・選択したスレッドを表示しています。返信は▽downのフォームからどうぞ。 (「メール送信」ボタンを押すと、書き込み作者宛にメール送信ができます。ヘルプ)(「編集」ボタンで記事の編集ができます。)
|
|
|
[ 784 ] 「摂取不捨」の御心について
|
2008/10/09 (Thu) 06:00
△up ▽down
|
|
どなた様でも結構ですので、教えて下さい。
私は、ここの掲示板でも何度も、「摂取不捨」の事で質問してきました。
讃嘆の場所よりは、ここの場所の方が適切だろうと思って、ここに移動しました。 私は、「摂取不捨」の御心は、どんなことがあっても阿弥陀様は捨てないと思っているので、だから安心していられるのだと思います。
そこで、質問なんですが、 救われた後、謗法罪を犯した場合、そういう方も必ず極楽往生出来るか否かです。 私は、出来ると思うのです。
今生で考える悪業だけを捉えている以上の悪業を重ねてきた筈です。 これは私の知恵をはるかに超えるものだと思います。 丁度、氷山の一角と言われますが、到底私には想像もつかないです。
仏と菩薩の間でも、大無量寿経には「独佛のみ知ろしめり」と説かれており、菩薩さへも、その因果の道理は其の奥を知ることが出来ない。 ましてや、凡夫の私です。
私は、この真実信心を頂いても、それを貶したり、忘れてしまったら申し訳ないという思いが起きて、それでは理不尽ではないかという凡夫の定規で計っているのだと思います。
もう、佛智は、はるかそれを超越したものではないかと思えますので、ここまできたら、やはり凡夫は、頂いた事を喜ぶしかないのだと思います。
こんな風に考えたのですが、 如何なものでしょうか?
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 785 ] 教えて下さい
|
2008/10/09 (Thu) 15:49
△up ▽down
|
|
金剛心と申します。毎日樣にお答え致します。 阿弥陀様は目に見えないのに何故見えるとか存在するとかにre.7で私の 見解を書きました。これを疑問に持って居られる方にお答え致します。 先ず一念帰命を戴いた方(信心獲得された方)を対象とします。 皆様方は何を思って何を信じて信心獲得されたのでしょうか・・・? 『阿弥陀経』の中に「是より西方十万億の仏土を過ぎて世界有り、名づけて 極樂と曰う。其の土に仏まします、阿弥陀と号す。今現にましまして説法 したまう」とあります。 真宗では浄土三部経が基本ですよね。宗教とは、目に見える・見えないとかの科学等は別次元のはずです。昔の天動説が現在は地動説のように科学は時間をかけて理論の証明をしていくものです。 釈迦仏は既に現在の科学のおよばない所を説いてあるのです。(唯識論等) 仏法(仏智)とは不可称、不可説、不可思議も基本としなければなりません。 その上で仏道を時間をかけて歩いてゆくなかで、人によっては不思議な体験をすることもあります。 仏は三世了達の智慧を以って絶対界(理界、無色無形)に居られるのです。 相対界(この娑婆世界)に居る知恵では到底理解出来ないし目にみえないのです。 人間の心の知恵を分析すれば、十二因縁の最後の無明とあります。 これは過去にも未来にも末通らない知恵の持主を無明と言うそうです。 人間の持つ無明の知恵では極樂には行けないのです。 無明の知恵を仏の智慧に一念帰命で置換えて菩薩道そして仏道を歩みたいものです。 真宗の根幹に関わるとは何を指して仰るのですか?まさか本山のように次第相承の善知識さんまでも否定するのではないでしょう。 仮名聖教の末燈鈔、口傳鈔、最要鈔、一念發起抄等を読んで下さい。 真如界と極樂世界の違いを理解されていますよね。 合掌。 。 > > > >
|
|
|
|
[ 786 ] Re1:教えて下さい
|
2008/10/09 (Thu) 22:37
△up ▽down
|
|
こんばんは、酒天童子です。
菩提心様
わたしはなんにもわかっておりません。まずはそのことを念頭に置いていただきたいです。
摂取不捨、とか、信心決定、とか、往生治定、とかいいますよね。
おそらく、こういう菩提心様の疑問は過去数千年にわたって繰り返されてきたのではないかと思います。
なぜそういうことが言えるのかというと、過去の高僧の文言に諸説紛糾して困っている様子がつねに窺えるからです。
そうして、ときどきに偉大なる師匠が所説を一つにまとめ、それまでの異見、異論を統べてきましたが、また数十年たつとまたもや諸説が紛糾するとういうありさまを繰り返してきたのが仏法伝来の歴史ではないかと、最近つくづく思います。
ご開山がなぜ、真宗といったのか?ご開山の没後わずか30年で何故”歎異抄”なる書物が生まれたのか、推して知るべしであります。
仏説は釈迦入滅以後の結集から編纂がはじまりました。釈迦は生前はいわゆる”ひとりしのぎ”であって、ほとんどの弟子を伴にすることはなかったようです。
そのかなで、阿難は比較的釈迦に付き添う時期が長かったため、結集の際に中心的な役割を果たしたようです。
ですから、我かくの如く聞く、あるいはかくの如く我聞きぬ、などの我とは実は阿難のことをさしているという学者も多いわけです。
そこで、菩提心様の質問になりますが、いわゆる”無量寿経”にありますように、法蔵菩薩の誓願の中で”第18願”に”唯除五逆謗法”の有名なる一文があります。
わたしは無量寿経の原典は当然仏説であると思います。 しかしながら、無量寿経が人の手によってパーリ語あるいはサンスクリット語で書き記されたのは、文献学者の言うように釈尊入滅後、数百年たってからであると思います。 これは、文献学を多少なりとも勉強するならば自明の論拠があるからであります。
数百年、たとえば400年を経て、釈尊の偉大なる説法を誰かが転写しようと試みた場合、いったい何が起こりえるか考えた人がいままで一体何人いるでしょうか?
おそらく、その人は当時のサンガ(教団)の中心人物であったに違いないと感じます。なぜなら、そのくらいの知識、教養、見識がなければ経典の制定など許されるはずはないからです。
そのとき、その教団の指導者の心中はこのようだったのではないでしょうか?
”わたしは釈尊を心から尊敬し、帰依します。この釈尊の本当の仏法を私はなんとしても後世に伝えなくてはなりません。この尊い仏法を広めるためには教団、信徒、威容をほこる伽藍が必要です。また、この仏法を誹謗したり、教団を分裂させたりするものがいては困ります。ですから、釈尊のご意思に従えば五逆謗法はもってのほかでありましょう!
かりにもし、私がそのときに仏教の指導者であり、仏教、あるいは釈尊の教えがばらばらになり、あるいは将来にわたって失われるような状況にあった場合、このような考えには当然賛同するような気がいたします。
そのときにその指導者がかりに”一文”を釈尊の意思に従って入れたとしても誰が非難できましょうか?いや、非難せなばなりませぬが、、、。
とりあえず、皆様のご意見を拝聴いたしたくての書き込みであります。
金剛心様
まずは、金剛心さまの求道心に尊敬の心を表します。
阿弥陀様は目に見えないのに何故見えるとか存在するとかにre.7で私の >見解を書きました。これを疑問に持って居られる方にお答え致します。 >先ず一念帰命を戴いた方(信心獲得された方)を対象とします。
まずは、一念帰命をしていると確信(信心獲得)していると認識しているものです。
>皆様方は何を思って何を信じて信心獲得されたのでしょうか・・・?
まず、信心獲得までは何も信じてはおりませんでしたし、特に何かを期待をしていたわけではありまん。。これでは答えにはなりませんでしょうか?
>真宗では浄土三部経が基本ですよね。宗教とは、目に見える・見えないとかの科学等は別次元のはずです。昔の天動説が現在は地動説のように科学は時間をかけて理論の証明をしていくものです。。
賛成です。宗教とは本来、証明ができないものであるとの認識、ご同感であります。 そうして、おっしゃるように、ながい将来にわたって永遠に理論的な説明、科学的なアプローチが不可能であるとは思ってはおりません。いずれは人類の大多数が世論として賛同するようになるとは思うものでもあります。ただし、愚見であります
>釈迦仏は既に現在の科学のおよばない所を説いてあるのです。(唯識論等)
必ずしも、およばないかどうかは今の科学をどのくらい知っているかにもよるのではないでしょうか? 二重盲検実験の例もあるように、現代科学も”試験者の期待値によって実験の結果が左右されうる”ことは認めております。つまり、唯識にも現代科学のメスが入ってきたとは言えないでしょうか?
また、超ひも理論その他によると物理的世界とは、それとは別次元の世界がなんらかのつながりをもって、そうしてこの現象世界が構成されているようであります。
>仏法(仏智)とは不可称、不可説、不可思議も基本としなければなりません。
経典のどこにそういう基本的な認識があるのか教えていただければ幸いです。 当時の科学や認識に仏法の説明をできる用語や概念がただたんになかったかもしれない、とはお思いになれないでしょうか?
>その上で仏道を時間をかけて歩いてゆくなかで、人によっては不思議な体験をすることもあります。
まったく、同感であります。
>仏は三世了達の智慧を以って絶対界(理界、無色無形)に居られるのです。 >相対界(この娑婆世界)に居る知恵では到底理解出来ないし目にみえないのです。
理解できないのは賛同いたします。目に見えないのはどこから、どこまでかが問題になるのではないでしょうか?多少は見える人もいるのではないのでは?その可能性も否定できるのででょうか?
>人間の心の知恵を分析すれば、十二因縁の最後の無明とあります。 >これは過去にも未来にも末通らない知恵の持主を無明と言うそうです。 >人間の持つ無明の知恵では極樂には行けないのです。
だからこそ、他力の方法を残していたわけですよね。それは金剛心様もたぶん賛同されるはずです。と思います。
>無明の知恵を仏の智慧に一念帰命で置換えて菩薩道そして仏道を歩みたいものです。
とっても勉強になり、ありがたいことです。金剛心様ありがとうございます。同じくそのように思い、歩みたいと思います。
南無阿弥陀仏
|
|
|
|
[ 787 ] Re2:教えて下さい
|
2008/10/10 (Fri) 10:25
△up ▽down
|
|
酒天童子様
金剛心様
御返事有難うございます。
私は、本当に難しい事は、何も分らないのです。 分らないのですが、「摂取不捨」の身にさせて頂いて、とても有り難いと思っています。
心が変えられてきている事が実感できるのです。 今まで、ずっと無間地獄に堕ちると聞かされてきた、その後生暗い気持ちは全く起きてきません。
でも凡夫なんです。 大宇宙の宝という宝を頂いている筈なのに、毎日愚痴っている凡夫なんです。
だから、救われてもなお、頑張る必要って無いはずなのに、頑張ってみたり、落ち込んでみたりして、フっと深いため息なんて出てくるんです。
弥陀を頼んだものは、平等に救うのが、阿弥陀様の本願では有りませんか? まず、弥陀を頼むものがいない希な中で、なお、それ以上の善に励まなければならないのか私には、そこが疑問なんです。
「摂取不捨」の御心が信じられたから、何にも出来ない私でも、極楽往生できるのだと思っていますが、それは間違いでしょうか?
この二河の道を進むだけですが、この先どういう事があるかも知れません。 どのような逆境がきても、いつも有り難いと思って、御恩報謝の御念仏を称えられる私がいるかどうか私には自信がありません。
だから「摂取不者」の御心が有り難いと思います。
私は、諸仏にも見捨てられた女人です。 48願には、重ねて35願まで誓われた女人です。
私は、親鸞聖人が肉食妻帯され、そして蓮如上人が、ハッキリと女人往生を現された事が有難いです。
ですから、正法の時代なら、貶したりすると往生は適わないように戒めの為にそう書かれたかも知れないとも思いますが、今は末法の時代ではないですか?
私は、諸仏にさえ逃げられ、末法の時代に生を受け、この機根のどこにこれ以上の善など出来るというのでしょう。
弥陀を信じられた事が、有難い。 それは、私から起こす信心ではないから一層有難い。 全て阿弥陀様から廻向された信心ならば、やはり私は、全てお任せした時点で、縁ある人は平等に救われていると思うのです。
済みません、お二人へのご助言の回答にはなっていないと思いますが、ご返事頂いて嬉しいです。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 788 ] Re3:教えて下さい
|
2008/10/10 (Fri) 22:37
△up ▽down
|
|
菩提心様
私も「摂取不捨」の救いであることに間違いないと思っています。
もちろん、死んでみなければ分かりません、とも言えます。
因果を知る知恵も後生を見る目もない凡夫ですから。
煩悩が減るわけでもないのに、後生くらい心は、無くなってしまいました。
「不退転」と言われているのですから、何があろうともこの信心は無くならないと思います。 人間のすることで壊れるような信心なら、金剛心とも言われないでしょう。
仏様を嘘つきにするわけにはいきません。
本当に有難い信心なのだなぁとうれしく思うばかりです。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 789 ] Re4:教えて下さい
|
2008/10/11 (Sat) 16:27
△up ▽down
|
|
菩提心樣、酒天童子樣、その他念仏行者の皆々樣方へ こんにちは、金剛心と申します。 今までの書き込み文を見せていただいて私が思うに、他力真宗に於ける経論釈文等は当然読まれていらっしゃるとは思いますが、内容を何処まで吟味して理解されているのかなと思える点が儘あると思われるのですが? 蓮師の一代聞書に諸経読みの諸経読まずともあります。 信心決定と信心獲得、往生一定(入正定聚)と往生治定(住正定聚)、報土と報中の仮土、凡夫と菩薩。他力の中の他力と、他力の中の自力等の釈文の一つ一つ区別された文章に気付くこともいると思われます。摂取不捨の文言も摂取不捨の後に往生があるのですが、その往生とは不体失往生ですから、 この娑婆が報土となります。往生は身体の往生ではなく心(魂)の往生です。 (大経には魂神精識と五悪訓誡の処に一箇所だけ魂の用語があります参照されたし)宗祖親鸞聖人は信巻で「信心」と言うは則ち本願力廻向之信心なり。「歓喜」と言うは身心悦豫之貌をあらわすなり。證巻で「未證淨心の菩薩」とは、初地已上七地以還の諸の菩薩なり。等菩薩道、仏道精進の道を五十二段の物差を使って示されています。ですから往生とは死んでからではなく、現生で等覚を求めて精進すべきだと思います。(等覚までは現生正定聚) 不可称、不可説、不可思議等の文は御文五―六通、正像末和讃、阿弥陀経等にあります。行巻に凡夫道とは、出世間道(菩薩道)とはについて書かれています。抑止文がありますのでどこまで書けばよいか迷うのですが公開では部分的にしか書くことが出来ません。字数制限もありますので・・・ 他力真宗は経・論・釈を読んで数珠の如くひとつに繋がらないといけないはずです。ですから部分的に理解した積りでも全体で領解判断すべきだと思います。 南無阿弥陀仏
|
|
|
●re.6
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 790 ] Re5:教えて下さい
|
2008/10/12 (Sun) 10:28
△up ▽down
|
|
金剛心 様
◎世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す(総序)
私は、逆謗闡提の徒でありますから、釈尊に深く感謝するのです。
円融の六字には、欠けるものは無いといただいております。
無論、日々の生活を整え、仏法に沿った道を歩もうとするのは、私にとり、精進の真似事をすることであり、御恩報謝として大切なことと思うのですが、凡夫の私には所詮は真似事の域を出ることはありません。
十悪の愚かな身ですので、この凡心は、自分でもいかんともしがたいのです。
それでも、親の真似をしてよろこぶ子供のように、仏道の真似事をしていて、そして救われることがありがたいのです。
真似でありながら、落ち着いた心持ちでいられるのは、信心いただいているからに他なりません。ありがたいことです。
私のような真似事ではなく、仏道をそのまま歩まれる方も、いらっしゃるのだと思います。
それは、とてつもなく素晴しいことです。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 791 ] Re5:教えて下さい
|
2008/10/13 (Mon) 10:24
△up ▽down
|
|
金剛心様
お返事有難うございます。
私は、讃嘆の場所にも書きましたが、ただジャンヌ掲示板の中の「自信教人信」様のお書込みを直感的に信じたのです。
>他力真宗に於ける経論釈文等は当然読まれていらっしゃるとは思いますが、内容を何処まで吟味して理解されているのかなと思える点が儘あると思われるのですが?
済みません、本当に私は教学的には、よく分りません。 他の方はどうか分りませんが、私には教学的には分らないし、 初めてジャンヌ掲示板を読んだ時も、ただ御文100回読んで見なさいと言われるから、読んで見ようと思ったのです。 探しなさいと言われるから、探そうと思ったのです。
>蓮師の一代聞書に諸経読みの諸経読まずともあります。
金剛心様も御指摘のように、智慧あるお方は、御聖教を読み取ることも出来るでしょう。
しかし、私は救われる為には、 御文5−2 「それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす、たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者としいへり、しかれば当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしれたりといふとも、一念の信心のいはれをしらざる人は、いたずら事なりとしるべし、されば聖人の御ことばにも一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、ふっとたすかるといふ事あるべからずとおほせられたり、このゆへにいかなる女人なりといふとも、もろもろの雑行を捨てて一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみ申さん人は十人も百人もみなともに弥陀の報土に往生すべき事、さらさら疑いあるべからざるものなり あなかしこあなかしこ」
当流のこころは・・・あながちに あながちに→(副)(下の打消の語や反対表現を伴って)必ずしも。めったに。決して。
の上記の御言葉のように、次第相承の善知識様より、南無阿弥陀仏の六字の謂れを御聞きし、そして弥陀を頼んだのです。
ジャンヌ掲示板をプリントアウトしたものを、今も読んで驚いていることは、 「次第相承の善知識」「掟」「割符」「抑止文」も知らずに、でもどうしても探さなければと、行動に移しました。
そして、今このように書いています。 私は、「往生の鏡」と言われる御文を拝読させて頂いて、有り難いと思っています。
どうして、弥陀を深く頼んだ人は、十人も百人もみなともに弥陀の報土に往生すべき事、さらさら疑いあるべからずと書いてあるのに、
>内容を何処まで吟味して理解されているのかなと思える点が儘あると思われるのですが?
のいうようなご質問が出てくるのでしょうか?
一文不知の尼入道でも助かるのに、どうして、吟味する必要があるのですか。 吟味出来ない私は救われていないということですか。 金剛心様は、蓮如上人の御文を信じられないのですか。
>他力真宗は経・論・釈を読んで数珠の如くひとつに繋がらないといけないはずです。ですから部分的に理解した積りでも全体で領解判断すべきだと思います。
全体で領解判断すべきだと思います。 私は、そのような「すべき」とういうような書き込みには、違和感があるのです。 どうしてすべきなんて言えるのですか? それはあくまで金剛心様のご意見では有りませんか? では、弥陀の前で、頼む人の中には、判断出来ない赤子や痴呆の人は助からないのでしょうか? 金剛心様の理屈ではそういう事にはなりませんか?
