私は思うのであります。
大事なのは現代人様ご自身の宿善なのだと私は思います。過去世に自分が何をやらかして来たのかなど知る術は我等にはございません。ただ恐らく、ご本願には逢えずに流転して来たのだろうなぁ。とだけは想像できます。しかし幸いにしてこの度、真宗を聞くことができ、ご本願を頂くことを求める自分がいる。宿善無いかもしれん。と嘆くより、必ず助けるの南无阿彌陀佛を領解させて頂くことが現代人様には大事なのだと思います。
南无阿彌陀佛
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[ 989 ] Re4:宿善について
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2009/02/08 (Sun) 14:03
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泥凡夫様
御無沙汰しております。極道坊主であります。
寒中見舞いの時期も過ぎてしまいましたが、本年もよろしくお願いいたします。
あるがまま 様の御質問から起こったスレッドでは有りますが、自分も少し参加させてください。
>元々、仏教や浄土真宗では過去世のことをいいませんよね?ですので泥凡夫さんが宿善という言葉をどのような意味合いで使われているのかと思っております。
自分としては、佛教は「転生輪廻」を言いますので「過去世」の事を取り上げると思っています。 また、そのようにも教わってきました。 それは、方便なのかもしれませんが?
原始佛教ではどうかは解りませんが、チベットに伝わる密教は「転生輪廻」の考えがあると聞いていますので、「来世、現世、過去世」は云うのではないでしょうか?
それで、このスレッドの話題で有ります「宿善」でありますけれども、大きく捉えるならば「宿業」と言う事になるのだと思います?
生を受けている間に、二重、三重に重ねに重ねる行いの数々。(「宿業」においては罪の数々と聞かせて貰っております。) でありますれば、自分自身は救いの手には到底乗る事が叶わないと思います。
しかし、「其の中でも、良い行いの部分が宿業として残ることを「宿善」と言うのです。」とも聞きました。 違って居れば御指摘ください。
凡夫には、善を励む事は不可能かと考えますが、それでも佛の方より「善」として残るものを植えつけてくださるのだと感じております。 其の積み重ねによって、生まれ変わり、死に変わりする間に、今生で『真宗』に廻りあえたのではないでしょうか?
少なくとも人は、7回生まれ変わり死に変わりすると聞いたことが有ります。(体験が有りませんのでなんとも証明する事は出来んのですが。)
今、こうして蓮氏の御文の「宿善」の部分を取り上げて議論できる事自体、『宿善』の現われかと感じます。 縁の無いものは、宗教にすら興味を持たないのですから。(でも、そのようなひとたちへも如来の救いの手は及んでいると思います。)
蓮氏の御文、また真宗における先師の残された文献は、後の時代に聖人様を慕い、教えを聞こうとする者達への励ましの言葉と感じております。
それらにご縁を頂きまして、唯一度だけでも御念佛を発する事ができた者を阿弥陀様はお放しにならないと感じております。 『摂取不捨』のお誓いがあるのですから。(拡大解釈ですか?)
この、毎日様の建てられたこの場所に集われる方々は、皆洩れることなく佛様の御廻向によりまして『宿善』を賜られた方々だと信じております。
皆様のお心は既に御念佛が届かれまして本当の意味で『あけましておめでとう』なのでしょう。 また、この場所にご縁のある方々は、穢土(此岸)の大晦日をお迎えになられる方々ばかりなのだともおもいます。
真実、方便を問えば全てが方便になります。 突き詰める所、自分の心に起こります迷い自体も『救い』に至る為の方便だと戴きます。
名号自体が方便なのでしょうから、何が真実で何が方便なのかを論じる事もないのではないでしょうか?
