浄土真宗の教義について

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●No.10 admin 
毎日
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[ 43 ] 二種深信について 2007/11/30 (Fri) 00:03 △up ▽down
二種深信も、弥陀からいただくものです。

ですから、いくら自分で自分を見つめて、「自分は、本当に悪い奴だ」とやってみても、それは自力作善ですし、「こんな自分でも救ってくださる弥陀の法なのだ」と思おうとしても、それも自力の作善であると思います。

そうやって、自分の心を自分でなんとかしようする心をふりすてて、弥陀をたのむのですが、自分では、「ふりすてる」ことすらできませんから、それらすべてをあきらめて、弥陀の救いについて知っている人に会って、弥陀に救ってもらうにはどうすれば良いのか、聞かなくてはなりません。

●re.1
おやおや
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[ 45 ] Re1:二種深信について 2007/11/30 (Fri) 04:43 △up ▽down
毎日様

済みませんが、まずその二種深信とはどういうことなのか、書いて頂かないと、

当然

>二種深信も、弥陀からいただくものです。

と書かれても、? だと思います。

頭のいい人は、これぐらい分っているのが当然と思っているのでしょうか?



●re.2 admin 
毎日
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[ 47 ] Re2:二種深信について 2007/11/30 (Fri) 05:21 △up ▽down
おやおや 様

確かにそのように見えると思います。

これから、気をつけるようにします。

それにしても、本当に、一言一句、気をつけなければなりませんね。とても勉強になります。

私は、次のようなことを、考えていたのです。

二種深信について、知らなくても、弥陀に救われることはできます。

ですから、真実信心いただくために、二種深信について知っていることは、必要ではありません。

しかし、中には、二種の深信を、自分の心に自分で作らなければならないと思って、悩んでいる方がいるだろうと思いました。

そのような方は、苦しまれるはずです。なぜなら、そのような深い信は、自分では作ることができないからです。

心を狭くして狭くして、「深くなった!」とよろこんだとしても、それは所詮、浅いものであって、根源の無明には、はるか届きません。

(もちろん、聖道を歩む方は別です。)

心は、狭くするよりも、広くするのが自由です。

二種深信について知らない方は、おそらくそれによって苦しんではいないでしょう。そして、救われるためには、その知識が必要なわけではありません。

そして、二種深信について知ってはいるけれど、信を取っていない方の中に、苦しんでいる方がいらっしゃるだろうと思いました。

自分を責めるよりも、弥陀に救われたいと望むことの方が大切です。

深信も、弥陀がくださるものだからです。

ですから、信前の方で「二種深信」を知らない方に、二種深信について説明することは、迷いを増す可能性があると思います。(おそらく、自分でその心を作ろうとしてしまうでしょう。)

信前の方で、既に二種深信についての知識があり、そのために、苦しまれている方に、楽になってほしかったのです。

一方、信後の方に対してであれば、後念相続として、説明をしてゆくと、よろこびも増すのではないかと思います。

理想としては、とにかく信を取ることが先であって、信を取ってから、いろいろと説明をうけるのが良いのだと思います。

今の心のままで、今の身体のままで、救ってくださるのが弥陀です。

そのために、弥陀は、ものすごい修行をなさいました。

特効薬を開発するために、私財を投じ、人生をかけて、研究してくださったようなものです。

もちろん、もう宿善が開発されてきていて、信を取ることが目前になっている方には、その準備として、いろいろと説明することも、その方のためになるだろうと思います。

個々のケースについては、ひとつひとつ判断してゆくしかありません。

このように、書いてはみましたが、納得いかないところがあれば、幾度でも、教えていただけると、助かります。

●re.3
おやおや
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[ 50 ] Re3:二種深信について 2007/11/30 (Fri) 05:52 △up ▽down
毎日様

毎日様のお気持は、本当に、嬉しいのです。

ただ、「二種深信」の言葉さへ、それは何ですか?となってしまうと思うのです。

インターネットで調べればおおよそは分るでしょう。

しかし、ここの掲示板とジャンヌ掲示板との違いは、

被害家族の会から、ここに掲示板を作成しましたと言っている以上、まずは、被害家族の方も見ておられることを最大条件にする方が良いと思うのです。

ジャンヌ掲示板は、親鸞会の教義として、立ち上げていましたので、教義に疑問を持った人が尋ねた場所であろうと思います。(今はイタズラの書込みが多いですが)

被害家族の会の書込みを読めば分りますが、
書込みしている時間にも、インターネットで探してから意見言えよ!と言いたいくらいなのです。

そのような方達も読んでいる掲示板ですから、
まず、二種深信の意味はこうですよと
分って貰ってから、
信前の人と、信後の人の個々のケースへと導くのが筋だと思うのですが、如何でしょうか?