私も、7様のように、「死んでみなければならない」と思います。 後生は死んでみなければ分らない事だけれど、 確かな事は、救われて喜んでいる現実の私がいることです。
泥凡夫様や毎日様の御言葉を信じて、それで導かれたこの道をただ歩いて行くだけです。
南无阿彌陀佛
|
|
|
●re.8
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 792 ] Re6:教えて下さい
|
2008/10/12 (Sun) 12:07
△up ▽down
|
|
金剛心 様
>字数制限もありますので・・・
1回の投稿は、1万字まで大丈夫なはずです。
また、1つのスレッドは100件まで投稿できますので、1スレッド100万字まで大丈夫なようになっています。
どうか遠慮なく、ご投稿下さい。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 793 ] Re7:教えて下さい
|
2008/10/13 (Mon) 17:17
△up ▽down
|
|
> 菩提心樣その他の念仏行者の皆々様方へ 金剛心です [ 791 ]の書き込み読ませて頂きました。 歎異抄には弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり。又同抄に往生には学問を要せざる事ともあります。 蓮師の一代聞書に「お文は凡夫往生の鏡なり」等と有り凡夫が往生するまでの文であることがわかります。問題は往生した以後のことを私が重視するからなのです。菩提心樣は凡夫が往生するまでの釈文と往生した以後の釈文と混同視されている処があると思われるのですが如何でしょうか、因願と成就の関係です。 前回にも記したことがあると思いますが、往生は不体失往生、体を失わずに往生するのでそれは一文不知の尼入道・赤子・痴呆でも学問しなくても往生一定なのです。往生したと云う往生とは仏界のどこへ体失せずして往き生れたのかそれが問題なのです。祖師聖人は真仏土巻に、大悲の誓願に酬報するが故に真の報仏土と曰うなり。又選擇本願之正因に由りて真仏土を成就せりとあります。いわば報土は弥陀の誓願(行信ともいう・行巻)そしてその報土には煩悩があると記されている「惑染の衆生此に於て(真仏土)性を見ること能わず、煩悩に覆わるゝが故に」とあり、報土に於ても煩悩があるから人間娑婆界であることがわかる。その報土の中に仮土(化土ではない)があるのです(仮と化の字の違いに注意)。 歎異抄最終に悲しきかなや、幸に念仏しながら直に報土に生れずして辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに信心異ることなからんために、泣く泣く筆を染めてこれをしるす。名けて『歎異抄』というべし。外見あるべからず。とあります。真仏土巻最終に「報土中假土」仮の仏土の業因千差なれば土復應に千差なるべし。是を「方便化身・化土」と名く。の文言があるのです。報土界は往生した以後の世界のことである。往生は一定ではあるが治定とはかぎらないのです。このことは釈文等を見れば理解出来るのではないでしょうか。凡夫が阿弥陀仏の願力で報土(真仏土)へ往生させ菩薩位に付けたと仰っているのに何故書き込みでは凡夫、凡夫だと書かれるのでしょうか身体は凡夫でも心(魂)は菩薩の仲間入りしていることを理解して頂きたいのです。この処が理解されないと阿弥陀樣や宗祖聖人に対して反発(疑い)することになるのです。赤子や痴呆の人は疑うことはありませんから心配せずとも阿弥陀樣にお任せでよいのです。 凡夫が阿弥陀仏に摂取されたその後、心を切替えてて菩薩道を精進すべきだと考えます。法然聖人の和語燈録に「往生のためには学問すべからず、但し念仏往生を信ぜんためには学問すべし」と両語等のあることを御存知でしょうか。菩提心樣の言われるように往生するためには教学は必要ないのですが現代では「往生」とか「還相廻向」とかは死んでからと布教師や坊さんが話されるのを真にうける人が大半ですがそれでは、宗祖や覚如・存覚・蓮如上人等と相違したのでは折角頂いた極樂往きの切符が化土行きになるのでは勿体無いのではないでしょうか。 又善導大師の玄義文に「信取之者懐疑要引聖教来明欲使之方能遣惑」とあり、訳して「信を取る者疑を要す、聖教を引いて明り来たらしめこれを聞かん者をして方に能く惑を遣らしめんと欲す」となり信心を取る者は疑いが出るから聖教という明りでその疑いの惑いをなくして行け、との念仏行者に対して善導大師の注意文であります。私も一念帰命頂いて四十年間精進していますが未だに勉強中の身です。 最後は菩提心樣の信心も私の信心も変わることのない信心とならなければいけないのです。宗祖御傳繪(御傳鈔)に「源空が信心も善信房の信心も更に変わるべからず」とあります。信心が変わるから異見・異学・異執の相違が出るのです。正像末和讃の佛智疑惑和讃(二十三首あり)参考されたし。 私の云いたい結論としては信心を頂いて体失して即極樂往生する人と化土に行く人(それでも五道閉)とに分かれることを心配するためにこれを書いているのです。 法然聖人の「念佛為本」の上で親鸞聖人は「信心為本」となさったのです。その流れを汲む一念帰命の同朋行者は疑いのない金剛堅固の信心となりたいものです。抑止文とは観経の顕彰隠密だけではなく教行信證からお文のはてまでいろんな釈文まで抑止がかかっていることもわかって下さい。 念佛も称えるものと一般の方々は勘違いなさっているが(称えるは口業のみ) これも抑止の中の一つだから詳しくは書けないのはおわかりのことゝ思います。 南兂阿弥陀仏 南兂阿弥陀仏。
|
|
|
●re.10
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 794 ] Re8:教えて下さい
|
2008/10/13 (Mon) 19:27
△up ▽down
|
|
金剛心 様
さっそくのお書き込み、ありがとうございます。
深く感謝致します。
金剛心様と私とでは、考え方に違いがあり、そこのところについて、思うところをお書きしたいと思います。
十分には書けないかもしれませんが、いずれ追加の書き込みも行ってゆこうと思っております。
まず、私と異なりますのは、弥陀がくださる信心では化土往生になってしまう可能性があり、その後の行者が精進する信心によって報土往生が叶う、という論です。
◎しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに(歎異抄第1条)
とございます。
まさるべき善がなくても、小さい善を足してゆくということでしょうか。
それとも、この「念仏」とは、後念相続のお念仏を指すというお考えなのでしょうか。
また、歎異抄後記
◎かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと
この「念仏」とは、専修念仏ではなく、他力の中の自力の念仏を指すのではないでしょうか。
金剛心様と私とでは、同じ歎異抄を御拝読しておりましても、大分解釈に差があると思います。
同じく歎異抄後記
◎源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。されば、ただ一つなり。
また、金剛心様のお書き込み
>最後は菩提心樣の信心も私の信心も変わることのない信心とならなければいけないのです。
この両者は、私には違う内容に感じられるのです。
彌陀から賜る信心は、清浄であるが故に、はじめから、すべて同じであり、「ただ一つ」であると、私はいただいております。
もはや、行者が付け加える必要もなければ、さまたげることもできない、金剛の信心であると思います。
◎まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし(真仏土巻)
これは、自力による往生を指しているのであって、自力であれば、行者によって業因が異なるということなのではないでしょうか。
一方、他力であれば、彌陀から賜る信心を正因とするが故に、因は同一になると思います。
信を取るものは疑いがでるのだから、後念相続をし、お聖教で確認をし、「なるほど、これでよいのだ」とよろこんでゆくことができるのだといただいております。
私の考えは、稚拙な論であると思いますが、納得のできないことは、やはり納得ができないのです。
また、「称える」には、秤量の意もあるのですから、口業と限ることもないのではないかとも思います。
彌陀から信をいただけば、それで往生治定といただき、よろこんで、お念仏となえております。
>往生は一定ではあるが治定とはかぎらないのです。このことは釈文等を見れば理解出来るのではないでしょうか。
◎これらの文証みな無常の根機を本とするゆゑに、一念をもつて往生治定の時剋と定めて、いのちのぶれば、自然と多念におよぶ道理を明かせり(口伝鈔)
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 795 ] Re9:教えて下さい
|
2008/10/13 (Mon) 23:18
△up ▽down
|
|
金剛心 様
こんばんは。泥凡夫と申します。 金剛心様の言わんとするところは分かるつもりです。
しかしながら、捉え方の相違だけでは済まない部分も多々見えます。
>最後は菩提心樣の信心も私の信心も変わることのない信心とならなければいけないのです。
信一念で賜る信心の体は南无阿彌陀佛であります。まったく弥陀の清浄心をそのままを受け取る故に、頂く行者にいささかの違いも無いのであります。それを凡夫側よりあれこれ計らうことは既に「義」がある状態といえます。計らいがあるということです。自力信であればそれは当然「各別の信」になりますので、受けるところの果も異なるのは当然であります。
『改邪鈔』17の「おなじく祖師の御門流と号するやから、因果撥無と云う事を持言とすること、いわれなき事。」に誤りを諫めておいでであります。よくお分かりであると思うのですが。
同末尾を引用します。
『いま報土得生の機にあたえまします仏智の一念は、すなわち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚のくらい滅度に至ると云うは、すなわち仏果なり。この仏因・仏果においては、他力より成ずればさらに凡夫の力にてみだすべきにあらず、また撥無すべきにあらず。しかれば、なにによりてか「因果撥無の機あるべし」ということをいわんや。もっともこの名言、他力の宗旨をもっぱらにせらるる当流にそむけり。かつてうかがいしらざるゆえか。はやく停止すべし。』
また続いて『改邪鈔』18「本願寺聖人の御門弟と号する人々のなかに、知識をあがむるをもって弥陀如来に擬し、知識所居の当体をもって別願真実の報土とすという、いわれなき事。」においても誤りを正しておいでであります。
夜中の法門の邪義を言われた後に顕彰隠密の義について下記のように記されております。
『またきく、祖師の御解釈『教行証』にのせらるるところの「顕彰隠密の義」というも、「隠密」の名言はすなわちこの一途を顕露にすべからざるを「隠密」と釈したまえりと云々 これをもってのほかの僻韻か。かの「顕彰隠密」の名言は、わたくしなき御釈なり。それはかくのごとくこばみたる邪義にあらず、子細多重あり。ことしげきによりて、いまの要須にあらざるあいだ、これを略す。』
抑止門が何のために誰を対象に設けられておるのかは経論釈に通じておられる金剛心様であれば既にお分かりのことと思います。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 796 ] Re10:教えて下さい
|
2008/10/14 (Tue) 12:11
△up ▽down
|
|
金剛心様
お返事有難うございます。
金剛心様は、一念帰命頂いて40年間精進され、尚未だにお勉強中との事、とても頭が下がります。 私は、まだ信心決定して1年にも満たない、ほやほやの者として、御理解下さい。
毎日様や泥凡夫様の御回答には、十二分にお答えいただけるでしょうが、私は、お二人のように、まだ聖教も良く理解出来ないのですが、ただ「やっぱり可笑しいな」と思う事を私も書きたいと思います。
>往生は不体失往生、体を失わずに往生するのでそれは一文不知の尼入道・赤子・痴呆でも学問しなくても往生一定なのです。往生したと云う往生とは仏界のどこへ体失せずして往き生れたのかそれが問題なのです。
>凡夫が阿弥陀仏の願力で報土(真仏土)へ往生させ菩薩位に付けたと仰っているのに何故書き込みでは凡夫、凡夫だと書かれるのでしょうか身体は凡夫でも心(魂)は菩薩の仲間入りしていることを理解して頂きたいのです。この処が理解されないと阿弥陀樣や宗祖聖人に対して反発(疑い)することになるのです。赤子や痴呆の人は疑うことはありませんから心配せずとも阿弥陀樣にお任せでよいのです。
>凡夫が阿弥陀仏に摂取されたその後、心を切替えて菩薩道を精進すべきだと考えます。
上記のお書込みで、私は金剛心様が、自力の御修行をされているのかと思ってしまいました。
例えば、横川法語では 信心あさけれども本願ふかきゆゑに、たのめば必ず往生す、念仏ものうけれども称ふれば定めて来迎にあづかる、功徳莫大なる故に本願に遇ふことを喜ぶべし、また云はく 妄念は凡夫の地體なり、妄念のほかに別の心は無きなり「臨終の時までは一向妄念の凡夫にてあるべきぞ」と心得て念仏すれば、来仰にあづかりて蓮台に乗ずる時こそ妄念をひるがへして覚の心とはなれ、妄念のうちより申し出したる念仏は濁りにしまぬ蓮のごとくにて決定往生疑あるべからず。 源信僧都は、地獄・極楽の絵まで描かれたお方でも、臨終の時までは一向妄念の凡夫であると言われています。
そして、その来迎を、親鸞聖人は末灯鈔の最初から 「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるが故に、臨終といふことは諸行往生の人にいふべし、未だ真実の信心を獲ざるが故なり、また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて勧らるゝ時にいふことなり、真実信心の行人は摂取不捨の故に正定聚の位に住す。」
その摂取不捨の御心を蓮如上人は 御文2−4 「夫れ、弥陀如来の超世の本願と申すは、末代濁世の造悪不善の吾等ごときの凡夫のために発したまえる無上の誓願なるが故なり、然者(しかれば)、これを何とやうに心をも持ち何とやうに弥陀を信じてかの浄土へは往生すべきやらん、更にその分別なし、詳しくこれを教へたまふべし」 答へていはく「末代今の時の衆生はたゞ一すじに弥陀如来をたのみ奉りて余の佛・菩薩等をもならべて信ぜねども、一心一向に弥陀一佛に帰命する衆生をば、いかに罪深くとも、佛の大慈大悲をもて救わんと誓ひたまひて、大光明を放ちて、その光明のうちに摂め取りまします故に、この意を『経』には「光明遍照十方世界・念仏衆生摂取不捨」と説きたまへり、されば、五道・六道といへる悪趣に既に赴くべき路を、弥陀如来の願力の不思議として、之をふさぎたまふなり、この謂れをまた『経』には「横戴五悪趣・悪趣自然閉」と説かれたり、故に、如来の誓願を信じて一念の疑心なき時は、いかに地獄へ堕ちんと思ふとも、弥陀如来の摂取の光明に摂め取られまゐらせたらん身はわが計いにて地獄に堕ちずして、極楽に参るべきなるが故なり、かやうの道理なるときは、昼夜、朝暮は如来大悲の御恩を雨山に蒙りたる吾等なれば、ただ口につねに称名をとなへてかの佛恩を報謝の為に念仏を申すべきばかりなり、これ即ち真実信心を得たる相とはいうなり。あなかしこ あなかしこ 文明六、二月十五日夜、大聖世尊入滅の昔をおもひ出でて、灯下に於て老眼を拭ひ筆を染め畢りぬ。 満六十 御判
金剛心様は、衆生済度も出来る菩薩様なのでしょう。 しかし、矛盾するんですよね。 どうして、赤子や痴呆の人は疑う事がないから心配せずに阿弥陀様にお任せできるのであれば、過去7様のようにその場で死ぬほうが、阿弥陀様を疑って、疑惑和讃に書かれているような辺地や胎宮に生れることもない訳ですよね。
蓮如上人が涙を濡らしながら、釈尊を思い出し、御恩報謝のお念仏を称えられたか、私にはその御心が知らされます。 ほやほやの信心決定の身ですが、これも弥陀から頂いた真実信心ですので、御文をそのまま味わえるのです。 だから、真実信心頂いた人の信心には、差別等出てきません。 皆、平等です。
という思いですが、間違っていたら、教えて下さい。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 797 ] Re11:教えて下さい
|
2008/10/14 (Tue) 20:46
△up ▽down
|
|
菩提心樣念佛行者の皆々様方へ 金剛心です 菩提心樣は蓮如上人のお文等は良く読んでいられると推察致しますがお文の中には、阿弥陀仏・阿弥陀如来・弥陀如来・阿弥陀仏(アミダホトケとフリカナ付)等の仏に対しての用語が使いわけされて多く出ていますが、その一句一句に対する使いわけの深い意味が含まれていることを御存知ですか・・・ これも抑止文になっていますが菩提心樣が一念帰命を聞かさせて頂いたそのお方に再度尋ねてみては如何でしょうか。そのお方ならば必ず教えて頂くことが出来ると思います。お文等にはその他自分では理解に苦しむ文など数多く書かれています。ですからそのお方に訊ねられてお聞きなされるほうが自身が金剛堅固の信心成就に登る(證)近道になると思います。皆様のお近くに居るのでしたらいろんな釈文等(観経四帖疏・六要鈔或は仮名聖教他)で説明出来るのですが、公開のホ―ムぺ―ジでは一寸難しいところがあります。それが実に残念に思います。このことを含めて[ 790 ]書き込みの「吟味する必要が儘ある」とか「全体で領解判断すべき道」等に当る私の書き込みです、今の菩提心樣ならば必ず了知了解して頂けると思っております。 私の地では月に二回同行者同士集まって成就に向って菩薩道に於ける勉強会が行われています(私の師は近くに在住されています)。 機会があれば皆様方とお会いして語り合いたいものですネ。 愚老樣の御意見等も拝見させて頂ければと思っているのですが・・・。 [794・795・796]に対するお返事は次回にさせて頂きます。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。
|
|
|
|
[ 798 ] Re12:教えて下さい
|
2008/10/14 (Tue) 22:04
△up ▽down
|
|
金剛心さま 愚老と言います.初めまして宜しくお願い申し上げます。私とて信心決定し40数年後念相続衆生済度,又云々〔抑止),尊い如来さまに少しのご恩報謝と年ばかり重ねていて参りましたが。 教学的には一切無知でとても皆様との問答にはお答えできる佛智恵はもち合わせて居りません。 唯,金剛心さまの申されて居られる文面は全て愚老の知識さまが長年申された事と一寸変わりません。愚老の浅知恵ですが納得合点致します。 金剛心さまの痛いほどの心痛が解るゆえ私(愚老)の知恵ではとてもとても。黙示無言で投稿し無かったんです。抑止門故。善知識に浅深あり、行者に浅深ありと以前書置き致しましたのは、何も浅いから深いからと卑下した様ににあしらって居るのでは絶対御座いません。あくまで頭を土下座にして謙虚一杯の気持ちで申し上げて居るのです、これも過去世の縁であり各々の宿縁と思われるからです。佛教書による皆様のお知恵は法然様に劣らずの尊いお知恵で御座います。 信心も同じ真実信心です。如何ご説明申し上げればご理解いただけるでしょうか、赤子と大人 菩薩と如来、10段と52段,いや難しい御座います。
金剛心さまの書きこみのこの娑婆が報土となります。往生は身体の往生ではなく心(魂)の往生です。 (大経には魂神精識と五悪訓誡の処に一箇所だけ魂の用語があります参照されたし)宗祖親鸞聖人は信巻で「信心」と言うは則ち本願力廻向之信心なり。「歓喜」と言うは身心悦豫之貌をあらわすなり。證巻で「未證淨心の菩薩」とは、初地已上七地以還の諸の菩薩なり。等菩薩道、仏道精進の道を五十二段の物差を使って示されています。ですから往生とは死んでからではなく、現生で等覚を求めて精進すべきだと思います。(等覚までは現生正定聚) 不可称、不可説、不可思議等の文は御文五―六通、正像末和讃、阿弥陀経等にあります。行巻に凡夫道とは、出世間道(菩薩道)とはについて書かれています。抑止文がありますのでどこまで書けばよいか迷うのですが公開では部分的にしか書くことが出来ません。字数制限もありますので・・・ 愚老もこの事の要は〔等覚までは現生正定聚)文書にての説明では愚老の知恵で皆様にご理解できる説明は出来かねます。 玄中様も愚老の想像ですがこの件について引かれたのでは無いかと思います。 金剛心さま。皆様には尊いお知恵でご説明お願い申し上げます。宜しくお願い致します。合掌・
|
|
|
|
[ 799 ] Re13:教えて下さい
|
2008/10/14 (Tue) 23:09
△up ▽down
|
|
皆様こんばんは。
有縁の善智識さまがお近くにみえる金剛心さまを羨ましく思います。
摂取不捨の件につきまして、御文章を引いてみます。
一念に弥陀をたのみたてまつる行者には 無上大利の功徳をあたへたまふこゝろを 和讃に聖人のいはく 五濁悪世の有情の選択本願信すれは 不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり この和讃の心は五濁悪世の衆生といふは一切我等女人悪人の事なり されはかゝるあさましき一生造悪の凡夫なれとも 弥陀如来を一心一向にたのみまいらせて 後生たすけ給へとまうさんものをは かならすすくひましますへきこと さらに疑へからす かやうに弥陀をたのみまうすものには不可称不可説不可思議の大功徳をあたへましますなり 不可称不可説不可思議の功徳といふことはかすかきりもなき大功徳のことなり この大功徳を一念に弥陀をたのみまうす我等衆生に廻向しましますゆへに 過去未来現在の三世の業障一時につみきえて 正定聚のくらゐまた等正覚のくらゐなんとにさたまるものなり このこゝろをまた和讃にいはく 弥陀の本願信すへし本願信するひとはみな 摂取不捨の利益ゆへ等正覚にいたるなりといへり 摂取不捨といふはこれも一念に弥陀をたのみたてまつる衆生を光明のなかにおさめとりて 信するこゝろたにもかはらねはすてたまはすといふこゝろなり このほかにいろ〜の法門ともありといへとも たゝ一念に弥陀をたのむ衆生は みなこと〜く報土に往生すへきこと ゆめ〜うたかふこゝろあるへからさるものなり あなかしこ〜
「過去未来現在の三世の業障一時につみきえて」とあります。この一時とは信の一念の時ですから、ここで言われている未来とは信後のことになります。 信の一念の時、信後の罪もきえてしまうと、蓮如上人は教えてくださっているのではないでしょうか?
とはいえ、信後半年のよちよち歩きの自分が生半可な教学であれこれ申し上げても恥をかくばかりかも知れません。
私の場合近くに同行の方がみえず、善智識様も遠方でありまして、あれこれここに書いてしまいました。 やはり直接有縁の方にお話を伺うべき時期のようです。 皆様との早く再会したいなぁ、との思いが募ります。
南无阿彌陀佛
|
|
|
●re.16
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 800 ] Re14:教えて下さい
|
2008/10/15 (Wed) 00:07
△up ▽down
|
|
愚老 様
私は謙虚とは程遠い、傲慢な機でありますので、
>浅知恵ですが納得合点
>あくまで頭を土下座にして謙虚一杯の気持ちで申し上げて居るのです
このようなことを聞きますと、「本当かな?」と試す気持ちがムクムク湧いてくるのです。
これは、私の心に、愚老様に対してだけでなく、「他人」に対しての疑いがあるからなのです。
そのような私の感性では、愚老様は、「愚」と名乗りながらも、自らを「知っている」とみなし、あくまでも自らを正しく、他を間違っているとしてお書きになっているように感じられます。
本当に、どうしようもない私でしょう?