今、現在を楽に過ごさせて貰う為の手立てが名号という形で現れているのだと感じます。(ごめんなさい。こんな簡単な言葉で表されるものではないのでしょうが。)
『宿善』と言う言葉は、その手立てに向かって進ませて貰っている私達の心を案じての方便と今の時点では感じています。
変な文章でごめんなさい。 文献を引いての証明をする事が出来ませんので、一個人の感想として聞いてください。
また、考え違いの点があるようでしたら御指摘くだされば有りがたいです。
合掌
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[ 992 ] Re5:宿善について
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2009/02/08 (Sun) 21:20
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極道坊主 様
こんばんは。泥凡夫でございます。 日々私事に振り回されておりまして、こうして皆様とお話しできる時間が有難いです。
スレッドの流れと異なりますが、ご聖典に関しまして感じることがありますので書かせて頂きます。三部経には隠顕がありますのでインド、中国、日本と伝わる間に様々な解釈が生まれたわけであります。そこで七祖はじめ祖師方は論釈として残して下さったわけであります。しかしそこにも隠顕があり、実に様々なというか多様な教義が派生したわけでございます。
極道坊主様もご存じかとも思いますが、真宗と銘打っておりますが、その実、様々な教義を持った流れが存在しておるわけであります。ここからはまったく私の造語でありますが、「ご聖典は色を変える」ということを感じるのであります。皆様がそれぞれにご縁あった場所で教義も学ばれることもあるかと思います。その流れ流れにおいて、ご聖典は色を持つと感じるのでございます。あくまでも私から見て、それは黒かったり、白かったり、赤かったり。どの色が良いのか、また私の有縁の道が皆様に何色に映るかも分かりませんが、拝読したり学んだりするにつけて、それぞれ色を持っておるんだなぁ。と思うのです。
教義云々を是非する時は、きっとこの色を是非しておるのですね。皆同じ色であればこれほど嬉しいことはないのでしょうが、やはり色が違っております。それもまた、一つのご方便なのかもしれまん。独り言になり申し訳ございませんでした。
南无阿彌陀佛
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[ 999 ] Re6:宿善について
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2009/02/10 (Tue) 15:15
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泥凡夫 様
早速ご教示いただき有難うございます。
宿善は、もしかしたら抑止門のような性格を持っているのではないかなとも 感じられます。
目前に、よき知識がおられるならば色々に愚痴って見たいような衝動に駆られます。
「必ず助けるの南无阿彌陀佛」であることには変わりありませんので、最終的には安心できます。でも聞かなければならないものが多いです。 安住するわけにはゆきません。
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●re.7
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毎日 |
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[ 1000 ] Re7:宿善について
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2009/02/10 (Tue) 15:54
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現代人 様
横から失礼致します。
そうですね、抑止門的な性格があるように思います。
泥凡夫様引いていらっしゃいますように
◎されば無宿善の機のまえにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かえりて誹謗のもといとなるべきなり(御文3-12)
でございますので。
愚痴れるというのは、良いことであると思います。
ただ、「いへいへ」(聞書86)とは申しましても、懺悔も大切なことだと思うのですが、真摯に語ったのに非難されたり、秘匿性が保たれないならば、教義を部分的に取り出して、悪用していることになるのだと思います。
(非難されていなくても、非難されていると感じることもあると思います。この場合には、よく話合ってゆけば、誤解が解ける場合もあると思います。)
そうなれば、安全なのは、「ひとりで(弥陀へと)愚痴る」ということになると思います。
そして、やはり、ニュアンスとしては、私どもが行えば、結果的に「愚痴」になってしまうわけですが、「懺悔」を目指すのだと思います。
私たちは、心の苦しみに導かれます。
私も日々、苦しんでいます。それでありながら、六字を尊いと思い、いただくことができている。
信をいただく前、信をいただいた後、自分では、変わったと思います。しかしそれはあくまでも信仰であり、実証ができるのではないのです。私が、私の心の中で、いただいていることです。
より正確に言えば、「信をいただいたのだ」ということを信じていることになります。
自身ではわからぬことばかりであり、ただ、目の前の道を歩むばかりです。
南无阿彌陀佛
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[ 1001 ] Re8:宿善について
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2009/02/11 (Wed) 07:11
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毎日 様
ご教示有難うございました。
色々なことが思い合わせられますが、毎日様の味わいを聞いていますと何処か開放感が 感じられます。
どうやら、ここに落ち着けそうな気がいたします。
南無阿弥陀仏
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[ 1002 ] Re9:宿善について
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2009/02/12 (Thu) 00:05
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泥凡夫様
極道坊主で有ります。 貴重な時間を割き、お話を聞かせて貰いましてありがとうございます。
教義に関してかなり疎い所が有りますので、自分自身が話に付いて行けて無い様な気がしてなりません。
また、自分の書き込ませて貰っておる内容は、皆さんにはちょっとと言うか、かなり色が違って映っているのでしょうね?
本来、真宗の教義について書き込むべき所なのでしょうが、場違いなコメントばかりで申し訳なく思います。
まさしく、泥凡夫様の仰るとおり、皆様が同じ色であれば嬉しく思いますし、納得し合える事も簡単なのでしょうが、何某か違うんでしょうね?