●re.4 admin 
毎日
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[ 54 ] Re4:二種深信について 2007/11/30 (Fri) 06:52 △up ▽down
おやおや 様

そうですね、せっかくですから、用語についても、説明がある方が、親切ですね。

時間を見つけて、書き込みますね。

●re.5 admin 
毎日
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[ 58 ] Re5:二種深信について 2007/12/01 (Sat) 01:47 △up ▽down
二種深信についての説明です。

中国に、善導大師という方がいらっしゃいました。

真宗では、「3部経」と言って、「大経」「小経」「観経」を大切に考えるのですが、この「観経」の注釈書である、『観経疏』を著してくださった方です。

(「疏」は、註釈の意味で、「しょ」と読みます。ですから、『観経疏』は、「かんぎょうしょ」と読んで、「観経を説明した本」という意味です。)



おやおや様。書いているうちに、やっぱりわかりにくくなってしまった気がします。

エッセンスを整理して、わかりやすい、かんたんなことばにまとめ直します。

ですから、この項については、しばらくしてから、また新しい説明を書き込みたいと思います。



この中に、

◎二者深心。言深心者即是深信之心也。亦有二種。一者決定深信自身現是罪悪生死凡夫。曠劫已来常没常流転。無有出離之縁。二者決定深信彼阿弥陀仏四十八願。摂受衆生。無疑無慮。乗彼願力定得往生。
「ふたつには、深心。深心と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二には決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまう、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得と信ず」

という一節があり、これは、親鸞聖人が著された『教行信証』の信巻に収録されています。

ご開山(親鸞聖人のことです)が、「行巻」と「信巻」を切り分けてくださったのには、とても大切な意味があると思います。

たとえば、行巻の最後には、「正信念仏偈」というものがあるのですが、「念仏」は行であるから良いにしても、なぜ「正信」が「行」巻にあるのでしょうか? このようなところまで、細かく配慮の行き届いている、本当に素晴らしい本が『教行信証』です。

「二種深信」は、信巻に収録されているのですから、行巻にあるような「真実の行」を行うと、弥陀からいただける信心のことなのです。

(この引用部分のはじめの部分の「言深心者即是深信之心也」は能信で、顕義であり、次に出てくる「亦有二種」が所信であり、隠義であり、ここから先に出てくるものが「二種深信」と呼ばれるものです。)

(「能信」は「自力の信」、「所信」は「他力の信」のことです。)

はじめに出てくる「深心」は、観経様の、

◎仏告阿難及韋提希。上品上生者、若有衆生、願生彼国者、発三種心、即便往生。何等為三。一者至誠心、二者深心、三者廻向発願心。具三心者、必生彼国。
「仏、阿難および韋提希に告げたまわく、上品上生とは、もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ぜば、三種の心を発してすなわち往生す。なんらをか三とする。一には至誠心、二には深心、三には回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず」

です。この「二者深心」を釈してくださっている部分です。

顕義では、上品上生が自ら発する心、すなわち能信であるのですが、十八願の本願念仏においては、この心を弥陀が廻向してくださるので、隠義においては、十八願であり、所信になるのです。


その内容ですが、

◎一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず

(大意)ひとつには、信心決定すると、自分は、現実に、罪ばかりつくっている凡夫であり、はるか昔から、ひたすら流転をつづけて、この流転から逃れるすべがなかったのだ、と深く信じる心を得ます。

◎二には決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまう、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得と信ず

(大意)ふたつには、信心決定すると、弥陀の四十八願は、生きとし生けるものをすべて含んでいるのですから、まちがいなく、弥陀の願力によって、往生治定したのだという信を得ます。

「深い」とは何でしょうか。深いですから、凡夫の心では、直接認識ができません。それほど深いところに、埋め込んでくださいます。

では、何もわからないかと言うと、そういうわけでもありません。

弥陀の光明の働きを体験しながら、実際に、それがどういうものであるかを、我が身で確かめつつ理解して行くのが後念相続です。

信心得ないままで勉強しても、机上の空論のようになってしまいます。


ここから先は補足です。引用が多くなります。


また、「深信」とは、この2種だけではなく、たとえば、

◎三者回向発願心。乃至。又回向発願生者。必須決定真実心中回向願作得生想。此心深信由若金剛。不為一切異見異学別解別行人等之所動乱破壊。唯是決定一心捉正直進。不得聞彼人語。即有進退心生怯弱回顧。落道即失往生之大益也。
「三には回向発願心。乃至。また回向発願して生ずる者は、必ず決定して真実心の中に回向したまえる願を須いて得生の想を作せ。この心深信せること、金剛のごとくなるに由りて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために、動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉りて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなわち進退ありて心に怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちてすなわち往生の大益を失するなり」