諸佛が匙を投げるのが、納得されるのでございます。
「浅知恵での納得」であれば、他を否定する必要が、どうしてあるのでしょうか。
頭が土下座になるかどうか、お会いすればすぐにわかることですが、それを試そうとも思わないのです。
「わかってほしいから土下座になる、土下座で御願いする」それは尊いことです。
そして、四十年の相続、これも尊いですが、永劫の流転からすれば、一瞬の誤差に過ぎません。
文章読むだけでは、修辞かどうかわかりません。
ただし、文面からは、「謙虚一杯」とは読めないのです。
私が傲慢なものですから、自らに引きつけて読んでいるからかもしれません。
このようにどうしようもない私ですから、おそらく皆様にも、手に負えないような存在であると思います。
だからこそ、弥陀をたのんだのだと言えます。
このように書いているだけでも、自らの狭い心が知らされます。
まったく、どうしようもありません。
金剛心 様
>ですからそのお方に訊ねられてお聞きなされるほうが自身が金剛堅固の信心成就に登る(證)近道になると思います
「金剛堅固の信心成就に登る」とのことですが、私と金剛心様とでは、真宗の捉え方が違うのです。
さらに「登る」必要性を感じているのは、金剛心様なのであって、私は、また別の考えを持っております。
ですから、「近道」というのは、金剛心様の捉え方であって、私は、「既に終えた」という考えであり、その御恩に、報謝のお念仏を称えております。
つまり、もはや近道も何もありません。辿り着いたのだと思っております。
私から見れば、金剛心様は、六字では足らぬとしているように見えるのです。
◎信心のひとは正定聚にいたりて、かならず滅度に至ると誓ひたまへるなり(一多証文)
この「かならず」は、どのように釈されるのでしょうか。
六字では足らないとして、追加の教えを行じてゆくのと、六字で足りていながらも、希望があれば学んでゆくのとでは、大分差異があるように、私には思えます。
◎「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり(一多証文)
「無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず」とございます。
しかし、私には真実はわかりませんから、金剛心様が、ご自身の道をお登りになるのを、防げる気持ちはありません。ご自身の信じる道を、歩まれて下さい。
私は誤っていて、地獄に堕ちるかもしれません。
それでも、私には、私のこれまでの(今生における)歩みがあり、真宗の「真」の字に、うなずけるものがあるのです。
「同意が必要」というのは、幻に過ぎないと私は思っています。
「私ひとりのため」で良いのです。
残された御文からのことではありますが、本当に、親鸞聖人を尊敬しております。
タイムカプセルのように保存された角筆も、いずれ公開されると思っております。
そこで、自らの領解が確認できる日が来ることを楽しみにしております。
私は、私の道を歩みます。それは、愚鈍な道であり、六字に尽きており、他を必要としない道です。
そして、私は今のところ、この教えに落ち着いており、安堵しており、よろこんでいるのです。
疑い深い私がよろこべていることが、私はうれしいです。
もちろん、凡夫ですから、いつ考えが翻らないとも限りません。
それでも、今こうしてよろこべている。これまでも、よろこべてきました。
それが、うれしいです。
7 様
こうしてネットでお会いできること、テクノロジーの発達に感謝しております。
ひとり歩む道とは言えど、弱い凡夫ですので、共に賛嘆する機会があれば、誠にうれしいことです。
「三世の業障一時につみきえて」究極であると思います。
真宗は、究極の教えを説いていると、私は思います。
十全であり、欠けるところの無い教えだと思うのですが、そのことが領解できるのがすごいことです。
近くに参るときがあれば、必ずご連絡致します。
また、こちらにいらっしゃる機会があれば、ぜひご連絡ください。
南无阿彌陀佛
|
|
|
●re.17
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 801 ] Re15:教えて下さい
|
2008/10/15 (Wed) 00:00
△up ▽down
|
|
菩提心 様
>救われた後、謗法罪を犯した場合、そういう方も必ず極楽往生出来るか否かです。 >私は、出来ると思うのです。
私の考えでは、救われた後、誹謗罪を犯さない機は、ほぼいないのではないかと思います。
五逆も為していないかと言えば、意業まで含めれば、私は簡単に犯してしまっております。
私のような凡夫というのは、殺意も簡単に出す程に、おそろしい存在なのです。
だからこそ、私は聖道ではどうにもならない自分がわかります。
自分でコントロールできる自分ではありません。
しかし、釈尊は、あっと言う間に悟れるようなことをおっしゃっています。
それが私はどうしても解せませんでした。
その謎は、真宗で解けたのです。
私の場合は、善行と言っても、名聞にまみれております。
善行をコストと捉え、そのリターンを考えるような発想が、どうしても同時にはたらいてしまいます。
真宗でなければ、私は救われなかったことでしょう。
六字に感謝しております。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 802 ] Re16:教えて下さい
|
2008/10/15 (Wed) 07:31
△up ▽down
|
|
書き込んで下さった皆様へ
私は、いつも書きながら、その後、本当に掲示板をすぐに開けるのが怖いのです。
自信があって、人に分って欲しいと書いているのではないからです。
私は、私の領解を書いているのです。
自分が往く後生なのです。
他人では有りません。
自分が心底納得しなければ、どうにも落ち着いていられないではないですか?
愚老様の優しさも、身に沁みております。
でも、やっぱり、私は私の信じる道を歩みたいと思います。
地獄に堕ちる身は、私自身が知っています。
秘密の塊のような私です。
それでも、それは私が知り得た一部にしかすぎません。
現に私は愚老様をどれ程傷つけているか知れません。
知らないところで、人を傷つけ、 同じ様に生きている者を殺しているのです。 そして、私は今生きていられるのです。
そういう私は、そんな私だと全て分っていて 頼んでくれよと言われる、阿弥陀様にすがったのです。
それも、今すがったのではないと思います。 過去、何度も何度もそう言われながら、信じられずに逃げていた筈です。
私は、自分の信じられた道を歩むしかないのだと思います。
御存知だとは思いますが、強制されてきた道では有りません。
自分が信じてきた道です。
自信教人信様、泥凡夫様、毎日様のお書込みを、自分で領解してきたのです。 そして、それは御文と「割符」が合う事を、私は時間が増す程に有り難く拝読出来ます。
人間に生まれ、浄土真宗の家に生まれ、今このように皆様に御助言頂ける身が、本当に有り難いと思います。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 803 ] Re16:教えて下さい
|
2008/10/15 (Wed) 07:59
△up ▽down
|
|
毎日さま 愚老とて貴方の仰る私は謙虚とは程遠い、傲慢な機でありますので・・ 当然他人から注釈されると腹もたち、心は慢心一杯のぐうたら老人です。しかし絶えず善智識からは念仏の行者は慢心程恐ろしい病は無いですよ。おらが、私が・・このが〔我)を取っておらのような、私のような,出来るだけ、げす心になりましょう、と,何10年聞かされて参りました。12礼拝・観音頂戴冠中住 種々妙相寶荘厳 能伏外道魔驕慢 故我頂礼弥陀尊 如何にもならない愚老ですが毎朝弥陀さまに謝徳礼拝の気持ちで拝読させて頂いて居ります・
そのような私の感性では、愚老様は、「愚」と名乗りながらも、自らを「知っている」とみなし、あくまでも自らを正しく、他を間違っているとしてお書きになっているように感じられます
毎日さま初め皆様の信心決定間違っていると一行も書いた覚えは有りません反って愚老のうな無知故,皆様のお知恵は法然様に劣らず素晴らしいと誉めたたえて居ります・
毎日さまには毎日さまのご縁の善智識が居られます。愚老には愚老の善智識さまが居られます 夫々善智識の次第相乗された佛知恵は又夫々です・ ご縁、因果ゆえ.お互い、慶遠宿縁・これより致し方御座いません。 愚老とて浅知恵ゆえ難儀な談義は年寄りには無理です。合掌・
|
|
|
●re.20
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 804 ] Re17:教えて下さい
|
2008/10/15 (Wed) 16:01
△up ▽down
|
|
愚老 様
>反って愚老のうな無知故,皆様のお知恵は法然様に劣らず素晴らしいと誉めたたえて居ります
たしかに、言葉の上では、誉めている内容が出て参ります。
しかし、誉めたたえていらっしゃるとは、感じられないのです。
もちろん、これは、「誉めてほしい」ということではありません。
愚老様の表面上のご発言と、こころで思っていることに、矛盾があるように感じられ、こころでは誉めずして、言葉で誉め、言葉こそが外に現れるものですから、それによって、「誉めている」としているように感じられます。
もちろん、他心通なき凡夫の繰り言に過ぎません。
実際、謙虚に頭が下がり、愚老様が浅知恵で、私に知恵があるとお考えであるならば、私に伝わるように、もっと表現を工夫していただければ、「なるほど綺語ではないな」と私も思うかもしれません。
なぜこのようなことを申すかと言いますと、甘言を弄して人をコントロールしようとするのは、仏道に反すると思うからなのです。
愚老様のお書き込みからは、今のところ、菩薩道とおっしゃりながら、綺語が多く感じられるのです。もちろん、これは私もそうですので、なるべくズバリ書けるように、こうして試みております。
このように、私は、愚老様のことも疑う、疑い深い心を持っております。
泥凡夫様のことも疑えば、菩提心様のことも疑います。
そして、疑い、確認し、少しずつ、得心することが増えてゆくような、遅々とした歩みを重ねております。
恥ずかしい限りですが、これが私だとあきらめ、また、そのような道を歩ませていただけることに、感謝の思いがございます。
愚老様は、本当に、私が「法然様に劣らず」とお考えなのですか?
菩薩の行には、不綺語はないのでしょうか。
私からすれば、私には一切経を何度も読むこともできませんし、覚えることもできませんし、法然様には及ぶべくもないと思っております。
>愚老とて浅知恵ゆえ難儀な談義
私が書いているのは、「南无阿彌陀佛は、無上の善であり、十全なのであるから、凡夫の側から足す善は無い」ということです。
「難儀」というよりは、意見が違うということなのではないでしょうか?
これだけ立場が違うのに、「同じ信心」とお感じになる理由も、私には、よくわかりません。
十全の信心と、さらなる行によって足す必要があり、さらに磨き上げる必要がある信心とでは、大きな差があるように感じられるのですが・・・
私は、如来から完全なる信心が廻向されたことをよろこぶのです。
そして、違うことを恐れる必要もないと思います。
ひとりひとりの道であると思います。
ひとがつくも離れるも、すべてお任せであると思います。
南无阿彌陀佛
|
|
|
●re.21
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 805 ] Re18:教えて下さい
|
2008/10/15 (Wed) 16:12
△up ▽down
|
|
金剛心 様
やはり疑問がありますので、続けてお書き致します。
[ 789 ]往生一定(入正定聚)と往生治定(住正定聚)・・・等の釈文の一つ一つ区別された文章に気付くこともいると思われます
[ 793 ]往生は一定ではあるが治定とはかぎらないのです。このことは釈文等を見れば理解出来るのではないでしょうか。
とございますが、
◎信心をえたるひとは、かならず正定聚の位に住するがゆゑに等正覚の位と申すなり(御消息)
は、どのように解されるのでしょうか。
ここにも、「かならず」とございます。
「区別された文章に気付く」「釈文等を見れば理解出来る」等、あくまでも「私は知っているが、あなたは知らない」という立場からのご発言のように拝されます。
それは、金剛心様の自信の表れであるとも思うのですが、自信は、さほどの根拠にはならないと思うのです。
もともと、凡夫は、「自分は正しい」と思い込みやすい性質を持っているのだと思います。これは、私も同じです。(同時に、「自分は間違っているのでは?」という不安も抱いてしまうという、なんとも哀れな存在なのでありますが・・・)
少なくとも、六字に不足があるのであれば、要が違うと感じます。
私の信心は、六字には、すべてが含まれており、もう、これで足りていて、尽きているというものです。
南无阿彌陀佛
|
|
|
●re.22
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 806 ] Re19:教えて下さい
|
2008/10/15 (Wed) 20:46
△up ▽down
|
|
それにしても、読み返してみて、なんとも心の狭い自分であると思います。
なぜ、反発してしまうのでしょうか・・・
「良いことを教えよう」としてくださっていることはわかるのに、それをどう受けとめたら良いのか、理解できていないのだと思います。
親切心を感じるだけに、どう反応したら良いのか、その心持ちが自分に準備されていないのだと思いました。
閲覧してくださっている方に、不快な思いをさせてしまっているだろうと思います。申し訳ないです。
こんな自分だからこそ、南无阿彌陀佛。
やはり私の意見よりも、南无阿彌陀佛です。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 807 ] Re20:教えて下さい
|
2008/10/15 (Wed) 22:03
△up ▽down
|
|
金剛心 様 愚老 様
こんばんは。
金剛心様と愚老様には有縁の善知識様と御同行がおられ、長い間ご相続なされてきた御心をお伝えされたいお気持ちであることは痛いほど分かるのです。
さりながら、私共にも有縁の善知識と御同行がおり、私共の領解というものがあります。是非に及ぶ必要のないことは分かっておりますが、一言も二言も多いのが哀れ私のすがたなのであります。
私は南无阿彌陀佛の六字の尊いお謂れを聞き開き南无阿彌陀佛を我が身に頂き、南无阿彌陀佛と報謝して生きる以外の何者でもないのです。
南无阿彌陀佛に我等の願行悉く具足し、南无阿彌陀佛にすべてを委ねた上には、私の方から何も持ち出すものなどありませんので、せめて南无阿彌陀佛を報恩の大行として申す以外にないのであります。
全ては南无阿彌陀佛の六字にある。そういうことを聞き開かせて頂いたのであります。 私は、これ以外で往生する道は存知しておらんのであります。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 808 ] Re21:教えて下さい
|
2008/10/15 (Wed) 23:39
△up ▽down
|
|
こんばんは酒天童子です。
今回の一連の投稿を読ませていただいて、おそらくこういうやりとりが二千数百年続いてきたのであろうと感じます。
皆、尊い、そうして他の人たちを代表する、他の方々の参考になる意見を表明していると感じます。
そうして、今自分がこの状況をのぞき見る機会を与えられていることに、実は身震いがするような興奮とよろこびを感じているのは不謹慎かもしれませんが、、、
毎日様、泥凡夫様はじめ菩提心様様、愚老様、金剛心様、そして7様、皆々様がたはきっと弥陀の遣いではないか、と思ってしまいます。
このように意見を出し合わなかったら、きっと意義のあるものは生まれてこないのでしょうね。表面だけですりあわせて、あてこすって、そうだそうだでは、、、信念を戦わせなかったら、そんなものは偽善なのだと、皆さんから教えてもらっているようです。
後世にこの掲示板の役割は大きな意味を持ってくるでしょう。そう感じます。
わたしは皆様ご存じの信心浅きものです。軽はずみにいろいろ書きこみました。 その恥ずかしい汚点を差し引いても、ここに掲載されている皆みな方のこころからの書き込みは、きっと釈尊の時代から今までのすべての議論や今後に考えられるすべての考えを包括しているように思えます。
たぶん、真宗の同行の多くは金剛心様や愚老様に近い認識をもっている人が多いかもしれませんね。 それが人間的、常識的であるとも感じます。ドストエスフキーではありませんが、”罪と罰”は私たちの普遍的なそうして根深い観念でもあります。
毎日様のようなとらえかたをできる同行は少なくとも私の周囲には存在しません。 だから、いつもわたしは虚心坦懐になって毎日様のお言葉を受け止めたいと願っています。
ありがたいと感謝すると同時に、自分自身これからもより一層の理解を深めることを自分は求めていきたいと思います。それがよろこびでもあります。
菩提心様、
いつもその文面からあなたのかざらない率直な、そうして正直なお心が伝わってきます。ありがとうございます。
あなたはいつも自分の言葉で話されます。わたしはいつもそんなあなたの態度に温かいものを感じています。
立場や状況、環境は異なれども共感をする次第です。
いつもまとまりがなくて申し訳ありません。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 809 ] Re22:教えて下さい
|
2008/10/16 (Thu) 05:30
△up ▽down
|
|
酒天童子様
こちらこそ、温かい御言葉頂戴して嬉しいです。
初めて、次第相承の善知識様より、お年寄りの御同行のお姿を御聞きして感動したのです。 「腰が随分曲がっているおばあさんで、いつも御文3冊を持って、御文の場所を引きながら、周りの御同行の方々にその喜びを伝えておられる姿は尊いものが有りますよ。 いつもそのおばあさんの周りには、一杯人が集っていたね。」
私は、御文に書いてあるように、智慧がなくても、喜んでいる姿を見て、何かしら惹きつけられるものを感じるのではないかと思います。
信仰って理屈ではないと思います。 私も、そのおばあさんのような人が理想なんですけど・・・・。
毎日様は、ハッキリとした書き方で、正直私も「えー」ってびっくりすることが有ります。 でも、これって逆から言えば、絶対間違って欲しくないところは曲げない。 それは、読んでいる人には、とても良い事だと思います。 毎日様の言いたいことが、私のような教学的に無知な者にでも、よく理解出来るからです。
酒天童子様の書き込みもとても有り難いです。
仏法を語れる場があっていいですよね。 色んな方の信心を聞けることも、とても勉強になります。
この道は、ただ有縁の道を信じるしかないのだと思います。
この先、このHPがどのように展開していくのか、私もすごく楽しみです。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 810 ] Re23:教えて下さい
|
2008/10/16 (Thu) 16:31
△up ▽down
|
|
毎日樣へ 金剛心です 私は何度か書込みをした中に真宗は経論釈が根本基本であると書いて来ました。阿弥陀仏の五劫思惟兆載永劫の御心を思えば釈迦仏(初代善知識)の経を主とし、七高祖等の論そして高祖方の釈を見て絶対仏道を精進すべきであると結論付けたのです。大経下巻に「仏の教法に於て該羅して外無し」解せばそんな薄絹で作ったすぐにでも破られるような安い法を作ったのではない。未来迷える衆生を真実真理の絶対界へ往生させる為に五劫思惟兆載永劫の御修行なされた事を思えば、仏の期待に沿うように懸命に仏道精進しなければならない身でもあるのです。 私は今迄の書込み等では真宗教に於て大筋の他力教の道理だけでも皆様方に了知して頂きたい為の書込みをして来ました。他力教を細部まで知るには先ず「会通と転語」「事と理」「同体異名」この三点が理解出来なければいくら経文を読んでも、真宗の勧学でも、理解することが出来ないのである。と私の師からの口癖を自分でも理解して他力教がどうにか理解出来る様になったのです。私は今迄皆様方だけではなく真宗本山とも手紙等で弥陀の報土は極樂浄土ではない、現生が報土であると主張して来ました。その報土にはいろんな読方の別名があることも念仏行者の方々に知って頂きたいのです。十八願にも多くの別名があるのです。これも会通転語が基本となっています。 「夫れ眞實の教を顕さば、則ち『大無量壽經』是れなり」とあり大経が真実なのです。なぜ大経が真実なのか、念仏行者の皆様方はそんなことを考えて見られたことがありますか。他力本来の真宗思想(教義)を変えたのは清沢満之(明治時代の教学指導者に多大な影響を与えた人物)と思われる。その清沢師でさえ大経や歎異抄は難解で理解できなかったと著書に記しているのであります。それ程他力真宗は奥が深いのです。特に未安心者は大経を了解しようと努めても絶対理解出来ないような書き方になっているのです。還相廻向の菩薩の方々に書かれているからです。還相廻向左訓に「普賢の振舞いをせさせて衆生を利益せさせんと廻向しまします心なり」とあり、他力教は阿弥陀仏の願力によって報土(四十一地菩薩位現生)に往生させて頂いている、それが宗祖聖人の教行信證の根本説です。だから身には仏光円頂があるのである(尊号真像銘文参照)。凡人には見えなくとも、その仏光円頂を頂きながら仏道を精進するのであります。そして證巻に「菩薩但初地に登れば、漸を以て増進して、自然に當に佛と等しかるべし」とあります。漸とは自分の努力を意味する、即ち弥陀の十八願を背にして今度は自分の努力で四十八地(不動地、二河白道説、愚禿鈔、真要鈔他)の成就の貌位まで進んで来いよの知らせの釈文を顕すのである(貌とは暁のこと)。そうして四十八地位に到達出来た行者を真実信心の行者というのであります。「一念多念文意」に「信というは金剛心なり」とあり、又「唯信鈔文意」には「信はうたがう心なきなり、即ちこれ真実の信心なり」とある、この釈文を見れば成就の信であることに気付く。信心にはいろんな解釈がある。ただ信心といえば十八願を顕わし真実信心とか、信一字の記入は十一願成就の貌位を指すのです。信心獲得もそうである。獲は因位の時、得は果位の時なり。信心は十八願(因・仏種のこと)そして十一願は果であり真実信心になります。次に念仏ですが私は歎異抄の最終を記したが、悲しきかなや、幸に念仏しながら直に報土に生れずして辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに信心異なることなからんために、泣く泣く筆を染めてこれをしるす。一室の行者とは信心の行者を指す。正定聚は信心という(過去未来現在の業障が消滅)は住正定聚とは書かれていない。[ 799 ]中部の男性の書込みに、正定聚と等覚の間に「また」と書かれていますがその「また」に要注意。大功徳の「大」も要注意。 毎日さんはこの念仏とは専修念仏ではなく、他力の中の自力の念仏を指すのではないでしょうか。とあります宗祖の裏面に於ての念仏とは全く相違します。念仏にも表と裏があるのです。他力の中の自力を報土中の仮土というのです。なぜ「中」という字が入れられているのか、他力の中とは十八願に遇った人を他力の中というのです。即ち未證浄心の心を持つ菩薩のことであり、菩薩界へ生れたばかりの赤子を指すのです。それを他力では十八願の仏因を頂いたというのです。道理から云えば生れたばかりの赤子を指してどうして大人といえるのでしょうか。何回も書きますが大願を仏種とも仏因とも信心ともいうのです。その菩薩界へ誕生した赤子の位をなぜ信成就の信(大人)とされるのかそれが道理に反するのではないでしょうか・・・。又念仏に就いては毎日さんは真問真答抄をお持ちではないと思われますので省きます。 又毎日さんの言われるように弥陀の本願を頂けば信である(前記した金剛心の信)とすれば成就の菩薩は何をすべきか釈文等を読まれている毎日樣の答とは思われない解答です。前回にも記した「菩薩の御恩報謝(仏恩報謝)とは二種の廻向(往相・還相)を十方に等しく広めることをいうなり」と六要鈔に有り、又成就の菩薩とは「自身住持の楽を求めず一切衆生の苦を抜かんと發するが故に」證巻、そして還相廻向の左訓釈を見ただけでも理解出来るように毎日樣自身は何をすべきか自然と了知出来るはずですが[ 754 ]「南無と帰命とタノム」に「このしあわせを求める方にはぜひ知ってほしいと思いますが私にはいかんともすることが出来ません」の書込み有り、往生治定(住正定聚)位にいると書かれている毎日樣と釈文に書かれている文と道理が合致しないのではないでしょうか。又愚老樣宛に「私は誤っていて地獄に堕ちるかも知れません」等の書込みも有りますが仏を信じている仏を信じていると云いながら何故このような書込みをなされるのか私には不可解なのです。尊号真像銘文には「悪趣自然閉」というは願力に帰命すれば五道生死を閉ずる故に「自然閉」というなり、とあり五道生死を閉じたという宗祖の言を信じられないのでしょうか。蓮師の一代聞書に「聖教は句面の如く心得べし、其上にて師伝口業はあるべきなり、私にして会釈すること然るべからざる事なり」とあるのですが。毎日樣はなぜ他の念仏行者に対して暴発的な書込みをなされるのでしょうか、信成就である信を頂いていると云いながら、全く慈悲心の無い菩薩になって見えますよ。眞俗二諦の意味をしっかりと了解して頂きたいと苦言させていただきます。 書込みの中[ 800 ]で「かならず」はどのように釈されるのでしょうかの問がありますが大経下巻に「設ひ世界に満てらん火をも、必ず過ぎて要めて法を聞かば、會ず(かならず)當に佛道を成じ、廣く生死の流を度すべし」とあります。この意訳をみれば「かならず」の語は二回有ることの意味を把握して頂ければ了解出来るのではないでしょうか。滅度は大乗の滅度を指し、現生等覚位(正定聚)を指し、小乗の滅度は灰身滅知と云い、いわば身が灰となり知恵もなくなり人間死することを指します。 毎日樣も一般念仏行者に対して指導的立場に立つ方ですから畢竟輭語を以ての書込みに期待致しておりますので宜しくお願い致します。 中部の男性樣へ[ 799 ]の書込みに「五濁悪世の有情の選擇本願信ずれば不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり」の和讃ですが、この和讃で重視する所は「信ずれば」の語に注意点があるのです。「信ずれば」(信ずることが出来れば)とは未来形を顕す文であるから、もし十八願の信心を得て自身も未来(十八願以後)の等覚に向って精進して成就の菩薩の「信」になることが出来ればとなり、成就の菩薩の信になれば、不可称・不可説・不可思議の功徳が自身にそなわるのです。又化身土巻に堅固勇猛の心を發すことあらば一切の衆魔壊すること能わず、とありこの文も「あらば」「信ずれば」「至れば」等の釈文は未来形を指すのです。このような文字句に注意が必要だと思います。それが蓮師の一字一句加減すべからずと言うのです。又釈文には大功徳とか大般涅槃とか文章の頭に「大」の字があれば皆四十九地以上を示すのです。四十八地を教化地四十九地に至れば仏性を聞見すとある。真仏土巻。 昔の歌に、大黒に貧乏神が追い出され家の外でしくしくと泣く、 大黒が貧乏神に追い出され家の外でしくしくと泣く。このように「が」と「に」の一字違いで意味が全く逆となるのです。だから一字一句注意して読むことが肝要なのです。 愚老樣へ白樺ハイツで一度お会いしませんか。 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