『御念佛』と云い現されるものは、本当は無味無臭、無色透明で何色でもないのでしょうが、もし色という物に重要性があるならば、自分は理解する事も、得る事も出来ないだろうと感じます。
本来ならば無色透明のものに向けて、私の好みの色をワザと付けて下さり、興味を示す所から始まるように差向けて下さったのも如来様の御廻向と感じております。 其の方便としての色はなかなかに払拭出来ないものなのかもしれませんが、色自体はさほど関係無い物のように思えてなりません? また、どの色が良いのか自分も解りかねますが、「十人十色」とも申しますし、「百者百様」と言う言葉も有ります。 其れを御存知の上での色付けかも知れません?
と言う事であれば、色も私にとって重要なのでしょうか? なんか支離滅裂な文章になってしまいました。
『御念佛と私が一つにして貰う事。』、佛様の方から云うならば『如来と凡夫が一つになる。』(表現が違いますか?)と言う事が最終目的なのでしょうから、「手立てはそんなに気にしなくてもいいのかも?」なんて思ったりもします。 (こちらからの手立てなんていらなかったんですよね? そうでした。)
自分は思い返すに、本当に教義とか、文献とかを学んでいません。 生活の中から色々な事を取り上げて貰い、其の物事に照らし合わせるようにして例え話的に法話を聞いてきたように思います。
其れが、私の発する色なのでしょうね。
ただそれでも、ここのサイトに集われる方々とは違ったお育てを経験しているかも知れませんが、『如来様のお心が届いて下さった。』と言う思いは感じておりますし、『救うて貰った。』と言う思いは消えません。 でありますから、この無精者の口を使って御念佛が出てくださるのでしょう。 佛様が不断に関わって下さって居ることに、ありがたさを感じております。
佛様の願いには、違いは有りません。 ただ、目的地に向かう道は一つではないのかもしれません。
この度も、自分の感想になってしまいまして申し訳有りません。
私は、真宗の教義について話す事が出来ませんので、この場は不向きですね。
またお話を聞かせてください。 合掌
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[ 1004 ] Re10:宿善について
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2009/02/13 (Fri) 15:54
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こんんちは、酒天童子です
>『五重の義をたてたり。一には宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義成就せずは、往生はかなうべからずとみえたり。
まずは人はその本質において(それを魂というか何というかは別として)輪廻転生するという考えは大切であると思います。 ひとがその一生だけの存在であると感じる方々はそもそも仏縁の浅い方かもしれませんね。 上記の五重の義の宿善とは、善智識に会う前の要件でありますから、善智識をもとめる性質を持つものであろうかと推測できます。 仏教では経文その他で善とか悪とか、因果応報を盛んに引き合いに出しますが、これは現代のように科学が発達して人々の学歴が高い今、説得力が乏しくなってきてはいるのではないでしょうか?
むしろ、人が七種類のどれかの家畜からはるか昔に人間として個人化して以来、くりかえし経験することから学んできたもの、それを善と呼び、まだ学ぶ必要の残されている部分を悪として捉えたほうがより現代的?ではありませんか?
人は学んでゆくものです。いや、人だけではないです。すべての存在は自分の存在の仕方を自ら決定しながらも、そこから何かを学び、十分に学んだと本質的な部分で認識すると今度はそれとは異なった形態に移行してゆくものです。これは物理的にも非物理的にもあてはまるのではないかと思います。
>自分自身の中の善行や悪行、諸善、諸行を見つめ、それを浄土に運ぼうとするからだと思うのです。
浄土とは何でしょうか? 私たちの次元では時空を認識できます、がより高い次元をなかなか認識できません。 最近ノーベル賞をとられた日本の南部博士は高い次元についての理解を世界的に広めた方でもあります。 たとえば超紐理論とか、、、 高い次元の存在がわれわれの時空に現れるとき、それらはどうも光という形態をとるようです。 つまり、高い次元はわれわれは光としてのみ物理的に認識できないのです。 またこの次元は二極性の世界です。善と悪、白と黒、陰と陽、まあ何でも二極です。 光だけは二極ではないようです(対称性を保っている) 光からスピードを落として質量を持った瞬間にいわゆる自発的な対称性の破れを引き起こします。 これは南部理論の非常に重要な部分です。 つまり、光は二極を超越しているわけです。 高い次元はすべて光として認識されるのもそういうわけであるのではないか? つまり浄土とはわれわれの時空のひとつ上にある次元である、と科学的に考えてみるのも面白いでしょう。
人の魂は輪廻を果てしなく繰り返しながら、ちょうど波が徐々に満ちていくように、少し進んでは少しさがる、それでもまったく同じ繰り返しではなくわずかながらでも進んでいくようなものではないでしょうか? そうしてある段階まで、この次元での経験を積み、理解が深まるとようやくさらに上の次元について想いをめぐらせるようになったりします。 ちょうどあるゲームをクリアしたから次のステージに行くようなものです。
そこで、この一念帰命という大事に遭遇する準備ができたとき、教師が現れます。 それが善智識でしょう。 そうして自然にこのステージ(二極性の娑婆世界)をクリアするのです。 もちろんその先にはさらに壮大で摩訶不思議な冒険が待っていることはいうまでもないですが(二次元の存在に三次元の壮大さはなかなか理解できないようなものでしょう)
光明はそのしるしです。
勝手な解釈ですが、現代人にも違和感がないようにアレンジしてみました。 まだまだ書き出すととまりませんから、一度やめにします。
南无阿彌陀佛
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[ 1006 ] Re11:宿善について
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2009/02/14 (Sat) 10:15
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こんんちは、酒天童子です
つづきです。
本来は経論釈は過去の高僧の解釈を踏まえてするものなのでしょうが、現代的に解釈しています。それがある意味理解を深めることにつながると、勝手に思っております。 笑って、読み流してください。
宿善、とはなんでしょうか?