のようなものもあり、『愚禿鈔』には七深信が挙げられています。


深信が信心であることについては、

◎然者願成就一念即是専心。専心即是深心。深心即是深信。深信即是堅固深信。堅固深信即是決定心。決定心即是無上上心。無上上心即是真心。真心即是相続心。相続心即是淳心。淳心即是憶念。憶念即是真実一心。真実一心即是大慶喜心。大慶喜心即是真実信心。真実信心即是金剛心。金剛心即是願作仏心。願作仏心即是度衆生心。度衆生心即是摂取衆生生安楽浄土心。是心即是大菩提心。是心即是大慈悲心。是心即是由無量光明慧生故。願海平等故発心等。発心等故道等。道等故大慈悲等。大慈悲者是仏道正因故。
「しかれば、願成就の一念は、すなわちこれ専心なり。専心すなわちこれ深心なり。深心すなわちこれ深信なり。深信すなわちこれ堅固深信なり。堅固深信すなわちこれ決定心なり。決定心すなわちこれ無上上心なり。無上上心すなわちこれ真心なり。真心すなわちこれ相続心なり。相続心すなわちこれ淳心なり。淳心すなわちこれ憶念なり。憶念すなわちこれ真実一心なり。真実一心すなわちこれ大慶喜心なり。大慶喜心すなわちこれ真実信心なり。真実信心すなわちこれ金剛心なり。金剛心すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心すなわちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなわちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなわちこれ大菩提心なり。この心すなわちこれ大慈悲心なり。この心すなわちこれ無量光明慧に由りて生ずるがゆえに。願海平等なるがゆえに発心等し、発心等しきがゆえに道等し、道等しきがゆえに大慈悲等し、大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆえに」


噛み砕くこと、なかなか大変です。

どのように表現したら良いか、さらに考えまして、また書き込み致します。

「何の説明も無いよりは、マシかもしれない」くらいに考えていただけたら、うれしいです。

もちろん、この書き込みにつきまして、わからないところで、知りたいところがありましたら、いつでもご質問ください。

南无阿彌陀佛

●re.6
おやおや
非公開の非公開
[ 59 ] Re6:二種深信について 2007/12/01 (Sat) 04:02 △up ▽down
毎日様

僕は、本当に、毎日様の、お気持有り難いなと思っています。

何度も何度も、読み返して見ます。

真宗は宗派では無いこと。


この掲示板から、発信していけたらいいですね。

●re.7 admin 
毎日
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[ 60 ] Re7:二種深信について 2007/12/01 (Sat) 04:43 △up ▽down
おやおや 様

信をいただけば、二種深信も同時にいただけるのです。

それを知らずに、自らの心で二種深信をつくろうとがんばり、それがある程度まで達したときに、弥陀の声が聞こえると思って苦しんでいる方が、今の世に、たくさんいることを感じます。

また、ある程度まで、自力の心で二種深信(のようなもの)を作り、それで弥陀に救われたと思っている方も、とても多いのです。自らを、上品上生に分類されている方です。

本当に、上品上生であるならば、仏説の通り、救われるでありましょう。

信をいただくのは、程度問題ではないのです。それに、仏教は、苦しむための教えではありません。

機を問わず、皆がひとり残らず、南无阿彌陀佛にて、真実信心をいただきます。

程度を問わないからこそ、むしろ修行してきた方こそ、その修行してきた自負を捨て、何の修行もしてこなかった(ように見える)方と同じ様に、同じく南无阿彌陀佛をしなければならないのです。

機の深信を作ろうとして、自らを責めて苦しむ方がいます。

機の深信を作るという名目で、相手の方を責め、それによって、自らの攻撃心を満足させて、よろこんでいる方々もいます。

そのようなことのために、二種深信の教えがあるのではありません。

佛の教えは、人をいじめるためのものではありません。

どうか、ひとりでも多くの方が、弥陀の救いに出会って、救われますように。

南无阿彌陀佛



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