|
|
|
●re.27
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 811 ] Re24:教えて下さい
|
2008/10/16 (Thu) 21:29
△up ▽down
|
|
金剛心 様
>仏の期待に沿うように懸命に仏道精進しなければならない身
というのが、御主張の根本にあるようなのですが、まず、「仏の期待」について、私が思うことです。
如来は、私の機を知ろしめしておいでであり、だからこそ、私のために、御修行くださったのだと理解しております。
如来の大慈悲心からすれば、私は他人ではありませんので、ご自身のことと捉えてくださり、私のために御修行くださいました。
正に、慈父であり、慈母であります。
そして、「仏の期待」とは、「我をたのめよ」ということであると、いただいております。
そして、「懸命に仏道精進」これも、「弥陀をたのむ」ということだと、いただいております。
次に、
>他力の中とは十八願に遇った人を他力の中というのです。
という御主張についてです。
◎観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生と申すなり(三経往生)
◎また正念といふにつきて二つあり。一つには定心の行人の正念、二つには散心の行人の正念あるべし。この二つの正念は他力のなかの自力の正念なり。定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり(御消息)
◎他力のなかには自力と申すことは候ふときき候ひき。他力のなかにまた他力と申すことはきき候はず。他力のなかに自力と申すことは、雑行雑修・定心念仏・散心念仏をこころがけられて候ふひとびとは、他力のなかの自力のひとびとなり(御消息)
他力の中の自力のお念仏とは、自力の称名念仏、定心念仏、散心念仏のことなのではないでしょうか。
もし、この「他力の中」を「十八願に遇った」と解するのであれば、観経往生とは、「十八願に遇った上で、自善を回向して方便化土に往生する」ということに、なってしまいませんでしょうか。
私は、観経往生は、まだ十八願に遇わないからこそ、自善を回向して往生しようとしている方の往生だと思います。
私に慈悲心が無く見えますのは、全く私が至らぬ故であり、申し訳ないことであります。
私にできることは、報謝が故の、仏道の真似事であると思っております。
しかし、真似事の域を超えることはありません。
それでありながら、仏道そのものを歩ませていただいている。これが、如来廻向の他力の真実であると思っております。
聖道の精進の道を歩める方は、真実尊いお方。
至らぬ私には、六字が至適の法であると思います。
南无阿彌陀佛
|
|
|
●re.28
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 812 ] Re25:教えて下さい
|
2008/10/16 (Thu) 22:34
△up ▽down
|
|
金剛心 様
金剛心様のお書き込みを拝しておりますと、祖師の一念多念文意をご拝読したくなるのでございます。
本当にありがたい導きをいただきまして、よき後念相続をさせていただいていると感謝しております。
そして、ますます、真宗は私の落ち着きどころだと感じ、祖師への感謝の念、尊敬の念を強めることができたように思えます。ありがとうございます。
特に、本日は、
◎安楽浄土の不可称不可説不可思議の徳をもとめず、しらざるに、信ずる人に得しむとしるべしとなり(一多証文)
「もとめず、しらざるに」を、ありがたいなあ、といただくことができました。
求めずして、知らずして、徳をいただくことができる。
誠に不思議な六字であります。
◎一念に万徳ことごとくそなはる、よろづの善みなをさまるなり(一多証文)
この御文を拝しまして、やはり、私と金剛心様では、異なる解釈をしているようだと思うと同時に、私は、私が現在歩ませていただいている道を再確認した気持ちでした。
◎自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり(一多証文)
ともございます。
この道は、愚かな道。愚鈍な道。
ただただ、六字を奉じてゆく道です。
頼りなく見られても、不足に見られても、仕方がないと思っております。
頼りない私のための道、不足な私のための道。
不足な私に、円融の名号が与えられ、私は、不完全なままで、完全な身にさせていただけたのだと思います。
そして、現世にて、既に守られていることをよろこぶのです。
私が真宗をこうしてよろこべていること。これが、私には、とても不思議なことです。
一多証文様も、御文様も、ありがたくいただけて、よろこぶことができる。
うれしいです。
南无阿彌陀佛
|
|
|
●re.29
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 813 ] Re26:教えて下さい
|
2008/10/16 (Thu) 22:45
△up ▽down
|
|
金剛心 様
安心決定鈔からも引きたく思います。
◎仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり(安心決定鈔)
また、
◎となふるときはじめて往生の成ずるにあらず。仏体より成ぜし願行の薫修が、一声称仏のところにあらはれて往生の一大事を成ずるなり(安心決定鈔)
これも、大切だと思います。
あくまで、往生は「となへあらはす」ものであり、十劫正覚の刹那に、既に成じているものだと思います。
もう既に、成じているものを、ついに、いただくことになったのです。ありがたいことです。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 814 ] Re27:教えて下さい
|
2008/10/16 (Thu) 23:49
△up ▽down
|
|
こんばんは、酒天童子です。。
金剛心様、愚老様、教えていただきたいことがあります。
まず、わたしは信心を頂いてから、年月の浅いものでありますので、稚拙な質問であるかとは思いますが、自分にとっては大事なことですのでお答えいただけたら幸いです。
”一念帰命”から、私たちは報恩謝徳の人生であると教わりましたが、今回の金剛心様や愚老さまの一連のやりとりからは、まだまだ勉強や精進が必要であるように感じるのであります。
それらの精進は、いったいいつ、どのようになったら成就、満足されるのでしょうか? 私たちはいつまで精進を続けなければならないのでしょうか? それが第一の疑問です。具体的に教えていただけるとうれしいです。
愚老様、赤子のたとえですが今生でどの程度信仰を保てば往生できるのでしょうか? たとえば、何年とか何歳から何歳までとか、教えてください。 また、第18願にあります謗法とはどの程度の行動を指すのでしょうか? 私の知り合いでは、抑止文だけではなく、善知識を非難することも謗法であるとのことですが、そうなのでしょうか?それならば、どの程度有縁の知識さんをけなすと謗法になるのでしょうか?それとも、そんなことは往生とは関係ないのでしょうか? これが第二の疑問です。
次に、第18願のあります五逆罪について金剛心様、愚老様にお聞きします。 僧団の和合を犯すことが入っているかと思いますが、細かく言うと同行のなかで一人違う意見を表明することは五逆罪なのでしょうか?
また、ある人は親や同行を殺すことだけではなく“口で殺すこと”も五逆罪だよと言います。つまり、親や同行に酷いことを言ってそのひとたちが心労で病気になって早死にしたり、あるいは”死んでしまえ”などと言うことも同罪であると、、、。そうなのでしょうか?これが第三の疑問です。
金剛心様のご意見を聞いていますと、疑問はまだまだ出てきますが最後にひとつ教えてください。 末法の私たちは多少なりとも、自力で救われるものなのでしょうか? それとも一切他力に委ねることが大切なのでしょうか? あるいは他力からまた自力に戻るのでしょうか? 他力に自力を力添えしなければならないのでしょうか? 自力を後押しするものが他力なのでしょうか? そういう理解を深めなくてはいけないのでしょうか?
どんどんわからなくなってきます。 経文等の解釈や言葉じりはどうでも良いです。
金剛心様、愚老様、ご自分の考え、信念をお聞きしたいのです。
私たちの旅路はいつになったら終わるのでしょうか?
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 815 ] Re28:教えて下さい
|
2008/10/17 (Fri) 12:10
△up ▽down
|
|
酒天童子さま 愚老です。私とて年ばかり重ねて居りますが,教学的には本当にうといので御座います。 信心決定して年月の長い短いは余り関係は無い様に思われますが,いかがな者でしょう 信心決定され短期間でも金剛の信をお喜びのお方が多く御座います。
>まず、わたしは信心を頂いてから、年月の浅いものでありますので、稚拙な質問であるかとは思いますが、自分にとっては大事なことですのでお答えいただけたら幸いです。
>”一念帰命”から、私たちは報恩謝徳の人生であると教わりましたが、今回の金剛心様や愚老さまの一連のやりとりからは、まだまだ勉強や精進が必要であるように感じるのであります。 私は酒天童子さまのことは既に尊いお方と思って居ります。 >それらの精進は、いったいいつ、どのようになったら成就、満足されるのでしょうか? >私たちはいつまで精進を続けなければならないのでしょうか? >それが第一の疑問です。具体的に教えていただけるとうれしいです。
>愚老様、赤子のたとえですが今生でどの程度信仰を保てば往生できるのでしょうか? >たとえば、何年とか何歳から何歳までとか、教えてください。 >また、第18願にあります謗法とはどの程度の行動を指すのでしょうか? >私の知り合いでは、抑止文だけではなく、善知識を非難することも謗法であるとのことですが、そうなのでしょうか?それならば、どの程度有縁の知識さんをけなすと謗法になるのでしょうか?それとも、そんなことは往生とは関係ないのでしょうか? >これが第二の疑問です。 私の言葉のあやで赤子とか大人とか解りやすく理解頂けると書きましたが誤解されるようでしたら深くお詫び申し上げます。入一門初一念 下品下生から報土まで又,等正覚に進んだ間の何処かの間に生まれます菩薩様と言えば良かったでしょうか、 善知識と言うは弥陀に使える人なり。・誹謗。何年とか期間を言われると知識さまにお尋ね下さい・阿弥陀さまが決められることです。 信心の要は内心に深く蓄え他宗他人に対してさたあるべからず〔蓮師).この様に私は思っていますが。私は如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし,師〔善知識)の恩徳は骨を砕きても謝すべし感謝感涙の思いでおりますが。参項になるでしょうか?愚老の浅知恵で間違うと困るので、http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/03_01_20.html 見て頂ければ多少なり理解頂けるとおもいますが。
金剛心さま 愚老です。ビックリ驚いて居ります。金剛心さまは北陸三県のどこにお住まいのお方かご存知有りませんが愚老の心中を1000本の一矢で天眼,他心通力を持って討ち抜かれた思いです 利便の良い出合いの場所は市中に百,千もの場所が有りながら、有峰から薬師に向かう人里離れた山中白樺ハイツをご指定されたのでしょう?。播隆上人〔北アルプス槍が岳に修験して蓮如上人に帰依して念仏門に入,山頂にて弥陀三尊を観想一生かけて槍が岳を開かれた)の大きな銅像があります 愚老もう随分以前は白樺ハイツは念仏の人達が年賀親睦をかねてお講が一番最初に利用するのが常年でした。不思議です,解りません誰でしょう?愚老の廻りにはパソコン、佛知恵と言い解りませんがご縁の機会が有るようでした又お会いしご指導お願い致します。南無阿弥陀仏 個人的内容で大変皆様には申し訳御座いません。
|
|
|
|
[ 816 ] Re29:教えて下さい
|
2008/10/18 (Sat) 10:57
△up ▽down
|
|
皆様 こんにちは!
問題は、信心決定して阿弥陀仏から回向された信心は、崩れるものなのか、何があっても崩れないのか、ということが焦点ですよね。
私は、何があっても崩れない、と頂いております。もちろん、「信心の溝さらえ」を怠れば、煩悩のチリが積もって見えなくなる、ということはあるかも知れませんが、無くなるわけではないと了解しております。 凡夫の行いで増えたり減ったりするような信心だとは聞いておりません。
愚老さま、金剛心さま方は、どうやら崩れることがあると聞いてこられたようです。 信後の行い次第で、極楽往生が化土往生に変わることもある信心なのですね。
なぜ全く違う話になるのでしょう。
これは、@頂いた信心が違う。A頂いた信心が同じであっても、教えや解釈が違う。 のいずれかでありましょう。 心は直接見えませんから、同じ信心かどうか究極のところ分かりません。 ただ、「流れ」が違うことは明らかなようです。 興味深いなぁ、とのんきに読ませてもらっています。 双方お聖教で根拠を挙げ、しかも抑止もあるとなれば、平行線を辿る気もします。 難しい話も多く、皆さんに自分の思いだけでなく、ちゃんと根拠を示さねばならないとなると、 やはり教学は大切だなぁと思いました。
つまるところ、お聖教にピッタリ合う信心であれば、それ以上を私は求めません。 そこから先は確かめようがありませんから。 どれだけ勉強しても解釈が割れてしまうような問題や答えが見つからない問題であれば、あとは面々の御計らいだと思います。 他力の信心は崩れない。私の場合は、求めてきた理想の姿と、願望と、実感など、凡夫の妄念からのお話ばかりで申し訳ありません。
|
|
|
●re.33
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 817 ] Re30:教えて下さい
|
2008/10/18 (Sat) 15:57
△up ▽down
|
|
7 様
ひとりで歩めるというのは、とても強いと思います。
そして、「ひとり」であっても、その実は、祖師聖人がそばにいらして、阿弥陀様がそばにいらして、諸佛諸菩薩の囲繞もいただいているのだと思います。
祖師聖人に誉めていただければ、それでいい。
諸佛から賛嘆をいただければ、それでいい。
そう思って生きてゆくと、ひとりでありながら、ひとりでなく、そして、ひとりの道を歩めるような気が致します。
「親鸞ひとりがため」はじめこう聞いたとき、親鸞様には、思いやりのこころが少ないのではと感じ、私はさみしい思いをしました。
しかし、今は、「弥陀の五劫思惟も、永劫のご修行も、自分ひとりのため」ということが、とてもありがたく感じられます。
ひとりの道を歩むだけで、弥陀の大悲のみはたらきの中に、属していると感じられます。
祖師聖人は、「ご自身のため」と歩まれましたが、そのご遺徳は、私へも波及しております。
何がどう作用するのか、私にはわかりません。
すでに、常行大悲の益をいただいている。
これも、不思議なことです。
そして、現に私が救われているわけですから、そのようにして、新しい方も、弥陀の光の中へと摂取されてゆくのだと思います。
何も心配することはないのだと思います。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 818 ] Re31:教えて下さい
|
2008/10/18 (Sat) 16:49
△up ▽down
|
|
毎日樣へ[811・812・813]に対して 金剛心です @ 大経下巻(正宗分・釈尊之勧信誡疑)よこさまに五悪趣を截り、悪趣自然に閉じ、道に昇ること窮極無からん。往き易くして人無し。@ A 決定して観経を深信す(愚禿鈔)。深信というは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永し疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執の為に退失傾動せられざるなり(化身土巻)A B 一願建立大意は、仏道修行致すといえども退して邪聚に入るあり、或は退失せずして速やかに菩提を得るあり、法藏は彼の退堕の類を憫愍して、彼の類をして正定聚に住して終に涅槃の妙理を證せんがための故にこの願を發すなり(十住毘婆沙論)。B C 安樂仏国に生ずるは、畢竟成仏の道路にて、無上の方便なりければ、諸仏浄土をすすめけり(高僧和讃)C D 若し衆生有りて、其の光明の威神功徳を聞きて日夜稱説し、至心に断えざれば、意の所願に随いて其の国に生るゝことを得、諸の菩薩・声聞大衆の為に、共に嘆譽して其の功徳を稱せられん。其れ然して後、仏道を得る時に至りて、普く十方の諸仏菩薩の為に、其の光明を歎ぜられんこと、亦今の如くならん(大経上巻・仏光無量)D E 真宗の簡要・念仏の奥義斯に摂在せり(化身土巻)E F 往生の事を聞きながら、(その)あとを愚に(も)せん人々は、その同朋にあらず候べし(末燈鈔)F G 初地を得已るを如来の家に生ず(六要鈔)G H 仏道を精進する人を賢善者と名く(十住毘婆沙論)H I もし菩薩阿耨多羅三藐三菩提の記を得て法位に入り無生忍を得る大悲心を得て大人の法を成ず、これを念必定の菩薩と名く(十住毘婆沙論)I J もしひと疾く不退転地に至らんと欲わばまさに恭敬心を以て執持して名号を称すべし(易行品)J K 他力信樂の人はこの世のうちに不退の位にのぼりて、必ず大涅槃のさとりを開かんこと彌勒のごとしとなり(一念多念文意)K L 成就とは謂く、廻向の因を以て教化地の果を證す(行巻)L M 大涅槃は即ち是れ利他教化地の果なり・・・還相廻向と言うは、則ち利他教化地の益也。即ち是れ必至補處之願より出でたり、亦一生補處之願と名く、亦還相廻向の願と名く可きなり(浄土文類聚鈔)M N 凡そ往相廻向の行・信に就いて、行に則ち一念有り、亦信に一念有り。行之一念と言うは、謂く称名の徧數に就いて選擇易行の至極を顕開す(行巻)真実の信というはすなわち真実の信心なり、すなわちこれかみにいうところの真実の行を信ずるこころなり、これを真実の信とす。経には三信ととき、論には一心といえるこれなり、けだし第十八の至心信樂の願よりいでたり(真宗用意)N O 大慶喜心は即ち是れ真実信心なり、真実信心は即ち是れ金剛心なり、金剛心は即ち是れ願作仏心なり、願作仏心は即ち是れ度衆生心なり、度衆生心は即ち是れ衆生を摂取して安樂浄土に生ぜしむる心なり、是の心は即ち是れ大菩提心なり、是の心は即ち是れ大慈悲心なり(信巻)O P 煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり(唯信鈔文意)P Q 常没の凡夫人、願力の廻向によりて、真実の功徳を聞き、無上の信心を獲れば、即ち大慶喜を得、不退転地を獲るなり、煩悩を断ぜ令めずして、速に大涅槃を證すとなり矣(文類聚鈔・総結)Q R 「於現身中得念仏三昧」と言うは、即ち是れ定観成就之益は念仏三昧を獲るを以て観益と為すことを顕わす・・・今此の『観経』は即ち観仏三昧を以て宗と為す、亦念仏三昧を以て宗と為す(化身土巻・本)R S 蓮師の三ケ要義には、一、一念發起、二、平生業成、三、仏恩報謝の順番になっています(お文、1―4・2―10・3―8等を参照)S 上記20項目は経・論・釈文より抜粋した文です。少なからずとも20項目を読まれて自身の考えていらっしゃることと合致せねばならない筈です。これに該当すれば他力の中の他力と思います。(末燈鈔のはじめその他) 以上が精進して初歓喜地より不動地以上へ至るべき菩薩道・仏道だと私は捉えています。 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
|
|
|
|
[ 819 ] Re32:教えて下さい
|
2008/10/18 (Sat) 19:58
△up ▽down
|
|
7 様 毎日 様
こんばんは。 他力易行の理をよく御心にたくわえておられて頭が下がります。尊いことです。
他力念仏の道を美しく生きる理はあまりに易いが故に我等凡夫はあれこれやりだします。 たった六字、ただこの理だけを抱き歩けることの有難さに私は感謝しております。7様や毎日様がそうやってひたむきに願に生きるすがたこそ、有縁の方々との御縁にもなると思っております。
執持鈔の2に言われることが今日は身にしみます。
『また、のたまわく、「「是非しらず 邪正もわかぬこの身にて 小慈小悲もなけれども名利に人師をこのむなり」。往生浄土のためにはただ信心をさきとす、そのほかをば、かえりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからうべきことにあらず、ひとすじに如来にまかせたてまつるべし。
すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからうべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かえすがえす如来の御ちかいにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者というなり。されば、われとして浄土へまいるべしとも、また地獄へゆくべしとも、さだむべからず。
故聖人黒谷源空聖人の御ことばなりの仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもわるべし」と、たしかにうけたまわりしうえは、たとい地獄なりとも、故聖人のわたらせたまうところへまいるべしとおもうなり。
このたびもし善知識にあいたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあずかりて、弥陀の本願をきき、摂取不捨のことわりをむねにおさめ、生死のはなれがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。
たとい、弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつわりて往生浄土の業因ぞと、聖人さずけたまうにすかされまいらせて、われ地獄におつというとも、更にくやしむおもいあるべからず。そのゆえは明師にあいたてまつらでやみなましかば、決定、悪道へゆくべかりつる身なるがゆえに、となり。