これを単に過去世のよい行いの結果と捉えると、いろいろな議論のもとになります。 有限のものを足して、ついに無上の善に遭えることになるからです。
宿善とは、私達が永劫の流転のなかから学び取ってきたものがようやくある臨界点に達した状態だと考えるとわかりやすくなります。
臨界点とはそれを超えるとそのものの状態が劇的に変化する点です。 たとえばニトログリセリンやウラン238などは起爆剤によって臨界点を越してやると大爆発を起こします。
人間の魂も悪という失敗を繰り返しながら学び、少しづつ善という性質を獲得してゆき、やがて成熟度が臨界点に達すると善知識という起爆剤にあたる存在が魂の大爆発を起こす、という考えも面白いのではないでしょうか?
そうしてこの次元を超えます。もうすでに元の状態には戻ることはなくなります。
アーミーダー とはサンスクリットで無量という意味であるそうですね。
これは感無量などとも使いますが、質量が無い、とも解釈できそうです。
光には質量がありません。寿命もありません。宇宙空間を100億年以上かけて光が今も届いています。 釈尊の時代の言葉でこういうことをどうやって学問のない人に説明するのでしょうか?
無量光、無量寿、すばらしい訳ではありませんでしょうか? 12光佛(サンスクリット版では17光佛?)
アーミーダーとは本来、我々すべての生きとし生けるものあるいはすべての存在の存在原因、つまり物質が素粒子から成り立っているとしたら、素粒子は高い次元につながっている無限に細い紐の振動によって発生する理論によれば、まさに我々は本質的に光でしょう。
一切衆生悉有佛性
一切のものは実は佛性そのものであった。同じものであった。 こう読んでみるのも面白いでしょう。
南无阿彌陀佛
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[ 1007 ] Re12:宿善について
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2009/02/14 (Sat) 13:21
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こんにちは、酒天童子です。
ダーウインによって進化論が提唱され、生命は進化をしてゆくという考えが定着しました。
人間は個人的な観点からも集団的な観点からも、進化をしてきたとおもいますし、これからも進化し続けるでしょう。 人類という集団的な観点は今のところおいといて、輪廻転生をしてゆく個人の進化についてどのようなことがいるのでしょうか?
おそらくまずは個人的に生き抜くことが目的でしょう。 そのうち、より良くより楽に生活することが目的になりましょう。 ある程度生活が満足すると、今度は充足感を求めるようになります。自分の人生の意義などを考えたりするようになったりします。
そういった中で、時にはほかの人より優れたいとか、今の自分より向上したいとかも考えたり目指したりします。
そうしていつしかある”完全な存在”を目標にするようになったりします。
ところがここからが厄介なところでこの二極性の世界では完全さにぴったりと寄り添って不完全さがいつも顔を覗かせます。 結局この試みは失敗に終わるのですが、これを自力修行とも言ったりします。
問題はその存在がどの時点でこの試みを手放すことができるのか、ということではないでしょうか?
幸いにも自力修行の無意味さに気がついた人は、こんどは不完全さを受け入れる方向に転換します。
そうして視点を変えて、どうすれば完全になれるのかではなく、そもそも自分はすでに完全な存在ではないのか?と自問するようになります。
”ありのまま、あるがまま”を受け入れるようになり始めます。 自分の中の佛性に気がついたのです。
悟りから最も遠い人とは自分には悟りが必要だと固く信じている人です、と誰かが言いましたが、自分は何かが足りないと思い込んでいただけだった、と気がつくのでしょう。
進化とは自分が佛であったことに気がつく旅路であったのです。
このように捉えてみるのもちょっとした一服になればよいと思って書いてみました。
南无阿彌陀佛
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