しかるに、善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかばひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりというとも故聖人のわたらせたまうところへまいらんと、おもいかためたれば、善悪の生所、わたくしのさだむるところにあらずというなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。」』
南无阿彌陀佛
|
|
|
●re.36
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 820 ] Re33:教えて下さい
|
2008/10/19 (Sun) 03:52
△up ▽down
|
|
金剛心 様
考えるきっかけを、ありがとうございます。
すこしずつ、私の感じるところを書いて行こうと思います。
浅学のため、間違いや勘違いもあると思いますので、お気付きの点があれば、ご指摘いただけたら、うれしく思います。
まず、
>A 決定して観経を深信す(愚禿鈔)。深信というは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永し疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執の為に退失傾動せられざるなり(化身土巻)A
についてなのですが、金剛心様おっしゃいます通り、部分は全体の中で、どのように位置しているかを見てゆくことが大切だと思います。
この化身土巻の部分は、観経の顕義について述べた部分であると思います。
あくまでも、真実行に至ってもらうための、方便としての説であると思います。
第十九願要門について述べている箇所だと思いますが、如何でしょうか。
そして、要門は、漸教であり、頓教ではないのだと思います。
泥凡夫様のおっしゃいます通り、
◎浄土の要逢ひがたし(化身土巻)
という感慨を、私も覚えます。
もちろん、根本的に勘違いをしているかもしれないのですが、現在の私が捉えている内容について、述べさせていただきました。
南无阿彌陀佛
|
|
|
●re.37
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 821 ] Re34:教えて下さい
|
2008/10/19 (Sun) 04:03
△up ▽down
|
|
金剛心 様
>これに該当すれば他力の中の他力と思います。(末燈鈔のはじめその他)
末燈鈔ですが、他力の中の自力は、定散二善であり、諸行往生ということではないでしょうか。
一方、他力の中の他力は、真実行においていただける真実の信心による往生であり、そう読んでも、なんら矛盾しないと思われます。
大菩提心なのですから、自力の菩提心ではないといただいております。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 822 ] Re35:教えて下さい
|
2008/10/19 (Sun) 10:25
△up ▽down
|
|
>大菩提心なのですから、自力の菩提心ではないといただいております。
http://shinshu.in/forum/forum.cgi?act=select&id=3&pastno=0&vine=10&page=0#172
[ 172 ] HNをなぜ菩提心にしたか、の場所を読んで貰えると少しは分ってもらえると思いますが、
私は、実は本当に教学的には無知なので、菩提心という言葉は「正信偈」の中で、いつも「同発菩提心」と、みんなでお勤めしていても、よく分っていませんでした。
他力の菩提心と、自力の菩提心の違いも分りませんでした。
金剛心様 >>その上で仏道を時間をかけて歩いてゆくなかで、人によっては不思議な体験をすることもあります。 酒天童子様 >まったく、同感であります。
のような上記の書き込みもありましたが、
私が「菩提心」をつけた事次第も、不思議だなと思います。
親鸞会で、初めて御文章のお話を聞いて、三十五願が気になっていたことも、不思議といえば不思議ではありますが、
最初に、この部分を拝読させて頂いた時、やっと、私が求めていたものに辿り着いたと思ったからです。
ジャンヌで書いていた時と、今書いている時の菩提心という名前は同じであっても、その中身は全く違うのです。
毎日様がおっしゃられるように「大菩提心」と、自力の菩提心を区別させて聖教が拝読できる。
これも、一味同行だからではないかと思います。
南无阿彌陀佛
|
|
|
●re.39
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 823 ] Re36:教えて下さい
|
2008/10/19 (Sun) 14:27
△up ▽down
|
|
金剛心 様
>B 一願建立大意は、仏道修行致すといえども退して邪聚に入るあり、或は退失せずして速やかに菩提を得るあり、法藏は彼の退堕の類を憫愍して、彼の類をして正定聚に住して終に涅槃の妙理を證せんがための故にこの願を發すなり(十住毘婆沙論)。B
退堕の類とは、私であります。
退転以前に、進むこともできない私ですが、そんな私でも、救ってあげたいと、法蔵様は願を建立してくださったのだと思います。
そして、私は、救われたのだと思います。
たしかに、一般的に考えたら、あり得ないことだと思いますが、私はそれを信じたのです。
信じることができたのは、弥陀のみ心をいただいたからだと思っております。
ただ、そう「思って」はおりますが、それが真実かどうか、私には、知る術がありません。凡夫であるが故です。
南无阿彌陀佛
|
|
|
●re.40
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 824 ] Re37:教えて下さい
|
2008/10/19 (Sun) 14:41
△up ▽down
|
|
金剛心 様
御消息です。
◎まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 825 ] Re38:教えて下さい
|
2008/10/19 (Sun) 17:43
△up ▽down
|
|
毎日樣へ 金剛心です 毎日樣と私の捉え方の相違点はどこにあるのか考えて見るに、毎日樣に大喝されることを承知して書込みさせて頂けば、それは文章の読み方に於ける理解度に問題があるようにおもわれます、それが最大の原因となっているように考えます。少なからずとも一節の文章を何回も何回も読んで、なお且師のアドバイスを受けながら判断しなければいけないのです。 故に蓮如上人の「諸経は句面のごとくこころうべし、その上にて師伝口業はあるべきなり」又「諸経は読みやぶれ」等あり、その釈文は宗祖の教行證を読まれていてもさらに理解度を深めるために、六要鈔を紙のやぶれる程読まれて領解されたのです。それ程大経は勿論、教行證文類は難しいので六要鈔の手を借りなければ理解領解出来ないのです、通り一遍の読み方では必ずや間違いが生じるのです。指導的立場で書く場合は完全を以て書くことは出来なくても、なるべく完全に近い書き方に努める必要があります。 指導的立場の書き方に三つ有り(六要鈔)一、畢竟輭語(ひっきょうなんご)、二、輭語呵責、三、畢竟呵責の順である。 四十八願に「中」の文がよく出て来ます。念仏行者はその「中」へ入っているから有難いのです。毎日さんの論を拝見すると一念帰命を頂いた時点で直に信成就の信心(少なくとも四十八位不動地以上)と捉えているように見受けられますが私にはどうしても納得出来ません(前記項目とも相違すると思われます)。特に項目@の決定は十八願を指すのです。それからDの仏道があるのです。仏教は因果説が基本です。十八願は十一願の因となり二十二願は十一願に対して果となり因果、因果と繰返してその結果極樂という果に結びつくのです。 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏 私信で失礼します。愚老樣へ、十月二十六日(日曜日)白樺ハイツ受付にて十時三十分にお待ち致しております(返信お待ちします)。
|
|
|
●re.42
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 826 ] Re39:教えて下さい
|
2008/10/19 (Sun) 17:57
△up ▽down
|
|
金剛心 様
ご納得いただけないのは、仕方のないことです。
もしよろしければ、ご質問がございますので、お答えいただけたら、うれしいです。
さきほどお書きしました通り、
>深信というは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永し疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執の為に退失傾動せられざるなり(化身土巻)
この部分、私は要門と解しているのですが、金剛心様は、どのように解されているのですか?
また、先程お引きしました
◎他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり(御消息)
については、どのようにお考えなのでしょうか?
「さらに義なし」とあるのですが・・・
そして、「またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり」も、とても大切だと思います。
再度繰り返しますが、「自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり」です。
如来にいただく信心こそが正因である、ということで、因果の理法は満たされていると感じるのですが、金剛心様は、異なる考えをお持ちなのでしょうか?
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 827 ] Re40:教えて下さい
|
2008/10/20 (Mon) 04:54
△up ▽down
|
|
愚老です。 金剛心さま,毎日さま尊いお二人の談義,拝読して仏法の深きことしみじみ感じ取ります。 以前一度書きこみのお方で毎日さまに資料お渡し致しますと言われたお方、メール等で資料頂かれたでしょうか?この方も何か奥儀がありそうでしたので。 http://shinshu.in/forum/forum.cgi?act=select&id=1&pastno=0&vine=92&page=0#628 次第相乗の善知識さまにより授ける格差が有るようですね。 以前(810)金剛心さまの書きこみに。 。[ 799 ]中部の男性の書込みに、正定聚と等覚の間に「また」と書かれていますがその「また」に要注意。大功徳の「大」も要注意。 正定聚の位から◎注意。また。(菩薩の行を修めれば)等覚の位までまた52段眞佛土。佛までも定まりますと言って居られるにではないでしょうか。大菩提心。大慈悲心,願作佛心、度衆生心とはとても尊いお言葉ですね全て大の字です。 法然様、親鸞様、蓮如様・高祖方は信決定の後一生涯の間,この大の字の菩薩行を歩まれたお方ですね。 愚老のようなどうにもならない者目当ての如来さま・・高祖方のほんの爪あか程でもご恩報謝せねばなりません、。南無阿弥陀仏。
個人的めーるにて申し訳有りません、 金剛心さま 10月ニ十六日〔日)10時30分,白樺ハイツ お目にかかること楽しみに行かせて頂きます。宜しく願います。
|
|
|
|
[ 828 ] Re41:教えて下さい
|
2008/10/20 (Mon) 07:08
△up ▽down
|
|
愚老様
改めてインターネットで、御同行が見つかるなんて、有り難いですね。
同じ北陸地方におられて、仏法談義、とても素晴らしいと思います。
ただ、愚老様や金剛心様のようなお姿には、私はとてもなれそうにないなと思いました。
私は、救われたら、御恩報謝の御念仏だけでいいんだよ。
そんな弥陀の誓願を喜びたいと思います。
どうも往く道は違うようですが、ここで愚老様とも御縁頂けて、とても嬉しいです。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 829 ] Re42:教えて下さい
|
2008/10/20 (Mon) 12:36
△up ▽down
|
|
菩提心様
こんにちは、酒天童子です。
>ただ、愚老様や金剛心様のようなお姿には、私はとてもなれそうにないなと思いました。 > >私は、救われたら、御恩報謝の御念仏だけでいいんだよ。 > >そんな弥陀の誓願を喜びたいと思います。
菩提心様から発した“摂取不捨”から、多くの見解がテーブルにのり議論が盛り上がって、素晴らしいことであると思います。
皆様
しばらく、真宗の教義からはずれることをお許しください。
わたしは他力真宗の信心をいただいて日も浅く、勉強のためもあってこの掲示板をのぞかせてもらってきましたが、教学的には何一ついえる知識も見識も持ち合わせてはおりません。
それまで、数多くのいわゆる“自力”といわれる修行や瞑想その他、凡人ながら分限をわきまえずにいろいろと試みた者であります。
以下、だらだらと筆を進めることをお許しください。愚老様、金剛心様に自力には数えきれないほどの多くの奥深い方法が現にあることをわずかでもわがままごころから言いたいのです。
私は若いころは密教にのめりこみ、空海を仰ぎ、さまざまな“法”を学びました。効果はもちろんありました。密教の法は偉大です。すばらしくまた奥深いものです。やはり、密教にもさらにその中に顕義と隠義があったりします。
しかしながら、現代の密教は私の知る限り形骸化してしまっていて限界を感じました。その後、いろいろな宗教や信仰や哲学など、紆余曲折を経て、最後にトランスヒマラヤ密教、いわゆる神智学にたどり着きました。私はそこに一層の具体性、神秘性また奥深さを発見しいわゆる三十七菩提分法にあるうちの三枷(パーリ語でsamyojanaのうちのsakkayaditti、vichikichcha、silabbaparamasaに相当します)を断ずるための修行に取り組みました。これは菩薩道のおそらくは初地を自力にて達成するための方法論としては知る限りもっとも具体的かつ詳細であり、そのとおりにやってゆけば階段を上るがごとく達成できるのではと、、。そのための成就にいそしんだものです。 が、しばらくしてこれは自分には無理であると感じたのです。 理由はいろいろありますが一つには師がいなかったことです。が、もっと大きな要素がありました。 それは、地球の大多数の人たちがもつ集合意識(正法、像法、末法の理由付けになる?)がある程度の境地からひとり先に進むことをいろいろな角度で妨害するという、ユングの説ではありませんが信じられないような出来事を経験したからです。私たちはまさに手枷足枷をされているのです。
そうして、ついにいままでのすべての修行を捨てたのです。
自力では自分のような凡夫はどうにもならないことがはっきりとわかったからです。
他力にたどり着くにはもしかしたらそうして、さんざん自力修行をやらないといけないのかもしれないですね。 だが、一方でそういう人生または過去生をすごした者は習気としてなごりを持っていて、なかなか自力を完全に捨て去れないのではないかとも思います。
今の地球の集合意識は当然“自力”モードであります。
“働かざる者食うべからず”“因果応報”などといいますよね。
だからこそ、親鸞聖人の御田植うた“自力雑業の草を取り”は深い意味が隠されていると思います。
自力や雑業の心は、知らず知らずに、またちょっとした油断で集合意識の空中から種が飛んできて、自分の心に生えてくる田んぼの雑草とそっくりです。
人として生れれば、いやおうなく社会通念として常識などを植え付けられます。そうして育てば、“他力”などという概念はそれ自体怠慢とも、責任逃れでともとられかねません。
だから、せっかく他力の信仰をいただいても心のどこかで一種の“うしろめたさ”を感じているものなのです。
“往き易くして往く人なし”とはそういう自力雑業をとることのむずかしさを言っているかもしれないとはいえないでしょうか?
菩薩の段階にしても、知れば知るほど自力でどうにかなるものでもないし、ましては今生での同行としてのわずかな期間のわずかな精進になんの意味があろうか?とはさんざんいろいろやってきた人からみたらそう感じるのは当然ではないでしょうか?
毎日様の見識を見ていると、この社会通念、集合的無意識に果敢にも立ち向かっているような姿が浮かぶのです。
もちろん、ご開祖聖人も同じであったと、、。
なんと、困難な道なのでしょう。それでもこうしてこの掲示板を見に来る僅かな人たちにメッセージを送り続けることは、まさしく菩薩そのものであると感ぜざるを得ません。
社会通念を無視して、教義を展開すれば命の保証すらありません。
仏法も、仏教も、教えも存続してゆくために、少しづつでも人々のなかに浸透してゆくように苦心して編み出されたものが顕義や方便ではないのでしょうか?
だらだらと意味のないことを書いて申し訳ないです。
言いたいことを書きます。毎日様の言葉が私には真実だと“心に響きます”。今はそう思える自分が有難いです。
六字がすべて、同行(同じく行く)、摂取不捨、一蓮托生。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 830 ] Re43:教えて下さい
|
2008/10/20 (Mon) 18:55
△up ▽down
|
|
酒天童子さま 全文を拝読させて頂き涙がでました。自分は何一の苦行もせず愚痴三昧の日暮らしの中にいとも簡単に本願力に会う縁を頂きましたゆえ。以前にも書き込み致しましたが仏書の一行も理解出来ない愚鈍の身でした。其れに比べて酒天童子さま、弘法大師様の真言密教のご修行,劣らずの苦行味わいされました事。心に染みました.このたび自力を捨てて他力本願に親鸞様の三願転入と同じですね。自力修行では未来迷える衆生を真実真理の絶対界へ往生させる為に五劫思惟兆載永劫の御修行なされた阿弥陀様、凡夫に変わりての六字には広大無辺の功徳を封じこめ出来た六字 酒天童子さまは易行の六字行で救われたのでしょう。ゆえに念仏行者と言われる行者様です。 正行、雑行の分別を聞き分け一向一心になりて弥陀助け給えば10人は10人ながら100人は100人ながら信心決定ですよね。自力雑行を振り捨ててと言いながら捨てて信心決定してまた自力修行を拾って自力修験道や座禪行やもろもろの雑行を修めるのでしょうか?弥陀に背を向ける事は出来ません、 他力の道は易行道です・菩薩の位に付けば阿弥陀様からの回向の易行道を修めるのです。 皆様全て真実信心です。眞、偽を言って居るのでは有りません。 信心決定し菩薩となれば、大慈悲心、大菩提心を発起する事も仏心の心でしょう。自分だけ助かれば何もせず他人は弥陀任せとは非情でしょう。蜘蛛の糸縁起でないですが。当然、人見て佛法、説く心得も必要かと思います。抑止門ゆえ。南無阿弥陀仏
|
|
|
●re.47
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 831 ] Re44:教えて下さい
|
2008/10/21 (Tue) 01:08
△up ▽down
|
|
酒天童子 様
法然聖人は対機で説かれ、聖道を歩みながら、浄土門を検討している方には、その方にわかるようにお話くださったと聞いております。
酒天童子 様の歩まれました道、尊いことです。
私は、六入処と受想行識に関心があり、自らを守るにはどうすれば良いのかと考えていました。
反応が起こるには、記憶によるパターンが影響しているとは感じられます。
しかし、無限とも言える罪のあるこの身、そして、酒天童子様とは異なり、集団意識どころか、身近な人にも簡単に影響を受けてしまうこの私です。
どうにもならない自分であると感じます。
それでありながら、精進もできません。
救いの道があるはずもなく、悪循環の中にいるのですが、死んだところで、悪循環から抜けられるとも思いません。
一切皆苦もわからず、そもそも、一切皆苦なのか、苦楽不苦不楽なのかもわからず、自らのあまりの幼さに、釈尊のまわりに集った聖者の素晴しさには、一度お目にかかれたらと願うのですが、私の業により、そのような方に会うこともなく、時を過ごして参りました。
弥陀の救いの法とは、正に邂逅でありました。
終着であり、究極でありながら、凡夫であり、こうしてまだ生きております。
南无阿彌陀佛
愚老 様
念仏行者は、常行大悲の益をいただけるのだと思います。
私のような凡夫が、大悲の行を常に為しているわけがない、と見えるのが当然です。
しかし、私のこのまま、煩悩ある私のこのままで、私は弥陀の大悲の行のはたらきに、わずかな狂いもなく、はたらかせていただいているのだと思います。
凡夫には、全くわからない世界です。
未来永劫まで見通したときに、どちらが弥陀のお役に立てているのか、私には、わからないのです。
わからないだらけの私ですので、御恩報謝のお念仏を称えさせていただける身になったことが、ありがたいと思います。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 832 ] Re45:教えて下さい
|
2008/10/21 (Tue) 20:18
△up ▽down
|
|
酒天童子様
真剣に仏道修行に身を投じられたお姿、尊く拝しました。
学生時代はパーリ語とサンスクリット語を選択していましたので、言葉の響きも懐かしく感じます。
その頃の友人が、ネパールで修行僧になっているのをNHK特集で見てビックリしたことがありますが、今回もビックリいたしました。
自力の修行が実に困難な時代になっているということ、お釈迦様の仰るとおり、まさに仏語に虚妄なしなのだなぁと思いました。
いろいろな魔が邪魔をするのですね。それなのに他力の信を得たならば魔界外道も障礙なし、の身にさせていただけるのですから、本当に有難い事だと思います。
南无阿彌陀佛
毎日様
本当に他力の信心とは不思議ですが、考えるほどに不思議なのがこの常行大悲の益だと私も思います。
常、とあるのですから、寝ているときも、遊んでいるときも、仕事をしていても、一日中24時間一瞬の暇も無く弥陀の大悲にかなう行いをさせていただいていることになります。
仏語に虚妄なしとはいえ、凡夫の私にはどうにも信じられない、理解出来ない話だと思います。
私たちはただ阿弥陀仏の本願をたのんでください、と人に伝えている時間だけが自信教人信の、最大の佛恩報謝の時だと考えがちです。 お念仏を称えることがまことの佛恩報謝だと蓮如上人に教えていただいても、たった六字でいいのかしらと思ってしまう凡夫です。 でも六字に出遭い、「まことに宿善まかせ」であり、誰かが説得できるようなものではないと分からせて頂きました。 もちろん、それでもご縁のある方に分かってもらいたい、お話したいとの思いは止みません。
全ては阿弥陀仏のお計らいであり、私の計らいによるものではないのですよね。 それでも計らうのが凡夫ですが、この凡夫の計らいすらも障りにはならないことが有難いのです。 この私が計らっているときも計らっていないときも、常に、弥陀の大悲にかなう行いを、 暇無くさせていただける、「常行大悲の益」を、本当に有難く感謝するのです。 自分を自分で見れば、自惚れたり自己嫌悪したりと忙しく、信後も煩悩の塊のままだとなぁと情けなく思うことも多いのですが、 佛凡一体の南无阿彌陀佛を頂けた事、信じられたこと、本当に有難いことだと思います。
南无阿彌陀佛
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 833 ] Re45:教えて下さい
|
2008/10/21 (Tue) 20:41
△up ▽down
|
|
愚老様
念仏行者として大先達の愚老様、先の投稿で口はばったいことを言っていたとしたらお許しください。
自分は業が深いため、あっちこっち頭をぶつける必要があったと思います。すんなりと信心を頂ける方こそ、過去生からの宿縁の厚い尊いお方であると存じます。
>皆様全て真実信心です。眞、偽を言って居るのでは有りません。 信心決定し菩薩となれば、大慈悲心、大菩提心を発起する事も仏心の心でしょう。自分だけ助かれば何もせず他人は弥陀任せとは非情でしょう。蜘蛛の糸縁起でないですが。当然、人見て佛法、説く心得も必要かと思います。
上記、まったく同感であります。報恩謝徳、御恩報謝の心、人としてあまりにも当然のことであります。 そうして、それが肝心要であり、そこから先に進んで行くと、ならば大慈悲心、大菩提心を持つようにするのは当然だから、たとえば、こういうことは心得なければならない、とか、さらにはこういう精進をしなければ往生できない、とか、挙句の果てにはこんなことをすると往生できないどころか場合によっては地獄に落ちるぞ、などとどんどん独り歩きしていってしまうのが、我々凡夫の論理力、推理力というものではないでしょうか?
この肝心要の心構えはそのままで、そこにとどめて、そこから先はあえて進めない。枝葉を付けずに原理原則にとどめておくというのが良いのではないでしょうか?
もちろん、抑止門におけることの数々は了知しているつもりであります。知識の先生により、それらの抑止門の中身にもいろいろな差異があることは想像できます。それでも、こうして書かせていただいていますことを斟酌していただければ有り難いです。
そうして、菩薩とはそんなことがあろうとなかろうと、お構いなしに衆生済度に心が向かう存在であると思います。
毎日様
私のは対機説法などではありません。ただ思ったままをくどくどと書いてしまう直情径行の者の言い分であります。 法然聖人程のお方は対機説法されて、できるだけ多くの衆生を済度されようとしたのでありましょう。 釈尊もそうして説法されたがゆえに7000巻という経ができたのだとおもいます。
六入処、受想行識ともに瞑想においてはとても重要であると思います。
“自力“の話で申し訳ありません。
たとえばジョン・リリーという科学者がいます。“アルタードステーツ”という映画のモデルにもなったイルカの研究していた学者といえば知っている方もいるでしょう。 かれが“アイソレーションタンク”なるものを開発し、彼自身これを試しました。これは一切の感覚器官を無感覚に置くように工夫されていて、その経験を本にまとめています。 受想行識においては“想”を断ち切れれば、行識は生まれないために、まず“想”を起こさない“いわゆる無想”を練習することが多いかと思います。瞑想中はある程度できても、日常生活に戻ると相変わらず進歩の無い自分がいます。何度もがっかりしたものです。 当時、私のような凡夫には、ジョン・リリーのように六入への刺激をできるだけ無くしてしまうほうが、無想をするよりも簡単かつ効果的であると思いました。その結果、彼は自身の肉体から抜け出てしまうことになるのですが、これはある意味あたりまえのことで六入の刺激によって肉体との繋がりを保っている魂(語弊があるかもしれませんが便宜的に使います)にとっては感覚による刺激がなくなることによって肉体とのつながりが不安定になると思われるからです。 意識が肉体から抜け出ても、集合意識とは繫がっています、というかより鮮明に知覚するようになるようです。脱線しました。こういことを書き出すとなぜか止まりません。まとめます。
自分の印象では、私のような凡夫が瞑想すると、集合意識の中にいる状態は、まるで粘土質の泥沼に閉じ込められているように感じます。さらに、それとは別に家族や縁者と数珠のように繋がっているようです。
勝手な解釈でありますが、釈尊が蓮を喩えに出したのはとても深い意味があるように思うのです。蓮は泥沼に生えます。そうして節で数珠つなぎになっています。 自力で悟ろうとするのは、いうなればこの泥沼から自分だけ水面に顔をだそうともがいている蓮の節のようなものではないでしょうか?
阿弥陀様はそういう凡夫をたくみに育てて、一本の茎を水面にのばします。そうしてついに機が熟すと水面に華麗な蓮華の花を咲かせるのです。凡夫にはとうてい考えることもできない奇蹟であり、これこそ一念帰命ではないか?とんでもない見当違いかもしれません。
調子に乗って書きます。大脳に視床下部という部位があります。 そこに脳下垂体という器官があります。この器官の働きについてはいまだに多くの謎に包まれています。ただ、とってしまうと人は死にます。脳生理学者や医学者の中にはこの器官に特別な働きがあると考える人たちもかなりいます。 この脳下垂体は解剖学的には一見、花びらがとじたような形をしているそうです。なぜ、花びらのような形をしていて、しかもそれがどうして閉じているのかはさらに謎であります。神秘学者は脳下垂体を精霊のやどる場所であるといいます。 もし、これが花のように開いたら、、。
釈尊は合理的、科学的でもあったと思います(数字の単位など)。当時の語彙では表現できない概念が多かったため苦心されたようにも見受けられるからです。 現代にもし釈尊がいらっしゃったら、科学用語、医学用語などを駆使して説法なさったのではないかと思うのですが、、、
真宗の教義の掲示板でいい加減な、しかも関係のない話を展開して申し訳ございません。
もちろん、他の方々にとっても今の自分にとってもそういうことはたいした意味を持たないと思います。
大切なことは、救われた、本当に有り難いということだけだからです。
ただ、何かの、誰かの参考になればと思ってだらだら書きました。
毎日様、不似合いであれば削除してください。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 834 ] Re45:教えて下さい
|
2008/10/21 (Tue) 21:33
△up ▽down
|
|
菩提心様・酒天童子樣 金剛心です 皆様方は、本当は詳しい教学まで勉強する必要はないのです。ただ阿弥陀仏を信じて臨終まで仏恩報謝(弥陀のお手伝いの御手引きも含め)の念仏さえ持続して忘れなければ、金剛堅固の信心となって極樂往生に繋がるのです。南無阿弥陀仏一称(口称)すれば八十億劫の罪が消滅されて行くからです。獲信者は有限の罪を作りながら現在大自然界の中で生かされているのです。有限の罪は有限の南無阿弥陀仏で消されて行くのです。ですから一日に一回でも多く称名念仏を怠りなく生涯を終える、それが浅学の方の真諦門に於ける仏道なのです。それが信心を頂きながら仏道の精進もせず、人間生きる道だけに没頭すれば口称念仏さえも出なくなるのです。一日一日罪(世間の善業を含む)が重ねられて生涯を終えるとそれが(仮から)化土往生となるのです。罪にも有限の罪と無限の罪の二種あるのです。 私がこの様なことを書けば又いろんな議論になるのです。その議論をお互いの心を以って書込みすれば大変時間もかかるしメ―ルでは理解されない部分も出て来るのです。お互いお会いして語りあえば即解決が出来るのです、念仏行者はお互い同志会って語れば必ず理解することが出来るのです。それは行学を得て教学に精進して居られる方でなければ経論釈の説明が出来ないからなのです。皆様方と一度お会い出来ればと願っている次第です。 毎日樣へ 「深信というは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永し疑錯を除きて・・・」は要門と解するとありますが注意しなければならないのは、大経で用いられる字と観経で用いられる字の使い分けに注意することが肝要となるのです(観経の三心は深心)。これだけ書けば要門でないことが理解出来る筈です。次に「本願を信樂して往生必定なるが故に・・・」とは、前記項目Bが成就されているから、そこへ到達すれば「義なきを義とす」の文が出来るのです、必にも二回有ると前回大経文を以っての書込みとなっていますが・・・。次の「我身の悪ければいかでか如来迎へたまはん」と思ふべからず・・・。また「わが心の善ければ往生すべし」と思ふべからず・・・。以上の釈、何れもは凡夫側の勝手な判断を持ち出して如来にまかせるという心がないことを意味する釈文であります。わが身の善悪の心で往生出来るか、できないかの判断ではなく、如来にすべてまかせた上での一念帰命ではなかったのではないですか・・・。それが自力の御計らいにては真実の報土(十一願の報土)へ生るべからずの釈である。「わがこころよければ・わがこころわるければ」とは自分の凡夫側の心を持ち出そうとするから報土へ往生出来ないのである。 しっかりと了解して頂きたい。如来のことを真から信ずるには、十一願成就位になった大菩提心・大慈悲心・度衆生心に到達すれば、初めて大慶喜の金剛堅固の信心が成就されるのです。 一念帰命しただけでは仏を本当に信ずる心は弱心なのです、仏道精進を続けてこそ金剛堅固の強い信心になってゆくのです。であるからして経文を読むには一字一句加減すべからずなのです。 一つの例を出して云えば「信心有難き故に」とあれば、信心が有難きなのか(難であるのか)、本当に喜んでいる有難きなのか意味が正反対となるように字一字一句前後の文をよく把握して読む必要があるのです。 細かい部分をメ―ルで問答すれば文章も長く又時間もかかり真宗本来の意味も理解して頂けないのです。だから念仏行者同志一度お会いして、お互い語り会えば必ず理解することが出来、金剛堅固の信心になってゆくのです。 公開のホ―ムぺ―ジやメ―ル等では抑止文の関係もあるので書込み出来ない多々の釈文もあるのです。どうか理解して頂けますように。 私は「さとし君」の質問を発端として今迄経・釈文に対して理解出来た事を抑止ぎりぎりの所まで皆様方にお伝えしてまいりましたけれども、そろそろ潮時であると痛感致しております。本日この書込みを以って終りと致します。 何卒ご理解頂きますようにお願い申し上げます、メ―ル期間中は毎日樣はじめとして多くの皆様方と交信出来ました事大変嬉しく思っております。本当に有難う御座いました。 皆様方と一度お会い出来ることを楽しみとして・・・。 合掌 南無阿弥陀仏、 南無阿彌陀佛。
|
|
|
|
[ 835 ] Re46:教えて下さい
|
2008/10/21 (Tue) 22:44
△up ▽down
|
|
金剛心様
真宗って言われても、本当にいくつにも分かれてしまうのですね。
今回の件で、私は、やっぱり修行なんて出来ないな。
とても金剛心様とは同じ浄土へは往けないなと思いました。
どちらが、真実報土に往けるのでしょうね。
何だか、どっちでもいいような気でいます。
随分、いい加減でしょう?
でも、いい加減でもいいや。
どっちみち、三悪道だけは行かないだろうから。
それで、修行もしないで、極楽へ行けたら万々歳。
お気楽。お気楽。
金剛心様の私を思って下されるお気持は、とても有り難いです。
でも、やっぱり、弥陀の願船に乗ってるみたい。
こんな気持で、臨終まで往けたら最高。
一瞬でも、こんな気持で居られる今の私が幸せです。
金剛心様もお元気で。
いつか又お逢いしたいですね。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 836 ] Re47:教えて下さい
|
2008/10/22 (Wed) 08:30
△up ▽down
|
|
ここに書き込んで頂いている皆様へ
もう、皆様の智慧あるお姿に、感動してしまいました。
そんな中で、恥ずかしくもなく書いている私って、何?
でも、とっても嬉しいです。
仏法のお話を出来る場があって、
そして、皆様のお話を御聞きしている私が有り難いです。
これからも、色々なお話、聞かせて下さい。
こんなに仏法のお話が楽しいなんて、自分でも信じられません。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 837 ] Re48:教えて下さい
|
2008/10/22 (Wed) 10:14
△up ▽down
|
|
金剛心様
酒天童子です。
>メ―ル期間中は毎日樣はじめとして多くの皆様方と交信出来ました事大変嬉しく思っております。本当に有難う御座いました。 皆様方と一度お会い出来ることを楽しみとして・・・。
信心浅きものにもかかわらず、親切丁寧に接していただき感謝いたします。
ご同行にも素晴らしい方がたくさんいらっしゃることに感激しています。
今回、ここに書き込みされた皆様の歩み方はたとえ異なれども、想い等しくみな菩薩でありましょう。
いつか、お会いできますことを。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 838 ] Re49:教えて下さい
|
2008/10/25 (Sat) 09:12
△up ▽down
|
|
愚老様 金剛心様
>愚老樣へ、十月二十六日(日曜日)白樺ハイツ受付にて十時三十分にお待ち致しております
>金剛心さま >10月ニ十六日〔日)10時30分,白樺ハイツ >お目にかかること楽しみに行かせて頂きます。宜しく願います。
明日、お逢いになられるのですよね。 でしたら、ここから、質問させて下さい。(一方的なこちらからの質問です) 確か、金剛心様や愚老様は、往相廻向であり、還相廻向でもあるから、衆生済度も出来ると言われているとおもうのですが。
ただ、それなら何故、教行信證の冒頭から、 謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向有り。 一つには往相、二つには還相なり、往相の廻向に就いて、真実の教・行・信・證有り。 と書いてあるのでしょう? むしろ、往相廻向に重点をおいているのではないかと思うのです。 信心決定したら、往相廻向の働きがあるから、その往相廻向を詳しく説かれたと思います。
又、信巻の中{15}の二河白道の譬えの話の最後の方には
又「廻向」と言ふは、彼の国に生じ已(おは)りて、還りて大悲を起して、生死に廻入し、衆生を教化するを亦「廻向」と名くるなり。
と、書いてあります。
漢字源の辞書から「已」を引いてみました。 上記にも、振り仮名で(おは)と付いていますが、 意読:やめる/すでに/はなはだ/のみ <意味> @{動}やめる(やむ)。そこまででやめる。中止する。 A{動}やめる(やむ)。官職をやめる。 B{副} すでに。→語法「@A」「已然」「已往」(すでに過ぎ去ったこと) 以下省略 《語法【已】》 @(1)「すでに」とよみ、「もはや」「もう」と訳す。 行為が過去に完了している意を示す。 以下省略
すると、金剛心様の書いておられる以下の箇所と矛盾すると思うのです。
>菩提心樣の言われるように往生するためには教学は必要ないのですが現代では「往生」とか「還相廻向」とかは死んでからと布教師や坊さんが話されるのを真にうける人が大半ですがそれでは、宗祖や覚如・存覚・蓮如上人等と相違したのでは折角頂いた極樂往きの切符が化土行きになるのでは勿体無いのではないでしょうか。
通俗親鸞聖人御一代記には 「この御伝抄は奇特霊瑞を書き残すのが本旨ではなく、法然上人から御相承の浄土真宗の要義を示し念仏為本の真意を末代の我等に伝えて下されるのが一部始終の思し召しで御座ります。信心決定の上の佛恩報謝の念佛は法然上人から御相承の肝要、浄土真宗の骨目で御座りまするから、わが聖人の御臨終にも只、佛恩報謝の称名を相続したまう要義を述べて真宗の肝要たることを示されその余の奇瑞はお省きになったのであります。臨終になって念佛申し申し息引き取ることは紫雲異光よりも目出度いのであります。万一わが聖人の御臨終に奇瑞不思議が現はれたとお書きなされると、後来の門葉がわが聖人の如く臨終に奇瑞がなければ往生が出来ぬやうに思ひ、遂には臨終往生の異安心に陥るやうになりますから、平生業成の御宗意を明かにせん為に態々お省きになったのです。」
又、今書き写している蓮如上人御一代記説教にも、たくさんの奇瑞の話が出てきますが、最後には 「法然さまと蓮如さまは、臨終にかかる奇瑞を現したまひた。御開山の御往生の時は花も降らぬが音楽もなし、一寸も不思議がなしに念佛の息絶え終せられた。之はどうした訳かと云うに、それに有り難い訳があるのじゃ、先ず両上人の奇瑞を現したまひたは、一には権化入滅の奇瑞を示すと云うて、かかる不思議のあるに付いても凡人でない、極楽浄土より衆生済度に御出ましなさりた御方であるということを知らせるため。二つには信心堅固の妙相を示すという。胸の了解が真実ならかように目出度い安養の往生をとぐるぞよと云うことを知らせるため。 次に御開山が臨終に奇瑞不思議を現したまはぬは、一つには信心正因の妙旨を示すというて、往生浄土の物種はただ信心のひとつぞよ、その外には何にも入らぬということを知らせるため。二つには臨終の奇瑞は往生得否に関せざることを示す。臨終に奇瑞がないと云うて疑うな。決して往生にかかわることではないと云うことを知らせるため。しかれば今日のこの座のお互いは御開山の御臨終が手本。命ち一刹那に縮まりた時、奇瑞不思議があろうとあるまひと一寸もそれに関係はない。往生は佛智廻向の信心一つなり」
そこで私は、こう思ったのです。 私は、過去に御縁あった所でも、不思議な事が出来る人や見える人がおられました。 しかし、一念帰命を受けた人は、皆極楽往生と聞いてきたのに、なぜ切符を落としたり、無くしたり、忘れた人は往生できないのだろう。
又、そこには、目に見えない差別感は出てこないのだろうか? 絶対そこには、慢心のお気持は起きてこないのでしょうか? 私は、自分は凡夫だと思うので、慢心の気持も起きるだろうし、現に辛い時には、自分は救われて、こんな有り難い法を知っている人はいないだろうなと優越感も起きてきます。
弥陀にすがった人を全部救うのが、「摂取不捨」のお約束では有りませんか。 だから、聖典のいたるところに「他力は義なきを義とす」と書かれていると思うのです。 金剛心様や愚老様の衆生済度のお気持は尊いと思いますが、 わたしは、逆に「往相廻向」が有り難いと思います。
「極重の悪人は唯佛を称すべし、我も亦彼の摂取の中に在れども、煩悩眼を障へて見たてまつらずと雖も、大悲倦きこと無くして常に我を照らしたまふ」といへり。 雖<意> あるかもしれないけどもそうでもない。
済みません。色々疑問や思いが出てきましたので、書いてみました。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 847 ] Re50:教えて下さい
|
2008/10/27 (Mon) 09:20
△up ▽down
|
|
>愚老様 金剛心様 > >>愚老樣へ、十月二十六日(日曜日)白樺ハイツ受付にて十時三十分にお待ち致しております > >>金剛心さま >>10月ニ十六日〔日)10時30分,白樺ハイツ >>お目にかかること楽しみに行かせて頂きます。宜しく願います。 > >明日、お逢いになられるのですよね。
金剛心さま 初対面の金剛心さまご夫婦で同伴され,愚老心より感謝致します。 対面の山々の紅葉を眺め裸同士の大浴場での談義,盛りあがりましたね。 40数年の後念相続,貴殿の心入れように頭が下がりました。本当に一日有難う御座いました。私文で失礼致します。 >でしたら、ここから、質問させて下さい。(一方的なこちらからの質問です) >確か、金剛心様や愚老様は、往相廻向であり、還相廻向でもあるから、衆生済度も出来ると言われているとおもうのですが。 > >ただ、それなら何故、教行信證の冒頭から、 >謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向有り。 >一つには往相、二つには還相なり、往相の廻向に就いて、真実の教・行・信・證有り。 >と書いてあるのでしょう? >むしろ、往相廻向に重点をおいているのではないかと思うのです。 >信心決定したら、往相廻向の働きがあるから、その往相廻向を詳しく説かれたと思います。 > >又、信巻の中{15}の二河白道の譬えの話の最後の方には > >又「廻向」と言ふは、彼の国に生じ已(おは)りて、還りて大悲を起して、生死に廻入し、衆生を教化するを亦「廻向」と名くるなり。 > >と、書いてあります。 > >漢字源の辞書から「已」を引いてみました。 >上記にも、振り仮名で(おは)と付いていますが、 >意読:やめる/すでに/はなはだ/のみ ><意味> >@{動}やめる(やむ)。そこまででやめる。中止する。 >A{動}やめる(やむ)。官職をやめる。 >B{副} すでに。→語法「@A」「已然」「已往」(すでに過ぎ去ったこと) >以下省略 >《語法【已】》 >@(1)「すでに」とよみ、「もはや」「もう」と訳す。 >行為が過去に完了している意を示す。 >以下省略 > >すると、金剛心様の書いておられる以下の箇所と矛盾すると思うのです。 > >>菩提心樣の言われるように往生するためには教学は必要ないのですが現代では「往生」とか「還相廻向」とかは死んでからと布教師や坊さんが話されるのを真にうける人が大半ですがそれでは、宗祖や覚如・存覚・蓮如上人等と相違したのでは折角頂いた極樂往きの切符が化土行きになるのでは勿体無いのではないでしょうか。 菩提心さま 金剛心さまがこのホームページから一応去られましたので愚老の知恵で御質問に答えられるか浅知恵ですが、思いのままです。 度衆生心・・・・・自利利他は菩薩の修行 悪業ばかり積み重ね,地獄一定の身であることの自覚も出来ない我々凡夫を如何にしても救いたいと、願っていられるにが如来の大慈悲心である。 この大慈悲心を頂くのが信心獲得、信心頂いたなら娑婆の命終わるまで,如来の光明の中での生き甲斐のある喜びの日常生活を送ることが出来、その上、天地の神々、もろもろの神々菩薩のお加護を受ける事が出来るのであります。この大慈悲心を度衆生心という、度というのはワタ〔渡)という意であって,迷いの岸から悟りの世界へ渡したいとの如来のお心であり、この心を凡夫にお与え下さることを回向といいます。このことを蓮如上人は〔仏心と凡心と一体になるとところをさして眞の念仏行者という)べきであるとお示し下され、親鸞さまの和讃に、 度衆生ということは 弥陀智願の回向なり 回向の信樂うる人は 大般涅槃をさとるなり とあります。信樂とは信心がわが胸にとどいて下されたことを喜ぶ心であり、智願というのは、知恵の願,即ち第十二の光明無量の願のこと、この佛の知恵をお与え下されると同時に寿命無量〔第十三願)もお与え下されるので、永遠に死の苦から逃れうるのであります。和讃に 願作佛心の心はこれ 度衆生心のこころなり 度衆生心の心はこれ 利他真実の信心なり 尽十方の無碍光佛 一心に帰命するをこそ 天親論主のみことには 願作佛心とのべたもう 自己が救われると同時に,他をも救うことが出来るとなると、その大慈悲心は無限大にひろがっていきます。正に底知れぬ大功徳であって、無量無辺、不可称不可説の大功徳といわれる訳であります.其の上,大難は小難に、小難は無難にのがれさして頂けるのであります。この度衆生心の働きを自利利他といい、自利とは我が身が佛になる利益を与えられることであり、利他とは他をも救うという利益を与えうることであって、これを菩薩の行とし、この行をする人を普賢菩薩というのであります。 他を利するということは菩薩の位を得た念仏行者としては責任でもあり、この責任を果たすことが阿弥陀如来さまのお手伝い出来ることでありますが、この穢れた娑婆に生きている間にだけ出来ることであるから、ここに生かされていることの尊さも感じるのであります。和讃に 還相の回向ととくことは 利他教化の果をえしめ すなわち諸有に廻入して(諸有とは諸々の迷界) 普賢の徳を修すなり 諸有の廻入とはあらゆる生きとし生けるものの悩みの中に返り入ること,親鸞さまも信巻に(しからばもしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就し給うところにあらざることあることなし)と仰せられ、のの度衆生心は如来から我ら凡夫に お与え下された仏心でることをお教え下されているのでありますから、信後は衆生済度,六道四生いずれの生におるとも神通方便を以って度す。〔供養)を心掛けねばならないのであります。命終わったら利他教化の大功徳を施すことが出来ません。命あることを喜ばねばなりません。 南無阿弥陀仏
>通俗親鸞聖人御一代記には >「この御伝抄は奇特霊瑞を書き残すのが本旨ではなく、法然上人から御相承の浄土真宗の要義を示し念仏為本の真意を末代の我等に伝えて下されるのが一部始終の思し召しで御座ります。信心決定の上の佛恩報謝の念佛は法然上人から御相承の肝要、浄土真宗の骨目で御座りまするから、わが聖人の御臨終にも只、佛恩報謝の称名を相続したまう要義を述べて真宗の肝要たることを示されその余の奇瑞はお省きになったのであります。臨終になって念佛申し申し息引き取ることは紫雲異光よりも目出度いのであります。万一わが聖人の御臨終に奇瑞不思議が現はれたとお書きなされると、後来の門葉がわが聖人の如く臨終に奇瑞がなければ往生が出来ぬやうに思ひ、遂には臨終往生の異安心に陥るやうになりますから、平生業成の御宗意を明かにせん為に態々お省きになったのです。」 > >又、今書き写している蓮如上人御一代記説教にも、たくさんの奇瑞の話が出てきますが、最後には >「法然さまと蓮如さまは、臨終にかかる奇瑞を現したまひた。御開山の御往生の時は花も降らぬが音楽もなし、一寸も不思議がなしに念佛の息絶え終せられた。之はどうした訳かと云うに、それに有り難い訳があるのじゃ、先ず両上人の奇瑞を現したまひたは、一には権化入滅の奇瑞を示すと云うて、かかる不思議のあるに付いても凡人でない、極楽浄土より衆生済度に御出ましなさりた御方であるということを知らせるため。二つには信心堅固の妙相を示すという。胸の了解が真実ならかように目出度い安養の往生をとぐるぞよと云うことを知らせるため。 >次に御開山が臨終に奇瑞不思議を現したまはぬは、一つには信心正因の妙旨を示すというて、往生浄土の物種はただ信心のひとつぞよ、その外には何にも入らぬということを知らせるため。二つには臨終の奇瑞は往生得否に関せざることを示す。臨終に奇瑞がないと云うて疑うな。決して往生にかかわることではないと云うことを知らせるため。しかれば今日のこの座のお互いは御開山の御臨終が手本。命ち一刹那に縮まりた時、奇瑞不思議があろうとあるまひと一寸もそれに関係はない。往生は佛智廻向の信心一つなり」 > > >そこで私は、こう思ったのです。 >私は、過去に御縁あった所でも、不思議な事が出来る人や見える人がおられました。 >しかし、一念帰命を受けた人は、皆極楽往生と聞いてきたのに、なぜ切符を落としたり、無くしたり、忘れた人は往生できないのだろう。 > >又、そこには、目に見えない差別感は出てこないのだろうか? >絶対そこには、慢心のお気持は起きてこないのでしょうか? >私は、自分は凡夫だと思うので、慢心の気持も起きるだろうし、現に辛い時には、自分は救われて、こんな有り難い法を知っている人はいないだろうなと優越感も起きてきます。 > >弥陀にすがった人を全部救うのが、「摂取不捨」のお約束では有りませんか。 全くそのとうりです、以前も書き込み致しましたが信心を得たと云っても愚老も人です,人である以上は腹もたて心も悩み煩悩の起こらぬはずは有りません.慢心も出るでしょう。 しかし我昔所造諸悪業,皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔 の碍文のごとく 懺悔の心はせずにおれない日々です・ >だから、聖典のいたるところに「他力は義なきを義とす」と書かれていると思うのです。 >金剛心様や愚老様の衆生済度のお気持は尊いと思いますが、 >わたしは、逆に「往相廻向」が有り難いと思います。 > >「極重の悪人は唯佛を称すべし、我も亦彼の摂取の中に在れども、煩悩眼を障へて見たてまつらずと雖も、大悲倦きこと無くして常に我を照らしたまふ」といへり。 > 雖<意> あるかもしれないけどもそうでもない。 > >済みません。色々疑問や思いが出てきましたので、書いてみました。 > >南无阿彌陀佛 菩提心さま浅知恵の書き込みでご勘弁下さい・愚老より,南無阿弥陀仏。
|
|
|
|
[ 848 ] Re51:教えて下さい
|
2008/10/27 (Mon) 12:06
△up ▽down
|
|
愚老様
金剛心様とご一緒に、裸での仏法談義。
とても素晴らしいですよね。何だか、こちらからも想像して楽しくなってきました。
でも、
ごめんなさい、否定的な書込みから始めさせて頂きます。
>度衆生心・・・・・自利利他は菩薩の修行 >悪業ばかり積み重ね,地獄一定の身であることの自覚も出来ない我々凡夫を如何にしても>救いたいと、願っていられるにが如来の大慈悲心である。
上記のように、愚老様もお書きですが、
愚老様は、上記のような凡夫ではないのですか? やっぱり、衆生済度も出来る菩薩なのですか?
私は、信心決定の身になっても、あくまで凡夫は凡夫だと思います。 自分の心を思えば、とても衆生済度など出来るような菩薩には思えません。
愚老様や金剛心様は、それはまだ赤ちゃんの菩薩だと言われるでしょうが、 私には、どうしてもそこに抵抗があるのです。
「摂取不捨」の弥陀の誓願を、実は逆に信じられないから、自分の善を差し向けていると思うのです。
「自力作善」と確か、泥凡夫様もお書きになっておられますが、私には、どうして、阿弥陀様がそのまま救うと仰っておられるのに、敢えて、自分から善を差し向けなくていけないのか、疑問なのです。 相手は、仏様ですよ。それも阿弥陀様ですよ。 阿弥陀様は、私達の代わりに、法蔵因位の時に、五劫もの間思案され、兆載永劫の間御修行されたのは、私達凡夫の為ではなかったのですか? 今日の命も分らない私達が相手の本願では有りませんか?
それこそ、ほやほやの信心の者こそ、何の疑いもなく往生できるのなら、このまま死んですぐに浄土に行って、直に阿弥陀様の御説法を聞いて、神通力も頂いて、ゆっくり、有縁の人を導きに帰ってくる方が確実に済度できるような気がします。
完全無欠の菩薩って、今生におられるのですか? 悟を開いたお方は、この地球上にはお釈迦様だけではないのですか?
愚老様には失礼ですが、 愚老様は絶対、怒りや愚痴や欲の心は起きてこないのですか?
完璧に衆生済度だけを考えられる菩薩様のお方が増えていけば、きっとこの地球には、末法時代なんていうお言葉も要らないのではないかと思います。
弥陀から頂いた信心を喜んで、そして、その姿に共鳴した人が、 「貴方が喜んでいる教えは何ですか? そんなに笑顔でいられる秘訣は何ですか?」 と尋ねてきた時に、その人の宿善・無宿善を見極めて、初めて、お話のきっかけが出てきて、その先へと話が進んだ時に、次第相承の善知識様をご紹介しようという運びになるのではないかと思います。
ですから、私は、親鸞聖人は、やはり冒頭から、還相回向のお話より、まず往相回向のお話をされたと思います。 それを、蓮如上人は、もっと解り易く、往相回向の人のあるべき姿を書かれたのだと思います。
宿善・無宿善を見極め、人をお誘いしなさい。 そして、善など出来ない凡夫の私達こそ、佛恩報謝の為に、お念仏を称えなさい、と凡夫が救われた後の道を示して下さったように思います。
愚老様 人それぞれの道だと思います。 ただ、人それぞれの道を信じて歩いていくだけだと思います。 ただ、私も毎日様や泥凡夫様、7様と同じ信心を頂いていますので、はっきり真実報土と思っています。 それは、確実に弥陀より賜った金剛心だからです。
でも、愚老様、今生の縁は、尽きるまで縁なので、私は、愚老様との御縁がとても嬉しいと思っています。 なかなか、他人の信心を心配して下さる方はいません。 そういう点では、インターネットを通して、このようにご心配して下さる愚老様に感謝しております。
完全にはまだ読んでいませんが、取り敢えずの感想を書いてみました。 有難うございました。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 849 ] Re52:教えて下さい
|
2008/10/27 (Mon) 11:53
△up ▽down
|
|
菩提心さま > >>度衆生心・・・・・自利利他は菩薩の修行 >>悪業ばかり積み重ね,地獄一定の身であることの自覚も出来ない我々凡夫を如何にしても>救いたいと、願っていられるにが如来の大慈悲心である。 > >上記のように、愚老様もお書きですが、 > >愚老様は、上記のような凡夫ではないのですか? >やっぱり、衆生済度も出来る菩薩なのですか?
菩提心さま 蓮如上人も〔行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来より給わるたる信心とはやがてあらわに知られたり)2−13と書き残して下されてあります。信心とは眞心であり,真の心であり,如来の大慈悲心そのものです。その大慈悲心が我々凡夫の汚い煩悩だらけの心の中におさまって下さることを信心頂いた、信心もろた、信心獲得といっているんでしょう。蓮如上人お文2−9にも (まことに宿善の開発にもよほされて佛智より他力の信心を与えたもうがゆえに、仏心と凡心とひとつになるところさして信心獲得の行者ちはゆうなり)とあります、如来の光明は〔知恵の働き)と寿命は無量ですこの光寿無量の大功徳を頂いたことを信心獲得と言います.親鸞さまは身も心も仏にさせて頂けるのが眞の念仏者であると云っておられます。 古歌に・・仏には心ならず身もならず、ならぬものこそ仏なりけり。 何時までも凡夫凡夫と云って迷心では如来様に申し訳たちません。、どうにもならない凡夫が悟らされて頂いたと思う心が大事でなからうかね。 >私は、信心決定の身になっても、あくまで凡夫は凡夫だと思います。 >自分の心を思えば、とても衆生済度など出来るような菩薩には思えません。 > >愚老様や金剛心様は、それはまだ赤ちゃんの菩薩だと言われるでしょうが、 >私には、どうしてもそこに抵抗があるのです。 菩提心さま 五念門の修行により、自利・利他円満の成仏道たる 大乗菩薩道が完成することを、 五念門行のもたらす功徳の面から明らかにする。 すなわち、因の五念門にたいして果の五功徳門を挙げる。
その第一の近門とは、 浄土に入るすがたで、正定聚の位につくことである。
第二の大会衆門と名づけるわけは、 浄土に生まれた者は如来の大会衆の仲間に入るからである。
第三の宅門とは、 如来の大会衆の仲間に入れば、禅定生活に入るからである。
第四の屋門とは、 禅定修行の宅に入れば種々の真理観を修める空住生活に入り、 法味を楽しむからである。
第五の園林遊戯地門とは、 自利行が完成すると衆生を利他教化する働きに従事することになる。 これは生死の園林に入って衆生を救うことをみずからの楽しみとするから、 そのようにいう。 五念門のあることも調べて頂きたいです。 >「摂取不捨」の弥陀の誓願を、実は逆に信じられないから、自分の善を差し向けていると思うのです。 > >「自力作善」と確か、泥凡夫様もお書きになっておられますが、私には、どうして、阿弥陀様がそのまま救うと仰っておられるのに、敢えて、自分から善を差し向けなくていけないのか、疑問なのです。 >相手は、仏様ですよ。それも阿弥陀様ですよ。 >阿弥陀様は、私達の代わりに、法蔵因位の時に、五劫もの間思案され、兆歳永劫の間御修行されたのは、私達凡夫の為ではなかったのですか? >今日の命も分らない私達が相手の本願では有りませんか? > >それこそ、ほやほやの信心の者こそ、何の疑いもなく往生できるのなら、このまま死んですぐに浄土に行って、直に阿弥陀様の御説法を聞いて、神通力も頂いて、ゆっくり、有縁の人を導きに帰ってくる方が確実に済度できるような気がします。 > >完全無欠の菩薩って、今生におられるのですか? >悟を開いたお方は、この地球上にはお釈迦様だけではないのですか? > >愚老様には失礼ですが、 >愚老様は絶対、怒りや愚痴や欲の心は起きてこないのですか? 愚老も人間です、しかし、心は浄土の遊ぶなりです。 >完璧に衆生済度だけを考えられる菩薩様のお方が増えていけば、きっとこの地球には、末法時代なんていうお言葉も要らないのではないかと思います。 > >弥陀から頂いた信心を喜んで、そして、その姿に共鳴した人が、 >「貴方が喜んでいる教えは何ですか? >そんなに笑顔でいられる秘訣は何ですか?」 >と尋ねてきた時に、その人の宿善・無宿善を見極めて、初めて、お話のきっかけが出てきて、その先へと話が進んだ時に、次第相承の善知識様をご紹介しようという運びになるのではないかと思います。 > >ですから、私は、親鸞聖人は、やはり冒頭から、還相回向のお話より、まず往相回向のお話をされたと思います。 >それを、蓮如上人は、もっと解り易く、往相回向の人のあるべき姿を書かれたのだと思います。 > >宿善・無宿善を見極め、人をお誘いしなさい。 >そして、善など出来ない凡夫の私達こそ、佛恩報謝の為に、お念仏を称えなさい、と凡夫が救われた後の道を示して下さったように思います。 > >愚老様 >人それぞれの道だと思います。 >ただ、人それぞれの道を信じて歩いていくだけだと思います。 >ただ、私も毎日様や泥凡夫様、7様と同じ信心を頂いていますので、はっきり真実報土と思っています。 >それは、確実に弥陀より賜った金剛心だからです。 > >でも、愚老様、今生の縁は、尽きるまで縁なので、私は、愚老様との御縁がとても嬉しいと思っています。 >なかなか、他人の信心を心配して下さる方はいません。 >そういう点では、インターネットを通して、このようにご心配して下さる愚老様に感謝しております。 > >完全にはまだ読んでいませんが、取り敢えずの感想を書いてみました。 >有難うございました。 > >南无阿彌陀佛 信心獲得された皆様は夫々有縁の知識に寄りです・それはそれで良いのでないでしょうか。 南無阿弥陀仏。
|
|
|
|
[ 850 ] Re53:教えて下さい
|
2008/10/27 (Mon) 13:30
△up ▽down
|
|
愚老様
早々のお書込み、有難うございました。
>五念門の修行により、自利・利他円満の成仏道たる
五念門:礼拝門 讃嘆門 作願門 観察門 回向門
阿弥陀様の御修行、全てが出来上がったのが、南無阿弥陀仏の六字の中に凝縮されているのだと思います。
弥陀の御代官であり、勅命を受けた実語相承血脈なさっているお方である次第相承の善知識様より
その南無阿彌陀佛の六字の謂れを聞いて、六字のスガタになった私は、その場で念仏行者であります。
ですから、凡夫、凡夫といつまでも迷心しているとは思っていません。
こんな凡夫の身ながら、往相廻向のお宝を弥陀より賜ったのだと思います。
それは目には見えないけれど、常に私を弥陀が包んで下さいますので、全く善など出来ない私でも、何処かに有縁の方はおられないだろうかと思ってしまうのも、全て阿弥陀様から賜った信心のお陰だと思います。
愚痴も言い、腹も立ち、嫉妬もし、いつまでも金銭欲に翻弄される凡夫の姿ですが、このように愚老様ともお話出来る身がとても有り難いです。
私は、信後をこのように味わっています。
私の阿弥陀様は、お陰様で、私に修行など求めない阿弥陀様です。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 978 ] Re54:教えて下さい
|
2009/02/02 (Mon) 23:32
△up ▽down
|
|
ボンと申します。
古いスレッドをまた引っ張り出してきて申し訳ありませんが、 このスレッドではとても大事なことが話し合われていたように思いますので、 一言コメントを述べさせていただきます。
議論の成り行きをつぶさに拝見いたしましたところ、2つの対立する見地があって、 残念ながら、これまで見解の一致をみていないように思われます。
勝手ながらそれぞれの論旨をまとめさせていただきますと、以下のようになるのではないかと思います。
<前者> 信後、何の精進もせずに漫然と過ごしていると疑惑を生ずる、疑惑を生ずれば化土に生まれる、 せっかく信心をいただいたのに化土に生まれたのではもったいない、だから、御恩報謝の念仏をする、 または聖教に親しむ、または菩薩道の精進をするなどして、臨終までに金剛の信心を獲得する ように努力すべきである。
<後者> 阿弥陀仏からいただいた信心は、だれもがすべて同じ金剛の信心であるから、仮に漫然と過ごしたり、 心に疑惑を生じたりしても、臨終のあと極楽浄土(真実報土)に生まれることに変わりはない。 化土は、自力・半自力の行者が生まれるところである。
この両者の相違点は、つまるところ、「信後に疑ったら化土行きなのか否か」ということではないかと思います。
私は、有縁の善智識・同行様から、「化土往生の種となる疑惑というのは、自力・半自力を頼む心を指している のであって、信後に様々な疑問をもつことを指しているのではない」と教わりました。 ですから、私は後者の見解にシンパシーを感じます。
そこで、私なりに経文を紐解いてみましたところ、以下のとおり、 多くの場合疑惑と自力がセットで論じられていることがわかりました。
「疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して」(大経) 「如来の諸智を疑惑して罪福信じ善本をたのめば」(疑惑和讃) 「仏智の不思議をうたがいて 自力の称念このむゆえ」(疑惑和讃) 「自力称念のひとはみな 如来の本願信ぜねば うたがふつみのふかきゆえ」(疑惑和讃) 「誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて」(歎異抄)
それぞれの箇所を、その前後を含めて以下、引用いたします。
「そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、<世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、 胎生・化生なる>と。仏、慈氏に告げたまはく、<もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して かの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、 この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ふ。 このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞 の聖衆を見たてまつらず。このゆゑにかの国土においてこれを胎生といふ。」(大経)
「仏、弥勒に告げたまはく、<もし衆生ありて、疑悔に随ひて善根を積集して、仏智・普遍智・不思議智・ 無等智・威徳智・広大智を希求せん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。この因縁をもって、 五百歳において宮殿のうちに住せん・・・」(教行信証 化土巻)
「不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり」(疑惑和讃) 「仏智の不思議をうたがいて 自力の称念このむゆえ 辺地懈慢にとどまりて 仏恩報ずるこころなし」(疑惑和讃) 「罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがいて 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる」(疑惑和讃) 「自力称念のひとはみな 如来の本願信ぜねば うたがふつみのふかきゆえ 七宝の獄にぞいましむる」(疑惑和讃) 「仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり」(疑惑和讃)
「つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは、 誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。 このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。信ぜざれども、返事懈慢疑城胎宮にも往生して、 果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。」(歎異抄)
このように、多くの場合、疑惑と自力がセットで論じられているということは、 化土は「本願を疑って自力を頼む人」が往生するところと考えてよいということの 裏づけになると思うのですが、いかがなものでしょうか。
私は経文に暗いほうですので、上記の論旨と異なる文言も経文にあるかもしれません。 もし経文のほかの部分にそのよな文言がございましたら、教えていただけましたら、 勉強にもなりますし、うれしく思います。
これまでの議論の経緯を見ますと、少なからず感情的な応酬と見える部分あって、 それが一因でこの掲示板から遠ざかった方がおられたようにも思われます。、 経文を中心としたお話でしたら、そのようなことも緩和されるのではないかと思う次第です。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 979 ] Re55:教えて下さい
|
2009/02/04 (Wed) 16:50
△up ▽down
|
|
ボン様が分かりやすく問題提起をして下さいました。
実は一つの疑問を感じておりましたので今回投稿するきっかけになりました。
><前者> >信後、何の精進もせずに漫然と過ごしていると疑惑を生ずる、疑惑を生ずれば化土に生まれる、 >せっかく信心をいただいたのに化土に生まれたのではもったいない、だから、御恩報謝の念仏をする、 >または聖教に親しむ、または菩薩道の精進をするなどして、臨終までに金剛の信心を獲得する >ように努力すべきである。
不審点は以下の通りです。
信後、上記のような化土往生に至るということが、真宗教においてありうること でしょうか。
そもそも、信とは一体何だったでしょうか。頂いた南無阿弥陀仏のお働きは如何なるものであったのか。
信後、出来ないと知りつつも、何とか精進の真似事でもさせていてだこうと思って生きる ことと、精進を欠いたことの結果が究極的に化土往生に至るということ このような受け取り方があること この分水嶺は一体何を物語るものであるか。
信後における凡夫の所作が、究極的に往生に関連するということは、完全なる救済に対しては矛盾すると思われてなりません。このような場合、救済の平等性はどこで成り立つのか。大きな疑問を感じるのは私だけでしょうか。
難しい聖典の引用ではなく、現代人にも分かるように教えていただけたら有難いです。
|
|
|
●re.61
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 980 ] Re56:教えて下さい
|
2009/02/05 (Thu) 03:00
△up ▽down
|
|
ボン 様 現代人 様
私の信仰と致しましては、私の精進によって往生するのではないのですから、私の行為が往生を左右することはないと考えます。
確かに、「私が一念帰命した」と捉えることはできるのですが、考えを進めれば、「そうなった」ことには弥陀の御はたらきがあるのであって、私の自力は、弥陀の他力に導かれたものである以上、狭い観点から自身の行為を捉えれば、「信を獲った」のように、自身を主語として、また主体として捉えることはできるにしても、それは本質ではなく、あくまでも弥陀が救ってくださったのであると思います。
ですから、私には、他力を教えることなど、できるはずがないのだと思うようになりました。
不思議なお導きに、感謝する他はないと思っております。
ボン様は、救われるご縁がありまして、すばらしいことです。 そのご縁が、それから細く、あるいは、途切れてしまわれたのであれば、なおさら希有な救いであると、その僥倖を喜ばれていることと思います。
救済の平等性というのは、いずれ、皆が弥陀に救われることにあると思います。
そこに、早い遅いがあるだけで、たいした違いはないのだと思います。
また、以前御本典のことで問われておりますことにも、愚考を表さねばならないと思っております。
◎ただひとすぢに出離生死のために念仏を行ずれば、はからざるに今生の祈祷ともなるなり(持名鈔)
議論の筋とは、ずれてしまいますが、つくづくありがたい御名号であると思い、感謝しております。
南无阿彌陀佛
|
|
|
●re.62
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 981 ] Re57:教えて下さい
|
2009/02/05 (Thu) 03:37
△up ▽down
|
|
典拠ですが、
◎また信心をとるといふもやすければ、仏に成り極楽に往生することもなほやすし(御文2-10)
さらに、同通にては、「さて命も尽きぬれば、すみやかに真実の報土へおくりたまふなり」ともございます。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 982 ] Re58:教えて下さい
|
2009/02/06 (Fri) 03:00
△up ▽down
|
|
現代人様 ボンです。はじめまして。
「信後の疑いが化土行きの種となるわけではない」 私がここで申し上げたかったのは、この一点につきます。 これ以上でも、以下でもありません。
昨年のこのスレッドを読んでみて、議論のなりゆきになにかもどかしさを感じて、 おこがましくも口を差し挟みましたが、そもそも的なことはよく判っていないのです。
それでも、ただひとついえることは、ご開山の一流においては、信をいただくことが 何よりの一大事で、信後の話はそれに比べれば大したことではありません。
信前に経文を読んでも、おそらくチンプンカンプンに違いありません。 信後に経文を読んでみると、「ああ、これらの経文はすべて、後世のわれわれのために 書いていただいているのだなあ」という感慨が沸いてくる次第なのです。
こうして、信後のたしなみ、楽しみとして経文に親しんでいるのですが、 まあ、表面をなぞっているようなものです。
毎日様 いつもページの管理、ご苦労様です。
>そのご縁が、それから細く、あるいは、途切れてしまわれたのであれば、 >なおさら希有な救いであると、その僥倖を喜ばれていることと思います。
実は、しばらく同行様から遠ざかっている間、やはり、いただいた信にたいする意識が 薄らいできておりました。ただ大事に心の奥にしまっておりました。
それでも何か満たされない気持ちがあったのか、戯れに、同行様以外には 使いそうもない言葉でネット検索をして、こちらのページに行き当たったのです。
昔、同行様の間で語られていたことと寸分たがわぬ内容が、 こちらで語られているのを目の当たりにして、わが目を疑いました。
何百年も前に枝分かれしたかもしれないそれぞれの流れが、相互に連絡を取り合って いたとも思えないのに、こんなにも「金太郎飴状態」であるというのは、 いったいどうしたことなのだろうか。これは仏の計らいと考えるほかありません。
しかも、細々と続いてきた稀有なものとばかり思っていた一流の御法が、 こんなにも繁盛していたなんて・・・。
こちらのページに行き当たって、喜びが爆発しました。 毎日様、本当にありがとうございます。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
|
|
●re.65
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 994 ] Re60:教えて下さい
|
2009/02/08 (Sun) 23:01
△up ▽down
|
|
ボン 様
信後、心の奥では、真宗を求めていたのですね。
そのような働きを実感できることも、不思議なことだと思います。
信前でも、信後でも、なぜか真宗を求める。
ご養育の賜物であると想像します。
現代人様
迷って、迷って、どこまでも迷う私たちだと思います。
おそらく、迷って迷って流転してきたのだと思います。
それを、弥陀は、ずっと見守ってくださいましたし、今も見守ってくださっているのだと思います。
自力叶わずと聞いても、もがくのが私たちですし、私も、信をいただいたと思っても、もがきます。
知らされていることがあると、日々感じたりも致しますが、そう感じられることが、不思議に思います。
御名号は、とてもありがたいと、感謝してお称えも致しますが、なぜありがたいと思えるのか、不思議に思うことも、よくあります。
南无阿彌陀佛の大船に乗る。この感覚が、少しずつ実感されてきているようにも思うのですが、それもまた、錯覚かもしれません。
典拠の追加です。他にもたくさんあると思います。
◎かくのごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず(御文3-4)
◎仰せに、ときどき懈怠することあるとき、往生すまじきかと疑ひなげくものあるべし。しかれども、もはや弥陀如来をひとたびたのみまゐらせて往生決定ののちなれば、懈怠おほくなることのあさましや、かかる懈怠おほくなるものなれども、御たすけは治定なり、ありがたやありがたやとよろこぶこころを、他力大行の催促なりと申すと仰せられ候ふなり(聞書18)
南无阿彌陀佛
|
|
|
●re.66
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 996 ] Re61:教えて下さい
|
2009/02/08 (Sun) 23:52
△up ▽down
|
|
金剛心 様
[ 834 ] >「深信というは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永し疑錯を除きて・・・」は要門と解するとありますが注意しなければならないのは、大経で用いられる字と観経で用いられる字の使い分けに注意することが肝要となるのです(観経の三心は深心)。これだけ書けば要門でないことが理解出来る筈です
「これだけ書けば要門でないことが理解出来る筈です」というのは、金剛心様の予測を表していると考えますが、もし、私が理解できないとすれば、それは金剛心様の予測が誤っていたことを示すと思います。
「理解出来る筈」というタイプのアプローチで説かれますと、「まるで、理解できないと、私が悪いかのよう」に聞こえもするのですが、これは、私の誤解でしょうか。理解できなくても、問題ございませんか。また、理解と同意とは、異なることと考えております。
「理解できなくても、また、同意しなくても、問題がない」という土俵の上で、問答できたらと思っております。
それに、私が理解できないにしても、それは、私が間違っている場合と、金剛心様の主張が間違っている場合と、双方間違っている場合があると思います。また、互いに、少しずつ間違っている場合や、誤解が生じている場合など、さまざまな場合があると思います。
「理解出来る筈」と言うよりは、なるべく、相手がわかるように、噛み砕くように、説明してゆくことが大切だと考えます。
もちろん、これは、私も自戒してゆかねばならぬ所です。
ご指摘の箇所ですが、それより前の箇所に、「大経観経、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一つなり、知るべし」とございます。
ですから、ご主張のように、「字の使いわけ」ではなく、顕彰にて解してゆくべきだと考えますが、いかがでしょうか。
顕彰においては、「字」が変わるのではなく、義が変わるのであると思います。
「字の使い分け」ということであれば、「顕の義、彰の義」ということもなくなり、一異問答の必要も、なくなってしまうのではないでしょうか。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 1003 ] Re66:教えて下さい
|
2009/02/12 (Thu) 18:40
△up ▽down
|
|
> 毎日樣 金剛心です。私は昨年毎日樣のネット上の交信から身を引いて早約四ヶ月になり、昨年の十月で
交信を打切らせて頂いたのですが、二月に入って又毎日樣より金剛心宛のメ−ルが入り驚いて
いるところです。私の記した釈文が未だ理解されていないとの事、私の責任でもあった様に思われ ますので、今回一度のみ毎日樣宛に再登場することと致しました。何卒他の皆様方の問答はお許し 頂きたいと思います。
本題に入りますが「教えて下さい」[ 888 ]に二十ヶ条の釈文を提示して他力信心に就いて釈文を 以って述べたのです。その中の第二の項目の釈文が毎日樣が要門であるとの見方を示されましたので その説明を再度致したく又このメ−ルを送らせて頂きます。
観経顕の義を自力聖道修行と言い、それは釈迦仏のように自力で仏位を今生で悟る修行道である
それが即身成仏いわば煩悩を一つづつ断じながら仏位に向って世々生々に亘って善を積み重ねる
修行道である。それを観経の三心という。至誠心・深心・廻向發願心を三心という字で書かれている 三心という字は自力聖道門に対して顕す字を三心と書くのです。
それに対して彰の義は大経十八願を示す他力の釈文だから信という字を使うのです。
大経の三信は至心・信樂・欲生、これを三信という字を使って顕わされているのです(心と信)。 観経の要門を十九、二十願を以って要門の三心と言うのですが、他力である十八願を体得すれば
観経の要門も他力の中に入ることになり、深信として顕わされているのです。又仏法に遇い再度
人間界に戻っている現状の人間の心を示して、還相廻向界の自力界(人間界)の釈文を報中の假 とか 他力の中の自力なりと言う化土の釈文を使って記されているのです。深信には二種あるのですが
自分は他力の中に入っている立場であるから、他力の立場の釈を取り入れるのが正道であり、宗祖は 愚禿鈔下に「彼の阿弥陀仏、四十八願をもって衆生を摂受したもうこと疑い無く慮り無く彼の
願力に乗ずれば定んで往生を得と深信す。今斯の深信は他力至極之金剛心一乗無上之真実信海也」 とあり、深信は他力の中に入った已後深く信じ、金剛心になるように精進に勉めよ、それが
「彼の願力に乗ずれば」の釈になるのです。だから深信の先に「決定して」の文が書かれているのです。 決定とは他力の中へ入る(一念帰命体得者)ことを示すことを決定というのです。
観経の要門が他力の中へ入れば三信三心同一となるのです。
他力の中へ入らなければ夫々十九、二十願も別々となる。観経の顕の義と彰の義と全く相違するのです。 顕の義を三心と示し彰の義を三信と示すのです。義も違えば字も違うことをご理解して頂きたい
と願う次第です。毎日樣は過去のメ−ル文で往生治定して住正定聚であることを主張されていましたから 私は何も細部にわたって説明する必要がないと思い、細かい説明はしなかったのです。
住正定聚に近くなれば高祖方や宗祖の書かれた釈文はだいたい理解出来るはずと思っていましたから・・・ 合掌 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛
|
|
|
●re.68
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 1008 ] Re67:教えて下さい
|
2009/02/24 (Tue) 03:02
△up ▽down
|
|
金剛心 様
お書き込み、ありがとうございます。
まず、部分的に引用致します。上に全文がありますので、必要があれば、容易に全文を見ることもできますから。
>私の記した釈文が未だ理解されていないとの事、私の責任でもあった様に思われますので
>私は何も細部にわたって説明する必要がないと思い、細かい説明はしなかったのです
>高祖方や宗祖の書かれた釈文はだいたい理解出来るはずと思っていましたから・・・
たしかに、私には、金剛心様のおっしゃっていることには、よくわからないことがいろいろとございます。
しかし、それがあまり問題とも感じられないのです・・・
ですから、どうか責任を感じないでください。金剛心様の責任ではないと思います。
それに、私には、釈文は、ほとんどわからないだろうと思います。
わからないなりに、ふれあっておりますと、なんだかうれしくなるんです。
そして、おろかな者のために、一文字一文字丁寧に釈してくださいましたご開山を、尊敬致しております。そして、「一文不知の愚鈍の身になして」とおっしゃってくださいました法然聖人。
金剛心様は、既にわかっておられる方とのことで、私は、わからぬことばかりの者。
では、素直に聞けばよいようですが、これは好みの問題でして、大変申し訳ありませんが、金剛心様のお話は、とても不自由に思えます。広い世界に出るためでいるようでいて、私には、狭く窮屈な道に思えてしまいます。申し訳ございません。
しかし、そんな私が泥凡夫様のお話をお伺いしたときには、広い世界を感じたのですから、やはり、有縁の道を行くしかないのだと思います。
何を広く感じるか、窮屈に感じるか、ひとりひとり、違うのだろうと思うからです。
「わからない」以上、私が指針として、ある程度たよりにしておりますのは、結局、感性になっております。それでありながら、限られた理性で検討致しましても、やはり金剛心様と私とでは、考えが異なると思います。
おろか者が相手にされないのは、当然のことであって、詳細なご解説を期待するのが、間違っていたと思っております。
そのせいで、金剛心様にご負担かけてしまい、申し訳なく思っております。
それに、「わかるはず」どころか、金剛心様が、細かいご説明をなさるなら、おそらく、私には、さらに疑問が増えるような気が致します。
そして、金剛心様のお書きぶりから察しますに、金剛心様は、あきれてらして、私のようなもののために説明するのは、たぶん、(なんでしょう、労力でしょうか)もったいないのだと思います。
と申しますのも、私が疑問を抱いて、質問しても、金剛心様には、私のような者の疑問は想像もつかないらしく、私からすると、ただ金剛心様はあきれるばかりで、全然答えてくださっている気が致しません。
金剛心様には、私の疑問は、理解ができないのだと思います。ただ、金剛心様とは異なり、私は、「金剛心様はわかってくださるだろう」とは思っておりませんでした。おそらく、金剛心様は、ご自身のご主張を繰り返すだけで、ご説明の工夫をなさることはないだろうと思っておりましたが、やはりそうであったという感想でございます。
しかし、ご開山であれば、わかってくださるような気が致しますし、ご説明のご工夫もなさってくださったことでしょう。
私たちの視線までおりてきてくださる方であったように想像するからです。
蓮師も、示談を奨励してくださった方だと思います。
なんと申しましょうか、こちらは掲示板ですので、示談的であると思うのですが、金剛心様の御書き込みは、かたちだけご示談で、その実質は、高座からのご法話と申しましょうか・・・
私は、そういうのが嫌いですので、だからこそ、真宗が好きなのです。ただ、この真宗は、金剛心様がおっしゃる真宗とは、おそらく違うのですよね。
わがままで、申し訳ありません。だからこそ、諸仏も見捨てた凡夫ということで、お許しいただけたら、とてもうれしく思います。
そして、金剛心様が許さなくても、弥陀は許してくださると、私は思っております。本当に、ありがたい弥陀なのです。
こういうこともありますので、相変わらず、金剛心様の御書き込みは、よくわかりません。あきれられてしまうかもしれませんね・・・
他力の中に入れば、自力ももはや自力ではなく他力なのだから、他力の中の自力の道を修行するのである、のような雰囲気に読めるのですが、私に感じられるのは、そのような修行をしても、弥陀は見捨てないだろうということだけです。
そして、そのように自力を行うことが、唯一の道なのかといえば、そうとは思っておりません。
それでは、おろかものが救われることはありません。狭いこの道は、弥陀の大道。狭く見えても、弥陀が守ってくださる。火が来ても、水が来ても、落ちることはない、だからこその、無義の義であると、この道を、よちよち歩めば弥陀が導いてくださると思えるのでありまして、ありがたく感謝しております。
私には、ただ六字があるだけでございます。
私にはわかりませんでしたが、それでも、お導きに、感謝致します。
南无阿彌陀佛
|
|
|
●re.69
|
毎日 |
非公開の非公開 |
|
[ 1021 ] Re68:教えて下さい
|
2009/03/03 (Tue) 18:01
△up ▽down
|
|
金剛心 様
「わからない」とだけ書いて、どこがわからないかを書かないのでは、私の書き込みがわかりにくいことになりますので、補足致します。
たとえば、金剛心様は、
>観経の要門が他力の中へ入れば三信三心同一となるのです。
とおっしゃいます。
しかし同時に、
>義も違えば字も違うことをご理解して頂きたい
とも。
これでは、あるときには、「義が違えば字も違う」と言い、あるときには、「字が違くても、義は同じである」ということにはなりませんでしょうか。
わからない点は、他にもございます。
祖師は、御本典において、それまでの御聖教を再構成してみせてくださっていると思います。
ですから、大切なのは、全体の構成であると思います。
そこにおいて、長い長い時の流れにおいて、伝承されてきた「軸」を表してくださっていると思っております。
私は自身が間違いだらけだとは思うのですが、間違いだらけなりに、自身で納得できる道を歩みたいと思っております。
愚かなこの身のままでありながら、弥陀を信じ、歩んでゆくのみです。
南无阿彌陀佛
|
|
|
|
[ 1032 ] 金剛心様 お元気ですか?
|
2009/03/05 (Thu) 11:52
△up ▽down
|
|
金剛心様 お久しぶりです。 お元気ですか?
十帖御文6−2
夫存覚上人と申は、開山聖人より以来三代目の善知識なり。又本地を尋ば釈尊の化身と号し、或は曇鸞大使の再誕ともいへり。 然ればあつめたまふところの聖教の中、とりわき六要鈔十巻を記して、当流の肝要とせられたるところなり。依之、この聖教をば、無宿善の機には聊爾(りょうじ)にあたふべからずときこへたり、抑今月二十八日は存上人の遷化(せんげ)の正忌として、例年の舊儀(きゅうぎ)として、勤行を凝しはげます。この砌(みぎり)にをひて、当寺の門葉のたぐひ、信不信をあひたづねて、今度の報土往生をとぐべきものなり。 夫彌陀如来の超世の本願と申は、末代濁世の造悪不善のわれらごときの凡夫のために、おこしたまへる無上の誓願なるがゆへなり。 しかればこれを何とやうに心をもゝち何とやうに彌陀を信じて、かの浄土へは往生すべきやらん、更にその分別なし。くわしくおしへたまふべし。 答ていはく、末代今時の衆生は、ただ一すじに彌陀如来をたのみたてまつりて、余の佛菩薩等をもならべて信ぜねども、彌陀一心一向に一佛に帰命する衆生をば、いかに罪深くとも、佛の大慈大悲をもてすくわんと誓いたまひて、大光明をはなちて、その光明のうちにおさめとりましますゆえに、このこころを経には、光明遍照、十方世界、念佛衆生、摂取不捨ととき給へり。 されば五道六道といへる悪趣に、すでにおもむくべきみちを、彌陀如来の願力の不思議として、これをふさぎ給なり。 このいはれをまた経には、横截五悪趣、悪趣自然閉ととかれたり。故に如来の誓願を信じて、一念の疑心なき時は、いかにも地獄へ堕ちんとおもふとも、彌陀如来の摂取の光明におさめとられまいらせたらん身は、わがはからひにて地獄へも堕ちずして、極楽に参るべき身なるが故なり。 かやうの道理なるときは、昼夜朝暮は如来大悲の御恩を雨山にかうむりたるわれらなれば、これすなはち、真実信心をえたるすがたなるべし。 これすなはち今月御佛事におひて、当寺の門徒中にこれをよみて人々に信心をとらせるべきものなり。あなかしこ あなかしこ。 文明十五歳 発卯 二月六日 右此一巻者尼如慶十三年忌中光與レ之、今小路え奉寄進処也。 釈蓮如
上記は蓮如上人の御文です。
この御文を拝読させて頂いて、まず第一点の解決を見ました。 存覚上人は善知識である。 しかし、その書かれた六要鈔は真宗においては、「当流の肝要」と書かれ、これは無宿善の機には聊爾(りょうじ=考えなしにすること)与えてはいけない。
金剛心様のお書込みには、多く六要鈔がご引用されておられましたので、何故だろうと思っていました。 私は、探してくる間に、泥凡夫様があまり六要鈔を引用されておられないように思ったからです。 図書館で借りてきた本の中に上記の御文があったので、丁度「歎異抄」のように、難しいのだろうと思いました。
南无阿彌陀佛
|
|